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干支から見る、2014年甲午から2015年乙未の解明・啓示

干支は、占いや易の俗語と思われがちですが、本来は生命やそのエネルギーの発生・成長・収蔵の循環過程を分類・約説した経験哲学です。

干支には60の組み合わせがあることは以前にも整理しましたが、本来干支は時局の意義や自覚、覚悟といったものを、数千年の歴史と体験を学問として積み上げたものに即して、帰納的に解明・啓示したものなのです。

今回は、その干支の原理から2014年甲午から2015年乙未の年を想定してみましょう。

Ehou-direction

【2014年甲午(きのえうま)】

甲について

甲は、木の陽にあたり、季節は春、方角は東を表します。

干支による甲は、ちょうど春になり新芽が古い殻から頭を出すものの、まだ余寒が厳しくて勢いよくその芽を伸ばすことができない状態です。

本来だと、旧来の殻を破って革新に進まなければならないのですが、いろいろな抵抗や妨害があるために、その困難と闘う努力をしながら、慎重に伸びていかねばならない年なのです。

午について

午は象形文字で、餅をつく時に使う杵(きね)の象形からきています。

交互に餅をつく想定で、陰陽の交差する十二支の第7位(午)を意味し、陽極まって陰となる夏至の時期、だんだん闇が長くなる境目を表しています。

午は火の五行で光り輝く炎が元となり灼熱の性質を表すことから、エネルギーや自然災害に注意が必要となりがちです。

また、火は燃え上がり煙が空へと登る性質があることから、大気汚染や鳥、飛行機、宇宙などに関わることがキーワードになるようです。

また、午年は”そもそも馬”からくるように、何かのきっかけで蹴ったり、振り落としたりして大暴れしやすい年なので、国内・国際情勢などもあわせ、良し悪し含めて荒れがちな傾向があるようです。

甲午について

こうしたことから、甲午は六十干支という60年周期で巡るサイクルの中で31番目にあたるので、これまで成長してきたエネルギーが、今後収束し形作られていくきっかけになる傾向があるので注意が必要です。

ですので、甲午が重なる甲午の年は、なかなか思うように物事が進まない傾向にあり、荒れがちで問題が表面化しやすいようです。

こうしたことを踏まえて、来年という年を想定してみます。

【2015年乙未(きのとひつじ)】

乙について

乙は、いかに抵抗力が強くとも、それに屈せず弾力的に、雄々しくやっていくことを意味しています。

乙という文字は、草木の芽が曲がりくねっている象形であるため、新しい改革創造の歩は進めるけれど、まだまだ外の抵抗力が強いという意味を表します。

しかしそれがゆえに、いかなる抵抗や紆余曲折を経ても、それを進めていく気概を持っていかねばならないということです。

今年の甲が、冬の寒さを凌いできた草木の芽が春を迎えてその殻を破り、外に尖端を出した象形ですので、“無遠慮”“緊張感を失う”ことに通じていることから、むなしく因循姑息に堕しやすいということも表しています。

それを受けて乙は、甲の芽が未だ寒さや外の障害に逢って屈曲するということを表しているので、”乙々”といえば、ああでもない、こうでもないとはかばかしく苦労し、悩むことという意味になるのです。

要は、前年の甲に一陽来復して冬の間陽気を待っていた芽が、乙の年になって殻を破って伸び出したものの、まだ陰気が強く残っているために、冷気もあり春寒が残るために、伸びた芽が歪曲し曲がってしまいがちなため、伸びることは伸びても、その伸び方が乙々としてしまう傾向にあるということです。

ですので、来年(2015年)は前年からの持ち越しの旧習を打破して、新たに問題解決すべく努力を続けなければならないのですが、なおも障害が強くて(真っ直ぐには伸びないで)苦労せねばならない情勢を明示していることになります。

乙は樹木も表すので、陰気なものやじめじめしたものはよくないですし、精神も生活も政治経済もすべて陽の光を浴びてすくすくと生育していかねばなりません。

ですので来年は、因習で生い茂っている悪い風潮や慣例、足かせをまずは取り払い、前に進むべく努力していかなければならないということです

未について

未は、上の短い”一”と”木”から成っていて、”一”は木の上層、つまり枝葉の繁栄、繁茂を表していますが、枝葉が繁茂すると暗くなることから、未を”くらい”とも読みます。

未は昧に通じますので、暗く曖昧にしてはいけない、要は”不昧”でなければならないということです。

不昧であるということは、

・繁茂した枝葉末節を払い落として、生々たる生命を進展させる必要がある

・いろいろの真実、法則、道というものを明らかにする

・曖昧にして見失わない

ということなんですよね。

また、未は元来木の繁茂を示すものですので、きちんと協調さえ失わなければよいのです。

繁茂が過ぎてくらくなり、その実を失うと世の中が乱れることになるので、そのままにしているとやがては思い切った改革・革命を要するような事態にもなりかねません。

別に仰々しいイデオロギーだのナショナリズムだのは不要です。

単純に、明るくすることや物事を不昧に持っていくことを心がけ、後ろめたい行動や言動を慎み、公明正大に事を行っていけばよい、ということことです。

ですので、我々各自が観念や型にはまった紋切り型の論理に振り回されるのではなく、自らの存在、在り方を切実な問題として捉え、筋の通った行動を行うことから始めてみるべき年になる、ということなのかもしれませんね。

乙未について

いろいろと抵抗にあり、面倒なことが生い茂り、陰気になりがちで、従来の勢力と新しい勢力とが衝突することになるので、煩わしいことやよくない事を思い切って払い落としていかねばならないということを表します。

それを怠ると、従来の勢力が暗くなる、昧くなるので、さらにその次の年(2016年)なると、それらは手が付けられなくなる程面倒なことになってしまうということを予見しているのです。

周辺諸国においても、内乱などが起こりがちでその影響は少なからず日本にも及んでくるので、我々はそこに惑わされて軽挙妄動することなく、状況や形勢を観察しながら落ち着いて行動規範を正していかねばなりません。

でないと、一歩誤れば、辛い事態に陥りかねないからです。

日本人はこういったことに無頓着なため軽挙妄動してしまいますが、このような弱点をきちんと認識した上で、足元を見ながら世情に流されることなく、草木が従来の好ましい先へと伸びていくように、我々ひとりひとりが努力しなければならないと思うのです。

いずれにしても、次の年(2016年)やさらにその次の年は、内外共に多事多端でひとつの変革期になることは必須です。

算命学的な観点から見ても、2017年からは経済確立期に入る最初の年となりますので、丁度時代の分岐点となる時期となります。

そういった意味でも、来年(2015年)は、我々ひとりひとりが試される年へとなっていくように思われます。

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