知命立命 心地よい風景

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『三国志演義』第百八回 丁奉雪中に短兵を奮い、孫峻席間に密計を施す

連弩によって司馬師の軍は乱れ、姜維はこの隙に逃れて、両軍兵を退いた。
ここに司馬懿は病になり、2人の息子を呼んで
「わしは長年魏に仕えてきたが、人々から大それた望みを抱いていると疑われ、己の不徳を恥ずかしく思っておった。わしの死後もそなた達は心して政事に当たるように。」
と遺言して息絶えた。
魏主は彼を手厚く葬り、司馬師を大将軍にした。

この時すでに陸遜諸葛瑾はなく、諸葛瑾の長男諸葛恪が全てを取り仕切っていた。太元元年、呉主は病にかかり、翌年には頭も上がらなくなり、諸葛恪に後事を託して死んだ。在位24年、71歳であった。
孫権が死ぬと、諸葛恪は孫権の末子で10歳の孫亮を立てて帝として、建興元年と改元し、孫権を大皇帝とおくりなした。
これを知った司馬師
「呉主孫亮が幼い今こそが勝機。」
と言って呉討伐の兵をおこし、胡遵、毌丘倹達に軍を率いさせた。
諸葛恪は諸侯を集めて評議し、蜀に加勢を求め、丁奉が3千の水軍を持って討って出た。胡遵は呉軍が3千と聞いて油断して酒盛りをしていた。
丁奉は、
「男に生まれて名を挙げるのは今だ。」
と言って槍や戟を棄てさせて、短刀を持たせた。魏軍はこれを見て笑っていたが魏の陣に斬り込んできたので、魏軍は慌てて逃げまどった。胡遵は馬に飛び乗って血路を開いて逃げ延びた。司馬昭、毌丘倹達は敗戦を聞いて軍を退いた。
諸葛恪は蜀と協力して兵を進めるように促し、20万の大軍で中原に討って出した。中原の新城を守る牙門将軍チョウトクは、
「魏では敵に囲まれて百日立て篭もり、援軍が来なければ城を開け渡しても罪になりませぬ。将軍は90日余りお囲みになっておられる故、数日すれば大将は領民を率いて降伏いたします。」
と言って、諸葛恪の攻めを退かせた。そしてチョウトクは、
「破れるものなら破って見よ。」
と諸葛恪を罵り、大いに怒った諸葛恪は討って出た。すると城壁から矢石を浴びせられ、その一本の矢が諸葛恪の額に当たり、配下に助けられて帰陣した。傷が癒えて戦いに出ようとしたところ、兵が病にかかったので陣を払った。すかさず毌丘倹が追い討ちをかけたので呉軍は大敗した。諸葛恪はいたく恥じ入って病と偽って家から出なかった。

さて、孫峻は、諸葛恪が腹心に孫峻の職務を渡したのを恨んで、諸葛恪の専権を呉主に持ちかけ、宴席で彼を斬り殺した。その後、呉主は孫峻を丞相にして大権を与えた。
姜維は、諸葛恪の書面を見て、後主に参内して北伐に向かった。

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