知命立命 心地よい風景

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『三国志演義』第百十八回 祖廟に哭して一王孝に死し、西川に入りて二士功を争う

さて後主は成都にあって、綿竹が破れたことを知り、大いに驚いて慌てふためき百官と評議した。張繍は魏に降ることを勧めて、後主に降伏の文書を起草させた。そこに後主の第5子劉禅が諌めに入ったが、後主は聞き入れず彼を近臣に追い出させた。かくして12月1日に降伏に出ることにした。劉禅は、
「臣は国家が他人の手に落ちるのに忍びなく、妻子を殺した後、一命を絶って祖父にお詫び致す所存。」
と言って自ら首をはねて死んだ。
後主は太子や臣下60余名を従えて、自ら後ろ手に縛り、柩車をそなえて降参した。鄧艾は後主をたすけ起こして、自ら縄を解いて入城した。鄧艾は後主を驃騎将軍として、その他諸官も官に応じて任じた。そして、太常のチョウシュン、張飛の子で別駕の張松に軍民に降伏を伝えさせた。そして、黄皓を国を誤らした事で斬って棄てようとしたが、黄皓は鄧芝の側近に賄を送って死を免れた。
かくして遂に漢は滅んだ。

姜維は降伏の知らせを聞いて呆然と言葉もなかった。姜維は人々の心が漢から離れていないのを見て、張翼、廖化、董厥らを率いて鍾会に降参した。鍾会は、
「今まで何をぐずぐずしておったのか。」
と言うと、姜維が、
「それがしは国家の軍勢を預かる者。今でも早すぎるくらいである。」
と言ったので彼は胸打たれてた。そして、鍾会は彼と兄弟の契りを結んだ。
鄧艾は、姜維鍾会に降った事で手柄が減ってしまうため彼を
恨んで、司馬昭に蜀で兵を休ませるという書面を送った。司馬昭は、彼に謀反の気配があると疑って鍾会に彼を討たせようとした。
鍾会は詔を受けて鄧艾討伐を姜維と計った。そして、鄧艾の上奏文を取り押さえて偽の上奏文を洛陽に出した。
司馬昭は、大いに怒って鄧艾を捕らえるように鍾会に命じ自ら軍をおこした。少帝は司馬昭に、
「鄧艾を捕らえるなら鍾会の軍勢で十分にございます」
と言うと、司馬昭は、
「そなたは自分でもショウ賈逵はいずれ謀反しようと言ったのを忘れたのか。わしが兵を出すのは鍾会のためじゃ。」
「そうとあらば、決して外におもらしにならぬよう。」
司馬昭はうなずいて打ち立った。
長安に司馬昭が来るのを知って、鍾会は慌てて姜維と計った。

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