知命立命 心地よい風景

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『三国志演義』第九十一回 濾水を祀って漢相師を班し、中原を伐たんとして武侯表を上す

さて、丞相は孟獲に狂風のことを聞くと、孟獲荒神の祟りであると答え、49個の人の首を供えれば静まると告げた。
しかし、丞相は、
「もともと死んで亡魂となったのである。この上生きている者を殺すことはできぬ。」
と言って、麦粉をこねて牛馬の肉を包んで「饅頭」と名付けたものを作った。そして、これを供えて祭文を読み上げた。
翌日、風はなく無事成都に帰り着いた。

さて、魏主曹丕は在位7年に及んでおり、夏5月に風邪にかかって病が治らなかった。曹真、司馬懿陳羣を寝所に呼んで子の曹叡に引き合わせて後事を託し、そのままみまかった。40歳、在位7年であった。かくて、曹叡は大魏皇帝になり、曹丕におくりなして文皇帝とした。この事を間者にから知らされた諸葛亮は仰天し、司馬懿の存在を危惧した。そして、馬謖の進言で曹叡司馬懿の仲を裂こうとした。

さて、ある日のこと司馬懿が簒奪を企てているというような知らせを魏王が耳にし、大尉華歆の進言で彼の兵権を削いだ。

この知らせを聞いて諸葛亮は「出師の表」を奉呈し、北伐に乗りだし
た。
そこに、老将趙雲が行軍に加わると申し出てきた。丞相は、「わしが南蛮平定から戻った後、馬超が病で死に、片腕を失った気持ちであった。将軍も既に老いておられもしもの事があっては蜀軍の指揮はくじけましょう。」
と断ったが、止めるのも聞かず行軍に加わろうとした。
そこに、鄧芝が趙雲の補佐に名乗り出た。丞相はいたく喜び、2人を連れて出陣した。

さて、魏では魏王がこの知らせを聞くと仰天して群臣に計った。するとカコウエンの子で夏侯惇の養子、夏侯楙が名乗りを上げた。魏王は彼を都督にして迎え討つように命じた。しかし、王朗は彼が実戦経験がないことを指摘して諌めた。夏侯楙は大喝して王朗を黙らせて迎え討った。

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