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知命立命 心地よい風景

This is Kiyonori Shutou's weblog

【平家物語】 巻第三 八(四〇)有王島下

さて、鬼界が島の流人のうち二人は召し返されて京へ帰った
独りつらかった島の島守となってしまったのがいたわしい

俊寛僧都には、幼いときからかわいがり召し使っていた童子がいた
名を有王という
鬼界が島の流人たちが今日はもう都へ入ると噂に聞き、有王は鳥羽まで行って探したが、主人は見あたらなかった
どうしたことですか
と尋ねると
特に罪が重いので島に残されたのだ
と聞いて、ひどく悲しんだ
いつも六波羅付近に佇み、歩き回って尋ねていたが、いつ赦免があるのか聞き出すことはできなかった

俊寛僧都の娘が人目を忍んで住まわれているところを訪れ
今回の赦免に洩れてしまい、お帰りになれません
なんとか鬼界が島へ渡って、行方をお尋ねしたいと思います
お手紙をお預かりして、参ります
と言うと、姫御前はたいへん喜び、すぐ一筆したためて手渡した

暇を願い出ても許されないだろうと、父にも母にも知らせず、唐船の出航は四月・五月なので、夏では遅いと思ってか、三月の末に都を発った
多くの波路を越え、薩摩の南方へと下った
薩摩から鬼界が島へ渡る港で有王は人々に怪しまれ、着ているものを剥ぎられたりしたが、少しもかまわなかった
姫御前の手紙だけを人に見つからないように髻結の中に隠していた

そして商人舟に乗ってその島へ渡ってみれば、都でかすかに伝え聞いた話など少しもあてにならなかった
田もない、畑もない、村もない、里もない
稀に人はいるが、何を言っているのかわからない
有王は島の者に向かって
あの、すみません
と言うと
なんだ
と答えた
ここに都から流れされた法勝寺の執行御房という人はいませんか
と尋ねたが、法勝寺とも執行とも知っていれば返事くらいはするだろうに、ただ首を振り
知らん
と言う
その中に、知っている者がいて
たしか、ここに三人いて、二人が召し返されて都へ帰った
もう一人は残されて、あちこちさまよっていたが、そのうちどこかへ行ってしまった
と言った

山の方にでもいるのかと奥深く分け入り、峰によじ登り、谷に降りたが、白雲にすっかり覆われて道もよくわからない
青葉を荒らす風は有王の希望を散らし、俊寛の面影さえ見えなかった
山ではついに逢えなかった
海辺に着いて尋ねたが、砂浜に足跡を刻む鴎、沖の白洲に集う浜千鳥の他には誰の姿もなかった

ある朝、磯の方からかげろうのように痩せ衰えた者が一人よろめきながら現れた
以前は法師であったと見えて、髪は空に向いて伸び、いろんな藻屑がくっついて、まるで頭に藪を載せたような姿をしている
関節があらわになり、皮膚はたるみ、身につけたものは絹か布かもわからない
片手には魚を持ち、歩くようにはしているが、うまく進めず、よろよろとやって来た
都で多くの乞食を見てきたが、こんなひどいのは見たことがない
諸阿修羅等、故在大海辺
といって
修羅の三悪道・四悪道は深山・大海のほとりにあり
と仏は説いておられるから、もしかしたら自分は知らぬ間に餓鬼道に迷い込んでしまったのかもしれない
と思った

互いに少しずつ歩み寄る
こんな者でも我が主の行方を知っているかもしれない

あの、すみません
と言うと
なんだ
と答えた
ここに都から流された法勝寺執行御房という方はいませんか
と問うと、童子は見忘れていたが、俊寛僧都は忘れるはずもなく
ここにいるのがそうだ
と言いも終わらないうちに持った物を投げ捨てて、沙の上に倒れ臥す
そうして、この人こそ探し求めていた我が主のなれの果てだと知ったのである

俊寛僧都が気を失われたのを、有王が膝の上に乗せ
荒波を越えてはるばるとここまで尋ね参った甲斐もなく、どうしてすぐにつらい思いをさせるんですか
さめざめと愚痴をこぼすと、俊寛僧都は、少し人心地がつき、抱き起こされて
本当におまえは多くの荒波を越えて、はるばるここまでやって来てくれたんだな、感心するぞ
ただ明けても暮れても都のことばかり偲んでいたから、恋しい者たちの面影を夢に見るときもあり、また幻に立つときもあった
心身もすっかり疲れ、弱ってしまってからは夢なのかうつつなのかもわからない
今おまえがここにいるのも、なんだか夢を見ているようだ
もしこれが夢なら、覚めた後、私はどうしたらいいんだろう

有王は
これは現実です
それにしても、このご様子でよく今まで生き延びておられたことが不思議でなりません
と言うと
実は、去年成経少将と康頼入道を召し返す舟がきたとき、この海に身を投げてしまおうと思ったのだが、あてにならない成経少将の
もう一度、都からの連絡を待たれよ
という慰めの言葉を信じて、愚かにも、ひょっとしたらと期待しつつ
生き延びよう
とは思ったものの、この島には人の食物などなくてな、体力があった頃は、山に登って硫黄というものを掘って、九州とを行き交う商人に会って食べ物と交換するなどしてたのだが、日に日に弱ってしまい、今はもうそんなこともできなくなってしまったのだ
こんな陽気の穏やかなときは磯に出て、投網打ちや釣り人に手を合わせ、膝を屈めて魚を乞い、干潮のときは、貝を拾い、あらめを採り、磯の苔に露の命を賭けて、つらいながらも今日まで生き延びてきた
それ以外、こんな暮らしを生きるのに、どんな手立てがあるというのか

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【平家物語】 巻第三 七(三九)少将都還

同・治承三年一月下旬、丹波少将成経殿と平判官康頼入道の二人は肥前国鹿瀬庄を発って都へと急がれたが、余寒がまだ厳しく、海上もひどく荒れていたので、浦伝い島伝いにたどり、二月十日頃に備前国児島に到着した
そこから父・成親殿が住まわれていたところを訪ね、竹の柱や古びた障子などに書き残された筆の跡を見られて
ああ、人の形見で筆の跡に優るものはない
書き残されなければ、こうして見ることさえできなかった
と、康頼入道と二人、読んでは泣き、泣いては読まれた

安元三年七月二十日、出家
同・二十六日、信俊下向
とも書かれてあった
それにより左衛門尉・源信俊が来ていたこともわかった
近くの壁には
三尊来迎の便りあり
九品往生は疑いなし
とも書かれてあった

この形見を見られ
やはり欣求浄土の望みをお持ちだったんだ
とひどく嘆きながらも、やや気を取り直してそう言われ、墓を訪ねてみれば、松の生い茂る中には、それとわかるように墓を築いた様子もない
土が少し盛り上がった場所で成経殿は袖を合わせ、泣きながら、生きている人に語るように
亡くなったことは、鬼界が島にもかすかに伝わり、知っていましたが、思うようにならない身の上で、駆けつけることもできませんでした
私が鬼界が島へ流れされてからは、心細く、片時の命のすらおぼつかない思いでした
しかし露のような命は消えることなく、二年を過ごし、今、京へ召し返される嬉しさももちろんですが、父上がまさしくこの世に生きておられたことを確認できたことこそ、命を長らえた甲斐もあったというものです
これまでは急いでまいりましたが、今日からは急がず行こうと思います
としみじみと語って泣かれた
生きておられる時ならば、成親殿が
どうした
と言われただろうに、生と死を隔てたことほど恨めしいものはない
苔の下で誰が答えてくれるというのか
ただ嵐に騒ぐ松の枝が響くばかりである

その夜は、康頼入道と二人で経を唱えながら墓の周囲を巡り、夜が明けると新しく墓を築いて、柵を巡らせ、前に仮屋を建て、七日七晩念仏を唱え、写経をし、結願の日には大きな卒塔婆を立てて
聖霊が、生死の苦しみを離れ、大菩提を得られますように
と書き、年号月日の下には
孝子成経
と書かれると、情知らずの賤しい山人も
子に勝る宝はない
と、涙を流さない者はなかった

年が去り、新たな年が来ても、忘れ難いのは育ててくれた昔の恩
夢のようであり、幻のようである
尽きることがないのは、恋い慕う今の涙
過去・現在・未来・四方すべての世界の仏・菩薩もお憐れみになり、成親殿の霊魂もどれほど喜んでいることであろうか

もうしばらく念仏を唱えていたいのですが、都に待つ人たちも寂しがっていることでしょう
またきっと参ります
と父の霊魂に別れを告げて、泣く泣く立ち去られた
草場の陰でも名残惜しく思われていたであろう

同・治承三月十六日、成経殿は鳥羽へ明るいうちに到着された
亡き父・成親殿の山荘・洲浜殿は鳥羽にある
何年も住む者がなくて荒れ果てており、築地はあっても屋根はなく、門はっても扉がなかった
庭に立ち入ってみれば、人の気配はなく、苔が深く生していた
池のほとりを見回せば、秋の山から吹く春風に白波がしきりに立って、紫の鴛鴦や白い鴎が歩き回っている
昔興じていた頃の人恋しさに、涙ばかりがあふれてくる

家はあっても欄門が破れて、蔀や遣戸もなくなっている
ここで父上はこうしておられたっけ
この妻戸をばこんなふうにして出入りいらしたっけ
そういえばあの木は父が自ら植えられたのだった
などと、一言一言、ただ父のことばかり恋しげに語られた
三月十六日のことなので、花は咲き残っていた
山桃、桃、李の梢は、昔の主はいなくても、時季を知っているとでも言いたげに、色とりどりに春を忘れず咲いている
少将は花の下に立ち寄って

桃や李はものを言わないから、人が去ってから幾春が過ぎのたかを語らない、煙や霞は跡を留めないから、昔誰が住んでいたのかもわからない

ふるさとの花が、もし口をきくのなら、どんなにか昔のことを尋ねたいのに

と、古い詩歌を口ずさまれると、康頼入道も、折も折なので哀れに思えて墨染の袖を涙で濡らした
日が暮れるまでと思っていたが、あまりに名残惜しくて、夜が更けるまでそこにいらした

更けるにつれ、荒れた屋敷の常で、古い軒先の板の間から綺麗な月影が覗く
唐の鶏籠山の夜も明けようとしているが、まだ家路へ急ごうとなさらない
しかしそうしてばかりもいられず、迎えの車を待たせているのもすまないと、成経殿は泣く泣く洲浜殿を出て、都へ帰られた
二人の心境は、嬉しくも後ろ髪引かれる思いだったであろう
康頼入道の迎えにも車はあったが
今は名残惜しいから
と、それには乗らず、少将の車の後ろに乗って七条河原まで行った

それから別れたが、なかなか行けずにいた
花の下で半日を過ごした客も、月の前で一夜を過ごした友も、にわか雨をやり過ごすのに樹の下に立ち寄った旅人さえも、別れの名残は惜しいものである
ましてや二人は、つらかった島での暮らし、舟の中、波の上などを共にした、現世で報いを受けた者同士、前世の縁も浅くはないと思い知ったのだろう

成経殿は舅・平宰相教盛殿の屋敷へ立ち寄られた
母君は東山の霊山に暮らしておられたが、昨日から教盛殿の屋敷で帰りを待っておられた
成経殿が立ち寄られる姿をただ一目ご覧になり
命さえあれば
とだけ言われ、衣を被って臥せられた

教盛殿のところでは女房や侍が集まり、死んだ人が生き返ったような心地がして、嬉し泣きをされた
ましてや成経殿の北の方や乳母の女房は、どれほど嬉しかったことだろう
乳母の六条の黒かった髪もすっかり白くなっていた
北の方はあれほど美しい方でいらしたのに、尽きることない物思いにすっかり痩せ衰えて、同じ人とは思えなかった
成経殿が流されたとき、三歳でお別れになった若君・雅経は、すっかり成長して髪を結うほどになっておられた
そのそばに三歳ほどの幼い人がいらしたので、成経殿が
この子は誰だ
と言われると、六条は
この子こそ
とだけ言って涙を流した
流罪にされるとき、妻が苦しげにしていたが、さてはこの子がそうか、よく無事に育ってくれた
と思うだけで愛おしかった

成経殿は以前同様、後白河法皇に召し使われ、宰相中将に昇進された
康頼入道は、東山の双林寺に自分の山荘があったので、それに落ち着いて、まずこう詠まれた

故郷の軒の板間に苔が生し、思っていたほど月影は洩れてこない

そのままそこにこもって、つらかった昔を思いながら
宝物集
という物語を書いたという

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【平家物語】 巻第三 六(三八)頼豪

かつて白河上皇の時代、京極大殿・藤原師実の娘が后になられたことがあった
源顕房の娘が賢子の中宮と呼ばれてご寵愛を受けておられたので、白河上皇は皇子のご誕生を望まれ、当時効験あらたかと評判であった三井寺の僧・頼豪阿闍梨を召し
この后が皇子を授かるよう祈れ
御願が成就したら褒美は望むに任せる
と仰せになった
頼豪はかしこまり承って三井寺に帰り、百日間精根を振り絞って祈ると、中宮はまもなくご懐妊となり、承保元年十二月十六日、安産で皇子がご誕生になった

白河上皇はたいへん喜び、頼豪を内裏へ召して
さて、そちの望みはなんだ
と仰せになると、三井寺に授戒の壇場を建立したいと願い出た
位を飛び越して僧正になりたいとでも申すのかと思っていたが、これは思ってもみない要求だ
そもそも皇子が誕生し、皇位を継承をさせようとするのも世の中を平和に治めたいと思うからだ
今そちの望みを叶えたら、延暦寺が怒って世の中が乱れてしまう
三井寺延暦寺が争ったら天台仏教は滅んでしまうぞ
と拒否された
頼豪は
ああ悔しい
と急いで三井寺に走り帰って、断食し、餓死しようとした

白河上皇はたいへん驚かれ、当時まだ美作守であったという権帥・大江匡房卿を召して
そちは頼豪と師僧と檀那の関係であろう、行ってなだめてまいれ
と仰せになったので、かしこまり承ると急いで三井寺に出向き、頼豪の宿坊へ行って、上皇の仰せを言い聞かせようとしたが、護摩の煙でひどくくすぶった持仏堂に立てこもり、恐ろしげな声で
帝は戯れにものを言わない、その言葉は汗と同じく引っ込めることができないものだというではないか
この程度の望みも叶わないのなら、どうせ自分が祈ってご誕生させた皇子だ、奪い奉って魔道へお連れする
と、ついに対面もしなかった
匡房卿は戻ってこの由を奏聞すると、白河上皇はひどく嘆かれた
頼豪はついに餓死した

そのうちに皇子が苦しまれ、病に臥されたので、さまざまな祈祷を行ったが、回復の兆しは見られなかった
人々が、白髪の老僧が錫杖をついていつも皇子の枕元に佇んでいるのを夢に見たり、現実に立っているのを見たりもした
恐ろしいなどというどころではない

承暦元年八月六日、皇子は御年四歳でついに崩御した
この皇子が敦文親王である

白河上皇はひどく嘆かれ、当時まだ円融坊僧都と呼ばれていた西京の座主・良信大僧正を延暦寺より内裏へ召して
どうしたものか
と相談されると
いつもこのような御願は当延暦寺の力で成就するものでございます
右丞相・九条師輔公も慈恵大僧正と契りを結んでおられたので、冷泉院の皇子がご誕生になりました
たやすいことでございます
と、延暦寺に帰って、百日間精根を振り絞って祈られると、中宮はまもなく百日のうちにご懐妊となり、承暦三年七月九日、安産で皇子がご誕生になった
この皇子が堀河天皇である
怨霊は昔もこのように恐ろしいものであった
今回あれほどめでたい御産に特別な大赦が行われたとはいえ、俊寛僧都ひとりだけが赦免されなかったのだからひどいものである

同・治承二年十二月八日、言仁親王が東宮となられた
東宮傅には小松内大臣重盛殿、東宮大夫には池中納言頼盛卿がなられたという
そうしてその年も暮れ、治承は三年となった

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【平家物語】 巻第三 五(三七)大塔建立

御産の御修法の結願にあたって褒美が下された
仁和寺御室・守覚法親王東寺の修造を命じられた
また後七日の御修法において、大元の法・潅頂の儀式を執り行うよう命じられた
弟子の法眼・円良は法印に昇進となった
座主宮・覚快法親王は、二品の位並びに牛車のままでの建礼門の出入りを許されたが、御室・守覚法親王が反対されたので、弟子の覚誓僧都が法印に昇進した
そのほか褒美は数えてもきりがないほどであったという

日も過ぎたので、中宮は六波羅から内裏へお帰りになった
我が娘が后となられたのだ、早く皇子のご誕生が待ち遠しい
即位させて、夫婦共々、外祖父・外祖母と崇められたいものだ
と願われ
我が崇め奉る厳島へお願いしよう
と、月詣を始められると、中宮はまもなくご懐妊となり、めでたくも安産で皇子がご誕生になった
平家が安芸の厳島を信仰するようになったいきさつはと言えば、清盛入道がまだ安芸守の頃、安芸国からの収入で高野山の大塔を修理するよう、渡辺遠藤六郎頼方を雑事取扱役に就けた

六年後に修理が終った
修理が終えて後、清盛殿は高野山へ上り、大塔を拝み、奥の院に進まれると、髪も眉も白い額にしわのある老僧が、どこからともなく二股の鹿杖にすがってやって来た
この僧と雑談をしていると
この山は昔から真言密教を伝えて途切れたことがありません
天下無双の山です
大塔はもう修理が終わりました
そこでですが、越前の気比宮と安芸の厳島は金剛・胎蔵両界の化身にもかかわらず、気比宮は栄える一方、厳島はないも同然に荒れ果てております
ぜひとも帝に奏聞して、同様に修理をしてください
そうすれば、天下に肩を並べる人もいないほど官位昇進するでしょう
と言って去っていった
この老僧のいらしたところにはなんとも言えない香気が漂っていた
人に命じて追わせられると、三町ほどは見えていたが、その後はかき消すようにいなくなったという

普通の人間ではない
弘法大師でいらしたのだ
とますます尊く思い、現世の思い出にと高野山の金堂に曼陀羅を描かれたが、常明法印という絵師に命じて西曼陀羅を描かせられた
曼陀羅は自分で描こう
と自筆で描かれるとき、何を思われたのか自分の頭を切り、流れた血で八葉の中尊の宝冠を描かれたという
その後都へ上り、院の御所に参上して、このことを奏聞すると、鳥羽上皇も臣下も感動された

さらに任期を延ばして厳島も修理された
鳥居を建て替え、いくつもの社殿を造り替え、百八十間の回廊を造られた

修理が終って後、清盛殿が厳島へ参り、通夜をされていたときの夢に、御宝殿の御戸を押し開いてみずらを結った天童が現れ
そなたはこの剣で天皇家を警護せよ
と言って銀の蛭巻を飾った小長刀を賜った、と見て目覚め、あたりを見回すと、小長刀が枕上に立て掛けられてあった
そして大明神は
そなたは覚えているか忘れたか、聖をもって言わせた言葉を
ただし、悪行があったときには、繁栄が子孫まで及ぶことはないぞ
とお告げになって、大明神は天に昇られた
めでたい出来事である

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【平家物語】 巻第三 四(三六)公卿揃

皇子の乳母には前右大将宗盛卿の北の方と定められていたが、去る治承元年七月に難産のために亡くなっておられたので、平大納言時忠卿の北の方・帥典侍殿が乳母になられて、後に
典侍
と人々は呼んだ
後白河法皇はすぐ御所へ戻られるため、門前に御車を寄せられた

清盛入道は嬉しさのあまり、砂金一千両、富士の綿二千両を法皇に献上した
それはよくない
と人々は言った

今回の御産にはおかしなことがいくつもあった
まず法皇が御験者となったこと
次に后の御産の際に御殿の棟からこしきを転がすときのことである
皇子ご誕生のときは南へ落とし、皇女誕生のときは北へ落とすのだが、今回は北に落とされたので、人々は
なぜだ
と騒がれてこしきを拾い上げ、落し直されたが
なおさら縁起が悪い
と人々は言った
おかしかったのは、清盛入道の狼狽
見事だったのは、重盛殿のふるまい
残念だったのは、前右大将宗盛卿が最愛の北の方に先立たれて大納言・大将の両職を辞し、引きこもっておられたこと
兄弟揃って出仕されていたら、どれほどめでたかったであろう

次に、七人の陰陽師が参上して、千度の御祓を行ったこと
その中に従者も少ない掃部頭・安倍時晴という老人がおり、邸内がまるで筍や稲・麻・竹・葦の密生のように混雑していたときの出来事である
御用を務める者です、開けてください
と押し分けて参内しようとしたところ、どうしたか、右の沓を踏まれて脱げ、その場で少し休んでいると、今度は冠まで落とされてしまった
こんなときに束帯をまとった老陰陽師がばらばらな髻で登場したので、若い公卿や殿上人はこらえきれず、一斉にどっと笑われた
陰陽師などというのは、返陪といって足もおろそかに踏み下ろさないという
にもかかわらず起こったおかしな出来事を、当時はなんとも思わなかったが、後々思い当たる節が増えてきた

御産のときに六波羅へ参内した人々は、関白松殿・藤原基房、太政大臣妙音院・藤原師長左大臣大炊御門・藤原経宗、右大臣月輪殿・九条兼実、内大臣小松殿・平重盛、左大将・徳大寺実定、大納言・源定房、大納言・三条実房、五条大納言・藤原国綱、大納言・藤原実国、按察使・源資方、中御門中納言・藤原宗家、花山院中納言・藤原兼雅、中納言・源雅頼、権中納言・源実綱、中納言・藤原資長、池中納言平頼盛、左衛門督・平時忠検非違使別当・藤原忠親、左宰相中将・藤原実家、右宰相中将・藤原実宗、新宰相中将・源通親、宰相・平教盛、宰相・六角家通、宰相・堀川頼定、左大弁宰相・藤原長方、右大弁三位・藤原俊経、左兵衛督・藤原成範、右兵衛督・藤原光能、皇太后宮大夫・藤原朝方、左京大夫・藤原脩範、太宰大弐・藤原親信、新三位・藤原実清、以上三十三人、右大弁三位・藤原俊経のみ狩衣、他は直衣であった
参上しなかった人々には、花山院前太政大臣藤原忠雅公、大宮大納言・藤原隆季卿以下十余人
後日、無紋の狩衣姿で清盛入道の西八条の屋敷へお祝いに向かわれたという

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【平家物語】 巻第三 三(三五)御産巻

二人は鬼界が島を出て、成経殿の父・教盛殿の領地である肥前国鹿瀬庄に到着した
教盛殿は京から人を送っており
年内は波風も激しく、道中も不安なので、春になってから帰洛するように
と連絡があったので、成経殿は鹿瀬庄で年を越した

同・治承二年十一月十二日の寅の刻より、中宮が産気づかれたので、京中も六波羅も騒ぎになった
御産室は平頼盛邸である六波羅の池殿なので、後白河法皇も御幸した
関白殿をはじめ太政大臣以下の公卿や殿上人など、世に認められ、昇進を望み、官職に就いている人の中に、参上しない人は一人もなかった

先例でも、女御・后の御産の際には大赦があった
大治二年九月十一日、待賢門院の御産のときも大赦が行われた
今回もその例同様に特別の大赦が行われ、重罪の者たちが多く許されていた中で、俊寛僧都だけが一人赦免にならなかったのだからひどいものである
御産が無事に終わり、皇子がご誕生になると、石清水八幡宮平野神社大原野神社などへ中宮が御礼参りなさろうと、願をかけられた
延暦寺の仙源法印が願書を承り、これを謹んで読まれた
神社は伊勢神宮をはじめ二十余か所、仏寺は東大寺興福寺、その他十六か所で御誦経があった
御誦経の使者は、中宮に仕える侍の中から官位を持った者が選ばれ、これを勤めた
美しい平文の狩衣に剣を帯びた者たちが、さまざまな御誦経物や御剣御衣を持って続き、東の対屋から南庭を渡って西の中門に出た
見事な行列であった

重盛殿は例のごとく善悪について騒がれる人ではないので、しばらく経ってから、嫡子・権亮少将維盛以下公達の車を並べさせ、色とりどりの御衣を四十着と銀の剣を七振りを広蓋に置かせ、御馬十二頭を引かせておいでになった
これは寛弘年間、上東門院・藤原彰子御産の折、藤原道長殿が御馬を贈られた例にならったものであるという
重盛殿は中宮の兄上であり父代わりでもいらっしゃるので、御馬を贈られたのも道理である

また五条大納言・藤原国綱卿も御馬二頭を献上した
忠誠心が深いのか、金が余っているのか
と人々は言った
また伊勢神宮から始めて安芸の厳島に至るまで、七十余か所へ神馬を奉納した
内裏にも寮の御馬に御幣紙を付けて数十頭献上した

仁和寺御室・守覚法親王は孔雀経の法、天台座主・覚快法親王は七仏薬師の法、三井寺の長吏・円慶法親王は金剛童子の法、そのほか五大虚空蔵、六観音、一字金輪五壇の法、六字加輪、八字文殊、普賢延命に至るまで余すところなく修法が行われた
護摩の煙は御所中に満ち、鈴の音は雲を響かせる
修法の声には身の毛もよだち、いかなる物の怪であろうとも立ち向えない雰囲気であった
また仏前の法印に命じ、中宮等身大の七仏薬師と五大尊像を作り始められた
それでも、中宮は絶え間ない陣痛に苦しまれ、御産も始まらない

清盛入道と中宮の母・時子殿は胸を手で覆い
ああどうしよう、どうしよう
とうろたえておられた
誰かが何かを話かけても、ただ
ともかくも、よいように
と言われるばかりである
ああ、わしは、合戦の陣ならば、こんなに臆したりしないのに
と後に言われた

御験者は房覚・性運の両僧正、春尭法印、豪禅・実専の両僧都がそれぞれ僧伽の句などを読みあげ、本寺・本山の仏や、普段所持している本尊たちに何度も熱心に祈られた
さすがに効験があるだろう
と尊く思われていた頃、ちょうど後白河法皇は新熊野へ御幸することになっており、精進のついでであったので、中宮の錦帳のそばに座られ、千手経をお読みになると、様子が一変し、物の怪に憑かれてあれほど踊り狂っていた神子たちが、にわかに静まり返った
法皇
たとえいかなる物の怪だろうと、この老法師がいる限り、近づくことはできまい
中でも今現れている怨霊は、皆我が朝恩を受けて一人前になった者だ
たとえ感謝の心を持っておらずとも、どうして邪魔などできようか
すみやかに退くがよい
と仰せられ
女人が出産で苦しんでいる時につけこんで邪魔が入り、苦しみは耐え難かろうとも、心を込めて大悲呪を唱えれば、鬼神も退散して、安産となろう
と千手教を読まれ、皆水晶の数珠を押し揉まれると、安産となったばかりでなく、お生まれになったのも皇子であられた

当時まだ中宮亮でいらした本三位中将重衡卿が御簾の内よりさっと出て
安産でした、皇子のご誕生です
と高らかに告げられると、法皇をはじめ、関白松殿・藤原基房、清盛入道以下、公卿や殿上人、各助修の僧、陰陽寮長官、数人の御験者、また屋敷内外の者まで一同にわっと上げられた歓声は門外まで響き、しばらく静まることもなかった

清盛入道は嬉しさのあまりに声をあげて泣かれた
嬉し泣きとはこのことを言うべきか
重盛殿は急いで中宮のそばへ寄り、金銭九十九文を皇子の枕元に置かれて
天をもって父とし、地をもって母とされよ
御命は仙人や漢の東方朔ほどの長寿を保ち、御心には天照大神が入れ替わられますように
と桑の弓と蓬の矢で天地四方を射られた

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【平家物語】 巻第三 二(三四)足摺

使者は丹左衛門尉基康という者であった
急いで舟から上がり
ここに都から流された丹波少将成経、平判官入道康頼殿はおられないか
とあちこち声をかけて尋ねた
二人は例の熊野詣をしていて、いなかった
法勝寺執行・俊寛僧都が一人いたが、これを聞き
思いが強すぎて夢でも見てるのだろう
それとも天魔が我が心をたぶらかそうとして言っているのだろうか
現実とはとても思えない
と慌てふためいて、走るともなく倒れるともなく急いで使者の前に走ってゆき
我こそ京から流された俊寛だ
と名乗られると、基康は雑用人の首に掛けさせた布袋から清盛入道の赦免状を取り出して渡した
それを開けてご覧になると
重罪は流罪によって許す
早く京へ帰る支度をせよ
このたび中宮の安産祈願のため、特別の恩赦がある
よって、鬼界が島の流人、少将成経と康頼法師を赦免とする
とだけ書かれてあり、俊寛という文字はなかった
書状を包む礼紙にでも書いてあるかと思って見てみたが、ない
奥へ読み進めても、二人とばかり書かれてあって、三人とは書かれていない

そのうちに、成経殿と康頼法師も戻ってきた
成経殿が手にして見ても、康頼法師が読んでも、二人とだけ書かれてあり、三人とは書かれていなかった
夢はときどきこういうことがある、これも夢か
と思ってみたが、現実であった
現実かと思えば、また夢のようでもある
しかも、二人のところへは都からの言伝ての手紙がたくさんあるのに、俊寛僧都のところへは問い合わせの手紙ひとつない
さては、自分の縁者たちは誰も都にはいなくなってしまったのか
と考えると不安になった

そもそも我ら三人は同じ罪、配流の地も同じだ
なのにどうして、赦免のときに二人は召し返され、自分ひとりをここに残すのか
平家の度忘れか、執筆の誤りか
いったいどういうことなんだ
と、天を仰ぎ地に伏して、泣き悲しんでみてもどうにもならない

俊寛僧都は少将成経の袂にすがり
私がこうなったのも、もとはと言えば、そなたの父・亡き大納言成親殿のつまらぬ謀反のせいなのですぞ
だから他人事などとは思わないでいただきたい
許されないなら、都までは無理でも、せめてこの舟に乗せて九州の地まで連れていっていただきたい
これでは二人がいらしたから、春は燕、秋はたのもの雁のおとずるように、自然と故郷の話を伝え聞くことができた
しかしこれから、どうやって知ったらよいというのか
と身悶えされた

成経殿は
そう思われるのも無理はありません
我らが召し返される嬉しさはもちろんですが、あなたの様子を伺っていると、とても置いて帰る気にはなれません
この舟にお乗せして帰りたいとは思うものの、都からの使者がどうしても無理だとしきりに言います
それに、お許しもないのに三人そろって島を出たなどと知られたら、却って事態は悪化します
私がまず京へ帰って人々にもよく話し、清盛入道の機嫌もうかがって、迎えの人を来させましょう
それまではいつものようなお気持ちでお待ちください
人の命は大切なものですから、たとえ赦免にお洩れになっても、最後まで赦免がないなどということはないはずです
と、あれこれ慰められたが、俊寛僧都はこらえきれない様子だった

そして、舟を出そうとすると、俊寛僧都は、舟に乗っては下り、下りては乗って、一緒に行きたげであった
成経殿は形見として寝具一揃え、康頼入道は形見として一部の法華経を残された
艫綱を解いて舟を押し出すと、俊寛僧都は綱にしがみつき、海に腰まで浸かり脇まで浸かり、背の立つところまで引きずられていった
背も立たなくなると、僧都は舟にしがみつき
さては、みんな本当に私を捨てられるおつもりなのか
日頃の情けなど、もはやはなんにもならない、許されなければ、都は無理でも、せめてこの舟に乗せて九州まで連れていってほしい
と懇願されたが、都の使者は
そんなことは到底できない
としがみつかれた手を引きのけて、舟をついに漕ぎ出した

俊寛僧都は仕方なく、渚に上がって倒れ臥し、幼子が乳母や母などを慕うように、足をばたばたさせて
やい乗せてけ、連れてけ
とわめき叫んだが、漕ぎ行く舟の常、跡に白波が残るばかりであった
舟はまだ遠ざからずにいたが、涙にくれて見えないので、俊寛僧都は高いところに登り、沖に向かって手招きをした
万葉集に現れる松浦小夜姫が、夫を乗せて去ってゆく唐船を慕い領巾を振ったのも、これには及ばないように見えた

そして、舟影も見えなくなり、日も暮れたが、俊寛僧都は粗末な寝所へも帰らず、波に足を洗わせながら、そこで夜を明かした
しかし、成経殿は情深い人だから、うまく言ってくれるかもしれない
と頼みをかけて、海に身を投げずにいた心の内は哀れであった
昔、天竺にいた幼い早離・速離兄弟が海巌山に捨てられた悲しみも、今しみじみと思い知られた

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【平家物語】 巻第三 一(三三)許文

治承二年一月一日、院の御所で拝礼が行われ、四日、高倉天皇は年賀挨拶に行幸した
例年と何も変わったことはなかったが、去年の夏、新大納言成親卿以下側近の人々が多く流罪に処せられたことに対し、後白河法皇の憤りは収まっていなかった
そのため政務も何もがみな憂鬱で、ご不快な日々を過ごされていた
清盛入道も、多田蔵人行綱が鹿が谷の陰謀を密告して以来、法皇に対しても信用なさらず、表面上は何事もないような素振りをしながら、裏では用心し、苦笑いばかりされていた

一月七日、彗星が東の空に現れた
蚩尤旗
とも言う
また
赤気
とも言う

同十八日、光を増す
清盛入道の御娘・建礼門院は当時まだ
中宮
と呼ばれておられたが、ご病気ということで、宮中も世間も嘆いていた
あちこちの寺で読経が始まり、あちこちの神社に官幣使が遣わされた
陰陽師は術を極め、医師は薬を尽くした
密教の大法や秘法も残さず行われた
それでも回復の兆しがなく、ご懐妊であったという
高倉天皇は今年十八歳、中宮は二十二歳におなりであった
しかしながら、まだ皇子も皇女もおできにならず
なんとか早く皇子のご誕生がありますように
と平家の人々は今にも皇子のご誕生があるかのように興奮し、喜び合っていた
他の家の人々も
平氏の繁栄は時機を得ている、皇子のご誕生は間違いない
などと言い合われた
ご懐妊が確実になったので、清盛入道は霊験あらたかな高僧に命じて大法・秘法を行い、七曜九星二十八宿や仏・菩薩を祭り、皇子のご誕生を一心に祈誓された

六月一日、中宮は着帯の儀式を行った
仁和寺御室・守覚法親王が急いで参内し、無病息災のため孔雀経の法をもって祈祷した
天台座主・覚快法親王は寺の長吏・円慶法親王と共に参内され、胎内の女子を男子に変える変成男子の法を行われた
そのうち、中宮は月を経る従ってご気分が悪くなっていった
ひとたび微笑めば百のなまめきを醸したという漢の武帝の李夫人が昭陽殿で病に臥されたときもこのようであったかと思われ、唐の楊貴妃が嘆き沈んだとき、梨の花一枝が春の雨に濡れ、芙蓉の花が風に萎れ、女郎花が露の重さにうなだれたときよりも、さらにつらそうであった

このようなお苦しみの折につけ込んで、恐ろしい物の怪どもがたくさん憑いた
霊媒の童子に憑依させ、不動明王の縛にかけると霊が現れた
中でも崇徳上皇の御霊、宇治悪左府藤原頼長の怨念、新大納言・藤原成親卿の死霊、西光法師の悪霊
鬼界が島の流人たちの生霊である
などと名乗った
そこで、生霊も死霊もなだめるべきと、まず讃岐院は御追号により崇徳天皇と号し、宇治悪左府藤原頼長には贈官贈位が行われて太政大臣正一位を贈られた
勅使は少内記・藤原惟基であったという
藤原頼長の墓は、大和国添上郡河上村般若野の五三昧にある
保元元年の秋に掘り起こし、捨てられて後、死骸は道の土となって、年を経るごとにただ春の草が茂るばかりとなった
今回勅使惟基が訪れ、贈官贈位宣命を読んだので、亡霊はどれほど嬉しいと思ったであろうか
怨霊は昔もこのように恐ろしいものであった
そこで、光仁天皇の皇子・早良廃太子崇道天皇と号し、井上内親王を皇后の位に戻した
これらはみな怨霊をなだめるための策であったという
冷泉院が物狂わしくなられたり、花山法皇が十善の帝位を退かれたのも、民部・藤原基方卿の霊によるものであった
また三条院が失明されたのは桓算供奉の霊によるものであるという

門脇宰相・教盛殿はこれらのことを伝え聞かれ、重盛殿に
中宮の御産のご祈祷がいろいろ行われています
なんと言いましても、特別の恩赦以上のものはないと思います
中でも、鬼界が島の流人たちを召し返されるほどの功徳・善根が他にあるでしょうか
と言われると、重盛殿は父・清盛入道の御前に参り
あの丹波少将成経のことを教盛があまりに嘆くのがかわいそうでなりません
中宮がひどく苦しんでおられると伺っておりますが、成親卿の死霊だとも言われております
成親卿の死霊をなだめようとお思いならば、生きている少将成経をお戻しください
人の思いをお止めになれば、お思いのことも叶い、人の願いを叶えられれば、御願もすぐに成就して安産となり、皇子がご誕生になって、一門の栄華はますます盛んになりましょう
と言われると、清盛入道は日頃と変わって心和らぎ
それで、俊寛と康頼法師はどうするのだ
と言われるので
彼らも同様にお戻しください
一人でも残されたのでは却って罪業となりましょう
と言われると、清盛入道は
康頼法師はともかく、俊寛はわしがずいぶん世話を焼いて一人前になった者だ
なのに、他に場所などいくらでもあろうに、東山鹿が谷の山荘に寄り合い、妙な真似をしたというから、俊寛のことは考えてもいない
と言われた

重盛殿が帰って伯父の教盛殿を呼ばれ
成経殿はまもなく赦免があるでしょう
ご安心ください
と言われると、教盛殿は聞き終わらないうちに、泣きながら手を合わせて喜ばれた
配流に処されるときも
どうして自分の処分をもらい受けてくれないのか
と思っていた様子で、私を見るたび涙を流していたのがかわいそうでした
と言われた
重盛殿は
たしかにそのように思われたでしょう
子は誰でも愛しいものです、父にはよくよく申し上げておきます
と言って部屋へ戻られた
そして、鬼界が島の流人たちが呼び戻されることに決まると、清盛入道は赦免状を書いて与えた
使者はすぐに都を立った
教盛殿はあまりの嬉しさに、使者に自分の使いを同行させた
昼夜を忘れて急ぎ下れ
ということであったが、都を七月下旬に出たものの、思うに任せない海路、波風をしのぎつつ行けば、鬼界が島に到着したのは九月二十日頃になってしまった

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【平家物語】 巻第二 一六(三二)蘇武

清盛入道が卒塔婆を見て憐れまれると、京中の老いも若きも身分も問わず、皆
鬼界が島の流人の歌
といって口ずさまない者はなかった
千本も作り出した卒都婆なので、さぞ小さかっただろうに、薩摩の南方からはるばると都まで伝わったのが不思議であった
あまりに思いが強いとこのような験があるのだろうか

昔、漢の昭帝が胡国を攻められたとき、初めは李少卿を大将軍として三十万騎を差し向けられた
漢軍の戦いは弱く、胡国の軍は強くて、その上、大将軍・李少卿を胡国に捕虜に取られた
次に蘇武を大将として五十万騎を差し向けられた
また漢軍が弱くて、胡軍が勝った
六千余人の兵が捕虜となった
その中から、蘇武をはじめとして主立った兵六百三十余人を選び出すと、一人一人片足を切断して放逐した
すぐ死んだ者もあれば、しばらくしてから死んだ者もあった
その中で、蘇武は一人死なずにいた

片足を失った身となって、山に登っては木の実を拾い、里に出ては芹を摘み、秋は田の落穂拾いなどをして露の命を長らえていた
田の面にいる無数の雁は、蘇武を見慣れて恐れなかったので
この雁たちは我が故郷を行き来しているんだな
と思うと懐かしさがこみ上げ、思いを一筆したためると
なんとかこれを昭帝に届けてくれ
と言い含め、雁の羽に結びつけて放った

たのもの雁たちは、秋は必ず北国から都へ入るのが癖で、漢の昭帝が上林苑で管弦を楽しんでおられると、夕暮れの空が薄曇り、なんとなく物寂しくなってきたとき、一行の雁が飛来した
その中から雁が一羽降りてきて、己の羽に結びつけてある手紙を噛み切って落とした
役人がそれを拾って帝に渡したのを、開いてご覧になると
昔は巌窟の洞に閉じ込められて、愁え嘆いて三度の春を送り、今は広い田の畝に捨てられて、敵地・胡国で片足となってしまいました
たとえ屍は胡国の地に散らしても、魂は再び君のおそばに戻ってお仕えします
と書かれてあった
それから手紙を
雁書
とも言い
雁札
とも名づけられている

かわいそうに、これは蘇武の誉れの筆の跡だ
まだ胡国で生きているに違いない
と、今度は李広という将軍に命じて百万騎を差し向けられた

今度の漢軍の戦いは強く、胡国の軍は敗れた
味方が戦いに勝ったと知ると、蘇武は広野の中から這い出して
我こそかつての蘇武だ
と名乗った
片足のない身となって十九年の歳月を送り、輿に乗せられて故郷へ戻った

蘇武は十六歳で胡国に差し向けられたとき、帝から賜った旗をなんとかして持っており、この十九年の間、肌身を離さずにいた
それを今取り出して帝にお見せした
君主も臣下も感激は尋常ではなかった
蘇武は君主のために比類ない大きな功績を立てたので、大国をたくさん賜り、さらに典属国という地位も与えられたという
李少卿は胡国に留まり、ついに帰ることはなかった
なんとかして漢に帰りたいと嘆いたが、胡王が許さなかったのでどうにもならなかった
漢の昭帝はこれをご存じなく
李少卿は不忠の者だ
と、既に死んだ両親の骸を掘り起して鞭打たせられた
李少卿はこれを伝え聞いて深く恨んだ
それでもなお、故郷を恋いながら、不忠の心などまったくないことを一巻の書に記して漢に送ると
かわいそうなことをした
と、父母の骸を鞭打たせられたことを悔やまれた

漢の蘇武は書を雁の羽につけて故郷に送り、我が国の康頼は波の便りで歌を故郷に伝えた
蘇武は一筆の手慰み、康頼は二首の歌、蘇武は上代、康頼は末代、そして胡国と鬼界が島、場所を隔て、時代は変わっても、風情に変わりのない稀な出来事であった

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【平家物語】 巻第二 一五(三一)卒都婆流

さてこの二人、普段は三所権現の御前で夜を徹して祈願することもあった
ある夜、通夜をして、一晩中今様などを歌っていたが、明け方、苦しさから少しまどろんで見た夢の中で、白い帆を掛けた舟が一艘、沖から波打ち際に向かって漕ぎ寄せて来ると、紅の袴を着た女房たちが二・三十人、渚へ上がり、鼓を打ち、声を調えて

あらゆる仏の願よりも、千手観音の誓願の方が頼もしい

枯れた草木もたちまちに、花咲き実が生ると聞いている

と繰り返し繰り返し、三度歌うとかき消すようにいなくなった
康頼入道は目覚めると不思議な気持ちになり、こう思った
あれはきっと龍神の化身に違いない
熊野三所権現の西の御前本来のお姿は千手観音であられる
龍神は千手観音二十八部衆の一柱だから、きっと願を聞き届けてくださるに違いない

ある夜、また二人で通夜をし、同じようにまどろんでいると、沖からの風が、二人の袂に木の葉を二枚吹きかけた
それをなんとなく手に取ってみると、熊野三所権現のなぎの葉であった
二枚のなぎの葉には、虫食いによって一首の歌が詠まれていた

ちはやぶる神に何度も祈るから、都へ帰れぬことはないはず

康頼入道は故郷の恋しさのあまりに、精一杯の手段と思ってか、千本の卒都婆を作り、阿字の梵字、年号月日、仮名、実名、そして二首の歌を書きつけた

薩摩潟、沖の小島に私はいると、親に伝えよ八重の潮風

想像してほしい、ほんのしばしの旅ですら、故郷は恋しいことを

これを浦に持って出ると
南無帰命頂礼、梵天帝釈、四大天王、堅牢地神、宮中の鎮守諸大明神、とりわけ熊野権現、安芸厳島の大明神、せめて一本だけでも都へ伝えてください
と祈りながら、沖の白波が寄せては返すたび、卒都婆を海に浮かべた
卒都婆は作るとすぐに海に浮かべたので、日数が経るにつれて卒都婆の数も増していった
その思う心が便りの風となったのか、それとも神明・仏陀が送られたのか、千本中の一本が安芸国厳島大明神の前の渚に流れ着いた

この地には康頼入道と縁のある僧がいて、機会があったら鬼界が島に渡って康頼殿を探そうと西国へ修行に出て、まず厳島を詣でていたのだった
そこに、神官と思しい狩衣装束の俗人が一人現れた
この僧は雑談の中で
衆生を救うの方法はさまざまであるとは言いますが、この神様はどのような因縁で大海の魚に縁を結ばれたのでしょうか
と尋ねると
これは、娑竭羅龍王の第三の姫宮、胎蔵界大日如来が化身となって現れたのだ
この島に化身となって現れた当初から衆生を救う現在に至るまでの不思議な霊験の数々を語った
それゆえか、厳島の御殿は八社が屋根を並べ、社は海神のそばに建ち、潮の満ち干に月がすむ
潮が満ちれば、大鳥居や緋色の垣根は瑠璃のように見える
潮が引けば、夏の夜でも御前の白洲に霜が降りる

僧はますます尊く思えてその場にいたが、しだいに日も暮れ、月が昇って、潮が満ちてくると、なにやら波に揺られて流れてくる藻屑の中に卒都婆が見えたので、なんとなく拾ってみると
沖の小島に私はいる
と、書いて流された言葉であった
文字は彫り刻まれていたので、波にも洗われることなく、くっきりと見てとれた
僧は不思議に思い、笈の肩に挿して都へ帰り、康頼殿の老母の尼君や妻子たちが一条の北や紫野というところにひっそりと住んでいたので、訪ねてそれを見せたところ
どうして、この卒都婆が唐土の方へ流れ去ることなく、いまさらここへ知らせに来て、悩ましい思いをさせるのでしょう
と悲しんだ

その話は後白河法皇の耳まで届き、卒塔婆をご覧になると
なんとかわいそうに、この者たちはまだ生きているのだ
とありがたくも涙を流された
これを重盛殿に届けると、父の清盛入道に見せられた
柿本人麻呂は、島影に隠れて行く舟を偲び、山辺赤人は芦辺の鶴を眺め、住吉明神は寒い夜に千木のことを思い、三輪明神は目印の杉が立つ門を指し、おのおの歌に詠んだ
昔、素戔嗚尊が三十一字の大和歌をお詠みになって以来、多くの神明・仏陀も、歌でさまざまな思いを述べられた
清盛入道も岩や木ではないので、なんとも哀れなふうに言われた

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