知命立命 心地よい風景

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『三国志演義』第百二十回(終わり) 杜預を薦めて老将新謀を献じ、孫皓降って三分一統に帰す

さて、呉主は司馬炎が魏を奪ったと聞いて呉が心配なって病となり、丞相ボク羊祜ウを呼んで太子の孫休を世継ぎと指さして息絶えた。しかし、孫休は弱年であったので万彧、趙浮の進言でボク羊祜ウは、孫晧を帝位にした。そして、元興元年と改元し、孫休を豫章王に封じ、丁奉を左右大司馬とした。
呉主は日増しに凶暴になり、中常侍岑昏を寵愛した。これを諌めた濮陽興、趙浮を打ち首にした。そして、さらに陸遜の子 陸抗に襄陽攻略を命じた。晋は羊祜に襄陽を守らせた。
陸抗が羊祜の人格を敬って酒を送ると、羊祜は疑わずにそれを飲み、陸抗が病にかかると、羊祜は薬を届けさせ、 陸抗はそれを疑いもせず飲んで病を治した。
呉主からはやく攻め落とすようにと使者が来るが、 陸抗は、今は敵の守りが固く攻められないので内政に専念すべきであると上奏した。呉主は 陸抗が晋と内通していると疑って、彼を司馬に降格し兵権を剥いだ。そして、左将軍ソンキに軍の指揮を命じた。

羊祜は 陸抗の代わりに甄姫が来たと知って呉攻めの上奏をした。しかし、晋主は賈充達に諌められて兵を出さなかった。羊祜は上奏を取り上げられなかったと聞いて嘆息し、都に帰って病と言って暇を願い出た。そして、彼は杜預を呉討伐に推挙して死んだ。
杜預は、荊州の都督に任じられて襄陽で練兵し、呉討伐に備えた。
この時丁奉、 陸抗が死に、呉主の横暴さに国民は恐れおののいていた。
そこに晋の益州の刺史王濬から、呉討伐の上奏文を奉った。そして晋主は呉討伐に兵をおこした。これを聞いた呉主は慌ててこれを退ける策を練った。
丞相張悌の策で甄姫ンに夏口を守り、張悌、諸葛誕の子諸葛靚らの軍を出した。さらに岑昏の策で鉄鎖で長江を封鎖した。

さて、杜預は江陵に兵を進め、先鋒の甄姫ンの軍を討ち取り江陵を奪った。
すると広州各郡の太守、県令達は戦わずして帰順した。さらに杜預は建業に向けて進撃させた。すると長江は鎖で封鎖されており、杜預は笑って大きないかだを作らせて上流から流して松明で火を付けて鎖を溶かした。そしてその勢いで張悌、諸葛靚らの軍を打ち破った。張悌は戦乱の中で死んだ。
さて晋主はこの事を知って賈充の諌めるのも聞かずに王濬達にも進撃を命じた。晋軍の行くところ呉軍は戦わずして降伏し、呉主はこれを聞いて大いに驚き、臣下に問うと
「何故戦わぬのか。」
「今日の禍は全て岑昏の罪にございます。」
「宦官一人如きに国を誤ることなどできるものか。」
「蜀の黄皓をお忘れでございますか。」
と叫ぶなり宮中になだれ込み、岑昏を斬り刻んだ。陶濬が呉主より2万の軍勢をもらい受けて張松とともに王濬を迎え討ったが、大敗して張松が王濬に降って城門を開けさせて晋軍を入城させた。
呉主はもはやこれまでと自ら首をはねようとしたが、セツエイが、
「安楽公劉禅にならわれたらよいではございませぬか。」
と進言したので、これに従って柩車をそなえて自らを縛って文武諸官を率いて王濬の陣に降参に行った。
かくて東呉は大晋に帰した。翌日陶濬の軍は戦わずして壊滅し、その後晋軍が到着し、その翌日には杜預も到着した。
そして呉の穀倉を開いて呉の人民に振る舞ったので安堵した。
王濬は呉平定の上奏文を奉って勝利を知らせると、晋王は杯を手にして涙を落とした。
呉主は洛陽に移され天子に謁見した。賈充が呉主に、
「聞くところによれば、常々人の眼を伺ったり、顔の皮を剥いだりしたとか。これはいかなる刑か。」
と問うと、呉主は、
「臣下の身でありながら、君主を殺したり奸佞の不忠には、この刑を加えたのでござる。」
と答えた。すると賈充は恥じ入って返す言葉もなかった。かくて帝は呉主孫皓を帰命公となし、子孫を中郎にし、従った大臣もみな列侯に封じた。

これより三国は晋帝司馬炎に帰し、統一された。
これ「天下大勢は、合すること久しければ必ず分かれ、分かれること久しければ必ず合する。」というものである。
のち後漢皇帝劉禅は泰始7年(271年)に、魏主曹奐は太安元年(302年)に、呉主孫晧は太康4年(283年)に、それぞれ終わりを全うした。
(了)

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【平家物語】 巻第二 一(一七)座主流

治承元年五月五日、天台座主・明雲大僧正に対し、朝廷は法会・講義の資格剥奪の上、蔵人を使者として如意輪観音本尊の返上を命じられ、帝の無事を祈祷する役からも外された
そして検非違使庁の使者を送り、このたび神輿を内裏へ振り奉った張本人を差し出すよう命じられた
加賀国に座主の寺領がある
国司・藤原師高がこれを廃止したのを恨み、大衆を扇動して強訴させた
すんでのところで朝廷に一大事が起こるところであった
という西光法師父子の告げ口により後白河法皇の逆鱗に触れた
特に重罪に処されだろうと言われた
明雲は法皇のご機嫌が悪いので、延暦寺の印と経蔵の鍵を返還し、座主を辞した

同・五月十一日、鳥羽院七の宮、覚快法親王天台座主となられた
この人は青蓮院の大僧正・行玄の弟子である

同・十二日、明雲先座主が職を剥奪された上、検非違使二人に命じて、井戸に蓋をし、竈の火に水をかけ、水と火を断たれた
これを知った大衆がまた都へ押し寄せてくると噂になると、京中はまた騒ぎになった

同・十八日、太政大臣以下の公卿十三人が参内して陣の座に着き、明雲先座主に対する懲罰について評定があった
当時まだ左大弁宰相であった八条中納言・藤原長方卿が末座にいらしたが、進み出て
法の専門家の判定書に従って死罪一等を減じ、流罪にするようでありますが、明雲先座主は顕教密教を学ばれ、行い清く戒律を守られ、大乗妙経を高倉天皇にお授けになり、菩薩浄戒を後白河法皇にお授けになりました
御経の師・御戒の師です
重罪に処されたら、諸仏がどう思われるか想像もつきません
還俗・流罪をいま少し緩められるべきかと
と忌憚なく述べられると、同席の公卿は皆長方卿の意見に賛同されたが、法皇のお怒りが強かったので、やはり流罪と定められた
清盛入道もこのことを申し上げようと院の御所に参内されたが、法皇はお風邪気味とのことで御前へも召されないので、不本意げに帰られた

僧を罪に処す習いとして、僧の認可証を没収して還俗させ、大納言大輔・藤井松枝という俗名をつけられた

明雲という方は、村上天皇第七の皇子、具平親王から数えて六代の末裔、久我大納言・源顕通卿の子息である
比類ない大徳の人・天下第一の高僧であられるので、身分の上下を問わず人々に尊敬され、難波国・天王寺、山城国・六勝寺の別当を兼務されていた
しかし陰陽寮長官・安倍泰親は
あれほどの智者が明雲などと名乗られているのが解せない
名前の上に日月の光があり、下に雲がある
と非難した
仁安元年二月二十日、天台の座主になられた
同・三月十五日、入寺における拝仏の儀式が行われた
中堂の宝蔵を開かれると、さまざまな宝物の中に一尺四方の箱があり、白い布で包まれていた
生涯戒律を犯さなかった明雲先座主がその箱を開けてみると、黄檗染めの紙に記された一巻の文書があった
伝教大師最澄が未来の座主の名字をあらかじめ記しておかれたのである
自分の名前が記されたところまで見て、そこから先は見ずに元のように巻き返して戻す習わしであった
そのためこの明雲先座主もそのようにされたのであろう
このような貴い人だが、先世の宿業は免れられない
実に感慨深い

同・二十一日、配流先は伊豆国と定められた
人々はさまざまとりなしたが、西光法師の告げ口によってこうなったのである
今日すぐにも都から追放するべきだということで、追い立て役人が、白河の御坊に出向いて追い立てた
明雲先座主は泣く泣く御坊を出、粟田口辺りにある一切経の別所へ入られた
延暦寺の大衆は
我らが敵として西光法師父子以上の者はない
と法師父子の名前を書いて、根本中堂におられる十二神将の、金毘羅大将の左足に踏ませ奉り
十二神将、七千夜叉、即刻西光法師父子の命をお奪いください
とわめき叫んで呪咀したのは、耳にするだけでも恐ろしかった

同・二十三日、一切経の別所から配流先の伊豆国に赴かれた
寺務の大僧正ほどの人が、追い立て役人に蹴り立てられ、今日を限りと都を追われ、逢坂関の東へ赴く心の内は察するほどに哀れであった
大津の打出の浜に着く頃には延暦寺・文殊楼の軒先が白々と見えていたが、二目と見ようとはなさらず、袖を顔に押し当てて涙にむせばれた

延暦寺には老僧・高僧が多い中、当時まだ僧都でいらした澄憲法印が、あまりに名残を惜しんで粟津まで見送られ、暇を告げて帰られると、明雲先座主は、その切なる心の内を感じて、長月一人心に秘めておられた一心三観を悟る法を相伝された
この法は釈尊に付き従う波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の龍樹菩薩からしだいに相伝してきた秘法で、今日の情けに対して授けられたのである
いくら我が国は小さな辺境の地、穢れた末世といえども、澄憲法印はこれを受け継ぎ、僧衣の袂を絞りつつ都に帰られた、その心は尊いものであった

さて、延暦寺では大衆が集まって評議をした
そもそも義真和尚以来、天台座主が始まって五十五代に至るまで、いまだ流罪の例を聞いたことがない
よくよく考えてみるに、延暦の頃、桓武天皇が都を築き、伝教大師最澄が当山に登って天台宗の教えをこの地に広められて以来、成仏に五障を持つ女人は途絶え、三千人の清い僧侶だけが住んでいる
峰には法華教を誦す声が長年絶えず、麓には日吉山王七社の霊験が日々あらたかである
天竺にある月氏霊鷲山は摩伽陀国・王舎城の東北、釈尊の住まわれた洞窟である
この日本の比叡山も、都の鬼門にそびえる国家鎮護の霊地である
代々の賢王・智臣はこの地に仏供養の壇を設けている
末代だからといって、どうして当山に傷をつけてよいという道理があろうか
実に情けない
とわめき叫ぶやいなや、比叡山の大衆は残らず東坂本へ降り下っていった

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『三国志演義』第百十九回 仮りに投降し計を巧みて虚話を成し、ふたたび授禅し様に依りて葫蘆を画く

姜維は、監軍の衛瓘に鄧艾、鄧忠を捕らえてくるように命じ、夜明けとともに詔を奉じて彼らを捕らえた。鄧艾父子は洛陽に護送された。
そこに、司馬昭が軍勢を率いて来るという知らせが入り、姜維はさらに鍾会に蜀で自立するように進言した。そして、密かに後主に、「なにとぞもうしばらくご辛抱下さりますよう。必ずや漢を再興してお迎えに上がります。」
と書面をやった。
鍾会姜維は、魏の大将達に連判状を強制して宮中に閉じこめ、自分達に従わない者は殺して穴に埋めようとした。しかし、これを衛瓘達に知られて彼らの軍に攻め込まれた。
鍾会姜維とともに迎え討とうとしたが、姜維は胸の痛みにその場に昏倒してしまった。鍾会は剣を振るうが押し寄せた兵士に首を斬られた。姜維も、
「わが計略、破れたり。これも天命か。」
と言って自ら首を斬って果てた。59歳であった。
姜維鍾会が死ぬと兵士達は鄧艾を奪い返しに行った。しかし、衛瓘は、
「鄧艾はわしが捕らえたのじゃ。彼を生かしておけばわしが殺されてしまう。」
と言って、後を追って鄧艾、鄧忠を斬り殺した。
張翼達も戦乱の中で死に、魏軍の賈充が一足早く着いて高札を出して安堵させた。かくして衛瓘を成都において後主を洛陽に移したが、従う者は、樊建、張松張繍、郤正ら数人であった。リョウカ、董厥達は病と偽って引きこもり、のちに心痛で死んだ。
呉の丁奉は、蜀の加勢に向かっていたが、蜀が滅んだと知って兵を退いて、呉主に、
「魏が次に呉を攻めるのは遠くありませぬ。くれぐれも用心されますよう。」
と進言した。
洛陽で後主は安楽公に封ぜられ、住居と俸給が与えられた。
翌日、劉禅司馬昭の館に参って礼を述べた。司馬昭は宴席を設けて彼をもてなした。その席で蜀の旧臣は涙を流しながら曲を聴いているのに、劉禅は一人楽しそうであった。
司馬昭が、
「蜀が懐かしいでしょう。」
と問うて、劉禅は、
「ここは楽しいので、蜀のことは思い致さぬ。」
と平然と答えた。劉禅が席を立ったとき、郤正が、
「泣きながら、祖先の墓があるので思い出されてなりませぬ。とこたえるのです。そうすれば蜀に戻れるやもしれませぬ。」
と口添えした。
酔いが回ってきた頃、司馬昭がまた、
「蜀が懐かしいでしょう。」
と問うて、劉禅は、
「祖先の墓があるので思い出されてなりませぬ。」
と言ったが、涙がでなかったので目を閉じて下を向いていた。司馬昭が、
「郤正の言葉にそっくりですな。」
と言うと、劉禅は、
「はい、さようでござる。」
と答えたので、皆は吹き出した。そして、劉禅への警戒心は完全に解けた。
さて、蜀を平定した功績を称えて司馬昭は晋王に封じられた。司馬昭は長子司馬炎を世継ぎとした。そして、王宮に戻って食事をとろうとしたところ、口がきけなくなった。翌日、司馬炎を指さして死んだ。この日直ちに司馬炎が王位に即き、司馬昭を文王とおくりなした。
翌日、司馬炎は、賈充に曹操一族の罪を示され、帝位に即くように進言された。司馬炎は、後宮に踏み行って魏主に譲位を迫り、魏主は泣く泣く彼に帝位を譲った。そして魏主曹奐は陳留王に封じられた。
司馬炎は国号を大晋と改め、泰始元年と改元した。
かくして晋国の基盤も定まり、連日呉討伐の策を練った。

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今日は春の社日!産土神と氏神の違いをご存知?

今日(3月17日)は春の社日!古来から産土神様に参拝し、五穀の種を供えて豊作を祈願する日、といわれています。
今日は春の社日!産土神と氏神の違いをご存知?
そもそも社日とは雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社、秋のものを秋社ともいいますが、社日は古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味するのです。
※)雑節とは二十四節気五節句などの暦日以外の、季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた暦日で、よく知っているところだと、節分や彼岸、土用、八十八夜、二百十日などがあります。

ちなみに、春分または秋分に最も近い戊の日が社日となるのですが、戊と戊のちょうど中間に春分日・秋分日が来る場合(つまり春分日・秋分日が癸の日となる場合)は、春分秋分の瞬間が午前中ならば前の戊の日、午後ならば後の戊の日とするようです。

古来から社日は、産土神様に参拝し、春には五穀の種を供えて豊作を祈願、秋にはその年の収獲に感謝する日。
あっ、世間一般では産土神氏神が混同され同じ意味で使われる場合が多いのですが、本来産土神様と氏神様はそれぞれ異なる神として立て分けるべきなんです。

産土神(うぶすながみ)様とは、土(すな)を産み出す神、大地を始め万物を産み出す神様。
 産土神様は土地をお守りになっており、その土地に生育する作物、植物、河川、その他の自然物をはじめ、その土地に住む人間の生活全般に密接に関わる働きをしています。
 神道であるとか、キリスト教であるとかに関わりなく、土地およびその土地に住む人々の守護神という捉え方が正しいでしょう。

氏神(うじがみ)様とは、氏一族があって、その一族を守護する神様。
 要は、それぞれの家の「姓」の流れ「精」の流れを守護する神様です。
 氏一族の守護神という捉え方が正しいでしょう。

最近は、産土の神様を氏神様とお呼びすることがあるのですが、これは厳密には誤りで、
・あなたの家にはあなたの氏の氏神様がおり、隣の家には隣の氏の氏神様がいる。
・あなたの住む土地には守護神としての産土神様がいる。
といった理解が正しいのです。

なお、春の社日は治聾酒といって、この日にお酒を呑むと耳が良くなるという風習があるそうです。
うーん、ほんとかなあ、んではちょっと試してみなければ。。。(と、お酒を飲む悪しき口実がまたひとつ増えました)

どうぞ善い春の社日をお過ごしください。

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春の彼岸!暑さ寒さも彼岸まで!

今日(3月17日)は春の彼岸入り!
春の彼岸!暑さ寒さも彼岸まで!
日本では、春分の日秋分の日を中日とする7日間は「お彼岸」と呼ばれていますね。

太陽が真東から上がって、真西に沈み昼と夜の長さが同じになる春分の日秋分の日を挟んだ前後3日の計7日間を「彼岸」と呼び、この期間に仏様の供養をする事で極楽浄土へ行くことが出来ると考えられていたのです。
「彼岸」はサンスクリット語の「波羅密多」から来たものといわれ、煩悩と迷いの世界である此岸にある者が、「六波羅蜜」の修行をする事で「悟りの世界」すなわち「彼岸」の境地へ到達することが出来るというもの。
仏教では西は西方浄土と呼ばれ、仏様の住む極楽浄土の方向だとされています。
そして、その方向に向かって念仏すれば必ず往生されると考えられてきたことから、春分秋分が仏事と関係付けられてきたといわれているのです。

ところでお彼岸のお供えものの定番といえば、「ぼたもち」や「おはぎ」。
どちらも、もち米とうるち米を混ぜて炊き、適度につぶして丸めたものを小豆あんで包んだ和菓子ですが、春は春に咲く牡丹にちなんで「牡丹餅」といい、秋は秋に咲く萩にちなんで「御萩」というようになりました。
※)小豆は秋に収穫されるので、春はかたくなった皮を取ったこしあん、秋は皮ごと使った粒あんを使っていたため、本来「牡丹餅」はこしあん、「御萩」は粒あんを使って作ります。

暑さ寒さも彼岸まで!
いよいよ春本番ですね!

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【平家物語】 巻第一 一六(一六)内裏炎上

夕方になって、蔵人左少弁・藤原兼光に命じ、殿上でにわかに公卿の衆議があった `去る保安四年七月の神輿入洛のときは、天台座主に命じて赤山神社へ入れ奉った `また保延四年四月の神輿入洛のときは、祇園感神院の別当に命じて祇園の社へ入れ奉った `今回は保延の例にならおうということになり、祇園別当権大僧都・澄憲に命じて、燈火の時刻になってから祇園の社へ入れ奉った `神輿に刺さった矢を神官に命じて抜かせた 延暦寺の大衆が日吉の神輿を陣頭へ振り奉り、乱入したことは、永久から治承までに六度ある `それを毎度武士に命じて防いでこられたが、神輿を射たのはこれが初めてであった `霊神が怒れば災害が巷に満ちるという `恐ろしや恐ろしや `と口々に言い合った
同・四月十四日の夜半頃、延暦寺の大衆がまた都へなだれ込んでくるらしいと噂になると、高倉天皇は夜中に手輿に乗られて後白河法皇の御所へお移りになった `建礼門院や宮々は御車に乗られて別の場所へ移られた `重盛殿は直衣姿に矢を背負ってお供をされた `嫡子・権亮少将維盛は束帯に平胡籙を背負って行かれた `師通殿をはじめ太政大臣以下の公卿や殿上人も、我も我もとお供をされた `京中の人々は身分の上下を問わず騒ぎ立てた
しかし、延暦寺では `神輿に矢を射立てられ、神官や宮仕が射殺され、大勢の衆徒が怪我をしているのだから、守護神の大宮・二宮以下、講堂、中堂、そのほか諸堂ひとつ残らず焼き払って山野に紛れよう `と、三千人が一同に決議した `そうなれば大衆の意見を法皇がお取り上げになるだろうと噂になったので、延暦寺の高僧たちが大衆に子細を説明しに比叡山へ登ったと聞き、大衆は西坂本に下ってそれをすべて追い返してしまった
当時まだ左右衛門督でいらした平大納言時忠卿が政務長官となった `比叡山では大講堂の庭に三塔の大衆が集まって時忠卿を捕らえて引っ張り `その冠を打ち落し、ぐるぐる巻きにして湖に沈めてしまえ `などと言い合った
もはやこれまでというときに、時忠卿は大衆の中に使者を送り `しばしお静かに `衆徒の方々にお話があります `と懐中より小硯と畳紙を取り出し、一筆したためて大衆の中へ送られた `開いて見ると `大衆が乱暴狼藉をするのは悪魔の仕業である `帝がそれを制止されるのは仏の加護である `と書かれてあった `これを見て大衆は時忠卿を引っ張るまでもなく、皆 `もっともだ、もっともだ `と納得し、谷に下り、僧坊へと戻っていった `たかだか一紙一句で比叡山三千宗徒の憤りを鎮め、朝廷と延暦寺両方の顔を立て、自らも逃れられたのだから時忠卿はたいした人物である 延暦寺の大衆は押し寄せて乱暴狼藉を働くだけかと思っていたが、道理もわきまえていたのだと、人々は感心し合った
同・四月二十日、花山院権中納言・藤原忠親卿を政務長官として、国司・加賀守師高が職を解かれて尾張国井戸田へ流罪にされた `弟・近藤判官師経を投獄された `また、去る十三日、神輿に矢を射かけた武士六人を投獄された `武士らは皆重盛殿の侍である
同・四月二十八日亥の刻頃、樋口富小路から火が出て、京は広く延焼した `折から南東の風が激しかったので、大きな車輪のごとき炎が、三町・五町を隔て、北西の方角へ筋交いに飛び移りながら焼き進むさまは、恐ろしいどころではなかった `具平親王の千種殿、北野天神の紅梅殿、橘逸勢の蠅松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条殿、藤原冬嗣大臣の閑院殿、藤原基経公の堀川殿などをはじめ、古今の名所を三十数か所、公卿の屋敷十六か所が焼けた `そのほか殿上人や諸大夫の家々は記すまでもない `果ては大内裏まで迫り、朱雀門をはじめ、応天門、会昌門、大極殿、豊楽院、諸司、八省、朝所は瞬く間に焼け野原となってしまった `家々の日記、代々の文書、七珍万宝はすっかり塵灰となった `その損害額はどれほどになろうか `焼死した人数百人、牛馬の類は数えきれない `ただ事ではない `日吉山王権現のお咎めである `と、比叡山から大きな猿どもが二千三千と下りてきて、手に手に松明を点して京中を焼く光景をある人が夢に見た
大極殿清和天皇の時代・貞観十八年に初めて焼けたので、同・十九年一月三日、陽成天皇の御即位は豊楽院で催された `元慶元年四月九日に大極殿の着工式があり、同・二年十月八日に造営が始まった `後冷泉天皇の時代・天喜五年二月二十六日、再び火災に見舞われた `治歴四年八月十四日、着工式があったが、造営されないうちに後冷泉院が崩御した `後三条天皇の時代・延久四年四月十五日に造営が始まり、文人が詩を奉り、楽人が音楽を奏で、帝をお迎えした `今は末世となり、国力も衰えてしまったので、その後はついに造営されることはなかった

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『三国志演義』第百十八回 祖廟に哭して一王孝に死し、西川に入りて二士功を争う

さて後主は成都にあって、綿竹が破れたことを知り、大いに驚いて慌てふためき百官と評議した。張繍は魏に降ることを勧めて、後主に降伏の文書を起草させた。そこに後主の第5子劉禅が諌めに入ったが、後主は聞き入れず彼を近臣に追い出させた。かくして12月1日に降伏に出ることにした。劉禅は、
「臣は国家が他人の手に落ちるのに忍びなく、妻子を殺した後、一命を絶って祖父にお詫び致す所存。」
と言って自ら首をはねて死んだ。
後主は太子や臣下60余名を従えて、自ら後ろ手に縛り、柩車をそなえて降参した。鄧艾は後主をたすけ起こして、自ら縄を解いて入城した。鄧艾は後主を驃騎将軍として、その他諸官も官に応じて任じた。そして、太常のチョウシュン、張飛の子で別駕の張松に軍民に降伏を伝えさせた。そして、黄皓を国を誤らした事で斬って棄てようとしたが、黄皓は鄧芝の側近に賄を送って死を免れた。
かくして遂に漢は滅んだ。

姜維は降伏の知らせを聞いて呆然と言葉もなかった。姜維は人々の心が漢から離れていないのを見て、張翼、廖化、董厥らを率いて鍾会に降参した。鍾会は、
「今まで何をぐずぐずしておったのか。」
と言うと、姜維が、
「それがしは国家の軍勢を預かる者。今でも早すぎるくらいである。」
と言ったので彼は胸打たれてた。そして、鍾会は彼と兄弟の契りを結んだ。
鄧艾は、姜維鍾会に降った事で手柄が減ってしまうため彼を
恨んで、司馬昭に蜀で兵を休ませるという書面を送った。司馬昭は、彼に謀反の気配があると疑って鍾会に彼を討たせようとした。
鍾会は詔を受けて鄧艾討伐を姜維と計った。そして、鄧艾の上奏文を取り押さえて偽の上奏文を洛陽に出した。
司馬昭は、大いに怒って鄧艾を捕らえるように鍾会に命じ自ら軍をおこした。少帝は司馬昭に、
「鄧艾を捕らえるなら鍾会の軍勢で十分にございます」
と言うと、司馬昭は、
「そなたは自分でもショウ賈逵はいずれ謀反しようと言ったのを忘れたのか。わしが兵を出すのは鍾会のためじゃ。」
「そうとあらば、決して外におもらしにならぬよう。」
司馬昭はうなずいて打ち立った。
長安に司馬昭が来るのを知って、鍾会は慌てて姜維と計った。

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【平家物語】 巻第一 一五(一五)御輿振

さて、延暦寺の大衆は、国司・加賀守師高を流罪に、弟・近藤判官師経を投獄してもらおうとたびたび奏聞したが、お裁きがないので、日吉神社の祭礼を止め、安元三年四月十三日の辰の刻に、十禅師、客人宮、八王子権現の三社の神輿を飾り奉って陣頭へ向かった `下がり松、賀茂川東岸、賀茂の川原、糺、梅忠、柳原、東北院の辺りには、官位のない僧・神官・宮仕・下法師などが無数にいた `神輿は一条を西へ入られると、御神宝は天に輝き、太陽や月が地に落ちたかと思うほどである
このため、源平両家の大将軍に対し `四方の陣頭を警護し、大衆の乱入を防ぐように `と仰せが下った `平家は、小松内大臣左大将重盛公がその勢三千余騎で大宮面の陽明・待賢・郁芳の三つの門を警護された `弟・宗盛、知盛、重衡、伯父・頼盛、教盛、経盛などは西南の陣を固められた 源氏は、大内守護の源三位頼政、渡辺省、子・授を先鋒としてその勢わずか三百余騎が北の門と縫殿の陣を警護された `面積は広く、手勢が少ないので、まばらに見えた
大衆は味方の勢が足りていると見て、北の門と縫殿の陣から神輿を入れ奉ろうとした `頼政卿はしたたかな人物で、急いで馬から下り、兜を脱ぎ、手水とうがいをして、神輿を拝まれた `すると兵たちが真似た `頼政卿は宗徒の中へ使者を送り、あることを伝言した `使者は渡辺長七唱とのことであった `その日唱は、麹塵の直垂に小桜を黄に染めた鎧を着、赤銅作りの太刀を佩き、二十四筋差した白羽の矢を背負い、滋籐の弓を脇に挟み、兜を脱いで高紐に掛け、神輿の御前にかしこまって `しばしお静かに願います `源三位頼政殿より宗徒の方々へ言伝てを申し上げます、このたびの延暦寺の御訴訟が理に適っていることはもちろんです `お裁きが遅れているのは傍目にも苛立たしいものです `神輿を入れ奉ることについて申すまでもありませんが、この頼政は無勢です `こちらから開けてお招きする陣より入られては `延暦寺の大衆は弱みにつけ込んで脂下がっているぞ `などと京童部に言われたら、後々面倒なことにもなりかねません `開けてお招きするのは宣旨を背くも同然です `また防ごうとすれば、長年薬師如来日吉山王権現を信仰する身が、以後長く武の道と別れることにもなりましょう `あれといいこれといい、どちらも面倒が起こるように思います `東の陣頭は重盛殿が大勢で警護されています `その陣から入られるのはいかがでしょう `と申し入れると、唱のその言葉に止められて、神官や宮仕はためらった
若い大衆や荒法師たちには `そんな与太が通るか `それ、この陣から神輿をお入れしよう `と主張する連中も多かったが、老僧の中に比叡山三塔随一の雄弁者と名高い摂津国の竪義及第者・豪雲が進み出て `その言葉、ごもっとも `我々が神輿を担いで訴訟を起こすのなら、大勢の兵を突破してこそ後世の評価にもつながるというものだ `とりわけこの頼政卿は源経基公以来、源氏嫡流の正統で、弓矢ではいまだに不覚をとったという話を聞いたことがない `およそ武芸に限らず、和歌にも優れた男だ `先年、近衛天皇御在位のとき、当座の歌会があって `深山の花 `という題を出された折、皆が詠み悩んでいた中、頼政卿が
`深山の木々は、どれがどの木か見分けがつかないが、桜だけは花でわかった
という見事な歌を読んで、近衛天皇が感心されたほど風雅な男に、こんな時に非情な恥辱を与えられようか `この陣から神輿を担いで引き返そう と衆議すると、数千人の大衆は、先陣から後陣まで `もっともだ、もっともだ `と賛同した
そして神輿を担いで向きを変え、東の陣頭の待賢門から入れ奉ろうとしたところ、たちまち乱闘が起きて、武士たちはさんざんに矢を射かけた `十禅師の神輿にも矢がたくさん突き刺さった `神官や宮仕は射殺され、大衆は大勢怪我をし、わめき叫ぶ声は梵天にまで届き、大地守護の堅牢地神も驚かれたのではないかと思うほどであった `宗徒らは神輿を陣頭に放置したまま、泣く泣く比叡山へと帰っていった

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『三国志演義』第百十七回 トウ士載偸かに陰平を度り、諸葛セン戦って綿竹に死す

さて、輔国大将軍董厥は魏の軍勢が押し寄せたと思って関の前に陣取った。
自ら陣頭に立って軍勢を見ると姜維達の軍であったので喜んで迎え入れた。

さて、鄧艾は息子の鄧忠を先鋒に乾飯や縄を持たせて密かに兵を進めて、摩天嶺を縄を使って越えた。ここには諸葛亮の碑があり、「2人の士が功を争うが、どちらも死ぬだろう」と記されていた。鄧艾は、士が自分と鍾会の名であり、2人の事を指しているとわかり、仰天して慌てて額ずいた。
さて、鄧艾シは陰平を越え、江油城を襲った。江油城を守る馬邈は、姜維が漢中を守っているので安心し、用心していなかったので鄧艾が急襲して来ると慌てて降参した。
諸葛亮の子諸葛瞻は、宦官黄皓が大権を握っていたので病と偽って家に篭もっていたが、これを知ると後主から7万の兵を与えられ長子諸葛亮を先鋒に迎え討った。

鄧艾は馬邈から地勢図を手に入れ、綿竹に行って蜀の軍勢を食い止めるよう鄧忠に言った。
鄧忠が綿竹に行けば、「漢丞相諸葛武侯」と記された旗があり、諸葛亮が車に坐っているので、趙忠は、彼が生きていたと思って慌てて兵を退いた。そこを蜀軍に打ち破られ大敗した。この諸葛亮は木の人形で諸葛尚が率いていた軍勢である。
諸葛瞻は諸葛尚、張苞の子張純達とともに鄧忠の軍を押し返して、呉に加勢を求めた。呉主は丁奉を大将に5万の軍勢を向かわせたが、諸葛瞻は、その間に綿竹城に追い込まれ、
「もはや力尽きた。」
と言って諸葛尚と討って出て乱軍の中に死んだ。
そして、城を守っていた張純達も最後まで戦って討ち死にした。
鄧艾は忠義の父子を厚く葬って成都に繰り出した。

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【平家物語】 巻第一 一四(一四)願立

神輿を客人の宮へ入れ奉る `客人とは白山妙理権現のことである `白山本宮の神輿なので、父子の間柄である `訴訟の成否はさておき、生前父子であった二柱が逢えたのが喜ばしかった `浦島太郎の子がの七世の孫に逢ったときや、胎内にいた羅睺羅が霊鷲山にいる父・釈迦を見たときにも勝るものであった `三千人の大衆が続々と集結し、七社の神官が袖を連ね、次々と誦経・祈念をするさまは口では言い表せないほどであった
さて、延暦寺の大衆は、国司加賀守・藤原師高を流罪に処し、目代・近藤判官師経を投獄するよう朝廷に奏聞したが、お裁きがないので、それなりの地位の公卿や殿上人は `ああ、早くお裁きすべきなのに `昔から延暦寺の訴訟というのは特別で、大蔵卿・藤原為房や太宰権帥・藤原季仲卿はあれほどの朝廷の重臣であったにもかかわらず、延暦寺の訴えによって流罪にされてしまった `ましてや師高など物の数でもないのに、何をやっているのか `と言い合われたが `大臣は俸禄が減るのを危惧して諫言せず、小臣は罪を蒙るのを恐れて口を開かないのが常で、皆口を閉ざしてしまった
賀茂川の水、双六の賽、延暦寺の僧、この三つだけが我が意のままにならない `と白河上皇も仰せられたという `鳥羽上皇の時代も、越前の平泉寺を延暦寺に属させたのは朝廷の帰依が深かったからである `無理をもって道理とする `と仰せられ、院宣を下された `江帥・大江匡房卿が `大衆が神輿を陣頭にして訴訟を起こしたら、帝はどう取り計らわれますか `と奏聞すると `延暦寺の訴訟は放っておくわけにはいかん `と仰せられた
去る嘉保二年三月二日、美濃守・源義綱朝臣は当国に新設された荘園を廃止する際、比叡山に長く住む円応という僧を殺害した `この一件で日吉神社の神官、延暦寺の寺官、総勢三十余人が訴状を捧げて陣頭へ来たのを、後二条関白・藤原師通殿が大和源氏・中務権少輔・源頼春に命じて防がせたとき、頼春の郎等が矢を放った `その場で射殺された者・八人、負傷した者・十余人、神官・寺官はみな四散した `延暦寺の高僧たちが子細を奏聞しに山を下ってくるということだったので、武士・検非違使たちは西坂本に向かい、皆追い返した
`延暦寺では、お裁きがなかなか下りないので、日吉七社の神輿を根本中堂に運び奉り、その御前で大般若経全文を七日間誦し続け、後二条関白・藤原師通殿を呪咀した `最終日の導師は仲胤法印で、当時はまだ仲胤供奉であったが、高座に上り、鐘を打ち鳴らし、表白の詞に曰く `我らが幼いときより育ててくださった神々よ、どうか後二条関白・藤原師通殿に一筋の鏑矢を射当ててください `大八王子権現 `と高らかに祈った `その夜、すぐに不思議なことが起きた `八王子権現の御殿から鏑矢の音がし、宮中を目指して鳴り飛ぶ夢を見た人がいた
その朝、関白師通殿の御所の格子を上げてみると、たった今山から採ってきたかのごとく露に濡れたしきみの枝が一本立っていたのである `その夜から関白師通殿は、山王のお咎めとのことで重い病に罹られ床に臥されたので、母君である師実殿の北の方はひどく嘆かれ、身をやつして賤しい下級女官お真似をし、日吉神社に詣で、七日七晩祈られた `まず表向きの願かけで、芝田楽を百番、祭礼装束で舞う作り物を百番、競べ馬、流鏑馬、相撲を百番、百座の仁王講、百座の薬師講、一尺二寸の薬師を百体、等身大の薬師を一体、釈尊阿弥陀像をそれぞれ作られ、供養された
`また心の中に三つの願いを持っておられた `心に秘めたことなので人は知る由もないのに、不思議だったのは、七日目・満願の夜、八王子権現詣の大勢の中に陸奥国からはるばる上洛してきた童巫女がいたのだが、真夜中、突然意識を失ってしまった `遠くへ担ぎ出して祈ると、ほどなくして蘇生し、すぐに立ち上がって舞を始めた `人々は不思議に思いつつ、これを見ていた `半時ほど舞った後、日吉山王権現が乗り移られ、されたさまざまなお告げは恐ろしいものであった `人間ども、よく聞け `師実殿の北の方が本日七日、我が前に参籠された `かけられた願は三つ `まず一つ目は `このたび関白師通殿の命をお助けください `叶うなら、大宮の下殿にいるさまざまな障碍者に交わって、千日間、朝夕宮仕えをします `とのこと `師実殿の北の方として世間の苦労と無縁で過ごされた方も、子を思う気持ちに駆られ、気持ち悪さも忘れて障碍を持った賤しい者たちに交わり、千日の間、朝夕宮仕えすると仰せられたのは実に本当に哀れに思う `二つ目は `大宮の橋殿から八王子権現の御社まで回廊をお造りします `とのこと `三千人の大衆が雨にも晴れにも社へ参詣するとき気の毒だと思うから、回廊が造られたらどれほど結構なことか `三つ目は `このたび関白師通殿の命をお助けください `叶うなら、八王子権現の御社で法華問答講を毎日休むことなく営ませます `とのことだ `この願かけはいずれも並大抵のことではないが、まあ先の二つはなければなくてもよい `法華問答講はぜひとも催してもらいたい `だが今度の訴訟は、さしたることでもないのにお裁きがなく、神官・宮仕が射殺され、大衆が多く負傷して、泣く泣く訴えてきたのがつらく、それがいつまでも忘れられない さらに、彼らに当たった矢は、実は和光垂迹の御肌に刺さったのだ `嘘かどうかこれを見よ `と肩脱ぎしたところを見ると、左脇腹に大盃の口ほどの穴が開いていた `これがひどくつらいから、どんなに願をかけられてもすべての願いを叶えてやるつもりはない `法華問答講がきちんと催されたら、命を三年延ばしてさしあげよう `それを不満に思われるなら、致し方ない `と告げると、日吉山王権現は童巫女から離脱していった
母君はこの願かけを誰にも語らなかったのに、誰が洩らしたのかとは少しも疑わなかった `心の内のことそのままのお告げがあったので、ますます心に染みて尊く思われ `たとえ一日片時であってもありがたく思っておりすのに、まして三年も命を延ばしてくださると仰せられたこと、本当に感謝しております `と涙をこらえて下山された `その後、紀伊国に師通殿の領地・田中庄というところを八王子権現に寄進された `それゆえ、現在に至るまで八王子権現の御社で法華問答講を毎日欠かすことなく催されているとのことである
そうこうするうち、関白師通殿は病が癒えられ、もとどおりになられた `みんなが喜び合う間に三年は夢のように過ぎ去り、永長二年になった
六月二十一日、関白師通殿は髪の生え際に悪性の腫瘍ができて床に臥され、同・二十七日、御年三十八歳でついに亡くなった `勇猛で、理性が強く、実に立派な人でいらしたが、重態なったので、命を惜しまれたのである `惜しくも四十に届かないうちに師実殿より先に亡くなったのは悲しいことである `必ず父が先立つべきだということではないが、生死の掟に従うのが世の習い、あらゆる徳を備えた釈尊、菩薩修行の十地を究めた菩薩たちですら力の及ばないものである `慈悲に厚い日吉山王権現が、衆生に益をもたらす方便としてなさることだから、お咎めがないとも限らない

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