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『三国志演義』第百十一回 トウ士載智をもって姜伯約を敗り、諸葛誕義をもって司馬昭を討つ

姜維夏侯覇
「鄧艾は弱年ながら強敵でございます。これまでとは違います。」
と諌められたが、聞かずに自ら先鋒に出て隴西を攻めに行った。しかし、鄧艾の陣を見て、驚いて本陣に戻った。
鄧艾は陳泰とともに陣を布いて待っていたが、蜀軍は仕掛けて来ないので、蜀軍は武城山に進んだと考えて陳泰に隴西を守らせて武城山にまわった。
姜維は武城山に向かったが、既に鄧艾に待ち受けられて大敗した。鄧艾、陳泰に追い討ちをかけられて囲まれ、逃げ場を失った。そこに張嶷が囲みに斬り込んで来たので姜維は囲みをといて逃げることができた。しかし、張嶷は矢を浴びせられて死んだ。姜維諸葛亮の例にならって自ら後将軍に降格して大将軍の職務を遂行した。

さて、魏では司馬昭が魏主に上奏せずに全てを取り仕切っており、賈逵の子で腹心の賈充に地方の長官が自分に従う者か否かを調べさせた。揚州刺史楽綝は彼に従ったが、鎮東大将軍諸葛誕は、大いに怒った。そして、揚州の楽綝のもとに行って、
「父楽進が魏に大恩を受けたことを忘れたか。」
と言って彼を斬り殺した。そして、司馬昭の罪状を上奏し、呉に加勢を求めた。
この時、呉の丞相、孫峻は病死し、従弟の孫綝が代行しており、彼は文欽を案内役にゼンソウの子全懌と全端を主将、于詮を後詰めに7万の兵を出した。
司馬昭は、賈充の進言で魏主自ら謀反鎮圧に出るよう上奏した。魏主は断れるはずもなく26万の兵をおこした。
諸葛誕は呉軍と合流し、文欽と子の文鴦、文虎と一手となって迎え討つ。

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