知命立命 心地よい風景

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八正道!「苦」を滅するための8種の徳目!

八正道ってご存知ですか?
これは、お釈迦様が「苦」を滅する方法として解き明かした八つの正しい道のことです。
涅槃に至る修行の基本ともされており、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の、8種の徳目から成るものですね。

8種の徳目を簡単にまとめてみましょう。

「正見」
・正しく見る、観察をすることで、何か原因でこういう結果になったのかを見ること。
「正思」
・正しく思うこと(正思惟)で、ものをよく深く考えるということ。
 そのため、財産、名誉など俗世間で重要視されるものや、感覚器官による快楽を求める五欲、人間の俗世間において渇望するもの(正思惟)から離れること。
「正語」
・いい言葉、正しい言葉を使うこと。そのため、嘘を離れ、無駄話を離れ、仲違いさせる言葉を離れ、粗暴な言葉を離れること
「正業」
・正しい行為を為すこと。そのため、殺生を離れ、盗みを離れ、特に社会道徳に反する性的関係を離れること。
「正命」
・出しい生活をすること。そのため、道徳に反する職業や仕事はせず、正当な生業を持って、人として恥ずかしくない生活を規律正しく営むこと。
正精進
・「励む」ということ。
 つまり、すでに起こった不善を断ずる、未来に起こる不善を生こらないようにする、過去に生じた善の増長、いまだ生じていない善を生じさせる、という四つの実践について努力すること。
「正念」
・正しく思い考えること。
 要は、四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいること
「正定」
・精神統一を図るということ。要は正しい集中力(サマーディ)を完成すること。

私達は常に自分が正しい見方や判断をしており、それに従って行動していると考えています。
でも正しい見方って意外と難しく、
・自分の物差しで自分本位となるのではなく、不平・不足・不満などの苦の種をつくらない大きな立場で物事を判断すること
・様々な現象に現れた結果を何を基準としてどう捉えるかに関しては、自分の感情が入り混じらせずに差別的な判断をしないこと
には、結構難しい所作と労力が必要です。
要は、平等で見るだけでなく、差別せずに見るという、両方の観点と捉え方(=中道)が必要となる訳ですね。
でもこれに至るには、まずすべて物事は原因があって結果が生まれているということを理解し、その考えの下に、8種の徳目を修行しなければならないということなのです。

思いや考えを八正道によって規定し、それらをどういった形で行動に移していくのか?
これは、仏教に限らず、私達が日々考え意識していくべきことですね。

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老子より学ぶ!ありのままのあなたへ!

古代中国の春秋時代の思想家である老子(B.C.5世紀頃)の唱えた『道(タオ)』の思想は、戦国時代の荘子の無為の思想と並んで老荘思想と言われます。
老荘思想が最上の物とするのは「道」です。
「道」はこの世界のありとあらゆるものを生み出す根本原理であり、また天よりも上位にある物として使われています。
道教では、世俗的な欲望や物質的な価値を否定的に見て、人為的な計らいについてはただ何もせずに自然のままに生きる『無為自然』を重視します。
老子荘子は、世俗的な問題(地位・財産・権力・名誉・性欲)と関わらず『無為自然』を実践することが、人間の理想的な生き方(倫理)につながると考えました。
この世俗的な欲望(=煩悩)を否定して無為自然を勧める老荘思想は、釈迦の仏教でいう「諸行無常涅槃寂静」にも共通する部分があり、古代中国では「老荘の無為」と「仏教の涅槃」は同一のものと解釈される傾向にありました。
老子』『荘子』『周易』は三玄と呼ばれ、これをもとにした学問は玄学と呼ばれています。
荘子』については、こちらを参照ください。
荘子より学ぶ!何ものにも束縛されない絶対的な自由を求めて!
また『周易』は易経に記された爻辞、卦辞、卦画に基づいた占術ですので、以下を参考にしてみてください。
当たるも八卦、当たらぬも八卦 易経って何?
易経 実際に占う方法です
易経 実際に易を占ってみましょう。
易経 本来の在り方を知ることが大事です。
今回はそのうちの『老子』について、整理してみたいと思います。

老子は周王室の書庫の記録官だったとされますが実際には定かではありません。
東周の衰退を見て立ち去り、関所の役人の尹喜の依頼を受けて『老子(上下巻5000余字)』を書き残したと言われています。
老子』は、上下巻の最初の一字である『道』と『徳』から『老子道徳経』と呼ばれることもあります。

老子』は、人間の心のありようだけでなく、天地自然のなりたちや万物の根源についてなど、いわば自然科学的な視点から言及している点に特徴があり、知識や欲望はできるだけ捨て去り、人と争わず、ありのままに生きよ、という生き方が提唱されています。
老子』に見られるポイントは、時代の流れに取り残され、とまどっている人々に向けて、生きていくための処世術を教えたり、あるいは支配階層に向けて、不安定な時代に国をいかに治めていくかを提示する統治論として書かれている点にあります。
老子』には「頑張らなくていい」「ありのままのあなたでいい」といったメッセージが数多く含まれていますが、これは単なる「癒やしの書」としてだけでなく、乱世をいかに生き抜くかの「権謀術数の書」としての内容になっています。
老子』の思想は、常識に凝り固まった人々の考え方を打破し、煩雑な日常のしがらみから人々の心を解放する役割も持っていますので、これまでとは違った視点からの「もうひとつの価値観、生き方」の書として触れてみてはどうでしょうか。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。
こちらも参考にしてみてください。
 老子のすべて(道・徳)全81章

【道経(上篇)】
【體道1】
道というのは、これまで言われてきた道ではない。名も従来の名ではない。天地の始まりには何も無かった。だから無名である。天地に万物が生まれ、それぞれに名が付けられた。有名である。したがって有名は万物の母である。
故に無は常にその奥深き妙を見せ、有は常に無との境を見せる。此の両者は同じ所から出て名を異にしているだけだ。どちらも玄妙で、玄のまた玄は見通せないほど深遠なものである。

【養身2】
天下の人たちは皆、美が何であるか知っているが、それだけではいけない。美の裏には醜があるのだ。皆は善がどういうものか知っているが、それだけではいけない。裏には不善があるのだ。このように有無はともにあり、長短、高下、音声、前後といった具合に、すべてに相対的なものがある。だから道の教えを体得した聖人は、事を為すに当たって何もせず、何も言わない。道は万物を生むが、それを誇りに言わず、それが育ってもそれを自分のものとしない。それを頼りにすることもなく、成功すれば、いつまでもその場にいない。

【安民3】
賢を尊ばなければ、民の競争はなくなる。財貨を重んじなければ,盗みはなくなる。欲望をかきたてる物をみせなければ、民は心を乱さなくなる。これによって道を体得した聖人の治世は,民の心を単純にし、食料を十分に与え、反逆の意思を弱くし、体を頑強にしてやる。常に民を無知無欲にし、智者には口出しさせない。無為の政策をとれば治まらない事はないのだ。

【無源4】
道は無であり、見ることは出来ないが、その働きは無限である。淵のように深く、まさに万物の宗主である。鋭い切っ先を表すことなく、世の複雑なもつれを解き、光を和らげて塵の中に混じりこんでいる。湛々とした水のような静かな姿だ。道がどこから生まれたのか知らないが,天帝より前からあったようだ。

【虚用5】
天地には仁慈というものはない。万物を祭壇に供える飾り犬と同じに見ている。祭礼が済めば捨てられるのを黙って見みているだけだ。聖人にも仁慈はない。民が飾り犬のように死ぬのを見ているだけだ。天地の間は鍛冶屋のふいごのようなものだ。中は空なのに動くと際限なく風を噴き出す。

【成象6】
神は不滅で、玄牝(女性)と呼ばれる。玄牝の門は天地の根源と呼ばれ,永遠に存在し続け、これをどれだけ使っても疲れをしらず、尽きる事がない。

【韜光7】
天地は長久であるが,長久であるゆえんは、自己のために生きようとしないからで,それで長生きするのだ。  それゆえ聖人も自分のことを度外視して、かえって身の安全を保つのだ。これはまさに無私無欲のためでなかろうか。そして結局は自分の目的を果たすことになるのだ。

【易性8】
最高の善は水のようなものだ。水はよく万物を助けて争わず、みなが嫌がるような低地にとどまる。この点は「道」に近いといえる。住居は低地に設け、心は淵のように深く、人との交流は水のように親しく、言葉は誠実で、政治は筋道を大切に、ものごとの処理は流水のように滑らかに、行動は時にかなう。そして争わず,これだからこそ災難は起きないのだ。

【運夷9】
手にもつ器に水を満たし,零すまいと心配するくらいなら,はじめから満杯にすることはないのだ。刃物は刃を鋭くすれば、刃こぼれがして長持ちしない。金や玉が部屋一杯になれば,どうしてそれを守るのだ。富貴で高慢になれば、自ら災難を招く。成功すれば,速やかに身を引く。これこそが天の定めた道なのだ。

【能爲10】
心と身体が一体となり、道から離れないようにしたいものだ。気を一杯にして無心な幼児のようになりたいものだ。雑念を払い、過ちなしに済ませるようになりたいものだ。民を愛し、国をおさめるに無為の精神でやりたいものだ。  自然が変化する中で、女のような柔軟さを保ちたいものだ。 四方のすべてを知りながら、何も知らないとするようになりたいものだ。  道は万物を生み、これを繁殖させ、成長してもそれを自分のものとせず、万物を動かしながら、それを頼りにせず、頭になって万物を支配することもしない。これこそ玄徳という。

【無用11】
車の輪、三十本のスポークが車軸から出て輪を作る。このスポークの間に空間があってこそ、車輪としての働きが出来る。泥土をこねて器を作り、器の中に空間があってこそ器としての働きをする。戸口や窓をうがって部屋を作り、その中の空間こそが部屋としての働きをなす。

【檢欲12】
色とりどりの美しい色彩は人の目を盲にする。耳に快い音楽は人の耳を聾にする。豪勢な食事は人の味覚を損なう。馬で狩をすることは、その楽しみが人を熱狂させ、珍しい物は人を盗みに走らせる。  そこで聖人は民の腹を満たすことだけを求め、民の目をくらますようなことをしない。

【猒恥13】
人が 寵愛と恥辱に心を騒がせるのは驚くほどだ。また病気、災難が身に降りかかるのを死ぬほどに恐れる。  寵愛と恥辱への関心が驚くほどというのは何ゆえか。寵愛は上で、恥辱は下という意識があり、寵愛を与えられると人は歓喜して喜ぶが、失うと驚愕して恐れののく。後に恥辱が待っているからだ。  身に及ぶ災難を死ぬほどに恐れるのは、どういうことか。私に大病など災難があるのは私に身体があるからだ。もし私に身体がなければ、いかなる災難が降りかかろうと構わない。  故に自分の身を天下より大切にする人には天下を与えるべし。天下より自分の身を愛する人には天下を託してよい。

【賛玄14】
見ようとしても見えない。これを『夷』」と呼ぶ。  聞こうとしても聞こえない、これを『希』と呼ぶ。  触ろうとしても触れない、これを『微』」と呼ぶ。  この三つのものは追求の仕様がない。なぜならそれは全く同じものだからだ。  茫漠としているが、上の方は明るくなく、下の方も暗くはない。ただぼんやりとして形容の仕様がなく、形のない状態に戻っている。この姿なき形を『恍惚』という。迎えてもその前が見えず、従ってもその後ろが見えない。  これが昔から続く『道』の姿で、今の『有』を支配し、これによって万物の始まりを知ることが出来る。これを『道の法則』という。

【顯徳15】
古のよき『士』たる人は神妙にして、すべてのものに奥深く通じ、理解しがたいほど慎重だ。それゆえ、ここはどうしてもその姿を描かねばならない。  彼はことをするに先立って、冬に川を渡るように慎重だ。  周囲を囲む隣国の包囲攻撃を防ぐように、防衛に熟慮を重ねる。  身を引き締め、常に客人のように厳粛で、春に氷が溶けるようにこだわりがない。まだ刻まれていない材木のように純朴で、奥深い山の谷のごとく広大だ。  水は濁って不透明だが、この水を徐々に平静に戻すことが誰に出来るのか。  これを久しく安定に保つためには、水を絶えず動かし、徐々に流さなければならないが、誰がそれを行えるのか。  それが出来るのは『道』をわきまえた人だけである。 『道』をわきまえた人は完全を求めない。それを求めないからこそ古きを守りつつ、新しい成功を得るのだ。

【歸根16】
出来るだけ心を虚にして、静寂を守る。万物は成長しているが、私はその循環を見守っている。万物は成長の過程でさまざまに姿を変えるが、最後にはそれぞれの元の出発点に戻って行く。  出発点に戻るのを『静』といい、また『平常』とも言う。『平常』を認識することを『明晰』と呼ぶ。  『平常』を意識せず、妄動すれば結果は凶と出る。『平常』を意識してこそ、すべてを包容できるのだ。すべてが包容されてこそ公平無私で、公平無私であれば、人は王となり人々は服従する。王は天理にかなう。天理にかなえば、それは『道』にかなったことを意味し、『道』にかなえば永遠で、終生危険に陥らない。

【猒淳17】
もっとも善い支配者は、民はその存在を知るだけである。  次に善い支配者は、民は彼に親しみ、これを賞賛する。   更に次の支配者は、民はこれを恐れる。  最低の支配者は民は彼を軽蔑する。信任するに値しないからだ。  もっともよい支配者は、ゆったりと、ほとんど命令せず、事がうまく行くと、民たちは『これは誰のおかげでもなく、自然にこうなったのだ』という。

【俗薄18】
大いなる『道』が廃れて『仁義』が生まれた。聡明な知恵者が出てはなはだしい虚偽が生まれた。  肉親が和せず、家庭が乱れてはじめて『孝慈』なるものが生まれた。  国家が混乱して、初めて『忠臣』なるものが生まれた。

【還淳19】
学者たちが言う小賢しい『聖智』を捨てれば、民の利益は百倍になる。『仁義』を捨てれば、民は『孝慈』を取り戻し、『巧利』を捨てれば盗賊は姿を消す。  この三条では筆足らずだ。そこで人が従うように補筆しよう。それは『表面は単純、中も素朴で,私心をなくして欲望を抑えることが大切だ』ということである。

【異俗20】
学問を捨てれば、憂いはなくなる。返答の『はい』と『おう』ではどれほどの違いがあると言うのだ。『善』と『悪』ではどれほどの違いがあるというのだ。 人の恐れることを恐れないわけには行かないが、この荒れた状況はいまだに終わっていないのだ。  多くの人は憂いもなく、盛大な宴席でご馳走を食べている、また高楼に登って眺めを楽しんでいるのに、私だけはひっそりと何の兆しもなく、まだ笑うことの出来ない幼児のような惨めな顔で,帰る家もないかのようだ。  他の人は有り余るものを持っているのに、私だけは乏しい。 私は全くの愚か者のようだ。のろまで,他の人は明晰なのに、私は悶々としているだけだ。他の人は広々とした海にように、吹きぬける風のような才能を持っているというのに、私はかたくなで,幼くつたない。  だが,私一人がそうである訳は、私は他の人と違って,母である『道』に抱かれているからだ。

【虚心21】
大いなる『徳』の中身は『道』に一致している。『道』というものは目に見えず、漠然としている。だがその漠然とした中に実体がある。暗く深い、その中に微かな精気がある。この精気は具体性があり、真実がある。 古より今に至るまで,その名は消えず、それにより万物の始めを知ることが出来るのだ。  私がどうして万物の始まりの有様を知るのか、その根拠はここにある。

【益謙22】
木は曲がっていると、材木にならないため伐採されずに完全さが保たれる。 身をかがめていると、かえって真っ直ぐと身を起こすことが出来る。  土地が人の嫌がる低い窪地であれば、かえって水が満ち、物は古ぼけていると,作り直され新しくなることが出来るのだ。 物が少ないと逆に得ることが出来、多いとかえって迷ってしまう。  これをもって,聖人は『道』を天下を占う道具の『式』とする。自分の目で見ないため、逆にはっきりと分かり、自分を正しいとしないために,物の是非がはっきりとする。 自ら誇らない、だから成功する。うぬぼれない、だからこそ導くことが出来る。人と争わない、だからこそ天下に争うものがいないのだ。  『木は曲がっていると、かえって完全さが保たれる』という古言はまさに虚言でない。真にこうして証明できるのだ。

【虚無23】
言を少なくすることは自然なことである。疾風も朝の間にはやみ、にわか雨は一日中、降り続けることはない。誰がそうさせているのか、天と地である。天地の力をもってしても続けられないものをどうして人間に出来ようか。  道を得た人は、他の『道を持つ人』と同じくし、『徳』ある人があれば同じく『徳』を求め、どちらも持たない人があれば、それと同じくする。  『道』を同じくすれば、彼の人も『道の人』を得たいと願う。  『徳』を同じくすれば、彼の人も『徳の人』を求める。  何も持たない人は、同じような仲間を求めようとする。  人と協調して生きるには、自分を空しくしなければならぬ。信頼されなければ、信任されないということはこういうことだ。

【苦恩24】
背伸びしてつま立ちすれば,しっかりと立つことが出来ない。  早く行こうと大股で歩けば、かえって早く行けない。  自分の目だけで見ようとすれば、かえってはっきりと見えない。  自分を正しいと固執すれば、かえって是非が分からない。  自ら誇るものは成功しない。  自惚れるものは導くことができない。  これらのことは「道」の原則を知る人には役立たずの余計なものだ。  余計者は嫌われるが、「道」を得た人は原則を知るから、こうしたことになら ない。

【象元25】
天地に先立つ前から,混然となったものがあった。  音もなく形もないが,どこまでも独立した,誰にも頼らない存在で,とどまることなくぐるぐる巡る。それは天地万物の母とみなして良い。  私はその名前を知らないが、それを『道』と呼び、しいて名をつけて『大』と呼んだ。『大』は成長すれば去っていき、宇宙のはるか遠くに行って再び元に戻ってくる。 『道は大、天は大、地は大、人も大』という。宇宙に四つの『大』があり、人もそのひとつを占める。  『人』は地の法にのり、『地』は天の法にのり、『天』は道の法にのる。『道』はそれ自身、すなわち『自然』の法にのる。

【重徳26】
重いものは軽いものの基礎であり,静かなものが騒がしいものを抑える。 聖人は終日行軍しても、部隊の中央にある糧秣を運ぶ輸送部隊を離れることがない。道中に華やかなものが有っても,目を奪われることがなく,悠然としている。 万を越える兵の部隊を動かす君主であるのに、どうして身を天下より軽んじるのか。(身を軽んじてはいけない)身を軽くすれば本元を失い,騒げば落ち着きを失うのだ。

【巧用27】
行進の進め方がうまいと車のわだちを残さない。  言い方がうまい人は,失言もなく欠点を見せない。  計算がうまい人は、計算棒を使わずに計算できる。  門を閉めることのうまい人は、かんぬきを使わず開けることが出来ないように出来る。  結び方のうまい人は,縄を使っていないのに、ほどけなくする。  聖人は何時もうまく人を使うため、初めから無用の人はいない。  聖人は何時もうまくものを使うため、初めから無用なものはない。  これを内なる聡明さという。  善人は悪人の師であり、悪人もまた善人の反省の手本になる。  自分の師を尊ばず、手本を大切にしなければ、自分は智者と思っていても,本当は愚かなのだ。   こういうことを「奥深き原理」という。

【反朴28】
何が雄々しきか知っていても、柔和な牝の姿勢を守れば、天下の谷(古代の尊敬の対象)として人々の尊敬を得る。  天下の谷となれば、常に「徳」と離れることなく、乳児のような単純さに帰る。  白い輝きを持つことを知っていても、暗い位置に安んじて居れば,天下の『式』(古代の占いの道具)となる。天下の『式』となれば、『常徳』と違うことなく究極の真理に至る。 何が栄誉であるかをわきまえ、甘んじて屈辱の位置に身を置けば、周囲の信望を集める『谷』となる。周囲の信望を集めれば、『常徳』が身について,素朴な材木の状態に帰る。  材木は小さく削られると器になるが、聖人がこの材木を用いると人を統率する官長となる。とかく木を切ったり、削ったりの無理をしないのだ。

【無爲29】
誰かが天下を手に入れ、治めようと画策しても、私はそれが実現するのを見たことがない。天下は治めることが難しいものだ。何とか治めようとしても逆に壊してしまい、何とか掌握しようとしても逆に失ってしまう。  物事は有るものは先に進み、あるものは後ろに付き添い、あるものはそっと吹き、あるものは強く吹く。あるものは少し傷つき,あるものはすっかり壊れるなど,すべてのものは相対的で,片方だけに荷担することは出来ない。だから聖人は極端なもの、贅沢なもの、度を過ぎたものだけを取り入れず捨て去り、後は何もせず自然に任せるのだ。

【儉武30】
『道』を用いて君主を援けようとする人は,武力によって天下に覇を唱えようとしない。武力を用いれば必ず報復を招くからだ。 軍隊が駐留した場所は,撤収した後の田畑に茨が茂り,大きな戦いの後には必ず凶作がやってくる。 勝利すればそれだけで良く、その後は武力による強さを見せ付けないことだ。勝利しても,うぬぼれず、誇ることなく、高慢になってはいけない。武力で勝利すれば,やむを得ずこうなったと考えるべきで、強がってはいけないのだ。 ものごとは盛んになれば、必ず衰退に向かう。これは『道』にかなっていないからだ。『道』にかなっていなければ、必ず速やかに滅亡する。

偃武31】
『軍隊』、この不吉なものは誰もがその存在を憎む。だから『道』を備えた人は,それに近ずかない。 君子は普段のときは『左側』を尊び、武力を用いるときは『右側』を尊ぶ。 『軍隊』という不吉なものは君子が用いるものでなく、やむを得ずそれを用いても,利欲にかられず、あっさりと使うのが一番だ。 たとえ勝利しても、それを良としない。もし良とするならば、それは殺人を楽しんでいることになる。殺人を楽しみにする人は,天下に志を遂げることは出来ない。 吉事には『左側』を尊び、凶事には『右側』を尊ぶが、軍隊では副将が左に座席し、大将は『右側』に座席する。 つまり戦争は常に葬儀の作法によって行われるのだ。戦争では大勢の人が死ぬため、その哀悼の意味で、軍では戦いに勝利しても常に葬儀の作法がとられるのだ。

【聖徳32】
『道』は永遠に『無名』である。手が加えられていない素材のようなものだ。 名もない素材は小さいけれど、誰もそれを支配することは出来ない。  王侯がそれを持ち、守ることができるなら、万物はひとりでに王侯に従うことになるだろう。 天と地は相合し甘露を降らせるが、誰かが甘露に命じて広くまんべんに降らせているのでなく、ひとりでにまんべんに降っているのだ。  管理が始まると名前が出来る。名前が出来ると適当なところでとどめる事を知らねばならぬ。『限度』である。限度を知るならば、危険を免れることが出来るのだ。  『道』は天下に有るすべてのものが行き着く所だ。すべての谷川が大河、海に流れ込むのと同じである。

【辯徳33】
他人を理解できるものを『智』といい、自己を知るものを『明』 という。聡明である。  他人に勝つ者を『力』が有るといい、自己を克服できるものを『強』という。真の強者である。満足を知る者は富み、努力する者を『志』が有るという。よりどころを失わない者が永続し、死んでも『道』の精神を保っている人は滅びず、これを真の長寿者という。

【任成34】
『道』は水が氾濫するように、左右に広がり流れる。万物はこれを頼りに生まれて出てくるが、『道』はこれを拒まず、その功を名乗ろうともしない。 『道』は万物を慈しみ育てながら、それを支配しようともしない。  常に無欲なので、とりあえず『小』と名付くが、万物はすべて『道』に帰服して、しかも『道』は主とならないのだから、これは『大』と名付くべきなのだ。  これゆえ聖人は常に謙虚で『大』として振る舞わない。ゆえに人々は聖人に帰服し、『偉大なる存在』として尊敬するのだ。

【仁徳35】
『道』を守って天下を行けば、どこへ行こうと害はなく、平穏無事である。 宴席の音楽と豪華な料理は旅人の足を止めさせるが、『道』の話はそれを説いても味わいがなく、見えず、聞いても聞こえない。だが用いれば、効用は無限で使い切れないのだ。

【微明36】
ものを縮めたければ、逆にしばらく伸ばしてやる。 弱めたければ、しばらくこれを援けて強くしてやる。 廃止しようと思えば、しばらくこれを放置しておく。 こういうやり方は奥深き叡智という。こうして柔軟なものが剛強なものに勝つのである。 魚は深い淵から出て行けないのと同じく、こうした国の戦略は他国に見せてはいけない。

【爲政37】
『道』はその基本原則の『無為』により何もなさないように見えるが、実はあらゆるものを成し遂げているのである。  王侯がもし『道』による『無為自然』の原則を守っていれば、万物は自から伸び伸びと成長する。  だが成長の途中で、王侯が欲を出し作為的なことをしようとすれば、私は『材木のような素朴な心に帰れ』と諌めるだろう。  王侯が材木のように素朴で、無欲な状態になれば、すべての者が無欲無心になり、そうすれば天下は安定する。

【徳経(下篇)】
【論徳38】
最も高い有徳者は『徳』を行っても、それを『徳』として意識しないため、ここに本当の『徳』がある。低い有徳者は『徳』を意識して、それを見せびらかそうとするので『徳』はない。  高い有徳者は作為的でなく、それを施したという意識がない。低い有徳者は作為的で、しかも『徳』を施したと意識している。  本当に『仁』のある人は、それを行動しても『仁』を為したとは意識しない。  『義』を守る人は、それを行動で表わすが、常に『義にもとずいた行動をとった』と意識している。  『礼』を守る人は、それをはっきりと行動に表わし、相手がその『礼』に応じないと、ひざをつついて返礼を要求する。  これゆえ『道』が失われて『徳』が現れ、『徳』が失われて『仁』が現れ、『仁』が失われて『義』が現れる。こうして『義』が失われた最後に『礼』が現れるのだ。  そもそも『礼』というものは忠信が薄れた結果生まれるものなので、争乱の元になるものだ。  また人より前に知るという前識者の『智』は、偉大なる『道』を飾る造花のようなもので愚の始まりだ。  これをもって男丈夫は、このような『仁』『義』『礼』『智』という薄っぺらなモラルに執着せず、華を捨て実を取るのである。

【法本39】
最初に『道』から生まれた一つの生気のようなものが有った。 『天』はこれを得て清く、『地』はこれを得て安定し、『神』はこれを得て霊妙 になり、『谷』はこれを得て充実し、『万物』はこれを得て生き、『王侯』はこれを得て天下の頭になった。  天が清くなければ、恐らく避けてしまう。  地が安定してなければ、やがて崩れてしまう。  神が霊妙でなければ、恐らく力を失う。  谷が水で満たされなければ、すべてが枯渇してしまう。  万物が生育できなければ、あらゆるものが死滅する。  王侯が最高の地位を保てなければ、国は滅びてしまう。  身分の高い人、地位の高い人、つまり貴族や高官にとって身分の低い、卑しい庶民は彼らの根本であり、高さは低きをもって基礎とする。  これゆえ、王侯は古代から自分の事を『孤』(孤児)、『寡』(独り者)、『不穀』  (不幸)と自虐的に賞したが、これは貴さは卑しさをもって根本となすという考えからではなかろうか。  ゆえに多くの栄誉を求めると、かえって栄誉はなくなる。高貴な美玉になろうとは望まない。つまらない普通の石でよいのだ。

【去用40】
元に戻そうとするのが道の運動法則なのだ.。 柔弱なのは道の作用である。  天下の万物は有より生じ、有は無より生じる。

【同異41】
上士は道を聞けば、勤めてこれを行う。   中士は道を聞けば、半信半疑と成る。  下士が道を聞けば、話は大きいが中身がないと笑う。  だが、彼らに笑われなければ、本当の道でないのだ。  古の人はこう言っている。  『明るい道は暗く見え、前に進んでいる道は後ろに退いているように見える。平らの道は凸凹と険しく見える。  高い徳は俗っぽく見え、輝いている白は汚れて見え、広大な徳は何か欠けているように見え、健全な徳は悪賢く見え、純真な性格は移りやすく見えるものだ。  大きな四角は角がなく、大きく貴重な器物はなかなか完成しない。  とてつもなく大きい音は耳に聞こえず、限りなく大きいものは、その姿が見えない』と。  道は無名であるが、この道だけが万物を援け、よく育成しているのだ。

【道化42】
『道』は統一した『一』を生み出し、これが分裂して『二』が生まれる。対立する『二』は新しい『三』を生み出し、この第三者が万物を生み出す。  万物には『陰』と『陽』の対立する二つの局面があり、『陰』と『陽』はその中に生まれた『気』によって調和されている。  人が嫌う言葉は『孤』(孤児)、『寡』(独り者)、『不穀』(不幸)だが、王侯たちはそれを自称として使っている。  物事は常に、損は益に、あるいは益は損にと絶えず変化しているが、これが変化の法則である。私も人々が教えあっていることを教えよう。 『強固なものはろくな死に方をしない』と。これを教えの始まりとする。

【偏用43】
世の中で最も柔らかいもの(水)が、最も堅いものを制圧している。形の無い物は(岩盤のような)隙間のないもの所にも入っていけるからだ。  私はこれをもって『無為』の益を知る。『不言』の教え、『無為』の益は、天下でこれに及ぶものはない。

【立戒44】
名声と生命とでは、どちらが身近か。 生命と財産では、どちらが重要か。 得ることと、失うことではどちらが有害か。 こうしてみると、自分の体の健康を守ることが最も大切あることが分かる。  名誉や財産への愛着も度が過ぎ、惜しめば逆に多くを費やすことになる。蓄えすぎると帰って大きな損失を受ける。  満足することを知れば、辱めに合わずに済み、適当にとどめる事を知れば、危険に会わずに何時までも安全でいられる。

【洪徳45】
真に完成したものは、何か欠けているように見えるが、その働きは損なわれていない。 真に充実しているものは、中が虚ろのように見えるが、その働きはきわまる事がない。  最も真っ直ぐなものはゆがんで見え、最も器用なものは不器用に見える。最も優れた弁舌は、口下手に見える。 激しい運動をすれば冬の寒さに勝て、安静にしておれば夏の暑さに勝てる。無為で静かであれば、天下の模範になる。

【儉欲46】
天下に『道』が行われれば平和に成り、軍馬は耕作に使われる。 天下に『道』が行われず、戦乱が続けば、身ごもった母馬も狩り出され、国境の戦場で子を産むことになる。 罪は満足を知らない為政者の欲望より大きいものはなく、災は飽く事のない欲望より大きいものはない。 ゆえに、足るを知る事によって永遠に満足するのだ。

【鑒遠47】
聖人は門を出ないで、天下の事を知ることができる。窓の外を見ないで天の動きを知ることができる。 普通には遠くに行けば行くほど、知る事はいいかげんになるものだが、聖人は行かずして知り、見ずして分かり、行わないで成功するのだ。

【忘知48】
学問をすれば、日一日と知識は増える。だが『道』を修めれば、日一日と知識は減っていく。減らしに減らすと『無為』に至る。  『無為』をもって為せないものはない。天下を取るには常に無事が大切で、それを作為的に行えば、とても天下は取れない。

【任徳49】
聖人には固執した考えはない。民の意思をもって自分の意思とする。民が善と認めたものを善とするが、不善なるものも善とする。その人の心がけによって何時でも善が得られるからだ。  民が信じる人を信じるが、信じられないものも信じる。その人は心がけによって今後信を得る事ができるからだ。聖人は天下にあって、注目して見守る民の心を混沌とさせ、無知無欲の乳児のようにしてしまうのだ。

【貴生50】
人は生まれたら必ず死に向かう。長生する人は十分の三あり、早死にする人も十分の三ある。そのままなら生きていたのに、下手に動いて死ぬ人も十分の三ある。これはなぜか、生への執着があまりにも強いからだ。 かつて聞いた。『善く生を全うする人は陸地を歩いても犀や虎に会わず、戦場でも殺される事はない』と。  その人には犀も角を使えず、虎も爪を使えず、敵兵は武器を使えない。これはなぜか、彼が生に執着しないため、死の境地に入る事がないからだ。

【養徳51】
道が万物を生み出し,徳が万物を養育し、万物に形を与える。こうして万物が完成する。それゆえ万物は道を尊び、徳を重視するのだ。  道が尊敬され、徳が重視されるわけは,誰が命令したというより、昔から自然にそうなっているからだ。  こうして道が万物を生み出し、徳が万物を育て、万物を成長させ、万物に実を結ばせて成熟させ、保護するのである。  万物を生み育てながら自分の物とせず、万物を育てながら自分の力のせいだとせず、万物の頭になって彼らを支配したりしない。  これこそがもっとも深遠な『徳』なのである。

【歸元52】
天下の全てのものには皆、始まりがある。この始まりを天下の万物の根本とする。  万物の根本である母(道)を認識したからには、その子(万物)も認識できる。  万物を認識したからには、さらに根本をしっかりと守らなくてはならない。そうすれば終生危険は無い。  道を修めるには、知識や欲望の入る耳、目、鼻、口などの穴を塞ぐ。門を閉ざせば終生病は発生しない。穴を開き、知識、欲望の入るに任せれば、もはや救いようが無い。  小さな兆しを観察できる事を『明』と呼び、それに対応し柔軟さを保持する事を『強』という。  蓄えられている『光』を用いて、真の『明』に復帰すれば、身に災いは発生しない。これを『永遠の道を習熟した』という。

【益證53】
もし私に英知があり、『道』にもとずいた政治を行うとしたら、私は煩わしい政策をやたら施行しない。  大きな道は平らであるが(途中に検問所や通行税の徴収所などがあったりして)、人々は(そうしたものの無い)小道を選ぶ。  宮殿は非常に美しく清められているが、田畑は荒れ放題、民の倉庫は空っぽなのに、王侯、貴族たちは美しい着物を着て、鋭い剣を帯びている。  おいしい食べ物にも飽き、有り余る財産を保有する。まさに『非道』な話ではないか。

【修觀54】
うまく建てられたものは,揺り動かされず、うまく抱えられたものは,抜け落ちない。こうして子孫は安定し、何世代に亘って祭祀し絶える事が無い。 この原則を個人の単位で実践すれば、その徳は真になる。 家の単位で実践すれば、その徳はあまるほどになり、繁栄する。 村の単位で実践すれば,村は長く繁栄する。 国の単位で実践すれば、その国は豊かになる。 天下の単位で実践すれば、平和があまねくゆきわたる。 こうして人は個人の単位で自分を認識し、家の単位で家を認識し、村の単位で地域を認識し、国の単位で国を認識し、天下の単位で天下を認識する事が出来る。  どのようにして天下の状況を知るかは,これによって測るのである。

【玄符55】
『徳』を厚く中に秘めている人は,無知無欲の乳児と同じだ。毒虫も彼を刺さず、猛獣も彼を襲わず、猛禽も彼を攻撃しない。 彼の骨は弱く、筋肉も柔らかいが、手をしっかりと握っている。 彼は男女の交合も知らないのに、彼の性器は何時も立っているが、それは精気があふれているからだ。 彼が一日中、泣き叫んでも、声がかれる事が無いのは、彼が『和』の気を持っているからである。 『和』は平常心をもたらし、平常心を持つ事を『明晰』という。精気が増す事は喜ばしく、元気になることを剛強になると言うが、物事は剛強になると、必ず衰退に向かう。精気を増す事、元気を増す事に執着し,無理に剛強になることは『道』にかなっていない。『道』にかなっていないと必ず速やかに滅亡する。

【玄徳56】
道を知る人は言わず、言う人は道を分かっていない。 目、耳、鼻、口など(知識の入る)穴を塞ぎ、門を閉ざして鋭い切っ先を表すことなく、いろいろな世間のもつれをといて、その輝きを和らげながら、塵の中に混じっている。こういうものを『玄同』(道)という。 これを持つ人には気易く近ずけないし、遠ざかり疎んじることも出来ない。 利益を得させてもいけないし、損害をかぶらせてもいけない。むやみに彼を尊ぶこともいけないし、彼を卑しめることも出来ない。こういう人だからこそ、天下の人から尊敬されるのだ。

【淳風57】
正しい方法で国を治め、戦争では奇略を用い、無事に天下を統一する。私にどうしてその事が分かるのか、その根拠はこうである。  天下に禁令が多くなればなるほど民はますます困窮する。  民間に武器が多くなればなるほど、国家は混乱する。  技術が進めば進むほど、怪しげなものが出てくる。  法令が行き亘れば、行き亘るほど、盗賊が増える。  だから聖人は言う。『私が無為であれば、民は自ずと従順になり、私が平静を好めば、民は自ずと正しくなる。私がなにもしないと民は自ずと裕福に成り、私が無欲であれば、民は自ずと純朴になる』と。

【順化58】
政治が大まかだと、民は温厚になる。  政治が細かく厳しいと、民は不満を高める。  災禍には幸福が寄り添い、幸福には災禍が潜んでいる。  誰が終局を知っているのだろう。定まるところは無いのだ。  正常は何時でも異常になるし、善は何時でも怪しげなものに変化する。このため人が迷うのは遠い昔からだ。  こうしたわけで聖人は、正しくあっても無理をせず、厳しくあっても人を傷つけず、素直であっても無遠慮でなく、明るく輝いてもきらびやかでない。

【守道59】
人を治め、天に仕えるには『節約』の精神に勝るものは無い。  常に『節約』しているからこそ、どんな事に出会っても、それに早々と対応する準備が出来るのだ。  どんなことに出会っても、落ち着いて早々と準備が出来るのは、それは『節約』という徳が積み重ねられているからだ。 『節約』という徳が積み重ねられていると、いつでも勝利する。いつでも勝利するから、その力は計り知れない。  この計りようのない力があってこそ、国家の政治が管理できるのだ。  国の根本を大切に保てば、統治は永久に維持できるだろう。  それで言う『根を深く、しっかりと堅くすること、それが長寿の道である』と。

【居位60】
大国を治めるには、小魚を煮るように、余り箸でかき混ぜないことだ。(いたずらにいろいろな施策をしない)。 『道』を用いて(無為の精神で)天下を治めれば、精霊の鬼も力を発揮しない。 鬼が力を発揮しないのでなく、その神通力では人を害することが出来ないのだ。 いや、その神通力が人を害せないのでなく、聖人が人を害することがないため、聖人と鬼が互いに害し合うことがないのだ。 こうして聖人と鬼とは互いに『徳』を共有する。

【謙徳61】
大国はたとえれば河の下流である。天下のすべての物が行き着く所 であり、いわば天下の牝である。  牝が何時も牡に勝つのは、牝が穏やかに下にいるからだ。  大国が小国に身を低くして接すれば、小国の信頼を得る。  小国がへりくだって大国に接すれば、大国の信任を得る。  それゆえ時には大国がへりくだって小国の信頼を得、小国は時には大国にへりくだって大国の信任を得るのがよい。  大国は小国の面倒を見たいと欲しているに過ぎず、小国は大国に仕えたいと思っているだけなのだ。  それで大国も小国もともに望みが満たされるわけだが、大国はとくに上手にへりくだるべきである。

【爲道62】
道は万物の奥にあって、善人の宝物であり、悪人もまた持ちたいとするものである。  悪人がこれを持つと、口先上手に人々の尊敬を得て、にこやかな顔で人の上に立つ事が出来るからだ。しかし、たとえ悪人であっても、それを悪人だからといって捨て去ってよいものではない。  天子が即位し、補佐する大臣が決まると、天子を象徴する宝物を先頭にした四頭立ての馬車が献上される儀式が行われるが、そうしたものより、献上者は天子の前に座して『道』を勧めるだけの方が善いのだ。  昔から『道』を尊ぶゆえんは、求めるものが必ず得られ、罪のあるものも許されるといわれるでないか。だから天下の人々に尊ばれるのだ。

【恩始63】
無為とは何もしないことではなく、事態が困難になり、問題が重大にならないうちにそれを見越して人の知らない手をうっていくのである。だから何もしないように見えるのです。

【守微64】
ものごとは大事に至らない微小なあいだにうまく処理すべきです。それでこそ無為の実践が可能なのです。

【淳徳65】
「道」をりっぱに修めた昔の人は、それによって人民を聡明にしたのではなく、逆に人民を愚直にしようとしたのです。

【後己66】
大河や海が多くの川谷の王者になれるのは、これら尊ばれる川谷の下流にあるからで、それで王者になれるのだ。  これゆえ、民を治めようとすれば、まず最初に言葉でその謙虚さを示さなければならない。  民を指導しようとするなら、必ず自分を民の後ろに置かなければ成らない。  それゆえ「聖人」は民の上に立って治めても、民はその重さを感じない。民の前に立って指導しても、民の目の妨げにならない。  こうして天下の民は彼を上に戴きながら、彼を嫌う事は無いのだ。 彼は争わないので、彼と争っても勝てるものはいない。

【三寳67】
人々は私に言う。私の説く『道』は広大だが、他に似たものが無、いと。まさにそれが広大なるゆえんで、広大なるがゆえに似たものが無いのだ。  もし似たものがあれば「道」はずっと昔に、はるかに小さな物になっていたはずだ。  私には三つの宝があり、私はそれを大切にして守っている。  その宝は第一が『慈愛』、第二は『慎ましさ』、第三が『人々の先に立たない』ということだ。  慈愛があるから逆に勇敢になれ、慎ましいから逆に広く行え、天下の人と先を争わないからこそ頭になれるのだ。  だが、慈愛を捨てて勇敢のみを求め、慎ましさを捨てて広く行う事に執心し、譲る事を捨てて先を争えば、その結果は滅亡があるだけだ。  『慈愛』それを戦争に用いれば勝てるし、防衛に用いれば堅固になる。  天が人を救おうとする場合、『慈愛』で守るのだ。

【配天68】
優れた『士』は猛々しくない。よく戦うものは怒らない。よく勝つものはやたらに敵と戦わない。人をうまく用いるものは、人に対して謙虚な態度をとる。 これを『争わない徳』といい、『他人の力を用いる』といい、『天の道』にかなうという。これは昔からの規則なのだ。

【玄用69】
兵法の言葉に『戦は先に仕掛けてはいけない。守勢の立場を取り、一寸進むより、一尺退いて守れ』と。これを相手側から見れば『攻めるに敵の陣営がなく、つかんで持ち上げる敵の腕も無く、前に敵がいないから使うべき武器が無い』という。  敵の力を軽んじるより大きな災いはなく、敵の力を見くびると、先の三つの宝は失われてしまうだろう。ゆえに両軍の勢力が等しい場合には、兵の苦労を思い、先に退いた方が勝つのだ。

【知難70】
私の言葉は大変わかりやすく、大変実行しやすい。だが理解できる人は無く、実行できる人もいない。議論には主旨が必要で、ものごとを行うには主体者がいなければならない。  人々はそれを理解できないから、私の言う事を理解できない。  私の言う事を理解できる人は少ないから,私に習おうという人はほとんどいないが、それだけに,それらの人は尊いといえる。  それゆえ「聖人」は、外には粗末な着物を着ていながら、中に美玉をしのばせていると言うのだ。

【知病71】
知らざるを知ることは上等だ。知りながら、知らざるとする事は欠点である。この欠点を欠点だと気付くと、その欠点は解消する。 「聖人」には欠点が無い。彼は自分の欠点を欠点と考えるから欠点が無いのだ。

【愛己72】
民が天の権威を恐れないならば、恐ろしい天罰が下されるだろう。  自分の住むところを狭いとせず、自分の生計の道を嫌がってはならない。  自分で嫌がらないから、人から嫌がられないのだ。  聖人はただ自己を知ることのみ求めて、自分を表に出さず、自己を愛しても、自分を尊いとはしない。  だから私も自分を表わす事を捨てて、自己を知ることを取るのだ。

【任爲73】
(悪人がいた場合)あえて勇気を持ってこれを殺すか、勇気を持ってこれを殺さずに置くか、この二つは一つは利になり、一つは害になる。天が憎むのはどちらか分からない。誰も天意がどこにあるのか分からないのだ。聖人にとっても、この判断は難しい。  「天の道」は争わずして勝ち、言わずして万物の要求によく応じ、招くことなくやって来させ、ゆっくりとしながらも,うまく計画する。  天の網は広大で網目は荒いが、決して漏らす事は無い。

【制惑74】
民が死を恐れないならば、どうして死刑でもって民を脅かす事が出来るのか。 民が死を恐れるような(平和な)状態で、それでもなお不正を働く者がいるときは,そいつらを捕まえ殺す事が出来れば、誰も不正をしなくなるだろう。  死をつかさどるものは(天の命じた)死刑執行人だが、この死刑執行人に代わって人を処刑するのは、大工を真似て木を削るようなものだ。素人が大工を真似して木を削り、手を負傷しないことはありえないのだ。

【貪損75】
民が飢えるのは、お上が税を取り過ぎるからだ。だから民は飢えに苦しむ。  民を治めるのが難しいのは、すべてお上の行う政治からきている。民が自分の生命も省みず、抵抗するのは,お上が自分の生活を豊かにする事ばかり考えているからだ。だから民は自分の命を捨てても抵抗するのだ。  為政者としては、自分の生活を重んじない人の方が、自分の生活を重んじ過ぎる人よりはるかに賢明だ。

【戒強76】
人が生きている時、身体は柔軟だが、死ねば硬直する。  草木の生きている時は枝や幹は柔らかく脆いが、死ぬと枯れて堅くなる。  ゆえに堅固なものは死に、柔軟なものは生きる。  この事から軍隊は強大になれば何時か敗れ、枝も強大になれば折れる。  つまり剛強さが劣勢となり、柔軟さが優勢となるのだ。

【天道77】
天の道は弓を引いて的を射るのに似ている。的の矢が高過ぎれば、低く撃ち、低過ぎれば緩め、引き足りなければ、強く引く。  天の道は、余分を減らして不足を補う。人の場合はそうではない。足りずに苦しんでいる方から取って、余りある方に与えている。  有り余っている方を減らして、足りない方に与えることができるのは,一体誰だろうか。それは道を得た人だけだ。  聖人は万物を動かして自分の所為とせず、業が成功してもその成果に無関心で、自分の賢さをひらけかそうともしない。

【任信78】
天下には水より柔軟なものは無いが、堅強なものを攻撃する力で水に勝るものが無いのは、これに変わるものが無いからだ。  弱きが強きに勝ち、柔らかさが堅さに勝つ事は、天下の誰もが知っているが、実行できるものはいない。   ゆえに『聖人』は言う。『身を低くし,国中の屈辱を引きうけてこそ天下の王者といえる』と。  どうも正しい言葉は常識に反しているように見えるようだ。

【任契79】
大きな怨みは、どれだけ和らげても、必ず恨みが残る。これではとても『善』とは言えない。  これゆえ『聖人』は借金の証文を取っても、決して返済を厳しく要求しない。  徳のある人は、借用証書を握っているかのように落ち着き、徳なき者は税吏が税を取りたてるように,せっかちに責めたてる。『天の道』は決してえこひいきしないが、常に善人を助ける。

【獨立80】
国を小さくし、民を少なくする。  さまざまな道具はあるが、使用する事はない。 民の生命を重んじて,遠くに移り住まわせない。船や車はあるが、これに乗っていく所はない。  鎧,刀など武器はあるが、これを集めて軍隊にする事はない。   民には古代のように縄を結んで記録する方法を取らせている。  食べ物はおいしく、着るものはきれいだ。住まいも気持ちよく、皆,風俗になじんでいる。  隣国とは互いに望見する事は出来るし、鶏や犬の声も聞こえてくるが、老いて死ぬまで互いに行き来する事はない。

【顯質81】
真実の言葉は美しくなく、美しい言葉は真実でない。  善き人はうまく話せず、うまく話す人は善き人でない。  本当を知る人はひらけかさず、ひらけかす人は知っていない。  『聖人』は何も蓄えず、全ての力を人のために出し、かえって豊かになる。  『天の道』は万物に利益を与えて、害を与えることはない。   『聖人の道』は何をするにも人と争う事がない。

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東洋思想と西洋思想の違い 一考!

ブログの再構築を通して一環しているのは、日本文化の美しさや東洋思想の素晴らしさを軸にした整理です。
見直しを始めて数か月余りということもあって、内容としてはまだまだ概略の触りぐらいにしかなっていませんが、その対比を図る想定で、今後は少しずつ西洋思想に絡んだものも整理の対象として加えていきたいと考えています。

では、そもそも東洋思想と西洋思想の大きな違いとは何なのでしょう?

がっつりと大きく全体を俯瞰してみてみると、その違いとは宗教観に基づく思想観です。

そもそも東洋においては、宗教や哲学という境界線が曖昧です。
もともとそういった考え方がなく、一体となった思想体系を為し、分けて考えられてきていないといったほうが正しいのかもしれません。

他方西洋においては、宗教と哲学の境界線が明確で、神の存在を証明しようとする神学がその境界線を繋いだ上で成り立っています。
そのため、宗教が異なっても原則として一神教であり、聖書・聖典というものすら共有しているため、そこで構成される世界観すら非常に似通っているのです。
神を唯一絶体の存在とし、教義が聖書であるためその存在や立場が何一つかわらないため、そこに論理的矛盾や整合性に支障を来たしても、それを補完したり教義の矛盾を解消するために見直したり修正することが出来ません。

しかし東洋の宗教は多神教であり、神様の数だけ教義も存在しますし、教義を創始した存在を超える神すら存在し、教えもどんどん成長・進化していきます。
大別すれば仏教儒教道教がありますが、
仏教:お釈迦様という存在がありながら、その存在を超えた大日如来などの仏が数多存在する。
儒教孔子創始者としながらも、その教えは発展し数多の教義と解釈が存在する。
道教老子を基点としながらも、こちらもその教えは数多展開し変化している。
といった状況です。
こうしてみた場合、東洋には神様・仏様が数多存在しており、その数以上に教えや考え方、物事の捉え方が存在していることがわかります。
教えや考え方、物事の捉え方が数多あるということは、教義上の矛盾もその中で見直したり解釈を補完したり問題点を解消することができるということです。

そんな東洋思想に代表される禅(ZEN)や瞑想、タオイズムなどが西洋から注目されるのは必然です。
そのため、西洋思想の哲学(心理学や精神学など)や文化・芸術(小説、映画、音楽、絵画、彫刻、建築物など)に多くの影響を与えています。
一神教世界観として確立しているため、宗教としてその教義を変えることは出来ませんが、そこで抱えた矛盾や問題解決は、東洋思想のエッセンスを利用して解消しているともいえます。

こうした柔軟な東洋思想の奥は広く、壮大な宇宙観を為しています。
このサイトで東洋思想のひとつひとつを取り上げて整理していく目的は、その宇宙観をひとつに纏め上げることではなく、精神性の幅を限りなく広げるための支援に外なりません。
今後は西洋思想にもその範囲を広げながら、更にその裾野を広げていきたいと思っています。

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論語より学ぶ!人としての「徳」と「命」!

論語』は、春秋時代に生きた孔子とその弟子のやり取りを中心とした言行録です。
これは儒教経書四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)のうちのひとつで、儒家にとっては六経の前に読むべきものとして重要な経典とされました。
内容としては20篇からなる章立てで構成されておりますが、実際に中身を見てみると、大半は断片的とも言える短い言葉やエピソードの集まりです。
また、それぞれの篇の順序も特別の意味を持ってはいないものも多く、篇名も単に篇の最初の字をとっただけ、というものもあるような構成です。
しかし、読む側の読者にとっては、このような構成であるからこそ、逆に複雑な構成や行間を必要以上に気にすることもなく、好きな場所、好きな内容から読むこともできますし、短い言葉ゆえに分かり易く共感できる部分もあるのではないかと思われます。
日本でも、論語の言葉はいろいろな故事成語として使われることも多く、解説書や纏めの書物、派生した注釈・サマリー本なども多々発行されていますが、それはこのような構成であるからこその特色だからなのだと判断されます。

世界四大聖人は”釈迦””ソクラテス””キリスト””孔子”と言われていますが、論語の教えの元となった孔子もここに含まれています。
かといって孔子が聖人君子であったかというと、どちらかといえば酒好き、子孫あり、弟子のためとはいえ暗殺も行った、といった非常に人間臭い顔を持っていたことも確かなことです。
だからこそ、孔子の人物自体が深く愛され、道徳説樹立の苦心や個性のある弟子達との議論の様子などが、読む人の心に響いてくるのかもしれません。

孔子は常に、人間としての「徳」を身につけなさい、そのための努力をしなさいと説いています。
要は、人にはそれなりの器量と人格が必要だ、ということです。
・仁 思いやりの心。人を育み、人に育まれること。
   愛する対象を「自分→家族→国」へと広げること。
・恕 自分のして欲しくないことを他人にしないこと。自分基準の思いやり。仁の補助ステップ。
・義 人間としての正しい筋道。皆のためにという意識。
・礼 他の人に敬意を示す作法
・勇 決断力。リスクをきちんと計算し、引くべきときには引いて結果を出すこと。
・智 洞察力、物ごとを判断する働き。「知っていること」と「知らないこと」の区別ができること(限界認識)
・謙 謙虚、つつましくひかえめ
・信 嘘をつかないことや約束を守ること。人柄や品性、真摯さで人を心服させること
・忠 真心。
・寛 寛容、心が広く人のあやまちを受け入れる
・威 信頼関係の中に緊張感を持たせること。
これらを、自分を律する倫理性(徳)の元に、つの命※)を持って当たらねばならないということが、論語を理解する上での大きなポイントでもあるのです。
※)三つの「命」
・天命:自分だけにできること。道。
・使命:自分で切り拓き、勝ち取っていく未来。
・運命:受け入れざるを得ない現実。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。
各サイトでもいろいろな解説や説明がなされていますので、参考にしながらこの佳書のすばらしさをご堪能ください。

【巻第一】
【学而第一】
孔子曰く「学んでは適当な時期におさらいする、いかにも心嬉しいものだ。
友達が遠いところからたずねて来る、いかにも楽しいことだ。
人が分かってくれなくても気にかけない、それこそ君子だ」
・「学びて時にこれに習う、亦た説ばしからずや」という有名な冒頭の部分

有子曰く「人柄が孝行悌順(親や年長者によく仕えること)であって、目上にさからうことを好む人はほとんどいない。
目上に逆らうことを好まないのに、乱れをおこすことを好む人はめったにいない。
君子は根本のことに努力する。根本があって始めて道もはっきりする。孝悌こそ、仁徳の根本であろう」

孔子曰く「ことば上手で顔よしの人は、仁がほとんどないものだ」
・「巧言令色、鮮なし仁」として有名

曾子曰く「私は毎日何度もわが身を反省する。人のことを考えてあげてまごころをこめていなかったのではないか、 友人と交際して誠実でなかったのではないか、学習して身につけていないことを人に教えたのではないか、と」

孔子曰く「諸侯が国を治めるには、事業を慎重にして信義を守り、費用を節約して人をいつくしみ、民を使役するにはよい時期にすることだ」

孔子曰く「若者よ。家庭では孝行、外では悌順、謹んで信義を守り、広く人を愛して仁の人に親しみ、これを実行してなお余裕があれば、書物で学ぶことだ」

子夏曰く「優れた人を優れた人として美人を好むようにし、父母に仕えてはその力を尽くし、 君に仕えてはよくその身をささげ、友人と交わるときには話した言葉に誠実であれば、まだ学問はしていないといっても、わたしは必ずこれを学問したと評価するだろう」

孔子曰く「君子は重々しくしなければ威厳がない。学問すれば頑固でなくなる。忠と信とを第一にして、自分より劣った者を友人にしてはならない。 過ちがあれば、それを改めるのにためらってはならない」

曾子曰く「親を手厚く葬り祖先を祭っておれば、民の徳もそれに感化されるであろう」

子禽、子貢に問うて「先生(孔子)はどこの国に行っても政治のことを尋ねられる。それをお求めになったのでしょうか、 それとも相手からもちかけられたものでしょうか」と言った。子貢は答えて「先生は穏やかで素直で恭しくて慎ましくてへりくだっておられるから、相談を受けられるのだ。 先生の求め方というのは、他の人のものとは違うようだ」と言った。

孔子曰く「父のあるうちはその志を観察し、父の死後はその行為を観察する。3年の間、父のやり方を改めないのは、孝行と言える」

有子曰く「礼のはたらきは調和をよしとする。先王の道もこれをよしとした。小事も大事も調和に依りながらうまくいかないこともある。 調和を知って調和していても、礼で節度をつけなければ、やはりうまくいかないものだ」

有子曰く「約束を守ることは、正義に近ければ、言葉どおり実行できる。うやうやしさは、礼に近ければ、辱めから遠ざかる。たよるには、 その親しむべき人をとり違えなければ、本当に頼れる」

孔子曰く「君子はたらふく食べることを求めず、安楽な家にすむことを求めることはしない。仕事に努めてことばを慎重にし、 道義を身につけた人について自らの行いを正していくのだ。学を好むと言える」

子貢曰く「貧乏であってもへつらわず、金持ちであってもいばらないというのはいかがでしょうか」
孔子曰く「よろしい。だが、貧乏でも道義を楽しみ、金持ちであっても礼儀を好むということには及ばない」
子貢曰く「詩にいう『切るが如く、磋(す)るが如く、琢(う)つが如く、磨(みが)くが如く』とはこのことですね」
孔子曰く「賜よ、それでこそ一緒に詩の話ができる。前のことを話しただけで後のことまで分かるのだから」
・「切磋琢磨」という言葉を有名なものにした句

孔子曰く「人が自分のことを知ってくれないことを気にかけず、自分が人を知らないことを気にかけることだ」

【為政第二】

孔子曰く「政治を行うのに道徳をもってすれば、ちょうど北極星は自分の場所にいて、多くの星がこれをとりまいているようになるものだ」

孔子曰く「詩300編を、一言でいえば、心の思いに邪(よこしま)なしである」

孔子曰く「民を導くのに政治をもってし、刑罰で統制するのなら、民は法をすりぬけてはずかしいとも思わない。道徳で導き、礼で統制するなら、 民は道徳的な羞恥心を持って、そのうえ正しくなる」

孔子曰く「わたしは15歳で学問に志し、30歳で独立した立場を持ち、40歳になって迷わず、50歳になって天命を知り、60歳になって人の言葉を素直に聞くことができ、 70歳になると思うままに振舞っても道を外すことがないようになった」
志学、而立、不惑知命耳順従心の言葉の元になった句

孟懿子が孝について尋ねた。孔子曰く「そむかないことです」
樊遅は孔子の御者であったので、孔子は樊遅に告げて曰く「孟孫が孝を尋ねられたので、私はそむかないことですとお答えした」
樊遅曰く「どういう意味ですか」
孔子曰く「親が生きている時は礼によって仕え、亡くなったら礼によって葬り、礼によって祭る。万事、礼にそむかないことということだ」

孟武伯が孝について尋ねた。孔子曰く「父母にはただ自分の病気のことだけを心配させるようにし、そのほかのことでは心配をかけないようにすることです」

子游が孝について尋ねた。孔子曰く「近頃の孝というのはよく養うことを言っているが、犬や馬も養っている。 尊敬するのでなければ、どこにこれと区別があろう」

子夏が孝について尋ねた。孔子曰く「顔の表情が難しい(愛情が大切だ)。仕事があれば若い者がこれを行い、酒や食事があればこれを年上の人に勧める。 こんなことだけで孝とは言えないね」

孔子曰く「回(顔回)はわたしと一日中話をしても、全く従順で愚か者のようだ。だが、引き下がってからそのくつろいだ様を見ると、 やはり道を行うのに十分だ。回は愚かではない」

孔子曰く「その振舞いを見て、その経歴を見て、その人の落ち着きどころを調べれば、その人柄は決して隠されない。決して隠されない」

孔子曰く「古い事柄から新しいことを学び取るならば、人の師となれる」
・「温故知新」の有名な句

孔子曰く「君子は制限される器のようなものではない」

子貢が君子について尋ねた。孔子曰く「まず言おうとすることを実行してから、後でこれについて言うことだ」

孔子曰く「君子はひろく親しんで人におもねることはしないが、小人はおもねりあってひろく親しまない」

孔子曰く「人から学んでも考えなければ物事に暗くなり、考えても学ばなければ独断になり危険である」

孔子曰く「聖人と異なる道を研究することは、害があるだけだ」

孔子曰く「由よ、お前に知るということを教えようか。知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとする。 それが知るということだ」

子張が俸禄を得ることを学ぼうとした。孔子曰く「たくさん聞いて疑わしいことは止め、自信のもてることを慎重に発言すれば、 過ちを少なくできる。たくさん見てあやふやなことは止め、確実なことを実行すれば、後悔は少なくなる。言葉に過ちが少なく、行動に後悔が少なければ、 禄は自然に得られるものだ」

哀公が「どうしたら民は服従するだろうか」と尋ねた。孔子曰く「正しい人を登用して邪悪な人の上の位につけたなら、 民は服従します。邪悪な人を正しい人の上の位につけたなら、民は服従いたしません」

季康子が「民が敬虔忠実になって仕事に励むようにするには、どうしたらよいでしょう」と尋ねた。
孔子曰く「荘重な態度でのぞめば、民は敬虔になります。親に孝行、下々に慈愛深くしていけば、民は忠実になります。善人を引き立てて才能のない者を教えていけば、 民は仕事に励むようになります」

ある人が孔子に「先生はどうして政治をなさらないのですか」と尋ねた。
孔子曰く「書(書経)に『孝行よ、孝行よ。兄弟ともむつみあい、それを政治に及ぼす』とあります。それでもやはり政治をしているのです。 何もわざわざ政治をすることもないでしょう」

孔子曰く「人として信義がなければ、うまくやっていけるはずがない。牛車に轅の横木がなく、馬車に轅のくびき止めがないのでは、どうやって動かすことができよう」

子張が「十代先のことが分かりましょうか」
孔子曰く「商は夏の制度を受け継いで、廃止したり加えたりしたことが分かる。周も商の制度を受け継いで、廃止したり加えたりしたことが分かる。 もし周のあとを継ぐものがあれば、たとえ百代さきでも分かるといえる」

孔子曰く「わが家の霊でもないのに祭るのは、へつらいである。反対に、行うべきことを前にしながら行わないのは、臆病である」

【巻第二】
【八佾第三】

孔子は季氏のことをこう言われた「八列の舞をその廟で舞わせている。その非礼を辛抱できるのなら、どんなことでも辛抱できよう」

三家(三桓)では雍の歌で供物をささげていた。
孔子曰く「助くるものは諸侯たち、天子はうるわしく、とある。どうして三家の御殿で用いることができようか」

孔子曰く「人として仁でなければ、礼があってもどうしようぞ。人として仁でなければ、楽があってもどうしようぞ」

林放が礼の根本について尋ねた。
孔子曰く「重要だね、その質問は。礼は贅沢であるよりはむしろ質素にし、喪は万事を整えることよりも悼み悲しむことだ」

孔子曰く「夷狄で君主があり、中国で君主がなくても、やはり中国に及ばない」

季氏が泰山で旅の祭りをしようとした。
孔子は有に「お前がやめさせることができないのか」と言った。
有「できません」
孔子「ああ、泰山(の神)が林放にも及ばないと思っているのか」

孔子曰く「君子は何事にも争わない。あるとするなら射だろう。会釈し譲り合って登り降りし、競技が終わると勝者が敗者に酒を飲ませる。 その争いは君主的だ」

子夏が「『笑った可愛い口もとやえくぼ、目もと美し、白さで美しく飾り立て』というのは、どういうことでしょう」と問うた。
孔子曰く「絵で白い胡粉で後仕上げをするようなものだ」
子夏曰く「礼で後仕上げをするということでしょうか」
孔子曰く「わたしを啓発してくれるのは商(子夏)だね。それでこそ一緒に詩を語ることができる」

孔子曰く「夏の礼については話すことができるが、その子孫の杞では記録が足りない。商の礼についても話すことができるが、その子孫の宋でも記録が足りない。 文献も賢者も十分でないからである。もし十分ならわたしもそれを根拠にできるのだが」

孔子曰く「の祭りで、灌の儀式が済んでから後のことは、わたしは見たいとは思わない」
・の祭りとは、帝を中心として先祖をあわせ祭る大祭のこと

或る人がの祭りについて問うた。
孔子曰く「わかりません。その意義がわかっているほどの人なら、天下のことについても、ここで見るようなものでしょう」
自分の掌を指差して言われた。

祭では先祖がそこに居られるように行い、神を祭る時は神々がそこに居られるように行う。
孔子曰く「わたしはお祭にたずさわらなかったら、お祭自体がなかったように思う」

王孫賈が「『部屋の神の機嫌をとるより、かまどの神の機嫌をとれ』とは、どういうことですか」
孔子曰く「それはまちがっています。天に対して罪を犯したなら、どこにも祈りようはないのです」

孔子曰く「周は夏と商の二代を参考にして、いかにもはなやかで立派だ。わたしは周に従おう」

孔子は大廟に入って、儀礼をひとつひとつ尋ねた。
或る人が「鄒の役人の子(孔子)が礼を知っていると誰がいったんだろう。ひとつひとつ尋ねている」と言った。
孔子曰く「そのように慎重にすることが礼なのだ」

孔子曰く「射は的をあてることを第一とはしない。能力には各人違いがあるからで、これが古代のやり方である」

子貢が告朔の礼の生贄の羊をやめようとした。
孔子曰く「賜よ、お前はその羊を惜しがっているが、わたしはその礼がついえることが惜しい」
・告朔の礼とは、月の初め(朔)を宗廟に報告する礼のこと。当時、魯では報告は行われず、羊だけが備えられていた。

孔子曰く「主君に仕えて礼を尽くすと、人々はそれをへつらいであるという」

定公が「君が臣を使い、臣が君に仕えるには、どうすればよいか」と尋ねた。
孔子曰く「君が臣を使うには礼をもってし、臣が君に仕えるには忠をもってするのです」

孔子曰く「関雎の詩は楽しげであってもふみはずさず、悲しげであっても心身をいためることがない」

哀公が社のことを宰我に尋ねた。
宰我曰く「夏の君は松を使い、商の人は柏を使い、周の人は栗を使っています。これは民を戦慄させるという意味です」
孔子これを聞きて曰く「終わったことは言うまい。したことは諌めまい。過去は咎めまい」

孔子曰く「管仲の器は小さいね」
或る人曰く「管仲は倹約だったのですか」
孔子曰く「管氏には3つの邸宅があり、臣には事務を専任させた。どうして倹約と言えよう」
或る人曰く「それでは管仲は礼をわきまえていたのですか」
孔子曰く「君主は塀を立てて門を塞ぐが、管氏もやはりこれをした。君主が友好するときには杯をもどす台を設けるが、 管氏もこれを設けていた。管氏が礼をわきまえているというなら、礼をわきまえない者など誰もいない」

孔子が音楽のことを魯の大師に言った「音楽は分かりやすいものです。起こし始めは盛んです。それを放つとよく調和し、はっきりし、 ずっと続いていって、そうして一節が終わります」

儀の国境の役人が孔子にお会いしたいと願った。
孔子曰く「君子が合いに来た時、わたしは会わなかったことはありません」
供の者が会わせてやった。役人は退出してから言った「諸君、さまよっていることを心配することはない。天下に道が行われなくなって久しいが、 天はあの先生をこの世の指導者とされようとしている」

孔子が韶の音楽を批評した「美しさは十分であり、また善さも十分だ」
武の音楽を批評した「美しさは十分だが、善さは十分ではない」

孔子曰く「人の上に立ちながら寛容でなく、礼を行いながらつつしみがなく、喪に臨みながら悲しまないというのでは、 どこを見所にしたものかわからない」

【里仁第四】

孔子曰く「仁にあるのが立派なことだ。あれこれ選びながら仁をはずれるのでは、どうして智者といえようか」

孔子曰く「仁でない人はいつまでも苦しい生活に耐えられないし、安楽な生活も長く続けられない。仁の人は仁に落ち着いているし、智の人は仁を善いこととして活用する」

孔子曰く「ただ仁の人だけが本当に人を愛すことができ、人を憎むこともできる」

孔子曰く「本当に仁を目指しているのなら、悪いことなどなくなるものだ」

孔子曰く「富と貴い身分はだれでもほしがるものだ。しかしそれを正しい方法で得たのでなければ、それに執着しない。貧窮と卑しい身分はだれでも嫌がるものだ。 しかしそれ相当の方法で得たのであれば、それを避けることはしない。君子は仁徳をのぞいて何によって名を残すだろうか。君子は食事をしている間も仁から離れず、 急変の時も仁に居り、ひっくりかえったときでもきっとそこに居る」

孔子曰く「わたしはまだ仁を好む人や不仁を憎む人を見たことがない。仁を好む人はそれ以上のことはないし、不仁を憎む人もやはり仁を行っている。 それは不仁の人を自分に影響させないためである。もしよく一日の間でもその力を仁に使おうとするなら、わたしはその人の力が足りないという人を見たことがない。 あるいはそうした人がいるかもしれないが、わたしは見たことがない」

孔子曰く「人の過ちというのは、それぞれ人の種類に応じて犯すものだ。過ちを見れば仁かどうかわかるものだ」

孔子曰く「朝に道が理解できたら、その晩に死んでもよい」
・「朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり」という有名な句

孔子曰く「道を目指す士で、粗衣粗食を恥じる者は、ともに語るに足りない」

孔子曰く「君子が天下においては、逆らうこともなければ、愛着することもない。ただ正義に親しむのみである」

孔子曰く「君子は道徳を考えるが、小人は土地を考える。君子は法規を考えるが、小人は恩恵を考える」

孔子曰く「利益ばかり考えて行動していると、怨まれることが多い」

孔子曰く「譲り合う心で国を治めることができれば、何の障害があろう。譲り合う心で国を治めることができないなら、礼があってもどうしようもない」

孔子曰く「地位のないことを気にかけないで、地位を得る方法を気にかけることだ。自分を認めてくれる人がいないことを気にかけないで、 認められようとすることを気にかけることだ」

孔子曰く「参よ、わが道はひとつのことで貫かれている」
曾子曰く「はい」
孔子が退出すると、門人が「どういう意味でしょうか」と尋ねた。
曾子曰く「先生の道は忠恕である」

孔子曰く「君子は正義に明るく、小人は利益に明るい」

孔子曰く「すぐれた人を見れば同じようになろうと思い、つまらない人を見れば自分と自分の心に反省することだ」

孔子曰く「父母に仕えて悪いところがあればおだやかに諌め、その心が従いそうにないとわかれば、さらにつつしみ深くして逆らわず、 骨を折るけれども怨みに思わないことだ」

孔子曰く「父母のおられる間は、遠くへは旅をしないように。旅をするにも必ずでらためをしないように」

孔子曰く「父が死んでから、三年の間はそのやり方を改めないのは、孝行だと言える」

孔子曰く「父母の年齢は知っていなければならない。ひとつにはそれで長生きを喜ぶことができるし、ひとつにはそれで老い先を気遣うことができる」

孔子曰く「昔の人が軽々しく言葉を口にしなかったのは、実践ができないことを恥じたからだ」

孔子曰く「つつましくしていて失敗する人は、ほとんどいない」

孔子曰く「君子は口を重くして、実践に努めるようにしたいと望んでいる」

孔子曰く「徳のある者は孤立しない。きっと親しい仲間ができる」

子游曰く「君に仕えてうるさくすると恥辱を受けることになり、友にうるさくすると疎遠にされる」

【巻第三】
【公冶長第五】

孔子は公冶長について「妻を娶わせてもよい。獄につながれたことがあったが、彼の罪ではなかった」と言い、娘を娶わせた。

孔子は南容について「国家に道のあるときには用いられ、道のないときにも刑死することもない」と言い、 兄の娘を娶わせた。

孔子は子賤について「君子だね、この人は。魯に君子がいなかったら、この人もどこからその徳を得られたろうか」と言った。

子貢曰く「賜(わたくし)はどうでしょうか」
孔子曰く「お前は器だ」
子貢曰く「どのような器でしょうか」
孔子曰く「瑚璉(宗廟のお供えを盛る貴重な器)の器だ」

或る人曰く「雍は、仁だが弁が立たない」
孔子曰く「どうして弁の立つ必要があろう。口先だけで人に対応すれば憎まれる。彼が仁かどうかはわからないが、どうして弁の立つ必要があろう」

孔子は漆彫開を仕官させようとしたところ、漆彫開は「わたしはまだ自信がありません」と言った。 孔子は厚い向上心をよろこんだ。

孔子曰く「道が行われない。いっそ筏に乗って海に浮かぼうか。わたしについてくるのは、まあ由かな」
子路はこれを聞いて喜んだので、
孔子曰く「由よ、勇ましいことが好きなのはわたし以上だが、筏の材料はどこにも得られない」

孟武伯が問うた「子路は仁ですか」
孔子曰く「わかりません」
孟武伯がさらにたずねると、孔子は言った。
「由は、諸侯でその賦を担当させることはできますが、仁であるかどうかはわかりません」
孟武伯曰く「求(有)はどうでしょうか」
孔子曰く「求は、千戸の町や大臣の家でその家宰となることはできますが、仁であるかどうかはわかりません」
孟武伯曰く「赤はどうでしょうか」
孔子曰く「赤は、礼服をつけて朝廷に立ち、賓客の対応をさせることはできますが、仁であるかどうかはわかりません」

孔子が子貢に言った。
「お前と回とは、どちらが優れいてるだろうか」
子貢曰く「賜など、どうして回を望みましょう。回は一を聞いて十を知りますが、賜などは一を聞いて二がわかるだけです」
孔子曰く「及ばないね。わたしもお前と同じで及ばないよ」

宰我が昼寝をした。
孔子曰く「腐った木には彫刻できない。ごみ山のかきねには上塗りできない。予(宰我)に対して何を叱ろうか」
孔子曰く「以前はわたしは人に対するのに、ことばを聞いてそれで行いを信じていた。今はわたしは人に対するのに、ことばを聞いてさらに行いまで観察することにする。 予のことがあったので改めるのだ」

孔子曰く「わたしは堅強な人を見たことがない」
或る人曰く「申はどうでしょう」
孔子曰く「には欲がある。どうして堅強と言えよう」

子貢曰く「わたしは、人が自分にしてほしくないことを、人に行わないようにしたい」
孔子曰く「賜よ、お前にできることではない」

子貢曰く「先生の文章は誰にでも知ることはできるが、先生が人の性と天の道理についておっしゃることは、とても聞くことができない」

子路は、何かを聞いてまだ行えないうちは、さらに何かを聞くことを恐れた。

子貢問うて曰く「孔文子はどうして文という諡なのでしょうか」
孔子曰く「利発な上に学問好きで、目下の者に問うことも恥じなかった。だから文というのだよ」

孔子が子産について言った「君子の道を4つ備えておられた。その身の振舞いはうやうやしく、 目上に仕えるにはつつしみ深く、民を養うには情け深く、民を使役するには正しいやり方で行った」

孔子曰く「晏平仲はよく人と交際し、親しくなっても相手を尊敬した」

孔子曰く「臧文仲は蔡(卜に使う亀甲)をしまっていたし、柱の上の枡形に山をほり、梁の上の短い柱に藻を描いた。 はたしてそれで智者というのはどうかな」
・ここに挙げられたことは君主以上に許されることであり、孔子はそれをそしったのです。

子張問うて曰く「令尹の子文は三度仕えて令尹となったが、嬉しそうな顔をしませんでした。三度辞めさせられても、 恨みがましい顔をしませんでした。前の令尹の政治を必ず新しい令尹に報告しました。いかがでしょうか」
孔子曰く「誠実だね」
子張曰く「仁でしょうか」
孔子曰く「まだ智者ではない。どうして仁といえよう」
子張曰く「崔子が斉君を弑したとき、陳文子は40頭の馬を持っていたが、それを棄てて立ち去りました。他の国に行くと 『やはりわが国の崔子と同じだ』と言ってそこを去り、別の国に行くと『やはりわが国の崔子と同じだ』と言ってそこを去りました。いかがでしょうか」
孔子曰く「清廉だね」
子張曰く「仁でしょうか」
孔子曰く「まだ智者ではない。どうして仁といえよう」

季文子は三度考えてからはじめて実行した。孔子はこれを聞いて「二度考えたらそれでよろしい」と言った。

孔子曰く「甯武子は、国に道があれば智者で、国に道がない時は愚かであった。その智者ぶりはまねできるが、 その愚かぶりはまねができない」

孔子は陳にいるとき「帰ろう、帰ろう。わが村の若者たちは志が大きく、美しい模様を織りなしているが、どのように裁断したらよいかわからないでいる。 帰ってわたしが指導しよう」と言った。

孔子曰く「伯夷と叔斉は、古い悪事を気に止めなかった。 だから怨まれることが少なかった」

孔子曰く「誰が微生高のことを正直だと言うのか。ある人が酢を貰いにいったら、その隣から貰ってきてそれを与えたのだ」

孔子曰く「ことば上手で顔つきがよくうやうやしいことを、左丘明は恥とした。丘(わたし)もやはり恥とする。怨みをかくしてその人を友とすることを、 左丘明は恥とした。丘もやはり恥とする」

顔淵と子路が側にいたとき、孔子は言った。
「それぞれの志を言ってみようか」
子路曰く「願わくは車や馬や着物や毛皮を友と一緒に使い、これがいたんでもくよくよしないようにしたいものです」
顔淵曰く「良いことを自慢せず、つらいことを人に及ぼさないようにしたいものです」
子路曰く「どうか先生の志をお聞かせください」
孔子曰く「老人には安心されるように、友には信じられるように、若者には慕われるようになることだ」

孔子曰く「もうおしまいだ。わたしは未だ自分の過ちを認めて自分を責める人を見たことがない」

孔子曰く「十軒ばかりの村にも、丘(わたし)ぐらいの忠信の人はきっといるだろう。ただ丘の学問好きには及ばない」

【雍也第六】

孔子曰く「雍は南面させてもよい」
・南面するとは君主となることです。

雍が子桑伯子のことを尋ねた。
孔子曰く「結構だね、おおようだ」
雍曰く「慎み深くておおように行い、それで民に臨むのであれば、いかにも結構ですね。しかしおおように構えておおように行うのであれば、 あまりにおおように過ぎるのではないでしょうか」
孔子曰く「雍のことばは正しい」

哀公問うて曰く「弟子の中で誰が学問好きと言えますか」
孔子曰く「顔回という者が学問好きでした。怒りにまかせて八つ当たりせず、過ちを繰り返しませんでした。 不孝にも短い寿命で死んでしまい、もうおりません。学問好きという者は、ほかに聞いたことがありません」

子華が斉に使いした。
有は自分の母親のために穀物を欲しいと願った。
孔子曰く「釜の分量だけあげなさい」
有は五秉の穀物をとどけた。
孔子曰く「赤(子華)が斉に出かけた時は、立派な馬に乗って軽やかな毛皮を着ていた。わたしの聞くところでは、 君子は困っているものを助けるが金持ちに手助けはしないものだ」

原思は孔子の家宰となって九百斗の穀を与えられたが、辞退した。
孔子曰く「いやいや、それを隣近所にあげなさい」

孔子が仲弓について言った「まだら牛の子でも、赤い毛並みで角が良ければ、用いないでおこうと思っても、山川の神々がそれを見棄てておこうとはしないものだ」

孔子曰く「回(顔回)は三月も心を仁から離さない。他の人はたまに仁に近づくだけだ」

季康子問うて曰く「仲由に政治をとらせることができますか」
孔子曰く「由は果断です。政治をとるくらいは何でもありません」
季康子曰く「賜に政治をとらせることができますか」
孔子曰く「賜は何事にも通じています。政治をとるくらいは何でもありません」
季康子曰く「求に政治をとらせることができますか」
孔子曰く「求は才能ゆたかです。政治をとることくらいは何でもありません」

季氏が閔子騫を費の地の宰にしようとした。
閔子騫曰く「わたくしのためにお断りください。またわたくしに勧める者があれば、わたくしは水に身を投げましょう」

伯牛が病気になった。
孔子は見舞って、窓越しにその手を取って「おしまいだ。運命かね。こんな人が病気にかかるとは。こんな人が病気にかかるとは」

孔子曰く「えらいものだ、回は。竹のわりご一杯のご飯とひさごのお椀一杯の飲物で、せまい路地暮らしだ。他人ならそのつらさに耐えられないだろうが、 回はその中でも自分の楽しみを改めようとはしない。えらいものだ、回は」

求曰く「先生の道を嬉しく思わないわけではありませんが、力が足りないのです」
孔子曰く「力の足りない者は途中までやってやめてしまうが、今のお前は自分から見切りをつけている」

孔子は子夏に謂いて曰く「お前は君子としての学者になりなさい。小人の学者にはならないように」

子游が武城の宰となった。
孔子曰く「お前、人物を得ることができたかな」
子游曰く「澹台滅明という者がおります。歩くには近道を通らず、 公務でない限りは決して偃(わたし)の部屋にはやってきません」

孔子曰く「孟之反は功を誇らない。敗走して殿をつとめたが、城門に入ろうとしたとき、その馬をむちでたたいて 『殿をつとめたのではない、馬が走らなかったのだ』と言った」

孔子曰く「祝佗のような弁説がなくて宋朝のような美貌だけなら、難しいよ、今の世を生きるのは」

孔子曰く「誰でも出ていくには戸口を通らなければならない。人はどうして道によらないことがあろうか」

孔子曰く「質朴さが装飾よりも強ければ野人であり、装飾が質朴よりも強ければ文書役人である。装飾と質朴がまとまってこそ、はじめて君子となる」

孔子曰く「人が生きることは真っすぐであることだ。それをゆがめて生きるのは、たまたま助かっているだけだ」

孔子曰く「知っているということは好むということには及ばない。好むということは楽しむということには及ばない」

孔子曰く「中ぐらいの人には上のことを話してもよいが、それ以下の人には上のことを話してはならない」

樊遅が智について尋ねた。
孔子曰く「人の道をつとめ、鬼神を大切にしながら遠ざけることが智といえる」
樊遅が仁について尋ねた。
孔子曰く「仁者は難しいことを先に行い、利益を得ることは後のことにする、それが仁ということだ」

孔子曰く「智者は水を好み、仁者は山を好む。智者は動き、仁者は静かである。智者は楽しみ、仁者は長生きをする」

孔子曰く「斉は少し変わることができれば魯のようになれよう。魯は少し変わることができれば理想的な政治(道)になることができよう」

孔子曰く「觚が觚でなくなった。これでも觚であろうか、觚であろうか」
・觚とは、飲酒の礼で使う杯のこと。当時は觚のような少量の飲酒でなくなったことを憂えた。

宰我問うて曰く「仁者は、井戸の中に仁があると言われると、それについてゆきますか」
孔子曰く「どうしてそんなことをしようか。君子を井戸の側まで行かせることはできるが、その中に落としいれることはできない。 少しだますことはできても、どこまでもくらますことはできない」

孔子曰く「君子はひろく書物を読んで学び、それを実践するのに礼をもってすれば、道にそむくことはないだろう」

孔子が南子に会った。子路はこれをよろこばなかった。
孔子は誓って言った「私によくないところがあれば、天がわたしを見捨てるだろう。天が見棄てるだろう」

孔子曰く「中庸の徳というのは、最高のものだ。しかし民にそれが乏しくなって久しい」

子貢が尋ねて言った「もし民にひろく施しができて、多くの人が救えるなら、仁といえましょうか」
孔子曰く「仁どころではない、それは聖だろう。堯や舜でさえ、これに悩んだ。 そもそも仁者は自分が立とうとすれば人を立て、達成したいと思えば人に達成させる。他人のことでも身近のように思える。 それが仁の方法といえる」

【巻第四】
【述而第七】

孔子曰く「語っては創作はせず、昔のことを信じて好む。わたしはひそかに老彭と比べている」

孔子曰く「黙ってこれを憶え、学んであきることなく、人を教えて怠らない。それぐらいはわたしにとって何でもない」

孔子曰く「道徳を修めないこと、学問を教えないこと、正義を聞きながら実行しないこと、善くないのに改められないこと、これが私の心配することだ」

孔子のくつろぐ有様は、のびやかであり、やわらいでいる。

孔子曰く「ひどいものだね、わたしの衰えは。久しいことだ、わたしがまた夢に周公を見なくなってから」

孔子曰く「道を志し、徳を根拠とし、仁によりそって、芸に遊ぶ」

孔子曰く「乾肉一束を持ってきたからには、私は今まで教えなかったということはない」

孔子曰く「学問に発憤していなければ教えず、何とか発言しようとしていなければ教えず、ひとつの隅を取り上げて示すと3つの隅を答えるというぐらいでなければ、 繰り返し教えない」

孔子は喪にある人の側で食事をする時は、十分に食べなかった。孔子は弔いのため哭泣した日には、歌を歌わなかった。

孔子は顔淵に言った「用いられたら行動し、捨てられたら隠れるということは、わたしとお前だけができることだね」
子路曰く「先生が大軍を進めるとしたら、だれと一緒になさいますか」
孔子曰く「虎に素手で立ち向かったり、河を歩いて渡ったりして死んでもかまわないというような男とは、一緒になりたくないね。 必ず事にあたっては慎重で、よく作戦を練って成し遂げようとする人がいいね」

孔子曰く「富を求めなければならないというなら鞭を取って市場の監督でもするが、もし求めるべきではないなら、わたしの好む生活をしよう」

孔子が慎んだところは、祭祀の清めと戦と病気であった。

孔子は斉にいて韶の音楽を聞き、3ヶ月も肉食をしないほどであった。
孔子曰く「思いもよらなかった。音楽がこれほどすばらしいものとは」

有曰く「先生は衛の君を助けられるだろうか」
子貢曰く「よし、わたしがお尋ねしてみよう」
子貢は孔子の家に入って言った「伯夷と叔斉とはどういう人物ですか」
孔子曰く「古の賢人である」
子貢曰く「君主にならなかったことを後悔したでしょうか」
孔子曰く「仁を求めて仁を得たのだ。どうして後悔しようか」
子貢は退出して言った「先生は助けないだろう」

孔子曰く「粗末なご飯を食べ水を飲み、ひじを曲げてまくらとする。楽しみはそこにあるものだ。不義なことをして富んで貴くなるのは、 わたしにとっては浮雲のように無縁なことだ」

孔子曰く「わたしがこれから数年たって、50歳になって易を学んだら、大きな過ちはおこさないだろう」

孔子が正しい言葉を守るのは、詩経書経を読む時と礼を行う時で、すべて正しい言葉であった。

葉公が孔子のことを子路に尋ねた。子路は答えなかった。
孔子曰く「お前はどうして言わなかったのだ。その人となりは学問に没頭して食事を忘れ、道を楽しんでは心配事を忘れ、 老いがやってくることも気づかずにいるのです、と」

孔子曰く「わたしは生まれつき知っている者ではない。古を好み、一生懸命に研究している者だ」

孔子は怪異と乱れと神霊について、語らなかった。

孔子曰く「わたしは3人で行動するときには、必ず我が師となる人がいる。よい人を選んでそれに従い、悪い人を見ては自ら直そうとする」

孔子曰く「天はわたしに徳を授けられた。桓ごときがわたしをどうすることができよう」

孔子曰く「きみたちは、わたしが隠し事をしていると思うか。わたしは隠し立てなどはしない。わたしは行う時にきみたちと一緒にしないことはない。 それが丘(わたし)なのだ」

孔子は4つのことを教えた。読書と実践と誠実と信義である。

孔子曰く「聖人に会うことはできないが、君子に会うことはできる。善人に会うことはできないが、常に自分を守っている人に会うことはできる。 無いのにあるように見せ、からっぽなのに満ちているように見せ、困っているのにゆったりと見せる。難しいね、常に自分を守ることは」

孔子は魚釣りはするが網は使わず、鳥を矢で射ることはするがねぐらの鳥は射られない。

孔子曰く「物知りでもないのに創作する者がいるだろうが、わたしはそうではない。多く聞いてその善いものを選んでこれに従い、 多く見て憶えているのは、物知りに次ぐ者である」

互郷の人はまともに話しにくいのだが、その子供が孔子に会ったので、弟子たちはいぶかった。
孔子曰く「来たことを買っているのだ。去ってゆくのは賛成しない。いぶかることはよろしくない。人が己を潔くしてやって来れば、その潔さを買うのだ。 帰ってからのことはわからない」

孔子曰く「仁は遠いものであろうか。自分から仁を欲すれば、仁はここにやって来るものだ」

陳の司敗が問うた「昭公は礼を知っていましたか」
孔子曰く「礼を知っていました」
孔子が退いた後、司敗は巫馬期にあいさつをして近寄らせて言った 「わたしは君子はひいきをしないと聞いていたが、君子でもひいきをするのですか。君は呉から夫人を娶られたが、同じ姓であったためこれを呉孟子とよんだ。 この君が礼を知っているとすると、礼を知っていない人などいるでしょうか」
巫馬期が孔子にこのことを伝えると、孔子は言った「丘は幸せだ。もし過ちがあれば、人がそれを知らせてくれる」

孔子は人と一緒に歌って相手がうまければ、必ずくりかえして、その後に合唱した。

孔子曰く「わたしは学問については人並みに行うことができる。君子の行いを実践することは、わたしはまだ充分ではない」

孔子曰く「聖とか仁というのは、わたしにはまだ行うことができない。ただこの道を行ってあきることがなく、人を教えて怠らないというのは、 言ってもよいだろう」
公西華曰く「当にそれこそ私たちのまねできないところです」

孔子の病気が重くなった。子路はお祈りしたいと請うた。
孔子曰く「そういうことがあったか」
子路曰く「あります。誄に『なんじのことを天地の神々に祈る』とあります」
孔子曰く「丘(わたし)の祈りは久しいことだ。祈ることはない」

孔子曰く「贅沢になれば尊大になり、倹約していればかたくなになる。しかし尊大であるよりはむしろかたくなの方がよい」

孔子曰く「君子は平安でのびのびしているが、小人はいつまでもくよくよしている」

孔子は穏やかであるが厳しく、威厳はあるが激しくなく、恭しくして平安である」

【泰伯第八】

孔子曰く「泰伯は最高の徳をもっているといえるだろう。三度天下を譲った。しかも人にわからないやり方だったので、 民もこれを讃えることができなかった」

孔子曰く「うやうやしくても礼がなければ苦労する。慎重であっても礼がなければいじけてしまう。勇ましくても礼がなければ乱暴になる。 真っすぐな性格であっても礼がなければ窮屈になる。
為政者が親類に手厚ければ、民にも仁が興る。為政者が昔馴染みを忘れなければ、民も情薄でなくなる」

曾子が病となった。曾子は門人たちを呼び寄せて言った。
「わが足を見よ、わが手を見よ。詩に『戦戦兢兢として深淵に臨むように、薄い氷を踏むように』とある。これから先はわたしはこの心配をしなくてもよいな、 きみたち」

曾子が病となった。孟敬子が見舞いにきた。
曾子曰く「鳥が死のうとする時には、鳴き声は悲しいし、人が死のうとする時には、その言葉は立派なものだといいます。
君子が礼について貴ぶことは3つあります。姿かたちを整えれば人から暴虐を受けません。顔つきを整えれば誠実に近づきます。 ことばを口にすれば俗悪から離れます。
お供えの器物などのことは、かかりの役人に任せておけばよろしいのです」

曾子曰く「才能がある人がない人に尋ね、知識が豊かな人が乏しい人に尋ね、有ってもないようにふるまい、充実していてもからっぽのようにふるまい、 害を受けても仕返しをしない。昔、わが友(顔回)は、そういうことにつとめていた」

曾子曰く「六尺のみなしごをあずけることもできれば、諸侯の政治をまかせることもでき、大事にあたってもその志を失わない。 これこそ君子であろうか、君子であろう」

曾子曰く「士はおおらかで強くなければならない。任務は重く道は遠い。仁を自分の任務とする、なんと重いことか。死ぬまでそれをやめない、 なんと遠いことか」

孔子曰く「詩によってふるいたち、礼によって確立し、音楽によって完成する」

孔子曰く「民を従わせることはできるが、その理由を知らせることは難しい」

孔子曰く「武勇を好んで貧しさを憎むと乱暴になる。人として不仁であり、仁を憎むことがひどいと、乱暴になる」

孔子曰く「もし周公ほどの素晴らしい才能があっても、傲慢で物おしするようなら、目をとめる値打ちもない」

孔子曰く「三年学んで仕官を望まない人は、得難いといえる」

孔子曰く「深く信じて学問を好み、命がけで道を行う。危うい国には入らず、乱れた国には留まらない。転化に道があれば政治を行い、 道がないときには隠居する。国に道があるのに貧しくて低い地位にいるのは恥である。国に道がないのに金持ちで高い地位にいるのは恥である」

孔子曰く「その地位にいなければ、その政務に口出ししない」

孔子曰く「楽官の摯の歌い始めと関雎の終わりは、のびのびとして耳に広がるね」

孔子曰く「気が大きいがまっすぐでなく、無知なくせに真面目でなく、馬鹿正直なくせに誠実ではない。こんな人はどうしようもない」

孔子曰く「学問には、及ばないという気持ちで行うも、なおこの気持ちを忘れていないかを恐れる」

孔子曰く「堂々としたものだね。舜と禹の天下の治め方は。それでいてすべて自分で決しなかった」

孔子曰く「偉大だね、堯の君としてのあり方は。堂々としてただ天だけを偉大として、これに従った。のびのびとして民には言い表しようがない。 堂々として立派な業績をたて、輝かしく礼楽を定めた」

舜に5人の臣がいて、天下が治まった。
武王曰く「わたしには治めてくれる者が10人いる」
孔子曰く「人材は得難いものだというが、はたしてそのとおりだ。堯舜時代以後で、周時代に人材は沢山居たが、その10人に婦人がいるので、9人だけだ。 文王は天下の三分の二を有しながら、商に従って仕えた。周の徳は最高の徳であるといってよいだろう」

孔子曰く「禹は非のうちどころがない。飲食をおさえて神々にお供えし、衣服を質素にして祭りを盛んにし、 住まいを粗末にして灌漑のために力を尽くした。禹は非のうちどころがない」

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縦横家とは?そして算命学の原則とは?

先日鬼谷子について触れた際に、縦横家だというお話しをしましたが、そもそも縦横家という言葉が聞きなれないと思いますので、改めて整理しておきます。
 鬼谷子より学ぶ!他人を説得する方法!

中国の春秋戦国時代に活躍した戦略家というと、「孫子の兵法」などでも良く知られている兵家があるかと思います。
一方、時勢を察して巧みに謀をめぐらす(外交)政策のことを「合従連衡」といいますが、その提唱者である張儀蘇秦、そして彼らが師事した鬼谷子を縦横家といいます。
縦横家は、天下を舞台にする権謀術数の知恵者で、政治、経済、歴史、地理、風俗習慣、人物から自然に至るあらゆるものに通じており、人を意のままにあやつると言われる程神秘化した存在でした。
というのも、縦線<南北>と横線<東西>で物事を考え、人の運勢や国の進退を見極め、当時最高の科学的学問・算命学を用いていたためです。
兵家が軍の進退を考えた「戦略」に対して、縦横家は国全体の進退を考えた「軍略」として区別されていたことからも、算命学のアプローチの規模が広範であったことが想像できるかと思います。
そして、この学問は春秋戦国時代を終わらせ中国を統一した秦の始皇帝により門外不出、一子相伝の学問として保護され、歴代の王朝に受け継がれました。

そもそも、今から3,600年前の中国、殷王朝時代には既に六十干支※)が「暦」として使用されており、それを元にした干支暦は日本でも明治の初めまで使われていました。
※)六十干支については、以下も参考にしてください。
陰陽五行説 万象学って何?
算命術 十六元法事始め。
この六十干支の干(十干※)は「空間」を表し、支(十二支※)は「時間」を表しています。
※)十干十二支については、以下も参考にしてください。
陰陽五行 八方、十干十二支を整理すると。
そして縦横家は、縦線=空間、横線=時間と考え、暦は時間だけではなく空間の変化でもあると考えました。
そもそも東洋の発想は人の存在に立脚した時間観念であり、人の生命が有限だからこそ時間に価値があり人生に役割があると捉えていた訳です。
そして、誕生時の時間と空間(六十干支)で人の役割が決まることや、時間(年・月・日)の経過に伴い好調と不調が周期的に巡る法則があることなどを発見しました。

こうした考え方を応用・発展させた算命学では、基本線に人間は平等、役割に上下があるという思考方法を取ります。
常に縦横の交点を自分に置いて考え、残りの4方向(東・西・南・北)に意味を持たせ、原理原則を説明する思考法を取ります。
こうした話しは、軍略の整理の中でも触れていますので、参考にしてください。
 東洋史観 算命学を元に時代推移地図を作ると
 東洋史観 算命学を元に時代推移地図を、の続き!
 東洋史観 東洋の予知・占術を補足しておきましょう
 東洋史観 軍略的な観点から見た、2015年の日本人が取り組むべきこと!

算命学では、全ての事象を縦横思考で積み重ねて行きますし、礼記論語などと違ってしなければならないという戒律的な強制はない反面、自力本願の自力運であり、それを実践するのも自己責任なのです。
こうした考えに基づく軍略をマスターし応用する事で、理路整然と物事を説明・判断し、結果的には意のままに人の心を操る事も可能だったのかもしれません。
古典に学ぶことは、政治・経済・地理・自然・習慣等のあらゆる学に通じる道を構築することです。
何を学び取り実践するか、熟慮して参りましょう。

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孟子より学ぶ!性善説と王道に基づくリーダーの心得!

孟子は戦国時代中国の儒学者・思想家で、仁や孝悌(四徳と五倫)を重んずるとともに性善説に基づいた王道政治を説いた人物であり、その言行をまとめた書も『孟子』といいます。
孟子』は、儒教経書四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)のうちのひとつで、儒家にとっては六経の前に読むべきものとして重要な経典とされました。

孟子は諸侯を遊説して歩きましたが、小節を曲げてまでも大義を伸ばそうとはしなかったので、当時の君主はみな孟子は世事に疎しと批評して、その意見を聞き入れる者がありませんでした。
そこで孟子は世間を退いて、優れた門人である公孫丑や石章などと議論したことを集め、また自分の説いていたことも入れて、あわせて一冊の書物として七篇に分け、 261章34,685字の『孟子』を著しました。

孟子性善説と四徳と五倫について、ざっと整理しておきます。

性善説
 人間の心には、
 ・善悪を理性的に判断する能力=良知
 ・悪をしりぞけて善をやろうとする能力=良能
 の2つがあるから、人は生まれながらにして良心的な心を持っているという考え方です。
 そのため、人間が悪いことや欲を持とうとするのは、周りの環境(=人間の外)が良くないのが原因と考えました。

五倫:
 人間の社会での関係を制限した考え方です。
 例えば、
 ・父と子の関係=親
 ・君と臣の関係=義
 ・夫婦の関係=別
 ・長と幼の関係=序
 ・=朋友の関係=信
 といったものがあり、何か問題がある場合には、周りの環境が悪く、人間は悪くないと考えました。
 そのため、正しい人間関係の在り方として「五倫」が重視されています。

四端と四徳:
 人には生まれながらにして四端(四つの徳の根本)を持っているため、その四端を養うことで四徳を実現できるという考えです。
 四端                     四徳
 ・他人の不幸を見て見ぬふりができない憶測の心 ・仁
 ・自らの不正、悪を羞じ悪む羞悪の心      ・義
 ・互いに譲り合う辞譲の心           ・礼
 ・善悪を見分ける是非の心           ・智
この四徳が充実すると、何事にも動じない”浩然の気”というのが生まれます。
※)大丈夫とは、浩然の気を獲得した人のことを称して呼んだ言葉だそうです。

易姓革命という政治観:
 ”民を貴しとなす”と考え、政治は上の人が仁義を持っている政治(=王道政治)が良いと考えました。
 そのため、上の人による王や権力が支配する政治(=覇道政治)を否定し、民衆は王様が民衆の意見とは違う政治をしたら、王を変えることを認めるべきと考えたのです。

孟子』には、封建的な身分秩序を絶対視する観点が貫徹していますが、それでも道義主義的な生き方や人間観からは学ぶことが多々あります。

戦後教育は、『教育勅語』に見られる忠孝中心の儒教的修身教育を否定して成り立っているので、孟子孔子に端を発する儒教道徳の再評価には、ある種強い拒絶反応があるのかもしれません。
しかし、論語の再評価が高まっていることからもお分かりのように、これらを全否定することなど実質的には困難なことですし、一方的なレッテルを貼って古典を顧みない(=歴史から学ばない)のは愚かなことです。

そもそも孔子孟子が説いてきた忠孝の「忠」は、元々真心を尽くすという意味でした。
君に忠義を尽くすのも、決して絶対的な服従や盲従を行うというものではなく、自己の信念に従って、誠心誠意君と義を共にすることであったのです。
勿論、忠孝の「孝」に関しては、儒教的な家父長家族のイデオロギーの特徴として父権を絶対化し神聖化していますし、更にそれを仁の根本とし、すべての道徳的基礎にするといった、非常に偏った内容であることは確かなことです。
しかしこうしたことは、良いところは良い特質を持ったまま取り入れ、悪いところは日本流にアレンジしてきちんと使える形にする(それでもNGなら捨て去る)という日本人の習合の特質で、きちんと咀嚼していけばよいだけのことです。

一方的に○×で良し悪しだけ判断する単純化された現代の思考パターンは、古来の日本人の性質からは大きくかけ離れているものです。
古典に学び、問い、考える精神修養が、今こそ必要な時期はないのだという前提に立ち、精錬練磨してまいりましょう。

ちなみに『孟子』に関しては、吉田松陰による孟子の講義録:『講孟箚記』が有名です。
吉田松陰が『孟子』を元に如何に聖賢の教えを学び実践しようとしたのか、その内容については後日改めて整理してみたいと思います。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

梁恵王章句上
【一章】
孟子は魏恵王にお目にかかった。恵王は「先生は千里の道をはるばるお越しくださった。わが国に利益を与えてくださるのか」と言うと、 孟子は「王にはどうしてそう利益、利益と口にされるのですか。大事なのはただ仁義だけです。利益を追求ばかりするから、下の者が上の者から奪い取ろうとするのです」と答えた。
【二章】
恵王は庭の大雁や大鹿を眺めながら「賢者もわしのようにこうしたものを見て楽しむのだろうか」と言った。
孟子は「賢者であってこそ、はじめてこれらのものが楽しめるのです。周の文王は台や池をつくりましたが、人民はそれを褒め称えました。 文王がひとりで楽しまないで、人民といっしょに楽しんだからこそ、人民はこれを喜び、ほんとうに楽しんだのです」と言った。
【三章】
恵王は「わしは国の政治にはあらんかぎりの苦心をしている。それなのに隣国の人民がいっこうに減りもせず、わしの人民がさっぱり増えもしないのはなぜだろうか」と問うた。 孟子は「王は戦がお好きですから、ひとつ戦でたとえましょう。戦のときに武器を投げ捨て逃げ出した者がいました。100歩逃げた者もあれば、 50歩で留まった者もありました。 50歩逃げた者が100歩逃げた者を『この臆病者め』と笑ったら、いかがなものでしょう」と言った。
恵王は「それはいかん。逃げたことには変わりがない」と言うと、
孟子は「今、王の政治はご自分の犬や豚には食べ物をたらふく食わせながら、これを米倉に収め貯えようとなさらない。人民が餓死しても『わしの政治が悪いのではない。 凶作のせいだ』と言っておられる。これは先の50歩逃げた者と何の違いがありましょう」と言った。
【四章】
恵王は「ひとつ先王のお話をお聞きしたいものだ」と言うと、孟子は「刃物で人を斬り殺すのと政治が悪くて死に追いやるのとでは、何か違いがありましょうか」と言った。 恵王は「違いはない」と答えた。
孟子は「いま王の調理場にはうまそうな肉があり、馬屋には元気な馬が飼われていますのに、人民といえば飢えて餓死者がころがっております。 これでは獣どもをひきつれて人間を食わせているようなものです」と言った。
【五章】
恵王は「わが晋(魏)は、以前は天下に並ぶもののないほど強い国であった。ところがわしの代になってから、東は斉に破れて太子申は捕まり死んでしまうし、 西は秦に700里の地を奪われ、南は楚に敗戦の辱めを受ける始末。わしは残念でならぬ。わしの眼の黒いうちに恥をすすぎたい。どうしたらよいものだろう」と言った。
孟子は「王がもし仁政を行って刑罰を軽くし、税金の取立てを少なくし、田地を深く耕して草取りも早めにさせ、孝悌忠信の徳を教えるようにさせたなら、 どんな強兵にも打ち勝つことができます。諺にある『仁者に敵なし』とは、つまりこのことをいったものです。王よ、どうか私の申すことをお疑いなさいますな」と答えた。
【六章】
孟子は魏襄王に謁見し、退いてからある人に「新しい王は、遠くから見ても、どうも王らしさがなく、近づいてお会いしても、 いっこうに威厳がない。いきなり『この乱れた天下は、いったいどこに落ち着くのだろう』とお尋ねになる。そこで『必ず統一されましょう』とお答えすると、 『だれが統一できるのだろう』と問われる。そこで『人を殺すことが嫌いな仁君が、よく統一できましょう』とお答えすると、 『いったい、だれがそれに味方するのだろう』とまた聞かれる。そこで『天下に味方しないものは一人もありますまい。今、そういう仁君が現れたなら、 天下の人民はみな首をながくして慕い仰ぐことでしょう』とお答えしたのである」と言った。
【七章】
斉宣王が孟子に斉桓公と晋文公について尋ねた。 孟子は「孔子の流れを汲む者は、誰ひとりとして桓公や文公のことを口にする者はありません。 天下の王者となる道についてならお話します」と答えた。 宣王は「どんな徳があれば、王者になれるのか」と尋ねると、孟子は「ただ仁政を行って人民の生活を安定すれば、王者となれます」と答えた。
宣王は「わしでも人民の生活を安定できようか」と尋ねると、孟子は「もちろんできます。私は胡齕からこう聞きました。 王は牛が引かれているのを見て『その牛はどこへ行くのか』と尋ねられると、その男が『新しく鐘をつくったので、この牛を使ってお祭をするのです』と答えました。 王は『かわいそうだ。助けてやれ。代わりに羊にしたらよかろう』とおっしゃられたとか。このお心こそ、天下の王者となるに充分なのです。 人民たちは王はけちであるとか噂していますが、私には王のお心はよく分かります」と言った。
王は苦笑して「そうか。なるほど、そんなことを言っている者もいるのか。まあ、なぜ取り替えよと言ったのか、自分でも分からぬ」と言うと、 孟子は「人民たちが何を言っても、決してお気にかけなさいますな。牛はご覧になりましたが、羊はまだご覧にならなかったからです。 その生きているものを見ては殺される時はとても見てはおれないし、その鳴き声を聞いては、とてもその肉を食べる気にはなれないものです。だから、 君子は厨房には近づかないのです」と言った。
宣王は「自分でしたことだが、やっと分かった。しかし、この心があれば充分王者になれるというのはなぜか」と尋ねると孟子は「王のおなさけは鳥や獣まで及んでいるのに、 人民にはそのご実績が及んでいないのはどういうことでしょう。これは力を出そうとしないからです。人民の生活が安定しないのは、おなさけをかけようとなさらぬからです。 王が王者となられないのは、なろうとなさらぬからであり、できないのではありません」と答えた。
宣王は「しないのと、できないのではどうちがうのか」と尋ねると孟子は「泰山を小脇にかかえて北海(渤海)を飛び越えることは本当にできませんが、 目上の人に腰を曲げてお辞儀をすることは、できないのではなくて、しないのです。まず自分の父母を尊敬するのと同じ心で他人の父母も尊敬し、 自分の子弟を可愛がるのと同じ心で他人の子弟も可愛がる。そうすれば広い天下も思うがままに治めていけるのです」と答えた。
また孟子は「いったい王は戦争をよくされますが、それでお心は愉快でしょうか」と言うと、宣王は「どうして愉快なものか。ただわしには大望があるからだ」と答えた。 孟子は「王の大望は領地を広め、秦や楚を来朝させ、身は中国に君臨することをお考えでしょう。しかし今、天下には千里四方の大国が九つあり、斉はそのひとつでしかありません。 たったひとつで八つの国を征服するなど鄒が楚を相手に戦するのと何の違いがありましょう。
なぜ政治の根本に立ち返って王道を行わないのですか。仁政を施かれたなら、役人は斉に使えたいと望み、農夫は斉で田畑を耕したいとのぞみ、 商人は斉の市場で売買したいとのぞんで移ってくるでしょう」と言った。
宣王は「どうか先生、ハッキリと教えていただきたい。わしは不肖ながら、なんとか一つやってみたい」と言うと、孟子は 「まず井田の法により一世帯ごとに百畝の田地と五畝の宅地を与えてやり、そのまわりに桑を植えさせると、50過ぎの老人も絹が着られます。また鶏・仔豚・犬・ 牝豚などを飼わせると、70過ぎの老人も肉食ができます。農繁期に力役や軍事などに駆り出さなければ、8人ぐらいの家族なら、まずひもじい目にはあいますまい。
つぎに学校での境域を重視して、親への孝、目上への悌を教えれば、老人が路上で重い荷を背負うことはなくなります。このような政治を行って、 天下の王者とならなかった人はいません」と言った。

【梁恵王章句下】
【一章】
荘暴が孟子に「王が先日、『楽しみごとが大好きだ』と仰せになったが、私はご返事できかねました。いったいこれはいかがなものでしょう」と言った。 孟子は「それは結構なことです。斉が王者となるのも、そう遠いことではないでしょう」と言った。
後日、孟子は宣王に謁見して、このことを話した。宣王は「わしの好きなのは、先生のやる品の良い楽しみではなく、ただ世間ではやっている楽しみごとなのだ」と言うと、 孟子は「それでも結構なのです。王が人民たちといっしょに楽しむようになされたら、人民は自然になついて、国も治まり、やがては天下の王者となられるでしょう」と言った。
【二章】
斉宣王が「周の文王の狩場は70里四方もあったというが、ほんとうだろうか」と尋ねた。孟子は「そうです。しかし人民はまだ狭すぎる、もっと大きくされてはと思っていたようです」 と答えた。宣王は「私の狩場はたかだか40里四方しかないのに、人民は広すぎると言っておるのはなぜか」と言われた。孟子は「文王の狩場は70里あっても、草刈り、 木伐りも狩人も自由に入れましたし、自由に穫ってもよかったのです。文王はそれを独占しないで、これを人民と共有にしておられたのです。王の狩場に入った者は死罪になるとか。 これでは人民が広すぎると思うのも、もっともではありますまいか」と言われた。
【三章】
斉宣王が「隣国と外交するのに、なにかよい方法があるだろうか」と尋ねた。孟子は「あります。たとえ、こちらが大国であっても、 隣の小国を侮らずに礼を厚くして外交をすることが肝心ですが、これはただ仁者だけができることです。また反対にこちらが小国であれば、 たとえいかに圧迫されてもよくこらえて大国につかえて安全をはかることが肝心ですが、これはただ智者だけができることです」と答えた。
宣王は「まことに立派な言葉であるが、自分には少々悪い癖があり、とかく血気の勇に逸ってしまうので、それはできそうにない」と言うと、孟子は 「王には小勇ではなく、大勇をお持ちになっていただきたいものです。もし王がひとたびお怒りになって、天下の人民を安んじなさるなら、 人民は等しく王が勇気をお嫌いになりはせぬかとひたすら心配するようになるでしょう」と言った。
【四章】
斉宣王は孟子と雪宮で会見した。宣王は「先生、賢者にもまたこうした楽しみがありますか」と尋ねた。孟子は「それはありますとも。人民は自分もそういう楽しみが得られないと、 とかく上の人をそしり怨むものです。といっても、人の君主たるものが自分ひとりだけ楽しんで、人民と一緒に楽しまないのは、それ以上に宜しくはありません。
君主が人民と一緒に楽しみ、人民と一緒に心配する心があれば、必ず人民の方でもまた君主の楽しむのを見てはともに楽しみ、心配するのを見てはともに心配するものです。 このようにして天下の王者とならなかったひとは、昔から今までにまだ一度もございません」
【五章】
斉宣王が「皆が、明堂を壊してしまえとすすめるが、どうしたらよいだろうか」と尋ねた。孟子は「そもそも明堂は、天子が諸侯を集めて政令を出された堂です。 ですから、王がもし王者の政治を行い、天下に号令したいとお思いなら、取り壊さないで残しておくべきです」と答えた。宣王は「王者の政治とはどんなものなのか」と尋ねると、 孟子は「むかし文王がまだ諸侯の頃、農民には九分の一しか税をかけず、役人には俸禄を世襲させ、関所では税をかけず、川で魚をとることを自由にさせ、 刑罰で連坐させることはしませんでした。また年を取って妻をなくした者、夫をなくした者、頼る子供がない者、幼いうちに親を無くした者を救うことを真っ先にしました」と答えた。
宣王は「まことによい話だ」と言うと、孟子は「ではどうして実行なさらないのです」と言った。宣王は「どうもわしには悪い癖があって財貨が好きなのだ。 王者の政治は難しかろうよ」と言った。孟子は「王は財貨がお好きなら、周の公劉のように貯えて人民と一緒に使って下さい」と言った。
宣王は「わしは色を好むから、王者の政治は難しかろうよ」と言った。孟子は「王は女色を好まれても、男女の正しいありかたを示され、人民と一緒になさるお心がけなら、 天下の王者となるのになんの違いがありましょう」と言った。
【六章】
孟子は斉宣王に「遠く楚に行くとして、自分の妻子の世話を親しい友人に頼んだとします。ところが、帰ってみれば、妻子をさっぱり世話をしていなかったら、 この友人をどうなさいますか」と言った。宣王は「もちろん、そんな者は見棄てて用いない」と答えた。孟子は「では士師が無能で役人を取り締まれず、刑罰が乱れたとしたら、 どうなさいますか」と言うと、宣王は「もちろん、そんな者はやめさせてしまう」と答えた。孟子は「では、一国の君主として国内がよく治まらない時には、 どうなさいますか」と言った。王は返事に困り、他の家臣と別な話をしてごまかした。
【七章】
孟子は斉宣王に謁見して「古い国と世間から尊ばれるのは、その国に大きな樹木があるからではありません。忠義な譜代の家臣がいるからです。ところが王は、 昨日登用したばかりの者を、今日やめさせておられます」と言った。宣王は「これまでやめさせたものは、不才のものばかりだ。人物の才、不才を知るには、どうしたらよいのだろう」 と尋ねた。孟子は「新たに賢人を登用する時には、彼以外には人物がいないからやむを得ず登用するのだというような態度でせねばなりません。身分の賤しいものを抜擢したり、 血縁でない者を登用するのですから。そのときには、慎重におこない国中の人がみな非常な自分だとほめてから登用なさることです。またその反対に罷免させる時も、 刑罰のときも国中の人がみなそうすべきだと確信されてから行うことです。このように慎重な態度をとってこそ、ほんとうに人民の父母たる君主の資格があるのです」と答えた。
【八章】
斉宣王が「殷の湯王は夏の桀王を追放し、 周の武王は殷の紂王を討伐したという。家臣の身でありながら、自分の主君をあやめてもよいものだろうか」と尋ねた。 孟子は「もちろん、よいことはありません。いったい、仁をそこなうものは賊といい、義をそこなうものは残といいます。残賊の人はもはや主君ではなく、ただの人でしかありません。 だから紂という一人の男が武王に殺されたことは聞いていますが、家臣がその主君をあやめたということは聞いたことがありません」と答えた。
【九章】
孟子は斉宣王に「もし王が大きな御殿を建てられるなら、一級の大工に棟梁に手頃な大木を探させましょう。ところが下手な大工がその大木を削って小さくしたら、 王はお怒りになるでしょう。それと同じで、幼少から道を学び、壮年になって実行にうつそうとしている人に、王が『まあ、お前の学んだことはさしおいて、わしの考え通りにやれ』 とおっしゃったら、いかがなものでしょう。下手な大工が大木を小さくしてしまうのと、なんのちがいがありましょう。
また値一万鎰(20万両)の粗玉があれば、王は必ず玉磨きの専門家に磨かせましょう。ところが国家を治めることになると、専門家に向かって『まあ、お前の学んだことはさしおいて、 わしの考え通りにやれ』とおっしゃるのであれば、ちょうど素人が玉磨きの専門家に磨き方を教えるのと少しも違わぬではありませんか」と言った。
【十章】
斉は燕の内乱に乗じて、燕を討ち、大いに破った。宣王は「万乗の国を攻めて、わずか50日で攻め取るとは、天のたまものではないだろうか。もしこれを取らねば天意に逆らうというもの、 いっそ取ってはどうだろうか」と尋ねた。孟子は「もし燕の人民が悦ぶようでしたら、お取なさいませ。古人にもその例があります。しかしもし前よりも虐政が一層ひどくなれば、 民心は他国へ移るでしょう」と答えた。
【十一章】
斉宣王は孟子の言葉を用いず、燕を討ってこれを占領した。諸侯はこれを不義として斉を討とうとした。宣王は非常に恐れて「どうしたらやめさせることができよう」と尋ねた。 孟子は「燕は内乱で苦しんでおり、王が征伐されたので、燕の人民はきっと虐政から救ってくださるお方と思って王の軍を迎えました。ところが長老たちを殺し、 若者を捕虜にし、廟をとりこわし、財宝を持ち帰るなどしては、どうしてよろしいわけがありましょう。
王よ、さっそく捕虜にした者を帰し、宝物を元通りにし、燕の人民と相談して適当な君主を立て、軍を引き揚げることです」と答えた。
【十二章】
鄒が魯と戦って大敗した。鄒穆公が「今回の戦で有司が33人も戦死したのに、兵卒で有司のために命を投げ出したものはいなかった。ぜひとも見せしめに殺してやりたいと思うが、 人が多すぎて処刑しきれない。どうしたらよかろう」と尋ねた。孟子は「それには深いわけがあるのです。民衆は飢饉に苦しんでおるのに、有司たちは公に申し上げて助けようともしません。 ですから人民は常日頃の恨みを今日返したのです。公よ、決しておとがめなさいますな。それよりもまず仁政を行いませ。そうすれば、 人民は有司に親しんで進んで命をも投げ出すことでしょう」と答えた。
【十三章】
滕文公が「滕は小さな国で斉につくべきか楚につくべきか、自分は迷っている。どうすればよいだろう」と尋ねた。孟子は「私にも分かりかねます。ただ一つだけ方法があります。 それは城壁を高くし、堀を深くして、籠城して、たとえ命を落とすとも、人民が公を見捨てて逃げ出すことがなければ、よろしいでしょう」と答えた。
【十四章】
滕文公が「斉は薛を滅ぼし、今度はわが国に迫ろうとしている。どうしたらよいだろう」と尋ねた。孟子は「君子たる者は事業のもといをはじめて、その手がかりを残して、 子孫に継がせれやれば、それで宜しいのです。しかし、それが成功するかは天命であり、人の力ではいかんともしがたいものです。斉が薛に城を築くからといって、 いまさら公のお力でどうなるものでしょう。それを恐れるよりは、ひたすら善政を施かれることです」と答えた。
【十五章】
滕文公が「滕は小国である。斉、楚の侵略から逃れられない。どうしたらよいだろう」と尋ねた。孟子は「むかし周の文王は狄人に攻められたとき、『狄が欲しがっているのはこの土地である。 わしはここを立ち退こうと思う』と言い、豳を去って岐山の麓に移りました。すると豳の人々は大王を慕ってついて行ったのです。これが一つの方法です。
しかしまた『国土は祖先から代々受け継ぎ守り抜いたもの。自分の一存で勝手にはできぬ。命を掛けても立ち退くな』と主張する者もいます。これもまた一つの方法です。 王よ、とくとお考えの上、どちらかを選んでください」と答えた。
【十六章】
魯平公が出かけようとした。近臣の臧倉が「今日はどちらに行かれるのですか」と尋ねた。 平公が「孟子に会いに行くつもりだ」と言うと、 臧倉は「公が軽々しく一平民をこちらから訪問なさるとは。あの孟子は礼儀もわきまえず、母の葬式はその前の父の葬式よりも立派にしました。 かように礼儀を知らない男にはお会いなされますな」と言った。平公は「そうか。そうしよう」と言い、訪問を取りやめた。
楽正克は平公に謁見して「公はなぜ孟軻とお会いにならないのですか」と尋ねると、平公は「『孟子は礼儀もわきまえず、 母の葬式はその前の父の葬式よりも立派にした』と告げた者がいたので急にやめたのじゃ」と答えた。楽正克は「立派とはどういうことでしょう」と尋ねると、 平公は「葬式に用いた棺桶や着物やふすまなどが前よりも立派過ぎたことだ」 と答えた。楽正克は「それは前には貧しく、後には富んでいたからです」と言い、御殿をさがって孟子に会い、言い訳をして「公はここに来て先生にお会いになるはずでしたが、 近臣の臧倉という者が邪魔をしたので、取りやめになったのです」と言った。
孟子は「いやいや克よ。人が出かけるのも取りやめるのも、みなそうさせるものがあるので、人間の力の及ぶところではない。わしが魯公に会えないのは、天命なのじゃ。 臧氏の小伜などの力で、どうして天命を自由にできよう」と言った。

【公孫丑章句上】
【一章】
公孫丑が「先生がもし斉の政治を執られたら、 あの管仲晏子のような立派な功績が期待できましょうか」 と尋ねた。孟子は「君は斉に生まれたので、人物といえば管仲晏子になるのだね。ある人が曾西を、子路と比較した時、 曾西は非常に恐縮したが、管仲と比べられると非常に怒ったという。曾西でさえもこのようであるのに、私に第二の管仲になれと願うのかね」と言った。
公孫丑は意外に思って「管仲桓公を覇者にさせましたし、晏子は景公の名を天下にとどろかせました。 それでもなお言うに足りない人物なのでしょうか」と言った。孟子は「斉のような大国で、天下の王者とさせることは、極めてたやすいことだ」と言った。 公孫丑は「文王は聖人の徳があり長生きをされたが、その徳化はまだ天下に充分には行き渡らず、王者になれませんでした。それなのに先生は王者になることはたやすいと言われる。 それでは文王も模範とするに足らないのでしょうか」と尋ねた。孟子は「文王は古の聖人、我々などにどうして比べられよう。そもそも殷は湯王から6、7人も聖人が出て、 天下の人心は長い間殷に帰服していた。だからそうたやすくは滅びず、すっかり天下を失うまでには歳月がかかったのだ。
であるから、今の時勢こそ、王者になりやすい最もよい時期なのである。ただこのまま仁政を行えば王者となれるのであり、誰一人これを防げることはできない」と言った。
【二章】
公孫丑が「もし先生が斉の宰相となり、斉王を王者にさせたなら、たとえ先生でも多少心に動揺が起こりませんか」と尋ねた。孟子は「いや、40歳を越してからは、 どんなことにも心は動揺しなくなった」と答えた。公孫丑は「そうであれば、先生の勇気はかつての孟賁以上ですね」と言うと、孟子は「そう難しいことではない。告子でさえ、 わたしより先にそうなっている」と言った。
公孫丑は「そうなるには、なにかよい方法がございましょうか」と尋ねた。孟子は「あるとも。むかし孟施舎という勇士は、とても勝てないと分かっていても敵を畏れずに進むと言ったが、 これは曾子に似ており、気力を守っているといえる。しかし、ただ単に気力を守っているだけで、顧みて正しい時は、 あくまでつらぬき守るという曾子の要約を得た方法とは、とても比べものにはならない」と答えた。
公孫丑は「先生と告子の違いをお聞かせいただけないでしょうか」と尋ねた。孟子は「告子は、他人の言葉を理解できないことがあっても、 心の中で無理に理解しようと焦ってはいけないと言っているが、これは宜しくない。いったい心のはたらきである志というものは、気力を左右するものであり、 気力は人間の肉体を支配するものである。だからあくまでも志をかたく守って、気力を無駄にそこなってはならぬと自分は言うのだ」と答えた。
公孫丑は「先生は前に、志がまずしっかりと確立すれば、気力はそれに付き従うと申されましたが、これと食い違いがあるように思われますが、どういうことでしょう」と尋ねた。
孟子は「志がひとつのことに集中すると気力を動かすが、反対に気力がひとつのことに集中すると逆に志を動かすこともあるのだ。たとえば、 急いで走ってかえってつまずくのは、気力が走ることに集中しすぎたためであり、気力がありすぎて心を動揺させ、かえって心のはたらきを鈍らせてつまずかせたのだ」と答えた。
公孫丑は「では、先生は告子よりも、どこがまさっているのでしょうか」と尋ねると、孟子は「わしは他人の言葉をよく判断する。また、浩然の気をよく養っておることだ」 と答えた。公孫丑は「その浩然の気とは、どういうものなのでしょう」と尋ねると、孟子は「この上なく大きく、この上なくつよく、しかも正しいもの。 立派に育てれば、天地を充満する、それが浩然の気である。しかし、いつも正義と人道に連れ添って存在するものだから、この2つがなければ、気はしぼんでしまう。 気だけを目的として養っていてもいけないし、気を養うことを忘れてもいけないし、苗を助長させようとして、苗を引っ張った宋人のようにあせってもいけないのだ」と答えた。
公孫丑は「他人の言葉をよく判断するというのは、どういうことでございましょうか」と尋ねると、孟子は「正しくない言葉が、その心に起きると、 必ず行為にも弊害が現れてくる。人の行為に弊害があらわれてくると、必ずその人の行う政治にも弊害があらわれてくるものである。だから他人の言葉をよく判断するというのは、 天下国家のために必要なのだ」と答えた。
公孫丑は「孔子はご自分では『どうも話すことは不得意だ』とおっしゃっていますが、先生はもはや聖人の域に達しておられるのですね」と言うと、孟子は 「君はいったい何ということを言うのか。聖人というものは、孔子でさえも自ら任じておられなかったのだ。それなのにこの私を聖人であるなどと言うとは」と言った。
公孫丑は「孔子の門人子夏、子游、子張はいずれも聖人の一面を供えた人で、 冉牛、閔子、顔淵は聖人の徳はあるが、その器量は小さいとのことです。 先生はいったいどなたぐらいにあたりましょう」と尋ねると、孟子は「しばらくその話はやめておこう」と答えた。公孫丑はまた 「では伯夷や伊尹はいかがでしょう」と尋ねると、孟子は「2人はそれぞれ生き方が違う。 2人とは違って、仕えたほうがよいときは仕え、やめた方がよいときはやめる、長くいてよいときは長くいるし、早く立ち去る方がよいときには、 すぐに立ち去るのが孔子のやり方である。
わしは理想としては、孔子を学びたいものである」と答えた。
公孫丑が「伯夷も伊尹も、孔子とはそんなに優劣がないのでしょうか」と尋ねると、孟子は「いやいや、孔子ほど偉大な人物はいない」と答えた。 公孫丑が「しかし3人にはどこか共通した所はあるのでしょうか」と尋ねると、孟子は「それはある。小国でも、君主となれば、たちまち諸侯を来朝させて、 天下を統一するだろう」と答えた。
【三章】
孟子は「うわべは仁政にかこつけて、ほんとうは武力で威圧するのが覇者である。だから賢者は必ず大国の持ち主でなければならない。 身につけた徳により仁政を行うのが王者である。王者となるには大国である必要はない。徳によって人民を服従させるのは、心の底から悦んで服従するのであり、 70人の門人が孔子に心服したのが、それである」と言った。
【四章】
孟子は「仁徳を修めてさえおれば必ず栄えるし、悪いことばかりしておれば必ず他から屈辱を受けるものだ。人君たる者があらかじめよく注意して国を治めていったならば、 誰がその国を侮るようなことがあろうか」と言った。
【五章】
孟子は「君主が賢人や有能な人を登用し、政治を執らせれば、天下の人材はみな仕官したいと願うだろう。市場では店舗税はとっても商品税はとらないようにすれば、 天下の商人はみな悦んで商売したいと願うだろう。関所では取調べはしても、関所税や通行税をとらなければ、天下の旅人はみなその国の道路を通りたいと願うだろう。 公田に税をかけ、私田に課税しなければ、天下の農民はみなその田野を耕したいと願うだろう。
この5つの政策をよく実行すれば、その国はもちろんのこと隣国の人民も慕うようになる」と言った。
【六章】
孟子は「人間なら誰でもあわれみの心があるものだ。今もしこのあわれみの心で温かい血の通った政治を行うならば、 天下を治めることはいともたやすいことだ。
では、誰にでもあわれみの心があることがどうしてわかるのかというと、たとえば、幼な子が井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わずハッとしてかけつけて助けようとする。 助けてその子の親と近づきになろうとか、村人からほめてほらおうとかのためではなく、また見殺しにしたら非難されるからと恐れているためではない。
あわれみの心は仁の芽生えであり、悪をにくむ心は義の芽生えであり、譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見分ける心は智の芽生えである。 人間にこの4つ(仁義礼智)の心は生まれながらに具わっているものなのだ。だから人間たるもの、この心の4つの芽生えを育て上げ、 立派にものにしなければならない」と言った。
【七章】
孟子は「矢を作る職人は鎧を作る職人よりも不仁だというわけではないが、矢の職人は矢のできが悪くて人を傷つけぬようではこまると心配し、 鎧の職人は鎧のできが悪くて人を傷つけてはこまると心配する。人の病気を治す巫女と人が死ねば儲かる棺桶屋などもこれと同じだ。 それゆえ身に付ける技術によっては仁と不仁とが別れてしまうのだから、その選択はよほど慎重にしなければならない。
仁という場所に住もうと思えば住めるのに、わざわざ不仁に居着くのは智者のすることではない」と言った。
【八章】
孟子は「子路は自分の気づかぬ過ちを忠告されるとたいへん悦んだ。また禹は他人から善いことばをきくと、ありがとうと頭を下げられた。舜は善いことなら、 人々といっしょに行うので、もしも他人に善いことがあれば、どんどん取り入れてすぐさま実行にうつした。
このように他人の善を学び取ってはすぐ実行にうつすのは、つまり人々といっしょに善を行うというもの。だから君子の徳としてこれより偉大なことはないのである」と言った。
【九章】
孟子は「伯夷は非常に潔癖で、立派な君主でないと仕えないし、正しい友達でないと交際しなかった。こんな調子だから諸侯からどんなに鄭重に招かれても受け付けない。
柳下恵は不徳の君でも平気で仕えるし、どんなつまらぬ官職でもいっこうに恥じたりはしない。 彼はどんな者といっしょにいてもたのしそうで、しかも自分の正しい本領を失わない男であった」と言った。最後に孟子は「伯夷は心が狭すぎるし、柳下恵は慎みが足りない。 心が狭すぎるのも慎みが足りないのも、どちらも君子は従わない」と許した。

【公孫丑章句下】
【一章】
孟子は「およそ戦争をするには、天の時、地の利、人の和と3つの大切な条件があるが、天の時はどんなによくても地の利には及ばないし、 地の利はどんなによくても人の和には及ばない。
正しい道にかなった人には自然と味方が多く、天下の人々が皆なつき従う。だから、有徳の君子は戦わないことを尊ぶが、やむなく戦うときには必ず勝つのである」と言った。
【二章】
孟子がちょうど斉宣王に参内しようとした時、たまたま王の使者と出会い「実は、王があいにく風をひいてしまい、外へ出ることができません。 もし先生のほうから朝廷へ来てくだされば、お目にかかれるのだが」と言った。孟子はそこで「あいにく私も病気ですから、参内いたしかねます」と言って断った。
翌日、孟子は斉の大夫東郭氏の邸へ弔いに出かけようとした。公孫丑が心配して「先生、昨日は病気と言ってお断りしたばかりなのに、今日外出されては、 まずいことになりませんか」と尋ねたが、孟子は「いや、今日は直った。どうして弔わずにおられよう」と言って出かけていってしまった。
ところが宣王はお見舞いの使者と医者を差し向けた。孟仲子は困って「今日は病気が少しよくなったので、参内するといって出かけましたが、果たして無事に参れたかどうか」 と言い訳をして、人に孟子を待ち受けさせて、事情を話させた。孟子はやむなく大夫の景丑氏の家に泊まった。
景子は孟子の態度を責めて「父子のあいだは恩愛が第一ですし、君臣のあいだは尊敬が第一です。私が見るところ、王は先生に敬意を払っておられるのに、 先生は王を尊敬されていないようです」と言った。孟子は「なんということを言われる。斉の人々で王に仁義の道を説く者はひとりもいないが、 心の中で『この王は仁義の道を語るに足りない方だ』と思っているからでしょう。ところが私は堯舜の道だけを説いています。だから、 自分ほど王をうやまっているものは斉には一人もいないはずです」と答えた。
景子は「いや、そういう意味ではありません。王からお召しがあれば、わざと行くのを取りやめられた。それでは礼に合致しないのではありませんか」と言うと、 孟子は「その礼にいっているのは君臣の礼であって、今は臣下ではありませんぞ。
この世に尊ばれるものが3つあり、一は爵位、二は年齢で、三は道徳です。朝廷では爵位が第一で、世間では年齢が最も尊ばれます。世を救い人民を指導するには、 道徳が最も尊いのです。かつて湯王は伊尹に対して、最初は師として仕え、それから宰相に迎えました。斉桓公管仲の関係もまた同じこと。 管仲でさえも呼びつけにはできなかったのに、ましてや管仲などでないものはなおさらのことではなかろうか」と答えた。
【三章】
陳臻が「先生は斉王から兼金100鎰を贈られたのに、それを受け取られませんでした。それなのに宋の国では70鎰を贈られて受け取られ、 薛の国でも50鎰を受け取られました。 これはなぜなのでしょう」と尋ねた。孟子は「宋のときは、私は旅立つところであり、旅立つものには餞別を贈るのが礼儀だ。薛のときは、私に危害を加えようとする者がいたので、 警備の費用にと下さったのだ。ところが斉のときはなんらそのお金を必要とすることがなかった。必要ともしないのに金を贈るのは、賄賂というもの。かりにも君子たるものが、 賄賂で買収されてどうしてよかろうか」と答えた。
【四章】
孟子は平陸に行ったとき、大夫の孔距心に「警護の兵が一日に三度も隊伍を離れて勝手なことをしたら、 あなたは軍法にかけて処分しますか」と尋ねた。 孔距心は「いや、三度といわず一度でもすぐ処分します」と答えた。孟子は「あなたにもこの兵と同じ怠慢がありますよ。悪疫や飢饉の年には、あなたの領内には飢え凍えて死ぬ人や、 四方に散り散りになって逃げ出す者が多いのです」と言うと、孔距心は「しかし先生、このわたしの力では、何ともできないことです」と言った。
孟子は「牧畜をする人は、牛や羊の為に必ず牧場と牧草を探すでしょう。もし見つからぬときは、もとの持ち主に返しますか。それともぼんやり立って、 その死ぬのを見ていますか」と言った。孔距心は大いに恐縮して「よくわかりました。これは私の責任です」と言った。
その後、孟子は斉王の謁見した時に「王の地方長官を5人知っていますが、その仲で責任をよく自覚しているのは、ただ孔距心ひとりだけです」と言って、 さきの話を申し上げた。斉王は「それは孔距心の罪ではない。わしの罪じゃ」と言った。
【五章】
孟子は斉の大夫蚳鼃に「あなたが霊丘の長官を辞めて士師を希望されたのは、まことにごもっともです。 王のおそばでお諌めできるからでしょう。ところがもう数ヶ月にもなるのに、 まだ一言もご意見しないのはどういうわけでしょう」と言った。そこで蚳鼃は王を諌めたが用いられず、ついに官を辞して立ち去ってしまった。
斉の人々は「蚳鼃のためを思って言ったことはまことに宜しい。だが、夫子自身のことはどうであろう」と孟子の悪口を言った。弟子の公都子がこれを告げると、 孟子は「臣下として職務が果たせなければ辞めて去り、諌めが容れられなければ去るものだという。だが、自分は斉の臣下ではない。自分の進退は自由なのだ」と言った。
【六章】
孟子が斉の卿のとき、王命により正使となって、滕文公の喪を弔いに行った。旅行中、 副使の王驩は使命のことについては一度も相談しなかった。公孫丑が不思議に思って 「先生は大事な使命を帯びながら、一度も王驩と相談されなかったのはどういうわけでしょう」と尋ねると、孟子は「使命のことはすでに彼が一切やってくれているので、 何も相談する必要がなかったのだ」と答えた。
【七章】
孟子の母が亡くなったので、孟子は魯に帰った。その葬式をすませて斉に帰る途中、嬴という町にとまって喪を終えようとした。 門人の充虞が「先生、 棺に使った用材がたいへん立派すぎたように思われますが、いかがなものでしょう」とたずねると、孟子は「棺を立派にするのは、ただ外観の美を飾るためばかりでなく、 人の子たるものが亡き親を思う子を満足させることができるからである。君子はたとえ天子のためであるからといって、自分の親にけちをしないものだ」と答えた。
【八章】
斉の大夫沈同が孟子に「燕を討ってもよろしいでしょうか」と尋ねた。孟子は「よろしい。 燕王噲は勝手に他人に国を与え、 宰相子之も勝手に国を貰い受けた」と答えた。
ほどなく斉は燕を討った。そこである人が孟子に「先生が燕を討つように勧めたというのは、ほんとうですか」と尋ねた。孟子は「いや、そんなことはない。ただ先日、 沈同がそのことを聞いてきたが、さらに『誰が討ったらよいか』と聞いてくれたら、『仁君であれば討ってよろしい』と答えるつもりでいたのだ。いま斉が燕を討つのは、 燕が燕を討つようなものだ。どうしてわしがそんなことを勧めようか」と答えた。
【九章】
燕が斉に背いた。宣王は後悔して「自分は孟子に対してなんとも面目がない」と述懐した。陳賈が「王よ、失敗は誰にでもあるもの。 王はご自身と周公とどちらが仁者であるとお思いですか」と言うと、宣王は「当然、周公ではないか」と答えた。そこで陳賈は 「周公は兄の管叔に殷の遺民を監督させたところ、管叔は謀叛しました。周公が叛くと知りつつ任せたのなら不仁でありますし、 知らずに任せたのなら不智であります。仁と智とは、周公でさえも完全とはいわれぬもの。私がひとつ孟子に会ってよく弁解いたしましょう」と言った。
陳賈は孟子に会って「周公は兄の管叔に殷の遺民を監督させたところ、管叔は謀叛しました。周公のような聖人でさえも、やはり過ちはあるのですね」と言った。 孟子は「周公は弟であって、兄を信じて疑わなかったのはむしろ無理からぬことではあるまいか。それに昔の君主は過ちをすぐに改めたものだが、このごろの君主は改めるどころか、 あべこべにそのまま押し通そうとする。まことに困ったものだ」と答えた。
【十章】
孟子は久しく卿として斉に仕えていたが、意見が用いられないので辞職して去ろうとした。斉王は時子に「わしは孟子を斉に引き留めておきたい。邸宅を与え、一万鐘の禄を与え、 弟子を養成させ、孟子を師表として敬わせたいのじゃ」と言った。時子は孟子の弟子の陳臻に頼んで孟子に話を取り次いでもらった。孟子は「あの時子ごときには分からんだろう。 もしかりにわしが富を欲するなら、客卿の十万鐘の禄をことわろうか。子叔疑は卿相を辞めるとき、自分の子弟を卿にすえたという。 これこそ富を壟断すようとするものだ。昔の市場は、役人がただ取り締まるだけであったが、卑劣な男が小高い丘に登って、 左右を見渡して利益を独占した。そこで役人も商人に税をかけるようになったのだ」と言った。
【十一章】
孟子は斉を去って昼というところに泊まった。すると孟子を引き留めようとする人があって、孟子に丁寧に話をしたが、孟子は一言も答えず、うつ伏したままであった。 その人は立腹して「私がいろいろ申し上げているのに、先生は一言も答えて下さらぬとは。もはや二度とお目にかかりますまい」と言った。孟子は「まあ、お座りください。 理由を話そう。むかし、魯の穆公は子思を尊敬して、お傍にいつも人をつけて誠意を示したといいます。 また泄柳や申詳も、穆公の側に立派な人物がいないと安心できなかったと言います。 貴方がこの長者にいろいろ心配してくださるのはありがたいが、 斉王は穆公の心がけを持たれない。そうなれば、いったい貴方の方からこの長者と縁を絶たれるのか、それともこの長者の方から縁を絶つのか、もうお分かりだと思う」と答えた。
【十二章】
孟子は斉を去った。尹士というものが「孟子は、斉王が湯王や武王のようには到底なれないのを知らずに来たのならば、よほど不智であるし、 また駄目と知りつつも来たのならば、俸禄にありつかんがためだ。王と意見が合わないから去るというのに、昼に3日も泊まってからやっと出発するとは、 なんと未練がましいのだろう」と非難した。
孟子の弟子の高子がこれを知らせると、孟子は「尹士にどうして私の心が分かろうぞ。斉王にお目にかかったのは、どうかして道を行いたいと願えばこそであった。 去るのは決して自分の希望ではない。だから昼に3日も滞在したが、それでもなお早すぎるぐらいだ。王よ、お願いです。考えを改めてください。王が改めれば、 必ず私を連れ戻すだろう。しかし、昼を出ても王は追って来られない。そこで私は諦めて去ったのだ。というものの、今でも王を見限りはしない。王はやはり、 ともどもに仁政を行うことのできるお方だ。
王がもしも私を用いてくだされば、斉一国だけでなく、天下の人民が安らかになるのだ。私はそれを朝な夕なに願い望んでいるのだ。どうして諌めを受け入れてもらえないからと言って、 腹立ちまぎれにすぐに去ろうとすることができようか」と言った。尹士はこれを伝え聞いて「ああ、私は誠に小人である」と自ら恥じたという。
【十三章】
孟子は斉を去り、鄒へ帰るとき、充虞が途中で心配して「先生は浮かぬ顔をしておられますが、以前『君子はたとえいかなることがあっても決して天を怨んだり、 人をとがめたりはしないものだ』と聞きました。どうしてなのでしょうか」と尋ねた。孟子は「あのときはあのとき、今は今。 今までだいたい500年目ぐらいに必ず天下の王者がでたもので、その時には必ず名高い賢者が出たものだ。ところが、周初から今に至るまで700余年もたっておる。 時勢からいえば天下を平定する王者の出現には、この上もない良い時期なのである。しかし、王者が出ないのは、天がまだ天下泰平を望んでいないからであろう。 今、もし天下泰平を望まれるのであれば、王者の補佐役は、自分をさしおいて外に誰がいよう。そう思えば、どうして浮かぬことがあろうか」と言った。
【十四章】
孟子は斉を去り、休にいたとき、公孫丑が「先生は斉の禄を受けられませんでしたが、これは昔からの正しい道なのでしょうか」と尋ねた。孟子は「いや、そうではない。 斉で長居をするつもりがなかったので、禄を受けなかったまでだ。ところが、戦がつぎつぎと起こり、そのまま居着いてしまったが、決して本意ではなかったのだ」と答えた。

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中庸より学ぶ!過ぎたるは猶及ばざるが如し!

孔子の教学(儒教)の根本思想は修己と治人(倫理と政治)であり、儒教の文献の中でも最も要領よく概論したものが『大学』と『中庸』とされています。
『大学』が儒教経書四書の入門として政治に重点を置いているのに対し、『中庸』は四書の中で最後に読むべきものとして倫理に主眼が置かれています。
『中庸』の著者は孔伋であると言われますが、異論もあります。
ここでは宋代の儒家朱熹(朱子)が、『大学』と同じくもともと『礼記』のうちの一篇であった『中庸』を33章にて変遷し直したものを元に、整理してみたいと思います。

中庸とは極端な行動・判断を避けて、ちょうど良い真ん中あたりが良い(大きく偏らないことが良い)という原理原則ですが、『過ぎたるは猶及ばざるが如し』にも通じるものです。
これは、過不足のない最適化された行動原理・判断基準として中庸は儒教の『道』の実践において、極めて重要な概念だとされています。

『中庸』の中心命題は「中庸の徳」と「誠」です。
そもそも孔子の学説は、
仁 → 慈愛の徳 → 孝弟忠信を元に家庭的で社交的道徳 → 広大な普遍的価値に至る
というものです。
それに対して、老子の学説は、
宇宙の本体 → 無為自然 → 人も無為自然であるべき
というものでした。
しかし、中国・戦国時代には、老子の思想が広まっていた頃でした。
そんな老子思想に対抗するため、孔子の教学に一層深遠な意義を加えようとして、『中庸』は作られたのです。
つまり、
・天の命を性、性に従うのは道
・天地の法則は人の本性
・誠
・誠を知らない者は修養が必要
・中庸
・仁
とする学説を打ち立てたのです。
各人が中庸の徳に従い、中と和を極めれば、世界全体は正しい状態に落ち着く。これが中庸の徳のポイントです。
中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものです。
恒常的にいつも発揮することが難しいことから、中庸は儒教倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされたのです。

誠とは、天から与えられた命令のことですが、これを地上に実現しようと努力することが人としてなすべき道であると説いています。
朱熹の章句では『道の定義』についてはただシンプルに『天の命ずるをこれ性と謂い、性に率うをこれ道と謂う』として天賦天道論(天賦天命論)の立場を取っています。
また、子思の重んじた『誠』は『天地の法則』と『人の本性』を結びつけて考えたもので、朱熹はその面において性善説の人間観を持っているのですが、『誠』は道教のような永遠不変な宇宙的な世界観に基づく『道』を象徴する観念でもありました。

「中庸」とは、前半が「中庸の徳」を持つことがいかに難しいことか、後半が「誠」に従い修養することの大切さを述べた書物です。
こうした佳書から学ぶことは多いですが、そのエッセンスだけでも触れる機会を持って頂ければと思います。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【中庸章句序 第一章】
中庸の書物は何のために作ったのだろうか。子思先生が、(孔子の没後の儒教の学問が年月を経るに従って)その学問の本質を失うのではないかと心配して作ったのである。
上古の聖人が天下を統治する天子となり、天意を継承して万民の依拠すべき社会の基準(標準)を立ててから、道の系統の伝説は始まっているのである。
その『経書』に見えるものは、本当にその真ん中を執って失うなということ(『論語』の堯曰篇に由来する)であり、これは堯が舜に禅譲した時の訓戒である。人心は物欲に迷わされやすい危うさがあり、真の道を学ぼうとする道心は物欲に迷わされてほんのわずかなものに過ぎない。人心と道心を精密に区別し、一心に真の道を求めよ(精一の道を求めよ)。本当にその真ん中を執れというのは、舜が禹に禅譲した時の教えである。堯の放った一言は、至れり尽くせりで全てを言い当てていた。舜がまたこれに『人心・道心・精一』の三つの言葉を加えたのは、堯の真ん中を執れという『執中(しっちゅう)』の一言を実際に実現するための方法(精一)を明らかにしたものであった。

【中庸章句序 第二章】
思うに、試みにこれを論じてみよう、捉えどころがなく、神妙な霊力を持つ心、物事を知覚する心は、ただ一つのものである。そして、この心を人心と道心とに分けて異なったものとすることがあるが、肉体の個人的な要素や私的な欲望から生じるものを『人心』と呼んでいるのであり、天命に基づいて人間の本性の正しさに従っているものを『道心』と呼んでいるのである。人心と道心の知覚の働きは異なっているのだが、私的な欲望に基づく人心は悪ではないが、危険性を持っており落ち着くことができない。人間本性の道義的な正しさを示す道心のほうは、微妙で掴み取りにくいものであり分かりにくい。
しかし、人間にはこの物理的・身体的な形がないという人はいないから、優れた上智を備えた聖人君子であっても、私的・肉体的な欲望を伴う『人心』が全くないというわけではない。また、人間には誰でも善に向かう本性(天来の性質)が備わっているのだから、愚かな凡人であっても、天命に従って善き本性を発揮する『道心』がないというわけではない。人心と道心の二つは心の中で交じり合っており、これを正しく使い分ける方法を知らなければ、危うい人心はますます危ういものとなり、わずかな道心はますます弱々しく微妙なものとなる。天理の正しい公の道心は、ついにその私的な欲望に勝つことが出来なくなってしまう。
精(せい)とはすなわち人心と道心の二つの間を察して、その二つを混じり合わせないものである。一(いつ)とはすなわちその本心の正しさを堅く守って離さないものである。この精一(せいいつ)の原理に従って、少しの絶え間もなく、必ず道心がいつも一身の主人となるようにして、人心がいつも道心の命令を聴くようにすれば、すなわち危うい人心も安らかになり、わずかな道心も顕著なものとして現れるようになり、人間の動静のある言動・発言は、自然に過不足のないバランスの取れたものとなる。

【中庸章句序 第三章】
それ堯・舜・禹は天下の偉大な聖人である。天下をもって伝えてきているのは、天下の大事件である。天下の大聖人が天下の大事業を行った後に、その天下を後継者に平和的に禅譲する時、丁寧に告げて戒められたのは『(極端ではない)中を執ること』と『精一のあり方』に過ぎないのだ。そう考えると天下の公理は、(執中と精一とに尽きているので)どうしてこれに新たなものを付け加える必要などあるだろうか、いや、ない。
堯・舜・禹が執中や精一を教え伝えてから以降、聖人が聖人の後を継いでその教えを継承してきた。商(殷)の成湯(せいとう)、周の文王・武王の如き君主がいて、皐陶・伊尹・傅説・周公・召公の如き忠節を誓う家臣がいたが、これらの聖人はみんな、あの精一・執中の教えを受けており、歴史的な道統の言い伝えを受け継いだのである。
孔子(孔先生)のような人物は、政治的な地位・権力を得られなかったが、過去の聖人の教えを受け継いで将来の学問の道を開いたので、その功績はかえって堯・舜より勝っていると言っても良いくらいである。しかしちょうどその時に、孔子を直接に見て知っているという者は、ただ孔子の高弟である顔回・曾参の伝えている正統な儒教の教えを聞いたということなのである。曾氏の孫弟子の世代になると、また孔子の孫である子思(しし)が現れた。その時はもはや聖人の時代が遠い昔となっており、正統派に反する異端の教えが起こったのである。

【中庸章句序 第四章】
子思はいよいよ年齢を重ねて、いよいよ道の真実を失ってしまうことを恐れている。そこで尭舜の時代以来伝えられていた意味を推測してそれに基づき、その是非を考えるに当たって父師の言葉を用いて考え、代わる代わる物事の道理から事物の問題を演繹してこの『中庸』の書物を書き、この書物によって後世の学者に道の真実を伝えようとした。
大体、子思が真実の道が失われることに対する憂いは非常に深いものである。そのため、これを説く場合には親切なのである。時間が流れて道の真実が失われることを恐れる気持ちが遠大であるため、これを説く場合には詳細でもある。『中庸』で天命を天の本性であると言い、天の本性に従うことを道だと言ったのは、『道心』のことなのである。善を選択するというのは『精』、固く執るというのはすなわち『一』のことなのである。君子が時に中すというのは、すなわち『執中(真ん中を執って実行する)』ということである。
尭舜の時代から見れば子思の生きる時代は千年以上の歳月が流れているが、尭舜の時代に言われた真実は現在でも異なることがなく、ちょうど割符を合わせるように一致するものである。過去の聖人の書物を一通り取り出してみると、人間が生きるべき大綱(大筋)を示しているのと同時に、奥深い知識教養を開示しており、未だにこれらの書物のように物事の道理を明らかにしてそれを尽くしているような書物は他にないのである。
子思からまたその教えを受け継いだ孫弟子の孟子が出現した。孟子はよくこの『中庸』の主旨を推し量って明らかにし、古代の聖人の言説を受け継ぐことができた。しかし、孟子が死去するに至って、遂にその伝統の後継者が失われてしまった。わが道はただ言語・文字の間にだけ依拠するはかないものとなり、儒教の正統ではない異端の説(楊朱・墨擢などの説)が日々新たに出てきて猛威を振るっているが、老子仏教などの学徒が出現することになると、さらにますます似通った理屈を唱えながら大いに真実の道をかき乱してしまったのである。
そしてなお幸いにもこの『中庸』が滅びずに存在し続けることができた。そして程夫子兄弟(程明道・程伊川の兄弟)という者が出てきて、この書物について考察し千年の長きにわたって伝えられなかった正統な道の端緒を受け継ぐことができ、またこの書物を根拠にしてあの仏教老荘の二家の儒教とは似て非なる教えを排斥することができたのである。けだし『中庸』を書いて正統な教えを後世に残そうとした子思の功績は大きかったと言わなければならない。そして程夫子兄弟がいなかったならば、中庸の語句の中から誰も子思の本心を読み取ることはできなかっただろう。

【中庸章句序 第五章】
惜しいことだな、程夫子の兄弟が『中庸』について説いたところが伝わっていない(程明道先生は中庸の解説書を書かず、程伊川先生は解説書を書いたが自分の意が尽くせないとして焼却してしまった)。そして石子重が集録して程先生の学説だというもの、程先生の門人達が書き残したものが、程夫子兄弟の思想として伝わった。これらによって程夫子兄弟の大まかな思想は明らかになっているが、詳細や微妙なところまでは分からないのである。程先生の門人が自分で説を立てるに当たって、とても詳細な言葉を尽くして新たに発明することが多かったが、程先生の学説に明らかに背いて老荘思想仏教の二家の思想に溺れてしまっているようなものもいる。
朱子朱熹)は若かりし頃からこの『中庸』の書を受け継いで読んで、心密かにこれについて疑問を抱いていた。心を沈めて思いを隠しながら、繰り返しに繰り返して何年もの間この『中庸』の研究をしていた。ある日、うっとりとした恍然の心境に至り、この書物の要領を概ね得たようであった。そこで沢山の学説を集めて、そのうちのどれが正しいのかを定めた。その正しい説に従って『中庸章句』の一篇を書き著して、もってその後に君子が出現するのを待つこととした。そして、一人二人の同志たちがまた石子重の集録した『中庸』の解釈書を手にとって、その煩雑で混乱している文章を添削して、これを『輯略(しゅうりゃく)』と名づけた。
その『輯略』に自分たちがかつて、議論・弁明をしたり内容の取捨選択をした部分を記して、別に『或問(わくもん)』という書物を作ってその輯略に付け加えた。そして『中庸』の趣旨が、肢体のように分かれて骨節のように溶けて、段落や各章の区別が明らかになって分かれていき、脈絡が貫通しているように理路整然として、詳細と大略が相互に作用し合って、要点と詳細とをことごとく挙げることに成功した。そして諸説の似ている点と異なっている点、どれが的を射ているのかいないのかが明らかとなり、また詳しく記述して遍く通じているという文章を作り、それぞれの章句の趣きを極めることができたのである。
儒教の道統(正統な教え)については誰がこれを受け継いでいるかなどということは、敢えて妄りに議論しようとは思わないが、それでも初学者がこの『中庸章句』を手にとって学ばれるのであれば、つまり遠方に行くには近いところから始め、高い所に登るには低い所から始めるように、この書物が『遠く高い聖人の境地』に辿り付くための一助になるだろうと思うのである。淳煕己酉春三月の戊申の日、新安で朱熹がこれを序す。

【第六章】
程先生(程明道・程伊川の兄弟の先生)はおっしゃった。どちらにも偏らないことを『中』といい、長く変わらないものを『庸』という。『中』は天下が実践すべき正しい道であり、『庸』は天下が従うべき必然の定理である。この『中庸』の本は、孔子の門下が伝授してきた心に関する正しい教えである。子思はこの教えが長い時間が経つ間に、本来のものと変わってしまうことを恐れた。そのため、この教えを書き記して、弟子の孔子に授けたのである。この書物は初めに一理を説明して、半ばでは様々な分散して万事について語り、最後はまた統合して一理と為している。この書物の内容を拡散して広げれば上下左右(宇宙)のすべてに行き渡り、これを巻いてしまえば秘密の教えとなって世の中から退蔵されてしまう。その味わいには、極まるということがなく非常に深い。これはすべて、実学(実際の役に立つ学問)である。よく読む者が、この書物を熟読玩味してその真意を得たならば、生涯にわたってその真意を用いても用い尽くすことができないだろう。
天(万物生成の根本原理・宇宙の主宰者)の命令するものを『性(生まれつき備わっている性質)』といい、その性に従って行うことを『道』といい、その道を修得することを『教え』というのである。
道というのはわずかな間(しばらくの間)も離れてはいけないものである。離れられる道であれば、それは道ではないのだ。このため、まだ見ていない時に道を戒めて慎み、まだ聞いていない時に恐れて畏まるのである。道は隠れているように見えてもいずれは見えるものであり、微妙なものであってもいずれは明らかになるものであるから、君子は自分独りが知っている道についてそれを慎んで恐れるのである。

【第七章】
喜怒哀楽の感情がまだ起こっていない精神状態はどちらにも偏っていないので、これを『中』と言っている。喜怒哀楽の感情が起こってもそれがすべて節度に従っている時には、これを『和』と言う。『中』は天下の摂理を支えている大本である。『和』は天下の正しい節度を支えている達道である。『中和』を実践すれば、天地も安定して天災など起こることもなく、万物がすべて健全に生育するのである。
右の第一章。子思が孔子から伝えられた教えの趣意を述べて言説を立てた。初めに、道の根源は天から生まれて変わることがないものである。その実体は自己に既に備わっていて離れることができないということを明らかにし、次に聖人君子の天命の本性の涵養と自己の省察の要点を言い、最後に神聖の徳がある者が『中和』を実践することで、功業を為して万物の育成を為すという極地について述べている。蓋し学者は、この要点についてそれを自分の身に照らし合わせて自分が習得し、かの外界の誘惑に迷わせられる私欲を去って、本性としてある善を充たそうとすることを求める。楊亀山(ようきざん)氏の書いた一篇の要旨とはこのことを言っている。以下の十章は、けだし子思が孔子の言葉を引用して、その引用によってこの章の意義を余すところなく語ったものである。
孔子がおっしゃった。君子とは不偏不党・万世不易の『中庸』を身に付けたものである。小人とは中庸に反している者のことである。君子の中庸は君子の心に従って、時に応じて偏らずに的を射ているということである。小人の中庸は小人の心に従っており、自分の欲望を制御できないので遠慮したり憚ったりすることが無いのである。

【第八章】
先生がおっしゃった。中庸とは、それ以上付け加えることもない究極の徳である。しかし、(その教化と実践が進まなくなっているので)中庸の徳が人民の状態や心を良くするということは少なくなっており、そういった時代が続いているのだ。
先生がおっしゃった。私は道が世の中で行われていない理由を知っている。知者は道を行うには知識や徳が行き過ぎており、愚者は道を行うには知識も徳も全く足りない。私は道が明らかにならない理由を知っている。賢者はその振る舞いも知性も道を行き過ぎており、不肖の者は振る舞いも知識も道には全く及ばないからである。人間は飲み食いせずには生きられないが、その味わいを深く知っている者が少ないのと同じである。(人は道なしには生きられないが、その本当の意味や方法、実践を知っている人は殆どいないのである。)
孔子がおっしゃった。(道は明らかにならないから)道が行われることがないのだろうな。

【第九章】
先生がおっしゃった、舜は偉大な知者だったのか。舜は質問することを好み、卑近な意見から本質を察することを好んだ。人民の意見の悪を隠して善を賞賛し、善悪の両端から、その中間にある中庸を選んで人民に適用した。これらの事例を持って、聖人である舜は舜であると言えるのだろう。
先生がおっしゃった。人々はみんな自分には知恵があるという。しかし、獣を追いかけてこれを網や仕掛け(罠)、落とし穴のうちに追い詰めていっても、獣はこれを避ける方法を知らないように、人々の多くも危難・災厄の避け方を知らない。人々はみんな自分には知恵があるという。しかし、中庸の道を選んだとしてもそれをわずか一月でさえ守ることができない。(これでは、人々に本当に知恵があるなどとはとても言えないだろう。)
孔子がおっしゃった。顔回の人となり(性格と生き方)は、最適な中庸の道を選んで、もし一善を得ることができれば、それを大切に捧げ持って胸につけ、決して善を失わないようにできるといった人物である。

【第十章】
先生がおっしゃった。有徳な士大夫(君子)は天下国家といえどもそれを平らかに治めることができる。高位高官の地位と収入をも自ら辞退することができる。白刃の危険を恐れずにそれに挑むことができる。しかし、極端を避ける中庸というのは、『天下の統治・高官の辞退・白刃への勇気』以上に実践することが難しいのである。
子路が『強さ』について質問した。先生はおっしゃった。南方の強さのことか、北方の強さのことか、お前自身の強さのことかと。寛容で柔和な態度を崩さずに道理を教え、無道な暴力に対しても報復せずに耐え抜くのは、南方の人たちの強さである。これは君子がいる境地である。金革の鎧を寝具として、死ぬことを厭わずに敵と戦って破るのは、北方の人たちの強さである。これは武力に訴える強者がいる境地である。君子は人と調和しても流されてしまうことはない、これが矯(強くて正しい形)とした真の強さである。中立してどちらにも極端に偏らない、これが矯とした真の強さである。国家に道が行われていても自分の昔からの信念を変えない、これが矯とした真の強さである。国家に道が行われずに乱れていても、自分自身は善を行うための道を死ぬまで変えないこと、これが真の強さなのである。
孔子がおっしゃった。隠微な方法を求めて怪異な超能力を行う者は、世の中の受けが良いこともあって、後世これを語り伝える人が確かにいるだろう。だが、私は決してそういった神秘的なこと(超能力があるような真似)はしない。君子は道に遵った行動をするが、それでも力及ばずに、途中でやめてしまわざるを得ないこともある。だが私はやめようにもやめることができない。君子は中庸に依拠して、欲望渦巻く世俗を逃れて、自分の見識や才能が人に認められなくても後悔などすることがない。このようなことは、ただ聖者だけが実践できる道なのである。

【第十一章】
君子の道は、範囲が広くて誰にも当てはまるが、微妙な難しさを併せ持ったものである。愚かな夫婦でも道が何であるかは預かり知っている。しかし、究極の道については、聖人であってもまだ分からない所があるものである。不肖の夫婦でも道を実践できる部分は確かにある。しかし、究極の道については、聖人であっても十分に実践することはできないのである。広大な天地に対しても、人はなお(思い通りにならない寒暖の差・天変地異・不作などを)恨みに思うことがある。そのため、君子が道の大なることを語れば、天下にそれが載らないほどに大きなものとなり、その小さなことを語れば、天下にそれよりも小さなものは無いほどだ。大雅旱麓(たいがかんろく)篇に言わく、『鳶飛んで天に戻り、魚淵に踊る』と。道の上下が鳶と魚それぞれの活動に現れているのである。君子の道といえども、その端緒は不肖の夫婦から始まるものである。この君子の道が究極にまで極まれば、天地の森羅万象の出来事となって現れるほどになるのだ。
先生がおっしゃった。道は日々実践するものだから、人から遠く離れたものではない。人の道を為すにあたって人から遠くて高尚過ぎるようであれば、それは(殆どの人が理解も実践もできないのだから)道となることはできない。『詩経』のひん風(ひんぷう)・伐可(ばっか)篇に言わく、『斧の柄を切り斧の柄を切るには、その法則となるものは遠くにあるものではない』と。斧をもって斧の柄となる木を切り出すには、見本となる斧の柄をまず見なければならないが、斧の柄と木(斧の柄の材料)との違いからその法則が遠いもののように感じる。故に、君子はその人に合った道をもって人を治め、その人が道に従って振る舞いを改めればそれ以上のことはしないのだ。人への思いやりは道そのものではないが道に近いものであり、自分がして欲しいと願わないようなことは、また他人にそれをすべきではないのである。
君子の道は四つある。丘(孔子)はまだその一つさえ上手くすることができない。我が子に求める所をもって、自分自身が父に仕えるということが、良くすることができない。家臣に求めている所をもって、自分自身が君主に仕えるということが、上手くできない。弟に求めている所をもって、自分自身が兄に仕えるということが、上手くできない。友達に求めている所はあるが、それを自分から先にして上げるということが上手くできない。君子とは日常的な徳を実践して、日常的な言葉を謹み、徳に及ばない所があれば、それを補おうとして必ず努力するものである。言葉が過剰であれば敢えて言い尽くさず、言葉は自分の行いを振り返ってから話し、行動は自分の言葉を振り返ってから行う、そのような君子がどうして篤実・誠実ではないなどと言えるだろうか。

【第十二章】
君子はその位(境遇)に従って適切な行為を行い、その外を願わない。富貴な境遇にある時にはその富貴に見合った適切な行いをして、貧しく賤しい境遇にある時にはその貧困・卑賤に見合った適切な行為をする。夷狄(異民族)の中にあっては夷狄の風習に合わせた行為をして(道は守りつつも)、患難の苦しみの中にあってはその場面で必要な行為をする。そのため、君子は如何なる境遇に置かれても、(その場に合わせた適切な振る舞いをするだけであるため)不平不満の気持ちに覆われるということがないのだ。
自分が上位にある時は下の者を陵いで(しのいで)虐待することがなく、下位にある時は上の者に媚びて出世を求めることがなく、我が身を正しくして他人に求めることがなければ怨みもなくなる。上は天を恨む気持ちがなく、下は他人を咎める心がない。そのため、君子は安楽な境地にあって天命を待って甘んじて受け容れることができる。小人は危険な行為を行ってでも、何が何でも世俗的な幸福を得ようと願っている。孔子がおっしゃった。弓を射るのは君子に似たところがある。矢が的を外してしまった時には、何が悪かったのだろうかと自分の射ち方について反省するのである。
君子の道は、例えば遠方に行くのに必ず近い場所から行くようなもの、高い所に行くのに必ず低い場所から出発するようなものである。『詩経 小雅篇』にいわく、家庭の妻子が仲睦まじく過ごしていれば、琴瑟を合奏して調和するようなものである。そうなれば、兄弟の仲も睦まじくなり、和らいだ雰囲気で共に楽しむことができる。あなたの家族が仲良く、あなたの妻子兄弟も楽しく過ごしている。先生はおっしゃった。そのような仲睦まじい家であれば、父母も楽しく喜ばれるだろうと。

【第十三章】
先生がおっしゃった。鬼神の徳というのは盛大なものだな。鬼神を見ようとしても形がないので見ることができず、その声を聞こうとしても聞くことができないのだが、全ての物は鬼神によって形態を与えられておりその例外はないのだ。天下の人を精進潔斎させて礼服を着させて祭祀を行わせるが、鬼神は大きな存在感があるので自分の上にいるような、あるいは左右にいるような感じがしてしまう。『詩経 大雅・抑』の篇には、鬼神が至るのはいつのことなのか推測することができない、ましてや鬼神を厭ったり無視するようなことはできないと書かれている。鬼神は微なるものが万物を生成させる顕になったものであり、鬼神の徳である誠は人間が覆い尽くせるものではない、鬼神とはこのようなものなのである。
先生はおっしゃった。古代の聖人の舜は大孝というべきだろうか。その徳は正に聖人であり、その尊敬すべきところは正に天子である。舜の富は四海のうちの領域を保つのに十分であり、先祖の廟は天子の祭祀を受けており、子孫はこの富と宗廟を良く守っている。
そのため、大徳のある者は、必ずその位置を得、必ずその禄(収益の源)を得、必ずその名声を得、必ずその長き寿命を得ることになる。そのため、天が万物を生じる時には、必ずその素材・性質・本質の特徴を生かして強めるということになる。故に、植えたものはその植物の生長が促進するように培い、傾いているものがあればこれを転覆させようとする。『詩経 大雅仮楽』の篇では、祝うべき楽しむべき君主には堂々とした美徳があり、民草に良くして人民にも良くする、天子として天からの禄を受けることができ、天はその君子を守って命令する、この天子となるべき天命を受けよと。そのため、大徳のある君子は、必ず天子となるべき天命を受けることになるのである。

【第十四章】
先生がおっしゃった。憂いや悩みがない君主は文王だけだろう。偉大な王季を父に持ち、勇敢な武王を子に持ち、父の王季は王朝を創始して、子の武王はこの王朝(王権)を拡大したのだから。武王は大王・王季・文王の建設した王朝を引き継いで、一度だけ武装して鎧をまとい、殷の暴君・紂王を討伐することで天下を治めた。武王は天下の盛名を失うことがなく、その尊敬すべきところは天子であり、その富は四海の内を保つほどに豊かであり、祖先崇拝の宗廟を祀って祭祀を行い、子孫がその王権と宗廟を見事に保ったのである。
武王は年老いてから、天子となる天命を受けた(そのため、王位継承後わずか七年で崩御して礼制を整えられなかった)。周公は文王・武王の徳を成し遂げて、大王・王季に王号を追贈して、その先祖たちを祀るのにも天子の礼を尽くして行った。この手厚い礼制(孝の徳の実践)は、諸侯大夫から一般庶民にまで及んでいった。父が大夫であって子が士であれば、その葬儀を大夫の資格を適用して行い、祭るのは士の資格を適用する。反対に、父が士であって子が大夫であれば、その葬儀は士の資格を適用し、祭るのには大夫の資格を適用するのである。一年以下の喪である『期』は、天子には及ばないが大夫にまでは及ぶ。三年の喪にまでなると、天子にまで及び天子もこれに服さなければならない。特に最も重要な『父母(親)の喪』は、身分の貴賎に関わらずみんながこれに服さなければならない。
先生はおっしゃった。武王・周公は、礼制を整えて親に対する孝を尽くした『達孝』の人というべき君主だろう。孝というものは、父祖が成し得なかった志を継ぐこと、父祖が成し得た功績をより押し広げていくことなのである。
春秋(四季)に祖先の廟を清浄に保ち、祭祀に用いる器具を陳列し、先祖の衣裳を取り出して調え、季節の旬の食べ物を祖先に勧める。宗廟の礼は親子の序列を定めるものでもあり、左を親を祭る上位の『昭(しょう)』、右を子を祭る下位の『穆(ぼく)』に分けている。祭祀の時に諸侯・大夫の爵位によって分けるのは、身分の貴賎を分けるためである。祭祀の事務処理の難易度を分けるのは、賢者と愚者を分けるためである。祭祀の際の『旅酬の礼』では、下の者が上の者に酒を勧めるので、その恩恵は下位の賎者にまで及ぶことになるのである。頭の毛の色で『長幼の序』に応じた座席を割り当てる燕毛の礼というのも、年長者を敬うための序列をつけるためである。

【第十五章】
先王と同じ王位を踏襲(践祚)して、先王の礼を行い先王の音楽を演奏し、先王が尊敬していた祖先や賢哲を敬って、先王が親しんでいた臣民や子孫を愛して、服喪で死んだ者に仕える時は生者に仕えるのと同じようにし、葬祭の時には亡くなった者に仕えることを生存者に仕えるのと同じようにした。これは、孝の徳の極限である。天を祀る郊祭、地を祀る社祭は、上帝に仕えていることの現れである。宗廟の祭礼は、その祖先を祀っていることの現れである。天地を祀る郊社の礼、祖先を昭穆の順序で祀る春秋の礼の意味を明らかにすれば、国家を治めることは天下を掌の上に乗せたが如く簡単なことである。
魯の哀公が政治について問う。先生が答えておっしゃった。文王・武王の政治は過去の方策の中に敷かれて存在しており、かつてのような人材があれば文王・武王の如き政治を行うことができるが、人材がいなくなればそういった善政・武威は終わってしまう。人の道を政治によって実践しようと思えばその変化は敏速であり、地の道で樹木が迅速に生長していくのと同じである。政治というものは、土蜂(ジガバチ)が桑虫の子を変化させてわが子とするようなもので、政治によって百姓(大衆)を道徳的に教化することがその要諦なのである。故に政治を為すには有能な人材がいる、良い人材を取るためには君主の身(徳)を用い、身を修めて徳を身に付けるには道を用い、道を修めようと思えば仁の徳に依拠しなければならない。
仁とは人のこと(人に対する道徳)である。仁の中でも自分の親族に親愛の情をもって接することが重大である。義とは宜(事に応じた判断)のことである。義の中でも賢者を尊敬するということが重大である。親族に親しむ場合にも疎遠な人だと親愛は減殺されてしまう、賢者を尊敬する場合にも知性のレベルによって等級をつけて差別してしまう、これが(親疎・知性によって対応が変わるという)『礼』の生じる所以なのである。故に、君子はまず自分の身と道徳を修めなければならない(そうしないと優れた家臣が集まってこない)。故に、我が身を修めようと思えば、自分の親にまずお仕えしなければならない。親に仕えようと思えば、人間というものを知らなければならない。人を知ろうと思えば、天を知らなければならない。

【第十六章】
天下にある者すべてが古今から実践すべき優れた道が五つある。この道を実践するに当たって必要なものは三つある。五つの道とは、君臣である、父子である、夫婦である、昆弟である、朋友との交わりである。この五つのものは、天下にある者すべてが守るべき優れた道である。知・仁・勇の三つのものは、天下のすべての者に通用する素晴らしい徳である。この徳を実践するのに必要なものは一つの誠である。ある者は生まれながらにしてこの道を知り、ある者は学んでからこの道を知り、ある者は苦しんだ後にようやくこの道を知る。しかし、この道を知ることができたという意味ではそれらは同じ一つのものである。行動においては、ある者は簡単にやってしまう、ある者は利益のために行う、ある者は必死に勉強して行う。しかし、実際に行動して成功したのであればそれらは同じ一つのものである。
先生がおっしゃった。学を好むというのは知そのものではないが知に近い、努力して怠らないのは仁そのものではないが仁に近い、恥を知るというのは勇そのものではないが勇に近い。この三つの徳を知れば、自分自身の身を修める方法を知ることができる。自分の身を修める方法を知れば、人を治める方法を知ることができる。人を治める方法を知れば、それは天下国家を統治する方法を知っているも同然である。
およそ天下国家を治めるには、万古不易の九つの法(原則)がある。それは、修身である。賢者を尊敬することである。親族と親しくすることである。大臣を敬うことである。群臣を思いやることである。庶民を子と思って守ることである。百工の職人を呼び集めることである。遠方からやって来てくれる商人などを懐柔することである。諸侯と親しくして主君に反旗を翻す危険を無くすことである。

【第十七章】
君主が我が身を修めれば、天下国家を統治するための正道が確立する。賢者を尊敬すればその助言・知恵によって迷うことがない、親族と親しくすれば叔父や兄弟、従兄弟などから怨みを買うこともない、大臣を敬って信頼すれば大臣はその力を発揮するに当たって迷うことがない、群臣を礼遇して大切にすれば士大夫たちは主君の恩義に報いようとして必死に働く、庶民をわが子のように大切にすれば庶民は主君を父のように仰ぎ、百工を招けば国内の産業が活性化して器物・財物が十分に供給され、遠方から来た人を丁重に持て成せばその世評によって四方が進んで帰属し、諸侯と親しくして懐柔すれば天下はみんなその威徳を畏れることになる。
精神と衣冠を正しく整えて慎み、礼に適っていなければ動かないというのは、身を修めている所以である。讒言を言わずに色欲を遠ざけ、貨財を賤しんで徳を貴ぶのは、賢を勧めている所以である。親族の位を高くしてその俸禄を多くし、その好き嫌いに合わせることは、親族と親しくして怨恨を防いでいる所以である。大臣の下に属官を置いて自由に任免できるようにするのは、大臣の能力を存分に発揮できるように勧めている所以である。忠義に厚い家臣の俸禄を多くしているのは、士を勧めている所以である。農業の暇な時期に使役して税金を安くするのは、百姓を大切にしている所以である。日々職人たちの仕事を顧みて、月にその仕事の成果を確認し、その仕事に応じた報償を与えるのは、百工の産業を勧めている所以である。遠人が帰って行くのを見送り、やって来るのを迎える、善なる者を賞賛して不能な者を哀れむのは、遠人を柔らげる所以である。子孫が絶えた家の後継ぎを探し、廃れた国を再興させ、乱れた者を治めて危険がないようにし、諸侯の朝勤や大夫の参上は規定の時期に来れば良いこととし、朝廷から賜る物を多くして諸侯からの貢物を少なくするのは、諸侯に忠誠を誓わせて懐かせている所以である。
およそ天下国家を治めるには、万古不易の九つの法(原則)がある。これを行う所以はただ一つ、誠である。およそ物事はあらかじめ準備すれば成功し、あらかじめ準備をしなければ失敗してしまう。言葉を発する時にも話す内容をあらかじめ定めておけば言い間違えることはない、物事に臨む時にもあらかじめ準備しておけば苦しまない、行動する前に備えておけば失敗することはない、道を実践する時にもあらかじめ定めておけば窮迫することはないのである。

【第十八章】
自分の身分が下位にあって、上位の者から信任を得られないのであれば、民心を得て安定的に統治することなどできない。上位の者の信任を得るのには道がある。朋友に信用されなければ、上位の者からも信任されない。朋友に信用されるには道がある。親に従順であり親を喜ばせなければ、朋友に信用されない。親に従順であることには道がある。自分の身を反省して誠でなければ、親に従順とは言えず親は喜んでくれない。自分の身を誠にするには道がある。善を明らかにして実践していなければ、我が身は誠にはならない。
自然な誠とは天の道である。これを何とか努力することによって誠にしようとするのが、人の道である。天性の自然な誠は努力をすることなく道に当たり、その天性の知は思索することなく道に到達し、何ら抵抗・苦労を感じることなく道に当たる。これができるのは聖人である。努力・勉強をして誠になろうとする者は、善悪を分別して善を選択した上で、その善の道に固執し善から離れないという者である。
物事を幅広く学んで、不明な所は詳しく質問をし、慎んで思索をして、善悪・理非を明らかに弁別して、それを真剣に実践するのが『努力して誠に至る道』だ。学ばないということもある、だがいったん学び始めたらよく分かるまでは途中でやめない。問わないということもある、だがいったん質問したらよく分かるまでは途中でやめない。思索しないということもある、だがいったん考えたらよく分かるまでは途中でやめない。弁別できないということもある、だがいったん弁別しようとしたらよく分かるまでは途中でやめない。実行しないということもある、だがいったん実行しようとしたらそれを篤く真剣に実行するまで途中でやめない。他人が一回するのであれば、自分は百回行い、他人が十回するのであれば、自分は千回行う。果たしてこのように道の実践に努力勉強をすれば、愚者といえども必ず賢明になり、意志が柔弱な者も必ず意志が強い者になれるのだ。
右第二十一章。この章は、子思が上章の孔夫子のおっしゃった天道人道の意志を受け継いで言葉を立てた。これより以下の12章はすべて子思が述べたものであり、この章の意志を反覆して推察し、内容を明らかにしたものである。
誠から発して善が明らかになる、これは天命・天道の性(聖人の徳)である。善を明らかにしてから誠となる、これは修身の教え・人道(賢人の学)である。誠であればそれは明(善の明らかさ)である。明(善の明らかさ)であればそれは誠なのである。

【第十九章】
天下の至誠を体現した聖人は、ただその天命の性(万物の根源にある本質)を察してそれを尽くすものである。自分の性を尽くすということは、他者の性を尽くすということでもある。他者の性を尽くせば、物の性を尽くすということになる。物の性を尽くせば、天地が万物を生成発育させる働きを賛助・促進することができる。天地の万物生成の原理を賛助・促進すれば、天地と共に立って(天地人の三者の均衡を実現して)天命に適うことができる。
聖人に及ばない次の賢人以下の人たちなどは、仁義・忠孝・孝悌などの徳性の一端から道を推測して極めていく。正しい徳性の推測ができれば誠につながる。誠があれば、外に形となって現れる、形があれば徳は著しくなり、著しくなれば徳のあることは明らかで、徳が明らかであれば人々を動かし、人々が正しい方向に動けば世の中が変わり、世の中が変われば天下国家が徳化されて治まることになる。天下にいる至誠の聖人は、ただ天下を徳化・教化することができるのである。
天下における至誠の道は、事前に予見して知ることができる。国家がまさに勃興(発展)しようとする時には、必ず吉祥(瑞兆)の良い知らせがある。国家がまさに滅亡しようとする時には、必ず妖しげな凶兆が見られる。占いの卜筮(ぼくぜい)にもその吉凶の兆しは現れ、その占う人の四体の動きにも現れる。禍福(幸福・幸いと不幸・災い)がまさに差し迫ろうとする時に、至誠なる聖人は、善をまず必ず知り、更に不善についてもまず必ず知ることができる。故に、至誠というのは神のようなものである。

【第二十章】
哀公が政治について問うた。孔子曰く「文武の政治は、今なお方策典籍の中に残っており、そのため、遺法を運用できる賢臣があれば、その政治はよく行われ、賢臣がいなければ、その政治は滅びて行われません。
人の道を好むものであれば、その政治がすみやかに行われることは、ちょうど地に植えた草木が敏速に発育するようなものです」
それ政治は、蒲盧(せがばち)のようなものです。よって政をなすはただ賢臣を得るにあり、賢臣を取るは君の身をもってします。君の身を修めるのは道をもって手本とし、道を修めるには仁をもって本とします。
仁の意義は人です。人に対する道徳の中では、我が親族を親愛することが最も重大なのです
義の意義は宜です。事に応じて処置をする中では、賢者を尊敬することが最も重大でのです。
親族を親しむ度合や、賢者を尊敬する等級をつけることは、礼儀によって生じます。
君子は第一に我が身を修めなければなりません。身を修めようと思うなら親に仕えなければなりません。親に親しむ心を尽くそうと思えば、必ず賢人を尊敬して、その人から裨益を受けねばならりません。その人を知ろうと思えば、もって天を知らなければなりません。
天下古今共によるべき道には5つあり、この達道を行う者は3つあります。5つとは君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の交わりです。この5つは天下の達道であります。この達道を行うのは知仁勇の3つです。この三達道をもって五達道を行うのは種々の手段であるが、ひとつの誠に帰するのです。
生まれながら道を知る者、学んで道を知る者、苦しんだ後に道を知る者があり、この三等の人、道を行うことに難易はあっても、成功した後は同じなのです。
孔子曰く「学を好むものは知とはいえないが知に近いというべく、力行は仁ではないが仁に近く、舜に若かざるを恥じるのは勇に近いといえよう。以上の3つを知れば、我が身を修める意味がわかる。我が身を修める意味を知れば、人を治める意味がわかる。人を治める意味を知れば、すなわち天下国家を治める意味がわかるのである。
およそ天下国家を治めるには9つの方法がある。第一は修身である。次に賢者を尊ぶ。次に親族を親しむ。大臣を敬する。群臣の心情を察する。庶民を我が子と思う。百工を招致する。商賈旅客に恩を加える。諸侯をなつけることである。
君主が己の一身を修めれば、天下国家を治める道が確立し、賢者を尊んでこれを師友とすれば、君主は疑い惑うことがなく、親族を親しめば、お互いに怨むことがなく、大臣を敬して信任すれば、小臣らが邪魔をすることがなく、群臣の心を察すれば士たる者は感激してその職に尽力し、庶民を我が子と思えば、百姓は君を父母のように愛し、百工を招致すれば、工業勃興して富み、商賈旅客に恩を加えれば、天下の旅人はみな集まり、諸侯をなつければ、天下はみなその徳に感じる。
かくのごとくなれば天下は泰平となるであろう。
心を清明にして衣冠を正しくし、いやしくも礼に非れば動かないのは、身を修めるゆえんである。讒言を去り女色を遠ざけ、貸財を賤しんで有徳の人を尊重するのは、すなわち賢を勧めるゆえんである。その位を尊くして俸禄を重くして、その好悪を同じくするのは親族を親しむゆえんである。多く属官を置き自由に任使させるのは、大臣を勧めるゆえんである。忠信なる者を重用して俸禄を重くするのは、士を勧めるゆえんである。使役するのは農閑期に行い、租税を少なくするのは、百姓を勧めるゆえんである。日々その仕事を省み、月にその功課を試験し、手当てを出すのは、百工を勧めるゆえんである。相当の設備をし、善なる者にはその才能によって任命し、不能な者には無理強いをさせないのは遠人を和らげるゆえんである。子孫の絶えたる者には本家を継がさせ、封土を与え、乱れたる者はこれを治め、来聘は規定の時機をもってし、賜物は手厚くし、貢物は軽少にさせるのは諸侯をなつかせるゆえんである。
およそ天下国家を治めるには上のとおり九経あるが、これを行うのはただひとつの誠である。
物事は何事にもよらずあらかじめ準備をすれば成立するが、しなければ失敗するものである。たとえば言を発せんとするときはよく思考しておればつまずかず、事をなさんとするときはまず思考しておれば、事に臨んで苦しむことはない。行いをなそうとしてあらかじめ思考しておけば、失敗することがない。また道を行かんとしてあらかじめ思考しておけば、窮することがない。
身が下位にあって上の信任を得なければ、道を行い民を治めることができない。上の信任を得るには道がある。朋友に信じられ、名声が昇り聞こえてはじめて上に信じられる。朋友が信じないのに、君の信任を得ることはできない。
朋友に信じられるには道がある。自分の行為が親の心に従い親を満足させてはじめて朋友に信じられる。親すら満足させられないのに、朋友はどうしてこれを信じようか。
親の心に従い親を喜ばせるには道がある。自分が自ら反省して誠であれば、親はこれを喜ぶが、もし誠でなければ親はこれを満足と思わない。
身を誠にするには道がある。善に明らかであれば自然と誠になるが、善に明らかでなければ身も誠とならない。誠すなわち信実無妄なるは天の道である。努力勉強して誠ならんことを求めるのは人の道である。天性の誠なる者は、その行いは勉強を用いなくても道に当り、その知は思索を待たずして道を得、従容として道に当る。これすなわち聖人である。
努力勉強して誠ならんことを求めるものは、必ず善を専一に固守して失わないようにしないといけない。博く学んで、理解できないことは問い、謹んでこれを思えば心に自得することができ、その自得したものを明らかに弁別し、日々篤くこれを実行しなければならない。学ばないこともあるだろう、しかし一旦これを学ぶ上は中止しない。問わないことはあるであろう、しかし一旦これを問う上は中止しない。思わないことはあるであろう、しかし一旦これを思う上は中止しない。弁えないことはあるであろう、しかし一旦これを弁える上は中止しない。行わないことはあるであろう、しかし一旦これを行う上は中止しない。
他人が一たびするときは、自分は百たびし、他人が十たびするときは自分は千たびする。このように努力することができれば、たとえ愚かなる者もよく善を択ぶことができて明らかとなり、柔なる者もよく強となることができる。

【第二十一章】
誠であれば、照らさないものはない聖人の徳であり、いわゆる天命の性であるのです。善を明らかにして、後に誠なるは賢人の学であり、いわゆる道を修める教えなのです。誠であればすなわち明であり、明であれば必ず誠なのです。

【第二十二章】
ただ天下の至誠のみが、天命の性を察して尽くすことができるのです。我が性を尽くせば、人の性を尽くすことができるのです。よく物の性を尽くせば、すなわちもって天地が万物を生々発育させる事業を賛助することができるのです。

【第二十三章】
賢人以下は、よく曲を推し極めることができれば、遂によく誠あることができます。誠ありて中に充足すれば、その徳自然に外に形れ、形ればいよいよ著しく、著しければいよいよ明らかにして、明らかになれば、おのずから人心を動かし、動けば従って変じ、変ずれば化します。ただ天下の至誠にしてよく物を化するに至ることができます。

【第二十四章】
至誠の道は、およそ前もって予知することができるのです。国家がまさに勃興せんとするときは、必ず瑞祥があります。国家がまさに衰亡せんとするときは、また必ず妖?があります。あるいは卜筮に現れ、あるいは人の動作威儀の間に動くものなのです。
禍福がまさに至らんとするとき、善も必ずこれを知り、不善もまた必ずこれを知ることができます。ゆえに至誠は神のごときものなのです。

【第二十五章】
誠はそれ自身、自ら成就するものです。ですから道はそれ自身、自ら導くものなのです。誠は物の終始、誠ならざれば物なしといいます。君子は誠を尊しとなします。誠はそれ自ら完成することはもちろんですが、仁徳内に備われば自然に物に及んで、物をしてまた完成せしめるものなのです。
自己を完成させるのは仁であり、物を完成させるのはその作用すなわち知なのです。性は万物の一源であるから、この徳は万物もまたみなこれを具有しています。物と我と、外と内と本来相違あるものではありません。すなわち、内外合一、物我一体観に至るべき道なのです。ゆえに時に臨んでこれを用いてみなその宜しきを得るのです。

【第二十六章】
ゆえに至誠は一刻の間断もないものです。間断がなければすなわち久しく常住不滅なのです。久しければ自然にその徴験があります。すでに効験があればいよいよ悠遠にこれを行うでしょう。悠遠であればその積もり積もること広博して深厚となり、広博深厚であればその外に発揚すること高大にして光明なのです。
博厚は物を載するゆえんです。悠久はすなわち物を成就するゆえんです。博厚はよく物を載せるゆえに、地に配します。高明のよく物を覆うのは、天の万物を覆うが如し、ゆえに天に配します。しかしてその悠久なるは極まりないものなのです。
かくのごときものは、その功用自然に現れ、動かさずして自ら万物を変化させ、無為自然にして成就するものなのです
天地の道は一言にして尽くすことができます。その物たる至誠純一にして2つではありません。すなわち万物を生じてその多きことは割り知ることができないのです。天地の道は、広博を極め深厚を極め高大を極め光明を極め悠遠を極め長久を極めるものなのです。
今、天は昭昭として小さく明るいものが、多く集まったものです。しかしその極まりがないのは、日月星辰はみな天にぶら下がっており、万物はみな天に覆われているほどなのです。
今、地はひとつかみの土が多く集まったものです。しかしその広大なことは、華岳のごとき大山をのせても重しとせず、河や大海をおさめても外に洩らすことなく、万物をのせているほどなのです。
今、山は小さい一塊の石が多く集まったものです。その測られないほど広大なことは、鼈・蛟龍・魚鼈が水中に生じ、魚塩のような多くの財貨を出すほどなのです。
詩経に『維れ天の命、於穆として已まず』とありますが、天の天たるゆえんはこの止まざるにあることを言ったのでしょう。その次に『於乎顕れざらんや、文王の徳と純』とありますが、文王の文王たるゆえんは、この純一不雑にあることを言ったのでしょう。

【第二十七章】
大なるかな聖人の道は。洋々と流動充満して、万物を発育させ、高大なる天を極めます。優々として大なるかな、礼の大綱である三百、威儀三千は。それらは至誠の人を待って後行われるものなのです。
ゆえに、いやしくも至誠の人でなければ、至道は成らないと言われるのです。よって君子は徳を修め学問により知識を磨き、広大を致して心胸を開拓するとともに精神微妙を尽くし、高明を極めて中庸を心がけ、古きものを学んで、新しいことを知るようにし、礼儀を尊ぶようにするのです。
ゆえに上にあっては下に対して驕り高ぶることなく、下となっては上に背くことがない。国に道あるときは進んで国家の大計を論じて興って位に上るであろう。国に道なきときは、才能を韜して言わず、よって害を受けることがないであろう。詩経に『すでに理に明らかで、かつ事に察らかであるので、その身を保全する』とあるのは、このことをいうのであろうか。

【第二十八章】
孔子曰く「愚かにして徳がないのに自ら用いることを好み、賤しくして権力を盗んで自ら専らにすることを好めば、必ず人心にもとるものである。今の世に生まれたら、今の時勢に従わねばならぬ。もし強いて古の道を復さんとすれば、必ず禍を身に受けるものである。
天子でなければ、礼儀を議論し制度を作り、文字を考定してはならぬ。今や天子は車のわだちの度も同じく、書や文字も同じく、礼儀作法の次第順序も同じである。
たとえその位は高くてもその徳がなければ、あえて礼楽を作ってはならぬ。その徳ありといえども、その位なければ、あえて礼楽を作ってはならぬ」
孔子曰く「吾よく夏の礼を説くが、これを徴証するに足らない。吾は殷の礼を学びて、宋に幾分か存するものがあるが、現代の制ではない。吾は周の礼を学びて、今の世においてこれを用いている。そのため吾は周の礼に従わねばならぬのだ」

【第二十九章】
天下に王たるには三か条の重んずべきものがあります。すなわち位と徳と時なのです。これらを重んじるなら、過ちは少ないでしょう。上代の夏殷の礼は、善とあるといえども、杞宋の国の文献で取るものがありません。徴証がなければ民は疑ってこれを信じません。聖徳あって下位にあるものは、善であっても位が尊くありません。尊くなければ民は軽んじてこれを信じません。信じなければ民はこれに従わないのです。
ゆえに君子の道は、身に徳をつけてこれを庶民に施して、行うところが三王の行事と誤りたがうことなく、これを天地の間に立てて天地自然の道にもとることがなく、これを鬼神に正しても疑いなく、百世の下、聖人の出現を待っても惑うことがない。百世の下、聖人の出現を待っても惑うことがないのは、人を知っているといえます。
君子は動いて世々天下の道となり、その行いは世々天下の方となり、その言は世々天下の則となります。もしこれに遠ければ、民はこれを望みて思慕します。これに近ければ、民はこれを厭わずして愛着が止むことがありません。
詩経に『遠くにあって悪むことなく、近くにあっては厭うことがない。請い願わくはつとに夜に勉めて怠らず、もって永く名誉を保って終わらん』とあります。およそ君子はこのように思慕愛着されることなく、早く誉れを天下に博するものはないのです。

【第三十章】
仲尼は古の帝堯帝舜の道を祖として尊びて、周の文武の法を彰明しました。上は天に則り下は地により、すなわち天地の道を遵奉しておられるのです。仲尼の徳の偉大であることは、たとえば地の物を載せざるはなく天の物を覆わざるなきがごとく、たとえば春夏秋冬の四時が交わる交わる運行するがごとく、たとえば日と月は代わる代わる昼夜を照らすがごとくなのです。万物は相並びて発育して互いに相害いません。道並び行われて互いに相もとりません。小徳は、川の流れて各流脈あって分明なるがごとくなるためであり、大徳は化育が遺憾なく行わるるがためであります。
これ天地の大なるゆえん、仲尼の偉大なるゆえんなのです。

【第三十一章】
ただ天下の至聖なる者のみ、よく聡明叡智の知徳あって、人民に君臨するに足り、寛容温和なる仁徳あって、もって民を容るるに足り、発強剛毅、屈すべからざる勇徳あって、守るところのものを奪われないのに足り、文理密察なる義徳あって、もって事の宜しきを弁別するに足るのです。
この知仁勇礼儀の五徳は溥博にして広大を極め、淵の静深にして測り知るべからず、その溥博なることはあたかも天の、物として覆わざるなきがごとく、その淵泉なることはさながら淵の水の流れて尽きざるがごとくであるのです。
これをもって名声は中国に満ち溢れ、ひいては四方の夷狄までにも及び、およそ舟や車で行くことができるところ、人力の通ずべきところ、天の覆うところ、地の載せるところ、日月の照らすところ、霜露の降りるところ、およそ血あり肉ある者は、みなこの聖人を尊びこれを親愛せざるものはないのです。ゆえにこれを称して天に配すというのです。

【第三十ニ章】
ただ天下至誠なる者のみ、よく天下の大経すなわち五倫の道を尽くし、もって天下万世の法となし、よく天地の万物を生々化育するのを知っています。このようであれば、どうして一方に偏倚して公平を失うことがありましょうか。
?々と懇至なるその仁徳よく大経を経綸し、淵々と静深ものなるその淵徳を立て、浩々と広大なるその天徳を立てる。いやしくも聡明聖知にして天徳に達する聖人でなければ、誰がよくこの至誠の領域を知ることができましょうか。

【第三十三章】
詩経に『錦の衣を着て、その上に麻の粗布を加える』とあります。これは錦の文采が外に顕れるのを憎むからです。ゆえに君子の道は、表面から見れば闇然と暗いけれども、内に充実しているので日に日に明らかになります。
君子の道は淡薄であるがいつまでもあかない、簡単であるが見るべきものがあり、温和であるがその条理あって乱れざるものなのです。
遠くかなたに現れるものは近きに基づくことを知り、風の伝わるのは、その身によることを知り、徴であっても必ず外に顕れることを知るのは、ともに徳に入ることができます。
詩経に『潜りて伏すとも、また甚だ明らかである』とあります。ゆえに君子は内に自省して疚しきことなく、良心に恥ずることなきだけの修養をするのです。君子の及びがたきところは、人の見ず知らざるところで、よく独り慎んで怠らない点でしょう。
詩経に『汝の室に在りて独り居るのを見るに、室の西北の隅に対して恥じないであろう』とあります。ゆえに君子は、未だ応接せざる前において敬し、その未だ言を発せざる前において既に信なのです。
詩経に『大楽を奏して神を祀る時、一言も発しないが、人皆感化して会い争うものあるなし』とあります。このゆえに君子の徳はおのずから民を化し、怒らなくても民は?鉞の罪を受けるよりも恐れるのです。
詩経に『深遠なる徳は顕れない、その徳外に表れて諸侯これに法る』とあります。このゆえに君子は篤恭して天下も平らかとなります。
詩経に『われ明徳を思い、声を大にし色をはげしくすることはない』とあります。孔子曰く「声を大にし色をはげしくて民を化するのは、そもそも末である」と。詩経に『徳の軽きこと、毛のごとし』とあります。しかし毛は軽いけれども、なお物を比すべきものがあります。上天のことは声もなく臭いもありません。聖人の徳はここに至るのです。

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焚書坑儒にみる日中韓の歴史認識について

焚書坑儒とは言論・思想・学問弾圧を指す言葉ですが、元々紀元前213年に秦の始皇帝によって断行された思想弾圧事件のことです。
「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)」の意味の通り、当時儒者達が古来の教えによって現政府を批判していたことから、書経詩経諸子百家書物はことごとく焼き払う命令が下りました。
・秦以外の諸国の歴史書の焼却
・民間人は、医学・占い・農業以外の書物を守尉に渡し、守尉はそれを焼却
・30日以内に、守尉に渡さなかったならば、入墨の刑に処する
・法律は、官吏がこれを教え、民間の独自解釈による教育を禁止
この焚書により、様々な書物の原典が破棄されることとなり、儒教の経典六経の『楽経』などもこの時完全に失われています。
(現存している古典書物については、そのほとんどが副本か口述筆記などで写し取られたものです)
このとき、始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難した方士や儒者460人余りは、実際に生き埋めにされ虐殺されています(坑儒)。
韓非子』和氏篇にも、焚書を政策として採用すべきといった記載があることからもわかるように、当時の儒学に対する弾圧は相当なものだったことが伺えます。

ちなみに、施政者・独裁者が国や人民を制御するための方法のひとつとして、国民を無知蒙昧にし歴史から正しい事実や判断を学べなくしてしまうやり方があります。
その端的な手段としては、無知蒙昧に導くために手っ取り早く昔の本を一切読めなくすることです。
そのため毛沢東焚書坑儒を礼賛し、中国では漢字の原形を喪失するくらい簡略化した簡体字(simplified)を公布しました。
この簡体字による教育により、1964年の文化大革命以降に生まれた中国人は簡体字で書かれた本しか読めなくなり、結果古典は一切読めなくなってしまった訳です。
これは一種の焚書坑儒であり思想弾圧と言えるでしょう。
独裁を推し進めるために必要なこと。
それは、過去の歴史を葬り去ることなのです。

一方韓国では、1970年に漢字の教育を止めハングルのみの文字になってしまいました。
そのため現在の韓国人の80%が、漢字の読み書きができない状態です。
それ以前の李朝時代までの文書は全て漢字で書かれていることから、今の人達は古典や歴史を書物で読むことが一切できなくなっているのです。
国家推進のため、国民の意気を削ぎかねない歴史を完全に封印すること。
これも中国同様、焚書坑儒の一種であり思想弾圧と言えるでしょう。

近年、日本近隣で歴史問題がさかんに取り上げられる中、その歴史認識が問題の大きな火種になっています。
しかし、歴史や古典といった古い書物を読む能力をはぎ取られた中国や韓国の国民は、古典や歴史書から学ぶことも出来ず、文字による知識の拠り所をほぼ失ってしまったのです。
歴史は過去の記録の中にあり古典の中に記されていますが、文字を失った民族が辿る末路は、過去の偉人賢人が積み上げてきた文化・歴史を全て喪失してしまうということなのです。

さて日本はどうかというと、古典に学ぶ学問をないがしろにし、知識や技術ばかりを詰め込むことを良しとし、思考・熟考の能力を削ぎ落とす教育が140年間続けられています。
ましてや近代の歴史教育は学校でも疎かにされ、この140年程の間に日本が海外とどのように向き合ってきたのかという事実は理解し難い社会システムになってしまっていることが大きな問題です。
これも形を変えた焚書坑儒の一種であり思想弾圧と言えるのではないでしょうか。
こうしたことは、以前にも取り上げていますので、参考にしてみてください。
歴史や古典から学ぶこと!100年前・69年前から日本の未来を見据えてみよう!
明治維新からの見落とし!教育とは何かの原点回帰を始めよう!
人にとって大事なものとは?修練・鍛錬を喚起する理由について
学問の姿勢とは?学びて思わざれば則ち罔し!

国家間で歴史認識論議する中で大事なことは、それぞれが抱えている時代背景を互いにきちんと把握し、歴史を歪曲することなく正しく理解すること。
こうした取り組みが、今こそ必要な時期です。

まずは自分の国の歴史を正確に理解すること。
その原点から始めたいものです。

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伝習録より学ぶ!心を統治、練磨することの大切さ!

伝習録』は、明の時代に王陽明が起こした儒学の教えを上中下巻に纏めたもので、陽明学の入門書ともいわれています。
日本には江戸時代に伝来し、以降の日本思想史においても多大な影響を与えている学問です。
中江藤樹
・熊沢蕃山
・津田永忠
大塩平八郎
山田方谷
吉田松陰
西郷隆盛
安岡正篤
これはほんの一部ですが、陽明学の思想に学んだ人達が、日本の歴史にどれだけの影響を与えているかがよくわかるかと思います。
ちょっと知っている方が陽明学と聞くと、危険思想だ、国粋主義の代表で過激論者ばかりだ、といった怪し気で胡散臭いイメージを持たれているようです。
それは、恐らくは“大塩平八郎の乱”や“三島由紀夫事件”の例にみるまでもなく、幕末動乱の過激思想の一役を担っていたことを連想させてしまうからだと思います。
しかし陽明学とは、心を統治、練磨することの大切さを主張した教えであり、万物一体の考え方を理解し、心の中の葛藤を無くして不動心を確立する考え方を基本としており、むやみに過激な行動に駆り立てるような安易で宗教めいた教えではありません。

そこで今回は、『伝習録』のエッセンスをしっかりと抽出してお届けしてみたいと思います。
これまでも陽明学については何度か触れてはいますが、その変遷も含めて改めて整理します。
過去の整理分については、こちらを参考にしてください。
朱子学と陽明学の違い、日本陽明学とは!
重職心得箇条より学ぶ!
呻吟語より学ぶ!
洗心洞箚記より学ぶ!義と愛に生き、知行合一を貫いた人生の書!

【大学から朱子学陽明学への発展】

儒教経書四書のうちのひとつ『大学』には三綱領、八条目が記されています。
三綱領は、
「明徳を明らかにするにあり」
「民に親しむにあり」
「至善に止するにあり」
のことを指し、儒学を学ぶ者の最終目標を意味しています。

そして、この三綱領を達成するための方法として八条目が示されます。
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先づ其の国を治む。
 其の国を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉う。
 其の家を斉えんと欲する者は、先づ其の身を脩む。
 其の身を脩めんと欲する者は、先づ其の心を正す。
 其の心を正さんと欲する者は、先づ其の意を誠にす。
 其の意を誠にせんと欲する者は、先づ其の知を致す。
 知を致すは物を格すに在り。」
即ち、「治国平天下」、「修身斉家」、「誠意正心」、「格物致知」の教えです。
この「治国平天下」から「誠意正心」までで、世界全体から徐々に人の心の内面に段階を追って入っていくことを表しています。
しかし『大学』では、最後の「格物」と「致知」については全く触れられていませんでした。
この解釈を巡って、宋の時代に朱熹朱子学王陽明陽明学が生み出されることになります。

朱子学の解釈】

朱熹が行ったことは、そもそも『礼記』の一篇だった『大学』の解釈本『大学章句』や、『中庸』の解釈本『中庸章句』を記したことです。
特に『大学章句』については、解釈の見直しや構成変更、訂正といった本来の『大学』の内容の大幅な変更に手を付け、かつそこに「格物致知」の独自の解釈を加えています。
そもそも朱熹は「格物致知」を「知を致すは物に格るに在り」と読みました。
要は、
・すべての「物」についてその本質や理を理解すること(=格物)ができて始めて、
・すべての物について善悪を正しく判断すること(=致知)ができるようになり、
・それができて始めて心の発動するところに嘘、間違いがなくなり(=誠意)、
・その上で初めて心が正しくなる(=正心)。
・心とは我が身体の支配者であるから心が正しくなって始めて、身を修めることができる(=修身)。
といったものです。
つまり、「物」を草木や水、火、土、生き物といった解釈をしており、『大学』の次第に心の内面に入っていったアプローチのところから、突然最後の「格物致知」になって心の外に飛び出すような論理になってしまった訳です。
こうして物の「理」と事の「理」を完全に区別してしまったのですが、朱熹のこうした解釈はある種意図的なものであったこともあり、中国では以降、こうした朱子学が深く学ばれていきました。

この朱熹の説に異を唱えたのが王陽明です。

陽明学の根源】

王陽明は「格物致知」を「知を致すは物を格すに在り」と読みました。
要は、
・身、心、意、知、物を一つのものであるとして、
・良知(=人間が本来生まれながらに持っている善悪を判断する先天的「知」)を致し、
・実際に行動に移すこと
が、修行の根本であると結論したのです。
さらに、王陽明は次のようにも述べました。
「物とは事なり。凡そ意の発する所、必ず其の事有り。意の在る所の事、之を物と謂う」
即ち、物の定義は「意の在る所の事」です。

ちょっとわかりにくいかもしれませんので、簡単な例で説明しましょう。
例えば、近所に獰猛な犬が飼われているとします。
その近くを幼い子供が通りがかり、その犬に噛まれそうになるところをあなたは目撃します。
この時、あなたの「良知」が働き、「危険だ」と思います。
そして、普通の感覚であればそこで子供を「助けよう」と思うはずです。これを「意」と言います。
そして「助けよう」と思えば、それを実践するため「心」が「身」に命令して、子供を助ける行動をとります。
この一連の動きを王陽明は「意の在る所の事」と言い、それを「物」としたのです。
更に付け加えれば、以後子供が犬に噛まれないように飼い主と相談して頑丈な首輪と鎖を付けたり、手を出しても届かないように柵や塀を巡らす対応を行ったりすることを「格物」としたのです。
ところがこの場合、心のどこかであなたが「助けよう」と思っていても、この「意」は時と場合によっては「助ける必要がない」と思わせる場合があります。
例えばその原因が、子供が石をぶつけたためだとか、普段からその子が犬をいじめていたりだとか、あなた自身の体があまり自由が利かなかったり、子供を助ける意義が持てなかったり、そもそもその勇気が持てなかったり、ということです。

陽明学では「助けよう」という気持ち(=「意」)があっても、実際に行動に至らなかった場合、「物は格されなかった」とします。
「意」が必ずしもこうした善とならなかった原因は、「良知」が完全に発現しておらずそれが曇っているからに他なりません。
何故「良知」が曇るかというと、人が持ち合わせているあらゆる欲望(名誉欲、金欲、性欲云々)が「良知」の判断を鈍らせるからです。
欲望から来る「助ける必要がない」という「意」を捨て去り、心を正して「助けよう」という「意」を選択(=「良知」を発現)し即実践することを「格物致知」とするのです。

陽明学が”格物が致知の前提ではなく、むしろ致知の後でなければ格物はなし得ない”と説かれているのは、正心・誠意・致知・格物を一体の同じ事とすることから出ています。
上記の例でいえば、咄嗟に子供を助けた際、そこに余計な前提や損得勘定、行動にかかるまでの過度な講釈や条件、斟酌などはありませんよね。
心の赴くままに助けるという行動にでた、といえばわかりますでしょうか。
それが陽明学でいうところの「格物致知」の解釈です。

しかし朱子学だと、心と行動はそれぞれが別であり、心で判断した上で行動に移す、という解釈になってしまうのです。
上記の例でいえば、「助けよう」という気持ちが発動していた時点で良し、となってしまう訳です。

陽明学では、
・そもそもの心を正しておくことで正しい行動がとれる
・しかもそれらは区別されているのではなく根源はひとつである
・だからそれがそのまま正しい行いとなって即実践できる
ただそれだけなのです。
これは、陽明学の論旨のほんの一部ではありますが、それでも心を統治し鍛えること、行動することの大切さを主張した教えであることが窺えます。

陽明学の心】

仏教が「仏になる」ための教えであるなばら、陽明学の心は「聖賢の人になる」ための教えです。
聖賢になるためにどうすればよいのか、そういった弟子の設問に王陽明が訥々と答えていく、それが『伝習録』と云う説話集です。
王陽明は、人は生まれながらにして既に聖賢の人であるといいます。
聖賢の知である「良知」は既に心の中に整っているのであるから、市井の欲や柵に囚われることなく本来あるべき「聖賢の人としての生き方をしなさい」と説いています。

伝習録』を読むと、人の善意からなる心を一心に信じた吉田松陰の姿が思い浮かびます。
彼も恐らく「聖賢の人を教うるは」と読みながら、塾生と共に明日の日本のために学びを深めていったのではないかと思えます。
こうした技術、方法論を「伝習録」を通して学んでいくことが、現代の混沌の時代には大事な所作のひとつではないでしょうか。
ご一読ください。

伝習録に見る陽明学のエッセンス】

そもそも伝習録の「伝習」という言葉は『論語』学而の「伝不習乎」にあり、「伝へて習はざるか」から来ているようです。
ここでは、そこに表された陽明学のエッセンスを纏めてみることにします。

陽明学とは、心を統治・練磨することの大切さを主張した教えであり、万物一体の考え方を理解し、心の中の葛藤を無くして不動心を確立する学問です。
知識や情報を増やすだけでなく、心に生じる歪みや欲を減らす努力がその葛藤をなくし、本来心に備わっている聖賢の知を回復して人間性を高める手段であることを説いています。

大別して、以下の8つに分かれます。

1.心即理(心こそ万事万物の原理)
 陽明学の基本的な考え方。
 心というものは、その姿は虚で何もないが、霊妙な働きを持っていて、万事万物の理がすべてそこに備わっている。
 心は、あらゆるものがそこから出てくる源泉であるため、心の外に理があるはずがなく、心の外に事があるはずもない。

2.知行合一(知識と行動はもともと一つである)
 陽明学の働き、具体的な作用。
 如何に尊いと言われた教えであっても、学ぶ側の心が納得できなければ、身体がついていかない。
 知識をどんなに詰め込んでみても、心を無視しては人間性を育む事はできない。

3.致良知(良知を発揮せよ)
 陽明学の神髄。
 私と私でないものとのギャップを解消し、心の葛藤をなくして、不動心を確立するためにすること。
 良知を致すこと、誠を尽くすこととは、決して自分に嘘をつかないこと。
 嘘をつくと、本音と建前、言葉と行動の分離、外の世界と内なる心の世界の不一致が生じる。
 人間に裏表があるとやがて無力感にとらわれ、生きる喜びが味わえなくなってしまう。

4.殺身成仁
 正義の主張のためには、利害だけではなく、生死をも越えるべきだということ。
 「殺身成仁」的境地とは、死への恐怖を克服し、不動心を確立した境地のことである。
 王陽明は、「誠」や「仁」(友愛、道義、正義)が、生死の問題よりも優先すると説いた。
 これが曲解、極解され、陽明学が過激な思想、行動へと誤解されがちな原因のひとつとなっている。

5.心の健康
 人は日々心の掃除や洗濯に努めなければ、心の輝きを失い、曇ったり病気になってしまう。
 心の浄化が、自然環境や人間社会の浄化につながっていくと説いた。

6.仁・義・礼・智
 以下の心の大事さを説いた。
  仁:惻隠の心、すなわち他人の不幸をあわれみいたむ同情心。
  義:羞悪の心、すなわち悪を恥じ、憎む正義感。
  礼:恭敬の心、すなわち長者をつつしみ敬う尊敬心。
  智:是非の心、すなわち善悪を見分ける判断力。

7.抜本塞源
 心の奥底にある「良知」の存在を唱え、社会問題は心の問題であると説いた。
 従って、悪を根本から取り除かねばならない(=「抜本塞源の論」)。

8.四句教
 ・善無く悪無きは心の体:心の本体と言うものは善悪を超越したものである。
 ・善有り悪有るは意の動:善と悪が生じるのは人間の意志が動くからである。
 ・善を知り悪を知るはこれ良知:善悪を識別する良心的作用は良知である。
 ・善を為し悪を去るはこれ格物:善を行ない悪を退けること、天理を存して人欲を去ることが格物である。
 これらを区別することない考え方が肝要である。(格物致知

ひとりひとりが自らの足で立ち、考え、行動することが、今の時代に求められた大事な急務です。
己の命を知り、それを実践すべく、まずは古典より学び地頭を鍛えることと致しましょう。

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以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

伝習録上】

【序文】
先生は、『大学』の「格物」などの諸説について、すべて(『礼記』にある)旧本を正しいとした。先儒が誤本としたものである。わたし愛は、はじめ聞いて驚き、まもなく疑い出し、そして、まもなく精力を尽くして考えあげ、比較検討し、先生に質問した。その後、先生の説は、水がつめたく、火が熱いように、間違いなく百世の後に聖人の判断を待っても疑いのないものであることが分かった。先生の聡明さは天性のものであるが、なごやかで楽しく率直でおだやかであり、こまかな形式にとらわれなかった。先生が若い頃に意気盛んで奔放で、さらに詩文にふけり、仏教老子の思想に出入りしていたのを、人は見ていたが、急にこのような(先生の)考えを聞くと、みな新奇をてらっていると見なして、ほったらかして考究しなかった。先生が野蛮な地に三年いて、苦難の中で専心して修養した成果が、もうはるかに聖学の域、つまり、純然たるまったくの中正の極地に分け入っていたのを知らなかったのである。
わたし愛は、朝に夕に門下で薫育を受けていたが、先生の学説を見ると、取っつきやすいようでいて高みは仰ぐようにますます上がり、粗野に見えていて探求し出すとますます精巧になり、近寄りやすいようでいて到達しようとすると途端にますます先が見えないような具合で、十年たってもまだ輪郭がつかめていない。世の君子は、少し先生と交わっただけだったり、また、まだ談笑を聞かなかったり、また、あらかじめ軽蔑・敵意をいだいていたりして、すぐさま伝え聞いた説を憶測して判断するが、それで(先生の学説など)分かるはずもない。(先生に)つきそって学ぶ者たちは、先生の教えを聞いて、往々にして一を得て次の二をないがしろにしていたが、それは表面にだけこだわって大切な本質を見失うようなものである。わたし愛が平生聞いたことを細かく記したものを、ひそかに同学の士に見せて、ともに考えて自らを正そうとした。先生の教えに背かないようにと願うばかりである。門人の徐愛記す。

(1)
徐愛は、次のように質問した。
「(『大学』の)『親民=民に親しむ』を、朱子は『新民=民を新たにする』とするべきだとしています。後の章にある『新民を作(おこす)す』という文句から、朱子の説には根拠があるように思われます。先生は、旧本(もとのままの『大学』)によって『民に親しむ』とするのがよいとしますが、何か根拠があるのでしょうか。」
先生は、言われた。
「『新民を作す』の「新」は、自分から(意識的に)新しくなるの意味で、『(大学は)……民を新たにすることに在る』とした場合の(他律的な)「新」とは異なるから、これは根拠となるはずがない。『作す』とは、むしろ『親しむ』いう(為政者が関与する意味)と相関がある。しかし、『作す』が『親しむ』の意味というのではない。下文の治国平天下のところにしても、これらはいずれも『新たにする』ということとを解明しているわけではない。(『大学』にみえる)『君子は賢者を賢み、親族に親しみ、小人はその楽しむべきを楽しみ、利とすべきを利とする』や『(民を)赤子を保育するようにするように』とか『(君主は)民の好むところを好み、民の悪むところをにくむ、これでこそ民の父母という』などは、みな『(民に)親しむ』ということだ。『民に親しむ』とは、『孟子』の『同族に親しみ民をいつくしむ』(尽心上)ことで、『親しむ』とはいつくしむことなのだ。(『書経』舜典に)人民が親しまないので、舜が契を司徒(官名)にして、敬しんで(親・義・別・序・信の)五教をひろめたというのは、『親しむ』ということなのだ。『書経』堯典の『高い徳を明らかにした』とは、すなわち『明徳を明らかにする』ことであり、(あとにつづく)『九族を親しむ』から『平章百姓(民・官吏をなごませ職分を明らかにする)』・『協和万邦(国々が仲良くなるようにする)』まで、すなわち『民に親しむ』ことである。これは、すなわち、『天下に明徳を明らかにする』ことである。さらに、孔子は、『自分を修養して民を安んずる』と言ったが、『自分を修養する』ことが、すなわち『明徳を明らかにする』ことなのである。『民を安んずる』ことが、すなわち、『民に親しむ』ことなのである。『民に親しむ』と言えば、すなわち、教化と養育を兼ねるのである。民を新たにすると言えば、かたよりがあるように感じられる。」

(2)
徐愛は、次のように質問した。
「(大学にある)『止まるべきところを知って後に一つの志向ができる』について、朱子は、『(止まるべき所=最高の善が分かって、心の中で、今から行うべき)物事それぞれに一定の理がそなわる』と考えます。先生の説とは食い違っています。」
先生は、言われた。
「(外在する)物事に至善(=最高の善)を求めると表現するのは、まったく(孟子が批判した)義は心の外だとする説だ。至善とは、心の本体なのだ。ただただ、明徳(=本来備わっている明らかな德)を明らかにしようとして、専心して修養しきればよいのだ。かといって、(外在していたり、自分にかかわったりする)物事から離れさって(ただただ瞑想する)というわけではない。大学の注で、『天理の極を十全に発揮し、人欲が一切ない』と言っているのが、的を射ている。」

(3)
徐愛は、次のように質問した。
「至善をただ心にのみ求めようとしたら、天下の物事の理を窮めつくせないと思います。」
先生は、言われた。
「心は、理そのものである。天下で心以外に存する事はなく、心以外に存する理はない。」
徐愛は、言った。
「父につかえる上での孝、君主につかえる上での忠、友人と交際する上での信、民を治める上での仁など、その間にいくつもの理があります。やはり、考察しなければならないと思われます。」
先生は、嘆いて言われた。
「このような説の(真理の)覆いは、長かった。一言で分かるようなものではない。今しばらく質問したものに即して言ってみよう。たとえば、父につかえる場合、まさか父の身辺に孝行の理を探すわけでもなかろう。君主につかえる場合、まさか君主の身辺に忠の理を探すわけでもなかろう。友人と交際する場合、民を治める場合、友人・民の身辺に信・仁の理を探すわけでもなかろう。すべては、ただこの心にあるのだ。心は、理そのものだ。この心に私欲の覆いがなければ、天理そのものだ。外部から少しも加える必要もないのだ。この天理に満ちた心で父につかえれば、孝になり、君主につかえれば、忠になり、友に交わり民を治めれば、信と仁になる。ただ、この心の上で人欲を取り去り天理を存養するように努力すればいいのだ。」
徐愛は、言った。
「先生がこのように言われるのを聞くと、わたし愛は、もう覚醒しました。しかし、(朱子の)旧説が心中にまとわりついていて、まだすっきりしません。たとえば、父につかえることでは、そこに(子の礼儀として、冬には暖かくし、夏には涼しくし、夜には寝床を整え、朝には安否を問うという)温?定省のように、項目が多くあります。これも研究すべきでしょうか。」
先生は、言われた。
「どうして研究しないものか。ただ糸口がある。ただこの心が人欲を取り去り、天理を保つという点で研究するだけだ。まさに例えば冬に暖かくする場合も、この心の孝を出し切って、わずかな人欲が混じるのを心配しなければならない。夏に涼しくする場合も、この心の孝を出し切って、わずかな人欲が混じるのを心配しなければならない。ただ、この心を研究し続けるだけだ。この心に人欲がなければ、まったくの天理そのもので、親孝行に対して誠実な心だ。冬には自然と父母の寒さを気にかけ、おのずから暖める道理を見つけようとする。夏には自然と父母の暑さを気にかけ、おのずから涼しくする道理を見つけようとする。これらはすべて、その孝行に誠実であろうとする心から生まれることがらなのだ。意外にも必ず孝行に誠実な心があって、このことがらが生じるのだ。
樹木にたとえれば、この孝行に誠実な心は根で、多くのことがらは枝葉だ。先に根があって、枝葉があるのだ。先に枝葉を探して、根を植えるのではない。『礼記』に『孝行な子で深く親を愛する者は、必ず和気がある。和気がある者は、必ず楽しそうな面持ちがある。楽しそうな面持ちがある者は、必ずやさしい態度がある。』という。深く愛することが根であって、自然このようになるのだ。」

(4)
鄭朝朔は、質問した。
「至善も、事物上に求めるべきではありませんか。」
先生は、言われた。
「至善とは、ただこの心がまったくの天理そのものという極限の状態であればいいのだ。
さらに事物上にどうやって求めるのか。ちょと試しにいくつか挙げてみなさい。」
朝朔は言った。
「たとえば親につかえる場合、どのように親を暖かくしたり涼しくしたりする(=「温?」)か、どのように奉公するか、必ず適切な方法を求めて、やっと至善になります。そのゆえ(『中庸』にあるように)學問思弁の努力というものがあるのです。」
先生は、言われた。
「もしただ温?の項目や奉公の適宜な様だけなら、一日二日で研究しつくせるだろう。どんな學問思弁が必要なのか。しかし、温?の時には、ただこの心が天理そのものという極限の状態であろうとする。奉公の時は、またただこの心が天理そのものという極限の状態であろうとする。これは學問思弁の努力ではないので、はじめの小さな差が大きな間違いを生むというということになりかねない。だから、聖人であっても専心して修養をせよという教えが課されるのだ。もしただそれらの儀式を適切に求めて(行う)のを至善というなら、今、劇の俳優が多くの温?・奉公を適切に演じたなら、これも至善というべきだ。」
愛は、この日さらに反省した。

(5)
愛は、先生の知行合一の教えが会得できないので、宗賢・惟賢と繰り返し議論したが結論をだせなかった。そこで先生に質問した。先生は言われた。
「試みに(例を)挙げてみなさい。」
愛は言った。
「今の人は父には孝行、兄には弟(よく従う)ということを知っているけれど、孝たりえず、弟たりえません。とすれば、知と行ははっきりと二つのものです。」
先生は、言われた。
「これは、もう私欲によって分け隔てられているのであって、知行の本来的なさまではない。知っていて行わないなんてことは今までない。知っていながら行わないのは、ただ知っていないだけである。聖賢が知行を教えようとしたのは、まさに本来的なさまに戻そうとしたからだ。人にこうさせればそれで済むというものではない。それゆえ『大学』は真の知行を人に見せて、『よい色を好むように』とか『悪臭をいやがるように』と言う。よい色を見るのは知に属し、よい色を好むというのは行に属する。ただそのよい色を見た時にはもう自ずと好んでいる。見た後に、さらに心を替えて好もうとするのではない。悪臭をかぐのは知に属し、悪臭をいやがるは行に属する。ただその悪臭をかいだ時にはもうおのずといやがっている。かいだ後でさらに心を替えていやがろうとするのではない。
鼻づまりの人は悪臭が目の前にあっても、かぐことができないから、またそれほどいやがらない。またただ臭いを知らなかっただけだ。たとえば、ある人が孝を知り、弟を知っていると称する場合、必ずその人がすでに孝・弟を行ったということがあって、やっと彼は孝を知り、弟を知っていると称せるはずだ。まさか孝・弟についていささか話せるほど理解しているから、孝・弟を知っていると称せるわけではなかろう。さらに痛みを知るという場合、必ずもう自ら痛がったことがあって、やっと痛みを知るわけだ。寒さを知るとは、必ずもう自ら寒がったことがあり、空腹を知るとは、必ずもう自ら空腹だったことがあったわけだ。知行はどうして分けられようか。これが知行の本来的な様であり、私意が分け隔てたことはないものだ。聖人が人に教示するのは、必ずこのようであってこそ、やっと知と言え、そうでなければ、ただもう知っていないだけということなのだ。これは、実になんとも緊要切実な工夫(実際的な研究・修養)なのだろう。(ほかの者が)今ひたすら知行を二つにして説こうとするのは、どういう意図か。それがしが、一つのものとして説いたのは、どういう意図か。もし主張の根本理念を分からなければ、ただただ一個二個と説いても、意味がない。」
愛は、言った。
「古人が知行を二つにして説いたのは、やはりはっきり分からせようとしたからでしょう。一方で知の功夫をして、一方で行の功夫をして、功夫はそこで落ち着きます。」
先生は、言われた。
「これでは、かえって古人の根本理念を失っている。それがしは、嘗てこう言った。知は、行の方針で、行は知の工夫だ。知は行の起点で、行は知の成就だ、と。もし、これが分かったなら、ただ知と言った場合、もう自ずと行はそこにあり、ただ行と言った場合、もう自ずと知はそこにあるのだ。
古人が、知を説き、さらに行を説いたのは、ただ世間ではある種の人がいて、何も考えず勝手に振る舞い、全く思惟反省できなかったからだ。ただのやみくもな行為だった。だから、知を説いて、やっと行がよくなったわけだ。さらにある種の人がいて、とめどなく広いものを対象にして、地に足をつけずに(=現実から離れ)思索にふけり、全く確実に身をもって行おうとしなかった。ただ(古人ののこした)消息・痕跡で推測しているにすぎない。だから行を説いて、やっと知が確実なものになったのだ。これは古人がやむを得ず偏向を正し弊害をなくそうとした言い方なのだ。もしこの意味が分かったなら、多くの言葉は必要ないだろう。今の人は、なぜだか知行を二つに分けようとする。先に知ってから、行うことができると考えている。今しばらく講習討論して知の工夫して、知が確実なものになるのを待って、やっと行の工夫をしようとする。だから、そのまま終身行わず知らないということになる。これは小さな欠点ではなく、その由来は、もう一日どころではなくかなり古くからあるのだ。それがしが、知行合一を説くのは、まさに病に対しての薬なのだ。何もそれがしが、こじつけて、でっちあげたのではない。知行の本来の様は、もともとこの通りなのだ。今もし、根本理念が分かったら、二つと言ってもかまわない。やはりただ一つのものだからだ。もし根本理念が分からず、一つと言ったなら、やはり何の役にもたたない。ただの無駄ばなしだ。」

(6)
愛は、質問した。
「以前、先生の至善に止まるの教えをお聞きして、もう工夫で努力すべき点が分かりました。ただ朱子の格物の読み方と結局符合できないものかと思います。」
先生は、言われた。
「格物は、至善の工夫だ。至善が分かったなら、格物は分かる。」
愛は、言った。
「以前、先生の教えで格物の説を推論して、また大略は分かったような気がします。ただ朱子の読み方は、『書経』の精一、『論語』の博約、『孟子』の尽心・知性などに、みな証拠があります。こういうわけで胸が晴れません。」
先生は、言われた。
「(朱子の注に)『子夏は厚く聖人を信じ、曾子は自分自身を反省した。』というが、篤く信じるのは、もともとよい。しかし、自分自身を反省した切実さには及ばない。どうして旧聞にとらわれて、適切なものを求めないのだ。たとえば朱子は程子を尊信したが、納得がいかないところになると、やはり軽々しく従わなかったものだ。精一・博約・尽心は、もともと私の説と符合している。(君が)ただ思考していないだけだ。朱子の格物の読み方は、牽強付会を免れない。本旨ではない。精は一のための工夫であり、博は約のための工夫だ。曰仁くん(=愛のあざな)は、知行合一の説に明るいわけだから、わずかな言葉で悟れよう。『孟子』の尽心・知性・知天は、『中庸』にある生知安行のことだ。『孟子』の存心・養性・事天は、『中庸』にある学知利行のことだ。夭壽不貳(=早死にか長寿かをかまわない)、修身以俟(=身を正しくして天命を待つ)は、『中庸』にある困知勉行のことだ。朱子は、間違って格物を解釈し、ただここの意味を逆さまに見てしまい、尽心と知性とを、知至(知は完成した)・物格(物の理に通じた)として、初学者に生知安行の事をするように要求する。どうしてできようか。」
愛は、質問した。
「尽心・知性は、どうして生知安行なのですか。」
先生は、言われた。
「性は心の本体だ。天は性の本源だ。尽心は、とりもなおさず尽性だ。ただ天下の至誠のみが性を尽くすことができ、天地の万物生成に関わるのだ。存心は、心が尽くされていない段階だ。知天とは、知州(州知事)・知県(県知事)のような知で、自身の本分上の事だ。自身と天とを一体とする。事天とは、子が事父(父につかえる)、臣下が事君(君につかえる)ようなものだ。うやうやしくつかえて、やっと過失のないようになるが、まだ、天と二つで別々の段階だ。これが、聖人・賢人の違いだ。夭壽(早死にか・長生きか)の(どっちだろうと)心を二つにして気にかけることをしない云々になると、学者にひたすら善をなさせる段階だ。困窮・栄達・早死に・長寿などによって、善をなす心を動かしてはならず、ただ修身をして天命を待ち、困窮・栄達・長寿・早死になどには天命があることを悟り、やはりこのような事情によって心を動かすことがなくなるのだ。(前の)事天は天と二つで別々なのだが、もう天は目の前に見えている。俟命(命を待つ)は、まだ会っていないが、ここで待っているようなものだ。これは、初学が心を決めるはじめの段階で、苦労してつとめる意味合いがある。今はというと、なんとも逆さまにしている。だから学者に着手するところをなくさせているのだ。」
愛は、言った。
「以前先生の教えをうかがって、また、かすかに功夫はかくあるべしというのが分かりました。今この説をうかがって、ますます疑いのないものとなりました。愛は昨日の朝、次のように考えました。格物の物の字は、とりもなおさず事の字であり、すべて心(との絡み)から言ったものだ、と。」
先生は、言われた。
「そのとおりだ。一身を主宰(統括)するのが、心だ。心が発したものが、意だ。意の本体が、知だ。意があるところが、物だ。意が事親(親につかえる)にあれば、事親が一つの物だ。意が事君(君につかえる)にあれば、事君が一つの物だ。意が仁民愛物(民をいつくしみ物を愛する)にあれば、仁民愛物が一つの物だ。意が視聴言動にあれば、視聴言動が一つの物だ。だからそれがしは、心外の理はなく、心外の物はないと言うのだ。『中庸』に誠でなければ物はないと言うが、『大学』の明徳を明らかにする功夫は、ただ誠意(意をいつわりのないものにするこだけだ。誠意の功夫は、ただ格物(物を正す)だけなのだ。」

(7)
先生は、さらに言われた。
「格物は、『孟子』の大人が君主の心を格(ただ)すと言った場合の「格」だ。およそ意念のあるところで、不正を取り去り、正を十全にするのだ。そうすれば、いかなる時と場所でも天理を存することになろう。これがとりもなおさず、窮理だ。天理とは、とりもなおさず明徳のことだ。窮理とは、とりもなおさず明明徳(明徳を明らかにする)ことなのだ。」

(8)
さらに、言われた。
「知は、心の本体だ。心はおのずと知の能力があるのだ。父を見れば、おのずと孝を知るし、兄を見れば弟を知り、乳飲み子が井戸に落ちそうになるのを見ると、惻隠(いたわしく感じること)を知る。これが、良知だ。外に求める必要はない。良知が発せられたら、もはや私意の妨げはないのだ。それはとりもなおさず、いわゆる惻隠の心を満たせば、仁は止めどもなく用いられるということなのだ。しかし、常人は、私意の妨げをなくすことができないので、必ず致知格物の功夫をして、私意・私欲に勝って理を取り戻せば、心の良知に何らの妨げがなくなり、(心の中に良知が)充ち満ちて行き渡ることができるのだ。これが(『大学』にいう)致知(知を発揮すること)であり、知致(知が発揮され)、意がいつわりのないものになるということだ。」

(9)
【訳】
愛は、質問した。
「先生は、博文を約礼の功夫とされました。よく考えてみても概略がつかめません。ご教示ください。」
先生は、言われた。
「礼の字は、とりもなおさず理の字だ。理が発現されて見えるものを、(博文の)文という。(いまだ発現されていない)文のはっきりと見えないものを理という。結局は、同じものだ。約礼とは、ただこの心が天理そのものであろうとすることだ。この心が天理そのものであろうとするには、必ず理が発現するところで工夫するのだ。もし事親(親につかえる)時に発現されれば、事親(親につかえる)その場でこの天理を存することができるように学ぼうとするのだ。事君(君主につかえる)時に発現されれば、事君(君主につかえる)その場でこの天理を存することができるように学ぼうとするのだ。富貴貧賤に身を置いた時に発現されれば、富貴貧賤に身を置いたその場でこの天理を存することができるように学ぼうとするのだ。患難夷狄に身を置いた時に発現されれば、患難夷狄に身を置いたその場でこの天理を存することができるように学ぼうとするのだ。言動については、どこでも同じだ。理が発現されたところで、その都度天理を存することができるように学ぼうとするのだ。これが博文(ひろく文に学ぶこと)で、約礼(この心を天理そのままにしようとすること)の功夫なのだ。博文とは、とりもなおさず惟精のことだ。約礼とは、とりもなおさず惟一のことだ。」

(10)
愛は、質問した。
「道心は、常に一身の主で、人心はいつもその命令を受ける(と朱子は言います)。先生の、精一の読み方で推論すると、この言い方は、弊害があるかのようにみえます。」
先生は、言われた。
「そうだ。心は、ひとつだ。まだ人によって乱されていないのを、道心という。人の偽りによって乱されたのを人心という。(もとは)人心であっても正しさを取り戻したのが、とりもなおさず道心だ。(もとは)道心であっても正しさを失ったのが、とりもなおさず人心だ。はじめに二つの心があったわけではない。程子は、人心とは、とりもなおさず人欲で、道心はとりもなおさず天理だといった。この語では、弁別しているが意味としては実に当たっている。今、道心を主とし人心が命令を受けるというなら、二つの心だ。天理と人欲は並立しない。天理が主で、人欲がさらに従って命令を受けるなんてことがあるものか。」

(11)
愛は、文中子・韓退之について質問した。先生は、言われた。
「退之は、文人の雄であるだけだ。文中子は、賢儒だ。後人は、ただただ文章のために韓愈をあがめ尊んでいるのだ。その実、韓愈は文中子とはほど遠いのだ。」
愛は、質問した。
「どうして経典になぞらえて(=模倣して)書物を書くという(僭越な)過失があったのですか。」
先生は、言われた。
「経典になぞらえるというのは、おそらくすべてが悪いわけではあるまい。後世の儒者の著述の考えと、経典になぞらえるとは、どういうものなのか言ってみなさい。」
愛は、言った。
「世儒の著述は、名を求める意図がないわけではありません。しかし、道を明らかにすることを希望したものです。経典になぞらえるというのは、純然として名声のためです。」
先生は、言われた。
「著述して道を明らかにするには、またどこに倣(なら)ったのか。」
(愛は、)言った。
孔子は、六経を削述(=不要部分を除いて編集)し、道を明らかにしました。(それに倣ったのです。)」
先生は、言われた。
「それなら、経典になぞらえるというのは、ただ孔子に倣っただけなのか。」
愛は、言った。
「著述は、道に関して解明するものがありますが、経典になぞらえるというのは、ただただ文の痕跡になぞらえるだけで、きっと道に関して助けになるようなものはないでしょう。」
先生は、言われた。
「君は、道を明らかにすることを、人を素直で飾り気がないさまに戻させ、行いの実際を示そうとすることとするか。はたまた言辞を飾ってただただ世間で言い争わそうとすることとするか。天下が大いに乱れるのは、内容のない文が横行して実のともなった行為が勢いをなくすことによる。道が天下に明らかになっていれば、六経など記すまでもない。六経を削述したというのは、孔子がやむを得ずしたことなのだ。
伏羲が八卦を表してから文王・周公に至るまで、その間に易を説くのは、(周易の他に)連山・歸藏の類の易があった。ごたごたしていて、(言説が)幾らか分からないほどだった。易の道は大いに乱れた。孔子は天下の者の文辞を好む風潮が増したので、言説の終わりがないのを悟った。かくて文王・周公の説を採用して賛助として解説を記した。これのみが趣旨をえていると考えたからであった。かくて、ごたごたしていた説はすたれて、天下で易を言う説はやっと一定した。『書』・『詩』・『禮』・『樂』・『春秋』すべて、同じだ。『書』は初編の典謨の篇から、『詩』は周南・召南の篇からは、九邱・八索などの帝王ののこした書物や・みだらな曲・酒食にふけった文辞が、幾千篇・幾百篇あったか分からない。『禮』・『樂』で物の名と形・規則なども、こうなると窮めつくせないほどだった。孔子は、すべて削って正しく編集し、その後やっとそれらの言説がすたれたのだ。『書』・『詩』・『禮』・『樂』の中で、孔子は一度も加筆したことはなかった。今の『礼記』にある諸説は、すべて後儒がこじつけてこしらえたものでしかない。孔子の時の古いままではない。『春秋』については、孔子の作とされているけど、その実は魯史の古い文だ。(『史記』に)いう筆するとは、古い文を(そのまま)書いたということだ。(『史記』に)いう削るとは、煩瑣な文を削るということだ。減ることはあっても増えることはない。孔子が六経を祖述したのは、繁雑な文が天下を乱すのをおそれたためだ。ただ簡潔にしても(乱れを救うことは)できないので、天下に文飾・言辞を去って行いに実質のあることを求めた。文によって教化したのではなかった。
『春秋』以降、煩瑣な文がますます盛んになり、天下はますます乱れた。始皇帝焚書をして罪を得たが、それは私意からのものだったためだ。さらに不当にも六経までも焼いてしまった。もし当時、道を明らかにしようという意志で道理に背く説をすべて燃やしたのなら、孔子削述の意志と期せずして一致しただろう。秦漢以降、文はさらに盛んになった。もしすべて取り去ろうとしても、全く取り去ることはできなかった。ただ孔子にのっとり、ほぼ正しいものを記録して顕彰していくしかなく、もろもろの奇怪で背理的な説もだんだんとそうなるべくして自らすたれていった。
文中子が当時どういう考えで経典になぞらえたのかは分からない。それがしは、切に深く彼の行為を評価したい。聖人が再びこの世に現れても、(聖人も同じ考えのはずで)この思いは変えられない。天下が治まらないのは、文飾・言辞が盛んで行いに実質が伴わないからだ。人は、競って新奇な私説を出して誇り、世を惑わせ名誉を得ようとする。それは、ただただ天下の人々のすぐれた判断力をふさぎ乱すものだ。天下の人々を一様に文飾に走らせて、世に知られようとし、根本・実質を尊び、素直で飾り気がないさまに戻ることを二度とわきまえない。これは著述ということが招いた現象だ。」
愛は、言った。
「著述というのは、欠かすことができません。たとえば、『春秋』という一経典は、左伝がなければ、おそらく分かりづらいものだったでしょう。」
先生は、言われた。
「『春秋』は伝(解説)があって明らかになるというのは、なぞなぞみたいなものだ。聖人は、何でわざわざこんな難解で隠微な言辞をなしたのか。『左傳』の多くは、魯史の古い文だ。もし、『春秋』がこの解説の後にはっきりするのなら、孔子は削る必要があったのか。」
愛は、言った。
「程伊川は、『(春秋の)伝(解説)の方は事情で、経典の方は判断だ』と言いました。例えば、ある君主を(臣下が)殺した、ある国を討伐したとあった場合、その事情がはっきりしないと、やはり、おそらく判断しにくいのではないでしょうか。」
先生は、言われた。
「程伊川のこの語は、やはり、おそらく世儒の説に沿ったものだ。聖人が経典を作った意味が分かってない。例えば、君主を(臣下が)殺したとあれば、君主を(臣下が)殺したことが、とりもなおさず罪であり、さらにその殺した詳細を問うまでもない。征伐は、天子が行うべきもので、国を征伐したとあれば、(ある国がある)国を征伐したことが、とりもなおさず罪であり、さらにその征伐した詳細を問うまでもない。聖人が六経を祖述したのは、ただ人心を正そうとしたためだ。ただ天理を存養して人欲を取り去ろうとしたのだ。天理を存養して人欲を取り去る(ことに関する)ことについては、かつて言っていたが、人が質問して、その(人物の)力量に応じて言ったのであろうし、やはり多くを語ろうとはしなかった。それは、(自分の言った)言葉に(規範を)求めようとばかりするのを心配したからだ。だから、(孔子は、)『言うことがないようにしたい』と言ったのだ。もし、一切の人欲に任せ天理を滅するようなことについてであったら、ましてや、どうして詳しく開示しようとするものか。それは、混乱を生み不義の手引きをするようなものだ。だから『孟子』は『孔子の門下には、(覇者の)桓公・文公のことを口にする者はなく、かくて後世に伝わっていない。』という。これが、孔子門下の学風だ。世儒は、ただ覇者の学問を論じ、それゆえ悪だくみの多くの方法を知りたがるのだ。功利心そのものと、聖人が経典を作った考えは、まったく反対だ。(世儒のような者が、聖人の考えを)分かりおおせるものか。」そこで嘆いて、言われた。
「これらは、天の徳に達している者でなければ、なかなかたやすく一緒に語り合えないことがらだ。」
さらに言われた。
孔子は、『私は史書で空白になっている文を見たことがある』と言い、『孟子』は、『書経をすべて信じるなら、書経がない方がましだ。私だったら、(その中の)武成篇の数ページを採用するだけだ』と言った。孔子が『書経』を削述したのだが、唐虞夏の三王朝の四五百年間で、(のこしたのは)数篇に過ぎなかった。他に(書く)事柄がないので、祖述はここで終わったというわけではなかろう。聖人の考えは、分かるはずだ。聖人は、ただ煩瑣な文を削ろうとしたのだが、なんとも後の儒者は書き加えようとばかりしていたのだ。」
愛は、言った。
「聖人が経典を作ったのは、ただ人欲を取り去り天理を存養させようとしたためで、五覇以降のようなものを、聖人は詳細に開示しようとしなかったというのは、まことにもっともです。尭舜以前のことは、どうして多くを略して示しているのですか。」
先生は、言われた。
「伏羲・黄帝の世については、はっきりせず伝えられる事は少ない。その時まったく飾り気がなく人情に厚く、文辞(を競う)様子はほぼなかったとやはり想像できる。これが、太古の治世であり、後世の及ぶべくもないところだ。」
愛は、言った。
「三墳のような(伝説上の書)も、伝えられていたのに、孔子はどうして削ったのですか。」
先生は、言われた。
「たとえ伝えられていても、やはり世の移り変わりに対しだんだんふさわしいものではなくなってきた。風俗はますます開け、文辞(を競う風潮)は日々にまさり、周の末になると、夏王朝や殷王朝の風俗に置き換えようとしても、もう引き戻せなかった。(それ以前の尭の)唐王朝や(舜の)虞王朝については言うまでもない。さらに(それ以前の)伏羲・黄帝の時代については言うまでもない。しかし、治世(の方法)が違っても、道は同じだ。孔子は、尭舜について祖述した。文王・武王については規範とした。文王・武王の法とは、とりもなおさず尭舜の道なのだ。ただ時に応じて治世をなす場合、政令の施行が、もともと異なるだけだ。夏や殷のやりかたを周に施行しても、もはや合わない。だから、周公は、三王(禹・湯・文武)のよいところを取り込もうとしたが、時節に合わないものがあると、昼夜を分かたず天を仰ぎ思索したものだ。まして、太古の治世なんて、再び行えるものではない。こういうのは、もともと聖人が記述を略していいものだ。」
さらに言われた。
「ひたすら何もしないようにすることは、三王の時に応じて治世をなしたことに及ぶべくもないし、太古の風俗で治めていこうとするなら、それはとりもなおさず仏教老荘の学術だ。時に応じて治世をなすのに、ひたすら道にもとづいた三王のやりかたについていけずに、功利の心で行おうとするなら、それはとりもなおさず覇者以降のやりかただ。後世の儒者は多くあれこれ講究するのだが、ただ覇者の術を講究しているにすぎない。」

(12)
先生はさらに言われた。
「唐虞以前の治世を、後世は復活させることはできない。(だから、祖述する上では)略してもかまわない。夏・殷・周三代以降の治世を、後世はのっとるべきではない。削ってもかまわない。ただ三代の治世は行われるべきものだ。しかし、世の三代を論じる者は、その根本に暗く、ただただ末節にこだわっているので、やはり復活できないのだ。」

(13)
愛は、言った。
「先儒は六経を論じ、『春秋』を史書としました。史書は、もっぱら事実を記すものです。どうも五経のさまとは、結局ちょっと違うような気がします。」
先生は、言われた。
「事実(を記す)という点から言えば史書と称され、道(を記す)という点から言えば経と称される。(だが、)道(の具現されたもの)は、とりもなおさず事実なのであり、事実は、とりもなおさず道なのだ。『春秋』も経だ。五経も史書だ。『易』は、伏羲氏の史書だ。『書経』は尭舜以降の史書だ。『儀礼』『楽経』は三代の史書だ。事実としては同じ、道としては同じ。どうして違いなんてあろう。」

(14)
さらに言われた。
「五経もまた史書に過ぎない。史書は善悪を明らかにして訓戒を示すものだ。善で教えとなるようなものは、時にその事跡をのこして模範として示す。悪で戒めとなるようなものは、戒めをのこしてその事跡を削って記さないようにして犯罪を防ぐのだ。」
愛は、言った。
「その事跡をのこして模範として示すのは、やはり天理の本来のままを存養するためのもので、悪事を削除して犯罪を防ぐのは、やはり人欲を萌(きざ)そうとする際にとどめるものなのでしょうか。」
先生は、言われた。
「聖人が経典を作ったのは、もともとこういう考えでしかなかった。しかし、別に文句にこだわるまでもない。」
愛は、さらに質問した。
「悪で戒めとなるようなものは、戒めをのこしてその事跡を削って記さないようにして犯罪を防ぐのなら、なぜ『詩経』だけ鄭・衞のものを削らなかったのですか。先儒は、『詩の中で悪く(言っている)ことで、人の道からそれた志をこらしめることができる』と言ってますが、そうなのでしょうか。」
先生は、言われた。
「『詩経』は、孔子門下に伝わっていた古いテキストではない。孔子は、『鄭の詩を放逐する。鄭の詩は、みだらだ。』と言い、さらに『鄭の詩が雅楽を乱すのをにくむ』『鄭や衞の音楽は、亡国の音楽だ』と言っている。これが、孔子門下の学風だ。孔子が詩を三百篇に削定したのは、すべていわゆる雅楽で、すべて天をまつり祖先をまつる時や村落で演奏されるもので、すべて精神を活発にさせ気持ちを和やかにさせ、徳性を養うものだ。風俗を改良するのに、どうしてこんな(鄭や衞の詩を組み入れる)ことがありえようか。それは、みだらさや悪さを導き育てるものだ。これは、秦の焚書の後、世儒がこじつけ(寄せ集めて)三百篇という数にあわせたのだ。みだらな言葉は世俗の者が喜んで伝えるものだ。今の横町なんかでやっているのも、みんなそうだ。『詩の中で悪く(言っている)ことで、人の道からそれた志をこらしめることができる』というのは、(みだらな詩がある)理由を求めても分からず、開き直って言い訳をしているのだ。」

愛は、旧説に浸りきっていたので、はじめて先生の教えを聞いたとき、本当に驚いて落ち着かなく、どこから分け入ったらいいのか分からなかった。後に久しく聞いていくうちに、我が身を反省し身を以て行うということがだんだん分かってきた。そこで先生の学問は、孔子の直伝であることをやっと信じるようになった。これ以外は、みな脇の小道で誤った道なのである。格物は誠意の功夫、明善は誠身の功夫、窮理は盡性の功夫、道問學は尊德性の功夫、博文は約禮の功夫、惟精は惟一の功夫などという、これらの類は、はじめしっくりしなかった。後に久しく考えるうちに、思わず小躍りするほど(うれしく)なった。
以上、曰仁が記した。

(15)
陸澄は、質問した。
「主一の功夫は、読書するときには、ひたすら読書し、接客するときには、ひたすら接客する。これで主一としていいでしょうか。」
先生は、言われた。
「色を好むときに、ひたすら色を好み、財を好むときには、ひたすら財を好む。これで主一となしえようか。これは、逐物(ものを追い求める)ことで、主一ではない。主一とは、(心の)天理を中心にしてものごとを行うということだ。」

(16)
立志について質問した。先生は、言われた。
「ただ天理を存養することだけに集中する、それがとりもなおさす立志だ。これを忘れないようにできれば、久しいうちに心中が自然と練りあがったものになるだろう。それは、あたかも道家のいわゆる聖胎を宿すというようなものだ。この天理の思いが常にあり、次第に美・大・聖・神というふうになるのだが、やはりただこの一念から存養拡充していくだけだ。」

(17)
普段の功夫で混乱を感じたら、静坐をする。本を読む気になれなくなったら、しばらく本を読む。これも、病に応じての対症薬だ。

(18)
友と接するには、へりくだろうと努めれば得をする。高ぶろうとすれば、損をする。

(19)
孟源は、独りよがりで名を好む欠点があった。先生は、しばしばとがめた。ある日、戒めとがめるのがやっと終わろうとしたとき、ある友が普段の功夫を述べて矯正を願い出た。源は、脇から、言った。
「これは、ちょうど私の昔の家財を探し当てた(=私の昔の質問どおりだ)。」
先生は、言われた。
「また君の癖が出た。」源は、顔色を変えて、意見を述べ弁解しようとした。
先生は、言われた。
「また君の癖が出た。」そこで、諭して言われた。
「これは、君の人生の大きな病根だ。たとえば、方丈の地にこの大樹を植えるようなものだ。雨露の潤し・土壌の力で、ただもうこんな大きな根を育て続けるのだ。四隅に五穀を植えようとしても、上はこの樹の葉でふさぎ覆われ、下はこの樹の根にからみつかれて、どうして生育できよう。必ずこの樹を切り、わずかな根もないようにして、やっと五穀を植えることができるのだ。そうでないと、誰が耕し土盛りをしても、ただこの根を育て続けるだけだ。」

(20)
質問した。
「後世の著述の多さは、多分やはり正学を乱してはいないでしょうか。」
先生は、言われた。
「人心は天理と一体化しているものだ。聖賢があらわした書は、(その天理を書こうとするが、たとえれば人や物を)生き生きと描きあげたようなものだ。しかし、それは形状の大略を表して、これによってもとの真の姿を想起させようとしたに過ぎない。その精神や意気込み、談笑の動作などは、もともと伝えられない。後世の著述は、さらに聖人の描いたものを、まねして書き写しみだりにバラバラにしたり増補したりして、技能を見せびらかしているのだ。ますます真の姿から遠ざかっていく。」

(21)
質問した。
「聖人は外部の変化に応じて行き詰まりませんが、やはり予め研究していたのではなかったのでしょうか。」
先生は、言われた。
「どうして多くを研究しつづけようものか。聖人の心は明鏡のようだ。ただ清明なので、思いのまま対応してどんなものでも映し出すのだ。過去の形がのこっていたりせず、まだ映していない形が先に備わっていたりするなんてこともない。後世の研究というのは、なんともまあこれと同じだ。かくて聖人の学とは大きく背いてしまうのだ。周公は礼楽を定めて天下を文化あるものにした。みんな聖人がなしうるものだ。なぜ尭舜はすべてやらずに、周公を待ったのか。孔子は、六経を削述し、万世に告げたのだが、やはり聖人がなしうるものだ。なぜ周公は、先にそれをせず、孔子を待ったのか。ここで、聖人がこういう時に遭えば、ちょうど(時にふさわしい)こういうことをするというのが分かるのだ。ただ(心の)鏡が清明でないのを心配するだけで、事物がきて映し出せないかなんてことは心配しないのだ。外の事の変化(の対応)を研究するのは、やはり映し出されたその時のことなのだ。そうなら、学ぶものたちは、逆に真っ先に清明であろうとする功夫をするべきなのだ。学ぶものたちは、ただこの心が清明であり得ないかということを気にかけるだけで、事の変化を研究しきれないことを気にかけたりはしないものだ。」
言った。
「それなら、いわゆる、(心は)深遠で兆しがなく万象がびっしりすでに備わっているという言葉は、どうでしょうか。」
言われた。
「言い方は、もともと良いのだが、ただよく考えないと、やはり欠点を生じる(言い方だ)。」

(22)
「義理には、決まった標準もなく、窮め尽くせるものではない。私とあなたが語って、少し得るところがあったから、そのままここで終わりと言えるものではない。再び語り出し、十年・二十年・五十年たっても、終わりがなかろう。」
他の日にさらに言われた。
「聖なること尭舜のようであっても、尭舜の(善行)以上の善は限りなくある。悪辣ななること桀紂のようであっても、桀紂の(悪行)以下の悪は限りなくある。桀紂がまだ死ななかったら、悪はこれぐらいではすまなかっただろう。善がなし終える時があるなら、文王はどうして道を望んでいながらまだ見ることができなかったのだろうか。」

(23)
質問した。
「安静にしていると、やはり心持ちはいいのですが、事に当たったとたん、もう違ってしまいます。どうしたらいいでしょうか。」
先生は言われた。
「それは、ただ静かな心を守り育てることを知っているだけで、克己の功夫をしていないのだ。そんなままで事に対すれば、傾いて転んでしまおう。人は、必ず(それぞれの)事の場で自分を磨いて、やっと(しっかり)立つことができ、そこでやっと(程氏のいうように)静態のときも定(さだか・ぐらつかない・安定)であり、動態のときも定になるのだ。」

(24)
上達の功夫を質問した。先生は、言われた。
「後の儒者が人に教える際、精微なところに及ぶや、これを上達と言い、学ぶようなものではないものをしばらく下学と言う。これは、下学と上達を分けて二つとしているのだ。そもそも目で見る機会がありうるもの、耳で聞く機会がありうるもの、口で言う機会がありうるもの、心で思索する機会がありうるものは、すべて下学だ。目で見る機会がありえないもの、耳で聞く機会がありえないもの、口で言う機会がありえないもの、心で思索する機会がありえないものは、上達だ。たとえば、木の栽培や灌漑は、下学だ。日夜成長し伸び茂るというものこそ上達だ。その力に人は関わることはできない。だから、およそ功夫のできるもの、語ることができるものは、すべて下学だ。上達は、ただ下学の中にあるのだ。およそ聖人が説くもので精微を極めたものであっても、どれも下学だ。学ぶ者は、ただ下学の中で功夫して、自然上達の域に進むのだ。別に上達の功夫を求めるまでもないのだ。」

(25)
質問した。
「惟精惟一とは、どのように功夫するのでしょうか」
先生は、言われた。
「惟一は惟精の方針で、惟精は惟一の功夫だ。惟精の他にまた惟一というものがあるわけではない。精の字は、米を部首としている。しばらく米でたとえてみよう。この米でまっ白そのものを手にしようとするのが、惟一の意味だ。しかし、臼でついたり、箕やふるいにかけたり、選んだりという惟精の功夫をしなければ、まっ白そのものではありえない。臼でついたり、箕やふるいにかけたり、選んだりするのは、惟精の功夫だが、しかし、やはりこの米をまっ白そのものにしようとするのにすぎない。博学・審問・愼思・明辨・篤行というのも、すべて惟精の功夫をして惟一であることを求めること(と同じ)だ。他にたとえば、博文というのは、とりもなおさず約禮の功夫であり、格物致知というものは、とりもなおさず誠意の功夫であり、道問學は、とりもなおさず尊德性の功夫であり、明善は、とりもなおさず誠身の功夫だ。二説があるのではない。」

(26)
知は、行の始め(起点)であり、行は知の成就だ。聖学では、ただひとつの功夫だ。知行を二つのこととしてはならない。

(27)
漆雕開は、言った。
「私は(仕官について)自信がない。」
孔子は、これについて喜んだ。子路は子羔を費の地の長官にしたが、孔子は、言われた。
「あの人の子(=子羔)をそこなうものだ」
曾点は、自分の志を言ったが、孔子はそれを許した。聖人の考えは、これで分かろう。

(28)
質問した。
「安らかに心を保ってるときは、未発の中としていいでしょうか。」
先生は、言われた。
「今の人の心を保つというのは、ただ気を安定にしているだけだ。安らかな時は、ただ気も安らかなだけだ。未発の中とするわけにはいかない。」
言った。
「まだ中ではないとしても、やはり中を求める功夫ではないでしょうか。」
言われた。
「ただ人欲を去り天理を存養しようとして、やっと功夫といえるのだ。静態のとき(も)、ひたすら人欲を去り天理を存養し、動態のとき(も)、ひたすら人欲を去り天理を存養する。安らかであるかそうでないかは関係ない。もし安らかな方に依存していれば、だんだん静態を好んで動態を嫌う弊害が出てきて、その中に多くの欠点が潜伏するようになるだけだ。ついに(その欠点が)撤去できなくなり、事にあたっても依然と育成されるだろう。理にしたがうのを中心とすれば、いつでも安らかだろう。安らかであるのを中心にしたら、かならずしも理にしたがうことができるとはかぎらない。」

(29)
質問した。
孔子の門下で、(各自が)志を言ったのですが、子路冉有は政治を任とし、公西華は礼楽を任とし、いくらかの実用性がありますが、曾晳が言うことは、なんともざれごとみたいなのに、聖人はかえって彼を許してしまいました。これは、どうでしょうか。」
言われた。
「三人は、意必(=私意やきっとやるぞという気持ち)がある。意必があると、偏ってしまう。これができても、あれができるとはかぎらない。曾点(曾晳)のこの意見は、かえって意必がない。これは、(『中庸』にいうように)その身分のままで行って他を望まないことだ。夷狄にあっても、夷狄の地で行い、患難にあっても、患難の場で行って、どこにおろうが道を守って失うことはないということだ。三人は、いわゆる『君は有用な人材』だというようなもので、曾点が言うのは、一芸だけに秀でた人材ではない考えだ。しかしながら、三人の才能には、それぞれダントツな輝きがある。世間の口では言っても実際が伴わないような者とは違う。だから、孔子はやはり皆を許したのだ。」

(30)
質問した。
「学問がはかどりません。どうしたらいいでしょうか。」
先生は、言われた。
「学問をするには、根本が必要だ。根本から努力して、水が次第に窪を埋めながら大海に注ぐように進むのだ。道家が子供(をたとえに)説いているのが、やはり良い。たとえば、子供が母の腹にいるとき、まったく混じりけのない気そのものだ。なんの学問・知識もない。母体から出て、やっと泣くことができる。まもなくして笑うことができ、さらに、まもなくして父母兄弟を見分けることができ、さらに、まもなくして立ったり、歩いたり、持ったり、背負ったりすることができるようになる。ついには、天下のことは何でもできるようになる。すべては精気が日々充足するので、筋力は日々増し、聡明さも日々進むからだ。母体から出た日に、研究・探求できるわけではない。だから、根本が必要なのだ。聖人が天地を正し万物をはぐくむ境地に達するようになったのは、ただ喜怒哀楽の発せられていない中(という理想的な根本)から涵養してきたからだ。後の儒者は格物の説に明らかでなく、聖人を何でも知っていて何でもできると考えている。はじめて着手するとき、研究し尽くそうとするが、こんな道理はない。」
さらに、言われた。
「立志をして功夫をするのは、樹を植えるようなものだ。根と芽の(苗の)ときでは、まだ幹はない。幹が生ずるようになっても、まだ枝はない。枝が出てから葉っぱがあり、葉っぱが出てから花や実があるのだ。初めて根を植えるときには、ひたすら栽培水やりをするのだ。枝や葉っぱや花や実に気をかけてはならない。気にかけても無駄だ。ただ栽培の功夫を忘れずにおけば、枝や葉っぱや花や実がないことなんかを心配するものか。」

(31)
質問した。
「読書をしていて、はっきりしないのですが、どうしましょうか。」
先生は、言われた。
「これは、ただ文字の意味に根ほり葉ほりこだわり求めるから、分からなくなるのだ。こんなのでは、昔の学問(方法)にもまったく及ばない。彼らは、まあ多く読んで、理解できたのだが、ただ彼らの学問の仕方では、きわめて明確に理解したとはいっても、一生(道理を)得られなかったのだ。心の本体上で功夫をする必要があるのだ。およそ明確にできなくて、行いきれないものでも、自分の心で身を以て省みるなら、すんなり分かるだろう。四書五経というものは、この心の本体を説いたものにすぎない。この心の本体とは、いわゆる道心だ。本体が明らかになれば、道は明らかになる。別に二つのものではない。これは、学問する上での糸口となるところだ。」

(32)
(心は、)実体なく霊妙で暗くなく、多くの理がそなわり万事がでてくるところだ。心外に理はなく、心外に事はない。

(33)
ある人が、質問した。
「晦庵先生(=朱子)は、『人が学ぶものは、心と理だ。』と言っていますが、この言い方はどうでしょうか。」
言われた。
「心は、とりもなおさず性で、性はとりもなおさず理だ。『と』という一字を入れると、二つとしたのではないかと言わざるをえないだろう。こういうことは、学ぶ者がよく(全体を)見わたせるかにかかっているのだ。」
(34)
ある人が言った。
「人は、みんな心があります。心は、とりもなおさず理ならば、どうして善行と悪行があるのでしよう。」
先生は、言われた。
「悪人の心は、本来的なありさまを失っているのだ。」

(35)
質問した。
「(朱子は)『(格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下などの)項目に分けて精微を極め乱雑にならないようにできるようになって、まとまって心の全体をあますことなく発揮できる』と言っていますが、この言い方はどうでしょうか。」
先生は、言われた。
「やはり(真実を)言い切れていないのではないだろうか。心の理は、分けたりすることは許されないし、さらに合わしたりする必要もない。聖人が精一の功夫を説いた言い方が、もとより言い当てている。」

(36)
省察(=内省)とは、事に対処しているときの存養であり、存養とはことに対処していないときの省察だ。

(37)
私(陸澄)は、かつて陸象山の人情(=人の情)・事変(=事の変化)というその場で功夫をするという説について質問した。先生は言われた。
「人情や事変以外には事はない。喜怒哀楽は、人情ではないか。視聴言動から富貴・貧賎・患難・死生まで、みな事変だ。事変もまた、人情の中にあるにすぎない。要は中和を発揮できるかどうかだ。中和を発揮するのは、ただ一人いる時にも行動に注意することにかかっている。」

(38)
私(陸澄)は、質問した。
「仁義礼智の名は、心から発せられた状態からそういわれるのですか。」
言われた。
「そうだ。」
ある日、私(陸澄)は、言った。
「惻隠・羞悪・辭讓・是非などは、性の徳目をあらわしたものでしょうか。」
言われた。
「仁義礼智も、徳目をあらわしたものだ。性は、一つなのだ。形からは、天といい、つかさどる点から帝(=上帝)といい、行きわたる点から命(=天命)といい、人に賦与された点から性といい、身体の主という点から心という。心から発せられ、父に応じたなら、孝といい、君に応じたなら、忠といい、これから先、名前は無限となるが、ただ同じ一つの性にすぎない。あたかも人は同じ一人の人物なのに、父に対した際は子といい、子に対した際は父というようなものだ。これから先(呼称は)無限になるが、ただ同じ一人の人物だ。人は性の場で功夫をしなければならない。(そして、この)性の字の意味がはっきり分かったら、(心に具有する)幾万もの理は輝かしく発現されよう。」

(39)
ある日、学問をする功夫を論じた。先生は、言われた。
「学問を教える際、かたよった方法を用いてはならない。初めて学ぶときは、心はあちこちに向いて縛りとどめることはできない。その思慮するものは、多くは人欲一辺倒というさまだ。だから、(始めの)しばしのうちは静坐をさせて思慮をなくさせ、心が安定するのをずっと待つのだ。現実から離れて静かにそのままにいて、生気のないようでは、意味がない。(だから、)彼に省察克治(内省し私欲をおさえること)を教えなくてはならないのだ。省察克治の功夫は、間断があってはならない。盗賊を追い払うように、取り除こうとしなければならない。(対処・対応するべき)事がないときは、色を好んだり、財貨を好んだり、名声を好んだりするような私欲を、一つ一つ探して突きとめてあげ、病根を取り去って、永久に再発しないようにして、やっとはじめて満足のいくものになるのだ。いつも猫が鼠を捕捉するとき、目をこらし耳を澄ますように、(私欲の)一念がきざしたら、すぐに打ち取ってしまうのだ。断固として少しでもそれに便宜をはかるのを許容してはならない。かくまってはならないし、それの出口を開いてもいけない。そうやってこそ、本当の功夫をしたことになり、そうやってこそ、取り除くことができるのだ。打ち取る私欲がなくなるようになって、自然とゆったりできる時が訪れるのだ。(『易経』に)『何も思慮することはない』とはいうが、初学の時のものではない。初学の場合、省察克治することを思うべきであって、それはとりもなおさず(『孟子』の)『誠を思う』ことなのだ。ただ天理を思うだけなのだ。(心の中の)天理がすっかり十全になったなら、『何も思慮することはない』というようになるのだ。」

(40)
私(陸澄)は、質問した。
「夜に幽霊を怖がる者がいますが、どうすべきでしょうか。」
先生は、言われた。
「ただ日常時に、義を十全にして満足のいくようにできないから、怖がるのだ。普段の行為が、霊妙な心に沿ったものであるなら、怖がるものなんてない。」
(弟子の)子?は、言った。
「素直な幽霊だったら、怖がるまでもないですが、よこしまな幽霊は人の善悪にかまわないでしょうから、どうしても怖がってしまいます。」
先生は、言われた。
「よこしまな幽霊が、まっとうな人をまどわすことなんてできるものか。この怖がるというのは、ただ心がよこしまであるだけなのだ。惑うのは、幽霊が惑わすのではなく、心自体が惑っているにすぎない。たとえば、人が色を好めば、色の幽霊が惑わしているのだ。財貨を好めば、財貨の幽霊が惑わしているのだ。怒るべきでないところで怒るのは、怒る幽霊が惑わしているのだ。怖がるべきでないところで怖がるのは、怖がらせる幽霊が惑わしているのだ。」

(41)
定(さだか・ぐらつかない・安定)というのは、心の本来のさまだ。天理だ。動態か静態かというのは、(事に)対応する時(の心の状態だ)。

(42)
私(陸澄)は、『大学』『中庸』の異同について質問した。先生は、言われた。
「子思が、『大學』の書の意味をひとまとめにしたのが『中庸』のはじめの章なのだ。」

(43)
質問した。
孔子は、名を正そうとしましたが、(その具体的な政策として)、先儒は、(孔子が)上は天子に報告し、下は大諸侯に報告して輒を廃し郢を(衛の君主として)立てようとしたはずだと言ってますが、この考えはどうでしょう。」
先生は、言われた。
「多分そのようになりにくいだろう。ある人(=衛の君主の輒)が礼を尽くしうやまって、自分を待って政治をさせようというのに、先に彼を廃するなんてことがあろうか。これが人の情であるはずもないし、天理に沿ったものでもない。孔子は輒と政治をしようとしたからには、必ずや彼(=輒)は心から国を任せて意見を聞き入れるだろう。聖人のあふれる徳とこの上ない誠実さは、必ずや衛の輒を感化して、父をないがしろにするのは人としてはあってはならないことを悟らせ、きっとはげしく泣きながら走って父を迎えにいかせるだろう。父子の愛は、天性にもとづいている。輒がこのように本当にひどく悔やむことができれば、(父の)??は感動してよろこばないはずはない。??が戻ったからには、輒は国を譲り渡し処罰を願い出るだろう。?はもう子に感化され、さらに孔子のこの上ない誠実さで取りなされ、やはりきっと決して国を受け取らずに今まで通り輒に命ずるだろう。(こうなると)群臣や民は、きっとさらに輒を君主にしたいと思うはずだ。輒は、そこで自ら罪悪をさらけ出して、天子に願い出て大諸侯に報告し、父に国を譲ろうとするだろう。?と群臣と民は、やはり輒の悔悟と仁愛・孝行心の美点を表彰し、天子に願い出て大諸侯に報告し、輒に君主となってほしいと言うだろう。かくて大命が輒に下され、輒は衛国の君主に復帰することになり、輒はやむなく、後世(漢の時)に上皇の位を与えた話のように、群臣と民を率いて?を尊び太公とし、祭器を整え孝養し、そこでやっと戻り君主の位に復帰でき、君を君とし、臣を臣とし、父を父とし、子を子として、名は正しく言葉は順当なものになるのだ。(このようにすれば)一挙に天下にまで広げて政治を行えるわけだ。孔子の正名というのは、多分このようなものであっただろう。」

(44)
私(陸澄)は、鴻臚寺の倉で寝泊まりしていた。突然家からの便りがきて、子供が危篤だとのことであった。私(陸澄)は、とても気がめいってたまらなかった。先生は、言われた。
「まさに、こういう時に、功夫をするのがいいのだ。もし、このときに見逃したら、暇なときの講学は意味がないではないか。人は、まさに、このときに磨かねばならない。父が子を愛するのは、もとより、まことの情だ。しかし、天理も、もとより中和な点を保っているもので、度を超せば私意となる。人はここで多く天理として憂うべきものだと見なし、ひたすら憂い苦しむが、すでに(『大学』にいう)憂い悩むことがあると正しさを保つことができない状態になっていることを分からないのだ。大体七情が感じるのは、多くは度を超してばかりで、度が過ぎてないのは少ないものだ。度を超すと、もう心の本来のすがたではなくなる。必ず適度に調整してやっとうまくいくのだ。たとえば父母の葬儀の際、人の子としては、泣きじゃくって死んでしまい、そこでやっと心がすっきりするだろう(と考える)のと同じだ。しかし、(『孝経』にあるように、三日間食べずにいて)体をこわすようになっても死んだりしてはならないのだ。これは、聖人が強要したものではない。天理の本来のすがたというのは、(適度な)境界があり、度を超してはならないのだ。人は、およそ心の本来のすがたというものが分かれば、自然とわずかでも度が過ぎたり及ばなくなったりなんてすることはできなくなるものだ。」

(45)
未発の中は、常人がみな持っているとは思ってはならない。(心の)本体と(そこから生まれる)作用は、(心という)同じ源のものだ。本体があれば、作用がある。(本体に)未発の中があって、発現されればすべて節度にあたった和という(作用の)状態があるのだ。今の人は、発しても、すべて節度にあたるわけにはいかない。彼らが未発の中を、やはりすべて得られているわけではないことを知るべきだ。

(46)
『易』の辞というのは、(例として挙げるなら、六爻の一番下の)「はじめの爻の陽は、(龍を象徴する陽の爻が一番下にある状態の)潛龍であるから採用してはならない」と書かれてあるものがそうだ。『易』の象とは、(たとえば)はじめの陽爻の画、つまり、「ー」という爻がそうだ。『易』の変とは、(反対の陰の)その画に出くわすということがそうだ。『易』の占断とは、書かれた辞を用いることがそうだ。

(47)
夜気は、常人について言ったのだ。学ぶ者が、功夫をしていけるなら、普段、事があろうとなかろうと、いつもこの気が集まり発するところとなる。聖人の場合、夜気を言うまでもない。

(48)
私(陸澄)は、(『孟子』にある)「操存舍亡」にかかわる章について質問した。(先生は、)言われた。
「『時にかかわらず出入し、ありかが分からない』というが、これは、常人の心について言っているとはいえ、学ぶ者は、やはり心の本来の姿も、もともと、こんなものだと分からなければならない。そうすれば、しっかり心を持して心を存養するという功夫は、やっと欠点がなくなるのだ。出を亡とし、入を存と早とちりしてはならない。本来の姿を論じるなら、もともと出も入もない。出入を論じるなら、思慮をめぐらすことが出だ。しかし(一身を)つかさどる心は、はっきりとここにある。出るなんてことがあろうか。出ることがないからには、入るなんてことはない。程子がいう(心のある)腔子(=からだ・身体)も、天理に満ちているのだ。終日の応対でも、天理を放り出すことがないのは、とりもなおさず、この身体にあるからなのだ。もし、天理を放り出してしまったなら、これを(放心=良心をなくすの意味の)放と言い、(君が質問した『孟子』でいう)亡と言うのだ。」
さらに言われた。
「出と入とは、また動と静のことだ。動静は(日常において)限りないものなので、定まったところなどありやしない。」

(49)
王嘉秀は、質問した。
仏教は、生死(の迷い)から離れ(解脱すること)で、道に入るよう人を誘い、道家は、不老長寿で道に入るよう人を誘う。考えとしては、やはり人に悪さをさせようとするものではなく、頂点を極めれば、やはり聖人の上の段階をさとることができます。しかし、道に入る正しいしかたではありません。たとえば、今仕官しているものは、科挙によっての者、州や県の推挙による者、宦官によって採用される者がいて、一様に大官になりますが、結局のところ(宦官によるものは)仕官の正しいしかたではなく、君子が頼っていくものではない。道家仏教での極致は、儒学のものとほぼ同じです。ただ、上の段階はあるものの、(人事のさまざまな細則・節理を学ぶ「下学」という)下の段階を遺漏していて、結局は聖人の完璧さには似るべくもない。しかし、その上の段解が同じだということは、ごまかして(否定できる)ものではありません。後の儒者は、さらにまた聖人の(学の上の段階を体得できず)下の段階だけをものにして、ばらばらになってしまい(聖人の学の)真相を失っています。記誦(=経典をそらんずる)・詞章(=詩文をつくる)・功利(=経世済民を主とする)・訓詁(=文字解釈)に分かれてしまって、やはり異端であるのを免れません。この四者は、終身苦労しても、心身に少しの益などないのです。かの道家仏教の徒の、雑念物欲なく世間の煩いの外に超然としているのと比べると、かえって劣っているやに思われます。今の学ぶ者たちが、先に道家仏教を排斥しようとすることは必要なくて、聖人の学をなそうと篤く心がければよいのです。聖人の学が明らかになれば、道家仏教は自然なくなってしまうものなのです。そうでないと、こちらの学そのものを彼らはさげすみ、こちら側に従うことを望んでも、なんとも難しいものがあります。私見は以上ですが、先生はどうすればいいと思われますか。」
先生は、言われた。
「論は、大体、それでもいいだろう。ただ、上の段階・下の段階ということについても、人はこのように偏って考えている(のがいけない)。もし、聖人の、この至って中正な道を論ずるなら、上下を貫いて、ただただ一貫なものである。他にどんな上の段階・下の段階なんてものがあろうか。(『易』にいうように)陰陽が入れ替わるのが(天の)道だが、仁者はこれをみて仁といい、知者はこれを見て智といい、さらに民は日々用いているのに気づかない。かくて、(仁智を備えた完璧な)君子の道(に達する者)は少ないのだよ。仁や智は道と言えるものではある。ただ、偏った見方をすると、弊害がでてくるものだ。」

(50)
筮竹(を使うのは)もとより『易』だ。亀(を使うのは)また『易』(と同じような占い)だ。

(51)
質問した。
孔子は、『武王(の音楽・舞い)は、まだ善をきわめていない』と言いましたが、やはりきっと不本意だったのでしょう。」
先生は、言われた。
「武王については、おのずからそうだったはずだ。」
言った。
「もし文王が亡くなっていなかったら、結局どうだったでしょう。」
言われた。
「文王がいた時、天下は三つに分かれ、その二つをすでに有していた。もし武王が殷を討つ時までに文王がいたら、あるいは兵をおこすまでにはならなかっただろう。必ずやこの(三分の二の残りの)一部は(文王に)従ったであろう。文王は(その主君である)紂にうまく対処して悪事をほしいままにすることをさせなかっただろう。」

(52)
質問した。
孟子は、『(偏りのない)中を把持しようとしても、時宜を考慮しないようでは、一方に固執するようなものだ』と言いました。」
先生は、言われた。
「中とは、天理そのもので、易そのもの、(つまり)時に応じて変わるものなので、どうして把持できようか。時に応じて適宜対処すべきで、あらかじめ規則を定めておきようがないものだ。後世の儒者は、道理を脱漏なく説こうとし、規則法則を決めようとするが、これこそ一方に固執するものだ。」

(53)
質問した。
「立志とは、常に善念を保って、善をなして悪を除こうとするものですか。」
言われた。
「善念がある時は、(心は)とりもなおさず天理だ。この念は、さらにどんな善を思おうか。この念が、悪ではないのなら、さらにどんな悪を思おうか。この念は、例えば樹の根と芽だけの(苗)のようなものだ。立志とは、この善念を成長させ確立させるだけなのだ。(『論語』に)心のまま行っても規範を超えないというのは、ただ志が、熟し切ったためである。」

(54)
精神・道德・言動は、おおむね収縮を主とする。発散はやむを得ない時のものだ、天・地・人・物すべてそうだ。

(55)
質問した。
「文中子は、どんな人でしょうか。」
先生は、言われた。
「文中子は、ほぼ(聖人の徳性を)具有しているが、規模・威風が微少だ。残念なことに、(三十代で)若死にした。」
質問した。
「どうして、続経に対する非難があるのでしょう。」
言われた。
「続経が、すべて非難されるわけではない。」
このことを質問して、久しくして言われた。
「(杜甫の詩にあるように)良工は一人苦心するものだ、というのを一層感じられる。」

(56)
許魯齋は言っているが、儒者は生活を安定させるのが先決だというのは、やはり人を誤らせるものだ。

(57)
道家のいう(人の構成素材である)元気・元神・元精について質問した。先生は、言われた。
「ただ同じものだ。行き渡っている状態から気とし、凝集している状態から精とし、霊妙な状態から神としているのだ。」

(58)
喜怒哀楽の本来的な姿は、もともと(発せられない場合、偏りのない)中であり、(発せられた場合、節度にあたるという)和である。(こうあるべきだという)考えにとらわれてしまうや否や、過不及が発生して、その(喜怒哀楽は)私欲に属することになる。

(59)
「(孔子が、弔問して礼儀として)哭泣した日は、歌をうたわなかった」ということについて質問した。先生は、言われた。
「聖人の心本来の姿は、おのずとこのようなものだ。」

(60)
克己とは、(私欲を)取り除いて、わずかでも残さないようになって、やっと良しとする。わずかでもあれば、諸悪がこぞってやってくるのだ。

(61)
『律呂新書』について質問し、先生は言われた。
「学ぶ者は、努力すべきことを急務とするもので、この数理をうまく解しても、やはり役に立たないのではなかろうか。まず必ず心中に礼楽の根本があって、それでやっとよしとするものなのだ。たとえば、その書では、多くは管によって節気を観測すると言っているが、冬至のその一時に、管の灰が舞い上がるまでには、前後にわずかな間があるだろうし、その管が冬至の時にちょうど反応しているなんて分かろうか。まず必ず冬至の時が心中で分かってからやっとできるのだ。これは、理屈にあわない。学ぶ者は、まず礼楽の根本から学ぼうと功夫しなければならない。」

(62)
徐愛は言った。
「心は、ちょうど鏡のようだ。聖人の心は明鏡のようだ。常人の心はくもった鏡のようだ。近世の格物の説は、鏡でものを映しだすのに、映しだそうという点で功夫をしようとするようなものだ。鏡がまだくもっているのも分からず、なんで映しだすことができようか。先生の格物は、鏡を磨いてくっきりとさせようとするようなものだ。磨くという点に功夫をするのだ。くっきりした後は、やはり絶え間なく映しだすのだ。」

(63)
道の精粗について質問した。先生は、言われた。
「道に精粗はない。人の所見に精粗があるのだ。たとえば、この部屋と同じだ。人が初めて入ってくると、ただ大まかな体裁が分かる。しばらくいると、柱や壁などそれぞれがはっきりと分かってくる。またしばらくすると、柱の上の模様・文字のようなものが事こまかく分かってくる。しかし、ただの(同じ)部屋なのだ。」

(64)
先生は、言われた。
「君たち最近会うときに、疑問を欠いて(質問しないのは)どうしてだ。人は功夫をしないと、みなもう自分で分かったとして、学問をするのは、ただこのようにしていけばいいのだ思ってしまう。
ところが実際には、私欲が地上の塵のように生じているのだ。一日取り払わないと、またまたそれだけのこることになる。しっかりと身をもって功夫をしていけば、それが分かる。道は極まりがない。探し出そうとすればするほど、深みに分け入ることになる。必ず心をまっさらにしてわずかな妥協もしないようにして、やっとよしとするものなのだ。

(65)
質問した。
「(『大学』にいうように)知が至って(=完成して)、意を誠にすると言えますが、今のところ、天理・人欲について知り尽くし得ないのに、どのように克己の功夫をできましょうか。」
先生は、言われた。
「もし、しっかりと身をもって絶え間なく功夫をするなら、この心の天理の精微は、日々ますます分かるだろう。私欲の細微も、日々ますます分かるだろう。もし、克己の功夫をしないなら、終日ただ話をするだけになってしまい、天理はついに分からないし、私欲もついに分からない(ままだ)。これは、人が道を歩くのと同じだ。一区間歩いて、やっと一区間が認識できるのだ。分かれ道に達すれば、疑問が出てきて質問する。質問し終えたら、さらに歩いてゆく。そうしてやっと行きたいところまで段々と行けるのだ。今の人は、既知の天理を存養しようともせず、既知の人欲を取り去ろうともしない。一方でひたすらすべてを知りえないのを憂えて、ひたすら暢気な講学につとめるが、何の利益にもならない。一方で克己の功夫をして克服すべき私欲がなくなってから、やっとすべてを知りえないのを憂えても、遅くはなかろうに。」

(66)
質問した。
「道は一つしかないものです。古人が道を論じていますが、往々にして異なっています。道を求めるのにも要点はありますか。」
先生は、言われた。
「道には、場所・形態がなく、とらわれるべきものではない。文義にこだわっていると、かえって道を求めるのに遠ざかってしまう。今の人は天のことばかりいうが、その実、天を見たことはない。太陽・月・風・雷がそのまま天なのだというのは、いただけない。人物・草木は天ではないいうのも、いただけない。道は、とりもなおさず天なのだ。もし、このことを心にとどめておくことができれば、(どんなものであれ、どんな時・ところであれ)すべてが道なのだ。人は、およそ各自の一隅の見解で道はこんなものに過ぎないと決めつけてしまうので、異なってしまうのだ。もし、心の内面に求めることを理解して、自己の心の本来的なさまが分かったなら、どんな時・ところであれ、道でないものはない。昔から今まで、始めもなく終わりもないし、他にどんな違いがあろうか。心は、とりもなおさず道であり、道は、とりもなおさず天なのだ。心を知れば、道を知り天を知るのだ。」
さらに言われた。
「諸君は、この道を直に見たいと思うなら、必ず心という場で体認すべきで、外に求めるまでもなくやっとものにできるのだ。」

(67)
質問した。
「物の名と形・規則なども、先に講究すべきでしょうか。」
先生は、言われた。
「人は、自分の心の本来のさまを完成しさえすれば、その働きは発揮できるのだ。もし、心の本来のさまを育て上げたなら、果たして未発の中を得、おのずと発しても節度にあたるという和を得るのだ。おのずと発揮しても必ず妥当なものになるのだ。もし、この(本来の)心がなければ、あらかじめ世上の多くの物の名と形・規則など講究しようとしても、自身とは無関係なもので、単なる飾りでしかなくなってしまう。その時その時になると、立ちいかなくなる。とは言っても、物の名と形・規則などすべて無視しろというわけではない。(『大学』にいうように)順序をわきまえさえすれば、道に近づくのだ。」
さらに言われた。
「人は、才能によって完成する。才能とは、その人がよくできるもののことだ。(昔の、)?の音楽・稷の農事のようなものだ。彼らの資質はもとからこのようだったのだ。それらを完成するのには、やはり彼らの心の本来のさまを天理そのままにしなければならなかった。その発揮されたものは、すべて天理から発せられたもので、こうであって才能と言える。心が天理そのものに達すれば、やはり一芸だけに秀でたものではなくなる。?・稷に仕事をかえさせても、当然うまくできたはずだ。」
さらに言われた。
「(『中庸』に)富貴な場にあっても、(道に外れず)その富貴な状態で行い、患難な場にあっても、(道に外れず)その患難な状態で行うというのは、すべて一芸だけに秀でたものではない状態のことなのだ。これは心の本来のさまを正しく育て上げたものだけができることなのだ。」

(68)
「百畝ほどで源のない(淀んだ)池よりも、数尺でも源がある井戸で常に活き活きとしている方がいい。」当時、先生は、池の片隅に座っておられたが、傍らに井戸があったので、これによって学問というものをたとえたのである。

(69)
質問した。
「世の道は、日々衰えています。太古の様子は、どのようにすれば、また見ることができますか。」
先生は、言われた。
「一日とは、とりもなおさず(邵雍が言った)129600年にあたる。人は明け方に起居し、まだ物事に接していない、その時の心は清明なさまで、とりもなおさず(太古の)伏羲の時代にぶらりとおもむいたような(心のさま)だ。」

(70)
質問した。
「心が外物を追い求めてしまいますが、どうしたらよいでしょうか。」
先生は、言われた。
「人君は、ゆったりとして穏やかにしていて、六官はそれぞれの仕事をこなして、天下は治まる。心が五官を統括するのも、これと同じようでなくてはならない。今、目で見ようとするとき、心がものの様態を追い求めたり、耳で聴こうとするとき、心が声を追い求めたりするというのは、人君が官吏を選ぶとき、吏部に好んでいすわったり、軍を整えようとするとき、兵部に好んでいすわるようなものだ。こんなことをしたら、人君の本質も失われようし、六官も皆仕事をできなくなってしまう。」

(71)
善念が発せられたら、それを感知して満たそうとする。悪念が発せられたら、それを感知して止めようとする。この知、満たそうとすること、止めようとすることは、志(の働き)だ。これは天性の聡明によるものだ。聖人だけが、このような特質があるのだが、学ぶ者は、このような特質を存しようと(励まなければ)ならない。

(72)
私(陸澄)は、質問した。
「色を好んだり、利を好んだり、名声を好んだりするのは、もとより私欲です。たとえば、とりとめもない思慮のようなものも、どうして私欲というのでしょうか。」
先生は、言われた。
「結局のところ、それらは、色を好んだり、利を好んだり、名声を好んだりするというのが根っこにあり、そこから出てくるのだ。自分で根っこをたぐっていくと分かる。たとえば、君の心中には盗みをしようとする思慮がないというのを必ず分かっているのはどうしてか。君には、もともとこのような心がないからだ。君が、もし、物・色・名・利(を好む)心が、すべて全く盗みをしようとしない心と同じように、みんな無くなってしまったら、すっかり心の本来のさまそのもの(になるの)だ。とりとめのない思慮なんて見つけられまい。これが、とりもなおさず(『易』にいう)寂然不動(=心の本体は、じっとして動かない)であり、とりもなおさず(『中庸』にいう)未発の中であり、とりもなおさず(程明道のいう)廓然大公(=からりとして公平)なのだ。そして、(外界と接すれば)自然とそのまま感応し通じ、自然と発して節度にあたり、自然と事物に対応するのだ。」

(73)
(『孟子』の)「志至り氣次ぐ」について質問した。先生は、言われた。
「志が極まると、気もまた極まるということだ。(志が)極致となると、(気が)添い従うのではない。志を持てば、自然と気を養うことになるし、気を荒らしていなければ、また志を持つことになるのだ。孟子は、告子の偏りを救うため、このように両面から言ったのだ。」

(74)
質問した。「先儒は、『聖人の言葉は、必ず自ら卑下する。(対して)賢人の言葉は、人を導き(道の高遠さを分からせようとして)自ら高ぶっている。』と言ってますが、どうでしょうか。」
先生は、言われた。
「間違っている。そうであれば、いつわりということにならないか。聖人は、天のようなものだ。どこに行っても天なのだ。太陽・月・星の上は天であり、深い土の下も天なのだ。天はへりくだって自分から卑下するなんてことはなかった。これが、いわゆる(聖人は)偉大でありながら人を感化させるというものだ。賢人は、山岳のようなものだ。その高さを保持しているにすぎない。しかし、百仞のものは引っ張っても千仞にはできないし、千仞のものは引っ張っても万仞にはできない。賢人が引っ張って自ら高ぶろうとはしたことはない。引っ張って自ら高ぶろうとするなら、それはいつわりだ。」

(75)
質問した。
「程伊川は、『喜怒哀楽の未発(=発していない)段階で、偏りのない中をもとめるべきではない』というようなことを言ってます。ところが、延平は、学ぶ者に未発である前段階の様子を見るように教えています。どうでしょうか。」
先生は、言われた。
「みな正しい。伊川は、人が未発である前段階で、中をあれやこれや求めようとして、中をなにか一つの物のようにとらえるのを心配危惧したのだ。それは、丁度私が前に『(今の人は間違って)気が安定したときを中と考える』と言ったことと同じだ。だから、ただ(已発の状態で)涵養と省察をして工夫させるようにしたのだ。延平は、着手する方法がまだなかったのを心配して、(静坐を勧め)常に未発の様子を求めさせようとした。人に(心を正し)目を正させ(他のことに気を向けることなく)見るようにし、耳を傾けてきくようにさせたのだ。これは、とりもなおさず(『中庸』にいう)人が見たり聞いたりしていない(一人だけの時の)自分の挙動を慎みおそれることなのだ。すべて古人がやむを得ず人を誘導させる言説だった。」

(76)
陸澄は、質問した。
「喜怒哀楽の(未発の)中と(已発の)和は、そのすべてをもともと常人は保つことができません。ある些細なことがあって、喜怒を表すような者が、普段は喜怒など表さないのに、その時になって、節目にあたっても、やはり中和と言えますか。」
先生は、言われた。
「一時のことでであっても、もともと中和と言える。しかし、(『中庸に』いう天下の)大本・達道である中和とは言えない。人の性は、善だ。中和は、もともと人々が持っているものだ。どうして、ないといえよう。ただ、常人の心はすでに覆われていて、本来のさまがときどき現れるものの、結局は、明滅の間を行き来するだけで、すべての本来的なさまと・その働きではない。いつも中であって大本といえ、いつも和であって達道といえる。天下の至誠であってこそ、やっとこの大本を確立することができるのだ。」
(質問して)言った。
「私は、中の意味について、まだはっきりしません。」
言われた。
「自身の心で体認しなければならない。言葉では教え諭すことはできない。中は、天理そのものだ。」
言った。
「何を天理とするのでしょう。」
言われた。
「人欲を除ききれば、天理が見て取れる。」
言った。
「天理をどうして中というのでしょう。」
言われた。
「偏ったところがないからだ。」
言った。
「偏ったところがないとは、どんな様子ですか。」
言われた。
「明鏡のようだ。全体が明らかで澄みきっており、ほとんどわずかの塵も染みついていないのだ。」
言った。
「偏ったというのは、人欲に染まったところがあるわけです。たとえば、色や利や名を好むなどに執着していれば、そこで偏ったさまが分かります。もし未発の場合、美色・名利にまだ執着してないわけです。どうして、偏ったところがあるのが分かるのですか。」
言われた。
「執着していないけれども、平時に色や利や名を好むという心が、もともと無かったわけではなかろう。無かったのではなかったのなら、あるといえる。あるのなら、偏りがないとはいえまい。たとえば、マラリアをわずらう人は、発作がおこらないことがあるけれど、病根をのぞかない限り、やはり無病の人とはいえまい。平時の色や利や名を好むというような全ての私心を、取り除き・洗い流して、もう一切残さないようにして、この心の全てのさまは、からりとして天理そのままになる。これでこそ喜怒哀楽の発していない状態の中であり、天下の大本なのだ。」

(77)
質問した。
顔子が亡くなり聖学がほろんだという、(先生の)言葉は疑いようがありません。」
先生は、言われた。
「聖人の道の全体を見たのは顔子だけだ。ため息をついていたことから分かるのだ。その『先生は順序よく誘引し、文によって見識をひろめ(=博文)、礼によってひきしめていただいた(=約禮)』というのは、(道を)看破した後、このように言ったのだ。博文・約禮というのが、どのようによく人を誘引するのか、学ぶ者は考えなければならない。道の全体は、聖人でも人に語ることは難しい。学ぶ者が、みずから修め悟らなければならないのだ。顔子は、従おうとしても拠り所がなかった(と自ら言っている)。これは、とりもなおさず、(『孟子』にいう)文王が道を望んでいながら、まだ見ていないという意味と同じなのだ。道を望んでいながら、まだ見ていないというのは、本当は見ていたのだ。顔子が没して、聖学の正しい流れは、そのまますべては伝えられなかった。」

(78)
質問した。
「身体の主宰を心、心で霊明なものを知、知から発せられたものを意、意が及んだ対象を物とします。このような説明でよろしいでしょうか。」
先生は、言われた。
「それでもいいだろう。」

(79)
ひたすらこの心をいつもこの場にとどめおくというのが、とりもなおさず学なのだ。過去未来のことを考えても無益だ。無駄に心を放散するだけだ。

(80)
言葉のぞんざいなさまで、心がしっかり保てていないということが十分に分かる。

(81)
弟子の尚謙が質問した。
孟子の不動心と告子の(不動心)との違いは、(どこでしょうか)。」
先生は、言われた。
「告子、この心をしっかりとらえて、心を動じさせまいとした。ところが、孟子は、義を十全にさせて自然に不動になろうとしたのだ。」
さらに言われた。
「心の本来のさまは、もともと動じないものだ。心の本来のさまとは、とりもなおさず性のことであり、性とは、とりもなおさず理のことであり、性はもともと動じないもので、理はもともと動じないものだ。義を十全にさせるとは、心の本来のさまに戻ることなのだ。」

(82)
万象がびっしりしている時、心は深遠なさまで兆しがない。心は深遠なさまで兆しがない状態は、とりもなおさず万象がびっしりしている状態でもある。心は深遠なさまで兆しがないとは精一の一の根本的なさまをたとえており、万象がびっしりしているとは、精の根本的なさまをたとえている。一(とは純一であるさまなのだが、それは精の功夫が必要だから)一の中に精の功夫が予想されてあり、精の中に一(という結果)が予定されてある。

(83)
心(を抜きにして)外に物があるのではない。親に孝行しようという一念が発せられたら、親に孝行するということが、とりもなおさず物と呼べる。

(84)
先生は、言われた。
「今私の言う格物を学ぶ者は、まだ多く口耳だけの表面的なものにながれている。まして(はじから)口耳の学をしようとするものは、この格物の本義に戻れない。天理と人欲の微妙なところは必ずいつも努めて省察克治しようとして、やっと日ごとに少しずつ分かってくるのだ。たとえば今しゃべっている間、ひたすら天理を講じていても、わずかな間に心中いくらかの私欲があったりしても、こっそり出ているため分からないこともある。努めて察しようとしても、まだ容易には見てとれない。まして口だけで講じていてすべてが分かるはずもない。今ひたすら天理を講じていても、うっちゃったまま天理にしたがわなかったり、人欲を講じていても、うっちゃったまま取り去ろうとしなかったりして、どうして格物致知の学といえよう。後世の学は結局、ただただ取り繕おうとする功夫をするようなものだ。」

(85)
「止まるところを知るとは、至善はただ自身の心にあり、もともと外にはないことを知ることであり、その後に一つの志向ができるわけでしょうか。」
(先生は)言われた。
「その通りだ。」

(86)
格物について質問した。先生は、言われた。
「格とは、正すの意味だ。正しくないのを正して、正しい状態に復帰させることなのだ。」

(87)
質問した。
「格物は、動の状態の時に工夫するのですか。」
先生は、言われた。
「格物には、動静のへだてはない。静もまた物なのだ。孟子が『必ず事とせよ』といったが、動静すべての状態で事があるわけだ。」

(88)
【訳】
功夫の難しいところは、すべて格物致知にある。この格物致知とは、とりもなおさず意を偽りのないものにする功夫だ。意が偽りのないものになれば、ほぼ心も自然と正しくなり、身も自然と修まるものだ。ただ、この正心と修身の功夫には、やはりそれぞれ力を注ぐところがある。修身は已発のところ、正心は未発のところだ。心が正しくなれば、中和の「中」になり、身が修まれば「和」になる。

(89)
格物致知から平天下までのことは、明明徳のことにすぎない。親民であっても、明徳のことだ。明徳とは、この心の德であり、とりもなおさず仁のことだ。仁者は、天地の万物を一体とみなす。もし当を得ないものがあるのなら、自身の仁に尽くしきっていないところがあることになる。

【語釈】
○仁者以天地萬物爲一體『二程集』巻二上・p15に「仁者、以天地萬物為一體、莫非己也。認得為己、何所不至。」と見え、p17に「學者須先識仁。仁者、渾然與物同體。義、禮、知、信皆仁也。」と見える。

(90)
ただ明明德だけを言って、親民を言わないなら、老佛の教えと似たようなものになる。

(91)
至善とは性のことだ。性にはもともと僅かの悪もないから、至善というのだ。(『大学』にいう)至善に止まるとは、本来のさまに復帰するという意味に他ならない。

(92)
質問した。
「至善はとりもなおさず自身の性であり、自身の性は自身の心に具備されており、自身の心は至善の止まるところだと分かれば、以前のようにごたごたと外に理を求めようとしなくなり、志は定まる。定まれば乱れない。乱れなければ、静かになる。静かでみだりに動じたりしなければ安定する。安定すれば、ひたすらこの至善に居るようになる。どんなに思いを巡らそうとも必ず至善を得ようと努めることになる。これが上手く思慮して当を得ることです。このように『大学』の経文を説明してよいでしょうか。」
先生は、言われた。
「ほぼ正しい。」

(93)
質問した。
「程子は『仁者は天地万物を一体のものとする』と言います。なのにどうして墨子の兼愛は仁とは言えないのでしょうか。」
先生は、言われた。
「これは、とても説明しにくい。諸君が体認できてから分かるものだ。仁とは、天地がたゆまず生成活動していく理のことだ。天地の果てにまで充満し、どにでもあるのだが、それが巡り生成するのには、やはり緩やかな進み方しかない。だから、たゆまず活動できるのだ。たとえば、冬至になると、一陽が生じる。一陽が生じてから次第に六陽になるのだ。一陽が生じなければ、六陽などあるはずもない。陰の場合も同じだ。緩やかな進み方があるだけだ。だから、兆すところができ、兆すところがあるから、生じ、生じるから、続いていくのだ。
木にたとえてみよう。はじめ芽が出るが、これがとりもなおさず生じようとする兆しだ。芽が出た後、幹が現れ、幹が現れた後、枝葉が生じる。その後たゆまず生成していのくのだ。芽がなければ幹や枝葉などあるはずがない。芽が出ることができるには、地面に根がある必要がある。根があって、やっと生じ、根がなければ死んでしまう。根がなくて、どうやって芽が出ようか。
父子兄弟の愛とは、とりもなおさず(さまざまな)人心が生じようとする兆し・はじめのところだ。木が芽を出すように、この兆しから民をいつくしみ物をめでるようになるのだが、これは、とりもなおさず幹が現れ枝葉が出て来るのと同じだ。墨子の兼愛は、無差別で自分の父子兄弟と道行く他人と同様にみなしており、自然と兆し・はじめがなくなっているわけだ。芽が出ていないので、根がないのが分かる。たゆまず生成活動をするというものではない。仁などと呼べないしろものだ。孝悌は仁を行う本と言われるが、仁の理は内側から出て来るものなのだ。」

(94)
質問した。
「延平は、(仁とは)理にかなっていて私心がないことだと言ってます。理にかなうことと私心がないことは、どのように区別できますか。」
先生は、言われた。
「心は、とりもなおさず理だ。私心がないというのは、とりもなおさず理にかなうことだ。理にかなっていないということは、とりもなおさず私心だ。心と理とを分けて言うのは、やはりよくないのではなかろうか。」
さらに質問した。
仏教は、世間一切の情欲の私に全く染まっていないので、私心がないように見えます。ただ外面では人倫を棄てているため、逆に理にかなっていないのでないでしょうか。」
先生は、言われた。
「これも、ただやはりひとまとまりに過ぎない。みな私心を成し遂げようとしているだけなのだ。」

(95)
私、侃は質問した。
「志を持つのは、心が痛むようなものです。心が痛むようなら、無駄話や無駄ごとをしている暇などありません。」
先生は、言われた。
「初学の工夫はこのようにしてもいいだろう。ただ、心の霊妙な働きはもともと、『時にかかわらず出入し、ありかが分からない』ということを分からせれば、工夫もやっと地に着いたものとなろう。ただただ必死に志を保持しようとしたなら、その工夫の仕方にはもっと弊害が生じるだろう。」

(96)
私、侃は質問した。
「涵養をもっぱにして講究しようとせず、欲を理だとするようになってしまったら、どうしましょう。」
先生は、言われた。
「学というものがどういうものか分からなければならない。講究も涵養のことにすぎない。講究しないのは、涵養の志が(身に迫った)切実なものではないからだ。」
私は、質問して言った。
「学を分かるとは、どういうことですか。」
先生は、言われた。
「何のために学ぶのか、そして何を学ぶのか言ってみなさい。」
私は、言った。
「以前、先生のご教説をうかがいました。学ぶとは、天理を存養することを学ぶのです。心の本来のさまは、とりもなおさず天理であり、天理を体認するには、ただただ心に私意がないようにしなければいけません。」
先生は、言われた。
「そうであれば、ただ私意を取り除こうとすればいいだけなので、理と欲の区別がはっきりしないなどということを煩うまでもなかろうに。」
私は、言った。
「実際、私意というものを正確に認識できないのではないかと思います。」
先生は、言われた。
「結局は、志が切実なものではないからだ。志が切なものだったら、集中して目で見耳で聞くことができるので、正確に認識できないなんてことがあろうか。是非の心は、みんな持っている。外から求めるまでもない。講究とは、自分の心で見たものを省みることで、心を放って見るということがあってはならない。」

(97)
先生は同座している友人に、最近の工夫のどのようであるかを質問し、友人は心が澄みきっている旨を告げた。先生は、言われた。
「それは光景を言っているのだね。」
もう一人の友人が、前と今との違いを述べると、先生は、言われた。
「それは、効果を言っているのだね。」
二人の友人は呆然としてしまい、教えを請い、先生は言われた。
「私たちが今工夫をするには、ただただ善をなそうとする心が切実でなければならない。その心が切実なら、人の善を見るとそれを慕い過ちがあれば改めようとするだろうし、それでやっと切実な工夫となる。かくて人欲は日々なくなり天理が日々明らかになっていく。ただ光景や効果を求めようとするなら、心が外にばかり向いてしまう弊害を助長することになり、工夫ではなくなる。」

(98)
友人が本を読んでは、しばしば朱子の文を取り上げては議論していた。先生は、言われた。
「これは、奇異を求めているもので、よくない。私の説と朱子のものとは時折ことなっている。入門時の着手すべきところが、少し違っており、それが(将来的に)大きな違いになるため、言わざるをえないのだ。しかし、私の考えと朱子のものとは、違いはないのだ。その他の文義が明瞭適切なところなどは、一字も変えられない。」

(99)
(弟子の)希淵は、質問した。
「聖人には学んでなれるとのことですが、伯夷・伊尹と孔子の場合を見ると、才能・力量は結局同じではありません。同じく聖という理由は、どこにあるのでしょうか。」
先生は、言われた。
「聖人が、聖である理由は、心がすっかり天理そのもので人欲の混じり気がないからだ。純金が純であるのは、成分が充実していて銅や鉛の混じりがないからそういうのと同じようなものだ。人は、(心が)天理そのものであれば聖であり、金は成分が充実していれば純というのだ。
しかし、聖人の才能・力量も大小の違いがある。金に分とか両とかの軽重があるのと同じだ。尭舜は万鎰で、文王・孔子は九千鎰で、禹・湯・歩王は七八千鎰で、伯夷・伊尹は四五千鎰のようなものだ。才能・力量は違っても、心がすっかり天理そのものである点は同じで、皆聖人といえる。重量が違っても、成分が同じなら純金といえるのと同じだ。五千鎰のものを万鎰に混ぜても、充実した成分は同じ。伯夷・伊尹を尭・舜と並べても、心がすっかり天理そのものである点は同じだ。
純金であるのは、充実した成分があるかによるもので、重量に依らない。聖であるのは、心がすっかり天理そのものであるという点にあり、才能・力量に依らないのだ。だから凡人であっても、学ぼうとして、心をすっかり天理そのものにさせれば、やはり聖人になれるのだ。一両の金を万鎰と比べれば、重量はかけ離れているものの、充実した成分という点では遜色ない。だから『孟子』に人は皆尭・舜になれるといっているわけだ。
学ぶ者が聖人を学ぶというのは、人欲を取り除き天理を存養することにほかならない。金を精製して充実した成分を得ようとするのと同じだ。金の成分は、混ざり気が少なければ、鍛錬の工程は省かれるし、成果も出やすい。成分が劣っていればいるほど鍛錬しにくくなる。人の気質の清濁にも、中人以上と中人以下との区別がある。道に対して生知安行と學知利行の人の区別があるが、それ以下の者は、人が一の事をしたらその十倍の努力をし、人が十のことをしたらまた十倍の努力を必ずしなければならないのだが、成果が出た時点では、(努力の程度に違いはあるものの)その成果は同じである。後世の者は、聖人である本を(心が)すっかり天理そのままであるからだということを知らず、いやはや知識・才能という点で聖人をひたすら追い求めようとする。聖人を知らないこと・できないことなどないと考えて、聖人についての多くの知識・才能を一つ残らず必ず理解して、やっと分かるのだとし、天理という点で工夫をしようとしない。ただ力を尽くし精神をくたびれさせながら、本により研究したり、名前と物を考察したり、事跡をまねたりしようとばかりしている。知識が多くなればなるほど私欲も増えてきて、才能・力量が多くなるほど天理が覆われてしまうわけだ。他人が万鎰の純金であるのを見て、自分は成分を鍛錬しようとせず、彼に遜色ないよう純度を求め、やたらと重さを望んで、彼の万鎰と同じようになろうとするのと同じだ。錫・鉛・銅・鉄を混ぜ込んで、重さが増すばかりで、成分は劣っていき、終いには、もはや金というしろものにはなれなくなる。」
その時(弟子の)曰仁が側にいて、言った。
「先生のたとえは、世儒の支離滅裂に陥る迷いを道破するに十分なものです。大いに後学の参考になるものです。」
先生は、さらに言われた。
「我らが力を用いるところは、ただ日々減らすことで増やそうとすることではない。人欲が一つ減れば一つ天理が回復するのだ。なんと軽やかでさっぱりしたものではないか。なんと簡単なものではないか。」

(100)
(弟子の)士德が質問した。
「先生の教えられている格物の説は、簡単明白で、人々は理解できます。朱子は群を抜いて聡明なのに、この点についてはっきりさせていなかったのは、どうしてですか。」
先生は、言われた。
朱子の精神・気魄は大きく、若い当時にもう過去の成果を継いで将来のための新地を切り開いた。ひたすら考察・著述に専念したのだった。もし身をもって修養したのなら、おのずとこんなことに関わる暇などなかっただろう。徳が盛んになる年になってから、やはり道が明らかでないのを憂い、孔子が引退して六経を編集したように、煩雑をところを削って簡単にして、将来の学ぶ者に道を切り開いたのなら、大体それほどの考察を要するものではなかった。朱子は、若くして多くの書物を書いたが、晩年になってやっと悔いたのだ。倒錯している。」
士德は、言った。
「晩年の悔いとは、(朱子が)『今までの基準の間違い』とか、『本を読んでも我が身に益なし』とか、『(日常の生活の中で道を究めることは)、書物の言葉に拘泥することとは無関係だ』とかいったことで、この晩年になってやっと今までの工夫が間違っているのを悔い、やっと身をもって修養しだしたことですね。」
(先生は)言われた。
「そうだ。ここが朱子の並外れたところで、力量も多大で、(間違いを)悔いてすぐに改めた。惜しいことに程なく亡くなり、平生の幾多の間違いまで直すに至らなかった。」

(101)
私、侃は、花園の草を抜いていたので、訊いてみた。
「天下の中で、どうして善は養いがたく、悪は去りがたいのでしょうか。」
先生は、言われた。
「養っておらず、取り去ってもいないだけだ。」
しばらくして言われた。
「それらの善悪の見方は、すべて自分の体を起点に考えているので、間違うだあろう。」
私は、理解できずにいると、言われた。
「天地の生成する意図は、草花(を生ずるの)と同じだ。善悪の区分などなかった。君は花を見て、花を善とし、草を悪とするが、草を利用するときは、また草を善とする。これらの善悪は、すべて君の好悪から出てきたものだ。これで誤っていることが分かろう。」
(私は、)言った。
「それなら、善も悪もないのでしょうか。」
(先生は、)言われた。
「善もなく悪もないのが、《理の静》のさまであり、善悪が出て来るのは、《気の動》のときのものだ。気に動かされなければ、無善無悪であり、これを至善という。」
(私は、)言った。
仏教でも無善無悪を言いますが、どのように違っているのでしょうか。」
(先生は、)言われた。
仏教は、無善無悪にこだわってしまい、一切の(人事)に関わろうとしないので、天下を治めることはできない。聖人の無善無悪は、(『尚書』にいうように)ただただ好もうとか憎もうとかせずにして、気に動かされないのだ。そして王道にしたがい、至極に合致にするのだ。それは、とりもなおさずひたすら天理に自ずとしたがうものであり、(『易』にいうように)天地の道義を調整・完成させ、それに参与するものなのだ。」
(私は、)言った。
「草が悪でない以上、草は取り去ってはならないものなんですね。」
(先生は、)言われた。
「それでは、かえって仏教老荘の考えになってしまう。邪魔であれば、取り去ってもかまわない。」
(私は、)言った。
「それでは、さらに好悪の感情を起こすことになります。」
(先生は、)言われた。
「好悪の感情を起こさないというのは、まったく好悪がないことではない。それだったら、知覚がない人間ではないか。起こさないというのは、ただ好悪がひたすら理にしたがっていることなのだ。一つも思惑を加えようとしないのだ。こうであれば、好悪の感情を起こしたことがないのと同じわけだ。」
(私は、)言った。
「草を取り去るのが、どうして、ひたすら理にしたがうことになり、思惑を加えないことになるのでしょうか。」
(先生は、)言われた。
「草が邪魔で、理としてやはり取り去るべきであれば、取り去るまでだ。たまたま取り去れなかったとしても、やはり気に掛けることもない。もし一つでも思惑を加えたら、心の本来のさまに障碍が生じ、気に動じることになるだろう。」
(私は、)言った。
「ということは、善悪は物自体には全くないということですね。」
(先生は、)言われた。
「君の心にあるだけだ。理にしたがえば善であり、気に動ずれば悪なのだ。」
(私は、)言った。
「つまり、物に善悪はないわけですね。」
(先生は、)言われた。
「心はそのようなもので、物もそのようなものだ。世の儒者は、このことを知らないばかりに、心を捨てて物を追おうとして、格物の学を見誤っている。一日中、外の物ばかり追い求め、義を取り繕おうとしている。生涯行っても本質を分からず、なれ行っていても本質を見極めることがないのだ。」
(私は、)言った。
「(『大学』に)好色を好むように、悪臭を嫌うようにと(いう比喩が)ありますが、どうでしょうか。」
(先生は、)言われた。
「これは、まさにひたすら理にしたがっているのだ。天理としては、かくあるべきで、もともと私意によって好悪の感情をおこすことはないのだ。」
(私は、)言った。
「好色を好むように、悪臭を嫌うようにというのが、どうして私意でないのですか。」
(先生は、)言われた。
「それは誠意で、私意ではない。誠意とは、ただただ天理にしたがっているものだ。天理にしたがっていて、やはり少しも思惑・意思を加えない。だから、(『大学』に、)腹が立っていたり、強い好みがあると、正常さを保てないというわけだ。廓然大公(=からりとして公平)であって、やっと心の本来のさまなのだ。これが分かれば、未発の中も分かる。」
(弟子である)伯生は、言った。
「先生は、『草が邪魔であれば、理として取り去ればいい』と言われましたが、どうして、また体を起点に考えるのでしょうか。」
(先生は、)言われた。
「身をもって考えてみなさい。草を取り去ろうというのは、どんな心なのか。周濂溪が窓前の草を取り除かなかったのは、どんな心なのか。」

(102)
先生は、学ぶ者たちに言われた。
「学問には、糸口・端緒があって、工夫はやっとしっかりしたものになる。たとえ、間断なく学問を続けられなくても、船に舵があるように(迷うことなく)、(糸口を)引き上げれば、はっと気づくわけだ。そうでないと、いくら学んでいても、ただ義を取り繕うだけであり、生涯行っても本質を分からず、なれ行っていても本質を見極めることがないのだ。(『中庸』にいう)大本・達道ではないのだ。」

(103)
ある人が質問した。
「学問をしていて、親孝行のために、科挙の勉強のわずらわしさをどうしても感じてしまいます。」
先生は、言われた。
「親のために科挙の勉強が学問に対してわずらいになるなら、田畑をたがやして親を養育することは、また学問のわずらいになるのかい。先哲は、『(科挙が)志を奪ってしまうのを心配するだけだ』と言っているが、ただ学問をしようとする志が切実でないのを心配するだけなのだ。」

(104)
崇一問、
「尋常意思多忙。有事固忙、無事亦忙。何也。」
先生曰、
「天地氣機、元無一息之停。然有箇主宰。故不先不後、不急不緩。雖千變萬化、而主宰常定。人得此而生。若主宰定時、與天運一般不息。雖酬酢萬變、常是從容自在。所謂『天君泰然、百體從令。』若無主宰、便只是這氣奔放、如何不忙。」

(105)
 先生曰、「爲學大病在好名。」
 侃曰、「從前歳、自謂此病已輕。此來精察、乃知全未。豈必務外爲人。只聞譽而喜、聞毀而悶、卽是此病發來。」
 曰、「最是。名與實對。務實之心重一分、則務名之心輕一分。全是務實之心、卽全無務名之心。若務實之心、如饑之求食、渇之求飲、安得更有工夫好名。」
 又曰、「疾没世而名不稱。稱字去聲讀。亦聲聞過情、君子恥之之意。實不稱名、生猶可補。没則無及矣。四十五十而無聞、是不聞道、非無聲聞也。孔子云、是聞也、非達也。安肯以此忘人。」

(106)
 侃多悔。先生曰、「悔悟是去病之藥。然以改之爲貴。若留滯於中、則又因藥發病。」

(107)
 德章曰、「聞先生以精金喩聖、以分兩喩聖人之分量、以鍜錬(鍛錬)喩學者之工夫。最爲深切。惟謂堯舜爲萬鎰、孔子爲九千鎰。疑未安。」
 先生曰、「此又是躯殼上起念。故替聖人爭分兩。若不從躯殼上起念、卽堯舜萬鎰不爲多、孔子九千鎰不爲少。堯舜萬鎰、只是孔子的。孔子九千鎰、只是堯舜的。原無彼我。所以謂之聖。只論精一、不論多寡。只要此心純乎天理處同、便同謂之聖。若是力量氣魄、如何盡同得。後儒只在分兩上較量、所以流入功利。若除去了比較分兩的心、各人儘着自己力量精神、只在此心純天理上用功、卽人人自有箇箇圓成。便能大以成大、小以成小。不假外慕、無不具足。此便是實實落落、明善誠身的事。 後儒不明聖學。不知就自己心地良知良能上體認擴充。卻去求知其所不知、求能其所不能。一味只是希高慕大。不知自己是桀紂心地、動輒要做堯舜事業。如何做得。終年碌碌至於老死。竟不知成就了箇甚麼。可哀也已。」

(108)
 侃問、「先儒以心之靜爲體、心之動爲用。如何。」
 先生曰、「心不可以動靜爲體用。動靜時也。卽體而言、用在體。卽用而言、體在用。是謂『體用一源。』若說靜可以見其體、動可以見其用、卻不妨。」

(109)
 問、「上智下愚、如何不可移。」
 先生曰、不是不可移。只是不肯移。」

(110)
 問「子夏門人問交」章。先生曰、「子夏是言小子之交。子張是言成人之交。若善用之、亦倶是。」

(111)
 子仁問、「『學而時習之、不亦說乎。』先儒以學爲效先覺之所爲。如何。」
 先生曰、「學是學去人欲存天理。從事於去人欲存天理、則自正諸先覺、考諸古訓、自下許多問辨・思索・存省・克治工夫。然不過欲去此心之人欲、存吾心之天理耳。若曰、效先覺之所爲、則只說得學中一件事。亦似專求諸外了。
 時習者、坐如尸、非專習坐也。坐時習此心也。立如齋、非專習立也。立時習此心也。說是理義之說我心之說。人心本自說理義。如目本說色、耳本說聲。惟爲人欲所蔽所累、始有不說。今人欲日去、則理義日洽浹。安得不說。」

(112)
 國英問、「曾子三省雖切。恐是未聞一貫時工夫。」
 先生曰、「一貫是夫子見曾子未得用功之要、故告之。學者果能忠恕上用功、豈不是一貫。一如樹之根本、貫如樹之枝葉。未種根、何枝葉之可得。體用一源、體未立、用安從生。謂『曾子於其用處、蓋已隨事精察而力行之。但未知其體之一。』此恐未盡。」

(113)
 黄誠甫問「汝與回也孰愈」章。先生曰、「子貢多學而識、在聞見上用功。顏子在心地上用功。故聖人問以啓之、而子貢所對、又只在知見上。故聖人嘆惜之。非許之也。」

(114)
 顏子不遷怒、不貳過、亦是有未發之中始能。

(115) 
先生は云った。
樹を育てようとする者は必ずその根を培い、徳を育てようとする者は必ずその心を養う。
樹の成長を欲するならば、必ず始めに余分に繁る枝を取り除く。
故に徳の盛んなるを欲するならば、必ず始めに外における嗜好を去らねばならない。
たとえば、詩文などに心を奪われるようなことがあらば、精神は日に日に漏洩し、詩文と共にあるばかりで己から去ってしまうのである。
その他の外好もまた同様であろう、と。
王陽明はこうも云った。
私がここに学を論ずるは、これ無中に有を生ずるの工夫である。
諸君がこれを信じて自得せんとするならば、まずは立志せねばならない。
学びし者の一念善を為すの志、これは樹を育てんとするようなものである。
すでに志したならば、私意を挟みて助長せず、その一心を常に懐かねばならぬ。
ひたすらに培養し、その心に在るならば、自然と日々に長ずるを得、生気は日に充実し、枝葉は日に繁茂するであろう。
ただし、樹の成長の始めには、枝葉が繁れば必ずこれを切り落として取り除く。
さればこそ、その根幹は大となれるのである。
これは初学においても同様なのだ。
故に立志は専一を貴ぶのである、と。

(116)
議論に曰く、
先生の門人に於いて、ある人は涵養上に在りて工夫を用い、ある人は識見上に在りて工夫を用いる、と。
王陽明は云った、
涵養を専らとする者は、日に自らの足らぬところを見るであろう。
識見を専らとする者は、日に自らの余りあるを見るであろう。
だが本当は、日に足らぬとする者こそが日に余り有り、日に余り有りとする者こそが日に足らぬのである、と。

(117)
梁日孚が問うて云った。
朱子は居敬と窮理の両事を工夫せよと言っておりますが、先生がこの両事を以て一事とするのはどういうことなのでしょうか、と。
王陽明は云った。
天地間のあらゆるものはただ一事に由るのであって、どうして両事などということがあろうか。
もし表面的な違いだけを論ずるならば、中庸に「礼儀三百、威儀三千」とあるように、どうして二つだけにとどまろう。
とりあえず、居敬というもの、窮理というものに対するお前の考えを述べてみよ、と。
梁日孚が云った。
居敬とは存養の工夫であり、窮理とは事物の理を窮めることです、と。
王陽明が云った。
何を存養するのだ、と。
梁日孚が云った。
心の天理を存養するのです、と。
王陽明が云った。
そうであるならば、それは窮理と同じことであろう。
それではどのように事物の理を窮むるのかお前の考えを述べてみよ、と。
梁日孚が云った。
親に仕えては孝の理を窮めることを追究し、君に仕えれば忠の理を窮めることを追究するのです、と。
王陽明が云った。
忠や孝の理というものは、君や親に在るのであろうか、それとも自分自身の心に在るのであろうか。
もし、自分自身の心にこそ忠孝の理があるのならば、これはただ、自らの心の理を窮めることに他ならない。
それでは居敬の敬とは何であると考えているか、述べてみよ、と。
梁日孚が云った。
ただ一を主とすることです、と。
王陽明が云った。
主一とは何であるか、と。
梁日孚が云った。
書を読めば一心を以て書を読むに尽くし、事に処せば一心を以て事を処すに尽くします、と。
王陽明が云った。
そのようなことでは、例えば酒を飲めば酒に心を尽くし、色を好めば色に心を尽すことになる。
このようなことを物を逐うというのである。
どうして居敬の工夫などといえるであろうか、と。
そこで梁日孚は主一の真義を問うた。
王陽明が答えて云った。
一とは天理のことである。
一を主とするとは、つまりは一心が天理に在るということである。
もし、主一を単に「心を集中することである」と考え、一が天理なることを知らなければ、事有れば心は物を逐うだけとなり、事無ければ心は茫然として空となってしまうであろう。
主一の真の意味は、事が有ろうが無かろうが、常に一心を天理に存して工夫することなのである。
故に居敬とは窮理に他ならない。
窮理の専一なる処において説けば居敬となり、居敬の精密なる処において説けば窮理となるだけのことである。
故に居敬に在った後に別の心において窮理するわけではないし、窮理するに別の心があって居敬をするというわけでもない。
これらは表現が異なるだけであって、その工夫は同じなのである。
易には「敬以て内を直くし、義以て外を方にす」とあるが、敬は事無き時の義のことであり、義は事有る時の敬のことである。
つまり、敬と義は一事であって、一方を述べる時にはもう一方は内に含まれているのである。
故に孔子は「己を修むるに敬を以てす」と述べるだけでわざわざ義を言う必要はなかったし、孟子は「集義」と述べてわざわざ敬を言う必要がなかったのである。
なぜなら、このように道理を真に理会するときには、どのような説き方をしようとも、工夫においてはどれも同じことだからである。
もしも文義に拘泥し、字句を逐うばかりでその本領を察することができねば、いくら学ぼうとも支離滅裂となって、工夫するも何も得られぬことになろう、と。
梁日孚が問うて云った。
易に「理を窮め性を尽くす」とありますが、どういうことなのでしょうか、と。
王陽明が答えて云った。
心の本体は性であり、性とはつまりは理のことである。
仁の理を窮めんとするならば、真に仁なる己が心を以て仁を極めねばならず、義の理を窮めんとするならば、真に義なる己が心を以て義を極めねばならない。
つまりは仁義というものはただ己の性のことであり、理を窮めるとは性を尽すのと同じことなのである。
孟子は「其の惻隠の心を充たさば、仁は勝あげて用ふ可からざるに至る」と述べているが、この自らの心を拡充して往くことこそが、窮理の工夫なのである、と。
梁日孚が云った。
程伊川は「一草一木に亦た皆な理有り、察せざる可からず」と述べていますが、どうでしょうか、と。
王陽明が云った。
私には一草一木それぞれに理を求めるなどという暇はない。
お前も心を外に放溺せずして自己の性情の理を会することに努めるがよい。
まずは人の性を尽くすのだ、されば物の性もまた自ずから尽されよう、と。
この言葉に梁日孚はなんとも言えない引き締まる思いがし、大いに悟るところを得た。

(118) 惟乾問、「知如何是心之本體。」
 先生曰、「知是理之靈處。就其主宰處說便謂之心。就其稟賦處說便謂之性。孩提之童、無不知愛其親、無不知敬其兄。只是這箇靈能不爲私欲遮隔、充拓得盡、便完完是他本體。便與天地合德。自聖人以下、不能無蔽。故須格物以致其知。」

(119) 守衡問、「『大學』工夫、只是誠意。誠意工夫、只是格物。修齋治平、只誠意盡矣。又有正心之功。有所忿懥好樂、則不得其正。何也。」
 先生曰、「此要自思得之。知此則知未發之中矣。」守衡再三請。曰、「爲學工夫有淺深。初時若不着實用意、去好善惡惡、如何能爲善去惡。這着實用意、便是誠意。然不知心之本體、原無一物、一向着意、去好善惡惡、便又多了這分意思。便不是廓然大公。『書』所謂無有作好作惡、方是本體。所以說有所忿懥好樂、則不得其正。正心只是誠意工夫裏面。體當自家心體、常要鑑空衡平。這便是未發之中。」

(120) 正之問、「戒懼是己所不知時工夫。愼獨是己所獨知時工夫。此說如何。」
 先生曰、「只是一箇工夫。無事時固是獨知。有事時亦是獨知。人若不知於此獨知之地用力、只在人所共知處用功、便是作僞、便是見君子而後厭然。此獨知處便是誠的萌芽。此處不論善念惡念、更無虚假。一是百是、一錯百錯。正是王霸・義利・誠僞・善惡界頭。於此一立立定、便是端本澄源、便是立誠。古人許多誠身的工夫、精神命脈全體、只在此處。眞是莫見莫顯。無時無處、無終無始、只是此箇工夫。
 今若又分戒懼爲己所不知。卽工夫便支離、亦有間斷。旣戒懼、卽是知。己若不知、是誰戒懼。如此見解、便要流入斷滅禅定。」
 曰、「不論善念惡念、更無虚假。則獨知之地、更無無念時邪。」
 曰、「戒懼亦是念。戒懼之念、無時可息。若戒懼之心、稍有不存、不是昏瞶、便已流入惡念。自朝至暮、自少至老、若要無念、卽是已(己)不知。此除是昏睡、除是槁木死灰。」

(121) 志道問、「荀子云、『養心莫善於誠。』先儒非之、何也。」
 先生曰、「此亦未可便以爲非。誠字有以工夫說者。誠是心之本體。求復其本體、便是思誠的工夫。明道說、『以誠敬存之』、亦是此意。『大學』、欲正其心、先誠其意。荀子之言固多病、然不可一例吹毛求疵。大凡看人言語、若先有箇意見、便有過當處。爲富不仁之言、孟子有取於陽虎。此便見聖賢大公之心。」

(122) 蕭惠問、「己私難克。奈何。」
 先生曰、「將汝己私來替汝克。」
 又曰、「人須有爲己之心、方能克己。能克己、方能成己。」
 蕭惠曰、「惠亦頗有爲己之心。不知縁何不能克己。」
 先生曰、「且說汝有爲己之心是如何。」
 惠良久曰、「惠亦一心要做好人。便自謂頗有爲己之心。今思之看來、亦只是爲得箇躯殼的己。不曾爲箇眞己。」
 先生曰、「眞己何曾離着躯殼。恐汝連那躯殼的己也不曾爲。且道汝所謂躯殼的己、豈不是耳目口鼻四肢。」
 惠曰、「正是。爲此目便要色、耳便要聲、口便要味、四肢便要逸樂、所以不能克。」
 先生曰、「美色令人目盲。美聲令人耳聾。美味令人口爽。馳騁田獵令人發狂、這都是害汝耳目口鼻四肢的。豈得是爲汝耳目口鼻四肢。若爲看耳目口鼻四肢時、便須思量耳如何聽、目如何視、口如何言、四肢如何動。必須非禮勿視聽言動、方才成得箇耳目口鼻四肢。這箇才是爲着耳目口鼻四肢。汝今終日向外馳求、爲名爲利。這都是爲着躯殼外面的物事。汝若爲着耳目口鼻四肢、要非禮勿視聽言動時、豈是汝之耳目口鼻四肢自能勿視聽言動。須由汝心。這視聽言動、皆是汝心。汝心之視、發竅於目、汝心之聽、發竅於耳、汝心之言、發竅於口、汝心之動、發竅於四肢。若無汝心、便無耳目口鼻。
 所謂汝心、亦不專是那一團血肉。若是那一團血肉、如今已死的人、那一團血肉還在、縁何不能視聽言動。所謂汝心、卻是那能視聽言動的。這箇便是性、便是天理。有這箇性、才能生這性之生理。便謂之仁。這性之生理、發在目便會視、發在耳便會聽、發在口便會言、發在四肢便會動。都只是那天理發生。以其主宰一身、故謂之心。這心之本體、原只是箇天理。原無非禮。這箇便是汝之眞己。這箇眞己、是躯殼的主宰。若無眞己、便無躯殼。眞是有之卽生、無之卽死。汝若眞爲那箇躯殼的己、必須用着這箇眞己。便須常常保守着這箇眞己的本體。戒愼不覩睹、恐懼不聞、惟恐虧損了他一些。才有一毫非禮萌動、便如刀割、如針刺。忍耐不過、必須去了刀、拔了針。這才是有爲己之心、方能克己。汝今正是認賊作子。縁何卻說有爲己之心、不能克己。」

(123) 有一學者病目、戚戚甚憂。先生曰、「爾乃貴目賤心。」

(124) 蕭惠好仙釋。先生警之曰、「吾亦自幼篤志二氏、自謂旣有所得、謂儒者爲不足學。其後居夷三載、見得聖人之學、若是其簡易廣大、始自嘆悔錯用了三十年氣力。大抵二氏之學、其妙與聖人只有毫釐之閒。汝今所學、乃其土苴。輒自信自好若此、眞鴟鴞竊腐鼠耳。」
 惠請問二氏之妙。先生曰、「向汝說聖人之學簡易廣大。汝卻不問我悟的。只問我悔的。」
 惠慚謝。請問聖人之學。先生曰、「汝今只是了人事問。待汝辨箇眞要求爲聖人的心來、與汝說。」
 惠再三請。先生曰、「已與汝一句道盡。汝尚自不會。」

(125) 劉觀時問、「未發之中是如何。」
 先生曰、「汝但戒愼不覩、恐懼不聞、養得此心純是天理、便自然見。」
 觀時請略示氣象。先生曰、「唖子喫苦瓜、與你說不得。你要知此苦、還須你自喫。」
 時曰仁在傍曰、「如此才是眞知、卽是行矣。」一時在座諸友皆有省。

(126) 蕭惠問死生之道。先生曰、「知晝夜、卽知死生。」
 問晝夜之道。曰、「知晝則知夜。」
 曰、「晝亦有所不知乎。」
 先生曰、「汝能知晝、懵懵而興、蠢蠢而食、行不著、習不察、終日昏昏、只是夢晝。惟息有養、瞬有存、此心惺惺明明、天理無一息間斷、才是能知晝。這便是天德。便是通乎晝夜之道而知。更有甚麼死生。」

(127) 馬子莘問、「修道之教、舊說謂聖人品節吾性之固有、以爲法於天下、若禮樂刑政之屬。此意如何。」
 先生曰、「道卽性卽命。本是完完全全、増減不得、不假修飾的。何須要聖人品節。卻是不完全的物件。禮樂刑政、是治天下之法、固亦可謂之教。但不是子思本旨。若如先儒之說、下面由教入道的、縁何舍了聖人禮樂刑政之教、別說出一段戒愼恐懼工夫。卻是聖人之教爲虚設矣。」
 子莘請問。先生曰、「子思性道教、皆從本原上說。天命於人、則命、便謂之性。率性而行、則性便謂之道。修道而學、則道便謂之教。率性是誠者事。所謂『自誠明、謂之性』也。修道是誠之者事。所謂『自明誠、謂之教』也。聖人率性而行、卽是道。
 聖人以下、未能率性、於道未免有過不及。故須修道。修道則賢知者不得而過、愚不肯者不得而不及。都要循着這箇道、則道便是箇教。此教字、與天道至教。風雨霜露、無非教也之教同。修道字、與修道以仁同。人能修道、然後能不違於道、以復其性之本體、則亦是聖人率性之道矣。下面戒愼恐懼、便是修道的工夫。中和便是復其性之本體。如『易』所謂、『窮理盡性、以至於命。』中和・位・育、便是盡性至命。」

(128) 黄誠甫問、「先儒以孔子告顏淵爲邦之問、是立萬世常行之道。如何。」
 先生曰、「顏子具體聖人。其於爲邦的大本大原、都已完備。夫子平日知之已深。到此都不必言、只就制度文爲上說。此等處亦不可忽略。須要是如此方盡善。又不可因自己本領是當了、便於防範上疏闊。須是要放鄭聲、遠佞人。
 蓋顏子是箇克己向裏德上用心的人。孔子恐其外面末節、或有疏略、故就他不足處幇補說。若在他人、須告以爲政在人、取人以身、修身以道、修道以仁、達道九經、及誠身許多工夫、方始做得這箇、方是萬世常行之道。不然、只去行了夏時、乘了殷輅、服了周冕、作了韶舞、天下便治得。後人但見顏子是孔門第一人、又問箇爲邦、便把做天大事看了。」

(129) 蔡希淵問、「文公『大學』新本、先格致而後誠意工夫。似與首章次第相合。若如先生從舊本之說、卽誠意反在格致之前。於此尚未釋然。」
先生曰、「『大學』工夫卽是明明德。明明德只是箇誠意。誠意的工夫只是格物致知。若以誠意爲主、去用格物致知的工夫、卽工夫始有下落。卽爲善去惡、無非是誠意的事。如新本先去窮格事物之理。卽茫茫蕩蕩、都無着落處。須用添箇敬字、方才牽扯得向身心上來。然終是没根原。若須用添箇敬字、縁何孔門倒將一箇最緊要的字落了、直待千餘年後、要人來補出。正謂以誠意爲主、卽不須添敬字。所以提出箇誠意來說。正是學問的大頭腦處。於此不察、眞所謂毫釐之差、千里之繆。大抵『中庸』工夫、只是誠身。誠身之極、便是至誠。『大學』工夫、只是誠意。誠意之極、便是至善。工夫總是一般。今說這裏補箇敬字、那裏補箇誠字、未免畫蛇添足。」
王文成公全書巻之一
王文成公全書巻之二

伝習録中】

 語錄二・傳習錄中
 德洪曰、「昔南元善刻『傳習錄』於越、凡二册。下册摘錄先師手書、凡八篇。其答徐成之二書、吾師自謂、「天下是朱非陸、論定旣久、一旦反之爲難。二書姑爲調停兩可之說、便人自思得之。」故元善錄爲下册之首者、意亦以是歟。今朱・陸之辨明於天下久矣。洪刻先師文錄、置二書於外集者、示未全也。故今不復錄。
 其餘指知行之本體、莫詳於答人論學與答周道通・陸清伯・歐陽崇一四書。而謂格物爲學者用力日可見之地、莫詳於答羅整菴一書。平生冒天下之非詆推陷、萬死一生、遑遑然不忘講學、惟恐吾人不聞斯道、流於功利機智、以日墮於夷狄禽獸而不覺。其一體同物之心、譊譊終身、至於斃而後已。此孔孟以來、賢聖苦心、雖門人子弟未足以慰其情也。是情也、莫見於答聶文蔚之第一書。此皆仍元善所錄之舊。而掲必有事焉、卽致良知功夫、明白簡切、使人言下卽得入手、此又莫詳於答文蔚之第二書、故増錄之。
 元善當時洶洶、乃能以身明斯道、卒至遭奸被斥、油油然惟以此生得聞斯學爲慶、而絶無有纖芥憤鬱不平之氣。斯錄之刻、人見其有功於同志甚大、而不知其處時之甚艱也。今所去取、裁之時義則然、非忍有所加損於其閒也。
  答顧東橋書
(130) 來書云、近時學者務外遺内、博而寡要。故先生特倡誠意一義、鍼砭膏肓、誠大惠也
 吾子洞見時蔽如此矣。亦將何以救之乎。然則鄙人之心、吾子固已一句道盡、復何言哉。復同言哉。若誠意之說、自是聖門教人用功第一義。但近世學者、乃作第二義看。故稍與提掇緊要出來、非鄙人所能特倡也。
(131) 來書云、但恐立說太高、用功太捷。後生師傳、影響謬誤。未免墜於佛氏明心・見性・定慧・頓悟之機。無怪聞者見疑。 區區格致誠正之說、是就學者本心日用事爲間、體究踐履、實地用功。是多少次第、多少積累在。正與空虚頓悟之說相反。聞者本無求爲聖人之志。又未嘗講究其詳、遂以見疑。亦無足怪。若吾子之高明、自當一語之下便瞭然矣。乃亦謂立說太高、用功太捷、何邪。
(132) 來書云、所喩知行並進、不宜分別前後。卽『中庸』尊德性而道問學之功、交養互發、内外本末、一以貫之之道。然工夫次第、不能無先後之差。如知食乃食、知湯乃飲、知衣乃服、知路乃行。未有不見是物、先有是事。此亦毫釐倏忽之間。非謂有等今日知之、而明日乃行也。
 旣云「交養互發、内外本末、一以貫之」、則知行並進之說、無復可疑矣。又云「工夫次第、不能不無先後之差。」無乃自相矛盾已乎。知食乃食等說、此尤明白易見。但吾子爲近聞障蔽、自不察耳。
 夫人必有欲食之心、然後知食。欲食之心卽是意、卽是行之始矣。食味之美惡、必待入口而後知。豈有不待入口、而已先知食味之美惡者邪。必有欲行之心、然後知路。欲行之心、卽是意、卽是行之始矣。路岐之險夷、必待身親履歴而後知。豈有不待身親履歴、而已先知路岐之險夷者邪。知湯乃飲、知衣乃服。以此例之、皆無可疑。若如吾子之喩、是乃所謂不見是物、而先有是事者矣。吾子又謂此亦毫釐倏忽之間、非謂截然有等今日知之、而明日乃行也。是亦察之尚有未精。然就如吾子之說、則知行之爲合一並進、亦自斷無可疑矣。
(133) 來書云、眞知卽所以爲行、不行不足謂之知。此爲學者喫緊立教、俾務躬行則可。若眞謂行卽是知、恐其專求本心、遂遺物理、必有闇而不達之處。抑豈聖門知行並進之成法哉。
 知之眞切篤實處、卽是行。行之明覺精察處、卽是知。知行工夫、本不可離。只爲後世學者分作兩截用功、失卻知行本體、故有合一並進之說。眞知卽所以爲行、不行不足謂之知。卽如來書所云、知食乃食等說可見、前已略言之矣。此雖喫緊救蔽而發、然知行之體、本來如是。非以己意抑揚其間、姑爲是說、以苟一時之效者也。專求本心、遂遺物理、此蓋失其本心者也。夫物理不外於吾心。外吾心而求物理、無物理矣。遺物理而求吾心、吾心又何物邪。心之體、性也。性卽理也。故有孝親之心、卽有孝之理。無孝親之心、卽無孝之理矣。有忠君之心、卽有忠之理。無忠君之心、卽無忠之理矣。理豈外於吾心邪。晦菴謂、人之所以爲學者、心與理而已。心雖主乎一身、而實管乎天下之理、理雖散在萬事、而實不外乎一人之心。是其一分一合之間、而未免已啓學者心理爲二之蔽。此後世所以有專求本心、遂遺物理之患。正由不知心卽理耳。夫外心以求物理。是以有闇而不達之處。此告子義外之說、孟子所以謂之不知義也。心一而已。以其全體惻怛而言、謂之仁。以其得宜而言、謂之義。以其條理而言、謂之理。不可外心以求仁。不可外心以求義。獨可外心以求理乎。外心以求理、此知行之所以二也。求理於吾心、此聖門知行合一之教、吾子又何疑乎。
(134) 來書云、所釋『大學古本』謂「致其本體之知。」此固孟子盡心之旨。朱子亦以虚靈知覺爲此心之量。然盡心由於知性。致知在於格物。
 盡心由於知性。致知在於格物。此語然矣。然而推本吾子之意、則其所以爲是語者、尚有未明也。朱子以盡心・知性・知天爲物格知致。以存心・養性・事天爲誠意・正心・脩身。以殀壽不貳、脩身以俟、爲知至仁盡聖人之事。
 若鄙人之見、則與朱子正相反矣。夫盡心・知性・知天者、生知安行、聖人之事也。存心・養性・事天者、學知利行、賢人之事也。殀壽不貳、脩身以俟者、困知勉行、學者之事也。豈可專以盡心・知性爲知、存心・養性爲行乎。吾子驟聞此言、必又以爲大駭矣。然其閒實無可疑者。
 一爲吾子言之。夫心之體、性也。性之原、天也。能盡其心、是能盡其性矣。『中庸』云、「惟天下至誠、爲能盡其性。」又云、「知天地之化育。」、「質諸鬼神而無疑、知天也。」此惟聖人而後能然。故曰、「此生知安行、聖人之事也。」存其心者、未能盡其心者也。故須加存之之功。必存之旣久、不待於存、而自無不存。然後可以進而言盡。蓋知天之知、如知州・知縣之知。知州、則一州之事、皆己事也。知縣、則一縣之事、皆己事也。是與天爲一者也。事天、則如子之事父、臣之事君。猶與天爲二也。
 天之所以命於我者、心也、性也。吾但存之而不敢失、養之而不敢害、如父母全而生之、子全而歸之者也。故曰、此學知利行、賢人之事也。至於殀壽不貳、則與存其心者又有閒矣。存其心者、雖未能盡其心、固己一心於爲善、時有不存、則存之而已。今使之殀壽不貳、是猶以殀壽貳其心者也。猶以殀壽貳其心、是其爲善之心猶未能一也。存之尚有所未可、而何盡之可云乎。今且使之不以殀壽貳其爲善之心、若曰、死生殀壽、皆有定命、吾但一心於爲善、修吾之身以俟天命而已。是其平日尚未知有天命也。事天雖與天爲二、然己眞知天命之所在、但惟恭敬奉承之而已耳。若俟之云者、則尚未能眞知天命之所在、猶有所俟者也。故曰、所以立命。立者、創立之立。如立德・立言・立功・立名之類。凡言立者、皆是昔未嘗有、而本始建立之謂。孔子所謂「不知命、無以爲君子」者也。故曰、「此困知勉行、學者之事也。」
 今以盡心・知性・知天爲格物致知、使初學之士、尚未能不貳其心者、而遽責之以聖人生知安行之事。如捕風捉影、茫然莫知所措其心。幾何而不至於率天下而路也。今世致知格物之蔽、亦居然可見矣。吾子所謂務外遺内、博而寡要者、無乃亦是過歟。此學問最緊要處。於此而差、將無往而不差矣。此鄙人之所以冒天下之非笑、忘其身之陷於罪戮、呶呶其言、其不容己者也。
(135)
來書云、聞語學者、乃謂卽物窮理之說、亦是玩物喪志。又取其厭繁就約・涵養本原數說、標示學者。指爲晩年定論。此亦恐非。
 朱子所謂格物云者、在卽物而窮其理也。卽物窮理、是就事事物物上、求其所謂定理者也。是以吾心而求理於事事物物之中、析心與理而爲二矣。夫求理於事事物物者、如求孝之理於其親之謂也。求孝之理於其親、則孝之理、其果在於吾之心邪。抑果在於親之身邪。假而果在於親之身、則親没之後、吾心遂無孝之理歟。見孺子之入井、必有惻隱之理。是惻隱之理、果在於孺子之身歟。抑在於吾心之良知歟。其或不可以從之於井歟、其或可以手而援之歟、是皆所謂理也。是果在於孺子之身歟。抑果出於吾心之良知歟。以是例之、萬事萬物之理、莫不皆然。是可以知析心與理爲二之非矣。
 夫析心與理而爲二、此告子義外之說、孟子之所深闢也。務外遺内、博而寡要、吾子旣已知之矣。是果何謂而然哉。謂之玩物喪志、尚猶以爲不可歟。
 
鄙人の所謂致知格物のごときは、吾が心の良知を事事物物に致すなり。吾が心の良知は即ち所謂天理なり。吾が心の良知の天理を事事物物に致すときは、即ち事事物物皆其の理を得るなり。吾が心の良知を到すとは致知なり。事事物物皆其の理を得るとは、格物なり。是れ心と理とを合して一となすときは、即ち凡そ区区の前に云うところと朱子の晩年の論とは、皆以って謂わずして悟るべし。

(136) 來書云、人之心體、本無不明。而氣拘物蔽、鮮有不昏。非學問思辨、以明天下之理、則善惡之機・眞妄之辨、不能自覺、任情恣意。其害有不可勝言者矣。
 此段大略、似是而非。蓋承沿舊說之蔽。不可以不辨也。夫(學)問思辨行、皆所以爲學。未有學而不行者也。如言學孝、則必服勞奉養、躬行孝道、然後謂之學。豈徒懸空口耳講說、而遂可以謂之學孝乎。學射、則必張弓挾矢、引滿中的。學書、則必伸紙執筆、操觚染翰。盡天下之學、無有不行而可以言學者。則學之始、固已卽是行矣。篤者、敦實篤厚之意。已行矣。而敦篤其行、不息其功之謂爾。蓋學之不能以無疑、則有問。問卽學也。卽行也。又不能無疑、則有思。思卽學也。卽行也。又不能無疑、則有辨。辨卽學也。卽行也。辨旣明矣、思旣愼矣、問卽審矣、學旣能矣、又從而不息其功焉、斯之謂篤行。非謂學問思辨之後而始措之於行也。是故以求能其事而言、謂之學。以求解其惑而言、謂之問。以求通其說而言、謂之思。以求精其察而言、謂之辨。以求履其實而言、謂之行。蓋析其功而言、則有五。合其事而言、則一而已。此區區心理合一之體、知行並進之功、所以異於後世之說者、正在於是。
 今吾子特擧學問思辨以窮天下之理、而不及篤行。是專以學問思辨爲知、而謂窮理爲無行也已。天下豈有不行而學者邪。豈有不行而遂可謂之窮理者邪。明道云、「只窮理便盡性至命。」故必仁極仁、而後謂之能窮仁之理。義極義、而後謂之能窮義之理。仁極仁、則盡仁之性矣。義極義、則盡義之性矣。學至於窮理至矣、而尚未措之於行。天下寧有是邪。是故知不行之不可以爲學、則知不行之不可以爲窮理矣。知不行之不可以爲窮理、則知知行之合一並進、而不可以分爲兩節事矣。
 夫萬事萬物之理、不外於吾心。而必曰、窮天下之埋、是殆以吾心之良知爲未足、而必外求於天下之廣、以裨補増益之。是猶析心與理而爲二也。夫學問思辨篤行之功、雖其困勉至於人一己百、而擴充之極、至於盡性知天、亦不過致吾心之良知而已。良知之外、豈復有加於毫末乎。今必曰窮天下之理、而不知反求諸其心、則凡所謂善惡之機・眞妄之辨者、舍吾心之良知、亦將何所致其體察乎。
 吾子所謂氣拘物蔽者、拘此蔽此而已。今欲去此之蔽、不知致力於此、而欲以外求。是猶目之不明者、不務服樂調理以治其目、而徒倀倀然求明於其外。明豈可以自外而得哉。任情恣意之害、亦以不能精察天埋於此心之良知而已。此誠毫釐千里之謬者、不容於不辨。吾子毋謂其論之太刻也。
(137) 來書云、教人以致知明德、而戒其卽物窮理。誠使昏闇之士、深居端坐、不聞教告、遂能至於知致而德明乎。縱令靜而有覺、稍悟本性、則亦定慧無用之見。果能知古今、達事變而致用於天下國家之實否乎。其曰、「知者意之體、物者意之用。格物如格君心之非之格。」語雖超悟、獨得不踵陳見。抑恐於道未相脗合。
 區區論致知格物、正所以窮理。未嘗戒人窮理、使之深居端坐、而一無所事也。若謂卽物窮理、如前所云務外而遺内者、則有所不可耳。昏闇之士、果能隨事隨物精察此心之天理、以致其本然之良知、則雖愚必明、雖柔必強。大本立而達道行九經之屬、可一以貫之而無遺矣。尚何患其無致用之實乎。彼頑空虚靜之徒、正惟不能隨事隨物精察此心之天理、以致其本然之良知。而遺棄倫理、寂滅虚無以爲常。是以要之不可以治家國天下。孰謂聖人窮理盡性之學、而亦有是蔽哉。心者、身之主也。而心之虚靈明覺、卽所謂本然之良知也。其虚靈明覺之良知、應感而動者、謂之意。有知而後有意。無知則無意矣。知非意之體乎。意之所用、必有其物。物卽事也。如意用於事親、卽事親爲一物。意用於治民、卽治民爲一物。意用於讀書、卽讀書爲一物。意用於聽訟、卽聽訟爲一物。凡意之所用、無有無物者。有是意、卽有是物。無是意、卽無是物矣。物非意之用乎。 格字之義、有以至字訓者。如「格於文祖」、「有苗來格」、是以至訓者也。然「格於文祖」、必純孝誠敬、幽明之間、無一不得其理、而後謂之格。有苗之頑、實以文德誕敷而後格、則亦兼有正字之義在其間。未可專以至字盡之也。如「格其非心」、「大臣格君心之非」之類、是則一皆正其不正、以歸於正之義、而不可以至字爲訓矣。且『大學』格物之訓、又安知其不以正字爲訓、而必以至」爲義乎。如以至字爲義者、必曰窮至事物之理、而後其說始通。是其用功之要、全在一窮字。用力之地、全在一理字也。若上去一窮字、下去一理字、而直曰致知在至物、其可通乎。夫窮理盡性、聖人之成訓、見於繋辭者也。苟格物之說、而果卽窮理之義、則聖人何不直曰、致知在窮理、而必爲此轉折不完之語、以啓後世之蔽邪。蓋『大學』格物之說、自與繋辭窮理大旨雖同、而微有分辨。窮理者、兼格致誠正而爲功也。故言窮理、則格致誠正之功皆在其中。言格物、則必兼擧致知・誠意・正心、而後其功始備而密。今偏擧格物而遂謂之窮理、此所以專以窮理屬知、而謂格物未常有行。非惟不得格物之旨、并窮理之義而失之矣。此後世之學、所以析知行爲先後兩截、日以支離決裂、而聖學益以殘晦者、其端實始於此。吾子蓋亦未免承沿積習、見則以爲於道未盡。深悉不爲過矣。
(138) 來書云、謂致知之功、將如何爲温凊、如何爲奉養卽是誠意、非別有所謂格物、此亦恐非。
 此乃吾子自以己意揣度鄙見而爲是說、非鄙人之所以告吾子者矣。若果如吾子之言、寧復有可通乎。
 蓋鄙人之見、則謂意欲温凊、意欲奉養者、所謂意也。而未可謂之誠意。必實行其温凊奉養之意、務求自慊而無自欺、然後謂之誠意。知如何而爲温凊之節、知如何而爲奉養之宜者、所謂知也。而未可謂之致知。必致其知如何爲温凊之節者之知、而實以之温凊、致其知如何爲奉養之宜者之知、而實以之奉養、然後謂之致知。温凊之事、奉養之事、所謂物也。而未可謂之格物。必其於温凊之事也、一如其良知之所知當如何爲温凊之節者、而爲之無一毫之不盡、於奉養之事也、一如其良知之所知當如何爲奉養之宜者、而爲之無一毫之不盡、然後謂之格物。温凊之物格、然後知温凊之良知始致、奉養之物格、然後知奉養之良知始致。故曰、「物格而後知至。」致其知温凊之良知、而後温凊之意始誠、致其知奉養之良知、而後奉養之意始誠。故曰、「知至而後意誠誠。」此區區誠意・致知・格物之說、蓋如此。吾子更熟思之、將亦無可疑者矣。
(139) 來書云、道之大端、易於明白、所謂、「良知良能」、愚夫愚婦可與及者。至於節目時變之詳、毫釐千里之謬、必待學而後知。今語孝於温凊定省、孰不知之。至於舜之不告而娶、武之不葬而興師、養志養口、小杖大杖、割股廬墓等事、處常處變、過與不及之之閒、必須討論是非、以爲制事之本、然後心體無蔽、臨事無失。
 道之大端易於明白、此語誠然。顧後之學者忽其易於明白者而弗由、而求其難於明白者以爲學。此其所以道在邇而求諸遠、事在易而求諸難也。『孟子』云、「夫道若大路然、豈難知哉。人病不由耳。」良知良能、愚夫、愚婦與聖人同。但惟聖人能致其良知、而愚夫、愚婦不能致。此聖愚之所由分也。節目時變、聖人夫豈不知。但不專以此爲學。而其所謂學者、正惟致其良知、以精察此心之天理、而與後世之學不同耳。
 吾子未暇良知之致、而汲汲焉顧是之憂。此正求其難於明白者以爲學之蔽也。夫良知之於節目時變、猶規矩尺度之於方圓長短也。節目時變之不可預定、猶方圓長短之不可勝窮也。故規矩誠立、則不可欺以方圓、而天下之方圓不可勝用矣、尺度誠陳、則不可欺以長短、而天下之長短不可勝用矣。良知誠致、則不可欺以節目時變、而天下之節目時變不可勝應矣。
 毫釐千里之繆、不於吾心良知一念之微而察之、亦將何所用其學乎。是不以規矩而欲定天下之方圓、不以尺度而欲盡天下之長短、吾見其乖張謬戻、日勞而無成也已。吾子謂、「語孝於温凊定省、孰不知之。」然而能致其知者鮮矣。若謂粗知温凊定省之儀節、而遂謂之能致其知、則凡知君之當仁者、皆可謂之能致其仁之知。知臣之當忠者、皆可謂之能致其忠之知。則天下孰非致知者邪。以是而言、可以知致知之必在於行、而不行之不可以爲致知也、明矣。知行合一之體、不益較然矣乎。
 夫舜之不告而娶、豈舜之前已有不告而娶者爲之準則、故舜得以考之何典、問諸何人、而爲此邪。抑亦求諸其心一念之良知、權輕重之宜、不得已而爲此邪。武之不葬而興師、豈武之前已有不葬而興師者爲之準則、故武得以考之何典、問諸何人、而爲此邪。抑亦求諸其心一念之良知、權輕重之宜、不得已而爲此邪。使舜之心而非誠於爲無後、武之心而非誠於爲救民、則其不告而娶與不葬而興師、乃不孝不忠之大者。而後之人不務致其良知、以精察義理於此心感應酬酢之閒、顧欲懸空討論此等變常之事、執之以爲制事之本、以求臨事之無失、其亦遠矣。其餘數端、皆可類推、則古人致知之學、從可知矣。
(140) 來書云、謂『大學』格物之說、專求本心、猶可牽合。至於六經、四書所載多聞多見・前言往行・好古敏求・博學審問・温故知新・博學詳說・好問好察、是皆明白求於事爲之際、資於論說之間者、用功節目固不容紊矣。
 格物之義、前已詳悉。牽合之疑、想已不俟復解矣。至於多聞多見、乃孔子因子張之務外好高、徒欲以多聞多見爲學、而不能求諸其心、以闕疑殆。此其言行所以不免於尤悔、而所謂見聞者、適以資其務外好高而已。蓋所以救子張多聞多見之病、而非以是教之爲學也。夫子嘗曰、「蓋有不知而作之者、我無是也。」是猶『孟子』、是非之心、人皆有之之義也。此言正所以明德性之良知、非由於聞見耳。若曰、「多聞擇其善者而從之、多見而識之」、則是專求諸見聞之末、而已落在第二義矣。故曰、「知之次也。」夫以見聞之知爲次、則所謂知之上者果安所指乎。是可以窺聖門致知用力之地矣。夫子謂子貢曰、「賜也、汝以予爲多學而識之者歟。非也、予一以貫之。」使誠在於多學而識、則夫子胡乃謬爲是說、以欺子貢者邪。一以貫之、非致其良知而何。
 『易』曰、「君子多識前言往行、以畜其德。」夫以畜其德爲心、則凡多識前言往行者、孰非畜德之事。此正知行合一之功矣。「好古敏求」者、好古人之學、而敏求此心之理耳。
 心卽理也。學者、學此心也。求者、求此心也。孟子云、「學問之道無他。求其放心而已矣。」非若後世廣記博誦古人之言詞、以爲好古、而汲汲然惟以求功名利達之具於外者也。博學・審問、前言已盡。
 温故知新、朱子亦以温故屬之尊德性矣。德性豈可以外求哉。惟夫知新必由於温故、而温故乃所以知新、則亦可以驗知行之非兩節矣。
 博學而詳說之者、將以反說約也。若無反約之云、則博學詳說者、果何事邪。
 舜之好問好察、惟以用中而致其精一於道心耳。道心者、良知之謂也。君子之學、何嘗離去事爲而廢論說。但其從事於事爲論說者、要皆知行合一之功、正所以致其本心之良知。而非若世之徒事口耳談說以爲知者、分知行爲兩事、而果有節目先後之可言也。
(141)
手紙に云う、
楊朱や墨子の仁義に似たること、表面を取り繕い世間的に謹直とされて評判を得る者の忠信を乱すこと、堯や舜の禅譲と子之における禅譲の違い、湯王や武王の放伐と楚の項羽における放伐の違い、周公旦と王莽や曹操の輔弼の臣としてのあり方の違い、これらのことは似て非なる紛らわしきものです。
故に確固とした検討を加えて真偽を明確に判断せねば、何を以て適従するべきなのかわからなくなってしまうことでしょう。
また、古今の事変や礼楽に用いられる器物の変遷などは、これを考究して識らなければ、国家にありて政教を発する場たる明堂を興し、礼楽・古典を以て教導せしめる辟雍を建て、天の巡行に則って暦を制定し、天地を礼する封禅を設けんことを欲したとしても、何を拠り所としてこれを為せばよいのかわかりません。
だから論語の述而篇に対する注釈には、「生まれながらに之を知るとは、ただ義理のみである。礼楽名物や古今の事変のようなものは、誰でも必ず学問によりて後に初めてその行事の実が確かめられる」と記されているのだと思われます。
これこそ学問における動かすことのできない定論というべきものではないでしょうか、と。
王陽明が返書して曰く、
貴君が喩えとして述べた、楊朱・墨子・郷愿・堯・舜・子之・湯王・武王・項羽・周公・王莽・曹操などの似て非なるものを如何に区別するかということは、以前に私が示した舜と武王の論と大体同じであるから、それを以て類推して頂ければよいと思う。
古今の事変に対する疑問も、以前の良知の説において既に丁度よい喩えを示しているから、ここで再び論ずることもあるまい。
ただ、明堂・辟雍などの諸事に関しては、述べぬわけにはいかぬ事柄であるからここに示そう。
これらのことは論じると甚だ長くなってしまうが、とりあえず貴君の論に沿いながら正してゆくから、その惑いも多少は解けることであろうと思う。
そもそも明堂や辟雍の制度が説かれたのは、呂氏春秋の月令篇や後漢末期の鄭玄ら儒学者による礼記に対する注釈においてであり、六経四書に詳しく説き及んでいるものではない。
呂氏や漢の儒学者といった者達の知が、夏・殷・周三代の聖賢に優れているものだろうか。
孟子に戦国時代の斉の宣王の時代において明堂は壊されることなく残っていたとあるから、それ以前の幽王や厲王の時代にも、周の明堂は無事に残っていたことは明かである。
三代以前である堯や舜の時代においては質素な宮殿しかなく、そもそも明堂の制度などは備わっていなかったが、その治世には何の影響もなかった。
然るに幽王や厲王の明堂は文王・武王・成王・康王といった周が全盛を誇った頃の明堂を継いだものであったにも関わらず、幽王・厲王の代になるとそれが保たれずに乱れたのである。
つまりは孟子にいう「人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行ふ」ということが政治の根本なのであって、たとえ政務を為す宮殿が如何に粗末なものであっても、そこで政教を発するのであるから明堂であることには変わりがないのである。
もしも幽王や厲王の心を以て幽王や厲王の政治を行えば、如何に明堂の制度に則ろうとも、そこは暴政が発せられる場所になるだけであろう。
漢の武帝は始めて明堂を講究し、唐の則天武后は立派な明堂を作ったが、その治世がどうであったかといえば、結局は乱れたのである。
さて、次に辟雍について述べよう。
天子が設ける学校を辟雍と呼び、諸侯が設ける学校を泮宮はんきゅうと呼ぶが、どちらも建物の周りに巡らした濠の形に従ってその名を付けただけのことに過ぎない。
夏殷周の三代における学問とは、その要はどれも人倫を明かにするを以て根本と為すのであって、辟雍であろうがなかろうが、泮宮であろうがなかろうが、そんなことには少しも影響されないのである。
だから孔子はこのように述べている。
「人にして不仁ならば、礼を如何せん。人にして不仁ならば、楽を如何せん」と。
つまりは礼を制定し音楽を作るといったことは、知識などではなくて必ず中和の徳を具えて自然のままにあるが故に定まるものであって、その声を発すれば自然とそれが音律となり、その身が動けば自然とそれが法度となり、このようであって初めてこれを語るべきなのである。
また、礼楽に用いる器物に関することなどは、音楽を奏する楽人の仕事であり、神官たる祝史の役目である。
だから曾子はこのように述べている。
「君子の道に貴ぶ所の者は三つのみ、祭祀に用いる器の事などは、その役目の者にまかせておけばよい」と。
次に暦律・封禅に関して述べてみよう。
堯は羲仲、羲叔、和仲らに命じて天の象形に随って日月五星の運行を暦として表させたが、その主意とするところは天下万民に時を授けることであった。
舜は天球儀を作って天文を観測したが、その主意とするところは日月五星を司る政治で以て天下万民を安んじせしめることにあった。
これらのことはどれも人々に対する仁の心を以て、人々の生活を安んずる政治を行ったことを示している。
つまりは暦を治めて時を明かにするということの根本は、この仁の心にこそあるのである。
羲仲、羲叔、和仲らが明かにした暦数に関する知識などは、舜の時代に刑法を司った皐陶も、教育を司った契も知らなかったし、治水に治績を挙げた禹も、農事を司った后稷も知らなかった。
また、孟子に「堯舜の知を以てしても全てに通じたわけではなかった」とあるように、堯舜ですら暦数などというものは知らなかったのである。
されども現在では、羲仲、羲叔、和仲らが明かにした暦の法則に従って長い年月をかけて改良を重ねてきたが故に、浅薄な人物や程度の低い天文学者であっても、日月五星の運行を計算によって割り出すことができるようになった。
このような知識技能しか持たぬ程度の低い人物が、禹・后稷・堯・舜に優れる者であると、果たして言えるのであろうか。
封禅の説に至っては最も道理に合わないものである。
これは後世の口先で人に取り入るような者達の、主君に媚び諂って誇張し侈大し、以てその心を惑わし、国費を無駄に濫費せしめる口実とするものに過ぎないのであって、まさに天を欺き人を騙して少しも恥としない害悪甚だしきものであり、君子なれば決して口にするようなものではないのである。
だから、司馬相如は漢の武帝に封禅を勧めて天下後世に非難された。
貴君がこのような事柄を儒者の学ぶべき所とするのは、このような点に少しも考えが及んでいないからであろう。
聖人が聖たる所以が何かといえば、生まれながらにして知っているということである。
然るに貴君が先に示した注釈者は、論語を解釈して「生まれながらにして知るは義理のみ。かの礼楽名物、古今の事変の如きはまた必ず学びて後に初めてその行事の実が確かめられる」と言っている。
果たして礼楽名物のような類いが、聖に至るの工夫に関係あるのだろうか。
聖人もまた必ず学問を修めて後に礼楽名物のようなものの実を知るとするのであれば、聖人もまた生まれながらにして知る者であるとは言えないであろう。
聖人といい、生まれながらにして知ると為すのは、専ら義理を指して言うものであり、礼楽名物の類いではないのであって、されば礼楽名物の類いは聖に至るの工夫には関係がないことになる。
このように、聖人の生知というものが専ら義理のみを指して礼楽名物の類いに関わりないものであるとすれば、孟子にいう「学びてこれを知る者」が学びて知るのは、まさにこの義理を知るのみであり、孟子に「困しみてこれを知る者」が困しみて知るのもまた、この義理を知るのみなのである。
今の聖人を学ぶ者は、聖人を学ばんとしているのに聖人がよく知る所を学びて知らずして、却って聖人が知らぬ所をわざわざ求めて知ろうとすることを学問としている。
これでは聖人たらんと願っているのに、そもそも為すべき方向を失っているのではないだろうか。
凡そこれらの言説はどれも貴君の惑いし所に沿って些かの分釈を試みたものである。
だが、このような説だけでは、世に蔓延る誤った学問観を根本的に打破するような抜本塞源の論とまではいかないのは言うまでもない。

(142)
そもそも、抜本塞源の論が天下に明かとならざれば、聖人を志す者が居っても、学ぶことが日に日に煩雑となるばかりで、聖人に近づくどころか逆に禽獣夷狄の如くになっていることにも気付かず、自分では聖人の学を為していると思い込んでしまうのである。
私が説くところは、もしかしたら一時においてはこれを明らかにするかもしれない。
されども、西で解ければ東で凍り、前で晴れるも後ろが覆われるというが如くに、いくら説けども終にはその真義は忘れ去られ、この身を尽すも、天下を少しも救うことができずに終わるであろう。
聖人の心とは天地万物を以て一体と為すものである。
故に天下の人を見るに内外遠近の隔てなどはないし、およそ生ある者に対すれば、まるで近親なる者と接するが如くに安んじて教養し、各々が本来有せし万物一体の念へと至らせんと欲するのである。
人の心というものは、その生まれしままにおいては聖人の心と異なる所があるわけではない。
ただ、自他の観念に陥って私に恣行し、物欲に惑って本来有せし心を見失ってしまうが故に、その全てをつつむ大なる心も私に偏した小なるものとなり、万物に通ぜし心も欲によって塞がれてしまい、決して和することなき私心が生じ、故に父子兄弟を視るもまるで仇敵に対するが如きに接する者が現れてしまうのである。
聖人であった舜はこれを憂えた。
だから、舜は自らが有せし天地万物一体の仁を推して天下を教導し、故に人々は有我の私より脱し、物欲の蔽から去るを得て、遂には心の本来の姿たる万物一体の仁へと復るに至ったのである。
この教導における根本が何かといえば、古代の聖王たる堯、舜、禹の禅譲における「道心は惟れ微、惟れ精に惟れ一、允に厥の中を執れ」のみであり、その守るべきものが何かといえば、舜が契に命じて人々に対する教えとした「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」の五倫のみなのである。
堯舜から夏殷周の三代の時代においては、教導する者はただこの五倫を以て教えとし、学ぶ者もただこの五倫を以て学とした。
故にその時代において、人々は其の自然なるがままに随いて私に偏することはなく、家においてはただ己を尽すことのみを以て家訓とした。
そしてこれに安んじて大自然の如くある者を聖と呼び、そこに至らんと欲して自ら勉めし者を賢と呼び、如何に才覚豊かであろうともこれに気付くことなく、自らを蔑ろにせし者を不肖と呼んだのである。
如何なる立場の者であろうとも学とはこれ以外には無く、人々はただ自らを修めることを以て務めとした。
それが何故かといえば、今日の如くに煩雑な知識見聞、華美な文章、功利を追い求めるといったことなどは意に介さず、ただ親に孝、長に弟、朋友に信といった五倫を尽くすを以て事とし、人々をその心の本来の姿たる万物一体の仁へと復らしめたからなのである。
この万物一体の仁たる心は人の本性にして誰しもが備えしものであって、決して外から得るようなものではないのだから、どうしてここに復れぬという者が居るであろうか。

学校においては、このような自然のままに溢れる徳を体現することを旨した。
人にはそれぞれ才能というものがあり、ある者は礼楽に長じ、ある者は政教に長じ、またある者は農耕に長じるであろう。
そしてこの才能というものはその人間が有せし徳によって初めて活かされるものであり、故に古代においては学校にあたりて徳と共にこれを磨いて精一たらしめたのである。
だから徳に由りてその人を任用すれば、終身その職に当たらせて無闇に代えることはなかった。
任用する者はただ心を同じうして徳を一にし、天下万民を安んずるを旨とし、人それぞれの才能を以て職に当たらせるも、その職の貴賤や繁閑によって人を判ずることはなかったし、用いられる側もまた、ただ心を同じうして徳を一にし、天下万民を安んずるを考え、その天職を得たらば一生を多忙の中に居るとも苦労とは為さず、卑位にあり煩瑣な仕事にあろうともそこに満足して賤しむことはなかったのである。
このようであったから、その時代の人々は一様に相和して自ずから楽しみ、誰しもが家族のように親しみ合うを得た。
素質が天下の事に当たるに適さぬ者であれば、各々の才に従って農工商人の分限に安んじ、その職務に励んで互いに助け合い、官爵を望んだり富貴なるを欲する心などは持たなかったし、舜の臣下であった皐陶こうよう・夔き・后稷こうしょく・契せつのような、天下の事に当たるに足る素質を有する者であれば、進んで自らの才能を天下万民のために用い、一家の務めの如くに、ある者は衣食を作り、ある者は為すべき事を定め、ある者は物資を備え、各々その智恵を結集し力を合わせ、孟子にいう「仰いでは以て父母に事ふるに足り、俯しては以て妻子を畜やしなふに足る」の心を遂げて民の生活を安んずることを求め、ただ、事に当たる者がその分限を尽さずに怠たり、余計なことをして自ら累を重ねてしまうことを恐れたのである。
だから、后稷はその職分たる農事を安んずるを勤めて己が人々の教導に関して無知なるを恥じず、契が人々を善く教導している様を視れば、まるで自らが善く教導しているかのように満足したし、夔はその職分たる音楽を司りて己が礼に通じておらぬことを恥じず、伯夷が礼に通ずる様を視れば、まるで己が礼に通ずるかの如くに喜んだのである。
それというのも心を修めて純一無雑、外物に塞がれることなく清明なりて、心の本来の姿たる万物一体の仁そのままにあるが故に、その精神は全てに及びて共鳴し、その志気は普く広がりて浸透し、自他の念などは微塵も存せず、全てと共にありて一体となったからである。
これを人の身に喩えてみれば目は視、耳は聴、手は持、足は行であって、さればこそ身体はその調和を得て一体として動くのである。
目は声の聞けぬことを恥じることはなく、耳が聴くところに目もまた視力を注ぐものであるし、足は物を持てぬことを恥じることはなく、手が探らんとすれば足もまたそこに進むものなのである。
それというのも元気が一身に普く行き渡り、血液が脈々と体内にほとばしり、身体に痒みがあらば自然と掻き、口に呼吸せば胆腹もまたこれに相応ずるというが如くに、感触あらば自然と心が動いて作用する、孟子にいう「言わずして喩さとる」の妙の如きものだからである。
されば聖人の学というものが、甚だ簡易至極にて、誰でも知り誰でも従うことができ、学べば修め易く自らのままにその才能が花開くものであるのが何故かといえば、正にその根本とするところがただ心の體の同じく然りとするところ、所謂「万物一体の仁」へと復るに在りて、知識技能などは問題にしないからに他ならないであろう。

(143) 三代之衰、王道熄而霸術焻、孔孟旣没、聖學晦而邪說横。教者不復以此爲教、而學者不復以此爲學。霸者之徒、竊取先王之近似者、假之於外、以内濟其私己之欲、天下靡然而宗之、聖人之道遂以蕪塞。相倣相效、日求所以富強之說、傾詐之謀、攻伐之計、一切欺天罔人、苟一時之得、以獵取聲利之術、若管・商・蘇・張之屬者、至不可名數。
 旣其久也、鬭爭劫奪、不勝其禍。斯人淪於禽獸夷狄、而霸術亦有所不能行矣。世之儒者慨然悲傷、蒐獵先聖王之典章法制、而掇拾修補於煨燼之餘。蓋其爲心良亦欲以挽回先王之道。聖學旣遠、霸術之傳積漬已深、雖在賢知皆不免於習染。其所以講明修飾、以求宣暢光復於世者、僅足以増霸者之藩籬、而聖學之門牆、遂不復可覩。於是乎有訓詁之學、而傳之以爲名、有記誦之學、而言之以爲博、有詞章之學、而侈之以爲麗。若是者、紛紛籍籍、羣起角立於天下、又不知其幾家。萬徑千蹊、莫知所適。世之學者、如入百戲之場、讙謔跳踉、騁奇鬭巧、獻笑爭妍者、四面而競出、前瞻後盼、應接不遑、而耳目眩瞀、精神恍惑、日夜遨遊淹息其間、如病狂喪心之人、莫自知其家業之所歸。時君世主亦皆昏迷顛倒於其說、而終身從事於無用之虚文、莫自知其所謂。間有覺其空疏謬妄、支離牽滯、而卓然自奮、欲以見諸行事之實者、極其所抵、亦不過爲富強功利五霸之事業而止。
 聖人之學日遠日晦、而功利之習、愈趨愈下、其間雖嘗瞽惑於佛老、而佛老之說卒亦未能有以勝其功利之心。雖又嘗折衷於羣儒、而羣儒之論終亦未能有以破其功利之見。蓋至於今、功利之毒淪浹於人之心髓、而習以成性也、幾千年矣。相矜以知、相軋以勢、相爭以利、相高以技能、相取以聲譽。其出而仕也、理錢穀者、則欲兼夫兵刑、典禮樂者、又欲與於銓軸、處郡縣則思藩臬之高、居臺諫則望宰執之要。故不能其事、則不得以兼其官。不通其說則不可以要其譽。記誦之廣、適以長其敖也。知識之多、適以行其惡也。聞見之博、適以肆其辨也。辭章之富、適以飾其僞也。
 是以皐・夔・稷・契所不能兼之事、而今之初學小生皆欲通其說、究其術。其稱名僭號、未嘗不曰、吾欲以共成天下之務。而其誠心實意之所在、以爲不如是、則無以濟其私而滿其欲也。嗚呼、以若是之積染、以若是之心志、而又講之以若是之學術、宜其聞吾聖人之教、而視之以爲贅疣枘鑿。則其以良知爲未足、而謂聖人之學爲無所用、亦其勢有所必至矣。
 嗚呼、士生斯世、而尚何以求聖人之學乎。尚何以論聖人之學乎。土生斯世、而欲以爲學者、不亦勞苦而繁難乎。不亦拘滯而險艱乎。嗚呼、可悲也已。所幸天理之在人心、終有所不可泯、而良知之明、萬古一日、則其聞吾拔本塞源之論、必有惻然而悲、戚然而痛、憤然而起、沛然若決江河、而有所不可禦者矣。非夫豪傑之士、無所待而興起者、吾誰與望乎。
  啓問道通書
(144) 呉・曾兩生至、備道道通懇切爲道之意。殊慰相念。若道通眞可謂篤信好學者矣。憂病中、會不能與兩生細論。然兩生亦自有志向、肯用功者、每見輒覺有進。在區區、誠不能無負於兩生之遠來。在兩生、則亦庶幾無負其遠來之意矣。臨別以此册致道通意、請書數語。荒憒無可言者。輒以道通來書中所問數節、略下轉語奉酬。草草殊不詳細、兩生當亦自能口悉也。
 來書云、日用工夫、只是立志。近來於先生每晦言、時時體驗、愈益明白。然於朋友不能一時相離。若得朋友講習、則此志纔精健闊大、纔有生意、若三五日不得朋友相講、便覺微弱、遇事便會困、亦時會忘。
 乃今無朋友相講之日、還只靜坐、或看書、或游衍經行、凡寓目措身、悉取以培養此志、頗覺意思和適。然終不如朋友講聚、精神流動、生意更多也。離羣索居之人、當更有何法以處之。
 此段、足驗道通日用工夫所得。工夫大略、亦只是如此用。只要無閒斷。到得純熟後、意思又自不同矣。大抵吾人爲學、緊要大頭腦、只是立志。所謂困忘之病、亦只是志欠眞切。今好色之人、未嘗病於困忘、只是一眞切耳。自家痛痒、自家須會知得、自家須會掻摩得。旣自知得痛痒、自家須不能不掻摩得。佛家謂之方便法門。須是自家調停斟酌、他人總難與力、亦更無別法可設也。
(145) 來書云、上蔡嘗問天下何思何慮。伊川云、「有此理、只是發得太早。」在學者工夫、固是必有事焉而勿忘。然亦須識得何思何慮底氣象、一併看爲是。若不識得這氣象、便有正與助長之病。若認得何思何慮、而忘必有事焉工夫、恐又墮於無也。須是不滯於有、不墮於無。然乎否也。
 所論亦相去不遠矣、只是契悟未盡。上蔡之問、與伊川之答、亦只是上蔡・伊川之意、與孔子繋辭原旨、稍有不同。繋言、「何思何慮」、是言所思所慮只是一箇天理、更無別思別慮耳。非謂無思無慮也。故曰、「同歸而殊途、一致而百慮。天下何思何慮。」云「殊途」、云「百慮」、則豈謂無思無慮邪。
 心之本體卽是天理。天理只是一箇。更有何可思慮得。天理原自寂然不動、原自感而遂通。學者用功、雖千思萬慮、只是要復他本來體用而已。不是以私意去安排思索出來。故明道云、「君子之學、莫若廓然而大公、物來而順應。」若以私意去安排思索、便是用智自私矣。何思何慮、正是工夫。在聖人分上、便是自然的。在學者分上、便是勉然的。伊川卻是把作效驗看了。所以有發得太早之說。旣而云、「卻好用功」、則已自覺其前言之有未盡矣。濂溪主靜之論、亦是此意。今道通之言、雖已不爲無見、然亦未免尚有兩事也。
(146) 來書云、凡學者纔曉得做工夫、便要識認得聖人氣象。蓋認得聖人氣象、把做準的、乃就實地做工夫去、纔不會差。纔是作聖工夫。未知是否。
 先認聖人氣象、昔人嘗有是言矣。然亦欠有頭腦、聖人氣象自是聖人的。我從何處識認。若不就自己良知上眞切體認、如以無星之稱而權輕重、未開之鏡而照妍媸。眞所謂以小人之腹、而度君子之心矣。聖人氣象、何由認得。自己良知原與聖人一般。若體認得自己良知明白、卽聖人氣象不在聖人、而在我矣。程子嘗云、「覰著堯學他行事、無他許多聰明睿智、安能如彼之動容周旋中禮。」又云、「心通於道、然後能辨是非。」今且說、通於道在何處。聰明睿智從何處出來。
(147) 來書云、事上磨煉。一日之内、不管有事無事、只一意培養本原。若遇事來感、或自己有惑、心上旣有覺。安可謂無事。但因事凝心一、會大段覺得事理當如此。只如無事處之、盡吾心而已。然仍有處得善與未善、何也。又或事來得多、須要次第與處、每因才力不足、輒爲所困、雖極力扶起、而精神已覺衰弱。遇此未免要十分退省、寧不了事、不可不加培養。如何。
 所說工夫、就道通分上、也只是如此用。然未免有出入在。凡人爲學、終身只爲這一事。自少至老、自朝至暮、不論有事無事、只是做得這一件。所謂「必有事焉」者也。若說、「寧不了事、不可不加培養」、卻是尚爲兩事也。必有事焉而勿忘勿助、事物之來、但盡吾心之良知以應之、所謂「忠恕違道不遠」矣。凡處得有善有未善、及有困頓失次之患者、皆是牽於毀譽得喪、不能實致其良知耳。若能實致其良知、然後見得平日所謂善者、未必是善、所謂未善者、卻恐正。是牽於毀譽得喪、自賊其良知者也。
(148) 來書云、致知之說、春間再承誨益、已頗知用力、覺得比舊尤爲簡易。但鄙心則謂、與初學言之、還須帶格物意思、使之知下手處。本來致知格物一併下、但在初學、未知下手用功。還說與格物、方曉得致知云云。
 格物是致知工夫、知得致知、便已知得格物。若是未知格物、則是致知工夫亦未嘗知也。近有一書與友人。論此頗悉。今往一通、細觀之、當自見矣。
(149) 來書云、今之爲朱陸之辨者、尚未已。每對朋友言、正學不明已久。且不須枉費心力、爲朱陸爭是非、只依先生立志二字點化人。若其人果能辨得此志來、決意要知此學、已是大段明白了。朱陸雖不辨、彼自能覺得。
 又嘗見朋友中、見有人議先生之言者、輒爲動氣。昔在朱陸二先生、所以遺後世紛紛之議者、亦見二先生工夫有未純熟、分明亦有動氣之病。若明道則無此矣。觀其與呉承禮論介甫之學云、「爲我盡達諸介甫、不有益於他、必有益於我也。」氣象何等從容。嘗見先生與人書中、亦引此言。願朋友皆如此、如何。
 此節議論得極是極是。願道通遍以告於同志、各自且論自己是非、莫論朱陸是非也。以言語謗人、其謗淺。若自己不能身體實踐、而徒入耳出口、呶呶度日、是以身謗也。其謗深矣。凡今天下之論議我者、苟能取以爲善、皆是砥礪切磋我也。則在我無非警惕修省進德之地矣。昔人謂、攻吾之短者是吾師。師又可惡乎。
(150) 來書云、有引程子、「人生而靜以上不容說、才說性、便已不是性。」何故不容說、何故不是性。晦庵答云、「不容說者、未有性之可言。不是性者、已不能無氣質之雜矣。」二先生之言皆未能曉、每看書至此、輒爲一惑。請問。
 生之謂性。生字卽是氣字。猶言「氣卽是性」也。氣卽是性、人生而靜以上不容說。才說氣卽是性、卽已落在一邊、不是性之本原矣。孟子性善、是從本原上說。然性善之端、須在氣上始見得。若無氣、亦無可見矣。惻隱・羞惡・辭讓・是非卽是氣。程子謂、「論性不論氣、不備。論氣不論性、不明。」亦是爲學者各認一邊、只得如此說。若見得自性明白時、氣卽是性、性卽是氣。原無性氣之可分也。
  答陸原靜書
(151) 來書云、下手工夫、覺此心無時寧靜。妄心固動也、照心亦動也。心旣恆動、則無刻蹔停也。
 是有意於求寧靜。是以愈不寧靜耳。夫妄心則動也、照心非動也。恆照則恆動恆靜。天地之所以恆久而不已也。照心固照也。妄心亦照也。其爲物不貳、則其生物不息。有刻蹔停、則息矣。非至誠無息之學矣。
(152) 來書云、良知亦有起處、云云。
 此或聽之未審。良知者、心之本體、卽前所謂恆照者也。心之本體、無起無不起。雖妄念之發、而良知未嘗不在。但人不知存、則有時而或放耳。雖昏塞之極、而良知未嘗不明。但人不知察、則有時而或蔽耳。雖有時而或放、其體實未嘗不在也。存之而已耳。雖有時而或蔽、其體實未嘗不明也。察之而已耳。若謂良知亦有起處、則是有時而不在也。非其本體之謂矣。
(153) 精一之精以理言。精神之精以氣言。理者、氣之條理。氣者、理之運用。無條理則不能運用。無運用則亦無以見其所謂條理者矣。精則精、精則明、精則一、精則神、精則誠、一則精、一則明、一則神、一則誠、原非有二事也。但後世儒者之說、與養生之說、各滯於一偏、是以不相爲用。前日精一之論、雖爲原靜愛養精神而發、然而作聖之功、實亦不外是矣。
(154) 來書云、元神・元氣・元精、必各有寄藏發生之處、又有眞陰之精、眞陽之氣、云云。
 夫良知一也。以其妙用而言、謂之神。以其流行而言、謂之氣。以其凝聚而言、謂之精。安可以形象方所求哉。眞陰之精、卽眞陽之氣之母。眞陽之氣、卽眞陰之精之父。陰根陽、陽根陰、亦非有二也。苟吾良知之說明、卽凡若此類、皆可以不言而喩。不然、則如來書所云三關・七返・九還之屬、尚有無窮可疑者也。
   又
(155) 來書云、良知心之本體、卽所謂性善也。未發之中也。寂然不動之體也。廓然大公也。何常人皆不能、而必待於學邪。中也、寂也、公也、旣以屬心之體、則良知是矣。今驗之於心、知無不良、而中・寂・大公實未有也。豈良知復超然於體用之外乎。
 性無不善、故知無不良。良知卽是未發之中、卽是廓然大公、寂然不動之本體、人人之所同具者也。但不能不昏蔽於物欲。故須學以去其昏蔽。然於良知之本體、初不能有加損於毫末也。知無不良、而中・寂・大公未能全者、是昏蔽之未盡去、而存之未純耳。體旣良知之體、用卽良知之用、寧復有超然於體用之外者乎。
(156) 來書云、周子曰、「主靜。」程子曰、「動亦定、靜亦定。」先生曰、「定者心之本體。」、是靜定也、決非不覩不聞、無思無爲之謂。必常知常存常主於理之謂也。夫常知常存常主於理、明是動也。已發也。何以謂之靜。何以謂之本體。豈是靜定也、又有以貫乎心之動靜者邪。
 理無動者也。常知常存常主於理、卽不覩不聞、無思無爲之謂也。不覩不聞、無思無爲、非槁木死灰之謂也。覩聞思爲一於理、而未嘗有所覩聞思爲。卽是動而未嘗動也。所謂「動亦定、靜亦定」、體用一原者也。
(157) 來書云、此心未發之體、其在已發之前乎。其在已發之中而爲之主乎。其無前後内外、而渾然之體者乎。今謂心之動靜者、其主有事無事而言乎。其主寂然感通而言乎。其主循理從欲而言乎。若以循理爲靜、從欲爲動、則於所謂「動中有靜、靜中有動、動極而靜、靜極而動」者、不可通矣。若以有事而感通爲動、無事而寂然爲靜、則於所謂「動而無動、靜而無靜」者、不可通矣。若謂未發在已發之先、靜而生動、是至誠有息也。聖人有復也、又不可矣。若謂、未發在已發之中、則不知未發・已發倶當主靜乎。抑未發爲靜、而已發爲動乎。抑未發已發倶無動無靜乎。倶有動有靜乎。幸教。
 未發之中、卽良知也。無前後内外、而渾然一體者也。有事無事、可以言動靜、而良知無分於有事無事也。寂然感通、可以言動靜、而良知無分於寂然感通也。動靜者、所遇之時。心之本體、固無分於動靜也。理無動者也。動卽爲欲。循理則雖酬酢萬變、而未嘗動也。從欲則雖槁心一念、而未嘗靜也。動中有靜、靜中有動、又何疑乎。有事而感通、固可以言動。然而寂然者未嘗有増也。無事而寂然、固可以言靜。然而感通者未嘗有減也、動而無動、靜而無靜、又何疑乎。無前後内外而渾然一體、則至誠有息之疑、不待解矣。未發在已發之中、而已發之中、未嘗別有未發者在。已發在未發之中、而未發之中、未嘗別有已發者存。是未嘗無動靜、而不可以動靜分者也。
 凡觀古人言語、在以意逆志而得其大旨、若必拘滯於文義、則靡有孑遺者、是周果無遺民也。周子靜極而動之說、苟不善觀、亦未免有病。蓋其意從太極動而生陽、靜而生陰說來。太極生生之理、妙用無息、而常體不易。太極之生生、卽陰陽之生生。就其生生之中、指其妙用無息者而謂之動、謂之陽之生。非謂動而後生陽也、就其生生之中、指其常體不易者、而謂之靜、謂之陰之生。非謂靜而後生陰也。若果靜而後生陰、動而後生陽、則是陰陽動靜、截然各自爲一物矣。陰陽一氣也。一氣屈伸而爲陰陽。動靜一理也。一理隱顯而爲動靜。春夏可以爲陽爲動、而未嘗無陰與靜也。秋冬可以爲陰爲靜、而未嘗無陽與動也。春夏此不息、秋冬此不息、皆可謂之陽、謂之動也。春夏此常體、秋冬此常體、皆可謂之陰、謂之靜也。自元・會・運・世・歳・月・日、時、以至刻・秒・忽・微、莫不皆然。所謂動靜無端、陰陽無始。在知道者默而識之、非可以言語窮也。若只牽文泥句、比擬倣像、則所謂心從法華轉、非是轉法華矣。
(158) 來書云、嘗試於心、喜怒憂懼之感發也、雖動氣之極、而吾心良知一覺、卽罔然消阻。或遏於初、或制於中、或悔於後。然則良知常若居優閒無事之地而爲之主、於喜怒憂懼、若不與焉者、何歟。
 知此、則知未發之中、寂然不動之體、而有發而中節之和、感而遂通之妙矣。然謂、「良知常若居於優閒無事之地」、語尚有病。蓋良知雖不滯於喜怒憂懼、而喜怒憂懼亦不外於良知也。
(159) 來書云、夫子昨以良知爲照心。竊謂、良知心之本體也。照心人所用功、乃戒愼恐懼之心也。猶思也。而遂以戒愼恐懼爲良知、何歟。
 能戒愼恐懼者、是良知也。
(160) 來書云、先生又曰、「照心非動也。」豈以其循理而謂之靜歟。「妄心亦照也。」豈以其良知未常不在於其中、未常不明於其中、而視聽言動之不過則者、皆天理歟。且旣曰妄心、則在妄心可謂之照、而在照心則謂之妄矣。妄與息何異。今假妄之照、以續至誠之無息、竊所未明。幸再啓蒙。
 照心非動者、以其發於本體明覺之自然、而未嘗有所動也。有所動卽妄矣。妄心亦照者、以其本體明覺之自然者、未嘗不在於其中、但有所動耳。無所動卽照矣。無妄無照、非以妄爲照、以照爲妄也。照心爲照、妄心爲妄、是猶有妄、有照也。有妄、有照、則猶貳也。貳則息矣。無妄、無照則不貳、不貳則不息矣。
(161) 來書云、養生以清心寡欲爲要。夫清心寡欲、作聖之功畢矣。然欲寡則心自清。清心非捨棄人事、而獨居求靜之謂也。蓋欲使此心純乎天理、而無一毫人欲之私耳。今欲爲此之功、而隨人欲生而克之、則病根常在、未免滅於東而生於西。若欲刊剥洗蕩於衆欲未萌之先、則又無所用其力、徒使此心之不清。且欲未萌、而搜剔以求去之、是猶引犬上堂而逐之也。愈不可矣。
 必欲此心純乎天理、而無一毫人欲之私、此作聖之功也。必欲此心純乎天理、而無一毫人欲之私、非防於未萌之先、而克於方萌之際不能也。防於未萌之先、而克於方萌之際、此正『中庸』戒愼恐懼、『大學』致知格物之功。舍此之外、無別功矣。夫謂滅於東而生於西、引犬上堂而逐之者、是自私自利、將迎意必之爲累、而非克治洗蕩之爲患也。今曰、「養生以清心寡欲爲要」、只養生二字、便是自私自利、將迎意必之根。有此病根潛伏於中、宜其有滅於東而生於西、引犬上堂而逐之之患也。
(162) 來書云、佛氏於不思善、不思惡時、認本來面目。於吾儒隨物而格之功不同。吾若於不思善、不思惡時、用致知之功、則已渉於思善矣。欲善惡不思、而心之良知清靜自在、惟有寐而方醒之時耳。斯正『孟子』夜氣之說。但於斯光景不能久。倏忽之際、思慮已生。不知用功久者、其常寐初醒、而思未起之時否乎。今澄欲求寧靜、愈不寧靜、欲念無生、則念愈生。如之何而能使此心前念易滅、後念不生、良知獨顯、而與造物者遊乎。
 不思善、不思惡時、認本來面目。此佛氏爲未識本來面目者、設此方便。本來面目、卽吾聖門所謂良知。今旣認得良知明白、卽已不消如此說矣。隨物而格、是致知之功、卽佛氏之常惺惺、亦是常存他本來面目耳。體段工夫、大略相似。但佛氏有箇自私自利之心。所以便有不同耳。今欲善惡不思、而心之良知清靜自在、此便有自私自利、將迎意必之心。所以有不思善、不思惡時、用致知之功、則已渉於思善之患。
 『孟子』說夜氣、亦只是爲失其良心之人、指出箇良心萌動處、使他從此培養將去。今已知得良知明白、常用致知之功、卽已不消說夜氣。卻是得兔後、不知守兔、而仍去守株、兔將復失之矣。欲求寧靜、欲念無生、此正是自私自利、將迎意必之病。是以念愈生而愈不寧靜。良知只是一箇良知、而善惡自辨。更有何善何惡可思。良知之體、本自寧靜。今卻又添一箇求寧靜。本自生生。今卻又添一箇欲無生。非獨聖門致知之功不如此、雖佛氏之學、亦未如此將迎意必也。只是一念良知、徹頭徹尾、無始無終。卽是前念不滅、後念不生。今卻欲前念易滅、而後念不生、是佛氏所謂斷滅種性、入於槁木死灰之謂矣。
(163) 來書云、佛氏又有常提念頭之說。其猶『孟子』所謂必有事、夫子所謂致良知之說乎。其卽常惺惺、常記得、常知得、常存得者乎。於此念頭提在之時、而事至物來、應之必有其道。但恐此念頭提起時少、放下時多、則工夫閒斷耳。且念頭放失、多因私欲客氣之動而始、忽然驚醒而後提。其放而未提之間、心之昏雜多不自覺。今欲日精日明、常提不放、以何道乎。只此常提不放、卽全功乎。抑於常提不放之中、更宜加省克之功乎。雖曰常提不放、而不加戒懼克治之功、恐私欲不去。若加戒懼克治之功焉、又爲思善之事、而於本來面目又未達一閒也。如之何則可。
 戒懼克治、卽是常提不放之功、卽是必有事焉。豈有兩事邪。此節所問、前一段已自說得分曉。末後卻是自生迷惑、說得支離。及有本來面目未達一閒之疑、都是自私自利、將迎意必之爲病。去此病、自無此疑矣。
(164) 來書云、質美者、明得盡、査滓便渾化。如何謂明得盡。如何而能更渾化。
 良知本來自明。氣質不美者、査滓多、障蔽厚、不易開明。實美者、査滓原少、無多障蔽。略加致知之功、此良知便自瑩徹、些少査滓、如湯中浮雪。如何能作障蔽。此本不甚難曉。原靜所以致疑於此、想是因一明字不明白、亦是稍有欲速之心。向曾面論明善之義。明則誠矣。非若後儒所謂明善之淺也。
(165) 來書云、聰明睿知、果質乎。仁義禮智、果性乎。喜怒哀樂果情乎。私欲客氣果一物乎。二物乎。古之英才、若子房・仲舒・叔度・孔明・文中・韓・范諸公、德業表著、皆良知中所發也。而不得謂之聞道者、果何在乎。苟曰、此特生質之美耳、則生知安行者、不愈於學知困勉者乎。愚意竊云、謂諸公見道偏則可、謂全無聞、則恐後儒崇尚記誦・訓詁之過也。然乎否乎。
 性一而已。仁義禮知、性之性也。聰明睿知、性之質也。喜怒哀樂、性之情也、私欲客氣、性之蔽也。質有清濁、故情有過不及、而蔽有淺深也。私欲客氣、一病兩痛、非二物也。張・黄・諸葛及韓・范諸公、皆天質之美、自多暗合道妙。雖未可盡謂之知學、盡謂之聞道、然亦自其有學違道不遠者也。使其聞學知道、卽伊・傅・周・召矣。若文中子、則又不可謂之不知學者。其書雖多出於其徒、亦多有未是處。然其大略、則亦居然可見。但今相去遼遠、無有的然憑證。不可懸斷其所至矣。
 夫良知卽是道。良知之在人心、不但聖賢、雖常人亦無不如此。若無有物欲牽蔽、但循著良知發用流行將去、卽無不是道。但在常人多爲物欲牽蔽、不能循得良知。如數公者、天質旣自清明、自少物欲爲之牽蔽、則其良知之發用流行處、自然是多、自然違道不遠。學者學循此良知而已。謂之知學、只是知得專在學循良知。數公雖未知專在良知上用功、而或泛濫於多岐、疑迷於影響、是以或離或合而未純。若知得時、便是聖人矣。後儒嘗以數子者、尚皆是氣質用事、未免於行不著、習不察。此亦未爲過論。但後儒之所謂著察者、亦是狃於聞見之狹、蔽於沿習之非、而依擬倣像於影響形迹之閒、尚非聖門之所謂著察者也。則亦安得以己之昏昏、而求人之昭昭也乎。所謂生知安行、知行二字、亦是就用功上說。若是知行本體卽是良知良能、雖在困勉之人、亦皆可謂之生知安行矣。知行二字更宜精察。
(166) 來書云、昔周茂叔每令伯淳尋仲尼・顏子樂處。敢問是樂也、與七情之樂同乎、否乎。若同、則常人之一遂所欲、皆能樂矣。何必聖賢。若別有眞樂、則聖賢之遇大憂・大怒・大驚・大懼之事、此樂亦在否乎。且君子之心、常存戒懼。是蓋終身之憂也。惡得樂。澄平生多悶、未常見眞樂之趣。今切願尋之。
 樂是心之本體、雖不同於七情之樂、而亦不外於七情之樂。雖則聖賢別有眞樂、而亦常人之所同有。但常人有之而不自知、反自求許多憂苦、自加迷棄。雖在憂苦迷棄之中、而此樂又未嘗不存。但一念開明、反身而誠、則卽此而在矣。每與原靜論、無非此意。而原靜尚有何道可得之問。是猶未免於騎驢覓驢之蔽也。
(167) 來書云、『大學』以心有好樂・忿懥・憂患・恐懼爲不得其正、而程子亦謂、「聖人情順萬事而無情。」所謂有者、『傳習錄』中以病瘧譬之、極精切矣。若程子之言、則是聖人之情、不生於心、而生於物也。何謂耶。且事感而情應、則是是非非可以就格。事或未感時、謂之有、則未形也。謂之無、則病根在。有無之閒、何以致吾知乎。學務無情、累雖輕、而出儒入佛矣。可乎。
 聖人致知之功、至誠無息。其良知之體、皦如明鏡、略無纖翳、妍媸之來、隨物見形、而明鏡曾無留染。所謂「情順萬事而無情」也。無所住而生其心、佛氏曾有是言、未爲非也。明鏡之應物、妍者妍、媸者媸、一照而皆眞。卽是生其心處。妍者妍、媸者媸、一過而不留。卽是無所住處。病瘧之喩、旣已見其精切、則此節所問可以釋然。病瘧之人、瘧雖未發、而病根自在、則亦安可以其瘧之未發、而遂忘其服藥調理之功乎。若必待瘧發而後服藥調理、則旣晩矣。致知之功、無閒於有事無事。而豈論於病之已發、未發邪。大抵原靜所疑、前後雖若不一、然皆起於自私自利、將迎意必之爲崇。此根一去、則前後所疑、自將冰消霧釋、有不待於問辨者矣。
 答原靜書出、讀者皆喜澄善問師善答。皆得聞所未聞。師曰、「原靜所是知解上轉、不得已與之逐節分疏。若信得良知、只在良知上用工、雖千經萬典無不脗合、異端典學一勘盡破矣。何必如此節節分解。佛家有撲人逐塊之喩。見塊撲人、則得人矣。見塊逐塊、於塊奚得哉。」在座諸友聞之、惕然皆有惺悟。此學貴反求、非知解可入也。
  答歐陽崇一
(168) 崇一來書云、師云、「德性之良知、非由於聞見。若曰、多聞擇其善者而從之、多見而識之」、則是專求之見聞之末、而已落在第二義。」竊意良知雖不由見聞而有、然學者之知、未常不由見聞而發。滯於見聞固非、而見聞亦良知之用也。今曰落在第二義、恐爲專以見聞爲學者而言。若致其良知、而求之見聞、似亦知行合一之功矣。如何。
 良知不由見聞而有、而見聞莫非良知之用。故良知不滯於見聞、而亦不離於見聞。孔子云、「吾有知乎哉。無知也。」良知之外、別無知矣。故致良知是學問大頭腦。是聖人教人第一義。今云專求之見聞之末、則是先卻頭腦、而已落在第二義矣。近時同志中、蓋已莫不知有致良知之說。然其功夫尚多鶻突者、正是欠此一問。大抵學問功夫、只要主意頭腦是當。若主意頭腦專以致良知爲事、則凡多聞多見、莫非致良知之功。蓋日用之閒、見聞醻酢、雖千頭萬緒、莫非良知之發用流行。除卻見聞醻酢、亦無良知可致矣。故只是一事。若曰、致其良知而求之見聞、則語意之間未免爲二。此與專求之見聞之末者、雖稍不同、其爲未得精一之旨、則一而已。多聞擇其善者而從之、多見而識之。旣云擇、又云識、其良知亦未嘗不行於其閒。但其用意乃專在多聞多見上去擇識、則已失卻頭腦矣。崇一於此等處見得當已分曉。今日之問、正爲發明此學。於同志中極有益。但語意未瑩、則毫釐千里、亦不容不精察之也。
(169) 來書云、師云、「繋言何思何慮、是言所思所慮只是天理、更無別思別慮耳。非謂無思無慮也。心之本體卽是天理。有何可思慮得。學者用功、雖千思萬慮、只是要復他本體。不是以私意去安排思索出來。若安排思索、便是自私用智矣。」學者之蔽、大率非沈空守寂、則安排思索。德辛壬之歳、著前一病、近又著後一病。但思索亦是良知發用、其與私意安排者何所取別。恐認賊作子、惑而不知也。
 「思曰睿、睿作聖。」「心之官則思、思則得之。」思其可少乎。沈空守寂、與安排思索、正是自私用智、其爲喪失良知一也。良知是天理之昭明靈覺處。故良知卽是天理。思是良知之發用。若是良知發用之思、則所思莫非天理矣。良知發用之思、自然明白簡易、良知亦自能知得。若是私意安排之思、自是紛紜勞擾、良知亦自會分別得。蓋思之是非邪正、良知無有不自知者。所以認賊作子、正爲致知之學不明。不知在良知上體認之耳。
(170) 來書又云、師云、「爲學終身只是一事、不論有事無事、只是這一件。若說寧不了事、不可不加培養、卻是分爲兩事也。」竊意覺精力衰弱、不足以終事者、良知也。寧不了事、且加休養、致知也。如何卻爲兩事。若事變之來、有事勢不容不了、而精力雖衰、稍鼓舞亦能支持、則持志以帥氣可矣。然言動終無氣力、畢事則困憊已甚、不幾於暴其氣已乎。此其輕重緩急、良知固未嘗不知。然或迫於事勢、安能顧精力。或因於精力、安能顧事勢。如之何則可。
 寧不了事、不可不加培養之意、且與初學如此說亦不爲無益。但作兩事看了、便有病痛。在『孟子』言、「必有事焉」、則君子之學終身只是集義一事。義者、宜也。心得其宜之謂義。能致良知、則心得其宜矣。故集義、亦只是致良知。君子之酬酢萬變、當行則行、當止則止、當生則生、當死則死、斟酌調停、無非是致其良知、以求自慊而已。故君子素其位而行、思不出其位。凡謀其力之所不及、而強其知之所不能者、皆不得爲致良知。而凡勞其筋骨、餓其體膚、空乏其身、行拂亂其所爲、動心忍性、以増益其所不能者、皆所以致其良知也。若云、「寧不了事、不可不加培養者」、亦是先有功利之心、計較成敗利鈍、而愛憎取捨於其間。是以將了事自作一事、而培養又別作一事。此便有是内、非外之意。便是自私用智、便是義外。便有不得於心、勿求於氣之病。便不是致良知以求自慊之功矣。所云、「鼓舞支持、畢事則困憊已甚」、又云、「迫於事勢、困於精力」、皆是把作兩事做了。所以有此。
 凡學問之功、一則誠、二則僞。凡此皆是致良知之意、欠誠一眞切之故。『大學』言、「誠其意者、如惡惡臭、如好好色、此之謂自慊。」曾見有惡惡臭、好好色、而須鼓舞支持者乎。曾見畢事則困憊已甚者乎。曾有迫於事勢、困於精力者乎。此可以知其受病之所從來矣。
(171) 來書又有云、人情機詐百出、御之以不疑、往往爲所欺。覺則自入於逆億。夫逆詐、卽詐也。億不信、卽非信也。爲人欺、又非覺也、不逆不億而常先覺、其惟良知瑩徹乎。然而出入毫忽之閒、背覺合詐者多矣。
 不逆不億而先覺、此孔子因當時人專以逆詐億不信爲心、而自陷於詐與不信、又有不逆不億者、然不知致良知之功、而往往又爲人所欺詐、故有是言。非教人以是存心、而專欲先覺人之詐與不信也。以是存心、卽是後世猜忌險薄者之事、而只此一念、已不可與入堯舜之道矣。不逆不億、而爲人所欺者、尚亦不失爲善。但不如能致其良知、而自然先覺者之尤爲賢耳。崇一謂、「其惟良知瑩徹」者、蓋已得其旨矣。然亦悟所及、恐未實際也。
 蓋良知之在人心、亘萬古、塞宇宙而無不同。不慮而知、恆易以知險、不學而能、恆簡以知阻。先天而天不違、天且不違、而況於人乎。況於鬼神乎。夫謂背覺合詐者、是雖不逆人而或未能自欺也。雖不億人而或未能果自信也。是或常有求先覺之心、而未能常自覺也。常有求先覺之心、卽已流於逆億、而足以自蔽其良知矣。此背覺合詐之所以未免也。
 君子學以爲己、未嘗虞人之欺己也。恆不自欺其良知而已。是故不欺、則良知無所僞而誠。誠則明矣。自信則良知無所惑而明。明則誠矣。明誠相生。是故良知常覺、常照。常覺、常照則如明鏡之懸、而物之來者自不能遁其妍媸矣。何者。不欺而誠、則無所容其欺。苟有欺焉而覺矣。自信而明、則無所容其不信、苟不信焉而覺矣。是謂、「易以知險、簡以知阻。」子思所謂「至誠如神、可以前知」者也。
 然子思謂、「如神」、謂、「可以前知」、猶二而言之。是蓋推言思誠者之功效、是猶爲不能先覺者說也。若就至誠而言、則至誠之妙用、卽謂之神、不必言如神、至誠則無知而無不知。不必言可以前知矣。
   答羅整菴少宰書
(172) 某頓首啓。昨承教及『大學』。發舟匆匆、未能奉答。曉來江行稍暇、復取手教而讀之。恐至贛後人事復紛沓、先具其略以請。
 來教云、「見道固難。而體道尤難。道誠未易明、而學誠不可不講。恐未可安於所見而遂以爲極則也。」
 幸甚幸甚。何以得聞斯言乎。其敢自以爲極則而安之乎。正思就天下之有道以講明之耳。而數年以來、聞其說而非笑之者有矣。詬訾之者有矣。置之不足較量辨議之者有矣。其肯遂以教我乎。其肯遂以教我、而反覆曉諭、惻然惟恐不及救正之乎。然則天下之愛我者、固莫有如執事之心深且至矣。感激當何如哉。
 夫德之不修、學之不講、孔子以爲憂。而世之學者、稍能傳習訓詁、卽皆自以爲知學、不復有所謂講學之求。可悲矣。夫道必體而後見。非已見道而後加體道之功也。道必學而後明。非外講學而復有所謂明道之事也。然世之講學者有二。有講之以身心者、有講之以口耳者。講之以口耳、揣摸測度、求之影響者也。講之以身心、行著習察、實有諸己者也。知此、則知孔門之學矣。
(173) 來教謂、某『大學』古本之復、以人之爲學但當求之於内、而程・朱格物之說不免求之於外、遂去朱子之分章、而削其所補之傳。
 非敢然也。學豈有内外乎。『大學』古本乃孔門相傳舊本耳。朱子疑其有所脱誤、而改正補緝之。在某則謂、其本無脱誤、悉從其舊而已矣。失在於過信孔子則有之。非故去朱子之分章而削其傳也。夫學貴得之心。求之於心而非也、雖其言之出於孔子、不敢以爲是也。而況其未及孔子者乎。求之於心而是也。雖其言之出於庸常、不敢以爲非也。而況其出於孔子者乎。且舊本之傳數千載矣。今讀其文詞、旣明白而可通。論其工夫、又易簡而可入。亦何所按據而斷其此段之必在於彼、彼段之必在於此、與此之如何而缺、彼之如何而補、而遂改正補緝之。無乃重於背朱而輕於叛孔已乎。
(174) 來教謂、「如必以學不資於外求、但當反觀内省以爲務、則正心誠意四字亦何不盡之有。何必於入門之際、便困以格物一段工夫也。」
 誠然誠然。若語其要、則脩身二字亦足矣。何必又言正心。正心二字亦足矣。何必又言誠意。誠意二字亦足矣。何必又言致知、又言格物。惟其工夫之詳密、而要之只是一事。此所以爲精一之學、此正不可不思者也。
 夫理無内外、性無内外。故學無内外。講習討論、未嘗非内也。反觀内省、未嘗遺外也。夫謂學必資於外求、是以己性爲有外也。是義外也。用智者也。謂反觀内省爲求之於内、是以己性爲有内也。是有我也。自私者也。是皆不知性之無内外也。故曰、「精義入神、以致用也。利用安身、以崇德也。性之德也、合内外之道也。」此可以知格物之學矣。
 格物者、『大學』之實下手處、徹首徹尾、自始學至聖人、只此工夫而已。非但入門之際有此一段也。夫正心・誠意・致知・格物、皆所以脩身、而格物者、其所用力、日可見之地。故格物者、格其心之物也。格其意之物也。格其知之物也。正心者、正其物之心也。誠意者、誠其物之意也。致知者、致其物之知也。此豈有内外彼此之分哉。
 理一而已。以其理之凝聚而言、則謂之性。以其凝聚之主宰而言、則謂之心。以其主宰之發動而言、則謂之意。以其發動之明覺而言、則謂之知。以其明覺之感應而言、則謂之物。故就物而言謂之格、就知而言謂之致、就意而言謂之誠、就心而言謂之正。正者、正此也。誠者、誠此也。致者、致此也。格者、格此也。皆所謂「窮理以盡性」也。天下無性外之理、無性外之物。學之不明、皆由世之儒者認理爲外、認物爲外、而不知義外之說、孟子蓋嘗闢之。乃至襲陷其内而不覺、豈非亦有似是而難明者歟。不可以不察也。
(175) 凡執事所以致疑於格物之說者、必謂其是内而非外也。必謂其專事於反觀内省之爲、而遺棄其講習討論之功也。必謂其一意於綱領本原之約、而脱略於支條節目之詳也。必謂其沈溺於枯槁虚寂之偏、而不盡於物理人事之變也。審如是、豈但獲罪於聖門、獲罪於朱子。是邪說誣民、叛道亂正、人得而誅之也。而況於執事之正直哉。審如是、世之稍明訓詁、聞先哲之緒論者、皆知其非也。而況執事之高明哉。凡某之所謂格物、其於朱子九條之說、皆包羅統括於其中。但爲之有要、作用不同。正所謂毫釐之差耳。然毫釐之差而千里之繆、實起於此。不可不辨。
(176) 孟子闢楊・墨、至於無父無君。二子亦當時之賢者、使與孟子並世而生、未必不以之爲賢。墨子兼愛、行仁而過耳。楊子爲我、行義而過耳。此其爲說、亦豈滅理亂常之甚、而足以眩天下哉。而其流之蔽、孟子至比於禽獸夷狄、所謂以學術殺天下後世也。今世學術之蔽、其謂之學仁而過者乎。謂之學義而過者乎。抑謂之學不仁不義而過者乎。吾不知其於洪水猛獸何如也。孟子云、「予豈好辨哉。予不得已也。」楊・墨之道塞天下。孟子之時、天下之尊信楊・墨、當不下於今日之崇尚朱之說、而孟子獨以一人呶呶於其閒。噫、可哀矣。
 韓氏云、「佛老之害甚於楊・墨。」韓愈之賢不及孟子孟子不能救之於未壞之先、而韓愈乃欲全之於已壞之後。其亦不量其力、且見其身之危、莫之救以死也。嗚呼、若某者、其尤不量其力、果見其身之危、莫之救以死也矣。
 夫衆方嘻嘻之中、而獨出涕嗟若。擧世恬然以趨、而獨疾首蹙額以爲憂、此其非病狂喪心、殆必誠有大苦者隱於其中、而非天下之至仁、其孰能察之。
 其爲朱子晩年定論、蓋亦不得已而然。中閒年歳早晩、誠有所未考。雖不必盡出於晩年、固多出於晩年者矣。然大意在委曲調停、以明此學爲重。平生於朱子之說、如神明蓍龜、一旦與之背馳、心誠有所未忍。故不得已而爲此。知我者謂我心憂、不知我者謂我何求。蓋不忍牴牾朱子者、其本心也。不得已而與之牴牾者、道固如是。不直則道不見也。執事所謂「決與朱子異」者、僕敢自欺其心哉。
 夫道、天下之公道也。學、天下之公學也。非朱子可得而私也。非孔子可得而私也。天下之公也、公言之而已矣。故言之而是、雖異於己、乃益於己也。言之而非、雖同於己、適損於己也。益於己者、己必喜之、損於己者、己必惡之。然則某今日之論、雖或於朱子異、未必非其所喜也。君子之過、如日月之食、其更也、人皆仰之。而小人之過也、必文。某雖不肖、固不敢以小人之心事朱子也。
(177) 執事所以教、反覆數百言、皆以未悉鄙人格物之說。若鄙說一明、則此數百言、皆可以不待辨說而釋然無滯。故今不敢縷縷以滋瑣屑之瀆。然鄙說非面陳口析、斷亦未能了了於紙筆閒也。嗟乎、執事所以開導啓迪於我者、可謂懇到詳切矣。人之愛我、寧有如執事者乎。僕雖甚愚下、寧不知所感刻佩服。然而不敢遽舍其中心之誠然而姑以聽受云者、正不敢有負於深愛、亦思有以報之耳。秋盡東還、必求一面以卒所請。千萬終教。
   答聶文蔚
(178) 春閒遠勞迂途枉顧、問證惓惓。此情、何可當也。已期二三同志、更處靜地、版留旬日、少效其鄙見、以求切劘之益、而公期俗絆、勢有不能。別去極怏怏、如有所失。忽承箋惠。反覆千餘言、讀之無甚浣慰。中閒推許太過。蓋亦奬掖之盛心、而規礪眞切、思欲納之於賢聖之域又托諸崇一、以致其勤勤懇懇之懷。此非深交篤愛、何以及是。知感知媿、且懼其無以堪之也。雖然、僕亦何敢不自鞭勉、而徒以感媿辭讓爲乎哉。
 其謂「思・孟・周・程、無意相遭於千載之下、與其盡信於天下、不若眞信於一人。道固自在、學亦自在、天下信之不爲多、一人信之不爲少」者、斯固君子不見是而無悶之心。豈世之譾譾屑屑者知、足以及之乎。乃僕之情、則有大不得已者、存乎其閒、而非以計人之信與不信也。
(179)
夫れ人は天地の心にして、天地万物はもと吾が一体なり、生民の困苦茶毒(とどく)は孰れか疼痛の吾が身に切なるものにあらざらんや、吾が身の疼痛を知らざるは、是非の心なきものなり、是非の心は慮らずして知り、学ばずして能くす、いわゆる良知なり、良知の人心にある、聖愚を間(へだ)つるなく、天下古今の同じところなり、世の君子惟その良知を致さんことを務むれれば、即ち自ら能く是非を公にし好悪を同じくし、人を視ること己の如く、国を視ること家のごとくにして、天地万物を以って一体となす。天下の治まるなからむことを求むるも得べからざるなり。

古の人の能く善を見ること啻(ただ)に己より出ずるが若きのみならず、悪を見ること啻に己入るが若きのみならず、民の飢溺を視ること猶お己の飢溺するが如く、而して一夫もえざれば「己椎して諸を溝中に納るるがごとき」所以は、故(ことさ)らに是を為して以って天下の己を信ぜんことを靳(もと)むるに非ざるなり、其の良知を致し、自ら謙(こころよ)きことを求めんと務むるのみ、

(180)
後世良知の学明らかならずして、天下の人其の私智を用いて以って相比軋す、是を以って人各々心有りて、偏琑僻陋の見、狡偽陰邪の術、勝(あ)げて説く可からざるに至る。外は仁義の名を借り、内は以って其の自私自利の実を行い、辞を詭(いつわり)りて以って俗に阿り、行を矯(いつわ)りて以って誉れを于(もと)め、人の善をおおい、襲いて以って己が長となし、人の私を訏(あば)き、窃みて以って己が直となし、(以下省略)

(181)
僕誠に天之霊に頼りて、偶々良知の学を見る有り。以為(おも)えらく必ず此に由りて而して後に天下は得て治む可しと、是を以て斯の民の陥溺を念う毎に、即ち之がために戚然として心を痛ましめ、其の身の不肖を忘れて、之を以って之を救わんと思う。亦、自ら其の量を知らざる者なり、天下の人、其の是の若くなるを見て遂に相与に非笑し、之を詆斥し、以為えらくは此れ狂を病み心を喪う人のみ、と。嗚呼、是れ奚(なん)ぞ恤(うれ)うるに足らんや、吾疼痛の体に切なるに方りて、人の非笑を計るに暇あらんや、人は固より其の父子兄弟の深淵に墜溺するを見るあれば、呼嗁匍匐、裸跣顛頓し、岸壁に板懸して下りて之を救わん、士の見る者、方に相与に其の傍らに揖譲談笑し、以為えらく是れ其の礼貌衣冠を棄てて呼嗁顛頓すること此れの如し、是れ狂を病み心を喪う者なり、と。
嗚呼、今の人僕を謂いて狂を病み心を喪う人と為すと雖も亦不可なし、天下の人心は皆吾が心なり、天下の人猶狂を病む者あり、吾安ぞ得て心を喪うに非ざらん。

(182) 昔者孔子之在當時、有議其爲陷者、有譏其爲佞者、有毀其未賢、詆其爲不知禮、而侮之以爲東家丘者、有嫉而沮之者、有惡而欲殺之者、晨門・荷蕢徒、皆當時之賢士、且曰、「是知其不可而爲之者歟。」「鄙哉硜硜乎。莫己知也。斯已而已矣。」雖子路在升堂之列、尚不能無疑於其所見、不悅於其所欲往、而且以之爲迂、則當時之不信夫子者、豈特十之二三而已乎。然而夫子汲汲遑遑、若求亡子於道路、而不暇於煖席者、寧以蘄人之知我、信我而已哉。
 蓋其天地萬物一體之仁、疾痛迫切、雖欲已之、而自有所不容已。故其言曰、「吾非斯人之徒與而誰與。」「欲潔其身而亂大倫。」「果哉、末之難矣。」嗚呼、此非誠以天地萬物爲一體者、孰能以知夫子之心乎。若其遯世無悶、樂天知命者、則固無入而不自得、道並行而不相悖也。
(183) 僕之不肖、何敢以夫子之道爲己任。顧其心亦已稍知疾痛之在身。是以徬徨四顧、將求其有助於我者、相與講去其病耳。

今、誠に豪傑同志の士を得て、扶持匡翼して、共に良知の学を天下に明らかにし、天下の人をして皆自らその良知を致すことを知らしめ、以って相安んじ相養いて、その自私自利の蔽を去り、讒妬勝忿の習を一洗して以って大同に済(な)さしめば、即ち僕の狂病は固(もと)より将に脱然として以って癒えて、終に喪心の患いを免るべし、豈に快ならずや。

 嗟乎。今誠欲求豪傑同志之士於天下、非如吾文蔚者、而誰望之乎。如吾文蔚之才與志、誠足以援天下之溺者。今又旣知其具之在我、而無假於外求矣。循是而充、若決河注海、孰得而禦哉。文蔚所謂「一人信之不爲少」、其又能遜以委之何人乎。
(184) 會稽素號山水之區、深林長谷、信歩皆是、寒暑晦明、無時不宜。安居飽食、塵囂無擾、良朋四集、道義日新。優哉、游哉、天地之閒、寧復有樂於是者。孔子云、「不怨天、不尤天(人)。下學而上達。」僕與二三同志方將請事斯語。奚暇外慕。獨其切膚之痛、乃有未能恝然者。輒復云云爾。咳疾暑毒、書札絶懶。盛使遠來、遲留經月。臨岐執筆、又不覺累紙。蓋於相知之深、雖已縷縷至此、殊覺有所未能盡也。
 二
(185) 得書、見近來所學之驟進、喜慰不可言。諦視數過、其閒雖亦有一二未瑩徹處、卻是致良知之功尚未純熟、到純熟時、自無此矣。譬之驅車、旣已由於康莊大道之中、或時横斜迂曲者、乃馬性未調、銜勒不齋之故。然已只在康莊大道中、決不賺入傍蹊曲徑矣。近時海内同志、到此地位者、曾未多見。喜慰不可言。斯道之幸也。賤躯舊有咳嗽畏熱之病。近入炎方、輒復大作。主上聖明洞察、責付甚重、不敢遽辭、地方軍務冗沓、皆輿疾從事。今卻幸已平定。已具本、乞回養病。得在林下稍就清涼、或可瘳耳。人還、伏枕草草、不盡傾企、外惟濬一簡、幸達致之。
(186) 來書所詢、草草奉復一二。近歳來山中講學者、往往多說、「勿忘、勿助工夫甚難。」問之、則云、「才著意便是助、才不著意便是忘、所以甚難。」區區因問之云、「忘是忘箇甚麼。助是助箇甚麼。」其人默然無對、始請問。
 區區因與說、我此閒講學、卻只說箇必有事焉、不說勿忘、勿助。必有事焉者、只是時時去集義。若時時去用必有事的工夫、而或有時閒斷、此便是忘了。卽須勿忘。時時去用必有事的工夫、而或有時欲速求效、此便是助了。卽須勿助。其工夫全在必有事焉上用。勿忘、勿助、只就其閒提撕警覺而已。若是工夫原不閒斷、卽不須更說勿忘。原不欲速求效、卽不須更說勿助。此其工夫何等明白簡易。何等灑脱自在。今卻不去必有事上用工、而乃懸空守著一箇勿忘、勿助。此正如燒鍋煮飯、鍋内不曾漬水下米、而乃專去添柴放火、不知畢竟煮出箇甚麼物來。吾恐火候未及調停、而鍋已先破裂矣。近日、種專在勿忘、勿助上用工者、其病正是如此。終日懸空去做箇勿忘、又懸空去做箇勿助、渀渀蕩蕩、全無實落下手處、究竟工夫、只做得箇沈空守寂、學成一箇癡騃漢、才遇些子事來、卽便牽滯紛擾、不復能經綸宰制。此皆有志之士、而乃使之勞苦纏縛、擔閣一生、皆由學術誤人之故。甚可憫矣。
(187) 夫必有事焉、只是集義。集義、只是致良知。說集義、則一時未見頭腦。說致良知、卽當下便有實地歩可用工。故區區專說致良知。隨時就事上致其良知、便是格物。著實去致良知、便是誠意。著實致其良知、而無一毫意必固我、便是正心。著實致良知、則自無忘之病、無一毫意必固我、則自無助之病。故說格・致・誠・正、則不必更說箇忘助。
 孟子說忘助、亦就告子得病處立方。告子強制其心、是助的病痛、故孟子專說助長之害。告子助長、亦是他以義爲外、不知就自心上集義、在必有事焉上用功、是以如此。若時時刻刻就自心上集義、則良知之體洞然明白。自然是是非非纖毫莫遁。又焉有不得於言、勿求於心。不得於心、勿求於氣之蔽乎。孟子集義・養氣之說、固大有功於後學。然亦是因病立方、說得大段、不若『大學』格・致・誠・正之功、尤極精一簡易、爲徹上徹下、萬世無蔽者也。
(188) 聖賢論學、多是隨時就事、雖言若人殊、而要其工夫頭腦、若合符節。縁天地之閒、原只有此性、只有此理、只有此良知、只有此一件事耳。故凡就古人論學處說工夫、更不必攙和兼搭而說、自然無不脗合貫通者。才須攙和兼搭而說、卽是自己工夫未明徹也。近時有謂集義之功、必須兼搭箇致良知而後備者、則是集義之功尚未了徹也。集義之功、尚未了徹、適足以爲致良知之累而已矣。謂致良知之功、必須兼搭一箇勿忘、勿助而後明者、則是致良知之功尚未了徹也。致良知之功、尚未了徹也、適足以爲勿忘、勿助之累而已矣。若此者、皆是就文義上解釋牽附、以求混融湊泊、而不曾就自己實工夫上體驗。是以論之愈精、而去之愈遠。文蔚之論、其於大本達道、旣已沛然無疑、至於致知窮理及忘助等說、時亦有攙和兼搭處。卻是區區所謂康莊大道之中、或時横斜迂曲者。到得工夫熟後、自將釋然矣。
(189)
文蔚謂、「致知之說、求之事親、從兄之閒、便覺有所持循者。」此段最見近來眞切篤實之功。但以此自爲不妨、自有得力處、以此遂爲定說教人、卻未免又有因藥發病之患。亦不可不一講也。

蓋し、良知は只だ是れ一箇の天理の自然に明覚発見する処、只で是れ一箇の真誠惻恒こそ、便ち是れ他(そ)の本体なれ。故にこの良知の真誠惻恒を致して、以って親に事うることは便ち是れ孝、この真誠惻恒を致して、以って兄に従がうことは便ち是れ弟、この良知の真誠惻恒を致して、以って君に事うることは便ち是れ忠、只だ是れ一箇の良知は、一箇の真誠惻恒なり。
(途中省略)
良知は只だ是れ一箇にして、その発見流行の処に随いて当下(まさに)具足すべきも、さらに去来なく、仮借すべからず、然れどもその発見流行の処は、却って自ら軽重厚薄ありて豪髪も増減すべからざる者あり、いわゆる天然自有の中也。即ち軽重厚薄、豪髪も増減すべからずといえども、原(もと)また只だ是れ一箇なり。只だ是れ一箇也といえども其の間の軽重厚薄また豪髪も増減すべからず、もし増減すべく、もし仮借すべければ、即ち巳(すで)にその真誠惻恒の本体にはらず、これ良知の妙用、方体なく窮尽なく、大を語れば天下も能く載するなく、小を語れば天下も能く破るなきものなり。

(190) 孟氏堯舜之道、孝弟而已者、是就人之良知發見得最眞切篤厚、不容蔽昧處提省人、使人於事君處友、仁民愛物、與凡動靜語默閒、皆只是致他那一念事親從兄眞誠惻怛的良知。卽自然無不是道。蓋天下之事雖千變萬化、至於不可窮詰、而但惟致此事親從兄一念眞誠惻怛之良知以應之、則更無有遺缺滲漏者。正謂其只有此一箇良知故也。事親從兄一念良知之外、更無有良知可致得者。故曰、「堯舜之道、孝弟而已矣。」此所以爲惟精惟一之學、放之四海而皆準、施諸後世而無朝夕者也。
 文蔚云、「欲於事親從兄之閒、而求所謂良知之學。」就自己用工得力處。如此說、亦無不可。若曰、「致其良知之眞誠惻怛以求盡夫事親從兄之道焉」、亦無不可也。明道云、「行仁自孝弟始。孝弟是仁之一事、謂之行仁之本則可、謂是仁之本則不可。」其說是矣。
(191) 億逆先覺之說、文蔚謂、「誠則旁行曲防、皆良知之用」、甚善甚善。閒有攙搭處、則前已言之矣。惟濬之言、亦未爲不是。在文蔚、須有取於惟濬之言而後盡、在惟濬、又須有取於文蔚之言而後明。不然、則亦未免各有倚著之病也。
 舜察邇言而詢蒭蕘、非是以邇言當察、蒭蕘當詢、而後如此、乃良知之發見流行、光明圓瑩、更無罣礙遮隔處。此所以謂之大知。才有執著意必、其知便小矣。講學中自有去取分辨、然就心地上著實用工夫、卻須如此方是。
(192) 盡心三節、區區曾有生知・學知・困知之說、頗已明白、無可疑者。蓋盡心・知性・知天者、不必說存心・養性・事天、不必說殀壽不貳、修身以俟、而存心・養性與修身以俟之功已在其中矣。存心・養性・事天者、雖未到得盡心・知天的地位、然已是在那裏做箇求到盡心・知天的工夫、更不必說殀壽不貳、修身以俟、而殀壽不貳、修身以俟之功已在其中矣。譬之行路、盡心・知天者、如年力壯健之人、旣能奔走往來於數千里之間者也。存心・事天者、如童穉之年、使之學習歩趨於庭除之間者也。殀壽不貳、脩身以俟者、如襁褓之孩、方使之扶牆傍壁、而漸學起立移歩者也。旣已能奔走往來於數千里之間者、則不必更使之於庭除之間而學歩趨、而歩趨於庭除之間、自無弗能矣。旣已能歩趨於庭除之間、則不必更使之扶牆傍壁、而學起立移歩、而起立移歩自無弗能矣。然學起立移歩、便是學歩趨庭除之始、學歩趨庭除、便是學奔走往來於數千里之基、固非有二事。但其工夫之難易、則相去懸絶矣。
 心也、性也、天也、一也。故及其知之成功則一。然而三者人品力量、自有階級、不可躐等而能也。細觀文蔚之論、其意以恐盡心・知天者、廢卻存心・修身之功、而反爲盡心・知天之病。是蓋爲聖人憂工夫之或間斷、而不知爲自己憂工夫之未眞切也。吾儕用工、卻須專心致志、在殀壽不貳、修身以俟上做、只此便是做盡心・知天工夫之始。正如學起立移歩、便是學奔走千里之始。吾方自慮其不能起立移歩、而豈遽其不能奔走千里、又況爲奔走千里者、而慮其或遺忘於起立移歩之習哉。文蔚識見本自超絶邁往、而所論云然者、亦是未能脱去舊時解說文義之習。是爲此三段書分疏比合、以求融會貫通、而自添許多意見纏繞、反使用功不專一也。近時懸空去做勿忘勿助者、其意見正有此病。最能擔誤人、不可不滌除耳。
(193) 所謂「尊德性而道問學」一節至當歸一、更無可疑。此便是文蔚曾著實用工、然後能爲此言。此本不是險僻難見的道理。人或意見不同者、還是良知尚有纖翳潛伏。若除去此纖翳、卽自無不洞然矣。
(194) 已作書後、移臥詹間、偶遇無事、遂復答此。文蔚之學旣已得其大者、此等處久當釋然自解、本不必屑屑如此分疏。但承相愛之厚、千里差人遠及、諄諄下問、而竟虚來意。又自不能已於言也。然直戇煩縷已甚、恃在信愛、當不爲罪。惟濬處及謙之・崇一處、各得轉錄一通寄視之、尤承一體之好也。
  右南大吉錄
   訓蒙大意示教讀劉伯頌等
(195) 古之教者、教以人倫。後世記誦詞章之習起、而先王之教亡。今教童子、惟當以孝弟忠信禮義廉恥爲專務。其栽培涵養之方、則宜誘之歌詩、以發其志意。導之習禮、以肅其威儀。諷之讀書、以開其知覺。今人往往以歌詩・習禮爲不切時務。此皆末俗庸鄙之見。烏足以知古人立教之意哉。
 大抵童子之情、樂嬉遊而憚拘檢。如草木之始萌芽。舒暢之則條達。摧撓之則衰痿。今教童子、必使其趨向鼓舞、中心喜悅、則其進自不能已。譬之時雨春風、霑被卉木、莫不萌動發越。自然日長月化。若冰霜剥落、則生意蕭索、日就枯槁矣。故凡誘之歌詩者、非但發其志意而已、亦所以洩其跳號呼嘯於詠歌、宣其幽抑結滯於音節也。導之習禮者、非但肅其威儀而已、亦所以周旋揖讓而動蕩其血脈、拜起屈伸而固束其筋骸也。諷之讀書者、非但開其知覺而已、亦所以沈潛反復而存其心、抑揚諷誦以宣其志也。凡此皆所以順導其志意、調理其性情、潛消其鄙吝、默化其麤頑、日使之漸於禮義而不苦其難、入於中和而不知其故。是蓋先王立教之微意也。
 若近世之訓蒙穉者、日惟督以句讀課倣、責其檢束而不知導之以禮。求其聰明而不知養之以善。鞭撻繩縛、若待拘囚。彼視學舍如囹獄、而不肯入。視師長如寇仇、而不欲見。窺避掩覆以遂其嬉遊、設詐飾詭以肆其頑鄙、偸薄庸劣、日趨下流。是蓋驅之於惡、而求其爲善也、何可得乎。凡吾所以教、其意實在於此。恐時俗不察、視以爲迂、且吾亦將去、故特叮嚀以告。爾諸教讀、其務體吾意、永以爲訓、毋輒因時俗之言、改廢其繩墨。庶成蒙以養正之功矣。念之念之。
  教約
(196) 每日清晨、諸生參揖畢、教讀以次徧詢諸生、在家所以愛親敬長之心、得無懈忽未能眞切否。温凊定省之儀、得無虧缺未能實踐否。往來街衢歩趨禮節、得無放蕩未能謹飭否。一應言行心術、得無欺妄非僻未能忠信篤敬否。諸童子務要各以實對、有則改之、無則加勉。教讀復隨時就事、曲加誨諭開發、然後各退就席肄業。
(197) 凡歌詩須要整容定氣、清朗其聲音、均審其節調、毋躁而急、毋蕩而囂、毋餒而懾。久則精神宣暢、心氣和平矣。每學量童生多寡、分爲四班。每日輪一班歌詩、其餘皆就席、斂容肅聽。每五日則總四班遞歌於本學。每朔望集各學、會歌於書院。
(198) 凡習禮須要澄心肅慮、審其儀節、度其容止、毋忽而惰、毋沮而怍、毋徑而野、從容而不失之迂緩、脩謹而不失之拘局。久則禮貌習熟、德性堅定矣。童生班次皆如歌詩。每閒一日則輪一班習禮、其餘皆就席斂容肅觀。習禮之日、免其課倣。每十日則總四班遞習於本學。每朔望則集各學會習於書院。
(199) 凡授書不在徒多、但貴精熟、量其資稟、能二百字者、止可授以一百字。常使精神力量有餘、則無厭苦之患、而有自得之美。颿誦(諷誦)之際。務令專心一志、口誦心惟、字字句句紬繹反覆、抑揚其音節、寬虚其心意、久則義禮浹洽、聰明日開矣。 」
(200) 每日工夫、先考德、次背書誦書、次習禮或作課倣、次復誦書講書、次歌詩。凡習禮歌詩之數、皆所以常存童子之心、使其樂習不倦、而無暇及於邪僻。教者知此、則知所施矣。雖然、此其大略也。神而明之、則存乎其人。
王文成公全書巻之二
王文成公全書巻之三

伝習録下】

  語錄三  傳習錄下
(201) 正德乙亥、九川初見先生於龍江。先生與甘泉先生論格物之說。甘泉持舊說。先生曰、「是求之於外了。」甘泉曰、「若以格物理爲外、是自小其心也。」
 九川甚喜舊說之是。先生又論盡心一章、九川一聞卻遂無疑。後家居、復以格物遺質。先生答云、「但能實地用功、久當自釋。」山間乃自錄『大學』舊本讀之、覺朱子格物之說非是。然亦疑先生以意之所在爲物、物字未明。己卯歸自京師、再見先生於洪都。先生兵務倥傯、乘隙講授。首問、「近年用功何如。」
 九川曰、「近年體驗得明明德功夫、只是誠意。自明明德於天下、歩歩推入根源、到誠意上再去不得。如何以前又有格致工夫。後又體驗、覺得意之誠僞必先知覺乃可。以顏子有不善未嘗不知、知之未嘗復行爲證、豁然若無疑。卻又多了格物工夫。又思來吾心之靈、何有不知意之善惡。只是物欲蔽了。須格去物欲、始能如顏子未嘗不知耳。又自疑功夫顛倒、與誠意不成片段。後問希顏。希顏曰、『先生謂格物致知、是誠意功夫、極好。』九川曰、『如何是誠意功夫。』希顏令再思體看。九川終不悟、請問。」
 先生曰、「惜哉。此可一言而悟。惟濬所擧顏子事、便是了。只要知身・心・意・知・物是一件。」
 九川疑曰、「物在外、如何與身・心・意・知是一件。」
 先生曰、「耳・目・口・鼻・四肢、身也。非心安能視聽言動。心欲視聽言動、無耳・目・口・鼻・四肢亦不能。故無心則無身、無身則無心。但指其充塞處言之、謂之身。指其主宰處言之、謂之心。指心之發動處、謂之意。指意之靈明處、謂之知。指意之渉着處、謂之物。只是一件。意未有懸空的、必着事物。故欲誠意、則隨意所在某事而格之。去其人欲而歸於天理、則良知之在此事者、無蔽而得致矣。此便是誠意的功夫。」九川乃釋然破數年之疑。
 又問、「甘泉近亦信用『大學古本』、謂格物猶言造道。又謂窮理如窮其巢穴之窮、以身至之也。故格物亦只是隨處體認天理、似與先生之說漸同。」
 先生曰、「甘泉用功、所以轉得來。當時與說親民字不須改、他亦不信。今論格物亦近。但不須換物字作理字、只還他一物字便是。」
 後有人問九川曰、「今何不疑物字。」
 曰、「『中庸』曰、『不誠無物。』程子曰、『物來順應。』又如『物各付物』、『胸中無物』之類、皆古人常用字也。」他日先生亦云然。
(202) 九川問、「近年因厭泛濫之學、每要靜坐、求屏息念慮、非惟不能、愈覺擾擾、如何。」
 先生曰、「念如何可息。只是要正。」
 曰、「當自有無念時否。」
 先生曰、「實無無念時。」
 曰、「如此卻如何言靜。」
 曰、「靜未嘗不動、動未嘗不靜。戒謹恐懼卽是念。何分動靜。」
 曰、「周子何以言、『定之以中正、仁而主靜。』」
 曰、「無欲故靜。是靜亦定、動亦定』定字、主其本體也。戒懼之念、是活潑地。此是天機不息處、所謂『維天之命、於穆不已。』一息便是死、非本體之念、卽是私念。」
(203) 又問、「用功收心時、有聲色在前、如常聞見、恐不是專一。」
 曰、「如何欲不聞見。除是槁木死灰。耳聾、目盲則可。只是雖聞見而不流去便是。」
 曰、「昔有人靜坐、其子隔壁讀書、不知其勤惰。程子稱其甚敬。何如。」
 曰、「伊川恐亦是譏地。」
(204)
王陽明の門人である陳九川が尋ねた。
静座をして自己を徹見しておりますと心が収斂するのを覚えます。
しかし、何か物事に遇うとその収斂したと思っていた心が再び散逸し、その物事にばかり注意が向いてしまいます。
その事が去れば再び静座の工夫をしてみるのですが、どうしても内外が一になることを実感するまでに至りません、と。
王陽明が答えて云った。
それは格物致知の未だ至らざるが故であって、本来は心に内外の別などはないのである。
お前が自ら述べておる通りで、どうして一心であるものが事々について別の心を致せようか。
先ほどの座禅における工夫は敬するに足るもので、ただそれのみを心掛ければよい。
他に何かする必要などはない。
誰しもがすべきことは日常の中にあって、その座禅における工夫の如きを実践するという事だけなのである。
さすれば必ずや達するところがあろう。
然るに只だ静であること自体を求めるようでは、真の静の境地に達することは出来ぬ。
特別な状況でのみに得た静などは、実際の場では何の役にも立たぬものである。
それは収斂に似てはいるが、実は心を放溺しているのである、と。

(205) 又問、「陸子之學何如。」
 先生曰、「濂溪・明道之後、還是象山。只是粗些。」
 九川曰、「看他論學、篇篇說出骨髓、句句似鍼膏肓、卻不見他粗。」
 先生曰、「然。他心上用過功夫、與揣摹依倣、求之文義、自不同。但細看有粗處。用功久、當見之。」
(206) 庚辰往虔州、再見先生、問、「近來功夫雖若稍知頭腦、然難尋箇穩當快樂處。」
 先生曰、「爾卻去心上尋箇天理、此正所謂理障。此閒有箇訣竅。」
 曰、「請問如何。」
 曰、「只是致知。」
 曰、「如何致。」
 曰、「爾那一點良知、是爾自家底準則。爾意念著處、他是便知是、非便知非、更瞞地一些不得。爾只不要欺他、實實落落依着他做去、善便存、惡便去。他這裏何等穩當快樂。此便是格物的眞訣、致知的實功。若不靠着這些眞機、如何去格物。我亦近年體貼出來如此分明。初猶疑只依他、恐有不足、精細看、無些小欠闕。」
(207) 在虔與于中・謙之同侍。先生曰、「人胸中各有箇聖人、只自信不及、都自埋倒了。」因顧于中曰、「爾胸中原是聖人。」于中起不敢當。先生曰、「此是爾自家有的、如何要推。」
 于中又曰、「不敢。」
 先生曰、「衆人皆有之、況在于中、卻何故謙起來。謙亦不得。」于中乃笑受。
 又論「良知在人、隨你如何不能泯滅、雖盜賊亦自知不當爲盜、喚他作賊、地還忸怩。」
 于中曰、「只是物欲遮蔽。良心在内、自不會失、如雲自蔽日、日何嘗失了。」
 先生曰、「于中如此聰明、他人見不及此。」
(208) 先生曰、「這些子看得透徹、隨他千言萬語是非誠僞、到前便明、合得的便是、合不得的便非。如佛家說心印相似、眞是箇試金石、指南針。」
(209) 先生曰、「人若知這良知訣竅、隨他多少邪思枉念、這裏一覺、都自消融。眞箇是靈丹一粒、點鐵成金。」
(210) 崇一曰、「先生致知之旨、發盡精蘊、看來這裏再去不得。」
 先生曰、「何言之易也。再用功半年看如何、又用功一年看如何。功夫愈久、愈覺不同。此難口說。」
(211) 先生問、「九川於致知之說體驗如何。」
 九川曰、「自覺不同。往時操持常不得箇恰好處、此乃是恰好處。」
 先生曰、「可知是體來與聽講不同。我初與講時、知爾只是忽易、未有滋味。只這箇要妙、再體到深處、日見不同。是無窮盡的。」
 又曰、「此致知二字、眞是箇千古聖傳之秘、見到這裏、百世以俟聖人而不惑。」
(212) 九川問曰、「伊川說到體用一原、顯微無閒處。門人已說是泄天機。先生致知之說、莫亦泄天機太甚否。」
 先生曰、「聖人已指以示人、只爲後人揜匿、我發明耳。何故說泄。此是人人自有的、覺來甚不打緊一般。然與不用實功人說、亦甚輕忽、可惜彼此無益。無實用功、而不得其要者、提撕之、甚沛然得力。」
(213) 又曰、「知來本無知、覺來本無覺、然不知則遂淪埋。」
(214) 先生曰、「大凡朋友、須箴規指摘處少、誘掖奬勸意多、方是。」
 後又戒九川云、「與朋友論學、須委曲謙下、寬以居之。」
(215) 九川臥病虔州。先生云、「病物亦難格、覺得如何。」
 對曰、「功夫甚難。」
 先生曰、「常快活便是功夫。」
(216) 九川問、「自省、念慮或渉邪妄、或預料理天下事。思到極處、井井有味、便繾綣難屏、覺得早則易、覺遲則難。用力克治、愈覺扞格、惟稍遷念他事、則隨兩忘。如此廓清、亦似無害。」
 先生曰、「何須如此。只要在良知上着功夫。」
 九川曰、「正謂那一時不知。」
 先生曰、「我這裏自有功夫。何縁得他來。只爲爾功夫斷了、便蔽其知。旣斷了、則繼續舊功便是、何必如此。」
 九川曰、「直是難鏖、雖知丟他不去。」
 先生曰、「須是勇。用功久、自有勇。故曰、『是集義所生者。』勝得容易、便是大賢。」
(217) 九川問、「此功夫卻於心上禮驗明白、只解書不通。」
 先生曰、「只要解心。心明白、書自然融會。若心上不通、只要書上文義通、卻自生意見。」
(218) 有一屬官、因久聽講先生之學、曰、「此學甚好。只是簿書訟獄繁難、不得爲學。」
 先生聞之、曰、「我何嘗教爾離了簿書訟獄、懸空去講學。爾旣有官司之事、便從官司的事上爲學、纔是眞格物。如問一詞訟、不可因其應對無狀、起箇怒心。不可因他言語圓轉、生箇喜心。不可惡其囑托、加意治之。不可因其請求、屈意從之。不可因自己事務煩冗、隨意苟且斷之。不可因旁之譖毀羅織、隨人意思處之。這許多意思皆私。只爾自知。須精細省察克治。惟恐此心有一毫偏倚、杜(枉)人是非、這便是格物致知。簿書訟獄之閒、無非實學。若離了事物爲學、卻是著空。」
(219) 虔州將歸、有詩別先生云、「良知何事繋多聞、妙合當時已種根、好惡從之爲聖學、將迎無處是乾元。」
 先生曰、「若未來講此學、不知說好惡從之、從箇甚麼。」
 敷英在座曰、「誠然。嘗讀先生『大學古本』序、不知所說何事。及來聽講許時、乃稍知大意。」
(220) 于中・國裳輩同侍食、先生曰、「凡飲食只是要養我身。食了要消化。若徒蓄積在肚裏、便成痞了。如何長得肌膚。後世學者博聞多識、留滯胸中、皆傷食之病也。」
(221) 先生曰、「聖人亦是學知、衆人亦是生知。」
 問曰、「何如。」
 曰、「這良知人人皆有、聖人只是保全無些障蔽、兢兢業業、亹亹翼翼、自然不息、便也是學、只是生的分數多、所謂之生知安行。衆人自孩提之童、莫不完具此知、只是障蔽多。然本體之知自難泯息。雖問學克治、也只憑他、只是學的分數多、所以謂之學知利行。」
(222) 黄以方問、「先生格致之說、隨時格物以致其知、則知是一節之知、非全體之知也。何以到得溥博如天、淵泉如淵地位。」
 先生曰、「人心是天淵。心之本體、無所不該。原是一箇天。只爲私欲障礙、則天之本體失了。心之理無窮盡。原是一箇淵。只爲私欲窒塞、則淵之本體失了。如今念念致良知、將此障礙窒塞、一齋去盡、則本體已復、便是天淵了。」
 乃指天以示之曰、「比如面前見天、是昭昭之天。四外見天、也只是昭昭之天。只爲許多房子牆壁遮蔽、便不見天之全體。若撤去房子牆壁、總是一箇天矣。不可道眼前天是昭昭之天、外面又不是昭昭之天也。於此便見一節之知、卽全體之知。全體之知、卽一節之知。總是一箇本體。」
(223) 先生曰、「聖賢非無功業氣節、但其循著這天理、則便是道、不可以事功氣節名矣。」
(224) 發憤忘食、是聖人之志如此、眞無有已時。樂以忘憂、是聖人之道如此、眞無有戚時。恐不必云得不得也。
(225) 先生曰、「我輩致知、只是各隨分限所及。今日良知見在如此、只隨今日所知擴充到底、明日良知又有開悟、便從明日所知擴充到底、如此方是精一功夫。與人論學、亦須隨人分限所及。如樹有這些萌芽、只把這些水去灌漑、萌芽再長、便又加水。自拱把以至合抱、灌漑之功、皆是隨其分限所及。若些小萌芽、有一桶水在、盡要傾上、便浸壞他了。」
226
知行合一を問う。先生曰く、「此れ須らく我が立言の宗旨を識るべし。今人の学問は、只だ知行を分ちて両伴と作すに因りて、故に一念発動して、是れ不善なりと雖も、然れども卻て未だ曾て行われざれば、便ち禁止し去かさざること有り、我今箇の知行合一を説くは、正に人の一念発動のところは便ち是れ行了なることを暁得し、発動の処に不善有らば、就(すなわ)ち這(こ)の不善の念を将(もつ)て克倒し了らんことを要す。徹根徹底、那(か)の一念の不善をして潜伏して胸中に在らしめざることを須要す。此れは是れ我が立言の宗旨なり。

(227) 聖人無所不知、只是知箇天理。無所不能、只是能箇天理。聖人本體明白、故事事知箇天理所在、便去盡箇天理。不是本體明後、卻於天下事物都便知得、便做得來也。天下事物、如名物度數、草木鳥獸之類、不勝其煩。聖人須是本體明了、亦何縁能盡知得。但不必知的、聖人自不消求知、其所當知的、聖人自能問人。如子入太廟、每事問之類。先儒謂、雖知亦問、敬謹之至。此說不可通。聖人於禮樂名物、不必盡知。然他知得一箇天理、便自有許多節文度數出來、不知能問、亦卽是天理節文所在。
(228) 問、「先生嘗謂善惡只是一物。善惡兩端、如冰炭相反、如何謂只一物。」
 先生曰、「至善者、心之本體。本體上才過當些子、便是惡了。不是有一箇善、卻又有一箇惡來相對也。故善惡只是一物。」
 直因聞先生之說、則知程子所謂「善固性也、惡亦不可不謂之性。」
 又曰、「善惡皆天理。謂之惡者、本非惡。但於本性上過與不及之閒耳。」其說皆無可疑。
(229) 先生嘗謂、「人但得好善、如好好色、惡惡、如惡惡臭、便是聖人。」
 直初聞之、覺甚易。後體驗得來、此箇功夫著實是難。如一念雖知好善惡惡、然不知不覺、又夾雜去了。才有夾雜、便不是好善如好好色、惡惡如惡惡臭的心。善能實實的好、是無念不善矣。惡能實實的惡、是無念及惡矣。如何不是聖人。故聖人之學、只是一誠而已。
(230) 問修道說言、「率性之謂道」屬聖人分上事、「修道之謂教」屬賢人分上事。
 先生曰、「衆人亦率性也。但率性在聖人分上較多、故率性之謂道、屬聖人事。聖人亦修道也。但修道在賢人分上多、故修道之謂教、屬賢人事。」
 又曰、「『中庸』一書、大抵皆是說修道的事。故後面凡說君子、說顏淵、說子路、皆是能修道的。說小人、說賢知・愚不肖、說庶民、皆是不能修道的。其他言舜・文・周公・仲尼、至誠至聖之類、則又聖人之自能修道者也。」
(231) 問、「儒者到三更時分、掃蕩胸中思慮、空空靜靜、與釋氏之靜只一般。兩下皆不用、此時何所分別。」
 先生曰、「動靜只是一箇。那三更時分、空空靜靜的、只是存天理、卽是如今應事接物的心。如今應事接物的心、亦是循此天理、便是那三更時分空空靜靜的心。故動靜只是一箇、分別不得。知得動靜合一、釋氏毫釐差處、亦自莫揜矣。」
(232) 門人在座、有動止甚矜持者。先生曰、「人若矜持太過、終是有蔽。」
 曰、「矜持太過、如何有蔽。」
 曰、「人只有許多精神。若專在容貌上用功、則於中心照管不及者多矣。」
 有太直率者。先生曰、「如今講此學、卻外面全不檢束、又分心與事爲二矣。」
(233) 門人作文送友行、問先生曰、「作文字不免費思。作了後又一二日常記在懷。」
 曰、「文字思索亦無害。但作了常記在懷、則爲文所累。心中有一物矣。此則未可也。」
 又作詩送人。先生看詩畢、謂曰、「凡作文字要隨我分限所及。若說得太過了、亦非修辭立誠矣。」
(234) 文公格物之說、只是少頭腦。如所謂「察之於念慮之微」、此一句不該與「求之文字之中、驗之於事爲之著、索之講論之際」混作一例看。是無輕重也。」
(235) 問有所忿懥一條。先生曰、「忿懥幾件、人心怎能無得、只是不可有耳。凡人忿懥、著了一分意思、便怒得過當、非廓然大公之體了。故有所忿懥、便不得其正也。如今於凡忿懥等件、只是箇物來順應、不要着一分意思、便心體廓然大公、得其本體之正了。且如出外見人相鬭。其不是的、我心亦怒。然雖怒、卻此心廓然、不曾動些子氣。如今怒人、亦得如此、方纔是正。」
(236) 先生嘗言、「佛氏不著相、其實著了相。吾儒著相、其實不著相。」
 請問。曰、「佛怕父子累、卻逃了父子。怕君臣累、卻逃了君臣。怕夫婦累、卻逃了夫婦。都是爲箇君臣・父子・夫婦著了相、便須逃避。如吾儒有箇父子、還他以仁。有箇君臣、還他以義。有箇夫婦、還他以別。何曾著父子・君臣・夫婦的相。
(237) 黄勉叔問、「心無惡念時、此心空空蕩蕩的。不知亦須存箇善念否。」
 先生曰、「旣去惡念、便是善念、便復心之本體矣。譬如日光被雲來遮蔽、雲去光已復矣。若惡念旣去、又要存箇善念、卽是日光之中添燃一燈。」 已下門人黄修易錄
(238) 問、「近來用功、亦頗覺妄念不生。但腔子裏黑窣窣的、不知如何打得光明。」
 先生曰、「初下手用功、如何腔子裏便得光明。譬如奔流濁水、繞貯在缸裏、初然雖定、也只是昏濁的。須俟澄定旣久、自然渣滓盡去、復得清來。汝只要在良知上用功。良知存久、黑窣窣自能光明矣。今便要責效、卻是助長、不成工夫。」
(239) 先生曰、「吾教人致良知、在格物上用功、卻是有根本的學問。日長進一日、愈久、愈覺精明。世儒教人事事物物上去尋討、卻是無根本的學問。方其壯時、雖暫能外面修飾、不見有過。老則精神衰邁、終須放倒。譬如無根之樹、移栽水邊、雖暫時鮮好、終久要憔悴。」
(240) 問志於道一章。先生曰、「只志道一句、便含下面數句功夫、自住不得。譬如做此屋、志于道是念念要去擇地鳩材、經營成箇區宅。據德卻是經畫已成、有可據矣。依仁、卻是常常住在區宅内、更不離去。游藝、卻是加些畫采、美此區宅。藝者義也、理之所宜者也。如誦詩・讀書・彈琴・習射之類、皆所以調習此心、使之熟於道也。苟不志道而游藝、卻如無狀小子、不先去置造區宅、只管要去買畫掛做門面。不知將掛在何處。」
(241) 問、「讀書所以調攝此心、不可缺的。但讀之之時、一種科目意思、牽引而來、不知何以免此。」
 先生曰、「只要良知眞切、雖做擧業、不爲心累。總有累、亦易覺克之而已。且如讀書時、良知知得強記之心不是、卽克去之、有欲速之心不是、卽克去之、有誇多鬭靡之心不是、卽克去之。如此亦只是終日與聖賢印對。是箇純乎天理之心。任他讀書、亦只是調攝此心而已、何累之有。」
 曰、「雖蒙開示、奈資質庸下、實難免累。竊聞窮通有命。上智之人、恐不屑此、不肖爲聲利牽纏、甘心爲此、徒自苦耳。欲屏棄之、又制於親、不能舍去、奈何。」
 先生曰、「此事歸辭於親者多矣。其實只是無志。志立得時、良知千事萬爲只是一事。讀書作文、安能累人。人自累於得失耳。」
 因嘆曰、「此學不明。不知、此處擔閣了幾多英雄漢。」
(242) 問、「生之謂性、告子亦說得是。孟子如何非之。」
 先生曰、「固是性。但告子認得一邊去了、不曉得頭腦。若曉得頭腦、如此說亦是。孟子亦曰、『形色、天性也』、這也是指氣說。」
 又曰、「凡人信口說、任意行、皆說此是依我心性出來、此是所謂生之謂性。然卻要有過差。若曉得頭腦、依吾良知上說出來、行將去、便自是停當。然良知亦只是這口說、這身行。豈能外得氣、別有箇去行去說。故曰、『論性不備(衍字)論氣、不備、論氣不論性、不明。』氣亦性也、性亦氣也。但須認得頭腦是當。」
(243) 又曰、「諸君功夫、最不可助長。上智絶少、學者無超入聖人之理。一起一伏、一進一退、自是功夫節次。不可以我前日用得功夫了、今卻不濟、便要矯強做出一箇没破綻的模樣。這便是助長、連前些子功夫都壞了。此非小過。譬如行路的人、遭一蹶跌、起來便走。不要欺人做那不曾跌倒的樣子出來。諸君只要常常懷箇遁世無悶、不見是而無悶之心。依此良知忍耐做去、不管人非笑、不管人毀謗、不管人榮辱。任他功夫有進有退、我只是這致良知的主宰不息、久久自然有得力處。一切外事亦自能不動。」
 又曰、「人若著實用功、隨人毀謗、隨人欺慢、處處得益、處處是進德之資。若不用功、只是魔也。終被累倒。」
(244) 先生一日出遊禹穴、顧田閒禾曰、「能幾何時、又如此長了。」
 范兆期在傍曰、「此只是有根。學問能自植根、亦不患無長。」
 先生曰、「人孰無根。良知卽是天植靈根、自生生不息。但著了私累、把此根戕賊蔽塞、不得發生耳。」
(245)
ある一人の友人は、いつも怒りっぽくて人の欠点をよく責める癖があった。先生彼を警(いまし)めて曰く、
「学問するには自己を反省することが大切である。もし徒らに人を責めていると、人のよくないところだけが見えて、自分の欠点は見えないものである。反対にもし自己をよく反省すると、自分に多くの至らぬ点のあることが見えて来るので、どうして人を責めている暇などあろう。

昔、舜は弟の象の傲慢をうまく感化したが、その秘訣は、ただ象のよくない点だけを注意していたら、象は傲慢な男だから、必ず舜に従うことをしなかったに違いない。たとえ舜でもどうして彼を感化し得たであろうか。」

この友人は、先生のこの言葉を深く感じ入って後悔した。そこで先生曰く、
「君はこれから他人の善し悪しを批評することはやめたほうがよい。もし他人を責めたく思ったら、それを一つの大きな私欲と見なして、克服して行くようにすればよいであろう。」

(246) 先生曰、「凡朋友問難、縱有淺近粗疏、或露才揚己、皆是病發。當因其病而藥之可也。不可便懷鄙薄之心。非君子與人爲善之心矣。」
(247) 問、「『易』、朱子主卜筮、程傳主理、何如。」
 先生曰、「卜筮是理、理亦是卜筮。天下之理、孰有大於卜筮者乎。只爲後世將卜筮專主在占卦上看了、所以看得卜筮似小藝。不知今之師友問答・博學・審問・愼思・明辨・篤行之類、皆是卜筮。卜筮者、不過求決狐疑、神明吾心而已。『易』是問諸天。人有疑、自信不及、故以『易』問天。謂人心尚有所渉、惟天不容僞耳。」
(248) 黄勉之問、「無適也、無莫也。義之與比。事事要如此否。」
 先生曰、「固是事事要如此。須是識得箇頭腦乃可。義卽是良知。曉得良知是箇頭腦、方無執著。且如受人餽送。也有今日當受的、他日不當受的。也有今日不當受的、他日當受的。你若執着了今日當受的、便一切受去。執着了今日不當受的、便一切不受去。便是適莫。便不是良知的本體。如何喚得做義。」 已下門人黄省曾錄
(249) 問、「思無邪一言、如何便蓋得三百篇之義。」
 先生曰、「豈特三百篇。六經只此一言、便可該貫。以至窮古今天下聖賢的話、思無邪一言、也可該貫。此外便有何說。此是一了百當的功夫。」
(250) 問道心人心。先生曰、「率性之爲道、便是道心。但著些人的意思在、便是人心。道心、本是無聲無臭。故曰微。依著人心行去、便有許多不安穩處、故曰危。」
(251) 問、「中人以下、不可以語上。愚的人與之語上、尚且不進、況不與之語可乎。」
 先生曰、「不是聖人終不與語。聖人的心、憂不得人人都做聖人。只是人的資質不同、施教不可躐等。中人以下的人、便與他說性、說命、他也不省得也。須謾謾琢磨他起來。」
(252) 一友問、「讀書不記得如何。」
 先生曰、「只要曉得、如何要記得。要曉得已是落第二義了。只要明得自家本體。若徒要記得、便不曉得。若徒要曉得、便明不得自家的本體。」
(253) 問、「逝者如斯、是說自家心性活潑潑地否。」
 先生曰、「然。須要時時用致良知功夫、方才活潑潑地、方才與他川水一般。若須臾閒斷、便與天地不相似。此是學問極至處、聖人也只如此。」
(254) 問志士・仁人章。先生曰、「只爲世上人都把生身命子看得太重、不問當死不當死、定要宛轉委曲保全、以此把天理卻丟去了、忍心害理、何者不爲。若違了天理、便與禽獸無異。便偸生在世上百千年、也不過做了千百年的禽獸。學者要於此等處看得明白。比干・龍逄(龍逢)、只爲他看得分明、所以能成就得他的人(仁)。」
(255) 問、「叔孫武叔毀仲尼。大聖人如何猶不免於毀謗。」
 先生曰、「毀謗自外來的。雖聖人如何免得。人只貴於自修。若自己實實落落是箇聖賢、縱然人都毀他、也說他不著。卻若浮雲揜日、如何損得日的光明。若自己是箇象恭色莊、不堅不介的、縱然没一箇人說他、他的惡慝終須一日發露。所以孟子說、『有求全之毀、有不虞之譽。』毀譽在外的、安能避得、只要自修何如爾。」
(256) 劉君亮要在山中靜坐。先生曰、「汝若以厭外物之心去求之靜、是反養成一箇驕惰之氣了。汝若不厭外物、復於靜處涵養、卻好。」
(257) 王汝中・省曾侍坐。先生握扇命曰、「你們用扇。」
 省曾起對曰、「不敢。」
 先生曰、「聖人之學不是這等綑縛苦楚的。不是妝做道學的模樣。」
 汝中曰、「觀仲尼與曾點言志一章、略見。」
 先生曰、「然。以此章觀之、聖人何等寬洪包含氣象。且爲師者問志於羣弟子、三子皆整頓以對。至於曾點、飄飄然不看那三子在眼、自去鼓起瑟來、何等狂態。及至言志、又不對師之問目、都是狂言。設在伊川、或斥罵起來了。聖人乃復稱許他。何等氣象。聖人教人、不是箇束縛他、通做一般。只如狂者、便從狂處成就他、狷者便從狷處成就他。人之才氣如何同得。」
(258) 先生語陸元靜曰、「元靜少年亦要解五經、志亦好博。但聖人教人、只怕人不簡易。他說的皆是簡易之規。以今人好博之心觀之、卻似聖人教人差了。」
(259) 先生曰、「孔子無不知而作。顏子有不善、未嘗不知。此是聖學眞血脈路。」
(260) 何廷仁・黄正之・李侯璧・汝中・德洪侍坐。先生顧而言曰、「汝輩學問不得長進、只是未立志。
 侯璧起而對曰、「珙亦願立志。」
 先生曰、「難說不立、未是必爲聖人之志耳。」
 對曰、「願立必爲聖人之志。」
 先生曰、「你眞有聖人之志、良知上更無不盡。良知上留得些子、別念掛帶、便非必爲聖人之志矣。」洪初聞時心若未服、聽說到、不覺汗。
(261) 先生曰、「良知是造化的精靈。這些精靈、生天生地、成鬼成帝。皆從此出。眞是與物無對。人若復得他、完完全全、無少虧欠、自不覺手舞足蹈。不知天地閒更有何樂可代。」
(262) 一友靜坐有見、馳問先生。答曰、「吾昔居滁時、見諸生多務知解、口耳異同、無益於得、姑教之靜坐。一時窺見光景、頗收近效。久之漸有喜靜厭動、流入枯槁之病。或務爲玄解妙覺、動人聽聞。故邇來只說致良知。良知明白、隨你去靜處體悟也好。隨你去事上磨錬也好。良知本體、原是無動無靜的。此便是學問頭腦。我這箇話頭、自滁州到今、亦較過幾番。只是致良知三字無病。醫經折肱、方能察人病理。」
(263) 一友問、「功夫欲得此知時時接續、一切應感處、反覺照管不及。若去事上周旋、又覺不見了。如何則可。」
 先生曰、「此只認良知未眞。尚有内外之閒。我這裏功夫、不由人急心。認得良知頭腦是當、去朴實用功、自會透徹到此。便是内外兩忘。又何心事不合一。」
(264) 又曰、「功夫不是透得這箇眞機、如何得他充實光輝。若能透得時、不由你聰明知解接得來。須胸中渣滓渾化、不使有毫髮沾帶始得。」
(265) 先生曰、「天命之謂性。命卽是性。率性之謂道。性卽是道。修道之謂教。道卽是教。」
 問、「如何道卽是教。」
 曰、「道卽是良知。良知原是完完全全。是的還他是、非的還他非。是非只依著他、更無有不是處。這良知還是你的明師。」
(266) 問、「不睹不聞是說本禮、戒愼恐懼是說功夫否。」
 先生曰、「此處須信得本體原是不睹不聞的、亦原是戒愼恐懼的。戒愼恐懼、不曾在不睹不聞上加得些子。見得眞時、便謂戒愼恐懼是本體、不睹不聞是功夫、亦得。」
(267) 問、「通乎晝夜之道而知。」
 先生曰、「良知原是知晝知夜的。」
 又問、「人睡熟時、良知亦不知了。」
 曰、「不知、何以一叫便應。」
 曰、「良知常知、如何有睡熟時。」
 曰、「向晦宴息、此亦造化常理。夜來天地混沌、形色倶泯、人亦耳目所無(無所)睹聞、衆竅倶翕。此卽良知收斂凝一時。天地旣開、庶物露生。人亦耳目有所睹聞、衆竅倶闢。此卽良知妙用發生時。可見人心與天地一體。故上下與天地同流。今人不會宴息、夜來不是昏睡、卽是妄思魘寐。」
 曰、「睡時功夫如何用。」
 先生曰、「知晝卽知夜矣。日閒良知是順應無滯的。夜間良知卽是收歛(斂)凝一的。有夢卽先兆。」
(268) 又曰、「良知在夜氣發的、方是本體。以其無物欲之雜也。學者要使事物紛擾之時、常如夜氣一般。就是通乎晝夜之道而知。」
(269) 先生曰、「僊家說到虚、聖人豈能虚上加得一毫實。佛氏說到無、聖人豈能無上加得一毫有。但僊家說虚、從養生上來、佛氏說無、從出離生死苦海上來。卻於本體上加卻這些子意思在。便不是他虚無的本色了。便於本體有障礙。
 聖人只是還他良知的本色、更不着些子意在。良知之虚、便是天之太虚。良知之無、便是太虚之無形。日月風雷・山川民物、凡有貌象形色、皆在太虚無形中發用流行、未嘗作得天的障礙。聖人只是順其良知之發用、天地萬物倶在我良知的發用流行中、何嘗又有一物、超於良知之外、能作得障礙。」
(270) 或問、「釋氏亦務養心。然要之不可以治天下、何也。」
 先生曰、「吾儒養心、未嘗離卻事物。只順其天則自然。就是功夫。釋氏卻要盡絶事物、把心看做幻相、漸入虚寂去了。與世間若無些子交渉。所以不可治天下。」
(271) 或問異端。先生曰、「與愚夫愚婦同的、是謂同德。與愚夫愚婦異的、是謂異端。」
(272) 先生曰、「孟子不動心、與告子不動心所異、只在毫釐閒。告子只在不動心上著功、孟子便直從此心原不動處。分曉心之本體、原是不動的、只爲所行有不合義、便動了。孟子不論心之動與不動、只是集義。所行無不是義、此心自然無可動處。若告子只要此心不動、便是把捉此心、將他生生不息之根反阻撓了。此非徒無益、而又害之。孟子集義工夫、自是養得充滿、並無餒歉。自是縱横自在、活潑潑地。此便是浩然之氣。」
(273) 又曰、「孟子(告子)病源、從性無善無不善上見來。性無善無不善、雖如此說、亦無大差。但告子執定看了、便有箇無善無不善的性在内、有善有惡又在物感上看、便有箇物在外、卻做兩邊看了、便會差。無善無不善、性原是如此。悟得及時、只此一句便盡了。更無有内外之閒。告子見一箇性在内、見一箇物在外、便見他於性有未透徹處。」
(274) 朱本思問、「人有虚靈、方有良知。若草木瓦石之類、亦有良知否。」
 先生曰、「人的良知、就是草木瓦石的良知。若草木瓦石、無人的良知、不可以爲草木瓦石矣。豈惟草木瓦石爲然。天地無人的良知、亦不可爲天地矣。
 蓋天地萬物與人原是一體。其發竅之最精處、是人心一點靈明。風雨露雷・日月星辰・禽獸草木・山川土石、與人原只一體。故五穀禽獸之類、皆可以養人。藥石之類、皆可以療疾。只爲同此一氣、故能相通耳。」
(275) 先生遊南鎮、一友指岩中花樹問曰、「天下無心外之物。如此花樹、在深山中自開自落。於我心亦何相關。」
 先生曰、「你未看此花時、此花與汝心同歸於寂。你來看此花時、則此花顏色一時明白起來。便知、此花不在你的心外。」
(276) 問、「大人與物同體、如何『大學』又說箇厚薄。」
 先生曰、「惟是道理自有厚薄。比如身是一體。把手足捍頭目、豈是偏要薄手足。其道理合如此。禽獸與草木、同是愛的。把草木去養禽獸、又忍得。人與禽獸、同是愛的。宰禽獸以養親、與供祭祀、燕賓客、心又忍得。至親與路人、同是愛的。如簟(簞)食豆羹、得則生、不得則死、不能兩全、寧救至親、不救路人、心又忍得。這是道理合該如此。及至吾身與至親、更不得分別彼此厚薄。蓋以仁民愛物、皆從此出。此處可忍、更無所不忍矣。
 『大學』所謂厚薄、是良知上自然的條理、不可踰越。此便謂之義。順這箇條理、便謂之禮。知此條理、便謂之智。終始是這條理、便謂之信。」
(277) 又曰、「目無體、以萬物之色爲體。耳無體、以萬物之聲爲體。鼻無體、以萬物之臭爲體。口無體、以萬物之味爲體。心無體、以天地萬物感應之是非爲體。」
(278) 問夭壽不貳。先生曰、「學問功夫、於一切聲利嗜好、倶能脱落殆盡、尚有一種生死念頭毫髮掛帶、便於全體有未融釋處。人於生死念頭、本從生身命根上帶來。故不易去。若於此處見得破、透得過、此心全體、方是流行無礙、方是盡性至命之學。」
(279) 一友問、「欲於靜坐時、將好名好色好貨等根、逐一搜尋、掃除廓清、恐是剜肉做瘡否。」
 先生正色曰、「這是我醫人的方子、眞是去得人病根、更有大本事。人過了十數年、亦還用得著。你如不用、且放起、不要作壞我的方子。」
 是友愧謝。少閒曰、「此量非你事。必吾門稍知意思者爲此說、以誤汝。」在坐者皆悚然。
(280) 一友問功夫不切。先生曰、「學問功夫、我已曾一句道盡。如何今日轉說轉遠、都不著根。」
 對曰、「致良知蓋聞教矣。然亦須講明。」
 先生曰、「旣知致良知、又何可講明。良知本是明白、實落用功便是。不肯用功、只在語一言上轉說轉糊塗。」
 曰、「正求講明致之之功。」
 先生曰、「此亦須你自家求、我亦無別法可道。昔有禅師、人來問法。只把麈尾提起。一日、其徒將其麈尾藏過、試他如何設法。禅師尋麈尾不見、又只空手提起。我這箇良知、就是設法的麈尾。舍了這箇、有何可提得。」
 少閒、又一友請問功夫切要。先生旁顧曰、「我麈尾安在。」一時在坐者皆躍然。
(281) 或問至誠前知。先生曰、「誠是實理、只是一箇良知。實理之妙用流行、就是神。其萌動處就是幾。誠神幾曰、聖人。聖人不貴前知。禍福之來、雖聖人有所不免。聖人只是知幾、遇變而通耳。良知無前後、只知得見在的幾、便是一了百了。若有箇前知的心、就是私心。就有趨避利害的意。邵子必於前知。終是利害心未盡處。」
(282) 先生曰、「無知無不知、本體原是如此。譬如日未嘗有心照物、而自無物不照。無照無不照、原是日的本體。良知本無知。今卻要有知、本無不知。今卻疑有不知、只是信不及耳。」
(283) 先生曰、「惟天下之聖、爲能聰明睿知。舊看何等玄妙。今看來原是人人自有的。耳原是聰、目原是明、心思原是睿知。聖人只是一能之爾。能處正是良知。衆人不能。只是箇不致知。何等明白簡易。」
(284) 問、「孔子所謂遠慮、周公夜以日、與將迎不同、何如。」
 先生曰、「遠慮、不是茫茫蕩蕩去思慮。只是要存這天理。天理在人心、亘古亘今、無有終始。天理卽是良知。千思萬慮、只是要致良知。良知愈思、愈精明。若不精思、漫然隨事應去、良知便粗了。若只著在事上、茫茫蕩蕩去思、教做遠慮、便不免有毀譽・得喪・人欲、攙入其中。就是將迎了。周公終夜以思、只是戒愼不睹、恐懼不聞的功夫。見得時、其氣象與將迎自別。」
(285) 問、「一日克己復禮、天下歸仁。朱子作效驗說、如何。」
 先生曰、「聖賢只是爲己之學、重功夫不重效驗。仁者以萬物爲體。不能一體、只是己私未忘。全得仁體、則天下皆歸於吾仁。就是八荒皆在我闥意。天下皆與其仁、亦在其中。如在邦無怨、在家無怨、亦只是自家不怨。如不怨天、不尤人之意。然家邦無怨於我、亦在其中。但所重不在此。」
(286) 問、「孟子巧力聖智之說、朱子云、『三子力有餘、巧不足。』何如。」
 先生曰、「三子固有力亦有巧。巧力實非兩事。巧亦只在用力處。力而不巧、亦是徒力。三子譬如射、一能歩箭、一能馬箭、一能遠箭。他射得到倶謂之力、中處倶可謂之巧。但歩不能馬、馬不能遠、各有所長。便是才力分限有不同處。孔子則三者皆長。然孔子之和、只到得柳下惠而極、清只到得伯夷而極、任只到得伊尹而極、何曾加得些子。若謂『三子力有餘、而巧不足』、則其力反過孔子了。巧力只是發明聖知之義。若識得聖知本體是何物、便自然了(自了然)。」
(287) 先生曰、「先天而天弗違。天卽良知也。後天而奉天時。良知卽天也。」
(288) 「良知只是箇是非之心。是非只是箇好惡。只好惡就盡了是非。只是非就盡了萬事萬變。」
 又曰、「是非兩字、是箇大規矩。巧處則存乎其人。」
(289) 聖人之知、如青天之日、賢人如浮雲天日、愚人如陰霾天日。雖有昏明不同、其能辨黑白則一。雖昏黑夜裏、亦影影見得黑白、就是日之餘光未盡處。困學功夫、亦只從這點明處精察去耳。
(290) 問、「知譬日、欲譬雲、雲雖能蔽日、亦是天之一氣合有的。欲亦莫非人心合有否。」
 先生曰、「喜怒哀懼愛惡欲、謂之七情。七者倶是人心合有的。但要認得良知明白。比如日光、亦不可指著方所。一隙通明、皆是日光所在。雖雲霧四塞、太虚中色象可辨、亦是日光不滅處。不可以雲能蔽日、教天不要生雲。七情順其自然之流行、皆是良知之用。不可分別善惡。但不可有所著。七情有著、倶謂之欲、倶爲良知之蔽。然纔有著時、良知亦自會覺。覺卽蔽去、復其體矣。此處能勘得破、方是簡易透徹功夫。」
(291) 問、「聖人生知安行、是自然的。如何有甚功夫。」
 先生曰、「知行二字、卽是功夫。但有淺深難易之殊耳。良知原是精精明明的。如欲孝親、生知安行的、只是依此良知實落盡孝而已。學知利行者、只是時時省覺、務要依此良知盡孝而已。至於困知勉行者、蔽錮已深。雖要依此良知去孝、又爲私欲所阻、是以不能。必須加人一己百、人十己千之功、方能依此良知以盡其孝。聖人雖是生知安行、然其心不敢自是、肯做困知勉行的功夫。困知勉行的、卻要思量做生知安行的事、怎生成得。」
(292) 問、「樂是心之本體、不知遇大故於哀哭時、此樂還在否。」
 先生曰、「須是大哭一番了方樂。不哭便不樂矣。雖哭、此心安處是樂也。本體未嘗有動。」
(293) 問、「良知一而已。文王作彖、周公繋爻、孔子贊『易』、同以各自看理不同。」
 先生曰、「聖人何能拘得死格。大要出於良知同、便各爲說何害。且如一園竹、只要同此枝節、便是大同。若拘定枝枝節節、都要高下大小一樣、便非造化妙手矣。汝輩只要去培養良知。良知同、更不妨有異處。汝輩若不肯用功、連笋也不曾抽得。何處去論枝節。」
(294) 郷人有父子訟獄。請訴於先生。侍者欲阻之。先生聽之。言不終辭、其父子相抱慟哭而去。柴鳴治入問曰、「先生何言、致伊感悔之速。」
 先生曰、「我言舜是世閒大不孝的子、瞽是世閒大慈的父。」
 鳴治愕然請問。先生曰、「舜常自以爲大不孝、所以能孝。瞽瞍常自以爲大慈、所以不能慈。瞽瞍只記得舜是我提孩長的、今何不曾豫悅我。不知自心已爲後妻所移了、尚謂自家能慈、所以愈不能慈。舜只思父提孩我時如何愛我。今日不愛、只是我不能盡孝。日思所以不能盡孝處、所以愈能孝。及至瞽瞍底豫時、又不過復得此心原慈的本體。所以後世稱舜是箇古今大孝的子、瞽瞍亦做成箇慈父。」
(295) 先生曰、「孔子有鄙夫來問、未嘗先有知識以應之。其心只空空而已。但叩他自知的是非兩端、與之一剖決、鄙夫之心便已了然。鄙夫自知的是非、便是他本來天則。雖聖人聰明、如何可與増減得一毫。他只不能自信。夫子與之一剖決、便已竭盡無餘了。若夫子與鄙夫言時、留得些子知識在、便是不能竭他的良知、道體卽有二了。」
296) 先生曰、「烝烝乂、不格姦。本註說象已進於義、不至大爲姦惡。舜徴庸後、象猶日以殺舜爲事。何大姦惡如之。舜只是自進於乂、以乂薰烝、不去正地姦惡。凡文過揜慝、此是惡人常態。若要指摘他是非、反去激他惡性。舜初時致得象要殺己、亦是要象好的心太急。此就是舜之過處。經過來、乃知功夫只在自己、不去責人。所以致得克諧。此是舜動心忍性、増益不能處。古人言語、倶是自家經歴過來、所以說得親切、遺之後世、曲當人情。若非自家經過、如何得他許多苦心處。」
(297) 先生曰、「古樂不作久矣。今之戲子、尚與古樂意思相近。」
 未達、請問。先生曰、「韶之九成、便是舜的一本戲子。武之九變、便是武王的一本戲子。聖人一生實事、倶播在樂中。所以有德者聞之、便知他盡善盡美、與盡美未盡善處。若後世作樂、只是做些詞調。於民俗風化、絶無關渉。何以化民善俗。今要民俗反朴還淳、取今之戲子、將妖淫詞調倶去了、只取忠臣孝子故事、使愚俗百姓人人易曉、無意中感激他良知起來、卻於風化有益。然後古樂漸次可復矣。」
 曰、「洪要求元聲不可得。恐於古樂亦難復。」
 先生曰、「你說、元聲在何處求。」
 對曰、「古人制管候氣、恐是求元聲之法。」
 先生曰、「若要去葭灰黍粒中求元聲、卻如水底撈月。如何可得。元聲只在你心上求。」
 曰、「心如何求。」
 先生曰、「古人爲治、先養得人心和平、然後作樂。比如在此歌詩、你的心氣和平、聽者自然悅懌興起。只此便是元聲之始。『書』云、『詩言志。』志便是樂的本。歌永言。歌便是作樂的本。聲依永、律和聲。律只要和聲、和聲便是制律的本。何嘗求之於外。」
 曰、「古人制候氣法、是意何取。」
 先生曰、「古人具中和之體以作樂。我的中和原與天地之氣相應。候天地之氣、協鳳凰之音、不過去驗我的氣果和否。此是成律已後事、非必待此以成律也。今要侯灰管、先須定至曰。然至日子時、恐又不準。又何處取得準來。」
(298) 先生曰、「學問也要點化。但不如自家解化者、自一了百當。不然、亦點化許多不得。」
(299) 孔子氣魄極大、凡帝王事業、無不一一理會、也只從那心上來。譬加(如)大樹有多少枝葉、也只是根本上用得培養功夫。故自然能如此。非是從枝葉上用功做得根本也。學者學孔子、不在心上用功、汲汲然去學那氣魄、卻倒做了。
(300) 人有過、多於過上用功、就是補甑。其流必歸於文過。
(301) 今人於喫飯時、雖然一事在前、其心常役役不寧。只縁此心忙慣了。所以收攝不住。
(302) 琴瑟簡編、學者不可無。蓋有業以居之、心就不放。
(303) 先生嘆曰、「世閒知學的人、只有這些病痛打不破、就不是善與人同。」
 崇一曰、「這病痛、只是箇好高、不能忘己爾。」
(304) 問、「良知原是中和的。如何卻有過不及。」
 先生曰、「知得過不及處、就是中和。」
(305) 所惡於上、是良知。毋以使下、卽是致知
(306) 先生曰、「蘇秦張儀之智、也是聖人之資。後世事業文章、許多豪傑名家、只是學得儀・秦故智。儀・秦學術、善揣摸人情、無一些不中人肯綮。故其說不能窮。儀・秦亦是窺見得良知妙用處。但用之於不善爾。」
(307) 或問未發已發。先生曰、「只縁後儒、將未發已發分說了、只得劈頭說箇無未發已發、使人自思得之。若說有箇已發未發、聽者依舊落在後儒見解。若眞見得無未發已發、說箇有未發已發、原不妨。原有箇未發已發在。」
 問曰、「未發未嘗不和。已發未嘗不中。譬如鐘聲、未扣不可謂無、卽扣不可謂有。畢竟有箇扣與不扣、何如。」
 先生曰、「未扣時、原是驚天動地。卽扣時也、只是寂天寞地。」
(308) 問、「古人論性、各有異同。何者乃爲定論。」
 先生曰、「性無定體、論亦無定體。有自本體上說者、有自發用上說者、有自源頭上說者、有自流蔽處說者、總而言之、只是一箇性。但所見有淺深爾。若執定一邊、便不是了。性之本體、原是無善無惡的。發用上、也原是可以爲善、可以爲不善的。其流蔽、也原是一定善、一定惡的。譬如眼、有喜時的眼、有怒時的眼、直視就是看的眼、微視就是覷的眼、總而言之、只是這箇眼。若見得怒時眼、就說未嘗有喜的眼。見得看時眼、就說未嘗有覷的眼、皆是執定、就知是錯。
 孟子說性、直從源頭上說來、亦是說箇大槩如此。荀子性惡之說、是從流蔽上說來、也未可盡說他不是、只是見得未精耳。衆人則失了心之本體。」
 問、「孟子從源頭上說性、要人用功在源頭上明徹、荀子從流蔽說性、功夫只在末流上救正、便費力了。」
 先生曰、「然。」
(309) 先生曰、「用功到精處、愈著不得言語。說理愈難。若着意在精微上、全體功夫反蔽泥了。」
(310) 楊慈湖不爲無見、又着在無聲無臭上見了。
(311) 人一日閒、古今世界都經過一番、只是人不見耳。夜氣清明時、無視無聽、無思無作、淡然平懷、就是羲皇世界。平旦時、神清氣朗、雍雍穆穆、就是堯舜世界。日中以前、禮儀交會、氣象秩然、就是三代世界。日中以後、神氣漸昏、往來雜擾、就是春秋・戰國世界。漸漸昏夜、萬物寢息、景象寂寥、就是人消物盡世界。學者信得良知過、不爲氣所亂、便常做箇羲皇已上人。
(312) 薛尚謙・鄒謙之・馬子莘、王汝止侍坐。因嘆先生自征寧藩以來、天下謗議益衆。請各言其故。有言先生功業勢位日隆、天下忌之者日衆。有言先生之學日明。故爲宋儒爭是非者亦日博。有言先生自南都以後、同志信從者日衆、而四方排阻者日益。先生曰、「諸君之言、信皆有之。但吾一段自知處、諸君倶未道及耳。」
 諸友請問。先生曰、「我在南都已前、尚有些子郷愿的意思在。我今信得這良知眞是眞非。信手行去、更不著些覆藏。我今纔做得箇狂者的胸次。使天下之人、都說我行不揜言也罷。」
 尚謙出曰、「信得此過、方是聖人的眞血脈。」
(313) 先生鍛錬人處、一言之下、感人最深。一日王汝止出遊歸、先生問曰、「遊何見。」
 對曰、「見滿街人都是聖人。」
 先生曰、「你看滿街人是聖人。滿街人到看你是聖人在。」
 又一日、董蘿石出遊而歸、見先生曰、「今日見一異事。」
 先生曰、「何異。」
 對曰、「見滿街人都是聖人。」
 先生曰、「此亦常事耳。何足爲異。」蓋汝止圭角未融、蘿石恍見有悟、故問同答異。皆反其言而進之。
 洪、與黄正之・張叔謙・汝中、丙戌會試歸、爲先生道、塗中講學、有信有不信。先生曰、「你們拏一箇聖人去、與人講學。人見聖人來、都怕走了、如何講得行。須做得箇愚夫愚婦、方可與人講學。」
 洪又言、「今日要見人品高下最易。」
 先生曰、「何以見之。」
 對曰、「先生譬如泰山在前、有不知仰者、須是無目人。」
 先生曰、「泰山不如平地大。平地有何可見。」先生一言翦裁剖破終年爲外好高之病。在座者莫不悚懼。
(314) 癸未春、鄒謙之來越問學。居數日、先生送別於浮峯。是夕與希淵諸友移舟、宿延壽寺、秉燭夜坐。先生慨悵不已、曰、「江濤烟柳、故人倏在百里外矣。」
 一友問曰、「先生何念謙之之深也。」
 先生曰、「曾子所謂、『以能問於不能、以多問於寡、有若無、實若虚、犯而不較(校)』、若謙之者良近之矣。」
(315) 丁亥年九月、先生起復征思田。將命行時、德洪與汝中論學。汝中擧先生教言曰、「無善無惡是心之體、有善有惡是意之動。知善知惡是良知、爲善去惡是格物。」
 德洪曰、「此意如何。」
 汝中曰、「此恐未是究竟話頭。若說心體是無善無惡、意亦是無善無惡的意、知亦是無善無惡的知、物是無善無惡的物矣。若說意有善惡、畢竟心體還有善惡在。」
 德洪曰、「心體是天命之性、原是無善無惡的。但人有習心、意念上見有善惡在、格致誠正修、此正是復那性體功夫。若原無善惡、功夫亦不消說矣。」
 是夕侍坐天泉橋、各擧請正。先生曰、「我今將行。正要你們來講破此意。二君之見、正好相資爲用。不可各執一邊。我這裏接人、原有此二種。利根之人、直從本原上悟入。人心本體原是明瑩無滯的。原是箇未發之中。利根之人、一悟本體卽是功夫、人己内外、一齋倶透了。其次不免有習心在、本體受蔽。故且教在意念上實落爲善去惡。功夫熟後、渣滓去得盡時、本體亦明盡了。汝中之見、是我這裏接利根人的、德洪之見、是我這裏爲其次立法的。二君相取爲用、則中人上下皆可引入於道。若各執一邊、眼前便有失人。便於道體各有未盡。」
 旣而曰、「已後與朋友講學、切不可失了我的宗旨。無善無惡是心之體、有善有惡是意之動、知善知惡是良知、爲善去惡是格物。只依我這話頭、隨人指點、自没病痛。此原是徹上徹下功夫。利根之人、世亦難遇。本體功夫一悟盡透、此顏子・明道所不敢承當。豈可輕易望人。人有習心、不教他在良知上實用爲善去惡功夫、只去懸空想箇本體、一切事爲倶不着實、不過養成一箇虚寂。此箇病痛不是小小。不可不早說破。」是日德洪・汝中倶有省。
 先生初歸越時、朋友蹤跡尚寥落。旣後四方來遊者日進。癸未年已後、環先生而居者比屋、如天()妃・光相諸刹。每當一室、常合食者數十人、夜無臥處、更相就席、歌聲徹昏旦。南鎮・禹穴・陽明洞諸山・遠近寺刹 、徙足所到、無非同志遊寓所在。先生每臨講座、前後左右環坐而聽者、常不下數百人。送往迎來、月無虚日、至有在侍更歳、不能遍記其姓名者。每臨別、先生常嘆曰、「君等雖別、不出天地閒。苟同此志、吾亦可以忘形似矣。」
 諸生每聽講出門、未嘗不跳躍稱快。嘗聞之同門先輩曰、「南都以前、朋友從遊者雖衆。未有如在越之盛者。此雖講學日久、孚信漸博、要亦先生之學日進、感召之機、申(神)變無方、亦自有不同也。」
  此後門人黄以方錄
(316) 黄以方問、「博學於文、爲隨事學存此天理。然則謂行有餘力、則以學文、其說似不相合。」
 先生曰、「『詩』・『書』・六藝、皆是天理之發見、文字都包在其中。攷之『詩』・『書』・六藝、皆所以學存此天理也。不特發見於事爲者、方爲文耳。餘力學文、亦只博學於文中事。」
 或問「學而不思」二句。曰、「此亦有爲而言、其實思卽學也。學有所疑、便須思之。『思而不學』者、蓋有此等人、只懸空去思、要想出一箇道理、卻不在身心上實用其力、以學存此天理、思與學作兩事做、故有罔與殆之病。其實思只是思其所學。原非兩事也。」
(317) 先生曰、「先儒解格物爲格天下之物。天下之物、如何格得。且謂一草一木亦皆有理。今如何去格。縱格得草木來、如何反來誠得自家意。我解格作正字義、物作事字義。『大學』之所謂身、卽耳目口鼻四肢是也。欲修身、便是要目非禮勿視、耳非禮勿聽、口非禮勿言、四肢非禮勿動。要修這箇身、身上如何用得工夫。
 心者身之主宰。目雖視、而所以視者心也。耳雖聽、而所以聽者心也。口與四肢雖言動、而所以言動者心也。故欲修身、在於體當自家心體、常令廓然大公、無有些子不正處。主宰一正、則發竅於目、自無非禮之視。發竅於耳、自無非禮之聽。發竅於口與四肢、自無非禮之言動。此便是修身在正其心。然至善者、心之本體也。心之本體、那有不善。
 如今要正心、本體上何處用得功。必就心之發動處纔可著力也。心之發動、不能無不善。故須就此處著力、便是在誠意。如一念發在好善上、便實實落落去好善、一念發在惡惡上、便實實落落去惡惡。意之所發、旣無不誠、則其本體如何有不正的。故欲正其心在誠意。工夫到誠意、始有着落處。
 然誠意之本、又在於致知也。所謂人雖不知而已所獨知者、此正是吾心良知處。然知得善、卻不依這箇良知便做去。知得不善、卻不依這箇良知便不去做。則這箇良知便遮蔽了。是不能致知也。吾心良知、旣不能擴充到底、則善雖知好、不能著實好了。惡雖知惡、不能著實惡了。如何得意誠。故致知者、意誠之本也。
 然亦不是懸空的致知致知在實事上格。如意在於爲善、便就這件事上去爲。意在於去惡、便就這件事上去不爲。去惡固是格不正以歸於正。爲善、則不善正了。亦是格不正以歸於正也。如此、則吾心良知、無私欲蔽了。得以致其極。而意之所發、好善去惡、無有不誠矣。誠意工夫實下手處、在格物也。若如此格物、人人便做得。人皆可以爲堯舜、正在此也。」
(318)
先生曰く「衆人只だ格物を説くに晦翁(=朱子)に依らんことを要(もと)むるも、何ぞ曾て他(かれ)の説を把りて用い去(ゆ)きしことあらん。我著実に曾て用い来る。初年銭友と同じく聖賢と倣ならんことを論じて、天下の物に格(いた)らんことを要(もと)め、「如今(いま)安ぞ此等の大なる力量を得ん」と。因って亭前の竹子を指して格看し去(ゆ)かしむ。銭子早夜竹子の道理を窮格し去き、その心思を竭(つく)し、三日に至りて、便(すなわ)ち神を労し疾を成すことを致せり。

当初説く、「他(かれ)は這是(これ)精力足らざるなり」と。某因って自ら窮格し去(ゆ)き、早夜其の理を得ず、七日に到りて、亦思を労するを以って疾を致せり。遂に相与に聖賢は是れ做り得ざる的(もの)、他(か)の大力量の物に格り去くべきものなきを嘆ず。夷中に在ること三年に及びて、頗る此の意思を見得し、乃ち天下の物は、本(もと)格る可き者なく、その格物の功は只だ身心上にありて做すを知り、決然として聖人を以って人々の到るべきものとなし、便ち自ら担当することありき、這裏の意思、卻て諸公に説き与えて知道せしめんことを要(もと)む。

(319) 門人有言邵端峯、論童子不能格物、只教以灑掃應對之說。先生曰、「灑掃應對、就是一件物。童子良知只到此、便教去灑掃應對、就是致他這一點良知了。又如童子知畏先生・長者、此亦是他良知處。故雖嬉戲中、見了先生・長者、便去作揖恭敬。是他能格物以致敬師長之良知了。童子自有童子的格物致知。」
 又曰、「我這裏言格物、自童子以至聖人、皆是此等工夫。但聖人格物、便更熟得些子、不消費力。如此格物、雖賣柴人、亦是做得。雖公卿大夫以至天子、皆是如此做。」
(320) 或疑知行不合一、以知之匪艱二句爲問。先生曰、「良知自知、原是容易的。只是不能致那良知、便是知之匪艱、行之惟艱。」
(321) 門人問曰、「知行如何得合一。且如『中庸』言博學之、又說箇篤行之、分明知行是兩件。」
 先生曰、「博學只是事事學存此天理。篤行只是學之不已之意。」
 又問、「『易』、學以聚之、又言仁以行之、此是如何。」
 先生曰、「也是如此。事事去學存此天理、則此心更無放失時。故曰、學以聚之。然常常學存此天理、更無私欲間斷。此卽是此心不息處。故曰仁以行之。」
 又問、「孔子言知及之、仁不能守之。知行卻是兩箇了。」 
 先生曰、「說及之、已是行了。但不能常常行。已爲私欲間斷、便是仁不能守。」
 又問、心卽理之說。「程子云、在物爲理、如何謂心卽理。」
 先生曰、「在物爲理。在字上當添一心字。此心在物則爲理。如此心在事父、則爲孝。在事君、則爲忠之類。」 
 先生因謂之曰、「諸君要識得我立言宗旨。我如今說箇心卽理是如何。只爲世人分心與理爲二。故便有許多病痛。如五伯攘夷狄、尊周室。都是一箇私心。便不當理。人卻說他做得當理。只心有未純。往往悅慕其所爲。要來外面做得好看、卻與心全不相干。分心與理爲二。其流至於伯道之僞、而不自知。故我說箇心卽理。要使知心理是一箇。便來心上做工夫。不去襲義於外。便是王道之眞。此我立言宗旨。」
 又問、「聖賢言語許多。如何卻要打做一箇。」 
 曰、「我不是要打做一箇。如曰、夫道一而已矣。又曰、其爲物不二、則其生物不測。天地聖人皆是一箇。如何二得。」
(322) 心不是一塊血肉。凡知覺處便是心。如耳目之知視聽、手足之知痛癢、此知覺便是心也。
(323) 以方問曰、「先生之說格物、凡『中庸』之愼獨及集義・博約等說、皆爲格物之事。」
 先生曰、「非也。格物卽愼獨、卽戒懼。至於集義・博約、工夫只一般、不是以那數件都做格物底事。」
(324) 以方問尊德性一條。先生曰、「道問學、卽所以尊德性也。晦翁言、子靜以尊德性晦人。某教人豈不是道問學處多了些子。是分尊德性・道問學作兩件。且如今講習討論、下許多工夫、無非只是存此心、不失其德性而已。豈有尊德性、只空空去尊、更不去問學。問學只是空空去問學、更與德性無關渉。如此、則不知今之所以講習討論者、更學何事。」
 問致廣大二句。曰、「盡精微、卽所以致廣大也。道中庸、卽所以極高明也。蓋心之本體、自是廣大底。人不能盡精微、則便爲私欲所蔽、有不勝其小者矣。故能細微曲折、無所不盡、則私意不足以蔽之、自無許多障礙遮隔處。如何廣大不致。」
 又問、「精微、還是念慮之精微、是事理之精微。」
 曰、「念慮之精微、卽事理之精微也。」
(325) 先生曰、「今之論性者、紛紛異同。皆是說性、非見性也。見性者、無異同之可言矣。」
(326) 問、「聲色貨利、恐良知亦不能無。」
 先生曰、「固然。但初學用功、卻須掃除蕩滌、勿使留積。則適然來遇、始不爲累、自然順而應之。良知只在聲色貨利上用功。能致得良知精精明明、毫髮無蔽、則聲色貨利之交、無非天則流行矣。」
(327) 先生曰、「吾與諸公講致知格物、日日是此。講一二十年倶是如此。諸君聽吾言、實去用功。見吾講一番、自覺長進一番。否則只作一場話說。雖聽之亦何用。」
(328) 先生曰、「人之本體、常常是寂然不動的。常常是感而遂通的。未應不是先、已應不是後。」
(329) 一友擧、「佛家以手指顯出、問曰、『衆曾見否。』衆曰、『見之。』復以手指入袖。問曰、『衆還見否。』衆曰、『不見。』佛說、『還未見性。』此義未明。」
 先生曰、「手指有見有不見。爾之見性、常在人之心神。只在有覩有聞上馳騖。不在不覩不聞上著實用功。蓋不覩不聞、實良知本體。戒愼恐懼、是致良知的工夫。學者時時刻刻常覩其所不覩、常聞其所不聞、工夫方有箇實落處。久久成熟後、則不須著力、不待防檢、而眞性自不息矣。豈以在外者之聞見爲累哉。」
(330) 問、「先儒謂鳶飛魚躍、與必有事焉、同一活潑潑地。」 先生曰、「亦是天地閒活潑潑地、無非此理。便是吾良知的流行不息、致良知便是必有事的工夫。此理非惟不可離、實亦不得而離也。無往而非道、無往而非工夫。」
(331) 先生曰、「諸公在此、務要立箇必爲聖人之心。時時刻刻須是一棒一條痕、一摑一掌血、方能聽吾說話、句句得力。若茫茫蕩蕩度日、譬如一塊死肉、打也不知得痛癢、恐終不濟事、回家只尋得舊時伎倆而已。豈不惜哉。」
(332) 問、「近來妄念也覺少、亦覺不曾著想。定要如何用功。不知此是工夫否。」
 先生曰、「汝且去著實用功、便多這些著想也不妨。久久自會妥帖。若纔下得些功、便說效驗、何足爲恃。」
(333) 一友自嘆、「私意萌時、分明自心知得、只是不能使他卽去。」
 先生曰、「你萌時、這一知處、便是你的命根。當下卽去消磨、便是立命工夫。」
(334) 夫子說性相近、卽孟子說性善、不可專在氣質上說。若說氣質、如剛與柔對、如何相近得。惟性善則同耳。人生初時、善原是同的。但剛的習於善、則爲剛善、習於惡、則爲剛惡。柔的習於善、則爲柔善、習於惡、則爲柔惡。便日相遠了。」
(335) 先生嘗語學者曰、「心禮上著不得一念留滯、就如眼著不得些子塵沙。些子能得幾多、滿眼便昏天黑地了。」
 又曰、「這一念不但是私念、便好的念頭亦著不得些子。如眼中放些金玉屑、眼亦開不得了。」
(336) 問、「人心與物同體。如吾身原是血氣流通的。所以謂之同體。若於人便異體了、禽獸草木益遠矣。而何謂之同體。」 先生曰、「你只在感應之幾上看。豈但禽獸草木、雖天地也與我同體的。鬼神也與我同體的。」
 請問。先生曰、「你看這箇天地中間、甚麼是天地的心。」
 對曰、「嘗聞人是天地的心。」
 曰、「人又甚麼教做心。」
 對曰、「只是一箇靈明。」
 「可知、充天塞地、中閒只有這箇靈明。人只爲形體自閒隔了。我的靈明、便是天地鬼神的主宰。天没有我的靈明、誰去仰他高。地没有我的靈明、誰去俯他深。鬼神没有我的靈明、誰去辯他吉凶災祥。天地・鬼神・萬物、離卻我的靈明、便没有天地・鬼神・萬物了。我的靈明、離卻天地・鬼神・萬物、亦没有我的靈明。如此、便是一氣流通的。如何與他閒隔得。」
 又問、「天地・鬼神・萬物、千古見在。何没了我的靈明、便倶無了。」
 曰、「今看死的人、他這些精靈游散了。他的天地・鬼神・萬物尚在何處。」
(337) 先生起行征思田、德洪與汝中追送嚴灘。汝中擧佛家實相幻相之說。
 先生曰、「有心倶是實、無心倶是幻。無心倶是實、有心倶是幻。」
 汝中曰、「有心倶是實、無心倶是幻、是本體上說工夫。無心倶是實、有心倶是幻、是工夫上說本體。」先生然其言。洪於是時尚未了達。數年用功、始信本體工夫合一。但先生是時因問偶談。若吾儒指點人處、不必借此立言耳。
(338) 嘗見先生送二三耆宿、出門、退坐於中軒、若有憂色。德洪趨進請問。
 先生曰、「頃與諸老論及此學、眞員鑿方枘。此道坦如道路。世儒往往自加荒塞、終身陷荊棘之場而不悔。吾不知其何說也。」
 德洪退謂朋友曰、「先生誨人、不擇衰朽、仁人憫物之心也。」
(339) 先生曰、「人生大病、只是一傲字。爲子而傲必不孝。爲臣而傲必不忠。爲父而傲必不慈。爲友而傲必不信。故象與丹朱倶不肖、亦只一傲字、便結果了此生。
 諸君常要體此人心本是天然之理、精精明明、無纖介染著。只是一無我而已。胸中切不可有。有卽傲也。古先聖人許多好處、也只是無我而已。無我自能謙。謙者衆善之基、傲者衆惡之魁。」
(340) 又曰、「此道至簡至易的、亦至精至微的。孔子曰、『其如示諸掌乎。』且人於掌何日不見。及至問他掌中多少文理、卻便不知。卽如我良知二字、一講便明、誰不知得。若欲的見良知、卻誰能見得。」
 問曰、「此知恐是無方體的、最難捉摸。」
 先生曰、「良知卽是『易』。其爲道也屡遷、變動不居、周流六虚、上下無常、剛柔相易、不可爲典要、惟變所適。此知如何捉摸得。見得透時、便是聖人。」
(341) 問、「孔子曰、『回也非助我者也。』是聖人果以相助望門弟子否。」
 先生曰、「亦是實話。此道本無窮盡。問難愈多、則精微愈顯。聖人之言、本自周遍。但有問難的人、胸中窒礙。聖人被他一難、發揮得愈加精神。若顏子聞一知十、胸中了然。如何得問難。故聖人亦寂然不動、無所發揮。故曰、非助。」
(342) 鄒謙之嘗語德洪曰、「舒國裳曾持一張紙、請先生寫拱把之桐梓一章。先生懸筆爲書。到至於身而不知所以養之者、顧而笑曰、『國裳讀書、中過狀元來。豈誠不知身之所以當養、還須誦此以求警。』一時在侍諸友皆惕然。」
 嘉靖戊子冬、德洪與王汝中奔師喪至廣信、訃告同門、約三年收錄遺言。繼後同門各以所記見遺。洪擇其切於問正者、合所私錄、得若干條。居呉時、將與文錄並刻矣。適以憂去未遂。當是時也、四方講學日衆、師門宗旨旣明、若無事於贅刻者。故不復縈念。
 去年、同門曾子才漢、得洪手抄、復傍爲采輯、名曰、遺言、以刻行於荊。洪讀之、覺當時采錄精、乃爲刪其重、削去蕪蔓、存其三分之一、名曰、『傳習續錄』、復刻於寧國之水西精舍。
 今年夏、洪來遊蘄、沈君思長曰、「師門之教、久行於四方、而獨未及於蘄。蘄之士得讀遺言、若親炙夫子之教、指見良知、若重覩日月之光。惟恐傳習之不博、而未以重覆之爲繁也。請裒其所逸者増刻之。若何。」洪曰、「然。師門致知格物之旨、開示來學、學者躬修默悟、不敢以知解承、而惟以實體得。故吾師終日言是、而不憚其煩。學者終日聽是、而不厭其數。蓋指示專一、則體悟日精、幾迎於言前、神發於言外、感遇之誠也。
 今吾師之没、未及三紀、而格言微旨、漸覺淪晦。豈非吾黨身踐之不力、多言有以病之耶。學者之趨不一、師門之教不宣也。」
 乃復取逸稿、采其語之不背者、得一巻。其餘影響不眞、與文錄旣載者、皆削之。并易中巻爲問答語、以付黄梅尹張君増刻之。庶幾讀者不以知解承、而惟以實體得、則無疑於是錄矣。嘉靖丙辰夏四月、門人錢德洪、拜書於蘄之崇正書院。

  附錄朱子晩年定論
 定論首刻於南・贛。朱子病目靜久、忽悟聖學之淵微。乃大悔中年註述誤己誤人。遍告同志。
 師閲之、喜己學與晦翁同、手錄一巻。門人刻行之。自是爲朱子論異同者寡矣。師曰、「無意中、得此一助。」隆慶壬申、虬峯謝君廷傑、刻師全書、命刻定論、附語錄後。見師之學與朱子無相繆戻、則千古正學同一源矣。并師首敘與袁慶麟跋凡若干條。洪僭引其說。

 朱子晩年定論
(朱・0) 陽明子序曰、洙泗之傳、至孟氏而息。千五百餘年、濂溪・明道始復追尋其緒。自後、辨析日詳。然亦日就支離決裂、旋復湮晦。吾嘗深求其故。大抵皆世儒之多言、有以亂之。守仁早歳、業擧、溺志詞章之習。旣乃稍知從事正學、而苦於衆說之紛撓疲、茫無可入。因求諸老釋、欣然有會於心。以爲聖人之學在此矣。然於孔子之教、閒相出入。而措之日用、往往缺漏無歸、依違往返、且信且疑。
 其後謫官龍場、居夷處困。動心忍性之餘、恍若有悟。體驗探求、再更寒暑、證諸五經四子、沛然若決江河而放諸海也。然後嘆、聖人之道、坦如大路、而世之儒者、妄開竇逕、蹈荊棘、墮坑塹、究其爲說、反出二氏之下。宜乎世之高明之士、厭此而趨彼也。此豈二氏之罪哉。閒嘗以語同志。而閒(聞)者競相非議、目以爲立異好奇。雖每痛反深抑、務自搜剔斑瑕、而愈益精明的確、洞然無復可疑。獨於朱子之說、有相牴牾、恆疚於心。切疑、朱子之賢、而豈其於此尚有未察。
 及官留都、復取朱子之書、而檢求之。然後知其晩歳固已大悟舊說之非、痛悔極艾、至以爲自誑誑人之罪不可勝贖。世之所傳集註・或問之類、乃其中年未定之說、自咎以爲舊本之誤、思改正而未及、而其諸語類之屬、又其門人挾勝心以附己見。固於朱子平日之說、猶有大相繆戻者。而世之學者、局於見聞、不過持循講習於此。其於悟後之論、槩乎其未有聞、則亦何怪乎、予言之不信、而朱子之心、無以自暴於後世也乎。
 予旣自幸其說之不繆於朱子。又喜朱子之先得我心之同然。且嘅夫世之學者、徒守朱子中年未定之說、而不復知求其晩歳旣悟之論、競相呶呶以亂正學、不自知其已入於異端。輒採錄而裒集之、私以示夫同志。庶幾無疑於吾說、而聖學之明可冀矣。正德乙亥冬十一月朔。後學餘姚王守仁序。
(朱・1) 答黄直卿書
 爲學直是先要立本。文義卻可且與說出正意、令其寬心玩味、未可便令考校同異研究纖密。恐其意思促迫、難得長進。將來見得大意、略擧一二節目、漸次理會、蓋未晩也。此是向來定本之誤。今幸見得、卻煩勇革。不可苟避譏笑、卻誤人也。
(朱・2) 答呂子約
 日用工夫、比復如何。文字雖不可廢、然涵養本原、而察於天理人欲之判、此是日用動靜之閒。不可頃刻閒斷底事。若於此處見得分明、自然不到得流入世俗功利權謀裏去矣。熹亦近日方實見得向日支離之病。雖與彼中證候不同、然忘己逐物、貪外虚内之失則一而已。程子說、「不得以天下萬物撓己。己立後、自能了得天下萬物。」今自家一箇身心、不知安頓去處、而談王說伯、將經世事業、別作一箇伎倆、商量講究、不亦誤乎。相去遠、不得面論。書問終說不盡。臨風嘆息而已。
(朱・3) 答何叔京
 前此僭易拜禀博觀之敝。誠不自揆。乃蒙見是。何幸如此。然觀來喩、似有未能遽舍之意何邪。此理甚明。何疑之有。若使道可以多聞博觀而得、則世之知道者爲不少矣。熹近日因事方有少省發處。如鳶飛魚躍、明道以爲與必有事焉勿正之意同者、乃今曉然無疑。月用之閒、觀此流行之體、初無閒斷處、有下功夫處。乃知日前自誑誑人之罪、蓋不可勝贖也。此與守書冊泥言語、全無交渉。幸於日用閒察之、知此則知仁矣。
(朱・4) 答潘叔昌
 示喩。天上無不識字底神仙。此論甚中一偏之蔽。然亦恐只學得識字、卻不曾學得上天、旣不如且學上天耳。上得天了、卻旋學上天人亦不妨也。中年以後、氣血精神、能有幾何。不是記故事時節。熹以目昏、不敢著力讀書。閒中靜坐、收斂身心、頗覺得力。閒起看書、聊復遮眼、遇有會心處、時一喟然耳。
(朱・5) 答潘叔度
 熹衰病、今歳幸不至劇。但精力益衰、目力全短、看文字不得。冥目靜坐、卻得收拾放心、覺得日前外面走作不少、頗恨盲廢之不早也。看書鮮識之喩、誠然。然嚴霜大凍之中、豈無些小風和日煖意思。要是多者勝耳。
(朱・6) 與呂子約
 『孟子』言、「學問之道、惟在求其放心。」而程子亦言、「心要在腔子裏。」今一向耽着文字。令此心全體都奔在冊子上、更不知有己、便是箇無知覺不識痛癢之人。雖讀得書、亦何益於吾事邪。
(朱・7) 與周叔謹
 應之、甚恨未得相見。其爲學規模次第如何。近來呂・陸門人、互相排斥。此由各徇所見之偏、而不能公天下之心、以觀天下之理。甚覺不滿人意。應之、蓋嘗學於兩家。未知其於此看得果如何。因話扣之、因書諭及爲幸也。熹近日亦覺向來說話有大支離處。反身以求、正坐自己用功亦未切耳。因此減去文字功夫。覺得閒中氣象甚適。每勸學者、亦且看『孟子』道性善求放心兩章、着實體察收拾爲要。其餘文字、且大槩諷誦涵養、未須大段著力考索也。
(朱・8) 答陸象山
 熹衰病日侵。去年災患亦不少。比來病躯、方似略可支吾。然精神耗減、日甚一日、恐終非能久於世者。所幸邇來日用工夫、頗覺有力、無復向來支離之病。甚恨未得從容面論。未知異時相見、尚復有異同否耳。
(朱・9) 答符復仲
 聞向道之意甚勤。向所喩義利之閒、誠有難擇者。但意所疑以爲近利者、卽便舍去可也。向後見得親切、卻看舊事、又有見未盡舍未盡者、不解有過當也。見陸丈回書、其言明當。且就此持守、自見功效。不須多疑多問、卻轉迷惑也。
(朱・10) 答呂子約
 日用功夫、不敢以老病而自懈。覺得此心操存舍亡、只在反掌之閒。向來誠是太渉支離。蓋無本以自立、則事事皆病耳。又聞、講授亦頗勤勞、此恐或有未便。今日正要清源正本、以察事變之幾微。豈可一向汩溺於故紙堆中、使精神昏蔽、失後忘前、而可以謂之學乎。
(朱・11) 與呉茂實
 近來自覺、向時工夫止是講論文義、以爲積集義理、久當自有得力處。卻於日用工夫、全少檢點。諸朋友往往亦只如此做工夫、所以多不得力。今方深省、而痛懲之。亦欲與諸同志勉焉。幸老兄徧以告之也。
(朱・12) 答張敬夫
 熹窮居如昨。無足言者。自遠去師友之益、兀兀度日、讀書反己。固不無警省處、終是旁無彊輔。因循汩没、尋復失之。近日一種向外走作、心悅之而不能自已者、皆準止酒例、戒而絶之。似覺省事。此前輩所謂、「下士晩聞道、聊以拙自修」者。若擴充不已、補復非前(前非)、庶其有日。舊讀『中庸』愼獨、『大學』誠意母自欺處、常苦求之太過、措詞煩猥。近日乃覺其非。此正是最切近處、最分明處。乃舍之而談空於冥漠之閒、其亦誤矣。方竊以此意痛自檢勒、慄然度日、惟恐有怠而失之也。至於文字之閒、亦覺向來病痛不少。蓋平日解經、最爲守章句者。然亦多是推衍文義、自做一片文字。非惟屋下架屋、說得意味淡薄、且是使人看者將註與經、作兩項工夫做了。下梢(稍)看得支離、至於本旨全不相照。以此方知漢儒可謂善說經者。不過只說訓詰、使人以此訓詁玩索經文、訓詰經文不相離異、只做一道看了。直是意味深長也。
(朱・13) 答呂伯恭
 道閒與季通講論。因悟向來涵養工夫全少、而講說又多彊探、必取尋流逐末之弊、推類以求、衆病非一、而其源皆在此。恍然自失、似有頓進之功。若保此不懈、庶有望於將來。然非如近日諸賢所謂頓悟之機也。向來所聞晦諭諸說之未契者、今日細思、脗合無疑。大抵前日之病、皆是氣質躁妄之偏。不曾涵養克治、任意直前之弊耳。
(朱・14) 答周純仁
 閒中無事、固宜謹出。然想亦不能一併讀得許多。似此專人來往勞費。亦是未能省事隨寓而安之病。又如多服燥熱藥、亦使人血氣偏勝、不得和平。不但非所以衞生、亦非所以養心。竊恐更須深自思省收拾身心、漸令向裏、令寧靜閒退之意勝、而飛揚燥擾之氣消。則治心養氣、處事接物、自然安穩。一時長進、無復前日内外之患矣。
(朱・15) 答竇文卿
 爲學之要、只在着實操存、密切體認、自己身心上理會。切忌輕自表襮、引惹外人辯論、枉費酬應、分卻向裏工夫。
(朱・16) 答呂子約
 聞欲與二友倶來、而復不果。深以爲恨。年來覺得日前爲學不得要領、自做身主不起、反爲文字奪卻精神。不是小病。每一念之、惕然自懼、且爲朋友憂之。而每得子約書、輒復恍然、尤不知所以爲賢者謀也。且如臨事遲回、瞻前顧後、只此亦可見得心術影子。
 當時若得相聚一番、彼此極論、庶幾或有剖決之助。今又失此幾會。極令人悵恨也。訓導後生、若說得是當、極有可自警省處、不會減人氣力。若只如此支離、漫無統紀、則雖不教後生、亦只見得展轉迷惑、無出頭處也。
(朱・17) 答林擇之
 熹哀苦之餘、無他外誘、日用之閒、痛自斂飭。乃知敬字之功、親切要妙乃如此。而前日不知於此用力、徒以口耳、浪費光陰、人欲横流、天理幾滅。今而思之、怛然震悚。蓋不知所以措其躬也。
(朱・18) 又
 此中見有朋友數人講學、其閒亦難得朴實頭負荷得者。因思。日前講論、只是口說、不曾實體於身。故在己在人、都不得力。今方欲與朋友說、日用之閒、常切點檢氣習偏處、意欲萌處、與平日所講、相似與不相似、就此痛著工夫。庶幾有益。陸子壽兄弟、近日議論、卻肯向講學上理會。其門人有相訪者、氣象皆好。但其閒亦有舊病。此閒學者、卻是與渠相反。初謂、只如此講學、漸涵自能入德。不謂、末流之蔽、只成說話、至於人倫日用最切近處、亦都不得毫毛氣力。此不可不深懲而痛警也。
(朱・19) 答梁文叔
 近看、孟子見人、卽道性善、稱堯舜。此是第一義。若於此看得透信得及、直下便是聖賢、便無一毫人欲之私、做得病痛。若信不及、孟子又說箇第二節工夫。又只引成覵・顏淵・公明儀三段說話、教人如此發憤勇猛向前。日用之閒、不得存留一毫人欲之私在這裏。此外更無別法。若於此有箇奮迅興起處、方有田地可下功夫。不然卽是畫脂鏤冰、無眞得力處也。近日見得如此、自覺頗得力、與前日不同。故此奉報。
(朱・20) 答潘叔恭
 學問根本、在日用閒、持敬集義工夫、眞是要得念念省察。讀書求義、乃其閒之一事耳。舊來雖知此意、然於緩急之閒、終是不覺、有倒置處、誤人不少。今方自悔耳。
(朱・21) 答林充之
 充之近讀何書。恐更當於日用之閒爲仁之本者、深加省察、而去其有害於此者爲佳。不然、誦說雖精、而不踐其實、君子蓋深恥之。此固充之平日所講聞也。
(朱・22) 答何叔景
 李先生教人、大抵令於靜中體認大本・未發時氣象、分明卽處事應物、自然中節。此乃龜山門下相傳指訣。然當時親炙之時、貪聽講論、又方竊好章句訓詰之習、不得盡心於此。至今若存若亡、無一的實見處、辜負教育之意。每一念此、未嘗不愧汗沾衣也。
(朱・23) 又
 熹近來尤覺昏憒無進歩處。蓋縁日前偸墮苟簡、無深探力行之志。凡所論說、皆出入口耳之餘、以故全不得力。今方覺悟、欲勇革舊習、而血氣已衰、心志亦不復彊。不知終能有所濟否。
(朱・24) 又
 向來妄論持敬之說、亦不自記其云何。但因其良心發見之微、猛省提撕、使心不昧、則是做工夫底本領。本領旣立、自然下學而上達矣。若不察良心發見處、卽渺渺茫茫、恐無下手處也。中閒一書論必有事焉之說、卻儘有病。殊不蒙辨詰何邪。所喩、多識前言往行、固君子之所急。熹向來所見、亦是如此。
 近因反求未得箇安穩處、卻始知此未免支離。如所謂因諸公以求程氏、因程氏以求聖人、是隔幾重公案。曷若默會諸心、以立其本、而其言之得失、自不能逃吾之鑒邪。欽夫之學、所以超脱自在、見得分明、不爲言句所桎梏、只爲合下入處親切。今日說話。雖未能絶無滲漏、終是本領、是當非吾輩所及。但詳觀所論自可見矣。
(朱・25) 答林擇之
 所論顏孟不同處、極善極善。正要見此曲折、始無窒礙耳。比來想亦只如此用功。熹近只就此處、見得向來未見底意思。乃知存久自明、何待窮索之語、是眞實不誑語。今未能久、已有此驗、況眞能久邪。但當益加勉勵、不敢少弛其勞耳。
(朱・26) 答楊子直
 學者墮在語言、心實無得、固爲大病。然於語言中、罕見有究竟得徹頭徹尾者。蓋資質已是不及古人、而工夫又草草、所以終身於此若存若亡、未有卓然可恃之實。近因病後、不敢極力讀書。閒中卻覺有進歩處。大抵孟子所論求其放心。是要訣爾。
(朱・27) 與田侍郎子眞
 吾輩今日事事做不得、只有向裏存心窮理、外人無交渉。然亦不免違條礙貫。看來無着力處。只有更攢近裏面、安身立命爾。不審比日何所用心。因書及之。深所欲聞也。
(朱・28) 答陳才卿
 詳來示、知日用工夫精進如此、尤以爲喜。若知此心此理端的在我、則參前倚衡、自有不容捨者。亦不待求而得、不待操而存矣。格物致知、亦是因其所已知者推之、以及其所未知。只是一本、原無兩樣工夫也。
(朱・29) 與劉子澄
 居官無修業之益。若以俗學言之、誠是如此。若論聖門所謂德業者、卻初不在日用之外。只押文字、便是進德修業地頭、不必編綴異聞、乃爲修業也。近覺向來爲學、實有向外浮泛之弊。不惟自誤、而誤人亦不少。方別尋得一頭緒、似差簡約端的。始知文字言語之外、眞別有用心處。恨未得面論也。浙中後來事體、大段支離乖僻。恐不止似正似邪而已、極令人難說。只得惶恐痛自警省。恐未可專執舊說以爲取舍也。
(朱・30) 與林擇之
 熹近覺向來乖繆處、不可縷數。方惕然思所以自新者。而日用之閒、悔吝潛積、又已甚多。朝夕惴懼、不知所以爲計。若擇之能一來輔此不逮、幸甚。然講學之功、比舊卻覺稍有寸進。以此知、初學得些靜中功夫、亦爲助不小。
(朱・31) 答呂子約
 示喩日用工夫如此、甚善。然亦且要見一大頭腦分明、便於操舍之閒、有用力處。如實有一物把住・放行在自家手裏。不是謾說求其放心、實卻茫茫無把捉處也。
 子約復書云、某蓋嘗深體之。此箇大頭腦、本非外面物事。是我元初本有底。其曰、『人生而靜。』其曰、『喜怒哀樂之未發。』其曰、『寂然不動。』人泊泊(汩汩)地過了日月、不曾存息、不曾實見此體段。如何會有用力處。程子謂、『這箇義理、仁者又看做仁了。智者又看做智了。百姓日用而不知。此所以君子之道鮮。』此箇亦不少、亦不剩。只是人看他不見。不大段信得此話。及其言於勿忘勿助長閒認取者、認乎此也。認得此、則一動一靜皆不昧矣。惻隱羞惡辭讓是非四端之著也。操存久、則發見多。忿懥憂患好樂恐懼不得其正也。放舍甚則、日滋長。記得南軒先生謂、『驗厥操舍、乃知出入。』乃是見得主腦。於操舍閒、有用力處之實話。蓋苟知主腦不放下。雖是未能常常操存、然語默應酬閒、歴歴能自省驗。雖其實有一物在我手裏、然可欲者、是我底物。不可放失。不可欲者、非是我物、不可留藏。雖謂之實有一物在我手裏、亦可也。若是謾說旣無歸宿、亦無依據。縱使彊把捉得住、亦止是襲取。夫豈是我元有底邪。愚見如此。敢望指教。」朱子答書云、「此段大槩甚正當親切。」
(朱・32) 答呉德夫
 承喩仁字之說、足見用力之深。熹意不欲如此坐談。但直以孔子程子所示求仁之方、擇其一二切於吾身者、篤志而力行之。於動靜語默閒、勿令閒斷、則久久自當知味矣。去人欲存天理、且據所見去之存之。工夫旣深、則所謂似天理而實人欲者、次第可見。今大體未正、而便察及細微。恐有放飯流啜、而問無齒決之譏也。如何如何。
(朱・33) 答或人
 中和二字、皆道之體用。舊聞李先生論此最詳。後來所見不同。遂不復致思。今乃知其爲人深切。然恨已不能盡記其曲折矣。如云、「人固有無所喜怒哀樂之時、然謂之未發。」則不可。言無主也。又如先言愼獨、然後及中和、此亦嘗言之。但當時旣不領略。後來又不深思。遂成蹉過。孤負(辜負)此翁耳。
(朱・34) 答劉子澄
 日前爲學、緩於反己。追思凡百多可悔者。所論註文字、亦坐此病多無着實處。回首茫然。計非歳月功夫、所能救治。以此愈不自快。前時猶得敬夫・伯恭時惠規益、得以自警省。二友云亡。耳中絶不聞此等語。今乃深有望於吾子澄。自此惠書、痛加鐫晦、乃君子愛人之意也。
 朱子之後、如眞西山・許魯齋・呉草廬、亦皆有見於此。而草廬見之尤眞、悔之尤切。今不能備錄、取草廬一說附於後。
 臨川呉氏曰。天之所以生人、人之所以爲人、以此德性也。然自聖傳不嗣、士學靡宗。
 漢唐千餘年閒、董・韓二子、依稀數語近之、而原本竟昧昧也。逮夫周程・張・邵興、始能上通孟氏而爲一。程氏四傳、而至朱。文義之精密、又孟氏以來所未有者。其學徒往往滯於此、而溺其心。夫旣以世儒記誦・詞章爲俗學矣。而其爲學亦未離乎言語文字之末。此則嘉定以後朱門末學之敝、而未有能救之者也。
 夫所貴乎聖人之學、以能全天之所以與我者爾。天之與我、德性是也。是爲仁義禮智之根株、是爲形質血氣之主宰、舍此而他求、所學何學哉。假而行如司馬文正公、才如諸葛忠武侯、亦不免爲習不著、行不察。亦不過爲資器之超於人、而謂有得於聖學則未也。況止於訓詰之精・講說之密、如北溪之陳・雙峯之饒、則與彼記誦・詞章之俗學、相去何能以寸哉。聖學大明於宋代、而踵其後者如此。可嘆已。澄也、鑽研於文義、毫分縷析、每以陳爲未精、饒爲未密也。墮此科臼中、垂四十年、而始覺其非。自今以往、一日之内子而亥、一月之内朔而晦、一歳之内春而冬、常見吾德性之昭昭如天之運轉、如日月之往來、不使有須臾之閒斷、則於尊之之道殆庶幾乎。於此有未能、則問於人、學於己、而必欲其至。若其用力之方、非言之可喩。亦味於『中庸』首章、訂頑終篇而自悟可也。
 朱子晩年定論
 我陽明先生在留都時、所採集者也。掲陽薛君尚謙、舊錄一本。同志見之、至有不及抄寫。袖之而去者、衆皆憚於翻錄。乃謀而壽諸梓。謂、「子以齒當志一言。」惟朱子一生勤苦以惠來學。凡一言一字。皆所當守、而獨表章是(衍字)尊崇乎此者、蓋以爲朱子之定見也。
 今學者不求諸此、而猶踵其所悔、是蹈舛也。豈善學朱子者哉。麟無似、從事於朱子之訓三十年。非不專且篤、而竟亦未有居安資深之地、則猶以爲知之未詳而覽之未博也。戊寅夏、持所著論若干巻、來見先生。聞其言如日中天、睹之卽見、如五穀之藝地、種之卽生、不假外求、而眞切簡易、恍然有悟。退求其故而不合、則又不免遲疑於其閒。及讀是編、始釋然。盡投其所業、假館而受學。蓋三月而若將有聞焉。然後知嚮之所學乃朱子中年未定之論。是故三十年而無獲。今賴天之靈、始克從事於其所謂定見者。故能三月而若將有聞也。非吾先生、幾乎已矣。敢以告夫同志、使無若麟之晩而後悔也。若夫直求本原於言語之外、眞有以驗其必然、而無疑者、則存乎其人之自力。是編特爲之指迷耳。
 正德戊寅六月望、門人雩都袁慶麟謹識。

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大學(大学)より学ぶ!人を治める道の書!

『大學(大学)』ってご存知ですか?
あの二宮金次郎(尊徳)が、薪を背負いながら読み耽っているあの書、『大學』です。
儒学では『四書』(『論語』・『孟子』・『大學』・『中庸』)と『六経』が重要な書となりますが、朱子学では、これに『小學』と『近思録』が加わります。
また、朱子学には書を読む順序があるそうで、『小學』→『近思録』→『大學』→『論語』→『孟子』→『中庸』→『六経』となります。

『大學』は元来は五経のひとつである『礼記』の一篇であり、原文は1753字にすぎないものです。
しかしこの書は、儒教の政治思想の根幹をきわめて要領よくまとめたものです。
著者は斉・魯の諸儒で、孔子の門人72人よりも後の人であると考えられますが、朱熹が『大學』を経伝を分け章句を定めて 『中庸』『論語』『孟子』と合わせて四書としたことでその名が有名になりました。
そもそも『大學』の要領は己を修めて人を始めることであり、学問をもって己の明徳を明らかにし、これを天下国家に明らかにせんとする政治原論、政治哲学を含んだ書物なのです。

大學の内容は三綱領、八条目に集約されます。
三綱領は、本文の冒頭に述べられている
「明徳を明らかにするに在り」
「民に親しむに在り」
「至善に止するに在り」
のことを指し、儒学を学ぶ者の最終目標を意味しています。
続いて、この三綱領を達成するための方法として八条目が示されます。
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先づ其の国を治む。
 其の国を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉う。
 其の家を斉えんと欲する者は、先づ其の身を脩む。
 其の身を脩めんと欲する者は、先づ其の心を正す。
 其の心を正さんと欲する者は、先づ其の意を誠にす。
 其の意を誠にせんと欲する者は、先づ其の知を致す。
 知を致すは物を格すに在り。」
即ち、「治国平天下」、「修身斉家」、「誠意正心」、「格物致知」の教えです。
以下、この八条目についての説明が続いて大學は終わります。
ところが、大學では「格物」と「致知」については全く触れられていません。
実はこのことが、宋の時代に朱熹が唱える朱子学王陽明が唱える陽明学を生み出すことになります。

朱子学陽明学については、何度か触れてはいますので、ご参考にしてみてください。
朱子学と陽明学の違い、日本陽明学とは!
伝習録より学ぶ!心を統治、練磨することの大切さ!

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【大學章句序】

『大學』という書は、古の大學校で人を教育する大方針を述べたものです。
けだしこれを推し測ってみるに、天が人民を生む以上は、きっとこの人民に仁義礼智を与えないわけはありません。必ず分け与えたはずなのです。しかしながら、人の気質は人によって異なります。 そこで人々みな誰でも本来備わっている徳を知ってこれを全うするというわけにはいきません。
ひとだび聡明叡智にして、よく自分の本性を明らにし尽くす者が出れば、天は必ずこの人に命じて天下万民の君としてこれを治めさせ、師としてこれを教育させ、もってその本性に帰らすでしょう。
これ伏犠・神農・黄帝・ 堯舜が天意を継承して万民の模範となったゆえんであり、教育を司る職務や、音楽を司る官職を設けて天下万民を教育したのです。
三代の隆盛した時には、教育の法は完備されており、天子の都から村里に至るまで学校が設けられました。人は生まれて8歳になれば王公から平民に至るまでみな小学に入学して酒掃応対進退の節や、 礼楽射御書数を教えられました。子弟は15歳に達すると、太子より平民の俊秀なる者に至るまでみな大學に入学して、理を窮め心を正しくし己を修め人を治める道を学びました。 これ学校の教えが小学と大學とに区別されるゆえんであります。学校の設備が広く行き渡ることかくのごとく、子弟を教育する方法の次第順序の詳細なことかくのごとくにして、 その教育をなすゆえんは、人君が自らに実行し心に会得せる道理に基づき、すべて人民の生活上日々に用うべき一定不易の人倫の道の外に出ないのです。
それゆえ、三代の人は学ばざる者はなく、学ぶ者の本性に固有するところは仁・義・礼・智の徳であり、職分としてなさねばならないことは人倫の道であることを知って、 勉めて全力を尽くさない者はありませんでした。
このように古は政事が行き届き、下の風俗が美しく、到底後世の及ばないところなのです。
周が衰えるに及んで、聖なる君主は現れず、学校の制度も廃れたため、教化は衰え、風俗は壊れました。孔子のごとき聖人が現れましたが、 君主たる位を得て政治教育を行うことはできませんでした。そこで孔子は先王の法則を取り、これを伝えて後世に告げたのです。そのうちでも『礼記』の曲礼・少儀・内則や、 『管子』の弟子職などは、古の小学教育の支流というべきものを幾分かその面影を残していますが、この『大學』一篇は大學教育の明法を著したもので、外は規模の大を極め、 内は節目の詳細を尽くしたものなのです。
孔子の弟子は3000人はおり、孔子の説を聞かない者はいないほどです。しかし曾子の伝えるところがよく孔子の本旨を得ています。そこで曾子の徒はこの書を作ってその意味を明らかにしたのです。 孟子が没するに及んで、不幸にしてその伝統は滅亡しました。よって『大學』の書は存在していたけれども、これを知る者が少なかったのです。
これより以来俗儒の記誦博識をつとめあるいは華やかな文章を作らんと勉める風習は、その骨折ることは小学教育に倍して何の益にも立たず、 異端の道教仏教などの空々寂々の教理は高尚すぎて実際には当てはまりません。諸子百家や、農圃医卜のたぐい、世を惑わし民を誣い、仁義の邪魔をする者などが、又紛々とその間に雑出したために、 位にある君子は不幸にして大道の要旨を聞くことができず、人民は不幸にして至治の徳沢を蒙ることができません。梁・唐・晋・漢・周の五代、末世澆季の世となって、 壊乱その極に達しました。
天運は循環して行って帰らぬことはありません。宋の御代となって、徳隆盛にして政治教化は美しく明らかです。ここにおいて河南の程明道・程伊川の両先生が出られて孟子の伝統を継続され、 この『大學』をあらわし、すでにその文章の順序を定め、その趣意のあるところを発明せられた。その後、大學教育の法、孔子曾子の述べられた経伝の趣旨が粲然と復た世に明らかとなったのです。
熹の不敏なるにも拘わらず、また幸いに両程子に私淑して大道の要旨を聞くことができました。おもうに『大學』の書は放失して闕略もあると思われます。 そこで自分の固陋寡聞をも忘れてそれを取り集め、自分の意をもって補い、もって後の有徳の君子を待つのです。極めて身分不相応なことで罪は免れ難いと思いますが、 我が国家が民を教化し、学者が己を修め人を治めるゆえんの方においては、小補なきにもあらずと思うのです。
淳煕十六己酉の年二月甲子の日、新安の朱熹序す。

【宋朱熹章句】

子程子曰く「『大學』は孔子が後人に遺したまえるもので、初学者が徳に入る門戸である。今の世で、古人の学問の次第を見ることができるのは、この一篇があるからである。 そして『論語』『孟子』はこれに次いで必要の書である。学者はこの『大學』によって学べば、誤らざるに近いであろう」と。

経一章
大學の要旨は明徳を明らかにすることにあり、それを推して人に及ぼし、新生涯に入らしめなければならないことです(『大學』の三鋼領:明徳・親民・止至善)。
至善の地に止まることを知って、はじめて疑惑することなく定まることができます。身が安らかにしてのち、事を熟慮することができます。よく熟慮してのち、事の宜しきを得て、 過ちなきことができます。
物には本末があり、事には終始があります。物事の先後することを知れば、道に近いといえます。
古の明徳を天下に明らかにしようと欲する者は、必ずまず教化をもって国を治めます。その国を治めようとする者は、まず一家を斉えます。その家を斉えようとする者は、 まずその身を修めます。その身を修めようとする者は、まずその心を正しくします。その心を正しくしようとする者は、誠実にして自ら欺かないようにします。 その心を誠実にしようとする者は、まず知を推し極めて善悪の弁別に惑わないようにします。知を推し極めるには、大學の六芸(礼・楽・射・御・書・数)を研究して、 その道理を窮めることにあります。(修身斉家治国平天下、格物致知誠意正心)
六芸を窮め尽くしてのち、知至れりというべく、知至りてのち意誠にして自ら欺くことなく、意誠にしてのち心正しく、心正しくしてのち身修まります。一身修まってのち一家斉い、 一家斉いてのち国治まり、国治まりてのち天下平らかになります。
天子より庶人に至るまで、一切みな修身をもって本とします。その本が乱れて末が治まることはありません。身近なものほど厚く遇するが、天下が平らかであることを欲するのは、 遠いものを遇することで、人の上たる者は本を知ることをその務めとしなければなりません。
右(上)は経一章です。以上は恐らく孔子の言であり、曾子が述べたものだと思われます。これから記する伝十章は曾子の意見で、曾子の門人がこれを記したのです。 在来の本は本文の前後した所があります。今、程子が定めたように変えます。

経首章
康誥に『よく徳を明らかにす』とあります。太甲に『この上天の明々白々たる命令を顧みて、絶えず気をつけて失うことなし』となり、帝典に『よく大徳を明らかにす』とあります。 これらはみな自ら己の明徳を明らかにすることをいったものです。

伝二章
湯王の盤の銘辞に『誠に日に新たにして、日々心身を新たにし、またなおも日に新たにせねばならぬ』とあります。 康誥に『民を新たにする』とあります。詩経に『周は古い国をいえども、天命を受けて天下を取ったので、その命は維れ新たなり』とあります。ゆえに君子はその自らを新たにし、 民を新たにする極致を用いるのです。
右(上)の伝の二章で民を新たにすることを解釈したものです。

伝三章
詩経に『王者の都の邦畿千里の地は、これ民の止まる所である』とあり、詩経に『メンバンと鳴くウグイスは樹木が茂る丘に止まる』とあります。孔子曰く 「物はみなその止まる所があって、その止まる所を知っている。かのウグイスですら、その止まる所を知っている。いわんや人が鳥におとることがあろうか」と。
詩経に『穆々として深遠たる文王は、その徳は絶ゆることなく、敬して止まることがない』とあります。すなわち仁君となっては仁に止まり、人臣となっては敬に止まる。 人の子となっては孝に止まり、人の父となっては慈に止まり、国人と交わっては信に止まります。
詩経に『衛の武公を美していう。彼の淇水の隈を見れば、緑竹が猗猗と美しく茂っている。あの美しき緑竹のごとく、斐然として文ある君子がある。 人は骨角を治めるには、あるいは切りあるいは磋いてこれを器とし、玉石を治めるにはあるいは琢ちあるいは磨いて美ならしめるがごとくである。
その精神は瑟僴と謹厳であり、その風采は赫喧と外に著れている。かくのごとき斐然として文ある君子は、終に忘るることができぬ』と歌ってある。
さてこの詩の意は、切るがごとく磋くがごとしとは、学問をもって我が知を磨くことをたとえたものです。琢つがごとく磨くがごとしとは、自ら我が徳性を修めることをたとえたものです。 瑟僴とは、その心常に戦戦兢兢として恐れ謹むことをいい、赫喧とは、その徳面に表れ威があって猛からぬことをいいます。斐然として文ある君主は、終に忘るることができぬとは、 この武公のごとき君は、民はこれを愛して忘れることができないということである。
詩経に『ああ、前王忘れず』とあります。君子はその賢を賢として遺法に従い、その親を親として永くこれを尊敬します。小人は前王の余沢を楽しんで、 おのおのその業に安んずる利を持ちます。ゆえに後の人これを思慕して、その人すでに没すれども永く忘れないのです。
右(上)は伝の三章で、至善に止まることを解釈したものです。

伝四章
孔子曰く「訴えを聴いて裁判するのは、吾も常人と大差はない。私は民をして礼に従い法を守って、自然に訴えることをなくそうと思う」と。 もし実なき者は虚偽の言を述べ尽くすことができません。おのずから訴えなきに至らしめるのは、上の徳が明らかで民の心を畏服せしめるためです。 これを明徳が本であることを知るということです。
右(上)は伝の四章で、本来のことを解釈したものです。

伝五章
これを本を知るといいます。程子の説にこの一句は衍文ならんといいます。これを知の至りといいます。
右(上)は伝の五章で、格物致知の義を解釈したものであったが、今は亡びて無くなってしまいました。試みにひそかに程子の意見を取ってこれを補ってみました。
いわゆる知の致すは物に格るにありとは、吾が知を推し極めようとすれば、我が接する事物について、その道理を窮極にすることをいいます。けだし人心は霊妙であるので、 本来の知あることはもちろんです。また天下の事物にも道理なきものはありません。ただ事物の理について未だ窮め尽くしていない点があるために、 人心固有の知もまた尽くすことができないのです。
そこで『大學』のはじめには必ず学者に、天下の事物において、すでに知られている理をますます追求し、その至極に至ることを求めるものです。これにより力を用いること久しければ、 次第に熟達して、ついに心眼開け万事に通ずれば、衆物の表裏、精粗も到らないところはなく、万理を具える全体と万事に応ずる大用を明らかにしないことはありません。 これを物格といいます。これを知の至りといいます。

伝六章
いわゆるその意を誠にするとは、自分の本心を欺かないことです。悪を悪臭を憎むがごとく憎み、善を好色を好むがごとく好めば必ず善をなすでしょう。これを自ら快しといいます。 ゆえに君子は必ずひとり知るところを慎むのです。
小人は閑居独座すれば不善をなします。ひとたび君子を見れば恐れてその不善を覆い隠して、表にはその善を表そうとします。他人が自分を見ることは、さながら肺肝を見るがごとく、 かくして何の益もないことです。これを心の中の真相は、おのずから外貌に現れるといいます。ゆえに君子は必ずその独りを慎むのです。
曾子曰く「十目の共に見るところ、十手の指すところは、決して覆い隠すことはできない。富貴なれば家屋はおのずから美しく、徳が修まればその身はおのずから美しくなる。 心もおのずから広く、身体も常にゆたかにのんびりとなる。ゆえに君子は必ずその意をまことにするのである」と。
右(上)は伝の六章で、誠意を解釈したものです。

伝七章
いわゆる身を修めるのはその心を正すにありというのは、心に怒る情があれば正しきを得ず、恐懼する情があれば正しきを得ず、好楽の情あれば正しきを得ず、憂患の情あれば、 正しきを得ないということです。
心がその正を失えば、視ても見えず、聴いても聞こえず、食べても味がわからないのです。ゆえに心を正しくしてもってその身を修めなければなりません。
右(上)は伝の七章で、心を正しくし身を修めることを解釈したものです。

伝八章
いわゆるその家を斉えるのはその身を修めるにありとは、家が斉まるのは我が身の好悪が偏らないことによるものであり、親愛するものに溺れたり、賤しみ憎むものを甚だしく捨てたり、 畏敬するものを恐懼し、哀憐するものをみだりに恩を施したりしないものです。
その人を好んでしかもその悪しきことをも知り、その人を憎んでその美点を知るものは、天下にまれです。
ゆえに諺に「人はその子の悪を知ることがなく、その苗が大いに繁茂することも知らない」とあります。これを身が修まらなければ、その家を斉うことができないということです。
右(上)は伝の八章で、身を修め家を斉えることを解釈したものです。

伝九章
いわゆる国を治めるには必ずまずその家を斉うとは、我が家さえ教えることができないのに、その国民を教えることができるわけがないことをいいます。ゆえに君子は家を出なくても、 国民はみなその徳に感化するのです。親に孝なる心をもって君に事うればすなわち忠、兄に弟なる心をもって長者に事えればすなわち順、 子弟を慈しむ心をもって衆人を使えばすなわち恵です。孝・弟・慈の三つは君子が身を修めて家を教えるゆえんであるが、国民が君に事え長に事え衆を使う道もまたこれに外なりません。
康誥に『百姓を愛することは、慈母の赤子を保つがごとし』とあります。母たる者は真心を持って赤子の欲するところを求めれば、当らずといえども遠からず、 大抵その欲するところを知ることができます。誰でも子を育てることを学んで後に嫁する者はないが、真心を持ってすればこのとおりなのです。
一家が仁であれば、一国も仁となり、一家が譲であれば、一国も譲となり、人君が利を貪って道に戻れば、一国またみなこれに倣って互いに利を争い乱をなします。 そのはずみは全く人君の一身一家にあります。これ古語に一言の失は事を敗るに足り、一人の正は国を定めるに足るといいます。
堯舜は身をもって天下を師いるに仁をもってしたので、万民はこれに従いました。 桀紂は身をもって天下を師いるに暴虐をもってしたので、民は皆互いに相欺いたのです。上の好むところ、 下必ずこれに倣うことをこの通りです。ゆえに君子は自分が仁譲の徳を有してその後に民もまた仁譲の徳あらんことを求め、自分が貪戻の心なくして、 しかる後に民の貪戻の心あるものを非とします。
このように我が身に己を推して人に及ぼすところの恕の心なければ、到底人をさとすことはできないのです。ゆえに国を治めるのは、その家を斉えなければならないのです。
詩経に『桃の花が咲きみだれ、桃の葉は蓁々と生い茂る。その女の子が嫁いで、その夫の家の人々とよく睦まじく親しむ』とあります。この女子が家人を宜しくするがごとく、 君子はその家人を宜しくして後にもって国人を教えることができます。
詩経に『兄に宜しく弟に宜し』とあります。兄にも弟にも宜しくして後にもって国人を教えることができます。詩経に『その儀たがわずもって四方の国を正す』とあります。 その家にあって父は慈、子は孝、兄は友、弟は恭にしてみなその宜しきに違わずして後に民はこれに法とるのです。
これを国を治めるのはその家を斉えるにありといいます。
右(上)は伝の九章で、家を斉え国を治めることを解釈したものです。

伝十章
いわゆる天下を平らにするのはその国を治めるにありとは、人君が老人に仕える道をもてば、民は皆これに倣って父母に孝を尽くし、人君が長者に仕える道をもてば、民は皆これに倣い、 その兄に弟を尽くします。人君が父を失った孤児を憐れめば、民はこれに倣ってあえて背くことをしません。ここに君子は推して人を度るところの絜矩の道というものがあります。
人を使うことで無礼を憎むのであれば、必ず無礼をもって下の者を使ってはなりません。仕えることで不忠であることを憎めば、上の者に不忠をもって仕えてはいけません。 前人の憎んだことを、後人に行ってはいけません。後人の憎んだことを前人に行ってはいけません。右の者の憎むやり方で左の者と交わってはいけません。 左の者の憎むやり方で右の者と交わってはいけません。これを絜矩の道といいます。
詩経に『徳ありて楽しむべき君子はすなわち民の父母である』とあります。民の心をもって民の好むところはこれを好み、民の憎むところはこれを憎みます。これを民の父母になるといいます。
詩経に『截然と切り立つ南山は岩石がごつごつしている。勢いが盛んな尹氏はあたかも南山のごとく民を見ている』とあります。国をもつ者はこのように民の仰ぎ見る所であるから、 絶えず謹慎しなければなりません。もし絜矩の道を行えば天下の物笑いとなり大なる辱となります。
詩経に『殷の未だ衆心を失わなかったとき、よく上帝に奉り、天下の君となっていた。よろしく殷をもって鑑となすべきである』とあります。衆心を得ればすなわち国を得、 衆心を失えばすなわち国を失います。
このゆえに君子はまず第一に徳を慎みます。徳あれば衆心はこれに帰服します。衆人がこれに帰服すればおのずから領土も広まるから人あれば土ありといいます。 領土が広まれば租税が多くなるから、土あれば財ありといいます。租税が多ければ国用もおのずから豊かとなるから、財あれば用ありといいます。
要するに人君の徳が本で、財は末です。もし本である徳を疎んじて末である財を集めようとすれば、民は相争い奪って飽きることを知らなくなります。このゆえに、 上に財集まれば民心は離散し、恩恵を施して財を散ずれば民心は帰服します。このゆえに人に対して理にもとる言を出せば、人もまた必ず理にもとる言をもってこれに応じます。 理にもとる方法で貨を取り入れれば、また理にもとる方法で貨は出てしまうのです。
康誥に『上天の命は決して一定しないものである』とあります。これは人君が善であれば天命を得、不善なれば天命を失うことをいったものです。
楚書に『王孫圉が晋の大夫趙簡子に答えて楚国は珠玉をもって宝とせずして、有徳の善人をもって宝とす、と言った』とあります。 舅犯曰く「富貴をもって宝とせずしてただ親に仁愛なるを宝とす」とあります。これらの語は、実に本を外にし末を内にせざるものです。
秦・誓に『ここに一人の臣があり、真面目一方の人で他の技能はないが、その心は休々として寛容で、その人を容れる度量は広大である。 他人の技能を見ればこれを愛慕して自分の技能であるように思い、他人の徳を見れば真心よりこれを好む。ただ口でこれを称賛するのみでなく、誠によく才能の士を容れる人である。 よって我が万民を保ちて永く太平を楽しませる。国家のために利益があるであろう』
ただ仁人は公平無私だから、才徳の士を妨げる人を放逐し、これを国外の四方の夷狄の地にしりぞけ、中国の地に置かないようにします。これただ仁人のみ人を愛しよく人を憎み、 好悪の正しきを得るというのです。賢人を見て登用することができず、登用しても信用することが出来ないのは怠慢といわねばなりません。不善の小人を見て退けることができず、 退けても遠ざけることができないのは過失と言わねばならない。人の憎むところを好み、人の好むところを憎むのは、人の性にもとるといいます。 必ず天罰を受けてその身に災いを受けます。
ゆえに君子には大道があります。忠信にして己の真心を尽くして欺かず偽れざれば天下を得、驕慢にして驕り高ぶり、泰肆にしてほしいままなれば天下を失うのです。
天下を治めて財政を豊かにすることは速やかにして使用するのはむやみに使わないようにすれば財政は常に足りて豊かです。
仁者は財あれば施与に務め、不仁者は貪欲にして財を蓄えます。いまだ君主が仁道を行って臣民が正義をもって事に当らないことはなく、 正義をもって事に当って成功しないことはありません。かくて自然に集まった府庫の財は永く君主の使用する財となるのです。
魯の賢大夫孟献子曰く「馬を飼うほどの家では鶏や豚を飼って民と利を争うことはしない。喪祭に氷を用いる卿大夫以上の家では、 牛や羊などを飼って民の利を侵すことはしない。戦車百乗を有する家は、民の膏血をしぼり取る臣下を使わない。もしそのような臣下を使うなら、 いっそ府庫の財を盗む臣下がいたほうが宜しい。なぜなら盗臣なら我が家の財が少し減るだけでその害は大きくない」と。
この語は、国は君主の私利をもって利とせずして、万民の公義をもって利となすをいったものです。
およそ国家の長として財用を務める者は必ず小人より始まります。小人を登用して国家を治めれば、天の災いと人の害が同時に来るでしょう。 そうすればたとえ善人君子がこれを挽回しようとしても時既に遅く、いかんともしがたいのです。そこで国は君主の私利をもって利とせずして、 万民の公義をもって利となすというのです。
右(上)は伝の十章で、国を治め天下を平らかにすることを解釈したものです。伝はすべて十章あって、前の四章は三鋼領の趣旨を論じ、 後の六章は八条目の工夫を細やかに論じてあります。そのうち第五章は致知格物の解釈で善を明らかにする要領であり、第六章は誠意の解釈で、身を誠にする大本です。
この2つは初学者の是非しなければならない急務です。これを読む人はその解釈が卑近のことだからといって、これを粗略にしてはなりません。

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