【源氏物語】 (弐佰拾捌) 浮舟 第五章 浮舟の物語 浮舟、恋の板ばさみに、入水を思う
紫式部の著した『源氏物語』は、100万文字・22万文節・54帖(400字詰め原稿用紙で約2400枚)から成り、70年余りの時間の中でおよそ500名近くの人物の出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む平安時代中期に成立した典型的な長編王朝物語です。
物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされています。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生が描かれているのです。
そんな今回は、「浮舟」の物語の続きです。
【源氏物語】 (佰漆拾壱)第三部 はじめ 源氏没後の子孫たちの恋と人生!
第五章 浮舟の物語 浮舟、恋の板ばさみに、入水を思う
[第一段 春雨の続く頃、匂宮から手紙が届く]
雨が降り止まないで、日数が重なるころ、ますます山路通いはお諦めになって、たまらない気がなさるので、「親が大切にする子は窮屈なもの」とお思いになるのも恐れ多いことだ。尽きない思いの丈をお書きになって、
「眺めやっているそちらの方の雲も見えないくらいに
空までが真っ暗になっている今日このごろの侘しさです」
筆にまかせて書きすさびなさったのも、見所があって、美しそうである。特に大して重々しくはない若い気持ちでは、
「とてもこのような気持ちに惹かれるにちがいないが、初めから約束なさった様子も、やはり何といっても、あの方は、やはりとても思慮深く、人柄が素晴らしく思われたのなども、男女の仲を知った初めのうちだからであろうか、このような情けないことを聞きつけて、お疎みになったら、どうして生きていられようか。
早く殿に迎えられるようにと気を揉んでいる母親は、思いもかけないことで、気にくわないと、困ることであろう。このように熱心になっていらっしゃる方は、また一方で、とても浮気なご性質とばかり聞いていたので、今は熱心であっても、またこのような状態で、京にお隠し据えなさっても、末長く情けをかける一人として思ってくださることにつけては、あの上がどのようにお思いになることやら。何事も隠しきれない世の中なのだから、不思議な事のあった夕暮の縁だけで、このようにお尋ねになるようだ。
まして、自分が宮にかくまわれることになっても、殿がお知りにならないことがあろうか」
と次々と考えると、「自分ながら、まちがいがあって、あの殿に疎まれ申すのも、やはりつらいことであろう」とちょうど思い乱れている時、あの殿からお使者がある。
[第二段 その同じ頃、薫からも手紙が届く]
あれこれと見るのも嫌な気がするので、やはり長々とあった方を見ながら、臥せっていらっしゃると、侍従と、右近とが、顔を見合わせて、
「やはり、心が移ったわ」
などと、声に出さないで目で言っている。 「無理もないことです。殿のご器量を、他にいらっしゃらないと見たが、こちらの宮のご容姿は大変なものでした。おふざけになっていらした愛嬌は。わたしならば、これほどのご愛情を見ては、とてもこうしていられません。后の宮様にでも出仕して、いつも拝見していたい」
と言う。右近は、
「安心できないお方ですよ。殿のご様子に勝る方は、誰がいらっしゃいましょうか。器量などは知りませんが、お心づかいや感じなどがね。やはり、このご関係は、とても見苦しいことですね。どのようにおなりあそばそうとするのでしょうか」
と、二人で相談する。独りで考えるよりは、嘘をつくにもよい助けが出て来たのであった。
後者のお手紙には、
「思い続けながら幾日にもなったこと。時々は、そちらからもお手紙をお書きになることが、理想的でしょう。並々には思っていません」
などと、端に、
「川の水が増す宇治の里人はどのようにお過ごしでしょうか
晴れ間も見せず長雨が降り続き、物思いに耽っていらっしゃる今日このごろ
いつもよりも、思うことが多くて」
と、白い色紙で立文である。ご筆跡もこまやかで美しくはないが、書き方は教養ありげに見える。宮は、とても言葉数多いのを、小さく結んでいらっしゃるのは、それぞれに興趣深い。
「とりあえず、あれを。誰も見ていないうちに」
とお促し申す。
「今日は、お返事申し上げることができません」
と恥じらって、手習に、
「里の名をわが身によそえると
山城の宇治の辺りはますます住みにくいことよ」
宮がお描きになった絵を、時々見ては自然涙がこぼれた。「このまま末長く続くものではない」と、あれやこれやと考えてみるが、他には関係をすっかり断ってお逢いしないのは、とても耐えられなく思われるのであろう。
「真っ暗になって晴れない峰の雨雲のように
空にただよう煙となってしまいたい
雲に混じったら」
と申し上げたので、宮は、声を上げて泣かれる。「死にたいとはいえ、恋しいと思っているらしい」とご想像なさるにも、物思いに沈んでいる様子ばかりが面影にお見えになる。
真面目人間は、のんびりと御覧になりながら、「ああ、どのような思いでいるのだろう」と想像して、たいそう恋しい。
「寂しくわが身を知らされる雨が小止みもなく降り続くので
袖までが涙でますます濡れてしまいます」
とあるのを、下にも置かず御覧になる。
[第三段 匂宮、薫の浮舟を新築邸に移すことを知る]
女宮にお話などを申し上げた機会に、
「失礼なとお思いになるやもと、気がひけますが、そうはいっても古くからの女がございましたが、賤しい所に放って置いて、ひどく物思いに沈んでいるというのが気の毒なので、近くに呼び寄せて、と思っております。昔から人とは異なった考えがございまして、世の中を、普通の人とは違って過ごそうと思っておりましたが、このようにご結婚申して、一途には世を捨てがたいので、そんな女がいるとは知らせなかった身分の低い者でさえ、気の毒で、罪障になりそうな気がいたしまして」
と、申し上げなさると、
「どのようなことをお考えおいていらっしゃるとも存じませんが」
と、お返事なさる。
「帝になど、良くないようにお耳に入れ申す人がございましょう。世間の人の噂は、まことにつまらない良くないものでございますよ。けれども、その女は、それほど問題にもならない女でございます」
などと申し上げなさる。
「新築した所に移そう」とお決めになったが、「このようなための家だったのだ」などと、ぱあっと言い触らす人がいようかなどと、困るので、たいそう人目に立たないようにして、襖障子を張らせることなど、人もあろうに、この大内記の妻の父親で、大蔵大輔という者に、親しいので気安く思って、命令なさっていたので、妻を介して聞き知って、宮にすっかり申し上げた。
「絵師連中なども、御随身の中にいる者で、親しい家人などを選んで、隠れ家とはいっても特別にお気をつけてなさっています」
と申すので、ますます胸騷ぎがなさって、ご自分の乳母で、遠国の受領の妻となって下る家で、下京の方にあるのを、
「ごくごく内密の女を、しばらく隠して置きたい」
とご相談があったので、「どのような女であろうか」とは思うが、重大事とお思いでいられるのが恐れ多いので、「それではどうぞ」と申し上げた。この家を準備なさって、少しお心が安心なさる。今月の晦日頃に、下向する予定なので、「すぐその日に女を移そう」とご計画なさる。
「これこれと思っている。決して他人に気づかれてはならぬ」
と言いやりなさっては、ご自身がお出向きになることは、とても難しいところに、こちら宇治でも、乳母がとてもうるさいので、難しい旨をお返事申し上げる。
[第四段 浮舟の母、京から宇治に来る]
大将殿は、四月の十日とお決めになっていた。「誘ってくれる人がいたらどこへでも」とは思わず、とても変で、「どうしたらよい身の上だろうか」と浮いたような気持ちばかりがするので、「母親のもとにしばらく出かけていたら、思案する時間があろう」とお思いになるが、少将の妻が、子供を産む時期が近づいたということで、修法や、読経などでひっきりなしに騒がしいので、石山寺にも出かけるわけにゆかず、母親がこちらにお越しになった。乳母が出て来て、
「殿から、女房の衣装なども、こまごまとご心配いただきました。何とかきれいに何事も、と存じておりますが、乳母独りのお世話では、不十分なことしかできませんでございましょう」
などとはしゃいでいるのが、気持ちよさそうなのを御覧になるにつけても、女君は、
「とんでもない事がいろいろと起こって、物笑いになったら、誰も彼もがどのように思うであろう。無理無体におっしゃる方は、また、幾重にも山深い所に隠れても、必ず探し出して、自分も宮も身を破滅してしまうだろう。やはり、気楽な所に隠れることを考えなさいと、今日もおっしゃっているが、どうしたらよいだろう」
と、気分が悪くて臥せっていらっしゃった。
「どうして、このようにいつもと違って、ひどく青く痩せていらっしゃるのでしょうか」
と驚きなさる。
「ここ幾日も妙な具合ばかりです。ちょっとした食事も召し上がらず、苦しそうにおいであそばします」
と言うと、「不思議なことだわ。物の怪などによるのであろうか」と、
「どのようなご気分かと心配ですが、石山詣でもお止めになった」
と言うのも、いたたまれない気がするので、まともに目を合わせられない。
[第五段 浮舟、母と尼の話から、入水を思う]
日が暮れて月がたいそう明るい。有明の空を思い出すと、「涙がますます抑えがたいのは、まことにけしからぬ心がけだ」と思う。母君、昔話などをして、あちらの尼君を呼び出して、亡くなった姫君のご様子、思慮深くいらして、しかるべき事柄をお考えになっていた間に、目の前でお亡くなりになったことなどを話す。
「生きていらっしゃったら、宮の上などのように、親しくお話し合いさって、心細かった方々のご境遇が、とてもこの上なくお幸せでございましたでしょうに」
と言うにつけても、「自分の娘とて他人ではない。思い通りの運命がお続きになったら、負けるまいに」と思い続けて、
「いつもいつも、この君の事では、何かと心配ばかりしてきましたが、様子が少しよくなって、このように京にお移りなるようですから、こちらにやって参ること、特別にわざわざ思い立つこともございますまい。このようなお目にかかった折々に、昔の話を、のんびりと承りたく存じます」
などと話す。
「縁起でもない身の上とばかり存じておりましたので、こまごまとお目にかかってお話し申し上げますのも、どんなものかしらと、遠慮して過ごしてまいりましたが、見捨てて、お移りになりましたら、とても心細くございましょうが、このようなお住まいは、不安にばかり拝見してましたので、嬉しいことでございますね。又となく重々しくいらっしゃるらしい殿のご様子で、このようにお訪ね申し上げなさったのも、並々な愛情ではないと申し上げたことがございましたが、いい加減なことで、ございましたでしょうか」
などと言う。
「先の事は分かりませんが、ただ今は、このようにお見捨てになることなくおっしゃるにつけても、ただお導きによるものと思い出し申し上げております。宮の上が、もったいなくもお目をかけてくださいましたのも、遠慮されることなどが、自然とございましたので、中途半端で身の置き所のない方だ、と嘆きまして」
と言う。尼君はにっこりして、
「この宮の、とてもうるさいほどに好色でいらっしゃるので、分別のある若い女房は、お仕えにくそうで。だいたいは、とても素晴らしいご様子ですが、その方面のことで、上が失礼なとお思いになるのが困ったことだと、大輔の娘が話しておりました」
と言うにつけても、「やはりそうか、それ以上にわたしは」と、女君は臥せって聞いていらっしゃった。
[第六段 浮舟、母と尼の話から、入水を思う]
「まあ、嫌らしいこと。帝のお姫様をお持ちになっていらっしゃる方ですが、他人なので、良いとも悪いともお咎めがあろうとなかろうと、しかたのないことと、恐れ多く存じております。良くない事件を引き起こしなさったら、すべてわが身にとっては悲しく大変なことだとお思い申し上げても、二度とお世話しないでしょう」
などと話し合っている内容に、ますます胸も潰れる思いがした。「やはり、自殺してしまおう。最後は聞きにくいことがきっと出て来ることだろう」と思い続けると、この川の水の音が恐ろしそうに響いて流れて行くのを、
「こんな恐ろしくない流れもありますのにね。又となく荒々しい川の所に、歳月をお過ごしになるのを、不憫とお思いになるのも当然のこと」
などと、母君は得意顔で言っていた。昔からこの川の早くて恐ろしいことを言って、
「最近、渡守の孫の小さい子が、棹を差し損ねて川に落ちてしまいました。ぜんたい命を落とす人が多い川でございます」
と、女房も話し合っていた。女君は、
「それにしても、わが身の行く方が分からなくなったら、誰も彼もが、あっけなく悲しいと、しばらくの間はお思いになるであろうが、生き永らえて物笑いになって嫌な思いをするのは、いつ物思いがなくなるというのだろう」
と、死を考えつくと、何の支障もないように、さっぱりと何事も思われるが、また考え直すと実に悲しい。母親がいろいろと心配し言っている様子に、寝たふうをしながらつくづくと思い心乱れる。
[第七段 浮舟の母、帰京す]
悩ましそうに臥せっていらっしゃるのを、乳母にも言って、
「しかるべき御祈祷などをなさいませ。祭や祓などもするように」
などと言う。御手洗川で禊をしたい恋の悩みなのに、そうとも知らずにいろいろと言い騒いでいる。
「女房が少ないようだ。よい適当な所から尋ねて。新参者は残しなさい。高貴な方とのご交際は、ご本人は何事もおっとりとお思いでしょうが、良くない仲になってしまいそうな女房どうしは、厄介な事もきっとありましょう。表立たず控え目にして、そのような用心をなさい」
などと、気のつかないことがないまでに注意して、
「あちらで病んでおります人も、気がかりです」
と言って帰るのを、とても物思いとなり、何事につけ悲しいので、「再びと会わずに、死んでしまうのか」と思うと、
「気分が悪うございましても、お目にかかれないのが、とても不安に思われますので、少しの間でもお伺いしていたく存じます」
と慕う。
「そのように思いましても、あちらもとても何かと騒がしくございます。こちらの女房たちも、ちょっとしたことなどできそうもない、狭い所でございますので。武生の国府にお移りになっても、こっそりとお伺いしますから。人数ならぬ身の上では、このようなお方のために、お気の毒でございます」
などと、泣きながらおっしゃる。
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