知命立命 心地よい風景

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2016-01-01から1年間の記事一覧

『三国志演義』第百二十回(終わり) 杜預を薦めて老将新謀を献じ、孫皓降って三分一統に帰す

さて、呉主は司馬炎が魏を奪ったと聞いて呉が心配なって病となり、丞相ボク羊祜ウを呼んで太子の孫休を世継ぎと指さして息絶えた。しかし、孫休は弱年であったので万彧、趙浮の進言でボク羊祜ウは、孫晧を帝位にした。そして、元興元年と改元し、孫休を豫章…

【平家物語】 巻第二 一(一七)座主流

治承元年五月五日、天台座主・明雲大僧正に対し、朝廷は法会・講義の資格剥奪の上、蔵人を使者として如意輪観音本尊の返上を命じられ、帝の無事を祈祷する役からも外された そして検非違使庁の使者を送り、このたび神輿を内裏へ振り奉った張本人を差し出すよ…

『三国志演義』第百十九回 仮りに投降し計を巧みて虚話を成し、ふたたび授禅し様に依りて葫蘆を画く

姜維は、監軍の衛瓘に鄧艾、鄧忠を捕らえてくるように命じ、夜明けとともに詔を奉じて彼らを捕らえた。鄧艾父子は洛陽に護送された。 そこに、司馬昭が軍勢を率いて来るという知らせが入り、姜維はさらに鍾会に蜀で自立するように進言した。そして、密かに後…

今日は春の社日!産土神と氏神の違いをご存知?

今日(3月17日)は春の社日!古来から産土神様に参拝し、五穀の種を供えて豊作を祈願する日、といわれています。今日は春の社日!産土神と氏神の違いをご存知? そもそも社日とは雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春の…

春の彼岸!暑さ寒さも彼岸まで!

今日(3月17日)は春の彼岸入り!春の彼岸!暑さ寒さも彼岸まで! 日本では、春分の日と秋分の日を中日とする7日間は「お彼岸」と呼ばれていますね。 太陽が真東から上がって、真西に沈み昼と夜の長さが同じになる春分の日と秋分の日を挟んだ前後3日の計7日間…

【平家物語】 巻第一 一六(一六)内裏炎上

夕方になって、蔵人左少弁・藤原兼光に命じ、殿上でにわかに公卿の衆議があった `去る保安四年七月の神輿入洛のときは、天台座主に命じて赤山神社へ入れ奉った `また保延四年四月の神輿入洛のときは、祇園感神院の別当に命じて祇園の社へ入れ奉った `今回は…

『三国志演義』第百十八回 祖廟に哭して一王孝に死し、西川に入りて二士功を争う

さて後主は成都にあって、綿竹が破れたことを知り、大いに驚いて慌てふためき百官と評議した。張繍は魏に降ることを勧めて、後主に降伏の文書を起草させた。そこに後主の第5子劉禅が諌めに入ったが、後主は聞き入れず彼を近臣に追い出させた。かくして12…

【平家物語】 巻第一 一五(一五)御輿振

さて、延暦寺の大衆は、国司・加賀守師高を流罪に、弟・近藤判官師経を投獄してもらおうとたびたび奏聞したが、お裁きがないので、日吉神社の祭礼を止め、安元三年四月十三日の辰の刻に、十禅師、客人宮、八王子権現の三社の神輿を飾り奉って陣頭へ向かった …

『三国志演義』第百十七回 トウ士載偸かに陰平を度り、諸葛セン戦って綿竹に死す

さて、輔国大将軍董厥は魏の軍勢が押し寄せたと思って関の前に陣取った。 自ら陣頭に立って軍勢を見ると姜維達の軍であったので喜んで迎え入れた。 さて、鄧艾は息子の鄧忠を先鋒に乾飯や縄を持たせて密かに兵を進めて、摩天嶺を縄を使って越えた。ここには…

【平家物語】 巻第一 一四(一四)願立

神輿を客人の宮へ入れ奉る `客人とは白山妙理権現のことである `白山本宮の神輿なので、父子の間柄である `訴訟の成否はさておき、生前父子であった二柱が逢えたのが喜ばしかった `浦島太郎の子がの七世の孫に逢ったときや、胎内にいた羅睺羅が霊鷲山にいる…

『三国志演義』第百十六回 鍾会兵を漢中道に分け、武侯聖を定軍山に顕す

司馬昭は、 「彼に二心があっても、蜀が彼を受け入れるはずがなく、兵も遠征で早く魏に帰りたいと思うであろうから彼に従うはずはない。」 と言った。少帝は恐れ入って平伏した。 鍾会は許褚の子許儀を先鋒にして10万の大軍で蜀に押し寄せた。 鄧艾も詔を…

【平家物語】 巻第一 一三(一三)鵜川合戦

そもそもこの俊寛僧都というのは京極の源大納言雅俊卿の孫で、法勝寺法印・寛雅の子である `祖父大納言は武家の出ではないが、実に短気な人で、三条坊門京極の屋敷の前をめったに通らせない `普段は中門に佇み、歯を食いしばり、睨んでおられた `そんな恐ろ…

『三国志演義』第百十五回 班師を詔して後主讒を信じ、屯田に託して姜維禍を避く

姜維は準備が整うと後主に北伐の上奏を出した。 張繍が諌めたが、後主が北伐を許したので、彼は病と言って家に引きこもった。 姜維は廖化を守備に置いて夏侯覇に先鋒を命じた。しかし、夏侯覇は鄧艾に攻めるのを読まれて、城内に攻め入った時に司馬望に矢を…

【平家物語】 巻第一 一二(一二)鹿谷

この事件により、高倉天皇御元服の打合せは延期となり、同・二十五日、院の殿上で御元服の打合せが行われた `基房松殿も現職でおられるはずもなく、同・十二月九日、あらかじめ宣旨を受け、十四日に太政大臣に昇格された `さらに同・十七日、任官のお礼があ…

『三国志演義』第百十四回 曹髦車を駆って南闕に死し、姜維糧を棄てて魏兵に勝つ

姜維は廖化、張翼に後詰めを命じて追い討ちに備えた。鄧艾はこれを見て、 「諸葛亮の兵法そのままじゃ。」 と嘆息して兵を退いた。 姜維は後主に謁見し、鄧艾の離間の計であることを告げると、後主は黙り込んでしまった。そしてようやく、 「朕もそなたを疑…

【平家物語】 巻第一 一一(一一)殿下乗合

さて、嘉応元年七月十六日、後白河上皇が出家された `出家の後もすべての政務を執られたので、院と帝の別もなかった `院側近の公卿や殿上人、上下の北面武士に至るまで、官位や俸禄は皆身に余るほどであった `それでも人の心の常で、なお飽き足らず `あの人…

『三国志演義』第百十三回 丁奉計を定めて孫チンを斬り、姜維陣を闘わせてトウ艾を破る

姜維は援軍到着を恐れて、歩兵を退かせて騎馬に後詰めをさせた。 鄧艾は笑って 「追撃すれば彼の計に落ちる。」 と言って追うのを止めた。 ここに呉主は孫綝の横暴に対して兵をおこそうとし、密詔を黄門侍郎全紀に与えた。しかし、全紀が妻に話すと、全紀の…

【平家物語】 巻第一 一〇(一〇)妓王

清盛入道は天下を掌中に収めたので、人々の非難もはばからず、人のあざけりさえ顧みず、理解できないふるまいばかりしていた `例えば、当時、都で評判の白拍子に妓王と妓女という姉妹がいた `刀自という白拍子の娘たちである `清盛入道は姉の妓王だけを寵愛…

『三国志演義』第百十二回 寿春を救って于詮節に死し、長城を取って伯約兵をミナゴロシとす

諸葛誕は魏軍を退けたが、呉の兵士達は戦うのも忘れて置き去りにされた魏の牛馬に飛びついた。そこを司馬昭の軍勢に襲われたので寿春に逃げ込んだ。全端と子の全禕は孫峻に、 「魏を追い返せねば生きてわしの顔を見れぬと思え。」 と言われ、寿春に向かった…

『三国志演義』第百十一回 トウ士載智をもって姜伯約を敗り、諸葛誕義をもって司馬昭を討つ

姜維は夏侯覇に 「鄧艾は弱年ながら強敵でございます。これまでとは違います。」 と諌められたが、聞かずに自ら先鋒に出て隴西を攻めに行った。しかし、鄧艾の陣を見て、驚いて本陣に戻った。 鄧艾は陳泰とともに陣を布いて待っていたが、蜀軍は仕掛けて来な…

【平家物語】 巻第一 九(九)春宮立

さて、その年は二条天皇の喪に服する間だったので、御禊や大嘗会も行われなかった `後白河法皇の后・建春門院は当時まだ東の御方と呼ばれており、後白河上皇との間にお生まれになった御子を皇太子にお即けしようという話があったさなかの、同・永万元年十二…

【平家物語】 巻第一 八(八)清水炎上

延暦寺の大衆はこの狼藉に反撃してもおかしくなかったが、何か企んでいたのか、一言も言わず `帝が崩御した後は感情を持たない草木でさえ悲しむべきなのに、この騒動の恐ろしさに、人々は皆肝を潰してあちこちに逃げてしまった 同・永万元年七月二十九日の昼…

『三国志演義』第百十回 文鴦単騎雄兵を退け、姜維水を背にして大敵を破る

司馬師は左目に瘤ができ、痛みが止まらないので、医師に命じて切り取らせた所であり、毌丘倹、文欽達の謀反に出陣できなかった。そこに鍾会が進み出て、 「事が大きいので仕損じたらただでは済みますまい。」 と進言したので、司馬師は諸葛誕、胡遵達を率い…

【平家物語】 巻第一 七(七)額打論

さて、永万元年の春頃から二条天皇がご病気であったが、夏の初め頃になると、思いのほか容態が悪くなられた `そのため、大蔵大輔・伊紀兼盛の娘を生母とする、二歳になられる今上二宮を皇太子にお立てするだろうと噂されたが、はたして同年六月二十五日、に…

『三国志演義』第百九回 司馬困れて漢将の謀奇なり、曹芳廃されて魏家に報果たさる

姜維は廖化、張翼、夏侯覇等を率い、同時に羌族に加勢を求めた。羌族の迷当大王は兵を向かわせ、ともに魏軍と戦った。司馬昭は蜀軍に陣まで斬り込まれ大敗するが、陳泰の計で郭淮が迷当大王を捕らえて、蜀軍への協力を断った。そして、羌族を魏軍に協力させ…

【平家物語】 巻第一 六(六)二代后

昔から現在に至るまで、源平両氏は朝廷に召し使われ、帝に従わず朝廷の権威を甘く見る者に対しては互いに制裁を加えていたので、世の乱れはなかったが、保元の乱で源為義が斬られ、平治の乱で源義朝が殺されてからは、末裔の源氏たちは、流罪にされたり、殺…

『三国志演義』第百八回 丁奉雪中に短兵を奮い、孫峻席間に密計を施す

連弩によって司馬師の軍は乱れ、姜維はこの隙に逃れて、両軍兵を退いた。 ここに司馬懿は病になり、2人の息子を呼んで 「わしは長年魏に仕えてきたが、人々から大それた望みを抱いていると疑われ、己の不徳を恥ずかしく思っておった。わしの死後もそなた達…

『三国志演義』第百七回 魏主政を司馬氏に帰し、姜維兵を牛頭山に敗る

司馬懿は、曹操が魏主とともに城を出ると、宮中におもむいて曹操の営所を占拠した。そして武器庫を抑えたが、韓範が事の次第を曹操に話した。慌てた曹操に韓範が、 「天子に許都への幸をお願いし、軍勢を集めて迎え討ちましょう。」 と進言したが、彼は決め…

二十四節気の啓蟄!”陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出れば也”

今日(3月5日)から春分までの期間は、冬眠していた蛇や蛙などが暖かさに誘われて冬眠から覚めて初めて姿を見せる頃といわれる啓蟄。二十四節気の啓蟄にして満月!ステキな春の日々を楽しんで! 「啓」は「ひらく」という意味、「蟄」は虫などが冬眠するとい…

【平家物語】 巻第一 四(四)禿童

そして清盛は仁安三年十一月十一日、五十一歳のとき病に冒され、延命のためにすぐさま出家し、入道した `法名は浄海と号した `その効験か、病はたちどころに癒えて天寿を全うする `出家の後も栄華はなお衰えを見せなかった `人々が心を寄せ従うさまは降る雨…