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翁問答より学ぶ!心学の提唱・明徳と普遍道徳・全孝について

『翁問答』は、孝行を中心とする道徳哲学を、わかりやすく問答形式で説いた全2巻の教訓書・心学書です。
先覚者「天君」とその弟子「体充」の問答を傍らで聞いた人物が筆録したという形式で書かれており、人間の道を説いています。
中国明末における儒・仏・道三教一致の思想の影響を深く受けつつ、宗教的な立場を根底として人倫を示し、平明に理を説いた教訓読み物としても広く受け入れられていました。

著者は、近江国出身の江戸時代初期の陽明学者・中江藤樹
初め朱子学を信奉して孝の徳目を重んじ『翁問答』を著しました。
晩年は王陽明の陽明全書に接して陽明学※)を首唱し、日本の陽明学の祖となります。
後に村民を教化し徳行をもって聞こえ、近江聖人と称されました。
門下には、熊沢蕃山※)、淵岡山、中川謙叔がいます。

藤樹は陽明全書を読んでから、自分の学問を深め
「人の心の中の良知は鏡のような存在である。
 多くの人はみにくい色々の欲望が起きて、つい美しい良知を曇らせる。
 わたしたちは自分の欲望に打ち勝って、この良知を鏡のように磨き、
 曇らないようにして、その良知の指図に従うように努めなければならない」
とし、身を修める根本は良知に致ることだと説いたのです。
さらに良知に至る道筋として次の五事を正すことにあると、具体的な指針を示しています。
【五事】
 一 貌(ぼう)和やかな顔つき
 二 言(げん)温かく思いやりのある言葉
 三 視(し)澄んだ優しい眼ざし
 四 聴(ちょう)ほんとうの気持ちを聞く
 五 思(思いやりのある気持ち)
藤樹以降の陽明学者としては、三輪執斉、大塩平八郎、佐藤一斉、川田雄琴などがおり、陽明学の精神を生かした人としては佐久間象山吉田松陰西郷隆盛などがいます。

そんな藤樹の『翁問答』は、儒道、五倫の道、真の学問と偽の学問、文と武、士道、軍法、仏教神道などが論ぜられており、なかでも心学の提唱としての明徳と普遍道徳としての全孝が注目されます。

藤樹は、人が単に外的規範に形式的に従うことを良しとせず、人の内面・心の道徳的可能性を信頼し、人が聖人の心を模範として自らの心を正すことが、真の正しい行為と生き方をもたらすと説きました。(心学の提唱)
これは四書の『大学』における「明徳を明らかにする」という「明徳の説」でもあります。

また、父祖への孝のみでなく、一切の道徳を包括するところの孝の道を説いたのです。
人間社会もふくめて宇宙のすべては「孝」という一字から成り立っており、宇宙の根源というべき「孝」から、天地万物すべてのものが生まれた。
その孝は、人の胸のうちにも凝縮されており、その具体的営みは「愛敬」となる。
これは十三経の『孝経』における「全孝の説」です。

そして、愛敬の心と行いとを発揮するには、人の心にある明徳を明らかにする以外になく、この明徳と孝とは密接不離の同根関係にあることを、藤樹は説いているのです。
前者は藤樹の人間観であり、後者は藤樹の世界観、宇宙観といえるでしょう。

そんな『翁問答』。
関連する書籍も希少ではありますが、機会があればこうした教訓書・心学書で学んでみるのはいかがでしょうか。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【翁問答 上巻】

天よりも高く
・父母からうけた恵みは、天よりも高く、海よりも深いものである。それがあまりに広大で、他と比較することのできない恵みであるゆえに、利欲の心におおわれた凡人は、その恵みに報いることを忘れ、かえって父母の恵みの有無さえも、なにひとつ思わなくなってしまうのである。

父母の千辛万苦
・(父母のなしてきた)このような慈愛、このような苦労を積みかさねて、わが子のからだを養育したのであるから、人のからだすべて、小さな毛一本にいたるまで、父母の辛苦の、ふかい恵みでないものはないのである。

利欲の暗雲
・(われわれの胸中には)本心の孝徳がそなわっているにもかかわらず、父母の恵みに報いることを忘れているのは、いわば利欲の暗雲におおわれて、明徳の太陽の光がくらくなり、心の闇に迷うゆえである。

至徳要道という霊宝
・われわれ人間の身のうちには、この上ないりっぱな徳である至徳と、重要な道としての要道という、世界に二つとない霊宝がそなわっている。この霊宝をもちいて、心に守り身におこなうことを要領とする。

孔子述作の孝経
孔子は、永くふかい闇を照らすために、この霊宝を求めまなぶ鏡として『孝経』を述作されたのであるが、秦の時代よりのち千八百年の間、(至徳要道を)じゅうぶんにまなび得た人は、じつに稀である。

全孝の説①
・この(至徳要道という)霊宝は、天にあっては天道となり、地にあっては地道となり、人間にあっては人道となり、すべてに通用するものである。

全孝の説②
・もともと、その霊宝には名前などはなかったけれども、万民に(わかりやすく)教示するために、いにしえの聖人はその光景を写しとって「孝」と名づけたのである。

孝とは愛敬
・孝徳がおよぼす感覚を手っ取り早くいうと、愛敬の二字に集約することができる。愛は、ねんごろに親しむという意味である。敬は、自分より上の人を敬い、と同時に下の人を軽んじたり、ばかにしないという意味である。

忠とは
・裏切りの心がなく主君を愛敬することを「忠」と名づけるのである。

仁とは
・礼儀正しく、わが家臣たちを愛敬することを「仁」と名づけるのである。

慈とは
・しっかりと(人の道を)教えて、わが子を愛敬することを「慈」と名づけるのである。

悌とは
・なごやかですなおな心で年長の人を愛敬することを「悌」と名づけるのである。

恵とは
・善行をうながして年少の人を愛敬することを「恵」と名づけるのである。

順とは
・正しい定めを守ってわが夫を愛敬することを「順」と名づけるのである。

和とは
・正義を守ってわが妻を愛敬することを「和」と名づけるのである。

信とは
・(一言の)いつわりをも持たずに、ともだちを愛敬することを「信」と名づけるのである。

孝は無始無終
・もともと孝は、(宇宙の根源の)太虚がその全体の姿であり、永久に終わりもなければ始めもなく、万物すべてが孝でないものはないのである。

一人は太虚神明の分身
・自分のからだは父母から授かり、父母のからだは天地から授かり、その天地は(宇宙の根源の)太虚から授けられたものなので、本来自分のからだは、その太虚・神明の分身といえるのである。

すべて私心から①
・人間のさまざまな迷いは、みな私心より起こるのである。私心は、(父母から授かった)からだを自分のものと思うところから起こるわけである。

すべて私心から②
・孝は、そのような私心を取りのぞく主人公であるがゆえに、孝徳の本来を理解しないときは、たとえ博学多才の人であっても、本当の聖賢の教えを学ぶ者とはいえないのである。

不孝とは
・心にわけもないことを思ったり、あるいは怒るほどでないことに腹を立てたり、さほど喜ぶほどでないことに喜んだり、願うほどでないことに強く願ったり、悔やむほどでないことに悔やんだり、恐れるほどでないことに恐れたりするのも、みな不孝というものである。

一言のいつわり
・たった一言の偽りもまた不孝というものである。

迷える人の習慣
・(世間一般にみられる)迷う人の習慣に、富貴を最上のものと思い、それを第一の願いとするならば、自分にとって富貴を求める助けとなる人には、かぎりなく敬い追従し、(周りから)悪口を言われても、耐え忍んで恥としないものである。

順徳とは
・父母を愛敬することを根本とし、それを押し広めて父母以外の人々にも愛敬し、(聖賢の)道をおさめることを孝といい、順徳ともいうのである。

惇徳とは
・(自分にうけた)大根本の恵みを忘れて、父母を愛敬することなく、枝葉の小さい恵みに報いようとして、他人を愛敬するを不孝といい、惇徳ともいうのである。

惇徳の人は
・(そのような)惇徳の人は、たとえ才能が人よりもすぐれていたとしても、真実の人とはいえない。かならずついには神明の冥罰をこうむることになるのである。

孝行の条目
・孝行の内容はかず多くあるけれども、突きつめると二か条に集約できる。第一には、父母の心にうれいを持たず安楽なるようにすることである。第二には、父母のからだを常に敬い養うことである。

姑息の愛①
・その場かぎりの苦労をいたわって、わが子の願いのままに育てることを、姑息の愛といい、姑息の愛をば祇積の愛といって、親牛が小牛を舌でなめるような育て方に、たとえられている。

姑息の愛②
・姑息の愛は、さしあたっては慈愛のように思われるけれども、その子は気ままな性格となり、才能も孝徳もなく、禽獣のような心になってしまい、結局はわが子を憎み、悪の道に引き入れてしまうのと同じことになるのである。

子孫に道を教える
・さてまた、家をさかんにするのも子や孫であり、また家をだめにするのも子や孫である。その子や孫に、人としての道を教えずに、かれらの繁昌をもとめるのは、足がないのに歩いて行くことを願っているのに等しい。

胎教は母徳の教化
・子や孫に、人としての道を教えるには、幼少の時期を根本とする。むかしは、胎教といって、子どもが母の胎内にあるあいだにも、母徳の教化があった。

徳教とは
・根本真実の教化は、徳教である。口にて教えるのでなく、わが身を正して(聖賢の)道をおさめ、人がおのずから感化をうけて変化することを、徳教というのである。

師匠と友をえらぶ
・成童となってからの教えは、すぐれた徳のある師匠とよき友人をえらぶのを眼目とする。さて職業は、それぞれの器用と、それぞれの生活環境的な運命を考えて、本分の生まれつき、士農工商のなかから考え定めることである。

人は天地の子
・すべての人間は、天地の(恵みによって生生化育された)子であるので、われも人も人間の形あるほどの者は、みな兄弟なのである。

庶民はくにの宝
・農民・職人・商人は国の宝であるから、一層あわれみ育くんで、かれらの得た利益を自分の利益のように喜び、かれらの楽しみを自分の楽しみのように政治をおこなうのが、主君の仁と礼の概略である。

分形連気の道理
・世間の迷っている人を観察すると、おそらく血を分けた兄弟の関係は、他人よりも疎遠になっている場合が多い。わずかの物欲の争いで、まるで敵のような思いを結んでいる者がある。これは、分形連気という(一つの根源から生まれたという)道理を知らないためである。

心友とは
・お互いのこころざしが同じで、親しくまじわるともだちのことを「心友」というのである。

面友とは
・こころざしは違っていても、なにかの理由か、あるいはおなじ郷里や隣り近所、あるいはおなじ職場などで、再三ともにまじわっているともだちを「面友」というのである。

人面獣心
・人間に生まれて、徳を知り人としての道をおこなわなければ、人面獣心といって、姿かたちは人間であっても、心は禽獣となんら変わるものではない。

世間の学問
・世間で評判にあがっている学問というのは、多分にせである。(そのような)にせの学問をおこなえば、なんの利益もなく、かえって性格が悪くなり風変わりな人間に陥ってしまうものである。

正真の学問
・まことの学問は、(古代中国の帝王の)伏犠の教えはじめた儒道である。むかしは、教えも学問もこの正真のもの以外なかったのであるが、世も末になっていつとはなしに、唐土にも夷の国にも、にせの学問がかず多く出てきてから、にせ(の学問)が勢いを増して、まことの学問が衰微するようになったのである。

俗儒は徳しらず
・つまらない儒者のおこなう学問は、儒道の書物を読み、そのことばの意味をおぼえて、暗諭したり詩歌をつくることばかりし、耳に聞き口にその知識を説くばかりで、もっとも大切な徳を知り、心学をおさめようとはしないものである。

俗儒の学問①
・つまらない儒者のおこなう学問は、(まことの儒者のおこなう)正真の学問にことのほか近いけれども、こころざしの立て方と、学問の仕方によって、千万里ほどのおおきな誤まりをおかしている。

俗儒の学問②
四書五経をはじめ、そのほか諸子百家書物を残らず読みおぼえ、文章を書き詩歌をつくり、それによって自分の口耳をかざり、利禄をその報酬の目的にして、おごりたかぶるの心のはなはだ深きを、つまらない儒者の記調詞章の学問というのである。

心学とは
・聖人や賢人、四書五経の心を鏡として、自分の心を正すのは、始終ことごとく心の上の学問ゆえに「心学」ともいうのである。

心学は聖学
・この心学をしっかりとおさめると、普通の人間がりっぱな聖人の境涯にいたるものであるゆえに、また「聖学」ともいうのである。

口耳の学とは
・聖人や賢人、四書五経の心を教師として、自分の心を正すことに少しも心がけず、ただ博学にほこることだけを目標とし、耳に聞いてただ口に出すばかりで、そのような口耳のあいだの学問ゆえに、心学といわずに「口耳の学」ともいうのである。

口耳の学は俗学
・このような口耳の学にあっては、どれほど博学・多才であっても、(その人の)気立てやおこないは、世間一般の普通の人となんら変わることがないので、また「俗学」ともいうのである。

聖賢の心
・聖人や賢人といわれる人の心は、富貴になることを願わないし、貧乏をいやがらない。また生と死にたいしても一喜一憂をしない。さらには幸福を求めないし、わざわいを避けることもない。

まことの武とは
・武道を習わない(聖賢の)学問は、まことの学問とはいえない。(聖賢の)学問をおさめない武道は、まことの武道とはいえない。

文武は仁義
・学問は親愛を知る教えの異名であり、武道は道理にかなった教えの異名である。

文徳と武徳
・文学にふかく通達していても、(その人に)徳がなければ、文学を(社会に)生かすことができない。武術にふかく習得していても、(その人に)徳がなければ、武道を(社会に)生かすことができないのである。

真儒の門に入る
・軍法をまなぼうと思う人は、まずまことの儒者の門に入って、(わが胸のうちにある)文武合一の明徳を(りっぱに)発揮して根本を立て、そしてそののちに、軍法の書物をまなんで眼目・手足の実践的工夫を専念することが簡要である。

用の立たぬ人間なし
・主君が家臣をもちいる本意は、公明と博愛の心をもとにして、かりにも人をえらび捨てず、かれらの賢智・愚不肖、その
分相応の用捨にたいして私心なく、道徳や才智ある賢人を高位にあげて、処罰すべての話しあいの中心人物とし、また才徳のとぼしい愚不肖の家臣にも、かならず得意とするものがある。

心の暗き主君は
・暗愚の心をもった主君は、どれほどすぐれた(家臣の)侍を集め仕えさせても、かれらを登用することなく、ただ主君の心とよく似た、心の暗いくせ者ばかりの侍を使いたがるものである。

主君の心ひとつ
・よき家臣か、それとも悪しき家臣か、また国が乱れるか、それともよく治まるかは、結局は主君の心ひとつに往きつくのである。

政治の根本
・処罰や法制・禁令にも本末がある。主君の心を明らかにして(聖賢の)道をおさめ、国中の人々の手本となり、鏡となるのが、政治の根本である。法制・禁令の箇条は、政治の枝葉に過ぎない。

法度はなくても
・主君の好んでよく使うことばを、そのしもじもの領民までもみな真似をするものなので、主君の心が明らかで(聖賢の)道をおさめるならば、法制・禁令がなくても、おのずからかれらの心が正しくなるものである。

法治の限界
・もとを捨てて、すえばかりで治めることを法治といって、好ましくない。法治は、かならず法制・禁令の箇条がかず多くあって、その内容も厳しいものである。秦の始皇帝のさだめたそれが、法治の極みといえる。法治は、きびしいほどかえって、国内が乱れるものである。

徳治とは
・徳治は、まず自分自身の心を正してから、人の心を正すものである。たとえば、大工が墨曲尺というまっすぐな道具をもちいて、物のゆがみを直すようなものである。

法治は杓子定規
・法治は、自分の心は正しくないのに、人の心ばかりを正しくしようとするものである。たとえば、ことわざにいうところの杓子定規のことである。

すべては天の命
・人間の一生涯において、出会うところの生活環境、さいわいとわざわい、毎日の飲食にいたるまで、すべて(おおいなる上帝による)天の命でないものはないのである。

時と所と位
・処罰や法制・禁令は、主君の明徳を明らかにして根本をさだめ、(古代中国の)周礼などに記されている聖人のさだめた法律をかんがえて、その本意を知り、政治の鏡として、時代と場所と立場と(天・地・人の)一一一才にふさわしい至善をよく識別して、万古不易の中庸をおこなうことを、眼目とするのである。

政治と学問①
・政治は、(わが胸のうちにある)明徳を発揮する学問であり、学問というのは、天下国家をりっぱにおさめるための政治なのである。

政治と学問②
・天子および諸侯の身におこなう一事、口から発する一言のすべてが処置の根本になるので、政治と学問とは本来、同一のことわりであることを、はっきりと得心しなければならない。

人間はみな善
・天道を根本として生まれ出た万物ゆえに、天道は人と物の大父母にして、すべての根本である。人と物は、天道の子孫にして枝葉である。根本の天道が純粋にして至善であるならば、その枝葉である人と物もまた、みな善にして悪はないものと、得心しなければならない。

悪人とは
・才能があっても無くても、知恵があっても無くても、形気のよこしまな私欲におぼれ、本心の良知をくもらす者を、そうじて悪人というならば、たとえ才智や芸能が人よりもすぐれていたとしても、よこしまな私欲がふかく、良知のくらい人間はまさしく悪人である。

【翁問答 下巻】

学問の目的
・それ学問は、心の汚れをきよめ、自身の日常のおこないを正すことを、本来の中味とする。漢字が発明される以前の大むかしには、もとより読むべき書物がなかったために、(人々は)ただりっぱな徳のそなわった人のことばやおこないを手本として、学問をおさめたのである。

学問する人とは
・その(明徳の)心を明らかにして、身をおきめる思案工夫のない人は、たとえ四書五経を昼夜わかたず、手から離さずに読んでいるといっても、学問する人とはいえないのである。

にせの学問
・にせの学問は、博識の名誉のみを心の中心におき、同学のすぐれた人をねたみ、おのれの名声を高くすることばかり考え、高満の心におおわれて、人にたいする思いやりやまどころに乏しく、ただひたすら机上の学問ばかりをおこなうゆえに、かえって心だて、行儀が悪くなってしまうのである。

世間の迷い
・運よく富貴の身にあるならば、それは自分の智恵と才覚のよってもたらしたものと思い、(その反対に)運悪く貧賎の身になったならば、それは自分のおこないとは思わずに、親のせいにして人を責め天をうらむこと、すべて人間の迷いである。

文武兼備
・学問は、武士の所業ではないというのは、ひときわ愚かな世間の評判であり、迷いのなかの迷いである。その子細は、(明徳の)心を明らかにして行儀正しく、学問と武芸とが兼ねそなわるように思案・工夫することを、まことの学問というのである。

まことの読書
・文字を眼で見て、おぼえることはできないけれども、聖人のあらわした四書五経の本意をよく得心して、自分の心の鏡とすることを、「心にて心を読む」といって、まことの読書なのである。

眼にて文字を読む
・心による会得をすることなく、ただ目で文字を見て、おぼえることばかりするのを、「眼にて文字を読む」といってまことの読書とはいえない。

中庸の心法
・中庸にしてかたよりのない心法を保持して、財宝を用いたならば、私欲の汚れがすこしもないので、清白・廉直にして、私用の財宝も公用と変じて、おなじ道理となるのである。

私の一字
・私心におおわれた人間は、かならず気ままである。そのような人間は、かならず他人の異見を聞き入れようとはしないし、世間の非難の声にも反省しようとはしないものである。

謙の一字
・国家をりっぱにおさめ、世界をおだやかな社会にする要領は、謙の一字につきるのである。

謙徳は海
・謙徳は、たとえば海のようなものであり、万民は水である。海は低いところにあるので、世界中のあらゆる水は、みな海にあつまるように、天子・諸侯が謙徳を保持していくならば、国や世界の万民はみな心を帰して、喜びしたがうものである。

心学の有無
・心学をしっかりときわめた武士は、義理を固くまもり、よこしまな私欲がないので、世間の作法に感化されることはない。(その反対に)心学をおさめない武士は、よこしまな名声と利欲におぼれるものである。

正しき士道
・心の汚れがなく、義理にかなっているならば、(たとえ)ふたりの主君に仕えなくても、また主君を変えて仕えても、すべて正しい武士の道というものである。

徳仁義は人の本心
・明徳と仁義は、われわれの本心の異名である。この本心は、いのちの根元ゆえに、すべての人間に、この明徳と仁義の心のない者は、ひとりもいないのである。

腕力つよい武十
・大声で威喝し、自分の腕力をたのみとする人は、かならず他人をばかにし、闘争心がはなはだしいので、かならずけんかの犬死をしてしまい、親に心配をかけ、主君の知行を盗むことになり、心がいやしいものである。

おおいなる上帝
・聖人も賢人も、釈迦も達磨も、儒者も仏者も、われも人も、世界のうちにある、ありとあらゆるほどの人間は、すべておおいなる上帝、天神地祇の子孫なのである。

儒道・儒教儒学
・われわれ人間の大始祖であるおおいなる上帝、大父母である天神地祇の天命をおそれ敬い、その神道を敬いたっとんで、受用することを孝行と名づけ、また至徳要道とも名づけ、また儒道と名づけている。この儒道を教えることを儒教といい、これをまなぶことを儒学というのである。

迷いと悟り①
そもそも人間は、迷いと悟りとのどちらかに帰着する。迷うときは凡夫であり、悟るときは聖賢、君子、仏、菩薩である。その迷いと悟りは、(われわれの)一心のうちにふくまれているのである。

迷いと悟り②
・欲望ふかく、無明の雲あついために心月の光りがかすかとなって、闇の夜のようになるのを「迷いの心」といい、学問修行の功つもり、人欲取りのぞかれて無明の雲晴れ、心月の霊光が明らかに照らすを「悟りの心」というのである。

俵人とは
・心がねじけて、人をたぶらかすことの上手な者を俵人という。(信人は)才智たくましく、芸能や文学が人よりもすぐれ、弁舌じょうずでよこしまな私欲がふかく、義理を守ろうとはしない。人を化かすこと野狐のようで、人を傷つけること虎狼のような心根のある者が、俵人の棟梁というのである。

神明を信仰する
・神明を信仰することは、儒道の本意である。それゆえに、始祖を天に配し、父を上帝に配し、(人間のおこないの)神明につうじることが、孝行の極みであると『孝経』に説かれている。

儒道はすべてに
・もともと儒道は、太虚の神道であるゆえに、世界のうち舟や車のいたるところ、人力のつうずるところ、天の覆うところ、地の載せるところ、日月の照らすところ、露霜の落ちるところ、血気のある者の住むほどのところにて、儒道のおこなわれないところはないのである。

むさぼる心根
・官位につくことを欲とし、官位を捨てることを無欲とし、財宝をたくわえることを欲とし、財宝を捨てることを無欲と思うのは、いまだ明徳くらくして、官位を好み、財宝をむさぼる心根が残っていて、外物にこだわって、使い勝手の私心をもっているゆえである。

無欲と欲①
・神明の(清浄と正直の)道理にかなっていれば、(たとえ)天子の位にのぼっても、財宝をたくわえても、官位を捨てるも、財宝を捨てるも、すべて無欲であり、無妄というものである。

無欲と欲②
・(その反対に)神明の(清浄と正直の)道理にそむいたならば、(たとえ)天子の位を捨てるも、財宝を捨てるも、官位にのぼるも、財宝をたくわえるも、すべて欲であり、いつわりである。

善の名声
・(いつも)善の心で思い、善のおこないをなせば(世間から)善の名声がうわさされる。(古代中国の聖人)尭帝や舜帝孔子顔回などが、その代表的の例である。

悪の名声
・(いつも)悪事ばかりの心にあって、悪のおこないをなせば(世間から)悪の名声が広まる。(古代中国の)築王や村王、盗距などが、その代表的の例である。

習い染まる心①
・習癖に染まる心とは、(この世に)生を受けて以来、見慣れ聞き慣れて、無意識のうちに、いつとなく感化されて、染まってしまった心のことである。たとえば、水に朱色の絵具をとけば、その色赤くなり、緑青の絵具をとけば、青くなるようなものである。

習い染まる心②
・もともと、人の心に好き嫌いのさだまったものはないけれども、その人の生まれ育った国や土地の風俗、その家の習慣などに感化され染まって、好き嫌いの判断がいろいろに変わるのである。学問や芸能にも、(同様の)習癖の心がある。まず本心の真実をよく考えさだめて、その上にて習癖の心をよくしらべて、取りのぞくことである。

全孝の心法
・孝徳全体のありのままを明らかにする工夫を、全孝の心法というのである。全孝の心法は、広大にして高明、そして神明につうじ世界にもおよぶけれども、つづまるところの根本は、身を立て(聖賢の)道をおこなうことにある。

世間の儒者
・魯国の君主は、儒服を着ている人をさして儒者とあやまり、今の世間の人は、四書五経の儒害を読む人をさして儒者とあやまっている。そのあやまっている品物はことなっているけれども、真の儒者でないという、実体を知らない点においては、おなじ迷いである。

禍いを招く満心
・人心の私意を種として、知恵があったとしても、(その反対の)愚かであったとしても、自満の心のない人間は稀である。この満心が本心の明徳をくもらして、自分自身にわざわいをまねくくせものとなり、あらゆる苦悩もまた、おおかたこれより起こるのである。

謙の徳
・謙は、おだやかで公平無私の心をもち、みずから省みて独りをつつしみ、人をうらまず、人をばかにしたりせず、人にたいして善をなす徳のことである。

徳なき儒者
儒者という名は、徳にあって芸にはないのである。文学は、芸ゆえに生まれつき物覚えのよい人はだれでも修得することができる。たとえ文学にすぐれた人であっても、仁義の徳のない者は儒者ではない。ただ文学にすぐれた凡夫である。

人間の万苦①
・人間のいろいろの苦しみは、明徳をくもらしているところから起こり、世界の戦争もまた、(為政者の)明徳をくもらしているところから起こるのである。これは世界の大不幸ではなかろうか。

人間の万苦②
・(中国のいにしえの)聖人は、このことをふかく憐れんで、明徳を明らかにする教えを立てて、人々に学問をすすめたのである。四書五経に説かれている教えは、すべてこのことにほかならない。

幼童の心
・もともと、われわれの心の本体は、安楽なのである。その証拠として、幼児より五、六歳までの子どもの心を見るとよい。世間も、おさない子どもの苦悩のないすがたを見ては仏であるなどといっている。

明徳がくもると
・明徳がくもってしまうと、習癖にそまり人欲にとどこおり、酒色・財気の迷いがふかいゆえに、天下を得ればその天下を憂い、国を得ればその国を憂い、家あればその家を憂い、妻子あればその妻子を憂い、牛馬あればその牛馬を憂い、金銀財宝あればその金銀財宝を憂い、見ること聞くこと、そのおおかたが苦悩となるのである。

苦痛の原因
・苦痛というのは、ただすべての人が(私利私欲の)迷いによって、みずからつくった(心の)病気なのである。

苦楽は心にあり
・農民の耕転は、勤労の極みであるけれども、かれらの心には、さほどの苦悩はない。(古代中国の)大畠のなした治水は、その勤労の極みであるけれども、その楽しみは快活である。しっかりと実際の道理を体察したならば、苦楽は心にあって、外物にないことを、知ることができるのである。

惑いの塵砂
・心の本体は、もともと安楽なのであるけれども、迷いのこまかい塵砂が眼にはいって、種々の苦痛を辛抱することができない。学問は、このこまかい塵砂の迷いをあらい捨てて、本体の安楽に帰る教えであるゆえに、学問をしっかりとおさめて工夫.受用したならば、もとの心の安楽に帰ることができるのである。

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列子より学ぶ!清淡虚無、無為自然を重んじて他人と競わず!

列子春秋戦国時代の人、列御寇(河南鄭州人)の尊称にして道家「道」を体得した有道者。
その学問は黄帝老子の思想にもとづき、清淡虚無、無為自然を重んじて他人と競わず、よくその身を修めたといわれています。
列子』は道教経典のひとつであり、別名を『冲虚至徳真経』といいますが、万象の変化、万物の死生を論じており文章は『荘子』に類似して寓言が多いことが特徴です。
『天瑞』、『黄帝』、『周穆王』、『仲尼』、『湯問』、『力命』、『楊朱』、『説符』の8巻から成ります。

列子
”道(生きるもの)は宇宙の本体で虚無であり、一切の万物はこの道から生まれる。道は不生不変、無限無窮である”
といっており、宇宙に絶対の根源があると説いています。
つまり列子には
・”死と生は行ったり来たりするもの”(転生輪廻)
・”人間にも獣心あり、禽獣にも人心あり”(山川草木悉皆成仏)
といった思想が基本となっているのです。

往々にして、老子と比較されがちですが、
1.流出説的宇宙論
 宇宙論に於いて宇宙の根本原理より森羅万象が分出する有様を説くことが老子よりも精密である。
2.霊魂の不滅、肉体は入れ物
 老子の学説に於いても精神と肉体とを分かつけれども、其の区別は頗る明瞭を欠いて居る。
 列子はこれを明らかにし、肉体には生死あれども精神には生死といふものが無いとすること、又、人が生を楽しみ死を疾むけれども、それは生に執着し精神に生死なきを知らぬに由るとした。
3.現世否定、知識による解脱
 其の厭世的世界観よりして、常住安楽の境界を見出さんことを務めた。
といった特徴を持つ有道者です。

有名な故事成語としては、
・杞憂
・朝三暮四
・愚公山を移す
・疑心暗鬼
などがありますので、こうしたものを取りかかりに『列子』に触れてみるのはいかがでしょうか。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【天瑞 第一】
第1-13
中国の杞の国に、天地が崩墜して自分の居場所がなくなったらどうしようかと、寝食をできない程に憂える者がいた。
そんな憂える男を心配したある人が、その男のもとへと出かけて行き、諭して云った。
天というものは大気の集まりだから、大気の無い場所なんてものは無い。
僕らの活動なんてものは、一日中、天の中で活動しているようなものだ。
大気である天が墜ちるなんて心配しても仕方がないよ、と。
すると憂える男が問う。
天が大気だとしても、太陽や月や星々といったものが墜ちてはこないだろうか、と。
諭す者が云う。
太陽や月や星々といったものは大気の中で光っているに過ぎない。
もしも墜ちたとしても、僕達を傷つけるなんてことにはならないよ、と。
憂える男が問う。
地が壊れるのはどうだろうか、と。
諭す者が云う。
地なんてものは土の塊だ。
あたり一面に充塞して土の無い場所なんてものは無い。
僕らの行動なんてものは、一日中、大地の上で活動しているだけだ。
その地上が壊れるなんて心配しても仕方がないよ、と。
これを聞いた憂える男は、すっかりと安心して大変喜び、之を諭した者も一緒になって喜んだ。
この話を聞いた長廬子が笑って云った。
虹だの、雲霧だの、風雨だの、春夏秋冬だのといったものは、積気が天に集まりて成るものである。
山岳だの、河海だの、金石だの、水火だのといったものは、積塊が地に集まりて成るものである。
天が積気であり、地が積塊であることを知りながら、なぜ壊れぬと云うことができようか。
天地というものは、この宇宙においてはほんの小さな存在ではあるが、有形万物の中では最も巨大なものである。
故にこれを窮め尽し、測り識ることが出来ぬことなどは、本より当然のことである。
そう考えれば、天地が壊れることを心配している者など話にならぬし、また、天地は壊れぬとする者も是とすることはできない。
天地も有形のものである以上、その他の有形万物と同様に、いつかは壊れざるを得ないであろう。
その壊れる時に遇えば、どうして憂えずに居られようか、と。
これを聞いた列子が笑って云う。
天地が崩壊するというのも誤りであれば、天地は崩壊しないというのも誤りである。
崩壊するか否かは、どちらも一つの見解ではあるけれども、我々の知るところではない。
故に生死も去来も我々の知るところではない。
崩壊しようがしまいが、どうせ人は天地と共に有らざるを得ないのだから、そんなことに心を使ってもどうしようもないのである、と。

第1-14
杞憂:杞の国に天が落ちてくるのを心配して夜も寝られない男がいた。そんな心配はないと諭す男もいた。列禦寇先生は、天地が崩壊するかしないか人間にはわからない。生きている者には死んだ者のことはわからない。未来の人間には過去のことはわからないし、過去の人間には未来のことはわからない。だから、天地が崩壊するとかしないとかに心を悩ますことは無駄なことだ。といった。

黄帝 第二】
第2-5
不射の射:列禦寇は弓の名手だが、師匠の伯昏瞀人(はっこんぼうじん)に言わせると、それは射の射であり、不射の射ではないという。列禦寇は断崖絶壁の上ではぶるぶる震えて矢を射ることができなかった。師匠は、道を体得した者は心も顔色も動じないものだ。と言う。

第2-18
常勝の道:強は自分より弱いものには勝つが、自分より強いものには必ず勝つとは決まっていない。しかし、柔によれば必ず勝つ。

第2-19
朝三暮四:宋の猿飼いが貧乏になって猿の食い扶持を減らそうと、”どんぐりを朝に3つ、暮れに4つにしようと思うがどうだ”と猿に尋ねたところ、猿は皆怒り始めた。そこで、”では朝に4つ、暮れに3つにする。”と言ったら、猿は大変喜んだ。本質は変えずに、愚かな相手をいいくるめることができるのだ。

第2-20
木鶏:王のために闘鶏の鶏を飼っている男がいて、王が自分の鶏はもう戦うことができるかと問うたとき、”いやまだです。鶏は空威張りできおい立っているだけです。”と答えた。次に王が訪ねた時も、相手を見るときおい立つのでまだまだだと答えた。その次の時は、まだ相手を睨みつけて気合をいれると言った。次に王が尋ねたときは、”もう申し分ありません。いくら他の鶏が鳴きたてても自分は一向に動じません。遠くからみるとまるで木造りの鶏のようです。すっかり無為自然の徳を身につけました。他の鶏は皆逃げ出すでしょう。”と答えた。

【周穆王 第三】
第2-2
老成子は幻術を尹文先生に学んでいたが、三年の間、何も具体的な術を教えてはくれなかった。
そこで老成子は自分に何か過失があったのかと問うて暇乞いを願い出た。
すると尹文先生は室内に丁重に迎え入れ、左右の者を退けて老成子に云った。
昔、老子は西に往くときに吾を顧みてこのように語った。
有生の気も有形の状も、全て幻である。
造化より生み出され、陰陽に因りて変化するものを、生といい死という。
数を尽くして変を極め、形に因りて移りゆくものを、化といい幻という。
造物なる者はその功は神妙にして深遠、とても知り得て尽すことは出来ぬ。
だが、形に因る者ならばその功は形として顕れて易々と知り得ることができる。
形として存するものは随って起こり随って滅するが故に、永遠持続する存在とはなり得ない。
これ生死であり幻化であり、この双方は一である。
これを知り得てこそ幻術を学ぶことができるのである。
そもそも吾もお前も生死ある存在であり、これは即ち幻である。
この幻であることを自ずから覚れば、それで幻術を得るのであって、何か特別なことを学ぶ必要などは無いのである、と。
これを聞いた老成子はこの言を心に存して沈思熟考し、三ヶ月して遂に存亡自在を得るに至った。
老成子はあらゆる事象の陰陽を自由自在に変易し、冬に雷を起こし、夏に氷を張り、飛ぶものを地上に走らせ、地上を走るものを飛ばせることも可能となったが、終身その術を世に顕すことはなかったので、後世に伝わることはなかったという。
列子は云う。
本当に善く化する者は、無為自然であるが故に世の人々は誰も気付くことがない。
古の五帝の徳も、三王の功も、並外れた智勇の力を存した故ではなく、この自然と化したが故であって、この化は神妙にして深遠であるが為に、今になっては誰も知る由もないのである、と。

第2-6
鄭の人で薪を取る者が居た。
ある時、野に行くと驚いて走りだす鹿に出会い、これを待ち受けて撃ち倒した。
人に見つかることを恐れた薪取りは、慌ててこれを溝の中に入れ、上から草で覆い隠した。
大変喜んだ薪取りであったが、あまりの嬉しさにふと隠した場所を忘れてしまい、遂に夢となしてあきらめ、道すがらその事を呟いた。
傍らにこれを聞き付けた男が居た。
男はその言葉から鹿の在り処を見つけだし、家に持ち帰った。
家に帰ると、男は妻に告げて言った。
先ほど、薪取りが夢に鹿を得て隠した場所を忘れたと言っていたので、それを探し出したら見つけることが出来た。
彼の夢は真実であった、と。
妻が言った。
あなたが薪取りの鹿を得たるを夢見たのではありませんか。
あなたの夢だとすれば、どうして薪取りが居りましょう。
今、本当に鹿を得ましたが、これはあなたの夢が本当だったのではありませんか、と。
夫が言った。
鹿を得たことは真実だが、彼の夢が我が夢であったのかは分かりようがない、と。
薪取りは家に着いたが、鹿を失ったことを忘れられずにいた。
その夜、今度は本当に鹿の隠し場所とこれを探し出した者の夢を見た。
夜が明けると、薪取りは夢を頼りにして鹿の在り処を捜し求め、遂に鹿を巡って争いとなり、裁判となった。
司法官が言った。
お前は、初め本当に鹿を得て、妄りにそれを夢だと言い、今度は本当に夢に鹿を得て、妄りにそれを真実だと言う。
彼は、本当にお前の鹿を取りて、お前と鹿を争うも、その妻は夢に鹿を得たる人を見て鹿を得たのであって、人の鹿を得たのではないと言う。
今、ここに鹿があることは真実である。
故にこれを二分すればよい、と。
そして判決を鄭の君主に奏上した。
鄭君が言った。
ああ、この裁判もまた夢のようなものである。
司法官は夢に人の鹿を分つか、と。
そして判決を宰相に相談した。
宰相が言った。
夢か夢でないかは私には分かりません。
覚夢を論じようと欲するならば、ただ黄帝孔子の如き人物でなければいけません。
今は黄帝孔子も居りませんから、これを判断できる者など居ないのです。
ですから、司法官の判決の通りにするが宜しいかと存じます、と。

【仲尼 第四】
第4-13
白馬非馬:公孫竜は、白い馬は馬ではないという詭弁を使った。彼は、馬という実体と白いという馬の属性の二つの概念は別物であるから両方がくっついた白馬は別物であると言った。彼の詭弁は他に、親なし子牛にはもとより母牛はいない。なぜなら母牛がいれば親なし子牛とは言わない。物体は動いても影は動かない。前の影と物体が動いたあとの影は影の移動ではなく次々と入れ替わった別物だから。

【湯問 第五】
第5-2
愚公山を移す:愚公という90歳の老人は家の前の山が邪魔だったので子供たちと山を崩して道を開こうとした。近所の老人がそれを笑ったが、愚公は、”自分が死んでも子供があとを継ぎ、その子が死んだら孫が継ぐ。子孫は絶えることがないが、山は高くなることはないのでいつか山を平らにすることができる。”と答えた。これを聞いた天帝は愚公のまごころに感心し山を移してやった。

第5-7
孔子不能決也:日の出の太陽が昼間の太陽より遠いか近いかで二人の子供が言い争いをしていた。子供の一人が、朝の太陽は昼間より大きく見えるので近くのものが大きく見えるわけだから朝の太陽が大きいというのに対し、もう一人の子供は、昼間の太陽が近いから熱いと反論した。二人の子供がどちらが正しいか孔子に聞いたところ、孔子はどちらが正しいか決めかねてしまった。子ども二人は、笑って孔子を冷やかして、”お前さんをたいへんな物知りと言ったのはどこのどいつだね。”

第5-12
伯牙は善く琴を奏で、鍾子期は善く聴いた。
伯牙が志を泰山に登るに馳せて奏でると、鍾子期は言った。
善いかな、雄大なる泰山のようだ、と。
志を水の流れに馳せて奏でると、鍾子期は言った。
善いかな、広大なる江河のようだ、と。
伯牙の志を鍾子期は自らのように得たのである。
ある時、伯牙は泰山の北に出かけ、暴雨に出会った。
崖下に止まることになった伯牙は、心悲しんでその想いを琴に託した。
初めに霖雨の操を奏で、次に崩山の音を弾いた。*1
奏でる度に、鐘子期はその趣きを尽くした。
伯牙は琴を置いて嘆じて言った。
善いかな、善いかな、君の聴くことや。
その志を得ること、まるで私の心のようだ。
君の前では何も隠せはしない、と。

第5-13
偃師の人形:偃師が作った人形は人間そっくりで、周の穆王(ぼくおう)に献上したところ王の愛妾に秋波(いろめ)を送ったので王はたいそう怒ったが、偃師は人形をばらばらにして見せた。墨子の集団はそのころ城を落とす雲梯や空を飛ぶ木で作った鳶を誇っていたが、この人形を見てからは自慢しなくなった。

【力命 第六】
第6-3.1
管仲と鮑叔の二人は相許した親友であった。
共に斉の国に仕え、管仲は公子糾の守り役を、鮑叔は公子小白の守り役を務めていた。
当時、君主であった僖公は甥の公孫無知を嫡子の襄公と同等に扱っていたので人々は国が乱れることを案じていた。
やがて僖公が亡くなって襄公が即位すると、襄公は気に入らない者を次々と殺して斉国内は混乱した。
襄公の弟であった公子糾と公子小白は災いが及ぶことを恐れ、公子糾は管仲と召忽に伴われて魯の国へ、公子小白は鮑叔に伴われて莒の国へと亡命した。
しばらくして公孫無知が反乱を起こして襄公を暗殺したが、すぐに公孫無知も暗殺されたので、斉には君主が不在となった。
そこで亡命していた二公子は斉への帰還を争った。
管仲は莒の道を遮って小白を射殺せんと試みたが、放たれた矢は帯鉤に当って小白は生き延び、小白はそのまま一足先に斉へ到着した。
斉の王位についた小白は桓公と称し、魯を脅して子糾を殺すと、召忽は之に殉じて死し、管仲は囚われの身となった。
鮑叔が桓公に曰く、
管仲の能力は国を治めるのに足ります。
大いに用いるべきでしょう、と。
これに対して桓公が曰く、
我は管仲のせいであと少しで死ぬところであった。
死を与えて恨みを晴らしたい、と。
鮑叔が答えて曰く、
私はこのように聞いております。
賢君は私怨無く、主の為に尽す人は、又、人の為にも尽すものであると。
君が天下に覇を唱えんと欲するならば、管仲の力が必要となります。
そのような私事は寛大に処置すべきです、と。
桓公は遂に管仲を召し、魯は管仲を斉に還し、鮑叔は管仲を郊外に出迎えてその禁縛を解いた。
管仲は礼遇されて当時の国老であった高氏と国氏の上位となり、鮑叔は管仲に従い、桓公は政治を管仲に委託した。
管仲は仲父と号し、桓公は遂に諸侯を九合して覇を唱えるに至った。
管仲が嘗て慨嘆して曰く、
私が若くて困窮していた頃、鮑叔と共に商売をしたことがあって、利益を分配するときに私は勝手に多く取ったが、鮑叔は私を貪欲であるとはしなかった。
それは私が貧乏で金が多くいることを知っていたからである。
私は嘗て鮑叔の為にある計画を実行して、大いに失敗してしまったが、鮑叔は私を愚であるとはしなかった。
それは時に利と不利とがあり、如何ともし難い場合もあることを知っていたからである。
私は嘗て三たび君に仕え、三たびとも追放されたことがあるが、鮑叔は私を不肖であるとはしなかった。
それは私の才略を理解し、ただ時宜に遭わぬだけであることを知っていたからである。
私は嘗て三たび戦い、三たびとも逃げたが、鮑叔は私を臆病であるとはしなかった。
それは私に老母が居り、死ねば孝行を尽すことが出来ぬことを知っていたからである。
公子糾が敗れた時、召忽は死に殉じたにも関わらず、私は幽囚せられて辱を受けた。
それでも鮑叔は私を恥を知らぬ人とはしなかった。
それは私が小節を為さぬことを恥とはせず、ただ、天下に名の顕れぬことを恥とすることを知っていたからである。
私を生んだものは父母である、私を真に知るものは鮑叔である、と。
此れを世は「管鮑は善く交わり、桓公は善く賢能を用いた」と称賛したという。

第6-3.2
しかしよくよく考えてみれば、これは自然に定まったことのようなもので、善く交際したものでもなければ、善く用いたというわけでもない。
かといってこれ以上に善く交際するものがいるというわけでも、善く用いるということがあるというわけでもない。
召忽は死ぬべくして死に、鮑叔は挙げるべくして挙げ、桓公は用いるべくして用いただけのことである。
管仲が病となって危篤になった時、桓公管仲に問うて曰く、
仲父の病は大病であり、忌むべきことではあるが聞かざるを得ない。
もし、仲父に万一の時には我は誰に国政を預けるべきであろうか、と。
管仲曰く、
君においては誰に任せたいと思っておられますか、と。
桓公曰く、
鮑叔が相応しいのではないだろうか、と。
管仲曰く、
それはいけません。
鮑叔は確かに清廉潔白で素晴らしい人物ではあります。
しかし、彼は自らに若かざる者を容れませぬし、一たび人の過ちを聞けば一生忘れません。
もしも国政を任せれば、君は息つく暇もなく、人情に沿わぬ部分が多すぎて民に逆い、いつしか君にその禍が及んでしまうでしょう、と。
桓公曰く、
それでは誰が良いだろうか、と。
管仲曰く、
どうしてもというならば隰朋でしょうか。
隰朋は上に事えれば無心であり、下にも隔てがありません。
自らに対しては黄帝に及ばぬことを恥としますが、人に対しては自らに及ばぬ者でも哀れみます。
大体において、徳を人に分かち与えて、人を導く者を聖人と謂い、財を人に分かち与えて、人の窮を救う者を賢人と謂います。
己の賢を以て人に対する者に人は親しみませんが、己が賢であるにも関わらず自ら謙遜して人と接する者には人は惹かれるものです。
隰朋は賢でありますが、聞いても聞かぬ、見ても見ぬということができる者です。
ですから、どうしてもというならば隰朋に任せるのが宜しいでしょう、と。
この説話を見れば、管仲は鮑叔に対して薄いのではなく、薄くならざるを得ないのである。
同様に隰朋に対して厚いのではなく、厚くならざるを得ないのである。
たとえ始に厚くても、終には薄くせねばならぬ場合もあるし、終が薄くても始は厚くする場合もある。
したがって厚薄の去来というものは、全て自然に帰着するものなのである。

【楊朱 第七】
楊朱は言う。
「百年は寿命の限界だ。百年まで生きられる者は千人にひとりもいない。たとえ百年生きられても、幼児期と老人期の合計がほとんどその半分を占めている。さらに、夜眠っている時間、昼間むだに過ごしている時間が、そのまた残りの半分を占める。さらに、病気や苦悩、無為や心配が、そのまた残りのほとんど半分をしめる。残りの十数年のうち、悠然と気ままに過ごせる時間は、一季つまり三か月ほどもないのだ。とすれば、人間は人生で何を為し、何を楽しめばよいのか」
「太古の人は、人生が束の間の訪れであり、死が暫しの別れであることを知っていた。それゆえ、自分の心のままに動き、自然にたがわなかった」
「万物が異なる所は生であり、同じ所は死である。生きていると賢愚・貴賎の区別がある。死ぬと臭腐消滅し、みな同じになる」
「十歳でも死ぬし、百歳でも死ぬ。仁聖も死ぬし、凶愚も死ぬ。生きているときは堯・舜(ぎょうしゅん)でも、死ねば腐骨。生きているときは桀・紂(けつちゅう)でも、死ねば腐骨。腐骨は一様であり、誰も区別などはできない(腐骨は一なり、たれかその異なるを知らん)。しばらく当生に赴いているだけである。死後のことを考えているヒマなど無い」

【説符 第八】
第8-6
宋の人で主君に献上する為に楮の葉を玉で彫刻せし者が居た。
三年かかって出来たその玉の葉は、本物と寸分違わずして見分けのつかぬものであった。
故にその巧みさを以て宋の国に食禄を得るに至ったという。
これを聞いた列子は云った。
天地が物を生ずるに、三年かかって一枚の葉しかできぬとあらば、葉を有する植物に葉は無くなってしまうであろう。
だからこそ、聖人は無為自然なる道化を尊んで智巧で飾ることを戒めるのである、と。

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聖教要録、配所残筆より学ぶ!日常の礼節・道徳の重要性!

赤穂浪士らに多大な影響を与え、また後世では伊藤仁斎荻生徂徠吉田松陰、乃木将軍といった人物に影響を与えた思想家であり、山鹿流兵法及び古学派の祖である儒学者軍学者山鹿素行の著書、『聖教要録』『配所残筆』についてです。

『聖教要録』は、「聖人」から「道原」まで、28項の簡潔な解説から成り、孔子やその前の聖人の教えに還り、日用実践を重んずべきことを説いた書です。
幕府が推奨する朱子学を批判した先駆をなすもので、門人への講義である『山鹿語類』からその学説の中核を集録した3巻からなります。
「周公・孔子を師として、漢(かん)・唐(とう)・宋(そう)・明(みん)の諸儒を師とせず」とする古学転回後の素行学が体系的に展開され、「聖人」「道」「理」「徳」「誠」「天地」「性」「心」「道原」など28の重要語句に対して、簡にして要を得た説明がなされています。
天地に則り、人物の情にもとることなく、事業・法礼を廃棄せず、性心をもてあそぶことなく具体的な教えを述べるもの、と自ら示した「聖学」(素行学)の核心が書かれています。
これにより伊藤仁斎と並ぶ古学派の祖と称されたものの、本書は幕府から「ふとどきなる書物」とされ、素行は播磨赤穂に配流されています。

『配所残筆』は、『聖教要録』を出版したために赤穂藩へ流された素行の遺書の形でつづった自伝的書簡(1巻)です。
配所とは流刑地のことで、回想録の形をとり、仏教老荘さらに儒学(朱子学)を学び、最後に朱子学を批判して古学的境地(古学派)に至り、聖人の道を基準として日本が最も優れているとする立場に達するまでの思想的遍歴つづったものです。
ちなみに古学派というのは、陽明学をも含めて宋・明の新儒学を批判し、元来の孔子孟子の学問に帰ろうとした学派です。
日本最初の自叙伝としても重要であり「この世の現実に即さないで、ただ古聖人に忠実なだけでは自己満足するだけで現実離れしていき、結局、この世を捨てて山林に入り鳥獣を友とするしかない。読書を好んで詩文に耽り、著述をしても実用の役には立たない。(その類のものは)余暇にすべきもの」と陽明学的な言い回しをしているのが特徴です。

では、どうして朱子学を批判したのでしょう。
それは素行が、存在するものすべては個別的で、一つ一つに固有の理があり、それを無視して万物一源と論ずべきでないとして、抽象的・観念的な朱子学を批判し、学問とは日常に役立つものを指すとしたためです。
武士として日常における具体的行為を重んじ、朱子学が否定する情欲の中にも、「やむことを得ざる」自然として肯定されるべき誠がある。
誠はまさに自らの内面からの必然であり、日常の礼節などの道徳はこの誠を内に持ってこそ真実たりうる、そのため、孔子・周公の教えに帰ろうとした訳です。

素行は、幕藩体制下における武士の存在意義を、儒学における士・君子(徳ある為政者)と重ね合わせて、新しい武士道としての士道を説きました。
武士は徳によって農工商の上に立ち、道徳的指導者として国を治めるべきであり、礼節を重んじて驕り高ぶらず、高潔たるべしとし、武士の身分は天命によるがそれに驕ることは天により責められることと、強く戒めています。
農工商は生業が忙しく、倫理道徳を追ってはいられない。
だからこそ武士は、世の安定に勤める者としての自覚を持ち、三民の師として人々に道を教え、そこから外れた者を罰す存在だ、ということを説き、高貴な人格を求める者としての、新たな武士道※)を主張したのです。
※)武士道についてはこの件を含めて、後日改めて整理したいと思います。

素行は「武士道とは死ぬこととみつけたり」(葉隠)とまでは極論しませんでしたが、いざとなれば死を厭わない勇気を持ち、また「士の忠孝の相手は主君にあらずして朝廷(天皇)」としたのでした。
こうした素行哲学は、赤穂浪士に至る忠臣蔵に発展し、吉田松陰尊皇攘夷論、乃木希介の自決といった極端な時事で常に注目を集めることになります。
1868年に山鹿兵法の体現者だった松蔭の松下村塾の門弟が率いる新政府軍が素行の故郷会津藩を滅ぼし、素行の思想の結実までに200年の月日が流れていたのも、奇妙な縁と言わざるを得ません。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【聖教要録】

聖教要録小序
聖人杳(はる)かに遠く、微言漸(やうや)く隠れ、漢唐宋明(みん)の学者、世を誣(し)ひ惑ひを累(かさ)ぬ。中華既に然り。况(いはん)や本朝をや。先生二千載(さい)の後に勃興し、迹(あと)を本朝に垂れ、周公孔子の道を崇(たつと)び、初めて聖学の綱領を挙ぐ。

聖教要録上
聖人
聖人は知ること至りて心正しく、天地の間通(つう)ぜざること無し。其の行や篤(あつ)くして条理有り、其の応接や従容として礼に中(あた)る。其の国を治め天下を平らかにするや、事物各々其の処を得(う)。

知至る
人は万物の霊長なり。血気有るの属(たぐひ)は、人より知なるは莫(な)し。聖賢は知の至りなり。愚(ぐ)不肖は知の習なり。知の至るは、物に格(いた)るに在り。

聖学
聖学は何の為(ため)ぞや。人為(た)るの道を学ぶなり。聖教は何の為ぞや。人為るの道を教ふるなり。人学ばざれば則ち道を知らず。生質(せいしつ)の美、知識の敏(びん)も、道を知らざれば其の蔽(へい)多し。

師道
人は生まれながらにして之(これ)を知る者に非(あら)ず。師に随いて業を稟(う)く。学は必ず聖人を師とするに在り。世世(よよ)聖教の師無く、唯だ文字記問の助のみ。

立教
人教へざれば道を知らず。道を知らざれば、乃(すなは)ち禽獣(きんじう)よりも害有り。民人の異端に陥り、邪説を信じ、鬼魅(きみ)を崇(たつと)び、竟(つひ)に君を無(な)みし父を無みする者は、教化(けうくわ)行はれざればなり。
読書
書は古今の事蹟を載(の)するの器なり。読書は余力の為(な)す所なり。急務を措(お)きて書を読み課を立つるは、学を以て読書に在りと為すなり。

聖教要録中

中は倚(かたよ)らずして節に中(あた)るの名なり。知者は過ぎ愚者は及ばざるは、中庸の能(よ)く行はれざればなり。中庸を能(よ)くすれば、則ち喜怒哀楽、及び家国天下の用、皆な節に中(あた)る可し。中は天下の大本(たいほん)なり。


道は日用共(とも)に由(よ)り当(まさ)に行ふべき所にして、条理有るの名なり。天能(よ)く運(めぐ)り、地能(よ)く載(の)せ、人物能(よ)く云為(うんゐ)す。各々其の道有りて違(たが)ふ可からず。


条理有るを之(こ)れ理と謂(い)ふ。事物の間、必ず条理有り。条理紊(みだ)るれば、則ち先後(せんご)本末正しからず。


徳は得なり。知至りて内に得(う)る所有るなり。之(これ)を心に得(え)、之(これ)を身に行ふを、徳行と謂(い)ふ。

聖教要録下

理気妙合(めうがふ)して、生生無息の底(てい)有りて、能(よ)く感通知識する者は性なり。人物の生生、天命ならざる無し。故に曰く、天の命ずるを之(こ)れ性と謂(い)ふ、と。

道原
道の大原(たいげん)は、天地に出づ。之(これ)を知り之を能(よ)くする者は、聖人なり。聖人の道は、天地の如く、為すこと無きなり。乾坤(けんこん)は簡易なり。上古の聖人、天地を以て配(はい)と為す。董氏(とうし)の所謂(いはゆる)太原は、其の語意尤(もつと)も軽し。

【配所残筆】
我らことは身分の低きもの、ことさら無徳短才にて、中々歴々の御方々の末席に列し得らるる筈でないのに、幼少の頃より相当の者と思われ、歴々の方々の御取持(御世話)に預かった。これは全く我らの徳義の故とは思わず、天道の冥加に相叶える故なりと思う。それでいよいよ天命をおそれ万事につけ日頃慎んで居る次第である。

六歳より親の言いつけにより学問をさせられたが、不器用であって、漸く8歳頃までに、四書、五経、七書、詩文の書等、大方を読み覚えることができた。(※四書とは、大学、中庸、論語孟子。五経とは、易経書経詩経、春秋、礼記。七書とは、兵法書孫子呉子、尉りょう子、司馬法李衛公問対、六とう、三略)

9歳の時、稲葉丹後守殿(老中の正勝)の家来の塚田杢助が父と懇意の間柄であったので、我らを林道春老の弟子と為したいと頼んだ。杢助が序(ついで)の時に、そのことを丹後守殿へ申し上げたところ、幼少にて学問せんとするは奇特なことであると云うので、御城で直接に丹後守殿が林道春へ御頼みくだされた。それでかの杢助が拙者を連れて道春のところへ参った。その時、道春と杢助と永喜(道春の弟)も同座であったが、我らに論語の序文を無点の唐文にて読めと申された。それを我らが読んだところ、更に山谷(山谷集、宋の詩人黄庭堅の詩集)を出して読まされた。永喜の云わるるには、幼少にてかほどにも読み得るとは奇特なり。さりながら田舎学者が教えたものと見えて、訓点のつけ方悪しと。道春も永喜と同様に申され、感心し悦んでくだされた。それで特に親切にしてくだされて、11歳頃までに、以前読んだ書物の読み方の悪しきを訂し、更に無数の本にて読み直した。

11歳の時初めて元旦の詩を作って、それを道春に見せたところ、一字だけ改められて、それに序文を書き、幼少のものの作ったものとしては感心なりとの書状を副え、それに和韻した詩を作り下された。

同年、堀尾山城守殿(忠晴、松江城主)の家老の揖斐伊豆が我らに目を掛けられ、山城守殿へ召し出され、そこで書物を読んだ。伊豆は是非とも山城守に仕えるよう、すれば二百石下さると云うことであったが、我らの親が同意しなかった。

14歳の頃には詩も文も達者に作り得るようになったので、伝奏(将軍より天皇への奏上を取り扱う役)の飛鳥大納言殿(雅宣)がそれを聞かれ、召び寄せられた。そこで即座に詩を作ってお目に掛けたところ、大納言殿は和歌を御読みになり、且つ和韻の詩をも作られた。烏丸大納言殿(光広)それを聞かれて、即座に文章を作り下された。失礼ではあったが、我らも即座に対句を作った。若輩の時分でもあり、殊更即座の事であったから、只今見れば笑い草に過ぎないのであるが、又深く感心せられ、その後両公は御懇意に為し下され、折々は御伺い申し上げ、又詩文の贈答を致した。

15歳の時、初めて大学の講義をしたが、大勢の聴衆があった。

16歳の時、大森信濃守殿(佐久間久七)、黒田信濃守殿(源右衛門)の御望みにより孟子の講義をした。蒔田甫庵老人は論語を望まれた。これまた同年講義し、いづれもその翌年までに終った。これまた若輩の時分のこと故、定めて不埒なことばかりであったと思うが、その時分の事は、蒔田権助殿や、富永甚四郎殿らは今以てよく覚えておらるる。

我ら幼弱より武芸軍法の修行を怠らず、15の時に尾畑勘兵衛殿及び北条安房守殿に逢うて兵学の稽古修行をなした。(※尾畑勘兵衛は、甲州流の軍学者として有名な人。名は景憲)20歳になるまでに、門弟中で我らが大方上座になってい居たのであるから、北条安房守殿の筆で、尾畑勘兵衛殿が印可状(免許状)をくだされた。

21歳の時、尾畑勘兵衛殿再び印可状をくだされ、殊更門弟中汝の如きは一人もなしと云う印可の副え状と申すものを我らに与えられた。それの筆者は高野按察(あぜち)院光宥(両部習合神道家である)である。その文に云う、「文に於いては、その能く勤むるを感じ、武に於いては、その能く修るを歎ず。「あぁ文事有るに、必ず武備有りと。古人云う、我又云う」と。我らを称美せられた末句のこの文句は、勘兵衛殿のひたすらに好まれたところのものである。

17歳の冬、高野按察院光宥法印より、神道の伝授を受けた。神代三巻は勿論神道の秘伝は残らず伝授せられた。その後壮年の頃、広田担斎と云う人、忌部氏嫡流の者であるが、根本宗源の神道相伝せられた。その節忌部神道の日決は残らず相伝せられ、その書付け証文をくだされた。その中頃より石出帯刀と云う人が(門人として)来たり、我らに了解を得て、共に神書を聴いた。然るに、担斎がやがて死んだので、神書のこと帯刀のことを拙者に頼まれた。帯刀が神書のことで了解のできぬことは皆、拙者によって了解読心ができるようになった。これまたその時の書付け今もなお保存してある。

同年より歌学を好み、20歳までに源氏物語は残らず聞き、源語秘訣(源氏物語の秘伝)までも相伝を得た。伊勢物語、大和物語、枕草紙、万葉集百人一首三部抄、三代集(古今、後撰、拾遺)に至るまで、広田担斎より相伝を受けた。これにより源氏私抄、万葉、枕草紙、三代集の私抄注解などのあらましの撰述を為した。詠歌に志深く、年に千首の和歌を詠み得たれども、少し考えがあって、その後は顧みないこととした。右広田担斎より歌学に関することも残らず相伝せられた書付けが今もなお保存されている。尤も、職原抄(北畠親房の書)官位の次第、これの講義は道春より残らず聞き、その後にこれも又担斎より具に承りて、なお了解のできぬことは菊亭大納言殿(経季)へ申し上げ、大納言殿は、親筆で一々の口伝の御書付けをくだされた。このことは人々のよく知り居ることである。そこで我らに職原抄を伝授した人々は数多あると云う訳である。

若年の時より、くで兵右衛門殿、小栗仁右衛門殿の御取り持ちにて紀伊大納言(頼宣)様へ七拾人持ちにて召し出され、御小姓近習の役にせられる御約束になっていて、やがて御目見えの用意をしていた。又内々には岡野権右衛門殿が万事取り持たれたのであるが、阿部豊後守殿(忠秋、時の老中)が拙者のことを聞かれ、尾畑勘兵衛殿、北条安房守殿に御頼みになり、我らを召抱えたしと申された。しかし右大納言様への先約があるので御断り申し上げた。然るに大納言様は、豊後守殿に御抱えありたい意志があることをお聞きになって布施佐五右衛門殿を御使として、兵右衛門及び仁右衛門に仰せらるるには、豊後守殿が御抱えになりたいものを、大納言様へ引取ることは遠慮すべきである、例え御家来筋のものであるにせよ、豊後守殿ほどのものが御所望ならば、それへやって良い、豊後守殿の御用に立つことは御公儀(幕府)の御用なれば、豊後守殿へ召抱えるように為すべしと。このことは更に右の佐五右衛門殿が使者となって勘兵衛殿と安房守殿へも申し遣わさるる筈になって居るとのことであったが、右佐五右衛門殿が最早召抱えられるよう御両所へ約束ができて居ることであるが、如何致すべきやと申し上げたところ、兵右衛門殿も仁右衛門殿もそれは心易いこと、別に差し支えなしと仰せられたとのことである。拙者が考えるに、大納言様が右の如く御遠慮なされた上は、豊後守殿にも御抱えはあるまい、老中家(豊後守)は大納言家には遠慮もあるべきわけであるから、この方より御両家の何れへもお断り申し上げる方がよいと思い、岡野権右衛門と相談の上で、このことはそのままになった。

右の兵右衛門殿は謙信流の軍法者で、御歴々の人でその弟子になって居るものが多数あるのであるが、しかも我らの弟士になりたいとのことで兵学の御勤めを十分になされて居る。仁右衛門殿は御等に*身の柔道を御伝えくだされ、奥儀まで承って居ると云うほどに、別て御親切に預かって居る。岡野権右衛門殿は我らの若年の時より書物の講義をお聞きになり、残に兵法の弟子に成られたいとのこと、又御一門の中残らず我らに兵学をお聞きになって居るので、御心易く御親切を得て居る。

右の翌年、加賀松平筑前守殿(利常)が拙者のことを聞かれ、召抱えたしと、町野長門守殿を介して申された。然るに拙者の親は知行千石くださらなくば、出仕することは致さぬと申して、それを留め申した。筑前守殿でも七百石まではくださるるようの御話であると長門守殿が申されたと云うことである。
正保四年丁亥の秋、大*院様(将軍家光)が北条安房守殿へ築城設計図を仰せ付けられた際、拙者はおこりを病んでいたが、安房守殿は拙宅へ御出でになって、右設計図の御相談があった。それで陰陽の両図を製作した。右図面の書付け、並びに目録まで拙者と相談の上にて書かれた。その書付は残らず拙者の所にある。その節久世和州公(大和守広之)が安房守殿へ御出でになって、お目に懸ったことである。御覚えあるべし。

拙者25歳の時、松平越中守殿(定綱、桑名城主)が拙者を御召し出になり、学問兵学のことについて御研究御議論があったが、拙者の申し上げることをよく御会読なされ、別けて慶ばれて、拙者の弟士たることの誓状を書かれ、拙者に兵学の御相談をなさるるようになった。右誓状のあった翌日、三輪権右衛門が先だって遣わされた御太刀、馬代、時服(時候に応じた礼服。この三者を送るは、当時の礼儀であった)を持参せられた。追って越中守殿は(弟子入りり)御礼の為に、私宅へ御来臨になり、それ以後は毎度御懇意の詩文など時々御贈答があった。拙者の書いた文章を表具せられて、拙者を御招請の時には、それを座敷へ懸けられた。まことに勿体ないことで、却って迷惑至極なりと度々御断り申し上げた。このことは浅野因州公(因幡守長治)がよく御承知で、常にそのことを話された。越中守殿はその頃60歳になられ、(徳川家の)御一門であり、御譜代の御大名には珍しき学者である。兵法は尾畑殿の印可を得らるるまで御研究になり、東海道筋の第一の御大名である、されば人皆な崇敬して居る方であるのに、その御方が拙者を大いに御信仰なさるのであるから、くだされもののことまで、委しく書付け置いた。このことは今以て家中の人々が皆な知って居らるる。

同年、丹羽左京大夫殿(光重、二本松城主)が以前より我らに兵法をお聞きになっていたが、兵書のついでに荘子の講義をも望まれたので、折々それの講義をも申し上げた。荒尾平八郎殿や揖斐興左衛門等もお聞きになった。その時分は、我ら老子荘子の学を好んでいたので講義した訳である。然るに武田道安が明寿院(藤原せいか)に老荘相伝を受けていた。近代世上に荘子の講義などはなかったので、拙者が荘子を読むと云うことも心もとなきことなれば、一座して聞きたいとのことを浅野因州公へお頼みになった。ここで、因州公は拙者へお尋ねなされたので、右道安と丹羽左京大夫殿の内にて一座し、拙者の荘子の講義を聞かれた。道安が拙者を褒めること一通りではなかったと、このことは後まで因州公がお話になった。道安は医師である、殊更に学問も広く厚いが、明寿院以来にこれほどの者なしと、別で褒めたと云うことであるが故に、書き置くことにした。

大*院様の御前へ祖心が近く仕えていた時分に、祖心の申さるるには、御序の時に、その方のことをともに申し上げておいた。折々は御上意もあること故に、必ず家中へ奉公に出るようなことはしないようにせよ、松平越中守殿はその力を大切に思うていられるから、その方が御家人(将軍直参)になるようにお取り持ちくださるように、御内意をともに申し上げたところ、それは一段良いことと賛成せられた。そこで表向きは越中守がお取り持ちくださるから、松平伊豆守も又兼てよりその方のことを御存じ故、そして祖心へもそのことを御相談なされることになって居る。そこでまずその旨を酒井日向守(忠能)殿へも仰せ遣わされてあるから、お目に懸り置けとのことであった。それで越中守の御家老三輪権右衛門を連れさせ、日向守殿へ拙者を遣わされ、お目に懸って置いた。その後、越中守殿の申さるるに、酒井法印公(忠勝、大老)へは拙者のことを具(つぶ)さに物語りしておいたから、左様に心得置くべしと。その節空印公が上意により、祖心を下屋敷(別邸)にて御饗応になった時に、拙者を召し出され、御親切にしてくだされた上、越中守殿が拙者に就いての話を細かに為されたとの御挨拶があった。久世和州公(大和守)が又上意にて祖心を御饗応になり、道春が召されて、老子経の講義をした際、和州公の仰せにより、拙者もその末座へ召し出された。後に祖心の申さるるには、このことは皆上意によったものであるから、有り難く思うようにとのことであった。

卯年(慶安4年、30歳)、2月、御近習の駒井左京殿が、阿部伊勢守を御頼みになって、拙者の弟子となり、兵学をお聞きになりたしとの仰せであったが、幸いに御近所に北条安房守殿が居られることであれば、この方に兵学の御相伝を受けらるる方が宜しかろうと、たって御断り申し上げたのであるが、特別のお考えがあるとのことであったから、御意に任せて参ったところ、非常に御馳走になり、兵書をお聞きになって、早々御登城になった。右京殿と伊勢守との御両所間の御話は拙者はどういうことか承っていないが、脇にて承るところによれば、右京殿が拙者を召寄せられたのは、上意であったとのことである。このことを詳細祖心へ話したところ、それは大方そうであったのであろうから、いよいよ諸事を慎み、家中などへ奉公するようなことは無用なりと思えとのことであった。然るにその後、家光*去なされた。又松平越中守殿もその年12月に御逝去になった。
翌辰の年、浅野内匠頭(長直、長矩の父)が拙者へ直接に約束為されて、色々御鄭重に為された上、知行千石をあてがわるることになった。拙者は相応の職務を申しつけらるるよう、たって願い上げたところ、いかがお考えになったのか、勤番役とか、他家への便とか、そういう職務向きのことは申しつけられなかった。定めてそれは拙者が不調法ものなるによるのであろう。ただ稽古日を定め置き参上する時に、御馳走に預かる。かく全て浪人分に為し置かれた。

巳年(承応2)、播州赤穂へ参った時、大阪にて曽我丹波守殿は拙者の兵学の弟士なるが故に、別て御親切に取り扱われ、御馳走せられ、そこに二三日逗留していた。その時分に板倉内膳殿(重矩)が御兼職になって居られたので、丹波守殿へ相談せられて、9月21日、丹波守殿のところで、内膳殿へ終日御面会を申し上げた。翌年5月、江戸へ帰る内膳殿殿非常に饗応あり、道具等をもくだされた。

内匠頭方に9年仕えていたが、考える子細あって、書付を差上げ、子年、大嶋雲八殿を介して知行をお断り致した。その時も知行を増すから留まり居れよとまで仰せられたのであつたが、加増や利禄を欲して、知行を断った訳でない由を申し上げ、たって断り申し、知行を返納したことである。このことは大嶋雲八殿がよく御存じである。

知行をお断り申して以後は間(ひま)があって浅野因州公、本多備前守殿などが私宅へ御出でになった時分に、因州公がかく申された。以後は一万石でなくては、何れへも奉公せぬとその方が兼て申したことは如何にも尤もなことと思う。古来、戦国の時代には、陪臣であっても、高い知行を取った者が幾多もある。木村常陸介が5万石の時に、木村惣左衛門が5千石、長谷川藤五郎が8万石の時、島弥左衛門が8千石、丹羽五郎左衛門が12万石であって、江口三郎衛門と坂井興右衛門がその下にあって各1万石づつ取っておった。かようなことは珍しくない。

結城中納言殿(秀康、家康の子で越前家を立つ)が越前権頭であった時分に、国持の大名にされても、以前と変わって、別に満足と思うこともないが、しかし有り難いと思うことが二ケ条ある。その第一は年来身分が立派になったならば、召抱えたいと思うていた久世但馬をば今度二万石にて召し出した。このことは大名に仰せ付けられた為にその願いが叶うたのであると仰せられたと云うことを、石谷土人(名は貞満)が物語られた。
さて近来、我らの知って居ることでも、寺沢志摩守殿へ天野源右衛門が八千石で抱えられ、松平越中守殿へ吉村又右衛門が一万石にて抱えられた。この者共は有名な戦場をば一両度は経て居るものである。渡辺睡庵(勘兵衛)が藤堂泉州公(和泉守高虎)へ浪人五万石と云うのでなくば主取りにはならないと申したと、自分の覚書にもそのことを書いている。この者は上の両人よりも戦場にての場数も成功も多く、殊に一騎打ちの戦闘員と云うよりは大勢を指揮すると云うことを心がけたものである。これら両三人とも皆自分の承知して居る人々である。然るにその方は、もし戦闘に生まれたならば、成功は決して右の者らに劣りもすまいが、これは運命であれば、力業ではどうすることもできないことである。

しかし、第一博学多才と云う点から云えば、今日弘文院(林羅山)を置いては、(汝ほどの者は)他にあるまじく又聖学の要点を発明したと云うことは外国にさえないのであるから、古今を通じてその方一人と云うても良い。我らは12歳から兵学の稽古を為し、畠山殿の弟士になりてその流を極め、上泉流(上泉常陸介秀胤の始めた古流儀)を習うて、上泉治郎左衛門から相伝を受け、その後、尾畑勘兵衛殿の弟子となりて印可まで取った。北条安房守殿は一層心安く日々その教をも受けて居る。然るにその方の御影で、兵学の要点をば始めて得心することができるようになって有り難い仕合わせと思うて居る。それでその方へは別けて誓紙を出して弟子と云うことになったのである。されば兵法のことはその方をば無双のもののように思う。かかる次第なれば五万石をと望んだところで、不似合いとは云われない。その上一万石にて奉公しなくては、主用に立たぬと申すことは誠に当時にありては相応なる望み、尤もの儀と云うべきである。我らに十分の領地がなきが故に(その方を抱えることのできぬは)別して残念と思う。それでその方の一門の内にて一人でも二人でも出したいと思うから同意せよと仰せられた。

それで私はただ忝(かたじけな)い御意と存するとばかり申し上げて、そのままにしておいたところ、本多備前守殿へ度々仰せられて、たって一人だけでも良いからとて、お世話くだされたので、岡八郎右衛門16歳の時、因州公へ召し出され、過分の知行をくだされ、近習として今なお召し遣われて居るのである。ただ御親切とのみ云うばかりではない。磯部彦右衛門を御使として寄越され、八郎右衛門をば召しだしたことは御満足なりと、却って御礼を受けた。このことは因州公は勿論、松浦肥州公(肥前守*信)本多肥前守殿がよく御記憶のことであろう。松浦肥州公の御事は、以前よりその家中へ弟三郎右衛門が召抱えられて居て、漸次に御取り立てくだされ、御厚志浅からず、毎度大恩を請けて居る。そして拙者の心底をよく御存じになって居ることは、因州公よりも一層厚いのである。

松浦公、浅野公、本多備前守殿などが御一座の時は、領分が十分であったならば、拙者に一万石や二万石をくださることは何より安きことなりと度々申された。その時、拙者が、申し上げたには御両公様が右の様に思し召さるるのは拙者まことに冥加に叶えるものと思いまつるが、拙者のことを御承知なき方々は定めて途方もなきたわけものと思われるであろう。各様が御崇敬くださるるのを誠と思い、かくの如く高ぶりたることを申し居ると為すであろうと。ともかく因州公は御老年と申し、御学問も只今の御大名の内にこれほどの御方はなく、その上に紀伊守殿や但馬守殿の御家には、諸家に於いて名高きもの大勢を召抱えられ高い知行を受けて居る者もある。大方これらの人々の御話も御聞きになって居ることでもあり、殊更に兵学のことは兼て申された通りであるから、拙者輩がかれこれ批判すべきはずのものではない。松浦公は因州公よりは少々御年若で御自分文学(学問)とてはないが、昼夜書物を聴かれ、文武の諸芸から、儒仏の御勤め怠りなく、その上当代の古老どもを毎度御招請になって、御当家や、上方(京都)衆の近代の物語等、大分に御承知になって居る。近年御家中へ多くの人を高き知行にて差し置かれ、最も能ある者をば御使になって居る。それで中根宗閑とか、石谷土人とかは常に申して居る、家中の作法や、人の遣い方等、若年には珍しき武将なりと。その方々が度々申されることをば、石谷市郎右衛門殿又拙者等も聞いたことである。されば、この両公様のことは、御自分の勤めより始めて御家中や御領内に至るまで、御作法、御裁決、まことに残るところなしと、恐れながら思う次第である。然るに(かかる御方等から)一度や二度左様なことを云われたとて、それは時に応じての御挨拶として置くべきであろうが、度々仰せられることであるから、(一万石ならではと云う)拙者の存念も立つと云う訳で、安堵した訳である。拙者のことを御承知の御方々には(召抱えるだけに)十分なる御身分がなく、御承知くださらぬ方々は、途方もないものと思わるるであろうから、拙者は当分永の浪人と覚悟して居るから、諸事逼塞して居るところ存知て居りますと、その節申し上げておいたことである。

山口出雲守殿が御出でなって申さるるには、津軽十郎左衛門(越中守)殿の仰せらるるには、津軽越中守(信政)殿は知行高は少ないが、土地広く新田も多いのであるから、禄のことはその方の意のままにするから、このたび初めて領地へ行かるについて、拙者に随行して行くようにと御頼みになったと。それに対して、拙者申し上げた。まず以てそれは忝いことであるが、しかし越州公別て拙者に御目掛けられ候とも、何と云うともまだ御年若で居られる。しかも十郎左衛門や出雲守殿が仰せられることであるにしても、家中の人々、又他の人々が、このことを聴いて、御年若の方へ、よいように申し上げて、かようなことをしたのであろうと、後々まで批評せらると云うようなことがあっては、迷惑の至りであるからご免を蒙りたしと、かくお断り申し上げた訳であった。その後になって、津軽十郎左衛門殿御死去の時に、遺言にして拙者が(越中公へ)参候するようにと申し置かれた。そのことに就いての御底意を慮(おもんばか)り、越中公へは弥々御懇意のほどを忝く思うて、参上して居る次第である。

村上宗古老が別て拙者に申されたことは、各が承知のことである。宗古老が拙者方へ御出の時に申さるるには、我らは若い時より、ことにつけて師をとり誓紙を出して弟子入りしたことはない。殊更武芸などは、特別に人に習うたことはない。世上に軍法者と云う者多くあり、自ら師となって居るものどもが我らの所へ来て、軍法の話をしても、我らの関心するものは一人もない。これは渡辺*庵と日夜心安く話して居て、古来よりの軍法や弓矢の話をも毎度聞いて居るからであろうと思う。然るに近年その方に逢うて、軍法兵学の話を聞き、それに就いての色々批判論議などをして見るに、毎度耳を驚かすのである。睡庵は方々奉公して歩く人としては、近代稀なる武士と思うが、しかし軍法兵法の議論となれば、その方の前では口もきけぬことであろうと思う。それに就いては、自分は当年53歳で老学甚だ恥じ入る次弟ではあるが、今日始めて誓紙して、その方の兵学の弟士になりたしと、かく申された。

私が御答え申すには、私事をさほどに思し召さるることは特に忝く存する。古戦の物語や武功ども度々御話を承って、拙者こそ深く有り難く存じて居る次第である。何事によらず相伝と云うようなことは思いもよらぬことであると申したのであるが、たっての御望であったので、その意に任せて誓紙をなされることになった。その時分、林九郎右衛門こと弥三郎と名乗って居られた時で、宗古老とは懇意の間柄であつたから、このことをよく知って居られるであろう。
寛文6年午10月3日、未の上刻に、北条安房守殿より手紙をよこされた。切紙に自筆で、(略)

かく返事を認(したた)めて出した。まだ夕飯を済ませていなかったので、食事を心よく済ませ、行水を為し、これは唯事ではあるまいと考えられたので、立ちながら遺書をも認め残しおいた。尤も死罪にでもせらるることならば、公儀へ一通差上げて、相果たつべく考え、これをも書いて、懐中した。このほかに五六ケ所へは簡単な手紙を書いた。わざと老母へはこのたびの事を申しやらず、宗三寺(牛込にある父を葬りし菩提寺)へ参詣し、供人をばできるだけ省き、若党二人だけ召つれ、馬にて房州公の宅へ参った。四日には津軽公へ行く先約のあったことを、同公の門前で思い出したので、明日は参上できないことを、使いをして申し上げしめて、北条殿へ参った。すると門前には人馬が多く集まって居て、今から何れへか出向かう気勢であった。その有り様は、もし拙者が参らなかったならば、すぐに押し寄せて、拙者の宅をば踏みつぶしになさるつもりであるように思われた。私は刀を下の者に渡し、座敷へ上りて笑いながら、何事ができたのですか、御門前には殊のほか人が集まって居ますがと云うて、奥へ通った。暫くして、北条殿が出てこられ、お逢いしたのであるが、北条殿の言わるるには、入らざる書物(聖教要録のこと)を書いたものであるから、その方は浅野内匠頭の所へ御預けと云うことに(罪が)定められたから、直ちに役地へ参るべきである。それで何にまれ内へ用事があらば申してやるべしと、別て丁寧に申された。

福島伝兵衛が硯を持って拙者の傍へ参り、申し遺したき事あれば、伝兵衛が御取り次申すべしと言うた。それで私は北条殿に向うて申しあげた。かたじけのう存ずる、しかし平常家を出る時には、跡に心残りのないようにとつとめて来て居るから書付け置いてある、今更申し遺るべきことは何もござりませんと。その内に島田藤十郎殿もお出でなりたれば、北条殿も座敷へ列座せられて、その席へ私を召し出された。それで脇差を置いて、私がその座へ出頭したところ、北条殿、島田殿互に会釈があり、そして北条殿が仰せ渡さるるには、その方事は不届きなる書物を書いたによって、浅野内匠頭へ御預けなさるることに、御老中から仰せ渡しになったとの事であると。それで私は御返答申し上げた。まず以て御意の趣きかしこく御受け致しますが、しかし、御公儀様に対して不届きなりと仰せらるるが、それは右の書物の何れであるか、承りたいことであると思うと。すると、房州殿は、島田殿の方に向かわれて、甚五左衛門には申しわけもあるならんが、かく仰せ付けのあった以上は、申す訳にも及ばぬことであるとの御言葉であった。それで私は申し上げた。左様の御意見ならばとかくは申しませぬ、そう申して席を立った。御歩行目付(おかさめつけ、目付役に所属する警吏)衆が二人そこに居ってけ、内匠頭の家来を召し出して(拙者を引き渡すことの)命令せらるのに如何にも騒がしき有り様であったから、私は笑って、一礼して出たことである。その際の作法は立派であって残る所なかりしと、(引き渡しを受けた)内匠頭のものどもが、その晩に拙者へ噂を致していた。

内匠頭の所へ参っても一般の人には誰にも面会はしなかった。浅野因州公より磯部彦右衛門が来られた。それには面会をしても差し支えなしと(内匠頭の)家来どもが申したけれども、その人にも逢うことはしなかった。その節は随分不仕合せのことであり、迷惑至極ではあったが、皆な(表向きの事で仕方ないからそうせられたので)心の底から申されたことは少しもないのであるから、小事にしてすら申し置き、又申し遣わした事ども、一つも忘れては居ない。九日の未明に当地(江戸)を出発することになって居たが、御公儀よりの仰せには、この者には大勢の弟子や門人があるから、徒党を作って何らかの計画をするやら知れず、されば道中は勿論、江戸出発の時、芝や品川等にて奪い取るという計画もあるかも知れぬから、油断してはならぬとのことであったとの事である。護送の為に付いて居る者も心配して居るのであるから、朝より昼時、又昼休みより夜の泊まりまでは、大小便をもしないように心得て、同月24日の晩に赤穂へ到着した。我らはもとより、一匹夫なり。然るに一人の采配で大勢の者を従えて居るように人々が噂するのであるが、これは不仕合せなる内にも、少しは武士の覚悟ありと云うことになると云うべきか。この段は色々の噂もあったようであるが皆虚説風聞であったと云うことに漸次なって来たので、赤穂に於いてはいと心易く暮らして居る。
我ら配所と云うことに定められた際、北条殿より呼び出しがあった時、死罪となるか流刑になるか分からなかったから、もし死罪ということにでもなったならば、一通の書付を提出せんと考え、それを懐中して居った。その原稿が今に残って居る。この節は人間の一大事をも相究め、(人生)50年のこと夢の醒めたようになって居た時であったが、いささか心底に取りみだしたことはない。尤も迷惑はした。このことは日頃学問工夫を勤めた故であると、全く存じて居る。人間のことは一生の間にかかることはあるべきことであるから、自分の覚悟のほどを次の如くに記して置いた。

蒙(愚、拙者と云う意味に同じ)、二千歳の今に当り、大いに周公孔子の道を明らかにし、なお吾の誤りを天下に糺(ただ)さんと欲して、聖教要録を開板せるところ、当時の俗学腐儒身を修めず、忠孝を勤めず、いわんや天下国家の用などはいささかも之を知らず、故に我が書に於いて一句の論ずべきなく、一言の糺すべきなく或いは権を借りて利を貪り、或いは*を構えて追*せり。世皆之を知らず、専ら人口に任せて虚を構え、実否を正さず、その書を詳らかにせず、その理を究めず、強いて書を嘲り、我を罪す。ここに於いて我始めて我が言の大道にして疑いなきに安んず。天下之を弁ずるなし。それ我を罪する者は周公孔子の道を罪するなり。我は罪すべく、しかも道は罪すべからず、罪人の道を罪する者は、時世の誤りなり。古今天下の公論は遁るべからず。凡そ道を知るの輩、必ず夭災に逢うこと、その先*(先例)尤も多し。乾坤(けんこん)倒覆し、日月光を失う。ただ怨む今世に生まれて、而して時世の誤りを末代に残さんことを、これ臣の罪なり。誠*頓首山鹿甚五左衛門10月3日北条安房守殿

これは懐中にしただけである。もし死罪にせられたならばと思いしも別条なかりしが故に出さなかった。この文は立ちながら書いて点を付け、懐にしたので、今日取り出し見るに、書きよう宜しからざるものがあるようにも思う。恐れながら日本大小の神祇に誓う、一字も改めたものはない、誠に我らの辞世の一句である。

我らは以前に知行を断って、内匠頭殿の家を出たのであるが、今度は(その)内匠頭殿へ御預けと云うことになったのである。然るに配所にある間、別して親切にせられ、常に申さるるには、御預けと云うことにならなかったならば、その方は再びこの地へは参らなかったであろう。(幸いなことであるから)内々には随分馳走して遣わすべしと。それに就いて衣服食物家宅に至るまで、種々御丁寧に取り扱われた。大石頼母助(家老、良雄の父)は朝夕入り用の野菜をば、毎日二度づつ送って寄越される。江戸にいた場合もその通りにしてくれた。それで右の事を断ったのであるが、頼母助の申すには、これは全く自分の意志から出たことではなく、内匠頭殿が大切に思わるる拙者故に、かくするのであると申された。尤も配所にある間は(幕府よりの)御預かり人と云うことであるから、それに対して無法なことがあってはならぬと、家中の者にも鄭重にすべしと申しつけられたと。内匠頭が拙者の所へ御出でになっても以前よりかは却って慇懃(鄭重)になされるので、迷惑に感じて居る。
我らが(思し召しにより)参上し、兵学や学問を御聞きになり、我らの弟士に御成りの方々には、松平越中守殿を始めて、以上申す如く(内匠頭は)別て御崇敬なさるる。そのほか板倉内膳正殿などは、御老中になられても、度々御断り申したのであるが、御承知がない。浅野内匠頭は主人でありながら、上々様へ口切りの茶を献上せられた後に必ず拙者へもくだされ頂戴せしめられて居る。*女殿(長直の嫡子長友)はなおその通りにせられる。その外の御方も、大抵同様、上々様へ献上の口切りの茶をばくだされる。尤も以前御出入りして居た諸侯も、私が参上する時は御送迎になり、御開門をも御命じになるというほどであって、御鄭重なる御取り扱いに却って迷惑するのであるから、毎度御断りをしたのであるが、そうではない、私への礼義とは考えず、兵法の礼義であり、師弟の道なれば、(左様にするのである)と仰せられる。しかし如何にしても勿体ないと、度々御断りした。

凡下の拙者であり、無徳のものである、ただ御思し召しによって御指南は申し上げては居るが、左程までにせらるるだけの御伝授もできないから、迷惑致すと度々御辞退をしたのであるが、(何れも聴き入れられない)、侍従(の位にある人)四品(四位にある人)諸大夫(五位の人)の御方々に、かくまでにせらるるのは天命恐れ多きことであるから、せめては自分には奢のないよう、日夜の勤めいささかも怠らないようにするのが、この上の我らの慎みなりと、覚悟を定めたが故に、この如く常に子孫どもまで教え戒めおく。

今年で既に配所に居ること十年である。ただ今は一層天道の御咎めと云うことを考える。病中以外には一日と雖も朝寝はせず、不作法な体裁も致さずに居る。このこと、即ち朝夕為し居ることは、下下の者までよく承知のことであり、就中磯貝平助殿がよく存じて居る。以前よりかくの如く心掛けて来たものであるから、益もないものかも知れぬが、我らの述作せる書物が千巻ほどあるをもって言うならば、三韓を平げて貢物を献げしめ、高麗を攻めてその王城を陥れ、日本府(任那府)をそこに設けて武威を四海に輝かした。これは上代より近代までそうであった。本朝の武勇はかく異国までも恐れしめたが、終に外国より本朝を攻め取りたることはさて置き、一ケ所たりとも奪われたことはない。されば武具馬具剣戟(げき)の制、兵法軍法の各種、何れも彼の及ぶところではない。これは武勇の四海に冠たるによるのではないか。そもそも智仁勇は聖人の三徳である。この三徳の一つを欠いても聖人の道ではない。今この三徳を以て本朝と異朝とを比較し、一々にその印を立てて考査せんに、本朝はるかにまさって居る。誠に正しく(本朝をば)中国と云うべき理が明らかである。これは更に私言ではない。天下の公論であり、既に上古聖徳太子独り異朝を尊ばず、本朝の本朝たることを知られた。しかし旧記は皆入鹿(蘇我)の乱の際に焼失してしまったのか、惜しいかな、その全書現われない。
学問の筋を云えば、古今共にその類(品)多し。故に儒教仏教神道共に各一理あることである。我らは幼少より壮年に至るまで、専ら程子朱子の思想を研究しのであるから、その頃の著作は皆な程朱学派の思想に止まって居た。中比には老子荘子を好み、玄の玄なるもの、虚無と云う如き境地をば本なりと考えた。又この時分には別て仏法を尊び、五山(鎌倉の五禅寺、京都の五禅寺)の諸名僧知識にも逢うて参禅し悟道を楽しみ、その為には来朝した隠元禅師へも相見したのである。しかし我らの不器用の為にか、程朱の学をやると持敬静座(敬と云うことの工夫を静坐して考える方法)の工夫に陥ってしまい、かくして得られたる人柄は、つまり沈黙と云うことになるように思われる。

朱子学よりは老荘や禅の作略は一層活達自由であり、性心(本来の面目)の作用とか、天地一枚になると云うような妙用等、如何にも高明なるように思われる。何事をやるにも本心自性と云うところから出る働きを以てやるのであるから、渋滞がなく、乾坤を打破して一片とすと云う如き、万代不易の一理、如何にも*々(悟、静)洒落なるところのあることは疑いなしと考える。しかしかかることは今日日用事物の上に就いて考えるとどうも会得のできぬ点がある。それは我らの不器用の為でもあろうからと考え、今少しよく会読ができたならばこの疑問も去り、根本のところへ到り得るであろうと思うて、弥々この道を勤めて来た。或いは又日用事物の上のことは甚だ軽いことであるから、左様なものはどうでも良いとも考えられるが、さらばとて、五倫の道に身を置いて、日用事物を処理すると云うことにすれば、それをばどうでもよしとなし置くこともできず、そこに故障が起る。

樹下や石上に坐禅し、閑居独身の生活を為し、世間の功名と云うことを捨て去れば、成るほど無欲清浄になり、言語にて尽せぬ点もあり、妙用自在と云うこともあるであろうと思う。しかし天下国家四民のことに関しては、それではならぬことは言うに及ばず、小さなことに就いても、それでは世上一般の無学なる者ほどにも合点が往くまい。或いは(儒教の言う如く)仁を体認すれば、一日の間に天下のことが済んでしまうとも考えられ、或いは(仏教の言う如く)慈悲を本とすれば、過去永遠の罪滅ぼしと云う功徳になるとだけ云うのであるが、実はかかる学問は世間と学問とをば別の事と為す所以である。他人は知らず、我らにはかく考えらるる。これでは学問の至極ではあるまい。それで儒者仏者にも尋ねて見、大徳の人と云わるる人にも右のことを尋ね、その人のやり方等を見聞したのであるが、それらは何れも世間とは合わず、皆な事物と別になって居る。神道は本朝の道ではあるが、旧記は分明でなく、ことの一端のみで全体が整うていない。これには定めて天下国家の要法が書いてあったのであろうが、入鹿の乱後旧記絶えてしまったことと思う。かくの如く学問上の不審が起ったので、弥々広く書を読み、古の学者どもの言い置いたところのものをも考えて見たのであるが、不審の箇条は一向解けない。これは我らの料簡が違って居るからのことであろうと思い、数年来この不審の点が分からずに居た。

寛文の初め頃、我らの思うには、漢・唐・宋・明の学者の書を見て居ったから、合点がいかなかったのである。直ちに周公孔子の書を見て、これを手本として学問の筋を正し申すべしと。それからは、一般に後世の書物は用いず、ただ聖人の書だけを昼夜に勤め考えて、初めて聖学の道筋分明に心得、聖学の規範を定めたことである。それは例えば紙を真っ直ぐに裁つに当り、如何様に力を込めても、定規と云うものがなく、ただ手に任せて裁つとするならば、正しくはならぬ、又自分だけは(熟練すれば)正しく裁つことができるかも知れぬが、他人にもそうさせることはできない、然るに定規を当てて裁てば、大体例え幼若の者でも先ずその筋目の如くには裁ち得るのである。その間に勿論上手下手ということはある。しかしその筋目だけは一通りできるのである。然れば聖人の道筋と云うのは、その書をよく得心すれば、即ちその定規を知ったことであるが故に、何事によらずその人の学問次第、その道の合点ができる。これ故に聖学の筋には文字も学問も不用なり。それを聞くだけで今日の事を如何にすべきかの得心ができる。工夫だの持敬だの、静坐など、いらないことである。されば、例え言行正しく身を修めて、千言万語を暗記したとするも、それは雑学と云うものであって、聖学の筋ではないと、分明に知り得らるる。

又一言反句の間にもこれは聖学の筋目を知って居る人なりと識ることができる。これは定規を以て正しく堪え得るからである。ただ今は見られず聞かれざる事物に関しても、右の学筋より推及すれば、十の内五つ六つは知り得られる。然るに俗学雑学の輩は、十の内三つだけさえも合点がいくまい。このことを我らは確く信じて疑いはない。それで世上の学無なる者に所謂博学なる者が劣って、人にも笑われるようなこてもできるのである。い型なくして鉄砲玉を削り、定規なくして紙を真っ直ぐに裁んとするが故に、労して功なく、常に苦しみて益更になく、学問をすればいよいよ愚かになると、我らは考える。

学問の筋には種々ある。或いは徳を積んで仁を練り、工夫静座を専らとするものあり、或いは身を修めて人を正し、世を治平にし、功成り名高くなるのがある。或いは書物を好み著述詩文を専らとするものもある。而してこれらの種類にも又各上中下の差もできて様々の心得と云うこととなる。しかし我らの考えでは徳を以て人を感ぜしめ、もの云わずして天下自ら正しく、衣裳を棄て四海平に文徳を修めて敵が自ら感服せしめられると云うようなことは、黄帝や堯舜時代ならいざ知らず、宋代の今日では学び得ないところのことである。これをその型ばかり似せたところで、その験はないことである。それでかく考えるような学者は、その志は如何にも高尚であるが、終いには世に背いて山林に入り、鳥獣を友とすると云うことである。

書物を好み、詩文著述をこととすることは、之は学の慰というものであって、日用のことではない。但し文章も学の余分であるから、敢えて嫌うべきではない。故に余力の暇には詩歌文章も棄つべきではない。しかし我らが考える聖学と云うことは、それを以て身を修め人を正し、世を治平にし、功成り名遂げるように致したいものである。かく云う所以は実に我らは今日武士の門に生まれた、身についての五倫の交わりがある。されば自分の心得作法、外に五倫の交わり、(かく)内外共に武士たる上の勤めと云うものがあるからである。その上、武門に就いての仕事がそれぞれ大小種々ある訳である。

小事に就いて言うならば、衣類食物家の作り方、用具その用方に至るまで、武士には武士の作法があるべきである。殊更武芸の稽古や武具馬具の製作やその用法がある。大にして之を言えば、天下を平に治めること、礼楽の種類、国郡の制、山林河海田畠寺社、四民の公事や訴訟の裁判、政道兵法軍法陣法営法戦法等がある。これらは皆な武将武士たるものの日用の業である。されば武門の学問と云えば、ただ自分のみ修行しても、それぞれに当りてその験なく、功を立てるにあらざれば、聖学の筋ではない。この故に、以上の各に当りて工夫考察が必要であり、それに関しての旧記や故実をも考えなくてはならぬのであるから、それ以外に(特に)工夫黙識静座など致し居る暇のあるべきではない。さればとて又かく限りない種々の業を皆な習い知り尽すべしというのでもない。前にも云う如くに、聖学の定規、い型を能く知り規矩準縄に入ることができれば、見ることよく通じ、聞くことよく明らかとなり、如何様の業来るとも、その批判や勘え方が明白に知られるのであるから、事物に逢うて屈することなし。これが大丈夫の意志である。誠に心広く体豊なりとも云うべきである。この異議での学が相続する時、知恵日に新たにして、徳自ら高く、仁自ら厚く、勇自ら立って、終には(老子荘子の言う如く)功もなく名もなく無為無妙の地に至るべきである。されば功名より入れて功名もなく、ただ人たるの道を尽すのみである。孝経に言う。身を立て道を行い、名を揚げれば、後世に於いては、孝の終り也と。
以上、書付け来りし種々のことは、自讃のように聞こえるかも知れぬが、何れも遠慮すべきことでもないから書付けたという点に、我らの覚悟のところがあるのであるから、よくよく心して読むべきである。近年は配所へ参ってから十年となった。凡そものは十年にて変ずるものである。されば今年我らは配所に於いて打ち果てて、最早死期到来と覚悟して居るのである。我らの始終の動静はところどころに書いて置いたが、親切にしてくだされた御方も漸次残り少なくなってくるのであるから、我らの以前からの成り立ち(経歴)、勤め方、並びに学問の心得をばよく耳底へ留め置き、我らの所志の立つようにに勤められんことを切に希望する。最初に書き置きたるが如く、余は天道の冥加に叶うてかくの如くになったのであるが、第一には愚蒙ではあるが、日夜努力精進した故なりと思う。されば各々が自己の才学(の参考)にもなることと思うが故に、その時の話の例え、物語まで残らずここに記し置く。若年の者はかかることまで能く覚え置くことが大切である。(これは)他人に見すべきものでないが故に、文章の前後等ただ筆に任せて書いたのみである。よくよく得心せらるべきである。

藤助(嫡男)が生長したならば、利禄よき仕合わせを願うと云うようなことは止めて、子孫に至るまで不義無道の言行のないように覚悟するように為されたい。それが我らの生前の大望であり、死後の冥慮であるから、この如く記し置いたのである。磯谷平助にこの書を預け置く。よってかくの如し。以上

延実第三卯正月十一日山鹿甚五左衛門高興(花押)

山鹿三郎右衛門殿岡八郎左衛門殿

半紙一通合文一
四年以前卯年6月に私儀は御赦免を蒙りて、8月当地へ到着した。同14日、浅野又市郎(後の長矩)の家来大石頼母助と同道にて久世大和守様へ挨拶に参上した。その節両人へ直に仰せらるるには、以前より近づきであった者との出入りは許すが、浪人などを集めることは無用たるべし、住居は何れなりと心任せであると申し渡された。右の御意は今日まで堅く守って居るのである。その時より浅草田原町に借家住まいを為し、今もなおそこに居る。近年は病者となって残念ではあるが、行歩不自由であるが故に、大方はどこへも出ないで居る。当地着以来、以前よりの因縁を思われて、戸田左衛門公(氏包、大垣城主)やその他の御方から医者を遣わされたが、それへも御礼だけ申し上げるのみで、一度も御見廻(まい)も申し上げない。数十年以来、縁あって御目をかけられた御方々へは、自然御目にも掛って居る。これすら四年以来度々参上したことはない。浅野又市郎、松浦肥州公は之は特別な関係ではあるが、これすら少々のことにしていて、常には御目廻い申し上げずに居る。津軽越州公のことは前々より親切に致されて居る因縁にて、私一族の内で一両人御家中に奉公致して居る。只今は拙者の娘(鶴)を御家中へ嫁に遣わして居る。然れば右御三家のことは、主人同意と考え上げて居るのであるから、折々はこの方より御機嫌伺いに参上致しても宜しいこととは思うが、御断り申して、大方は参らないことにして居る。娘も御屋敷の内に居ること故、逢いたいとて参ることも遠慮して居る次第で、少々のことなれば参らずに居るのである。

四年以来縁故のない者には近づきにはならぬ、御大名衆へも新しく御出入りも致さぬ、小身の御方へは、一人も近づきにならぬ。殊更縁故のない家中の衆や浪人等はお断りを致して近づきにはならんで居る。

上野御門主様(輪王寺宮)へは冥加の為に一年に両度は必ずこの方より参上する。久世大和守様、土屋但馬守様(数直、老中となる)へは御機嫌伺いの為に折々参上致すべきなれども御用多きことであるから、わざと引き延ばして居る、当年も年頭の御礼に漸く正月末か二月頃に右御両所へは一度参ったように記憶して居る。道具を人にやると云うような噂があるようであるが、左様なことは少しもない。倅(せがれ)や弟や婿(むこ)どもには、自然古びた道具をくれることはあるが、れっきとした御方へは申すに及ばず、家中の人、浪人、その他の人に道具をくれたようなことは決してない。

拙者が松浦肥州公や津軽越州公の御家中の裁判のことに口入れをし、色々新法を立て、下々の者が迷惑することを申しつけたなどと方々に噂があるよう聞いて居るが、甚だ存じ寄りもないことである。娘が縁づいた際にも、隣家でも之を知らなかったほどに軽く取り扱うておいた。松浦肥州公とは御近所でありながら、縁づいたことを御承知なく、御使者もくだされなかったほどに軽きことであった。然るにこれもその時かくかくの大ぎょうなことを拙者が致したように申し触れしたのであるが、その一ケ条でさえ左様なことを為した覚えはない。只今は世上に拙者の名を売って方々へ兵学の師となるものがあるようにも聞いて居る。書物屋でも拙者の著作と云うて、高値にて方々へ売って居る本があると云うことをも聞いて居る。風聞故に偽りであるかも知れないが、四年以来と云うものは、師となったこともなければ、又書物を他所で出版したと云うこともない。

失礼ながら申し上げる。拙者が四十年以来御思し召しによって御目に懸り居る方々、御歴々方は申すに及ばず、家中の衆、縁故によりて自然に参ったと云う浪人に至るまで、不義不作法を為したと云う者は、今日まで一人も承らない。先年、悪人ども徒党をして罪せられた際も(由井正雪事件)、私方へ出入りするものは申すまでもなく、近づきの人にも、一人もなかった。これは拙者が冥加に叶いし事故と思うて居る。尤も日比は縁故のない浪人等とは、堅く出入りしないように十分に心懸けて居ることである。

拙者ごとは配所にて朽ち果てる覚悟にてありしが、各様の御影故、思いがけない冥加に叶うて、母の存命中に(江戸へ)帰ることができ、母と三年一所に移し、去年母はなくなった。今生の願いが叶うて有り難く存ずる。その後、病人となり、弥々何れも参らぬことにして居る。拙者事は元来凡下のものなるが故に、自然歴々の御方へはこの方ゆのお断り申して御出入りを致さぬことにして居る。それに就いて、酉年の大火(明暦3年正月5日の大火災)以後、高田へ引き込んで居て、大方は出ることがなかったが、その時分とは、只今はなお老衰もしたのであるから、逼塞致し居る次第である。

拙者の如き凡下の者が御公儀の御恩忝しと存するなど申すことが、既に失礼千万とは思うが、天下かくの如く治まり静かにして、その為に又数年静かに勉強することのできたことは、恐れながら天下の恩浅からざることと、有り難く存じまつる。殊更思わざる御赦免を得、江戸へ帰ることのできたのであるから、弥々以て日夜相慎み居るわけである。これが時分に相応しい志であるべきなりと、恐れながら考えて居る。もし戯れにも不義不忠なることを口より申したならば心もそれにうつりて冥加が忽ちに尽きるべし。このことは堅く勤め居るように、倅どもにも平生教戒して居る。されば御公儀様を軽しめたり、御法令を無視したり、御作法を批評したりすることが、仮にもあったとするならば、恐れながら冥罪甚だ重しと常々慎んで居るのである。就中四年以来は拙者を色々御世話くだされし御方々へ御苦労をかけることがあってはならぬ、もし左様なことがあれば、生々世々の迷惑なりと(考え)、不覚悟なること聊かもなきようにと、朝け暮れ心懸け居るので、このことは巳前より御目掛けくださるる方には、よく御存知のことで、今更申すまでもないことであるが、序ながらかくは申し上げる次第である。以上。

10月16日山鹿甚五左衛門
半紙一通合文二
拙者事は凡下無徳の者にて、歴々の人様への御前へ出られるほどのものではないのであるが、若輩の時分より御歴々様が御目を掛けられ、御世話にも預かって来た。これは私の徳の然らしむるところなりとは少しも考えて居らぬ。皆天道の冥加に叶いし故の事なりと存じ居るのである。右の通り故に、弥々逼塞し、高田にあっても、御近付きの人々を省き、浅野因州公、松浦肥州公だけには参上するように致して、その外の御方々へは大方に致し居る。然るに思わずも配所を仰せつけられ、十ケ年彼地に参って居た。日々老衰致し、帰ってから四年になる。只今は活きて居ると云うだけの有り様である。今少々は余命あるようなれば、その間何卒義理に相違しないように勤め、そして死にたいと覚悟をして居る。

右の次第、自分と云うものには不似合いのことをかく書付けると云うことは、別て心に迷惑を感じて居ることである。しかしこの事は以前から御目を掛けさせられた方々は皆な御存知のこと、就中松浦肥州公よく御存知の御事である。配所へ参ってからは13年になり、その内に参上申し上げていた御方々は御死去になり、只今は残って居らるる方が少なくなった。されば新しく拙者のことを御聞になされる方々は、一己独身のいたづら者のように思わるるであろうが、それは迷惑のことであるが故に、無益のことのようでもあるが、かくの如きことを書くのであるが、しかし何か事新しく言い立てるようで、如何はしくも存じもする。以上

10月16日山鹿甚五左衛門
半紙一通合文三
当(延実6年)5月14日に渡辺源蔵殿が本多下野守(忠平)殿の御饗宴に参られたとかで、拙者の宅へ押しかけて、御見廻いなされたから、御目に掛かった。しかし御立ち寄りの御礼にも参らず、駿府へ(役儀の為に)御立の節に御暇乞にも病気の故に参らなかった。酒井河内守(忠明)様の御内の地内與一兵衛は拙者の弟子筋であり、殊に浅野又市郎殿の家老である外村源左衛門の婿と云う関係の人である。当地へ帰ってよりその源左衛門から度々「近づきになりたし」と申し出たるも、断りて延引致して居る。当5月16日、外村源左衛門が右の與一兵衛と同道にて参ったが、当方よりは礼の為に使をさえ出さないぐらいのことで、一度も見廻いに参ったことはない。この外確かなる縁故の家中衆や与力衆(奉行の配下で同心を指揮する役目の者)などが自然に私の所へ参ることはあるが、縁故なき衆が、新しく近づきになると云うようなことはできないのである。

数年、拙者へ御目を掛けらるるは板倉内膳公、浅野因州公、松浦肥州公である。何れも拙者に対して師恩忘れ難しとのことにて、毎度自筆の恩手紙をくだされて居る。その手紙の一々が今もなお残って居る。然るにその内膳公が、拙者に不届きなることがあると云うように申されたとかの風聞を聴いた。風聞のことであるから、偽りとは思うが、心元なく思うものから、松浦肥州公まで委細申し上げたこともある。右の書付には種々不調法のこともあり、文言の前後もあり、又思わず失礼に当たるような言葉もあって、上々様の御耳障りにもなる所があるかも知れない。恐れながら心元なく存じて居るのである。拙者は十ケ年も蟄居して居り、帰ってからも逼塞して居るので、弥々世上のことにも疎くなって居る。それで書き違えなども所々あることであろう。御覧になったならば、御用捨てくださるるように御取りなしくだされたい。以上

10月16日山鹿甚五左衛門
板倉内膳公へ法泉寺にて拙者が御無礼申し上げたと申されたと云う風聞を承った。板倉公が御老中になられた時は、拙者の親が病気中であり、やがて、相果てたので、当方より御目見えは申し上げず、忌中忌明の後も、度々御使者をくだされ、毎度丁寧に仰せ下されたけれども、忌明後も拙者が病気になったが故に、御礼に参上もしなかった。翌年4月5日、始めて御礼に参ったが、その節は御他出中で、御目に掛かることができなかった。その後4月29日に拙者の近所の法泉寺へ御出でになり、そこへ参って御目に掛かるようとの仰せであった。尤も他には人がなく、石谷市右衛門だけが参られるのであるから、ゆっくり談しをするように参れとの御自筆の手紙をくだされたのである。それで法泉寺へ伺候した。拙者が参上の後に板倉公が御出でになり、御迎えの為に庭上まで出でたのであった。公が御着座になった後に敷居を隔てて度々御使者をくだされ有り難く存ずる旨を申し上げた。すると仰せられるるには、左様に堅くろしくては、話し合う訳には行かぬ、外所又は多人数の時は特別、今日はいつもの如くに内へ入り、遠慮なく御話し申し上ぐるようにせよと、再三仰せられたので、御心に従い恐れながら御一座へ入った。その時、御同氏石州公(板倉石見守)も御出になって居た。料理が出たので、まづそれを召しあがって御話などあった。板倉公の仰せらるるに、不徳の我らに大役(老中役)を仰せつけられ有り難く思うところであるが、何事も心元なく思う。第一天下の政は何事を専要とするべきかと御尋ねになった。拙者の如き凡下の者が天下の政道はかくあるべしなどと考え合わすことなどないが故に、自分の工夫と云うものはない。古来より聖人の申し置きたることは、天下の政は仁を木として礼を行うだけのことであると様に申し伝えてあると御返事申し上げたが、少々御合点がいかなかったのか、仁は左様でもあろう、礼は大事のものなりと、軽く御挨拶された。

次に仰せられたのは、保科肥後守殿(正之)の学問の筋はどう思うカとのことであった。拙者は保科公に御目に掛かったことがないから、存ぜぬと申し上げたところ、その方の思うところはどうかとの仰せであったから、未だ拝顔をも得ず、ただ風聞のみによって申し上げることは、間違いの多いものであるが故に、申し上げ難しと申し上げたところ、たっての御尋ねであったから、私は申し上げた。ただ風聞のみで申し上げれば、御学問の筋は失礼ながら、私どもの学問と考えて居るものとは相違あるように思うと。すると仰せらるるには、この方もそう思うとのことであった。

次に京都の所司代(守護の役)には誰をやるべきかとの仰せであった。拙者は(誰が問題になって居るのか)承って居ないと申し上げたところ、石谷市右衛門殿が永井伊賀守殿を指して申さるるのだと申された。私は永井公はまだ御年が若いではないかと申し上げたところ、年の老若には及ばぬ、力量次第のことではないかと仰せられた。

次に世間はどんな評判をして居るかとの御尋ねであったから、私は申し上げた。世上の風聞は全然承っていない。世上の風聞と云うものはさして益もないことかと申し上げたところ、仰せらるるには、世上には能ある者も多くあるべければ、それらのものの為す風聞を聴くのは良いことではないかと仰せられた。それで私は御返答申した。御歴々と云う内にさえ、賢人君子と云うべき人は少ない。然れば下々には能者と云う者は大方ないと云うて宜しい。もし能者があるとしても、風聞などは致すまい。風聞するような人は、大方は御大名衆へ出入りする軽い町人風情のことであろう。(世上に賢き者)即ち世才に長けた者のすることでありませうと。公は更にその世才に長けた者の云うことでも良いから、申せとのことであったので、私は申し上げた。恐れながら左様には思いませぬ、世間賢き者は、時代の勢いに従ってよくつとめる者であるが故に、上々様の能く思われることは、能く云い、御憎みになるものをば悪く云う、少しでも秀で居るものを障へ、我が身の立つように工夫する、他人のことをよきように申して、実はそれをそしり悪むのである。かかる者の申すことを御計上げになると云うようなことがあつたならば、それこそ大事のことであると存じ申すと申し上げた。すると、古より堯舜も賤しき者に事を尋ねられたと云うではないかと、公が仰せられたから、私は申し上げた。それは賤しき者の存ずべきことは、賤き者に尋ねると申すことなりと。この問答再三あり、少し御意に入らぬような御挨拶であつたが、私の考え居ることをば申し上げるようにとの仰せであったのであるから、少しく顧みず申し上げたので、それが定めて御無礼のように見えたのであろうと思う。

その後私は申し上げた。只今は方々に寺院があって、路次にも仏体を出して置くのであるから、下々の者でさえ、仏をば知って居る。日本の方々へ孔子堂を立てたならば、人々も又聖人の名を知るようになるであろうと。それには尤もなことなりと仰せられた。

御料理が過ぎて、やがて御立ちになる時、私が申し上げた。恐れながら申し上げることがあります。今度御老中になられたことは、失礼ながら仕合わせの良いことであると存ずる。しかし古より云うてある通り、仕合わせ良きものには、それだけ過失もあるとのことであるから、憚りながら、御慎みを加えられるように御願いをする。就中御威光の良いので、御令息様方へ、世上より御馳走をすると云うようなこともあるから、御勤め第一なりと存じ上げると。これは伯州公(重矩の子の重良、伯耆守)の御勤めが失礼ながら、心元なく思う下心から申し出たのであるが、その御心得はないような御挨拶であって、その方の心入れは十分に思うと仰せられ御慶びになったと云うことである。

その日に二条城の御番から帰った、野間金左衛門殿、猪飼五郎兵衛殿などが、御宅へ御出でになって待って居られると申して来たりしが故に、御帰りになった。それ以後は、公には御目に掛からない。以上のことは石谷市郎右衛門殿が御承知のことである。その後度々御自筆の御手紙や、くだされ物などがあり、石谷市郎右衛門殿へも、切々の御伝言もあり、やがて家の作事ができたならば、その節仰せ下さるる筈であるから、参るべき心組である。寺にて申しあげた種々のことは、今に失念せぬと仰せ下されて居るし、ことに御加増を受けられた時には、自筆の御手紙をくだされ、別て御丁寧な御取り扱いをくだされて居る。御無礼を申し上げて不届きなることと仰せられたとは、ただ風聞のみのことと、今以て左様に考えて居るのである。以上

10月16日山鹿甚五左衛門

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蒙求より学ぶ!蛍雪の功、漱石枕流にみる年少者啓蒙の書!

蒙求は、唐の李瀚が経史から歴史人物の逸話行跡を集約抜粋して著した、伝統的な中国の初学者向け教科書です。
日本には平安時代に伝えられ、鎌倉時代から江戸時代にかけて、武家・僧侶・町人にいたるまで勉学の第一歩としてこれを暗誦されたようです。
内容は、数多くの偉人たちの故事来歴を詳しく調べ、その業績の内容を適切な「四字成句」にし、韻を踏んで暗誦しやすいように配列してあります。
本文は四字句押韻の対語で596句2384字からなり、偶数句の句末で押韻し結語にあたる最後の4句以外は8句ごとに韻を変えている形式をとっています。
なお、『源氏物語』『徒然草』『平家物語』などや歌舞伎の筋立てや川柳俳諧の世界に至るまで、この蒙求の説話をヒントにした作品は数多あり、日本においてはまさに百科事典のごとき佳書だったことが伺えます。
中でも最も有名な故事成語としては「蛍の光 窓の雪」と卒業式でなじみの『孫康映雪 車胤聚蛍』(蛍雪の功)であり、「天知り 神知り 我知り 子知る」のことわざで名高い『震畏四知』、また「漱石枕流」などがあります。

蒙求|巻之一
『蒙求』徐注本標題

以下参考までに、簡単に目次と典拠などを一部整理しておきます。

巻上     典拠    登場人物     故事等
1.王戎簡要 晋書    王戎       視日不眩
2.裵楷清通 晋書    裵楷       武帝策得一
3.孔明臥龍 蜀志    諸葛亮      三顧
4.呂望非熊 六韜    太公望呂尚、文王 
5.楊震関西 後漢書   楊震       鸛進三魚
6.丁寛易東 漢書    丁寛、田何    
7.謝安高潔 晋書    謝安、高崧    蒼生を如何
8.王導公忠 晋書    王導、元帝    蒼生何由、吾蕭何
9.匡衡鑿壁 漢書西京雑記 匡衡、文不識 無説詩、客作
10.孫敬閉戸 楚国先賢伝          縄を以て頚に懸く
11.郅都蒼鷹 漢書    郅都、竇太后   匈奴偶人を作る
12.寗成乳虎 漢書    寗成、公孫弘   束湿薪、狼牧羊
13.周嵩狼抗 晋書    周嵩、三子、王敦 
14.梁キ跋扈 後漢書   桓帝、質帝    鳶肩犲目、朝廷為に空し
15.郗超髯参 晋書    桓温       能令公喜、能令公怒
16.王珣短簿 晋書    桓温、謝玄    大手筆の事、肥水の戦、風声鶴唳 
17.伏波標柱 後漢書・広州記 馬援、徴側  老益、矍鑠
18.博望尋河 漢書史記   張ケン    持節、支機石
19.李陵初詩 漢書史記   李陵、蘇武  降匈奴
20.田横感歌 史記    田横、高祖、二客、五百人 自剄、李周翰「挽歌論」
21.武仲不休 後漢書   傅毅       魏文帝「典論」(文人相軽)
22.子衡患多 晋書・述異記 陸機、張華   獲二俊、じゅんさい、筆硯を焼く、華亭の鶴唳、黄耳
23.桓譚非讖 後漢書   桓譚、光武帝   
24.王商止訛 漢書    王商、成帝、王鳳 真漢相
25.ケイ呂命駕 晋書    ケイ康、呂安    ケイ康好鍛
26.程孔傾蓋 孔子家語  孔子、程子、子路 
27.劇孟一敵 漢書    劇孟、周亜夫   
28.周処三害 晋書    周処、孫秀    忠孝不得両全、大臣殉国 


日本ではすっかり忘れ去られてしまった蒙求ですが、日本文学や文化芸能に多くの影響を与えているこの書物を改めて見直してみる機会になればと思います。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【1.王戎簡要】
晋書にいう。
王戎あざなは濬沖、琅邪臨沂の人である。
幼くしてすぐれかしこく、風采もすぐれ、太陽を視ても眩む事はなかった。
裴楷が評して言った。
王戎の眼は爛爛として巖下の雷光のようだ」
阮籍王戎の父である王渾と昔からの友人であった。
王戎が十五になると王渾に従って郎舎にいた。
阮籍は自分より二十歳年下であるが王戎と交友を結んだ。
阮籍は王渾に会いに行くたびにさっさと辞去し、すぐに王戎のところに行きしばらくしてから帰っていった。
そして王渾に言った。
「濬沖は清賞で卿のともがらではない(貴方とは比べ物になりませんな)。卿と話をするより、戎ちゃんと一緒に清談するほうがずっと良いですな」
王戎は)官を経て司徒に昇った。
晋の裴楷あざなを叔則、河東聞喜の人である。
かしこく見識度量があった。
若くして王戎に等しい名声を得ていた。
鍾會は(当時の相国である)文帝(司馬昭)に推薦し、相国の掾に召された。
吏部郎に欠員が出ると司馬昭は鍾會に問うた。
鍾會は答えた。
「裴楷は清通、王戎は簡要でどちらも適任です」
そして裴楷が用いられた。
裴楷は風采は高邁、容貌も俊爽で博学で群書に通じて、特に里義に精しかった。
当時の人は(裴楷のことを)玉人と言った。
またこうも言った。
叔則を見れば玉山に近づくように人を照らしかがやかすようだ。
中書郎に転任し官省に出入りすると、人々は粛然として身だしなみをあらためた。
武帝司馬炎)が践祚して皇位に登ると、易をおこない王朝の命数(何代続くか)を占った。
すると一と出たので司馬炎は喜ばず、群臣は顔色を失った。
裴楷は言った。
「私はこう聞いております。天は一を得て清く、地は一を得てやすく、王侯は一を得て天下の正義であると」
これを聞いた司馬炎は大いに悦んだ。
中書令・侍中に累遷した。

【2.裵楷清通】
晋書にいう。
王戎あざなは濬沖、琅邪臨沂の人である。
幼くしてすぐれかしこく、風采もすぐれ、太陽を視ても眩む事はなかった。
裴楷が評して言った。
王戎の眼は爛爛として巖下の雷光のようだ」
阮籍王戎の父である王渾と昔からの友人であった。
王戎が十五になると王渾に従って郎舎にいた。
阮籍は自分より二十歳年下であるが王戎と交友を結んだ。
阮籍は王渾に会いに行くたびにさっさと辞去し、すぐに王戎のところに行きしばらくしてから帰っていった。
そして王渾に言った。
「濬沖は清賞で卿のともがらではない(貴方とは比べ物になりませんな)。卿と話をするより、戎ちゃんと一緒に清談するほうがずっと良いですな」
王戎は)官を経て司徒に昇った。
晋の裴楷あざなを叔則、河東聞喜の人である。
かしこく見識度量があった。
若くして王戎に等しい名声を得ていた。
鍾會は(当時の相国である)文帝(司馬昭)に推薦し、相国の掾に召された。
吏部郎に欠員が出ると司馬昭は鍾會に問うた。
鍾會は答えた。
「裴楷は清通、王戎は簡要でどちらも適任です」
そして裴楷が用いられた。
裴楷は風采は高邁、容貌も俊爽で博学で群書に通じて、特に里義に精しかった。
当時の人は(裴楷のことを)玉人と言った。
またこうも言った。
叔則を見れば玉山に近づくように人を照らしかがやかすようだ。
中書郎に転任し官省に出入りすると、人々は粛然として身だしなみをあらためた。
武帝司馬炎)が践祚して皇位に登ると、易をおこない王朝の命数(何代続くか)を占った。
すると一と出たので司馬炎は喜ばず、群臣は顔色を失った。
裴楷は言った。
「私はこう聞いております。天は一を得て清く、地は一を得てやすく、王侯は一を得て天下の正義であると」
これを聞いた司馬炎は大いに悦んだ。
中書令・侍中に累遷した。

【3.孔明臥龍
蜀志にいう。
諸葛亮、あざなは孔明、琅邪陽都の人である。
みずから隴畝を耕し、梁父吟を好んでうたい、つねに自らを管仲、樂毅に比していた。
当時の人でこれを認める者はいなかった。
ただ、崔州平、徐庶だけは友人としてなかが善く、本当にそうであるとおもっていた。
その時、劉備が新野に駐屯していた。
徐庶はこれに謁見し言った。
諸葛孔明臥龍です。将軍は彼と会うことを願いますか。この人はこちらから出向けば会えますが、呼びつけることはかないません。なので御自ら出向いて会われるべきです」と。
劉備は遂に諸葛亮に会いに行った。
三度訪問して会うことが出来た。
人払いをして二人で天下の事を計ってこれを善しとした。
そして日増しに親しくなっていった。
關羽、張飛等は悦ばなかった。
劉備は言った。
「弧(わたし)に孔明が有るのは、魚に水が有るようなものだ。だからこれ以上は言ってくれるな」
(そして劉備が)尊號を称するに及んで(帝位につくと)、諸葛亮を丞相とした。
漢晋春秋に曰く。
諸葛亮南陽の鄧県襄陽城の西に住んで、そこは隆中といわれている。
六韜にいう。
周の文王は狩りをしようとしていた。
史編が卜(亀の甲を焼いて占って)をして言った。
「渭陽に狩にいけば大いに得ることが出来ましょう。それは龍ではなく、彲(みずち)でもなく、虎でもなく熊でもありません。兆(亀の甲に入ったひび)によれば公侯を得るでしょう。天は貴方に師を贈り、貴方をたすけさせ、それは三人の王の代に及ぶでしょう」
文王は言った。
「兆に間違いは無いか」
史編は答えた。
「私の先祖の史疇は舜のために占って皐陶を得ました。この兆はそれに匹敵します」
文王は三日斎戒して、渭陽で狩りを行った。
ついに、太公(望)が茅に座って釣りをしているのに出会った。
文王は労って天下の事を問い、自分の車に乗せて帰り、たてて師とした。
旧本には非熊非羆となっている。
おそらくこれは世俗が誤って伝え、訂正しなかったからである。
按ずるに後漢の崔駰の達旨の文に、「あるいは、漁夫(太公望)が自分から亀甲に兆をつくって見せたのかもしれない」とあって、
注には「西伯(周の文王)が狩りをしようとして占うと、獲るものは龍ではなく、螭(みずち)ではなく、熊ではなく、羆でもない。獲るのは覇王の輔佐となるものだ」とあります。
旧本の非羆はこれにもとづいているのだろう。

【4.呂望非熊】
蜀志にいう。
諸葛亮、あざなは孔明、琅邪陽都の人である。
みずから隴畝を耕し、梁父吟を好んでうたい、つねに自らを管仲、樂毅に比していた。
当時の人でこれを認める者はいなかった。
ただ、崔州平、徐庶だけは友人としてなかが善く、本当にそうであるとおもっていた。
その時、劉備が新野に駐屯していた。
徐庶はこれに謁見し言った。
諸葛孔明臥龍です。将軍は彼と会うことを願いますか。この人はこちらから出向けば会えますが、呼びつけることはかないません。なので御自ら出向いて会われるべきです」と。
劉備は遂に諸葛亮に会いに行った。
三度訪問して会うことが出来た。
人払いをして二人で天下の事を計ってこれを善しとした。
そして日増しに親しくなっていった。
關羽、張飛等は悦ばなかった。
劉備は言った。
「弧(わたし)に孔明が有るのは、魚に水が有るようなものだ。だからこれ以上は言ってくれるな」
(そして劉備が)尊號を称するに及んで(帝位につくと)、諸葛亮を丞相とした。
漢晋春秋に曰く。
諸葛亮南陽の鄧県襄陽城の西に住んで、そこは隆中といわれている。
六韜にいう。
周の文王は狩りをしようとしていた。
史編が卜(亀の甲を焼いて占って)をして言った。
「渭陽に狩にいけば大いに得ることが出来ましょう。それは龍ではなく、彲(みずち)でもなく、虎でもなく熊でもありません。兆(亀の甲に入ったひび)によれば公侯を得るでしょう。天は貴方に師を贈り、貴方をたすけさせ、それは三人の王の代に及ぶでしょう」
文王は言った。
「兆に間違いは無いか」
史編は答えた。
「私の先祖の史疇は舜のために占って皐陶を得ました。この兆はそれに匹敵します」
文王は三日斎戒して、渭陽で狩りを行った。
ついに、太公(望)が茅に座って釣りをしているのに出会った。
文王は労って天下の事を問い、自分の車に乗せて帰り、たてて師とした。
旧本には非熊非羆となっている。
おそらくこれは世俗が誤って伝え、訂正しなかったからである。
按ずるに後漢の崔駰の達旨の文に、「あるいは、漁夫(太公望)が自分から亀甲に兆をつくって見せたのかもしれない」とあって、
注には「西伯(周の文王)が狩りをしようとして占うと、獲るものは龍ではなく、螭(みずち)ではなく、熊ではなく、羆でもない。獲るのは覇王の輔佐となるものだ」とあります。
旧本の非羆はこれにもとづいているのだろう。

【5.楊震関西】
後漢の楊震あざなは伯起、弘農華陰の人である。
若くして学を好み経書にくわしく、博覧で窮きわめなかったものはなかった。
諸儒は彼を評して言った。
「関西の孔子、楊伯起」と。
つねに湖に寓居して州郡の礼命(出仕命令)に答えないこと数十年、人々はこれを晩暮と言った。
しかし志はいよいよ篤かった。
後に鸛雀があって、三匹のうなぎを口に含んで講堂前に集まった。
都講(塾頭)がうなぎを取って言った。
「蛇鱣は卿大夫の服の模様である。数が三であるのは三台(三公)にのっとっているのだろう。先生(楊震)は今から三公の位に登るだろう」
五十才になるとはじめて州郡に仕えて、安帝の時に太尉となった。
前漢の丁寛あざなは子襄、梁の人である。
はじめ梁の項生は田何に従って易を授かった。
この時、丁寛は項生の従者だった。
易を読むのは精敏で才能は項生をしのいでいた。
そしてついに田何に師事した。
学が成って東へ帰った。
田何は門人に言った。
「易は東へ行ってしまった」と。
また、周王孫に従って古義を受けて周子傳といった。
景帝の時に梁の孝王の将軍となった。
易説三万言をつくった。
その注釈は大誼をのべているだけだった。

【6.丁寛易東】
後漢の楊震あざなは伯起、弘農華陰の人である。
若くして学を好み経書にくわしく、博覧で窮きわめなかったものはなかった。
諸儒は彼を評して言った。
「関西の孔子、楊伯起」と。
つねに湖に寓居して州郡の礼命(出仕命令)に答えないこと数十年、人々はこれを晩暮と言った。
しかし志はいよいよ篤かった。
後に鸛雀があって、三匹のうなぎを口に含んで講堂前に集まった。
都講(塾頭)がうなぎを取って言った。
「蛇鱣は卿大夫の服の模様である。数が三であるのは三台(三公)にのっとっているのだろう。先生(楊震)は今から三公の位に登るだろう」
五十才になるとはじめて州郡に仕えて、安帝の時に太尉となった。
前漢の丁寛あざなは子襄、梁の人である。
はじめ梁の項生は田何に従って易を授かった。
この時、丁寛は項生の従者だった。
易を読むのは精敏で才能は項生をしのいでいた。
そしてついに田何に師事した。
学が成って東へ帰った。
田何は門人に言った。
「易は東へ行ってしまった」と。
また、周王孫に従って古義を受けて周子傳といった。
景帝の時に梁の孝王の将軍となった。
易説三万言をつくった。
その注釈は大誼をのべているだけだった。

【7.謝安高潔】
晋書にいう。
謝安あざなは安石、陳國陽夏の人である。
四歳の時、桓彝が彼を見て嘆息して言った。
「この子は風神秀徹(立派な風采)だ。後に王東海(王承)に劣らない人物となるだろう」
王導もまた彼をすぐれていると認めた。
だから若いころから名が高かった。
はじめて辟召されたときは病を理由にことわった。
有司が上奏した。
「謝安は召されて数年にもなりますが応じません。終身禁錮とすべきです」と。
なので東の地に棲むことにした。
常に臨安の山中に行っては丘や谷で気ままにしていた。
しかも遊ぶ時は妓女をともなっていた。
時に弟(謝萬)は西中郎将となって、藩任の重きにあった。
謝安は衡門にいたがその名声は弟にまさり公輔(三公等宰相)の位について欲しいと思われていた。
四十余歳にしてはじめて仕官しようと思い、征西大将軍の桓温の司馬になった。
朝廷の士人は皆見送った。
中丞の高崧が謝安に戯れて言った。
「卿はしばしば朝旨にそむいて東山に隠棲していた。皆言ってましたよ『安石が出仕しなければ蒼生(万民)をどうしようか』と。蒼生は貴方をどう思っているのでしょうね」と。
謝安は恥じた。
後に吏部尚書となった。
この時、孝武(帝)が立ったが政治を己のままに出来なかった。
桓温の威光が内外に及んでいた。
謝安は忠を尽くして匡したすけついに二人を和解させた。
中書監録尚書事に昇進した。
苻堅が兵を率い、淮肥(淮水と肥水)に陣を構えた。
謝安に征討大都督をの官を加えた。
そして苻堅を破り、総統の功績で太保に昇進した。
亡くなって太傅を追贈され、文靖と謚された。
晋の王導あざなは茂弘、光禄大夫である王覧の孫である。
わかくして人を見る目があって、識量は清遠だった。
陳留の高士である張公が王導を見てめずらしいとして王導の従兄である王敦に言った。
「この子の容貌志気は将軍宰相の器である」と。
元帝(司馬睿)が琅邪王だった時に王導と平素から親しかった。
王導は天下が乱れるのを知り、心を傾けて推奉、ひそかに興復(晋朝復興)の志を持った。
帝もまた彼を尊重した。
帝が下邳を鎮撫すると、王導を安東司馬とした。
軍謀密策、知っていて行わなかったものは無かった。
帝は常に言っていた。
「卿は私にとっての蕭何である」と。
中書監・録尚書事に累遷した。
帝が即位するに及び、百官が陪列すると、王導に命じ御床に登らせ一緒に座ろうとした。
王導は固辞して言った。
「もし太陽が下がって万物と同じ高さにあれば、蒼生(万民)はどうして仰ぎ見る事ができましょうか」と。
これを聞いた帝は命令を取りやめた。
司空の位に進んだ。

【8.王導公忠】
晋書にいう。
謝安あざなは安石、陳國陽夏の人である。
四歳の時、桓彝が彼を見て嘆息して言った。
「この子は風神秀徹(立派な風采)だ。後に王東海(王承)に劣らない人物となるだろう」
王導もまた彼をすぐれていると認めた。
だから若いころから名が高かった。
はじめて辟召されたときは病を理由にことわった。
有司が上奏した。
「謝安は召されて数年にもなりますが応じません。終身禁錮とすべきです」と。
なので東の地に棲むことにした。
常に臨安の山中に行っては丘や谷で気ままにしていた。
しかも遊ぶ時は妓女をともなっていた。
時に弟(謝萬)は西中郎将となって、藩任の重きにあった。
謝安は衡門にいたがその名声は弟にまさり公輔(三公等宰相)の位について欲しいと思われていた。
四十余歳にしてはじめて仕官しようと思い、征西大将軍の桓温の司馬になった。
朝廷の士人は皆見送った。
中丞の高崧が謝安に戯れて言った。
「卿はしばしば朝旨にそむいて東山に隠棲していた。皆言ってましたよ『安石が出仕しなければ蒼生(万民)をどうしようか』と。蒼生は貴方をどう思っているのでしょうね」と。
謝安は恥じた。
後に吏部尚書となった。
この時、孝武(帝)が立ったが政治を己のままに出来なかった。
桓温の威光が内外に及んでいた。
謝安は忠を尽くして匡したすけついに二人を和解させた。
中書監録尚書事に昇進した。
苻堅が兵を率い、淮肥(淮水と肥水)に陣を構えた。
謝安に征討大都督をの官を加えた。
そして苻堅を破り、総統の功績で太保に昇進した。
亡くなって太傅を追贈され、文靖と謚された。
晋の王導あざなは茂弘、光禄大夫である王覧の孫である。
わかくして人を見る目があって、識量は清遠だった。
陳留の高士である張公が王導を見てめずらしいとして王導の従兄である王敦に言った。
「この子の容貌志気は将軍宰相の器である」と。
元帝(司馬睿)が琅邪王だった時に王導と平素から親しかった。
王導は天下が乱れるのを知り、心を傾けて推奉、ひそかに興復(晋朝復興)の志を持った。
帝もまた彼を尊重した。
帝が下邳を鎮撫すると、王導を安東司馬とした。
軍謀密策、知っていて行わなかったものは無かった。
帝は常に言っていた。
「卿は私にとっての蕭何である」と。
中書監・録尚書事に累遷した。
帝が即位するに及び、百官が陪列すると、王導に命じ御床に登らせ一緒に座ろうとした。
王導は固辞して言った。
「もし太陽が下がって万物と同じ高さにあれば、蒼生(万民)はどうして仰ぎ見る事ができましょうか」と。
これを聞いた帝は命令を取りやめた。
司空の位に進んだ。

【9.匡衡鑿壁】
前漢の匡衡(きょうこう)またの名は稚圭(ちけい)。
東海承(とうかいしょう=地名)の人である。
先祖代々農夫だ。衡(こう)に至って学問を好む。
家は貧しい。アルバイトをして生活していた。とりわけ元気は人にまさっていた。
そのため学者達は次のように言った。
詩経について話すなよ。匡(きょう)が来るよ。匡は詩を語るときに人のあごをはずすくらい面白い。」と。
官吏登用試験に一番の成績で合格した。元帝の時宰相となった。
西京雑記』には次のようにある。「衡は勉強するが明かりがない。隣の家には明かりがあるがとどかない。
衡はそこで壁に穴を開けて、その光を引いて読んだ。
村の有力者は、書物があっても価値をしらない。家計は豊かで書物が多い。
衡は、そこで雇われて働き、報酬は求めなかった。
書物を全部読みたいとのぞんだ。主人は感心して書物をあたえた。
とうとう大いに学問を成し遂げた。

【10.孫敬閉戸】
中国南方の楚(そ)の国の先賢伝(せんけんでん=書名)に、次のようにある。
孫敬またの名は文宝。常に戸を閉ざして書物を読む。
ねむいときは、縄を首にかけて、天上の梁に懸けた。
ある時、人の多いところに出かけたところ、人々は彼を見て皆言った。
「閉戸先生が来た」と。君主のお召しがあっても、出て行かなかった。

【11.郅都蒼鷹】
前漢(ぜんかん)の都(しつと)。
河東(かとう=地名)大陽(たいやう=地名)の人(ひと)だ。
景帝(けいてい)の時(とき)中郎将(ちうらうしやう)と為(な)る。
果敢に思ったことをはばからずに言って大臣に官庁で面と向かって過失をいさめた。
警察庁長官に昇進した。
この時代の民衆は素朴で、罪をおそれて自重した。
なのに都(と=人名)は厳しさを優先して法律を適用した。
貴族を特別扱いせず、貴族も王族も、都を見て皆目をつりあげて視た。
蒼鷹(そうよう)と言われた。重要な関所の責任者に就任した。
隣接する敵国は以前から彼の志の強さを聞いていたので、国境から引き下がり、彼が死ぬまで関所には近づかなかった。
匈奴(きょうど=隣の敵国)は、彼の人形を作って、馬に乗って射させたが、命中させられなかった。
彼がおそれられるのは、このようであった。
匈奴は困った。そこで、彼に漢の法律を適用した。ついに退けた。

【12.寗成乳虎】
前漢(ぜんかん)の甯成(ねいせい)は、南陽(なんよう=地名)穣(じょう=地名)の人(ひと)だ。
謁見者の取次ぎ役で景帝(けいてい)に仕えた。
活気を好み、小役人の時には必ずその上司を越えようとした。
人となりは、いつもきびしく、湿った薪(たきぎ)を束ねるかのようである。
取締官になった。その取り締まりは都(しつと=人名)に学んだけれども、その節度は似ていない。
武帝(ぶてい)が即位し、宮中の記録官になった。
皇后の親戚の多くは、彼の短所を悪く言って、罪にした。
そこで皇帝は、彼を地方長官に任命しようとした。
公孫弘(こうそんこう=人名)が言うには、「私が小役人だった時、成(せい=甯成=人名)が済南(せいなん=地名)の武官になりました。彼の取り締まり方は、狼が羊を飼うかのようでした。彼に人民を統治させるべきではありません。」と。
皇帝は、そこで、彼を都の関所の武官に任命した。
数年で、関所の外の地方役人をしたがえた。
「甯成(ねいせい)の怒りに遭遇するよりは、気の荒い虎に遭遇した方が、まだましだ。」と言われた。
彼の荒々しさは、このようであった。

【13.周嵩狼抗】
晋書にいう。
周嵩あざなは仲智、兄は周顗あざなは伯仁、汝南安成の人である。
中興のとき、周顗等は並んで貴位にのぼった。
冬至に酒宴をひらいたことがあった。
母が觴さかずきを挙げて三人の子(周顗、周嵩、周謨)に言った。
「私が長江を渡ったときは身を寄せるところがありませんでした。思いがけずお前達が高貴な位につき目前に並ぶとは。私は何を憂えようか」
すると周嵩が立って言った。
「おそらくは仰るようにはならないでしょう。伯仁は志は大きいが才は短く、名は高いですが見識は暗い。そして好んで人の過失に乗じます。身を全うする事はかないますまい。私も坑直な性格で、世にいれられません。ただ阿奴は平凡ですから母上のお側におりましょう」
阿奴とは周嵩の弟の周謨の幼名である。
後に周顗・周嵩は王敦に殺害された。
周謨は侍中・護軍を歴任した。
世説新語には坑直を狼抗としてある。
晋書周顗伝に處仲は剛腹強忍、狼抗にして上(主君)をないがしろにするとある。
處仲とは王敦のあざなである。
後漢の梁冀あざなを伯卓、褒親愍侯竦の曾孫である。
人となりは鳶肩豺目(いかり肩でたて眼)、眼光鋭く、言葉はどもっていた。
大将軍を拝命した。
侈暴はいよいよ酷くなった。
冲帝が崩御すると、梁冀は質帝を擁立した。
(質帝は)幼いながらも聡明で梁冀が驕慢で横暴なのを知った。
群臣を朝見し、梁冀を指して言った。
「これは跋扈将軍である」
これを聞いた梁冀は深くにくみ、ついには帝を鴆殺(毒殺)し、桓帝を擁立して、太尉の李固、杜喬を枉害(無実の罪を着せて殺害)した。
海内はなげきおそれた。
四方の徴発、歳時の貢物は、まず一番の上物を梁冀のところに運び、皇帝には次の品をまわした。
一門前後、七人が侯に封じられ、皇后が三人、貴人が六人、将軍が二人いた。
位にあること二十余年、窮極満盛、威は内外に行われ、百官は目をそむけ命令に背くことはなく、天子は己をつつしみ親豫するものがいなかった。
帝はこれに不平をいだいていた。
後に怒り梁冀を誅殺し、その親族を老幼を問わずに皆棄市(処刑)した。
また梁冀の関係者の公卿、列校、刺史、二千石で死んだものは数十人、故吏(梁冀の役人)(梁冀の)賓客で罷免された者三百余人、このため朝廷に人がいなくなった。
梁冀の財産は三十余萬を没収し、王府を満たし、それにより天下の租税の半分を減額した。

【14.梁冀跋扈】
晋書にいう。
周嵩あざなは仲智、兄は周顗あざなは伯仁、汝南安成の人である。
中興のとき、周顗等は並んで貴位にのぼった。
冬至に酒宴をひらいたことがあった。
母が觴さかずきを挙げて三人の子(周顗、周嵩、周謨)に言った。
「私が長江を渡ったときは身を寄せるところがありませんでした。思いがけずお前達が高貴な位につき目前に並ぶとは。私は何を憂えようか」
すると周嵩が立って言った。
「おそらくは仰るようにはならないでしょう。伯仁は志は大きいが才は短く、名は高いですが見識は暗い。そして好んで人の過失に乗じます。身を全うする事はかないますまい。私も坑直な性格で、世にいれられません。ただ阿奴は平凡ですから母上のお側におりましょう」
阿奴とは周嵩の弟の周謨の幼名である。
後に周顗・周嵩は王敦に殺害された。
周謨は侍中・護軍を歴任した。
世説新語には坑直を狼抗としてある。
晋書周顗伝に處仲は剛腹強忍、狼抗にして上(主君)をないがしろにするとある。
處仲とは王敦のあざなである。
後漢の梁冀あざなを伯卓、褒親愍侯竦の曾孫である。
人となりは鳶肩豺目(いかり肩でたて眼)、眼光鋭く、言葉はどもっていた。
大将軍を拝命した。
侈暴はいよいよ酷くなった。
冲帝が崩御すると、梁冀は質帝を擁立した。
(質帝は)幼いながらも聡明で梁冀が驕慢で横暴なのを知った。
群臣を朝見し、梁冀を指して言った。
「これは跋扈将軍である」
これを聞いた梁冀は深くにくみ、ついには帝を鴆殺(毒殺)し、桓帝を擁立して、太尉の李固、杜喬を枉害(無実の罪を着せて殺害)した。
海内はなげきおそれた。
四方の徴発、歳時の貢物は、まず一番の上物を梁冀のところに運び、皇帝には次の品をまわした。
一門前後、七人が侯に封じられ、皇后が三人、貴人が六人、将軍が二人いた。
位にあること二十余年、窮極満盛、威は内外に行われ、百官は目をそむけ命令に背くことはなく、天子は己をつつしみ親豫するものがいなかった。
帝はこれに不平をいだいていた。
後に怒り梁冀を誅殺し、その親族を老幼を問わずに皆棄市(処刑)した。
また梁冀の関係者の公卿、列校、刺史、二千石で死んだものは数十人、故吏(梁冀の役人)(梁冀の)賓客で罷免された者三百余人、このため朝廷に人がいなくなった。
梁冀の財産は三十余萬を没収し、王府を満たし、それにより天下の租税の半分を減額した。

【15.郗超髯参】
晋書(しんじょ=書名)に超(ちちょう)またの名を景興(けいきょう)。
総理大臣鑑(かん)の孫だ。
若いときから非常に優れて非凡で、世にも珍しい器量があった。
しっかりと筋の通った話をした。
大将軍・桓温(かんおん=人名)は、参謀として召しかかえた。
温は才気が優れていて人を召し抱えることはめったになかった。
超と話すといつも才能は測りしれないと言った。
そうして誠意を尽くしてうやうやしくもてなした。
超もまた深く自分から心をかよわせた。
当時王珣(おうじゅん=人名)が温の秘書になった。
彼もまた温に重用された。
役所では「髯(ひげ)の参謀と背の低い秘書が大将軍を喜ばすことも怒らすこともできる。」と言われた。
超は髯があり、珣は背が低いためである。

【16.王珣短簿】
晋(しん=四世紀頃の中国の王朝)の王珣(おうじゅん=人名)またの名は元琳(げんりん)。
宰相(さいしょう)導(どう=王導=人名)の孫だ。二十歳で謝玄(しゃげん=人名)とともに温(おん=桓温=人名)の秘書になった。
温はある時こう言った。
「謝玄は四十歳できっと将軍になるだろう。
王珣は当然若くして最高の官位に就くだろう。
二人ともすばらしい才能だ。」と。
武帝の時に行政事務次官になった。
文官の人事をつかさどった。
皇帝は書物を好み、学問の才能で親しくされた。
人が大きな筆の椽(たるき)のようなのをくれる夢を見た。目が覚めてから人にこう語った。「これは重大な文章を書く仕事があるかもしれない。」と。
間もなく皇帝が亡くなった。弔辞・追悼文は全て王珣が原稿を作った。
玄(=謝玄)またの名は幼度(ようど)。若い時から才能が優れていた。
叔父(おじ)の謝安(しゃあん)に才能を認められて大事にされた。
安(あん)はある時子や甥を戒めて、こう言った。
「家族だからといってひとの事はどうしようもない。でも私はそれを立派にしたい。」と。
誰も何も言う者はなかった。
謝玄が答えて言うには、「たとえば立派な草木を庭に生やすように、朝廷で活躍するような立派な人物になってほしいとのことですね。」と。
謝安はよろこんだ。当時符堅(ふけん=人名)が攻め込んできた。
朝廷は北方を守る文武の良将を求めた。
謝安はそこで謝玄を推挙した。将軍に昇進した。前鋒都督(ぜんぽうととく)という役職をつとめた。
従弟(いとこ)の輔国将軍(ほこくしょうぐん=役職名)(えん=人名)とともに肥水(ひすい=中国南東部の川の名)の南で決戦をした。
符堅(ふけん)の軍勢は甲(かぶと)を棄(す)てて夜逃げした。
うわさを聞いて、皆王者の軍隊が来たと思った。
昇進して前将軍(ぜんしょうぐん)と言われた。

【17.伏波標柱】
後漢の馬援あざなは文淵、扶風茂陵の人である。
若いころから大志をいだいていた。
かつて賓客に言った。
「丈夫、志をなす。窮してはますます堅く、老いてはますます壮んになるべきだ」
建武年間に虎賁中郎将を歴て、(光武帝に)しばしば引見された。
人なりは鬚髪明らかで、眉目は絵に描いたようで、進対の礼も見事であった。
また兵策を善くした。
帝はいつも言っていた。
「伏波が語る兵略は、私の意見と同じだ」
なので馬援に謀があれば用いられない事は無かった。
後に交趾の女子徴側等が反乱し、蛮夷は皆応じた。
馬援は伏波将軍を拝命し、これを撃ち破り、新息侯に封ぜられた。
馬援は牛を潰し、酒をこして軍士を慰労した。
楼船の戦士を率いて進軍し残党を撃ち、嶠南をことごとく平定した。
野地にまた武陵五渓の蛮夷を撃ちたいとねがった。
この時六十二歳だった。
帝は老齢である事を愍れんだ。
馬援は言った。
「私はまだまだ甲を被り馬に乗れます」
帝をこれを試した。
馬援は鞍によってふりかえり、まだ役に立つ事を示した。
帝は笑って言った。
「矍鑠たるかなこの翁」
ついに馬援を遣わして征伐させた。
進軍して壺頭に宿営した。
暑さが甚だしく病気になって陣没した。
廣州記にいう。
馬援は交趾に至り、銅の柱を立てて漢の極界とした。
前漢の張騫は漢中の人である。
建元年間に郎となった。
武帝は胡を滅ぼしたいと思い、使者となる者を募った。
張騫は応じ月氏に使者として赴く途中、匈奴にとらわれ十余年になったが、漢の節を持って失わなかった。
従者と共に脱出し月氏へ向かった。
後に(帰路にまたとらわれた匈奴から)逃げ帰り、太中大夫を拝命した。
彼がみずから訪れたのは、大宛、大月氏大夏、康居で、その近隣の五,六カ国は伝え聞いたもので、天子のためにその地形のあるところを報告した。
元朔年間に校尉として大将軍(衛青)の匈奴討伐に従い、水草のあるところを知っていたので軍では食料が欠乏することがなかった。
(その功績をもって)博望侯に封ぜられた。
賛にいう。
禹本紀(史記ではない)に言う。
河は崑崙に源泉がある。
崑崙は高きこと二千五百余里、太陽と月は互いに避け隠れて光明を為すところである。と。
張騫が大夏に使者として赴いてから、河の源泉がわかった。
そうして崑崙なんてものをみた者がいたのか。と。
旧注に言う。
支機石を持ち帰ったと。
出典は不明である。

【18.博望尋河】
後漢の馬援あざなは文淵、扶風茂陵の人である。
若いころから大志をいだいていた。
かつて賓客に言った。
「丈夫、志をなす。窮してはますます堅く、老いてはますます壮んになるべきだ」
建武年間に虎賁中郎将を歴て、(光武帝に)しばしば引見された。
人なりは鬚髪明らかで、眉目は絵に描いたようで、進対の礼も見事であった。
また兵策を善くした。
帝はいつも言っていた。
「伏波が語る兵略は、私の意見と同じだ」
なので馬援に謀があれば用いられない事は無かった。
後に交趾の女子徴側等が反乱し、蛮夷は皆応じた。
馬援は伏波将軍を拝命し、これを撃ち破り、新息侯に封ぜられた。
馬援は牛を潰し、酒をこして軍士を慰労した。
楼船の戦士を率いて進軍し残党を撃ち、嶠南をことごとく平定した。
野地にまた武陵五渓の蛮夷を撃ちたいとねがった。
この時六十二歳だった。
帝は老齢である事を愍れんだ。
馬援は言った。
「私はまだまだ甲を被り馬に乗れます」
帝をこれを試した。
馬援は鞍によってふりかえり、まだ役に立つ事を示した。
帝は笑って言った。
「矍鑠たるかなこの翁」
ついに馬援を遣わして征伐させた。
進軍して壺頭に宿営した。
暑さが甚だしく病気になって陣没した。
廣州記にいう。
馬援は交趾に至り、銅の柱を立てて漢の極界とした。
前漢の張騫は漢中の人である。
建元年間に郎となった。
武帝は胡を滅ぼしたいと思い、使者となる者を募った。
張騫は応じ月氏に使者として赴く途中、匈奴にとらわれ十余年になったが、漢の節を持って失わなかった。
従者と共に脱出し月氏へ向かった。
後に(帰路にまたとらわれた匈奴から)逃げ帰り、太中大夫を拝命した。
彼がみずから訪れたのは、大宛、大月氏大夏、康居で、その近隣の五,六カ国は伝え聞いたもので、天子のためにその地形のあるところを報告した。
元朔年間に校尉として大将軍(衛青)の匈奴討伐に従い、水草のあるところを知っていたので軍では食料が欠乏することがなかった。
(その功績をもって)博望侯に封ぜられた。
賛にいう。
禹本紀(史記ではない)に言う。
河は崑崙に源泉がある。
崑崙は高きこと二千五百余里、太陽と月は互いに避け隠れて光明を為すところである。と。
張騫が大夏に使者として赴いてから、河の源泉がわかった。
そうして崑崙なんてものをみた者がいたのか。と。
旧注に言う。
支機石を持ち帰ったと。
出典は不明である。

【19.李陵初詩】
前漢の李陵あざなは少卿、前将軍李廣の孫である。
わかくして侍中建章監となった。
騎射が得意で人を愛し、謙遜して士にへりくだり、高い名声を得た。
武帝も李廣の風があるとして、騎都尉に任命した。
天漢二年、歩卒五千を率いて匈奴遠征に行った。
敗戦し、ついには匈奴に降服した。
はじめ李陵は蘇武ともに侍中だった。
蘇武が匈奴に使者として赴き翌年李陵は降服した。
後に昭帝が即位して匈奴と和親した。
蘇武は漢へ帰還できることになった。
李陵は詩をつくって送別した。
携手上河梁
游子暮何之
徘徊蹊路側
恨恨不得辭
晨風鳴北林
熠燿東南飛
浮雲日千里
安知我心悲
蘇武の李陵と別れる詩(李陵にかえした詩)
雙鳬倶北飛
一鳬獨南翔
子當留斯館
我當歸故鄕
一別如秦胡
會見何渠央
愴恨切中懐
不覺涙霑裳
願子長努力
言笑莫相忘
五言詩はこれからはじまった。
前漢の田横は狄の人で、もとの斉王田氏の一族である。
秦の末に自立して斉王となった。
漢将の灌嬰は田横の軍を破り、斉の地を平定した。
田横は誅殺されることを懼れ配下と共に海上の島へ逃れた。
高帝(劉邦)が田横を召した。
だから食客二人と傳に乗って洛陽にいたり、使者に謝して言った。
「私ははじめ漢王とともに南面して孤と称していました(王位にありました)。今王は天子となり、私は亡虜となって、その愧すでにはなはだしい」と。
自ら首を刎ね食客にその首を奉じ上奏させた。
高帝は田横のために涙を流し、王の礼で彼を葬り、二人の食客を都尉に任命した。
田横が葬られると、二人の食客は墓の側に穴を掘って自ら首を刎ねた。
田横の与党五百人はいまだ海上の島にいた。
田横が死んだことを聞くと皆自殺した。
李周翰(唐の時代の学者)が(「文選」の注で)いう。
田横が自殺した。
従者は敢えて哭しなかったが、哀しみは深かった。
だから悲しみの歌をつくって情を寄せた。
後にこれを広めて薤露蒿里の歌として葬送の歌とした。
李延年の時になって二つに分け、薤露は王侯貴人を送り、蒿里は士大夫庶人を送る。
棺を引く者がこれを歌う。
だからこの歌のことを挽歌というのである。

【20.田横感歌】
前漢の李陵あざなは少卿、前将軍李廣の孫である。
わかくして侍中建章監となった。
騎射が得意で人を愛し、謙遜して士にへりくだり、高い名声を得た。
武帝も李廣の風があるとして、騎都尉に任命した。
天漢二年、歩卒五千を率いて匈奴遠征に行った。
敗戦し、ついには匈奴に降服した。
はじめ李陵は蘇武ともに侍中だった。
蘇武が匈奴に使者として赴き翌年李陵は降服した。
後に昭帝が即位して匈奴と和親した。
蘇武は漢へ帰還できることになった。
李陵は詩をつくって送別した。
携手上河梁
游子暮何之
徘徊蹊路側
恨恨不得辭
晨風鳴北林
熠燿東南飛
浮雲日千里
安知我心悲
蘇武の李陵と別れる詩(李陵にかえした詩)
雙鳬倶北飛
一鳬獨南翔
子當留斯館
我當歸故鄕
一別如秦胡
會見何渠央
愴恨切中懐
不覺涙霑裳
願子長努力
言笑莫相忘
五言詩はこれからはじまった。
前漢の田横は狄の人で、もとの斉王田氏の一族である。
秦の末に自立して斉王となった。
漢将の灌嬰は田横の軍を破り、斉の地を平定した。
田横は誅殺されることを懼れ配下と共に海上の島へ逃れた。
高帝(劉邦)が田横を召した。
だから食客二人と傳に乗って洛陽にいたり、使者に謝して言った。
「私ははじめ漢王とともに南面して孤と称していました(王位にありました)。今王は天子となり、私は亡虜となって、その愧すでにはなはだしい」と。
自ら首を刎ね食客にその首を奉じ上奏させた。
高帝は田横のために涙を流し、王の礼で彼を葬り、二人の食客を都尉に任命した。
田横が葬られると、二人の食客は墓の側に穴を掘って自ら首を刎ねた。
田横の与党五百人はいまだ海上の島にいた。
田横が死んだことを聞くと皆自殺した。
李周翰(唐の時代の学者)が(「文選」の注で)いう。
田横が自殺した。
従者は敢えて哭しなかったが、哀しみは深かった。
だから悲しみの歌をつくって情を寄せた。
後にこれを広めて薤露蒿里の歌として葬送の歌とした。
李延年の時になって二つに分け、薤露は王侯貴人を送り、蒿里は士大夫庶人を送る。
棺を引く者がこれを歌う。
だからこの歌のことを挽歌というのである。

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水雲問答より学ぶ!治道心術にて国を治める方法!

肥前平戸の名君松浦静山侯の江戸時代後期を代表する随筆集『甲子夜話』の巻三十九に輯録されている『水雲問答』。
これは、上州安中の殿様板倉伊予守勝尚侯(卓山)=白雲山人とその師の幕府大学頭・林述斎(=墨水漁翁)との間の往復文書・問答集でして、”治道心術”として国を治める方法を説いたものです。
※)甲子夜話自体も、機会があれば整理してみたいと考えています。
この林述斎は、かの『言志四録』を著した儒学者佐藤一斎の学友でした。
林述斎が亡くなると佐藤一斎がそのあとを継いで幕府の大学頭になり、全国に多くの門弟子を養成した佐久間象山山田方谷などは皆一斎の弟子。
佐久間象山の門弟には、吉田松陰をはじめ、小林虎三郎勝海舟河井継之助橋本左内、岡見清煕、加藤弘之坂本龍馬など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えています。
つまり、元をただせば幕末維新の原動力は、この白雲山人と墨水漁翁の『水雲問答』にあるといっても過言ではないのです。

まずは、『水雲問答』に出てくる「五寒」という言葉です。
これは、前漢の劉向という学者が、国家が滅びる徴候には五つのこと「五寒」があるとしているものです。
・一に曰く、政外る(政治のピントが外れる。やっていること、議論のポイントが外れてくる)。
・二に曰く、女厲し。(女が荒々しい、出しゃばる)
・三に曰く、謀泄る(国家の機密が漏洩するようになる)。
・四に曰く、卿士を敬せずして政事敗る(識見・教養のある者を大事にしないで、無責任な政治をやるようになる)。
・五に曰く、内を治むる能わずして而して外に務む(国内をきちんと治めることができないので、国民の注意を外にばかり向けるようになる)。
こういう現象が現れるようになるとロクなことはない、何事にも初めにどう決着を付けるかを決めておくことが大切だ、ということなのです。
二を除いては、まさに今の日本そのもののように感じられます。

この問答については、非常に心術・識見が高いものですが、碩学・安岡氏は、ここで言うところの識見の「識」は三つあると説いています。
一つ目は「知識」:雑識と言って一番つまらんものであまり値打ちがない。
二つ目は「見識」:見識が無ければ語るに足らず、見識があってもその人が臆病あるいは狡猾で軽薄であるとその見識は何の役にもたたない。
三つ目は「胆識」:いかなる抵抗があってもいかなる困難に臨んでも確信・徹見するところを敢然とし断行し得るような実行力・度胸を伴った知識・見識のこと。
要は、人はこの「胆識」があって初めて本物の人間本当の知識人であるということです。
自己修養を行うことは、将来のあなた自身の人格向上と識見を磨くことになります。
こうした先哲が説いた言葉の数々を元に、精錬練磨を行って参りましょう。

参考までに、そんな『水雲問答』の一部をご抜粋しておきます。
構成としては対話形式になっていることから、以下にある<雲>は白雲山人からの問いかけ、<水>は墨水漁翁からの答え、返答の形式となっています。

【人君の治術について】
<雲>治国の術は、人心を服しそうろうこと、急務と存じ候。人心服さねば、良法美意も行われ申さざらん。施しと寛容にあらざれば、人心は服し申さずなり。人心の服し申し候の肝要の御論、伺いたく候。英明(頭脳明晰)の主に、とかく人心の服さぬもの、いかがのことに候や伺いたく候。
<水>施しに過ぎたるときは濫賞の弊害あり。寛容に過ぎたるときは、また縦弛(規律がゆるむ)の弊害が有りそうろう。これなどをもって人心を得たるそうろうは、最も末なる者にそうろう。我が徳義は自ずから人を蒸化(心服させ)そうろう処が有りそうらえば、人心は服しそうろうものと存じそうろう。英明の主に人の服し申さぬは、権略に片寄りそうろうより、人はそのする所を詐欺かと思いそうろうゆえに候。蕩然たる徳が意内(気心)にみちて外に現れる時がある者に、誰か服せずして有るべきや。
施しもすまじきには非ず。人君(君主)の吝なるは至りての失徳にそうろう。寛容も捨てるべからず、苛酷納鎖の君は下々堪えがたきものに候。

<雲>一国を治めるには、人々の心を服させる、納得させることが非常に大事だと思います。
人々の心を心服させないと、どんなによい法律をつくっても、どんなに美しい気持で人民に臨んでも、現実には立派な政治は行われません。為政者には施(賞をやるなどして、人々を納得させ満足させること)と寛(寛容・寛大な気持)がなければ人々の心は満足し、納得しないものです。
そこで人々を心服させるにはどうすればよいか、肝腎のところをお聞きしたい。それから、名君といわれる人には、どうも人心が服さないと言われますが、これについてはどう思われますか。
<水>人々を満足させるために、むやみに賞などを濫発するのはよくありません。また寛大すぎると、規律がゆるんで万事だらしなくなるという弊害があります。このように人民や部下に褒美を与えてご機嫌をとったり、失敗を大目に見て人心を得ようとするのは、そもそも本筋から外れたことです。
上に立つ人は自らの徳と日頃の行いが大事であり、それによりご機嫌などとらなくても自然に人々を感化していくというやり方であれば、人々は自ずから心服するものです。
それから、いわゆる名君と言われる頭のいいトップに人々が心服しないのは、頭のいい人というのは、とかく計略、手練、手管に頼りがちなので、人々は一杯はめられるのではないかと警戒して信用しないからです。
スケールが大きくて、屈託がなくゆったりとして、身体の内部に何ともいえない温かい徳が満ちて、その人徳が外に現れているような人に、どうして心服しない人がありましょうか。
それはそれとして、賞を与えるのも程度と方法によってはけっこうですが、国を治める人がケチはのは困ったことです。寛大であるのはやはり大事なことです。
上の人が何かにつけて重箱の隅をほじくるように細かいところに立ち入るのは、下の人にとって堪えられないことです。

【白雲山人が問う条、以下これに倣う】
<雲>経国(国家の経営)の術は、権略(権謀)も時として無くば叶わざることに存じ候。あまり純粋に過ぎ候ては、人の心は服さぬこともこのように有ること存じ被り候。さりとて権略ばかりにても正しいことを失い申し候間、権略をもって正しいことに帰する工夫、今日の上(幕府)にては肝要かと存じ候。
<水>権(権力)は人事の欠くべからざる事にして、経(経営)と対言(対の言葉)し仕り候。天秤の分銅(重り)を、あちらこちらと、ちょうど軽重(バランス)にかない候所に据え候より字義を取り候事にて、もとより正しきことに候。仰せ聞き候所は謀り士の権変にして、道の権には非ず候。程子(ていし:中国の儒学者)権を説き候こと、『近思録』にも抄出(抜き書き)してあり、とくと御玩味(熟読)そうろうよう存じ候。

【命を知る】
<雲>時を知り、命を知るは君子帰宿の処。
万事ここに止り申候。
一部の易、此二ヶ条に止り魯論にも、これを知るを以て君子と之れ有り。
時を知るは、外のことにも之れ無く、為すべき時は、図をはずさず、為すまじき時にせぬのみに候。
命を知るは、その味広遠のことにて、説破に及びかね申候。
兎角古今身を危うくし、国を滅ぼし申候も、君子の禍に及び申すも、この二字に通ぜざる故と存候。
実は真の君子にあらぬ故に候。
英豪却って此の二条に通じ候故、一時に事を起し申候ことと存候。
<水>公論と存候。
英豪は道理を知らず、己の才気より存候。
君子は、義理には心得候えども、多く才気足らざるより見損じ申候。
因って彼の豪傑の資、聖賢の学と申す二つを兼ねざれば、大事業を成就仕らぬ事と存候。

【武の備えについて】
<雲>季世(末世)にいたりて武の備え怠らざる仕法はいかが仕るべきや。甚だ難しきやに存じ候。
<水>太平に武を備うるはいかにも難しきことに候。愚意には真理をしばらくおき、まず形より入りそうろう方が近道と存じ候。まず武具の用意をあつくして、いつにても間に合い候ように仕る。そのわけは火事羽織をもの好きにて製作し候時は、火事を待ちて出たき心に成り候が人情にそうろう。武具が備われば、ひと働き致したく思うも自然の情と存じ候。さて武伎(武術)も今様どうりにては参らず候。弓鉄は生き物の猟をもっぱらとし、馬は遠馬、打毬(ポロ)などよろしく、刀槍は五間七間(9m×13mの広さ)の稽古場にて息のきれそ候類い、何の用にも立ち申さぬ候。広い芝原などにて革刀の長試合、入り身など息合(気合)を丈夫に致し候こと専要(大切)と存じ候。これなどより漸々と実理に導き候外は、治世武備の実用は整い申すまじくと存じ候。

【治国の術は多事多忙】
<雲>およそ治国の術は多端(多事多忙)、その緊要(非常に重要)は人を知るの一件に帰し申しそうろうことと存じそうろう。人を知るの難しきは堯舜(ぎょうしゅん:二人の中国の帝王)の難しきとする所にして、常人の及ばざることながら、治国の秉政(政治を司る)の上にてはこの工夫専一(第一)と存じそうろう。
もっとも朱文(朱熹朱子学の祖)公の、人に陰陽ありの論は感服仕りそうろう。なにぞ確かなるご工夫そうらわば伺いたくそうろう。いずれ活物(生きた論)は常理(道理)をもって推(推進)されまじくと存じそうろう。
<水>このことは実事(実際)中の最大事、最難事にそうろう。惟聖難諸と申すより、世々の賢者が皆手をとりそうろうこと別に才法あるべきとも申しきせず候。
 陰陽(朱子学)は先手近くそうらわば、これまで効験(効果)多くそうらえども、大姦(悪賢い)に至りそうろうては、陰を内とし陽を外にして人を欺き候ことと往々にこれ有り、陰陽も一図に関わりそうろうて手を突き申しそうろう。
 すべて古人の訓言は、大筋をば、よく申したるものにそうらえども、細密枝葉、変の極に至りそうろうては、説破(説き伏せる)もおよび難きの義(条理)多くそうろう。
つまりのところ見る人の高下(高低)により申すべきや。山水を見るも、その人の品格の高下に従いそうろうこと、羅鶴林(沙羅双樹の林:釈迦の入滅)風流三昧の論にそうらえども、人もその通り多かるべく候。
 この方の下の者は随分見通し申すべくそうろう。上段になりそうろうと、見損じ申しそうろう。見る人の見当尺に善し悪しの論も立ち申すべき、とても我が分量の外の事業は出来申さぬもの。人知りとても同一様事たるべくそうろう。
 しかれども謙譲しては大事は出来申さぬものゆえ、我より上段の人とても、平等に監破の心得はなくて叶わなきことかと存じそうろう。
 これは大難問にて何とも別(ほか)に申すべきようもこれ無くそうろう。

【『周易』を知る】
<雲>『周易』は熱読し仕りそうろう所、大いに処世の妙これに有りやに存じそうろう。『易』(儒教的な解釈)を知らざれば季世(末世)には処し難しと存じそうろう。
<水>『易』は季世の書とは申し難し。盛世季運(堯と舜の二帝と李孚の運)いずれの時とても、天人の道『易』に外れそうろうことはこれ無しにそうろう。まず「程伝」にて天と人との同一道理をとくと考え給うべし。
以上のご質問、あらかた答え申しそうろう。大分とおん尋ね方、力が相見え、はなはだ珍重仕りそうろう。読書が空言(空論)の為ならずして、実践の方に深く習いそうろうの徴が相見え申しそうろう。折角ご勉励の程、お祝いいたしそうろう。

【歴代の宰相】
<雲>歴代の宰相のうち、唐の李鄴(曹操に仕えた李孚)公の事業、誠実にして知略あり。進退の正を得たるところ甚だ欣慕(喜び慕う)仕りそうろう。
李世の宰相は鄴公の如くになくば禍いを得申しそうろうて、しかも国家の軍を敗り申しそうろうことと存じそうろう。『鄴公家伝』と申す書は今は有りそうろうや伺いそうろう。
<水>鄴公の論は同意にそうろう。この人は一つとして誹るべきなし。ただ陸宣公(中国の唐の宰相)と時を同じくして、ついに宣公を用いざること疑いの一つにそうろう。古人の論もこれに有りやに覚えそうろう。されば今も昔も同じことにて、そのときの模様、のちの評と遥かに違いたることも多かるべし。やむを得ざる次第もこれに有るや。『家伝』は亡き書と聞こえ申しそうろう。

【一才一能の人材】
<雲>人材の賢なるものは委任して宜しくそうらえども、その他の才ある者、あるいは進めてあるいは退けて、駕御鼓舞するの術ありて人を用いざれば、中興(復興)することは能わざることと存じそうろう。時によりて張湯(長安の役人)、桑弘羊(武帝に貢献した)も用いずして叶わぬことも有るべからずに存じそうろう。
<水>一才一能(一つの事に秀れた者)はもとより捨てるべからず。駕御その道をする時は、張桑(張湯も桑弘羊も)用いるべきは勿論にそうろう。しかれども我に駕馭仕おおせたり(私にお申し付け下さい)と存じそうろうにて、いつか欺誑しを受けそうろうこと昔より少なからず候間(少なくないので)、小人の(小賢しい)才ある者を用いそうろうは、我が手に覚えなくては、みだりには許しがたくそうろう。

【人を知りて委任】
<雲>徳義(過ぎた施し)の弊害は述情(情け)におちいり、英明の弊害は叢脞(煩わしい)に成り申しそうろう。人君は人を知り委任して、名実(評判と実際)を綜覈(総て吟味)して、督責(厳しく監督)して励ますよりほか、治世の治術はこれ有るまじくと存じそうろう。
<水>名実綜覈(評判と実際を総て吟味)し、人を知りて委任するの論、誠に余薀(余すところ)なく覚え珍重(妙案)に存じそうろう。

【国家の災い】
<雲>国家の災いは君主の私欲から、大臣たちの私心から、また下僚たちが私党・派閥を組むことから起こるものです。
その根本原因は、公の国家を忘れて、私に惹かれることにあります。そこで公儀を立てることを提唱します。部分でなく全体を、私でなく公をすべてにつけて優先する。
主君と家臣がこの点でぴったりと意思を一致させて政治に取り組めば、国家が治まらないことはないと思います。
<水>公儀についてのご意見、もっともです。しかし、今のエリートたちを見ていると、彼らが公としているところにまた大小、軽重の違いがあります。人物・品格の高い人と低い人では、考えている公の段階が違うのです。
今の時代にも公はありますが、その公とするところが、いざ自分のことになると、みんな器量が小さくて、問題が大きくなると、いつの間にか公が私に変化してしまうのです。
結局、人物の器量が小さくてケチであっては、何ごともうまくいかないのです。器量の大きな人物が、国がいかにあるべきかを明らかにすれば千年に渡る太平の時代でも見通すことができます。
せめて公私の区別をはっきり分けて考えることができる人材がほしい。それさえわきまえることができない人々が、天下国家を議論できるものではない。
しかし、そういう人間に限って、突き詰めると自分のことを考えているのに、自分は公の仕事をやっていると思い込んでいる人ばかりなのです。

【悪知恵にたけた者】
<雲>悪知恵にたけた者が悪事を働き、君子を騙すことがよくあります。
君子は騙されても、悪い奴らの策略は巧妙なので気づきません。それならば、君子が逆に、悪い奴らの悪知恵の上をいく策略をめぐらして、彼らを騙し、善行を行わせることができれば、その利益は非常に大きいと思います。
<水>その考えはいけません。元来、君子と小人は白と黒、よい香りと悪臭のように相反するもので、どんなに手を尽くしてもうまくいくものではありません。
君子が小人を逆に騙して、善事をなそうとするのは、君子でありながら小人の手練手管を使うことになり、その時点で物事に対処する心のありようが正しさを失っていることになります。
ですから、たとえ一時的には成功したとしても、いつまでも通用する正道ではありません。

【英雄豪傑】
<雲>英雄豪傑、一旦は事を済し申候えども、終に敗れ申候。
<水>その原は不学に出ず。

<雲>英雄豪傑は、一度は成功しますが、最後の段階で失敗することが多いのはなぜですか。
<水>その原因は学ばないからです。

<雲>治国の果は慰みにてはこれ無く。
<水>その語病あり。

<雲>一人の存念より万人の苦楽に相成申す間、右の処とくと相考え、事を済し申すも、仕損じ候時の跡の取りしまりを付置申候ことと存候。俗に申候、尻のつつまらぬと申様にては相成らざることに候。
漢武の事を済し申候ことなど、後来に至り取治め宜しく、社稷の為を仕候ゆえ、愛するところの鉤弋をも殺し申候。
跡のしまりなく大事を企て申候ては、却って国の害を生じ申すべく存候。
<水>天下の事は、始有りて終り無きもの多し。
結局を其の始に定むること最も要緊と為す。

【人の出会い】
<雲>人は今の出会いを空しく過ごしてはなりません。
一生は帰ることのない旅のようなもので、そのうちになどと思っていると、山水のすばらしい景色も、二度と訪ねることはむずかしいものです。
当面する苦労などは忘れて、いまのうちに手柄を立てて名声を残すべきです。そうしないと、再びあのすばらしい景色の地を訪ねないうちに、中途半端なままで一生を終えてしまいます。
<水>手柄を立てて名を残そうというのは、功利的な考え方で、真の道理ではありません。漢の武帝の名臣・董仲舒はこう言っています。
「利益を得たり、成功者になることが大事なのではない。人間として大事なのは、いかにすることが正しい法則か、正しい道かを明らかにすることである」と。
この言葉をよく考えてください。何ごともその場限りでやりっぱなしにしないで、じっくりと一つの問題を成し遂げなければなりません。
また、機会があればなどと思っているうちに、中途で生涯を終えてしまうという説はもっともで、今も昔も人々の犯しやすい誤りです。
チャンスを逃さぬように心がけていないと、それで終わってしまいます。そのうちになどと空しい期待を抱いてはいけないという戒めです。

【大丈夫の志】
<雲>古今を考え候に、凡そ功をなし得る迄は苦るしみ、功すでに成って楽に赴かんとするとき、諸事背違して 心に任せぬことのみ多きやに存候。
謝安の桓温が在あるとき全からざるを憂い、符秦の大兵を退く迄は其の心中深察すべし。
大難既にやみ、功成り名遂げて琅邪の讒始めて行わる。
裴度が淮西を平げて後、憲宗の眷衰えたるも同じ事に候。
故に大丈夫直に進む大好事を鋭くなし得べし。
とても前後始終を量って何事もでき申す間じく候。
一時の愉快を一世に残さんこと、これ予が志なり。
如何如何。
<水>男子と生まるる者誰か此願かるべき。
然れども其位と時を得ざれば、
袖手して空しく一生を過ごすのみに候。
閣下閥閲、時世至れば謝裴が業を成し得べし。
凡そ青年は志鋭にして、中年に至りて挫催
し易く候。
今より後此の条を念々忘れ給うべからず。

【勤むるに成りて、怠るに敗るる】
<雲>人生は勤むるに成りて、怠るに敗るるは申す
までも之れ無く候えども。
勤むるは善きと知りながら、怠り易き者に之有り候。
且つ識ればいつにてもできると怠り申す類毎に之有り。
天下一日万機に候まま、日新の徳ならでかなわざることに候。
小人の志を得申候も、多くは此処より出申候。
力むれば能く貧に勝つと申す古語、おもしろきやに存じ申候。 聊かの事ながら大事に存候。
<水>いつも出来るとて為さば、学人の通幣多きものに候。
小人栖々として勤め、それが為に苦しめられ候こと、昔も今も同様に候。
鶏鳴にして起き、じじとして善をなすは切近のことに候得ども、余り手近過ぎて知れたることよとて、空しく光陰を送リ候こと、我人共に警むべきの第一たるは勿論に候。
貴人尚更勤めぬ者に候。
此くの如き御工夫面白く存候。

【跡あるべからず】
<雲>大事をなし出すものは必ず跡あるべからず。
跡あるときは、禍必ず生ず。
跡なき工夫如何。
功名を喜ぶの心なくしてなし得べし。
<水>是も亦是なり。
功名を喜ぶの心なきは、学問の工夫を積まざれば出まじ。
周公の事業さえ男児分涯のこととする程の量にて始めて跡なきようにやるべし。
然らざれば跡なきの工夫、黄老清浄の道の如くなりて、真の道となるまじ。
細思商量。

【内冑を見せて懸れ】
<雲>凡そ人は余り疑い申候ては、ことをなし得申さず。
疑うべきものを疑い、あとは豁然たるべく候。
尤も疑いというものは、量の狭きから起り申候。
それに我が心中を人の存知候ことを厭い申候は俗人の情に候。それ故隔意ばかり出来、事を敗り申候。
それ事を了するものは、赤心を人の腹中に置き、内冑を見せて懸かり申すべきことと存候。
<水>人を疑いて容るること能わざること、我が心事を人の知らぬように掩い隠して、深遠なることのように心得るは、皆小人の小智より出ること云うに及ばず候。
大丈夫の心事、常々晴天白日の如くして、事に臨むに及んでは、赤心を人の腹中に置いて、人を使うことを我が手足を使う如くすることこそ豪傑の所為ならめ。
是を学ばん、是を学ばん。

【軽率の益、精細の害】
<雲>古今の人軽率に敗るることを知って、その軽率の益多きことを知ず。
精細の益多きことを知って、しかも精細の害甚だしきことを知らず。
大事をなし出さんとする者は、謀に精細にして、行に軽率なるべし。
独り大事のみに非ず。
凡ての事斯の如し。
<水>軽率の字病あり。
濶略に易うべし。
是は今人頂門のへん針語に候。

【仕損じの跡のしまり】
<雲>英雄は事を仕損じ申候、直に仕損じ中に人を服すること往々之れ有り。
唐の太宗高麗征討の節。
不利にして帰路戦死の屍を臨み、号哭仕候などの類に候。
<水>
英雄、英雄を知るの論。
太宗の品評適。

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墨子より学ぶ!一切の差別が無い博愛主義、兼愛交利!

墨子』の著者は中国春秋末期戦国時代の思想家墨翟とされ、一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した人物で、墨子として知られています。
いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られており、その思想活動の目的は、天下の飢餓や凍死から人民を救済し、諸侯の憂いを救うことにありました。

その後も墨家は「天下の顕学」として巨大な勢力を誇り続けましたが、それというのも墨家が他の学派と異なり、専守という防衛専門の形ながらも戦闘集団であったということです。
当時は儒教と並ぶほどの勢力となっていたそうですが、国の統一が進むにつれてその存在自体が不要となり、秦の時代に焚書に端を発する撲滅などで墨家は歴史上から姿を消し、その学統を継ぐ者も現れず廃れたといわれています。
一説には、墨家の特性から思想を捨てるよりも生命を捨てることを選択したのではないかと考えられているそうです。

そんな『墨子』ですが、墨家の始祖である墨翟と門人の言行録として当初は61篇でしたが、やがて8篇が亡失し、15巻53篇76,516字が現存するものとなっております。
墨子の理想主義的な思想は、兼愛、非攻、節用・節葬、尚賢・尚同、天志・明鬼、非楽・非命など、所謂「十論」で知られています。
この思想は一言で言えば博愛主義であり、「兼愛交利」とも呼ばれています。
天下の利益は平等より生まれ、不利益は差別より生じる、というものであり、孔子の説く「仁」は長子のみを特別扱いする差別であると批難し、互いの利益を尊重し平等に愛するべきであるとしました。
階級や血縁を超えて有能な人材を登用すべしという主張も、兼愛の平等主義につながるものです。
さらに形式的で豪華な礼楽や葬式についても、戦争と同様、支配階級のエゴにもとづくものであるとして、それらを廃する「非楽」や「節葬」を唱えました。

そしてもう一点、重要な思想として「非攻」があります。
兼愛にもとづき非戦を唱えた上で、口だけではなく実際に侵略を企てる国を説得したり、侵略を受ける国の防御に参加することまで行い、結果防御のための戦いはやむを得ないとした解釈です。
絶対に守り抜くという意味を表す「墨守」という言葉からもわかるように、墨家は防御戦に関する豊富な経験や知識を保持しており、その戦いぶりも優れたものであったようです。
つまり墨家集団の経済的基盤は、この能力を生かした弱小国の防衛戦請負業であったといわれています。

墨子「十論」の骨子】
・「兼愛」自他ともに愛せと教える。相手を愛するときは自分を愛するのと同じようにせよ、ということ。
・「非攻」侵略戦争を否定する超積極的平和主義。すべての攻撃を否定し、攻撃を受けた街は墨子教団が防衛するということ。
・「節用」「節葬」節約を唱える。支配層の華美を廃し、資源の浪費を避け、実用品の生産を増やし、民に行きわたらせること。
・「節葬」支配者層が富を地中に埋め、資源を浪費することを戒める。苦労して生産した富は生きているものに使うべきということ。
・「尚賢」能力主義を唱える 執政者は賢者を尊び、有能なものを任用すること。
・「尚同」主義主張が異なっているから、互いに争うため、統治者に従えと教えること。
・「天志」「明鬼」天帝や鬼神への信仰を勧める。天の意思に逆らう(支配)者には天譴があるということ。
・「明鬼」天志が支配者層への天譴を説くものであるのに対し、明鬼は個人的犯罪には必ず罰が下るという因果応報説を説くこと。
・「非楽」贅沢としての音楽を否定する。支配者層は贅沢な音楽を楽しむのを止め、生産的なことに労働力を割り振れということ。
・「非命」宿命を否定する。天から与えられる使命はあっても天に定められた運命はない。勤勉により状況は常に変えられるということ。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【尚賢上第八】
墨子曰く「諸侯や卿・大夫は誰もが国家が富裕となり、人口が増加し、治安が保たれるように願っているのに、実際はそうなっていない。その原因はなんであろうか。
この原因は、諸侯・卿・大夫が賢者を尊び、有能な者を登用することを政治方針としないからである。賢良の士が多ければ、国家の安定度は増すのである」と。
弟子曰く「賢者を増やす方法は、どのようにすればいいのでしょうか」と。
墨子曰く「統治者が弓射や戦車操縦に巧みな戦士を増やそうと願うことと全く同じである。そのような戦士に多額の俸禄を与え、地位を高くし、鄭重に尊敬し、名誉を与えようとするであろう。賢良の士も同じである。
古代の聖王は、不義の者は富まさない、地位を高くしない、親愛しない、側近にしないと宣言した。これを聞いた富貴の人々は、家に帰って相談し、義を実行しないわけにはいかないと語り合い、親族たちも国都の住民も同様に語り合ったのである。そのため王の宣言を聞くや、皆が競争して義を実行するようになったのである。その原因は何であろうか。それは為政者の人民を用いる方策が、義の一点に限定されているからである」と。
・尚賢論は「王公・大人・政を国家に為す者」のみ説得対象にしぼっています。
・賢者はつねにその国家内部の人間に限定しています。
・尚賢論でいう「賢者」とは、天賦の才能に恵まれた人材でなく、統治者の決定した価値基準に従って努力する者すべてを指します。よって墨子の論は、国家の方針に従順な良民を作るという点においては、法家思想とつながるものがあります。

古代の聖人は能力ある人物を臣下の列に加えて、賢者を尊びました。たとえ農耕や工業・商業に従事する人々であっても抜擢しました。登用すると、高い爵位を与え、多額の俸給を与えました。
爵位・俸禄・官職発布の三者を賢者に授けるのは、個人に贈与しようとするためではなく、あくまで彼が委任された事業が成功するよう願うからなのです。だから賢者の任用に際しては、能力の程度に応じて選び、いつまでも高い地位に居座りつづけることはなく、また終生低い身分に留まり続けることがないようにしました。
古代にあっては、堯は服沢の北に埋もれていた舜を見つけ出し、禹は陰方の地にくすぶっていた益を抜擢し、湯は伊尹を料理番の身分から拾い上げ、文王は猟師や漁師の閎夭と泰顚を登用しました。したがって古代聖人の時代には、高位高官の臣下であっても、任務の遂行に心血を注ぎ、失敗して解任される事態をおそれて、義に移らない者はいませんでした。
・価値基準が統一され、日常生活の末端まで統制した社会が実現すれば、国家は富み、人口が増え、治安が保たれると論を発展させます。
儒家は賢者みずからが直接労働に従事しないとしていますが、墨子は末端の庶民からの積み上げを必要とします。そのため墨子は卑近に過ぎる一方、儒家のややもすれば賢者が治めさえすれば万事うまく運ぶという抽象的な理論に陥る危険性から逃れています。

【尚同上 第十一】
墨子曰く「太古の時代、人民は各人それぞれの義を正しい道として考えていたので、天下は乱れ、まるで野獣の世界のようであった。そこで世界中から賢者を選び出し、その人物を天子に立てたのである。天子を立てたが自分ひとりの力だけでは不足と考え、三公を選び出し、また諸侯を封建し、郷長や里長に任命した。
天子は人民に政令を布告して、統治者が是とすることは全員それを是とし、統治者が非とすることは全員それを非とせよ。統治者に過失があればそれを諌め、人民の間に善行の人物がいれば推薦するように、と。
ただし、天下の人民が天子の価値観に同調しても、さらに天の価値基準に対して同化しなければ、天の災害は消え去らない。烈風や大雨があるのは、天が自己の価値基準に同化しない人民を窮しようとしているのである」と。
・各統治者(天子・三公・諸侯・郷長・里長)はそれぞれ設定した義に従うよう配下に命じており、天子の一元的専制国家を説いたのではありません。
・天子の専制を防ぐために墨子は、天子は天(上帝)に対する尚同をしなければならないと説いています。
墨子は太古の時代は野獣の世界であったとし、他の諸子の下降史観(太古は素朴、平安な理想社会であったが、時代が降るにつれ険悪になったとする説)とは大きくことなります。
・野獣の世界に尚同を導入しなければならないとする考え方は、人の本性を悪として後天的教化を説く荀子や法家と近似した性格を持ちます。
・社会秩序の根底を「個人的賢智によって選ばれた者」に帰化している点で、徳治主義を根本としているので、法家とは一線を画しています。

【兼愛上 第十四】
混乱の原因を考えてみると、それは相互に愛し合わないことから発生しています。臣下や息子が君主や父親に孝でないのが、混乱のひとつです。また父親が息子を慈まず、君主が臣下を慈しまないという場合も、混乱のひとつです。
世間で盗賊を働く者も、我が家だけを愛して、他人の家を愛そうとしないから、他人の家から盗んで、それを我が家に利益をもたらそうとします。賊人も我が身だけを愛して他人を愛さないので、他人から奪って我が身に利益をもたらそうとします。大夫が互いに相手の家を混乱させ、諸侯が互いに相手の国を攻撃するのも、これと同様です。
世界中のあらゆる種類の混乱は、いずれも互いに愛し合わないことが原因です。
・天下の混乱を①父子の反目②兄弟の不和③君臣の対立④窃盗⑤追剥⑥貴族間の勢力争い⑦国家間の戦争の7種類が原因であるとし、それは互いに愛し合わないからだとしています。

もし世界中の人々に自己と他者とを区別せずに愛し、他人を愛することまるで我が身を愛するかのようにしたなら、それでもなお孝でない者がいるであろうか。そうなれば国家と国家は互いに攻伐せず、家門と家門は互いにかき乱さず、盗賊もいなくなり、君主と臣下や父と子の間も、すべて孝慈の関係で結ばれるであろう。このようであれば、間違いなく世界中が安定します。
・天下の混乱をなくす方法は「自己と他者とを区別せずに兼ね愛させる」(兼愛)です。
・他者と犠牲にして自利を獲得することを禁じています、(拒利)

【非攻上 第十七】
今ここに1人の男がいて、他人の果樹園に忍び込み、桃や李を盗んだとしましょう。民衆がそれを知ったならば、それを悪だと非難するでしょうし、統治者がその男を逮捕したなら、処罰するでしょう。それはどうしてでしょうか。他人に損害を与えて自己の利益を得たからです。
他人の犬や鶏や豚を盗む者は、桃や李を盗む者よりも、その不義は一層甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、さらに大きいからです。
他人の馬や牛を奪い取る者は、犬や鶏や豚を盗む者よりも、その不義・不仁はさらに甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、ますます大きいからです。およそ他者に損害を及ぼす程度が多くなるにつれ、その行為が不仁である度合もますます増大し、その罪もいよいよ重くなるのです。
何の罪もない人間を殺害して、着ていた衣服を剥ぎ取り、所持していた戈や剣を奪い去る者に至っては、馬や牛を奪い取る者より、その不義・不仁はさらに甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、ますます大きいからです。
ところが今、大規模な不義を働いて、他国を攻撃するに至っては、だれもその行為を非難することを知りません。攻伐を称賛し、その行為を正義の戦いなどと評価しています。
1人の人間を殺害すれば、社会はその行為を不義と判定し、必ず死刑に処します。こうした殺人罪に関しては天下の君子たちの誰もがこれを非難すべきことと認識し、これを不正義だと判断しています。ところが今、大掛かりな不義を働いて他国を侵略するに至っては、一向に非難すべきことを知りません。侵略を褒め称えては、義戦などと美化しています。つまり彼らは、実際に侵略戦争が不義であることを認識していないのです。
今ここに人がいるとしましょう。その人間が少量の黒色を見たとき黒だといい、多量の黒色を見たときには白だと言えば、人々はその人間を白と黒の識別すらつかぬ者だと判定するでしょう。あるいは、苦いものを少し嘗めては苦いといい、苦いものを大量に嘗めては甘かったなどといえば、だれもがこの人間を甘い苦いの弁別さえできぬ者だと判定するでしょう。
今の君子たちは、小規模な悪事は犯罪だと認識して非難しておきながら、大規模な悪事を働いて他国に侵攻すれば、それを褒め上げ、これぞ正義だと吹聴しています。これでは、はたして正義と不義との区別を知覚しているなどと言い張れるでしょうか。
・非攻論は他国への攻撃、侵略を非難する主張です。
・戦争によってその勢力を拡大できる諸侯・卿・大夫・士の身分からすれば、墨子の論は、明快に本質をついているとはいえ、現実的説得力を持つことができませんでした。
墨子の文章は、実用を尊んで、質素倹約を旨とするため、噛んで含めるように徹底的に説明しているので、いかにも頭の悪い読者扱いをされた気がして、読む側はあまりのくどさに、つい興ざめしてしまいます。それが近代以前には読者を惹きつけることができなかったひとつの原因とされています。

【非攻下 第十九】
今の君主や諸侯は誰もが精鋭舞台をえりすぐり、水軍や戦車部隊を整え、兵士に堅牢な甲冑や鋭利な武器を装備させ、罪のない国に侵攻します。まず国境一帯に侵入して耕地の農作物を刈り取り、集落の樹木を切り倒し、都邑の城壁を破壊して周囲の堀を埋め尽くします。家畜を奪っては殺し、祖廟を焼き払います。指揮官は命令に忠実に戦死した者を軍功一番、敵を多数殺した者を軍功二番、奮戦して負傷した者は軍功最下位とし、まして隊列を離れて敗走した者は即刻死刑とします。このように他国を併合し、軍隊を殲滅し、万民を殺戮して古代の聖人たちが樹立してくれた秩序を平気で破壊しているのです。
考えてみるに、彼らはこうした手段で、天の利益になることをしようと思っているのでしょうか。彼らは多くの国家歴代の王の祭祀を廃絶させ、多くの男たちを殺戮し、生き残った女・子供・老人を離散させています。さらに攻戦のための軍費は、民生の根本に損害を与えています。どう見てもこうした所業は、下の人間の利益に叶ったりはしません。
もし君主が他国への侵攻作戦を実施しようとするなら、国民も人民も本業一切を放棄する結果に陥ります。試しに考察してみましょう。まず国内で侵攻軍を編成しようとすれば、指揮官は数百人、軍吏の数は数千人、歩兵の数は十万人にも達するでしょう。そして長期戦になれば数年間、短期に終了しても数ヶ月の間、軍は解散されない。こうなると為政者は内政に気を配る時間的余裕がなく、官僚は国家財政を充実させる余裕がなく、農民は農業に精を出す余裕がありません。その上、遠征途上で食糧補給がままならず死ぬ者は数え切れません。こうした結果世界中が甚大な損害を被ると言わなければなりません。
・侵略された国の惨状と、侵略国側の民の惨苦を克明に描写した稀有な記録です。

【節用上 第二十】
聖人の政治が利益を倍増できるのは、決して自国の外部に領土を拡大するからではありません。自国に依拠しながら国内で無益な浪費を取り除いていけば、それで十分に利益を倍増できるのです。そこで貨財を無駄に消費せず、民衆の生産能力を疲弊させずに、新しく各分野で利益を興せるのです。
いったい衣服は何の目的で作るのでしょうか。冬はそれで寒さを防ぎ、夏はそれで暑さを凌ぐためです。だから聖人は華美で実用的利便を増加させない衣服はこれを排除します。
そもそも住居を建築するのは何の目的でしょうか。冬はそれで風や寒さを防ぎ、夏はそれで暑さや雨を防ぎ、盗賊が来た時には、侵入できないようにするためです。だから聖人は華美で実利を増さない住居はこれを除去します。
そもそも兵器を製造するのは何の目的でしょうか。それで敵兵や無頼の徒や盗賊を防ぐためです。そのため聖人は華美で実利を増さない武器は、これを排除します。
いったい舟や車を製造するのは何の目的でしょうか。それで丘や野を越え、河川や渓谷を進み広く四方と通商の利益を交わらすためです。そのため聖人は華美で実利を増さない舟や車はこれを排除します。
だからこそ、それらの製作に使用する財貨を浪費せず、それらの製造に使役する人民の生産能力も疲労させずに、広く新たな利益を興せるのです。さらにまた、為政者が道楽で真珠や宝石、珍奇な鳥獣や猟犬・駿馬などを収集することを止め、その費用で実用的な衣服や住居、武器、舟や車の数を増そうとすれば、以前に倍増させることすら決してできない相談ではありません。
それでは何を倍増させることが困難なのでしょうか。ただ人民の数だけが、倍増させがたいのです。そうは言っても人口ですら倍増可能な方法がないわけではありません。古代では男子は20歳までに分家・妻帯し、女子は15歳までに嫁ぐことになっていましたが、今はそうではありません。そこで早婚のものと晩婚の者とを平均すれば30歳で分家・妻帯することになり、ちょうど10年遅いことになります。もし妻が丸三年ごとに妊娠すれば、2、3人の子供を余計に出産することができます。これこそ国家の人口を倍増できる方策ではないでしょうか。
また今の統治者達は、人口を減少させる原因となる政策を数多く実施しています。為政者は人民を過度に使役し、重税を課すため、凍死したり餓死したりする者は膨大な数にのぼります。さらに兵を挙げては戦争をし、戦死したり、発病して死に至る者も実に夥しい数にのぼります。
こうしてみると、人口減少の原因は、それをもたらす必然的方策の結果として生じているのではないでしょうか。
・国家は他国の併合を手段とする富の倍増をしないことを大前提としています。
・富の倍増とは無用な消費の節約による実用的富の増産です。
墨子国富論は、富の絶対量拡大よりは、いわゆる消極的経済政策です。
墨子国富論は、直接富の生産には関与せず、文辞・儀礼による美化・装飾を稼業とする儒家への攻撃となりました。
・富の総量は、人類全ての生存を保障できるかどうか危ぶまれるほど絶対的に不足していると考えています。

【節葬下 第二十五】
墨子曰く「しばらく試みに厚葬、久喪の是非・利害について考えてみよう。王公・大人の葬儀は、棺を幾重にも重ね、死者を覆う衣服も何重にも重ね、墳丘は巨大なものにする。一般庶民が死んだ場合は、ほとんど家財を使い果たすであろう。
諸侯が死んだ場合、黄金や珠玉で飾り、戦車や馬を坑に埋める。また使っていた品物を整えて墓室の床に並べる。まるで王宮がそっくり移転するかのようである。天子の葬儀には殉死者も出る。
喪は食物、衣服も粗末なものとし、3年間死者にわが身を捧げる。これを行ったなら政務を執ったり、官僚組織を指揮したりすることができなくなるであろう。農夫に久喪を行わせたならば、農耕に精を出すことができなくなるであろう。このように厚葬の利害・得失を計ってみると、厚葬は人民に割当てて生産させた財貨を、むざむざ地中に埋めるものである。また久喪の利害・得失を計ってみると、人々が長期間仕事に戻れないようにするものである。
こんなやり方で富を得ようと願うのは、耕作を禁じておいて収穫を要求するようなものである。
政治が放棄され、生産力が低下し、悪事を働くものが増え、他国に攻められ、人口は減少するであろう。
よって古代の聖人たちは、次のように埋葬の規範を制定された。棺は、中で死体が朽ち果てるまでもてばそれで十分である。死体を包む衣服は三重にとどめ、死体が腐乱する醜悪さを覆い隠せれば、十分である。埋葬は、深さは地下水に達しない程度、上の盛り土は死臭が地上に漏れない程度にとどめる。死者の埋葬がすっかり完了したなら、長期間喪に服することなく、すみやかに勤労に従事せよ。これが聖人が定めた埋葬の規範である」と。
・絶対量の少ない富は、死者に対してではなく生者に対して有効に使用されるべきであるとします。
・この厚葬、久喪の問題は、春秋時代から墨家儒家との大きな争点となっていました。
・しかし死者を悼む真心に乏しい思想とか、思想の根本が伝わらずただ儒家との論争のために節葬を訴えたと捉えられてしまいました。

【天志上 第二十六】
墨子曰く「今の君子たちは小さなことは理解できるが、大きなことは理解できない」と言われた。どうしてそれが分かるのでしょうか。家庭内で罪を犯しても、まだ隣の家という逃げ込んで罪を逃れる場所があります。しかし、その不始末はたちまち世間に知れ渡るので、やはり自戒しなければなりません。国家に身を置く者の場合でも、まだ隣国という逃げ場所があります。しかし、その不始末はたちまち誰もが知ることになるので、やはり自戒しなければなりません。
このように逃げる場合がある者ですら、周囲に警戒しあっています。まして逃げる場所のない者は、いよいよその思いが念入りであって当然ではありませんか。天はかならずその犯罪行為を見つめておられるのです。それなのに天下の君子たちは、こうした天の監視に対してぼんやりしたまま一向に警戒しあうことを知りません。これこそ小さな範囲のことは自覚できても、大きな範囲のことは自覚できないでいるということなのです。
それでは天は、いったい何を望まれ、何を憎まれているのでしょうか。天は、人間に正義の行いを望まれ、不義の行いを憎悪されるのであります。われわれが天の望まれることをすれば、天もまた我々が願うことをしてくださります。
ではわれわれは何を願い何を嫌っているのでしょうか。家族が繁栄し生活物資に恵まれることを望み、災いやたたりが降ることを嫌います。
しかも義は本来、人々を正しい方向に矯正することです。必ず上位者から下位者に向かって、義を正すのです。天子は世界中で最も高貴な身分の人間であり、この上なく富裕な人間であるが、その天子ですら天に福を祈るのです。だから、富裕や高貴の地位を得たいと望む者は、天の意志に従順でなければなりません。そして天意に従順な者は自己と他者とを同等に愛し合い、互いに他者に利益を与え合う結果、必ず天から賞を受けます。一方、天意に逆らう者は自己と他者とを分け隔てて憎み合い、互いに他者を損ない合った挙句、きまって天罰を受けます。
古代の夏・殷・周三代の聖王である禹王・湯王・文王・武王たちこそ、まさしく天意に服従した人物であり、三代の暴虐な王、桀王・紂王・幽王・厲王たちこそ、まさしく天意に反逆して罰を受けた人物です。
それでは、どうして天が世界中の人々を愛されていると分かるのでしょうか。それは天が世界中の人間をあまねく照らしていることで明らかです。ではどうして天は世界中の人間を照らしていると分かるのでしょうか。それは天が人間を保全しようとしているからです。ではどうして天が人間を保全しようとしているのが分かるのでしょうか。それは天が全ての人間を養育している事実によって明らかです。ではどうして天が人間を養育しているのが分かるのでしょうか。それはお供え物を捧げて上帝と鬼神を祭祀しない者は1人もいないからです。天はどうしてその人間たちを愛さないことがありましょうか。
現在、天下には各人の著述は、牛車に積載しきれないほど膨大です。また彼らが口にする主義・主張もいちいち数え切れないほどに多いのです。しかし、彼らの説は仁義からは、はるかにはずれています。それはなぜでしょうか。それは私だけが世界中で最も明確な判定基準、すなわち天の意志を備えていて、それで世界中の思想の善し悪しを判断するからです」と。
墨子は絶対者として上帝を設定しているが、こうした王権神授思想は、当時では半ば常識でした。
墨子は、当時の上帝信仰が薄らいで、上天の規制力が弱まってきたため、改めてこの説で上天のことを論じたのです。また、上帝の意志が墨子思想と全く合致することを示そうとしたのです。

【明鬼下 第三十一】
墨子曰く「古代の聖人たちが世を去ると、天下は混乱を極めた。こうした混乱が生じた原因は、どこにあるのだろうか。つきつめれば鬼神が実在するかしないかの分別に疑惑を持ち、鬼神が賢者に賞を与え悪人を処罰できる力を持つことを明瞭に認識できないでいるところに一切の原因があるのである」と。
現在、鬼神は実存しないと主張する者たちは、鬼神はもともと存在したりはしないのだと言います。そしてそれを広めて、天下の人の判断を迷わせています。そのせいで天下は混乱しているのです。そこで墨子先生はこう言われました。
「今の世の王公・大人・士君子が心の底から天下の利益を盛んにしようと願うのであれば、鬼神が実在するか否かの分別に対してこそ、真っ先に明察すべき問題として取り組まざるを得ないのではないだろうか。
今の世において、何かが存在するか否かを察知するための方法を挙げてみるならば、必ず多数の人々が自分の耳や目で直接知覚したことを、判定の基準としている。つまり、多くの人々がその声を聞き、その姿を見たとの実体験があれば、必ずそれは存在すると断定し、逆にその姿を見聞した者もなければ、存在しないと断定するのである」と。
しかし鬼神は実在しないとの立場を取る者は、次のように述べ立てます。この世に鬼神出没の現象を見聞したと称する者は数え切れぬほど多いが、どれも信憑性に乏しく鬼神の有無を立証するに及ばないと。しかし墨子先生は次のように答えられた。「かつて杜伯は無実の罪で宣王に死罪とされたが、そのとき、もし死者に知覚があるのならば、3年以内にそのことを知らしめようと言った。3年目のある日、杜伯は白木造りの戦車に乗って現れ、宣王を射殺し、これは王に従っていた者すべてが目撃していた。
また秦の繆公は宗廟で神を見て、19年の延命を賜ったという。
また無実の罪で殺された荘子儀は、その1年後、燕の祖廟に通ずる参道に現れ、簡公を撃ち殺した。これらの記録から判断するならば、鬼神が実在することは、もはや疑う余地がないであろう」と。
鬼神の実在を否定する者は、親の利益にはならず、孝行息子の妨げとなるだけではないかと批判します。これに対して墨子先生はこう言われました。
「鬼神の形態は、天界に住む鬼神、山岳や河川に住む鬼神があり、また人間が死後に変化して鬼神となる者がある。鬼神が実存するならば、鬼神への祭りは自分の父母や兄姉の霊魂を招き寄せて、飲食させたことを意味する。大変な利益ではあるまいか」と。
墨子先生は、重ねて次のように結論を出されました。今の世の王公・大人・士君子たちが、心の底から天下の利益を盛んにしたいと欲求するのであれば、鬼神が実在するとの命題に対しては、鬼神を尊重し、鬼神は実在すると言明していかなければなりません。それこそが聖王の定められた道なのです。
・明鬼論は、天志論と同じく、上天の意志を介入させて他国への侵略を中止させんとするところにありました。
・鬼神が個人的犯罪を監視していると信じれば、犯罪行為も終息し、社会治安が回復するであろうと説きます。
・先秦の思想界には、鬼神の実在を主張する系統、否定する系統が並存しており、全体的には前者の側が優勢でした。(墨子、管子、中庸)
・他の鬼神実在論は、鬼神と人間の心のあり方とを結合し、鬼神の形而上化や内面化を図る試みが盛んになったが、墨子は、鬼神はどこまでも人間の外部に存在し、外側から人間に賞罰や禍福を与える性格に留まってしまいました。

【非楽上 第三十二】
墨子曰く「仁者の行う事業とは、必ず天下の利益を振興し、天下の害悪を除去するよう努力するものである。よって事業が人々の利益になれば規範化し、人々の利益にならないようであれば即刻中止する。しかも自分の官能的快楽を満たすために、人民の衣食に必須の物資を消耗し収穫するような真似は、仁者は断じて行わないのである」と。
こうした官能的悦楽は、高尚な基準に照らして考えてみれば、古代の聖王の事跡に合致せず、卑近な基準に照らして得失を計れば、万民の利益に適合しません。よって墨子先生は、音楽に耽るのはいけない、と説かれたのです。
楽器の製造は、万民に重税を課して行われます。もし楽器の使用が、聖王が舟や車を製作することと同じ性格を持つのであれば、私もあえてそれを非難はしません。古代の聖王たちも同じように重い税を割当てて、舟や車を製造させました。しかし聖王はこれを万民の交通の便に役立てました。だからこそ万民は財貨を供出して、恨みに思わなかったのです。結局、利益が民衆自身に還元されたからなのです。
そこで楽器の場合も、利益が民衆自身に還元されるのであれば、私もあえてそれを非難はしません。
そもそも民衆には常に3つの心配事がつきまといます。食物が得られないこと、衣服が得られないこと、休息が得られないことです。こうした憂いを解消しようとして音楽に耽って、これら必要なものをそろえることができるのでしょうか。また、音楽をして、天下の混乱をたちどころに平定できるのでしょうか。
また楽器を製造するだけでなく、演奏する者はやはり青・壮年の者を動員しなければなりません。彼らにこういった役を務めさせれば、農業に励む時期を奪うことになります。また大勢の人民を集めて音楽を聴くことになります。そのため政務を投げ出させ、生産活動を放棄させることになります。また音楽に和して舞う舞手を養わないといけません。
だからこそ墨子先生は音楽を奏でる行為は非難されるべきだと主張されたのです。
墨子の思想は、音楽から一切の思想性を剥ぎとって、音楽に単なる娯楽以上の意味を認めませんでした。
墨子の思想は、人間の心の内面に対する思索がほとんど欠落し、人間を社会的分業体制の一員としてのみ認めていました。

【非命上 第三十五】
墨子曰く「国家は裕福とならずに貧困し、人口は増加せずに減少し、治安は維持されずに混乱している。この原因はいったいどこにあるのだろうか。それは宿命論者が民衆の中に多数いるからに他ならない。彼らは宿命に対しては、いかに努力し励んでみても何一つ変えることは不可能であると説く。宿命論者は人々を説得してまわり、人民が労働に従事することを妨害している。
それでは、当世の士君子が宿命が存在すると考えているのだろうか。湯王は桀王を討ち、武王は紂王を討ったが世の在り方がまだ変化したわけでもなく、人民の有様もまだ変化していないのに、天下は安らかになった。これはひとえに人為的努力の結果であって、宿命があるとはいえない。
また先王が遺された典籍の中に、福は請い求めることができず、禍は避けられず、などといった言葉が、ただのひとつでも記されているだろうか。私はひたすらこれら典拠中に探し回ってみたのだが、必ずしも宿命論と合致する記録は見出せなかった。とすれば宿命論はやはり廃棄すべきものなのではないか」と。
・勤労と節制に努めるよう人々を説いたため、宿命論は否定されました。

【非儒下 第三十九】
孔なにがしとやらは、蔡と陳の間で困窮していました。そのとき弟子の子路は、師匠のために豚を煮て進めた。すると孔某は「いったいおまえはこの肉をどうやって調達したのか」などとは訊ねもせず、ペロリと平らげてしまいました。
つぎに子路は追剥を働いて衣服を奪い取り、それを売り飛ばして酒を買ってきた。今度も孔某は「おまえはこの酒をどうやって手に入れたのか」などとは聞きただしもせず、飲み干してしまいました。
ところが魯哀公が孔子を迎えて宴席を張ると、やれ座席のしつらえ方が礼に合わぬから座らないとか、肉の切り目が作法通りでないから食べないとごねた。そこでいぶかしく思った子路は「どうして陳・蔡のときとこうも違うのでしょう」と尋ねた。孔某はこう答えた。「子路よ近う寄れ。陳・蔡のときは何とかあの場を生き延びようとしたのじゃ。そして今は、何とかこの場だけでも正義を実現しようとしているのじゃ」と。
いったい困窮すれば不当な手段で、なりふり構わず身を生かそうとし、腹一杯食えるとなると、さも己が立派な人物であるかのように自ら飾り立てようとする。世に邪悪、まやかしの類が多いとは言っても、これほど下劣ではなかろう。
・この論は墨子の発言を敷衍したものでなく、儒家に対する攻撃のために作られたものです。
・事実はどうであれ、儒家の俗世の栄達に身をすり寄せようとする体質を見事に表現しています。

【経上 第四十】
知覚するとは、外界の事物に交接する行為である。
智(認識主体)とは、物事の同異を明瞭にできる知覚装置の本体である。

【経説上 第四十二】
知覚。知覚するとは、五官を用いて外界の事物に対応し、事物が過ぎ去った後も、まるで今もその事物を眼前に視認しているかのように、明確な知覚を形成する行為である。
智。智とは五官がもたらす各種の知覚を比較検討し、対象の事物を明確に認識する主体である。
墨子は、人間の認識主体に総合認識の形成能力を認めて、その能力に全幅の信頼を置く。

【公輸 第五十】
公輸盤は、楚のために雲梯という攻城兵器を製作した。そこで楚は早速この新兵器を用いて宋を攻撃しようとした。墨子先生はこのことを聞くと、すぐに斉を出発し、十日間の強行軍によって郢に到着した。
すぐさま公輸盤に会見を願い出たところ、先生におかれては、いったい何の御用でお越しになったのかな、と公輸盤はとぼけた。そこで墨子先生はつぎのようにもちかけた。
「北方に私を侮辱するけしからぬ奴がいます。どうか刺客を放って暗殺していただけないでしょうか」と。すると公輸盤は殺人をする汚い人物と見なされたので不機嫌になった。そこで墨子先生は「もちろん報酬として黄金十斤ばかり差し上げます」とたたみかけた。公輸盤は「私は正義を信条としており、そもそも殺人を働く男ではない」と言った。
そこで墨子先生は立ち上がって深々と再拝の礼を取り、本件を切り出した。
「私はあなたが雲梯を開発し、宋を攻略しようとされている、と聞きました。だが宋には何の罪もありません。宋に何の落ち度もないのに、一方的に攻撃を仕掛けるのは仁者とは申せません。宋への侵略が不正義であることを承知していながら、楚王と諫争しようとしないのは、忠臣とは申せません。諫争しても君主を承服させられないのでは、強毅の士とは申せません」
公輸盤は墨子先生の論理に屈服したが「私はすでに雲梯の完成を王に報告してしまったのだ」と責任を王に転嫁しようとした。
そこで墨子先生は楚王への謁見の許しを得て、次のように話を切り出した。
「ある男は自分の高級車には目もくれず、隣家のオンボロ車を盗もうと躍起になります。また自分の美服には目もくれず、隣家のボロ服を盗もうとします。我が家のご馳走には見向きもせず、隣家の粗食を盗もうとします。これはいったいどのような人物と思われますか」
楚王「それはきっと盗み癖があるんだろうよ」
墨子先生「楚の領土は五千里の広大さであり、宋の領土はたかだか五百里に過ぎません。楚には雲夢の大沼沢地があり、魚の類は豊富です。宋は雉や兎、鮒や鯉さえ取れぬ国です。
王が宋を攻撃しようとするのは、先の男と全く同類に思えます」
楚王は「先生の言い分はもっともじゃ。しかし公輸盤は、今度こそは絶対に宋を攻略してみせると張り切っておるのじゃ」と言った。
そこで墨子先生は、自分の帯をほどいて、それで机上に城の輪郭を描き、木片を攻城兵器と守城兵器とに見立てた。公輸盤と墨子先生は机上演習をすることになり、公輸盤は九種類の機械による攻城戦術をつぎつぎに繰り出したが、その度ごとに墨子先生に防がれて、手持ちの攻城用兵器すべてを使い果たしてしまったが、墨子先生の防御兵器はまだ手持ちが残されていた。
公輸盤は屈服を余儀なくされたが「私はあなたの防御を打ち破る方法を知っているが、それは言わない」と言った。すると墨子先生も「私もその方法を知っていますが、言わないでおきましょう」と言った。楚王はその理由を尋ねた。墨子先生は「公輸盤は私を殺してしまえば、もはや宋を防御できる者はいないと考えているのです。しかし私の門弟の禽滑釐ら300人の部隊はすでに宋の守りについています。ですから私ひとりを殺してみても、私の防御を断ち切ることはできません」と言った。
さすがの楚王も宋への攻撃を取りやめた。
使命を終えた墨子先生は、斉へ帰還しようとして、宋の地を通過した。そのとき雨が降ったので、郷里の門で雨宿りをしようとしたが、門番に楚の間諜と怪しまれたため追い返されてしまった。

【号令 第七十】
城壁の上で守備についている兵員や官吏は、それぞれ自分たちの仲間(伍)の言動に連帯保証の責任を負う。もし城を外敵に渡そうとする者がいれば、父母・妻子を全員処罰する。仲間がそのような姦計をめぐらせている事実を知りながら、逮捕や報告を怠った時は、その伍の全員を同罪とする。
城下の里に居住する一般人も、連帯保証の責任を負う点は、同様である。
官吏や兵卒や人民が勝手に城外に抜け出す行為を禁止する。命令に反攻して服従しない者は処罰する。指揮官の命令発動を勝手に批判する者は処罰する。命令を受けても実行しない者は処罰する。
行動が他の者と斉一でない者は処罰する。応答する相手もいないのに、むやみに大声で呼びかけわめく者は処罰する。侵攻してきた敵軍を褒め称え、城内の味方の悪口を言いふらす者は処罰する。勝手に部署を離れて寄り集まり、話し合いをする者は処罰する。配置につくよう打ち鳴らされる太鼓の音を聞きながら遅れてきた伍は、その構成員を処罰する。
守備兵はめいめい土版に自己の姓名を大きく書き記し、それを部署と部署との境界に掲げて明示する。守将はかならずその配置序列を頭に入れておき、その部署に属さない者が入り込んだ場合は、その者を処罰する。他の部署に紛れ込んだり、私的な手紙を携行し、上官に個人的な頼み事をしたりする者を逮捕せずに見てみぬふりをしたり、兵卒や一般人が窃盗を働いたりした場合は、その妻女や幼児に至るまで、全員を処罰して決して赦してはならない。城内の人間は、その姓名・部署を帳簿に記録し、通行許可証の割符を持たずに、勝手に軍中をうろつく者は処罰する。
侵略してきた攻囲軍と互いに自己の姓名や部署を通告し合い、互いに相手の姓名や部署を確認し合うような真似をさせてはならない。攻囲軍が城内に矢文を射てきても、その内容を公表させてはならない。攻囲軍が城内に利益誘導の甘言を弄してきても、それに内応するような行動をさせてはならない。
派遣された守将は、防衛しようとする城邑に入城したならば、必ず慎重に郷里の長老や現地に赴任していた行政官、在地の貴族などに城内の様子を尋ねて、私怨を結んで仇敵の間柄にある者たちを召して、明確に双方を和解させ、防御戦への協力を約束させる。その後も彼らを別扱いにし、他の者たちと隔離する。もし私怨を晴らすために城の防禦を妨害する者が出れば、断罪する。
守将はその封邑の領主であることを示す印章を授け、尊重して官職に登用し、彼の功績と破格の抜擢とを全人口に明瞭に周知させる。在地の豪族で国外の諸侯と手広く交際している有力者は、頻繁に守将に謁見させ、防衛軍の最高幹部たちと顔見知りになるよう仕向け、巧妙にその豪族を官吏に服属させ、しばしば接待して懐柔し、それまでのように出入国する行為を控えさせ、さらに血縁者を人質に取る。
郷ごとに声望家・長老・豪族がいる場合には、その親戚・父母・妻子を必ず尊重し優遇する。もし貧困で食事に事欠くものがいる場合は、司令部から食料を配給する。さらに勇士の親族にも時折り酒食を下賜し、必ずこれらの人々を尊敬する。
守将用の望楼は人質を住まわせる建物を見下せる位置に設営し、どの方角からも内部を見られないように壁や床を念入りに土で塗り固める。
守将自身が現地で抜擢・登用した官吏で、性格が貞廉忠信であり、不正を働く憂いなしに業務を任せられる者たちには、やかましく飲食に制限を加えたりせず、彼らの私有財産も各自で保管させる。
人質を管理する葆宮の壁は、その外側に必ず三重に垣根を張り巡らし、秘密を守るために屋根には瓦を厚く敷き、四方の壁を土で塗り固めて防音処置を施す。
各郷里に出入りする門には、それぞれ専任の門吏を配置し、門の開閉を中央で統御するため、必ず守将の割符による許可命令を必要とする方法を取る。
葆宮の護衛兵には必ず重厚な性質の者を選抜して任命する。さらに忠信で不正を働く恐れなしに業務を任せられる者を選抜し、葆宮の警護隊長に任命する。
巫祝の史と望気者は必ず味方に有利な占断や予言のみを民衆に告げなければならず、民衆に告げる際には、事前に守将に内容を報告して許可を得なければならない。もしこれに違反して、民衆の心を動揺させた時は、厳重に処罰して決して赦さない。
・号令篇はかなりの長文で、ここで紹介したのはほんの一部です。
・当時の城邑は、外郭と内城の二重の城壁に囲まれており、ここでいう城壁はすべて外郭を指します。外郭と内城の間には一般民衆の居住区域(郷里)が広がっています。
・防禦戦では、住民は兵士となり、また郷里でも戦闘が行われるため、一般民衆の統治方法にも言及しています。
・ここで言及される戦時体制を平時の社会全体にまで拡大すれば、法家の理想とする法治国家が出現します。絶えず城邑の争奪戦が繰り返される春秋戦国期にあっては、法による平時の治安維持が求められるようになり、君主権強化、法治国家成立という流れを作りました。

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近江聖人と呼ばれて。集義和書より学ぶ!経世済民のコンサルタントの教え!

熊沢蕃山は、江戸前期の儒学者陽明学者です。
元禄・享保期の思想家・儒学者荻生徂徠にして「この百年来の大儒者は、人材では熊澤(蕃山)、学問では(伊藤)仁斎」とまで言わしめています。
また、明治末の教育本・修身の教科書では以下のように語られていた、二宮金次郎と並ぶ偉人でした。
「近江聖人と呼ばれて徳の高さが世の手本となる中江藤樹近江国高島郡の人で、有名な学者である。
 人となりは温厚篤実、学問といい、品行といい、心がけといい、全てが万人に卓越していたばかりでなく、貧しいものがあれば救ってやり、言行に不心得のものがあればていねいにいさめてやるということに努めたので、付近の民百姓はこれに感化されて、一人も悪者がいなかったと伝えられている」
しかも熊沢蕃山は、当時日本一の財政・経済コンサルタントであったそうで、治水、林政、租税改革、風教に目覚しい政績を挙げた経世済民の偉人であり、諸侯は争って蕃山に教えを請うていたそうです。
更には、日本古典に通じ、歌道に秀で、音楽通で幾つかの楽器を奏した、まさに文武両道の典型の士でした。
そんな蕃山の著書の幾つかから、その神髄を整理してみます。

【集義和書】

初版全11巻は1672年(寛文12)に、2版全16巻は76年(延宝4)頃に刊行、3版全16巻が1710年(宝永7)頃に刊行された儒学「時・処・位」論を展開している書物です。
16巻の構成は、書巻5巻、心法図解1巻、始物解1巻、義論9巻からなり、問答体を駆使してわかりやすく書かれていて、話題は、経書の根本問題から、「心法」の涵養、時処位論、宋明儒学老荘仏教への評価、統治論など広範に渡っています。
ここで除かれた分は「集義外書」に収録されているようです。

そもそも蕃山は、自身の利益に拘泥するのではなく、無私によって考えるべきことを基本としています。
そのため乱世の原因について考察し、商人の力の増大、贅沢への諌め、礼式の欠如を中心として纏め上げられています。

・倹約と吝嗇
”倹約は、我身に無欲にして、人にほどこし、
 吝嗇は、我身に欲ふかくして、人にほどこさず”
という言葉からも分かるように、欲が自身に及ぶか否かによって、倹約と吝嗇の差異を見出していることが特徴です。

・貧と富
”世の中の人残らず富候はゞ、天地も其まゝつき候なん。
 貧賤なればこそ五穀・諸菜を作り、衣服を織出し、材木・薪をきり、塩をやき魚をとり、諸物をあきなひ仕候へ”
という言葉からも分かるように、人は貧しいからこそ働くのだという事実が指摘されています。
そのため、生まれながらに栄耀なる者は、国家の役には立たないと弁じています。

・君子と小人
己の利益を優先していては、繁栄は続かないということから、君子の特色八箇条と小人の特質十一箇条が並べられており、興味深い内容となっています。

【君子の特色八箇条】
一、仁者の心動きなきこと大山の如し。無欲なるが故に能く静なり。
二、仁者は太虚を心とす。天地、万物、山川、河海みな吾が有也。春夏秋冬、幽明昼夜、風雷、雨露、霜雪、皆我が行なり。順逆は人生の陰陽なり。死生は昼夜の道なり。何をか好み、何をか悪まん。義と倶に従ひて安し。
三、知者の心、留滞なきこと流水の如し。穴に導き器につきて終に四海に達す。意を起し、才覚を好まず。万事已むを得ずして応ず。無事を行ひて無為なり。
四、知者は物を以て物を見る己に等しからん事を欲せず。故に周して比せず。小人は我を以て物を見る。己に等しからんことを欲す。故に比して周せず。
五、君子の意思は内に向ふ。己独り知る所を慎んで人に知られんを求めず。天地神明と交はる。其の人柄光風霽月の如し。
六、心地虚中なれば有することなし。故に問ふことを好めり。優れるを愛し、劣れるを恵む。富貴を羨まず、貧賤を侮らず。富貴は人の役なり上に居るのみ。貧賤は易簡なり、下に居るのみ。富貴にして役せざれば乱れ、貧賤にして易簡ならざればやぶる。貴富なるときは貴富を行ひ、貧賤なる時は貧賤を行ひ、總て天命を楽みて吾れ関らず。
七、志を持する所は伯夷を師とすべし。衣を千仭の岡に振ひ、足を万里の流に濯ふが如くなるべし。衆を懐くことは柳下恵を学ぶべし。天空うして鳥の飛ぶに任せ海濶くして魚の踊るに従ふが如くなるべし。
八、人見て善しとすれども神のみること善からざる事をばせず。人見て悪しゝとすれども天のみること善き事をば之をなすべし。一僕の罪軽きを殺して郡国を得ることもせず。何ぞ不義に与し、乱に従はんや。

【小人の特質十一箇条】
一、心、利害に落ち入りて暗昧なり。世事に出入して何となく忙はし
二、心思、外に向つて人前を慎むのみ。或は頑空、或は妄慮。
三、順を好み逆を厭ひ、生を愛し死を悪みて願ひのみ多し。註、順は富貴悦楽の類なり。逆は貧賤患難の類也。
四、愛しては生きなんことを欲し、悪むでは死せんことを欲す。總て命を知らず。
五、名聞深ければ誠少し。利欲厚ければ義を知らず。
六、己より富貴なるを羨み、或は娼み、己より貧賤なるを侮り或は凌ぎ、才智芸能の己に勝れる者ありても益を取る事なく、己に従ふ者を親む。人に問ふことを恥ぢて一生無知なり。
七、物毎に実義には叶はざれども当世の褒むる事なれば之れをなし、実義に叶ひぬる事も人之れを毀れば之れを已む。眼前の名を求むる者は利也。名利の人之れを小人と云ふ。形の欲に従ひて道を知らざれば也。
八、人の己を褒むるを聞いては実に過ぎたる事にても悦びほこり、己を毀るを聞いては有ることなれば驚き、無きことなれば怒る。過ちを飾り非を遂げて改むることを知らず。人皆其の人柄を知り其の心根の邪を知りてとなふれども己独り善く、斯くして知られずと思へり。欲する所を必として諫をふせぎていれず。
九、人の非を見るを以て己が知ありと思へり。人々自満せざる者なし。
十、道に違ひて誉れを求め、義に背きて利を求め、士は媚と手だてを以て禄を得んことを思ひ、庶人は人の目を昧まして利を得るなり。之れを不義にして富み且つ貴きは浮かべる雲の如しと云へり。終に子孫を亡ぼすに至れども察せず。
十一、小人は己あることを知りて人あることを知らず。己に利あれば人を損ふことをも顧みず。近きは身を亡ぼし、遠きは家を亡ぼす。自満して才覚なりと思へる所のもの是れなり。愚之れより甚だしきはなし。

【集義外書】

「集義和書」の改訂版作成で除かれた分が収録されています。
ここでは、時間と場所と立場に応じて、適切な政策は異なるということが示されています。
そのため、民が余力ある生活を送れるように配慮することや、農と兵の融合という政策が語られています。
国の大本は民であり、民の困窮が国全体の困窮になる恐れがあるため、物価の適正価格の重要性や、金銭や穀物の均衡のとれた流通についても論じられています。

・困窮と奢り
”世人のまどひは異端の渡世よりをこり、民の困窮は世の奢より生ずるとにて候”
”しかれども数十年奢によりて、渡世するもの餘多あれば、急に奢をやめむとすれば、うゑに及もの多き者にて候。
異端の渡世はなを以て数十万人あるべければ、是も急には制しがたかるべし”
”人の迷惑せぬを仁政と申候。大道行はれ候はゞ、一人も迷惑するものなく、人のまどひも困窮もやみ申す可き候”
という言葉からも分かるように、贅沢と驕りを戒めた上で、誰も迷惑することのない仁政を弁じています。

・困窮と余力
”夫國の国たる処は、民あるを以也。
 民の民たる所は、五穀あるを以て也。
 五穀のゆたかに多き事は、民力餘りありて功の成によつて也。
 故に有徳の君、有道の臣ある代の日は、舒にして長し。
 其民しづかにいとま多く、力餘あればなり。
 道なき世の日は、いそがはしく短し”
という言葉からも分かるように、民に余力があればこそ、農作物も多く収穫でき国力も増すと論じています。

・農兵制
”日本も今とむかしは大にかはりあり。
 むかしは農と兵と一にしてわかれず、軍役みな民間より出たり。
 武士皆、今の地士といふものゝごとくなり”
”恭倹質素にして、驕奢なければついえなし”
”今は士と民とわかれて、士を上より扶持するゆへに、知行と言ひ、扶持切米と言ひ、多いるなり”
”農に兵なきゆへに、民奴僕と成てとる事つよく、いやしく成たり。
 故に農兵の風たえて後は、一旦収と言へども、君も士も民もはなればなれに成て、はてはては惣づまりになりて、乱世となる事早し”
”日本の今の時所位あり、より所ありと言へども、跡によるにあらず、時に当てはなすべし、かねて言ひ難し”
という言葉からも分かるように、武士階級が土から離れたため、農民側も卑屈になり、兵側と農側で気持ちが分かれるので世の中が乱れる、従って制度も時と場所と立場に合ったものを当てるべきだと論じているのです。

・富と穀物
”宝は民のためのたからなり。
 民のためのたからは五穀なり。
 金銀銭などは、五穀を助たるものなり。
 五穀に次たり。
 しかるに金銀を重くして、五穀をかろくする時は、あしき事多し”
”士民ともにゆたかにして、工商常の産あり。
 たからを賤するとて、なげすつる様にするにはあらず。
 五穀を第一とし、金銀これを助け、五穀下にみちみちて、上の用達するを、貨を賤すといふなり”
”商の心は、やすき時に買、高時に売。
 有所の物をなき処へ通ずるばかり也。
 工はたゞ其身の職分に心を入れ、才力を盡すのみなり。
 大廻しの事は、武士のみ知て、彼等は手足の心にしたがふがごとくなる道理にて候。
 いまは手足の為に心をつかはるゝに成申候”
という言葉からも分かるように、穀物の重要性とお金の利便性、流通効果を評した上で、お金に使われている現状に苦言を呈しています。

【大学或問】

『大学或問』では、参勤交代や兵農分離策などを批判したため、幕府の命によって古河藩にお預けとなり古河城東南隅の竜崎頼政廓に幽閉され数年後の1961(元禄4)年8月17日、73歳で没してしまいます。
ここでは、皆が豊かになる経済が目指し、政治の裕福さの必要性を説いています。

・仁政と富有
”問、政とは何ぞや。云、富有也”
”仁政を天下に行はん事は、富有ならざれは叶はず”
という言葉からも分かるように、善き政治は、裕福でなければ不可能と断じています。

・困窮の連鎖
”諸侯不勝手にて、武士困窮すれば、民に取事つよくて、百姓も困窮す。
 士民困窮すれば、工商も困窮す。
 しかのみならず浪人餘多出来て飢寒に及びぬ。
 是天下の困窮也。
 天下困窮すれば、上の天命の冥加おとろへぬ。
 天命おとろへては、いかんともする事なし”
という言葉からも分かるように、一つの階級の困窮が他の階級にも連鎖し、一定限度を超えることで打つ対策がなくなることを警戒しています。

・富有と天下
”富有は天下の為の富有なり”
”仁君の貨を好むは大なり。富有大業をなす天下、君の貨を好む事をたのしめり。
 これ貨を以て身をおこすなり”
”聖賢なれざれば、天下を平治する事あたはざるには非ず。
 貨色を好むの凡心ありといへども、人民に父母たる仁心ありて、仁政を行ひ、其人を得て造化を助る時は仁君也。
 天職を務めて天禄を得る事久し”
という言葉からも分かるように、天下のための裕福さを目指し、財貨によって経済を回し、天職を務めて、名声を得ることを奨励しています。

「憂き事の尚この上に積もれかし限りある身の力試さん」
熊沢蕃山の名言です。

どんな問題や難題にも不条理だと憤るのではなく、必然に起きた成長のためのターニングポイントだと捉えて、力を尽くすこと。
何を為すか何をしたかという成果や報酬ばかりに蒙昧するのではなく、人としてどう生きるのか、如何にあるべきなのかを明らかにすること、そしてそれを追及すること。
そんな蕃山の生涯を糧にしていくことが、残された私達への大きな命題なのかもしれません。

以下参考までに、一部抜粋です。

【集義和書】

卷第一 書簡之一

一 來書畧。博學にして、人にさへ孝弟忠信の道を敎へられ候人の中に、不孝不忠なるも候は、いかなる事にて候や。
返書略。武士の武藝に達したるは、人に勝つことを知るにて候へども、武功なき者あり。無藝にても武功ある人多し。兵法者ひやうはふしや〔武藝巧妙の者―頭注〕の無手むての者に切られたるあり。學問の道も同前に候。夫それ智仁勇は文武の德なり。禮樂弓馬書數は文武の藝なり。
生付うまれつき仁厚なる人は、文學せざれども孝行忠節なるものなり。生付勇強なる人は、武藝をしらでも勝負の利よきものなり。しかればとて、文武の藝廢すたるべき道理なければ、古いにしへの人は、其身に道を行ふ事全まつたからぬ人にても、文才もんさいに器用なる者には學問をさせ、ひろく文道を敎へて、人民のまどひをとき、風俗をうるはしくし、その身に勇氣少き人にても、武藝に器用なる者には、弓馬をならはし、あまねく兵法へいはふを敎へて、人民の筋骨すぢほねをすこやかにし、能を遂げしむ。
國の武威を強くせんとなり。これ主將の人を捨てず、ひろく益を取給ふ道なり。學力無くして孝行忠節なるは、氣質の美なり。道を知らざる勇者をば、血氣の勇ともいへり。人の德を達し才を長ずることは、文武にしくはなし。今宣へる人は、文の末のみを知て本に達せず。武も又かくの如し。且かつ天の物を生ずること、二つながら全きことなし。四足しそくのものには羽なく、角あるものには牙なし。
形あるものは必ずかくる所あり。大かた文才もんさいに器用なる者は德行とくかうにうすく、德行によき人は文才拙きことあり。智聰明なる生付の者は行かけやすし。行篤實なる者は智に足らざる所あり。君子は其善を取りて備らん事を求めず。小人は人のみじかき所をあらはして、其美をおほへり。すべて世に才もなく德もなき人多し。才あらば稱すべし。德あらば好よみすべし。
一 來書略。今の世に學問する人は、天下國家こくかの政道にあづかり度たく思ふ者多く候。學者に仕置しおきをさせ候はゞ、國やすく世靜なるべく候や。
返書略。いづれの學問にても、利欲を本としてつとむる者は、各別の事なり。實まことに道を求めて學ぶ人は、貴殿きでん我等をはじめて、今の世の愚ぐなる人と可く被る二思し召さ一候。此世に生れて、神の智を開くにしたがひて、世間に入る人は、利發なる故なり。世間の利害に染りぬれば、道德には遠きものに候。しかる所に、貴殿我等ごとき、此世に生れながら、世間に入るべき智識もさとからず、しかも流俗には習ならひながら、中流にたゞよひ居り候處に、幸に道を聞きゝてよろこび候。
其愚なる下地故に難き事をば知らずして、古の法を以て今を治めんと思へるなり。我せんと思ふ學者に仕置をさせ候はゞ、亂に及び候べし。たとひ古の人の如き賢才ありとも、人力を以てなさば不可なり。况いはんや古人におよばざる事はるかなるをや。堯舜の御代みよには、屋をくをならべて善人多かりしだに、政まつりごとの才ある人は五人〔禹、皐陶、稷、契、伯益〕ならでは無かりしとなり。周の盛なりしにも、九人ありといへり。學問して其まゝ仕置のなる事ならば、古の聖代には、五人九人などといふ事はあるまじき事なり。古の才と云たるは、德智と才學と兼ねたる人の事と聞え候。博學有德いうとくにても、人情時變に達する才なき人は、政はなりがたく、世間智ありても心ねぢけたる人は害おほく候。
是は昔の人のえらびなり。今の政に從ふといふはしからず。其位に備りたる人か、衆の指ゆびさすところか、いかさまに人情のゆるす所ある人の中にて、凶德なきをえらぶとみえたり。これなほ無學なりとも、我われ政をせんといふ學者の國政にはまさり候はんか。
一 來書略。昨日さくじつ下拙げせつ不善ありき。遂げてかくし可くレ申す〔隱しおほすべしとはの義〕とは存ぜずながら、申しは出いでざる内に、先生すでに肺肝を御覽ぜらるゝと覺え候ひき。
返書略。愚拙ぐせついかで人の不善をさぐり申すべき。何事の候へるやらん不レ存ぜ候。貴殿の心に明德あるによりて、肺肝を見らるゝ樣に覺え給ひ候なり。貴殿と我等とにかぎらず。惣じて不善ある人の氣遣、かくの如くに候。大學の旨〔大學に小人間居して不善を爲す。至らざる所なし。(中略)人の己を視ること其肺肝を見るが如く然りと〕も、君子より人の肺肝を見るにはあらず。小人みづから肺肝を見らるゝ如く苦しきにて候。性善の理り明白なる事に候。
一 來書略。楠正成は智仁勇ありし大將といへり。德もなき天子にたのまれ奉りたるは、智とは申しがたくや候はん。武家の世と成りて此かた、よき人誰たれか候つるや。
返書略。不ずレ知らして天よりあるを氣質と云ひ、知しつて我物とするを德といへり。正成は氣質に智仁勇の備りたる人と聞え候。聖學をきかせ候はゞ、たぐひすくなき文武ある君子たるべく候。今の時ならば、天子にもたのまれ申すまじく候。正成の時分は、北條の代よと後世よりは稱すれども、京都より將軍を申し下くだし奉り、北條は諸大名と傍輩の禮儀にて交り、たゞ天下の權を握りたるばかりに候。賴朝の子孫九州にもおはしまし候事なれば、主君と成なつて諸士にのぞむ事は、人情のしたがはぬ所ありたると見え候。
この故に、正成も北條と君臣の禮はなく候。其上相摸入道〔北條高時―頭注〕無道にして亡ぶべき天命あらはれ、又將軍は京より申し下して假かりなる事なれば、天子より外に主君なく候。主君よりの仰なれば、賴まれ申したるといふ事にては無く候。臣下の權つよくて、一旦君をなやまし奉りし事は、平の淸盛も同じ事なり。後白河院賴朝に天下をあづけ給ひてより、武家の世といへり。しかれども王威過半殘りて、全く武家の天下ともいひがたし。されば後醍醐天皇てんわうまでは、いにしへの王德をしたふ者も多かりき。しかる處に、北條の高時奢おごりきはまり、天道にそむき、人民うとみたる時節、天下をとりかへし給ひしかば、公家に歸したり。
しかれども、天皇道をしろしめさず、賢良を用ひ給はず、昔と時勢のかはりたる事を知り給はざりし故に、うらみいきどほる者おほく出來て、武家の權を慕はしく思ふをりふし、高氏おこりて天下をとりてよりこのかた、一向武家の世とはなれり。是より天下の諸大名、大樹たいじゆ〔後漢の馮異(*原文「鳴異」)が故事に基づく〕を主君とし奉りて、天子には仕ふまつらず、陪臣の國の君を主とすると同理おなじりなり。是これを以て今ならばたのまれ申すまじきと申す事に候。扨さて士にては辨慶、氣質に智仁勇ある人に候。隱れたる處ありて、世人知る事稀なり。勇にかさのある事類たぐひすくなく、智謀は泉のわき出るがごとし。仁は士にて時にあはざるゆゑに、見えがたく候。勇智にならぶべき仁愛見え申し候。
義經の好色なるをば、度々いさめ候ひき。然るに、奧州落おちの時、北の方をば、辨慶すゝめて供ともいたし候。人の同心すまじき所をはかりて、先まづ辨慶大に氣色きしよくをつくり、倶し奉る事はなるまじきよしをいひて後、又氣色をやはらげ、さは云ひつれども、まさしき北の方なり、身もたゞにましまさず〔懷姙せるをいふ〕、鎌倉殿はたのもしげなし、都に殘し奉るべき義にあらず、行ゆかるゝ所まで行きて、叶はざる時は、先まづ北の方をさし殺し奉り、各おの/\自害し給ふべきより外はあらじとて、稚兒ちごの形につくりて相倶あひぐし、北陸道ほくろくだうをへて落ちられしに、關所々々にて、義經とは見知りたれども、うちとゞめて軍功にもならじ、實は兄弟にてましませば、恩賞を得ても心よからぬ事なり、其上罪なき人の、大功たいこうありながら讒ざんに遭ひ給へるもいたはしくて、進まざる心の氣色きしよくを、辨慶やがて見しりければ、關の人々の理ことわりのたつべき樣言成いひなして通りしを、平泉寺へいせんじ〔陸中國―頭注〕にては、鎌倉殿よりの討手にてもなきに、法師の身ながら、邪欲のあまりに、義經をうちとゞめて恩賞にあづからんとて、取籠めたれば、遁のがれざる所の第一なりき。然る所に、うつくしき兒ちごを倶しける故に、坊主ども目をうつして時刻をふる間に、老僧など出て管絃のもよほしあり。
義經は笛の上手なり、供奉ぐぶの中に笙ひちりきの得たるあり、ちごは箏ことを彈じ給へば、老若らうにやくともに邪心やはらぎ、難をのがれたり。此時北の方ましまさずはあやふかるべし。かくあしかるべき催しだに、道にしたがへば吉きちなり。此一事を以ても、辨慶仁厚の心は見侍り。平生義理に感じやすく、涙もろなる者と見えたり。戲言たはぶれごとをなどいひたるは、患難に素そしては患難を行ふの氣象也。〔中庸に、富貴に素しては富貴に行ひ、貧賤に素しては貧賤に行ひ、夷狄に素しては夷狄に行ひ、患難に素しては患難に行ふとあり〕義經一代難儀の堺にしたがひしかば、諸人しよにんの氣屈する節なり。辨慶は仁にして勇なる故に、敵におそれざるのみならず、難に遇あひてもこゝろ屈せず、人をいさめ助くる所ある故に、戲言など云ひたるなり。君子を其地に置おきたらば、斯くあるべきと思はれ候なり。
吉野河にて、跡にまぢかく大敵を受けながら、竹を切きりて雪中にさし、竹に向ひてもの云ひたる振舞などは、苟且かりそめ(*原文「苛且」)なる事の樣なれども、心の智仁勇あらはれ候。東鑑〔鎌倉幕府の日記―頭注〕のみ確たしかなるやうに世以て申し候へ共、鎌倉中ぢうの事は委しくして、遠國をんごくの事はおろそかなり。平家物語・義經記も、大かた實事と見えたり。文法にても虚實は見ゆるものにて候。正しく記したる書の中に、定めてよき生付の人あるべく候。重て暇いとまの日に考へ可くレ申す候。源の賴光らいくわう、小松の内府だいふ重盛、畠山の重忠、文武を兼て士君子の風ある人なり。
かゝる人々に聖學の心法を聞かせば、唐からまでも聞ゆる程の人に成り給ふべく候。時節あしく出られし事不幸なる儀なり。宋明の書、周子、程子、朱子、王子〔周は周敦頤、程は程顥・程頤、朱は朱熹、王は王陽明〕などの註解發明の日本に渡り人の見候事は、わづかに五六十年ばかりなり。しかれども、市井の中にとゞまりて、士の學とならず。十年このかた、武士の中にも志のある人、はし/〃\見え候間、後世には好人よきひと餘多あまた出來候べし。
一 來書略。萬物一躰といひ、草木國土悉皆成佛と云ふときは、同じ道理の樣に聞え候。
返書略。萬物一躰とは、天地萬物みな太虚〔太虚は畢竟大空也。陽明學派に太虚説を立つる者多し〕の一氣より生じたるものなるゆゑに、仁者は一草一木をも其時なくてはきらず候。况や飛潛動走のものをや。草木にても、強き日でりなどにしぼむを見ては、我心もしほるゝがごとし。雨露うろの惠を得て、靑やかにさかえぬるを見ては、我心もよろこばし。是一躰のしるしなり。しかれども、人は天地の德・萬物の靈といひて、すぐれたる所あり。
たとへば庭前の梅の根の土中にかくれたるは太虚のごとく、一本の木は天地のごとく、枝は國々のごとく、葉は萬物のごとく、花實はなみは人のごとし。葉も花實も一本の木より生ずといへども、葉には全體の木の用なし、數すう有て朽くちぬるばかりなり。花實はすこしきなりといへども、一本の木の全體を備へし故、地に植うゑぬれば又大木となりぬ。かくのごとく、萬物も同じく太虚の一氣より生ずといへども、太虚天地の全體を備ふる事なし。人は其形すこしきなれども、太虚の全體あるゆゑに、人の性にのみ明德の尊號あり。故に人は小體せうたいの天にして、天は大體の人といへり。
人の一身を天地に合せて、少しも違ふ事なし。呼吸の息は運行に合す。暦數醫術もこゝに取る事あり。天地造化の神理主帥しゆすゐを元亨利貞げんかうりていと云ひ、人に有りては仁義禮智と云ふ。故に木神ぼくしんは仁なり、金神きんしんは義なり、火神は禮なり、水神すゐしんは智なり。天地人を三極といふ。形は異なれども、其神は一貫周流へだてなし。理に大小なきが故に、方寸太虚本より同じ。是大舜たいしゆんの君、五尺の身にしてよく其德を明かにし給ひしかば、天地位くらゐし萬物育いくするに至れる所なり。〔中庸に中和を致して天地位し萬物育す(*原文「章す」)とあり〕萬物一躰とはいふべし。
一性とは云ふべからず。萬物は人のために生じたるものなり。我心則ち太虚なり。天地四海も我心中にあり。人鬼幽明うたがひなし。堯舜の道は人倫を明かにするにあり。故に他の道を學びんことをねがはず。佛法の事は我不レ識ら。
一 來書略。聖人の書を説くことは、朱子にしくはなし。是を以て朱學は則ち聖學なりと云へり。小學、近思録等の諸書を學びて、かたの如くつとめ行ひ候へども、心の微〔書經の道心惟微に出づ〕は本の凡情に候。又心學とて、内よりつとむると云ふもおもしろく候。陽明は文武かね備へたる名將なりといへり。されども近年心學を受用するといふ人を見侍るに、さとりの極きよくにて、氣質變化の學とも覺えず候。
返書略。拙者をも世間には心學者と申すと承り候。初學の時心得そこなひて、自ら招きたることに候へども、心學の名目みやうもくしかるべからず存じ候。道ならば道、學ならば學にてこそ有るべく候へ。いづれと名を付け、かたよるはよからず候。漢儒の訓詁きんこありたればこそ、宋朝に理學もおこり候へ。宋朝の發明によりてこそ、明朝に心法をも説き候へ。明朝の論あればこそ、數ならぬ我等ごときも、入德の受用を心がけ候へ。論議は次第にくはしくなりても、德は古人に及びがたし。
後世の者、心は本の凡情ながら、文學の力にてたま/\先賢未發の解を得ては、古人の凡情なき有德いうとくをそしり申す事勿體もつたいなき義なり。一の不義を行ひ一の不辜ふこをころして天下を得る事もせざる所は〔孟子に一不義を行ひ、一不辜を殺して天下を得るも、皆爲ざるなりと〕、朱子・王子かはりなく候。拙者世俗の習いまだ免かれずといへども、此一事は天地神明にたゞしても古人に恥はづべからず。其外の事は、我ながら我身の拙さを存じ候。如くレ仰せの貴殿かたのごとく道を行ふと思召おぼしめし候へども、心中の微は同前に候。又學志ありてなりがたき事をつとむる所は候へども、無學の平人へいにんにおとりたる事も有レ之候。學は程朱の道にたがひもあるまじく候へども、立處たつところの心志しんしかはりある故と存じ候。學術の外に向ふによりて、自から知ることの不るレ明かなら故にてもあるべく候。
陽明の流の學者とて、心よりくはしく用ふとは申し候へども、其理を窮きはむることは見解けんげ〔本書すべて意見の義に用ひたり〕多く、自反愼獨じはんしんどくの功こうも眞ならざる處相見え候。尤もつともよきもあるべく候。大方は、其愚を知ること明かならず、其位をぬけ候事を知らざれば、名根みやうこん利根の伏藏は本の凡情たるべし。飯上はんじやうの蠅はいを追ふが如くなれ共、心上の受用あるによりて、自からもゆるすにて有るべく候。しかれども、大なる事にあひては亂れ候はんか。氣質變化の學は明白なる道理ながら、大なる志なければ到りがたく候。生付よき人の、世間の習によりて、うはべばかり惡しく成りたる等などは、道を聞候へば、一旦の惑ひはすみやかに解けて、本のよき所あらはれ候。
かゝる人を氣質變化と申す者あるべく候へども、これも變化にはあらず候。大かたは先覺〔孟子に、予は天民の先覺者なりと〕後覺共に、本の人がらありと相見え候。いざなふ人の人がらよければ、其國所のよき人、類るいにふれてあつまり、いざなふ人の人がら平人へいにんなれば、平人あつまり候。王朱の學の異同にはよらで、先覺の德と不德によれり。悉く然るにはあらず候へども、これ大略にて候。むかふ人を以て我身の鑑かゞみと致し候へば、自みづからの人がらこそ恥かしく候へ。古の人は、門前に人の往來多きを以てあるじの才ある事をしり、來きたる人の善不善を見て主あるじの德を知ると承り候。
一 再書略。宋朝の理學、明朝の心術と承り候へば、程子・朱子は道統〔流派と云ふに同じ〕にあづからざるが如し。いかが。
返書略。周子の通書つうしよ〔周敦頤の著書。凡そ四十篇あり〕などを見侍れば、聖人のはだへあり、明道めいだうには顔子がんしの氣象あり。後の賢者のよく及ぶべきにあらず。伊川の器量、朱子の志、みな聖人の一體あり。凡心ぼんしんなき處は同じ。聖門傳受の心法にあらずして何ぞや。我はたゞ其學術を論ずる事の多少をいふのみ。惑を解くことのおほきを理學といひ、心ををさむることの多きを心術といふ。秦火しんくわ〔秦始皇三十四年制して天下の書を燒かしむ〕に經けいそこねたり。故に漢儒の功は訓詁きんこにあり。其後異端おこりて、世に惑ひおほし。故に宋儒の學は理學にあり。惑ひとけては心にかへる。故に明朝の論は心法にあり。
一 來書略。太公望を微賤よりあげて三公となし給ひし事、不審多く候。周公、召公のごとき中行ちうかう〔中道を守りて過不及なき事〕の君子とも見えがたく候。軍旅の事に長じたる人故にて候や。
返書略。古人いへることあり。老人なり、かつ微賤に居て下しもの情を知れり。知識ありて時變に達せり。生れながらの上臈は、下の情を知り給ふ事くはしからず、人の云ふにしたがひ、道理のまゝに下知し給ひては、下に至りて可かにあたらざる事あり。是を以て帝堯は諫鼓謗木かんこはうぼく〔淮南子に堯敢諫の鼓を置き、舜誹謗の木を立つとあり〕を置き給へり。又賢才の人も、下に居て上臈の風俗を見ず、かつ政道の務を知らざれば、下にて謀りたる事には違ふこと多し。
太公も君子に交りて上臈の事をしり、本よりの大臣も、太公によつて下の情に通じ給へば、上下じやうか共に人情にたがふことなしとなり。軍旅に達せる事は、初めはしろしめさざれども、天然と大將軍の器量ある人なる故、用ひ給ひしなり。六韜りくたう〔文武龍虎(*原文「處」)犬豹の六韜太公望の兵書と傳ふ〕に記す處の文武太公の論は、皆大なる僞いつはりなり。後世事をこのむもの是を作れり。かつ聖賢をかりて、軍者功利の術をかざりたるものなり。若し彼に云へる如きの心あらば、何を以てか聖人とは申すべきや。
一 來書略。中華の國、聖代には武威つよく、末代に至りてよわくなりしと申す事は、いかなる故にて候や。
返書略。北狄の中夏ちうかを侵すとをかさゞるにてしられ候。聖賢の代よには、文明かに武備り候故に、臣と稱して來朝せり。末代は文過すぎて武をこたれり。文の過るといふは奢おごりなり。士以上はおごればやはらかに成りて武威よわし。上かみ驕おごれば民かじけぬ〔凍餓憔悴する―頭注〕。上下をこたりて武そなはらず。無事の時は民たみも女の樣にて心やすきは、使ひよき樣なれども、戰國にのぞみて士の手足とするものは民なり。手足はよわし、身は奢りてやはらかなれば、北狄のあなどりおかすも理ことわりなり。賢君の代よには、文武兼備りぬれば、おごらずおこたらず、上臈もやはらかならず、下臈もかじけず。
身無病にして手足つよきがごとし。北狄おそれて臣となりぬる事尤なり。日本も神武帝より應神の御代、其後までも、王者わうしやの武威甚強くおはしましゝかど、次第に文過ぎて武おとろへたり。京家の人とて武家のあなどるは其故なり。武家にても少しの間に強弱入いれかはれる事なり。平淸盛は武功を以て經へあがりしかども、一門榮耀ええうにおごりぬれば、わづかに二十餘年のほどに武勇ぶゆうよわく成り候。まして唐たう〔李唐に非ず、支那の義〕は三百年五百年治りて、其間に文武の業あやまり候へば、劍けんをも帶たいせざる風俗になりしも尤なり。其あやまりを以て、聖代の繪をも、劍を帶せずかき候は、あしく候なり。
一 來書略。文王を野心あらんかと疑ひながら、又征伐をゆるされたる事は、心得がたく候。
返書略。日本王代の征夷將軍といはんが如し。西國の諸侯のつかさにて、與國よこくをひきゐて北狄の中國を侵すをはらひ退しりぞけしむ。其時はわづかに周一國の諸侯にておはしましき。文王と申すは謚號おくりがうなり。そのかみは西伯と申したり。西伯の紂王に忠ありしこと、たぐひすくなし。天下の諸侯紂王が惡をにくみて、そむける人三分が二なり。其二は皆西伯に志あり。此時西伯軍いくさをおこし給はゞ、紂をほろぼさん事たなごころの内なり。しかるに西伯は紂王に無二の忠臣なりしかば、大半のそむける諸侯をひきゐて來朝し給へり。紂王は西伯の心を知らざれば、人の思ひつくを怪しみて里いうりにとらへ奉りぬ。
其後そののちは來朝する諸侯もまれにして、北狄いよ/\境をおかせり。其時紂王初めて西伯の功を感じ、ゆるして國にかへすのみならず、西國せいこくをまかせ狄人てきじんをふせがしめたり。殷の代よの末に、文武おとろへ中夏むなしかりしかば、北狄來りおかしゝなり。是によりて周公を征夷將軍として征伐せしめたるなり。此時太公望をあげ給ひ、狄を征するがために軍法を論じ給ひし事もあるべく候。然れども六韜の言語ごんごの如き事はあるべからず候。
一 來書略。不幸にして壯年の時文學せず、年已に五十に及び候。小家中なれども用人にて候へば、老學のいとまなく候。朝あしたに道を聞きいて夕ゆふべに死するの一語〔論語里仁篇の語〕をねがひ申すばかりに候。
返書略。家老たる人の、道を好み德を尊び給はんは、忠功の至いたりにて候。たとひ其身にはつとめずとも、人に道藝だうげいを勸むるは、上かみに立つ人の役にて候。心は耳目手足しゆそくの能なけれども、よく耳目手足の下知して尊きが如くに候。心のおとなしき人を家老とするなれば、おとな〔長老、家宰の稱〕ともいひ、若けれども老人の公道ある故に、老らうとも申し候。老の字の道理にだにかなひ給はゞ、幸甚たるべく候。
一 來書略。先度被二仰せ下一候、家老たる者、其身は無能無藝にても、人に道藝をなさしむるは、みづから藝能あるに同じとの義、尤至極に存じ候。誠に人の上かみに立ち候者、いか程多能多藝にて學問ひろく候とも、人の賢をそねみ人の能をそだて侍らずは、かへりて凶人きようじんたるべく候。弓馬文筆等の事は心得申し候。道學はいづれの流がよく候や。今時朱學、格法、王學、陸學、心學などとて、色々にわかれて申し候。皆古の儒道にて御座候や。
返書略。學問の手筋〔問に流派とあるに同じ〕の儀、いづれをよしとも、あしゝとも申しがたし。總じてすこし學びて道だてする者は、人道の害に成る事に候。身の愚なるたけをもしらず、至りもせぬ見けんを立て、とかくいへば、無事の人まで物にくるはせ候。一向に俗儒のへりくだり心得よき者を招きて、經義を聞き給ふべし。其身文武二道の士にてなきと申すばかりにて候。夫武士たる人、學問して物の道理を知り給ひ、其上に武道のつとめよく候はゞ、今の武士則古の士君子たるべく候。
一 來書略。物よみに經義を聞き候とも、心法はいかゞ受用可くレ仕る候や。
返書略。聖經賢傳道理正しく候へば、誰よみても同じ事に候。たゞに理を論じ跡を行ひたるばかりにては、心のあかのぬけざる事尤に候。心術を受用すると申す人も、凡情の伏藏かはりなければ、共に功なき事は同じく候。有德の人あれば、其化によりてよき人餘多あまた出來るものにて候。
德は人のためにするにあらず。己一人天理を存し人欲を去るなり。人欲を去さつて天理を存するの工夫は、善をするより大なるはなく候。善といふは別に事をつくりてなすにあらず。人倫日用のなすべき事はみな善なり。
君子は義理を主とし、小人は名利を主とす。心には義理を主として、よく心法を受用すると思ふ人あれども、其人がらの全體、小人の位に居てみづから知らず、其位をぬけざるもの古今多し。此所をよく得心し給ひて後、聖賢の書を見給ひ、人にも尋られ候はゞ、皆入德の功と成り候べし。心法は大學、中庸、論語に如くはなく候へども、學者の心のむき樣にて、俗學となり跡となる事に候。心法を受用する人も、人がらの位をぬくる事をしらざれば、一生心術の訓詁きんこにて終るものなり。
又學見がくけんも大に精しく至りぬれば、大方の凡情はぬくるものにて候へども、それほどに見解けんげの成就する人は稀なる事なり。大方は水のごみをいさせたる樣にて〔塵を沈澱せしめたるの義〕、澄みたると思ふも眞まことにあらず候。又一等の人あり。生付欲うすく、心おろかにして小理の悟ごを信じ、是によりて心を動かさゞる者あり。聰明の人は、小悟小信を以て小成の功なければ、理學にはさとく候へども、德をつむことはおそき樣に見え候。
いかさま學に志すほどの人は、昨日の我にはまさりぬべし。しかれども學流によりて、人品じんぴんにはかへりて益なく、人にたかぶりにくまるゝばかりなるも有るレ之體ていに候。よく學ぶ者は、人の非を咎むるに暇あらず。日々に己が非をかへりみる事くはしくなり候。
一 來書略。武王、太公、伯夷、叔齊の是非を論ずる者、古今多く候へども、其精義心得がたく候。
返書略。古の事は不レ存ぜ候。只今武王、太公、伯夷、叔齊御座候はゞ、拙者は伯夷にしたがつて首陽山に入り申すべし。論議に不レ及ば候。此兩道〔文武是なるか、夷齊是なるか〕を明辨せずとも、聰明のさはりにも成るまじく候。聖賢にかはりはおはしまさねども、時の變によりて其跡たがひ、其心見がたく候。
只人道は堯舜を師とせば、あやまる事あるべからず。變にあひ給ふ聖人にては、文王にしくはなく候。文王と伯夷は、本傍輩なりしかど、出てつかへられ候。文王も客きやくの禮を以て待ち給ひしと、傳へ承はり候。
一 來書略。よき儒者と佛者とをよせて論ぜさせて聞度きゝたき心御座候。疑ひのある故か邪心ある故にてあるべきと存じ候。
返書略。法論や儒道佛の論などは、氣力のつよきかたか、理のとりまはし小賢こかしこき者勝かちと見え候。其人の勝負にて、道の勝劣にあらず。聖人の道の諸道にこえてゆたかに高きことは、論議を待たずして分明ぶんみやうなることなり。孝經に深からざる故にうたがひ出來候。天地の間に人のあるは、人の腹中に心のあるが如し。天地萬物は人を以て主とし候へば、有形のもの人より尊きはなし。其人の道の外に何事のあるべく候や。
一 來書略。七書〔孫子呉子司馬法尉繚子(*原文「尉鐐子」)・三略六韜・李衞公問對(*原文「問韜」)―頭注〕(*武経七書)の中、聖賢の論と云ふはつくりごとにて、多くは功利の徒ともがらの言ことばにて候はば、何れも用ふべからず候か。
返書略。仁義の心あり仁義の名ありて後用ふべく候。大軍は正兵せいへいを本とし、威を以て敵を制し、小勢せうぜいは奇兵を用ひ、はかりごとを好んで敵をくじき候。然れども正も奇を用ふる所あり。奇も正と成る時あり。吾は義にして敵は不義なり。吾は善にして敵は不善なり。善人に從ふ軍士は皆義士なり。不善人にしたがふ士卒は皆賊なり。惡人のために善人をそこなふべからず。
謀はかりごとを好んで〔論語述而篇に、必ずや事に臨んで懼れ、謀を好んで成る者なりと〕敵をあざむき、味方をそこなはずして敵を亡す事は、明將の常なり。七書といふも、其明將の行ひし跡をいひたるものなり。又は軍の才氣を生付たる者の、道をば知らざれども大將と成りたるか、軍功を立たる者の言こともあり。其軍の才は君子に似たる所あれども、其實は天地各別なる事にて候。
一 來書略。佛ぶつをそしるは無用の事なり。たゞ己が明德を明あきらかにする事をせよとうけたまはり候は、尤至極に存じ候。爭あらそひなくて居ゐ候はゞ、三敎〔神、儒、佛〕一致と申すも罪あるまじく候や。
返書略。一致にてもなきものを、一致と虚言きよごん可きレ申す樣もなく候。其上一致は爭の端はしなり。同じ佛道の中にてだに、各の異見を立て相爭ひ候。別は別にして爭はざれば、いつまでも難なく候。
佛者も天地の子なり、我も天地の子なり。皆兄弟けいていにて候へども、或は見る所の異ことなるにより、或は世にひかるゝ生業すぎはひによりて、さま/〃\に別れ申し候。儒といひ佛と云ふ見けんをたつればこそ、たがひの是非もあれ、何れの見をも忘れて、たゞ兄弟けいていたる親みばかりにて交り候へば、あらそふべき事もなく候。こゝに職人の子供兄弟きやうだいありて、一人は矢の根鍛冶となり、一人は具足屋となりたるが如し。〔孟子曰く、矢人豈函人より不仁ならんやと〕矢をとゞむべき甲よろひをぬくべきの爭あらば、東西各別の他人なり。
本の兄弟の親しみのみ見る時は、職は各別にして爭はあるまじく候。これはすぎはひゆゑとも可くレ申す候へども、食物にも兄弟各すききらひある事なれば、味あぢはひをあらそひ候とも、各の口のひく所は一致にはなるまじく候。たゞ其まゝにして我は我人は人にてよく候。聖賢の御代ならでは、天下一同に德による事はなく候。然れども猶堯の時に許由〔堯の讓を受けざりし人〕あり、光武に嚴子陵げんしりよう〔足を帝腹に加へし人〕(*もと同学の厳子陵〔厳光〕と光武帝とが昔話をして床を並べて寝たときに、寝相の悪い子陵が帝の腹に足を乗せた。
天文官が「客星が帝座を侵した」と報告したのを帝が笑ったという故事。)あり、孔子に原壤げんじやう〔孔子を踞して俟ちし人〕あり、聖人これをしひ給はず。天空にして鳥の飛ぶにまかせ、海廣うして魚のおどるにしたがふが如し。〔此句古今詩話に見ゆ〕
一 來書略。拙者文學は少し仕り候へども、才德なくて儒者といはれ、かつ祿を受け候こと、恥かしき事にて候。
返書略。今時儒者といはるゝ人の中に、貴殿ほど德を尊び道を思ふ人はすくなかるべく候。儒者の名は三皇、五帝、夏、商の代よまではなかりしなり。はじめて周官に出でたり。鄕里において六藝を敎ふる者を儒と云ふと候へば、一人の役者なり。今の儒者といふは史しの官の如し。博識を以て業とせり。素王〔孔子なり。莊子に云ふ、此を以て下に處るは元聖素王の道なりと〕の曰く、「文勝つときはレ質に史」なりと。しかれば今の儒者の德なく道を行はざるは、さのみ罪にもあらず。聖人の道は五倫の人道なれば、天子、諸侯、卿、大夫、士庶人の五等の人學び給ふべき道なり。別に儒者といひて道者あるべき樣なし。
學問を敎へて産業とすべき人あるべきにあらず。上かみより人をえらびて士民の師を置き給ふは各別の事なり。此外先覺の後覺こうがくをさとし、朋友相助け相敎ふるの義あり。人幼にして學び、壯さかんにして行ひ、老て敎ふるの道あり。皆士農工商の業あり。亂世らんせい久しく、戰國の士禮樂文學にいとまなく、武事にのみかゝり居て、野人に成りたれば、只鄕里にして藝文を敎へたる者の末々のみ、わづかに古の事をも知りたり。此故に聖人の道を説く者を儒といひたり。そのかみの文學の稱なりといへり。然れどもいまだ産業にはおちざりき。聖人の道學を名付けて、儒者の道といふべき道理はなき事なり。世のいひならはしと成りて、さやうに云はざれば、それと人の心得ざる故に、我等を初めて儒道と申すなり。古の人のいへるも斯の如くなるべし。今の儒學といふは、史となるの博學を習ふがごとし。
弓を稽古し鐵砲をうち習ひて、奉公に出るがごとくなれば、産業とするも罪にはあらず。戰國よりこのかた、學校の政まつりごと久しくすたれぬれば、此史儒の文藝者に經傳の文義を聞くべきより外の事なし。武藝者に弓馬兵法へいはふを習ひて、武勇ぶゆうを助け武功を立たつるは武士の事なり、史儒に文を學んで道理を知り、道を行ひ德に入るべきは、五等の人倫なり。故に今の史儒は、其職ひきゝがごとくなれども、其事は諸藝の中において第一重し。貴殿文學に器用にて、他たの事にはより所なし。天の與ふる才なれば、文藝を以て祿を受らるゝこと、何の害かあらむ。もし德を知りたる人の文才ある者、貧きがための仕を求めば、史儒にかくるゝ事もあるべし。晋の陶淵明〔晋の名臣。名は潛〕は酒にかくれたりといへり。
市隱〔王康?の詩に曰く、小隱は陵籔に隱れ、大隱は朝市に隱る〕の類るゐみなしかり。其職よりも身をたかぶるものは、心いやしければなり。其職よりも身をへりくだる者は、德たかきが故なり。今人、德ありて儒者にかくれば、必ず其言ことばゆづり其身へりくだりて、道をあらはすべし。故に云ふ、「たかぶれば心賤しく、へりくだれば德高し」と。ねがはくは德を好みて儒者にかくれ給へ。今の人久きあやまりを不レ知らして、佛家ぶつけ道家だうけなどいふ如く、儒者をも一流の道者なりと思へり。大樹〔將軍の義。後漢の名將馮異が故事に基づく〕、諸侯、卿、大夫、士庶人の五等の人こそ道者にて候へ。
儒者は一人の藝者なり。世人弓馬の藝者を以て武篇者ぶへんものとはせず、武士たる人みな武篇者なるべきが如し。此あやまり漢の代よよりこのかたならん。五等の人倫の外に、別に道者あるを以て異端とすれば、儒者・佛者共に異端なり。貴殿周官に出でたる昔の儒の如く、一人の役者となりて、異端の徒ともがらをまぬかれ給はゞ、幸甚たるべく候。
一 來書略。拙者同役に利發にて作法もよき者候。道に志なき故、何方いづかたやらん談合などあひがたく、氣のどくに存じ候。道理を得心すまじき者にてはなく候間、和解の書にても見せ可レ申候や。
返書略。拙者も見及び候。利發なる故に、貴殿、我等など、同志の非をよくみられ候。又わきよりも學者の非を云ふことは多く、少しにてもよきこと有るレ之分は、言ひ聞かするものなく候。志ある者は、默して居候より外の事なく候へば、日々ににくむ心はまさりて、中々志は出來申すまじく候。道德の義を得心すまじき人にてはなく候へども、貴殿、我等などよりは知慧おほく候。
貴殿、我等も、學者の名あらずば、一向の凡夫よりは勝りたる所もあるべく候へば、親しまるゝ事も候はんづれども(*ママ)、學者の名ある故に、へだてと成り候。同志の友も、世間の人の非をば見がちにて、同志の非は見ゆるし候。他人の非を見るは、何の用にも不レ立たして、却てさはりとなる事なり。同志の非をよく見て、互に相助けたき事に候。御同役の人も、貴殿の德次第にて、後には志も出來候べし。不行儀なる人はたのみなく候。此人は作法よく候へば、その身にさしはさむ事もあるまじく候。不行儀なる人は、他人のよきほど我身の惡にさはりぬるゆゑ、いよ/\忌みにくむものにて候。
〔人皆善ければ、我惡愈々顯著なるを云へり〕貴殿の御同役は、學者といへども我身の無學ほどもなきと思はれ候間、此方の德をつみ給ひなば、やはらぎ出來候ひなん。利發にて世情の心得よく候べければ、貴殿だにへだてなく同志と同じくもてなされ候はゞ、同志の人情を知らぬ人よりは、事の相談よろしかるべく候。内々あしく聞きいてにくむ心ある所へは、いかほどよき道理の書物を御おん見せ候とも、かひあるまじく候なり。
一 來書略。十月の亥ゐの日を亥の子と申して、餅もちひを作りていはひ申し候事は、何としたるいはれにて候や。
返書略。和漢の故事候や、未だレ知ら候。愚見を以て道理を辨へ候へば、十月は純陰の月にて陽なく候。亥の月の亥の日は、いよ/\陰の極きはまりなり。陰極りて陽を生ずるものは母なり。生ぜらるゝものは子なり、餅は陽物なり。故に先人身の陽を調へて、天地の氣を助けんとす。陰陽相對する時は、陽を凌げり。君臣とし夫婦としても、君をなみし夫をかろしめ、やゝもすれば陰の爲に陽を破る事あり。ことに微陽は純陰に敵しがたし。子とする時は、養育して生長せしむ。故に陽を亥の子といへるか。日本は東方なれども小國なり。陽の穉ちなり。是故に別して陽を祝ひそだてんとする心にて有るべきかと存じ候。
一 來書略。具足のあはせめは、右を上うへにいたし候。具足屋に尋ね候へば、古來仕來しきたり候へども、其故を不レ知らと申し候。
返書略。「一たび戎衣じういして天下大に定る」と書經〔一たび戎衣して天下大に定まるとあり〕に見え候。甲冑は戎狄の衣服にかたどれり。南西北の人は、衣服左まへにして袖なし。又戎じうは兵へいなり。戎衣はつはものゝ服といふ義にて候はんや。兵服の初は、戎服にかたどりて戎衣と名付く。是によりて戎字をつはものと讀ませたるにや。えびすの服、つはものゝ服、兩義の中うち、左まへと袖なきとにより候へば、えびすの服の義初はじめたるべく候や。中國の人も、甲冑したる體ていは戎狄の形に似候。戎衣なるが故に右をうへにするにて可しレ有ると存じ候。むかし日本の鎧には袖といひて別に肩に付け候。是は矢を防がん爲盾たてに用ひたるものに候。近世は鐵砲渡りて、袖のたてゆきうすく候故に、次第に不レ用ひ候。異國の甲冑には本よりなきものにになり。

卷第二 書簡之二

一 來書略。武士たる者は、事あれかし高名して立身せむと思ふを以て、常とおぼえ候。又事なきこそよけれ、兵亂ひやうらんをねがふは無用の事と申す者候へば、武士の心にあらずなど云ひてあざけり候。いづれか是ぜにて候べき。
返書略。いづれも非にて候。文盲もんまうにして道學のわきまへもなき武士は、せめて武道一偏の心がけを第一として、只今にも事あらばと油斷せず、高名せんと思ひ、疊の上にて病死するは無念なる事に思ふも可なり。然れども浮氣にてさやうに思ふはひがごとなり。我高名せんと思へば、人も又同じ心あり。死生二ふたつに一ひとつなり。それまでもなく、弓矢鐵砲の憂あれば、死は十にして生しやうは一なり。高名立身を望みて事あれかしと願ふは、思慮すくなき事に候。十死一生を知らで理運に〔理運と利運―云ふ程の義なり。好運にて―頭注ママ〕高名すべき樣に思ひなば、なりがたき勢を見てはおくれを取る事もあるべきか。
其上天下の人、妻子等の嘆き苦しみを思へば、たとひかならず命を全うして、高名をきはむとも、一人の小知行のために萬人をくるしめ、人のなげきをあつめて名聞利用〔我が名譽利益―頭注〕とせん事、心にこゝろよからむか。仁人は國天下を得うとても好まざる事なり。兵書に云ふ、「凡およそ兵へいは過あやまちなきの城を攻せめず、罪なきの人を殺さず、人を殺して其國郡くにこほりをとり、貨財を利するは盜ぬすびとなり」といへり。
惡人ありて亂もいできよかし、高名せん、と思ふは不忠なり。其上富貴ふうき、貧賤、盛衰相かはれり。如きレ此ののわきまへありて、兵亂ひやうらんをいとふはよき心得なり。其わきまへもなく、武道武藝もきらひにて、やはらかにくらす便利のために無事を好めるは、しなこそかはれ、うは氣に何事ぞと〔何事か起れかしと―頭注〕ねがふ人に同前たるべく候。
よき武士ぶしといふは、あくまで勇ありて、武道武藝のこゝろがけ深く、何事ありてもつまづく事なき樣にたしなみ、さて主君を大切に思ひ奉り、自分の妻子より初めて、天下の老若らうにやくを不便におもふ仁愛の心より、世中よのなかの無事を好み、其上に不慮の事出來る時は、身を忘れ家をわすれて大なるはたらきをなし、軍功を立る人あらば、一文もん不通の無學といふとも、文武二道の士なるべし。世間に文藝を知り武藝を知りたる者を文武二道といふは、至極にあらず。これは文武の二藝といふべし。藝ばかりにて知仁勇の德なくば、二道とは申しがたかるべく候。
一 來書略。歌鞠うたまりは武士のわざにあらず。賴朝鄕の次〔賴家。その次は實朝〕は鞠をもてあそびて亡び給ひ、其次は歌を好みて絶え給へり。惣じて武家の弓馬におこたりて歌鞠かきくをもてあそぶは不吉なりと申し候。さもあることにて候や。
返書略。歌道は我國の風俗なれば、少しなりとも心得たき事にて候。
されどもいにしへの歌人は、本ありての枝葉えだはに歌をよみたるよしに候。本と云ふは學問の道なり。學問の道に文武あり。文武に德と藝との本末あり。文の德は仁なり。武の德は義なり。仁義の本立たちて後、弓馬書數禮樂詩歌のあそびあり。弓馬書數禮樂詩歌は文武の德を助くるものなり。文武の道をよく心得て、武士をみちびき民を撫なでをさめ、其餘力を以て月花にも野やならず、歌をもてあそばれ候はゞ、花も實もある好人かうじんたるべく候。
賴朝鄕の末のおとろへは歌鞠かきくの罪にあらず。其本の不るレ立たた故なり。〔論語學而篇の君子は本を務むの義〕本たゝざれば武道の心がけに過て亡ほろびたる家も、和漢共にあまたあれば、これも武道の罪と可レ申候や。本を捨てゝ跡にて論ぜば、はてしあるべからず候。鞠は親王しんわう門跡などのれきれき、武士のやうに鷹がり歩行もなりがたく、輿車の御ありきも度々なりがたければ、門内にばかりおはしまして、氣血欝うつしとゞこほり給ふ欝散うつさんに、鞠など御相手だに惡しからずば苦しかるまじきか。それとても學問家業つとめ給ひし上に、御養生の爲ならば然るべし。いづれにても遊びを專もつぱらとして本なきは、あしき事にて候。
一 來書略。勇は?勇ちんようがよきと承はり候。されど刀もかねよきはうち見るよりきれぬべく存ぜられ候。人の武勇ぶようも強弱如レ此と存じ候。尤も?勇もあるべく候へども、それは百人に一人にて、大かた見聞の及ぶ所たがはざるかと存じ候。
返書略。まことに刀のきるゝと切れざるとは、かねにて見ゆる事に候。むかしは今の樣にためしものと云ふ事まれなる故に、只自分の目にてかねよき刀を目利して求めさしたると申し傳へしなり。我等もそれに心付て見習ひ候へば、大かたあたり候。かねのきたひよく精神あるが如く、はきとしたるはきれ申し候。かねかたくても精神なく石の如くなるや、錬きたひたるやうにてもやはらかに鈍きは切れず候。此善惡は少し心づきぬれば見え申し候。又大かたにては見えがたきかねあり。にぶきに似て、どみ〔鈍か曇か。冴え/\せぬ義〕たるやうにて然さはなく、空の曇りたるが如く、淵の深きが如くにて、さえ/〃\ときたひよきところは見えざるあり。
是はすぐれたる大きれものにて候。?勇も又如しレ此くの。この品々はさしおきて、武士たる者は、皆武勇あるべきことわりの者にて候。刀は皆きるゝ能あるものなり。柄つか鞘さやして金銀糸いとを以てかざり、はやからずおそからず、よきほどにつめてさすものにて候。武は文を以てかざるべき理りなれば、勇は仁を以てをさめて、平生へいぜいは禮儀正しく仁愛ふかきがよく候。〔論語に「勇にして禮なければ(*原文「な」欠字)則ち亂る。」と〕刀脇指のはやきは、自然の時の用までもなく、身のあやまち近きにあり。貴方の勇氣は小脇指のはやき樣に候。間あひだよき程につめて御さし可くレ被レ成さ候。
其上勇力にほこるものは損多く候。其善を有すればその善を失ひ、其能に矜ほこれば其功を失ふとは、古人の格言なり。勇いさみだてする者をば人がにくみて、少々の手柄ありてもほめず、かへりていひ消し候。扨さて何事をぞ構へて越度をちどあらせんとし、又すぐれたる手柄ありても、大身だいしんになりがたきものに候。されば常に敵てき多くてやすき心なく候。むかし三十年、甲冑かつちうを枕とし山野を家として、度々高名あるのみならず、武道の事巧者なる者ありき。
若きともがら打寄よりては、此老人を請しやうじまうけ、武道の物語を聞き候處、其人のいへるは、吾は人のいふほどの手柄もなし、わかき時より愛敬あいけいありて、人に愛せられたる者なり。この故に世に高名かうみやうあり。武篇ぶへん〔篇は邊なり。武道〕の極意は愛敬なりといへり。何事も至極にいたれば道に近く候。
一 來書畧。生しやうは天の吾を勞するなり。死は造物者の吾を安やすんずるなり。狂者〔論語に狂者は進取す、とあり〕の親の喪にあうてうたふ道理なり。みづからの死生を思ふ事尤も同じと。しかれば生しやうをにくみて死を好むとも可くレ申す候や。
返書略。勞安の義二つにあらず。晝夜を以て見給ふべし。夜はいねて安く、晝はおきて勞す。しかれども、夜のやすみ極りぬれば晝の勞らうを思ひ、晝の勞つかれ極りぬれば夜の休やすみを思ふ。死生勞安は時なり。只造物者のなさむまゝなり。私意を立たてて好惡すべからず。狂者は凡人の生しやうを貪り死をにくむの迷を矯たむべきが爲に過言くわごんあるものなり。其見所けんしよ天人陰陽の外ほかに出たり。聖人もとより此心なきにあらず。しかれども中行ちうかうはくはしきが故に其見けんを忘れ、狂者はあらき所ありて見を忘れず。大智たいちは愚なるが如し。〔蘇東坡の文中に見ゆ〕物あれば則のりあり。聖人は道と同體なり。天地萬物の則なり。何ぞ見解を立たてて物理を破らんや。しかれども狂者の心も又よみすべし。
一 來書略。拙者在所に人相を見るものあり。何なにとぞ本ある事にて候や。
返書略。本ある事にて候。相書さうしよに云ふ。「惡乃あくのいましは禍之兆わざはひのきざし、善乃ぜんのいましは福之基ふくのもとゐ」とあり。これ相の極意にて候。
一 來書略。拙者在所に氣逸物きいつもの〔かはり者の義か〕なる者あり。知行二百石の身上しんじやうなりしが、死期しごにのぞみて其子にいふやう、「天下はまはり持なるぞ。油斷すな。」とて相果て候。天下の武士たる者、此心なきはふがひなき樣に申す者あり。然さらば無學の人は臣にしても賴みがたく候。勢ひのおよばぬ故にこそしたがひ仕へ候へ。とりはづしては皆主人をも失ひ可くレ申す候や。
返書略。天下の武士の心は知らず候。惣じて天下は父祖より受來りしならば是非に及ばず。好このみてのぞましきものにあらず。國郡も又同じ。野拙やせつはおそれながら大樹君くんを代官とし奉り、治世ぢせいにゆる/\とすみ侍ると存じ候へば、かやうのありがたき事なく、萬萬歳ばん/\ぜいといはひ奉り候。貧は士の常なれば、樂しみこれに過べからず。許由が耳を洗し心も、〔堯が天下を讓らんと云ひしを聞き、耳を穎川に洗ひし故事〕堯帝を代官として山水をたのしむに、何の官位にか加ふべき。
我に天下をゆづらむとは、人の代官をせよとか、二度ふたたび此事をきかじとて耳をあらひしものなり。何の苦勞なくたまはるとも、國も天下も所望になく、君子は故なきの利を禍とす。國天下は、道を得て持たもつは大安なり大榮たいえいなり。道なくて持たもつは大危たいきなり大累たいるゐなり。これ有るは是なきにはしかず。天災人亂及びては、匹夫たらん事を求むれども免れずと云へり。此故に先祖より受來りたる國天下を輕く思ひ、我欲の爲に失ふはひが事なり。聖人の大寶たいはうを位といひて、富貴なくては萬民を救ひ助くる事なりがたし。
受けきたり候天下ならば、仁政を行ひ、天下を安靜ならしむるを樂みとする儀にて候。義もなくてもとむると、我にあるものを輕くしてすつると、同じく無道ぶだうの至りに候。夫利欲の人は、天威のおす處にてかなはざればこそ、臣となりてかしこまり候へ、勢ひだにあらば大かた主君をも失ひ申すべく候。是を以て漢の高祖は我頸をねらひたる者を知りながらたておかれ候。〔雍齒を封じたる事を指せり〕人情を知り、且つ天下の歸する所は、人力に及ばざる事を得心ありたる故にて候。
一 來書略。節分の夜、大豆まめをいり福は内へ鬼は外へといひ、鰯の頭かしらをやきて戸口にさしなど仕し候事は、ゆゑもなき世俗のならはしと存じ候。然れども俗にしたがひ可くレ申す候や。
返書略。秋冬は陰氣内に有りて事を用ひ、陽氣外にある故に、立春の旦あしたより陽氣内に入て事を用ひ、陰氣外ほかに出いづるのかはりめなり。されども餘寒甚しき故に、大豆まめをいりて陽氣を助け、屋のすみ/〃\までも陰陽のかはりを慥たしかにしたるものたるべく候。鬼は陰なり。今宵より外ほかに出るなり。神は陽なり。神は福をなす。今宵より内に入て萬物を生ずるなり。鰯は衆を養ふ物にて、仁魚なるに依よりて、邪氣其香かにおそるれば、邪氣をはらはむとなり。柊木ひゝらぎを加ふる事は、世俗鬼の理ことわりを知らでなしたる事か。鰯のごとき理りのあるか。いまだ知らず候。
一 來書略。今時なま學問する人は、ものをやぶる樣に被レ申候。世中よのなかのわけもなき事をやぶるは尤もにて候へども、何をもかをも理屈にておし候へば、神道も王道も立ざる樣に成行き候。無の見けん〔一切の物を否定する老佛學者の見解〕と申すあらき異學の風の如し。いかゞ。
返書略。古今異學の悟道者と申すは、上古の愚夫愚婦なり。上古の凡民には狂病なし。其悟道者には此病あり。先づ地獄極樂とて、なき事を作りたるにまよひ、又さとりとてやう/\地獄極樂のなきといふ事を知りたるなり。無懷氏ぶくわいし〔伏羲氏の後、神農氏以前の支那上代帝王の名〕の民には本よりこのまよひなし。是を以て、さとり得てはじめて昔のたゞ人になると申す事に候。たゞ人なればせめてにて候へども、其上に自滿出來て、人は地獄に迷ふを我は迷はずとおもひぬれば、地獄のなきと云ふ一事を以て、何をもかをも無しとていみ憚かる所なく候。儒佛ともに世中に此無の見はやりものにて候。
一 來書略。佛敎を内典といひ儒敎を外典と申し候事は、心を内といひ形色けいしよくを外と申しはべれば佛敎は心法なり、儒敎は外とざまのしおき法度なりと申す儀にてあるべく候。又儒、道、佛の三敎は有う、無、中なり。いづれにも靈妙なきにはあらざれども、つかさどる所、儒は有相うさうの上の道なり。道は無相を至極とせり、佛は中道〔中正不偏の道―頭注〕なり、有無中かねて機によりて説くと雖も、畢竟は中道實相〔物の有の儘のすがた―頭注〕に歸著すといへり。いかゞ。
返書略。形色あるものは皆無より生じ候へば、有無もと二にあらず。中と云ふは天理の別名べつみやうなり。有無に對する中にはあらず。堯舜始て易の心法を發明し給ひて中と名付け給へり。則ち天下國家の平治齊とても、中の外無く二二心一無し二二道一。天理の我にありて未だレ發せ、之を中と云ひ、天理の我にありて已に發する、是を和くわと云ふ。修身、齊家、治國ぢこく、平天下は已發いはつの和くわなり。則ち中なり。物の天理の至精を得て、至易至簡なるを中と云ふ。則ち和なり。
佛氏といへどももと有無を二にせず。色即是空これなり。聖學といへども有無中を別にせず。形けいと色しきとは天性なりと。佛氏といへども、有無の中には留まらず。佛書に云ふ、「心性不動。假に立つ二中の名を一。亡泯もうみん三千。假に立つ二空稱を一。雖もレ亡すと而存す。假に立つ二假の號を一。」道者といへども無に偏らず。後世の奢をとどめ僞いつはりをひらきて、太古朴素ぼくそ淳厚の風をかへさんと思へり。佛仙共に聖學の徒なり。語も理もいづくより取來らんや。儒には聖學の傳來明言を失ひて、かへりて仙術にのこりとゞまること多し。先天の圖を仙家せんけに得たるにて得心あるべく候。本聖人の門より出たることを辨へず、仙佛のいふ事なれば皆異端の語として忌みさけぬ。
彼も聖門のよきことならでは取用ひず、三代の禮樂も浮屠に殘れる事あり。人道にはかへりて戰國の久しかりし間にとり失ひたること多し。されば聖學の至言は皆異端に與へて、儒は土苴たさ〔ごみくた―頭注〕(*ママ)を取ぬ。凡て道德の高下淺深を論じ、語の似たるをあはせて同異をいはゞ、盡つくる期ごあるべからず。内典、外典の名は佛者より云ふといへども、實は儒者の招く處なり。秦漢より以事このかた、士君子たる人道統の傳を失ひて、執るレ中をの心法を知らず。道德甚だ下くだれり。故に儒者の道は只如きレ斯くのものと思へり。されば高明かうめいの人は多く佛に入り仙に入る。道家も後は天仙の旨を失ひて地仙に落たり。是も又心法を絶す。只佛者のみ心法をいへり。之によりて佛法を内といひ儒道を外といへり。
一 來書略。此ほどおもしろきむかし物語を承り候。明慧〔高辨上人なり。北條氏初世頃の僧〕と解脱〔貞慶上人の諡、建保元年寂す〕と同道して路次を過られはべりしに、かたはらに金銀多くおとし置きたり。解脱是を見て、こゝに大蛇ありとてよけて通り、四五町行ゆきすぎて又云ふ、「先の物は定めて他人見つけたらば悅びて取るべし」と、明慧云ふ。「重きにこゝまで持來り給ふや」と。解脱の心は、鬼よ蛇じやよなどいひて、人を害するものありとはいへども、見たる者なし。金銀に命をとらるゝ者は、眼前に數をしらず、誠に大蛇なると云ふ義なり。此類の見解を以て、世俗のまどひを出たるものなり。明慧は金銀も石もかはらも同じく見なして、とかくの見解なし。誠にはるかに高き心地にて候。聖賢の心位と申すともかはりあるまじきと存じ候。
返書略。兩僧の内にては心位の淺深ありといへども、聖學よりみればいづれも見解にて候。心地自然にして物なしとは申しがたかるべし。柳はみどり花は紅と、それぞれに物の輕重けいぢうは輕重にして置て、我あづからざるぞよく候。金銀と土石と同じく見るといふも、見解を以て作りたるものなり。無物自然の心にて見侍らば、我こそ金銀はいらずとも、世間の人の寶とし、世をわたり人を養ふ物なれば、之をおとしたる者は、主人のものか人の使か其身の一跡いつせき〔資産の全部―頭注〕か、人によりて身代をやぶり命を亡すにいたるべきは不便なる事なり。大かたの人見付なば、悅び取とりて我物とすべし。
我等の見たるこそ幸なれとて、拾ひて近里きんりのしかるべき者に預置き、落し主にかへすべき謀はかりごとあらんこそ、天性の仁愛なるべけれ。明心の靈をふさぐこと、品ことなりといへども、そのおはふ〔壅蔽する―頭注〕所は一なり。世俗は物欲のちりを以てふさぎ、學者は見識を以てふさぐものなり。其見至所ししよに近きが如くなるも、其傳來のよる所天に出ざるは、終に正道をなす事なし。道の行はれざる事かなしむべし。
一 來書略。陽氣に我意なる者は、軍陣にてよからぬと申す説候。又利害かしこき者は、武篇鈍きと申し候。強弱の見樣ある事にて候や。
返書略。加藤左馬助〔嘉明―頭注〕の宣へる由にて承り候。諸士の武篇に目利あり。たゞ理直りちぎなる者、大かた武篇よきと心得べしと。又越後の景虎〔謙信―頭注〕の宣ひしは、武篇のはたらきは武士の常なり。百姓の耕作に同じ。武士は只平生の作法よく、義理正しきを以て上じやうとす。武篇のはたらきばかりを以て知行をおほくあたへ、人の頭かしらとすべからずと。名將の下もとに弱兵なき事なれば、大形おほかた士は武篇よき者とおぼしめさるべく候。陽氣に我意なるものとても、臆病なる生付にてはなし。
たゞ習ならひにて何心なく、其身にはそれをよしと覺えての事にて候。理直なる者にうは氣をしかけぬれば、常ならぬ事故堪忍不レ仕候。其時に思ひがけぬ事にて行ゆきあたり、體てい見苦しく候。又分別だてにて利害おほき者は、常に義理を心がけざる故に、自然の時(*まさかの場合)義理をかき候へば、臆病とも申し候。陰極きはまりて陽を生じ陽極て陰を生ずるなれば、平生陽氣なる者は、陣中にては腹立たちてなすべき所にもあらず。弓矢鐵砲の音にてうかびたる陽氣は皆けとられ〔けづるの義にて奪削せらるゝ意か〕、常々臍ほぞの本にたくはへたる勇氣のたしなみもなければ、おもひの外常の我意出ざる故、なみ/\にても目に立ち申し候。
龍りようといふものは、羽なくて天に昇るほどの陽氣の至極を得たるものにて候へども、平生は至陰の水中にわだかまり居ゐ候。是を以て眞實に武勇ぶようの心がけある人は常々の養やしなひをよく仕る事に候。
一 來書略。儉約はよき事なれば、人々用ひたく存じ候へども、なりがたく、奢はあしき事と思ひながらも、やむる事あたはずして、日々におごり候事はいかゞ。
返書略。儉約と吝嗇と器用と奢とのわきまへなき故にて候。儉約は我身に無欲にして人にほどこし、吝嗇は我身に欲深くして人にほどこさず。器用は物を求めずたくはへず、あれば人にほどこし無ければ無き分に候。奢はたくはへおかず器用なるやうに見え候へども、其用所ようしよは皆我が身の欲のため、榮耀ええうのためにて候。奢おごりて用足らざれば尤もつとも人にもほどこさず。しかのみならず家人をくるしめ、百姓ひやくしやうをしぼり取、人の物を借てかへさず、商人あきんどの物を取て價あたひをやらず。畢竟穿踰せんゆ〔論語陽貨篇、其れ猶穿?の盜の如きか、と〕に同じき理を知らで、奢は器用なる樣に思ひ、儉約といへば吝嗇と心得候。又吝嗇なる者の儉約の名をかるもある故にて候。
一 來書略。同志の中に、世擧こぞりてほむる人御座候。流俗にあはせて然るにはあらず。しかれども本來は、よき人にはよくいはれ惡しき人には惡しくいはるゝこそ、眞のよき人にてあるべく候へ。されど勝れて好よきをば、なべてよく申すことわりにてもあるべく候や。
返書畧。此人の人がら十が八はよし。二とても惡きにはあらず。たゞ此人の疵きずなり。其疵ある故に諸人しよにんほめ申し候。善人は其疵は見候へども、玉のきずにして大躰よく候へば、其よき所ばかりほめて疵をばあげず、こゝを以て世擧こぞりてほむることわり尤もに候。しかれども其疵は終に弊つひえあるものなる故、諸人の爲にもそしらるゝ事出來るものなり。はじめより其疵なければ、小人せうじんのためにはそしらるゝにて候。全く君子なれば、全く小人のためにはあはざる事多し。其謗そしりは君子の美にして疵にあらず。其人にあらざれば此二ふたつの道を知るべからず候。
一 來書略。我等われらの國には江西こうせい〔近江なる中江藤樹の學風なり〕の遺風をしたふ者餘多候へば、貴老御おん弟子の内一人申し入れ度く存じ候。
返書略。拙者には弟子と申す者は一人もなく候。師に成べき藝一としてなき故にて候。醫者の醫業を習ひて一生の身をたつるか、物よみの博學を學まなびて物よみを産業として一生をおくるか、扨さては出家などの其宗門を繼つぎて寺を持ちなどするは、おのづから師弟の契約なくて不るレ叶は事に候。拙者は麁學そがくにて、人に文字讀もじよみにてもはか/〃\しく敎うべき覺悟なく候へば、何にても人の一生をおくるたよりになるべき事を不レ存ぜ候。少し文武の德に志ありて、聖學の心法を心がけ候へども、自己の入德の功さへおぼえなければ、まして人の德をなし道を達して門人あらん事は、思ひもよらぬ事なり。
世に愚がおよばざる才力あり氣質の德ある人々の志の相叶ひたるは、語りて遊び申し候。其人々愚ぐが少し心がけたる心法を尋ねられ候へば、ものがたりいたし候。高かうをする〔高を欲する者の高處に上るを云ふ〕者の丘陵による如く、美質故に少し聞れても、愚が多年の功に勝り候へば、かた/〃\以て皆益友に候。武士の歴々弓馬の藝を敎へらるゝも同じ事に候。先へ學びて巧者なる人は、後より習ふ人にをしへられ候。武士は相たがひの事にて候へば、をしへて師ともならず恩ともせず。國のため天下のため武士道のためなれば、器用なる人にはいそぎをしへたてられ候。習ふ人も其恩を感じて忘れざるばかりなり。醫者・出家などの如くに、師弟の樣子はなく候。只本よりのまじはりにて、志の恩をよろこび思ふのみなり。
我等道德の議論をしてあそび候心友しんいうも、又かくのごとし。心友なるが故に、たがひに貴賤をば忘るゝ事に候。全く師と不ずレ存ぜ、弟子ていしにても無く候。我等學問仕らざる以前より、常の武士にて奉公致し居り申し候故にこそ、右の如く人々にものがたりも仕り候へ、もし牢人〔浪人―頭注〕にて學問致し、學問の名を以て奉公に呼び出いだされ候はゞ、罷出まかりいで申すまじく候。似合敷にあはしき武士の役儀を勤る奉公ありて、其上には苦しからず候。今時歴々の武士の奉公に出らるゝも同前に候。武藝のあるは其身の嗜たしなみにて、世のつねの奉公人にて、其上に志の相叶あひかなひてかたり候人に、おぼえたる事を敎へらるゝは、苦しからざる事なり。初めより藝能をおもてにしては、歴々の武士は出いでられず候。
一向いつかうに物讀ものよみと成なつて出いづるか、武藝者と成て出る事は、又一道にて候。心法は五等の人倫の内々に用ひる身のたしなみなり。武藝は武士の役儀の嗜にて、其嗜にする人の内にて、勝れたるは人の手本となるまでに候。手本とはならでも、巧者なる者は器用なる人を取立て候事も候。
一 來書畧。道に志ある者の、時として飮食いんしい男女だんぢよの欲にうつる事あるは、志の實ならざる故ならんか。又道に志なくても(*ママ)行儀よき者あり。先生いづれをかとり給はむ。
返書畧。心は無聲無臭〔書經に上天のことは無聲無臭とあり〕のものに候へば、見がたき事に候。志ありといふ人も、隱微の地の實不實不レ存ぜ候。又志なくて行儀よき人も、隱微の所しるべからず。去さりながら父母兄弟けいてい妻子を古鄕こきやうにおきたる人は、一旦他國に遊び候へども、終つひにはもとに歸るべく候。形氣けいき衰ふるにしたがひて、道より外に行く所有あるまじく候。
志の不實と申すにてはなし。實はあれども明めいのしばし蔽おほはるゝ所ありてなり。只今飮食いんし男女の欲もうすく行跡かうせきよくても、心志しんしの定さだまる所なき人は、父母兄弟妻子のあつまりたる古鄕なくて、只一人身のうきたる如くなり。しからば往々ゆく/\何國いづくにとゞまるべきやらん、はかりがたし。今日のよきは、精力強くして、愼みの苦にならざるか、名根みやうこんの深くてなすわざか、もしは生れ付ついて形氣けいきの欲うすき者もあれば、其たぐひなるべく候。
形氣おとろへ行ゆくにしたがひて、本の志たる道德は無し心は昧くらし、あぢきなくして後世ごせなどに迷ふもあり。愼みおとろへて亂るゝもあり。行過ゆきすぎて異風になるもあり。一旦のよきはたのみにならず。月夜つきよのしばし曇たると、闇の夜よの晴はるるとの如し。雲ありともたのむべし、雲なしとも賴むべからず候。
一 來書略。此比このごろ爰元こゝもとにて、友の喧嘩仕出しいだしたる所へ行ゆきかゝり、見すぐし難くて助太刀致し候處に、先の者多勢おほぜい故に、兩人ともに討たれ申し候。本人は定業ぢやうごふとも可くレ申す候。行ゆきかゝりたる者は無き二是非一事に候。非業の死たるべく候や。〔定業・非業―定まれる業報と非命の死と〕
返書畧。定非ぢやうひの事は不レ存ぜ候。總じて喧嘩はよき武士はせざることに候。大かた禮儀のたしなみなきか、また怒氣の爲にをかされて仕出しいだす事に候。然れば人爲じんゐの禍わざはひにて、命めいとは申されず候。行ゆきかゝりたる人は何心もなく候へども、友の難を見ては過ぎられぬ義理にて、助太刀したるにて候へば、撃たれても其人のあやまちにあらず候。是こそ誠まことの命ある事と可くレ申す候。死すべき義理なくて、我あやまちにて作り出いだしたるは、喧嘩によらず命にては無く候。義ありて死するはこれ命にて候。是を以て君子は巖墻がんしやうのもとにたゝず候。〔孟子に、命を知る者は巖墻の下に立たず、と〕
一 來書略。祭る事はそれ/〃\の位にしたがふ事と承り候。天地三光〔日、月、星―頭注〕天下の名山大川たいせんは、天子これを祭り給ひ、其國の名山大川、國に功ありし人をば、諸侯これを祭り給ひ、聖賢をば其子孫をたてゝ祭らしめ給ふ。大夫・士庶人各品あり。しかるに日本にては、上下じやうか男女なんによともに天照皇太神てんせうくわうたいじん(*原文ルビ「てんせうくわうだいじん」)へ參り候。天子の外は國主とても成なるまじき事にて候に、非禮ひれいなるかと存じ候。しかるに貴老其非禮にしたがひ給ふ事は心得ず候。
返書略。もろこし人の、禮あるの外には神を祭らざる事は、利心りしんを以て神を汚けがす事を禁じ、且かつ邪術をしりぞけたり。しかのみならず、罪を天に得ては祈るに所なき道理をあかし、情欲の親おやに仕つかふるまどひを解きて、人々の親則ち至神しいしん至尊しいそんなり。尊神そんしんの子なれば、我が身則ち神の舍やどりにして、我が精神則ち天神と同じ。仁義禮智は天神の德なり。從つて行おこなふは常に天に仕へ奉るなり。其禮を用ひて祀れば福さいはひあり。其道にそむきて祭る時は禍わざはひ至るの義なり。日本は神國しんこくなり。むかし禮儀いまだ備らざれども、神明の德威嚴厲げんれいなり。在いますが如くの敬を存して惡をなさず。〔論語に、祭るには在すが如くす。神を祭るには神の在すが如し、とあり〕神に詣でては利欲も亡び邪術もおこらず。天道にも叶ひ、親にも孝あり君にも忠あり。
只時・所・位の異なるなり。それ天子に直ぢきにもの申し奉る人は、公卿侍臣のともがらなり。それより下したは次第のつかさ/\ありて、可きレ奏すことは其つかさに達するなり。况して土民などは、其御門内の白砂しらすを踏む事だにせざるに、帝堯は鼓〔前出の諫鼓なり〕をかけおかせ給ひて、「農工商によらず直ぢきに可き二申し上ぐ一子細あらば、此鼓をうて。吾出て聞む。」と詔みことのりあり。下しもにてことゆかずいきどほりある者は、皆直ぢきにまゐりて其いきどほりを散ぜしなり。民の心に、たゞ父母にものいふ如く思ひたり。日本の太神宮御治世ごぢせいの其むかし、神聖の德あつく、よく天下を以て子とし給ひ、下民かみんに近くおはしましたる事、堯舜の如くなりし、其遺風なり。後世の手本として、茅葺かやぶきの宮殿くうでんの殘り給ふも同じ理にて候。其上神とならせ給ひては、和光同塵の德にて、帝位の其時とは違ひ、國の風俗にて誰たれもまゐりよき道理にて候。野拙はたゞ其聖神せいしんの德をあふぎ奉るばかりなり。
太神宮は御治世のみならず、萬歳ばんぜいの後までも生々しやう/〃\不息ふそくの德明かにおはしまして、日月の照臨せうりんし給ふが如し。參りても又おもひ出しても、聖師に對むかひたるがごとく、神化しんくわのたすけすくなからず。古の聖王は君師くんしと申して、尊たつとき事は君なり、親しきことは師なり。只聖王のみならず、靈山川れいさんせんのほとりに行きても、道機だうきに觸ふるるの益すくなからず。これ又山川の神靈の德に化する故なり。其上祈ると祭ると義ことなり。天をば天子ならでは祭り給はねども、祈るに至りては士庶人も苦しからず。其例ためしもろこしにも多し。
一 來書略。先度せんど勸請くわんじやうの宮社きうしやを、非禮なりと承り候へども、神道しんだうの意はしからずと存じ候。鳥居を入いるより、誠敬せいけい自然と立たちて心新あらたなり。社前に至りて拜する所に傳受あり。此心をだに存養そんやういたし候へば、家ごとに孝子、國皆忠臣と成て天下平たひらかなり。所々に勸請なくて不るレ叶は義と存じ候はいかゞ。
返書略。たとへば洛陽〔京都―頭注〕にては賀茂の御社みやしろ一所にても、人の敬けいを立つることは足り候べし。昔は數々の勸請なかりし證據ども候。其勸請の習おほく候はゞ、さしも天下の奢をきはめし平淸盛、藝州の嚴島をば、疾く都のあたりに勸請して、おびたゞしく美を盡さるべく候へども、はる/〃\と西海まで詣でられしこと、淸盛には奇特きどくなり。いにしへも原廟げんべうを作るとて、大に忌みたる事なり。昔たまさかに原廟を作れるも、靈地を見たてゝ移し、卒爾にはせざるだに非禮おほく候。其後は靈地をも撰ばず、みだりに多ければ、神を汚し威をおとし、敬するとて大なる不敬に至り候ぬ。佛家を以ても御覽候へ、塔〔舍利を藏むるため、供養のため、報恩のため、靈域を表する爲等にて建つるもの〕は佛舍利のある所を知て、禮拜らいはひ(*ママ)の心を生ずべきがためなりと申し候へども、むかし山林にある伽籃にたまさかに在るこそ、さもあるべく候。
今は町屋と爭ひ建ならべたる塔なれば目なれて、昔たま/\ありし僧法師の敬禮けいらいの心も絶はて候。其上聖人の敎は、其親しんを祭りて敬の本を立て候。親の神すなはち天神と一躰にて候。性命より見れば至尊しいそんの聖神なり。他たに求むべきにあらず。むかし老いひがめる親もちたる者あり。或時子に向ひ言ひけるは、「手足もたゝずしてかく養はるゝは、この家の貧乏神なり。早く死度しにたく思へども、つれなき命なり」と。其時子跪ひざまづき愼でいへるは、「我家わがいへの福神ふくじんは父君にておはしまし候。つかふまつること誠まことうすき故に福いたらず。しかれども斯くおはします故にこそ、とかくして妻子をも養ひ候へ。たゞいつまでもおはしますやうにと願ひ候なり。」老親笑ひて云ふ、「用にはたゝずして人を使ふのみならず、色々の好みごとをせり。我ほどの貧乏神はなきに、福神とは何としていふぞ」と。
子の曰はく、「昔より今に至る迄、色々の願をたて難行をして神佛に祈るもの多く候へども、福を得たる者一人もなし。親に孝行にて神の福をたまはり、君のめぐみを得たる者は、倭漢共に多く候。しかるに目の前にしるしある家内の福神には福を祈らずして、しるしもなく目にも見えぬ所にいのり候。親に孝行をして福を得ずとも害あらじ。神佛に祈りて福を得ざるのみならず其損多く候。今我わが福神にひがみ給ふ御心ある故幸さいはひなきにや。」と、顔色がんしよくをやはらげて云ひければ、其時老親うちうなづきて得心しぬ。それより後僻ひがみもやみ、いかり腹だつ事なし。家内のものも仕へ能よく成りぬ。
一 來書略。庶人の父母には、男女だんぢよの侍坐じざして仕ふる者なき故、子たる者夫婦みづから養やうを取り候。たま/\一二人男女の召仕ふべきありといへども、農事を務め食事にかかりなどすれば、近づき仕ふべきいとまなし。其上定さだまりたる祿なき故に、用を節し身をつゝしみて父母をやしなふを以て孝とすと御座候。士大夫より以上の人は定りたる祿あれば、養ふことは云ふに及ばず。また卑妾ひせふあれば、朝夕の給仕の心やすき事、子にかはる故に仕ふるにも及ばず。其身の位々くらゐ/〃\に道を行ひぬれば、父母の養ひも備り、父母の心安やすうして氣遣もなし。且祭祀におこたる事なし。是故に職分を務むるを以て孝行とすと承り候。まことにさやうになくて不るレ叶は事と存じ候。然るに文王みづから父母につかへ給ふが如くなるはいかゞ。
返書略。これも又時なり。いつもさやうに有るべからず。たま/\事なきの折ならん。天子は天下を順にし給ふが親おやの事なり。諸侯は其國をよく治をさむるが親の事なり。大夫は政事を任じて私わたくしなきが親の事なり。士は尊び二德性を一道よる二問學(*原文ルビ「ぶんがく」)に一〔禮記に出づ〕(*中庸か。)が親の事なり。農は天時てんのときをあやまたず地理ちのりを精くはしうして、五穀生長するが親の事なり。工は職を上手につとめ、商はよく財を通ずるが親の事なり。其事に當つて其事をつとむるは、皆親につかふまつるの事なり。時としていとまあらば、父母のあたりに侍らでも叶はず。吾身もと親の身なり。吾れ立てレ身を行ふはレ道を、皆親の立てレ身を行ふレ道をなり。千里を隔つといへども父母にはなれず。
一 來書略。論語の首章しゆしやう〔子の曰く、學んで時に之を習ふ、亦説しからずや。朋有り遠方より來る、亦樂しからずや。人知らずして慍いからず、亦君子ならずや〕、文理あらまし通ずといへども、心に滿たざる所あるが如し。
返書略。説よろこぶは自家の生意せいいなり。境界きやうがいの順逆によつて損益なし。樂たのしむは物と春を同じうす。一躰の義なり。不るレ慍いからは只に吾德を人の不ずレ知らといふのみに非ず。忠臣を不忠と云ひなし、直を不直と云ひ、信を不信と云ひ、しかのみならず流罪・禁獄・死刑に及ぶの逆も、人不るレ知らの内にあり。泰然として人をも尤とがめず、天をも怨みず。炎暑に霍亂くわくらんして死するが如く、極寒ごくかんに吹雪に遭ひたるが如し。
天道の陰陽・人道の順逆其義一なり。悅樂は順なり、人の不るレ知らは逆なり。人生の境きやう樣々ありといへども、順逆の二ふたつに洩れず。小人は順にあふては奢り、逆にあふては悲しむ。春秋を常として夏冬なからん事を思ふが如し。君子は順にあうては物をなし、逆にあうては己をなす。春夏にのびて秋冬にをさまるがごとし。富貴福澤ふくたくは春夏の道なり。貧賤患難は秋冬の義なり。四時しいじは天の禍福にして、禍福は人の陰陽なり。屋やsssの南面みなみおもては夏涼しくて冬?あたゝかなり。北面きたおもては夏熱くして冬寒し。人の南面は我が北面となる。屋を竝べ生をともにして、世にすむものゝ自然の理りなり。富貴、福澤、貧賤、憂戚いうせき、相ともなふ世の中なり。誰をかうらみ誰をかとがめむ。

卷第三 書簡之三

一 來書略。性、心しん、氣いかゞ見侍るべきや。
返書略。太虚は理のみなり。云へば只一氣なり。理は氣の德なり。一氣屈伸して陰陽となり、陰陽八卦はつけとなり、八卦六十四(*六十四爻)となる。それよりをちつかた〔遠方―頭注〕、一理万殊ばんしゆいひ盡すべからず。天地万物(*ママ)の理りつくせり。理を主しゆとしていへば、氣は理の形なり。動靜は太極たいきよくの時中じちうなり。吾人の身にとりていへば、流行するものは氣なり。氣の靈明なる所を心といふ。靈明の中に仁義禮智の德あるを性といふ。靈明と云ひて氣中別にあるにあらず。譬へば爐中ろちうの火のごとし。虚中なる所に至りて明かによく照せり。明かによく照す所に條理あり。
一 來書略。身死して後、此心はいかゞなり候や。
返書略。冬に至りては夏の帷子かたびらをおもふ心なし。夏に至りては冬の衣服を思ふ心なし。此形かたちあるが故に形かたちの心あり。此身死すればこの形の心なし。
一 再書略。しからば顔子孔子の門人、顔囘〕の死後も盜跖〔孔子と同時代の大盜〕が死後も同じきか。
返書略。此性此形けいを生じて、形けいのために生ぜられず。又形けいの死するが爲に死せず。惡人の心には今よりして性理をしらず。死後を待つべからず。君子の心は今よりして形色けいしよくに役えきせられず。死生を以て二にせず。又死後をまたず。
一 來書略。世間に人のほむる人に、さしもなき道を信ずる人はいかゞ。
返書略。それは善よきこと好きといふものにて候。定見ぢやうけんなき故に本の邪正じやしやうを深く考へず。心術をかり理りをかりて、さもありぬべくいひなせば、はやよき事として信じ候なり。君子もよきこと好きにては候へども、性命に本づきて善を好み候なり。かり物〔僞なり。衷心(*原文「患心」)より出でざる善事なり〕は是ぜに似たるの非なれば、大に戒められ候。
一 來書略。愚兄御存知のごとく、作法正しく慈悲に候へども、子孫おとろへ仕合あしく候は、いか成る故にて有るべく候や。
返書略。人見てよからざれども、天の見ることよきあり。人見てよけれども、天の見ることよからざるあり。貴兄を見申し候に、愛情もありと見え、行儀は隨分正しく候へども、作法の正しきは生付にて學によらず、愛情も婦人ふじん(*原文ルビ「ぶじん」)の愛にて、人民を惠むに至らず候。救はずしても苦しからざる者には施こし、下々の難儀をば知り給はざるが如くに候。百姓等をば水籠みづろう〔水牢なるべし。水を湛へ(*原文「堪へ」)たる牢屋〕に入いれなどして、病付たる者どもあり。
罪なきのみにあらず、貴兄を養ふものを却て苦しめられ候。其妻子の歎き、不罪ふざいの人のいたみ、天地神明をうごかすべく候。知らずといはば、其天職をわすれ天威をつゝしまざるなり。知りてせば不仁なり。大小によらず罪は上かみ一人にかゝり候。今の世の習ならひ、下々をば難儀させ、百姓をばいたむるものと思ひて、とがむる人もなく候。只行儀よきと姑息の愛とをみて、人はよしと申し候へども、天の鑑かんがみ明らかに候。神明の罸ばつにあたり、仕合しあはせあしきことわりにて候。
一 再書略。愚兄事、被二仰せ下さ一候通尤もつともに存じ候。去さりながら愚兄は姑息の愛なりとも御座候。作法あしく不仁無道ぶだうにて、下をなやまし民を苦め候人に、子孫も榮え仕合よきあり。又きはめてよき人も仕合惡しく候事はいかゞ。
返書略。人の氣質に、天地神明の福善禍淫を受る事、晩きあり早きあり。しかのみならず先祖の造化の功を助けたるあり、妨げたるあり。運氣の勢ひ餘寒殘暑あるが如し。先まづは聰明の人には、善に福早く惡に禍速すみやかなり。愚不肖ぐふせうには善惡に禍福おそし。平生物の合點がつてんの遲速にても知られ候なり。先祖の造化の神工を助けたる勢ひ未だやまざるには、子孫あしけれども仕合よし。先祖の造化を妨げたるは子孫よけれども、其逆命の勢ひ未だ避けがたし。打身頭痛の病ある人は、土用〔一期十八日にて一年四期あり〕(*立春立夏・立秋・立冬の前各一八日間)、八專はつせん〔壬子より癸亥まで十二日間、一年六度あり〕(*干支の終わり一二日間。そのうち十干に重ねた五行と十二支に重ねた五行の重なる日が八日間あることからの名称)、雨氣あまけを感ずるが如し。之より下つかた樣々のことわり候。推して知らるべく候。
一 舊友に與へし書に曰はく、故者こしやには其故たる事を不レ失はといへり。久しく音問おとづれを絶たちたる事は無情に似たり。傳つたへ聞く貴老道德の勤にすさみ給ふと。道を厭ひて愚を疎み給ふか。愚を見おとして道をおこたり給ふか。道學を益なしとして道德を好む者までをしりぞけ給はゞ、是非に及ばず。若し(*原文「苦もし」)愚を不肖なりとして道學に遠ざかり給はば、あやまちなり。故者の至情を思ひ給はゞ、何ぞ愚が過あやまちをさとし給はざるや。さとして從がふまじくば、愚を捨てゝ道德を尊信し給ふべき事は、本のごとくたるべし。何ぞ人によりて道の信不信あらん。聖人の門にあそぶ人ならば、天下の聖學をする人、皆惡人不正なりとも、吾が聖學に於て疑ひなかるべし。たゞ己おのが定見ぢやうけんいかむとみるべきなり。人によりて信をまし、信をおとし給はむは、道をみるの人にあらず。
一 來書略。世に判官はうぐわん贔屓と申し候は、いかなる事にて候や。
返書略。君子に三のにくみあり。其功にほこり賞を受くる事おほき者をにくみ、富貴にして驕る者をにくみ、上かみに居て下をめぐまざる者をにくむ。判官義經は、其人がら道を知らず。勇氣によりて失ありといへども、大功ありて賞をうけず、人情のあはれむ所なり。賴朝卿福分ありて天下をとるといへども、不仁にして寛宥くわんいうの心なし。人情のにくむ所なり。賴朝、判官にかぎるべからず。驕おごりは天道の虧かく所、地道の亡す所、人道のにくむ所なり。謙は天道のます所、地道のめぐむ所、人道の好む所なり。〔易の謙の卦に、天道は盈を虧きて謙に益す、と〕
一 來書略。我等の在所に、蛇を神の使者なりと云ひて、手ざすこともせず候。さまざま氣の毒なる事どもに候。其上害も出來候。されども其通とほりにしたがひ候はんか、やぶり候はんか。分別定めがたく候。
返書略。神慮にしたがひて非法を改めらるべく候。神は形なき故に、時にあたりて何なんになりとも乘りうつり給ひ候。蛇を使者と定むべきにあらず。且蛇は叢に棲むものなれば、人居じんきよにまじはるは非道にて候。神明は非道を戒め給ふべく候。蛇の棲む深草しんさうに、用心もなく行きて害にあふは、人の非なり。人のすむべきあたりに蛇のをるは、蛇の非にて候へば、叢に驅りやり〔驅逐―頭注〕、行かざるをば打殺して可なり。なほも愚民疑ひあらば、御みくじをとりて神慮を御うかゞひ有るべく候。訴訟は此方に道理あれば、幾度いくたびも申すものにて候間、もし一二度にて御同心なく候はゞ、神の御同心被レ成まで、幾度も御みくじをとりてうかがはるべく候。かならず御同心有るべく候。其外かくの如きたぐひの神慮に叶はざる事を神慮として、人の尊きを以て禽獸にかふる樣なる事多く候。
一 來書略。「無學にして行ふはレ政を、如し二無くしてレ燈夜行くが一。」といへり。しかるに貴老、學者の政は心得がたしと宣ひ、又其筋目ある人か其備そなはりある人よしと承り候は、心得がたく候。
返書略。政の才ある人を本才と申し候。其人に學あれば國天下平治へいぢ仕り候。本才ありても學なければ、やみの夜にともし火なくして行くが如くにて候。然れどもありきつけたる道なる故ありき候。されど前後左右を見ひらきて自由のはたらきはならず候。又才知なくして學ある人の政をするは、盲者まうしやの晝ありくが如くにて候。聞たるまゝにありき候へども、不二分明なら一候。時、所、位の至善しいぜんをはかるべき樣なく候。不自由にしても、自ら見てありくと、見ずしてありくとは、見てありくはまさり可くレ申す候。軍法を知らでも、勇知ある大將は、おのづから勝負の利に通じ候故に、敵に逢あひて勝かつことを致し候。軍法知りても、勝負の利くらき大將は、敵に逢あふて斗方とはうなく〔手段方略を失するなり〕候。勝負の利よき人軍法を知り候はゞ、名將たるべく候。軍法知らでは名將とは成りがたく候。才と學との道理同じ事に候、古今のためし明白なる事に候。
一 來書略。經書を讀み候はでも學問なり候と承り候。左樣に候はゞつとめて見申し度たく候。書を讀まずして不ざるレ叶は事に候はゞ、老學といひ暇いとまなく候へば、成なりがたき事に候。
返書略。聖賢を直ぢきに師としては、書を讀までも道を知り德に入ること成り申し候。今の時聖賢の師なく候へば、中人ちうじんより以下の人は、書をまなび候はでは道を知ること成りがたく候。しかれどもよく心傳しんでんを得たる人に聞き候はゞ、善人とは成り申すべく候。扨はよき士と申すほどの人がらには及ぶ事にて候。聖人の言語にはふくむ所多く候。無極の躰たいなり。
其含む所は言外に候へば、我と(*自分から)經書を見て聖人の心をくみ申し候。則ち聖人に對し奉るが如くなる事候。其心には深きあり淺きあり、其品いひつくしがたく候へども、いかさまに〔成程と云ふに同じ〕書を見る人は、後までも學におこたりなく候。たゞに物語にて心術のみ聞き候人は、一旦はすゝみ候へども、言外の理を不レ知ら候へば、心ならず年を經てたゆむものにて候。中人以上の人は、少し心傳しんでんを聞ては、やがて天地を師とし、造化において學ぶ所あるは、書しよにも及ばず、道を行ひ德に入り候なり。中人以上にても、書を讀みたるばかりにて心傳を不るレ聞か人は、聖學に入りがたく候。
上知は心傳を不レ聞かして、書を見てもすぐに德を知り候なり。故に攸好德いうかうとく〔攸は所なり。德を好む人〕の幸福ある人は、次第を歴へて德を知るも御座候。尤も此人は書によりて聖人に對面仕り候。書を讀み給はでも、人の主人としては仁君といはれ、人の臣としては忠臣とよばれ、いづれによき士となりて、善人の品に入り候ほどの事はなり申すべく候。必ず名を後世にあぐべく候。
一 來書略。三皇、五帝、三王、周公、孔子は同じく聖人と承り候。伏羲ふくぎは文字もじも敎學もなき時に出給ひて、初めて畫くわくをなし、天下後世道學の淵源をひらき給へり。然るに孔子は末代に跡あることを學び給ひながら、韋しをりは(*又は「しをりがは」か。原文ルビ「をしりは」)の三度みたびきるゝまで、〔孔子易を讀んで韋編三たび絶ゆるに至る〕朝夕手をたたずして、いまだ易を得たりと思ひ給はず。神農は草根をなめて初めて醫藥をつくり給ふ。然るに孔子は末代醫術あまねき時に生れ給へども、藥に達せざるの語あり。かくのごとく大にちがひたる位を同じとは、いかなる事候や。
返書略。時にて候。孔子を伏羲、神農の時におき候へば、易を作り醫をはじめ給ひ候。伏羲、神農を孔子の時に置き候へば、又孔子の如くにて候。
一 再書略。しからば佛説に似たる所候。わざとまうけて神通、方便をなすが如くに候。空々として跡なき事をだに作りはじむる人の、又跡にしたがひて愚人とひとしく候や。
返書略。少しも心はなく候。三皇の時においては、空々くう/\として跡なき事もおこり候。心の感ある道理候。孔子の時には、迹ある事をもたづね學ぶ心の理御座候。上世は太虚を祖とし天地を父母とすること近し。聖人生れて其名殘らず、まどひなければ明者めいしやかくれ、不孝子なければ孝子をおどろかす、不臣なければ忠臣知れず、政刑なくして大道行はれ、敎學なくして人みな善なり。
後世にいたりて性情わかれ物欲生じぬ。人初めてまどひあり。此時に當りて伏羲氏ふくぎし出給へり。惻然として感慨あり。敎なきことあたはず。時に天道龍馬りうめを命じて、文を以て其志を助け給へり。〔易繋辭に、河圖を出すとあり。龍馬河中より文を負うて出でたる故事〕書畫しよくわく敎學のはじめなり。伏羲氏以前は物欲きざさず情性に合する故に、人に病疾へいしつなし。後世有欲うよく多事のきざし出來てこのかた病人あり。醫藥の術、耕作農政なきことあたはず。
天道、靈草美種を降くだして神農氏の業を助け給へり。是皆神聖廣大の知の緖餘(*原文ルビ「しやや」)なり。時によりて發するのみ。伏羲、神農は春のごとし。周公、孔子は夏のごとし。其摸樣はかはりあれども、同じく天理の神化しんくわなるがごとし。易は無極の理なれば、孔子のみにかぎらず、伏羲といへども是のみと思ひ給ふ事はなき道理にて候。
一 再書略。釋迦はえびすの聖人か。是も時によりて感ずる法なるか。
返書畧。神聖中行の道理にはあらず。中國に來りて孔子に學びば(*ママ)、よく聖人となるべき分量あり。仁心廣く厚き所あり。知勇も氣質に備はりて見えたり。其生國はすぐれて愚痴に、大に欲ふかく、至つて不仁なり。極熱の國なる故に、死せる肉を置きがたし。いけながら持ありき、切て賣る事なり。仁心深き者是を制する方を知らでは、殺生戒(*原文ルビ「さつしやうかい」)をなしたるもことわりなり。日本は仁國なり。此國に生れたらば、佛法をおこすべきの感慨もあるまじく候。若又釋迦、達磨を只今出して、今の佛者などを見せば、何者とも心得がたかるべく候。
佛祖の流りうと申し候はゞ、大に歎きかなしびて、其破却かぎりあるまじく候。我等は佛者ならざる故に、遠慮おほくおもふ樣にも申さず候。我子を敎戒する者は風諫〔露骨に言はず聽く者をして自然に悟了せしむる事〕するが如くにて候。釋迦、達磨に我等の佛を難ずる語を聞せ候はゞ、いまだ世情をはなれず道に專(*原文ルビ「せん」)ならざる故に遠慮おほきとて、心にあひ申すまじく候。
一 來書畧。俗に貧は世界の福の神と申し候は、いかなる道理にて候や。
返書畧。世の中の人殘らず富み候はゞ、天地も其まゝ盡き候なん。貧賤なればこそ、五?諸菜を作り、衣服を織出し、材木薪をきり、鹽をやき魚をとり、諸物をあきなひ仕り候へば、六月の炎暑をいとはず、極月ごくげつの雪霜を踏んで鹽薪野菜などを賣り候事、富み候はゞ仕るべく候や。農工商も貧よりおこりて、世の中たち申し候。たゞ農工商のみしかるにあらず。士といへども貧を常として學問諸藝を勵み才德達し候なり。生れながら榮耀ええうなる者は、多くは不才不德にして、國家こくかの用にたちがたく候。只士農工商のみならず、國天下の大臣國郡の主と雖も、吉きつ、凶、軍、賓、嘉〔軍の五禮と云ふ〕の禮用れいようを備へ、國土水旱の蓄たくはへをなし、君につかふまつるの役義なれば、富足る事あるべからず。
上かみは天下の主といへども、來らいを薄くして徃を厚くし、天下の人民の生を養ひ、死に喪もして恨みなからしめ、且異國の不意に備へ、天運の凶年飢饉をあらかじめ待ち給へば、天下の財物ざいぶつのおほきも、天下の人のために御覽ずれば飽足る事なし。其上に天下の主しうの第一に乏しく思しめさるゝは、賢才の人のすくなきなり。堯舜も之を憂とし給へり。是を以て同じく聖人なれども、孔子は人の師なれば、知を明かにして先達し給ひ、堯舜は人の君なれば、知をくらまして天下の賢才をまねき給へり。
寶は貧に生じ、知は謙に明かなる理を知らで、我わが知に自慢し、足れりと思へば、天下の才知みなうづもるゝ事なり。空々として謙退なればこそ、善政もおこり、美風も後世に殘る事なるに、下聞かぶんを恥とし天下の知を不るレ用ひ時は、物の本體は虚靈なるの道理にあらず。其恥にあらざるを恥ぢて恥心ちしん亡び、不善の名を得るものなり。それ天地の大なる、萬物を造化し出す所は太虚無一物の理なり。
目は五色〔靑・黄・赤・白・黑―頭注〕をはなれて五色を辨へ、口は五味〔辛・酸・鹹・苦・甘―頭注〕なくしてよく五味をあぢはひ、耳は五聲〔宮・商・角・徴・羽―頭注〕なくして五音を知り、心鏡空々として萬物に應ず。萬の物はみな無より生じ候へば、貧は世界の福神といふ俗語は、まことに人心の靈にて候。
一 再書略。しからば堯舜の民も貧乏をまぬかれず候や。
返書略。貧しくはあれども(*原文「れあども」)乏とぼしき事はなく候。人々分を安んじて願なければ、身は勞して心は樂めり。堯舜の民は康寧の福あるとは此理にて候。むかし田夫あり。毎日北に向つて禮拜らいはいし「淸福を給ふ。」といへり。其妻め笑つて曰はく、「軒には草茂り、床ゆかには稿わらの席むしろをしき、身にはあらきぬのこを著て、雜穀を食しよくとす。夫ふは田畠たはたに勞し、婦は食事にいとまなし。餘力あれば紡績織しよくじんす。春より冬に至り、旦たんより夜やに及ぶ。
是を淸福といはゞ誰か福なからむ。」夫が曰はく、「是皆賤男賤女せんだんせんぢよのことなり。我身上臈のおちぶれにもあらず、もとより賤しづの子にして、賤の家に居、賤の衣ころもを著ちやくし、賤の食しよくを食し、賤の業をいとなむは、天理の常なり。好事もなきにはしかず。思ひがけぬ幸は其願にあらず。身に病なく家に災なし、達者にして暇いとまなきは淸福にあらずや」と。人いへる事あり。流水は常に生いきて、たまり水は程なく死ぬ。柱には虫入るも、鋤の柄には虫いらず。俗樂の遊いうは憂又したがふ。
水くさり柱むしばむの苦しみほどなければ、美味あれども彼田夫の麁飯にもおとり、輕く暖あたゝかなる衣きぬあれども、寒をいたむこと賤のぬのこにおとれり。おほくは病苦にたえず。或は夭死す。よく思はゞ願ふべからず。人は動物なり。上かみ天子より下しも士民に至るまで、無逸ぶいつ〔逸は樂をすること〕をつとめとするは人の道なり。むかし許由は賢人なり。其身は農夫にして彼に同じ。堯の天下を辭して耳を洗ひしは、其心のたのしび四海の富貴にこえたり。德なきの富貴は浮べる雲のごとし。天爵は萬歳尊たうとし。又人いへる事あり。桀紂は中國の主なれば四海の尊位なり。其富天地の間にならびなし。
顔子は無位無官にして、衣やぶれ食たえ/〃\なり。しかも三十餘にして天年かぎりあり。人生の福是よりうすきはなし。しかれどもこゝに人ありて、桀紂に似たりといへば腹立ふくりうせり。尊きこと天子たり。富四海の内をたもてり、かゝる至極の人に似たるとて腹立せるものは、人々惡を恥ぢ善を好むの良心あればなり。又顔子に似たりといへば、中心悦ぶといへども、恥ぢおそれて謙退す。天子諸侯の富貴といへども其言葉にあたりがたし。人爵は其世ばかりにして、槿あさがほの露のごとし。
天爵のとこしなへに尊きにはならぶべからず。人爵には命分めいぶんあり、願ふべからず。天爵には分數なし、心の位なればふせぐものなし。心のたのしびは奪ふものなければ、人鬼じんきともに安し。吾人只顔子の徒とならん事を願ふべし。桀紂が徒たらん事を願ふべからず。
一 來書略。無欲のよき事は誰も存じ候へども、出家道心者などは無欲も立てられ候べし。世間に交まじり居候ては、左樣には成りがたき事にて候。又奢おごりはあしきと存じながら、人のする事をせざれば、吝嗇と云ひてそしり申し候。人竝に仕しては(*ママ)、欲有りて、とり蓄へも仕らではかなはず候。いかゞ仕るべきことにて候や。
返書略。貴殿無欲を何と心得られ候や。天理をとめて人欲とし、人欲をとめて天理とするのあやまり有るべきと存じ候。物を蓄へてつかはざるを欲とし、蓄へずして有次第につかひ、無くなれば何事をもせずして居るを無欲と思ひ給ひ候や。其ふたつは、しはきと正體なしとにて候。又人のする事をせざればあしく申すとの事は、數奇者すきしやには茶の湯をして見せ、謠ずきにはうたひの會をし、馬ずきには馬あつかひをして、傍輩の人々と一ぺんわたり給ふべく候や。左樣に仕り候人は有るまじく候。
若き内に藝を稽古するには、其師の所へ行き此方へ招きなどして、一藝づつ(*原文「つづ」)きはむるにて候。今は左樣にする人々も稀に候。只我心に叶ひたる人々と五人七人うちよりうちより往來してかたられ候。其五七人の内、弓にすきて弓をもてあそばるゝもあり。鎗・太刀・鐵砲・馬思ひ/\に候。扨は謡か、茶の湯か、酒か、連歌か、文學か、人ごとか、夫よりくだれるは、樣々のいやしき事も、又は奢もありと見え候。大身たいしんは大勢も寄合、小身は座敷もなく使ふ人もなければ、五人七人に過ぐべからず。其中間の人吝嗇とか淸白なるとか名をつけ云へば、かけもかまはぬ世間の人も聞傳へて申すにて候。互に一かまへ/\に候へば、一ぺんにわたるといふ事はなく候。
ここに三綱五常の道を修めて、其身の作法正しく、家内の男女をよくをさめ、人馬にんば軍役ぐんやくに應じてたしなみ、知行の百姓をもつよからずゆるからず、末長く立つべき樣にし、ひろき事すぐれたる事はなくとも、文武の藝にもくらからず、世間の奢にひかれず。親類知音相番あひばんのかた/〃\と交りをかゝず、屋作やづくりをかろくし衣服をつくろはず、諸道具をはぶき、飮食をうすくし、費つひえをやめて有餘を存し、親類知音のおちめをすくひ、家人けにん百姓をあはれみ、晝夜文武の務に暇なく、世上の品々のあそびは不るレ知らがごとく、忘れたるがごとくなる人あらば、世中には正人せいじんあり、類を以て來り友なふべし。
用をも節せず、不時の備へをもせず、わざとたくはへぬ樣にし、仁にも義にもあらずしてゆゑなくつかひ施すを、無欲と申し候はんや。それは名根みやうこんより生じて、欲心のいひわけにこしらへたるものなり。欲心ある故に、人の吝嗇といふべきかとて、淸白せいはくだてをするにて候。眞實無欲の人には、淸白もなき物にて候。眞實に無欲なれば、人が吝嗇なりといふべきかとの氣遣もなく候故に、心もつかず、家屋の美を好まざれば、おのづから儉約なり。衣服諸道具飮食いんしいの好なければ自然と輕かろし。
無欲無心の儉約なれば、我も勞せず人もとがめず。淡淸たんせいの好人かうじんといふべきなり。貴殿は、無欲ならば身代も續き難(*原文「艱」)く、世間の務もいかゞ有るべきと思はれ候へども、無欲なれば身代もつゞき世間の務もよく成る事に候。奢は陽の欲、しはきは陰の欲なり。無欲をつくるは名根の欲なり。三みつ共に大欲心にて候。君子の無欲といふは、禮儀にしたがひて私わたくしなき事なり。如きレ此のの正人あらば、今の世とても惡くは申す間敷候。たとひ無心得なる者ありて惡しく申すとも、あづからざる事に候。天道を我心の證據人とせらるべく候。此以前遠國をんごくの人語られ候。
在所に奇特きどくなる者あり。知行五百石の身上しんしやうに候。親類知音に申す樣、我等は下手にて候やらん、公役くやく軍役ぐんやくをつとめ、人馬をもち奉公を仕り候へば、やう/\事たり候。相番中ちうおもてむきの交りはかゝれず候。其上に親類知音中、折節の振舞をもしてあそび候へば、其分不足に候。さ候へば町人の物を借りてやらざる樣に成り候。しかれば親類知音中寄合て、町人の物を取りて飮食いんしよくするにて候。親類知音の心安き中なかは、か樣の事をも打とけいひて遠慮有るまじき事に候。各おの/\は上手にて有餘あらば振舞給ふべし。何方いづかたへも參るべく候。
此方こなたにても來かゝりの常住が催して寄合候はゞ〔常に來往する懇意の人々が寄合ならばの義〕、なら茶など可くレ仕る候。各も有餘なくば無用に候。我等の流りうにせらるべく候とて、親類知音中用ありて來る、物語などして時分までゐかゝれば、平生の麁飯そはんを振舞催して、寄合時よりあひどきもなら茶粥雜水の外は不レ仕つら候。奇特なる親類知音のまじはりなりとて、心ある者は感じ申すとかたり候き。
一 來書略。拙者せがれ、御存知の如くうつけ〔痴者―頭注〕にてはなく候へども、世間の習に入りて、氣隨我まゝにして道德を好まず、諸藝も根ねに不レ入ら、かへりて父の非をかぞへ、諸同志の非をいひ、利口にして其身の行跡あしく、まことの奢れる子の不るレ可からレ用ふにて候。いかゞ仕りてよく候はんや。
返書略。一朝一夕の故にあらず候。貴殿の年來としごろの養やしなひゆゑにて候へば、御子息の罪にあらず候。總じて父と君とは、心根しんこん〔心奧の底―頭注〕に仁ありて常は嚴なるがよく候。人生は水火の二にあらざれば一日もたちがたく候。水火の仁ほど大なる事はなく候へども、火ひは嚴なるものなれば人おそれて用心仕り候故に、心と火に近付て死する者はなく候。水は柔やはらかなる物故に、人々心やすく思ひ、近付て溺死おぼれしする者おほく候。貴殿の病やまひは柔和過たるにて候。
柔和過たるは人のほむるものにてよき樣に候へども、其門もんに不孝子ふかうのこいで其國に不忠臣ふちうのしんいで候。嚴なる主しう親おやは、無理を云ひても子も臣も怨みざる物にて候。さま/〃\〔たまさかの誤か〕少しのなさけありても、天より降ふりたる樣に喜び候、柔和なる主親は、道理ありても子も臣(*原文ルビ「おみ」)もうらみ申し候。いか程なさけ恩賞ありても、其當座ばかりにて、過分なりとも思はざる物にて候。
親の柔和なるは其子のならひあしく、主君の柔和なるは家中の風俗あしきものに候。水の仁は母のごとく、火の仁は父のごとし。貴殿は母の仁にして御子息あしく成り給ひ候。今に至りてはげしくせられ候はゞ、いよ/\戻もとりてよきことは有るまじく候。國家の政道を取りても、貴殿のごとくなる奉行の下もとには、罪人おほくて人多く死するものに候。又君子なれば、いか程柔和にても子も臣も恐るゝ物に候。
神武しんぶの德おはします故なり。水も大淵おほふちの靑みかへりて底知れざるには、おそれてほとりに立ちがたく、やはらかなれども大に威ある事に候。貴殿今より火の仁は成るまじく候間、水の仁にしてよく/\德を積み給ふべく候。
一 來書略。雷かみなりは何方へおち候はんも難くレ計り候へば、誰たれもおそるゝは尤もと存じ候。いかゞ。
返書略。雷聲らいせいをおそるゝ者は惡氣あくきと惡人となり。貴殿惡人ならずして惡人の徒と成り給ふ事は、まどひある故に候。雷聲は物の留滯りうたいを通ずる物なる故に、雷らいを聞きいては氣血流行し、相當の灸をし藥を服用したるよりも心地よきものに候。いまだ鳴る事のつよからざるををしみ候なり。たとへば盜賊いましめのために、夜廻りを出し辻番をおかれ候事は、常人じやうにんのためには悦よろこびにて候。しかるに盜賊は其いましめを聞ては肝をけし候。たゞ平生心に惡ある故に、雷聲を聞ておそるゝにて候。
一 來書略。聖人に夢なしと申し候へども、孔聖周公を夢みるの語あり〔論語述而篇に、子の曰はく、吾復夢に周公を見ず〕、兩楹えいの間かんに祭らるゝ(*孔子最晩年に両柱の間に奠られた夢を見た故事。〔礼記・檀弓〕)の夢あり。
返書略。たゞ世俗につきて夢といへり。是夢にあらず。聖人の心には正思せいしあり前知ぜんちあり。周公を夢見給ふは夜の正思なり。兩楹の間に祭らるゝは夜の前知なり。今日こんにち吾人といへども、聖人に同じく夢なき事あり。士たるものは、常の産〔孟子に見ゆ。定まれる財源〕なけれども常の心あり。盜たうをせざる(*原文「盜せをざる」)の心は死に至るまで變せず。
學問せざれども幼少より其義を精く習ひ來りたる故なり。しかるゆゑに盜をしたるといふ夢は終に見ず。此一は聖人と同じ。間思かんしもなく夢もなし。致知のしるしなり。昔より物を格たゞすの功こうなり。下下しもじもの盜ぬすみをしてはあらはれん事を恐れてせざるばかりにて、恥の心うすき者は、時ならず欲する念慮も有るべし。しからば夢にも盜ぬすみをしておはれなどし、又捕へられたるなどとある夢も見るべし。
常に思はぬ事をも夢には見るなれども、大かた其類に觸ふれたる事を見るなり。車に乘て鼠穴ねずみのあなを通りたると云ふ夢は、見たる者なしとなり〔理に於て有るべからざればなり〕。
一 來書略。人の身の心中にあるは、魚の水中にあるが如し。此心より此身生れ、又身の主あるじと成ると承り候。たとへば車をつくる者の、車を作りて乘るがごとし。然るに人の天地の中うちにあるは、人の腹中に心のあるが如しと仰せられ候。心は内外なし。腹中に有ると一偏ぺんに〔一概に―頭注〕云ふべからざるか。
返書略。天地人を作りて、又人を以て主あるじとす。其天の作る所の理り、すなはち人の性命なり。人性もと無極なり。天地を入れて大なりとせず。故に人は天地の德、神明の舍しやともいへり。心の臟の虚中きよちう、おのづから一太極あり。又腹中にありと云ふも害あらず。心に内外なき事は本よりの義なり。
一 來書略。臨終の一念とて、命終る時の心持を大事とする事は、さも有るべき事にて候や。
返書略。細工は流々とやらん申し候間、其理こそ候はめ。それも造化を輪廻りんゑと見て、生れかはるの見けんより生じたる事なるべく候。緩々ゆる/\と死なばこそ其一念も可くレ存ず候へ、思ひがけぬ事にてふと死に候はゞ、何として左樣の事成り候はんや。其上晝の心がけは夜の夢と成り候。晝一日惡事を思ひ惡事をなして、寢いねざまに善事ぜんじを思ひ候とも、其心にもなき作善念さぜんねん〔善を行はん(*原文「行けん」)とする望〕は、夜の夢とは成るまじく候。
只終日の實事のかげならでは見え申すまじく候。誰も晝夜の理に惑ひうたがふ者はなく候。目さめておき、ねぶたくて寢いね候。何の心もなく候。生死しやうしは終身の晝夜にして、晝夜は今日の生死にて候。生死の理も晝夜を思ふごとく常に明かに候へば、臨終とても無く二別儀一候。薪つきて火滅するがごとく、寢所ねどころに入りて心よく寢ね候が如く、何の思念もなく、只明白なる心ばかりに候。
一 再書略。晝夜の道に通じて知ると候へば、生涯の心がけもまた鬼神の境界きやうがいと可くレ成る候や。
返書略。生きて五倫〔君臣、父子、夫婦、長幼、朋友〕の道ある者は死して五行〔木、火、土、金、水〕に配す。本死を以ていふべからず。明めいには五倫あり。幽には五行あり。明も造物者と友たり。幽も造物者と友たり。生には人心あり。死には人心なし。人の字に心をつけ候へば明白なる事に候。
一 來書略。大舜たいしゆんの故事をのべ給ふこと、孟子の書に異なるは、如何いかゞしたる事にて候や。
返書略。孟子の語勢を知り給はざる故にて候。孟子の語勢は本の虚實をとはず。それにしても此道理と滯とゞこほりなく道德を發明し給ひたるものなり。いかに質素の時なればとて、天子の二女をつかはし壻にし給ひし人に、藏をぬらし井を掘らしむる事やあるべき。我とひとしく賤しき者を殺してだに、助けておくといふ事は無き理なり。たゞ類をおして義の精きに至り、若もし如くレ此のありても如しレ此のと、至極いひつめたる論なり。不レ告げして娶るの論〔孟子、萬章上篇に出づ〕は、若後世不心得なる親ありて、告げて同心すまじき者あらば、子孫相續は孝の第一なれば、不レ告げして娶りても苦しからじ、告こくの禮を不るレ用ひ事は小節なり。
子孫を嗣ぎ人の大倫たいりんを立つるは大義なればなり。舜の本より情欲の父母につかへ給はずして性命の父母につかへ給ひし事、孟子に至りて明かなり。瞽?の本心は、告げて必ず娶るの本心なり。天子の命なれば、愚痴なる事をいはせらるべきにも有らねども、愚なるを知りながら、通ぜざる事を云ひ聞せて同心なき時、おしてやぶるも舜の爲に心よからざれば、一向初めより不レ告げして娶れと詔ありたるなるべし。大舜は如きレ此のの叡慮ありと、竊ひそかに告げ給ふ事もあるべし。
一 來書略。大王は仁人じんじんなり。しかるに貨くわを好み〔孟子、梁惠王下篇に見ゆ〕色を好むといへるは如何。
返書略。是も孟子の語勢なり。國に三年の蓄たくはへなければ國其國にあらずとて、後世の人の己おのれがために貨をたくはふるとは違ひて、國人のために積置るゝ事にて候。一國の一年の藏入くらいりを四に分わけて、三を以て萬事を達し、一を殘して兵事水旱の用に備へ候。天道の四時しいじも冬一時ときを不レ用ひして貯たくはへとなるが如し。三年積みて一年の餘あまりあり。九年積みて三年の餘あり。籾にて置き干飯ほしひにして置き、あまり久しきは段々に入れかへなど仕り候。
如くレ此のなれば異國の兵亂ひやうらんありても、内堅固にして危あやふき事なし。水旱の運に逢ひても、人をそこなはず盜賊おこらず。國人のために貨を好みて、みづからの爲に好むにあらず。後世には貯ふれどもみづからの爲のたくはへなれば、多くても飢饉の用には不レ立た。大明たいみんの韃靼にとられしも、國に三年の蓄なかりし故、飢饉に逢ふて盜賊起り、それよりやがて兵亂に成りて、つひにとられたり。國に三年の蓄なきは國其國にあらざるの至言明かなり。
又大王の色を好み給ふにはあらず。もし好み給ふにしても、大王の時のごとく婚姻の禮を明かにし、事物を輕くして男女時を不レ失は、三十の男はかならず婦をむかへ、二十の女はかならず嫁する樣やうならば、王道において尤も重き事なり。今齊王〔宣王―頭注〕色を好まるゝとも大王のごとくならば、王道にさまたげなしとなり。
一 來書略。孝子は日を愛する〔楊子法言の語〕の道理承り度く候。
返書略。孝子は父母の命めいを愛せずといふ事なく候。父母己をたのしましむる時はたのしみ、つとめしむる時はつとむ。今日こんにちの日は天命なり。天地は大父母なり。君子は父母天地へだてなく候。天道既に今日の日を命じて、或は勤勞せしめ或は遊樂せしむ。故に日として愛せずといふ事なし。凡人は貧賤なる時は憂苦し、富貴なる時は逸樂す。ともに日を空うして愛することを不レ知ら。目前の利を心として千載の功をわする。君子は貧賤なる時は勤學きんがくし、富貴なる時は人を愛す。月日上かみに遊びて形體下しもに衰ふ。忽然として萬物と遷化せんくわす。尺璧せきへきを輕くして寸陰を重んずる者は、既に時に及ばざらむ事を恐れてなり。〔淮南子、原道訓に、聖人は尺の璧を重んぜずして寸の陰を重んずと〕
一 來書略。天下を取るといへるは俗語にて候や。聞きにくく候。有たもつといへばおだやかに候は如何。
返書略。德を以て天下を知しるを有つといひ、力を以て天下に主しゆたるを取ると申し候。王代は有ち武家は取るにて有るべく候。然れども兵書に云はく、「無きレ取ること二於民に一者は、取るレ民を者也。無きレ取ること二於國に一者は、取るレ國を者也。無きレ取ること於二天下に一者は(*ママ)、取る二天下を一者也。無きレ取るレ民に者は、民(*原文「者、民は」)利とすレ之を。無きレ取るレ國に者は、國利とすレ之を。無きレ取る二天下に一者は、天下利とすレ之を。」といへり。この意にて候へば、取るの字も苦しからざるか。
一 來書略。爰元こゝもとに、此方より禮すれども禮せざる者有りレ之れ候。今は心得て誰も禮不レ仕つら候。言葉ばかりをかくるか、彼が如く笑つて過ぎ候。かやうの者には如何いかゞ可くレ仕る候や。
返書略。敎なく禮式れいしきなき故に、左樣の人何方にも多く候。介者かいしやは拜せずとて、軍中にて甲冑しては拜せざるを禮と仕り候。「古は者、國容こくよう〔通常の服裝して―頭注〕不レ入らレ軍に、軍容不レ入らレ國に。軍容不ればレ國に、則ち民の德廢すたる。」と御座候。左樣の無禮人を拜せず、言葉ばかりをかけて過ぐるがくせになりて、常の人にも互ひに其通りに成り候。しかれば國の禮儀みだれ候て、人の德すたれ候。治國ぢこくに禮儀みだれ候へば、軍令は尚以て行はれず候。亡國の基もとゐにて候。治國は敎へて禮儀ある事を尊び候なり。
一 來書略。鬼門〔家の東北隅を云ふ。此方角に鬼屋あり〕金神こんじん〔陰陽家にて祀る神。其所在方角を愼しむ〕へ屋やを出し、屋うつりする事を忌み候事は、道理有るまじき事の樣に覺え候。世間にやぶる人も有りレ之れ候へども、主人妻子などにたゝりたるも多く候。あしき方はうならば家内不レ殘らたゝるべきに、家主かしゆ妻子をとがめ候は、鬼も心ある樣に御座候。此理分明ならず候。
返書略。日本は福地なる故に、田畠たはた多く人多し。山澤これに應じがたく候。人々欲するまゝに屋作やづくりし木を伐きらば、山林ほどなくあれて人民立ちがたく候はんか。此故にいにしへ神道しんだうの法として、三年ふさがり金神鬼門を忌む事出來候。此分の堪忍にても、日本國の山林を養育し家財をやぶらざる事大なり。むかしは人のいまざりし事も、法度出來て後は之を忌むなり。
法を犯すは不義なれば之を罰する物なり。况や日本の水土によりて立てられたる神道の法なれば犯しては神罰あるべく候。神道の本は義理なれば、義理有りては苦しからじ。たゞに欲するにまかせてやぶるべからず。此國に生れながら此國の神道をおし、或は年來惡心惡行など有りし者、神罰いたるべき時節に、金神鬼門の方を犯して災害に逢ふも有るべく候。年來不屆の者なれば、小過によりて罪に行はるゝ事、人道にも有るが如し。人の罪すべき惡人を罰せざれば、鬼きこれを罰する者ありと、古人も被レ申候。
一 來書略す。
返書略す。
一 内に向ふと外ほかに向ふとの義理、言語げんごを以て申しわけがたく候。たゞ心術のおもむきにて候。内に向ひたる師友と學問仕り候へば、吾知らず心術内に向ひ候。外ほかに向ひたる學者を師友といたし候へば、志は實まことにても心術は外に向ひ候。是を以心傳心とも可くレ申す候。書にむかひ義論講明の時は、かはりなき樣に候へども、國家こくかの事五倫の交り世俗にまじはりては、學び候處用に立ちがたく候。跡になづみて用ひ候へば、そこなひ出來候。是みな外に向ひたる故にて候。
一 さし當りなすべき事は義理にて候へば、善をするの一にて候。書を見るをのみ學問として、つとめを缺くは、本心を失ひたるにて候。
一 板垣信形のぶかた〔武田信玄の家臣〕事、信形にしては奇特きどくに候。是を道とは被れレ申さ間敷候。なみの武士にて一役つとめ候者は、其役だに仕り候へば、君の善惡にはかまひ不レ申さ候。筋目ある臣しんは、或は諫め或は其身を正しく行ひ、知をくらまして時を待つかの二たるべく候。
一 位牌も本は神主しんしゆに似せて仕りたる者に候。いける親の髪をそり、法體ほつたいと成りたる同じ事に候。法體とて親を拜せざる事なく候。心の誠をだに存し候はゞ、神主も同じ事たるべく候。時の勢ひ次第に可くレ被るレ成候。
一 人に對して隔心きやくしんある事は、一體流行〔普遍的―頭注〕の仁にあらず候。我を以て人を見候へば、不る二相叶は一事のみにて、いよ/\へだたり候。人を以て人を見候へば、此人は元來如しレ此のと思ひてとがめもなく候。一體の本然ほんねん同じき親みをさへ不レ失は候へば、五倫ともにむつまじく候。天下我に同じき人のみならば、一家も立ちがたかるべく候。同じからぬ人寄合よりあひて萬事調ひ候。不る二相叶は一は皆我にまさる處なり。却て好よみすべく候。
一 存養そんやう省察〔天理を存養し、自己の心中を省察するなり〕は同じ工夫にて候。存養は靜中せいちうの省察省察は動中の存養に候。ともに愼獨の受用なり。天理の眞樂しんらく其中に御座候。
一 我死體も親の遺體なれば、遺言しておろかにせざる道理との事、尤も類をおし義のくはしきに至り候へば、左樣にも被レ申さ候へども、少し穿鑿に落入りてくはし過ぎ候。太虚、天地、先祖、父母、己、子孫、生脈絡一貫にて候へば、子孫とても先祖の遺體なれば、己が私わたくしの子にあらず候。生脈つきて死體となりたる時は、土に合がつするを本理ほんりといたし候。上古の人は本理にまかせ候。後生の人は情によりて死體ををさめ候。父子、夫婦等の死體ををさむるは、己が情をつくすにて候。己おのれが身においては、跡にのこる者の情と時處ときところの勢いきほひにまかせ置き候へば、遺言に不るレ及ば事に候。又遺言せずして不るレ叶は事も有るべく候。
一 來書略。古今鬼神きじん有無の説、きはまりがたく候。
返書略。聖人神明不測ふしぎと宣ひ候。明白なる道理にて候へども、不測ふそくの理に達せざればにや、愚者は有いうとし知者は無とす。言論の及ぶところにあらず。よく知る者は默識もくしき心通しんつうすべく候。

卷第四 書簡之四

一 來書略。いにしへは人に取りて善をなし、人の知をあつめ用ふるを以て大知たいちとす。今は、人の善をとる者をば人のまねをするとてそしり、人の知を用ふればおろかなりとあなどり申し候。又たま/\貴人きじんの人の言を取り用ひ給ふもありといへども、善なるさたもなく、却つて惡しき事ども候。いにしへの道は今用ひがたきと見え申し候。但し何とぞ受用のいたし樣もあること候や。承り度く候。
返書略。昔今川の書〔「今川了俊子息仲秋に對して制止の條々」といへるものを指すなるべし〕をだに、病に利ある良藥として諸國にも取り用ひたり。人々我がといふもの有る故に、善なれども人の云ひたる事は用ひざるの爭ひあり。聖人には常の師なしとて、善を師とし給へり。古は人の善を擇んで之を取り用ふるを知とし、己を立てゝ人の善を取らざるを愚と申し候。善を積んで德となり、善人の名をなす時は、人にとりたる事を言ふ者なし。爭を積て不善の名をなす時は、己が損なり。
人に取らざる事をほむる者なし。大舜たいしゆんは問ふ人を好んで、人の知〔知惠―頭注〕を用ひ、人の善を擧げ給へり。天下古今の師とする所にして大聖人なり。桀紂は人の知を嫉みて用ひず、人の善をふせぎていれず、己一人才知ありと思へり。〔紂紀に、智は以て諫を拒ぐに足り、言は以て非を飾るに足る、の類を謂ふ〕しかれども天下古今のそしる所にして大惡人なり。かくの如く善惡の道理分明ぶんみやうなれども、凡情ぼんぜいの習にて、桀紂が行にならふ者は多く、大舜の德を學ぶ者はすくなし。思はざるの甚しきなり。又人の言ことばを用ひてよからずと申し候は、己にしたがひ媚びる者の、告げ知らする小知の理屈などにて、事はよきに似たれども、人情時勢に合はざる事どもなれば、用ひて却つてあしき事となり候。
賢知の者は己に從はず媚びず、まされる名のある故に、爭の心ありてふせげり。小人の言げんを取つて賢知の言をふせがば、何を以てか善かるべき。燕王が堯舜の子に讓らずして、賢に讓り給ひし善名ぜんみやうを羨みて、子之に國を讓りて亂れたるが如し。〔易王?、在位十年にして子之に惑はされて位を讓る〕子之は小人なれば、うけまじき人情時勢を知らで受けたり。故に亂に及べり。小人の言はいかで人情時變に叶ひ候はんや。
一 來書略。貴老は道學を以て天下に名を得給ふ人なり。しかるに一向の初學の者の樣に、博學の者に逢ふては、字をたづね故事を問ひ給ふとて、人不審申し候。
返書略。予本より文學なく候。然れども字は字書にたづね、故事は史書などに尋ね候はゞ事すみ可くレ申す候へども、左樣に勞して物知だてする事は、何の益なき事に候。幸に博識の人候はゞ、たづぬべき道理に候。世人予を以て、おして道學の先覺〔孟子に出づ。人に先だち道理を覺る者〕とせられ候。予に先覺と成るべき德なく候。たゞよく人にくだりて不るレ知ら事を尋ぬる事のみ、少し人の先覺たるに足りぬべく候。
一 來書略。先日たま/\參會仕り候へども、何の尋ね問ひ可きレ申すたくはへもなく別れ申したる事、殘念に存じ候。
返書略。疑ひなき故にて候。實に受用する者は行はれざる事あり。是をたづねて行はるべき道を知るを問學と申し候。人倫日用の上において、よく心を用ひ手をくだし給はゞ、必ず疑ひ出來可くレ申す候。
一 來書略。士は賢をこひねがふ〔周敦頤曰く、聖は天を希ひ、賢は聖を希ひ、士は賢を希ふと〕と承り候間、いにしへの賢人の行跡を似せ候へども及びがたく候。たま/\少し學び得たる樣にても、心根は凡夫にて候。外ほか君子にして内小人とや可くレ申す候。いかゞ受用可くレ仕る候や。
返書略。予近比いにしへの賢人君子の心を察し、自己に備はれるところを見て、學舍の壁に書付おき、小人をはなれて君子となるべき一の助たすけにいたし候を、則ち寫し致し二進覽一候。

君子
一 仁者の心動きなきこと大山の如し。無欲なるが故によく靜なり。
一 仁者は太虚を心とす。天地、萬物、山川、河海皆吾有いうなり、春夏秋冬、幽明、晝夜、風雷、雨露、霜雪皆我行なり。順逆は人生の陰陽なり。死生は晝夜の道なり。何をか好み何をか憎まん。義とともに從ひて安し。
一 知者の心、留滯なき事流水の如し。穴に滿ち、低ひききにつきて、終に四海に達す。意こゝろをおこし才覺を好まず。萬事不レ得レ已むをして應ず。無事を行つて無爲ぶゐなり。
一 知者は物を以て物を觀る。己に等からん事を欲せず。故に周しうして比ひせず。〔論語、爲政篇に、君子は周して比せず、小人は比して周せず〕小人は我を以て物を觀る。己に等からん事を欲す。故に比して周せず。
一 君子の意思は内に向ふ。己知るところを愼んで、人に知られん事をもとめず。天地神明とまじはる。其人がら光風霽月の如し。
一 心地虚中なれば、有する事なし。故に問ふ事を好めり。優れるを愛し、劣れるをめぐむ。富貴をうらやまず、貧賤をあなどらず。富貴は人の役えきなり、上かみに居るのみ。貧賤は易簡いかんなり、下しもに居るのみ。富貴にして役せざれば亂れ、貧賤にして易簡ならざればやぶる。貴富なるときは貴富を行ひ〔中庸の貧賤に素しては貧賤に行ふの義〕、貧賤なる時は貧賤を行ひ、すべて天命を樂みて吾あづからず。
一 志を持するには伯夷を師とすべし。衣を千仭の岡にふるひ、足を萬里の流ながれに濯ふ〔晉の左思が詩句〕が如くなるべし。衆をいだくことは柳下惠を學ぶべし。天空うして鳥の飛ぶにまかせ、海ひろくして魚のをどるにしたがふ〔古今詩話に此句見ゆ〕が如くなるべし。
一 人見てよしとすれども、神の見る事よからざる事をばせず。人見て惡しとすれども、天のみること、よき事をば之をなすべし。一僕の罪輕きを殺して郡國を得る事もせず。何ぞ不義に與くみし亂に從はんや。

小人
一 心利害に落入りて暗昧あんまいなり。世事に出入して〔世俗の小事に拘泥して―頭注〕何となくいそがはし。
一 心思の外に向つて人前にんぜんを愼むのみ。或は頑空、或は妄慮。
一 順を好み逆をいとひ、生を愛し死をにくみて、願のみ多し。
順は富貴悅樂の類るゐなり。逆は貧賤艱難の類なり。
一 愛しては生きなん事を欲し、惡んでは死せん事を欲す。總て命を不レ知ら。
一 名聞深ければ誠すくなし。利欲厚ければ義を不レ知ら。
一 己より富貴なるを羨み、或は嫉そねみ、己より貧賤なるを侮り、或はしのぎ、才知藝能の己にまされる者ありても、益をとる事なく、己に從ふ者を親しむ。人に問ふことを恥ぢて一生無知なり。
一 物ごとに實義には叶はざれども、當世の人のほむる事なれば之をなし、實義に叶ひぬる事も、人謗そしれば之をやむ。眼前の名を求むる者は利なり。名利の人之を小人といふ。形の欲に從ひて〔精神を棄てゝ專ら物質的欲求を恣にするなり〕道を知らざればなり。
一 人の己をほむるを聞いては、實に過ぎたる事にても悅びほこり、己を謗るを聞いては、有ることなれば驚き、無きことなれば怒る。過を飾り非を遂げて改むる事を不レ知ら。人みな其人がらを知り、其心根こゝろねの邪よこしまを知りてとなふれども、己獨ひとり善くかくして知られずと思へり。欲する所を必ひつとして、諫を防ぎて納れず。
一 人の非を見るを以て己が知有りと思へり。人々自滿せざる者なし。
一 道にたがひて譽ほまれを求め、義に背きて利を求め、士は媚こびと手だてを以て祿を得ん事を思ひ、庶人は人の目をくらまして利を得るなり。之を不義にして富み且つ貴きは浮べる雲の如しといへり〔論語、述而篇の語〕。終に子孫を亡すに至れども不レ察せ。
一 小人は己あることを知りて人あることを不レ知ら。己に利あれば、人そこなふ事をも顧ず。近きは身を亡ほろぼし、遠きは家を亡す。自滿して才覺なりと思へる所のものこれなり。愚これより甚しきはなし。
一 來書略。志は退くとも不レ覺え候。隨分つとめ勵まし候へども、氣質柔弱じうじやくなる故に進みがたく候。志の親切ならざる故とも被れレ存ぜ候。
返書略。つとめられ候處は、氣の力のみをはげますにて候。たとひ強力ありて一旦つとめすくやかに進み候とも(*原文「候もと」)、德の力ならざれば、根に入りて入德にふとくの益にはならず候。氣力は時ありて衰へ候。又根に不明なる所あればくじき易く候。德の力は明かなる所より出候へば、氣質の強柔によらず候。知仁勇ある時は共にあり。德性を尊びて問學ぶんがく(*ママ)によるは、これを明かにする受用にて候。知明かになりぬれば、止やめんとすれども不るレ已まの勇力自然に生じ候。私欲の煩もくらき所にある事に候。明かなる時は、天理流行して一體の仁あらはれ候。明かに知り候へば則ち親切の志立ち候。之を明かなるより誠あると申し候。誠より明かなるは〔中庸に出づ〕聖人にて候。これを明かにする功を受用せずして、たゞに志の親切ならん事を願はれ候は、舟なくて海をわたらんとするが如くにて候。故に大學の道〔大學に「大學之道在明明德、在親民、在止至善〕は、明德を明かにすることを先にし候。親民至善しいぜんは、みな明德の工夫受用にて候。
一 來書略。よき學者に成り申し度きと心懸候へども、志の薄き故にや、おこたりがちにて空しく光陰を送り候事、無念に存じ候。
返書略。よき學者に成り給ひ候事は無用の事に候。本より武士にて候へば、よき士になり給ひ候樣に晝夜心がけられ尤もに候。たゞ名字なしによき人と申すがまことの人にて候。まことの人は、公家なればよき公家と見え、武家なればよき武士と見え、町人なればよき町人、百姓なればよき百姓と見え申し候。よき學者と申し候には風ふうありくせあり。其類るゐに於てはほめ候ても、其法なく其習なき所へ出で候へば、却て人の目にたて耳を驚かし候。其故は、よき學者と申すには外の飾は(*原文「外の飾ほ」)多く候。其飾の除のけて見候へば、實はかはる事なく候。只實義ある人のみ、松栢しようはくの凋めるにおくるゝ〔論語、子罕篇の語〕たのもしき所御座候。とりわき武士たる人の肝要にて候。
一 來書略。淨土宗、日蓮宗申し候は、大乘の學者は戒かいを保つに及ばず、たとひ惡をなしても彌陀を賴み妙法を唱れば、成佛疑なしと云ひ、善行ぜんぎやうをするをば雜行ざふぎやうの人なり、地獄に落つべしと説き候。尤も本願寺宗同前に候。法然坊〔僧源空が事。淨土宗を創む〕・日蓮法師〔日蓮宗の開祖〕など、斯樣の筋なき事を云ひて、一宗を弘め候を、能く弘めさせ給ひたる事に候。今は數百歳のならはしとも可くレ申す候。初めに斯樣の事にておこりたるは不審に存じ候。
返書略。法然坊制禁敎示けうしの書を見侍れば曰はく、「可し二停止ちやうじす一。於て二念佛門に一レ號することレ無しと二戒行かいぎやう一。專ら勸め二淫酒食肉を一、適たま/\守る二律儀を一者は、名づく二雜行人ざふぎやうにんと一。憑たのむ二彌陀の本願を一者は、説くレ勿れとレ恐るゝレ造なすことをレ惡を。事戒じかいは是佛法の大地也。衆行しうぎやう雖もレ區まち/\と同じく專にすレ之を。是を以て善導和尚をしやう〔宋の高僧〕は、擧げてレ目を不レ見二女人を一。
此行状之趣、過ぎたり二本律制ほんりつせいに一。淨業之類、不んばレ順せレ之に者、惣じて失し二如來之遺敎を一、別して背く二祖師之舊跡に一。旁かた/〃\無きレ據よりどころ者か歟。」日蓮坊の云く、「十七出家の後は不レ帶せ二妻子を一、不レ食はレ肉を。權宗ごんしうの人尚可しレ然る。况んや正法の行人をや哉。」二組如くレ此のに候へば、末流まつりうの坊主とは大に異なり。
法然坊は學力戒行共に優まさりたる體ていに候。「日蓮不レ帶せ二妻子を一。」と書き候所は尤も奇特きどくに候。持つ程ならば妻子とて可くレ持つ候。かくれたる事は有る間敷候。然れども出家となり候上は、戒なくては出家にあらず候との事に候。世間の坊主の説法は、己おのが破戒無慙のいひわけと見え申し候。渡世の事に候へば、とかくの批判に不レ可からレ及ぶ候。
一 來書略。思おもひに思索、覺照かくせうのたがひある由承り候。委く承りたく候。
返書略。古人心をくるしめ力をきはむるは、鑿さくにいたり易しといへり。〔思索に過ぐれば、却つて迷を生ずるの義〕是思索の事にて候。心の本然ほんぜんふさがりて至理しいりてらさず候。藝は其術の功を積んで後に成り、世俗の分別は理窟より出たる分別と見え候。寛裕温厚にして涵ひたし養ふときは、心本然を得て明睿めいえいの照す所あり。これを覺照と申し候。分別は自然に出て自得し、藝は從容として其品たかしともいへり。詩歌に至るまで巧なるは本意にあらずと承り候。又「世事は其事になれ、藝は其術を知らざれば、鏡前きやうぜんに白布を張りたるが如し。」といへり。不るレ知らをば不レ知らとし、知れるをば知れりとす。眞知其中うちにあり。知者はまどはざるのみ。
一 來書略。聖人の言は、何れの國何れの人にもよく相叶ひ候と承り候。然れども喪祭の禮儀などは、今の時、處、位、に行ひ難き事多く候。三年の喪はとりわき成し申す間敷候。學者の我と思ひ立ちてつとめ候だに名實かはり申し候。とぐる事は十に一二と見え候。それだに其人の得たる事か、境界きやうがいのしからしむる樣なる事ばかりに候。若上かみより法に定められ候はゞ、僞いつはりの端となり、罪人多く出來可くレ申す候。往年聖人の法を少々國に行はれし人御座候へば、國人悲びて、「孔子と云ひし人はいかなる惡人にてか、かゝる迷惑なる事を作り置きて人を苦しめられ候。」と申したる由に候。今も儒道の法を立て、しひてつとめさせ候はゞ、是にかはり申す間敷候。まことに僞の初め亂の端とも可くレ成る候。
返書略。聖人の言ことばは何れの時とき處ところ位くらゐにもよく應じ候へども、採用とりもちひやうあしきによりて害になる事に候。喪もの事は、死を以て生をほろぼさずとある一言ごんにて、行ひやすき道理明白に候。病者か、無き二氣力一か、情(*原文ルビ「せい」)うすく習ひたるか、如きレ此のたぐひの人に、法のごとくつとめさせ候はゞ、たちまち親の死を以て子の生を亡し可くレ申す候〔死者に厚うせんが爲に、生者傷ましむべからずとなり〕。近世は人の生付氣根きこんよわく、體たいやはらかに成り來り候。たゞ人のみならず、竹木金石も又おなじ。無心の物だに運氣につれては斯くのごとし。
况や人においてをや。今の人の氣體よわく情せいうすくなりたるには、世間の定法の五十日の忌精進にて相應に候。もし氣根つよく、志、學力共にありて、其上に心喪しんさうを加へんと思ふ人あらば、又五十日も祝言等の席へ出ざるほどの事にて可なり。神前の服は日本の古法の如くなるべし。是より上のつとめをしひ候はゞ、學者といふとも堪へざる者多かるべし。其人の罪にあらず。人情時變を不レ知らしてしひる者の過なり。物極れば必ず變ずる道理なれば、百年の後は人の氣根もまし、形體きやうたいつよくなり、世中質素の風にかへりて、情も少しあつく、道德の學も興起し、至治しぢの澤たく〔結構に治まる御世の御蔭―頭注〕をかうむる時いたりなば、予がいひ置きし事をすくなしといひ、薄しとしてそしる者あらん。
今だに誠を大事と思はざる學者は、法によりて非とする者あり。然りといへども道のおこらんとするめぐみ〔芽生―頭注〕の時に當りて、誠を亡し僞をなさむ事は、予が心にをいてしのびず。予いまだ凡情ぼんぜいをまぬかれずといへども、狂見ありて大意を見る故に、世のそしりにひかれず獨立てり。他の學者は狂見なければ、そしりをもやぶり得ず、氣躰よわく情叶はざれば、法をも行ふこと不レ能は、名聞ふかき者は、身を亡し、淺き者は學まなびともに廢せり。まことに惜むべし。故に世に器量あり實義ある人は、多くは聖人の道を尊ぶといへども、大難たいなんあるによりさけて寄らず。
其人々の言ことば信ずるにはあらざれども、表むき佛法によりて宗旨をたて、常の武士なれば難なし。學者と成る時は、其法を行はざれば其流ながれにそしられ、本なき惡名あくみやうをかうぶれり。行ふ時は身くづをれ〔弱り果つるを云ふ〕、武士のつとめもならざる樣なれば、實は不忠にも陷るなり。道は五倫の道なり。就レ中忠孝を學ぶといへども、忠孝の實はなきに似たり。道に志なきにはあらずと云へり。是非なき事に候。今の時大に志ある人は、たとひ其身根氣つよく愛情あいせいふかくして、三年の喪をつとむべき者なりとも、人の師父兄となりて子弟をみちびくべきならば、己ひとり高く行ひ去りて、人の續きがたき事はすべからず。くゝりつきて〔一致して―頭注〕衆と共に行ふべし。武將の道も同じ。
一人ぬけがけして高名するは獨夫の勇なり。人に將たる者は、總軍勢のかけひきすべき程をかんがへて進退す。己が馬の速きが爲に、ひとり往かず。俗に異なる者は一流となりて俗をなさず、天地の化育を助くべからず、終に小道せうだうとなれり。異端と是非を相爭へり。道の行はれざる事常にこゝにあり。俗にぬきんづべきは、民の父母たるの德のみ。
一 來書畧。天子にあらざれば禮樂を不レ作さと候へば、儒法の喪祭をおこすも、禮を作るの類たぐひにてあるべく候や。
返書略。古來日本に用ひらるゝ禮樂、官位、衣服の制にいたるまで、そのかみ遣唐使、もろこしより習ひ來りし聖代の遺法なれば、これすなはち儒法なり。喪祭の事は、古は神道しんだうの法ありき。中比佛法に移りて神道絶えたり。社家に少し殘れる事ありといへども、平人へいにんはとり用ひがたき樣にいひならはして、世人よるべき所を知らず。予は年來神道により行ふべき喪祭の法だにあらば、用ひたく候へども、成りがたきよしに候へば、無く二是非一候。扨は儒法と佛法と、古より人々の心のより次第に用ひ來り候。佛法は釋迦より初めて火葬にしたる事なれば、こと/〃\く火葬なるべく候へども、貴人と社家とは大かた土葬にして、髪をも不るレ剃ら者あり。是又儒法なり。上代にも神儒佛まじへ用ひられ候故に、東照神君も、神儒佛三みつながら用ふと宣ひ候。然れば上代武家共に用ひ來れり。何ぞ作ると可けんレ申すや。中絶して見なれざるゆゑに、夏の虫氷を疑ふにて候。古は日本にも盛んになりし學校の敎へ、釋奠の祭なども、中興せば珍らしかるべく候。
一 來書畧。「主とす二忠信を一。」の語、諸儒の説を聞き候といへども、文義に依りて理を云ふ所はきこえたる樣に候へども、今日の受用に取りては、しかと得心仕りがたく候。
返書略。大學の傳に誠にすレ意をといへるは、則ち主とする二忠信を一の工夫なり。主二忠信一は本躰の工夫なり。誠意は工夫の本躰なり。主二忠信一は未發の時に誠せいを養ふなり。誠意は已發いはつの時に誠を存するなり。誠は天の道なり。誠を思ふは人の道なり。〔中庸に、誠は天の道なり。之を誠にするは人の道なりと〕誠を思ふ心眞實なれば、誠則ち主となりて、思念をからずして存せり。是主二忠信一なり。又先儒の説に、眞心に發するこれを忠といひ、實理を盡すこれを信といふといへり。此解おもしろく覺え候。
一 來書略。親しんの喪をつとむるは、學者の大義と承り候へども、行ふこと成りがたく候。少し道を悅び候甲斐もなく、恥はづかしく存じ候間、一向に學をやめ申すべきと存じ候へども、之も又御恩空くするにて候へば、何とも辨へがたく候。
返書略。古人は欲薄く情じやう厚く、世事すくなく、氣力つよく無病なりし故に、三年の喪をつとめられ候。いまだ三年を不足と思ひし人あり。又少しはつとめて及びたる人もあり。後世の人は世間多事にして、欲の爲に心を奪はれ、情せい薄く氣力弱し。このゆゑに勤めてなりがたく、企ても及びがたし。大國だにもしかり。况や日本は小國にて、人の魂魄の精うすく、堪忍の力弱し。聖人おこり給ふとも、日本の今の人には、しひて三年の喪をなさしめ給はじ。世のならはしのくだれること千載に及びぬれば、今の世に生れては、道を悅び法を行はんと思ふ志ありとも、氣力叶ひがたかるべし。
賢君繼ぎ起り給ひ、世事せいじ次第にすくなく、人の利欲年々薄く、禮儀あつき風俗と成りて、豐ならば、風雨時をたがへず、寒暑節せつを不レ失はして、物の生長かたく成りなば、人の形躰も健すくやかになりて、人情厚くなるべし。然らば喪のつとめのみならず、萬事の行業ぎやうごふ厚くなりて、其世の一年は今の百日よりも勤めやすかるべし。今の世愛子に別れて、五年七年歎き暮し、病氣になる者も、平生の事は喪の躰ていならず。これ哀情餘ありといへども、氣根弱く堪忍の精なきゆゑなり。况や哀情の薄き者、つとめてなすべきや。たとひ少しは哀情ありても、氣躰弱く病める時は、養生よりおのづから薄くなりゆくものなり。又人の氣質品々あり。生付の得たる方には、つとめも人に異なり。禮儀の法は得たれども、利心深き者あり。仁愛ありて人を惠み財ををしまぬ者も、禮法には疎おろそかなるものあり。
勇武ようぶあれども不仁なる者あり。才覺にして眞實薄き者あり。如きレ此のの人々、己が生付の得たる所に自滿して、足らざる所をわきまへず、互に相助くる事あたはざるのみならず、却つて相爭ひ相敵とす。貴殿は勇ようなれども、仁を好んで人を愛し給ひ、利心すくなし。仁と無欲と勇とは、道德において長ぜるところなり。禮の格法にたへざる〔式作法を行ひ得ざる―頭注〕ことは、流俗の習にして、天下みなしかり。貴殿一人の罪にあらず。一の不足を以て三の德を廢すべきことは、上世といふともあるべからず。况や末代においてをや。貴殿の德を以て上代に生れ給はゞ、必ず禮にも厚かるべし。
それ太古には禮の格法なし。只誠に專なり。伏犧神農の代よには、三年の喪なく哀情數なし。心地しんち光明にして飾なかりき。仁勇じんよう無欲は伏犧氏の時に生れて、必ず尊びらるべし。禮の格法一事を以て儒者の道を盡せりと思ひ、凡情ぼんぜいの名利伏藏するものは、堯の代にいれらるべからず。貴殿此格法者のそしりに逢うて、天性の德を廢せんと思ふは大に不可なり。それ喪もは終を愼むなり。祭さいは遠きを追ふなり。民の德厚きに歸す。〔論語、學而篇に、曾子曰はく、終を愼み遠きを追へば、民の德厚きに歸す〕尤も人道の重んずる所なり。然れども喪祭ともに時處位をはかるべし。
只心の誠を盡すのみ。格法に拘りて不るレ叶はをしひ、不るレ能はをかざらば、必ず其本をそこなふべし。格法の儒者の世に功ある事すくなからず。予が如きものも恩德にかゝれり。しかれども心法にうときが故に、自己の凡情ぼんぜいを不レ知ら。又行ふこと日本の水土に叶はず、人情にあたらず。儒法をおこすといへども、つひに又儒法を破る事を知らず。貴殿三年の喪の法はあたはずとも、心情の誠は盡し給ふべし。追ふレ遠をの祭まつりも、又なるべきほどの事を行ひて、自己の誠を盡し給ふべし。
一 來書畧。喪の中うち魚鳥を食せざること、生類を忌むの義ならば、佛家ぶつけの流に似たり。祭禮に肉を用ふる時は、又生類を忌むにてもなく候。拙者若く無病なりし時は、年中蔬食そし水飮すゐいんしても何とも不レ存ぜ候ひき。近年は年寄り病者に成り候故か、五日生魚なまうをを食せざれば氣力乏しく、十日食せざれば腹中あしく成り候。か樣にては、三年の喪はいふに及ばず、三月も成り申すまじく候。何とも辨へがたく候。
返書畧。喪に一の主意あり。憂うれひのうちなればすべて靜にして事にあづからず。肉食にくじきの味あぢはひを求むるも、樂びの類たぐひなれば食せず。蔬食そしいして命めいを養ふのみなり。只酒肉を忌むのみならず、五辛しん其外何にても相火しやうくわ〔情慾―頭注〕を助け精を増すべき物を食せず、腎水堅く閉て人道の感をいださじとなり。蔬食そしい味あぢなければ腹にみたず、力なければ杖つきて起居す。喜怒ともに發することを不レ得。これ皆壯年の者生樂せいらくをふせがんがためなり。
故に老いて小兒のごとくなる者は、肉を食し酒を飮む。たゞ喪服の身にあるのみなり。病人も又しかり。これを食して樂みとせず、只生を養ふばかりなり。氣血盛さかんにして精神つよき者は、厚味こうみを忌むのみならず。蔬食そしいといへども腹にみたしめず、夏涼しくせず、冬暖にせず、著て安からず、寢てやすからず。これは古の人の氣血健すこやかに筋骨すぢほねつよく、無病にして、精神盛なりしかば、聖人其人の位に依りて制し給へる法なり。今の世の人此法のごとくつとめば、生を滅さんこと眼前なり。生を養ふ時は喜怒の情發し易く、生樂の念動き易し。常の食しよくを食し常の衣きぬを著し常の居を安んじて、不レ怒ら不レ笑は不るレ樂ま事は、聖人、大賢たいけん、さては天質の美にあらずしては、いかで成るべきや。
このゆゑに古の人喪にはかならず法あり。法なくては勤むることあたはず。今の人其法は身の位に不レ叶は。又法を不レ立てしては行はるべからず。しかれば俗にしたがひ給はんより外は有るまじく候。世俗定法の五旬の忌の間も、元氣をそこなはざるためならば、藥を服用する如く思ひ、折々干魚ひうをなどを用ひらるべし。貴殿年寄り給ふとても、いまだ五十にて候へば、七十の人の如くにも成るまじく、又壯年無病の人の樣にも成るまじく候。其間御料簡あるべく候。
一 來書略。三年の喪は今の人の情には不レ叶はと承り候へども、律僧行人ぎやうにんなどを見候へば、又成るまじき事とも不レ被れレ存ぜ候(*原文「不レ被レ存ぜら候」)。淨土宗・日蓮宗などの中うちに居ては、立てられまじく候へども、律〔戒律を所依とする佛敎の一宗〕とて別に立て候へば、同じ凡僧ながら戒をも持たもち候間、喪も居處衣服飮食いんしいに至る迄別に出て仕り候はゞ、とかく三年は勤め過すごし可くレ申す候。又心喪しんさうとて、外むきはかはらずして心に喪を勤むると申し候へども、是は一向に急度きつと立つるよりも成りがたかるべきと存じ候。
返書畧。律僧行人などは、喪の勤ほどなる事もある躰ていに候。然れどもそれは後世の極樂へ生れんといふ迷ひに牽かれ、又は渡世のためなどに、みな據所よりどころありてなす事に候。今の百姓の律僧の一食じきと申す物をあたへ候はゞ、よき振舞と可くレ存ず候。坊主には大方貧しき者なり候へば、しひて苦勞とは存じ(*ママ)まじく候。又不婬戒などは、律僧ならでも、かせ奉公人〔束縛を受くる奉公人の義歟〕などは大方無く二是非一つとめ候。拙者も氣根よき時分は、名聞まじりに三年の喪は勤むべきと存じ候ひき。
いかにも貴殿の氣ざしにては成り可くレ申す候。古の心喪しんさうとまうすは、身に服を著せざるばかりにて、作法はみな喪の掟と見え申し候。今時心喪をなすと申され候は、尤も志は殊勝にも候へども、しかと仕したる事にてはなく候。大道を心とする者は、たとひ其身は喪を勤むべき道を得たりとも、時の人のなるまじきことなれば、光を和やはらげ塵に同じくして〔老子和光同塵に出でたり〕、萬歳まんざいを見ること一日のごとく、誠せいを立て無事を行ひ、業を創め統をたれ、衆と共に進むべし。
己ひとり名譽をなすべからず。衆のなすまじき事を行ふ者は、天下の師たるべからず。法に落ちて一流となり、俗とはなれては、いづれの時か道をおこすべきや。後世人の氣體つよく情せい厚くなりたる時は、予が言を薄しとし、そしる者あるべし。誠に願ふ所なり。只一念獨知どくちの所において、天を師とし神しんを友とせば、法のごとく勤を以てすぐれたりとせず、やはらぐるを以て惰おこたれりとせず。名をさけ氣勢をしづめて誠を思ひ給はゞ、幸甚たるべし。
一 來書略。今の世多藝小術の者も、師となれば郡國の君と同座し、無禮至極なる者多く候。師となるうへは如くレ此のあるべき道理にて候や。
返書畧。天下に達尊たつそん〔孟子に、天下に達尊三あり、爵一齒一德一と〕三あり。德と年と位となり。朝廷において、衣冠正しく貴賤の次第を分つべき所にては位ある人を尊び、鄕里の常の交にて、孝弟を專とすべき所にては年を尊び、世を助け民に長たるの德を慕ひ、迷ひ辨へ心法を明かにする所にては德を尊ぶなり。故に古は王公といへども民間の賢者に降りたまへり。しかるに彼一藝の師たる者、自己の分を辨へず、小藝をしらで道德仁義も同じ事の樣に心得たるは昧き事なり。貴人きじんも亦あやまり給へり。有德いうとくは禮を以て來きたし、小藝は祿を以て招き給ふべくば、おのづから爭ふ事あるべからず。
一 來書畧。世間に、すゑ物〔罪科ありて斬に處せらるゝ者〕斬りたる者の子孫は絶ゆると申し候。罪ありて斬らるゝ者なれば、我が斬らでも人これを斬り候。昔物語に、竹の雪をふるはしめて、其下知したる者にはかゝらで、おとしたる者にかゝりたる事など申し候へども、理窟にて候へば、心得がたく候。
返書畧。世中にしわざこそ多かるべきに、人を斬るを事と仕り候は、不仁なる心にて候。其不仁の心に天罸當るにて候。我等もすゑ物斬りたる者の子孫絶えたるを、二人まで見及び候。常の武士にて候へば、斬らざるとても誰誣しふる人もなく候。好んで上手をするゆゑにこそ、主人も命ぜられ朋友も賴み申す事に候。しかのみならず能く斬る者あれば、罪の輕き者もきらるゝ樣なるあやまりもある體に候。其上すゑ物によりて、打やうあらみ〔新刀―頭注〕の昔にかはり、當分きるゝ樣にばかり仕り候故、後世のちのよまで用に立ち候はすくなかるべく候。古は今のやうに樣物ためしもの(*ママ)は不レ仕ら候へども、人々かねよき刀をさし、今に傳へて古身ふるみは重寶ちようはうと成り候。
一 來書略。下學上達じやうだつ〔論語、憲問篇の語〕の義、下しも人事を學んで上かみ天理に達すと承りて、理通ずるが如くに候へども、受用となり難く候。
返書畧。易に、形より上かみなる者を道といひ、形より下しもなる者を器きといへり。此語にて上下のこゝろ分明に候。總じて形色けいしよくある者は皆器きなり。故に五倫も器なり。父子、君臣、夫婦、兄弟けいてい、朋友の交は、形より下なるの器なり。父は慈に子は孝にして父子親しんあるは、形より上なるの道なり。故に五倫の交において、道を行ひ德をなすは下學上達なり。
理を窮め性を盡し、命に至ること其中うちにあり。五倫を本とせずして、空に理を窮め性を見るは、異學の悟りといふものなり。高しといへども虚見なるが故に、德に入る業を立つることあたはず。其悟と云ふものも眞まことならず。人道を明あきらかにせざるが故に造化を不レ知ら。造化の神理しんりを辨へざるが故に跡のみ見て惑へり。下學せずして上達を求め、上達も亦得ざるものなり。
一 來書略。此比このころ末書まつしよにて「君子不ればレ重から不レ威あら。」の章〔論語、學而篇の語〕の説を得候。君子は學者の稱なり。學問は學んで君子となるの道なれば、學者を指して君子といへり。在位の君子と云ふも同じ理なるべし。古は人の上かみたる人は皆道德あり。故に在位の人を君子といへり。重おもきと不るレ重からとは氣質にあり。生付靜にして輕々しからぬ人は、おのづから人の狎れあなどらざる所あれば、威あるが如し。學ぶ所の道も、能く受用して堅固なり。氣質輕く浮氣なる者は、あなどりやすくして威あらず。學ぶ所の道も得心とくしんたしかならず。故に學者の人品靜重せいちようにして威嚴なるは、たとへば田畠でんぱたの地福ちふくよきがごとし。しかれどもよき種を植ゑざれば、地福の厚きも詮なし。主二忠信一は美種よきたねを植うるなり。己にしかざる者を友とせず。〔論語、學而篇、前掲君子章の下文〕過つては速すみやかに改めて憚らず、吝やぶさかならざるは、耕作の道をよく勤むるがごとし。
返書略。此章の文義説得がたし。此發明聞えやすきのみ。予が見候は誠の心にあるを忠といひ、事に行ふを信と云ふ。中心を忠とす。天理自然の誠心にありて、空々如たるものなり。所謂未發の中うちなり。人言を信とす。人の言はかならず實まことあるべきものなり。僞るものは私欲これを害すればなり。忠は德の本なり。信は業の始なり、人身の主しゆなり。故に忠信を主とすといへり。
心友を友といひ、面友を朋と云ふ。人を擇び捨つるにあらず。己にしかざる者をも面友として、禮を以て交をなすべし。小人をしたしみ、心友として德をそこなふべからざるのみ。君子の過は日月の食のごとしと云へり。速に改むるを尊しとす。善是より大なるはなし。平人より君子に至るの道路なり。たとひ氣質靜重せいちようなりとも、内に德業の本たる誠なく、外ほか過を改むるに憚らば、一旦威重ちようなるが如くなりとも、終には恐るべきことなきの實を人皆知るべし。たとひ氣質輕々しくして浮氣に近づくとも、忠信を主とし過を改め善にうつらば、浮氣の煩ひ除のぞきて、天然の淸く明かなる本に歸るべし。
人皆是をよみして其誠あるに恥おそるべし。威これより重きはなし。學これより堅きはなし。君子の重きを以て學をかたくし、威を以て外邪ぐわいじやをふせぐ事は文武の道なり。恭敬にして禮儀正しきは重おもきにあらずや。死生貧富の間、其心を動さず其志を奪ふべからざる〔孟子、公孫丑の上篇に此語あり〕は威にあらずや。氣質の輕重によるべからず。己にしかざる者を友とし親み、今の凡位を安んずるは平人の常なり。賢を師とし善を友として、過を改め義に移るは、日新成德の業なり。只學者の憂は不るレ重からにあり。
不るレ重から者は内に主なきが故なり。生付の靜しづかなると動うごくとにはよるべからず。心に主あるを重しとす。主ある時はおのづから威あり。家に主人あると主なき家とを見て分明なり。
一 來書略。經書を見候に、始中終しちうしう悉く解げせんと仕り候へば、心氣勞して却て塞ふさがる樣に覺え候。一經けいの中、肝要の所を見得て可なるべく候。
返書略。始はじめより終をはりまで句々皆解げせんとするは、書を解かいするにて候へば、心を勞して受用の本意にあらず候。又要を得たりと思ひて、他を疎かにするも弊つひえあり。情性を吟詠し道德を涵養する事は詩のみにあらず候。道理本行は我心なり。經傳は我心の道理を解したる者なり。經傳をよみ得て悅ぶものは、我心の道理を見得たればなり。我心の道理は無きレ窮りなり。書中の一章を肝要として止るべからず。又甚はなはだ解げすべからず。甚解する時は、書を本行ほんぎやう〔本然の主要目的―頭注〕として我心を失ふの弊つひえあり。吾心の位と學術の進むとにしたがひて、受用の要と思ふ所は時によりかはりあるものに候。故に時に我心に受用の要を得ばよきなり。廣くわたりて道德を涵養し、日新の功を積みて氣質を變化し給ふべし。
一 再書略。廣くわたり候とは、いか程の書を讀みてよく候や。
返書略。予が廣くと申し候は、無極ぶきよくの理に體ていして、心を是のみと止とゞめざるを申し候。古へ書のすくなかりし時に却つて聖賢多し。經傳は貴殿の心次第に、孝經大學中庸にてもたりぬべし。論語孟子にても足りぬべし。五經にてもたりぬべし。其中十が七八までも解げし殘すとも妨なく候。要は書中にあらず我心にあり。大意を得る時は天下に疑ひなし。何ぞ書の文義を事とし候はんや。
一 來書畧。道本もと大いなり。何ぞ大道と稱し候や。
返書畧。世の道をいふ者すこしきなり。故に大道の名あり。大道とは大同なり。〔道は同なり。=德を得義を宜と解する類の一説なり〕俗と共に進むべし、獨拔んづべからず。衆と共に行ふべし、獨異なるべからず。他人惡事をなさば己のみせざるにてよし、人を咎めそしるべからず。善の行ふべき事あらば己一人なすべし、人に責むべからず。三軍の將の士卒と共にかけひきして、獨夫の勇ゆうを用ひざるが如し。衆のしたがふべき氣を見ては先だちてすゝむる事あり。己氣力ありとも人の從ひがたき事はなさず。世の道學の小道なる事、言はずして知りぬべし。
一 來書畧す。
返書略す。
一 器うつはものに水を十分入れて持するたとへの事、人心の危あやふきを知りて、怒りにうつらず欲に落いらず。本心の靈明を不るレ失は事、右のごとくにて候はゞ、よき受用たるべく候。しかれども大事と思ふ念を常に存するにてはなく候。常に心とすれば、善ながら本心の靈明をふさぎ候。主意眞實に立ち候へば、常は無心にて、事あればかならず用ひられ候。天下生を好まぬ者はなく候。身を大事に存じ候主意まことに候。故に其念慮はとゞめず候へども、危き所にのぞみては必ず愼み候。
一 事物にうたがひある時、心を盡し工夫被レ成候へば、自得の悅よろこび御座候由、人の生付種々しゆ/〃\候へば、左樣にて心の煩わづらひにもならず氣のとゞこほりもなく、益を御おん覺え候はば不レ苦しから候。拙者若き時、田舍に獨學いたし、聖言せいげんを空に覺え、山野歩行の時も、心に思ひ口に吟じ候へば、意味の通じがたきも、ふと道理うかみよろこばしく候ひき。左樣の事にて候や。たゞに事物の不審に心をつくさるゝ事は如何いかゞと存じ候。心上しんじやう意欲の妄まうをはらひ候事、
當然の工夫にては候へども、そればかりにて凡根の亡び候事はなく候。意欲の妄は皆凡心に付きたるまどひにて候。凡心は意念私欲の泉源せんげんにて候。其本をたゝずして末ばかりをさめては、終に功なきと申す事にて候。我を他人にして我わが人がらの位いかんと見候へば、心上しんじやうの受用は大方よきも、全躰の人がら小人なる者多く候。此凡位をまぬかれて、人がら君子の心地しんちに近く候へば、凡根より出づる意妄はわすれたるが如く、ひとり無く成るものにて候。それより前は、身のあつ火びをはらふと申す諺の如く、心上しんじやうに浮み候意妄は先却しりぞくるにて候。惑解け心の位のぼり、凡情をはなれ君子の地位に至り候を、入德と申し候。
一 初學より德の力は及びがたからんとの事、尤もに存じ候。眞實よりおこりてなすことは、初學より德の力にて候。眞實は明かなる所より生じ候xzzzzzzzzzzz武士よりは臆病なる者と申し候へども、利を見ること明かに、好む心眞實に候へば、風波をしのぎ遠路をへて、危き難をかへりみず候事は、武士よりもまさり候。君子道を見ること明かに、德を好むこと眞實に候へば、如くレ此くのに候。それより前は、さし當りてはしひてつとむる事もなくて不レ叶は候。
一 孔子十有五より七十までの次第の事〔論語、爲政篇に、子曰はく、吾十有五にして學に志し、三十にして立ち、四十にして惑はず、五十にして天命を知り、六十にして耳順ふ、七十にして心の欲する所に從つて矩を踰えず、と〕、他の聖學をする人の受用にとりて申し候はゞ、志すレ學には道を學び德に入らんと志し、心内に向つて獨を愼むにて候。三十にして立つは心志しんし堅固に成つて、文武の才德成就したるにて有るべく候。四十にして惑はざるは、守り務むるの力いらずして、心を動かさゞるの位たるべく候。
五十にして天命を知るは、天道に順從じゆんしやうし運命に出入して、造化を助くる大賢たいけんの心地しんちたるべく候。天をもうらみず人をもとがめず、四時しいじに應じて小袖かたびらを用ふるごとく、順逆に好惡なきこと其中うちにあり。六十にして耳したがふは、大だいにして化するなり。聖人に至りたるにて候。是よりは少すこしの淺深熟未熟は候へども、生知の聖にかはり無く候。孔子の志は吾人にあらば、大方三十にして立つの心地たるべく候。石針しやくしん〔磁石針―頭注〕の南北をさす如く、義理より外に他念なきにて候。
立たつは天地人とならび立にて候。不るレ惑はは學士の天地萬物にまどはざる如き事にては無く候。賢人の心を不るレ動かさをも越えて、死生順逆一致に候へば、富貴ふつき貧賤夷狄患難、入いるとして自得せずといふ事なきにて候。〔中庸の語なり〕知る二天命を一は知行ちかうするの知の意にて、天命を吾ものとするなり。陰陽五行も我わがなすなり。運氣もわれより進退すべき所御座候。他たの死生有りレ命、富貴ふつき在りレ天に等の命を知るにてはなく候。耳したがふは精微を盡す所たるべく候。
五十にして知る二天命を一までは、廣大に至る處にて候へば、言語げんごを以て解げせられ候。六十耳順じじゆんよりは、言語ごんご文書ぶんしよの及ぶところにあらず候。從容として道に當る。形色は天性なり。形をふむの位たるべく候。耳を以て口鼻眼こうびがん四躰をかね給ひ候。一身の中うちにて神明に通ずるものは先まづ耳なり。五聲〔宮、商、角、徴、羽〕十二律〔六律六呂の稱〕の精微を盡すも耳にて候。七十にして心の欲するにしたがつて矩を踰えざるは、道器一貫義欲一致、天道無心に動に同じきにてあるべく候。口をひらけば則のりとなり、足をあぐれば法となること、其中に御座候。
一 曾子三省〔論語、學而篇に、曾子曰はく、吾日に三たび吾身を省みる云々〕、初學の時の事たるべく候。如くレ此の人倫日用において篤實に受用ありし故、やがて大賢に至り給へると知らせたる者にて有るべく候。忠は己を盡すなり。我事には誰も心を盡し候。人のためには十分不レ盡さ候。人我へだてあるは仁ならず候故に、仁に至るの受用にて候。朋友は眞實無妄むばうの天道を父母としたる兄弟なれば、其誠まことを思ひて相交るを信と申し候。内外一なるや一ならざるやと省るにて候。傳へたる道理を受用せざるは學者の病にて候。師友に問ひ、學びたる所を日用に試むるや、受用せざるやと省みたまひ候。
一 勿れレ正する〔孟子、公孫丑の上篇に、必ず事あり。正す勿れ。心忘るゝ勿れ。助け長ずる勿れ、と〕はしるしをいそがざるなり。勿れレ忘るは怠らざるなり。勿れ二助け長ずる一は才覺を用ふべからざるなり。百姓の農業をつとむる如く、職人の職をつとむる如く、いそがずおこたらず才覺を用ひず、常になすべき事をして自得を待つにて候。入德にふとくは善を行ひて積んで德となる事に候。經傳を見、弓馬禮樂を學び、自己の非をよく知り、過を聞くことを悅び、五倫道ある等とうの事、みな善を行ふにて候。不義をにくみ惡を恥づるものゝ吾にあるを、天眞と申し候。これを主人公としてなす事は、皆善にて候。これを必ず事とすることありと申し候。
一 克己復禮こくきふくれいは、天理人欲ならび不レ立た候。禮は理なり、己は私わたくしなり。私に克ちたる所則ち天理なり。則ち天下我が心の内にあり。尤も平人の己おのれ、學者の己、賢人の己、高下淺深各別たるべく候。大方御おん書付の如くにて候。「三月不レ違はレ仁に。」〔論語、雍也篇に、子の曰はく、囘や其心三月仁に違はず、と〕の語は克己こくきの後たるべし。四時しいじ三月にてうつりぬれば年中の事なり。年中たがふ事なしといへども、不レ違はと候へば、いまだ力いり候。化して聖せいと成る時は、不るレ違はの力もいらず、無心にして天理流行いたし候。

卷第五 書簡之五

一 來書略。同姓を不るレ娶らの法、未だ日本において掟なき事なれば、從昆弟いとこよりは俗に隨ひて不レ苦しからと許し給ひ候へども、近年同姓を忌むの義を聞傳へて、其禮を守る者少少出來候。是程までの禮儀を知ることも又大義なり。少しひらけたる知覺を空くして、不レ苦しからと許し給はんことは本意なきことなり。且從昆弟を許さば叔母姪めひにもおよびなん。それより後は禽獸に近くなるべし。只此勢に從ひ、儒法としてかたく同姓を忌む禮儀の則のりを、廣く仕り度き儀に候。
返書畧。誠に願ふ處なり。然れども此禮を云ふ者は、貴殿など親み給ふ人十人か二十人か、扨は格法〔忠實に法則を嚴守する者〕の學者二三十人の外には過ぐべからず。纔に相交はる人を以て、天下の數限なき世俗の、人情を知らず時勢を考へずして、時至り勢よしと思へるは不知なり。今天下の人皆聖人と同姓同德なれども、未だ聖人の學を不レ聞か。貴賤に衰世すゐせいの俗に習ふ事百千歳なり。何ぞ禮儀を習ふに暇あらんや。古の聖人伏犧氏よりこのかた相繼で起り給ふ。其間近きあり遠きあり。伏犧より神農に至る迄一萬七千七百八十七年、神農より黄帝まで五百十九年。黄帝有熊氏いうゆうし在位百年なり。是迄を三皇と號す。
少昊金天氏在位八十四年、黄帝の子なり。高陽氏在位七十八年、黄帝の孫そんなり。帝?高辛氏少昊の孫なり。在位七十年にして崩ず。子し摯し位を繼て不德なり。九年にして廢せらる。天下帝摯の弟放勳はうくんを尊みて帝とす。此帝堯なり。帝堯陶唐氏在位一百歳なり。帝舜有虞氏在位四十八年なり。是迄を五帝〔數説あり。下文は孔安國の尚書序に據れり〕と號す。合せて三百八十九年なり。禹湯武を三王と號す。禹より湯に至るまで四百三十九年なり。湯より武王に至る迄六百四十三年なり。
伏犧氏起り給ひしより始て學ありと雖も、未だ禮儀法度なし。神農氏繼ぎおこり給へども、耕作醫術の民を養ふべき事をさきとす。黄帝の時、禮樂の器うつはもの現れ文章略ほゞ見えたりと雖も、未だ期數きすう〔冠、婚、葬、祭等に就て年月を限定する事〕の定なし。五帝の時、禮儀法度大概ありと雖も易簡いかんにして行ひ易し。人民の情に逆さかはず、德化により善に勸みて、人の欲するに隨つて制法出來ぬ。夏商を歴て周に及び、文明の運極り、器物飮食いんしい大に足り無事至りてなすべき事なし。茲に於て人情を溢れしめざるそが爲に、禮儀の防ぎ多く出來、數期すうきこまやかにかたし。皆時所位に從ひて行ふものなり。
今の時器物多く人奢れる事は、周の盛世の豐なるにも越つべし。然れども人民の心の禮儀に習はざる事は伏犧の時の如し。伏犧の民は禮犧を不レ習はといへども、質朴純厚にして情欲せいよくうすく利害なし。今の人情欲厚く利害深き事、其習十百年にあらず、根固く染せん深し。俄に世俗の人情を抑へ急に利害を妨げば、道行はるべからず。今の世の民を敎ふることは、幼少のものを導くがごとし。童蒙は養うて神知の開くるを待つべし。
世俗は學を先にして禮儀を欲するを待つべし。三四五歳の童わらべは、義の端はし〔孟子に見えたる四端を謂ふなり〕すこしあらはれて物恥ものはぢする所あり。知の端すこしひらきて美惡をわかつ心あり。しかれども未だ義不義を辨へず、善惡是非をしるには及ばず。
六七歳におよびて辭讓の心生ず。故かるがゆゑに聖人八歳に至るを待ちて小學に入れ給ふ。しふることなくて、其固有と時とにしたがふなり。五六百歳このかたの世俗は五六歳の童の時のごとし。先學校の政まつりごとをもつて是非善悪を辨ふる知をひらきて、恥をしるの義を勸むべし。數十年數百歳を歴て、後の君子を俟ちて禮儀をおこさしむべきなり。伏犧神農の德の周公孔子に劣れるにあらず、周公孔子の知の伏犧神農に優れるにあらず、時とともに行ふなり。只時に中ちうせざるをおとれりとし、時に中するをまされりとすべし。三皇五帝三王周公孔子、共に時を知りて時に中するの知は同じかるべし。
德は三皇五帝をすぐれたりといふべし。天地ひらけ人道あらはれて、則ち時に行ふべき禮ならば、何ぞ三皇五帝同姓をめとらざるの法を立てずして周を待つべきやとの學者、時にあらざるの禮をしひつとめて、人情時勢に戻り、たま/\道の興るべきめぐみ〔萌芽―頭注〕あるに、實をつとめずして末をとり、つひに本末共にうしなひなば、後世かならず時を知らざるの笑はれあらんか。よく幼童を養育するものは、吾童蒙に求むるにあらず、童蒙我に求む。
今十五以下の童子どうし百餘人を聚め敎ふる者あらん。其中の秀才一二人、知覺はやくひらけたるありて、成人の法を立てんことを望むとも、師たる者知あらば、一二人のために大勢たいぜいの能はざる事をなすべからず。知覺はやき者には、いよ/\内に省み實をつとむることを示すべし。衆童の才長じ知ひらけて、もとめ催す志をむかへて、大人の道を習はすべし。しからば秀才の者も、才にひかれず識に滯らずして實の德をなすべし。衆童はなほ以て明かなるより誠あるべし。若秀才を好よみして衆童のあたはざることをしひば、秀才は己が人に優れるにほこり、才にはせ知識にひかれて、つひに不祥人ふしやうじんとならむ。
衆童は學に倦み道を厭ひて、學校の政のやみなむことをねがふべし。其君師くんしさり其時過ぎなば、あとかた無くならむか。今我同志の人々と他家の格法者とは天下の秀才なり。此輩はいの聖人の法を行はむことを望むことは、九牛が一毛〔極多數中の極少數を喩ふ。漢書司馬遷傳に出でたり〕なり。天下の世俗貴賤はいまだ聖學の道理をだにも不レ聞か、况や法を行はん事はおもひもよらず。縱ひ其中うちすこし法に心ある者有りとも、彼百人の童蒙の中の一二人にもしかじ。たとひ世俗より學者にしふるとも、學者知あらば許容すべからず。况や世俗の中うちより願ふ者なきをや。しかのみならず世俗の人いまだ學を不レ聞か、いまだ法を不レ行はといへども、學者の道を任ずると思ふものよりも人がらよき者あり、天性の德のすぐれたるあり。
今の學者は物知りたるばかりにて、彼好人かうじんにはおよぶべからず。學者世俗のいまだ知らざる道學を學び、いまだ行はざる禮を行ふことありといへども、數代の習の汚れをも不レ洗すゝが、利害をだにも免かれざる有り。意氣甚高くして世俗を見下すといへども、實は平人にも劣れる事あり。毀譽利害根こん深ければ、格たゞすべきことあれども、至情を告げ難し。世俗みな良知良能〔孟子、盡心上篇に見ゆ〕あれば、學者の非を見ることこまやかなりし心に竊に慢あなどり輕しめらる。しかのみならず。時處位にあはざる法を持來りて行はんとす。天下千百年のならはしにあらず、神道王法の敎にあらず、只唐風の學者の一流として、彼一派のごとくするのみなり。槇雄まきのを〔槇尾の誤。山城國愛宕郡高雄の傍に在り〕の僧は戒を持ち、禪宗は座禪するがごとし。世俗と二になりて孤獨の道となりぬ。異端と相爭はんのみなり。何の時にか道を行はんや。
それ慈父は幼童と共に戯れ、不レ知ら不レ識ら善を導き、知覺のひらくるに隨ひて、ともにおとなしく成るがごとし。聖人は俗と共にあそぶ。魯人獵較れふかう〔獵を相競ふなり。孟子、萬章下篇に出づ〕すれば孔子も亦獵較す。衆とともに行ふをもつて大道とす。善なるべき時は衆とともに善なり。時至らざる時は衆とともに愚なり。故に學者俗を離れず、道衆を離れず。德至り化及び、行はるべき時は天下とともに行はる。衆勸めて悖るものなし。 昔堯舜の民は、未だ三百の禮儀を見ず三千の威儀を行はずといへども、渾然として禮儀の本全し。比屋ひをく〔軒を比べたる人々悉くの義〕可きレ封ずの善人なり。純厚朴素眞實無妄むばうの風俗なり。周の禮儀備りし時の土民よく及ぶことあたはず。
周何ぞ上古の至治しぢをねがはざらんや。時文ぶん明あきらかに德衰へたれば、やむことを得ざるの義なり。堯舜周公共に大聖人なり。みな時なり。然れども今の人堯舜を學んで不レ及ばとも、誠に近き風俗ならん。周を學びて不レ及ばば、輕薄無實の人となるべし。孟子の曰はく、堯舜を師として誤てる者はあらじ。其上今の學者周の同姓を忌むの法を行ふといへども、周の法にもかなはず。如何となれば、尊氏の世の末より織田家・豐臣家に及びて百餘歳このかた、天下の武士の姓氏紛れてしられず。たま/\系圖をなすといへども、證據なく傳なくして、文字に依よりて彼は此ならんといへるばかりなり。
戰國久しかりしより今に至りて、數代の間に大形おほかた系圖を失へり。又姓氏なき者は心々の氏を名のり、姓氏ある者も我が好ましき氏にかへぬれば、同氏とても同姓にあらず。天下氏系しけい傳へて慥なるは、千人の内纔に十人なるべし。それだに中間娘の孫を養子とし、妹の子を跡に立つればいつのほどにか他姓となりぬ。十人の中にも七八人は慥ならず。公家は昔より動き給はで、慥なる樣なれども、これも藤氏の家に源氏を養子にし給ふ如くなれば、又慥ならず。目まのあたりしられたる同氏の中を以て、同姓と名付て忌む事をすれども、周以前の五服〔斬衰三年、齊衰二年、大功九月、小功五月、麻三月を五等の喪服という〕の忌きにも及ばず。
今の勢いきほひにては立ちがたし。立たざるをもつて、百が一二を用ひて同姓めとらずと過言くわげんす。實は如何ともする事なくして時所に隨ふなり。迚も全く用ひられずして時所にしたがはんとならば、何ぞ時、所、位の中ちうを擇ばざるや。何ぞ全からざるの法をもつて衆に悖り、大同の道の行はれんとするめぐみを妨ぐるや。夫れ禮法は漸ぜんをもつて起るものなり。其間しふるものあれば、かならず大道を害す。伏犧・神農・黄帝の大聖たいせい、忌み給はざりし事を忌みてなさしめず、三皇の神聖いまだ行ひ給はざりし事を行ひ、これより後は此法に背くをもつて不義無禮とすといへば、先聖を非とするがごとし。謹まざるべけんや。
然れども人情時變によつて時のしからしむるなれば、古に違ふにあらず。今の時人情進まず時變未だ至らず。何を以てか伏犧、神農、黄帝、堯、舜、禹を非として周を是とせんや。先に云ふ如く、周法を行はんと欲すとも迚も行はれざる處あり。是より後賢君相繼いで出世し給はゞ、姓を賜り族を別ち給ふべし。數代をへて時至らば、五服の忌を定め服のかゝる分は娶らざる樣になるべし。是則ち周以前の列聖の古法なり。
之だに漸ぜんをもつてしかり。初よりしかるにあらず。天地ひらけ氣化によりて生れし人は、天地を父母として兄弟なり。〔我諾冊二神の如きを謂へり〕男女だんぢよ有りて後父子あり兄弟有り。此時の人兄弟夫婦となるがごとし。しかるに萬物は明德なく、人は明德有り。父子親しんあり、君親義あり、夫婦別あり。故に父子麋びを共にせず、相交はらず。鳥獸と異なるの條理を本として、野處やしよ穴居の内男女別あるべき道理を知れり。
上古の聖人此の明覺めいかくの知に基もとづきて、兄弟夫婦となるべからざるの禮法出來ぬ。天下兄弟相恥づるの知明かに禮普くしてのち、伯父姪叔母甥も快からざる萠きざしあり。その次の聖人この靈明を本として、伯父姪叔母甥夫婦となるべからざるの禮法を立て給へり。兄弟伯父甥は天倫の親したしみちかく、長幼の禮深くしてかくのごとし。從昆弟は他人の始はじめの如し。
長幼の禮も朋友齒よはひし相讓るがごとし。故に上古には忌いみなし。後世の聖人五服を叙ついでて、君子小人の澤たく〔孟子、離婁下篇の語〕五世にして盡くる所を見給へば、父方は再從昆弟いやいとこまでに服有り。いよ/\一本の親したしみを厚うし、男女有別いうべつの禮を明かにせんがために、服のあるまでは婚姻不通の禮を立て給へり。母方は從兄弟の近きといへども、服なければ本のごとく婚姻をなせり。
妹の子は同姓ならずといへども、親したしみ近ければ服有り。かるがゆゑに忌むあり。再從昆弟いやいとこの外は同姓たりといへども、服なければ婚姻の忌いみなし。是禮や上古よりはこまやかにして義備れり。末世よりは易簡いかんにして禮缺けず。日本において後世聖主賢君繼ぎおこり給はゞ、此禮を以て至極とし給ふべきか。今の世においては、聖賢の君起り給ふとも、未だ此禮をもたて給はじ。同姓をゆるさば親きに及ばんかとの遠慮は、げにさも有るべき樣に聞ゆれども、往古よりの次第を見ればしからず。
日本神代のむかしは、兄弟も夫婦となり給ひき。後世文明あきらかなるに隨つて、誰法を立つるともなく鳥獸に遠ざかり道理を知りて、兄弟を忌み伯父姪叔母甥をいみ來れり。今利心ふかき者、家財を他人にゆづらん事ををしみて、弟を聟とする者あるをば、人道にあらず禽獸なりといみ憎めり。
法なく敎なけれども、人心の靈にて文明の時至れば、漸々ぜん/\久しうしてかくの如し。先にもいふごとく、從昆弟は他人の交のごとし。法いまだおかれざれば、父方母方おなじくあひ忌まず。世の中の風俗たること數千歳なり。義において害あらず。上古の聖神だにも、時ありて忌みたまはず。法に泥みて時を知らず大道を知らざる者は、太古の兄弟伯父姪夫婦たりしを甚非なりとおもひて、其時の聖神をば信ぜざらんか。百世といへども同姓娶らざるの周人しうじんを是として、其時の聖賢をのみ信ぜんか。
先聖の後聖に劣れるにあらず。太古の民の末世の民より愚なるにあらず。後聖の先聖に優まされるにあらず、末世の民の太古の民より知有るにあらず。それ法は時をもつて義ありておこれり。法をかりて後に背くは不義なり。日本神代王代武家の代よ、つひに同姓を忌むの法なし。法なければ從昆弟をめとりて不義といふべき樣なし。後世法をかれば再從昆弟いやいとこを娶るも不義ならん。法なけれども從昆弟より近きは天理人情ともに忌出來るは無法の法なり。文明の時の人心に通じてしからしむるなり。
上代は德厚くして文未だ開けず。末代は德衰へて文明かなり。此病あれば此德あるなり。上古の人は僞りなく利害なし。君子たる人は至誠純厚なり。小人たる者は質直朴素なり。後世の人の疑ふ所の法未だ無かりしばかりなり。其代の非にあらず、其民の罪にあらず。今の學者利害深く僞りをだにもまぬかれず。〔前漢の張禹成帝に對へて曰はく、新學小生道を亂り人を誤る。宜しく信用すること無かるべし、と。
亦下文の義なり〕古の常人じやうにんにもおよぶべからず。末代の君子たる人は驕奢利欲なり。小人たる者は姦かたましくして相凌ぎ、相諛ひて相僞れり。いまだ法を立つるにいとまあらず。况んや法は道より出るといへども道にあらざるをや。今の時に當りて大道をおこさんものは、學校がくかうの政を先にして、人々固有の道德をしらしめ道理をわきまへしむべし。法は望む人有りとも抑へていまだ出すべからず。誠に專にして無欲に至らしむべし。
禮文法度はおこりやすきものなり、抑ふるとも後世必ず備そなはるべし。立ちがたきものは誠なり。至りがたきものは無欲なり。たとひ周法大かた行はるゝといふとも、驕吝けうりん相交まじりて欲あり。多事博文にして誠なくば、周公・孔子何ぞこれに與し給はんや。

卷第六 心法圖解
卷第七 始物解
卷第八 義論之一

孝経の心法は、正レ心修レ身、天命の分を安じて、人々処所の位に随て、道を行なり。天の、人を生ずること、物あれば則あり。天子の富貴にはをのづから天子の則あり。公・侯・伯・子・男、をのをの則あり。卿・大夫・士、其道あり。農・工・商、其務あり。其行ふ所の大小は各別なれども、孝の心法はかはりなし

士といふものは、小身にて徳行のひろきものなれば、上下通用の位にて、上は天子・諸侯・卿・大夫の師と成、下は農・工・商を教へ治るものにて、秀れば諸侯・公卿ともなり、くだれば庶人ともなり、才徳ありながら隠居して庶人と同じく居を処士といへり。大道を任じて志大なるものは士なり

まづ人の初は農なり。農の秀たる者に、たれとりたつるとなく、すべて物の談合をし指図をうくれば事調りぬる故に、其人の農事をば寄合てつとめ、惣の裁判のために撰びのけたるが士の初なり。在々所々ありて後、又秀たる者に、惣の士が談合しひきまはされて諸侯出来ぬ。又諸侯の内にて大に秀たるあり。其徳四方へきこへ、をのをの不(レ)及所は此人より道理出る故に、寄合てつかねとし、天子とあふぎたるものなり。扨士の中より公卿・大夫と云ものを立、農のうちより工・商を出して、天下の万事備り、天地の五行に配して五倫五等出来たるなり

卷第九 義論之二

天下の理の重きものは斉家・治国・平天下なり。其中の一事一事は天の与たる才知あり。君も其質の得たる所を察し給ひて、其職を命じ給ひ、臣もみづからの天を尽すものなり。身を修にとく、人を責るにゆるやかに、知さとく行篤き人を選て、教を掌らしめ給ふ

卷第十 義論之三
卷第十一 義論之四
卷第十二 義論之五
卷第十三 義論之六

予が先師に受けて違はざるものは実義なり。学術言行の未熟なると、時処位に応ずるとは、日をかさねて熟し、時に当りて変通すべし。大道の実義に於ては先師と予と一毛も違ふこと能はず。予の後の人も亦同じ。其変に通じて民人うむことなきの知もひとし。言行の跡の不同を見て同異を争ふは、道を知らざるなり。

不義を悪み、悪をはづるの明徳を固有すればなり。此明徳を養ひて日々に明かにし、人欲の為に害せられざるを心法といふ。是れ又心法の実義なり。先師と予と違はざるのみならず、唐日本と雖も、違ふことなし。此実義おろそかならば、其云ふ所皆先師の言に違はずとも、先師の門人にあらじ。予が後の人も、予が言非とし、用ひずとも、此実義あらん人は、予が同志なり。先師固より凡情を愛せず、君子の志を尊べり。未熟の言を用ひて先師を贔屓するものを悦ぶの凡心あるべからず。先師存在の時変ぜざるものは、志ばかりにて、学術は日々月々に進んで一所に固滞せざりき。其至善を期するの志を継ぎて日々に新にするの徳業を受けたる人あらば、真の門人なるべし。

一には、大都・小都共に河海の通路よき地に都するときは、驕奢日々に長じてふせぎがたし。商人富て士貧しくなるものなり。二には、粟を以て諸物にかふる事次第にうすくなり、金銀銭を用ること専なる時は、諸色次第に高直に成て、天下の金銀商人の手にわたり、大身・小身共に用不足するものなり。三には、当然の式なき時は、事しげく物多くなるもの也。士は禄米を金銀銭にかへて諸物をかふ。米粟下直にして諸物高直なる時は用足ず。其上に、事しげく物多ときはますます貧乏困窮す。士困ずれば民にとること倍す。故に豊年には不足し、凶年には飢寒に及べり。士・民困窮する時は、工・商の者粟にかふべき所を失ふ。たゞ大商のみますます富有になれり。これ、財用の権、庶人の手にあればなり。夫国君世主はかりそめにも富貴を人にかすべからず。富貴を人にかすときは、権を失ひて国亡び天下乱る

故に、商日々に富て、士日々に貧し、士の貧乏きはまる時は、民にとること法なし。士・民共に困窮する時は、天下の工・商、利を失て衣食を得べき便なし。よき者はわづかに富商の数十人のみ也。これを四海困窮すと云。堯曰、四海困窮セバ天禄永終ヘンと。君の禄福もながくたえて、天下やぶると也

卷第十四 義論之七
卷第十五 義論之八
卷第十六 義論之九

【集義外書】

愚が若き時分までは、武士たる者、金銀米穀の事、利得のものがたり、料理ばなし、色欲の言を恥とす。
文武の二道ならざればいやしと思へり。詩歌管弦のあそび、弓馬のわざ、代々の名将勇士の物がたりなどなりき。
今の武士の物がたりはあき人の会のごとし。
文学は儒者坊主のわざとし、詩歌管弦は公家の事といひ、武勇は武芸によらずといひて、衣服飲食家居諸道具等に美を尽し、酒色にふけり、用たらざれば下をくるしめ、民をむさぼるのはかりごとを心とするのみなり。
生れ出るより是を習の外、道ある事をしらず。

まことに妙壽院(藤原惺窩)以後の儒者は、甚だくだれり。実は商人のいやしき心根ありて、外には聖経の威をかりたかぶれば、人のにくめるも理りなり。人の悪しくいひなすにあらず、自ら己を賤しくせり。

問学して心を正し身を修め、上は賢君のおこり給ふを待。下は凡夫のまどひをさとし、武事をよくして凶賊をふせぎ、天下を警固す。是を文武二道の士といふ。人を愛するの事也。

愚が和書の主意は、直にして近きにあり。無学の心にも通じ易く、文章の美なきものは、浅きがごとし。然れども近きと浅きとは、似て大いに異あり。

ただかす事能はず、かる事能はざるものあり。日本の水土によるの神道は、唐土へも、戎戎国へもかす事あたはず。かる事能はず。唐土の水土によるの聖教も、又日本にかる事能はず、かすことあたはず。戎国の人心による仏教も又然り。文字・器物・理学はあるべし、かすべし、かるべし。……有無をかへて用ふるは、道理の必然なり。文字の通ずる国は、中国・朝鮮国・琉球・日本なり。仏者は通ぜざるだに、かり用ひたり。況んや日本にはよく通じ、理学に便あり。其の上神代の文字は亡びたり。学は儒をも学び、仏をも学び、道ゆたかに心広く成りて、かり、かされざるの吾が神道を立つべきなり。

釈迦もし聡明の人にて、中国・日本へ渡られ候はば、茫然として新たに生まれたるが如く、後生輪廻の見も、何もわすらるべく候。唐土ならば聖人を師とし、日本ならば神道に従はるべく候。

中夏の聖人を日本へ渡し候はば……儒道と申す名も聖学と云ふ語も、仰せられまじく候。其のままに、日本の神道を崇め、王法を尊びて、廃れたるを明らかにし、絶えたるを興させ給うて、二度神代の風かへり申す可く候。
唐土の聖人は、是れを智・仁・勇の三徳と云ふ。日本の神人は、是れを三種の神器にかたどれり。神は心なり。器は象(かたち)なり。神璽・宝剣・内侍所の象を作りて、心の三徳を知らしむる経書とし給へり。其の外、神代の文字・言葉は絶えて伝はらず。ひとり三種の象のみのこりとどまり、至易・至簡にして、道徳・学術の淵源なり。高明・広大・深遠・神妙・幽玄・悠久、ことごとく備はれり。心法・政教、他に求めずして足りぬ。

名号文字は人の通じやすきものを用ふべし。かると云ふとも可なり。三種の神器の註解は、『中庸』の書にしくはなし。上古の神人出でたまふとも、此の書を置きて、別に註し給ふべからず。
巻二

愚拙十六七ばかりの時、すでにふとりなんとせしに、……かく身重くては武士の達者は成がたからん、いかにもしてふとらぬやうにとおもひ立、それより帯をときて寝ず、美味を食せず、酒をのまず、男女の人道を絶こと十年なりき」
「江戸づめにて山野のつとめならぬ所にては、鑓をつかひ、太刀をならひ、とのゐの所にも。ねつゞらの中に太刀と草履を入、人しづまりたる後に、広庭の人気なき所に出て、闇にひとり兵法をつかひ、火事の時にも、見ぐるしからじと、人遠き屋の上をかけり候へば、まれに見付たる者は、天狗やいざなはんと。申たるげに候

諸子は極りある所を学び、愚は極りなき所を学び候。其時には大小たがひなく候ても、今は大にたがひ申べく候。極りたる所は其時の議論講明なり。極りなき所は、先生の志こゝに止まらず、徳業の昇り進むなり。日新の学者は、今日は昨日の非を知るといへり。愚は先生の志と、徳業とを見て其時の学を常とせず。其時の学問を常とする者は先生の非を認めて是とするなり。先生の志は本としからず。先生いへることあり。朱子俟後之君子の語を卑下の辞と講ずる者あり。卑下にはあらず、真実なりと。

巻六

其頃中江氏、王子の書を見て良知の旨をよろこび、予にも亦さとされき。これによりて大に心法の力を得たり。
中江氏は生付て気質に君子の風あり、徳行を備へたる所ある人なりき。学は未熟にて、異学のついゑもありき。五年命のびたらましかば、学も至所に至るべき所ありしなり。中江氏存生の時は、予を始として皆粗学の者どもなれば、ゆるさるべき者一人もなかりしに、中江氏の名によって、江西の学者の、名の実にすぎたること十百倍なれば、つい之もまた大なり

巻七

凡夫より聖人に至るの真志実学は、たゞ慎独の工夫にあり。

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荀子より学ぶ!性悪説:社会のルール・礼を重視して。

荀子は、姓は荀、名は況といい、孟子の晩年の頃、戦国末期に趙に生まれ、秦の始皇帝の即位直前にこの世を去った儒学者で、しばしば荀卿と称されます。
彼は道家墨家の思想も取り入れ、儒家ではあるが多くの点で孔子を修正し、孟子性善説に対して性悪説という現実的な考え方を唱えた思想家です。
門下生の韓非子や李斯などからは、法家思想が生まれています。
荀子の著作はすでに荀子生前から天下に行き渡っており、前漢末には『孫卿』322篇、劉向がそれを整理して32篇に編定( 『漢書』芸文志に『孫卿子』と記されている)、唐の楊倞が注を付けて篇を並べ替え20巻32篇384章 約90,800字に改編したものが現在に至っています。
荀子』は、荀子の自著と荀子の後継者によって著された部分に二分されると考えられます。
その内容は儒家 墨家 道家の行動や興廃を推し量り、 順序づけて書き著したものとなっています。

孟子性善説に対して唱えた性悪説ですが、これは人の自然の性は「悪」であり、自然のままの人は無限の欲望を持ち、放っておけば衝突を招くことになるが、その欲を抑えているのは人の矯正の結果だと考えたものえす。
このような考え方から、荀子は人間の内面の仁よりも、人々を規制する社会のルールである礼を重視し、人が欲や悪いことを抑えることができるよう、政治でも法律をしっかりすることが大切だとしたのです。
一見、孟子性善説を否定しているかのように受け取られがちですが、実際には荀子孟子を意識的に攻撃した訳でもなく、重要なのは性悪説をふまえた上での礼論、つまり人の礼、社会的なしきたりによって拘束 矯正することを重要視したのです。
このような考え方を礼治主義といいますが、孔子が道徳による政治を強調して徳治主義を主張したが、道徳だけで政治を行うのは非現実的だというので、その補強のために礼論を用いた、ということです。
勿論、孔子孟子も礼については触れており、「徳」と「礼」とを両立して説いていましたが、荀子は同じ儒家でも「礼」を特に強調し、重要視したという訳です。

結局は孟子荀子も目指すところは大きく異なっていた訳ではなく、目指す目的のための手段が異なっていたということです。
孟子は、人の潜在的な善性を助長する立場を「徳治」と呼び、善性を助長し、育てるという自然主義の教育を主張していました。
反面荀子は、人間に善性を植え込むという立場を「礼治」と呼び、人は善へと(人為的に)形成されねばならないと主張していたのです。
これは教育と政治という切り口で見ると異なった結末を迎えることになり、孟子はどちらかというと民主主義的な立場、法治に近いのに対して、荀子は上からの統治の立場、法の原理が儒教的な徳目であるということを打ち出さざるを得ませんでした。

こうした考え方も時代背景を考慮すれば致し方ないことで、孔子孟子と比べて荀子が生きたのは戦国時代。
戦乱が激しくなっていた佳境にあり、そういった乱世では道徳に頼るなど無意味に近いものだったと想像されます。
こうした中、荀子儒家という立場を取りながらも、あえて拘束力 矯正力を持つ「礼」が必要だとしたのだと思われます。

更に彼の弟子である韓非子や李斯といった法家は、人民を拘束するものとして「法」を主張しています。
「法」は罰則を伴うことから「礼」に比べてもはるかに拘束力が高いのですが、こうした法治主義孔子が最も嫌ったものということもあり、その思想の原点ともなった荀子は、儒家の中でも異端とされ傍流に置き捨てられてきた存在だったことは残念なことです。

以下参考までに、現代語訳にて要点を一部抜粋です。

【01 勧学篇 – 学問の勧め】
 学問の重要性、学問の内容 方法
 人は学問によって変化、進化しうる。
 01 青は藍より取れども藍よりも青く、氷は水これを為せども水よりも寒たし。 →青藍氷水 →出藍之誉
 02 蓬も麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直し。 君子よ其の立つ所を慎まんか。 →麻中之蓬 麻の中の蓬
 03 積土の山を成さば風雨興り、積水の淵を成さば蛟竜生じ、積善の徳を成さば而ち神明自得し聖心備わる。 →積水成淵
 ― 麒驥(きき)も一躍にしては十歩なること能わず、駑馬(どば)も十駕(じゅうが)すれば則ち亦たこれに及ぶべし。 →駑馬十駕
 04 声は小なるも聞こえざることなく、行は隠れたるものも形われざることなし。
 05 学は没するに至りて而る後に止むべきなり。礼は法の大分、類の綱紀なり。
 06 君子の学は耳より入れば心に著き四体に布(し)きて動静に形わる。 小人の学は耳より入れば口より出ず。
 07 学は其の人に近づくより便なるは莫し。
 08 問の楛(悪)しき者には告ぐること勿れ。告ぐるの楛しき者には問うこと勿れ。
 09 百発に一のみを失するも善射と謂すに足らず。

【02 修身篇 – 身を修む 心身の修養】
 心身をおさめることの必要性とその方法
 礼とはそれによって身を正すものである。
 人は礼がなければ生きてゆけず、事は礼がなければ成り立たず、国家は礼がなければ安らかでない。 
 01 我れを非として当たる者は吾が師なり。我れを是として当たる者は吾が友なり。我れを諂諛(てんゆ)する者は吾が賊なり。
 02 人に礼なければ則ち生きられず、事に礼なければ則ち成らず、国に礼なければ則ち寧からず。
 03 善を以て人を先(みちび)く、これを教と謂う。
 ― 是を是として非を非とするはこれを知と謂い、非を是として是を非とするはこれを愚と謂う。 →是是非非
 04 気を治め心を養う術
 05 君子は物を役(えき)し、小人は物に役される。 士君子は貧窮の為めにとて道に怠らざるなり。
 06 体は恭敬にして心も忠信、術は礼義にして情も愛人(仁)。
 07 独り其の身を脩めて以て罪を比俗の人に得ざらんと欲す。
 08 驥(き)は一日にして千里なるも、駑馬(どば)も十駕(じゅうが)すれば則ち亦たこれに及ぶ。 →駑馬十駕
 ― 蹞歩(きほ)して休まざれば跛鼈(はべつ)も千里、累土して輟(や)まざれば丘山も崇(たか)く成る。 →跛鼈千里
 09 法を好んで行なうは士なり。志を篤(あつ)くして体するは君子なり。斉明にして竭きざるは聖人なり。
 10 礼とは身を正す所以なり。師とは礼を正す所以なり。
 11 端愨(たんかく)順弟なるは則ち善の少なき者と謂うべし。加うるに学を好みて遜り敏(つと)むならば、以て君子と為すべし。
 12 冥冥に行いて報いなきものにも施せば、賢も不肖も焉に一(あつ)まらん。
 13 君子の利を求むるは略なるも、其の害に遠ざかるは早し。
 14 君子は貧窮なりとも志広く、富貴なりとも体恭しく、怒るとも過奪せず、喜ぶとも過予せざるなり。

【03 不苟篇(ふこう) – いやしくもせず】
 君子の生き方、徳性、修養
 01 君子は唯だ其の当るを貴しと為す。
 02 君子は知り易きも狎れ難く、懼(おそ)れしめ易きも脅(おど)し難し。
 03 君子は能あるも亦た好く、不能なるも亦た好し。
 04 温温たる恭人は惟れ徳の基(『詩経』大雅 抑)
 05 君子は人の徳を崇(尊)び、人の美を揚ぐるも諂諛(てんゆ)に非ざるなり。正義を直指して人の過ちを挙ぐるも、毀疵(きし)に非ざるなり。
 06 君子は小人の反なり。
 07 君子は治を治む。乱を治むるには非ず。
 08 馬鳴きて馬これに応ずるは知に非ず、其の勢然らしめしなり。
 09 君子、心を養うには、誠より善きは莫し。誠を致むるには則ち它(他)事無し。惟仁のみを守と為し、惟義のみを行と為す。
 10 百王の道も後王こそ是れなり。 →後王思想
 11 通士、公士、直士、愨士(こくし)、小人
 12 公は明を生じ偏は闇を生ず、端愨は通を生じ詐偽は塞を生ず、誠信は神を生じ夸誕は惑を生ず。
 13 欲悪取舍の権(はかりごと)
 14 人の悪む所の者は、吾れも亦たこれを悪む。 名を盗むことは貨を盗むに如かず。

【04 栄辱篇 – 栄誉と恥辱】
 驕慢、憤怒、利己、闘争等が恥辱、危険を招くこと、欲望と礼儀によるその調節
 人の生まれつきは、もともと小人である。
 仁君が上にあり、農民 商人 工人は仕事に励み、士大夫以上は官職に励むことが「至平」であり、差等があることこそ適正である。
 01 憍泄(きょうせつ)は人の殃(わざわい)なり。恭儉は五兵を偋(しりぞ)く。 人を傷つくるに言を以てすれば、矛戟(ぼうげき)よりも深し。
 02 快快にして亡ぶは怒ればなり。察察にして殘うは忮(さから 逆)えばなり。
 03 鬭(あらそ)う者は其の身を忘るる者なり、其の親を忘るる者なり、其の君を忘るる者なり。
 04 狗彘(くてい)の勇、賈盜(くとう)の勇、小人の勇、士君子の勇
 05 自らを知る者は人を怨みず、命を知る者は天を怨みず。 これを己に失しながら、これを人に反(求)するは、豈(そ)れ迂(遠)ならんや。
 06 義を先にして利を後にする者には栄あり、利を先にして義を後にする者には辱あり。
 07 夫(そ)れ天の蒸(衆)民を生ずるや、これを取る所以を有らしむ。
 08 君子は注錯(挙錯)の当れるものにして、小人は注錯の過ちたる者なり。
 09 君子は其の常に道るも、小人は其の怪に道る。
 10 人の生まれつきは固より小人なり。師なく法なければ則ち唯利を見るのみ。
 11 短綆(たんこう)は深井(しんせん)の泉を汲むべからず、知の幾(き 微)ならざる者は聖人の言に及ぶべからず。
 12 斬(たが)いながら斉(ひと)しく、枉(曲)りながら順に、不同にして一なる。夫れ是れを人倫と謂う。

【05 非相篇 – 相(うらない)を非とする 人相術批判】
 容貌 体形により人を占うことへの批判、後王論 遊説術
 吉凶について重要なのは人相ではなく、その人の「心」と「術(生き方)」である。
 01 人を相(占)うこと、古の人は有りとすること無く、学者は道(い)わざるなり。
 02 三不詳と三必窮
 03 後王を舍(す)てて上古を道(い)うは、譬(たと)えれば是れ猶お、己れの君を舍てて人の君に事うるがごときなり。 →後王思想
 ― 伝わること久しければ則ち兪々(いよいよ)略し、近ければ則ち兪々詳し。
 04 君子の言に於けるや、志はこれを好み、行はこれに安んずればこれを言わんことを楽(ねが)うなり。故に君子は必ず辯(弁)ず。
 05 説の難きは、至高を以て至卑に遇い、至治を以て至乱に接するにあり。
 06 君子は賢にして能く罷(弱)を容(い)れ、知にして能く愚を容れ、博にして能く浅を容れ、粋にして能く雑を容る。
 07 唯君子のみ能く其の貴ぶ所(可)きを貴ぶことを為す。
 08 君子は必ず辯(弁)ず。凡そ人は其の善(よみ)する所を言うことを好まざるは莫きも、而も君子を甚だしきと為す。
 09 小辯は端を見わすに如かず、端を見わすは分に本づくに如かず。
 10 小人の辯、士君子の辯、聖人の辯

【06 非十二子篇 – 12人の思想家への批判】
 12人の思想家の学説が天下を乱すことへの批判、君子の態度、儒家三派への批判
 史シュウ、陳仲は性情を無理に抑え、人とちがうことを高尚と心得ている。
 恵施と鄧析の説は明晰だが不急不用、 政治の基準とは成し得ず、愚かな大衆を欺き惑わすものである。
 慎到 田駢の過った「法」思想
 子思、孟軻は雑駁でかたより、難解でもったいぶっている。
 它囂、魏牟は、性情の放任、奔放な行動をしている。
 墨翟、宋銒は、 功利 倹約主義と「礼」的差等を無視している。
十二子の説を終息させ、「舜 禹の制」「仲尼  子弓の義」を行うことが必要である。
 01 仮今の世に、邪説を飾り、姦言を文(かざ)りて以て天下を梟乱し、天下をして混然と是非治乱の存する所を知らざらしむる者に人有り。
 ― 它囂と魏牟 – 情性を縦(ほしいまま)にして恣雎(放恣)に安んじ、禽獣のごとく行い、文に合い治に通ずるに足らず。
 ― 陳仲と史鰌 – 情性を忍び、綦谿利跂(きけいりき)し、苟くも人に分異するを以て高しと為し、大衆に合し大分を明かにするに足らず。
 ― 墨翟と宋鈃 – 天下を一にし国家を建つるの権称を知らず、功用を上(尊)び、倹約を大(尊)んで差等を僈り、君臣を県(別)つに足らず。
 ― 慎到と田駢 – 法を尚(とうと)びながら法なく、脩を下(あなど)りながら作を好み、上は則ち聴を上に取(もと)め、下は則ち従を俗に取む。
 ― 恵施と鄧析 – 好んで怪説を治め、琦辞を玩び、辯ずれども用なく事多けれども功寡なく、以て治の綱紀と為すべからず。
 ― 子思と孟軻 – 略(ほぼ)先王に法とるも其の統を知らず、甚だ僻違(へきい)にして類なく、幽隠にして説なく、閉約にして解なし。
 ― 聖王の文章具わり、佛然として平世の俗起こらば、六説者は入ること能わず、十二子者も親(ちか)づくこと能わず。
 ― 今夫れ仁人は将何をか務めんや。上は則ち舜 禹の制に法とり、下は則ち仲尼 子弓の義に法とり、以て十二子の説を息めんことを務むべし。
 02 信なるを信ずるは信なり。疑わしきを疑うも亦た信なり。
 03 多言にして類あるは聖人なり。少言にして法あるは君子なり。多にも少にも法なく流湎すれば辯ずと雖(いえ)ども小人なり。
 04 姦事 姦心 姦説、此の三姦は聖王の禁ずる所なり。
 05 知にして倹、賊にして神、為詐にして巧、無用にして辯、不急にして察なるは、治の大殃なり。
 06 上帝の時からざるに匪ず殷旧を用いざればなり。老成人なしと雖も尚お典刑ありしに、曾ち是れ聴うこと莫ければ大命以て傾けり(『詩経』蕩)
 07 古のいわゆる仕士なる者は、厚敦なる者なり。古のいわゆる処士なる者は、徳の盛んなる者なり。
 08 君子は能く貴ぶべきことを為すも、人をして必ず己れを貴ばしむること能わず。
 09 士君子の容、父兄の容、子弟の容、学者の嵬 – 他学派の批判
 ― 子張氏の賤儒 – 其の冠を弟陀(たいだ)にして、其の辞を衶禫(むなし)くし、禹のごとく行き舜のごとく趨(はし)る。 →禹行舜趨
 ― 子夏氏の賤儒 – 其の衣冠を正し、其の顏色を斉(ととの)え、嗛然(けんぜん)として終日言わざる。
 ― 子游氏の賤儒 – 偷(なま)け儒(おこたり)て事を憚かり、廉恥なくして飲食を耆(この)み、必ず君子は固より力を用いずと曰う。
 ― 佚なるも惰らず、労なるも僈(ゆるがせ)ならず、原を宗として変に応じ曲(つぶさ)に宜しきを得たり。是(か)くの如くにして然る後に聖人なり。

【07 仲尼篇 – 孔子の字(篇首の二字)】
 王者と覇者の区別、臣下の守るべき道
 斉桓公は小人の傑である。
 01 仲尼の門にては、五尺の豎子(じゅし)も言うに五伯(五覇)を称することを羞じたり。
 02 寵を持し位に処りて終身厭(いと)われざるの術
 03 これを同(とも)にすることを好むに若(し)くは莫し。
 04 天下の行術 – 以て君に事うれば則ち必ず通じ、以て仁の為にすれば則ち必ず聖なり。
 05 君子は時の詘(屈)すべきときには則ち詘し、時の伸ぶべきときには則ち伸ぶるなり。

【08 儒効篇 – 儒者の功績・効用】
 功績、君子論、聖人論、儒者
 儒者が下の位にいると目上を尊敬し、上の位にいると礼節がおさまり、誠実で愛し合う風潮が生まれる。
 人は耕作を積み重ねれば農民となり、材木を切ることを積み重ねれば工匠となり、品物の販売を積み重ねれば商人となり、礼儀を積み重ねれば君子となる=「横の分業論」
 01 周公旦の摂政 – 天子なる者は、少(わか)くしては当るべからず。 能あれば則ち天下これに帰し、能あらざれば則ち天下これを去る。
 02 秦昭王問う「儒は国に益なきか?」 – 儒者は本朝に在りては則ち政を美にし、下位に在りては則ち俗を美にす。
 03 先王の道は仁の隆なり。中に比(従)いてこれを行う。 道とは天の道に非ず地の道に非ず、人の道う所以にして君子の道う所なり。
 04 凡そ事行は、理(治)に益ある者はこれを立て、理に益なき者はこれを廃す。夫れ是れを中事と謂う。
 05 其れ唯学か。彼の学なる者は、これを行えば曰ち士なり、焉れを敦慕(つと・勉)むれば君子なり、これを知れば聖人なり。
 06 君子は隠るるも顕れ、微(賤)なるも明らかに、辞譲すれども勝つ。
 07 分の上に乱れず、能の下に窮せざるは治辯の極なり。
 08 聖人なる者は道の管(枢要)なり。天下の道も是に管(あつま)り、百王の道も是に一なり。
 09 周公、必ずしも恭ならず、倹ならず、戒しめず。
 10 俗人、俗儒、雅儒、大儒
 11 学は行うに至りて止む。これを行えば明なり。 性なる者は吾れの為すこと能わざる所、然れども化す可きものなり。
 12 人の論(ともがら・倫) – 礼なる者は人主の群臣の寸尺・尋丈の検式(法度)と為す所以なり。
 13 君子は言に壇宇(だんう・界域)あり、行に防表(標準)あり、道に一隆あり。

【09 王制篇 – 王者の法制】
 王者の制度 政策、官制 考課 財政等についてのサブ項目を含む
 人は天下で最も尊い。人の力は牛にかなわず、走ることも馬にかなわないのに、牛や馬が人に使われるのはなぜか。それは人は集団をつくり、さらに自然への働きかけをなすからである。
 礼儀は政治の根源である。
 善い事を進言する者は礼によって待遇し、不善を進言する者は刑によって処分する。 
 01 賢能は次を待たずして挙げ、罷不能は頃を待たずして廃し、元悪は教えを待たずして誅し、中庸は政を待たずして化す。
 02 善を以て至る者にはこれを待つに礼を以てし、不善を以て至る者にはこれを待つに刑を以てす。
 03 分の均しければ則ち偏まらず、埶(勢)斉(ひと)しければ則ち壱ならず、衆の斉しければ則ち使われず、天あり地ありて上下に差あり。
 04 君なる者は舟なり、庶人なる者は水なり。水は則ち舟を載せ、水は則ち舟を覆えす。
 05 聚斂(しゅうれん)は寇(あだ)を召き、敵を肥やし、国を亡ぼし、身を危くするの道なり。
 06 王はこれが人〔心〕を奪(と)り、霸はこれが与〔国〕を奪り、彊(強)はこれが地を奪る。
 07 王者の人 – 動を飾(かざ)るに礼義を以てし、断聴するに類を以てし、明は毫末をも振(あ)げ、挙措は変に応じて窮まらず。
 08 王者の制 – 道は三代(夏・殷・周)に過ぎず、法は後王に弐(たが)わず。 是れを復古と謂う。
 09 王者の論 – 百姓は曉然として皆な夫の善を家に為せば而ち賞を朝に取り、不善を幽に為せば而ち刑を顕に蒙(こうむ)るを知る。
 10 王者の法 – 賦を等(差)して事を政(正)すは、万物を財(成)して万民を養う所以なり。
 11 上は以て賢良を飾り、下は以て百姓を養いて安楽ならしむ。夫れ是れを大神と謂う。
 12 君子なる者は天地の参なり、万物の総なり、民の父母なり。
 13 人には気あり生あり知ありて亦た且お義あり、故に最も天下の貴たるなり。
 14 一与一奪して人を為むる者、これを聖人と謂う。
 15 天下の一ならず、諸侯の倍(背)反するは、則ち天王の其の人に非ざるなり。
 16 具、具(そな)わりて王たり。具、具わりて霸たり。具、具わりて存し、具、具わりて亡ぶるなり。

【10 富国篇 – 国家を豊かにする】
 国家を豊かにする方法、分について、墨家批判、民に対する政策
 礼とは貴賎に等級があり、長幼に差別があり、貧富や尊卑にそれぞれふさわしさがあることである。
 国家の秩序を「分」という概念によって捉え、この「分」を規定する機能を持つ「礼」こそが政治の内容をなすものでなければならない。
 君主は民の利益のために、その巨大な権力をもつ。
 人間が生産の営みを続ける限り、自然の資源は幾らでも増産される=「積極的生産論」
 人間が自然のなかから生産する物資は、人間の需要を完全に充足してもあまりあるものである。
 君子は徳をもって治め、小人は労力をもって働く。 
 01 皆な可とすること有るは知も愚も同じきも、可とする所のもの異なりて知と愚と分かるるなり。
 02 礼なる者は貴賤に等〔級〕あり、長幼に差〔別〕あり、貧富・軽重に皆な称ある者なり。
 03 分〔界〕なき者は人の大害なり。分ある者は天下の本利なり。
 04 天下を兼ね足らしむるの道は、分を明かにするに在り。
 05 墨術誠に行わるれば則ち天下は倹を尚びながら弥々貧しく、鬭を非としながら日々に争い、楽を非として而して日々に和せざらん。
 06 二つの姦道と三徳による政治
 07 上の一なれば則ち下も一なり、上の二なれば則ち下も二なり。これを辟(たと)うるに屮(草)木の枝葉は必ず本に類す。
 08 利せずしてこれを利するは、利して而る後に利することの利あるには如かざるなり。
 09 国の治乱臧否を観るに、疆易(くにざかい)に至らば而ち端は已に見わる。
 10 国の強弱・貧富を観るに徵(験)あり。
 11 人を攻むる者は以て名の為めにするに非ざれば、則案ち以て利の為めにするなり。
 12 強暴の国に事うるは難く、強暴の国をして我れに事えしむるは易し。

【11 王覇篇 – 王道と覇道
 王者と覇者の区別、国家論、君主論
 国は礼がなければ正しくならない。
 君主は人を官に任ずることが職能であり、庶民は自分の能力で働くのが職能である=「縦の分業論」
 百王の法は同じではないが、帰する所はひとつである。
 国を治めるものは、義が立てば王となり、信が立てば覇となり、権謀が立てば滅びる。 
 01 国なる者は天下の利用なり。 国を用むる者は義立てば而ち王たり、信立てば而ち霸たり、権謀立てば而ち亡ぶ。
 02 国なる者は天下の大器なり。重き任(荷物)なり。
 03 彊(強)固栄辱は相(宰)を取ぶに在り。
 04 国なる者は巨用すれば則ち大、小用すれば則ち小なり。
 05 国は礼なくば則ち正しからず。
 06 国の危きときは則ち楽君なく、国の安きときは則ち憂君なし。
 07 人主なる者は人を官するを以て能と為す者なり。匹夫なる者は自ら能くするを以て能と為す者なり。
 08 西よりし東よりし、南よりし北よりして、服さざる無し。(『詩経』大雅・文王有声)
 09 明君は〔君子を〕以て宝と為すも、愚者は以て難と為す。
 10 人主胡んぞ広焉(こうえん)として親疏を卹(かえり)みること無く貴賤に偏すること無く唯だ誠能を求める。
 11 百王の法は同じからざるも帰する所の者は一なり。
 12 孔子曰わく – 知者の知は固より以に多きに有た以て少を守る、能く察すること無からんや。
 13 聞く所と見る所と誠に以て斉(ととの)えば、分に敬しみ制に安んじて以て其の上に化せざること莫し。
 14 主たるの道は近きを治めて遠きを治めず。 明主は要を好むも闇主は詳を好む。
 15 孔子曰わく – 吾れの人に適(ゆ)く所以を審(慎)しむは、人の我れに来る所以なればなり。
 16 上は天の時を失わず、下は地の利を失わず、中は人の和を得て百事も廃せず。

【12 君道篇 – 君主としての道】
 君主の守るべき道、政治のあり方
 礼を尊重し法を完備すれば国家は恒久である。 
 01 法なる者は治の端(はじめ)なり。君子なる者は法の原(みなもと)なり。
 02 源の清めば則ち流れも清み、源の濁れば則ち流れも濁る。
 03 仁厚は天下を兼ねて覆い閔(憂)えず、明達は天地を周(あまね)く万変を理めて疑(とどこう)らず
 04 君なる者は槃(盤)なり、民なる者は水なり。槃の円なれば水も円なり。
 05 道の存すれば則ち国も存し、道の亡ぶれば則ち国も亡ぶ。
 06 時に先きんずる者は殺して赦すこと無く、時に逮(およ)ばざる者も殺して赦すこと無かれ。(『書経』胤征篇)
 07 好(美)女の色(顔)は悪(醜)き者の孽(わざわい・害)なり。公正の士は衆人の痤(じゃま・妨)なり。
 08 人主は必將(かなら)ず卿相輔佐の任ずるに足る者ありて然る後に可なり。
 09 見るべからざるを視、聞くべからざるを聴き、成すべからざるを為す。

【13 臣道篇 – 臣下としての道】
 臣下の諸類型、臣下の守るべき道
 平原君、信陵君を「社稷の臣、国君の宝」と賞賛する。
 上はよく君主を尊び、下はよく民を愛し、民心は影が形にそうように政令 教化に従うようにさせる「聖臣」が最良である。
 聖臣を用いる者は王者となり、功臣(有能、忠誠で民を愛する臣)を用いる者は強力になり、簒臣(君主を惑わす臣)を用いる者は危険になり、態臣(君主にへつらう臣)を用いる者は滅亡する。
 01 態臣:斉の蘇秦、楚の州侯、秦の張儀/篡臣:韓の張去疾、趙の奉陽、斉の孟嘗君
 ― 功臣:斉の管仲、晋の咎犯、楚の孫叔敖/聖臣:殷の伊尹、周の太公望
 02 諫争輔拂の人は、社稷の臣なり。国君の宝なり。 諫:殷の伊尹、殷の箕子/争:殷の比干、呉の伍子胥/輔:趙の平原君/拂:魏の信陵君
 03 聖君に事うる者は聴従ありて諫争なく、中君に事うる者は諫争ありて諂諛(てんゆ)なく、暴君に事うる者は補削ありて撟拂なし。
 04 命に従いて払(戻)らず、微諫して倦まず、上に為りては明かに下と為りては遜る。
 05 人に事えて順(よろこ)ばれざるは疾(つと・勉)めざる者なり。
 06 大忠:周公旦の成王に対する忠/次忠:管仲桓公に対する忠/下忠:伍子胥の夫差に対する忠/国賊:曹触竜の紂王に対する忠
 07 敢えて虎を暴(てうち)にせず、敢えて河を馮(かちわたら)ず、人の其の一を知りて其の它(他)を知ること莫し(『詩経』小雅・小旻)→暴虎馮河
 08 君子は礼を安んじ、楽を楽しみ、謹慎して鬭怒なし。
 09 斬りて斉(ひと)しく、枉(曲)げて順がい、不同にして一なり。

【14 致士篇 – 士を集める】
 人材を集め用いる方法
 国家を構成するのは国土、士民、政治、君主である。 
 01 聴を衡(ひろ)くし幽を顕かにして明を重ねて姦を退け良を進むるの術
 02 能く礼義を以て挾(あまね)くすれば而ち貴名も白われ、天下は願い令は行われ禁も止み、王者の事は畢(おわ)らん。
 03 衆を得れば天を動かし、意を美(楽)ませれば年(寿)を延ぶ。
 04 人主の患(憂)いは賢を用いんと言うことに在らずして、誠必に賢を用うべきことに在り。
 05 事に臨み民に接するに義を以て変応し、寬裕にして多く容れ、恭敬を以てこれ先(導)びくは政の始めなり。
 06 程なる者は物の準なり。礼なる者は節の準なり。
 07 君なる者は国の隆(極)なり。父なる者は家の隆なり。
 08 師たるの術に四あり。而して博習は焉れに与(あずか)らず。
 09 樹の〔葉の〕落つれば則ち本に糞(つちか・培)い、弟子の通利すれば則ち師を思う。
 10 賞には僭(こゆ・越)ることを欲せず、刑には濫(す・過)ぐることを欲せず。

【15 議兵篇 – 軍事を議論する】
 軍事についての議論、礼 徳に国家をつよくすること
 秦は四代にわたって優勢だが、いつもびくびくと天下が一致しておのれに逆らうことを心配している。
 秦は民を窮屈にさせ、苛酷に使い、権力によっておどし、褒美で手なづけ、刑罰でおどしている。
 用兵 攻戦の根本は、民をひとつにすることである。 
 01 臨武君と孫卿子(荀子)、趙孝成王の前で兵事を議せり – 仁人の兵は詐(いつわ・偽)るべからず。
 02 王者の兵の道と行 – 詐を以て斉に遇わば、これを辟(たと)うるに猶お錐刀を以て太山を墮(こぼ)たんとするがごとし。
 03 将たることを問う – 百事の成〔功〕は必ずこれを敬しむに在り、其の敗は必ずこれを慢(あなど)るに在り。
 04 王者の軍制 – 令の進めざるに而も進むは、猶お令の退けざるに而も退くがごとく、其の罪は惟れ均しきなり。
 05 陳囂、孫卿子に問う – 仁人の兵は存(止)まる所の者は神(治)まり、過ぐる所の者は化し、時雨の降るが若くして喜ばざること莫し。
 06 李斯、孫卿子に問う – 政の脩まれば則ち民は其の上に親しみ、其の君を楽しみて、これが為めに死することを軽しとす。
 07 礼なる者は治辨の極なり、強固の本なり、威行の道なり、功名の總(総)なり。
 08 賞慶・刑罰・埶詐(せいさ)の道たるや傭徒・粥売(やとわれあきない)の道なり。以て大衆を合し国家を美とするに足らず。
 09 徳を以て人を兼せる者は王たり、力を以て人を兼せる者は弱く、富を以て人を兼せる者は貧し。
 10 兼ね并わせることは能くし易きなり。唯だ堅く凝(定)まることを難しとなす。

【16 彊国篇 – 国家を強くする】
 礼儀 忠信により国家を強くすること
 秦はすばらしいが、秦で足りないものは儒者がいないことである。
 正しい判断基準をもち、私欲を退け、すべてをあわせ容れる道に従うこと(道)こそ天下を統一する重点である。
 主君は礼を尊重し、賢者を尊敬すれば王となり、法を重視し、民を愛すれば覇となる。 
 01 人の命は天に在り、国の命は礼に在り。
 02 道徳の威は安強を成し、暴察の威は危弱を成し、狂妄の威は滅亡を成す。
 03 公孫子を譏って曰わく – 子発の命を致せしは恭なるも、其の賞を辞せしことは固なり。
 04 斉の相に説く – 人には生より貴きは莫く、安より楽きは莫く、生を養い安を楽しむ所以の者は礼義より大なるは莫し。
 05 假今(いま)の世に地を益さんとするは、信を益さんことを務むるに如かざるなり。
 06 応侯(范雎)、秦国を問う – 則ち其の殆んど儒なきか。
 07 積微 – 善く日ごとにする者は王たり、善く時にする者は霸たり、漏を補う者は危うく、大荒(暴)する者は亡ぶ。
 08 義なる者は人の悪と姦とを為すことを限禁する所以の者なり。天下を為むるの要は、義を本と為して信これに次ぐ。
 09 堂上、糞せざれば、則ち郊の草も芸(くさぎ)らず。

【17 天論篇 – 天についての論】
 天と人をめぐる問題、末尾には道についての論や諸思想家への批判を附する
 「天」の運行は、人間とは個別のものであり、貧富 禍福 治乱といった人間的 社会的現象に直接的に影響するものではない=「天人の分」
 自然に対する人間の能動性、主体性を主張する。
 呪術とは実は装飾である、その心得ておくことが「吉」である。
 百王が変えることのなかったものは、道の原則とすることができる。廃止したり創始したりするにも、この原則をもって当る。原則を守れば混乱せず、 原則を知らなければ変化に当ることが出来ない。 
 01 天行、常あり。堯の為めに存せず、桀の為めに亡びず。
 ― 以て天を怨むべからず、其の道然るなり。故に天人の分に明かなれば則ち至人と謂うべし。 →天人分離
 02 為さずして成り求めずして得、夫れ是れを天職と謂う。皆な其の以て成る所を知るも其の無形を知る莫し、夫れ是れを天功と謂う。
 03 聖人は其の天君を清くし、其の天官を正し、其の天養を備え、其の天政に順がい、其の天情を養いて、以て其の天功を全くす。
 04 大巧は為さざる所に在り、大智は慮(おもんぱか)らざる所に在り。
 05 治乱は天に非ざるなり。 治乱は時に非ざるなり。 治乱は地に非ざるなり。
 06 天に常道あり、地に常数あり、君子に常体あり。
 07 君子は其の己れに在る者を敬しみて其の天に在る者を慕わず。是を以て日々に進むなり。
 08 星の隊(お・墜)ち木の鳴るは、是れ天地の変・陰陽の化にして物の罕(まれ)に至る者なれば、怪しむは可なるも、畏れるは非なり。
 09 雩して雨ふるは何ぞや? – 他なし。猶お雩せずして雨ふるがごときなり。
 10 天に在る者は日月より明かなるは莫く、人に在る者は礼義より明かなるは莫し。
 11 人を錯きて天を思わば、則ち万物の情を失う。
 12 百王の変うること無きものは、以て道貫と為すに足る。
 13 礼なる者は表(しるし)なり。礼を非とすれば世を昏(くら)くし、世を昏くすれば大いに乱る。
 14 老子は詘(屈)に見ること有りて信(伸)に見ること無く、墨子は斉に見ること有りて畸(異)に見ること無し。

【18 正論篇 – 正しい議論】
 世俗のさまざまな議論への反駁、末尾に宋銒学派との対論がある
 宋銒は人間の欲が少ないと論ずるが、それはあやまりで欲望が多いからこそ、賞罰による行政が可能なのだ。 
 01 主なる者は民の〔先〕唱なり、上なる者は下の儀〔表〕なり。
 02 湯・武は民の父母なり、桀・紂は民の怨賊なり。天下のこれに帰するを王と謂い、天下のこれを去るを亡と謂う。
 03 人を刑するの本は暴を禁じ悪を悪みて且つ其の未〔来〕を懲(こら)すなり。
 04 浅きものは深きを測るべからず、愚は知を謀るに足らず、坎井(かんせい)の鼃(あ・蛙)は東海の楽しみを語るべからず。→井底之蛙・不知大海
 05 堯・舜の天下禅譲 – 堯を以て堯を継ぐ。夫れ又た何の変かこれあらん。
 06 堯・舜なる者も天下の善く教化する者なるも、嵬瑣(かいさ)をして化せしむること能わず。
 07 孔子曰わく – 天下に道あるときは、盜其れ先ず変ぜんか。
 08 子宋子(宋銒)に応じて曰わく – 人の鬭(あらそ)うには必ず其の悪むことを以て説と為し、其の辱ずることを以て故と為すに非ざるなり。
 09 子宋子に応じて曰わく – 君子は埶辱あるべきも義辱あるべからず、小人は埶栄あるも義栄あるべからず。
 10 子宋子に応じて曰わく – 上賢は天下を禄し、次賢は一国を禄し、下賢は田邑を禄し、愿愨の民は衣食を完す。

【19 礼論篇 – 礼について】
 礼の起源 原理 実践等についての諸問題
 人は生まれながらに欲望がある。先王は欲望の乱れを嫌い、そこで礼儀を定めて、欲望と求める物の両者が永続するようにした。これが礼の起こりである。
 礼は人の道の極致である。 
 01 礼なる者は養なり。別なる者は、貴賤に等あり長幼に差あり貧富軽重皆な称ある者なり。
 02 礼に三本あり。天地は生の本なり、先祖は類の本なり、君師は治の本なり。
 03 宜しく大なる者は巨に宜しく小なる者は小にすべきことを別つ所以なり。
 04 礼は脱に始まりて文に成り悦校(えつこう)に終る。
 05 礼なる者は人道の極なり。天なる者は高きの極なり、地なる者は下きの極なり、無窮なる者は広きの極なり。
 06 文理の繁くして情用の省くは是れ礼の隆なり。文理の省きて情用の繁きは是れ礼の殺なり。
 07 礼なる者は生死を治むることを謹しむ者なり。
 08 礼なる者は吉凶を謹しみて相い厭わざる者なり。
 09 喪礼の凡(はん)は変じて飾り動きて遠ざかり久しくして平なり。
 10 礼なる者は長を断ちて短を続ぎ、有余を損して不足を益し、愛敬の文を達して滋々(ますます)行義の美を成す者なり。
 11 性なる者は本始材木なり、偽なる者は文理隆盛なり。
 12 喪礼なる者は生者を以て死者を飾る者なり。大いに其の生に象(かたど)りて以て其の死を送るなり。
 13 知あるの属は其の類を愛せざること莫し。故に三年の喪は人道の至文なる者なり。
 14 君なる者は已に能くこれを食い又た善く教誨する者なり。
 15 曲(つぶさ)に容れて備物するを道と謂う。
 16 死に事うること生に事(ゆか)うる如く、亡に事うること存に事うるが如くして、形影なきところに状(かたちづく)り、然り而して文を成すなり。

【20 楽論篇 – 音楽論】
 音楽についての諸問題、墨家批判、郷飲酒の礼 
 01 夫れ楽なる者は楽(らく)なり。楽なる者は一を審らかにして以て和を定むる者なり。楽なる者は治人の盛んなる者なり。
 02 目は自らは見ず、耳は自らは聞かず。
 03 孔子曰わく – 吾れは鄉を観て王道の易易たることを知れり。
 04 貧なれば則ち盜と為し、富めば則ち賊を為す。治世は是れに反するなり。

【21 解蔽篇(かいへい) – 啓蒙 蔽いを除く】
 人の心が偏見、欲望等により蔽われているのを解放する方法、諸思想家批判を含む
 荘子は天に蔽われて人を知らない。 
 01 人の患は一曲に蔽われて大理に闇(くら)きことなり。天下に二道なく、聖人に両心なし。
 ― 今、諸侯は政を異にし、百家は説を異にす。則ち必ず或るものは是にして或るものは非、或るものは治にして或るものは乱なり。
 02 万物は異〔別〕すれば則ち相いに蔽(へい)を為さざること莫し。
 03 昔、人君の蔽われし者は、夏桀と殷紂と是れなり。
 ― 成湯は夏桀に鑒(かんが)み、文王は殷紂に鑒(かんが)みて、故に其の心を主(まも)りて慎しみ治めたり。
 04 昔、人臣の蔽われし者は、唐鞅と奚斉と是れなり。
 ― 鮑叔、甯戚、隰朋は仁知にして且つ蔽われず。故に能く管仲を持して而して名利福禄は管仲と斉(ひと)し。
 05 昔、賓孟(ひんもう・賓萌・遊説家)の蔽われし者は、乱家是れなり。
 ― 墨子(墨翟)は用に蔽われて文を知らず。
 ― 宋子(宋銒)は欲に蔽われて得を知らず。
 ― 慎子(慎到)は法に蔽われて賢を知らず。
 ― 申子(申不害)は埶(勢)に蔽われて知を知らず。
 ― 恵子(恵施)は辞に蔽われて実を知らず。
 ― 荘子(荘周)は天に蔽われて人を知らず。
 ― 此の数具の者は皆な道の一隅なり。夫れ道なる者は常を体して変を尽す、一隅にてはこれを挙うには足らざるなり。
 ― 曲知の人は道の一隅を観て而も未だこれをも能く識(し)らず。
 ― 故に足れりと以為いてこれを飾り、内にしては自ら乱り外にしては人を惑わし、上にしては下を蔽い下にしては上を蔽う。此れ蔽塞の禍なり。
 ― 孔子は仁知にして且つ蔽われず。故に乱(雑)術を学びて先王を為むるに足りし者なり。
 ― 一家得られて周道挙り、これを用いて成績に蔽われず。故に徳は周公と斉(ひと)しく名は三王と並ぶ。
 06 聖人は心術の患(うれ)いを知り、蔽塞の禍を見る。
 07 未だ道を得ずして道を求むる者には、これに虚壱にして静ならんことを謂(説)いてこれが則(のり・法)と作さしむ。
 08 知者は一を択びて壱(もっぱ・専)らにす。君子は道に壱にして而して以て物を参稽(参考)す。
 09 仁者の道を行うや無為なり。聖人の道を行うや無彊なり。
 10 人の鬼ありとするは、必ず其の感忽の間に疑玄(眩)の時を以てこれを定む。
 11 人の性を知ることを以てすれば、物の理を知るべきなり。学なる者は固より学んで止まるなり。
 12 墨(くら)くして明と為さば、狐狸其れ蒼(さか)んならん。(逸詩)  明明は下に在りて、赫赫は上に在り。(『詩経』大雅・大明)

【22 正名篇 – 正しいことばを正す】
 名(名辞 言葉)についての諸問題、いくつかの概念の規定や諸思想家批判を含む
 生まれつきがそうであるもの、これを性と呼ぶ。
 王者は「名を定める(制名)」ことにより国家のもろもろの事物(実)を弁別し、形づくられたなと実の一致する「正しい名(正名)」の秩序のもとに、人民を統一に導き、 天下に功業を成すものである。 
 01 後王の成名 – 刑の名は商(殷)に従い、爵の名は周に従い、文の名は礼に従う。
 02 王者の名を制(さだ)むるや、名定まりて実辨じ、道行われて志通ずれば、則ち慎しんで民を率いて一にす。
 03 聖人の辨説 – 説の行われるときは則ち天下正しく、説の行われざるときは則ち道を白(あきら)かにして窮(身)を冥(かく)す。
 04 士君子の辨説 – 能く道に処して弐せず、咄(くるし)みても奪われず利(よろし)くとも流れず、公正を貴びて鄙争を賤しむ。
 05 君子の言は涉然として精(くわ)しく、俛然(ふぜん)として類あり、差差然として斉(ととの)う。
 06 性なる者は天の就せるなり。情なる者は性の質なり。欲なる者は情の応なり。
 07 道なる者は古今の正権なり。

【23 性悪篇 – 性(うまれつき)は悪である →性悪説
 性悪論、人が善となり聖人にいたる方法
 学習によってできるようになるもの、これを「偽」と呼ぶ=「性偽の分」
 人の性は悪であり、善となるのは作偽の結果である。
 路傍の凡人も禹のような聖人となる可能性がある。
 いにしえの聖王は、人の性は悪なので世は乱れて治まらないと考えた。そのために礼儀を創り法を定めてこれを導いた。 
 01 人の性は悪にして其の善なる者は偽(作為)なり。 人の性は悪にして、必ず師法を待ちて然る後に正しく、礼義を得て然る後に治まる。
 ― 性なる者は、天の就せるなり、学ぶべからず、事となすべからざる者なり。
 ― 学ぶべからず、事となすべからずして人に在る者、これを性と謂う。学んで能くすべく、事として成るべくして人に在る者、これを偽と謂う。
 02 聖人の衆〔人〕に同じくして過ぎざる所以の者は性なり。衆〔人〕に異なりて過ぐる所以の者は偽なり。
 03 人の善を為さんと欲するは性の悪なるが為めなり。
 ― 人の性は固より礼義なし。故に彊(つと)めて学びてこれを有たんことを求むるなり。
 04 枸(曲)木の必ず檃栝烝矯(いんかつじょうきょう)を待ちて然る後に直なるは、其の性の不直を以てなり。
 05 人の性は堯・舜の桀・〔盗〕跖に与(於)けるも其の性は一(同)く、君子の小人に与けるも其の性は一(同)じなり。
 06 塗(みち・途)の人も禹と為るべし。塗の人には皆な仁義法正を知るべきの質あり、皆な仁義法正を能くすべきの具あり。
 07 堯、舜に人の情を問う – 人の情か、人の情か、甚だ美(善)からず。
 08 聖人の知、士君子の知、小人の知、役夫の知
 09 上勇、中勇、下勇
 10 夫れ人に性質の美にして心の辯知ありと雖(いえど)も、必ず賢師を求めてこれに事え、良友を択んでこれを友とす。
 ― 其の子を知らずば其の友を視よ。其の君を知らずば其の左右を視よ。(古伝)

【24 君子篇 – 天子について】
 君主の尊厳性とその政治のあり方
 聖王の道を尊ぶ者は王となり、賢者を重んずる者は覇となり、賢者に敬意を払う者は存続し、賢者を侮る者は滅ぶ。 
 01 天子に妻なきは、人に匹〔敵〕するものなきことを告すなり。四海の内に客礼なきは、適(匹敵)するものなきことを告すなり
 ― 普天(ふてん・溥天)の下、王土に非ざるは莫く、率土(そつど)の濱(ひん・浜)、王臣に非らざるは莫し。(『詩経』小雅・北山)
 02 其の道に由れば則ち人は其の好む所を得られ、其の道に由らざれば則ち必ず其の悪む所に遇う。
 03 古者、刑は罪に過ぎず、爵は徳を踰えず。
 ― 乱世は則ち然らず。刑罰は罪に怒(過)ぎ、爵賞は徳を踰え、族を以て罪を論じ、世〔襲〕を以て賢を挙ぐ。
 04 仁とは此れを仁(よろこ)ぶ者なり。義とは此れを分かつ者なり。節とは此れに死生する者なり。忠とは此れに惇(あつ)く慎(順)がう者なり。

【25 成相篇 – 相(きねうた)を成す】
 相は一種の労作唄、その形式による政治 君主論
 政治のすじみちは、礼と刑である。 韻文
 01 請う、相(きねうた)を成さん – 世の殃(わざわい)は愚闇愚闇の賢良を墮(やぶ)ることなり。世の愚は大儒を悪むことなり。
 02 相を成して、法の方を辨ぜん – 至治の極は後王に復(か)えることなり。治の経は、礼と刑となり。
 03 相を成して、聖王を道(い)わん – 氾利兼愛して徳の施し均しく、上下を辨治し貴賤に〔差〕等あり君臣を明かにす。
 04 患難なるかな、阪(かえ)ってこれを為し聖知は用いず愚者に謀り、前車の已に覆(くつがえ)れるに後未だ更(あらた)むるを知らず。
 05 相を成して、治の方を言わん – 君たるの論には五あり約にして明なり。君謹しんでこれを守らば下皆な平正にして国は乃ち昌ならん。

【26 賦篇(ふ) – 韻文詩による謎かけ】
 謎歌式の賦五篇、その他
 諸侯が礼を尊べば、世界はひとつに合わさるだろう。
 純粋ならば王となり、雑駁ならば覇となり、全く欠けていれば滅ぶ。 韻文
 01 礼の賦 – 日に非ず月に非ざるも天下の明と為る。致めて明かにして約、甚だ順にして体〔得〕すべし。
 02 知の賦 – 皇天、物を隆(くだ・降)し、以て下民に示したもう、或いは厚く或いは薄く、常に斉均ならず。
 03 雲の賦 – 地に託して宇(そら)に游び風を友として雨を子とし、冬日は寒を作し夏日は暑を作す。
 04 蚕の賦 – 功立ちて身は廃てられ、事成りて家は敗られ、其の耆老を棄てて其の後世を収めらる。
 05 箴(針)の賦 – 知なく巧なきも善く衣裳を治め、以に能く縦を合して又た善く衡(横)を連ぬ。
 06 請う、佹詩を陳べん – 天と地と位を易え四時は鄉(向)を易え、列星は隕墜(けんつい)し旦暮も晦盲(かいもう)す。

【27 大略篇 – 荀子言行の大略概要】
 雑多な問題についての短文の集録、孔子など古人の言葉を含む。
 01 人に君たる者は、礼を隆(とうと)び賢を尊べば而ち王たり、法を重んじ民を愛すれば而ち霸たり、利を好み詐多ければ而ち危うし。
 02 四旁に近からんことを欲すれば中央に如くは莫し。故に王者の必ず天下の中に居るは礼なり。
 03 諸侯の相い見ゆるや、卿を介(副)と為し、其の教士を以(ひきい)て畢(ことごとく)行かしめ、仁〔者〕をして居り守らしむ。
 04 人を聘するには珪を以てし、士を問うには璧を以てし、人を召すには瑗を以てし、人を絶つには玦を以てし、絶ちたるを反すには環を以てす。
 05 王者は仁を先にして礼を後にす。
 06 時宜ならず敬文ならず驩欣ならざれば、指(うま・旨)しと雖ども礼に非ざるなり。
 07 礼なる者は其の表(しるし)なり。
 08 舜曰わく – 予は欲に従いて治まる。
 09 五十なれば喪を成さず、七十なれば唯衰存するのみ。
 10 往きて爾の相(妻)を迎え、我が宗事を成し、隆(あつ)く率がわしむるに敬を以てし、先妣(せんび)を嗣がしめよ。若(なんじ)は則ち常あれ。
 11 夫れ行なる者は礼を行うの謂なり。
 12 其の臣妾を忿怒するは、猶お刑罰を万民に用うるがごとし。
 13 君子の子に於けるや、これを愛するも面にすること勿く、これを使うも貌(かたち)すること勿く、これを導くに道を以てするも彊うること勿し。
 14 礼は人心に順うを以て本と為す。
 15 礼の大凡 – 生に事うるには驩を飾り、死を送るには哀を飾り、軍旅には威を飾る。
 16 仁は愛なり、故に親しむ。義は理なり、故に行う。礼は節なり、故に成る。仁に里あり、義に門あり。
 17 死を送るに柩尸に及ばず、生を弔うに悲哀に及ばざるは、礼に非ざるなり。
 18 礼なる者は政の輓(ひきづな)なり。
 19 能く患を除けば則ち福と為り、能く患を除かざれば則ち賊と為るべし。
 20 禹は耕やす者の耦(ならび)立つを見れば而ち式し、十室の邑を過ぐれば必ず下りたり。
 21 民を治むるに礼を以てせざるときは動けば斯ち陥(おちい)らん。
 22 吉事には尊を尚(うえ)にし、喪事には親を尚にす。
 23 夫婦の道は正さざるべからず。君臣父子の本なればなり。
 24 人に礼なければ生きず、事に礼なければ成らず、国家に礼なければ寧からず。
 25 君子は律を聴き容を習いて而る後に出ず。
 26 内(閨房)は十日に一御なり。
 27 坐するときは膝を視、立つときは足を視、応対言語するときは面を視る。
 28 礼なる者は、本末相い順がい、終始相い応ず。
 29 下臣は君に事うるに貨を以てし、中臣は君に事うるに身を以てし、上臣は君に事うるに人を以てす。
 30 易に曰わく – 復して道に自れば何ぞ其れ咎(とが)あらん。
 31 交譎(こうきつ)の人、妒昧の臣は、国の薉孽(あいげつ)なり。
 32 国を治むる者は其の宝を敬い其の器を愛し其の用を任じて其の祅(よう・妖)を除く。
 33 富まざれば民の情を養うこと無く、教えざれば民の性を理むること無し。
 34 武王の始めて殷に入りしとき商容の閭を表わし、箕子の囚(とらわれ)を釈(ゆる)し、比干の墓に哭しければ、天下善に鄉(向)えり。
 35 迷う者は路を問わざればなり、溺るる者は遂(あさせ)を問わざればなり。亡〔国の〕人は独を好む。
 36 法ある者は法を以て行い、法なき者は類を以て挙う。
 37 父母の喪には三年事とせず、齊衰(しせい)と大功には三月事とせず。
 38 管仲の人と為りは功を力(つと)めて義を力めず、知を力めて仁を力めず、野人なり。
 39 孟子曰わく – 我れは先ず其の邪心を攻(治)む。
 40 曾元曰わく – 志卑(ひく)き者は物を軽んず。物を軽んずる者は助けを求めず。苟くも助けを求めざれば何ぞ能く〔賢者を〕挙げん。
 41 箴(はり)を亡いし者、終日これを求むるも得ず、其のこれを得るときは目の明を益せるにあらず眸(ぼう)してこれを見ればなり。
 42 義の利に勝つ者は治世たり、利の義に克つ者は乱世たり。
 43民の任(しごと)を重くして能えざるを誅するは、此れ邪行の起る所以にして刑罰の多き所以なり。
 44 上義を好めば則ち民は闇にも〔修〕飾し、上富を好めば則ち民は利に死す。
 45 何の以に雨ふらざることの斯の極に至るや。
 46 天の民を生ずるは君の為めにするに非ざるなり。天の君を立つるは民の為めにするなり。
 47 主の道は人を知り、臣の道は事を知る。
 48 農は田に精(くわ)しきも、田師と為るべからず。工賈も亦た然り。
 49 賢を以て不肖に易えれば、卜を待ちて而る後に吉を知る〔が如き〕にあらず。
 50 卞荘子を忌みて敢えて卞を過らず。子路を畏れて敢えて蒲を過らず。
 51 先王の道は則ち堯・舜のみ。六芸の博きは則ち天府のみ。
 52 君子の学は蛻(ぬけがら)の如く幡然として遷(うつ)る。歳、寒ならざれば松柏を知ることなく、事、難からざれば君子を知ることなし。
 53 小人は内に誠ならずしてこれを外に求む。
 54 言いて師を称せざるはこれを畔(叛)と謂う。教えて師を称せざるはこれを倍と謂う。
 55 行に足らざる者は説の過ぎ、信に足らざる者は誠言す。
 56 曾子と晏子 – 近きを親しましめて遠きを附くるは孝子の道なり。君子は人に贈るに言を以てし、庶人は人に贈るに財を以てす。
 57 人の文学に於けるや、猶お玉の琢磨に於けるがごときなり。切するが如く磋するが如く琢するが如く磨するが如し。(『詩経』衛風・淇奥)
 58 君子は疑わしきは則ち言わず、未だ問わざるは則ち言わず。道は遠きも日々に益むなり。
 ― 学なる者は必ずしも仕うるが為めに非ざるも而も仕うる者は必ず学に如いてす。
 59 子貢曰わく – 大なるかな死や。君子も息い小人も休う。
 60 『詩経』 国風・小雅評 – 其の欲を盈(み)たすも其の止まるところを愆(あやま)らず。
 61 国の将に興らんとするや、必ず師を貴んで傅を重んず。国の将に衰えんとするや、必ず師を賤しみて傅を軽んず。
 62 古者、匹夫は五十にして士(つか・仕)う。天子諸侯の子は十九にして冠し、冠し治を聴くは其の教至ればなり。
 63 盜に糧を齎(おく)り、賊に兵を借す。
 64 自ら其の行を嗛(たらず)とせざる者は、言濫にして過ぐ。礼に非ざれば進まず、義に非ざれば受けず。
 65 子夏曰わく – 利を争うこと蚤甲の如くなれば而ち其の掌を喪わん。
 66 友なる者は相い有(たも)つ所以なり。道同じからざれば何を以て相い有たん。
 ― 大車を將(たす)くる無かれ、維れ塵冥冥たり。(『詩経』小雅・無将大車)
 67 懦弱(だんじゃく)にして奪い易きは仁に似て非なり。
 68 仁義礼善の人に於けるは、これを辟(たと)うるに貨財粟米の家に於けるが若きなり。
 69 凡そ物は乗ずるに有りて来る。其の出でし者は是れ其の反る者なり。
 70 禍の由りて生ずる所は、纖纖に自る。
 71 言の信なる者は,区蓋の間に在り。疑わしきは則ち言わず、未だ問わざるは則ち言わず。
 72 君子は説(よろこ)ばしめ難し。これを説ばすに道を以てせざれば説ばざるなり。
 73 曾子、泣涕して曰わく – 異心あらんや、其のこれを聞くことの晚(おそ)きを傷みしなり。
 74 吾れの短なる所を用って人の長ぜる所に遇ること無かれ。
 75 多言にして類あるは聖人なり。少言にして法あるは君子なり。
 76 分義あれば則ち天下を容くるとも治まり。分義なければ則ち一妻一妾なりとも乱れん。
 77 天下の人は各々意を特にすと唯(いえど)も、然れども共に予(くみ・与)する所あり。
 78 惟惟(いい)として而も亡ぶ者は誹ればなり。博くして而も窮する者は訾ればなり。清くせんとして俞々濁る者は口なり。
 79 君子は能く貴ぶべきことを為すも、人をして必ず己を貴ばしむること能わず、能く用うべきことを為すも、人をして必ず己を用いしむること能わず。
 80 誥誓(こうせい)あるは五帝に及ばず。盟詛(めいそ)あるは三王に及ばず。質子(ちし)を交うるは五伯(五覇)に及ばず。

【28 宥坐篇 – 坐右の戒め(篇首の二字)】
 孔子の言行の集録
 01 宥坐の器に、孔子喟然と歎じて曰わく – 吁、悪んぞ満ちて覆えらざる者あらんや。
 02 孔子曰わく、人に悪しき者の五つ有り – 一:心達にして倹、二:行辟にして堅、三:言偽にして辯、四:記醜にして博、五:順非にして澤。
 03 義もて刑し義もて殺し、〔刑を〕庸(もち・用)うるに予に即くこと勿かれ。維だ未だ順(おし)うる事あらずとのみ曰え。(『書経』康誥篇)
 04 彼の日月を瞻(み)れば、悠悠として我れ思う。道の遠ければ曷ぞ能く来たらん。(『詩経』邶風・雄雉)
 05 孔子、東流の水を観す – 君子は大水を見れば必ず観するなり。
 06 孔子曰わく – 吾れ恥ずること有り。吾れ鄙(いや)しむこと有り。吾れ殆ぶむこと有り。
 07 今の学は曾ち未だ肬贅(ゆうぜい・イボとコブ)にも如かざるに、則ち具然として人の師たらんことを欲す。
 08 由(子路)、これを聞けり – 善を為す者は、天これに報ゆるに福を以てし、不善を為す者は、天これに報ゆるに禍を以てす。
 ― 芷蘭(しらん)は深林に生じ、人なきに以りて芳(かんば)しからざるに非ず。君子の学は通ずるが為めに非ず。
 ― 夫れ賢と不肖とは材なり。為すと為さざるとは人なり。遇と不遇とは時なり。死生は命なり。
 09 太廟の堂には亦た嘗に説あるべし。蓋(けだ)し文を貴べるならん。

【29 子道篇 – 子としての道】
 子としての道、子の道等の問題についての孔子の言葉  雑録
 01 入ては孝、出でては弟なるは、人の小行なり。上に順いて下に篤きは、人の中行なり。
 ― 道に従いて君に従わず、義に従いて父に従わざるは、人の大行なり。
 ― 若し夫(そ)れ志は礼に以りて安んじ、言は類に以りて使えば、則ち儒道畢(おわ)る。
 02 従うと従いざるとの義に明かにして、能く恭敬・忠信・端愨(正)を致して以てこれを慎しみ行えば、則ち大孝と謂うべきなり。
 03 子の父に従うは奚ぞ子の孝ならん。臣の君に従うも奚ぞ臣の貞ならん。其のこれに従う所以を審らかにするを孝と謂い、貞と謂う。
 04 孔子子路 – 国士の力ありと雖も、自ら其の身を挙ぐること能わざるは、力無きに非ず。勢の不可なればなり。
 ― 君子入りては則ち篤く行い、出でては則ち賢を友とす。
 05 孔子子路と子貢 – 礼には是の邑(くに)に居れば其の大夫を非らず。
 06 君子は知れるを知れりと曰い、知らざるを知らずと曰う、言の要なり。
 ― 能くするを能くすと曰い、能くせざるを能くせずと曰う、行の至なり。言要なれば則ち知、行至れば則ち仁。
 07 顔淵対えて曰わく – 知者は自ら知り、仁者は自ら愛す。
 08 子路孔子に憂いを問う – 君子は其の未だ得ざるときは則ち其の意を楽しむ。既已にこれを得たるときは又た其の治を楽しむ。
 ― 是の以に終身の楽ありて一日の憂もなし。

【30 法行篇 – 礼とその行い方】
 孔子とその弟子の曾子、子貢の言葉
 01 礼なる者は、衆人は法とりて知らず、聖人は法りてこれを知る。
 02 曾子曰わく – 内の人を疏んじて外の人を親しむこと無かれ。身の不善にして人を怨むこと無かれ。刑の己に至りて天を呼ぶこと無かれ。
 03 曾子、曾元に曰わく – 君子苟に能く利の以めに義を害うこと無ければ、則ち恥辱も亦た由りて至ること無し。
 04 子貢、孔子に問いて曰わく – 君子を念えば、温として玉の如し。(『詩経』秦風・小戎)
 05 曾子曰わく – 人を怨む者は窮し、天を怨む者は識なし。これを己れに失しながら諸れを人に反〔求〕するは、豈(そ)れ迂ならずや。
 06 子貢曰わく – 君子は身を正して俟つ。来たらんと欲する者は距まず、去らんと欲する者は止めず。
 ― 且つ夫れ良医の門には病人多く、檃栝(ためぎ・矯木)の側には枉木多し。
 07 孔子曰わく – 君子に三恕あり。
 08 君子は少(わか)くして長ぜるときを思いては則ち学び、老いて死せるときを思いては則ち教え、有して窮せんときを思いては則ち施すなり。

【31 哀公篇 – 魯の哀公(篇首の二字)】
 魯の哀公と孔子の問答等
 01 魯哀公、孔子に問う – 今の世に生まれて古の道に志し、今の俗に居りて古の服を服す、此れに舍(処)りて非を為す者は亦た鮮なからずや。
 02 孔子曰わく – 人に五儀あり。庸人あり、士あり、君子あり、賢人あり、大聖あり。
 03 孔子曰わく – 古の王者は務(ぼう・冒)にして拘(曲)領なる者も有りしも、其の政は生を好みて殺を悪めり。
 04 丘(孔子)、これを聞く – 君なる者は舟にして、庶人なる者は水なり。水は則ち舟を載せ、水は則ち舟を覆す。
 05 丘(孔子)、これを聞く – 肆(あきない)を好む者は折〔閲〕を守らず、長者は市(あきない)を為さず。
 06 魯哀公、孔子に人材登用を問う – 健なるものを取ることなかれ。詌(おびやか)すものを取ることなかれ。口の啍なるものを取ることなかれ。
 07 魯定公、顏淵に問う – 鳥は窮すれば則ち啄(ついば)み、獣は窮すれば則ち攫み、人は窮すれば則ち詐(いつわ)る。

【32 堯問篇 – 堯、舜に問う(篇首の二字)】
 堯と舜の問答ほか古来の聖賢の吉行の集録、末尾に荀子をたたえる押韻をまじえた文がある 雑録
 01 堯、舜に問う – 一を執りて失うこと無く、微を行いて怠ること無く、忠信にして倦むこと無ければ、而ち天下は自からに来たらん。
 02 魏武侯と呉起 – 諸侯、師を得る者は王たり、友を得る者は霸たり、疑を得る者は存し、自ら謀を為して己れに若くものなき者は亡ぶ。
 03 周公旦と伯禽の傅(つきびと) – 君子は好むに道徳を以てす、故に其の民も道に帰するなり。
 04 孫叔敖曰わく – 吾れ三たび楚に相たるも心は瘉々(いよいよ)卑く、禄を益す毎にして施は瘉々博く、位は滋々尊くして礼は瘉々恭し。
 05 孔子と子貢 – 人の下と為る者は、其れ猶お土のごときなり。
 06 賢に親しみ知を用いざるの故に身は死し国は亡びしなり。
 07 後序 荀子評 – 説を為す者は、孫卿(荀子)は孔子に及ばず、と曰うも、是れ然らず。
 ― 孫卿は乱世に迫られ厳刑に遒(迫)られ、上に賢主なくして下は暴秦に遇い、礼義は行われず教化は成らず、
 ― 仁者は絀約して天下は冥冥、行の全きにはこれを刺りて諸侯も大いに傾むく。
 ― 今の学者、孫卿の遺言余教を得れば、天下の法式表儀と為るに足り、存する所は神まり過ぐる所は化す。其の善行を観るに孔子も過ぎず。
 ― 其の知は至めて明かにして、道に循がいて行を正し、以て紀綱と為すに足る。

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洗心洞箚記より学ぶ!義と愛に生き、知行合一を貫いた人生の書!

大塩平八郎の乱は、江戸時代の天保8年(1837年)に、大坂で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱です。
そもそも、前年の天保の大飢饉に端を発する米不足と飢饉から忸怩たる思いを抱いていた平八郎が、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂河泉播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した事件です。
しかし、約300人を率いて「救民」の旗を翻して天満の自宅から大坂城を目指したものの、わずか半日で鎮圧され、後日自決に至っています。
そんな彼の生き方は、まさに「知行合一」の実践を貫き通した人生でした。

当時の決起参加への檄文が有名なので、ここに現代語訳にて記しておきます。
儒学は孝と忠を重んじますが、この檄文からは、大塩が朝廷への忠を念頭に、我が主君たる幕府への諫言を行う意図が明確に読み取れます。

『檄文』

「天から下された村々の貧しき農民にまでこの檄文を贈る

天下の民が生前に困窮するようではその国も滅びるであらう。
政治に当る器でない小人どもに国を治めさしておくと災害が並び起る、とは昔の聖人が深く天下後世の人君、人臣に教戒されたところである。
それで、徳川家康公も『仁政の基は依る辺もない鰥寡孤児などに尤も憐れみを加へることだ』と云はれた。
然るに茲二百四五十年の間太平がつゞき、上流の者は追々驕奢を極めるやうになり、大切の政事に携はつてゐる役人共も公然賄賂を授受して贈り或は貰ひ、又奥向女中の因縁にすがつて道徳も仁義も知らない身分でありながら、立身出世して重い役に上り、一人一家の生活を肥やす工夫のみに智を働かし、その領分、知行所の民百姓共には過分の用金を申付ける。
これ迄年貢諸役の甚しさに苦しんでゐた上に右のやうな無体の儀を申渡すので追々入用がかさんできて天下の民は困窮するやうに成つた。
かくして人々が上を怨まないものが一人もないやうに成り行かうとも、詮方のない事で、江戸を始め諸国一同右の有様に陥つたのである。
天子は足利家以来、全く御隠居同様で賞罰の権すら失はれてをられるから下々の人民がその怨みを何方へ告げようとしても、訴へ出る方法がないといふ乱れ方である。
依つて人々の怨みは自から天に通じたものか。
年々、地震、火災、山崩れ、洪水その他色々様々の天災が流行し、終に五穀の飢饉を招徠した。
これは皆天からの深い誡めで有がたい御告げだと申さなければならぬのに、一向上流の人人がこれに心付かすにゐるので、猶も小人奸者の輩が大切の政事を執り行ひ、たゞ下々の人民を悩まして米金を取立る手段ばかりに熱中し居る有様である。
事実、私達は細民百姓共の難儀を草の陰よりこれを常に見てをり、深く為政者を怨む者であるが、吾に湯王武王の如き勢位がなく、又孔子孟子の如き仁徳もないから、徒らに蟄居して居るのだ。
ところがこの頃米価が弥々高値になり、市民が苦しむに関はらず、大阪の奉行並に諸役人共は万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに得手勝手の政治を致し、江戸の廻し米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく五升一斗位の米を大阪に買ひにくる者すらこれを召捕るといふ、ひどい事を致してゐる。
昔葛伯といふ大名はその領地の農夫に弁当を持運んできた子供をすら殺したといふ事であるが、それと同様言語道断の話だ、何れの土地であつても人民は徳川家御支配の者に相違ないのだ、それをこの如く隔りを付けるのは奉行等の不仁である。
その上勝手我儘の布令を出して、大阪市中の遊民ばかりを大切に心得るのは前にも申したやうに、道徳仁義を弁へぬ拙き身分でありながら甚だ以て厚かましく不届の至りである。
また三都の内大阪の金持共は年来諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠取つてゐて未曾有の有福な暮しを致しをる。
彼等は町人の身でありながら、大名の家へ用人格等に取入れられ、又は自己の田畑新田等を夥しく所有して何不足なく暮し、この節の天災天罰を眼前に見ながら謹み畏れもせず、と云つて餓死の貧人乞食をも敢て救はうともせず、その口には山海の珍味結構なものを食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水を呑むと同様に振舞ひ、この際四民が難渋してゐる時に当つて、絹服をまとひ芝居役者を妓女と共に迎へ平生同様遊楽に耽つてゐるのは何といふ事か、それは紂王長夜の酒宴とも同じ事、そのところの奉行諸役人がその手に握り居る政権を以て右の者共を取締り下民を救ふべきである。
それも出来なくて日々堂島に相場ばかりを玩び、実に禄盗人であつて必ずや天道聖人の御心には叶ひ難く、御赦しのない事だと、私等蟄居の者共はもはや堪忍し難くなつた。
湯武の威勢、孔孟の仁徳がなくても天下の為めと存じ、血族の禍を犯し、此度有志のものと申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐し、続いて驕りに耽つてゐる大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。
そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等は夫々分散配当致したいから、摂河泉播の国々の者で田畑を所有せぬ者、たとひ所持してゐても父母妻子家内の養ひ方が困難な者へは右金米を取分け遣はすから何時でも大阪市中に騒動が起つたと聞き伝へたならば、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ参じて来てほしい、各々の方へ右金米を分配し、驕者の遊金をも分配する趣意であるから当面の饑饉難儀を救ひ、若し又その内器量才力等がこれあるものには夫々取立て無道の者共を征伐する軍役にも使たいのである。
決して一揆蜂起の企てとは違ひ、追々に年貢諸役に至るまで凡て軽くし、都べてを中興神武帝御政道の通り、寛仁大度の取扱ひにいたし年来の驕奢淫逸の風俗を一洗して改め、質素に立戻し、四海の万民がいつ迄も天恩を有難く思ひ、父母妻子をも養ひ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ、支那では尭舜、日本では天照皇太神の時代とは復し難くとも中興の気象にまでは恢復させ、立戻したいのである。
この書付を村々に一々しらせ度いのではあるが、多数の事であるから、最寄りの人家の多い大村の神殿へ張付置き、大阪から巡視しにくる番人共にしらせないやう心懸け早速村々へ相触れ申され度い、万一番人共が目つけ大阪四ケ所の奸人共へ注進致すやうであつたら遠慮なく各々申合せて番人を残らず打ち殺すべきである。
若し右騒動が起つたことを耳に聞きながら疑惑し、馳せ参じなかつたり、又は遅れ参ずるやうなことがあつては金持の金は皆火中の灰と成り、天下の宝を取失ふ事に成るわけだ。
後になつて我等を恨み宝を捨る無道者だなどと陰言するを致さぬやうにありたい。
その為め一同に向つてこの旨を布令したのだ。
尤もこれまで地頭、村方にある税金等に関係した諸記録帳面類はすべて引破り焼き捨てる、これは将来に亙つて深慮ある事で人民を困窮させるやうな事はしない積りである。
去りながら此度の一挙は、日本では平将門明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類してゐると申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは日月星辰の神鑑もある事、詰るところは湯武、漢高祖、明太祖が民を弔ひ君を誅し、天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。
若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ。
但しこの書付は細民達へは道場坊主或は医師等より篤と読み聞かせられたい。
若し庄屋年寄等が眼前の禍を畏れ、自分一己の取計らひで隠しおくならば追つて急遽その罪は所断されるであらう。
茲に天命を奉じ天誅を致すものである。

天保八丁酉年月日某

摂河泉播村々
庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ」

大塩平八郎は、江戸時代後期の儒学者陽明学者で、大坂東町奉行所の元与力です。
幾つかの書物を残していますが、いずれも乱の直後に大坂町奉行所によって禁書とされ、売買を固く禁じられた経緯があります。

そんな大塩平八郎の代表作、『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』を少し整理してみましょう。
この『洗心洞箚記』は、読書録の形式で陽明学を説いた書でして、明治時代以降、佐藤一斎の『言志四録』と並んで読み継がれた、隠れたロングセラーです。
※)言志四録については、改めて整理したいと思います。
「洗心洞」とは大坂の自宅で経営した私塾名だそうで、「箚」は針で刺す意味があるそうです。
「箚記」は書物を読むにあたり、針で皮膚を刺し鮮血がほとばしるように肉薄し、あたかも針で衣を縫うように文章の意義を明確にする意味。
「箚記或問二條」と命題が二点あることからも、この著作の中で、朱子学陽明学の論争に終止符を付けようとした平八郎の意図が窺われます。
長州藩吉田松陰はこの著作を「取りて観ることを可となす」と評価し、また薩摩藩西郷隆盛も禁書となったこの著作を所蔵していたことで有名な『洗心洞箚記』。
この義と愛に生き貫いた日本最高の陽明学者、大塩平八郎の偉大なる精神の足跡の書であり、陽明学の奥義を究めた陽明学者からの現代人へ宛てたメッセージに是非触れてみてください。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。
なお、原文がまとめられたサイトもありますので、こちらも参考にしてください。
山田準『洗心洞箚記』(抄)目次

『洗心洞箚記』 
【上巻】

・天とは、大いなるもの:内在神のことである。
・外界(現象界:環境)とは、自分の心の反映したものである。
・太虚に帰一するとは、今ここに生きることである。
・浩然の気とは、太虚に帰一する(今ここに生きる)ことであり、死んでも腐壊散滅したりはしない。
・良知とは、太虚(今ここに生きる時)の霊明(閃き:直感)である。
・意識を誠そのものにすることが、根本である。
・1日を1年(100年)と見做し、1年(100年)を1日と見做して生きる!
・敏徳(機敏な判断力:私欲から自由になる)は、大切である。
・向上とは仁(良知を発揮する)のことであり、仁(良知を発揮する)とは太虚という徳(今ここに生きる)のことである。
・日常生活は皆、実践倫理である。
・人格を、陶冶する!
・人民を、傷病者の如く大切に扱う!(『孟子』)
・虚(今ここに生きる:欲望から解放されている)なればこそ、万民の楽しみを自分の楽しみとする。
・仁とは、太虚であることの生命力(良知)であり、義とは太虚であることの成就であり、礼とは太虚であることの実現であり、智とは太虚であることの聡明さであり、信とは太虚であることの誠実さである。
・善について、認識と実践とを一致させる!
・志を確立すれば、理(行動パターン)の実践には道が開け実現する!
・いつも快活にすることが、病気の時の取り組み方である。(『伝習録』)
・集合(生:盛)すれば、必ず発散(死:衰)する。
・敬しむとは、自分の心を本来の至善に基礎を置く(今ここに生きる)ことである。
・肝腎なことは、人欲を捨て去って天理を保持する(今ここに生きる)ことである。
・太虚に帰一している人(今ここに生きている人)とは、有能なのに無能な人にも問い、豊かなのに乏しい人にも問い、持っているのに持っていないようにし、充実しているのに空っぽなようにし、危害を加えられても仕返しをしない人である。
・太虚(捉われ無き:今ここに生きる)を本体(根本)とし、人民を利済する(救う)ことを作用(働き)とする、そういう人は天(理想)そのものである。(陳継儒)
・理(理性:本来態:内側)と気(身体:現実態:外界)をバラバラにならないようにし、独りを慎み心を欺かない(今ここに生きる)修養を普段から行なう!

【下巻】

・太虚(大いなるもの:内在神)とは、仁義礼智信の5つの性が未分化なままのことである。
・学問をし始める幼少の時に自分さえよければいいという心(自我:エゴ)を捨てさせることが、教育者の責任である。
・真情と誠実がこもっていれば、君子は必ず親しみ信じる。
・無能な役人は、賄賂を貪る役人よりも害を及ぼすことは深刻である。(欧陽脩)
・真に義(太虚であることの成就)理(理性:本来態:内側)を楽しんで、利益欲望(自分さえよければいいと思う心:自我:エゴ)を忘れることだ。
・純一なる誠(誠実さ)を回復したならば、正義は自然と実現して心も正しくなる。
・良知(仁:太虚の霊明:今ここに生きる)を、日常生活での対応の場で発揮する!
荀子性悪説)は、現象としての陰陽(現実態:気)だけを見て、その本源である太虚:大いなるもの:内在神:本来態:理を見なかった。
・明徳を明らかにするためには、良知(今ここに生きる)を発揮し、他者との関係を正しくし、意識を誠にし、主体性を確立して、人格を磨き上げることである。
・親しむ(教養する)という働きかけをすることは、心を尽くし、性を尽くす(自己実現を図り、実力を発揮する)という偉大な学問である。
・民に親しむ(教養する)とは、民に仁(良知)することである。
・自己の人格を陶冶するとは明徳を明らかにすることであり、良知を発揮して自己の本来心を実現する(今ここに生きる)ことである。
・聖人賢者が心を発揮し尽くすとは、道心(良知:仁:太虚:大いなるもの:内在神:真我:今ここに生きる)を発揮し尽くすことである。
・独りを慎むという努力は、一瞬も怠ってはいけない。
・聖人は、天地万物を自分と密接に関係するものと考え、自分の首足腹背手臂ひと同様に見做す。
・天という太虚に帰一する(今ここに生きる)ことが、聖学における最高の努力の仕方である。
・道(公正な態度で)義(果敢に正義を)を実践することが、当たり前のことにする。
・平静(今ここに生きる)に、身を修める。(諸葛亮孔明
・太虚に帰一する人(今ここに生きる人)でなければ、仁義道徳という完全なる美を保持することは出来ない。
・心を正しくし、意を誠にする!
・誠であることが聖人の根本であり、万物はどれもが太虚としての誠に由来する。
・誠実な敬虔けいけんな心映えを保持する!
・虚(仁の源泉)とは天地の元祖であり、天地は虚であることに由来します。(張横渠)
書物を読んだならば、内容を自分で会得して実践することが大切である。
・山一面の樹木も、太極(太虚:大いなるもの)が現象したものである。(朱子
・学ぶとは、知識を身に付けることとそれを吾が身に切実に(自分自身のこととして)実践することを同時にすることである。
書物を読み学問するのは、もともと心(人格)を陶冶するためである。(朱子
・肉親のように人民をして危難に駆けつけるようにさせ、上に立つ人は人民を自らの赤児と同じように扱い、他人の為に謀る時には自分のことと同じように謀り、衆人の為に謀る時には家族のことと同じように謀ったならば、人民は自然に為政者を信頼するだろう。(張横渠)

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老子より学ぶ!ありのままのあなたへ!

古代中国の春秋時代の思想家である老子(B.C.5世紀頃)の唱えた『道(タオ)』の思想は、戦国時代の荘子の無為の思想と並んで老荘思想と言われます。
老荘思想が最上の物とするのは「道」です。
「道」はこの世界のありとあらゆるものを生み出す根本原理であり、また天よりも上位にある物として使われています。
道教では、世俗的な欲望や物質的な価値を否定的に見て、人為的な計らいについてはただ何もせずに自然のままに生きる『無為自然』を重視します。
老子荘子は、世俗的な問題(地位・財産・権力・名誉・性欲)と関わらず『無為自然』を実践することが、人間の理想的な生き方(倫理)につながると考えました。
この世俗的な欲望(=煩悩)を否定して無為自然を勧める老荘思想は、釈迦の仏教でいう「諸行無常涅槃寂静」にも共通する部分があり、古代中国では「老荘の無為」と「仏教の涅槃」は同一のものと解釈される傾向にありました。
老子』『荘子』『周易』は三玄と呼ばれ、これをもとにした学問は玄学と呼ばれています。
荘子』については、こちらを参照ください。
荘子より学ぶ!何ものにも束縛されない絶対的な自由を求めて!
また『周易』は易経に記された爻辞、卦辞、卦画に基づいた占術ですので、以下を参考にしてみてください。
当たるも八卦、当たらぬも八卦 易経って何?
易経 実際に占う方法です
易経 実際に易を占ってみましょう。
易経 本来の在り方を知ることが大事です。
今回はそのうちの『老子』について、整理してみたいと思います。

老子は周王室の書庫の記録官だったとされますが実際には定かではありません。
東周の衰退を見て立ち去り、関所の役人の尹喜の依頼を受けて『老子(上下巻5000余字)』を書き残したと言われています。
老子』は、上下巻の最初の一字である『道』と『徳』から『老子道徳経』と呼ばれることもあります。

老子』は、人間の心のありようだけでなく、天地自然のなりたちや万物の根源についてなど、いわば自然科学的な視点から言及している点に特徴があり、知識や欲望はできるだけ捨て去り、人と争わず、ありのままに生きよ、という生き方が提唱されています。
老子』に見られるポイントは、時代の流れに取り残され、とまどっている人々に向けて、生きていくための処世術を教えたり、あるいは支配階層に向けて、不安定な時代に国をいかに治めていくかを提示する統治論として書かれている点にあります。
老子』には「頑張らなくていい」「ありのままのあなたでいい」といったメッセージが数多く含まれていますが、これは単なる「癒やしの書」としてだけでなく、乱世をいかに生き抜くかの「権謀術数の書」としての内容になっています。
老子』の思想は、常識に凝り固まった人々の考え方を打破し、煩雑な日常のしがらみから人々の心を解放する役割も持っていますので、これまでとは違った視点からの「もうひとつの価値観、生き方」の書として触れてみてはどうでしょうか。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【道経(上篇)】
【體道1】
道というのは、これまで言われてきた道ではない。名も従来の名ではない。天地の始まりには何も無かった。だから無名である。天地に万物が生まれ、それぞれに名が付けられた。有名である。したがって有名は万物の母である。
故に無は常にその奥深き妙を見せ、有は常に無との境を見せる。此の両者は同じ所から出て名を異にしているだけだ。どちらも玄妙で、玄のまた玄は見通せないほど深遠なものである。

【養身2】
天下の人たちは皆、美が何であるか知っているが、それだけではいけない。美の裏には醜があるのだ。皆は善がどういうものか知っているが、それだけではいけない。裏には不善があるのだ。このように有無はともにあり、長短、高下、音声、前後といった具合に、すべてに相対的なものがある。だから道の教えを体得した聖人は、事を為すに当たって何もせず、何も言わない。道は万物を生むが、それを誇りに言わず、それが育ってもそれを自分のものとしない。それを頼りにすることもなく、成功すれば、いつまでもその場にいない。

【安民3】
賢を尊ばなければ、民の競争はなくなる。財貨を重んじなければ,盗みはなくなる。欲望をかきたてる物をみせなければ、民は心を乱さなくなる。これによって道を体得した聖人の治世は,民の心を単純にし、食料を十分に与え、反逆の意思を弱くし、体を頑強にしてやる。常に民を無知無欲にし、智者には口出しさせない。無為の政策をとれば治まらない事はないのだ。

【無源4】
道は無であり、見ることは出来ないが、その働きは無限である。淵のように深く、まさに万物の宗主である。鋭い切っ先を表すことなく、世の複雑なもつれを解き、光を和らげて塵の中に混じりこんでいる。湛々とした水のような静かな姿だ。道がどこから生まれたのか知らないが,天帝より前からあったようだ。

【虚用5】
天地には仁慈というものはない。万物を祭壇に供える飾り犬と同じに見ている。祭礼が済めば捨てられるのを黙って見みているだけだ。聖人にも仁慈はない。民が飾り犬のように死ぬのを見ているだけだ。天地の間は鍛冶屋のふいごのようなものだ。中は空なのに動くと際限なく風を噴き出す。

【成象6】
神は不滅で、玄牝(女性)と呼ばれる。玄牝の門は天地の根源と呼ばれ,永遠に存在し続け、これをどれだけ使っても疲れをしらず、尽きる事がない。

【韜光7】
天地は長久であるが,長久であるゆえんは、自己のために生きようとしないからで,それで長生きするのだ。  それゆえ聖人も自分のことを度外視して、かえって身の安全を保つのだ。これはまさに無私無欲のためでなかろうか。そして結局は自分の目的を果たすことになるのだ。

【易性8】
最高の善は水のようなものだ。水はよく万物を助けて争わず、みなが嫌がるような低地にとどまる。この点は「道」に近いといえる。住居は低地に設け、心は淵のように深く、人との交流は水のように親しく、言葉は誠実で、政治は筋道を大切に、ものごとの処理は流水のように滑らかに、行動は時にかなう。そして争わず,これだからこそ災難は起きないのだ。

【運夷9】
手にもつ器に水を満たし,零すまいと心配するくらいなら,はじめから満杯にすることはないのだ。刃物は刃を鋭くすれば、刃こぼれがして長持ちしない。金や玉が部屋一杯になれば,どうしてそれを守るのだ。富貴で高慢になれば、自ら災難を招く。成功すれば,速やかに身を引く。これこそが天の定めた道なのだ。

【能爲10】
心と身体が一体となり、道から離れないようにしたいものだ。気を一杯にして無心な幼児のようになりたいものだ。雑念を払い、過ちなしに済ませるようになりたいものだ。民を愛し、国をおさめるに無為の精神でやりたいものだ。  自然が変化する中で、女のような柔軟さを保ちたいものだ。 四方のすべてを知りながら、何も知らないとするようになりたいものだ。  道は万物を生み、これを繁殖させ、成長してもそれを自分のものとせず、万物を動かしながら、それを頼りにせず、頭になって万物を支配することもしない。これこそ玄徳という。

【無用11】
車の輪、三十本のスポークが車軸から出て輪を作る。このスポークの間に空間があってこそ、車輪としての働きが出来る。泥土をこねて器を作り、器の中に空間があってこそ器としての働きをする。戸口や窓をうがって部屋を作り、その中の空間こそが部屋としての働きをなす。

【檢欲12】
色とりどりの美しい色彩は人の目を盲にする。耳に快い音楽は人の耳を聾にする。豪勢な食事は人の味覚を損なう。馬で狩をすることは、その楽しみが人を熱狂させ、珍しい物は人を盗みに走らせる。  そこで聖人は民の腹を満たすことだけを求め、民の目をくらますようなことをしない。

【猒恥13】
人が 寵愛と恥辱に心を騒がせるのは驚くほどだ。また病気、災難が身に降りかかるのを死ぬほどに恐れる。  寵愛と恥辱への関心が驚くほどというのは何ゆえか。寵愛は上で、恥辱は下という意識があり、寵愛を与えられると人は歓喜して喜ぶが、失うと驚愕して恐れののく。後に恥辱が待っているからだ。  身に及ぶ災難を死ぬほどに恐れるのは、どういうことか。私に大病など災難があるのは私に身体があるからだ。もし私に身体がなければ、いかなる災難が降りかかろうと構わない。  故に自分の身を天下より大切にする人には天下を与えるべし。天下より自分の身を愛する人には天下を託してよい。

【賛玄14】
見ようとしても見えない。これを『夷』」と呼ぶ。  聞こうとしても聞こえない、これを『希』と呼ぶ。  触ろうとしても触れない、これを『微』」と呼ぶ。  この三つのものは追求の仕様がない。なぜならそれは全く同じものだからだ。  茫漠としているが、上の方は明るくなく、下の方も暗くはない。ただぼんやりとして形容の仕様がなく、形のない状態に戻っている。この姿なき形を『恍惚』という。迎えてもその前が見えず、従ってもその後ろが見えない。  これが昔から続く『道』の姿で、今の『有』を支配し、これによって万物の始まりを知ることが出来る。これを『道の法則』という。

【顯徳15】
古のよき『士』たる人は神妙にして、すべてのものに奥深く通じ、理解しがたいほど慎重だ。それゆえ、ここはどうしてもその姿を描かねばならない。  彼はことをするに先立って、冬に川を渡るように慎重だ。  周囲を囲む隣国の包囲攻撃を防ぐように、防衛に熟慮を重ねる。  身を引き締め、常に客人のように厳粛で、春に氷が溶けるようにこだわりがない。まだ刻まれていない材木のように純朴で、奥深い山の谷のごとく広大だ。  水は濁って不透明だが、この水を徐々に平静に戻すことが誰に出来るのか。  これを久しく安定に保つためには、水を絶えず動かし、徐々に流さなければならないが、誰がそれを行えるのか。  それが出来るのは『道』をわきまえた人だけである。 『道』をわきまえた人は完全を求めない。それを求めないからこそ古きを守りつつ、新しい成功を得るのだ。

【歸根16】
出来るだけ心を虚にして、静寂を守る。万物は成長しているが、私はその循環を見守っている。万物は成長の過程でさまざまに姿を変えるが、最後にはそれぞれの元の出発点に戻って行く。  出発点に戻るのを『静』といい、また『平常』とも言う。『平常』を認識することを『明晰』と呼ぶ。  『平常』を意識せず、妄動すれば結果は凶と出る。『平常』を意識してこそ、すべてを包容できるのだ。すべてが包容されてこそ公平無私で、公平無私であれば、人は王となり人々は服従する。王は天理にかなう。天理にかなえば、それは『道』にかなったことを意味し、『道』にかなえば永遠で、終生危険に陥らない。

【猒淳17】
もっとも善い支配者は、民はその存在を知るだけである。  次に善い支配者は、民は彼に親しみ、これを賞賛する。   更に次の支配者は、民はこれを恐れる。  最低の支配者は民は彼を軽蔑する。信任するに値しないからだ。  もっともよい支配者は、ゆったりと、ほとんど命令せず、事がうまく行くと、民たちは『これは誰のおかげでもなく、自然にこうなったのだ』という。

【俗薄18】
大いなる『道』が廃れて『仁義』が生まれた。聡明な知恵者が出てはなはだしい虚偽が生まれた。  肉親が和せず、家庭が乱れてはじめて『孝慈』なるものが生まれた。  国家が混乱して、初めて『忠臣』なるものが生まれた。

【還淳19】
学者たちが言う小賢しい『聖智』を捨てれば、民の利益は百倍になる。『仁義』を捨てれば、民は『孝慈』を取り戻し、『巧利』を捨てれば盗賊は姿を消す。  この三条では筆足らずだ。そこで人が従うように補筆しよう。それは『表面は単純、中も素朴で,私心をなくして欲望を抑えることが大切だ』ということである。

【異俗20】
学問を捨てれば、憂いはなくなる。返答の『はい』と『おう』ではどれほどの違いがあると言うのだ。『善』と『悪』ではどれほどの違いがあるというのだ。 人の恐れることを恐れないわけには行かないが、この荒れた状況はいまだに終わっていないのだ。  多くの人は憂いもなく、盛大な宴席でご馳走を食べている、また高楼に登って眺めを楽しんでいるのに、私だけはひっそりと何の兆しもなく、まだ笑うことの出来ない幼児のような惨めな顔で,帰る家もないかのようだ。  他の人は有り余るものを持っているのに、私だけは乏しい。 私は全くの愚か者のようだ。のろまで,他の人は明晰なのに、私は悶々としているだけだ。他の人は広々とした海にように、吹きぬける風のような才能を持っているというのに、私はかたくなで,幼くつたない。  だが,私一人がそうである訳は、私は他の人と違って,母である『道』に抱かれているからだ。

【虚心21】
大いなる『徳』の中身は『道』に一致している。『道』というものは目に見えず、漠然としている。だがその漠然とした中に実体がある。暗く深い、その中に微かな精気がある。この精気は具体性があり、真実がある。 古より今に至るまで,その名は消えず、それにより万物の始めを知ることが出来るのだ。  私がどうして万物の始まりの有様を知るのか、その根拠はここにある。

【益謙22】
木は曲がっていると、材木にならないため伐採されずに完全さが保たれる。 身をかがめていると、かえって真っ直ぐと身を起こすことが出来る。  土地が人の嫌がる低い窪地であれば、かえって水が満ち、物は古ぼけていると,作り直され新しくなることが出来るのだ。 物が少ないと逆に得ることが出来、多いとかえって迷ってしまう。  これをもって,聖人は『道』を天下を占う道具の『式』とする。自分の目で見ないため、逆にはっきりと分かり、自分を正しいとしないために,物の是非がはっきりとする。 自ら誇らない、だから成功する。うぬぼれない、だからこそ導くことが出来る。人と争わない、だからこそ天下に争うものがいないのだ。  『木は曲がっていると、かえって完全さが保たれる』という古言はまさに虚言でない。真にこうして証明できるのだ。

【虚無23】
言を少なくすることは自然なことである。疾風も朝の間にはやみ、にわか雨は一日中、降り続けることはない。誰がそうさせているのか、天と地である。天地の力をもってしても続けられないものをどうして人間に出来ようか。  道を得た人は、他の『道を持つ人』と同じくし、『徳』ある人があれば同じく『徳』を求め、どちらも持たない人があれば、それと同じくする。  『道』を同じくすれば、彼の人も『道の人』を得たいと願う。  『徳』を同じくすれば、彼の人も『徳の人』を求める。  何も持たない人は、同じような仲間を求めようとする。  人と協調して生きるには、自分を空しくしなければならぬ。信頼されなければ、信任されないということはこういうことだ。

【苦恩24】
背伸びしてつま立ちすれば,しっかりと立つことが出来ない。  早く行こうと大股で歩けば、かえって早く行けない。  自分の目だけで見ようとすれば、かえってはっきりと見えない。  自分を正しいと固執すれば、かえって是非が分からない。  自ら誇るものは成功しない。  自惚れるものは導くことができない。  これらのことは「道」の原則を知る人には役立たずの余計なものだ。  余計者は嫌われるが、「道」を得た人は原則を知るから、こうしたことになら ない。

【象元25】
天地に先立つ前から,混然となったものがあった。  音もなく形もないが,どこまでも独立した,誰にも頼らない存在で,とどまることなくぐるぐる巡る。それは天地万物の母とみなして良い。  私はその名前を知らないが、それを『道』と呼び、しいて名をつけて『大』と呼んだ。『大』は成長すれば去っていき、宇宙のはるか遠くに行って再び元に戻ってくる。 『道は大、天は大、地は大、人も大』という。宇宙に四つの『大』があり、人もそのひとつを占める。  『人』は地の法にのり、『地』は天の法にのり、『天』は道の法にのる。『道』はそれ自身、すなわち『自然』の法にのる。

【重徳26】
重いものは軽いものの基礎であり,静かなものが騒がしいものを抑える。 聖人は終日行軍しても、部隊の中央にある糧秣を運ぶ輸送部隊を離れることがない。道中に華やかなものが有っても,目を奪われることがなく,悠然としている。 万を越える兵の部隊を動かす君主であるのに、どうして身を天下より軽んじるのか。(身を軽んじてはいけない)身を軽くすれば本元を失い,騒げば落ち着きを失うのだ。

【巧用27】
行進の進め方がうまいと車のわだちを残さない。  言い方がうまい人は,失言もなく欠点を見せない。  計算がうまい人は、計算棒を使わずに計算できる。  門を閉めることのうまい人は、かんぬきを使わず開けることが出来ないように出来る。  結び方のうまい人は,縄を使っていないのに、ほどけなくする。  聖人は何時もうまく人を使うため、初めから無用の人はいない。  聖人は何時もうまくものを使うため、初めから無用なものはない。  これを内なる聡明さという。  善人は悪人の師であり、悪人もまた善人の反省の手本になる。  自分の師を尊ばず、手本を大切にしなければ、自分は智者と思っていても,本当は愚かなのだ。   こういうことを「奥深き原理」という。

【反朴28】
何が雄々しきか知っていても、柔和な牝の姿勢を守れば、天下の谷(古代の尊敬の対象)として人々の尊敬を得る。  天下の谷となれば、常に「徳」と離れることなく、乳児のような単純さに帰る。  白い輝きを持つことを知っていても、暗い位置に安んじて居れば,天下の『式』(古代の占いの道具)となる。天下の『式』となれば、『常徳』と違うことなく究極の真理に至る。 何が栄誉であるかをわきまえ、甘んじて屈辱の位置に身を置けば、周囲の信望を集める『谷』となる。周囲の信望を集めれば、『常徳』が身について,素朴な材木の状態に帰る。  材木は小さく削られると器になるが、聖人がこの材木を用いると人を統率する官長となる。とかく木を切ったり、削ったりの無理をしないのだ。

【無爲29】
誰かが天下を手に入れ、治めようと画策しても、私はそれが実現するのを見たことがない。天下は治めることが難しいものだ。何とか治めようとしても逆に壊してしまい、何とか掌握しようとしても逆に失ってしまう。  物事は有るものは先に進み、あるものは後ろに付き添い、あるものはそっと吹き、あるものは強く吹く。あるものは少し傷つき,あるものはすっかり壊れるなど,すべてのものは相対的で,片方だけに荷担することは出来ない。だから聖人は極端なもの、贅沢なもの、度を過ぎたものだけを取り入れず捨て去り、後は何もせず自然に任せるのだ。

【儉武30】
『道』を用いて君主を援けようとする人は,武力によって天下に覇を唱えようとしない。武力を用いれば必ず報復を招くからだ。 軍隊が駐留した場所は,撤収した後の田畑に茨が茂り,大きな戦いの後には必ず凶作がやってくる。 勝利すればそれだけで良く、その後は武力による強さを見せ付けないことだ。勝利しても,うぬぼれず、誇ることなく、高慢になってはいけない。武力で勝利すれば,やむを得ずこうなったと考えるべきで、強がってはいけないのだ。 ものごとは盛んになれば、必ず衰退に向かう。これは『道』にかなっていないからだ。『道』にかなっていなければ、必ず速やかに滅亡する。

偃武31】
『軍隊』、この不吉なものは誰もがその存在を憎む。だから『道』を備えた人は,それに近ずかない。 君子は普段のときは『左側』を尊び、武力を用いるときは『右側』を尊ぶ。 『軍隊』という不吉なものは君子が用いるものでなく、やむを得ずそれを用いても,利欲にかられず、あっさりと使うのが一番だ。 たとえ勝利しても、それを良としない。もし良とするならば、それは殺人を楽しんでいることになる。殺人を楽しみにする人は,天下に志を遂げることは出来ない。 吉事には『左側』を尊び、凶事には『右側』を尊ぶが、軍隊では副将が左に座席し、大将は『右側』に座席する。 つまり戦争は常に葬儀の作法によって行われるのだ。戦争では大勢の人が死ぬため、その哀悼の意味で、軍では戦いに勝利しても常に葬儀の作法がとられるのだ。

【聖徳32】
『道』は永遠に『無名』である。手が加えられていない素材のようなものだ。 名もない素材は小さいけれど、誰もそれを支配することは出来ない。  王侯がそれを持ち、守ることができるなら、万物はひとりでに王侯に従うことになるだろう。 天と地は相合し甘露を降らせるが、誰かが甘露に命じて広くまんべんに降らせているのでなく、ひとりでにまんべんに降っているのだ。  管理が始まると名前が出来る。名前が出来ると適当なところでとどめる事を知らねばならぬ。『限度』である。限度を知るならば、危険を免れることが出来るのだ。  『道』は天下に有るすべてのものが行き着く所だ。すべての谷川が大河、海に流れ込むのと同じである。

【辯徳33】
他人を理解できるものを『智』といい、自己を知るものを『明』 という。聡明である。  他人に勝つ者を『力』が有るといい、自己を克服できるものを『強』という。真の強者である。満足を知る者は富み、努力する者を『志』が有るという。よりどころを失わない者が永続し、死んでも『道』の精神を保っている人は滅びず、これを真の長寿者という。

【任成34】
『道』は水が氾濫するように、左右に広がり流れる。万物はこれを頼りに生まれて出てくるが、『道』はこれを拒まず、その功を名乗ろうともしない。 『道』は万物を慈しみ育てながら、それを支配しようともしない。  常に無欲なので、とりあえず『小』と名付くが、万物はすべて『道』に帰服して、しかも『道』は主とならないのだから、これは『大』と名付くべきなのだ。  これゆえ聖人は常に謙虚で『大』として振る舞わない。ゆえに人々は聖人に帰服し、『偉大なる存在』として尊敬するのだ。

【仁徳35】
『道』を守って天下を行けば、どこへ行こうと害はなく、平穏無事である。 宴席の音楽と豪華な料理は旅人の足を止めさせるが、『道』の話はそれを説いても味わいがなく、見えず、聞いても聞こえない。だが用いれば、効用は無限で使い切れないのだ。

【微明36】
ものを縮めたければ、逆にしばらく伸ばしてやる。 弱めたければ、しばらくこれを援けて強くしてやる。 廃止しようと思えば、しばらくこれを放置しておく。 こういうやり方は奥深き叡智という。こうして柔軟なものが剛強なものに勝つのである。 魚は深い淵から出て行けないのと同じく、こうした国の戦略は他国に見せてはいけない。

【爲政37】
『道』はその基本原則の『無為』により何もなさないように見えるが、実はあらゆるものを成し遂げているのである。  王侯がもし『道』による『無為自然』の原則を守っていれば、万物は自から伸び伸びと成長する。  だが成長の途中で、王侯が欲を出し作為的なことをしようとすれば、私は『材木のような素朴な心に帰れ』と諌めるだろう。  王侯が材木のように素朴で、無欲な状態になれば、すべての者が無欲無心になり、そうすれば天下は安定する。

【徳経(下篇)】
【論徳38】
最も高い有徳者は『徳』を行っても、それを『徳』として意識しないため、ここに本当の『徳』がある。低い有徳者は『徳』を意識して、それを見せびらかそうとするので『徳』はない。  高い有徳者は作為的でなく、それを施したという意識がない。低い有徳者は作為的で、しかも『徳』を施したと意識している。  本当に『仁』のある人は、それを行動しても『仁』を為したとは意識しない。  『義』を守る人は、それを行動で表わすが、常に『義にもとずいた行動をとった』と意識している。  『礼』を守る人は、それをはっきりと行動に表わし、相手がその『礼』に応じないと、ひざをつついて返礼を要求する。  これゆえ『道』が失われて『徳』が現れ、『徳』が失われて『仁』が現れ、『仁』が失われて『義』が現れる。こうして『義』が失われた最後に『礼』が現れるのだ。  そもそも『礼』というものは忠信が薄れた結果生まれるものなので、争乱の元になるものだ。  また人より前に知るという前識者の『智』は、偉大なる『道』を飾る造花のようなもので愚の始まりだ。  これをもって男丈夫は、このような『仁』『義』『礼』『智』という薄っぺらなモラルに執着せず、華を捨て実を取るのである。

【法本39】
最初に『道』から生まれた一つの生気のようなものが有った。 『天』はこれを得て清く、『地』はこれを得て安定し、『神』はこれを得て霊妙 になり、『谷』はこれを得て充実し、『万物』はこれを得て生き、『王侯』はこれを得て天下の頭になった。  天が清くなければ、恐らく避けてしまう。  地が安定してなければ、やがて崩れてしまう。  神が霊妙でなければ、恐らく力を失う。  谷が水で満たされなければ、すべてが枯渇してしまう。  万物が生育できなければ、あらゆるものが死滅する。  王侯が最高の地位を保てなければ、国は滅びてしまう。  身分の高い人、地位の高い人、つまり貴族や高官にとって身分の低い、卑しい庶民は彼らの根本であり、高さは低きをもって基礎とする。  これゆえ、王侯は古代から自分の事を『孤』(孤児)、『寡』(独り者)、『不穀』  (不幸)と自虐的に賞したが、これは貴さは卑しさをもって根本となすという考えからではなかろうか。  ゆえに多くの栄誉を求めると、かえって栄誉はなくなる。高貴な美玉になろうとは望まない。つまらない普通の石でよいのだ。

【去用40】
元に戻そうとするのが道の運動法則なのだ.。 柔弱なのは道の作用である。  天下の万物は有より生じ、有は無より生じる。

【同異41】
上士は道を聞けば、勤めてこれを行う。   中士は道を聞けば、半信半疑と成る。  下士が道を聞けば、話は大きいが中身がないと笑う。  だが、彼らに笑われなければ、本当の道でないのだ。  古の人はこう言っている。  『明るい道は暗く見え、前に進んでいる道は後ろに退いているように見える。平らの道は凸凹と険しく見える。  高い徳は俗っぽく見え、輝いている白は汚れて見え、広大な徳は何か欠けているように見え、健全な徳は悪賢く見え、純真な性格は移りやすく見えるものだ。  大きな四角は角がなく、大きく貴重な器物はなかなか完成しない。  とてつもなく大きい音は耳に聞こえず、限りなく大きいものは、その姿が見えない』と。  道は無名であるが、この道だけが万物を援け、よく育成しているのだ。

【道化42】
『道』は統一した『一』を生み出し、これが分裂して『二』が生まれる。対立する『二』は新しい『三』を生み出し、この第三者が万物を生み出す。  万物には『陰』と『陽』の対立する二つの局面があり、『陰』と『陽』はその中に生まれた『気』によって調和されている。  人が嫌う言葉は『孤』(孤児)、『寡』(独り者)、『不穀』(不幸)だが、王侯たちはそれを自称として使っている。  物事は常に、損は益に、あるいは益は損にと絶えず変化しているが、これが変化の法則である。私も人々が教えあっていることを教えよう。 『強固なものはろくな死に方をしない』と。これを教えの始まりとする。

【偏用43】
世の中で最も柔らかいもの(水)が、最も堅いものを制圧している。形の無い物は(岩盤のような)隙間のないもの所にも入っていけるからだ。  私はこれをもって『無為』の益を知る。『不言』の教え、『無為』の益は、天下でこれに及ぶものはない。

【立戒44】
名声と生命とでは、どちらが身近か。 生命と財産では、どちらが重要か。 得ることと、失うことではどちらが有害か。 こうしてみると、自分の体の健康を守ることが最も大切あることが分かる。  名誉や財産への愛着も度が過ぎ、惜しめば逆に多くを費やすことになる。蓄えすぎると帰って大きな損失を受ける。  満足することを知れば、辱めに合わずに済み、適当にとどめる事を知れば、危険に会わずに何時までも安全でいられる。

【洪徳45】
真に完成したものは、何か欠けているように見えるが、その働きは損なわれていない。 真に充実しているものは、中が虚ろのように見えるが、その働きはきわまる事がない。  最も真っ直ぐなものはゆがんで見え、最も器用なものは不器用に見える。最も優れた弁舌は、口下手に見える。 激しい運動をすれば冬の寒さに勝て、安静にしておれば夏の暑さに勝てる。無為で静かであれば、天下の模範になる。

【儉欲46】
天下に『道』が行われれば平和に成り、軍馬は耕作に使われる。 天下に『道』が行われず、戦乱が続けば、身ごもった母馬も狩り出され、国境の戦場で子を産むことになる。 罪は満足を知らない為政者の欲望より大きいものはなく、災は飽く事のない欲望より大きいものはない。 ゆえに、足るを知る事によって永遠に満足するのだ。

【鑒遠47】
聖人は門を出ないで、天下の事を知ることができる。窓の外を見ないで天の動きを知ることができる。 普通には遠くに行けば行くほど、知る事はいいかげんになるものだが、聖人は行かずして知り、見ずして分かり、行わないで成功するのだ。

【忘知48】
学問をすれば、日一日と知識は増える。だが『道』を修めれば、日一日と知識は減っていく。減らしに減らすと『無為』に至る。  『無為』をもって為せないものはない。天下を取るには常に無事が大切で、それを作為的に行えば、とても天下は取れない。

【任徳49】
聖人には固執した考えはない。民の意思をもって自分の意思とする。民が善と認めたものを善とするが、不善なるものも善とする。その人の心がけによって何時でも善が得られるからだ。  民が信じる人を信じるが、信じられないものも信じる。その人は心がけによって今後信を得る事ができるからだ。聖人は天下にあって、注目して見守る民の心を混沌とさせ、無知無欲の乳児のようにしてしまうのだ。

【貴生50】
人は生まれたら必ず死に向かう。長生する人は十分の三あり、早死にする人も十分の三ある。そのままなら生きていたのに、下手に動いて死ぬ人も十分の三ある。これはなぜか、生への執着があまりにも強いからだ。 かつて聞いた。『善く生を全うする人は陸地を歩いても犀や虎に会わず、戦場でも殺される事はない』と。  その人には犀も角を使えず、虎も爪を使えず、敵兵は武器を使えない。これはなぜか、彼が生に執着しないため、死の境地に入る事がないからだ。

【養徳51】
道が万物を生み出し,徳が万物を養育し、万物に形を与える。こうして万物が完成する。それゆえ万物は道を尊び、徳を重視するのだ。  道が尊敬され、徳が重視されるわけは,誰が命令したというより、昔から自然にそうなっているからだ。  こうして道が万物を生み出し、徳が万物を育て、万物を成長させ、万物に実を結ばせて成熟させ、保護するのである。  万物を生み育てながら自分の物とせず、万物を育てながら自分の力のせいだとせず、万物の頭になって彼らを支配したりしない。  これこそがもっとも深遠な『徳』なのである。

【歸元52】
天下の全てのものには皆、始まりがある。この始まりを天下の万物の根本とする。  万物の根本である母(道)を認識したからには、その子(万物)も認識できる。  万物を認識したからには、さらに根本をしっかりと守らなくてはならない。そうすれば終生危険は無い。  道を修めるには、知識や欲望の入る耳、目、鼻、口などの穴を塞ぐ。門を閉ざせば終生病は発生しない。穴を開き、知識、欲望の入るに任せれば、もはや救いようが無い。  小さな兆しを観察できる事を『明』と呼び、それに対応し柔軟さを保持する事を『強』という。  蓄えられている『光』を用いて、真の『明』に復帰すれば、身に災いは発生しない。これを『永遠の道を習熟した』という。

【益證53】
もし私に英知があり、『道』にもとずいた政治を行うとしたら、私は煩わしい政策をやたら施行しない。  大きな道は平らであるが(途中に検問所や通行税の徴収所などがあったりして)、人々は(そうしたものの無い)小道を選ぶ。  宮殿は非常に美しく清められているが、田畑は荒れ放題、民の倉庫は空っぽなのに、王侯、貴族たちは美しい着物を着て、鋭い剣を帯びている。  おいしい食べ物にも飽き、有り余る財産を保有する。まさに『非道』な話ではないか。

【修觀54】
うまく建てられたものは,揺り動かされず、うまく抱えられたものは,抜け落ちない。こうして子孫は安定し、何世代に亘って祭祀し絶える事が無い。 この原則を個人の単位で実践すれば、その徳は真になる。 家の単位で実践すれば、その徳はあまるほどになり、繁栄する。 村の単位で実践すれば,村は長く繁栄する。 国の単位で実践すれば、その国は豊かになる。 天下の単位で実践すれば、平和があまねくゆきわたる。 こうして人は個人の単位で自分を認識し、家の単位で家を認識し、村の単位で地域を認識し、国の単位で国を認識し、天下の単位で天下を認識する事が出来る。  どのようにして天下の状況を知るかは,これによって測るのである。

【玄符55】
『徳』を厚く中に秘めている人は,無知無欲の乳児と同じだ。毒虫も彼を刺さず、猛獣も彼を襲わず、猛禽も彼を攻撃しない。 彼の骨は弱く、筋肉も柔らかいが、手をしっかりと握っている。 彼は男女の交合も知らないのに、彼の性器は何時も立っているが、それは精気があふれているからだ。 彼が一日中、泣き叫んでも、声がかれる事が無いのは、彼が『和』の気を持っているからである。 『和』は平常心をもたらし、平常心を持つ事を『明晰』という。精気が増す事は喜ばしく、元気になることを剛強になると言うが、物事は剛強になると、必ず衰退に向かう。精気を増す事、元気を増す事に執着し,無理に剛強になることは『道』にかなっていない。『道』にかなっていないと必ず速やかに滅亡する。

【玄徳56】
道を知る人は言わず、言う人は道を分かっていない。 目、耳、鼻、口など(知識の入る)穴を塞ぎ、門を閉ざして鋭い切っ先を表すことなく、いろいろな世間のもつれをといて、その輝きを和らげながら、塵の中に混じっている。こういうものを『玄同』(道)という。 これを持つ人には気易く近ずけないし、遠ざかり疎んじることも出来ない。 利益を得させてもいけないし、損害をかぶらせてもいけない。むやみに彼を尊ぶこともいけないし、彼を卑しめることも出来ない。こういう人だからこそ、天下の人から尊敬されるのだ。

【淳風57】
正しい方法で国を治め、戦争では奇略を用い、無事に天下を統一する。私にどうしてその事が分かるのか、その根拠はこうである。  天下に禁令が多くなればなるほど民はますます困窮する。  民間に武器が多くなればなるほど、国家は混乱する。  技術が進めば進むほど、怪しげなものが出てくる。  法令が行き亘れば、行き亘るほど、盗賊が増える。  だから聖人は言う。『私が無為であれば、民は自ずと従順になり、私が平静を好めば、民は自ずと正しくなる。私がなにもしないと民は自ずと裕福に成り、私が無欲であれば、民は自ずと純朴になる』と。

【順化58】
政治が大まかだと、民は温厚になる。  政治が細かく厳しいと、民は不満を高める。  災禍には幸福が寄り添い、幸福には災禍が潜んでいる。  誰が終局を知っているのだろう。定まるところは無いのだ。  正常は何時でも異常になるし、善は何時でも怪しげなものに変化する。このため人が迷うのは遠い昔からだ。  こうしたわけで聖人は、正しくあっても無理をせず、厳しくあっても人を傷つけず、素直であっても無遠慮でなく、明るく輝いてもきらびやかでない。

【守道59】
人を治め、天に仕えるには『節約』の精神に勝るものは無い。  常に『節約』しているからこそ、どんな事に出会っても、それに早々と対応する準備が出来るのだ。  どんなことに出会っても、落ち着いて早々と準備が出来るのは、それは『節約』という徳が積み重ねられているからだ。 『節約』という徳が積み重ねられていると、いつでも勝利する。いつでも勝利するから、その力は計り知れない。  この計りようのない力があってこそ、国家の政治が管理できるのだ。  国の根本を大切に保てば、統治は永久に維持できるだろう。  それで言う『根を深く、しっかりと堅くすること、それが長寿の道である』と。

【居位60】
大国を治めるには、小魚を煮るように、余り箸でかき混ぜないことだ。(いたずらにいろいろな施策をしない)。 『道』を用いて(無為の精神で)天下を治めれば、精霊の鬼も力を発揮しない。 鬼が力を発揮しないのでなく、その神通力では人を害することが出来ないのだ。 いや、その神通力が人を害せないのでなく、聖人が人を害することがないため、聖人と鬼が互いに害し合うことがないのだ。 こうして聖人と鬼とは互いに『徳』を共有する。

【謙徳61】
大国はたとえれば河の下流である。天下のすべての物が行き着く所 であり、いわば天下の牝である。  牝が何時も牡に勝つのは、牝が穏やかに下にいるからだ。  大国が小国に身を低くして接すれば、小国の信頼を得る。  小国がへりくだって大国に接すれば、大国の信任を得る。  それゆえ時には大国がへりくだって小国の信頼を得、小国は時には大国にへりくだって大国の信任を得るのがよい。  大国は小国の面倒を見たいと欲しているに過ぎず、小国は大国に仕えたいと思っているだけなのだ。  それで大国も小国もともに望みが満たされるわけだが、大国はとくに上手にへりくだるべきである。

【爲道62】
道は万物の奥にあって、善人の宝物であり、悪人もまた持ちたいとするものである。  悪人がこれを持つと、口先上手に人々の尊敬を得て、にこやかな顔で人の上に立つ事が出来るからだ。しかし、たとえ悪人であっても、それを悪人だからといって捨て去ってよいものではない。  天子が即位し、補佐する大臣が決まると、天子を象徴する宝物を先頭にした四頭立ての馬車が献上される儀式が行われるが、そうしたものより、献上者は天子の前に座して『道』を勧めるだけの方が善いのだ。  昔から『道』を尊ぶゆえんは、求めるものが必ず得られ、罪のあるものも許されるといわれるでないか。だから天下の人々に尊ばれるのだ。

【恩始63】
無為とは何もしないことではなく、事態が困難になり、問題が重大にならないうちにそれを見越して人の知らない手をうっていくのである。だから何もしないように見えるのです。

【守微64】
ものごとは大事に至らない微小なあいだにうまく処理すべきです。それでこそ無為の実践が可能なのです。

【淳徳65】
「道」をりっぱに修めた昔の人は、それによって人民を聡明にしたのではなく、逆に人民を愚直にしようとしたのです。

【後己66】
大河や海が多くの川谷の王者になれるのは、これら尊ばれる川谷の下流にあるからで、それで王者になれるのだ。  これゆえ、民を治めようとすれば、まず最初に言葉でその謙虚さを示さなければならない。  民を指導しようとするなら、必ず自分を民の後ろに置かなければ成らない。  それゆえ「聖人」は民の上に立って治めても、民はその重さを感じない。民の前に立って指導しても、民の目の妨げにならない。  こうして天下の民は彼を上に戴きながら、彼を嫌う事は無いのだ。 彼は争わないので、彼と争っても勝てるものはいない。

【三寳67】
人々は私に言う。私の説く『道』は広大だが、他に似たものが無、いと。まさにそれが広大なるゆえんで、広大なるがゆえに似たものが無いのだ。  もし似たものがあれば「道」はずっと昔に、はるかに小さな物になっていたはずだ。  私には三つの宝があり、私はそれを大切にして守っている。  その宝は第一が『慈愛』、第二は『慎ましさ』、第三が『人々の先に立たない』ということだ。  慈愛があるから逆に勇敢になれ、慎ましいから逆に広く行え、天下の人と先を争わないからこそ頭になれるのだ。  だが、慈愛を捨てて勇敢のみを求め、慎ましさを捨てて広く行う事に執心し、譲る事を捨てて先を争えば、その結果は滅亡があるだけだ。  『慈愛』それを戦争に用いれば勝てるし、防衛に用いれば堅固になる。  天が人を救おうとする場合、『慈愛』で守るのだ。

【配天68】
優れた『士』は猛々しくない。よく戦うものは怒らない。よく勝つものはやたらに敵と戦わない。人をうまく用いるものは、人に対して謙虚な態度をとる。 これを『争わない徳』といい、『他人の力を用いる』といい、『天の道』にかなうという。これは昔からの規則なのだ。

【玄用69】
兵法の言葉に『戦は先に仕掛けてはいけない。守勢の立場を取り、一寸進むより、一尺退いて守れ』と。これを相手側から見れば『攻めるに敵の陣営がなく、つかんで持ち上げる敵の腕も無く、前に敵がいないから使うべき武器が無い』という。  敵の力を軽んじるより大きな災いはなく、敵の力を見くびると、先の三つの宝は失われてしまうだろう。ゆえに両軍の勢力が等しい場合には、兵の苦労を思い、先に退いた方が勝つのだ。

【知難70】
私の言葉は大変わかりやすく、大変実行しやすい。だが理解できる人は無く、実行できる人もいない。議論には主旨が必要で、ものごとを行うには主体者がいなければならない。  人々はそれを理解できないから、私の言う事を理解できない。  私の言う事を理解できる人は少ないから,私に習おうという人はほとんどいないが、それだけに,それらの人は尊いといえる。  それゆえ「聖人」は、外には粗末な着物を着ていながら、中に美玉をしのばせていると言うのだ。

【知病71】
知らざるを知ることは上等だ。知りながら、知らざるとする事は欠点である。この欠点を欠点だと気付くと、その欠点は解消する。 「聖人」には欠点が無い。彼は自分の欠点を欠点と考えるから欠点が無いのだ。

【愛己72】
民が天の権威を恐れないならば、恐ろしい天罰が下されるだろう。  自分の住むところを狭いとせず、自分の生計の道を嫌がってはならない。  自分で嫌がらないから、人から嫌がられないのだ。  聖人はただ自己を知ることのみ求めて、自分を表に出さず、自己を愛しても、自分を尊いとはしない。  だから私も自分を表わす事を捨てて、自己を知ることを取るのだ。

【任爲73】
(悪人がいた場合)あえて勇気を持ってこれを殺すか、勇気を持ってこれを殺さずに置くか、この二つは一つは利になり、一つは害になる。天が憎むのはどちらか分からない。誰も天意がどこにあるのか分からないのだ。聖人にとっても、この判断は難しい。  「天の道」は争わずして勝ち、言わずして万物の要求によく応じ、招くことなくやって来させ、ゆっくりとしながらも,うまく計画する。  天の網は広大で網目は荒いが、決して漏らす事は無い。

【制惑74】
民が死を恐れないならば、どうして死刑でもって民を脅かす事が出来るのか。 民が死を恐れるような(平和な)状態で、それでもなお不正を働く者がいるときは,そいつらを捕まえ殺す事が出来れば、誰も不正をしなくなるだろう。  死をつかさどるものは(天の命じた)死刑執行人だが、この死刑執行人に代わって人を処刑するのは、大工を真似て木を削るようなものだ。素人が大工を真似して木を削り、手を負傷しないことはありえないのだ。

【貪損75】
民が飢えるのは、お上が税を取り過ぎるからだ。だから民は飢えに苦しむ。  民を治めるのが難しいのは、すべてお上の行う政治からきている。民が自分の生命も省みず、抵抗するのは,お上が自分の生活を豊かにする事ばかり考えているからだ。だから民は自分の命を捨てても抵抗するのだ。  為政者としては、自分の生活を重んじない人の方が、自分の生活を重んじ過ぎる人よりはるかに賢明だ。

【戒強76】
人が生きている時、身体は柔軟だが、死ねば硬直する。  草木の生きている時は枝や幹は柔らかく脆いが、死ぬと枯れて堅くなる。  ゆえに堅固なものは死に、柔軟なものは生きる。  この事から軍隊は強大になれば何時か敗れ、枝も強大になれば折れる。  つまり剛強さが劣勢となり、柔軟さが優勢となるのだ。

【天道77】
天の道は弓を引いて的を射るのに似ている。的の矢が高過ぎれば、低く撃ち、低過ぎれば緩め、引き足りなければ、強く引く。  天の道は、余分を減らして不足を補う。人の場合はそうではない。足りずに苦しんでいる方から取って、余りある方に与えている。  有り余っている方を減らして、足りない方に与えることができるのは,一体誰だろうか。それは道を得た人だけだ。  聖人は万物を動かして自分の所為とせず、業が成功してもその成果に無関心で、自分の賢さをひらけかそうともしない。

【任信78】
天下には水より柔軟なものは無いが、堅強なものを攻撃する力で水に勝るものが無いのは、これに変わるものが無いからだ。  弱きが強きに勝ち、柔らかさが堅さに勝つ事は、天下の誰もが知っているが、実行できるものはいない。   ゆえに『聖人』は言う。『身を低くし,国中の屈辱を引きうけてこそ天下の王者といえる』と。  どうも正しい言葉は常識に反しているように見えるようだ。

【任契79】
大きな怨みは、どれだけ和らげても、必ず恨みが残る。これではとても『善』とは言えない。  これゆえ『聖人』は借金の証文を取っても、決して返済を厳しく要求しない。  徳のある人は、借用証書を握っているかのように落ち着き、徳なき者は税吏が税を取りたてるように,せっかちに責めたてる。『天の道』は決してえこひいきしないが、常に善人を助ける。

【獨立80】
国を小さくし、民を少なくする。  さまざまな道具はあるが、使用する事はない。 民の生命を重んじて,遠くに移り住まわせない。船や車はあるが、これに乗っていく所はない。  鎧,刀など武器はあるが、これを集めて軍隊にする事はない。   民には古代のように縄を結んで記録する方法を取らせている。  食べ物はおいしく、着るものはきれいだ。住まいも気持ちよく、皆,風俗になじんでいる。  隣国とは互いに望見する事は出来るし、鶏や犬の声も聞こえてくるが、老いて死ぬまで互いに行き来する事はない。

【顯質81】
真実の言葉は美しくなく、美しい言葉は真実でない。  善き人はうまく話せず、うまく話す人は善き人でない。  本当を知る人はひらけかさず、ひらけかす人は知っていない。  『聖人』は何も蓄えず、全ての力を人のために出し、かえって豊かになる。  『天の道』は万物に利益を与えて、害を与えることはない。   『聖人の道』は何をするにも人と争う事がない。

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