知命立命 心地よい風景

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【平家物語】 巻第二 六(二二)教訓

清盛入道は、このように多くの人を処罰してもなお満足できないのか、既に、赤地の錦の直垂に、黒糸威の腹巻の銀の金具を施した胸板を着け、安芸守だった頃、神社参拝の折にありがたい夢のお告げを受け、厳島大明神から実際に授かられ、いつも枕元に立てていた銀の蛭巻の小長刀を脇に挟んで、中門の廊下に出られた
その気配はただ事ではなさそうだった
貞能
と呼ばれた
筑後守・平貞能は木蘭地の直垂に緋威の鎧を着て、清盛入道の前にかしこまり控えていた
貞能、どう思う。
保元の乱の折、平馬助忠政をはじめとして、平家一門の半分以上が崇徳上皇の味方についた
崇徳上皇の御子・重仁親王は亡き父・忠盛殿の養い君でいらしたので、お見捨てするのはいろいろ難しかったが、亡き後鳥羽上皇の御遺言どおり、後白河法皇方に付いて戦陣を駆けた
これが第一の奉公だ
次に平治元年十二月、藤原信頼源義朝が、謀反の際、後白河法皇二条天皇をお捕らえして大内裏に立てこもり、暗黒の世になったときにも、わしは粉骨砕身して悪党どもを追い落とし、藤原経宗や惟方を捕らえ、その間、法皇のために危うく命を落としかけたことは何度もある
だから誰がなんと言おうと、七代の後まで我が一門をお見捨てになれるはずもなかろうに、藤原成親という無能や西光いった下種どもの言うことに耳を傾けられ、ともすれば我が一門を滅ぼそうとなさる法皇の企みが恨めしい
この後も告げ口をする者があったら、平家追討の院宣を下されるのではないかと思っている
朝敵となったが最後、いくら後悔しても始まらん
世を鎮める間、法皇を鳥羽の北殿にお移しするか、さもなければこの西八条の屋敷へでもお越しいただこうと思うがどうだ
そんなことをすれば、きっと北面の武士どもの中には矢を射かける者も現れるだろう
その用意はしておくよう侍どもに触れを出しておけ
わしは法皇への奉公をほぼ断念した
馬に鞍を置け、大鎧を持ってこい
と言われた

主馬判官・平盛国は急いで重盛殿の屋敷へ駆けつけ
世は既にこのような状況です
と進言すると、重盛殿は聞き終わらないうちに、
ああ、もはや成親卿の首を刎ねられたんだな
と言われたので、
そうではございませんが、入道殿が大鎧を召され、侍たちも皆、法住寺殿へ攻め込む用意を始めております
世の中を鎮めるしばらくの間、後白河法皇を鳥羽の北殿へお移ししようと言われましたが、本心では九州の方へお流ししようと考えておられます
と言うと、重盛殿は、
そんなことがあってはならん
とは思われたが、今朝の清盛入道は機嫌がよく、血迷われたのかもしれないと、急いで車を走らせ、西八条へ向かわれた

門前で車から下り、門内に入られると、清盛入道は腹巻を着けられ、平家一門の公卿や殿上人ら数十人が各自色とりどりの直垂に思い思いの鎧を着て、中門の廊下に二列になって控えていた
そのほか、諸国の受領、衛府や役所の官人などが縁側からあふれ、庭にもびっしりと居並んでいた
旗竿を引き寄せ、馬の腹帯を固め、甲の緒を締め、皆今まさに出陣する気配なのに、重盛殿は烏帽子・直衣に大紋の指貫の股立ちをつかみ、衣擦れの音を立てながら進み入られたので、意外な光景であった。
清盛入道は伏し目になって、
また重盛は世の中を軽んじるようなふるまいをする
みっちり叱ってやらねばならん
とは思われたものの、我が子ながら、仏教においては五つの戒律を守り、慈悲を宗とし、儒教においては五つの徳を乱さず、礼儀正しくふるまう人だ
あんな姿の重盛殿に、腹巻を着けて対面するのはさすがに気が引け、きまり悪く思われたのか、障子を少し閉め、腹巻の上に絹の法衣を慌てて着られたが、胸板の金具が少しはだけて見え、それを隠そうとしきりに衣の胸を合わせようとされていた。

その後重盛殿は、舎弟・宗盛卿の上座に着かれた
清盛入道も何も言葉はなく、重盛殿もまた申し上げる言葉はなかった

少しして、清盛入道が
成親卿の謀反などどうでもよい
すべて後白河法皇が企てられたというのが問題なのだ
世を鎮めるしばらくの間、法皇を鳥羽の北殿へお移しするか、さもなければここへお越しいただこうと思うのだがどうだ
と言われると、重盛殿はよく聞きもせずほろほろと泣かれた
清盛入道は、
はて、どうした
とあきれられた

少しして、重盛殿は涙をこらえ、
今の話を伺い、もはやご運も尽きはじめたと思いました
人の運命が傾きはじめるときというのは、必ず悪事を思い立つものです
また、そのご様子を伺うに、この世の出来事とはとても思えません
我が国は小さな辺境の地とはいえ、天照大神の御子孫が国主となり、天児屋根命の末裔・藤原氏が朝政を執られて以来、太政大臣の位に至った人が甲冑をまとうというのは、礼儀に背いてはおりませんか
しかも、父上は出家された身ですぞ
過去・現在・未来の諸仏が、解脱の印である法衣を脱ぎ捨ててすぐさま甲冑をまとい、弓矢を手にすることは、仏教においては、恥知らずに戒めを破る罪を招くだけでなく、儒教においてもまた、仁・義・礼・智・信の法にも背くことになります
このようなことを申すのは恐縮ですが、心の奥で思われていることを言い残すべきではありません

まずこの世には四つ恩があります
天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩がそうです
その中で最も重要なのは帝の恩です
果てしなく広いこの空の下に、帝の土地でない地はありません
ゆえに、帝堯に国の長官となるよう勧められた許由は穎川の水で耳を洗って穢れを落とし、周の武王への諫言が聞き入れられずに首陽山にこもり、蕨だけを食べて死んでいった伯夷と叔斉も、勅命には背けないという礼儀を知っていたと聞いております
ましてや父上は先祖にも例のない太政大臣という最高の地位に就かれました
世に無能・暗愚と言われるこの重盛ですら大臣の位に至りました
そればかりか、国土の半分以上が我らが一門の所領となり、田園はすべて平家の思うがままです
これこそ世にも稀なる帝の恩ではありませんか
今これらの莫大な御恩をお忘れになってむやみに法皇を潰そうとなさることは、天照大神・正八幡宮の神の御心にも背くことになりましょう

日本は神の国です
神は非礼をお受けになりません
ですから、法皇の思い立たれたことに、半分は道理があります
とりわけ我らが一門は、代々の朝敵を征伐し、国中の反乱を平定したことは無双の忠義ですが、その恩賞を自慢するのは傍若無人とも言えるものです
聖徳太子の十七条の憲法
人には皆心がある。
必ずそれぞれにこだわりがある
相手を是とし、自分を非とし、自分を是とし、相手を非とする
この是非の道理を誰が正しく判断できているというのか
互いに賢となり愚となって、端がない環のようになっている
ゆえに、たとえ人が怒っても、自分の過失を省みて慎め
と記されています
それでも我らが一門の命運が尽きていないため、法皇の御謀反が見え始めてきたのです
それに、ご相談相手の成親卿を軟禁されているのですから、たとえ法皇がどんなに突飛なことをお考えになっても、何も恐れる必要はありません
それ相応の処罰をなさった上は、退いて事情をお述べになり、法皇のために奉公の忠勤に励み、民をさらに慈しむようになされば、神の御加護を受け、釈尊の深い御心に背くことはないはずです
神仏にその心が通じれば、法皇もきっと思い直されるはずです

君主と臣下とを並べたとき、親しい親しくないで分けるべきではありません
筋の通ったことと間違ったことを並べたら、筋の通った方につくのが道理です

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‘Photo 365’ project ! 365日にわたって描き続けた、愛する妻との幸せのアルバム!

愛する妻や恋人との日々は、次第に単なる日常となっていきがちです。
でも、笑い合い、喧嘩をし、仲直りし、そしてさらに深く愛おしく思う日々のスケッチを描いていったとしたら、それはステキなことだと思いませんか?
Curtis Wiklundさんは、愛する妻と過ごす何気ない日々を1日も欠かすことなくスケッチし、幸せのアルバムとして仕上げてしまいました。

Curtis Wiklund

1年の終わりに2人で見返すと思うだけで、なんだか幸せな気持ちにさせてくれます。
実は、何気ない毎日が一番の幸せなんですよね!

Curtis Wiklundさんと共にアルバムをめくり、幸せのおすそ分けに預かってみませんか。
素敵ですよ!

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【平家物語】 巻第二 五(二一)少将乞請

丹波少将成経殿はその夜、院の御所・法住寺殿で宿直をして、まだ御所を退出されずにいたが、成親卿の侍たちが慌てて院の御所に駆けつけ、成経殿を呼び出してこのことを伝えると、成経殿は
こんな大事なことを、どうして宰相殿のところから知らせてこないのだろう
と言い終わらぬ間に
宰相殿からです
と使者が来た
この宰相というのは清盛入道の弟君・平教盛で、屋敷は六波羅の大門の内にあったので
門脇の宰相
と言った
成経殿には舅に当たる
何事かわかりませんが、今朝、清盛入道殿より、必ずお連れするようにとのお達しがありました
と使者が伝えると、事態を察した成経殿が、法皇側近の女房たちを呼び出し
昨夜、なにやら世間が騒がしいので、また延暦寺の大衆が下りてくるのかと他人事のように思っていたら、なんと私の身に関わることでした
昨夜、父は斬られるはずだったそうですから、私も同罪でしょう
もう一度御前に参り、法皇にお目にかかりたいのですが、このような身になってしまったので、気が引けるのです
と言われたので、女房たちは御前に参り、そのことを奏聞したところ、法皇はやはり今朝の清盛入道からの使者に何か感づいておられたようで
とにかくここへ
との御意があったので、成経殿は御前へ参上した

法皇は涙を流され、何も仰せにならず、成経殿も涙にむせんで何も奏聞できなかった
少しして、成経殿が御前を退出されると、法皇は後姿を遠くなるまで見送られ
末の世とは心憂いものだ
これが最後、二度と会うことはないかもしれん
と、涙をお止めになれなかった
成経殿が御前を退出されると、院中の人々から局の女房たちに至るまで、名残を惜しみ、袂にすがり、涙を流し袖を濡らさない者はいなかった
舅の教盛殿のもとへ行かれると、北の方は近々お産間近でいらしたが、今朝からこの苦悩が加わって、もう死にそうな気分になられていた

成経殿は御所を出られるときから止め処なく涙がこぼれていたが、今、北の方を見られ、うろたえておられるようであった
成経殿の乳母に六条という女房がいた
お乳のために初めておそばに参り、殿を血の中より抱き上げ、お育てしてより、月日が経ても我が身の老いるのを嘆かず、ひたすら殿の成長を喜び、つい昨日のことのように思いながら今年ではや二十一年、ずっとおそばを離れずにまいりました
院の御所へ行かれ、遅く戻られたことを心配しておりましたが、今度はどんな目に遭われるのでしょうか
と泣く
そんなに嘆くな
教盛殿がおいでだから、さすがに命だけは請い受けてくださるだろう
とあれこれ慰められたが、六条は人目も気にせず泣き悶えた

その間も、清盛入道からしきりに使者が来るので、教盛殿は
行ってみないことには始まらない
と出発されると、成経殿も教盛殿の車の後ろに乗って出られた
保元・平治の乱以来、平家の人々は喜楽と繁栄ばかりで憂えや嘆きはなかったが、この教盛殿だけは、つまらぬ聟のために、こんな悩みをしなければならなかった
西八条近くなって、まず取り次ぎを申し込まれると
少将を門の内へ入れてはならない
と言われるので、その近くの侍の家に下ろし、教盛殿だけが門の内に入られた
いつの間にか武士たちが成経殿を取り囲んで厳しく警護している
あれほど必死に頼りにされていた教盛殿から引き離されてしまった
成経殿の心中は心細かったに違いない

教盛殿は中門に控えておられたが、清盛入道は会おうともなさらない
少しして、教盛殿が源大夫判官季貞を使者として
私がつまらぬ者と親しくなってかえすがえすも残念ですが、いまさら仕方がありません
連れ添わせております成経の妻は、この頃悩みが増えたのですが、今朝から夫が捕らえられたことでさらに嘆きが増し、今にも死にそうなのです
私がこうしておりますからには、間違いなど決して起こさせはしません
どうか、成経をしばらくこの私にお預けください
と言われると、季貞は参上してこの由を伝えた
すると、清盛入道は
ああ、やっぱり教盛はわかっていない
とすぐには返事もされなかった

少しして、清盛入道は
新大納言成親卿は、この平家一門を滅ぼして天下を混乱させようと企んでいる
この少将成経というのは、その成親卿の長男だ
疎遠だろうと親しかろうと、到底許すわけにはいかん
万が一、謀反が成功したら、そなたも無事では済まんのだぞ
と言ってこい
と言われた

季貞は戻って教盛殿にこの由を伝えた
教盛殿は実に不本意げな様子で、重ねて
保元・平治の乱以来、たびたびの合戦にも兄上のお命に代わろうと努めて参りました
この先も嵐が迫れば防ぐつもりです
年をとってはおりましても、若い子供がたくさんおりますので、守備の務まらないはずがありません
にもかかわらず、私がしばしの間成経を預ることすらお許しくださらいないのは、私を不忠の心ある者とお思いなのでしょう
それほど心許なく思われているのでは、俗世にいてもなんの甲斐もありませんから、暇をいただいて出家・入道し、高野山粉河寺にこもり、一心に後世の往生のために修行します
現世の暮らしのつまらぬこと
俗世間に生きるからこそ望みがあり、望みが叶わないからこそ恨みが生じる
現世を避け、真の仏道に入るのが一番だ
と言われた

季貞は再び清盛入道のもとへ行き
教盛殿は既に覚悟を決めておられます
なんとか善処をお願いいたします
と言うと、清盛入道は
出家・入道まで考えているとは、それはよくない
そういうことなら、成経をしばらく教盛に預ける
と伝えよ
と言われた

季貞は再び戻って、教盛殿にこの由を伝えた
教盛殿は
まったく、子供など持つものではないな
我が子の縁に縛られなければ、こんなに気を揉まずに済むものを
と呟いて出て行かれた

成経殿が待ち受け
どうなりましたか
と言われると
入道はあまりに怒って、私とはついに対面もされなかった
絶対に許さないとしきりに言われたが、出家・入道するとまで言ったのが効いたのか
ならばそなたをしばらく私に預けると言ってくださったが、それがずっと保証されたとは思えない
と言われると、成経殿曰く
では、私の命はご恩によってしばし命が延びたのですね
ところで、父・成親のことは何かお聞きになりましたか
教盛殿が
いやもうそなたのことを申し上げるのでやっとだったのだ
そこまでは気が回らなかった
と言われると、成経殿は涙をほろほろ流して
私が命を惜しむのは、もう一度父に会いたいと思うからなのです
夕方父が斬られるようなことになったら、私は生きる甲斐もないので、同じ場所で処刑してくださるようにお伝え願えませんか
と言われると、教盛殿は実に心苦しげに、重ねて
そなたのことをなんとか嘆願したのだ
成親卿のことまで気が回らなかったが、今朝、重盛殿があれこれ説得されていたので、しばらくはなんとかなりそうだとは聞いている
と言われると、成経殿は聞き終わらないうちに手を合わせて喜ばれた
子でなかったら、誰が我が身を差し置いてこれほどまでに喜ぶだろうか
真の契りというのは親子の間にこそあるものだ
人はやはり子を持つべなのかな
とすぐに思い直されたのだった

そして、今朝出かけたときのようにして二人車で戻られると、屋敷では女房や侍たちが集まり、死人が生き返ったような心地で嬉し泣きされた

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【竹 取 物 語   作者不明】

竹取物語に就いて

竹取物語は我国の初めての小説ともいわれています。
製作の時代は平安朝の初期というだけで、作者も不明、その外のことも一切わからず仕舞です。
その後、『字津保』、『落窪』、『源氏』といった小説類が追々現れてきますが、この『竹取物語』は格別に古風です。
ちなみにこの『竹取物語』のことは『源氏物語』の中にも引用されており、またこの物語の大略の筋が『今昔物語』第三十一中の一篇としても現れていることから、延喜年代以前に世間に流行していたらしいことまでは、わかるようです。

【竹 取 物 語   作者不明】

むかし、いつの頃でありましたか、竹取りの翁という人がありました。
ほんとうの名は讃岐の造麻呂というのでしたが、毎日のように野山の竹藪にはひつて、竹を切り取つて、いろいろの物を造り、それを商ふことにしていましたので、俗に竹取りの翁という名で通つていました。
ある日、いつものように竹藪に入り込んで見ますと、一本妙に光る竹の幹がありました。
不思議に思つて近寄つて、そっと切つて見ると、その切つた筒の中に高さ三寸ばかりの美しい女の子がいました。
いつも見慣れている藪の竹の中にいる人ですから、きっと、天が我が子として與へてくれたものであらうと考へて、その子を手の上に載せて持ち歸り、妻のお婆さんに渡して、よく育てるようにいひつけました。
お婆さんもこの子の大そう美しいのを喜んで、籠の中に入れて大切に育てました。

このことがあつてからも、翁はやはり竹を取つて、その日その日を送つていましたが、奇妙なことには、多くの竹を切るうちに節と節との間に、黄金がはひつている竹を見つけることが度々ありました。
それで翁の家は次第に裕福になりました。

ところで、竹の中から出た子は、育て方がよかつたと見えて、ずんずん大きくなって、三月ばかりたつうちに一人前の人になりました。
そこで少女にふさはしい髮飾りや衣裳をさせましたが、大事の子ですから、家の奧にかこつて外へは少しも出さずに、いよいよ心を入れて養ひました。
大きくなるにしたがつて少女の顏かたちはますます麗しくなり、とてもこの世界にないくらいなばかりか、家の中が隅から隅まで光り輝きました。
翁にはこの子を見るのが何よりの薬で、また何よりの慰みでした。
その間に相變らず竹を取つては、黄金を手に入れましたので、遂には大した身代になって、家屋敷も大きく構へ、召し使ひなどもたくさん置いて、世間からも敬はれるようになりました。
さて、これまでつい少女の名をつけることを忘れていましたが、もう大きくなって名のないのも變だと氣づいて、いゝ名づけ親を頼んで名をつけて貰ひました。
その名は嫋竹の赫映姫というのでした。
その頃の習慣にしたがつて、三日の間、大宴會を開いて、近所の人たちや、その他、多くの男女をよんで祝ひました。

この美しい少女の評判が高くなつたので、世間の男たちは妻に貰ひたい、又見るだけでも見ておきたいと思つて、家の近くに來て、すき間のようなところから覗かうとしましたが、どうしても姿を見ることが出來ません。
せめて家の人に逢つて、ものをいはうとしても、それさへ取り合つてくれぬ始末で、人々はいよいよ氣を揉んで騷ぐのでした。
そのうちで、夜も晝もぶっ通しに家の側を離れずに、どうにかして赫映姫に逢つて志を見せようと思ふ熱心家が五人ありました。
みな位の高い身分の尊い方で、一人は石造皇子、一人は車持皇子、一人は右大臣阿倍御主人、一人は大納言大伴御行、一人は中納言石上麻呂でありました。
この人たちは思ひ思ひに手だてをめぐらして姫を手に入れようとしましたが、誰も成功しませんでした。
翁もあまりのことに思つて、ある時、姫に向つて、
「たゞの人でないとはいひながら、今日まで養ひ育てたわしを親と思つて、わしのいうことをきいて貰ひたい」
と、前置きして、
「わしは七十の阪を越して、もういつ命が終るかわからぬ。
今のうちによい婿をとつて、心殘りのないようにして置きたい。
姫を一しよう懸命に思つている方がこんなにたくさんあるのだから、このうちから心にかなつた人を選んではどうだらう」
と、いひますと、姫は案外の顏をして答へ澁つていましたが、思ひ切つて、
「私の思ひどほりの深い志を見せた方でなくては、夫と定めることは出來ません。
それは大してむづかしいことでもありません。
五人の方々に私の欲しいと思ふ物を註文して、それを間違ひなく持つて來て下さる方にお仕へすることに致しませう」
と、いひました。
翁も少し安心して、例の五人の人たちの集つているところに行つて、そのことを告げますと、みな異存のあらうはずがありませんから、すぐに承知しました。
ところが姫の註文というのはなかなかむづかしいことでした。
それは五人とも別々で、石造皇子には天竺にある佛の御石の鉢、車持皇子には東海の蓬莱山にある銀の根、金の莖、白玉の實をもつた木の枝一本、阿倍の右大臣には唐土にある火鼠の皮衣、大伴[#ルビの「おほとも」は底本では「おもとも」]の大納言には龍の首についている五色の玉、石上の中納言には燕のもつている子安貝一つというのであります。
そこで翁はいひました。

「それはなかなかの難題だ。
そんなことは申されない」
しかし、姫は、
「たいしてむづかしいことではありません」と、いひ切つて平氣でをります。
翁は仕方なしに姫の註文通りを傳へますと、みなあきれかへつて家へ引き取りました。

それでも、どうにかして赫映姫を自分の妻にしようと覺悟した五人は、それ/″\いろいろの工夫をして註文の品を見つけようとしました。

第一番に、石造皇子はずるい方に才のあつた方ですから、註文の佛の御石の鉢を取りに天竺へ行つたように見せかけて、三年ばかりたつて、大和の國のある山寺の賓頭廬樣の前に置いてある石の鉢の眞黒に煤けたのを、もったいらしく錦の袋に入れて姫のもとにさし出しました。
ところが、立派な光のあるはずの鉢に螢火ほどの光もないので、すぐに註文ちがひといつて跳ねつけられてしまひました。

第二番に、車持皇子は、蓬莱の玉の枝を取りに行くといひふらして船出をするにはしましたが、實は三日目にこっそりと歸つて、かね/″\たくんで置いた通り、上手の玉職人を多く召し寄せて、ひそかに註文に似た玉の枝を作らせて、姫のところに持つて行きました。
翁も姫もその細工の立派なのに驚いていますと、そこへ運わるく玉職人の親方がやつて來て、千日あまりも骨折つて作つたのに、まだ細工賃を下さるという御沙汰がないと、苦情を持ち込みましたので、まやかしものということがわかつて、これも忽ち突っ返され、皇子は大恥をかいて引きさがりました。

第三番の阿倍の右大臣は財産家でしたから、あまり惡ごすくは巧まず、ちょうど、その年に日本に來た唐船に誂へて火鼠の皮衣という物を買つて來るように頼みました。
やがて、その商人は、やうやうのことで元は天竺にあつたのを求めたという手紙を添へて、皮衣らしいものを送り、前に預つた代金の不足を請求して來ました。
大臣は喜んで品物を見ると、皮衣は紺青色で毛のさきは黄金色をしています。
これならば姫の氣に入るに違ひない、きっと自分は姫のお婿さんになれるだらうなどゝ考へて、大めかしにめかし込んで出かけました。
姫も一時は本物かと思つて内々心配しましたが、火に燒けないはずだから、試して見ようというので、火をつけさせて見ると、一たまりもなくめらめらと燒けました。
そこで右大臣もすっかり當てが外れました。

四番めの大伴の大納言は、家來どもを集めて嚴命を下し、必ず龍の首の玉を取つて來いといつて、邸内にある絹、綿、錢のありたけを出して路用にさせました。
ところが家來たちは主人の愚なことを謗り、玉を取りに行くふりをして、めいめいの勝手な方へ出かけたり、自分の家に引き籠つたりしていました。
右大臣は待ちかねて、自分でも遠い海に漕ぎ出して、龍を見つけ次第矢先にかけて射落さうと思つているうちに、九州の方へ吹き流されて、烈しい雷雨に打たれ、その後、明石の濱に吹き返され、波風に揉まれて死人のようになって磯端に倒れていました。
やうやうのこと、國の役人の世話で手輿に乘せられて家に着きました。
そこへ家來どもが駈けつけて、お見舞ひを申し上げると、大納言は杏のように赤くなつた眼を開いて、
「龍は雷のようなものと見えた。
あれを殺しでもしたら、この方の命はあるまい。
お前たちはよく龍を捕らずに來た。
うい奴どもぢや」
とおほめになって、うちに少々殘つていた物を褒美に取らせました。
もちろん姫の難題には怖じ氣を振ひ、「赫映姫の大がたりめ」と叫んで、またと近寄らうともしませんでした。

五番めの石上の中納言は燕の子安貝を獲るのに苦心して、いろいろと人に相談して見た後、ある下役の男の勸めにつくことにしました。
そこで、自分で籠に乘つて、綱で高い屋の棟にひきあげさせて、燕が卵を産むところをさぐるうちに、ふと平たい物をつかみあてたので、嬉しがつて籠を降す合圖をしたところが、下にいた人が綱をひきそこなって、綱がぷっつりと切れて、運わるくも下にあつた鼎の上に落ちて眼を廻しました。
水を飮ませられて漸く正氣になつた時、
「腰は痛むが子安貝は取つたぞ。
それ見てくれ」
といひました。
皆がそれを見ると、子安貝ではなくて燕の古糞でありました。
中納言はそれきり腰も立たず、氣病みも加はつて死んでしまひました。
五人のうちであまりものいりもしなかつた代りに、智慧のないざまをして、一番慘い目を見たのがこの人です。

そのうちに、赫映姫が並ぶものゝないほど美しいという噂を、時の帝がお聞きになって、一人の女官に、
「姫の姿がどのようであるか見て參れ」
と仰せられました。
その女官がさっそく竹取りの翁の家に出向いて勅旨を述べ、ぜひ姫に逢ひたいというと、翁はかしこまつてそれを姫にとりつぎました。
ところが姫は、
「別によい器量でもありませぬから、お使ひに逢ふことは御免を蒙ります」
と拗ねて、どうすかしても、叱つても逢はうとしませんので、女官は面目なさそうに宮中に立ち歸つてそのことを申し上げました。
帝は更に翁に御命令を下して、もし姫を宮仕へにさし出すならば、翁に位をやらう。
どうにかして姫を説いて納得させてくれ。
親の身で、そのくらいのことの出來ぬはずはなからうと仰せられました。
翁はその通りを姫に傳へて、ぜひとも帝のお言葉に從ひ、自分の頼みをかなへさせてくれといひますと、
「むりに宮仕へをしろと仰せられるならば、私の身は消えてしまひませう。
あなたのお位をお貰ひになるのを見て、私は死ぬだけでございます」
と姫が答へましたので、翁はびっくりして、
「位を頂いても、そなたに死なれてなんとしよう。
しかし、宮仕へをしても死なねばならぬ道理はあるまい」
といつて歎きましたが、姫はいよいよ澁るばかりで、少しも聞きいれる樣子がありませんので、翁も手のつけようがなくなって、どうしても宮中には上らぬということをお答へして、
「自分の家に生れた子供でもなく、むかし山で見つけたのを養つただけのことでありますから、氣持ちも世間普通の人とはちがつてをりますので、殘念ではございますが……」
と恐れ入つて申し添へました。
帝はこれを聞し召されて、それならば翁の家にほど近い山邊に御狩りの行幸をする風にして姫を見に行くからと、そのことを翁に承知させて、きめた日に姫の家におなりになりました。
すると、まばゆいように照り輝ぐ女がいます。
これこそ赫映姫に違ひないと思し召してお近寄りになると、その女は奧へ逃げて行きます。
その袖をおとりになると、顏を隱しましたが、初めにちらと御覽になって、聞いたよりも美人と思し召されて、
「逃げても許さぬ。宮中に連れ行くぞ」
と仰せられました。

「私がこの國で生れたものでありますならば、お宮仕へも致しませうけれど、さうではございませんから、お連れになることはかなひますまい」
と姫は申し上げました。

「いや、そんなはずはない。
どうあつても連れて行く」
かねて支度してあつたお輿に載せようとなさると、姫の形は影のように消えてしまひました。
帝も驚かれて、
「それではもう連れては行くまい。
せめて元の形になって見せておくれ。
それを見て歸ることにするから」
と、仰せられると、姫はやがて元の姿になりました。
帝も致し方がございませんから、その日はお歸りになりましたが、それからというもの、今まで、ずいぶん美しいと思つた人なども姫とは比べものにならないと思し召すようになりました。
それで、時々お手紙やお歌をお送りになると、それにはいちいちお返事をさし上げますので、やうやうお心を慰めておいでになりました。

さうかうするうちに三年ばかりたちました。
その年の春先から、赫映姫は、どうしたわけだか、月のよい晩になると、その月を眺めて悲しむようになりました。
それがだんだんつのつて、七月の十五夜などには泣いてばかりいました。
翁たちが心配して、月を見ることを止めるようにと諭しましたけれども、
「月を見ずにはいられませぬ」
といつて、やはり月の出る時分になると、わざわざ縁先などへ出て歎きます。
翁にはそれが不思議でもあり、心がゝりでもありますので、ある時、そのわけを聞きますと、
「今までに、度々お話しようと思ひましたが、御心配をかけるのもどうかと思つて、打ち明けることが出來ませんでした。
實を申しますと、私はこの國の人間ではありません。
月の都の者でございます。
ある因縁があつて、この世界に來ているのですが、今は歸らねばならぬ時になりました。
この八月の十五夜に迎への人たちが來れば、お別れして私は天上に歸ります。
その時はさぞお歎きになることであらうと、前々から悲しんでいたのでございます」
姫はさういつて、ひとしほ泣き入りました。
それを聞くと、翁も氣違ひのように泣き出しました。

「竹の中から拾つてこの年月、大事に育てたわが子を、誰が迎へに來ようとも渡すものではない。
もし取つて行かれようものなら、わしこそ死んでしまひませう」
「月の都の父母は少しの間といつて、私をこの國によこされたのですが、もう長い年月がたちました。
生みの親のことも忘れて、こゝのお二人に馴れ親しみましたので、私はお側を離れて行くのが、ほんとうに悲しうございます」
二人は大泣きに泣きました。
家の者どもゝ、顏かたちが美しいばかりでなく、上品で心だての優しい姫に、今更、永のお別れをするのが悲しくて、湯水も喉を通りませんでした。

このことが帝のお耳に達しましたので、お使ひを下されてお見舞ひがありました。
翁は委細をお話して、
「この八月の十五日には天から迎への者が來ると申してをりますが、その時には人數をお遣はしになって、月の都の人々を捉へて下さいませ」
と、泣く泣くお願ひしました。
お使ひが立ち歸つてその通りを申し上げると、帝は翁に同情されて、いよいよ十五日が來ると高野の少將という人を勅使として、武士二千人を遣つて竹取りの翁の家をまもらせられました。
さて、屋根の上に千人、家のまはりの土手の上に千人という風に手分けして、天から降りて來る人々を撃ち退ける手はずであります。
この他に家に召し仕はれているもの大勢手ぐすね引いて待つています。
家の内は女どもが番をし、お婆さんは、姫を抱へて土藏の中にはひり、翁は土藏の戸を締めて戸口に控へています。
その時姫はいひました。

「それほどになさつても、なんの役にも立ちません。
あの國の人が來れば、どこの戸もみなひとりでに開いて、戰はうとする人たちも萎えしびれたようになって力が出ません」
「いやなあに、迎への人がやつて來たら、ひどい目に遇はせて追っ返してやる」
と翁はりきみました。
姫も、年寄つた方々の老先も見屆けずに別れるのかと思へば、老とか悲しみとかのないあの國へ歸るのも、一向に嬉しくないといつてまた歎きます。

そのうちに夜もなかばになつたと思ふと、家のあたりが俄にあかるくなって、滿月の十そう倍ぐらいの光で、人々の毛孔さへ見えるほどであります。
その時、空から雲に乘つた人々が降りて來て、地面から五尺ばかりの空中に、ずらりと立ち列びました。
「それ來たっ」と、武士たちが得物をとつて立ち向はうとすると、誰もかれも物に魅はれたように戰ふ氣もなくなり、力も出ず、たゞ、ぼんやりとして目をぱちぱちさせているばかりであります。
そこへ月の人々は空を飛ぶ車を一つ持つて來ました。
その中から頭らしい一人が翁を呼び出して、
「汝翁よ、そちは少しばかりの善いことをしたので、それを助けるために片時の間、姫を下して、たくさんの黄金を儲けさせるようにしてやつたが、今は姫の罪も消えたので迎へに來た。早く返すがよい」
と叫びます。
翁が少し澁つていると、それには構はずに、
「さあさあ姫、こんなきたないところにいるものではありません」
といつて、例の車をさし寄せると、不思議にも堅く閉した格子も土藏も自然と開いて、姫の體はするすると出ました。
翁が留めようとあがくのを姫は靜かにおさへて、形見の文を書いて翁に渡し、また帝にさし上げる別の手紙を書いて、それに月の人々の持つて來た不死の薬一壺を添へて勅使に渡し、天の羽衣を着て、あの車に乘つて、百人ばかりの天人に取りまかれて、空高く昇つて行きました。
これを見送つて翁夫婦はまた一しきり聲をあげて泣きましたが、なんのかいもありませんでした。

一方勅使は宮中に參上して、その夜の一部始終を申し上げて、かの手紙と薬をさし上げました。
帝は、天に一番近い山は駿河の國にあると聞し召して、使ひの役人をその山に登らせて、不死の薬を焚かしめられました。
それからはこの山を不死の山と呼ぶようになって、その薬の煙りは今でも雲の中へ立ち昇るということであります。

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【平家物語】 巻第二 四(二〇)小教訓

新大納言・藤原成親卿は清盛入道の屋敷の一室に押しこめられ、汗だくになりながら
ああ、これは日頃の計画が洩れているのに違いない
誰が洩らしたんだろう
きっと北面武士の誰かだな
などあれこれ想像しているところに、背後から高らかな足音が聞こえてきたので
ついに自分を殺そうと武士どもがやって来た
と思われたが、そうではなく、板敷を高らかに踏み鳴らす清盛入道の足音で、成親卿のおられる後ろの障子をさっと開けられた
短い素絹の法衣と、足をくるむように穿いた白い大口の袴に、ゆったりと聖柄の刀を差して、成親卿をしばし睨みつけ
貴殿は平治の乱の折、既に処刑されているはずのところを、重盛が必死に助命を嘆願し、今そうして首がつながっていることをどうお考えか
恩を知るのを人と言うぞ
恩を知らぬのを畜生と言うのだ
なのに、なんの恨みがあって、我が一門を滅ぼすおつもりなのか
だが当家の運命はまだ尽きないから、こうしてお迎えしているのだ
日頃の計略についてじかに伺おうではないか
と言われると、成親卿は
きっと誰かが私を陥れるための告げ口です
よくよくお調べください
と言われた

すると清盛入道はたいへん怒り
誰かいるか、誰かいるか
と呼ばれると、平貞能がさっと現れた
西光めの自白状を持ってこい
と命じられると、持ってきた
清盛入道はこれを取って繰り返し何度も読み聞かせ
憎い奴め、これ以上何を弁解するつもりだ
と、成親卿の顔に投げつけ、障子をばしっと閉めて出て行かれたが、まだ腹に据えかねて
経遠、兼康
と呼ばれた

難波次郎、瀬尾太郎がやって来た
あの男を取っ捕まえて庭へ引きずり出せ
と命じられたが、二人はどうしてよいかわからない
重盛殿のご意向はいかがですか
と答えると、清盛入道が
ああそうか、そちらは重盛の命令には従って、このわしの言うことは軽んじるということだな
なら仕方がない
と言われたので、これはまずいと思ったか、立ち上がり、成親卿の左右の手を取って庭へ引きずり落とした
すると清盛入道は気分よさげに
痛めつけて泣かせてやれ
と言われた

二人は成親卿の両耳に口を当て
なんでもかまいません、お声を張り上げてください
とささやいてねじ伏せると、二声三声わめいた
まるで、閻魔庁の獄卒が、冥界で娑婆の罪人を業の秤にかけたり、浄玻璃の鏡に向かわせて罪の重さを測りつつ責め苛むのもこれほどではないように見えた
蕭何と樊噲は囚われ、韓信と彭越は肉を塩漬けにされた
晁錯は殺され、周勃と竇嬰は罰せられた
蕭何、樊噲、韓信、彭越らは皆漢の高祖の忠臣であったが、つまらぬ者の告げ口によって不慮の災いや失敗の恥辱を受けたという故事も、こういうことだったのだろうか
成親卿は、自分がこんな目に遭っているので、子息・丹波少将成経をはじめ幼い子供たちがどんな目に遭わされるのかと思うと、気がかりでたまらない
ひどく暑い六月なのに、装束すら緩めることができず、耐え難く暑いので、胸を締めつけられる心地がして、汗も涙も競うように流れ落ちた
いくらなんでも重盛殿はお見捨てにはならないだろう
とは思われたが、誰に伝えてもらえばよいのかわからない

重盛殿は、普段は良きにつけ悪しきにつけ騒がれるような人ではないので、ずいぶん日が経ってから、嫡子・権亮少将維盛を車の後ろに乗せ、衛府の役人四・五人、随身二・三人を連れ、軍兵たちは一人も連れず、落ち着き払っておられるのを見て、清盛入道をはじめ平家一門の人々は皆意外に思われた
重盛殿が中門の出入口で車から下りられたところに貞能がさっと来て
なぜこれほどの大事なときに軍兵を一人お連れにならないのですか
と言うと
大事とは天下のことを言うのだ、こんな私事を大事と言う者があるか
と言われると、武装した兵たちは皆落ち着かない様子であった
その後重盛殿は
成親卿をどこに閉じ込めたんだろう
と、あちらこちらの障子を開けて捜されると、ある障子の上に木材を十文字に張りつけた箇所があった
ここかな
と開けられると、大納言がいらした

涙にむせびうつ伏して、目もお上げにならない
どうなさいました
と声をかけられると、そのときの重盛殿を見られた嬉しそうな表情と言ったら、地獄で罪人どもが地蔵菩薩を見たらこんなふうだろうかと思われるほどに哀愁を帯びていた
いったいどういうことなのでしょう、今朝からこのような目に遭っています
おいでくださったので、どうか助けてくださるよう深くお願いします
平治の乱のときも、本来なら処刑されるべきところ、御恩を受けて首をつないでいただき、今、正二位の大納言に昇進して、四十歳を過ぎました
御恩は永遠に報い尽くすことはできません
今度もまた、値打ちの少ない命ですが、どうかお助けください
もし生き長らえることができましたら、身を退いて出家・入道し、どこかの山里でにこもって、後世の往生のために勤行をいたします
と言われた

重盛殿は
本当にそう思っておられるのでしょう
しかしいくらなんでも、お命まで失われることはありますまい
そうなったときは、ここに私がおりますから、お命をお代わりしましょう
どうかご安心ください
そう言うと、父・清盛入道の御前で
成親卿の命を奪うことについては、よくよくお考えください
先祖の修理大夫・藤原顕季が白河上皇に召し使われて以来、あの家系には前例のない正二位大納言に昇進し、後白河法皇もお気に召しておられますから、すぐ首を刎ねられるのはいただけません
都を追放するだけで十分でありましょう

菅原道真公は、左大臣藤原時平の讒奏によって汚名を着せられたまま西海へ流され、西宮大臣・源高明多田満仲の告げ口によって恨み抱いて山陽道を下っていきました
二人とも無実なのに流罪となったのです
これらはみな醍醐天皇冷泉天皇の御過ちと伝えられています
昔でさえこのとおりです
ましてや今は末世です
既に成親卿を召し捕られているのですから、急いで処刑せずとも心配はありますまい
刑の疑わしきは軽くせよ
功の疑わしきは重くせよ
と書にもあるではありませんか

いまさら言うのもなんですが、私はあの成親卿の妹と連れ添っているのです
我が子・維盛もまた彼の娘聟です
そのように親しいからそんなことを申すだろうと思われるかもしれません
そうではありません
ただ帝のため、国のため、平家一門のためを思って申し上げているのです

先年、亡き少納言・藤原信西入道が権力を握っていたとき、我が国においては、嵯峨天皇の時代に右兵衛督・藤原仲成が処刑されてから保元までの天皇二十五代の間、一度も行われることのなかった死罪を執行したり、宇治の悪左府藤原頼長の死骸を掘り起して実検されたりしたことなどは、あまりにひどい政務であったと思っております
昔の人も
死刑を執行すれば国中に謀反の輩が絶えない
と伝えています
その言葉どおり、保元の乱から三年後、再び平治の乱が起こり、埋もれていた信西入道の骸を掘り起こし、首を刎ねて大路を引き回されました
保元の乱で行ったことが、ほどなく我が身に降りかかってきたと思うと、恐ろしいことです
成親卿はたいした朝敵でもありません
とにかくお慎みください
これほどの栄華を極め、思い残されることもないと思いますが、子々孫々までも繁栄するよう願ってください
父祖の善行・悪行の因果は必ず子孫に及ぶといいます
代々善を行ってきた家系には慶福があり、代々悪を行ってきた家系には報いの災禍が積もると聞きます
どう考えても今夜首を刎ねられることは、良いこととは思われません
と言われると、清盛入道は、もっともだと思ったか、死罪は思い留まられた

その後、重盛殿が中門に出て、侍たちに
命令だからと、成親卿を処刑してはならぬ
父が腹立ち紛れにせっかちなことをしたら、必ずや後悔する
おまえたちも過ちを犯して罰せられてから、私を恨むなよ
と言われると、兵たちは皆舌を震わせて恐れおののいた

それにしても、今朝経遠と兼康が成親卿に非情な仕打ちをしたことはまったくけしからん
この重盛の耳に入るだろうに、どうしてそれを考え恐れなかったのか
田舎侍はこれだから困る
と言われると、経遠も兼康も恐れ入ってしまった
重盛殿はこう言われてから、小松殿へと戻られた

さて、成親卿の侍たちは急いで中御門烏丸の屋敷へ戻ってこのことをしかじかと話すと、北の方をはじめ女房たちは声々に泣き叫んだ
成経殿をはじめお子様たちも皆捕らえられると聞いております
急いでどこかにお隠れください
と言うと
もはやこうなっては、安穏に暮らしてどうなるというのでしょう
成親卿同様、ただ一夜の露と消えてしまいたいと思うばかりです
それにしても、今朝の別れが今生の別れになってしまうなんて
と衣を被って臥せられた

やがて武士たちの近づく音が聞こえてくると、また恥を晒し、情けない目に遭うのもつらいからと、十歳になる女子と八歳の男子を同じ車に乗せ、どこ行く宛もなく、車を出させた
しかしそうしてばかりもいられないので、大宮大路を北に向かい、北山の辺・雲林院へいらした
その周辺の僧坊に二人を降ろすと、送りの者たちは我が身を守るため、皆暇をもらって帰っていった
今はあどけない二人の子供だけがとり残され、話しかける人もいなくなった

北の方の心中は察するほどに哀れであった
暮れゆく影を見るにつけても、成親卿のはかない命も今夜限りかと思うと、我が身も消えてなくなりそうになった
屋敷には女房や侍も多かったが、物をかたづけることもなく、門を閉じることもなかった
馬たちは厩に揃っていたが、草を与える者は一人もいなかった
いつもなら、夜が明ければ馬車は門に立ち並び、賓客は部屋に列なって遊び戯れ、舞い踊り、豪奢に暮らし、近隣の人々は大きな声でものも言わず、昨日まで恐れていたのに、夜の間にすっかり変わってしまった様子は、盛者必衰の道理を目の当たりにしているようであった
楽しみ尽きて、悲しみ来たる
と書かれた大江朝綱公の筆の跡が今こそ思い知られた

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春分の日!彼岸中日、弘法大師忌となれば、プチ遍路の旅かなあ。

今日(3月20日)は、春分の日にして、彼岸中日、弘法大師忌ですね。
春分の日!彼岸中日、弘法大師忌となれば、プチ遍路の旅かなあ。
昼と夜の長さが同じになると言われていますが、厳密には地球から見える太陽の大きさ分誤差があるんですよね。
というのも、日の出と日の入りの定義は、太陽の上辺が地平線と一致する瞬間!
つまり、日の出で太陽の上端が地平線から顔を出してから、日の入りで太陽の下端が地平線に触れるまでの時間がぴったり12時間となるので、日の入りでそこから太陽の上端が地平線に隠れてしまう分だけ、実は昼間の時間が長くなっている、ってことなんです。
※)ちなみに、日の出と日の入りで太陽の上辺が地平線と一致する瞬間がぴったり一致していたのは、今年(2015年)は3月17日でした。

いずれにしても、天文学的に言えば、これから昼間の時間が長くなる前向きな暦の巡りの始まり。
また、旧暦の3月21日が弘法大師空海が入定されたことからちなみ、今日は祥月命日にして大師様のご縁日!
縁日には札所も空いているところが多いので、徐々に咲き始めた桜を愛でながらプチ遍路でも巡って、気持ちを一新しようかな、という気分になりますね。
 ”プチ遍路の旅 覚王山八十八箇所巡礼

どうぞステキな週末を!

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【平家物語】 巻第二 三(一九)西光被斬

大衆による明雲先座主奪還の一件を後白河法皇がお聞きになり、ひどくご不快でいらしたとき、西光法師が
延暦寺の大衆が傍若無人な訴訟を起こすことは今に始まったことではありませんが、このたびは度が過ぎております
よくよくお考えなさいませ
これを戒めにならなければ、世もなにもあったものではありません
と奏聞した
今まさに我が身が滅びようとしているのも顧みず、山王大師の御心にもはばからず、こう言って法皇の御心を悩ませている
悪臣は国を乱す
という
そのとおりである
叢蘭が茂ろうとしても、秋の風が枯らすように、王者が聡明であろうとしても、悪臣がこれを妨害する
とは、このようなことを言うのであろう

執事別当の新大納言・藤原成親卿をはじめ側近に命じられ、法皇比叡山を攻められるようだ
という噂が流れると、延暦寺の大衆は
天子の領地に生まれて、天子の命にむやみに背くのもまずかろう
と、中には院宣に従う衆徒もいるという噂が流れたとき、妙光坊にいらした明雲先座主は
大衆に謀反の心あり
と耳にされ
またどんな目に遭わされるか
と言われた
しかし流罪の処分はなかった

新大納言成親卿は延暦寺の騒動によって、平家打倒の宿意のしばし中断を余儀なくされた
下準備はあれこれしていたが、擬勢ばかりでこの謀反が成功するようには見えなかったので、あれほど頼られていた多田蔵人行綱も
無駄骨だ
と思うようになったようで、弓袋でも作るようにと贈られた布を直垂帷に裁ち縫わせて、家臣・郎等に着せつつ、目をしばたたかせながら
平家の隆盛をいろいろ見てみても、現在の調子ではそうたやすく衰えるとは思えない
もしこの企てが洩れたら、おれはまず殺されるだろう
他人の口から洩れる前に寝返って、生き延びるのが得策だ
と思う気持ちが湧いてきた

同・五月二十九日の夜更け頃に清盛入道の西八条の屋敷に赴き
多田行綱、申すべきことがあって参上しました
と取り次がせると、清盛入道は
普段来もしない者が来たのは何事だ
聞いてこい
と、主馬判官・平盛国を行かせた
とても人伝てになど言えない話です
と言うので、それでは、と清盛入道自ら中門の長廊下に出られた
夜もすっかり更けたのに今頃何事だ
と言われると
昼は人目が多かったので、夜に紛れて参上しました
近頃、後白河院中の人々が軍備を調え、兵を召集しおられることをどのようにお聞きですか
清盛入道は
そのことだが、後白河法皇比叡山を攻める準備だと聞いている
と、それがどうしたとでも言いたげに答えられた
行綱は近寄り、小さな声で
そうではございません
すべて御家に関わることであると聞いております
清盛入道
そのことを法皇もご存じなのか
すべてご存じです
執事の別当・成親卿の軍兵召集も、法皇のご指示と伺っております
平判官康頼がああ言い、俊寛がこう言い、西光があれこれやって…
など、一部始終あることないことを大げさに言い散らし
では、私はこれで
と退出した直後の、清盛入道の大声で侍たちを呼びつける様子はたいへんなものであった
行綱は、よけいなことを口に出し、後で証人に喚問されるのではないかと恐ろしくなり、誰も追ってこないのに、袴の股立ちをつかみ上げて帯に挟み、広野に火を放ったような気持ちで大慌てで門外へと逃げ出した

その後、清盛入道が筑後守・平貞能を呼び
当家を倒そうと謀反を企てる連中が京中に満ちているようだ
一門の者たちに知らせよ、侍どもを集めよ
と言われたので、駆け回って召集した
右大将宗盛、三位中将知盛、頭中将重衡、左馬頭行盛、一門の者たちは、甲冑に身を固め、弓矢を携えて馳せ集まった
他の侍たちが雲霞のごとくに馳せ集まり、その夜のうちに清盛入道の西八条の屋敷には六・七千騎の兵が集結したように見えた

明ければ六月一日である
まだ夜も明けやらぬ頃、清盛入道は検非違使・安倍資成を招き
至急院の御所へ参り、大膳大夫信成を呼び出してだな
新大納言成親卿以下側近の者たちが平家一門を滅ぼして天下に混乱を起こそうと企てております
残らず召し捕り、尋問の上処罰いたします
法皇もご干渉なさいませんよう
と伝えてこい
と言われた
資成は急いで院の御所に赴き、信成を呼び出してこのことを伝えると、信成は真っ青になった
すぐさま法皇の御前に参り、しかじかと奏聞すると、法皇
やれやれ、もう内密の企ても洩れてしまったか
それにしても、これはどうしたことだ
とばかり仰せられ、はっきりした返事はなかった
資成は急いで駆け戻り、この由をしかじかと伝えると
清盛入道は
やはり、行綱の言っていたことは本当だったか
行綱が知らせてくれなかったら、わしは安穏としてはいられなかった
と、筑後守・平貞能と飛騨守・伊藤景家を呼び
平家を倒そうと謀反を企てる連中は京中に満ちているようだ
残らず引っ捕らえよ
と命じられた
そして、武士二百余騎・三百余騎がそこかしこ押し寄せ、捕縛が始まった

清盛入道は、まず雑色に
中御門烏丸の新大納言成親卿の屋敷に必ずお越しください
ご相談があります
と言うように命じて遣いを出されると、成親卿は我が身に起こることとはつゆ知らず
ああ、さては法皇比叡山攻撃を思い留まられるよう説得されるんだな
法皇のお怒りは激しい
とても無理なのに
と、糊を使わない狩衣をなよやかに着こなし、色鮮やかな車に乗り、侍を三・四人召し連れて、雑色や牛飼に至るまで、普段よりもめかしこんで赴いた
まさかそれが最後の外出になるとは、このときは知る由もなかった
西八条の近くになって周囲を見ると、四・五町の間に軍兵が満ちている
すごい数だ、いったい何事だろう
と胸騒ぎがしたが、門前で車から下り、門の内へ入って見回すと、そこにも軍兵があふれている

中門の出入口に恐ろしげな者どもが大勢待ち受けており、大納言の手をつかんで引っ張り
縄をかけましょうか
と言うと、清盛入道は簾の中から覗き見て
その必要はない
と言われたので、縁の上へ引き上らせ、一間ほどの部屋に押しこめた
成親卿は夢でも見ているようで、まったくわけがわからない
お供の侍たちは、軍兵たちに遮られ、ちりぢりになってしまった
雑色や牛飼は震え上がり、牛車を捨てて皆逃げてしまった

そのうち、近江中将入道・蓮浄、法勝寺執行・俊寛僧都、山城守・中原基兼、式部大輔正綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行も捕らえられてやって来た
西光法師はこれを聞いて、次は我が身と思ったか、鞭を打って院の御所へ馬を走らせた
六波羅の兵たちが道で行き合い
清盛殿からのお呼びだ、すぐ来い
と言うと
申し上げることがあって院の御所へ向かう途中だ
それが済んだら参る
と言ったので
憎たらしい入道め、何を申し上げるつもりだ
と、馬から引きずり落とし、縛って宙ぶらりんに提げ、西八条の清盛邸へ連行した

最初から謀略に加わった者なので、特にきつく縛り、中庭に引き据えた
清盛入道は大床に立って、しばし睨みつけ
憎い奴め、当家を倒そうと謀反を企んだ奴のなれの果てだ
そやつを連れてこい
と、縁の端に引き寄せさせ、草履を履きながら、その面をむずむずと踏みつけられた
だいたい、おまえらのような賤しい下郎を、法皇がお召し使いになって、任せられるはずのない官職をお与えになれば、父子共々身分不相応なふるまいをするだろうと思っていたが、案の定、天台座主を流罪にし、あまつさえ当家を倒そうと謀反を企てる者どもに加担していたとはな
正直に言え
と言われた

西光はもとより肝の据わった男なので、顔色ひとつ変えず、悪びれたふうもなく居直り、せせら笑って口を開けば
院に召し使われる身なのだから、執事の別当・成親卿が法皇の命を受けて募兵に関与たことを、ないとは言うまい
たしかにあった
それにしても聞き捨てならないことをおっしゃるものだ
他人の前ならいざ知らず、この西光が聞いているところでそんなことをおっしゃるものではない
そもそも貴殿は刑部卿忠盛の子ではあられるが、十・四五歳までは出仕もなさらなかった
しばらくして、亡き中御門の藤中納言家成卿のそばに出入りされていたのを、京童部は
噂の高平太
と言っていたものだ
にもかかわらず、保延の頃、海賊の張本人・三十数人を捕縛した手柄で四位に叙せられて、四位の兵衛佐と言ったことさえ、人々は身分不相応だと言い合ったものだ
殿上の交流さえ嫌がられた忠盛の子孫で、太政大臣にまで成り上ったのこそ身分不相応であろう
侍程度の者が受領や検非違使になることは先例がないわけでもない
それのどこが身分不相応なのか
とはばかることなく言い散らしたので、清盛入道はあまりに腹を据えかねて、しばらくはものも言わず、少ししてから
そいつの首は簡単には斬るな
みっちり問い糾して計画の実態を調べあげ、その後河原へ引き出して首を刎ねよ
と命じられた
松浦太郎重俊が命令を受け、手足を挟み、あれこれ拷問を加えて取り調べた
西光は抗うつもりなど毛頭なかった上に、拷問が激しかったので、洗いざらい自白した
自白調書を四・五枚取られた後
口を裂け
と、口を引き裂かれ、五条西の朱雀でついに斬られた

加賀守を解任された嫡子・藤原師高が尾張国井戸田へ流罪となっていたのを、同国の住人・胡麻郡司維季に命じて殺させた
弟の近藤判官師経を牢獄から引きずり出して処刑させた
その弟の左衛門尉・近藤師平と家臣三人も同じく首を刎ねられた
これらは取るに足りない者が出世し、関わるべきでないことに関わり、罪のない天台座主を流罪に処して、その運が尽きたようで、たちどころに山王大師の神罰冥罰を受け、こんな目に遭ったのである

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【平家物語】 巻第二 二(一八)一行

比叡山の東の麓にある十禅師権現の御前で大衆は再び評議を開いた
さあみんな、粟津へ行って明雲僧正を奪還しようではないか
だが、追い立て役人や護送役人がいるから、奪還は困難だ
日吉山王権現の御力に頼るほかはない
本当に問題がなく、奪還が可能であるならば、ここでまず我々に験をお見せください
と、老僧らは精根を尽くして祈ると、無動寺の法師乗円律師が召し使う十八歳の鶴丸という童子が苦しみはじめ、体中から汗を流して、にわかに発狂した
我に十憚師権現が乗り移られた
末世だからといって、我が比叡山の座主を他国へ移してよいはずがない
いつの世までも心憂い
そのようなことになるなら、我がこの麓にいても意味がない
と、左右の袖を顔に押し当ててさめざめと泣くと、大衆はこれを怪しみ
本当に十禅師権現のお告げならば、我らがめいめい験をお渡しします
それをひとつひとつ持ち主にお返しください
と、老僧ら四・五百人がめいめい手に持つ数珠を十禅師権現の大床の上へ投げ上げた
この物狂いは走り回って拾い集め、ひとつも間違えることなく持ち主に返した
大衆は神明の霊験あらたかなことの尊さに、皆合掌して随喜の涙を流した

そういうことなら、奪還しに行こう
と言うやいなや、雲霞のごとくに飛び出していった
志賀唐崎の浜を歩き続ける大衆もいた
山田矢走の湖上に舟を押し出だす宗徒もいた
これを見て、あれほど厳重そうだった追い立て役人や護送役人らは皆ちりぢりになって逃げてしまった

大衆は国分寺へ向かった
明雲先座主はたいへん驚き
勅命によって勘当された者は日月の光にさえ当たらないと聞いている
ましてや、時を待たずただちに追い出すようにとの宣旨であったのだから、のんびりしている場合ではないぞ
衆徒たちよ、すぐに帰りなさい
と、寺の軒先近くに出ると
大臣となるべき家系に生まれ、比叡山の閑静な僧坊に入って以来、広く天台宗の教法を学んで、顕教密教を学んだ
ただ比叡山の興隆だけを願った
国家安泰への祈りもおろそかにしたことはない
衆徒を育む志も決して浅くはない
日吉山王権現の大宮・二宮の神々もきっとご覧になっておられよう
やましいところは少しもない
無実の罪によって遠流の重罪を受けたが、私は世も人も神も仏も恨まない
ここまで訪ねてきてくれた諸君の心には、どう感謝してよいかわからない
と、香染の衣の袖を絞りきれないほどに涙を流すと、大衆も皆鎧の袖を濡らした

そして御輿をそばに寄せ
お急ぎください
と言うと、明雲先座主は
昔は三千衆徒の座主であったが、今はこのような流罪の身、どうして立派な修学者や智恵深き宗徒たちに担がれて登ることができようか
登らなければならないときは、草鞋を足に縛って、皆と同じように歩いて行く
と、ついに乗られなかった

ここに西塔に住む僧に戒浄坊阿闍梨・祐慶という荒法師がいた
身長は七尺ほど、金を混ぜた大荒目の黒革威の鎧を草摺長に着て、兜を脱いで法師たちに持たせ、白柄の長刀を杖にして、大衆の中を押し分けながら明雲先座主の御前に来ると、かっと眼を見開いて先座主をしばらく睨みつけ
そのような御心だからこのような目にお遭いになるのです
さあ、早くお乗りください
と言うと、明雲先座主は恐ろしくなって急いで乗られた

大衆は奪還できた嬉しさに、下級法師でなく身分の高い修学者や僧侶たちが御輿を担いだが、次々に交代する中、祐慶は代わらず、御輿の前方を担いで、轅も長刀の柄も砕けんばかりのたくましさで、あれほど峻しい東坂をまるで平地を行くがごとく進んだ

東塔の大講堂の庭に御輿を据えると、大衆はまた評議を開いた
さて我らは粟津に出向いて明雲僧正を奪還した
だが、勅命で勘当され、流罪となった人を保護し、座主に推挙するとどうなるのだろう
と話し合った
戒浄坊阿闍梨・祐慶は再び前のように進み出て評議に加わり
そもそもこの比叡山は我が国無双の霊地、鎮護国家の道場であり、日吉山王権現の御威光は盛んにして仏法・王法は優劣なし
ゆえに衆徒の意向もまた比肩する者なく、下級法師であっても世の人は軽んじない
明雲僧正はこれまで智恵高貴にして三千衆徒の座主であった
今は重く徳行を積んできた当山における師である
無実の罪を着せられたことは、比叡山・京中の憤慨するところであり、興福寺園城寺の嘲笑の的である
このようなときに顕教密教両学の師を失い、多くの学僧が勉学をおろそかにする事態は悲しい限りである
この祐慶、首謀者と名指しされ、投獄され、流罪にされ、首を刎ねられることになっても、それは今生の面目、冥土の土産と思う
と言って、両の目からほろほろと涙を流すと、数千の大衆は皆
もっともだ、もっともだ
と賛同した
それからこの祐慶は怒目房と呼ばれるようになった
その弟子である恵慶律師を人々は小怒目房と呼んだ

明雲先座主を東塔の南谷にある妙光坊にお迎えした

不慮の災厄は神仏の生まれ変わりと言われる人でも免れられないのだろうか
昔、唐の一行阿闍梨・祐慶は玄宗皇帝の加持・祈祷をする僧でいらしたが、玄宗の后・楊貴妃との噂が立ったことがあった
昔も今も大国も小国も、人は口さがないもので、根も葉もなかったが、その醜聞によって果羅国へ流罪となった

その国へ行くには三つの道がある
輪地道という行幸のための道、幽地道という賤しい身分の者が通る道、暗穴道という重罪の者を移送する道である
一行阿闍梨・祐慶は大罪人であるとして、暗穴道を通らされた
七日七夜の間、日月の光を見ない道を行くのである
真っ暗で他に人もなく、行方も知れずに迷い、森は鬱蒼として山は深い
ただ谷間に鳥の一声が響くばかりで、苔生して濡れた衣も乾かせない

無実の罪によって遠流の重罪を蒙ることをお天道様も憐れまれて、九曜の星の形を現され、一行阿闍梨・祐慶を守られた
すると祐慶は右の指を食いちぎり、流れる血で左の袂に九曜の形を描き写された
和漢両国伝わる真言宗の本尊・九曜曼陀羅というのはこれである

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『三国志演義』第百二十回(終わり) 杜預を薦めて老将新謀を献じ、孫皓降って三分一統に帰す

さて、呉主は司馬炎が魏を奪ったと聞いて呉が心配なって病となり、丞相ボク羊祜ウを呼んで太子の孫休を世継ぎと指さして息絶えた。しかし、孫休は弱年であったので万彧、趙浮の進言でボク羊祜ウは、孫晧を帝位にした。そして、元興元年と改元し、孫休を豫章王に封じ、丁奉を左右大司馬とした。
呉主は日増しに凶暴になり、中常侍岑昏を寵愛した。これを諌めた濮陽興、趙浮を打ち首にした。そして、さらに陸遜の子 陸抗に襄陽攻略を命じた。晋は羊祜に襄陽を守らせた。
陸抗が羊祜の人格を敬って酒を送ると、羊祜は疑わずにそれを飲み、陸抗が病にかかると、羊祜は薬を届けさせ、 陸抗はそれを疑いもせず飲んで病を治した。
呉主からはやく攻め落とすようにと使者が来るが、 陸抗は、今は敵の守りが固く攻められないので内政に専念すべきであると上奏した。呉主は 陸抗が晋と内通していると疑って、彼を司馬に降格し兵権を剥いだ。そして、左将軍ソンキに軍の指揮を命じた。

羊祜は 陸抗の代わりに甄姫が来たと知って呉攻めの上奏をした。しかし、晋主は賈充達に諌められて兵を出さなかった。羊祜は上奏を取り上げられなかったと聞いて嘆息し、都に帰って病と言って暇を願い出た。そして、彼は杜預を呉討伐に推挙して死んだ。
杜預は、荊州の都督に任じられて襄陽で練兵し、呉討伐に備えた。
この時丁奉、 陸抗が死に、呉主の横暴さに国民は恐れおののいていた。
そこに晋の益州の刺史王濬から、呉討伐の上奏文を奉った。そして晋主は呉討伐に兵をおこした。これを聞いた呉主は慌ててこれを退ける策を練った。
丞相張悌の策で甄姫ンに夏口を守り、張悌、諸葛誕の子諸葛靚らの軍を出した。さらに岑昏の策で鉄鎖で長江を封鎖した。

さて、杜預は江陵に兵を進め、先鋒の甄姫ンの軍を討ち取り江陵を奪った。
すると広州各郡の太守、県令達は戦わずして帰順した。さらに杜預は建業に向けて進撃させた。すると長江は鎖で封鎖されており、杜預は笑って大きないかだを作らせて上流から流して松明で火を付けて鎖を溶かした。そしてその勢いで張悌、諸葛靚らの軍を打ち破った。張悌は戦乱の中で死んだ。
さて晋主はこの事を知って賈充の諌めるのも聞かずに王濬達にも進撃を命じた。晋軍の行くところ呉軍は戦わずして降伏し、呉主はこれを聞いて大いに驚き、臣下に問うと
「何故戦わぬのか。」
「今日の禍は全て岑昏の罪にございます。」
「宦官一人如きに国を誤ることなどできるものか。」
「蜀の黄皓をお忘れでございますか。」
と叫ぶなり宮中になだれ込み、岑昏を斬り刻んだ。陶濬が呉主より2万の軍勢をもらい受けて張松とともに王濬を迎え討ったが、大敗して張松が王濬に降って城門を開けさせて晋軍を入城させた。
呉主はもはやこれまでと自ら首をはねようとしたが、セツエイが、
「安楽公劉禅にならわれたらよいではございませぬか。」
と進言したので、これに従って柩車をそなえて自らを縛って文武諸官を率いて王濬の陣に降参に行った。
かくて東呉は大晋に帰した。翌日陶濬の軍は戦わずして壊滅し、その後晋軍が到着し、その翌日には杜預も到着した。
そして呉の穀倉を開いて呉の人民に振る舞ったので安堵した。
王濬は呉平定の上奏文を奉って勝利を知らせると、晋王は杯を手にして涙を落とした。
呉主は洛陽に移され天子に謁見した。賈充が呉主に、
「聞くところによれば、常々人の眼を伺ったり、顔の皮を剥いだりしたとか。これはいかなる刑か。」
と問うと、呉主は、
「臣下の身でありながら、君主を殺したり奸佞の不忠には、この刑を加えたのでござる。」
と答えた。すると賈充は恥じ入って返す言葉もなかった。かくて帝は呉主孫皓を帰命公となし、子孫を中郎にし、従った大臣もみな列侯に封じた。

これより三国は晋帝司馬炎に帰し、統一された。
これ「天下大勢は、合すること久しければ必ず分かれ、分かれること久しければ必ず合する。」というものである。
のち後漢皇帝劉禅は泰始7年(271年)に、魏主曹奐は太安元年(302年)に、呉主孫晧は太康4年(283年)に、それぞれ終わりを全うした。
(了)

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【平家物語】 巻第二 一(一七)座主流

治承元年五月五日、天台座主・明雲大僧正に対し、朝廷は法会・講義の資格剥奪の上、蔵人を使者として如意輪観音本尊の返上を命じられ、帝の無事を祈祷する役からも外された
そして検非違使庁の使者を送り、このたび神輿を内裏へ振り奉った張本人を差し出すよう命じられた
加賀国に座主の寺領がある
国司・藤原師高がこれを廃止したのを恨み、大衆を扇動して強訴させた
すんでのところで朝廷に一大事が起こるところであった
という西光法師父子の告げ口により後白河法皇の逆鱗に触れた
特に重罪に処されだろうと言われた
明雲は法皇のご機嫌が悪いので、延暦寺の印と経蔵の鍵を返還し、座主を辞した

同・五月十一日、鳥羽院七の宮、覚快法親王天台座主となられた
この人は青蓮院の大僧正・行玄の弟子である

同・十二日、明雲先座主が職を剥奪された上、検非違使二人に命じて、井戸に蓋をし、竈の火に水をかけ、水と火を断たれた
これを知った大衆がまた都へ押し寄せてくると噂になると、京中はまた騒ぎになった

同・十八日、太政大臣以下の公卿十三人が参内して陣の座に着き、明雲先座主に対する懲罰について評定があった
当時まだ左大弁宰相であった八条中納言・藤原長方卿が末座にいらしたが、進み出て
法の専門家の判定書に従って死罪一等を減じ、流罪にするようでありますが、明雲先座主は顕教密教を学ばれ、行い清く戒律を守られ、大乗妙経を高倉天皇にお授けになり、菩薩浄戒を後白河法皇にお授けになりました
御経の師・御戒の師です
重罪に処されたら、諸仏がどう思われるか想像もつきません
還俗・流罪をいま少し緩められるべきかと
と忌憚なく述べられると、同席の公卿は皆長方卿の意見に賛同されたが、法皇のお怒りが強かったので、やはり流罪と定められた
清盛入道もこのことを申し上げようと院の御所に参内されたが、法皇はお風邪気味とのことで御前へも召されないので、不本意げに帰られた

僧を罪に処す習いとして、僧の認可証を没収して還俗させ、大納言大輔・藤井松枝という俗名をつけられた

明雲という方は、村上天皇第七の皇子、具平親王から数えて六代の末裔、久我大納言・源顕通卿の子息である
比類ない大徳の人・天下第一の高僧であられるので、身分の上下を問わず人々に尊敬され、難波国・天王寺、山城国・六勝寺の別当を兼務されていた
しかし陰陽寮長官・安倍泰親は
あれほどの智者が明雲などと名乗られているのが解せない
名前の上に日月の光があり、下に雲がある
と非難した
仁安元年二月二十日、天台の座主になられた
同・三月十五日、入寺における拝仏の儀式が行われた
中堂の宝蔵を開かれると、さまざまな宝物の中に一尺四方の箱があり、白い布で包まれていた
生涯戒律を犯さなかった明雲先座主がその箱を開けてみると、黄檗染めの紙に記された一巻の文書があった
伝教大師最澄が未来の座主の名字をあらかじめ記しておかれたのである
自分の名前が記されたところまで見て、そこから先は見ずに元のように巻き返して戻す習わしであった
そのためこの明雲先座主もそのようにされたのであろう
このような貴い人だが、先世の宿業は免れられない
実に感慨深い

同・二十一日、配流先は伊豆国と定められた
人々はさまざまとりなしたが、西光法師の告げ口によってこうなったのである
今日すぐにも都から追放するべきだということで、追い立て役人が、白河の御坊に出向いて追い立てた
明雲先座主は泣く泣く御坊を出、粟田口辺りにある一切経の別所へ入られた
延暦寺の大衆は
我らが敵として西光法師父子以上の者はない
と法師父子の名前を書いて、根本中堂におられる十二神将の、金毘羅大将の左足に踏ませ奉り
十二神将、七千夜叉、即刻西光法師父子の命をお奪いください
とわめき叫んで呪咀したのは、耳にするだけでも恐ろしかった

同・二十三日、一切経の別所から配流先の伊豆国に赴かれた
寺務の大僧正ほどの人が、追い立て役人に蹴り立てられ、今日を限りと都を追われ、逢坂関の東へ赴く心の内は察するほどに哀れであった
大津の打出の浜に着く頃には延暦寺・文殊楼の軒先が白々と見えていたが、二目と見ようとはなさらず、袖を顔に押し当てて涙にむせばれた

延暦寺には老僧・高僧が多い中、当時まだ僧都でいらした澄憲法印が、あまりに名残を惜しんで粟津まで見送られ、暇を告げて帰られると、明雲先座主は、その切なる心の内を感じて、長月一人心に秘めておられた一心三観を悟る法を相伝された
この法は釈尊に付き従う波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の龍樹菩薩からしだいに相伝してきた秘法で、今日の情けに対して授けられたのである
いくら我が国は小さな辺境の地、穢れた末世といえども、澄憲法印はこれを受け継ぎ、僧衣の袂を絞りつつ都に帰られた、その心は尊いものであった

さて、延暦寺では大衆が集まって評議をした
そもそも義真和尚以来、天台座主が始まって五十五代に至るまで、いまだ流罪の例を聞いたことがない
よくよく考えてみるに、延暦の頃、桓武天皇が都を築き、伝教大師最澄が当山に登って天台宗の教えをこの地に広められて以来、成仏に五障を持つ女人は途絶え、三千人の清い僧侶だけが住んでいる
峰には法華教を誦す声が長年絶えず、麓には日吉山王七社の霊験が日々あらたかである
天竺にある月氏霊鷲山は摩伽陀国・王舎城の東北、釈尊の住まわれた洞窟である
この日本の比叡山も、都の鬼門にそびえる国家鎮護の霊地である
代々の賢王・智臣はこの地に仏供養の壇を設けている
末代だからといって、どうして当山に傷をつけてよいという道理があろうか
実に情けない
とわめき叫ぶやいなや、比叡山の大衆は残らず東坂本へ降り下っていった

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