知命立命 心地よい風景

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【平家物語】 巻第三 七(三九)少将都還

同・治承三年一月下旬、丹波少将成経殿と平判官康頼入道の二人は肥前国鹿瀬庄を発って都へと急がれたが、余寒がまだ厳しく、海上もひどく荒れていたので、浦伝い島伝いにたどり、二月十日頃に備前国児島に到着した
そこから父・成親殿が住まわれていたところを訪ね、竹の柱や古びた障子などに書き残された筆の跡を見られて
ああ、人の形見で筆の跡に優るものはない
書き残されなければ、こうして見ることさえできなかった
と、康頼入道と二人、読んでは泣き、泣いては読まれた

安元三年七月二十日、出家
同・二十六日、信俊下向
とも書かれてあった
それにより左衛門尉・源信俊が来ていたこともわかった
近くの壁には
三尊来迎の便りあり
九品往生は疑いなし
とも書かれてあった

この形見を見られ
やはり欣求浄土の望みをお持ちだったんだ
とひどく嘆きながらも、やや気を取り直してそう言われ、墓を訪ねてみれば、松の生い茂る中には、それとわかるように墓を築いた様子もない
土が少し盛り上がった場所で成経殿は袖を合わせ、泣きながら、生きている人に語るように
亡くなったことは、鬼界が島にもかすかに伝わり、知っていましたが、思うようにならない身の上で、駆けつけることもできませんでした
私が鬼界が島へ流れされてからは、心細く、片時の命のすらおぼつかない思いでした
しかし露のような命は消えることなく、二年を過ごし、今、京へ召し返される嬉しさももちろんですが、父上がまさしくこの世に生きておられたことを確認できたことこそ、命を長らえた甲斐もあったというものです
これまでは急いでまいりましたが、今日からは急がず行こうと思います
としみじみと語って泣かれた
生きておられる時ならば、成親殿が
どうした
と言われただろうに、生と死を隔てたことほど恨めしいものはない
苔の下で誰が答えてくれるというのか
ただ嵐に騒ぐ松の枝が響くばかりである

その夜は、康頼入道と二人で経を唱えながら墓の周囲を巡り、夜が明けると新しく墓を築いて、柵を巡らせ、前に仮屋を建て、七日七晩念仏を唱え、写経をし、結願の日には大きな卒塔婆を立てて
聖霊が、生死の苦しみを離れ、大菩提を得られますように
と書き、年号月日の下には
孝子成経
と書かれると、情知らずの賤しい山人も
子に勝る宝はない
と、涙を流さない者はなかった

年が去り、新たな年が来ても、忘れ難いのは育ててくれた昔の恩
夢のようであり、幻のようである
尽きることがないのは、恋い慕う今の涙
過去・現在・未来・四方すべての世界の仏・菩薩もお憐れみになり、成親殿の霊魂もどれほど喜んでいることであろうか

もうしばらく念仏を唱えていたいのですが、都に待つ人たちも寂しがっていることでしょう
またきっと参ります
と父の霊魂に別れを告げて、泣く泣く立ち去られた
草場の陰でも名残惜しく思われていたであろう

同・治承三月十六日、成経殿は鳥羽へ明るいうちに到着された
亡き父・成親殿の山荘・洲浜殿は鳥羽にある
何年も住む者がなくて荒れ果てており、築地はあっても屋根はなく、門はっても扉がなかった
庭に立ち入ってみれば、人の気配はなく、苔が深く生していた
池のほとりを見回せば、秋の山から吹く春風に白波がしきりに立って、紫の鴛鴦や白い鴎が歩き回っている
昔興じていた頃の人恋しさに、涙ばかりがあふれてくる

家はあっても欄門が破れて、蔀や遣戸もなくなっている
ここで父上はこうしておられたっけ
この妻戸をばこんなふうにして出入りいらしたっけ
そういえばあの木は父が自ら植えられたのだった
などと、一言一言、ただ父のことばかり恋しげに語られた
三月十六日のことなので、花は咲き残っていた
山桃、桃、李の梢は、昔の主はいなくても、時季を知っているとでも言いたげに、色とりどりに春を忘れず咲いている
少将は花の下に立ち寄って

桃や李はものを言わないから、人が去ってから幾春が過ぎのたかを語らない、煙や霞は跡を留めないから、昔誰が住んでいたのかもわからない

ふるさとの花が、もし口をきくのなら、どんなにか昔のことを尋ねたいのに

と、古い詩歌を口ずさまれると、康頼入道も、折も折なので哀れに思えて墨染の袖を涙で濡らした
日が暮れるまでと思っていたが、あまりに名残惜しくて、夜が更けるまでそこにいらした

更けるにつれ、荒れた屋敷の常で、古い軒先の板の間から綺麗な月影が覗く
唐の鶏籠山の夜も明けようとしているが、まだ家路へ急ごうとなさらない
しかしそうしてばかりもいられず、迎えの車を待たせているのもすまないと、成経殿は泣く泣く洲浜殿を出て、都へ帰られた
二人の心境は、嬉しくも後ろ髪引かれる思いだったであろう
康頼入道の迎えにも車はあったが
今は名残惜しいから
と、それには乗らず、少将の車の後ろに乗って七条河原まで行った

それから別れたが、なかなか行けずにいた
花の下で半日を過ごした客も、月の前で一夜を過ごした友も、にわか雨をやり過ごすのに樹の下に立ち寄った旅人さえも、別れの名残は惜しいものである
ましてや二人は、つらかった島での暮らし、舟の中、波の上などを共にした、現世で報いを受けた者同士、前世の縁も浅くはないと思い知ったのだろう

成経殿は舅・平宰相教盛殿の屋敷へ立ち寄られた
母君は東山の霊山に暮らしておられたが、昨日から教盛殿の屋敷で帰りを待っておられた
成経殿が立ち寄られる姿をただ一目ご覧になり
命さえあれば
とだけ言われ、衣を被って臥せられた

教盛殿のところでは女房や侍が集まり、死んだ人が生き返ったような心地がして、嬉し泣きをされた
ましてや成経殿の北の方や乳母の女房は、どれほど嬉しかったことだろう
乳母の六条の黒かった髪もすっかり白くなっていた
北の方はあれほど美しい方でいらしたのに、尽きることない物思いにすっかり痩せ衰えて、同じ人とは思えなかった
成経殿が流されたとき、三歳でお別れになった若君・雅経は、すっかり成長して髪を結うほどになっておられた
そのそばに三歳ほどの幼い人がいらしたので、成経殿が
この子は誰だ
と言われると、六条は
この子こそ
とだけ言って涙を流した
流罪にされるとき、妻が苦しげにしていたが、さてはこの子がそうか、よく無事に育ってくれた
と思うだけで愛おしかった

成経殿は以前同様、後白河法皇に召し使われ、宰相中将に昇進された
康頼入道は、東山の双林寺に自分の山荘があったので、それに落ち着いて、まずこう詠まれた

故郷の軒の板間に苔が生し、思っていたほど月影は洩れてこない

そのままそこにこもって、つらかった昔を思いながら
宝物集
という物語を書いたという

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