知命立命 心地よい風景

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【平家物語】 巻第二 一(一七)座主流

治承元年五月五日、天台座主・明雲大僧正に対し、朝廷は法会・講義の資格剥奪の上、蔵人を使者として如意輪観音本尊の返上を命じられ、帝の無事を祈祷する役からも外された
そして検非違使庁の使者を送り、このたび神輿を内裏へ振り奉った張本人を差し出すよう命じられた
加賀国に座主の寺領がある
国司・藤原師高がこれを廃止したのを恨み、大衆を扇動して強訴させた
すんでのところで朝廷に一大事が起こるところであった
という西光法師父子の告げ口により後白河法皇の逆鱗に触れた
特に重罪に処されだろうと言われた
明雲は法皇のご機嫌が悪いので、延暦寺の印と経蔵の鍵を返還し、座主を辞した

同・五月十一日、鳥羽院七の宮、覚快法親王天台座主となられた
この人は青蓮院の大僧正・行玄の弟子である

同・十二日、明雲先座主が職を剥奪された上、検非違使二人に命じて、井戸に蓋をし、竈の火に水をかけ、水と火を断たれた
これを知った大衆がまた都へ押し寄せてくると噂になると、京中はまた騒ぎになった

同・十八日、太政大臣以下の公卿十三人が参内して陣の座に着き、明雲先座主に対する懲罰について評定があった
当時まだ左大弁宰相であった八条中納言・藤原長方卿が末座にいらしたが、進み出て
法の専門家の判定書に従って死罪一等を減じ、流罪にするようでありますが、明雲先座主は顕教密教を学ばれ、行い清く戒律を守られ、大乗妙経を高倉天皇にお授けになり、菩薩浄戒を後白河法皇にお授けになりました
御経の師・御戒の師です
重罪に処されたら、諸仏がどう思われるか想像もつきません
還俗・流罪をいま少し緩められるべきかと
と忌憚なく述べられると、同席の公卿は皆長方卿の意見に賛同されたが、法皇のお怒りが強かったので、やはり流罪と定められた
清盛入道もこのことを申し上げようと院の御所に参内されたが、法皇はお風邪気味とのことで御前へも召されないので、不本意げに帰られた

僧を罪に処す習いとして、僧の認可証を没収して還俗させ、大納言大輔・藤井松枝という俗名をつけられた

明雲という方は、村上天皇第七の皇子、具平親王から数えて六代の末裔、久我大納言・源顕通卿の子息である
比類ない大徳の人・天下第一の高僧であられるので、身分の上下を問わず人々に尊敬され、難波国・天王寺、山城国・六勝寺の別当を兼務されていた
しかし陰陽寮長官・安倍泰親は
あれほどの智者が明雲などと名乗られているのが解せない
名前の上に日月の光があり、下に雲がある
と非難した
仁安元年二月二十日、天台の座主になられた
同・三月十五日、入寺における拝仏の儀式が行われた
中堂の宝蔵を開かれると、さまざまな宝物の中に一尺四方の箱があり、白い布で包まれていた
生涯戒律を犯さなかった明雲先座主がその箱を開けてみると、黄檗染めの紙に記された一巻の文書があった
伝教大師最澄が未来の座主の名字をあらかじめ記しておかれたのである
自分の名前が記されたところまで見て、そこから先は見ずに元のように巻き返して戻す習わしであった
そのためこの明雲先座主もそのようにされたのであろう
このような貴い人だが、先世の宿業は免れられない
実に感慨深い

同・二十一日、配流先は伊豆国と定められた
人々はさまざまとりなしたが、西光法師の告げ口によってこうなったのである
今日すぐにも都から追放するべきだということで、追い立て役人が、白河の御坊に出向いて追い立てた
明雲先座主は泣く泣く御坊を出、粟田口辺りにある一切経の別所へ入られた
延暦寺の大衆は
我らが敵として西光法師父子以上の者はない
と法師父子の名前を書いて、根本中堂におられる十二神将の、金毘羅大将の左足に踏ませ奉り
十二神将、七千夜叉、即刻西光法師父子の命をお奪いください
とわめき叫んで呪咀したのは、耳にするだけでも恐ろしかった

同・二十三日、一切経の別所から配流先の伊豆国に赴かれた
寺務の大僧正ほどの人が、追い立て役人に蹴り立てられ、今日を限りと都を追われ、逢坂関の東へ赴く心の内は察するほどに哀れであった
大津の打出の浜に着く頃には延暦寺・文殊楼の軒先が白々と見えていたが、二目と見ようとはなさらず、袖を顔に押し当てて涙にむせばれた

延暦寺には老僧・高僧が多い中、当時まだ僧都でいらした澄憲法印が、あまりに名残を惜しんで粟津まで見送られ、暇を告げて帰られると、明雲先座主は、その切なる心の内を感じて、長月一人心に秘めておられた一心三観を悟る法を相伝された
この法は釈尊に付き従う波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の龍樹菩薩からしだいに相伝してきた秘法で、今日の情けに対して授けられたのである
いくら我が国は小さな辺境の地、穢れた末世といえども、澄憲法印はこれを受け継ぎ、僧衣の袂を絞りつつ都に帰られた、その心は尊いものであった

さて、延暦寺では大衆が集まって評議をした
そもそも義真和尚以来、天台座主が始まって五十五代に至るまで、いまだ流罪の例を聞いたことがない
よくよく考えてみるに、延暦の頃、桓武天皇が都を築き、伝教大師最澄が当山に登って天台宗の教えをこの地に広められて以来、成仏に五障を持つ女人は途絶え、三千人の清い僧侶だけが住んでいる
峰には法華教を誦す声が長年絶えず、麓には日吉山王七社の霊験が日々あらたかである
天竺にある月氏霊鷲山は摩伽陀国・王舎城の東北、釈尊の住まわれた洞窟である
この日本の比叡山も、都の鬼門にそびえる国家鎮護の霊地である
代々の賢王・智臣はこの地に仏供養の壇を設けている
末代だからといって、どうして当山に傷をつけてよいという道理があろうか
実に情けない
とわめき叫ぶやいなや、比叡山の大衆は残らず東坂本へ降り下っていった

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