知命立命 心地よい風景

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『三国志演義』第百十六回 鍾会兵を漢中道に分け、武侯聖を定軍山に顕す

司馬昭は、
「彼に二心があっても、蜀が彼を受け入れるはずがなく、兵も遠征で早く魏に帰りたいと思うであろうから彼に従うはずはない。」
と言った。少帝は恐れ入って平伏した。
鍾会は許褚の子許儀を先鋒にして10万の大軍で蜀に押し寄せた。
鄧艾も詔を受けて羌族と組んで隴西から進み出た。

姜維は魏軍の侵攻を上奏し漢中を守った。後主は黄皓と計ったが、黄皓は、
「これは姜維が功名を上げようとして申してきたもの。それほどお気にかけることはございませぬ。」
と言ったので気にかけなかった。その後も姜維は上奏文を出したが黄皓が隠してしまった。

先鋒の許儀は道を開いて橋を架け、関に押し寄せたが、連弩を浴びせられて退却した。これを聞いた鍾会は自ら討って出たが、連弩を浴びせられて兵を退こうとした。しかし、許儀の作った橋が落ち、蜀軍が押し寄せたので、鍾会は命からがら逃げ戻った。そして、許儀を呼んで橋が落ちて死にそうしなったことをなじって打ち首にした。
そして先鋒をリホにして大軍を率いて押し寄せた。
鍾会は陽安関を守る傅僉に降伏を勧めたが、傅僉は怒って蒋舒に城を守らせて討って出た。しかし、蒋舒が城を開け渡してしまい、傅僉は奮闘して死んだ。
鍾会は定軍山にある諸葛亮の墓におもむいて祭りをした。
その夜、鍾会に一人の男が訪れ、
「今朝は鄭重な挨拶を受けてかたじけない。漢が衰えたのは天命故仕方ないが、蜀の領民は罪もないのに戦いに悩まされて、哀れでございます。そなたが蜀に入ったなら、人民をみだりに殺さぬように心してくれい。」
と言って立ち去った。引き止めようとして、はっと目が覚めるとなんとそれは夢。
諸葛亮の霊と気が付いて感嘆した。
鍾会は「保国安民」と書いた旗を立てて行軍した。
姜維は沓中にあって魏軍が来たと知ると、廖化、張翼達を率いて討って出て、鄧艾と対峙した。しかし、陽安関を鍾会に落とされたという知らせを聞いて陣を払って退いた。そして、廖化、張翼と合流し、張翼から黄皓が軍を出さなかった事を聞いた。姜維は剣閣に兵を退いた。
姜維達が関に近づくと一軍が立ちふさがった。

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【平家物語】 巻第一 一三(一三)鵜川合戦

そもそもこの俊寛僧都というのは京極の源大納言雅俊卿の孫で、法勝寺法印・寛雅の子である `祖父大納言は武家の出ではないが、実に短気な人で、三条坊門京極の屋敷の前をめったに通らせない `普段は中門に佇み、歯を食いしばり、睨んでおられた `そんな恐ろしい人の孫だからか、この俊寛僧都も僧ながら気が荒く傲慢なので、つまらない謀反に加担したに違いない `新大納言成親卿が多田蔵人行綱を呼び `このたびは、そなたに一方の大将を頼みたい `首尾よくやり遂げたら、国でも荘園でも望むままに与えよう `これで弓袋でも作れ `と、白布五十反を贈られた `安元三年三月五日、妙音院・藤原師長殿が太政大臣に就かれると、重盛殿が大納言・源定房卿を追い越し、空席となった内大臣に就かれ、さっそく祝いの饗宴が催された `大臣の大将兼任とはめでたいことである `主賓は大炊御門左大臣藤原経宗公であったという `師長殿の家系においては左大臣が最高の位であるが、父の宇治の悪左府・頼長公が在位の時、保元の乱で殺されたため、はばかられたのである
北面武士というのは昔はなかった `白河上皇の時代に設けられ、衛府の武士たちが大勢伺候した `藤原為俊・藤原盛重は、幼い頃から今犬丸・千年丸という名で仕えており、無双の切れ者であった `鳥羽院の時代も、藤原季教・季頼父子は共に朝廷に召し使われ、普段は帝への取次を行うこともあるとかいう噂であったが、皆身の程を知っていた `ところがこの頃の北面の者どもは思い上がり、公卿や殿上人さえないがしろにし、六位の下北面から昇殿を許される上北面に昇進したり、上北面においては殿上人との交流を許される者も多かった `こんな調子だから、驕慢な心が芽生え、つまらぬ謀反に加担したのであろう
そんな中に、亡き少納言入道・藤原信西のもとに召し使われていた師光・成景という者がいた `師光は阿波の国司の役人、成景は氏素性の賤しい京の者である `足軽か番衆でもあったか、賢かったので院にも召し使われ、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉と、二人一度に靱負尉に昇進した `藤原信西が殺害されたとき、二人共に出家して、左衛門入道・西光、右衛門入道・西敬と名乗り、出家の後も院の御倉預を務めていた
その藤原信西の子に師高という者がいた `これも無双の切れ者で、検非違使五位尉まで昇進し、さらに安元元年十二月二十九日には追儺の後の任官で加賀守を与えられた `国務を執りながら、非法・非礼を行い、神社・仏寺、権力・勢力のある家の所領を没収し、さんざん悪事を働いた `たとえ周の召公の善政には及ばなくても、穏やかな政務を執るべきなのに、このように好き勝手にふるまい、同・二年の夏頃には、国司・藤原師高の弟・近藤判官師経を加賀国の目代に任じた `目代が着任してまもなく、国府の付近にある鵜川という山寺で僧たちがちょうど湯を沸かして浴びていたところ、乱入して追い出すと、自分たちが浴び、下僕たちを下ろして馬を洗わせるなどした `僧たちは怒り `昔からこの場所に国府の者が立ち入ったことはない `先例に従ってただちに横暴をやめよ `と言った `目代はおおいに怒り `これまでの目代は思慮が足りないから軽んじられたのだ `おれはそうはいかんぞ `おとなしく法に従え `と言い終わらないうちに、僧たちはは国府の者を追い出そうとする `国府の者たちが機会を狙って乱入しようと揉み合っているとき、目代・近藤師経が大切にしている馬の脚をへし折った `その後は互いに武器を持って射合い斬り合い、乱闘は数時間に及んだ `夜になると、目代は敵わないと思ったか、退却した `その後、加賀国の役人一千余人を召集し、鵜川に押し寄せて、僧坊を一軒も残さず焼き払った
鵜川というのは白山神社末寺である `このことを訴えようとした老僧たちは次のとおり `智釈、学明、宝台房、正智、学音、土佐阿闍梨が進み出た `白山三社八院の大衆が全員蜂起し、総勢二千余人、同・七月九日の黄昏時に目代・近藤師経の館付近に押し寄せた `今日は日が落ちたので合戦は明日にしようと決め、その日は攻めずに待機した `吹いて露を結ぶ秋風は、鎧の左袖を翻し、雲間を照らす稲妻は甲冑の鋲を輝かす `師経は敵わないと思ったか、夜逃げして京へ上った `翌朝卯の刻に押し寄せ、鬨の声をどっと上げた `城内は物音ひとつしない `人を偵察にやると `皆逃げてしまいました `と言う `大衆は仕方なく退却した `こうなったら延暦寺へ訴えようと、白山中宮の神輿を飾り立てて比叡山へ向かった
八月十二日午の刻には白山の神輿が比叡山東坂本に到着されたと伝わると、猛烈な雷が北国の方から都を目指して鳴り迫り、白雪が大地を埋め、山上・洛中・常緑樹の山の梢まで真っ白になってしまった

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『三国志演義』第百十五回 班師を詔して後主讒を信じ、屯田に託して姜維禍を避く

姜維は準備が整うと後主に北伐の上奏を出した。
張繍が諌めたが、後主が北伐を許したので、彼は病と言って家に引きこもった。

姜維は廖化を守備に置いて夏侯覇に先鋒を命じた。しかし、夏侯覇は鄧艾に攻めるのを読まれて、城内に攻め入った時に司馬望に矢を射かけられて射殺された。
司馬望が討って出たが、そこに姜維が到着し彼を打ち破った。その後、両軍睨み合ったが、張翼が、
「魏の軍勢はここに集まっておりますゆえ、将軍はここで対峙され、それがしが長安までの陣を奪って参ります。」
と進み出たので、姜維は彼に急行するよう命じた。しかし、鄧艾はこれに気付いて張翼を討ちに行き、姜維も鄧艾が陣から消えたと知ると張翼の加勢に向かった。張翼は、鄧艾に襲われたが、姜維が駆けつけて来たので、魏軍は打ち破られた。

ここに後主は宦官黄皓の言葉を信じて、またもや姜維成都に呼び戻した。姜維は怒って黄皓を排除しようと考えたが、後主が彼をかばうのでそのまま引き下がった。
姜維は、漢中で屯田をする事を上奏し兵糧を確保し、兵権を外に置くことにした。

司馬昭は、鄧艾、鍾会に蜀攻めを命じた。鍾会は船を造って呉を攻めるように見せかけて呉を牽制し、蜀攻めの準備を行った。
そして、鍾会が出陣すると、少帝が、
鍾会は大望を抱く者で、彼一人に兵権を委ねるのは危険でございます。」
と、司馬昭に言った。司馬昭は笑って言った。

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【平家物語】 巻第一 一二(一二)鹿谷

この事件により、高倉天皇元服の打合せは延期となり、同・二十五日、院の殿上で御元服の打合せが行われた `基房松殿も現職でおられるはずもなく、同・十二月九日、あらかじめ宣旨を受け、十四日に太政大臣に昇格された `さらに同・十七日、任官のお礼があったが、世間は不愉快そうに見えた
さて、今年も暮れて嘉応三年となった `正月五日、高倉天皇元服され、同・十三日、年賀挨拶の行幸があった `お待ちの後白河法皇と建春門院が対面されたが、初冠のお姿をどれほど愛らしく思われたであろうか `清盛入道の娘・徳子が女御として入内された `御歳、十五歳 `武家ゆえ、後白河法皇の養女となられての輿入れである
安元三年、妙音院の太政大臣藤原師長が内大臣左大将を辞任なさることがあった `徳大寺大納言実定卿が後任に当たられるという話があった `また花山院の中納言・藤原兼雅卿もその職を望まれた `そのほか、故中御門の藤中納言家成卿の三男・新大納言成親卿も切望された `この大納言は後白河法皇に好意を持たれていたので、就任できるよう、さまざまな祈祷を始められた `まず石清水八幡宮に百人の僧をこもらせ、大般若波羅蜜多経全巻を七日間読経させていると、八幡宮末社・高良大明神の前にある橘の木に、男山の方から山鳩が三羽飛んで来て、つつき合って死んでしまった `鳩は八幡大菩薩の第一の使者だ `この石清水八幡宮に、こんな不思議なことは起こったためしがない `と、当時の検校であった匡清法印がこのことを内裏へ奏聞すると `これはただ事ではない、占いをせねば `と、神祗官に占わせた `深く慎むべし `と出た `ただし帝の慎みではなく、臣下の慎しみ `と言った
成親卿はそんなことなど恐れもせず、昼は人目が多いので、夜な夜な歩き、中御門烏丸の屋敷から上賀茂神社へ七夜続けて詣でられた `満願の七日目の夜、屋敷に戻り、苦しさを覚えてまどろみながら見た夢は、上賀茂神社へ毎夜詣でたときと思しくて、御宝殿の戸を押し開き、実に気高い感じの声で、こう歌うのが聞こえてきた
`桜花、賀茂の川風を恨むなよ、時節に散るのは止められなかった
成親卿はなおも恐れず、上賀茂神社の御宝殿の背後にある杉の洞穴に祭壇を建て、一人の聖をこもらせて、荼吉尼天への修法を百日間行わせていると、一天にわかにかき曇り、雷がおびただしく鳴って大杉に落ち、雷火は燃え上り、宮中が炎上するように見えたとき、神官たちが大勢駆けつけて消し止めた `そして、邪法を行っている聖を追い出そうとすると `私はこの社に百日間参籠すると決めた `今日はまだ七十五日だ `絶対に出るものか `と言って動かない `このことを神官が内裏へ奏聞すると `法に則って処置せよ `と宣旨が下りた `すると神官たちは白杖を持って、その聖の首筋をさんざん打ち据え、一条大路より南へ追放した `神は非礼な願いはお受けにならないというが、この大納言も身分不相な大将任官を祈られたためか、こんな不思議なことも起こった
当時の叙位任官というのは、院や内裏の計らいでもなければ摂政・関白の権限でもなく、平家の思うままであったので、後徳大寺実定殿や花山院兼雅殿も大将にはなられず、清盛入道の嫡男・重盛殿が右大将でいらしたが、左大将に昇進し、次男・宗盛殿は中納言でいらしたが、数人の上級貴族を追い越して右大将に加わられたときには、あきれて言葉も出なかった
とりわけ徳大寺殿は筆頭の大納言の上、家柄・武勇・才覚に優れ、嫡男でもあったのに、次男の宗盛卿に先を越されたことが遺恨を残すことになった `きっと出家でもなさるのだろう `などと人々はささやき合われたが、徳大寺殿はしばらく世の中の様子を見ようと、大納言を辞して隠居されたという
新大納言成親卿が `徳大寺が花山院に先を越されたのなら仕方がない `だが、平家の次男・宗盛卿に追い越されたのには腹が立つ `なにがあろうと平家を滅ぼして本望を遂げてやる `と言われたから恐ろしい `父の家親卿は、この歳にはまだ中納言にしかなれなかった `成親卿は末子で、位は正二位、官位は大納言まで昇り、大国をいくつも賜り、子や家臣も朝廷の恩を授かっていた `にもかかわらず、なんの不足があってこのような気持ちになられたのか `ひとえに天魔の所業のように見えた `平治の乱の際にも、越後兼右中将として藤原信頼卿に味方し、本来ならそのとき処刑されるべきところを、重盛殿がいろいろとりなされ、首がつながっておられる `にもかかわらず、その恩を忘れ、陰で軍備を整え、兵を募り、合戦に明け暮れる以外何もないように見えた
東山の鹿が谷というところは、背後は近江国三井寺に続く見事な要害である `法勝寺執行・俊寛僧都の山荘がある `そこにいつも寄り合い、平家滅ぼそうと謀略を巡らしていた `あるとき後白河法皇も御幸した `故少納言入道信西の子息・浄憲法印がお供した `その夜の酒宴の席でこの計画を話し合われていると、法印が `なんということを `人が大勢おります `これが外部に洩れたら天下の一大事になりますぞ `と言うと、新大納言は顔色が変わって、さっと立ったとき、御前にあった瓶子を狩衣の袖に引っかけて倒してしまったのを法皇がご覧になり `どうしたのだ `と仰せられると、大納言は立ち返り `へいじが倒れましてございます `と答えられた `法皇は笑壺に入られ `皆の者、猿楽を舞え `と仰せられると、平判官康頼がさっと参り `ああ、あまりにへいじが多くて、酔っぱらってしまいました `と言った `俊寛僧都は `さて、それではどうしたらよいものか `と言うと、西光法師が `首を取るのが一番 `と、瓶子の首をもぎ取って奥に入った `浄憲法印はあまりの狂態に何も言わない `まったく恐ろしい出来事であった
このときの顔ぶれは次のとおり `近江中将入道・蓮浄、俗名・源成正、法勝寺執行・俊寛僧都、山城守・中原基兼、式部大夫・藤原章綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、武士は多田蔵人行綱をはじめ多くの北面武士たちが加担した

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『三国志演義』第百十四回 曹髦車を駆って南闕に死し、姜維糧を棄てて魏兵に勝つ

姜維は廖化、張翼に後詰めを命じて追い討ちに備えた。鄧艾はこれを見て、
諸葛亮の兵法そのままじゃ。」
と嘆息して兵を退いた。
姜維は後主に謁見し、鄧艾の離間の計であることを告げると、後主は黙り込んでしまった。そしてようやく、
「朕もそなたを疑ったことはない。ひとまず漢中に戻り魏に異変が起こるのを待って攻めるがよい。」
と言った。姜維は嘆息して漢中に去った。

この機に司馬昭は自ら蜀攻めをしようとしたが、賈充に、
「天子は殿を疑っております。今軽はずみに動けば朝廷に異変が起きましょう。」
と諌められた。司馬昭は大いに怒って魏主に参内し、群臣一同がそれを迎えて、
「大将軍ほどの大功と徳功なれば、晋公に昇られて九錫を賜ってしかるべきと存じます。」
と上奏した。魏主は異存はないと言って後宮に戻り、王経達に計った。そして彼らが諌めるのも聞かずに司馬昭を討とうと兵を挙げた。しかし、賈充が率いてきた星彩に魏主は討たれ、遅れて駆けつけた王経も捕らえられた。
司馬昭は参内して曹髦の屍を見ると、わざと驚いて泣き、全ての罪を星彩に着せて彼の一族までも皆殺しにし、王経の一族も処刑した。
司馬昭は、賈充に王位に即くよう勧められたが、曹昂を帝に即けた。曹昂は曹奐と改名し司馬昭を丞相、晋公に封じた。

姜維はこれを知って呉と兵をおこそうとした。鄧艾の配下、参軍の王観が
「それがしは司馬昭に殺された王経の甥でございます。この度、将軍が征伐の軍をおこされたとお聞きして、5千の軍勢を率いて参じました。お指図に従って奸族を討ち滅ぼし、叔父の恨みを晴らしたく存じます。」
と偽って投降した。姜維は偽りの投降を見抜いて彼に兵糧輸送を任せた。そして王観が鄧艾に送った密書を書き替えて、王観が兵糧を引き入れた事を伝え、5日早く蜀陣を襲わせた。そして魏軍が押し寄せたところを傅僉に襲わせて大勝し、王観の持っている兵糧を奪い返しに向かった。
王観は姜維が来ると知ると、漢中に攻め入った。姜維は、王観が魏に帰るものと思っていたので、慌てて鄧艾を攻めるのをやめて漢中を守りに行った。王観は四方を囲まれ行き場を失い、黒竜江に身を投げて死んだ。
姜維は再び返して出陣せんとした。

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【平家物語】 巻第一 一一(一一)殿下乗合

さて、嘉応元年七月十六日、後白河上皇が出家された `出家の後もすべての政務を執られたので、院と帝の別もなかった `院側近の公卿や殿上人、上下の北面武士に至るまで、官位や俸禄は皆身に余るほどであった `それでも人の心の常で、なお飽き足らず `あの人が死んだら、あそこの国守が空くぞ `あの人の滅んだら、あの役職に就けるだろう `などと親しい者同士が集まってささやき合った `後白河法皇も内々 `昔から代々の朝敵を平定する者は多かったが、これほどのことはなかった `平貞盛藤原秀郷平将門を討ち、源頼義安倍貞任・宗任を滅ぼし、源義家が藤原武衡・家衡を攻め、勧賞が行われたときでさえ受領がせいぜいだった `清盛がこれほど勝手気ままにふるまうとはけしからん `これも末世になって王法が失われたせいだ `と仰せられが、機会がなく、懲戒もなかった
平家もまた別に朝廷をお恨みすることもなかったのだが、世が乱れはじめる原因が起きたのは去る嘉応二年十月十六日、重盛殿の次男で当時十三歳の越前守・新三位中将資盛が、はだれ雪の降る枯野の風景が実に美しかったので、若い侍を三十騎ほど連れて蓮台野や紫野、右近馬場に出て、鷹を何羽も腕に止まらせ、うずらやひばりを追い立てて一日中狩りを楽しみ、黄昏頃に六波羅へ帰ったときのことであった
当時の摂政・松殿・藤原基房が中御門東洞院の屋敷から内裏へ参上した `郁芳門から入ろうと東洞院を南へ、大炊御門を西へ出られた `そのとき資盛朝臣が大炊御門猪熊で基房松殿のお出ましとばったり行き合った `お供の人々が `何者だ、無礼だぞ `お出ましだ、すぐ乗り物から下りよ `と促したが、世間をなめてのぼせあがっている上に、連れていた侍たちは皆二十歳に満たない若造ばかりであった `礼儀作法をわきまえた者は一人もいない `殿下のお出ましなど物ともせず、下馬の礼儀をも無視し、駆け破って通ろうとしたので、辺りが暗いこともあり、清盛入道の孫とも知らず、また薄々知りながら知らぬふりをして、資盛朝臣を始め侍どもを皆馬から引きずり落とした `さんざん屈辱を与えた
資盛朝臣はほうほうの体で六波羅へ帰り、祖父の清盛入道にこのことを訴えられると、清盛入道はたいへん怒り `たとえ摂政だろうとわしの周囲の者には配慮するべきが、幼い者を辱めるとは憎らしい `こういうところから人に侮られることになるのだ `きっちりと思い知らせなければ、腹の虫が治まらん `なんとしても基房への恨みを晴らしたいと思うがどうだ `と言われると、重盛卿は `これしきのこと、少しも腹立たしくありません `多田頼政、光基などという源氏どもに侮辱を受けたのならば、それは一門の恥辱でもありましょう `我が子でありながら、基房松殿のお出ましに会っても乗物から下りない方がよほど不作法です `と言うと、当事者たちを呼び `おまえたち、覚えておくがいい `これから基房松殿にお会いして、無礼をお詫びする `と言って帰した
その後、清盛入道は重盛殿にはなんの相談もせず、入道殿の仰せより他には恐れを知らぬ難波・妹尾をはじめとした片田舎の荒武者たちを六十人ほど呼び集め `来たる二十一日、高倉天皇の御元服の打合せのために基房松殿がお出ましになる `どこかで待ち受け、前駆や随身どもの髻を切り捨てて資盛の屈辱を晴らせ `と命じられた `武者たちはかしこまり承って座を退いた
基房松殿はこれを夢にもご存じない `来年行われる高倉天皇の御元服・加冠・拝官の打合せのため、内裏の宿所にしばらく過ごす予定で、普段のお出ましよりも身なりを整え、今回は待賢門から入るべく中御門を西へ向かわれた `猪熊小路・堀川の辺りで甲冑に身を固めた六波羅の兵三百騎ほどが待ち受けており、基房松殿を包囲すると、前後から鬨の声をどっと上げた `めでたい日と着飾っていた前駆や随身たちを、あちらに追いかけこちらに追い詰め、馬から引きずり下ろし、さんざんに暴行を加え踏みにじり、一人一人の髻を切り捨てた `随身十人にいた右近衛府の府生武基の髻も切られてしまった `そんな中、藤蔵人大夫隆教の髻を切るときには `これをおまえの髻と思うなよ `主の髻と思え `と言い含めて切った その後、基房松殿の車内へも矢筈を突き入れたり、簾をむしり取り、牽牛の鞦や胸懸の緒を切り捨てるなど、さんざん狼藉を働いて勝ち鬨を上げると六波羅に引き上げて行った `清盛入道は `でかした `と言われた
車添いの者の中にいた因幡の催使・鳥羽国久丸という男は、身分は低かったが、賢く、うまく車を操って中御門の御所に還御させた `束帯の袖で涙をこらえつつ語る還御の儀式はまったくひどいものであった `藤原鎌足公、不比等公はもとより、良房公、基経公以来、摂政・関白がこんな目に遭われるなど前代未聞である `これこそが平家の悪行の始まりであった
重盛殿はたいへん驚き騒いで、そのとき狼藉を働いた侍どもを集めて全員追放された `たとえ父上がいかにおかしな指示をされようと、どうして夢にすら私に一言も伝えなかったのか `だいたい、けしからんのは資盛だ `旃檀は双葉より芳し `と言うではないか `十二・三歳にもなる者は、礼義をわきまえたふるまいをすべきなのに、こんなたわけた真似をして父上の悪名を立てるとは、不孝者め `責任はおまえ一人にある `と、しばらく伊勢国に追放された `それゆえこの重盛殿を、君主も家臣も感心されたという

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『三国志演義』第百十三回 丁奉計を定めて孫チンを斬り、姜維陣を闘わせてトウ艾を破る

姜維は援軍到着を恐れて、歩兵を退かせて騎馬に後詰めをさせた。
鄧艾は笑って
「追撃すれば彼の計に落ちる。」
と言って追うのを止めた。

ここに呉主は孫綝の横暴に対して兵をおこそうとし、密詔を黄門侍郎全紀に与えた。しかし、全紀が妻に話すと、全紀の妻は孫綝に密告したので事が露見し、孫亮は呉主から下ろされ、先帝に免じて会稽王にされた。
孫綝は孫権の6男、甄姫ュウを呉主にし、永安元年と改元した。
孫綝は丞相に封ぜられ、彼の横暴はますますひどくなった。孫綝は呉主に酒を奉って聖寿を祝おうとしたが、呉主は受け取らなかった。孫綝は怒って、兵をおこそうとしたが、呉主が丁奉と計って、孫綝を誘い出して斬り捨てた。そして、孫綝に殺された諸葛恪達の墓を作って忠義をたたえた。
そして、司馬昭が魏を乗っ取ったら呉、蜀に攻め入るであろうから用心するように使者を出した。

姜維はこの知らせを聞いて北伐の上奏をして20万の兵をおこした。姜維は鄧艾と陣比べをし、鄧艾を打ち破ったが、そこに司馬望が斬り込んできて鄧艾を救った。
翌日、鄧艾は司馬望に姜維と陣比べをさせ、その隙に背後から襲いかかろうとしたが、これを読まれて大敗した。
司馬望の進言で、後主と姜維の仲を裂くために、後主の寵愛している宦官黄皓を抱き込んだ。そして、黄皓姜維が降参するという流言を流させた。
姜維は連日戦いを挑んでいたが、後主の帰朝の命に何事か分からぬまま、兵を退いた。そこを鄧艾は追い討ちをかけた。

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【平家物語】 巻第一 一〇(一〇)妓王

清盛入道は天下を掌中に収めたので、人々の非難もはばからず、人のあざけりさえ顧みず、理解できないふるまいばかりしていた `例えば、当時、都で評判の白拍子に妓王と妓女という姉妹がいた `刀自という白拍子の娘たちである `清盛入道は姉の妓王だけを寵愛した `そのため、世の人々は妹の妓女までもたいへんもてはやした `母の刀自にもよい屋敷を建て与え、毎月百石・百貫を渡していたので、一家は裕福になり実に幸せだった
我が国における白拍子の始まりは、昔、鳥羽上皇の時代に島の千歳・和歌の前という女二人が舞ったことからである `初めは、水干に立烏帽子、白鞘巻を差して舞ったので、男舞と呼ばれていた `それがやや昔から烏帽子と刀を外し、水干だけを着るようになった `そこから白拍子と名がついた
京中の白拍子たちは、妓王が幸せぶりを聞き、羨む者もあり、妬む者もあった `羨む者は `妓王御前はなんと幸せなんでしょう `同じ遊女となるなら、誰も皆ああなりたいと思うでしょう `きっとこれは妓という文字を名につけているから、あれだけ幸せになったのかもしれない `私たちもつけてみよう `と、ある者は妓一と名づけ、妓二と名づけ、祗福・祗徳という名も現れた `妬む者は `名前や文字なんか関係ない `幸せは前世の因果によるもの `と、名づけない者も多かった
そして三年ほど過ぎた頃、都にまた白拍子の上手が一人現れた `加賀国の者であった `名を仏といった `年は十六であるという `昔から白拍子は数多いたが、こんな舞は見たことがない `と、京中の人々にはたいへんな評判だった
あるとき仏御前は `私は世間では評判になったけれど、今あれほど栄華を極めておられる清盛公の西八条殿へ召されないのが口惜しい `遊女だもの、何の差し支えもないでしょう `こちらから出向いてみよう `と、あるとき西八条殿に参上した
取次が `今都で評判の仏御前が参っております `と伝えると、清盛入道は `遊女などというのは人に呼び出されてから来るものだ `押しかけてくる者があるか `しかも、神だか仏だか知らんが、ここには祇王がいるのだ、会う必要はない `今すぐつまみ出せ `と言われた
仏御前はつれなく言われて立ち去ろうとしたとき、祇王が清盛入道に `遊女が押しかけるのはよくあることでございます `その上、年もまだ幼いようですし、たまたま思い立って参上したのを、つれない仰せでお返しになるのはかわいそうでございます `どれほど恥ずかしく、きまり悪かったことでしょう `私もその道で生きてきましたので、他人事とも思えません `たとえ舞や歌を鑑賞なさらずとも、せめてご対面だけでもされてはいかがでしょう `ここはどうか、呼び戻され、ご対面なさってお返しになったら、深いお情けとなるのではないでしょうか `と言うので、清盛入道は `どれどれ、そなたがそこまで言うのなら、会うだけ会ってから返すことにしよう `と、使いを遣って呼び戻された
仏御前はすげなく言われ、車に乗って出ようとしたところを呼び戻されて参上した `入道はすぐに対面され `今日は会うつもりはなかったのに、妓王が何を思ったか、あまりに勧めるので会ってはやった `会ったからには声を聞かせてもらおうか `まず今様をひとつ歌ってみよ `と言われると、仏御前は `かしこまりました `と、今様をひとつ歌った
`君に初めてお目にかかり、私は千年も長生きするでしょう
`御前の池の亀の形の中島に、鶴が群れ居て遊んでいるようです
と繰り返し三度歌った `見ていた人々は皆その素晴らしさに驚いた `清盛入道も感動されたようで `そなたは今様は上手であるな `その様子ならさぞ舞も巧いだろう `一番見たい `鼓打ちを呼べ `と呼ばれた `鼓を打たせ、一番舞った
仏御前は、髪姿はもとより、容貌も美しく、声良く節回しも巧く、舞い損ねるなどありもしない `実に見事な舞を披露すると、清盛入道は舞に感動し、仏に心を移してしまわれた `仏御前が `どういうことでしょう `もとより私は押しかけてきた者で、追い出しなされたのを、妓王御前のとりなしによって召し返されたのでございましょう `このように召し置かれては、妓王御前はどうお思いになるか、私としても恥がましく思います 早くお暇をくださり、出してください `と言うと、清盛入道は `冗談も休み休み言え `妓王がいるとはばられるのか `では妓王に暇をやる `と言われたので、仏御前は `どうしてそうなるのでしょうか `一緒に召し置かれるだけでも心苦しいことなのに、妓王御前を追放され、私ひとり召し置かれてはつらすぎます `もし後々まで覚えていてくださるなら、お呼びいただければ参ります、今日はお暇をください `と言った `清盛入道は そうはいかん `妓王に暇をやる `と言い `とっとと失せよ `と、重ねて三度も使者を遣った
妓王は日頃からこんな日が来るのを覚悟してはいたが、さすがに昨日今日とは思わなかった `出て行けとしつこく催促されるので、部屋を掃除させ、見苦しいものなどを片づけて、出て行くことになった `一本の樹の陰に宿り合い、同じ流れの水をすくっただけでも別れは悲しいものである ましてや三年もの間住み馴れたところなので名残も惜しく悲しくて、やり場のない涙がこぼれた `しかしそうしてばかりもいられないので `あきらめよう `と出て行くとき、去った後の忘れ形見とでも思ったか、障子に泣きながら一首の歌を書きつけた
`萌え出るも枯れるも同じ野辺の草、いつかはあきがやってくるもの
車に乗って家に帰ると、部屋の中に倒れ臥し、ただ泣くしかすることがなかった `母や妹がこれを見て `どうしたの `と問いかけても、妓王は返事すらできない `付き添いの女に尋ねて、そんな事情があったのかと知った
さて、毎月送られていた百石百貫も止められ、今度は仏御前の縁者たちが富み栄えた `この話を伝え聞いた京中の人々は `妓王御前が西八条殿から暇を出されたそうだぞ `それなら行って遊ぼうじゃないか `と、手紙を出す人もあれば、使者を送る者もあった `妓王は、いまさら人と会って遊び戯れるつもりなどなく、手紙も読まなかった `まして、使者と会うこともなかった `そんな変化を思うにつけても悲しくて、ただ涙に沈んでいた `そうして年も暮れていった
翌年の春の頃、清盛入道が妓王のもとへ使者を送り `その後どうしている `あまりに仏がつまらなそうだから、参って今様でも歌い、舞でも舞って仏を慰めよ `と言われた `妓王は返事すらできず、涙をこらえて臥していた `入道は重ねて `なぜ妓王は返事をしない `参らぬつもりか `ならばその理由を申せ `わしにも考えがあるぞ `と言われた
母刀自はこれを聞くと悲しくて、どうしてよいかもわからぬまま、泣く泣く諭し `妓王御前よ、このようにお叱りをいただくより、返事をなさい と言うと、妓王は涙をこらえて `参ろうと思っていたら、すぐにでも、参りますと答えましょう `けれども、参るつもりがないので、なんと返事をしてよいかわからないのです `今度呼び出しに応じなければ考えがある `と仰せられたのは、都から追放されるか、さもなければ殺されるか、その二つ以上のことはないでしょう `たとえ都を追放されようとも、嘆く必要はありません `たとえ殺されようとも、惜しむ命ではありません `ひとたび鬱陶しく思われて、再び会う気にもなれません `と、なおも返事をしなかった
母刀自が重ねて諭し `妓王御前、この国に住んでいるからには、どんな理由があろうとも清盛入道殿の仰せに背いてはなりません `男女の縁や宿世というのは今に始まったことではないのです `千年万年と約束しても、すぐに別れる仲もあり `かりそめと思いながら、死ぬまで添い遂げることもあり `世に定めなきものが男女の仲なのです `ましてや、そなたはこの三年間、寵愛を受けてきたのだから、ありがたいお情けなのですよ `今回召されたのに行かないからといって、まさか命まではとらないでしょう `都から追放されるかもしれません `たとえ追放されたとしても、そなたたちは若いから、どんな田舎の岩や木の間でも生きていくのは難しくありません `けれども私はずいぶん年もとっているし、慣れない僻地の暮らしを思い浮かべるだけでも悲しくなります `私の一生を都の中で終えさせてほしい `それこそが現世・来世の親孝行だと思いますよ `と言うと、妓王は気が重かったが、親の言葉に背くまいと、泣く泣くまたつらい道に赴こうとする、その心中は実に痛ましかった `一人で行くのはあまりに切ないからと、妹の妓女を連れ、またほかの白拍子を二人、合わせて四人、一台の車に乗って西八条殿へ参上した `すると、これまで召されていた部屋ではなく、遥か下手に設けられた座敷に控えさせられた `妓王は `なんてことだろう `私が何か過ちを犯したわけでもないのに捨てられて、あまっさえ座敷まで下げられるなんて、ひどい `どうしよう `と思いはするが、その心を悟らせまいと押さえる袖の隙間から涙がこぼれた 仏御前がこれを見て、かわいそうになり `どうしてあんなところにいるのでしょう `いつもお控えになっていた部屋なのですから、ここへお呼びください `でなければ、私に暇をください `出て行ってお会いします `と言ったが、清盛入道は `ならん `と言われたので、どうしようもなかった
清盛入道はまもなく対面し、妓王の心中を察せられることもなく `さて、その後変わりはないか `舞も見たいが、それは後にして、今様をまずひとつ歌え `と言われたので、妓王は `ここに来た以上、清盛入道殿の命令には背くまい `と思い、こぼれる涙をこらえつつ、今様をひとつ歌った
`仏も昔は凡夫であった、我らもいつかは仏になる身
`どちらも仏の性を持つ身なのに、差別されているのが悲しい
と、涙ながらに二度歌うと、その座にたくさん居並んでいた平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍に至るまで、皆感涙にむせんだ `清盛入道も `即興にしてはうまいことを言うものだ `さてと、舞も見たかったが、今日は用ができた `これからは呼ばなくても、いつでも参って今様でも歌い、舞など舞って仏を慰めよ `と言われた `妓王は返事のしようがなく、涙をこらえて出て行った
つらい参上でだったけれど、母には背くまいと我慢して、再びみじめな思いを味わわされたこのやるせなさ `こうしてこの世にいたら、またきっとみじめな思いをする `もう、どこかに身を投げてしまいたい `と言うと、妹の妓女がこれを聞き `お姉さんが死ぬなら、私も死にます `と言った `母・刀自はこれを聞くと悲しくて、涙ながらに `妓王御前、そのようなことがあろうとも知らず、説得して赴かせてしまったことが恨めしい そなたの恨むのも納得します `けれども、そなたが身を投げれば、妓女も共に死ぬと言っています `二人の娘たちに死なれたら、年老い衰えた私は生き長らえてもなんにもならないから、私も一緒に死にましょう `まだ死期も来ないのに、親に身を投げさせたら五逆罪になるでしょうね `この世は仮の世 `いくら恥じたところでなんでもありません `この世での長い闇のような暮らしが心憂いのです `現世ではともかく、後世まで悪道へ赴こうとしているのは悲しいことです `とさめざめと言い聞かせると、妓王は `たしかにそれでは五逆罪は疑いありませんね `一度はつらい恥をかいたことのへ口惜しさから、身を投げると言いました `でも、わかりました、死ぬのはやめます `こうしてつらい世の中に生きていれば、またもつらい思いもするでしょう `だから、もう都から出て行きましょう `と、妓王は二十一歳で尼になり、嵯峨の奥の山里に粗末な柴の庵を結び、念仏を唱えて過ごした
妹の妓女がこれを見て `お姉さんが身を投げたら、共に身を投げようとまで約束しました `まして出家するというのなら、誰にも遅れはとりません `と、十九歳で尼僧となり、姉と共に庵に住み、後世を願う姿は哀れであった
母・刀自はそれを見て `若い娘たちですら出家する世に、年老い衰えた自分ばかり残って年をとってもなんにもならない `と、四十五歳で髪を剃り、二人の娘たちと共にひたすら念仏を唱え、一心に後世を願った
春が過ぎ、夏の盛りとなった `秋の初風が吹いて、七夕の空を眺めつつ、天の川を渡る梶の葉に願いを書く頃だろうか `夕日の影が西の山の端に隠れるのを見ても `日のお入りになるところに西方浄土があるのね `いつか私たちもあそこに生まれて嘆き悲しむことなく過ごすようになるかな `と、このようなことにつけても、昔のつらかったことなどを思いながら、涙ばかりこぼれるのだった
黄昏時も過ぎると、竹の編戸を閉ざし、燈火をかすかに立てて、親子三人が念仏を唱えていると、竹の編戸をとんとんと叩く者がいる `三人は肝を冷やし `ああ、これは意気地のない私たちが念仏を唱えているのを妨害しに魔物がやって来たのかもしれない `昼間ですら人も訪ねてこない山里の粗末な柴の庵なのに、こんな夜更けに誰かが尋ねてくるはずがない `簡単な竹の編戸だから、開けなくても押し破ることなどわけもないはず ならばいっそ、こちらから開けて入れてやりましょう `それでも情け容赦なく命を奪うようなら、いつも頼み奉る弥陀の救済の誓いを強く信じて、南無阿弥陀仏を唱え続けましょう `念仏の声に応えてお迎えくださる菩薩方のご来迎です、導いてくださらないはずがありません `念仏を怠ってはなりませんよ `と互いに心を戒めて、竹の編戸を開けてみると、魔物ではなかった `仏御前がいたのである
妓王は `これはいったい `仏御前が見える、夢を見てるのかしら `と言うと、仏御前は涙をこらえて `いまさら言っても、繰り言になってしまいますが、せずにいたら、薄情者になってしまいますので、初めからお話をさせてください `もとより私は押しかけて行った者で、追い出されたところを、妓王御前のおとりなしによって呼び戻されましたのに、女の不甲斐なさで、我が身を思うに任せず留め置かれたことを、心憂く思っておりました `あなたがお暇を出されたのを見るにつけても、明日は我が身と思い、少しも嬉しいとは思いませんでした `また、障子に `いつかはあきがやってくるもの `と、書き置かれた筆の跡を見て、そのとおりだと思ったのです `その後、あなたがどこへ行かれたのかもわからずにおりましたが、このようにご一緒に出家されたと知り、とても羨ましくて、ずっとお暇を乞うていたのですが、清盛入道殿は一向にお許しくださいません よくよくものを考えてみますと、この世の栄華など夢のまた夢 `繁栄したところでそれがなんだというのでしょう `人の身を受けて生まれることは難しく、仏法の教えを受けることもたやすいことではありません `今度地獄に堕ちたら、長久の時を費やしても浄土にたどり着くことは難しいでしょう `年が若いと安心すべきでもありません `死に老若は関係ありませんから `一呼吸も待ってくれません `陽炎や稲妻よりもはかないものです `ひとときの栄華にふけり、後世などかまわないことが悲しくて、今朝抜け出し、こうしてやって来ました `と、衣を脱ぐのを見れば、尼になっていた `このように出家して参りました、どうかこれまでの罪をお許しください `許すとおっしゃってくださるなら、共に念仏を唱え、一蓮托生となりましょう `それでもなおお許しいただけなければ、ここからさまよい出て、どこかの松の根元か苔の莚にでも倒れ臥し、命ある限り念仏を唱え、往生の願を遂げるつもりです `と、袖を顔に押し当ててさめざめと語ると、妓王は涙をこらえて `そなたがそれほどまでに思われていたとは夢にも思いませんでした `つらい世のさがで、我が身を不運と思うべきなのに、ともすればそなたのことばかり恨めしくて、往生の願を遂げられるとも思えませんでした `現世も後世もなおざりにしてしまった気分でしたが、このように出家されたのを見て、これまでの恨みつらみは少しも残っていません `もう往生は疑いありません `このたび願いを遂げることがなによりも嬉しいのです `私が尼になったことを世にも珍しいことのように人々は言い、私たちもまたそのように思っていましたが、あなたの出家に較べたら、たいしたこともありません `現世を避け、我が身を恨んで出家するのは世の常ですが、あなたは恨みも嘆きも抱いていません `今年まだ十七歳のあなたが、これほどに穢れたこの世を避け、浄土を願おうと深く思われたことこそ本物の求道心です `あなたは私たちを仏道へ導いてくれる嬉しい方です `さあ一緒に往生を願いましょう `と、四人はひとつの庵にこもって、朝夕仏前に花や香を供え、一心に念じ、遅い早いの差はあったが、尼たちはそれぞれ往生の願を遂げたという
それゆえ、後白河法皇が建立された長講堂の過去帳にも `妓王、妓女、仏、刀自たちの尊霊 `と、四人は一か所に記されている `ありがたいことである

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『三国志演義』第百十二回 寿春を救って于詮節に死し、長城を取って伯約兵をミナゴロシとす

諸葛誕は魏軍を退けたが、呉の兵士達は戦うのも忘れて置き去りにされた魏の牛馬に飛びついた。そこを司馬昭の軍勢に襲われたので寿春に逃げ込んだ。全端と子の全禕は孫峻に、
「魏を追い返せねば生きてわしの顔を見れぬと思え。」
と言われ、寿春に向かったが、全禕は魏軍に囲まれ引き返すこともできず降参した。そして、全禕は司馬昭に偏将軍に取り立てられ、恩を感じて全端、全懌を魏に投降させた。
文欽が諸葛誕に、
「兵糧不足故、兵を出して食い延ばしを計ってはいかがでしょう。」
と進言すると、彼は、
「わしを兵から切り放して殺そうというのか。」
と怒って文欽を斬り殺した。これを見た文鴦、文虎兄弟は魏に降った。
司馬昭は全軍で攻め込み、呉の于詮と出会い、降伏を勧めた。
于詮は、
「加勢を命ぜられて、役目も果たせせず降参などできるか。」
と怒って戦った。しかし、人馬とも疲れて乱軍の中で死んだ。
司馬昭は寿春城に入城し、諸葛誕の兵に降伏を迫ったが、誰一人降らず斬られた。

姜維は周りが諌めるのも聞かず、魏の乱に乗じて北伐を開始した。長城の司馬望は討って出たが、破れて城に立てこもった。そこに鄧艾が援軍に駆けつけ救った。姜維は鄧艾と3、40合い打ち合ったが勝負がつかず、兵を退いた。その後鄧艾から挑戦状が送られ、戦いに出ようとするが、鄧艾は出てこず時間が過ぎていった。
そうしているうちに司馬昭が内乱を平定しこちらに向かっているという情報が届いた。姜維は仰天して兵を退こうとした。

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『三国志演義』第百十一回 トウ士載智をもって姜伯約を敗り、諸葛誕義をもって司馬昭を討つ

姜維夏侯覇
「鄧艾は弱年ながら強敵でございます。これまでとは違います。」
と諌められたが、聞かずに自ら先鋒に出て隴西を攻めに行った。しかし、鄧艾の陣を見て、驚いて本陣に戻った。
鄧艾は陳泰とともに陣を布いて待っていたが、蜀軍は仕掛けて来ないので、蜀軍は武城山に進んだと考えて陳泰に隴西を守らせて武城山にまわった。
姜維は武城山に向かったが、既に鄧艾に待ち受けられて大敗した。鄧艾、陳泰に追い討ちをかけられて囲まれ、逃げ場を失った。そこに張嶷が囲みに斬り込んで来たので姜維は囲みをといて逃げることができた。しかし、張嶷は矢を浴びせられて死んだ。姜維諸葛亮の例にならって自ら後将軍に降格して大将軍の職務を遂行した。

さて、魏では司馬昭が魏主に上奏せずに全てを取り仕切っており、賈逵の子で腹心の賈充に地方の長官が自分に従う者か否かを調べさせた。揚州刺史楽綝は彼に従ったが、鎮東大将軍諸葛誕は、大いに怒った。そして、揚州の楽綝のもとに行って、
「父楽進が魏に大恩を受けたことを忘れたか。」
と言って彼を斬り殺した。そして、司馬昭の罪状を上奏し、呉に加勢を求めた。
この時、呉の丞相、孫峻は病死し、従弟の孫綝が代行しており、彼は文欽を案内役にゼンソウの子全懌と全端を主将、于詮を後詰めに7万の兵を出した。
司馬昭は、賈充の進言で魏主自ら謀反鎮圧に出るよう上奏した。魏主は断れるはずもなく26万の兵をおこした。
諸葛誕は呉軍と合流し、文欽と子の文鴦、文虎と一手となって迎え討つ。

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