知命立命 心地よい風景

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酔古堂剣掃より学ぶ!悠々たる人の生き方!

徳川時代から明治・大正を中心に広く普及し、多くの文人墨家が愛読したものとして『菜根譚』よりずっと内容が豊富で面白いとまで言われていた『酔古堂剣掃』。
国内では昭和53年から数回増版され、平成元年までは細々と出版された後、今ではほぼ絶版状態になっているような状態です。
今のように先行きが不安な時代だからこそ、こうした佳書はもっと多くの人に読まれるようになってほしいと思い、整理してみることにしました。

『酔古堂剣掃』は、中国・明朝末の教養人・陸紹珩(字は湘客)が長年愛読した儒仏道の古典である史記漢書などの中から会心の名言・嘉句を抜粋し、収録した読書録です。
特徴としては、『菜根譚』と同様に自然の描写と観察が豊富で優れており、世の名利から距離を置いた悠々たる人の生き方を活写した風雅の書といわれています。

原本は十二巻で成り立っており、一巻毎に片言隻句の内容が分類された構成となっています。
第一巻:醒(せい)…心を醒まさせる句を載せるとする。
  世情が乱れると、人は酔ったように正気ではなくなってしまいます。まさに今の時代ですね。
  そこで、本来の人間らしい生活をするには活眼を開くしかないですよ、目を醒ましましょう!という警鐘を、一番最初の巻としています。
第二巻:情(じょう)…情味のある句を載せるとする。
  目を醒ましても、冷めるのでは理屈っぽかったり意地っ張りな傾向に陥るので、人情味を持ち合わせて大切にしましょう、ということです。
第三巻:峭(しょう)…聳然とした句を載せるとする。
  峭は山の険しい形を表しており、情に流されるだけではだらしなくなってしまうので、このままではいけない、奮起するところから始めよう、と繋げている訳です。
第四巻:霊(れい)…魂の句を載せるとする。
  奮起するにしても、目的もなく暴走するのではなく、魂・志を持ちあわせましょう、ということです。
第五巻:素(そ)…素朴な句を載せるとする。
  感覚や感情だけで突き進むのではなく、平素・平常の心で自然体でいきましょう、ということです。
第六巻:景(けい)…景色の句を載せるとする。
  ここまでくると、ようやくいろんな景色が見えてくるので、その景色を楽しみましょう、ということです。
第七巻:韻(いん)…韻律のある句を載せるとする。
  そんな景色も平凡・単調ではなく、春夏秋冬それぞれにいろいろなリズム・韻律が生まれてくる、ということです。
第八巻:奇(き)…奇抜な句を載せるとする。
  景色に韻律が加わると、平凡ではなくなる、要は奇抜になってこなければならない、ということです。
第九巻:綺(き)…煌びやかな句を載せるとする。
  ではどうずればよいか、それには風情やロマンを持たせる必要がある、ということです。
第十巻:豪(ごう)…豪邁な句を載せるとする。
  こうした風情も、線が細くなると退廃してしまうので線を太くする、つまりは気魄を優れたものにする、ということです。
第十一巻:法(ほう)…締めくくり(法)のある句を載せるとする。
  こうした豪も、豪邁・気性が強くなり、常軌を逸して型破りなことをしがちになるので、法に則りましょう、ということです。
第十二巻:倩(せん)…大丈夫の句を載せるとする。
  そういたことから、立派な人になりましょう、ということで締めくくります。

内容は、「足るを知る虚無観」「好煩悩と百忍百耐」「生活・自然・風流」「山居・幽居の楽しみ」などから自然と共生して生きる喜びを味わえと訴えている、人格よりも経済力を、過程よりも結果を重視しがちな現代人に対する警鐘の書ともいえる内容です。

そんな『酔古堂剣掃』から、幾つかピックアックしてみます。
後半は、徐々に飲みたくなるような名言・嘉句を並べてみました。

”志は高華なるを要し、趣は淡白ならんことを要す”
志は高く掲げ、でも感情に荒ぶることなく穏やかでいよう、ということです。

”眼裡、点の灰塵なくして方に書千巻を読むべし。 胸中、些の渣滓なくして纔に能く世に処すること一番す”
眼中に一点の曇りもなくなってこそ、本当の読書・学問ができる。
胸中に一切のかすを無くして明朗闊達であって、初めて世に処していける、ということです。

士大夫、三日書を読まざれば、則ち理義胸中に交らず。 便ち覚ゆ、面目憎むべく、語言味無きを”
三日も書を読まなければ、哲学が胸中より離れ、面構えや認証が悪くなり、言葉も味が無いような気がする。

”書を読みて倦む時、須らく剣を看るべし。英発の気、磨せず。文を作りて苦しむの際、詩を謌うべし。鬱結の懐、随いて暢ぶ”
書物を読んで疲れたときは、ぜひ刀を看るがよい。発する気が消磨していないことがわかるからである。
文章を作って苦しむときは、詩を吟ずるがよい。むすぼれた懐いが次第に暢やかになるからである。

”友に交はるには、すべからく三分の侠気を帯ぶべく、人と作るには要ず一点の素心を存すべし。”
友人と交わるには必ず三分の侠気を帯び、人間たるには一点の純真な心を保つべきである。

”人情に近からざれば世を挙げて皆畏途なり。物情を察せざれば一生倶(とも)に夢境なり”
人情を得ない、人情がピッタリ来ないと世を挙げて、人の世の中は実に怖い・警戒しなければならない。
人情に近くない、人情に反するとなると世の中は難しい。
物事がいかにあるべきかという実情を察しないと、人間の一生とは何だかわからない夢のようなもの。
だから、人情と物情を明らかにすることは、非常に大切なことである。
天下は昏迷不醒。そこで迷うて醒めない人々の悪酔いを醒めさせてやりたいものだということです。

”才人の行は多くは放なり。当に正を以て之を斂むべし。正人の行は多くは板あり。当に趣を以て之を通ずべし”
才人の行いは多く放埓になるから、正義をもってこれを収斂するべきである。正しい人の行いは多くは型にはまって単調になるから、趣味や芸術をもってこれを行うようにするべきである。

”嬾には臥すべし、風つべからず。静には座すべし、思うべからず。悶には対すべし、独なるべからず。労せば酒のむべし、食うべからず。酔えば睡るべし、淫すべからず”
人はものうい、気合が入らないときには、ぐずぐずせずに寝てしまえ。
静かで落ち着いたときには正座して、くだらないことを考えるな。
人は一人だとどうしても考え込んだり、くだらないことに悩みがちだが、友や佳書といった意義や権威あるものに差し向かって対峙しなさい。
疲れたら、酒を飲め、疲れて食べると腹を壊したりするので、気をつけろ。
酔ってしまえば眠るに限る、酔って淫するようなことはしない方がよい。
これは五不可といって有名な格言であるようですが、たいていの人間はこの逆をやっているという戒めでもあります。

”花は半開を看、酒は微酔を欲す”
華は半分開いたぐらいが丁度よい、酒はほんのり酔うぐらいが丁度よい。

”肝胆相照らせば、天下と共に秋月を分たんと欲す。意気相許せば、天下と共に春風に座せんと欲す”
お互いに心の中を打ち明けて気が合う人と一緒にいるぐらい楽しいことはない。
秋の月というのは心が澄んで、清くきれいだ。
気が合う友と心を通わせれば、天下の世の中でいつまでも一緒にいたいと思うものだ。
こんな友を得られるだけの人物にならなければなりませんね。

”刺を投じて空しく労するは原と生計にあらず。裾を曳いて自ら屈するは豈に是れ交遊ならんや”
名刺を差し出して、社長さんや重役やらあちこちウロウロして功名を図るのは人がいかに生きるべきかの本質の謀ではない。
腰を低くしてご機嫌を取って回ることが、本当の交際をは言えないのである。
単に毎日の生活を立てる生計でなく、自分はいかに生くべきかという人の根源的生き方を問うているものです。

”法飲は宜しく舒なるべし。放飲は宜しく雅なるべし。病飲は宜しく少なかるべし。愁飲は宜しく酔うべし。
 春飲は郊に宜し。夏飲は洞に宜し。秋飲は船に宜し。冬飲は室に宜し。夜飲は月に宜し”
形式ばった酒宴では硬くなってはならない。
わがまま勝手に飲むのは、洗練されセンスがなければならない。
病気で大酒を飲むのは駄目だが、少しぐらい使うのであればよい。
泣き上戸が飲むのは、迷惑で困り者である。
春は郊外で、夏は涼しいところで、秋は船で、冬は部屋で、夜は月を愛でながら飲むのがよい。

”花を鑑賞するには須らく豪友と結ぶべし。妓を観るには須らく淡友と結ぶべし。山に登るには須らく逸友と結ぶべし。水に汎(うか)ぶには須らく曠友と結ぶべし。月に対するには須らく冷友と結ぶべし。雪を待つには須らく艶友と結ぶべし。酒を捉るには須らく韻友と結ぶべし”

花見に行くなら豪爽な友にすればよい。芸妓を観るにはあっさりした友がいい。登山をするなら俗気のない友にするのがいい。舟遊びをするにはおおらかな友がいい。雪見の友なら美女がよい。酒の友なら風流人しかいない。

生きることは運命であり宿命ですが、”いかにあるべきか”を知ることを”知命”と言います。
そして、それを如何に創造・実践していくこと、一身の一時的な利害などに囚われず世の中を救おうと心を尽くすことが”立命”というものです。
日本やこれからの私達はこの”知命”を立て”立命”していかなければなりません。
このような整理も、そのための誰かのお役に立てれば幸いです。

以下、一部抜粋。

「酔古堂剣掃」を刻すの叙

書は以て人の神智を益すべし。剣は以て人の心膽を壮にすべし。
是れ古人の書剣を併称する所以にして、而して文事ある者は必ず武略ある也。
但し世上の奇書、多くは西土に出づ。而して刀剣は則ち、我が邦ひとり宇宙に冠絶せり。
ただに紫電・白虹のみならず、[尸+羊]を切り蛟を断つ也。
余、夙に刀剣の癖あり。一室に坐して、左に劍、右に書、竊かに以て南面百城※(天子富豪)の楽に比す。
其れ抑鬱無聊の時に当る毎に、輙ち匣を発(ひら)き払拭してこれを翫す。
其の星動龍飛、光彩陸離を視れば、すなはち大声叫快し、妻児婢僕は皆な騒然として以て狂となす。
余の精神が煥発し、霊慧は開豁にして、面上三斗の俗塵の一掃せらるるを知らざる也。
古人のいはゆる「書を検して燭を焼くこと短し。剣を看て引杯長し。」※杜甫「夜宴左氏庄」
読書倦む時は須く剣を看るべし。英発の気を磨せざるは、皆な先づ吾が志を獲ると謂ふべし。然らば今の此の楽しみ也。
余の之(ゆ)く所は独り。世の人の之く所と同じくせず。
若(も)し夫れ読書の中に、実に剣の趣を看る者は、其れ惟(た)だ酔古堂剣掃なり。
其の命名すでに奇。而して門を分って更に奇なり。
蓋し古人の名言快語を裒(あつ)め、以て帙と成す。字字は簡澹。句句は雋(俊)妙。以て精神を煥發すべく、以て靈慧を開豁すべし。
また猶ほ剣を看るごときにして星動龍飛、光彩陸離。其の快意、言ふに勝ふべけんや。
往年たまたま謄本を獲る。これを刻せんと欲すれば以て一部を当てて剣を説く。然るに魯魚(誤字)頗る多く、因循未だ果さず。
ちかごろ崇蘭館の所蔵する原本を借りて校訂、而してこれを開雕(出版)す。
嗟呼。此者を読み、その英発の気を磨し、以て面上三斗の俗塵を一掃せよ。
而して神智を自ら益すべし。心膽を自ら壮とすべし。
則ちこの書を以て、我が宗近・正宗の利剣と為す。また豈に不可ならんや。是を序と為す。
 嘉永壬子(五年)蒲月(五月) 陶所池内、容安書屋に於いて時題を奉る。三井高敏、隷(書)す

酔古堂剣掃-醒部
1
中山の酒を飲みて一酔すれば千日を経る、今の世の昏々として定まらざること、一日も酔わぬこと無きが如く、誰一人として酔わざる者の無きが如し。
栄達に奔る者は朝廷に酔い、利欲に奔る者は民間に酔い、富豪の者は女色、音楽、車馬に酔い、天下は終に昏迷して醒めること無きが如し。
ここに一服の清涼を得て、人々の眼を醒まさん。
醒せい第一を集む。

2
自らの才ばかりを頼りにして世を軽んずれば、?よくの如くに背後より害を為す者が現れるであろう。
外面を飾って人を欺けば、咸陽宮の方鏡が目の前にあるが如く、いずれはその心底を見透かされるであろう。

3
くだらない人物が豪傑をあべこべに批判するを怪しむも、批判に慣れて何も思わざれば小人と同じ。
世の中が自分を虐げるを惜しむも、困難はその人物の真贋を見るに過ぎざるを知らず。

4
花咲き誇り、柳の満つる所、驕ることなく推し開けば、わずかにこれ処するに足る。
風吹き荒み、雨の激しき時、惑うことなく見定めれば、まさに為すべきところを知る。

5
あっさりして捉われざる心境は、必ず絶頂の時より試み来るべし。
定まりて動ぜざる心境は、むしろ非常の時に向かいて窺い知るべし。

6
恩を売るは、人より与えられた恩徳に報いることの厚きに遠く及ばない。
誉を求めるは、世間の称賛より逃れることの適切なるに遠く及ばない。
情を矯正するは、その節操を正して心より直くするに遠く及ばない。

7
人と交わるにその人を褒めて名誉有らしむるは易く、その人の知らざるところにおける謗りを無からしむるは難し。
人と交わるにすぐに仲良くなりて喜ばしむるは易く、交わり久しくしてこれを敬するに至らしめるは難し。

8
人の悪を責めるには、厳しきに過ぎてはならない。
その人の、責めるを受けるに堪える気持ちを察するのだ。
人に善を教えるには、高きに過ぎてはならない。
その人の、従う気持ちが自然にして芽生えるように導くのだ。

9
人情に近からざれば、世の中に安んずるところ無し。
物事を察する能はざれば、一生夢の中に在るが如く、定まるところ無し。

10
志の発露なき士に遇いては、自らの志を吐露してはならない。
怒りを発して人を容るる無きの輩を見ては、口を防ぎ止めてこれとは語らぬ方がよい。

11
ひもを結び冠を整えるの態度は、これを頭が焦げ、額がただれるの時に施すなかれ。
歩行正しきを守るの規定は、これを死を救い、傷つくを助くるの日に用いるなかれ。

12
事を議る者は、その身を事の外に置いて、利害の情を十分に知り議りて決すべし。
事に当たりて実行する者は、その身を事の中に置いて、利害を忘れて尽力すべし。

13
倹約は美徳である。
然れども倹に過ぎれば、物をしみばかりで欲深く、心はいやしくなりて却って風雅の道を失う。
謙譲は徳行である。
然れども譲に過ぎれば、諂いとなり、細部を過剰に気に掛けるようになり、その多くは他を伺って己無く、ただ機をみて動かんとの心を出だす。

14
拙の如くにして内には巧を蔵す、さすれば暗くして明らかなり。
濁の如くにして清を宿す、さすれば屈して以て伸長となる。

15
徳を為して徳を望まず、恩を施して恩を示さず。
貧賤の交わりの長く久しき所以なり。
望めば甚だしく、欲せば足るを知らず。
利得の交わりの必ず破れし所以なり。

16
怨みは徳を徳とするが故に生ず。
故に人に自然と徳を感じさせるには、徳と怨の両方を忘れてしまうに勝るものはない。
仇は恩を恩とするが故に立つ。
故に人に自然と恩を感じさせるには、恩と仇の両方を無くしてしまうに勝るものはない。

17
天が我が福を薄くすれば、吾は吾が徳を厚くしてこれを迎える。
天が我が身を多忙にすれば、吾は吾が心に余裕を持たせてこれを補う。
天が我に偶然を与えれば、吾は吾が為すべきところを心に秘して以てこの偶然を処す。

18
あっさりして無欲な者は必ず栄華を欲する者に疑われ、節操を持する者は必ず驕り高ぶる者の忌むところとなる。

19
事が窮まり、勢いが衰えていく時に当たらば、まさにその初心を尋ねるとよい。
功が成り、行うところ達したならば、その末路を察して戒めねばならない。

20
好み醜む心が甚だ明らかなれば、物情を介せずして合うことなく、賢を崇敬し愚を軽侮するの心が甚だ明らかなれば、人情を介せずして親しまず。
故に何事においても内は精明にして、外は兼ね容れるべし。
さすれば好醜いずれもその平を得て、賢愚共にその益を受く。
そうであって初めて天地に通ずる徳といえるのである。

21
弁舌を好みて禍いを招くは、沈黙を好みてその性を喜ばすに遠く及ばない。
交友を広くして誉れを得るは、独居して自らを修めるに遠く及ばない。
費えを厚くして他事を営むは、事を省きて倹約しその分を守るに遠く及ばない。
才能をひけらかして妬みを受けるは、精一を旨にして己を慎み迂遠なるが如く在るに遠く及ばない。

22
千金を費やして賢人豪傑と交友することは、瓢箪半分ほどの食糧を以て飢餓を救うのと比べてどうだろうか。
大きな屋敷を構えて賓客を招来することは、小さな茅葺きの家を以て孤独で貧しき者の身を寄せる場とするのと比べてどうだろうか。

23
恩の多い寡ないは問題ではない。
困窮したときに施すわずかな飲料も、死力を尽した報いを得ることがある。
怨みの浅い深いは関係ない。
一杯の羹で気分を害したに過ぎずとも、時に亡国の禍を招く。

24
仕官の途は功を挙げ名を達す。
然れども常に林下の風味を思えば、権勢への望みは自ずから軽くなる。
世渡りの途は財を蓄え衣食満つ。
然れども常に泉下の光景を思えば、利欲の心は自ずから淡くなる。

25
富貴の極みに居る者は、水が溢れそうでなんとか溢れずにあるようなものである。
わずかでも節操を忘れば凋落に至る。
危難の極みに居る者は、木が折れそうでなんとか折れずにあるようなものである。
わずかでも他に頼れば滅亡に至る。

26
心に脱しきれば自ずから事もまた脱す。
例えるならば根が抜けて草の生ぜざるがごとし。
世間を脱してなお名を好む者は、生臭き肉ありて蚋の集まるに似たり。

27
情は最も定まり難きものである。
故に多情の人は、必ず情に薄くなる。
性は自ずから常道あり。
故に己が天性を尽くして飾らざる者は、その性を失わずしてその生全し。

28
才高くして心を貧賤に安んずる者なれば、栄達して貴位へと至るに足る。
善人なりて意を貧賤に馳せる者なれば、富みて金銭を用いるに足る。

29
語を伝えることを喜ぶ者は、共に語るには足らない。
事を議論することを好む者は、共に図るには足らない。

30
甘い言葉の多くは、その事の良し悪しを論ぜず、ただ人を喜ばせるを旨として惑わせる。
奮発させる言葉の多くは、その事の利害を顧みず、ただ人を激するを旨として暴走させる。

31
真に廉なる者は、あまりに大なるが故に人々は廉とは察せない。
これ名を立てし者を貪欲であるとする所以である。
真に巧みなる者は、あまりに大なるが故に形跡無し。
これ術を用いる者を拙なき者とする所以である。

32
悪事を為してその悪事が人に知られることを畏れるは、悪ではあるがその中にも善の心が開かれている。
善事を為してその善事を人に知られることを望むは、善を行なってはいるが悪の根ざしといえよう。

33
世俗を逃れて山林に入る楽しみを談ずる者は、まだその真の楽しみを得てはいない。
名利を談ずることを厭う者は、まだ名利から脱しきれてはいない。

34
冷たきより熱きを視て、然る後に熱き処に奔走するの益なきを知り、冗長より閑に入り、然る後に閑中の味わい最も深きを覚る。

35
冷たきより熱きを視て、然る後に熱き処に奔走するの益なきを知り、冗長より閑に入り、然る後に閑中の味わい最も深きを覚る。

36
雌伏すること久しき者は、雄飛して高きに往く。
すぐ花開きて早熟なる者は、早く散りて久しからず。

37
利欲に惑う者は、富貴なるとも心は貧し。
足るを知る者は、貧賤なるとも心は富む。
高位に居る者は、身は安んじて精神労す。
下位に居る者は、身は労して精神安んず。

38
人物偉大なれば、三軒足らずの小村に住むとも、その境遇に束縛されず。
形ばかりの矮小なれば、大都市に居るとも、心情迫りて安からず。

39
時間を惜みて励む者は、千古に卓越せんとの大志あり。
微才を憐れみ容るる者は、将に将たるの心あり。

40
感慨の極みは、転じて屈託なき笑いを生じ、歓喜の極みは、転じて声なき涙を生ず。

41
天が人に禍を下さんと欲すれば、必ず先ずわずかな福を以てこれを驕らし、微福を受けさせた訳を知り得るかを看るのである。
天が人に福を下さんと欲すれば、必ず先ずわずかな禍を以てこれを戒め、微禍を受けさせた訳を知り得るかを看るのである。

42
書画を俗物に品評されるは、末代までの恥である。
鼎彜を商人に鑑定されるは、千古の憂いというべきか。

43
英傑の本質はこれを懐に入れて初めて現れ、超脱の趣は己の足らざるを察して初めて知る。

44
名声高ければ忌み嫌われ、寵愛深ければ嫉妬を生ず。

45
想いを結ぶところ奢侈にして華美ならば、その見るところ全て満足せず。
心を致すところ清浄にして素朴なれば、その行うところ全て利欲を厭う。

46
人情に過ぎる者は、共に賢愚を図るには足らない。
好誼に過ぎる者は、共に賞罰を図るには足らない。
感情に過ぎる者は、共に得失を図るには足らない。
興味に過ぎる者は、共に進退を図るには足らない。

47
世の人々、破綻のところは多くその振る舞いから生じ、過誤のところは多くその執着から生じ、艱難のところは多くその欲心窮まり無きところから生ず。

48
隠棲は勝れた事である。
然れども、少しでも拘泥するところがあれば、人ごみに在ると変わらない。
書画を鑑賞するは風雅な事である。
然れども、少しでも貪り狂うところがあれば、利欲のためと変わらない。
詩酒を嗜むは楽しき事である。
然れども、少しでも求めに応じて行うのであれば、苦悩のところと変わらない。
客を好むは快活なる事である。
然れども、少しでも俗人に乱さるれば、忍耐のところと変わらない。

49
多く両句の書を読みて、少しく一句の話を説き、両行の書を読み得て、幾句の話を説き得。

50
普通の者を判断するは、大事な所で逸脱せぬかに在る。
豪傑を判断するは、細部に手抜かりせぬかに在る。

51
七分ばかりの正しき道を留めて以てその生を尽くし、三分ばかりの余裕を留めて以てその死を超ゆ。

52
財貨を軽んずれば以て人を集めるに足り、自己を律すれば以て人を服するに足り、度量が寛大なれば以て人を得るに足り、自ら率先すれば人を率いるに足る。

53
迷いに迷って迷いを識らば、即ち釈然として全てに通ず。
放ち難き想いをもって一たび放たば、即ち率然として全てに和す。

54
大事や難事には、それを担うだけの人物たるかを看る。
逆境や順境には、それで心が萎えたり調子に乗ったりせぬかを看る。
喜びや怒りには、感情の動きに左右されないかを看る。
集団の中に在れば、多数に流されて本質を見失わないかを看る。

55
余裕を存するはこれ事を処するの第一法。
貪らざるはこれ身を保つの第一法。
寛容なるはこれ人を処するの第一法。
拘泥せざるはこれ心を養うの第一法。

56
事を処するには、第一に熟考し、そして着実に処すべし。
熟考すれば情に合致し、着実に処せば遊離せず。

57
到底人が忍ぶこと出来ぬような心逆のことを忍び得て、初めて到底人の為しえぬ事功をなし得ん。

58
軽々しく与えれば取ること必ず濫れ、簡単に信ずる者は疑うこともまた易し。

59
丘や山に達する程の善を積むも、未だ君子と為すには足らず。
糸や毛の如き僅かな利欲を貪れば、たちまち小人に落つ。

60
知者は命と闘はず、法と闘はず、理と闘はず、勢と闘はず。

61
人の良心は夜の物静かな頃にあらわれ、人の真情はわずかな食べ物の間にもあらわれる。
故に我を以てその良心に気付かせることは、その人自身が省みることに遠く及ばない。
我を以てその情の動きを責めることは、その人自身が吐露して気付くことに遠く及ばない。

62
侠の一字、昔はこれを意気に加え、今はこれを外面に加える。
本当はただ、気魄気骨がどれだけあるかなのだ。

63
実業せずして食し、服し、口を動かして批評を加う。
故に知る。
何もせぬ人に限って、好んで事を生ずるものなるを。

64
執着して已まざるの病根は、一に恋の字に在り。
万変窮まらざるの妙用は、一に耐の字に在り。

65
むしろ世に随うばかりの凡庸なる者になるとも、世を欺くの豪傑には為ること無かれ。

66
世の中に自分に従順なるを好まざる人無し、故に媚び諂いの術に窮まりなし。
世の中は尽く批判批評するの輩、故に讒言の路を塞ぐは難し。

67
善言を進め、善言を受ける。
これが行き来する船の如くであれば、交わりて通ぜざるなし。

68
清福せいふくは天の大事とするところである。
故にもしも心を亡なって望むようになれば、福をすぐに消してしまう。
清名は天の敬意するところである。
故に少しでも汚れるところがあれば、名をすぐに消してしまう。

69
人の批判批評を為すものは心を亡ない、それを受ける者は心安し。

70
蒲柳の如きは秋を迎えて零落凋傷す。
松柏の如きは霜雪を経るもいよいよ青々たり。

71
人が名節を欲し、格好良くありたいと願い、男伊達を抱くは、酒を好むが如く当然のことである。
だが、安直に求めて溺れる者少なからず、故に徳性を以てこれを消すべきである。

72
好んで内情を語り、好んで人を誹り乱す者は、必ず鬼神の忌む所となる。
思いがけない災いに出会わぬとしても、必ず思いがけぬところで窮するであろう。

73
至れる人は微言にして測り知れず、聖人は簡易にして深意あり、賢人は明瞭にして察し易く、衆人は多言にして中身なく、小人は妄言して乱すのみ。

74
士君子にして人を感化させることが出来ぬのは、結局のところ学問を尽くしきれずして真に至らぬからである。

75
一言にして全てを混乱させ、一事にして全てを台無しにする者あり。
よくよく注意しなければならない。

76
人から善言を受けること、商売人の利益を求めるが如く、わずかなものでも着実に積み重ねてゆけば、自然と心豊かに老熟するであろう。

77
財産多ければ、ただこれまさに臨終の時、子孫の眼は涙を少し溜めるばかりで、その他は知らず、財産に眼を光らせ心を奪われる。
財産少なければ、ただこれまさに臨終の時、子孫の眼は涙を溜めるばかりで、その他は知らず、哀しみに耽りて終う。

78
読書は、必ず書中の眼目を感じ得て始めて読んだと言える。

79
光景調和して心気澄み渡り、地勢雄大にして壮心已まず。

80
善を尽せば善神これに従い、悪を尽せば悪神これに従う。
これを知らば以て鬼神を使役するが如きなり。

81
一人の志なき秀才を出だすは、一人の陰徳を積む凡人を出だすに遠く及ばない。

82
わずかでもまぶたを閉ずれば、夢の中に落つ。
人、夢に在りては自己たるを得ず。
眼光地に落つればその生を終う。
生前に自己を知らず、死後にどうして自己を知らん。

83
仏は解脱に至り、仙人もまた無境に至る。
聖人は天理を求めて天に至るも天を知らず。
天理を求めて天に至りたるを知らずして、天理を得る。
もし、天理を求めて天に至りたるを知らば、どうして天理を得るだろうか。

84
万事、酒杯の手にあるが如くに楽しむべし。
人生百年、いつまでも月の空に懸かるを見ていられる訳ではないのだから。

85
憂いや疑いは酒杯の中に映る蛇に過ぎず、そうと知れば両眉晴れるを得ん。
得失は夢に鹿を隠すに同じ、そうと知れば固執せずして前進あるのみ。

86
名茶や美酒には自ずから真味あり。
物好きな人、香の物を投じてこれを助け、却って最善となす。
これ人格高尚なる人や、風流なる人の、誤りて俗世に墜ちると何の違いがあるだろうか。

87
花咲き誇る石の坂、少しく座りて少しく酔う。
歌えば独り高らかに、心情最も細やかに。
茶は頻りに勧めて皆と楽しみ、深味最も苦きを欲す。

88
黙すべき時に黙するはよく語るに勝り、禁不禁の境を知るは事を処して明らかである。
世に混じりて在るは身を隠し、心を安んずるは境遇に適して素行自得ならざるはなし。

89
隠逸の真趣に心を馳せずとも、そのような志を抱く英傑は知らねばならない。

90
鋭気収めて自然と憤怒悠々たるを覚え、心神収めて自然と言語簡明なるを覚え、人を容れて自然と味識和合するを覚え、静を守りて自然と天地広大なるを覚ゆ。

91
事を処するには果断果決、心を存するには寛大寛容、己を持するには厳酷精明、人と共にするには和気藹々。

92
住居すれば必ずしも悪しき隣人を避けられるわけではなく、人と会うに必ずしも損友を避けられるわけではない。
ただ、よく自らを持して惑わされぬ者のみ、これと交わってよく己を存す。

93
自己の至りし所を知らんと欲さば、ただ早朝清明なるの時、心中想いしところはこれ如何と点険すれば、恐らくは察するところあらん。

94
平坦な道なるとも、車の往生せざる無く、巨波大波なろうとも、舟の渡らざるは無し。
事無きを図れば必ず事生じ、事有るを戒慎せば、必ず無事なるを得ん。

95
都会に在るも隠棲するも、その中ともに事を有す。
今の人の忙しき処、昔の人の閑を得し処である。

96
人と生まれたからには書を読むべきである。
暇をみつけては読み、余裕ができればよく読み、そして自らのものとするのである。
読みて読まざる人の如くであれば、これを善く読む者という。
世間の清福をうけること、いまだこれに過ぎたるはなし。

酔古堂剣掃-法部
1
僧侶や隠者の如き姿が天下に満ちてより、一世を超越し衆に優れし者、遂に世俗と調子を合わせ基準を同じくしてこれを矯正す、故に今世の道はすでに古の道と同じからず。
迂遠で陳腐なる者は、既に法に拘泥して自己を失い、一世を超越せし者は、また法を軽んじて自己あるのみ。
されば士君子たるもの、拘泥することなく軽んずることなく、その中ちゅうを得て放越せざるを期せんのみ。
どうして必ずしも世俗より逃れるを望まんや。
法第十一を集む。

2
いかなる世も才の乏しき世は無し。
天地の道に達せんとの精神を以て、是非を知る素のままの心を尽くして中庸を得ん。

3
尽して過ぎざる意を存すべし。
これを事において留めば、何時如何なるときも円滑となり、これを物において留めば、その働きに余裕が生じ、これを情において留めば、その味わい深きは全てを包み、これを言において留めば、その致すところ深遠にして測り知れず、これを興において留めば、その趣き多くして世を楽しみ、これを才において留めば、精神満ちて天地に通ず。

4
世には法則というものがあり、因縁というものがあり、人情というものがある。
因縁は人情に非ざれば長くは続かず、人情は法に則らざれば流れ易くして収まらず。

5
世には理の必し難き所の事多し、宋人の道学を執ること莫れ。
世には情の通じ難き所の事多し、晋人の風流を説くこと莫れ。

6
朝廷に仕えて国を危うきに導いてしまうぐらいであれば、民間に在りて世に関与するほうがよい。
隠遁して朝廷に仕える者に誇るぐらいであれば、朝廷に在りて自然を楽しむ趣きを有しているほうがよい。

7
遠望広大に先を見通す者は、その心、ますます小心翼翼たり。
高位長者に至りし者は、その挙措動作、ますます慎み節す。

8
真の心なるが故に万友に交わるを得。
偽心にては、一人に対してすら真に交わるということは得られぬであろう。

9
年少なれば心を没頭させるがよい。
没頭させれば浮ついた気持ちを収めて一に定まる。
老年なれば心は閑静なるがよい。
閑静なれば安んじてその生を楽しめるであろう。

10
晋人は老荘を論じて虚無を尊び、宋人は性理を論じて致知に向かう。
晋人は以て世俗を超越し、宋人は以て心を定めてその身を安んず。
これを合わせば美しく、これを分かてばどちらも破る。

11
事を始めるならば、自らの心が満足せぬことを行なってはならない。
事に当たらば、これを行い尽くさざるの心を抱いてはならない。

12
忙しき中に事を処すには、必ず間を得てよくよく吟味し、実行に当たりて節を持するに至るは、必ず平時に秘したる想いに由る。

13
日常に顕れ来たる節義は、人の知らざるところを戒尽するに由りて養われ、天下経綸の大事業は、深淵に臨み薄氷を踏むが如く戦戦兢兢たるの心持ちに由りて操とり出だす。

14
貨財を積むの心を以て学問を積み、功名を求むるの念を以て道徳を求め、妻子を愛するの心を以て父母を愛し、爵位を保つの策を以て国家を保つ。

15
何を以てか下達する、惟だ非を飾るに有り。
何を以てか上達する、過ちを改むるに如しくは無し。

16
わずかでも忍びざるの心を起せば、これ民を生じ物を生ずるの根本となる。
わずかでも非を為さざるの気象を存せば、これ天を支え地を支えるの柱石となる。

17
君子は青天に対して懼るれども、雷霆を聞いて驚かず。
平地を履みて恐るれども、風波を歩みて駭かず。

18
心喜びて軽々しく承諾してはならない、心奪われて怒りを発してはならない、心快くして多方に手を出してはならない、心倦みて終わりを全うせざるようではいけない。

19
意の念慮は想起するが如くにこれを防ぎ、口の言語は押し止めるが如くにこれを防ぎ、身の汚染は奪うが如くにこれを防ぎ、行の過ちは事を果断するが如くにこれを防ぐ。

20
白き砂が泥土の中に在れば、泥土と共に黒くなる。
染まっていくこと習慣となりて久しき故なり。
他山の石は玉を磨くべし。
切磋琢磨するは己を修める所以なり。

21
後生の輩の胸中、意気の両字に落つ。
趣きを以て勝る者あり、味を以て勝る者あり。
然れども寧味に饒きも、寧ろ趣きに饒きこと無からん。

22
片片として子瞻の壁に絵いし、点点として原憲の羹にしんす。

23
花の咲き満ちるは財貨も及ばず、春意の萌え出づるは貧者を救う。

24
思慮を少なくして心を養い、情欲を切り去りて精を養い、言語を謹みて気を養う。

25
身を立つること高き一歩なれば方に超脱す。
世に処するに退く一歩なれば方に安楽なり。

26
士君子たる者、貧しくして財を以て救済するを得ずとも、人の惑いに遭遇して一言の下にこれを目覚めさせ、人の危急に遭遇して一言の下にこれを解きて救えば、それで計り知れぬ功徳である。

27
既に敗れた事を救わんとする者は、崖に臨む馬を御するが如く、軽々しく鞭打つようなことをしてはならない。
事が成らんとする功を図る者は、奔流の中に在る小舟を引くが如く、最後まで棹を止めてはならない。

28
事無くして常に事ある時の如くに事を防げば、多少は予想外の事変を補正することが出来るであろう。
事ありて常に事無き時の如くに事を治めば、事局を越える危険を消すことが出来るであろう。

29
是非邪正に交わりて少しでも迎合する心を抱けば、位次立たずしてその正を失う。
利害得失に会いてこれを明らかに分かてば、功利に眩みて私心に惑う。

30
事が人の秘事に当たったならば、これを護りかばうを思うを要す。
少しのあばかんとする心も抱いてはならない。
人が貧賤にあらば、これを敬い貴ぶを思うを要す。
少しのおごり高ぶる態度も示してはならない。

31
ちょっと嫌な事があるからと肉親を疎んじてはならない。
新たに怨みが生じたからと旧恩を忘れてはならない。

32
富貴の人に対しては、礼を以て接するのは難しくないが、本心より思うことは難しい。
貧賤の人に対しては、恩を施すことは難しくないが、これを真に礼することは難しい。

33
礼義廉恥は己を律すべきものであって、人に対して要求すべきものではない。
己を律するときは過ち少なく、人を糾すときは即ち離る。

34
およそ物事というものは善悪を兼ね入れて暴かぬでよきは暴かざるべし。
さすれば独り己を益するのみならず、天下人民皆の益となる。
何でも明らかにして甚追するは、独り人を損させるのみならず、自らの損にもなる。

35
人の詐りを覚りても言葉に表さず、人の侮りを受けても怒りを生ぜず。
この不言不動の趣には、限りない意味があり、また限りない学ぶべきものがある。

36
爵位は分に過ぎたるを得てはならない、分に過ぎれば必ず破れてしまう。
自らの力を以て事を為せると雖も必ず余裕を存さねばならない、余裕有らざれば必ず衰えてしまう。

37
旧友を遇するには、意気を新たにして接すべし。
人に知られざる事を処するには、心を清浄にして為すべし。
衰え朽ちたる人を待つには、往年に接した以上の恩礼を以て接すべ

38
人を用いるには甚だしきに過ぎざるを要す。
甚だしければ正しきに従い效う者は去ってしまう。
交友は善悪の区別なく交わってはならない。
区別せざれば阿諛迎合の者が来たりて乱すに至らん。

39
憂勤はこれ美徳である。
然れども憂勤に過ぎて苦に至らば、性に適さず、情を喜ばさず。
淡白はこれ高風である。
然れども淡白に過ぎて枯に至らば、経世済民ならずして只の世捨て人である。

40
人を興起せしむるには平生の習いより脱するを要し、少しも世俗の習いを矯正するの心を抱いてはならない。
世に応じて事功を為すには時勢に随うを要し、少しも時勢におもねり義理を破るの念を起してはならない。

41
富貴の家にして窮途の親戚が頻繁に往来することあれば、これ忠厚を存すというべし。

42
師に従って名士に会うは、教えを垂れるの実益少なく、弟子となりて試験に及第するを望むは、教えを受けるの真心少なし。

43
男子徳有るは便ち是れ才、女子才無きは便ち是れ徳なり。

44
病の楽しみを想うべし、苦境の景色を経験すべし。

45
才の衆に優れ、一国に並ぶべきのない程の者なれば、必ず常人には測るべからざるの功業を負う。
この故に、才が少しでも衆を抑えこめば、たちまち忌む心が生じ、行が少しでも時に違えば、たちまち嫉視生じて非難至り、死後の声名が空しく墓中の骸骨を誉めるばかりである。
たとえ途窮まり落ちぶれるとも、誰が宮外にさまよう美人を憐れむだろうか。

46
位高き人が貧しき者と交わる場合には、驕り高ぶる気象が表れやすく、貧しき者が位高き者と交わる場合には、貴位に屈せざるの気骨を存すべし。

47
君子の身を処するや、寧ろ人の己に負くとも、己の人に負くこと無し。
小人の事を処するや、寧ろ己の人に負とも、人の己に負くこと無からしむ。

48
硯神を淬妃と曰ひ、墨神を回氏と曰ひ、紙神を尚卿と曰ひ、筆神を昌化と曰ひ、又た佩阿と曰ふ。

49
治世の要は、半部の論語、出世の要は、一巻の南華あり。

50
禍は己の欲を縦いままにするより大なるは莫く、悪は人の悪を言ふより大なるはなし。

51
世に知られ称えられる者を求めることは簡単だが、真に自己を知る者を求めることは難しい。
表面を飾る者を求めることは簡単だが、知られざる処において愧ずる所の無き者を求めることは難しい。

52
聖人の言葉はどんな時も常に持ち来たりて、読み、発し、想うべし。

53
事の末に巧みにならんことを期するよりは、事の初めに拙ならざらんことを戒めるに若かず。

54
君子には三つの惜しむことがある。
生を受けて学ばざる、これ一の惜しむべきことである。
学ばずして一日一日が無駄に過ぎていく、これ二の惜しむべきことである。
そして遂には己を得ずして一生を終える、これ三の惜しむべきことである。

55
昼は妻子のあり方を以て確かめ、夜には夢に何を観るかで確かめる。
ふたつの者、いずれも恥じるところ無ければ、始めて学んでいると言える。

56
士大夫たるもの、三日も聖賢の書を読まねば、義理が胸中より離れ、面構えは悪くなり、言葉には味が無くなるを覚えるであろう。

57
外面ばかりの交際を密にするよりは、誠心より交わる友を親しむに及ばない。
新たに恩を施すよりは、旧き貸しに報いるに及ばない。

58
士たる者は当に王公をして己が名声を聞からしめ、実際に会うことは稀なるべし。
むしろ王公をして来たらざるを訝らしめ、その去らずして長く留まるを厭わしてはならない。

59
人が得意のときには心から喜び、人が失意のときは心から悲しむべし。
これらはいずれも自らの身心を全くして達する所以、人の成功を忌み、人の失敗を楽しむ事が、どうして人事に関係しようか。
いたずらに自らの身心を破るのみである。

60
重恩を受けては酬い難く、高名を得てはつり合い難し。

61
客をもてなすの礼は、当に古人の意を存すべし。
ただ一羽の鶏、一握りの黍、酒を数回酌み交わし、飯を食らいてやむ。
これを以て法と為す。

62
心を処するには深遠を旨とす、明白に過ぎれば必ず偏す。
事をなすには余裕を旨とす、甚だしきに過ぎれば必ず窮す。

63
士たる者の貴ぶべき所は、節義正しきを大と為す。
貴位はこれを失うも、時宜を得ればまた来たる。
節義を失えば、その身を終えるまで人と為ること無し。

64
勢いは頼りすぎるべからず、言語は言い尽くすべからず、福は授かりすぎるべからず。
何事においても不尽の処を存するは、意味深長なる趣あり

65
静座して然る後に日頃の気の定まらざるを知り、沈黙を守りて然る後に日頃の言葉の騒がしきを知り、事を省きて然る後に日頃の無事を費やすを知り、戸を閉じて然る後に日頃の交友の煩雑なるを知り、欲を寡くして然る後に日頃の通病の多きを知り、人情に近づきて然る後に日頃の存念の過酷なるを知る。

66
喜びに乗じて言に過ぎれば多く信頼を失い、怒りにまかせて言に過ぎれば多く事態を失う。

67
広く交われば費用が掛かり、費用が掛かれば稼がねばならず、稼ぐ必要があれば人に求めること多くなり、求めが多ければ恥辱を得ること多し。

68
心残りになるような事を為してはならない。
中途半端で済ます心を生じてはならない。

69
一字も軽しく人に与ふ可からず、一言も軽しく人に諾だくす可からず、一笑も軽しく人に假す可からず。

70
人に対すれば正を忘れず、廉潔を抱いて己を律し、忠誠の心を以て君に事つかえ、恭謹の心を以て長に事え、誠信を以て物事に接し、寛容を以て下の者を待ち、敬意を以て事に処す。
これ官に勤めるの七要である。

71
聖人大事業を成す者、戦戦兢兢の小心より来たる。

72
酒が入れば舌が出て、舌が出れば妄言す。
我は思う、酒で身を滅ぼすぐらいならば、酒を棄てるに如かず、と。

73
青き空に太陽が輝き、穏やかな風に雲が漂えば、人に喜色を生じさせるのみならず、かささぎもまた好い音で鳴く。
もし風が荒ぶり雨が吹きつけ、雷鳴轟き閃光発すれば、鳥は林へと隠れ、人もまた戸を閉じる。
故に君子は大和の元気を以て主と為す。

74
胸中に重んずるところ、気概ばかりを主とすれば、友に交わるも人情を得ず。
楚辞や詩経ばかりを主とすれば、読書をするも心に達せず。

75
友として交わるならば先ずその人物を察すべし、交わりて後は信じ抜くべし。

76
ただ倹約を以て廉謹なるに向かい、ただ恕の心を以て徳を成す。

77
書を読むに貴賤・貧富・老少は問題ではない。
書を読むこと一巻なれば、誰しもが一巻の益を得て、書を読むこと一日ならば、誰しもが一日の益を得る。

78
その心持ちは細部に拘らずして平易平坦にし、その発するところは表裏なくして飾らぬようにし、その則るところは形式張らずに人情に合わせ、その交わるところは簡にして少なくす。

79
好醜は太だ明らかなる可からず、議論は務めて尽す可からず、情勢は殫く竭す可からず、好悪は驟に施す可からず。

80
穏やかにたゆたう波、はっとするような夢は、人に道心を発起させる。

81
読書には成長させるに足る書を積むべし。

82
口を開けば人を誹謗中傷するは軽薄なることの第一である。
ただ徳を失うのみに足らず、身をも失うに足る。

83
人の恩は念ふべし、忘るべからず。
人の仇は忘るべし、念ふべからず。

84
人の言葉を受け入れない者に対しては、余計な言葉を発するべきではない。
これ人と善く交わるための法則である。

85
君子の人たるや、人の過失に遇えば人情を斟酌するところを探し求め、無闇に過失を暴いて咎めるようなことはしない。

86
もしも自分に心酔してくれる人が居ったならば、その人は我が範疇にある。
その人を活かすも殺すも自分に責任がある。
もしも自分が誰かに心酔したのならば、我はその人の範疇にある。
心酔した以上はどうなろうともその人に尽すのみである。

87
自分が人を重んずるからこそ、人もまた重んずるのである。
人が自分を軽んずるのは、自分自身が人を軽んじているからに過ぎない。

88
無風流に遇えば静かに黙っているのがよい。
調子よく戯れると怨みを生ずるであろう。

89
世を超脱するの者は他を顧みざること多し、常に精密謹厳なるを学ぶべし。
厳密なるに過ぎたる者は常に拘泥して性を損ず、当に円転窮まりなきところを思うべし。

90
精錬された金や輝くほどに磨かれた玉のような、他に類をみない程の人品にならんと欲するならば、烈火の中より鍛え来たるべし。
地に掲げ、天に達するほどの事功を立てんと欲するならば、常に薄氷を踏むが如くに戦戦兢兢たるの志を存すべし。

91
性は欲望に溺れず善く収め、怒は速やかに去りて留むるなく、語は激さずして温然和気を旨とし、飲は節度をたもって過ぎざるべし。

92
よく富貴なることを軽んずるにも関わらず、その富貴を軽んずる心を軽んずることが出来ず、よく名義を重んずるも、その名義を重んずるの心を重んじてしまうのは、いうならば世俗の塵気をいまだ掃うことが出来ず、そして心に萌えでる些細な思いに捉われてしまっているのである。
この処をとり除いて擺脱せねば、石を取り去るも草が生じてしまうように、いつまでたっても達することは叶わないのである。

93
騒がしきことは志を散逸させることはもとよりなれども、単に静かなるだけもまた心を枯らすばかりである。
故に道を志す者は心を深く蔵して虚の如く、志の赴くままに楽しみて円通窮まりなきを養うべし。

94
昨日の非はすぐさま取り去らなければならない。
これを取り去らねば、燃え残った根から草木が生え出るように、遂にはくだらぬ心情にまみれて道理を失うであろう。
今日の是とするところに拘泥してはならない。
これに拘泥すれば無心たることを得ず、遂には欲心生ずる根とならん。

95
小人に対すれば、厳格なるには難からずして悪まざるに難し。
君子に対すれば、恭敬なるには難からずして真に礼を尽すは難し。

96
私事で恩をうることは、公共の事を助けるに遠く及ばない。
新しい友を得ることは、親しき友を大切にするに遠く及ばない。
世に名を立てることは、ひそかに徳化するに遠く及ばない。
飛び抜けたるを貴ぶは、日々の行いを大事にするに遠く及ばない。

97
一時の思いで先祖の禁戒を犯し、一言にして天地の和を破り、一事にして子孫に禍を遺す者あり。
最も戒めるべきところである。

98
現実に馳せて心を用いざれば事を成すことはなく、現実を超脱して心を用いざればその真を知ることはない。

99
老いたる人の通病はいたずらに人に従うことである。
年若き人の通病はいたずらに世の中を歯牙にもかけぬことである。

100
善をなすも表裏始終に違いがあるのならば、みせかけの善人に過ぎない。
悪をなして表裏始終に違いがないのならば、かえってこれを気骨ある者という。

101
本当に心に入れば、どのような近いところでも玄門となる。
絶頂とならば、何にも勝る快事なり。

102
水滸伝に足らぬものなどあるだろうか。
ただ長寿を思うの一事無し。
これは欠陥ではない。
豪放磊落な男達の、意気な心を示すのみ。
これを以てますます作者の妙を知る。

103
世間に便宜を訪ね求めることを悟り知る者は、すでにこれかつて便宜を失いたるを経験せし者である。

104
書は志を同じくする友である。
一篇を読む毎に、自ずから心に染み入るを覚ゆ。
仏は晩年の友である。
ただ半偈を窺えば、なんとも死後の真に空なるを思う。

105
衣服に垢がついて洗わず、器物を欠損して補わざれば、人に対して恥ずる有り。
行い正しからざるに改めず、徳量足らざるに修養せざれば、天に対してどうして恥じぬことがあろうか。

106
天地共に醒めず、昏く沈んで酔夢の間に落ちてしまった。
この洪濛なる状態もどうせ客に過ぎないのだから、さっさと天にいる主人を尋ねよう。

107
老熟して達せし人には必ず常訓とするところあり、必ず則法とするところあり、ほんのわずかなことでもこれを手本とすべし。
心定まらずして悶々たる人は、吐くこともできず食らうこともできず、少しの間でも対するに足らず。

108
友を重んずる者は交際を始めること極めて難く、友とするに相応しいかをよくよく点険する。
故にその友となること非常に重し。
友を軽んずる者は交際を始めること極めて易く、友とするに相応しいかをほとんど問題とせず。
故にその友となること非常に軽し。

「酔古堂剣掃」後叙
天下は廣きかな、いまだ嘗て才子の無きことはあらざる。
而して才子は往々不平の気を是に懐くか。
放浪烟月、流連 麹蘗(きくげつ:酒の謂)、珠に簾画 の欄を以て嬌歌慢舞、以って一時の楽に於いて快 を取るも則ち楽かな。
然れども興尽き、酒醒めれば則ち意況は索然。無聊、殊さらに甚だしく、向ふ所快意を以っ て 排悶(気晴らし)せん者も逼足し、以って其の不平を長ずるのみ。
一室に匡坐(正坐)して上下千古 目を明るく 心を快く 以 て胸中の抑塞を蕩滌(洗い流す)するはそれただ読書にあらんか。
而して其の書、不平により成る ものなれば、其れ人為に感ずること尤も深き也。
予、頃(このご)ろ明の陸湘客の『剣掃』なるものを得る。これを読むに、蓋し湘客また一の不平才子也。まさに其の鬱悶を排せんこと を以って此の書を著し出 すべし(出したのだらう)。
自序に云ふ、甲子の秋、京邸に落魄し乃ち手録 するところを出して刻して『剣掃』と曰く、甲子即ち天啓四年(1624)、魏[玉+當](宦官魏忠賢の謂)横 恣(ほしいまま)にして、挙朝(国中みな)婦 人(の様に意気地無き)たりし秋也。
則ち湘客の此書において不平を[寫]すを知るべき也。
此書に輯めたる古人の名言砕語は、部を外れ、奇警は雅潔を剪裁す。
人一たび帙を繙けば手を釈くあたはず、自ら賛して謂ふところ、“快読一過すれば、恍として百 年も幻泡のごとく、世事も棋秤(囲碁あそび)のごとく、向來の傀儡(わだかまり)、 一時に倶に化するを覺ゆ”とは信(まこと)なり。
嗚乎、湘客は不平の人にして、快適の書を為す。また後世の不平の人をして之を読ましむ。
快意此れにあら ずんば何ぞや。
子長(子張:後藤松陰)曰く、古来の書を 著はすは大抵聖賢君子が発憤の為す所なり。
蓋し不平の人に非ざれば不平の情の自ら解くことを知らず。
人皆その要を得るも、固より不足を怪 しむ也。
余、池内士辰(陶所)と謀って曰く、梓して以って世に行は んは今也と。
天下の才子、幸ひに太平極治の運に際す。
而ら ば此の快意の書を読み、ただ應に其れ瑞雲祥烟の紙上に往來するのみを覚ゆるべし。
嘉永六年癸丑(1853)春日、頼醇(三樹三 郎) 真塾にて撰并びに書す。

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武士道より学ぶ!新渡戸稲造の表す思想と陽明学の精神!

今回は2回程に渡って、『武士道』について整理しています。
前回は、『武士道』としての精神性についてでした。
※)『武士道』より学ぶ 大和魂編!ますらをの道を行く

海外の方がイメージとして持っているブシドーと、私達日本人の血脈として流れている『武士道』精神。
そしてその精神が陽明学として息づいていくプロセス。
このあたりの切り口が今回のポイントです。

まずは『武士道』の根幹にある武士の役割からです。

【武士の役割と穢れ】
以前、神道における考え方※)にふれたことがありますが、神道の神は、実は穢れを非常に嫌う存在です。
※)このあたりの整理した内容については、以下を参考にしてください。
 ・神道と仏教 神仏習合って何でしょう?
 ・神道、仏教、儒教 事始め

穢れというのは、諸悪の根源であり、精神的な汚れであり、簡単に洗い流すことができるものではなく、禊やお祓いを行うことでしか取り除くことができないものです。
従って、穢れが付くと神様に嫌われ疎まれることになるため、禊やお祓いをしなければならなくなる訳です。
特に大きな穢れは人の死であり、その穢れに触れると、魂が穢れて大きな不幸を招くと考えられています。
身内に不幸があって喪中に入るということは、穢れが身についているということ。
それを払い落とすには時間を要するため、喪中の間に神社に立ち入ったりハレの場に出ることは、その場を穢すことから嫌われるために、立ち入りを禁止する、という考え方になるのです。
これはあくまで神道としての考え方、信仰によるもので、科学的には一切実体がないものですが、それが存在すると信じている人達にとっては大きな問題です。
穢れとは、神様と同様、信じるものにとっては影響がある宗教的な概念ということなのです。

こうしたことから古来から日本人というものは、穢れを嫌い、穢れていないもの、汚れていないこと、清く正しく美しいものを美徳としてきました。
怨霊なども同義で、これは恨み、妬み、憎しみを具現化したものですから、明らかに穢れたものです。
そして、穢れは禊やお祓いを行うことでしか取り除くことができないものですから、神様の力によって強制的に打ち倒すのではなく、なだめふせた上で祓い、消滅させるのではなく、清い神、正しい神へと変えていこうという発想になっていくのです。

こうした日本人の精神の根底に流れる神道の穢れの考え方ですが、これが古来の戦、戦乱の中においては大きな矛盾を生みます。
それは、戦乱ですから敵が襲い掛かってくれば槍や刀を持って相手を殺傷し、倒さなければなりません。
しかし、人を殺傷するということは、穢れを生み、それは自らに降りかかるということです。
神道の思想がない他国では、こうした穢れの考え方がないので、戦いともなれば自分や家族を守るために自らが剣を持って敵を殺傷するのは当たり前の発想です。
だから、武士、という存在は決して生まれません。
しかし、穢れの考え方のある日本では、位が高くなれば、こうした殺傷行為は他者に任せて、自らは穢れから出来る限り遠い位置に居ようと考える。
そのためには、自分に代わって穢れを引き受ける存在、武士が必要となってくる訳です。

新渡戸稲造の『武士道』】
こうした武士の存在ですが、そのあり方を明確にするために、新渡戸稲造は1899年に刊行された英文『武士道』で、武士(=サムライ)というものを再定義しました。
穢れの考え方以上に必然とされるのは、国家の治安維持のために組織立った軍隊が必要で、戦が起きたときには攻め込んでくる敵を打ち倒さない限り、平和は維持できないという発想です。
それを、国家に対する忠節という言葉で包んでわかりやすく説いたのが『武士道』というものだったと考えられます。
「日本に『武士道』あり」と世界に広く示した新渡戸稲造の『武士道』が、当時の日本人が想像する以上に西洋で受け入れられたのは、サムライの論理が非常に西洋的で、彼らにとってわかりやすく理解しやすい発想だったからに相違ないからでした。

そもそも『武士道』を示した新渡戸は、キリスト教徒の多いアメリカの現実に衝撃をうけ、同時にキリスト教の倫理観の高さに感銘を受けたそうです。
新渡戸は、近代において人間が陥りやすい拝金主義や唯物主義の根っこにある個人主義に対して、封建時代の武士は社会全体への義務を負う存在として認識していたようです。
同時に新渡戸にとっての武士とは、国際社会において日本人の倫理感の高さ、国民一人一人が社会全体への義務を負うように教育されていると説明するのに最適のモデルであったと考えたようです。

『武士道』は成文化された法律という訳ではありませんが、武士が守るべきものであり、道徳の作法です。
つまり、戦士たる高貴な人の本来の職分のみならず、日常生活における規範をもそれは意味しているのです。
日本に『武士道』があるように、ヨーロッパには騎士道がありますが、新渡戸が表現した『武士道』とは「騎士道の規律」であり、「高貴な身分に付随する義務」でした。
そのため『武士道』は、儒教仏教の長所だけを継承していながらも、義を中心にして勇・仁・礼・誠と名誉を深く重んじるのはむしろ騎士道とも共通するところを狙ったのだと思われるのdす。
その影響は欧米に広く行き渡り、アメリカ第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、この本に大きな感銘を受け、5人の我が子と、当時の大臣や上下両院の議員などに分配し「これを読め。日本『武士道』の高尚なる思想は、我々アメリカ人が学ぶべきことである」と言ったという逸話まで残っているのです。

更に新渡戸は、『武士道』が日本人の感情生活を支配している二つの特徴をあわせ持っていると述べています。
それは、すなわち忠節という言葉に表される愛国心と主君への忠誠心です。
これらのものは教義というより、その推進力として作用した。というのは、中世のキリスト教の教会とは異なり、神道はその信者にほとんど何も信仰上の約束事を規定しませんでしたが、代わりに行為の基準となる形式を与えたのです。

【『武士道』と陽明学
儒教と『武士道』を比べると、儒教が「仁」を徳目の最上位に置いたのに対し、『武士道』はその中心に「義」を置いています。
そのため、武士の行動基準はすべてこの義を基とし「仁」「義」「礼」「智」「信」の五常の徳を「仁義」「忠義」「信義」「節義」「礼儀」などに読み替えた上で「廉恥」「潔白」「質素」「倹約」「勇気」「名誉」といったものを加えながら、武士の行動哲学としたのです。
そして、これらの道徳律の集大成として、「誠」の徳が最高の位置にすえられたのです。

このように『武士道』とは儒教のアレンジであったとしても、『論語』や『孟子』は武家の若者にとって大切な教科書となり、大人の間では議論の際の最高の拠り所となっていました。
また、知性そのものは道徳的感情に従うものと考えられた『武士道』は、知識のための知識を軽視した知識は本来、目的ではなく、智恵を得る手段であるとしました。
このように知識は、人生における実際的な知識適用の行為「知行合一」と同一のものとみなされていたのです。
新渡戸稲造によれば、日本人の心はこうした王陽明による陽明学の教えを受け入れるために、特に開かれていたといいます。
陽明が人間性の根本に「良知」というものを考えたことは、単なる学説としてみれば一つの理論にすぎません。
しかし、この理論は「知行合一でなければならない」という信念に支えられており、その信念が時代の要求に応じて武士の生き方を規定していったのです。
陽明学※)が極端なまでに精神的なものを持つ理由もそこにありました。
※)陽明学については、以下に幾つか整理したものがありますので、参考にしてください。
 ・朱子学と陽明学の違い、日本陽明学とは!
 ・伝習録より学ぶ!心を統治、練磨することの大切さ!
 ・吉田松陰の命日に想う

そもそも『武士道』なるものは、その人間の生死の関わるところに生まれてきたのです。
”その死が後背に退いたといっても、自分を律する規範がそこで霞むようなことがあってはならない。
 宗教的な信念によるものでなければ、自分の心による絶対的な判断力なのである。”
陽明学はこれを「良知」と名づけ、それを発動することに最高の意味を与えたのです。
生死をかけて武士の道を教える方法が、時代とともに古くなるにつれて、陽明学がそれに代るものとして位置付けられ、当時の日本における精神至上主義を強めていったのです。
明治維新の立役者でもある吉田松陰陽明学を学び、その教えは高杉晋作や久坂玄端を始めとする多くの幕末維新の志士へと受け継がれ、それは西郷隆盛にまで至ります。
明治の時代を切り開いた『武士道』は、その原点は陽明学とともにあったのです。

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王朝物語サーガ:源氏物語の流れを汲む古典文学!

王朝物語は、平安時代後期から室町時代前期にかけて作られた小説・物語群のうち、和文と平仮名表記をもっぱらとし、王朝期の風俗や美意識・文学観念に依拠しつつ製作されたものを指すものです。
これらに共通するのは王朝の風俗を色濃く反映した作り物語フィクションであり、主題は恋にあるという点です。
貴族の男女の恋模様が纏綿たる情緒の中に、あるときは初々しくまたあるときは悲劇的に連綿と綴られて行くもので、当時の教養であった歌(和歌)が物語の随所にちりばめられて興趣を誘うものが多いことが特徴です。

そんな中で原作の物語があるのに、何かの事情から作り改めた物語を改作物語と呼んでます。
更には、原作のほうは散逸し、改作側しか残っていないものも多く、こうした散逸してしまった物語を散逸物語と呼びます。
原作が残っていないということは、そもそもの原作の独自性がどこで、改作でどう手直しされているのかが判断できません。
古典を読む場合、それが原作なのか、改作なのか、散逸なのかを見比べながら読み解くというのも一興です。

こうした王朝物語ですが、源氏物語を始めとして、ある程度メジャーなものは限られており、大半はほどんと省みられることも少ない希少本になっています。
歴史に埋もれがちな王朝物語。
お休みの折などに、こうした古きよき時代の日本文学に触れてみてはいかがでしょうか。

竹取物語
竹取物語』は通称で、『竹取翁の物語』とも『かぐや姫の物語』とも呼ばれる。
かぐや姫が竹の中から生まれたという竹中生誕説話(異常出生説話)、かぐやが3ヶ月で大きくなったという急成長説話、かぐや姫の神異によって竹取の翁が富み栄えたという致富長者説話、複数の求婚者へ難題を課していずれも失敗する求婚難題説話、帝の求婚を拒否する帝求婚説話、かぐや姫が月へ戻るという昇天説話(羽衣説話)、最後に富士山の地名由来を説き明かす地名起源説話など、非常に多様な要素が含まれているにもかかわらず、高い完成度を有していることから物語、または古代小説の最初期作品である。
以下でも少し触れていますので、参考にしてください。
十三夜再び 171年ぶりの「後の十三夜」

伊勢物語
業平の歌物語
『在五が物語』、『在五中将物語』、『在五中将の日記』とも呼ばれる。
ある男の元服から死にいたるまでを数行程度の仮名の文と歌で作った章段を連ねることによって描く。
各話の内容は男女の恋愛を中心に、親子愛、主従愛、友情、社交生活など多岐にわたるが、主人公だけでなく、彼と関わる登場人物も匿名の「女」や「人」であることが多いため、単に業平の物語であるばかりでなく、普遍的な人間関係の諸相を描き出した物語である。

平中物語:
歌物語。
主人公の「平中」は、平安時代中期の歌人平貞文。『伊勢物語』の影響が大きい作品であるが伊勢物語に比べ地文が多いという。

多武峯少将物語 篁物語:
右少将藤原高光が961年(応和元年)8月多武峯に移り、草庵をむすぶまでを、藤原高光と妻(少将敦敏の女)、妹(愛宮)らとのあいだでかわされた和歌を中心に叙する。

宇津保物語:
竹取物語』にみられた伝奇的性格を受け継ぎ、日本文学史上最古の大長編伝奇小説である。
遣唐使清原俊蔭は渡唐の途中で難破のため波斯国(ペルシア)へ漂着する。天人・仙人から秘琴の技を伝えられた俊蔭は、23年を経て日本へ帰着した。俊蔭は官職を辞して、娘へ秘琴と清原家の再興を託した後に死んだ。俊蔭の娘は、太政大臣の子息(藤原兼雅)との間に子をもうけたが、貧しさをかこち、北山の森の木の空洞 – うつほで子(藤原仲忠)を育てながら秘琴の技を教えた。兼雅は二人と再会し、仲忠を引き取った。〔俊陰〕
そのころ、源正頼娘の貴宮(あて宮)が大変な評判で求婚者が絶えなかった。求婚者には春宮(皇太子)、仲忠、源涼、源実忠、源仲純、上野宮、三春高基らがいたが続々と脱落し、互いにライバルと認める仲忠と涼が宮中で見事な秘琴の勝負を繰りひろげたものの、結局、あて宮は春宮に入内し、藤壺と呼ばれるようになった。〔藤原の君〜あて宮〕
仲忠は女一宮と結婚し、その間に娘の犬宮(いぬ宮)が生まれた。俊蔭娘は帝に見いだされ尚侍となる。仲忠は大納言へ昇進し、春宮は新帝に、藤壺腹の皇子が春宮になった。〔蔵開・上〜国譲・下〕
仲忠は母にいぬ宮へ秘琴を伝えるようお願いし、いぬ宮は琴の秘技を身につける。いぬ宮は2人の上皇嵯峨院と朱雀院を邸宅に招いて秘琴を披露し、一同に深い感動を与えるシーンで物語は終わる。〔楼上・上〜下〕

落窪物語:原作:落窪おちくぼ物語 改作:落窪の草子
継子いじめの物語
露骨な表現や下卑た笑いもみられることから当時の男性下級貴族であろうと言われている。
主人公は中納言源忠頼の娘(落窪の姫)である。母と死別した落窪の姫は継母のもとで暮らすことになったが、継母からは冷遇を受けて落窪の間に住まわされ、不幸な境遇にあった。しかし、そこに現われた貴公子、右近の少将道頼に見出されて、姫君に懸想した道頼は彼女のもとに通うようになった。姫君は継母に幽閉されるが、そこを道頼に救出され、二人は結ばれる。道頼は姫君をいじめた継母に復讐を果たし、中納言一家は道頼の庇護を得て幸福な生活を送るようになった。

源氏物語
紫式部(詳細は作者を参照)の著した、通常54帖(詳細は巻数を参照)よりなるとされる。写本・版本により多少の違いはあるものの、おおむね100万文字・22万文節400字詰め原稿用紙で約2400枚に及ぶおよそ500名近くの人物が登場し、70年余りの出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされる。
以下でも少し触れていますので、参考にしてください。
今日(11/1)古典の日に、源氏物語を読む!

狭衣物語:原作:狭衣物語 改作:狭衣の草子
狭衣中将の恋物語
狭衣大将は、従妹・源氏宮に想いを寄せているが東宮も彼女に懸想しており叶わぬ恋であった。ある時、仁和寺の僧に浚われそうになっていた飛鳥井姫を救出し契りを結ぶ。やがて彼女は身売りされ、瀬戸内海で入水したが救われて出家、狭衣の子を産んで病死。一方で狭衣は女二の宮と誤って契りを結び、宮は彼の子を生んで尼となった。東宮が即位した後、源氏宮は神託により斎院(賀茂神社の巫女)となる。全ての愛人を失った狭衣大将は年長の女一の宮との結婚を余儀なくされる。狭衣は出家を望むが、神託により皇位につくことになる。艶麗な文体で評価が高いが、安易な御都合主義的展開を批判される。

浜松中納言物語:
中国まで舞台の大ロマン
浜松中納言は母と共に左大将の家で養われ、その家の大君と恋に落ちる。ある時、故父宮が唐の皇子に転生していると夢で見て唐に渡り、皇子の母后と契り若宮が生まれる。中納言は若宮を連れて日本に帰ってみると、大君は中納言の子を生んだ後に尼となっていた。中納言は大君と母后の双方への想いで揺れる事になる。唐后の母(故上野宮の娘)は帥の宮との間に吉野姫を儲けており、中納言に姫を託す。その後、唐后が中納言の夢に現われ「死して再び中納言と結ばれるため吉野姫の腹に宿った」と告げた。
三島由紀夫はこの『浜松中納言物語』に強く惹かれて、輪廻転生をテーマとした『豊饒の海』を執筆したと言われている。
※)豊饒の海に関しては、こちらも参考にしてください。
 ・三島由紀夫!豊饒の海に織り込められた人間の姿!
※)『浜松中納言物語』については、別途整理したいと思います。

夜半の寝覚:原作:夜の寝覚(一部散逸) 改作:夜の寝覚物語
寝覚めの君の恋物語
関白左大臣の子・中納言は、源氏の大臣の大君と結婚するが、その妹である中の君と契り中の君は女の子を産む。彼女は姉・大君に遠慮して父の元に姿を隠し、やがて老関白の後妻として男児(実は中納言の子)を生む。一方、中納言は大君病死後に後妻として朱雀院の女一の宮を迎える。老関白の娘が入内し中の君も後見として宮中に入るが、冷泉帝は娘より中の君に言い寄る。現世に嫌気がさした中の君は出家を思うが、その後も息子が冷泉帝の女二の宮と恋愛騒動を起すなどで出家が叶わない。一女性を中心にストーリーを描いた作品。

とりかへばや物語:原作:とりかへばや(散逸) 改作:今とりかへばや
男女取替えのお色気小説
大納言の二人の子はそれぞれ男女逆として育てられる。中納言(女君)は右大臣の四の君と結婚するが、四の君は宰相中将と密通して懐妊しこれを知った中納言は苦悩。その中納言も宰相中将に女と知られ彼の子を妊娠。一方で尚侍(男君)は女東宮と通じ妊娠させてしまう。そのため兄妹は相互に入れ替わり、尚侍(女君)は女東宮の子を産み中納言(男君)は四の君と夫婦生活を送る。宰相中将の人物描写が浅薄との批判がある。

堤中納言物語
10編の短編物語および1編の断片からなる短編小説集
10編の物語の中のいずれにも「堤中納言」という人物は登場せず、この表題が何に由来するものなのかは不明。複数の物語をばらけないように包んでおいたため「つつみの物語」と称され、それがいつの間にか実在の堤中納言藤原兼輔)に関連づけられて考えられた結果として堤中納言物語となった、など様々な説がある。

栄花物語
仮名文による歴史物語。女性の手になる編年体物語風史書。
六国史の後継たるべく宇多天皇の治世から起筆し、摂関権力の弱体化した堀河朝の寛治6年2月(1092年)まで、15代約200年間の時代を扱う。藤原道長の死までを記述した30巻と、その続編としての10巻に分かれる。

今昔物語:
日本のアラビアンナイトと呼ばれる説話集。全31巻(8巻・18巻・21巻は欠損)
編纂当時には存在したものが後に失われたのではなく、未編纂に終わり、当初から存在しなかったと考えられている。また、欠話・欠文も多く見られる。
天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の三部で構成され約1000余りの説話が収録されている。各部では先ず因果応報譚などの仏教説話が紹介され、そのあとに諸々の物話が続く体裁をとっている。
いくつかの例外を除いて、それぞれの物語はいずれも「今昔」という結びの句で終わる。
その他の特徴としては、よく似た物話を二篇(ときには三篇)続けて紹介する「二話一類様式」があげられる。

松浦宮物語:
少将氏忠は幼馴染であるかんなびの女王に恋慕し菊の宴の夜に契りを結ぶが、やがて女王は入内し少将は遣唐副使として渡唐。唐では帝から信任を受け、ある夜に帝の妹・華陽公主より琴の秘曲を伝授される。二人は惹かれあい後日に契るが、水晶の玉を形見に公主は没した。帝の病没後、皇弟が反乱し少将は新帝・母后を連れて蜀に逃れ乱を治める。その後、正体不明の女性と契りを結ぶ。女性の正体は母后であり、少将は天童・母后は天衆で阿修羅退治の為に天から下されたと秘密が明かされ鏡が形見として渡される。帰国した少将が玉をもって法要を行うと華陽公主が蘇り再会。そんなある日、鏡をのぞいてみると母后の姿が見えた。

いはで忍ぶ物語:
全8巻の長編物語と見られるが、現存するのは第1巻・第2巻のみ。『源氏物語』『狭衣物語』の影響が濃い。
内大臣と関白の恋の鞘当て、そして右大将(関白の息子)の悲恋と出家を描く。
内大臣は先帝一条院の皇子で関白太政大臣の養子となっているが、一品宮(時の帝である白河帝の第二皇女)と結婚し、一男一女をもうけている。二位中将(後の関白)は母によく似た一品宮を恋慕し、「いはでしのぶ」嘆きに沈んでいた。
内大臣はある時、異母兄・伏見入道の二人の娘、大君・中君と知り合う。入道の希望で内大臣は姉の大君を妻にするが、白河帝によって大君を奪われてしまい、一品宮も誤解から父白河帝に連れ戻されてしまう。その後一品宮は出家し、最愛の一品宮を失った内大臣は悲嘆のうちに病死した。
一方、関白(二位中将)は一品宮の面影を求めて、大君・中君姉妹のみならず斎院(伏見入道の妹)とも密通する。大君は嵯峨帝(白河帝の子)に寵愛され皇后となり、中君は関白との間に若君をもうけて妻となった。また斎院も男子(後の右大将)を産んだが、一品宮に我が子を託して死去、関白を悲しませた。
その後嵯峨帝に皇子がないことから、内大臣と一品宮の息子が嵯峨帝の養子となり、今上帝として即位する。母一品宮は女院となり、妹宮(二品宮)は関白の北の方となった。また関白と斎院の子・右大将も二品宮を恋慕していたが、思い叶わず失意のうちに出家した。

風につれなき物語:
擬古物語鎌倉時代屈指の長編物語と考えられるが、現在は冒頭の、しかもストーリーを短縮して編集したとおぼしき1巻のみが現存する。
題名の由来は不明だが、男君たちに対する女主人公の「風につれなき」態度を表したものと考えられている。病気・死・出家の描写や世のはかなさを嘆く歌が多いことから、『源氏物語』特に宇治十帖の影響を色濃く受けている。
故関白には長男の関白左大臣次男の右大臣左大将・長女の大宮(吉野帝の母)・次女の式部卿宮北の方がいる。兄関白には2人の美しい娘がおり、長女(姉姫)は弘徽殿女御として吉野帝に入内して寵愛を受け、やがて中宮となる。弟右大臣には三位中将・藤壺女御などの子供がいる。その後、藤壺女御(弟右大臣の娘)が吉野帝の子を懐妊するが、皇子誕生を願う弟右大臣の熱心な祈祷もむなしく、生まれたのは皇女(女一の宮)だった。4年後、関白の次女(妹姫)は美しく成長し、吉野帝と権中納言(もとの三位中将)から好意を寄せられるがつれなく拒絶する。その後、弘徽殿中宮は皇子(堀川帝)を産むが、妹姫に皇子の養育を頼んで崩御する。吉野帝は残された妹姫に入内を催促し、また権中納言も妹姫に言い寄るが、皇子の養育に専念する妹姫はつれない態度を崩さない。
その後の部分は現存しないが、『風葉和歌集』に収録された和歌の内容から妹姫は独身のまま皇子(堀川帝として即位する)の准母として女院となったらしい。

宇治拾遺物語
今昔物語集』と並んで説話文学の傑作とされる。全197話、15巻から成る。
日本、天竺(インド)や大唐(中国)の三国を舞台とし、「あはれ」な話、「をかし」な話、「恐ろしき」話など多彩な説話を集めたものであると解説されている。ただ、オリジナルの説話は少なく、『今昔物語集』など先行する様々な説話集と共通する話が多い。
貴族から庶民までの幅広い登場人物、日常的な話題から珍奇な滑稽談など幅広い内容の説話を含む。
収録された説話の内容は、大別すると次の三種に分けられる。
仏教説話(破戒僧や高僧の話題、発心・往生談など)
・世俗説話(滑稽談、盗人や鳥獣の話、恋愛話など)
・民間伝承(「雀報恩の事」など)

住吉物語:原作:(散逸) 改作:住吉物語
住吉物語は元来は落窪物語と同様に源氏物語に先行して作られたものであるが、後世に改作されたといわれる。
母を失い父・中納言のもとで育てられる姫君に四位少将が求婚するが、継母が妨害し自分の娘と少将を結びつける。一方で父は姫君の亡母との約束通り姫君の入内を図るが継母は法師と姫君密通の噂を巻き阻止する。そこで左兵衛督との結婚が持ち上がるが継母は老人である主計頭に姫君を盗ませようとしたため、姫君は乳母子と共に亡母の乳母が隠棲している住吉に脱出した。一方で中将(かつての少将)は姫君を忘れられず夢で姫君の居場所を知り住吉に赴き再会。二人は都に戻って結婚する。

無名草子:
鎌倉時代初期の評論。藤原俊成女という女性の立場から述べる王朝物語で、日本の散文作品に対する文芸評論書としては最古のものである。
そこでは、源氏物語のみならず上記のような物語、更に散逸した多くの物語について論じられ、物語の筋、文章の質、ヒロインや主人公の性格・心理描写などについて批評されている。中には作り直しを推奨される物語すらあり、しばしば過去作品のリメイクが行われた事が示唆される。
これは散逸物語の研究資料としてのみならず、中世初期における人々の中古文学享受史が伺える貴重な作品である。

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旧約聖書:エクソダス 神と王をきっかけにして。

映画『エクソダス:神と王』の舞台は紀元前1300年のエジプト。
最強の王国として名をはせるエジプトの王家に養子として迎えられて育ったモーゼは、兄弟同然のような固い絆で結ばれていたはずのエジプト王ラムセスと袂を分かちます。
その裏には、苦境に立たされている40万にも及ぶヘブライの人々を救わねばならないというモーゼの信念があったのです。
そして、彼らのための新天地「約束の地」を探し求めることに。過酷な旅を続ける一方で、彼はエジプトを相手にした戦いを余儀なくされていくことに。。。

今から58年前。チャールトン・ヘストン扮するモーゼと、ユル・ブリンナー扮するラムセスで話題となった『十戒』とう映画がありました。
子供の頃にテレビで見て驚いた壮大な時代背景の物語が、『ダークナイト』でバットマンに扮していたクリスチャン・ベイルのモーゼと、『華麗なるギャツビー』でデイジーの夫役だったジョエル・エドガートンのラムセスで蘇ってきます。


監督は、『エイリアン』『ブレードランナー』『ブラック・レイン』『グラディエーター』のリドリー・スコット
旧約聖書出エジプト記に登場する、モーゼのエピソードをベースにした来年早々(2015年1月30日)公開のアドベンチャームービーですが、せっかくならモチーフが聖書なだけに年末のこの時期に公開すればよかったのに、と思わざるを得ません。

そんな旧約聖書ですが、出エジプト記だけでなく壮大なる物語がてんこ盛りです。
もっとちゃんと知りたい!美しい絵画でおさらい【旧約聖書】
ちなみにざっと目次だけ見ても、ひとつの章だけで十分一本の映画が取れそうなスケール感ですよね。
※)それぞれのについては、いずれ少しずつにでも整理していこうとは思っています。
ですので、ユダヤ教キリスト教に関わりがない方でも、世界最古の文献のひとつとして、興味がある章から読み解いてみてはいかがでしょうか。
映画『エクソダス:神と王』が、そんなきっかけとなればいいですね。

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旧約聖書 目次」

【【律法の書】】
【創世記】
天地創造と原初の人類
天地創造 1章
アダムとイヴ、失楽園 2章 – 3章
カインとアベル 4章
ノアの方舟 5章 – 11章
バベルの塔 11章
・太祖たちの物語
アブラハムの生涯 12章 – 25章
ソドムとゴモラの滅亡 18章 – 19章
イサクをささげようとするアブラハム 22章
イサクの生涯 26章 – 27章
イスラエルと呼ばれたヤコブの生涯 27章 – 36章
・ヨセフの物語
夢見るヨセフ 37章 – 38章
エジプトでのヨセフ 38章 – 41章
ヨセフと兄弟たち 42章 – 45章
その後のヨセフ 46章 – 50章

出エジプト記
・エジプト脱出
ヤコブ後のエジプトにおけるユダヤ人の状況(1章)
モーセの物語(2章 – 4章)
ファラオとの交渉と十の災い(5章 – 11章)
民のエジプト脱出と葦の海の奇跡(12章 – 15章)
シナイ山への旅(16章 – 19章)
・神と民の契約
十戒の授与(20章)
契約の書(20章 – 23章)
契約の締結(24章)
幕屋建設指示とその規定(25章 – 28章)
儀式と安息日の規定(29章 – 31章)
金の子牛(32章 – 33章)
戒めの再授与(34章)
安息日と幕屋の規定(35章 – 39章)
幕屋の建設(40章)

レビ記
・祭司の規定
献げ物に関する規定(1章~7章)
アロンの故事とそれにちなむ祭司の聖別などの規定(8章~10章)
清浄と不浄に関する規定(11章~16章)
・神聖法集
献げ物と動物の扱いに関する規定(17章)
厭うべき性関係に関する規定(18章)
神と人との関係におけるタブーに関する規定(19章)
死刑に関する規定(20章)
祭司の汚れに関する規定(21章)
献げ物に関する規定(22章)
祝い日に関する規定(23章)
幕屋に関する規定(24章1-9節)
神への冒涜などに関する規定(24章10-23節)
安息年とヨベルの年に関する規定(25章)
偶像崇拝の禁止と祝福と呪いに関する規定(26章)
誓いと関係する献げ物の規定(27章)

民数記
シナイ山における人口調査と出発に至るまでの記述、ナジル人など種々の規定
1章 シナイの荒野における人口調査、レビ人の務め
2章 幕屋と宿営地に関する神の指示
3章 レビ人の祭司としての職務
4章~6章 レビ人の氏族の調査、汚れやナジル人に関する規定
7章~9章 祭壇の奉献と聖所の祝別
シナイ山からモアブにいたる道中の記述、カナンへの斥候の報告にうろたえる民の姿
10章~12章 イスラエルの民の荒れ野の旅と不満、モーセを蔑ろにしたアロンとミリアムへの罰
13章~14章 カナンを偵察した斥候の報告と民の嘆き
15章~17章 コラの反逆、アロンの杖
18章~19章 アロンの子孫とレビ人の祭司としての役割
・カナンの民との戦い、ヨルダン川にたどりつくまで
20章~21章 メリバの出来事、ミリアムとアロンの死、カナン人アラドの王の死、青銅の蛇による罰、アモリの王シホンとオグとの戦い
22章~24章 バラクとバラムの物語、バラムとろば
25章~27章 カナン入りを前にした人口調査。後継者ヨシュアの任命
28章~29章 献げ物に関する規定
30章~32章 ミディアンへの勝利、逃れの街の規定
33章~36章 エジプトを出てからの旅程、イスラエルの嗣業の土地、レビ人の町、相続人が女性である場合の規定

申命記
・第1の説話(1章~4章)
40年にわたる荒れ野の旅をふりかえり、神への忠実を説く。
・第2の説話(5章~26章)
前半の5章から11章で十戒が繰り返し教えられ、後半の12章から26章で律法が与えられている。
・最後の説話(27章~30章)
神と律法への従順、神とイスラエルの契約の確認、従順なものへの報いと不従順なものへの罰が言及される。
・32章1節~47節
モーセの歌』といわれるものである。
・33章
モーセイスラエルの各部族に祝福を与える。
・32章48節~52節および34章
モーセの死と埋葬が描かれて、モーセ五書の幕が閉じられる。

【【歴史の書】】
ヨシュア記】
ヨシュアによる占領(1-11章)
・土地の配分(12-21章)
・シケム契約(22-24章)
士師記
・時代背景(1:1-3:6)
・士師たちの活躍(3:7-16章)
・ダン族の定住(17-18章)
・ベニヤミン族の討伐(19-21章)
【ルツ記】
【サムエル記 第Ⅰ】
【サムエル記 第Ⅱ】
【列王記 第Ⅰ】
【列王記 第Ⅱ】
【歴代誌 第Ⅰ】
【歴代誌 第Ⅱ】
エズラ記】
【ネヘミヤ記】
エステル記】

【【【詩書】】】
ヨブ記
詩篇
箴言
伝道者の書
雅歌

【【【大預言書】】】
イザヤ書
エレミヤ書
哀歌
エゼキエル書
ダニエル書

【【【小預言書】】】
ホセア書
ヨエル書
アモス
オバデヤ書
ヨナ書
ミカ書
ナホム書
ハバクク
ゼパニヤ書
ハガイ書
ゼカリヤ書
マラキ書

【【旧約聖書続編】】
トビト記
ユディト記
エステル記(ギリシャ語)
マカバイ記 一
マカバイ記 二
知恵の書
シラ書〔集会の書〕
バルク書
エレミヤの手紙
ダニエル書補遺 アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌
スザンナ
ベルと竜
エズラ記(ギリシャ語)
エズラ記(ラテン語
マナセの祈り

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孝経より学ぶ!生きていくために大切にすべきもの!

『孝経』は、曽子の門人が孔子の言動をしるしたという中国の経書七経のひとつです。
儒教の根本理念である孝を述べ、つぎに天子、諸侯、郷大夫、士、庶人の孝を細説し、そして孝道を実践するための具体的内容を説く、全1巻18章からなる書物です。
七経は、儒教における7種類の経典のことで、本来は詩経書経易経礼記(『大学』・『中庸』を含む)・楽経・春秋・論語の7種類を指していましたが、後漢以後既に散逸していた楽経に代わって孝経を入れた7種類を指すようになっています。
そんな『孝経』です。

孔子は家庭・宗族内の道徳である「孝」や「弟」(弟の兄に対する道徳)を重視しこの実践こそ「仁」を具現する大元となるもので、親や身内への孝弟、そしてそれを他人にまで及ぼしていくとき、仁愛の理想世界が現出すると説きました
結果「孝弟」は、儒家の道徳思想と人倫の根本をなす概念となっています。
「孝」の実践については『礼記』『論語』『孟子』でも説かれていますが、『孝経』はこれを巧みに社会関係や祖先との関係にまでおし広げて論理化してあります。
つまり「孝」とは、
・親に仕えて孝養をつくすとともに君主に仕えて国家社会に業績を残し、それによって自らの名声とともに家名をも揚げて先祖を顕彰することである。
・「孝」は親と子の問題であり、君と臣との関係であり、先祖と子孫とを結ぶ行為でもある。
としたのです。
孔子を始めとする儒家が「孝」を道徳思想の根本とするのは、儒家の道徳が本来宗族主義道徳であり、この家族の秩序を維持することが、ひいては国家社会の秩序を維持する根本の道であると考えたからです。
よって「孝」は家族の秩序維持の原理であると同時に国家社会のそれであり、道徳の原理であると同時に政治のそれでもあったのです。
要は、「孝」を最高道徳、治国の根本とした訳ですね。
しかし「孝」を封建的道徳と考え、親が子に服従を強制するかのような概念を持つのは誤りで、孝経には親の不義に対しては厳しく諫言すべきであると説いているのです。

こうした儒教の思想を新たに解釈したのが陽明学です。
日本の陽明学者である中江藤樹は「翁問答」で
「人間千々よろづのまよひ、みな私よりおこれり。わたくしは、我身をわが物と思ふよりおこれり。孝はその私をやぶりすつる主人公」(エゴイズムからの自己の解放は、宇宙的な生命との合一によるが、その手がかりは、父母から始祖、始祖から天地、天地から太虚というように自己の生命の根源に思いを致すことであり、その起点として孝がある)と解釈しました。
※)「翁問答」については、先般の整理したものも参考にしてください。
 ・翁問答より学ぶ!心学の提唱・明徳と普遍道徳・全孝について
こうして日本における「孝」は無限の広がりを持つものとされ、肉体の死生を超越する主体の強さの根拠として新たに解釈されていったのです。

そんな『孝経』ですが、日本人は漢書の渡来以前より「孝」を重視し、皇室・将軍家・武士・寺子屋では、漢籍の習い始めに用いていました。
今は核家族が進み、親が孝行の生きた手本を示す場が少なくなってきています。
友達感覚の親子を渇望し、挙句にそれぞれが孤と化していく家庭が増えていることも事実です。
しかし、家族は楽しいだけの場ではなく、生涯を通じて礼節を学び、祖先を敬いながら、子孫のために良き先祖となるべく精神の持続を共有化する運命共同体であるはずです。
動物の世界では、子が成長すれば親からの離脱・絶縁となりますが、人は子の成人後も絆を保ち、祖先から子孫への命脈を大切にする生き物。
動物的な生き方は、いずれ滅びるしかない道です。
人として生きていくために大切にすべきものは何か、『孝経』から学びとることも必要ではないでしょうか。

ご一読してみてください。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【開宗明義】
独座する孔子の側に曾子が来て侍座した。 孔子が言った。 先王に至徳要道有り、無為自然にして天下を安んじ、民は相親しみて和睦す、上下共に怨みを生ずる無し。 お前はこれを知るか、と。 曾子は席を退き、慎んで答えて言った。 私は明敏ではありません。 どうしてその真意を知るに足りましょうか、と。 孔子が言った。 孝とは徳の本であり、教えに由りて生育されるものである。 戻って座るがよい、お前にその真意を教えよう。 そもそも我が身体、髪、皮膚、ありとあらゆるものは、父母より受けたるものである。 これを一時の惑いに失うこと無く、その生を尽くして全うするは、孝の始めである。 身を修めて道を行ない、名を後世に揚げて敬せらるに至る、このようにして父母を顕し先祖を讃えるに至らしめるは、孝の成就である。 孝というものは親に事えるに始まり、君に事えて全うし、身を立てて終える。 故に詩経の大雅にはこう詠われている。 汝の祖先の道を尊ぶべし、その徳を継ぎて修め帰す、と。

【天子】
孔子が言った。 親を愛する者は、人を悪むことは無く、親を敬する者は、人を侮ることは無い。 愛敬を親に事えるに尽すの心を以て、全てに推し広げる、さすれば徳教は天下万民へと自然にして満ち溢れ、世々これを則として背くこと無し。 これを天子の孝という。 故に書経の呂刑にはこう述べられている。 一人慶び有らば、天下万民これを幸むる、と。

【諸侯】
上の位に在りて驕ることが無ければ、如何なる高位に在ろうとも危いことは無く、礼節を持して仁政を施せば、如何に満ちようとも溢れることは無い。 高位にして危き無きは、長く貴きを守る所以であり、満ちて溢れざるは、長く富を守る所以である。 人君が謙徳によりて貴きを守り、仁政によりて富を守らば、国家安泰にして人民安んず。 これを諸侯の孝という。 故に詩経の小旻篇にはこのように詠われている。 戦戦兢兢として深き淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し、と。

【卿大夫】
礼儀に適いたる衣服に非ざれば敢えて服せず、礼儀に適いたる言葉に非ざれば敢えて言わず、徳行に根ざしたる行いに非ざれば敢えて行なわず。 この故に曖昧な言葉を発さず、妄りに為さずしてその為すべき所を定む。 言葉を発すれば天下に満ちて人々はこれを是とし、実行すれば天下に満ちて人々はこれを嘉す。 言行一致し表裏相応じ、民これを受けて喜ばざる無く、故によくその禄位を保ち、その宗廟を継ぎて絶やすこと無し。 これを卿大夫の孝という。 故に詩経の蒸民篇にはこのように詠われている。 常に己を修めて倦むこと無し、以て一人に事ふ、と。

【士】
父に事えるの心を以て母に事える、そこに生ずる愛は同じ。 父に事えるの心を以て君に事える、そこに生ずる敬もまた同じ。 故に母にはその愛を取り、君にはその敬を取る。 そして愛敬を兼ねるは父である。 故に親に事えるの孝を以て君に事えれば忠であり、敬を以て年長に事えれば順となる。 忠順を失わずして上に事えるの道を全うす。 故によく禄位を保ち、その先祖の道を継いで失うこと無し。 これを士の孝という。 故に詩経の小宛篇にはこのように詠われている。 朝早く起きて夜更けに寝る、汝の先祖を恥かしむること無かれ、と。

【庶人】
天道は四時違えず、故に人はこれに則りこれを用いる。 地勢の豊饒に各々利あり、故に人はこれに則りこれに因る。 四時に違えず、地勢に適いて農事に勤め、身体万全にして節倹に努む。 このようにして父母を養うを得るは、庶民の孝である。 これら上は天子から下は庶民に至るまで、孝の道を全うせずして患いの及ばざる者を、私は未だかつて聞いたことがない。

【三才】
曾子が言った。 なんと甚だしきものでしょうか、孝の偉大なることは、と。 孔子が言った。 孝というものは、天道に適い、地義に宜しく、民をして善に帰せしむるものである。 天地の常道にして、民はこれに則りこれを行なう。 天道四時明らかに、地勢豊穣これ則り、故に天下は自然にしてこれ治まる。 故にその教化は粛ならずして成り、その政事は厳ならずして治まるのである。 先王が自然にして民を化するを得たる所以はここにある。 必ず博愛の心を以て先と為すが故に、自然と人々にその親を敬愛して忘れざる心が生じ、必ず徳義を以てこれを為すが故に、自然と人々に行善の心が生じ、必ず敬譲の心を以て先と為すが故に、自然と人々は譲って争い生ぜず、これを導くに礼楽を以て為すが故に、自然と人々は和睦して相親しみ、これを示すに善悪邪正を明らかにするが故に、自然と人々は禁不禁の境を知りて堅くこれを守るようになる。 故に詩経の節南山にはこのように詠われている。 赫赫たる大師の尹氏よ、民は汝の姿を臨み見ている、と。

【孝治】
孔子が言った。 古代の明王の孝を以て天下を治むるや、爵位ある者に対してはもとより、小国の臣下に対しても礼を遺れず、故に万国の嘉する心を得て、以てその先王に事えるを得た。 国を治むる者は、国用を勤める者はもとより、決して孤独で身寄り無き者を侮らず、故に天下万民の嘉する心を得て、以てその先君に事えるを得た。 家を治むる者は、妻子に対してはもとより、決して使用人に対しても親しみを失わず、故に家人の嘉する心を得て、以てその親に事えるを得た。 これは当然の帰結である。 故に生ずれば祖宗これに安んじ、祭らば鬼神これを享けて守らざるなく、これを以て天下は和平を得て、災害生ぜず、禍乱も起らず、明王の天下を治むること、孝を以てなすが故に、万事がこの通りであったのである。 故に詩経の抑篇にはこのように詠われている。 覚なる徳行有れば、四方の国々自ずから順ふ、と。

【聖治】
曾子が言った。 敢えて問いますが、聖人の徳というものは、少しも孝に加えるところがないのでしょうか、と。 孔子が言った。 天地の生ずるところ、人を貴しと為し、人の行なうところ、孝より大なるはなし。 孝は父を尊び敬するより大なるはなく、父を尊ぶは天に配するより大なるはなし。 周公旦はその大なるを為した人である。 昔、周公旦は祖宗である后稷を郊祀して天に配し、父たる文王を明堂に宗祀して、以て上帝に配した。 これを以て諸侯は、各々職分を務めて善く治め、祭祀の助けとしたのである。 これ孝治の至りにして天に通じ、故に聖人の徳といえども加えるところなし。 故に生まるれば親しみを以て父母を養い、日々に尊びて敬すれば、これを孝という。 聖人は厳によりて敬を教え、親によりて愛を教える。 聖人の政教たるや、厳粛ならずして自ずから通ずるは、その因るところの者、本なるが故なのである。

【父母生績】
父子の道は自然にして来たるところであり、その関わりは君臣の義に同じ。 父母ありて我れ生ず、その志を継いで子孫連綿に至らしめるや、これより大なるはなし。 敬親の道を以てこれに臨む、その厚恩たるや、これより重きはなし。 故にその親を愛せずして他人を愛する、これを悖徳といい、その親を敬せずして他人を敬する、これを悖礼という。 その行うところ順を以てすれば民は自然にしてこれに従い、逆を以てすれば民の従うこと自然ならず。 自然ならざれば善に在らず、たとえ治めるを得るも皆な凶徳にして、故に君子は貴ぶことなし。 君子は自ずから然るところを貴びて形迹生ぜず、言は道うべくして道い、行は行うべくして行い楽しむのみ。 その徳義を尊び、事を興すに違うことなく、その身を以て手本となし、その進退挙措の通ぜざるなし。 これを以て民に臨めば、人々畏敬して親愛し、その為すところに則りて習わざるはなし。 故に普くその徳教に感化され、その政令に従いて通ぜざるなし。 故に詩経の鳲鳩篇にはこのように詠われている。 淑人君子、其の儀忒はず、と。

【紀孝行】
孝子の親に事えるや、父母居らばこれを敬し、父母を養えばその心に叶い、父母病めばこれを憂い、父母死さばこれを哀しみ、父母を祭祀せば厳にして安んず。 故にこの五者を備えてはじめて、その親に事えるという。 親に事える者は、上に在りて驕ることなく、下に在りて乱すことなく、衆と在りて争い生ぜず、必ず和して皆な親しむ。 もし上に在りて驕らば亡び、下に在りて乱せば刑せられ、衆と在りて争えば終には禍その身に及ぶ。 故にこの三者を除かざれば、日々に三牲の養いを以てその親に尽くすと雖も、不孝という。

【五刑】
古代に入れ墨の刑より死罪に至るまで五刑あり、その罰の種類は三千あれども、罪の大なること不孝に過ぎたるは無し。 私欲を専らにして主君に求める者は節操あらずして順逆違い、心に反らずして聖人を誹る者は道心あらずして天理に悖り、愛敬存せずして孝子を誹る者は孝道あらずして人情に悖る。 これを大乱の道という。

【廣要道】
民に親愛を教えるには孝の道より善きはなく、民に礼順を教えるには弟の道より善きはなく、風俗を正へと帰するには楽の道より善きはなく、君を安んじ民を治めるには礼の道より善きはなし。 礼の本は敬あるのみ。 故にその父を敬うは子の喜びとなり、その兄を敬うは弟の喜びとなり、その君を敬うは臣の喜びとなる。 一人を敬して人々これを嘉す、その敬うところ少なくして悦ぶところの者多き、これを要道という。

【廣至徳】
君子の人々を教化するに孝を以てするや、家々を訪れてこれに教えるには非ずして自らの身を以てこれに示すのである。 教えるに孝の道を以てするは、天下の人がその父を敬うに至る所以であり、教えるに弟の道を以てするは、天下の人がその兄を敬うに至る所以であり、教えるに臣の道を以てするは、天下の人がその君を敬うに至る所以である。 故に詩経の大雅泂酌篇にはこのように詠われている。 愷悌の君子は、民の父母なり、と。 至徳に非ずんば、どうして民を和順せしむることの、かくのごとくに大なる者があるだろうか。

【應感】
古の明王は、その父に事えて孝、故に天に事えて明、その母に事えて孝、故に地に事えて察、長幼その順を尊びて上下乱れず、天地に明察なるが故に神明に達す。 故に天子と雖も尊ぶ所あり、これその父あるをいう。 必ず先んずる所あり、これその兄あるをいう。 宗廟を敬するに至るは、その親しみを忘れぬが故であり、身を修め行を謹むは、先祖を尊びてその名を貶めるを恐れるが故である。 宗廟を敬して誠なれば、先祖御霊に自ずから通ず。 孝弟の至りは神明に通じ、天下四方に普く広がり、通ぜざる所無し。 故に詩経の大雅・文王有声篇にはこのように詠われている。 四方皆な来たりてその徳に感ず、心より服せざるは無し、と。

【廣揚名】
君子のその親に事えるや必ず孝、故に君に事えるや必ず忠、その兄に事えるや必ず弟、故に長者に事えるや必ず順、家に居らば家人自ずから和し、故に官職を得れば天下和順し定まらざるところなし。 その行を自ら修めて世に示す、故に後世、その名を尊びて敬わざるは無し。

【閨門】
家に在りても礼を失せず、親を貴ぶは君に事えるの基となり、兄を尊ぶは長に事えるの基となる。 妻子は国にあっては役人のごとく、臣妾は国あっては人夫のごとし。

【諌諍】
曾子が言った。 慈愛を存し恭敬を持し、親の心を安んぜしめ、身を立てて祖宗の名を称揚す、かくのごとき者を孝という、と私は聞いております。 敢えて問いますが、父の命に従うことを孝というべきでありましょうか、と。 孔子が言った。 何の言ぞや、何の言ぞや、道理に通ぜざる言葉よ。 昔から、天子に争臣が七人居れば、無道であってもその天下を失うことはなく、諸侯に争臣が五人居れば、無道であってもその国を失うことはなく、大夫に争臣が三人居れば、無道であってもその家を失うことはなく、士に争友が居れば、身はその名声に背くことはなく、父に争子が居れば、身は不義に陥ることはない、という。 故に不義に当たれば、子は父に争うべきであるし、臣下は主君に争うべきである。 不義に当りてこれを争う、父の命に従うのみならば、どうして孝となせようか、と。

【事君】
君子の主君に事えるや、進んでは忠を尽くさんことを思い、退きては過ちを補わんことを思う。 その嘉すべきところがあれば受けてこれに従い、その改むべきところがあれば未然に補いて増益す、故に上下和して親しまざるはなし。 故に詩経の隰桑篇にはこのように詠われている。 愛を心にすれば、遠近親疎の隔て無く、中心に蔵して忘ること無し、と。

【喪親】
孝なる者のその親の喪に服するや、哀しむこと声を失い、喪に勝えずして進退及ばず、言葉を発すれば清音あらず、美服を着るも安らかならず、音楽を聞くも楽しからず、甘きを食すも味を感ぜざるは、これ哀戚の情である。 喪に服して三日にして食するの決まりを設け、親しき者の死によってその生を損なわせず、身はやせ細るともその性命を滅せざるように教えるは、聖人の政である。 喪に服すること、三年を以て最長の期間とするは、民に喪に服することの終わりあるを示すためである。 死者の為に柩を設け、死装束を作り、心を尽してこれを挙げ、供え物を捧げて勧めるも、応答あらざるを以ての故に、その死をまた感じて哀戚し、胸を叩き地を踏んで声をあげて泣き、哀しんで柩と共に逝くを送り、その柩の置くべきところを卜して安置し、宗廟をおこして鬼を以てこれを祭り、春秋に祭祀して、時を以てこれを思う。 生あらばこれに事えて愛敬を尽くし、死せばこれに事えて哀戚已まず。 生きる者の本分を尽くし、死生の義を備えて已むこと無し、こうであって初めて孝たるの道は、その親に事えるの全きを得るのである。

孝経(終)

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預言書・讖書:中国七大予言書のひとつ『推背図』について

古来から預言書の類のものは玉石混交で、政情不安になる周期においてはたびたびブームとなりますが、今回はそんな預言書について整理してみたいと思います。

その上でまずは大事な前提です。

予言はあくまで予言。
その中身を盲信したり、鵜呑みにするのではなく、自らの力で読み解き、あくまで先を予測するための要素のひとつとして捉え、客観的にしてかつ論理的に解釈することが肝要です。
未来は自ら変えていけるもので、文字に書かれた内容だけで自分の人生をコントロールされたり、思考停止に陥っては本末転倒。
自ら思考することを放棄することなく、また予言の内容を参考にしながらどう変えていくかといった観点を大事にしてください。

そこで本題に戻ります。

数ある予言書の中、有名なところでいうと、新約聖書の『ヨハネ黙示録』、ミシェル・ノストラダムスの『諸世紀』(いわゆる「ノストラダムスの大予言」です)、韓国・南師古の『格庵遺録』、古代インディアンの『ホビー大予言』、そして日本でも聖徳太子の『未来記』や岡本天明の『日月神示』等がありますが、中国でも非常に有名な七大予言書というものがあります。

・周時代の姜子牙著『万年歌』
三国時代諸葛孔明著『馬前課』
・唐時代の李淳風・袁天網共著『推背図』
・李淳風著『蔵頭詩』
・唐時代の黄蘖著『黄蘖禅師詩』
・宋時代の邵康節著『梅花詩』
・明時代の劉伯温著『焼餅歌』
の七書が中国の七大予言書ですが、これらは的中率が高かったために禁書となったり、著者を殺害するなど、非常に血なまぐさい歴史があり、また完本の形でないものもあります。
中でも唐の時代、七世紀に書かれた李淳風・袁天網共著の『推背図(すいはいず)』は完本の形で残っている数少ない予言書ですが、中国歴代王朝の支配者が読んだ際にあまりに的中率が高い予言書であったため、宋代の太祖は世を乱す妖書として禁書にしてしまうほどの門外不出の機密文書でした。
ちなみに「推背図」の推背とは、「背中を推す」という意味ですが、この「背中を推す」が何を意味しているのかは、諸説があります。
著者の袁と李の両人が予言を終えて一休みしようと互いに促しあって背を推したとも、「未来に向かって背を推し、前身させる」を暗示しているとも言われていますし、あまりに赤裸々に未来を書いてしまうことを恐れて「この辺で止めよう」と背を推したとも言われているのです。

そんな予言の内容は、60年周期(60象・十干十二支の60干支で象徴している予言内容)の考え方に基づき、第一象(甲子)から第60象(癸亥)までの各象で構成されています。
それぞれの象には象徴する易の卦やイラスト図が示され、イラスト図の予言内容を示す詩歌『識(しん)』、さらに深い予言内容の詩歌『頌(しょう)』がありますが、これらの詩文は暗号のようになっていることから、予言内容を紐解いていくという形式になっています。
ちなみにその背景にあるのは中国の東洋思想であり、全世界の事象をフォローしている訳ではなく、あくまで中国を中心とした予言書であることには気をつけねばなりません。
また一貫して述べられているのは、分裂と統一を繰り返してきた中国に必要不可欠な救世主待望論です。

なお、そんな推背図ですが、
・日本は消滅し、中国大陸の中で日本民族や日本文化がかろうじて存命する
・中国と台湾が統一される
と読み解ける内容も含まれているようです。
また一説には、四一象で朝鮮戦争(1950~1952年)、四二象で毛沢東による粛清・三反運動(1951年)・五反運動(1952年)、四三象で台湾の中国政策(1990年代)、四六象で湾岸戦争・東西冷戦の終結(1990~1991年)などの歴史的事件を、ほかにも太平洋戦争勃発(1939年)、チンギスハンの中国侵攻(1211年)、中国の文化大革命(1966年)、などを次々と的中させているとも言われているのです。

とはいえ、1000年以上昔の予言書ですし、すごく抽象的な予言なので、現在(ひとまずはこうであろうと)解釈されている内容をざっと並べておきます。
項目によっては随分おどろおどろしい内容ですが、一説には“第五十六象:己未”に書かれているのが『第三次世界大戦』が始まるという内容。
巷ではこれを来年(2015年)とする節もあるのですが、来年は甲午。
普通に己未として考えれば、次は2039年ですし。。。。ふむ。

第四十五象を第二次次世界大戦の終わった年1945年として考えると、中国と台湾が統一されるという第四十三象は1943年。
となるとその約30年後は1973年。大幅に先を読んで+60年だとしても2033年。
やはり、鵜呑みにするのは危険そうです。

そんな『推背図』ではありますが、(冒頭でも述べたように)自ら思考することを放棄することなく、また予言の内容を参考にしながらどう変えていくかといった観点で読み解いてください。

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『推背図 目次相当の内容』

第一象 陰陽は循環する
第二象 栄枯盛衰は常のこと
第三象 権勢を誇る武則天
四象 五英傑、唐を復興する
第五象 楊貴妃、馬嵬駅で「鬼」に逢う
第六象 安定した都の暮らし
第七象 異民族が唐に侵入す
第八象 裏切り・内部抗争で李家絶える
第九象 朱温、ついに唐を滅ぼす
第一〇象 血があって、頭がない
第一一象 誰が龍か、誰が蛇か
第一二象 無秩序だった五代時代
第一三象 漢の血筋が帰ってきた
第一四象 循環する五代王朝の興亡
第一五象 わずらわしい蜂が暗示するもの
第一六象 宋の太祖が臣下と会議す
第一七象 宋・遼の間に和議が成立
第一八象 貴婦人と犬
第一九象 過激な改革、人が去る
第二〇象 国情乱れ、農村疲弊する
第二一象 屈辱たる靖康の変
第二二象 高揚する南宋ナショナリズム
第二三象 不屈の人・節義の人、文天祥
第二四象 南宋は海の藻屑となって消えた
第二五象 ジンギスカンの幼名は「鉄木真」
第二六象 明国の夜明け
第二七象 明は「日と月」と書く
第二八象 燕王、翼を広げ領土を拡大
第二九象 明、黄金時代を迎える
第三〇象 明国六皇帝、片時も国境を忘れず
第三一象 奸臣の弾圧荒れ狂う
第三二象 顔黒反乱軍・李自成暴れまわる
第三三象 満洲族が漢族に辮髪を命ず
第三四象 白衣を着た有髪の軍隊
第三五象 清の堕落、西洋の侵略
第三六象 列国に操られる西太后
第三七象 中華民国の誕生
第三八象 第一次大戦に導入された戦車
第三九象 唐時代に真珠湾攻撃を予言
第四〇象 台湾にまつわる予言の数々
第四一象 毛沢東、血の粛清
第四二象 核に緊張する朝鮮半島
第四十三象(祖国統一=丙午・易卦は火風鼎)
 約30年をかけて中国と台湾が統一される。
第四十四象(聖人が再臨誕生=丁未・易卦は火水未済)
 両岸四地(中国大陸、香港、台湾、マカオ)で一国二制度が堅持され、中国に聖人が誕生し、中国が世界的なリーダー国家と認められるようになる。
第四十五象(日本が敗戦し国運が終わる=戊申・易卦は山水蒙)
 日本が敗北して日本列島が沈没し、日本は武力を一切持つことなく武力解除される。
 日本が領土問題を名目に戦争を挑発すれば失敗に終わる。
第四十六象(ハイテクの危機に直面=己酉・易卦は風水渙)
 ハイテク技術が大きく発展したことで世界的な危機に直面するが、一人の勇士が身を挺して危機から守り、万民が死なずにすむ方法を実行する。
第四十七象(文化を重視し、軽武装になる時代=庚戌・易卦は天水訟)
 武力解決を避ける時代となり、高度な文化交流が盛んになる高度文化時代が到来する。
 王制がなくなり、農民出身の徳の高い偉大な指導者が誕生する。
第四十八象(風雨にさらされる50年間=辛亥・易卦は天火同人)
 辰と巳の年に朱という姓の指導者が登場し、50年間、中国に君臨し、国を指導する。
第四十九象(短期的な世界混乱期=壬子・易卦は坤為地)
 各組織が聯合戦線を組み、東西南北に世界が分裂し、八つに分かれるような動乱の動きになる。
第五十象(資源争奪戦=癸丑・易卦は地雷復
 資源争奪戦が寅年から始まり、人々はこの争奪戦のために生活が大変になり、苦労が増大する。
第五十一象(夫唱婦随の女性の価値が高まる時代到来=甲寅/易卦は地沢臨)
 新時代には男女一組の指導者が誕生し、特に女性指導者の品行方正ぶりが高く評価される。
 女性指導者の良妻賢母ぶりや女性的な感性と知性が国の安泰をもたらし、70年間は興隆する。
第五十二象(聖人が二度危機を救い、新時代が到来=乙卯・易卦は地天泰)
 聖人が新時代の人類を指導していくが独自路線で非常な孤独を抱え、快楽の方向へ国を向かわせて危機に直面。楚(湖北省)呉(江蘇省)の指導者によって危機を乗り越える。
第五十三象(中華再復興の時代=丙辰・易卦は雷天大壮)
 秦の姓を持つ陝西省出身の指導者が国を治め、儒教の孝の精神を重視する徳政を行う。
第五十四象(新風巻き込む中華文化時代=丁巳・易卦は沢天夬)
 旧態依然の中華文化と新しい中華文化が融合して強大で持久力のある新しい中華文化時代が到来する。
 そこには一人の傑出した人物の重要な作用があり、再び世界に新しい中華文化の魅力を再現できるようになる。
第五十五象(東方文化の興亡と盛衰=戊午・易卦は水天需)
 日本は沈没し、大部分の流民になった日本国民は大部分が中国に受け入れられ、日本文化は中国の中で根づいて存続するようになる。
第五十六象(第三次世界大戦の勃発=己未・易卦は水地比)
 兵士のいない戦争が起こり、その戦争は激烈で中国にも戦火が及ぶ。
第五十七象(天才少年が救世主となって戦争のない世を治める=庚申・易卦は兌為沢)
 第三次世界大戦で荒れ果てた地球に身長100センチ以下の天才少年が『毒を以て毒を制す』武器を使って戦争を終結させる。その天才少年は呉越(浙江省あたりかベトナム)に誕生する。
 呉越についてはこの解釈だけではなく、場所の正確な予測はできにくい。
第五十八象(大統一時代が到来=辛酉・易卦は沢水困)
 第三次世界大戦で大動乱が終わり、各国が手を握って協力し合い、平和的な大統一時代が到来する。
第五十九象(人類の個人差がなくなる時代=壬戌・易卦は沢地萃)
 大統一時代に入り、個人差が徐々になくなり、都市や政府がなくなり、自他の区別がなくなるようになる。
 五色人種の壁がなくなり、東西南北が和睦し、人類一家族時代となる。
第六十象(古い世界が終わり、新世界が始まる=癸亥・沢山咸)
 矛盾や対立がなくなり、新世界が始まる時となる。

参考:
 2010年 庚寅
 2011年 辛卯
 2012年 壬辰
 2013年 癸巳
 2014年 甲午
 2015年 乙未
 2016年 丙申
 2017年 丁酉
 2018年 戊戌
 2019年 己亥
 2020年 庚子
 2021年 辛丑
 2022年 壬寅
 2023年 癸卯
 2024年 甲辰
 2025年 乙巳
 2026年 丙午
 2027年 丁未
 2028年 戊申
 2028年 己酉
 2030年 庚戌
 2031年 辛亥
 2032年 壬子
 2033年 癸丑
 2034年 甲寅
 2035年 乙卯
 2036年 丙辰
 2037年 丁巳
 2038年 戊午
 2039年 己未
 2040年 庚申

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翁問答より学ぶ!心学の提唱・明徳と普遍道徳・全孝について

『翁問答』は、孝行を中心とする道徳哲学を、わかりやすく問答形式で説いた全2巻の教訓書・心学書です。
先覚者「天君」とその弟子「体充」の問答を傍らで聞いた人物が筆録したという形式で書かれており、人間の道を説いています。
中国明末における儒・仏・道三教一致の思想の影響を深く受けつつ、宗教的な立場を根底として人倫を示し、平明に理を説いた教訓読み物としても広く受け入れられていました。

著者は、近江国出身の江戸時代初期の陽明学者・中江藤樹
初め朱子学を信奉して孝の徳目を重んじ『翁問答』を著しました。
晩年は王陽明の陽明全書に接して陽明学※)を首唱し、日本の陽明学の祖となります。
後に村民を教化し徳行をもって聞こえ、近江聖人と称されました。
門下には、熊沢蕃山※)、淵岡山、中川謙叔がいます。

藤樹は陽明全書を読んでから、自分の学問を深め
「人の心の中の良知は鏡のような存在である。
 多くの人はみにくい色々の欲望が起きて、つい美しい良知を曇らせる。
 わたしたちは自分の欲望に打ち勝って、この良知を鏡のように磨き、
 曇らないようにして、その良知の指図に従うように努めなければならない」
とし、身を修める根本は良知に致ることだと説いたのです。
さらに良知に至る道筋として次の五事を正すことにあると、具体的な指針を示しています。
【五事】
 一 貌(ぼう)和やかな顔つき
 二 言(げん)温かく思いやりのある言葉
 三 視(し)澄んだ優しい眼ざし
 四 聴(ちょう)ほんとうの気持ちを聞く
 五 思(思いやりのある気持ち)
藤樹以降の陽明学者としては、三輪執斉、大塩平八郎、佐藤一斉、川田雄琴などがおり、陽明学の精神を生かした人としては佐久間象山吉田松陰西郷隆盛などがいます。

そんな藤樹の『翁問答』は、儒道、五倫の道、真の学問と偽の学問、文と武、士道、軍法、仏教神道などが論ぜられており、なかでも心学の提唱としての明徳と普遍道徳としての全孝が注目されます。

藤樹は、人が単に外的規範に形式的に従うことを良しとせず、人の内面・心の道徳的可能性を信頼し、人が聖人の心を模範として自らの心を正すことが、真の正しい行為と生き方をもたらすと説きました。(心学の提唱)
これは四書の『大学』における「明徳を明らかにする」という「明徳の説」でもあります。

また、父祖への孝のみでなく、一切の道徳を包括するところの孝の道を説いたのです。
人間社会もふくめて宇宙のすべては「孝」という一字から成り立っており、宇宙の根源というべき「孝」から、天地万物すべてのものが生まれた。
その孝は、人の胸のうちにも凝縮されており、その具体的営みは「愛敬」となる。
これは十三経の『孝経』における「全孝の説」です。

そして、愛敬の心と行いとを発揮するには、人の心にある明徳を明らかにする以外になく、この明徳と孝とは密接不離の同根関係にあることを、藤樹は説いているのです。
前者は藤樹の人間観であり、後者は藤樹の世界観、宇宙観といえるでしょう。

そんな『翁問答』。
関連する書籍も希少ではありますが、機会があればこうした教訓書・心学書で学んでみるのはいかがでしょうか。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【翁問答 上巻】

天よりも高く
・父母からうけた恵みは、天よりも高く、海よりも深いものである。それがあまりに広大で、他と比較することのできない恵みであるゆえに、利欲の心におおわれた凡人は、その恵みに報いることを忘れ、かえって父母の恵みの有無さえも、なにひとつ思わなくなってしまうのである。

父母の千辛万苦
・(父母のなしてきた)このような慈愛、このような苦労を積みかさねて、わが子のからだを養育したのであるから、人のからだすべて、小さな毛一本にいたるまで、父母の辛苦の、ふかい恵みでないものはないのである。

利欲の暗雲
・(われわれの胸中には)本心の孝徳がそなわっているにもかかわらず、父母の恵みに報いることを忘れているのは、いわば利欲の暗雲におおわれて、明徳の太陽の光がくらくなり、心の闇に迷うゆえである。

至徳要道という霊宝
・われわれ人間の身のうちには、この上ないりっぱな徳である至徳と、重要な道としての要道という、世界に二つとない霊宝がそなわっている。この霊宝をもちいて、心に守り身におこなうことを要領とする。

孔子述作の孝経
孔子は、永くふかい闇を照らすために、この霊宝を求めまなぶ鏡として『孝経』を述作されたのであるが、秦の時代よりのち千八百年の間、(至徳要道を)じゅうぶんにまなび得た人は、じつに稀である。

全孝の説①
・この(至徳要道という)霊宝は、天にあっては天道となり、地にあっては地道となり、人間にあっては人道となり、すべてに通用するものである。

全孝の説②
・もともと、その霊宝には名前などはなかったけれども、万民に(わかりやすく)教示するために、いにしえの聖人はその光景を写しとって「孝」と名づけたのである。

孝とは愛敬
・孝徳がおよぼす感覚を手っ取り早くいうと、愛敬の二字に集約することができる。愛は、ねんごろに親しむという意味である。敬は、自分より上の人を敬い、と同時に下の人を軽んじたり、ばかにしないという意味である。

忠とは
・裏切りの心がなく主君を愛敬することを「忠」と名づけるのである。

仁とは
・礼儀正しく、わが家臣たちを愛敬することを「仁」と名づけるのである。

慈とは
・しっかりと(人の道を)教えて、わが子を愛敬することを「慈」と名づけるのである。

悌とは
・なごやかですなおな心で年長の人を愛敬することを「悌」と名づけるのである。

恵とは
・善行をうながして年少の人を愛敬することを「恵」と名づけるのである。

順とは
・正しい定めを守ってわが夫を愛敬することを「順」と名づけるのである。

和とは
・正義を守ってわが妻を愛敬することを「和」と名づけるのである。

信とは
・(一言の)いつわりをも持たずに、ともだちを愛敬することを「信」と名づけるのである。

孝は無始無終
・もともと孝は、(宇宙の根源の)太虚がその全体の姿であり、永久に終わりもなければ始めもなく、万物すべてが孝でないものはないのである。

一人は太虚神明の分身
・自分のからだは父母から授かり、父母のからだは天地から授かり、その天地は(宇宙の根源の)太虚から授けられたものなので、本来自分のからだは、その太虚・神明の分身といえるのである。

すべて私心から①
・人間のさまざまな迷いは、みな私心より起こるのである。私心は、(父母から授かった)からだを自分のものと思うところから起こるわけである。

すべて私心から②
・孝は、そのような私心を取りのぞく主人公であるがゆえに、孝徳の本来を理解しないときは、たとえ博学多才の人であっても、本当の聖賢の教えを学ぶ者とはいえないのである。

不孝とは
・心にわけもないことを思ったり、あるいは怒るほどでないことに腹を立てたり、さほど喜ぶほどでないことに喜んだり、願うほどでないことに強く願ったり、悔やむほどでないことに悔やんだり、恐れるほどでないことに恐れたりするのも、みな不孝というものである。

一言のいつわり
・たった一言の偽りもまた不孝というものである。

迷える人の習慣
・(世間一般にみられる)迷う人の習慣に、富貴を最上のものと思い、それを第一の願いとするならば、自分にとって富貴を求める助けとなる人には、かぎりなく敬い追従し、(周りから)悪口を言われても、耐え忍んで恥としないものである。

順徳とは
・父母を愛敬することを根本とし、それを押し広めて父母以外の人々にも愛敬し、(聖賢の)道をおさめることを孝といい、順徳ともいうのである。

惇徳とは
・(自分にうけた)大根本の恵みを忘れて、父母を愛敬することなく、枝葉の小さい恵みに報いようとして、他人を愛敬するを不孝といい、惇徳ともいうのである。

惇徳の人は
・(そのような)惇徳の人は、たとえ才能が人よりもすぐれていたとしても、真実の人とはいえない。かならずついには神明の冥罰をこうむることになるのである。

孝行の条目
・孝行の内容はかず多くあるけれども、突きつめると二か条に集約できる。第一には、父母の心にうれいを持たず安楽なるようにすることである。第二には、父母のからだを常に敬い養うことである。

姑息の愛①
・その場かぎりの苦労をいたわって、わが子の願いのままに育てることを、姑息の愛といい、姑息の愛をば祇積の愛といって、親牛が小牛を舌でなめるような育て方に、たとえられている。

姑息の愛②
・姑息の愛は、さしあたっては慈愛のように思われるけれども、その子は気ままな性格となり、才能も孝徳もなく、禽獣のような心になってしまい、結局はわが子を憎み、悪の道に引き入れてしまうのと同じことになるのである。

子孫に道を教える
・さてまた、家をさかんにするのも子や孫であり、また家をだめにするのも子や孫である。その子や孫に、人としての道を教えずに、かれらの繁昌をもとめるのは、足がないのに歩いて行くことを願っているのに等しい。

胎教は母徳の教化
・子や孫に、人としての道を教えるには、幼少の時期を根本とする。むかしは、胎教といって、子どもが母の胎内にあるあいだにも、母徳の教化があった。

徳教とは
・根本真実の教化は、徳教である。口にて教えるのでなく、わが身を正して(聖賢の)道をおさめ、人がおのずから感化をうけて変化することを、徳教というのである。

師匠と友をえらぶ
・成童となってからの教えは、すぐれた徳のある師匠とよき友人をえらぶのを眼目とする。さて職業は、それぞれの器用と、それぞれの生活環境的な運命を考えて、本分の生まれつき、士農工商のなかから考え定めることである。

人は天地の子
・すべての人間は、天地の(恵みによって生生化育された)子であるので、われも人も人間の形あるほどの者は、みな兄弟なのである。

庶民はくにの宝
・農民・職人・商人は国の宝であるから、一層あわれみ育くんで、かれらの得た利益を自分の利益のように喜び、かれらの楽しみを自分の楽しみのように政治をおこなうのが、主君の仁と礼の概略である。

分形連気の道理
・世間の迷っている人を観察すると、おそらく血を分けた兄弟の関係は、他人よりも疎遠になっている場合が多い。わずかの物欲の争いで、まるで敵のような思いを結んでいる者がある。これは、分形連気という(一つの根源から生まれたという)道理を知らないためである。

心友とは
・お互いのこころざしが同じで、親しくまじわるともだちのことを「心友」というのである。

面友とは
・こころざしは違っていても、なにかの理由か、あるいはおなじ郷里や隣り近所、あるいはおなじ職場などで、再三ともにまじわっているともだちを「面友」というのである。

人面獣心
・人間に生まれて、徳を知り人としての道をおこなわなければ、人面獣心といって、姿かたちは人間であっても、心は禽獣となんら変わるものではない。

世間の学問
・世間で評判にあがっている学問というのは、多分にせである。(そのような)にせの学問をおこなえば、なんの利益もなく、かえって性格が悪くなり風変わりな人間に陥ってしまうものである。

正真の学問
・まことの学問は、(古代中国の帝王の)伏犠の教えはじめた儒道である。むかしは、教えも学問もこの正真のもの以外なかったのであるが、世も末になっていつとはなしに、唐土にも夷の国にも、にせの学問がかず多く出てきてから、にせ(の学問)が勢いを増して、まことの学問が衰微するようになったのである。

俗儒は徳しらず
・つまらない儒者のおこなう学問は、儒道の書物を読み、そのことばの意味をおぼえて、暗諭したり詩歌をつくることばかりし、耳に聞き口にその知識を説くばかりで、もっとも大切な徳を知り、心学をおさめようとはしないものである。

俗儒の学問①
・つまらない儒者のおこなう学問は、(まことの儒者のおこなう)正真の学問にことのほか近いけれども、こころざしの立て方と、学問の仕方によって、千万里ほどのおおきな誤まりをおかしている。

俗儒の学問②
四書五経をはじめ、そのほか諸子百家書物を残らず読みおぼえ、文章を書き詩歌をつくり、それによって自分の口耳をかざり、利禄をその報酬の目的にして、おごりたかぶるの心のはなはだ深きを、つまらない儒者の記調詞章の学問というのである。

心学とは
・聖人や賢人、四書五経の心を鏡として、自分の心を正すのは、始終ことごとく心の上の学問ゆえに「心学」ともいうのである。

心学は聖学
・この心学をしっかりとおさめると、普通の人間がりっぱな聖人の境涯にいたるものであるゆえに、また「聖学」ともいうのである。

口耳の学とは
・聖人や賢人、四書五経の心を教師として、自分の心を正すことに少しも心がけず、ただ博学にほこることだけを目標とし、耳に聞いてただ口に出すばかりで、そのような口耳のあいだの学問ゆえに、心学といわずに「口耳の学」ともいうのである。

口耳の学は俗学
・このような口耳の学にあっては、どれほど博学・多才であっても、(その人の)気立てやおこないは、世間一般の普通の人となんら変わることがないので、また「俗学」ともいうのである。

聖賢の心
・聖人や賢人といわれる人の心は、富貴になることを願わないし、貧乏をいやがらない。また生と死にたいしても一喜一憂をしない。さらには幸福を求めないし、わざわいを避けることもない。

まことの武とは
・武道を習わない(聖賢の)学問は、まことの学問とはいえない。(聖賢の)学問をおさめない武道は、まことの武道とはいえない。

文武は仁義
・学問は親愛を知る教えの異名であり、武道は道理にかなった教えの異名である。

文徳と武徳
・文学にふかく通達していても、(その人に)徳がなければ、文学を(社会に)生かすことができない。武術にふかく習得していても、(その人に)徳がなければ、武道を(社会に)生かすことができないのである。

真儒の門に入る
・軍法をまなぼうと思う人は、まずまことの儒者の門に入って、(わが胸のうちにある)文武合一の明徳を(りっぱに)発揮して根本を立て、そしてそののちに、軍法の書物をまなんで眼目・手足の実践的工夫を専念することが簡要である。

用の立たぬ人間なし
・主君が家臣をもちいる本意は、公明と博愛の心をもとにして、かりにも人をえらび捨てず、かれらの賢智・愚不肖、その
分相応の用捨にたいして私心なく、道徳や才智ある賢人を高位にあげて、処罰すべての話しあいの中心人物とし、また才徳のとぼしい愚不肖の家臣にも、かならず得意とするものがある。

心の暗き主君は
・暗愚の心をもった主君は、どれほどすぐれた(家臣の)侍を集め仕えさせても、かれらを登用することなく、ただ主君の心とよく似た、心の暗いくせ者ばかりの侍を使いたがるものである。

主君の心ひとつ
・よき家臣か、それとも悪しき家臣か、また国が乱れるか、それともよく治まるかは、結局は主君の心ひとつに往きつくのである。

政治の根本
・処罰や法制・禁令にも本末がある。主君の心を明らかにして(聖賢の)道をおさめ、国中の人々の手本となり、鏡となるのが、政治の根本である。法制・禁令の箇条は、政治の枝葉に過ぎない。

法度はなくても
・主君の好んでよく使うことばを、そのしもじもの領民までもみな真似をするものなので、主君の心が明らかで(聖賢の)道をおさめるならば、法制・禁令がなくても、おのずからかれらの心が正しくなるものである。

法治の限界
・もとを捨てて、すえばかりで治めることを法治といって、好ましくない。法治は、かならず法制・禁令の箇条がかず多くあって、その内容も厳しいものである。秦の始皇帝のさだめたそれが、法治の極みといえる。法治は、きびしいほどかえって、国内が乱れるものである。

徳治とは
・徳治は、まず自分自身の心を正してから、人の心を正すものである。たとえば、大工が墨曲尺というまっすぐな道具をもちいて、物のゆがみを直すようなものである。

法治は杓子定規
・法治は、自分の心は正しくないのに、人の心ばかりを正しくしようとするものである。たとえば、ことわざにいうところの杓子定規のことである。

すべては天の命
・人間の一生涯において、出会うところの生活環境、さいわいとわざわい、毎日の飲食にいたるまで、すべて(おおいなる上帝による)天の命でないものはないのである。

時と所と位
・処罰や法制・禁令は、主君の明徳を明らかにして根本をさだめ、(古代中国の)周礼などに記されている聖人のさだめた法律をかんがえて、その本意を知り、政治の鏡として、時代と場所と立場と(天・地・人の)一一一才にふさわしい至善をよく識別して、万古不易の中庸をおこなうことを、眼目とするのである。

政治と学問①
・政治は、(わが胸のうちにある)明徳を発揮する学問であり、学問というのは、天下国家をりっぱにおさめるための政治なのである。

政治と学問②
・天子および諸侯の身におこなう一事、口から発する一言のすべてが処置の根本になるので、政治と学問とは本来、同一のことわりであることを、はっきりと得心しなければならない。

人間はみな善
・天道を根本として生まれ出た万物ゆえに、天道は人と物の大父母にして、すべての根本である。人と物は、天道の子孫にして枝葉である。根本の天道が純粋にして至善であるならば、その枝葉である人と物もまた、みな善にして悪はないものと、得心しなければならない。

悪人とは
・才能があっても無くても、知恵があっても無くても、形気のよこしまな私欲におぼれ、本心の良知をくもらす者を、そうじて悪人というならば、たとえ才智や芸能が人よりもすぐれていたとしても、よこしまな私欲がふかく、良知のくらい人間はまさしく悪人である。

【翁問答 下巻】

学問の目的
・それ学問は、心の汚れをきよめ、自身の日常のおこないを正すことを、本来の中味とする。漢字が発明される以前の大むかしには、もとより読むべき書物がなかったために、(人々は)ただりっぱな徳のそなわった人のことばやおこないを手本として、学問をおさめたのである。

学問する人とは
・その(明徳の)心を明らかにして、身をおきめる思案工夫のない人は、たとえ四書五経を昼夜わかたず、手から離さずに読んでいるといっても、学問する人とはいえないのである。

にせの学問
・にせの学問は、博識の名誉のみを心の中心におき、同学のすぐれた人をねたみ、おのれの名声を高くすることばかり考え、高満の心におおわれて、人にたいする思いやりやまどころに乏しく、ただひたすら机上の学問ばかりをおこなうゆえに、かえって心だて、行儀が悪くなってしまうのである。

世間の迷い
・運よく富貴の身にあるならば、それは自分の智恵と才覚のよってもたらしたものと思い、(その反対に)運悪く貧賎の身になったならば、それは自分のおこないとは思わずに、親のせいにして人を責め天をうらむこと、すべて人間の迷いである。

文武兼備
・学問は、武士の所業ではないというのは、ひときわ愚かな世間の評判であり、迷いのなかの迷いである。その子細は、(明徳の)心を明らかにして行儀正しく、学問と武芸とが兼ねそなわるように思案・工夫することを、まことの学問というのである。

まことの読書
・文字を眼で見て、おぼえることはできないけれども、聖人のあらわした四書五経の本意をよく得心して、自分の心の鏡とすることを、「心にて心を読む」といって、まことの読書なのである。

眼にて文字を読む
・心による会得をすることなく、ただ目で文字を見て、おぼえることばかりするのを、「眼にて文字を読む」といってまことの読書とはいえない。

中庸の心法
・中庸にしてかたよりのない心法を保持して、財宝を用いたならば、私欲の汚れがすこしもないので、清白・廉直にして、私用の財宝も公用と変じて、おなじ道理となるのである。

私の一字
・私心におおわれた人間は、かならず気ままである。そのような人間は、かならず他人の異見を聞き入れようとはしないし、世間の非難の声にも反省しようとはしないものである。

謙の一字
・国家をりっぱにおさめ、世界をおだやかな社会にする要領は、謙の一字につきるのである。

謙徳は海
・謙徳は、たとえば海のようなものであり、万民は水である。海は低いところにあるので、世界中のあらゆる水は、みな海にあつまるように、天子・諸侯が謙徳を保持していくならば、国や世界の万民はみな心を帰して、喜びしたがうものである。

心学の有無
・心学をしっかりときわめた武士は、義理を固くまもり、よこしまな私欲がないので、世間の作法に感化されることはない。(その反対に)心学をおさめない武士は、よこしまな名声と利欲におぼれるものである。

正しき士道
・心の汚れがなく、義理にかなっているならば、(たとえ)ふたりの主君に仕えなくても、また主君を変えて仕えても、すべて正しい武士の道というものである。

徳仁義は人の本心
・明徳と仁義は、われわれの本心の異名である。この本心は、いのちの根元ゆえに、すべての人間に、この明徳と仁義の心のない者は、ひとりもいないのである。

腕力つよい武十
・大声で威喝し、自分の腕力をたのみとする人は、かならず他人をばかにし、闘争心がはなはだしいので、かならずけんかの犬死をしてしまい、親に心配をかけ、主君の知行を盗むことになり、心がいやしいものである。

おおいなる上帝
・聖人も賢人も、釈迦も達磨も、儒者も仏者も、われも人も、世界のうちにある、ありとあらゆるほどの人間は、すべておおいなる上帝、天神地祇の子孫なのである。

儒道・儒教儒学
・われわれ人間の大始祖であるおおいなる上帝、大父母である天神地祇の天命をおそれ敬い、その神道を敬いたっとんで、受用することを孝行と名づけ、また至徳要道とも名づけ、また儒道と名づけている。この儒道を教えることを儒教といい、これをまなぶことを儒学というのである。

迷いと悟り①
そもそも人間は、迷いと悟りとのどちらかに帰着する。迷うときは凡夫であり、悟るときは聖賢、君子、仏、菩薩である。その迷いと悟りは、(われわれの)一心のうちにふくまれているのである。

迷いと悟り②
・欲望ふかく、無明の雲あついために心月の光りがかすかとなって、闇の夜のようになるのを「迷いの心」といい、学問修行の功つもり、人欲取りのぞかれて無明の雲晴れ、心月の霊光が明らかに照らすを「悟りの心」というのである。

俵人とは
・心がねじけて、人をたぶらかすことの上手な者を俵人という。(信人は)才智たくましく、芸能や文学が人よりもすぐれ、弁舌じょうずでよこしまな私欲がふかく、義理を守ろうとはしない。人を化かすこと野狐のようで、人を傷つけること虎狼のような心根のある者が、俵人の棟梁というのである。

神明を信仰する
・神明を信仰することは、儒道の本意である。それゆえに、始祖を天に配し、父を上帝に配し、(人間のおこないの)神明につうじることが、孝行の極みであると『孝経』に説かれている。

儒道はすべてに
・もともと儒道は、太虚の神道であるゆえに、世界のうち舟や車のいたるところ、人力のつうずるところ、天の覆うところ、地の載せるところ、日月の照らすところ、露霜の落ちるところ、血気のある者の住むほどのところにて、儒道のおこなわれないところはないのである。

むさぼる心根
・官位につくことを欲とし、官位を捨てることを無欲とし、財宝をたくわえることを欲とし、財宝を捨てることを無欲と思うのは、いまだ明徳くらくして、官位を好み、財宝をむさぼる心根が残っていて、外物にこだわって、使い勝手の私心をもっているゆえである。

無欲と欲①
・神明の(清浄と正直の)道理にかなっていれば、(たとえ)天子の位にのぼっても、財宝をたくわえても、官位を捨てるも、財宝を捨てるも、すべて無欲であり、無妄というものである。

無欲と欲②
・(その反対に)神明の(清浄と正直の)道理にそむいたならば、(たとえ)天子の位を捨てるも、財宝を捨てるも、官位にのぼるも、財宝をたくわえるも、すべて欲であり、いつわりである。

善の名声
・(いつも)善の心で思い、善のおこないをなせば(世間から)善の名声がうわさされる。(古代中国の聖人)尭帝や舜帝孔子顔回などが、その代表的の例である。

悪の名声
・(いつも)悪事ばかりの心にあって、悪のおこないをなせば(世間から)悪の名声が広まる。(古代中国の)築王や村王、盗距などが、その代表的の例である。

習い染まる心①
・習癖に染まる心とは、(この世に)生を受けて以来、見慣れ聞き慣れて、無意識のうちに、いつとなく感化されて、染まってしまった心のことである。たとえば、水に朱色の絵具をとけば、その色赤くなり、緑青の絵具をとけば、青くなるようなものである。

習い染まる心②
・もともと、人の心に好き嫌いのさだまったものはないけれども、その人の生まれ育った国や土地の風俗、その家の習慣などに感化され染まって、好き嫌いの判断がいろいろに変わるのである。学問や芸能にも、(同様の)習癖の心がある。まず本心の真実をよく考えさだめて、その上にて習癖の心をよくしらべて、取りのぞくことである。

全孝の心法
・孝徳全体のありのままを明らかにする工夫を、全孝の心法というのである。全孝の心法は、広大にして高明、そして神明につうじ世界にもおよぶけれども、つづまるところの根本は、身を立て(聖賢の)道をおこなうことにある。

世間の儒者
・魯国の君主は、儒服を着ている人をさして儒者とあやまり、今の世間の人は、四書五経の儒害を読む人をさして儒者とあやまっている。そのあやまっている品物はことなっているけれども、真の儒者でないという、実体を知らない点においては、おなじ迷いである。

禍いを招く満心
・人心の私意を種として、知恵があったとしても、(その反対の)愚かであったとしても、自満の心のない人間は稀である。この満心が本心の明徳をくもらして、自分自身にわざわいをまねくくせものとなり、あらゆる苦悩もまた、おおかたこれより起こるのである。

謙の徳
・謙は、おだやかで公平無私の心をもち、みずから省みて独りをつつしみ、人をうらまず、人をばかにしたりせず、人にたいして善をなす徳のことである。

徳なき儒者
儒者という名は、徳にあって芸にはないのである。文学は、芸ゆえに生まれつき物覚えのよい人はだれでも修得することができる。たとえ文学にすぐれた人であっても、仁義の徳のない者は儒者ではない。ただ文学にすぐれた凡夫である。

人間の万苦①
・人間のいろいろの苦しみは、明徳をくもらしているところから起こり、世界の戦争もまた、(為政者の)明徳をくもらしているところから起こるのである。これは世界の大不幸ではなかろうか。

人間の万苦②
・(中国のいにしえの)聖人は、このことをふかく憐れんで、明徳を明らかにする教えを立てて、人々に学問をすすめたのである。四書五経に説かれている教えは、すべてこのことにほかならない。

幼童の心
・もともと、われわれの心の本体は、安楽なのである。その証拠として、幼児より五、六歳までの子どもの心を見るとよい。世間も、おさない子どもの苦悩のないすがたを見ては仏であるなどといっている。

明徳がくもると
・明徳がくもってしまうと、習癖にそまり人欲にとどこおり、酒色・財気の迷いがふかいゆえに、天下を得ればその天下を憂い、国を得ればその国を憂い、家あればその家を憂い、妻子あればその妻子を憂い、牛馬あればその牛馬を憂い、金銀財宝あればその金銀財宝を憂い、見ること聞くこと、そのおおかたが苦悩となるのである。

苦痛の原因
・苦痛というのは、ただすべての人が(私利私欲の)迷いによって、みずからつくった(心の)病気なのである。

苦楽は心にあり
・農民の耕転は、勤労の極みであるけれども、かれらの心には、さほどの苦悩はない。(古代中国の)大畠のなした治水は、その勤労の極みであるけれども、その楽しみは快活である。しっかりと実際の道理を体察したならば、苦楽は心にあって、外物にないことを、知ることができるのである。

惑いの塵砂
・心の本体は、もともと安楽なのであるけれども、迷いのこまかい塵砂が眼にはいって、種々の苦痛を辛抱することができない。学問は、このこまかい塵砂の迷いをあらい捨てて、本体の安楽に帰る教えであるゆえに、学問をしっかりとおさめて工夫.受用したならば、もとの心の安楽に帰ることができるのである。

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列子より学ぶ!清淡虚無、無為自然を重んじて他人と競わず!

列子春秋戦国時代の人、列御寇(河南鄭州人)の尊称にして道家「道」を体得した有道者。
その学問は黄帝老子の思想にもとづき、清淡虚無、無為自然を重んじて他人と競わず、よくその身を修めたといわれています。
列子』は道教経典のひとつであり、別名を『冲虚至徳真経』といいますが、万象の変化、万物の死生を論じており文章は『荘子』に類似して寓言が多いことが特徴です。
『天瑞』、『黄帝』、『周穆王』、『仲尼』、『湯問』、『力命』、『楊朱』、『説符』の8巻から成ります。

列子
”道(生きるもの)は宇宙の本体で虚無であり、一切の万物はこの道から生まれる。道は不生不変、無限無窮である”
といっており、宇宙に絶対の根源があると説いています。
つまり列子には
・”死と生は行ったり来たりするもの”(転生輪廻)
・”人間にも獣心あり、禽獣にも人心あり”(山川草木悉皆成仏)
といった思想が基本となっているのです。

往々にして、老子と比較されがちですが、
1.流出説的宇宙論
 宇宙論に於いて宇宙の根本原理より森羅万象が分出する有様を説くことが老子よりも精密である。
2.霊魂の不滅、肉体は入れ物
 老子の学説に於いても精神と肉体とを分かつけれども、其の区別は頗る明瞭を欠いて居る。
 列子はこれを明らかにし、肉体には生死あれども精神には生死といふものが無いとすること、又、人が生を楽しみ死を疾むけれども、それは生に執着し精神に生死なきを知らぬに由るとした。
3.現世否定、知識による解脱
 其の厭世的世界観よりして、常住安楽の境界を見出さんことを務めた。
といった特徴を持つ有道者です。

有名な故事成語としては、
・杞憂
・朝三暮四
・愚公山を移す
・疑心暗鬼
などがありますので、こうしたものを取りかかりに『列子』に触れてみるのはいかがでしょうか。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【天瑞 第一】
第1-13
中国の杞の国に、天地が崩墜して自分の居場所がなくなったらどうしようかと、寝食をできない程に憂える者がいた。
そんな憂える男を心配したある人が、その男のもとへと出かけて行き、諭して云った。
天というものは大気の集まりだから、大気の無い場所なんてものは無い。
僕らの活動なんてものは、一日中、天の中で活動しているようなものだ。
大気である天が墜ちるなんて心配しても仕方がないよ、と。
すると憂える男が問う。
天が大気だとしても、太陽や月や星々といったものが墜ちてはこないだろうか、と。
諭す者が云う。
太陽や月や星々といったものは大気の中で光っているに過ぎない。
もしも墜ちたとしても、僕達を傷つけるなんてことにはならないよ、と。
憂える男が問う。
地が壊れるのはどうだろうか、と。
諭す者が云う。
地なんてものは土の塊だ。
あたり一面に充塞して土の無い場所なんてものは無い。
僕らの行動なんてものは、一日中、大地の上で活動しているだけだ。
その地上が壊れるなんて心配しても仕方がないよ、と。
これを聞いた憂える男は、すっかりと安心して大変喜び、之を諭した者も一緒になって喜んだ。
この話を聞いた長廬子が笑って云った。
虹だの、雲霧だの、風雨だの、春夏秋冬だのといったものは、積気が天に集まりて成るものである。
山岳だの、河海だの、金石だの、水火だのといったものは、積塊が地に集まりて成るものである。
天が積気であり、地が積塊であることを知りながら、なぜ壊れぬと云うことができようか。
天地というものは、この宇宙においてはほんの小さな存在ではあるが、有形万物の中では最も巨大なものである。
故にこれを窮め尽し、測り識ることが出来ぬことなどは、本より当然のことである。
そう考えれば、天地が壊れることを心配している者など話にならぬし、また、天地は壊れぬとする者も是とすることはできない。
天地も有形のものである以上、その他の有形万物と同様に、いつかは壊れざるを得ないであろう。
その壊れる時に遇えば、どうして憂えずに居られようか、と。
これを聞いた列子が笑って云う。
天地が崩壊するというのも誤りであれば、天地は崩壊しないというのも誤りである。
崩壊するか否かは、どちらも一つの見解ではあるけれども、我々の知るところではない。
故に生死も去来も我々の知るところではない。
崩壊しようがしまいが、どうせ人は天地と共に有らざるを得ないのだから、そんなことに心を使ってもどうしようもないのである、と。

第1-14
杞憂:杞の国に天が落ちてくるのを心配して夜も寝られない男がいた。そんな心配はないと諭す男もいた。列禦寇先生は、天地が崩壊するかしないか人間にはわからない。生きている者には死んだ者のことはわからない。未来の人間には過去のことはわからないし、過去の人間には未来のことはわからない。だから、天地が崩壊するとかしないとかに心を悩ますことは無駄なことだ。といった。

黄帝 第二】
第2-5
不射の射:列禦寇は弓の名手だが、師匠の伯昏瞀人(はっこんぼうじん)に言わせると、それは射の射であり、不射の射ではないという。列禦寇は断崖絶壁の上ではぶるぶる震えて矢を射ることができなかった。師匠は、道を体得した者は心も顔色も動じないものだ。と言う。

第2-18
常勝の道:強は自分より弱いものには勝つが、自分より強いものには必ず勝つとは決まっていない。しかし、柔によれば必ず勝つ。

第2-19
朝三暮四:宋の猿飼いが貧乏になって猿の食い扶持を減らそうと、”どんぐりを朝に3つ、暮れに4つにしようと思うがどうだ”と猿に尋ねたところ、猿は皆怒り始めた。そこで、”では朝に4つ、暮れに3つにする。”と言ったら、猿は大変喜んだ。本質は変えずに、愚かな相手をいいくるめることができるのだ。

第2-20
木鶏:王のために闘鶏の鶏を飼っている男がいて、王が自分の鶏はもう戦うことができるかと問うたとき、”いやまだです。鶏は空威張りできおい立っているだけです。”と答えた。次に王が訪ねた時も、相手を見るときおい立つのでまだまだだと答えた。その次の時は、まだ相手を睨みつけて気合をいれると言った。次に王が尋ねたときは、”もう申し分ありません。いくら他の鶏が鳴きたてても自分は一向に動じません。遠くからみるとまるで木造りの鶏のようです。すっかり無為自然の徳を身につけました。他の鶏は皆逃げ出すでしょう。”と答えた。

【周穆王 第三】
第2-2
老成子は幻術を尹文先生に学んでいたが、三年の間、何も具体的な術を教えてはくれなかった。
そこで老成子は自分に何か過失があったのかと問うて暇乞いを願い出た。
すると尹文先生は室内に丁重に迎え入れ、左右の者を退けて老成子に云った。
昔、老子は西に往くときに吾を顧みてこのように語った。
有生の気も有形の状も、全て幻である。
造化より生み出され、陰陽に因りて変化するものを、生といい死という。
数を尽くして変を極め、形に因りて移りゆくものを、化といい幻という。
造物なる者はその功は神妙にして深遠、とても知り得て尽すことは出来ぬ。
だが、形に因る者ならばその功は形として顕れて易々と知り得ることができる。
形として存するものは随って起こり随って滅するが故に、永遠持続する存在とはなり得ない。
これ生死であり幻化であり、この双方は一である。
これを知り得てこそ幻術を学ぶことができるのである。
そもそも吾もお前も生死ある存在であり、これは即ち幻である。
この幻であることを自ずから覚れば、それで幻術を得るのであって、何か特別なことを学ぶ必要などは無いのである、と。
これを聞いた老成子はこの言を心に存して沈思熟考し、三ヶ月して遂に存亡自在を得るに至った。
老成子はあらゆる事象の陰陽を自由自在に変易し、冬に雷を起こし、夏に氷を張り、飛ぶものを地上に走らせ、地上を走るものを飛ばせることも可能となったが、終身その術を世に顕すことはなかったので、後世に伝わることはなかったという。
列子は云う。
本当に善く化する者は、無為自然であるが故に世の人々は誰も気付くことがない。
古の五帝の徳も、三王の功も、並外れた智勇の力を存した故ではなく、この自然と化したが故であって、この化は神妙にして深遠であるが為に、今になっては誰も知る由もないのである、と。

第2-6
鄭の人で薪を取る者が居た。
ある時、野に行くと驚いて走りだす鹿に出会い、これを待ち受けて撃ち倒した。
人に見つかることを恐れた薪取りは、慌ててこれを溝の中に入れ、上から草で覆い隠した。
大変喜んだ薪取りであったが、あまりの嬉しさにふと隠した場所を忘れてしまい、遂に夢となしてあきらめ、道すがらその事を呟いた。
傍らにこれを聞き付けた男が居た。
男はその言葉から鹿の在り処を見つけだし、家に持ち帰った。
家に帰ると、男は妻に告げて言った。
先ほど、薪取りが夢に鹿を得て隠した場所を忘れたと言っていたので、それを探し出したら見つけることが出来た。
彼の夢は真実であった、と。
妻が言った。
あなたが薪取りの鹿を得たるを夢見たのではありませんか。
あなたの夢だとすれば、どうして薪取りが居りましょう。
今、本当に鹿を得ましたが、これはあなたの夢が本当だったのではありませんか、と。
夫が言った。
鹿を得たことは真実だが、彼の夢が我が夢であったのかは分かりようがない、と。
薪取りは家に着いたが、鹿を失ったことを忘れられずにいた。
その夜、今度は本当に鹿の隠し場所とこれを探し出した者の夢を見た。
夜が明けると、薪取りは夢を頼りにして鹿の在り処を捜し求め、遂に鹿を巡って争いとなり、裁判となった。
司法官が言った。
お前は、初め本当に鹿を得て、妄りにそれを夢だと言い、今度は本当に夢に鹿を得て、妄りにそれを真実だと言う。
彼は、本当にお前の鹿を取りて、お前と鹿を争うも、その妻は夢に鹿を得たる人を見て鹿を得たのであって、人の鹿を得たのではないと言う。
今、ここに鹿があることは真実である。
故にこれを二分すればよい、と。
そして判決を鄭の君主に奏上した。
鄭君が言った。
ああ、この裁判もまた夢のようなものである。
司法官は夢に人の鹿を分つか、と。
そして判決を宰相に相談した。
宰相が言った。
夢か夢でないかは私には分かりません。
覚夢を論じようと欲するならば、ただ黄帝孔子の如き人物でなければいけません。
今は黄帝孔子も居りませんから、これを判断できる者など居ないのです。
ですから、司法官の判決の通りにするが宜しいかと存じます、と。

【仲尼 第四】
第4-13
白馬非馬:公孫竜は、白い馬は馬ではないという詭弁を使った。彼は、馬という実体と白いという馬の属性の二つの概念は別物であるから両方がくっついた白馬は別物であると言った。彼の詭弁は他に、親なし子牛にはもとより母牛はいない。なぜなら母牛がいれば親なし子牛とは言わない。物体は動いても影は動かない。前の影と物体が動いたあとの影は影の移動ではなく次々と入れ替わった別物だから。

【湯問 第五】
第5-2
愚公山を移す:愚公という90歳の老人は家の前の山が邪魔だったので子供たちと山を崩して道を開こうとした。近所の老人がそれを笑ったが、愚公は、”自分が死んでも子供があとを継ぎ、その子が死んだら孫が継ぐ。子孫は絶えることがないが、山は高くなることはないのでいつか山を平らにすることができる。”と答えた。これを聞いた天帝は愚公のまごころに感心し山を移してやった。

第5-7
孔子不能決也:日の出の太陽が昼間の太陽より遠いか近いかで二人の子供が言い争いをしていた。子供の一人が、朝の太陽は昼間より大きく見えるので近くのものが大きく見えるわけだから朝の太陽が大きいというのに対し、もう一人の子供は、昼間の太陽が近いから熱いと反論した。二人の子供がどちらが正しいか孔子に聞いたところ、孔子はどちらが正しいか決めかねてしまった。子ども二人は、笑って孔子を冷やかして、”お前さんをたいへんな物知りと言ったのはどこのどいつだね。”

第5-12
伯牙は善く琴を奏で、鍾子期は善く聴いた。
伯牙が志を泰山に登るに馳せて奏でると、鍾子期は言った。
善いかな、雄大なる泰山のようだ、と。
志を水の流れに馳せて奏でると、鍾子期は言った。
善いかな、広大なる江河のようだ、と。
伯牙の志を鍾子期は自らのように得たのである。
ある時、伯牙は泰山の北に出かけ、暴雨に出会った。
崖下に止まることになった伯牙は、心悲しんでその想いを琴に託した。
初めに霖雨の操を奏で、次に崩山の音を弾いた。*1
奏でる度に、鐘子期はその趣きを尽くした。
伯牙は琴を置いて嘆じて言った。
善いかな、善いかな、君の聴くことや。
その志を得ること、まるで私の心のようだ。
君の前では何も隠せはしない、と。

第5-13
偃師の人形:偃師が作った人形は人間そっくりで、周の穆王(ぼくおう)に献上したところ王の愛妾に秋波(いろめ)を送ったので王はたいそう怒ったが、偃師は人形をばらばらにして見せた。墨子の集団はそのころ城を落とす雲梯や空を飛ぶ木で作った鳶を誇っていたが、この人形を見てからは自慢しなくなった。

【力命 第六】
第6-3.1
管仲と鮑叔の二人は相許した親友であった。
共に斉の国に仕え、管仲は公子糾の守り役を、鮑叔は公子小白の守り役を務めていた。
当時、君主であった僖公は甥の公孫無知を嫡子の襄公と同等に扱っていたので人々は国が乱れることを案じていた。
やがて僖公が亡くなって襄公が即位すると、襄公は気に入らない者を次々と殺して斉国内は混乱した。
襄公の弟であった公子糾と公子小白は災いが及ぶことを恐れ、公子糾は管仲と召忽に伴われて魯の国へ、公子小白は鮑叔に伴われて莒の国へと亡命した。
しばらくして公孫無知が反乱を起こして襄公を暗殺したが、すぐに公孫無知も暗殺されたので、斉には君主が不在となった。
そこで亡命していた二公子は斉への帰還を争った。
管仲は莒の道を遮って小白を射殺せんと試みたが、放たれた矢は帯鉤に当って小白は生き延び、小白はそのまま一足先に斉へ到着した。
斉の王位についた小白は桓公と称し、魯を脅して子糾を殺すと、召忽は之に殉じて死し、管仲は囚われの身となった。
鮑叔が桓公に曰く、
管仲の能力は国を治めるのに足ります。
大いに用いるべきでしょう、と。
これに対して桓公が曰く、
我は管仲のせいであと少しで死ぬところであった。
死を与えて恨みを晴らしたい、と。
鮑叔が答えて曰く、
私はこのように聞いております。
賢君は私怨無く、主の為に尽す人は、又、人の為にも尽すものであると。
君が天下に覇を唱えんと欲するならば、管仲の力が必要となります。
そのような私事は寛大に処置すべきです、と。
桓公は遂に管仲を召し、魯は管仲を斉に還し、鮑叔は管仲を郊外に出迎えてその禁縛を解いた。
管仲は礼遇されて当時の国老であった高氏と国氏の上位となり、鮑叔は管仲に従い、桓公は政治を管仲に委託した。
管仲は仲父と号し、桓公は遂に諸侯を九合して覇を唱えるに至った。
管仲が嘗て慨嘆して曰く、
私が若くて困窮していた頃、鮑叔と共に商売をしたことがあって、利益を分配するときに私は勝手に多く取ったが、鮑叔は私を貪欲であるとはしなかった。
それは私が貧乏で金が多くいることを知っていたからである。
私は嘗て鮑叔の為にある計画を実行して、大いに失敗してしまったが、鮑叔は私を愚であるとはしなかった。
それは時に利と不利とがあり、如何ともし難い場合もあることを知っていたからである。
私は嘗て三たび君に仕え、三たびとも追放されたことがあるが、鮑叔は私を不肖であるとはしなかった。
それは私の才略を理解し、ただ時宜に遭わぬだけであることを知っていたからである。
私は嘗て三たび戦い、三たびとも逃げたが、鮑叔は私を臆病であるとはしなかった。
それは私に老母が居り、死ねば孝行を尽すことが出来ぬことを知っていたからである。
公子糾が敗れた時、召忽は死に殉じたにも関わらず、私は幽囚せられて辱を受けた。
それでも鮑叔は私を恥を知らぬ人とはしなかった。
それは私が小節を為さぬことを恥とはせず、ただ、天下に名の顕れぬことを恥とすることを知っていたからである。
私を生んだものは父母である、私を真に知るものは鮑叔である、と。
此れを世は「管鮑は善く交わり、桓公は善く賢能を用いた」と称賛したという。

第6-3.2
しかしよくよく考えてみれば、これは自然に定まったことのようなもので、善く交際したものでもなければ、善く用いたというわけでもない。
かといってこれ以上に善く交際するものがいるというわけでも、善く用いるということがあるというわけでもない。
召忽は死ぬべくして死に、鮑叔は挙げるべくして挙げ、桓公は用いるべくして用いただけのことである。
管仲が病となって危篤になった時、桓公管仲に問うて曰く、
仲父の病は大病であり、忌むべきことではあるが聞かざるを得ない。
もし、仲父に万一の時には我は誰に国政を預けるべきであろうか、と。
管仲曰く、
君においては誰に任せたいと思っておられますか、と。
桓公曰く、
鮑叔が相応しいのではないだろうか、と。
管仲曰く、
それはいけません。
鮑叔は確かに清廉潔白で素晴らしい人物ではあります。
しかし、彼は自らに若かざる者を容れませぬし、一たび人の過ちを聞けば一生忘れません。
もしも国政を任せれば、君は息つく暇もなく、人情に沿わぬ部分が多すぎて民に逆い、いつしか君にその禍が及んでしまうでしょう、と。
桓公曰く、
それでは誰が良いだろうか、と。
管仲曰く、
どうしてもというならば隰朋でしょうか。
隰朋は上に事えれば無心であり、下にも隔てがありません。
自らに対しては黄帝に及ばぬことを恥としますが、人に対しては自らに及ばぬ者でも哀れみます。
大体において、徳を人に分かち与えて、人を導く者を聖人と謂い、財を人に分かち与えて、人の窮を救う者を賢人と謂います。
己の賢を以て人に対する者に人は親しみませんが、己が賢であるにも関わらず自ら謙遜して人と接する者には人は惹かれるものです。
隰朋は賢でありますが、聞いても聞かぬ、見ても見ぬということができる者です。
ですから、どうしてもというならば隰朋に任せるのが宜しいでしょう、と。
この説話を見れば、管仲は鮑叔に対して薄いのではなく、薄くならざるを得ないのである。
同様に隰朋に対して厚いのではなく、厚くならざるを得ないのである。
たとえ始に厚くても、終には薄くせねばならぬ場合もあるし、終が薄くても始は厚くする場合もある。
したがって厚薄の去来というものは、全て自然に帰着するものなのである。

【楊朱 第七】
楊朱は言う。
「百年は寿命の限界だ。百年まで生きられる者は千人にひとりもいない。たとえ百年生きられても、幼児期と老人期の合計がほとんどその半分を占めている。さらに、夜眠っている時間、昼間むだに過ごしている時間が、そのまた残りの半分を占める。さらに、病気や苦悩、無為や心配が、そのまた残りのほとんど半分をしめる。残りの十数年のうち、悠然と気ままに過ごせる時間は、一季つまり三か月ほどもないのだ。とすれば、人間は人生で何を為し、何を楽しめばよいのか」
「太古の人は、人生が束の間の訪れであり、死が暫しの別れであることを知っていた。それゆえ、自分の心のままに動き、自然にたがわなかった」
「万物が異なる所は生であり、同じ所は死である。生きていると賢愚・貴賎の区別がある。死ぬと臭腐消滅し、みな同じになる」
「十歳でも死ぬし、百歳でも死ぬ。仁聖も死ぬし、凶愚も死ぬ。生きているときは堯・舜(ぎょうしゅん)でも、死ねば腐骨。生きているときは桀・紂(けつちゅう)でも、死ねば腐骨。腐骨は一様であり、誰も区別などはできない(腐骨は一なり、たれかその異なるを知らん)。しばらく当生に赴いているだけである。死後のことを考えているヒマなど無い」

【説符 第八】
第8-6
宋の人で主君に献上する為に楮の葉を玉で彫刻せし者が居た。
三年かかって出来たその玉の葉は、本物と寸分違わずして見分けのつかぬものであった。
故にその巧みさを以て宋の国に食禄を得るに至ったという。
これを聞いた列子は云った。
天地が物を生ずるに、三年かかって一枚の葉しかできぬとあらば、葉を有する植物に葉は無くなってしまうであろう。
だからこそ、聖人は無為自然なる道化を尊んで智巧で飾ることを戒めるのである、と。

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聖教要録、配所残筆より学ぶ!日常の礼節・道徳の重要性!

赤穂浪士らに多大な影響を与え、また後世では伊藤仁斎荻生徂徠吉田松陰、乃木将軍といった人物に影響を与えた思想家であり、山鹿流兵法及び古学派の祖である儒学者軍学者山鹿素行の著書、『聖教要録』『配所残筆』についてです。

『聖教要録』は、「聖人」から「道原」まで、28項の簡潔な解説から成り、孔子やその前の聖人の教えに還り、日用実践を重んずべきことを説いた書です。
幕府が推奨する朱子学を批判した先駆をなすもので、門人への講義である『山鹿語類』からその学説の中核を集録した3巻からなります。
「周公・孔子を師として、漢(かん)・唐(とう)・宋(そう)・明(みん)の諸儒を師とせず」とする古学転回後の素行学が体系的に展開され、「聖人」「道」「理」「徳」「誠」「天地」「性」「心」「道原」など28の重要語句に対して、簡にして要を得た説明がなされています。
天地に則り、人物の情にもとることなく、事業・法礼を廃棄せず、性心をもてあそぶことなく具体的な教えを述べるもの、と自ら示した「聖学」(素行学)の核心が書かれています。
これにより伊藤仁斎と並ぶ古学派の祖と称されたものの、本書は幕府から「ふとどきなる書物」とされ、素行は播磨赤穂に配流されています。

『配所残筆』は、『聖教要録』を出版したために赤穂藩へ流された素行の遺書の形でつづった自伝的書簡(1巻)です。
配所とは流刑地のことで、回想録の形をとり、仏教老荘さらに儒学(朱子学)を学び、最後に朱子学を批判して古学的境地(古学派)に至り、聖人の道を基準として日本が最も優れているとする立場に達するまでの思想的遍歴つづったものです。
ちなみに古学派というのは、陽明学をも含めて宋・明の新儒学を批判し、元来の孔子孟子の学問に帰ろうとした学派です。
日本最初の自叙伝としても重要であり「この世の現実に即さないで、ただ古聖人に忠実なだけでは自己満足するだけで現実離れしていき、結局、この世を捨てて山林に入り鳥獣を友とするしかない。読書を好んで詩文に耽り、著述をしても実用の役には立たない。(その類のものは)余暇にすべきもの」と陽明学的な言い回しをしているのが特徴です。

では、どうして朱子学を批判したのでしょう。
それは素行が、存在するものすべては個別的で、一つ一つに固有の理があり、それを無視して万物一源と論ずべきでないとして、抽象的・観念的な朱子学を批判し、学問とは日常に役立つものを指すとしたためです。
武士として日常における具体的行為を重んじ、朱子学が否定する情欲の中にも、「やむことを得ざる」自然として肯定されるべき誠がある。
誠はまさに自らの内面からの必然であり、日常の礼節などの道徳はこの誠を内に持ってこそ真実たりうる、そのため、孔子・周公の教えに帰ろうとした訳です。

素行は、幕藩体制下における武士の存在意義を、儒学における士・君子(徳ある為政者)と重ね合わせて、新しい武士道としての士道を説きました。
武士は徳によって農工商の上に立ち、道徳的指導者として国を治めるべきであり、礼節を重んじて驕り高ぶらず、高潔たるべしとし、武士の身分は天命によるがそれに驕ることは天により責められることと、強く戒めています。
農工商は生業が忙しく、倫理道徳を追ってはいられない。
だからこそ武士は、世の安定に勤める者としての自覚を持ち、三民の師として人々に道を教え、そこから外れた者を罰す存在だ、ということを説き、高貴な人格を求める者としての、新たな武士道※)を主張したのです。
※)武士道についてはこの件を含めて、後日改めて整理したいと思います。

素行は「武士道とは死ぬこととみつけたり」(葉隠)とまでは極論しませんでしたが、いざとなれば死を厭わない勇気を持ち、また「士の忠孝の相手は主君にあらずして朝廷(天皇)」としたのでした。
こうした素行哲学は、赤穂浪士に至る忠臣蔵に発展し、吉田松陰尊皇攘夷論、乃木希介の自決といった極端な時事で常に注目を集めることになります。
1868年に山鹿兵法の体現者だった松蔭の松下村塾の門弟が率いる新政府軍が素行の故郷会津藩を滅ぼし、素行の思想の結実までに200年の月日が流れていたのも、奇妙な縁と言わざるを得ません。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【聖教要録】

聖教要録小序
聖人杳(はる)かに遠く、微言漸(やうや)く隠れ、漢唐宋明(みん)の学者、世を誣(し)ひ惑ひを累(かさ)ぬ。中華既に然り。况(いはん)や本朝をや。先生二千載(さい)の後に勃興し、迹(あと)を本朝に垂れ、周公孔子の道を崇(たつと)び、初めて聖学の綱領を挙ぐ。

聖教要録上
聖人
聖人は知ること至りて心正しく、天地の間通(つう)ぜざること無し。其の行や篤(あつ)くして条理有り、其の応接や従容として礼に中(あた)る。其の国を治め天下を平らかにするや、事物各々其の処を得(う)。

知至る
人は万物の霊長なり。血気有るの属(たぐひ)は、人より知なるは莫(な)し。聖賢は知の至りなり。愚(ぐ)不肖は知の習なり。知の至るは、物に格(いた)るに在り。

聖学
聖学は何の為(ため)ぞや。人為(た)るの道を学ぶなり。聖教は何の為ぞや。人為るの道を教ふるなり。人学ばざれば則ち道を知らず。生質(せいしつ)の美、知識の敏(びん)も、道を知らざれば其の蔽(へい)多し。

師道
人は生まれながらにして之(これ)を知る者に非(あら)ず。師に随いて業を稟(う)く。学は必ず聖人を師とするに在り。世世(よよ)聖教の師無く、唯だ文字記問の助のみ。

立教
人教へざれば道を知らず。道を知らざれば、乃(すなは)ち禽獣(きんじう)よりも害有り。民人の異端に陥り、邪説を信じ、鬼魅(きみ)を崇(たつと)び、竟(つひ)に君を無(な)みし父を無みする者は、教化(けうくわ)行はれざればなり。
読書
書は古今の事蹟を載(の)するの器なり。読書は余力の為(な)す所なり。急務を措(お)きて書を読み課を立つるは、学を以て読書に在りと為すなり。

聖教要録中

中は倚(かたよ)らずして節に中(あた)るの名なり。知者は過ぎ愚者は及ばざるは、中庸の能(よ)く行はれざればなり。中庸を能(よ)くすれば、則ち喜怒哀楽、及び家国天下の用、皆な節に中(あた)る可し。中は天下の大本(たいほん)なり。


道は日用共(とも)に由(よ)り当(まさ)に行ふべき所にして、条理有るの名なり。天能(よ)く運(めぐ)り、地能(よ)く載(の)せ、人物能(よ)く云為(うんゐ)す。各々其の道有りて違(たが)ふ可からず。


条理有るを之(こ)れ理と謂(い)ふ。事物の間、必ず条理有り。条理紊(みだ)るれば、則ち先後(せんご)本末正しからず。


徳は得なり。知至りて内に得(う)る所有るなり。之(これ)を心に得(え)、之(これ)を身に行ふを、徳行と謂(い)ふ。

聖教要録下

理気妙合(めうがふ)して、生生無息の底(てい)有りて、能(よ)く感通知識する者は性なり。人物の生生、天命ならざる無し。故に曰く、天の命ずるを之(こ)れ性と謂(い)ふ、と。

道原
道の大原(たいげん)は、天地に出づ。之(これ)を知り之を能(よ)くする者は、聖人なり。聖人の道は、天地の如く、為すこと無きなり。乾坤(けんこん)は簡易なり。上古の聖人、天地を以て配(はい)と為す。董氏(とうし)の所謂(いはゆる)太原は、其の語意尤(もつと)も軽し。

【配所残筆】
我らことは身分の低きもの、ことさら無徳短才にて、中々歴々の御方々の末席に列し得らるる筈でないのに、幼少の頃より相当の者と思われ、歴々の方々の御取持(御世話)に預かった。これは全く我らの徳義の故とは思わず、天道の冥加に相叶える故なりと思う。それでいよいよ天命をおそれ万事につけ日頃慎んで居る次第である。

六歳より親の言いつけにより学問をさせられたが、不器用であって、漸く8歳頃までに、四書、五経、七書、詩文の書等、大方を読み覚えることができた。(※四書とは、大学、中庸、論語孟子。五経とは、易経書経詩経、春秋、礼記。七書とは、兵法書孫子呉子、尉りょう子、司馬法李衛公問対、六とう、三略)

9歳の時、稲葉丹後守殿(老中の正勝)の家来の塚田杢助が父と懇意の間柄であったので、我らを林道春老の弟子と為したいと頼んだ。杢助が序(ついで)の時に、そのことを丹後守殿へ申し上げたところ、幼少にて学問せんとするは奇特なことであると云うので、御城で直接に丹後守殿が林道春へ御頼みくだされた。それでかの杢助が拙者を連れて道春のところへ参った。その時、道春と杢助と永喜(道春の弟)も同座であったが、我らに論語の序文を無点の唐文にて読めと申された。それを我らが読んだところ、更に山谷(山谷集、宋の詩人黄庭堅の詩集)を出して読まされた。永喜の云わるるには、幼少にてかほどにも読み得るとは奇特なり。さりながら田舎学者が教えたものと見えて、訓点のつけ方悪しと。道春も永喜と同様に申され、感心し悦んでくだされた。それで特に親切にしてくだされて、11歳頃までに、以前読んだ書物の読み方の悪しきを訂し、更に無数の本にて読み直した。

11歳の時初めて元旦の詩を作って、それを道春に見せたところ、一字だけ改められて、それに序文を書き、幼少のものの作ったものとしては感心なりとの書状を副え、それに和韻した詩を作り下された。

同年、堀尾山城守殿(忠晴、松江城主)の家老の揖斐伊豆が我らに目を掛けられ、山城守殿へ召し出され、そこで書物を読んだ。伊豆は是非とも山城守に仕えるよう、すれば二百石下さると云うことであったが、我らの親が同意しなかった。

14歳の頃には詩も文も達者に作り得るようになったので、伝奏(将軍より天皇への奏上を取り扱う役)の飛鳥大納言殿(雅宣)がそれを聞かれ、召び寄せられた。そこで即座に詩を作ってお目に掛けたところ、大納言殿は和歌を御読みになり、且つ和韻の詩をも作られた。烏丸大納言殿(光広)それを聞かれて、即座に文章を作り下された。失礼ではあったが、我らも即座に対句を作った。若輩の時分でもあり、殊更即座の事であったから、只今見れば笑い草に過ぎないのであるが、又深く感心せられ、その後両公は御懇意に為し下され、折々は御伺い申し上げ、又詩文の贈答を致した。

15歳の時、初めて大学の講義をしたが、大勢の聴衆があった。

16歳の時、大森信濃守殿(佐久間久七)、黒田信濃守殿(源右衛門)の御望みにより孟子の講義をした。蒔田甫庵老人は論語を望まれた。これまた同年講義し、いづれもその翌年までに終った。これまた若輩の時分のこと故、定めて不埒なことばかりであったと思うが、その時分の事は、蒔田権助殿や、富永甚四郎殿らは今以てよく覚えておらるる。

我ら幼弱より武芸軍法の修行を怠らず、15の時に尾畑勘兵衛殿及び北条安房守殿に逢うて兵学の稽古修行をなした。(※尾畑勘兵衛は、甲州流の軍学者として有名な人。名は景憲)20歳になるまでに、門弟中で我らが大方上座になってい居たのであるから、北条安房守殿の筆で、尾畑勘兵衛殿が印可状(免許状)をくだされた。

21歳の時、尾畑勘兵衛殿再び印可状をくだされ、殊更門弟中汝の如きは一人もなしと云う印可の副え状と申すものを我らに与えられた。それの筆者は高野按察(あぜち)院光宥(両部習合神道家である)である。その文に云う、「文に於いては、その能く勤むるを感じ、武に於いては、その能く修るを歎ず。「あぁ文事有るに、必ず武備有りと。古人云う、我又云う」と。我らを称美せられた末句のこの文句は、勘兵衛殿のひたすらに好まれたところのものである。

17歳の冬、高野按察院光宥法印より、神道の伝授を受けた。神代三巻は勿論神道の秘伝は残らず伝授せられた。その後壮年の頃、広田担斎と云う人、忌部氏嫡流の者であるが、根本宗源の神道相伝せられた。その節忌部神道の日決は残らず相伝せられ、その書付け証文をくだされた。その中頃より石出帯刀と云う人が(門人として)来たり、我らに了解を得て、共に神書を聴いた。然るに、担斎がやがて死んだので、神書のこと帯刀のことを拙者に頼まれた。帯刀が神書のことで了解のできぬことは皆、拙者によって了解読心ができるようになった。これまたその時の書付け今もなお保存してある。

同年より歌学を好み、20歳までに源氏物語は残らず聞き、源語秘訣(源氏物語の秘伝)までも相伝を得た。伊勢物語、大和物語、枕草紙、万葉集百人一首三部抄、三代集(古今、後撰、拾遺)に至るまで、広田担斎より相伝を受けた。これにより源氏私抄、万葉、枕草紙、三代集の私抄注解などのあらましの撰述を為した。詠歌に志深く、年に千首の和歌を詠み得たれども、少し考えがあって、その後は顧みないこととした。右広田担斎より歌学に関することも残らず相伝せられた書付けが今もなお保存されている。尤も、職原抄(北畠親房の書)官位の次第、これの講義は道春より残らず聞き、その後にこれも又担斎より具に承りて、なお了解のできぬことは菊亭大納言殿(経季)へ申し上げ、大納言殿は、親筆で一々の口伝の御書付けをくだされた。このことは人々のよく知り居ることである。そこで我らに職原抄を伝授した人々は数多あると云う訳である。

若年の時より、くで兵右衛門殿、小栗仁右衛門殿の御取り持ちにて紀伊大納言(頼宣)様へ七拾人持ちにて召し出され、御小姓近習の役にせられる御約束になっていて、やがて御目見えの用意をしていた。又内々には岡野権右衛門殿が万事取り持たれたのであるが、阿部豊後守殿(忠秋、時の老中)が拙者のことを聞かれ、尾畑勘兵衛殿、北条安房守殿に御頼みになり、我らを召抱えたしと申された。しかし右大納言様への先約があるので御断り申し上げた。然るに大納言様は、豊後守殿に御抱えありたい意志があることをお聞きになって布施佐五右衛門殿を御使として、兵右衛門及び仁右衛門に仰せらるるには、豊後守殿が御抱えになりたいものを、大納言様へ引取ることは遠慮すべきである、例え御家来筋のものであるにせよ、豊後守殿ほどのものが御所望ならば、それへやって良い、豊後守殿の御用に立つことは御公儀(幕府)の御用なれば、豊後守殿へ召抱えるように為すべしと。このことは更に右の佐五右衛門殿が使者となって勘兵衛殿と安房守殿へも申し遣わさるる筈になって居るとのことであったが、右佐五右衛門殿が最早召抱えられるよう御両所へ約束ができて居ることであるが、如何致すべきやと申し上げたところ、兵右衛門殿も仁右衛門殿もそれは心易いこと、別に差し支えなしと仰せられたとのことである。拙者が考えるに、大納言様が右の如く御遠慮なされた上は、豊後守殿にも御抱えはあるまい、老中家(豊後守)は大納言家には遠慮もあるべきわけであるから、この方より御両家の何れへもお断り申し上げる方がよいと思い、岡野権右衛門と相談の上で、このことはそのままになった。

右の兵右衛門殿は謙信流の軍法者で、御歴々の人でその弟子になって居るものが多数あるのであるが、しかも我らの弟士になりたいとのことで兵学の御勤めを十分になされて居る。仁右衛門殿は御等に*身の柔道を御伝えくだされ、奥儀まで承って居ると云うほどに、別て御親切に預かって居る。岡野権右衛門殿は我らの若年の時より書物の講義をお聞きになり、残に兵法の弟子に成られたいとのこと、又御一門の中残らず我らに兵学をお聞きになって居るので、御心易く御親切を得て居る。

右の翌年、加賀松平筑前守殿(利常)が拙者のことを聞かれ、召抱えたしと、町野長門守殿を介して申された。然るに拙者の親は知行千石くださらなくば、出仕することは致さぬと申して、それを留め申した。筑前守殿でも七百石まではくださるるようの御話であると長門守殿が申されたと云うことである。
正保四年丁亥の秋、大*院様(将軍家光)が北条安房守殿へ築城設計図を仰せ付けられた際、拙者はおこりを病んでいたが、安房守殿は拙宅へ御出でになって、右設計図の御相談があった。それで陰陽の両図を製作した。右図面の書付け、並びに目録まで拙者と相談の上にて書かれた。その書付は残らず拙者の所にある。その節久世和州公(大和守広之)が安房守殿へ御出でになって、お目に懸ったことである。御覚えあるべし。

拙者25歳の時、松平越中守殿(定綱、桑名城主)が拙者を御召し出になり、学問兵学のことについて御研究御議論があったが、拙者の申し上げることをよく御会読なされ、別けて慶ばれて、拙者の弟士たることの誓状を書かれ、拙者に兵学の御相談をなさるるようになった。右誓状のあった翌日、三輪権右衛門が先だって遣わされた御太刀、馬代、時服(時候に応じた礼服。この三者を送るは、当時の礼儀であった)を持参せられた。追って越中守殿は(弟子入りり)御礼の為に、私宅へ御来臨になり、それ以後は毎度御懇意の詩文など時々御贈答があった。拙者の書いた文章を表具せられて、拙者を御招請の時には、それを座敷へ懸けられた。まことに勿体ないことで、却って迷惑至極なりと度々御断り申し上げた。このことは浅野因州公(因幡守長治)がよく御承知で、常にそのことを話された。越中守殿はその頃60歳になられ、(徳川家の)御一門であり、御譜代の御大名には珍しき学者である。兵法は尾畑殿の印可を得らるるまで御研究になり、東海道筋の第一の御大名である、されば人皆な崇敬して居る方であるのに、その御方が拙者を大いに御信仰なさるのであるから、くだされもののことまで、委しく書付け置いた。このことは今以て家中の人々が皆な知って居らるる。

同年、丹羽左京大夫殿(光重、二本松城主)が以前より我らに兵法をお聞きになっていたが、兵書のついでに荘子の講義をも望まれたので、折々それの講義をも申し上げた。荒尾平八郎殿や揖斐興左衛門等もお聞きになった。その時分は、我ら老子荘子の学を好んでいたので講義した訳である。然るに武田道安が明寿院(藤原せいか)に老荘相伝を受けていた。近代世上に荘子の講義などはなかったので、拙者が荘子を読むと云うことも心もとなきことなれば、一座して聞きたいとのことを浅野因州公へお頼みになった。ここで、因州公は拙者へお尋ねなされたので、右道安と丹羽左京大夫殿の内にて一座し、拙者の荘子の講義を聞かれた。道安が拙者を褒めること一通りではなかったと、このことは後まで因州公がお話になった。道安は医師である、殊更に学問も広く厚いが、明寿院以来にこれほどの者なしと、別で褒めたと云うことであるが故に、書き置くことにした。

大*院様の御前へ祖心が近く仕えていた時分に、祖心の申さるるには、御序の時に、その方のことをともに申し上げておいた。折々は御上意もあること故に、必ず家中へ奉公に出るようなことはしないようにせよ、松平越中守殿はその力を大切に思うていられるから、その方が御家人(将軍直参)になるようにお取り持ちくださるように、御内意をともに申し上げたところ、それは一段良いことと賛成せられた。そこで表向きは越中守がお取り持ちくださるから、松平伊豆守も又兼てよりその方のことを御存じ故、そして祖心へもそのことを御相談なされることになって居る。そこでまずその旨を酒井日向守(忠能)殿へも仰せ遣わされてあるから、お目に懸り置けとのことであった。それで越中守の御家老三輪権右衛門を連れさせ、日向守殿へ拙者を遣わされ、お目に懸って置いた。その後、越中守殿の申さるるに、酒井法印公(忠勝、大老)へは拙者のことを具(つぶ)さに物語りしておいたから、左様に心得置くべしと。その節空印公が上意により、祖心を下屋敷(別邸)にて御饗応になった時に、拙者を召し出され、御親切にしてくだされた上、越中守殿が拙者に就いての話を細かに為されたとの御挨拶があった。久世和州公(大和守)が又上意にて祖心を御饗応になり、道春が召されて、老子経の講義をした際、和州公の仰せにより、拙者もその末座へ召し出された。後に祖心の申さるるには、このことは皆上意によったものであるから、有り難く思うようにとのことであった。

卯年(慶安4年、30歳)、2月、御近習の駒井左京殿が、阿部伊勢守を御頼みになって、拙者の弟子となり、兵学をお聞きになりたしとの仰せであったが、幸いに御近所に北条安房守殿が居られることであれば、この方に兵学の御相伝を受けらるる方が宜しかろうと、たって御断り申し上げたのであるが、特別のお考えがあるとのことであったから、御意に任せて参ったところ、非常に御馳走になり、兵書をお聞きになって、早々御登城になった。右京殿と伊勢守との御両所間の御話は拙者はどういうことか承っていないが、脇にて承るところによれば、右京殿が拙者を召寄せられたのは、上意であったとのことである。このことを詳細祖心へ話したところ、それは大方そうであったのであろうから、いよいよ諸事を慎み、家中などへ奉公するようなことは無用なりと思えとのことであった。然るにその後、家光*去なされた。又松平越中守殿もその年12月に御逝去になった。
翌辰の年、浅野内匠頭(長直、長矩の父)が拙者へ直接に約束為されて、色々御鄭重に為された上、知行千石をあてがわるることになった。拙者は相応の職務を申しつけらるるよう、たって願い上げたところ、いかがお考えになったのか、勤番役とか、他家への便とか、そういう職務向きのことは申しつけられなかった。定めてそれは拙者が不調法ものなるによるのであろう。ただ稽古日を定め置き参上する時に、御馳走に預かる。かく全て浪人分に為し置かれた。

巳年(承応2)、播州赤穂へ参った時、大阪にて曽我丹波守殿は拙者の兵学の弟士なるが故に、別て御親切に取り扱われ、御馳走せられ、そこに二三日逗留していた。その時分に板倉内膳殿(重矩)が御兼職になって居られたので、丹波守殿へ相談せられて、9月21日、丹波守殿のところで、内膳殿へ終日御面会を申し上げた。翌年5月、江戸へ帰る内膳殿殿非常に饗応あり、道具等をもくだされた。

内匠頭方に9年仕えていたが、考える子細あって、書付を差上げ、子年、大嶋雲八殿を介して知行をお断り致した。その時も知行を増すから留まり居れよとまで仰せられたのであつたが、加増や利禄を欲して、知行を断った訳でない由を申し上げ、たって断り申し、知行を返納したことである。このことは大嶋雲八殿がよく御存じである。

知行をお断り申して以後は間(ひま)があって浅野因州公、本多備前守殿などが私宅へ御出でになった時分に、因州公がかく申された。以後は一万石でなくては、何れへも奉公せぬとその方が兼て申したことは如何にも尤もなことと思う。古来、戦国の時代には、陪臣であっても、高い知行を取った者が幾多もある。木村常陸介が5万石の時に、木村惣左衛門が5千石、長谷川藤五郎が8万石の時、島弥左衛門が8千石、丹羽五郎左衛門が12万石であって、江口三郎衛門と坂井興右衛門がその下にあって各1万石づつ取っておった。かようなことは珍しくない。

結城中納言殿(秀康、家康の子で越前家を立つ)が越前権頭であった時分に、国持の大名にされても、以前と変わって、別に満足と思うこともないが、しかし有り難いと思うことが二ケ条ある。その第一は年来身分が立派になったならば、召抱えたいと思うていた久世但馬をば今度二万石にて召し出した。このことは大名に仰せ付けられた為にその願いが叶うたのであると仰せられたと云うことを、石谷土人(名は貞満)が物語られた。
さて近来、我らの知って居ることでも、寺沢志摩守殿へ天野源右衛門が八千石で抱えられ、松平越中守殿へ吉村又右衛門が一万石にて抱えられた。この者共は有名な戦場をば一両度は経て居るものである。渡辺睡庵(勘兵衛)が藤堂泉州公(和泉守高虎)へ浪人五万石と云うのでなくば主取りにはならないと申したと、自分の覚書にもそのことを書いている。この者は上の両人よりも戦場にての場数も成功も多く、殊に一騎打ちの戦闘員と云うよりは大勢を指揮すると云うことを心がけたものである。これら両三人とも皆自分の承知して居る人々である。然るにその方は、もし戦闘に生まれたならば、成功は決して右の者らに劣りもすまいが、これは運命であれば、力業ではどうすることもできないことである。

しかし、第一博学多才と云う点から云えば、今日弘文院(林羅山)を置いては、(汝ほどの者は)他にあるまじく又聖学の要点を発明したと云うことは外国にさえないのであるから、古今を通じてその方一人と云うても良い。我らは12歳から兵学の稽古を為し、畠山殿の弟士になりてその流を極め、上泉流(上泉常陸介秀胤の始めた古流儀)を習うて、上泉治郎左衛門から相伝を受け、その後、尾畑勘兵衛殿の弟子となりて印可まで取った。北条安房守殿は一層心安く日々その教をも受けて居る。然るにその方の御影で、兵学の要点をば始めて得心することができるようになって有り難い仕合わせと思うて居る。それでその方へは別けて誓紙を出して弟子と云うことになったのである。されば兵法のことはその方をば無双のもののように思う。かかる次第なれば五万石をと望んだところで、不似合いとは云われない。その上一万石にて奉公しなくては、主用に立たぬと申すことは誠に当時にありては相応なる望み、尤もの儀と云うべきである。我らに十分の領地がなきが故に(その方を抱えることのできぬは)別して残念と思う。それでその方の一門の内にて一人でも二人でも出したいと思うから同意せよと仰せられた。

それで私はただ忝(かたじけな)い御意と存するとばかり申し上げて、そのままにしておいたところ、本多備前守殿へ度々仰せられて、たって一人だけでも良いからとて、お世話くだされたので、岡八郎右衛門16歳の時、因州公へ召し出され、過分の知行をくだされ、近習として今なお召し遣われて居るのである。ただ御親切とのみ云うばかりではない。磯部彦右衛門を御使として寄越され、八郎右衛門をば召しだしたことは御満足なりと、却って御礼を受けた。このことは因州公は勿論、松浦肥州公(肥前守*信)本多肥前守殿がよく御記憶のことであろう。松浦肥州公の御事は、以前よりその家中へ弟三郎右衛門が召抱えられて居て、漸次に御取り立てくだされ、御厚志浅からず、毎度大恩を請けて居る。そして拙者の心底をよく御存じになって居ることは、因州公よりも一層厚いのである。

松浦公、浅野公、本多備前守殿などが御一座の時は、領分が十分であったならば、拙者に一万石や二万石をくださることは何より安きことなりと度々申された。その時、拙者が、申し上げたには御両公様が右の様に思し召さるるのは拙者まことに冥加に叶えるものと思いまつるが、拙者のことを御承知なき方々は定めて途方もなきたわけものと思われるであろう。各様が御崇敬くださるるのを誠と思い、かくの如く高ぶりたることを申し居ると為すであろうと。ともかく因州公は御老年と申し、御学問も只今の御大名の内にこれほどの御方はなく、その上に紀伊守殿や但馬守殿の御家には、諸家に於いて名高きもの大勢を召抱えられ高い知行を受けて居る者もある。大方これらの人々の御話も御聞きになって居ることでもあり、殊更に兵学のことは兼て申された通りであるから、拙者輩がかれこれ批判すべきはずのものではない。松浦公は因州公よりは少々御年若で御自分文学(学問)とてはないが、昼夜書物を聴かれ、文武の諸芸から、儒仏の御勤め怠りなく、その上当代の古老どもを毎度御招請になって、御当家や、上方(京都)衆の近代の物語等、大分に御承知になって居る。近年御家中へ多くの人を高き知行にて差し置かれ、最も能ある者をば御使になって居る。それで中根宗閑とか、石谷土人とかは常に申して居る、家中の作法や、人の遣い方等、若年には珍しき武将なりと。その方々が度々申されることをば、石谷市郎右衛門殿又拙者等も聞いたことである。されば、この両公様のことは、御自分の勤めより始めて御家中や御領内に至るまで、御作法、御裁決、まことに残るところなしと、恐れながら思う次第である。然るに(かかる御方等から)一度や二度左様なことを云われたとて、それは時に応じての御挨拶として置くべきであろうが、度々仰せられることであるから、(一万石ならではと云う)拙者の存念も立つと云う訳で、安堵した訳である。拙者のことを御承知の御方々には(召抱えるだけに)十分なる御身分がなく、御承知くださらぬ方々は、途方もないものと思わるるであろうから、拙者は当分永の浪人と覚悟して居るから、諸事逼塞して居るところ存知て居りますと、その節申し上げておいたことである。

山口出雲守殿が御出でなって申さるるには、津軽十郎左衛門(越中守)殿の仰せらるるには、津軽越中守(信政)殿は知行高は少ないが、土地広く新田も多いのであるから、禄のことはその方の意のままにするから、このたび初めて領地へ行かるについて、拙者に随行して行くようにと御頼みになったと。それに対して、拙者申し上げた。まず以てそれは忝いことであるが、しかし越州公別て拙者に御目掛けられ候とも、何と云うともまだ御年若で居られる。しかも十郎左衛門や出雲守殿が仰せられることであるにしても、家中の人々、又他の人々が、このことを聴いて、御年若の方へ、よいように申し上げて、かようなことをしたのであろうと、後々まで批評せらると云うようなことがあっては、迷惑の至りであるからご免を蒙りたしと、かくお断り申し上げた訳であった。その後になって、津軽十郎左衛門殿御死去の時に、遺言にして拙者が(越中公へ)参候するようにと申し置かれた。そのことに就いての御底意を慮(おもんばか)り、越中公へは弥々御懇意のほどを忝く思うて、参上して居る次第である。

村上宗古老が別て拙者に申されたことは、各が承知のことである。宗古老が拙者方へ御出の時に申さるるには、我らは若い時より、ことにつけて師をとり誓紙を出して弟子入りしたことはない。殊更武芸などは、特別に人に習うたことはない。世上に軍法者と云う者多くあり、自ら師となって居るものどもが我らの所へ来て、軍法の話をしても、我らの関心するものは一人もない。これは渡辺*庵と日夜心安く話して居て、古来よりの軍法や弓矢の話をも毎度聞いて居るからであろうと思う。然るに近年その方に逢うて、軍法兵学の話を聞き、それに就いての色々批判論議などをして見るに、毎度耳を驚かすのである。睡庵は方々奉公して歩く人としては、近代稀なる武士と思うが、しかし軍法兵法の議論となれば、その方の前では口もきけぬことであろうと思う。それに就いては、自分は当年53歳で老学甚だ恥じ入る次弟ではあるが、今日始めて誓紙して、その方の兵学の弟士になりたしと、かく申された。

私が御答え申すには、私事をさほどに思し召さるることは特に忝く存する。古戦の物語や武功ども度々御話を承って、拙者こそ深く有り難く存じて居る次第である。何事によらず相伝と云うようなことは思いもよらぬことであると申したのであるが、たっての御望であったので、その意に任せて誓紙をなされることになった。その時分、林九郎右衛門こと弥三郎と名乗って居られた時で、宗古老とは懇意の間柄であつたから、このことをよく知って居られるであろう。
寛文6年午10月3日、未の上刻に、北条安房守殿より手紙をよこされた。切紙に自筆で、(略)

かく返事を認(したた)めて出した。まだ夕飯を済ませていなかったので、食事を心よく済ませ、行水を為し、これは唯事ではあるまいと考えられたので、立ちながら遺書をも認め残しおいた。尤も死罪にでもせらるることならば、公儀へ一通差上げて、相果たつべく考え、これをも書いて、懐中した。このほかに五六ケ所へは簡単な手紙を書いた。わざと老母へはこのたびの事を申しやらず、宗三寺(牛込にある父を葬りし菩提寺)へ参詣し、供人をばできるだけ省き、若党二人だけ召つれ、馬にて房州公の宅へ参った。四日には津軽公へ行く先約のあったことを、同公の門前で思い出したので、明日は参上できないことを、使いをして申し上げしめて、北条殿へ参った。すると門前には人馬が多く集まって居て、今から何れへか出向かう気勢であった。その有り様は、もし拙者が参らなかったならば、すぐに押し寄せて、拙者の宅をば踏みつぶしになさるつもりであるように思われた。私は刀を下の者に渡し、座敷へ上りて笑いながら、何事ができたのですか、御門前には殊のほか人が集まって居ますがと云うて、奥へ通った。暫くして、北条殿が出てこられ、お逢いしたのであるが、北条殿の言わるるには、入らざる書物(聖教要録のこと)を書いたものであるから、その方は浅野内匠頭の所へ御預けと云うことに(罪が)定められたから、直ちに役地へ参るべきである。それで何にまれ内へ用事があらば申してやるべしと、別て丁寧に申された。

福島伝兵衛が硯を持って拙者の傍へ参り、申し遺したき事あれば、伝兵衛が御取り次申すべしと言うた。それで私は北条殿に向うて申しあげた。かたじけのう存ずる、しかし平常家を出る時には、跡に心残りのないようにとつとめて来て居るから書付け置いてある、今更申し遺るべきことは何もござりませんと。その内に島田藤十郎殿もお出でなりたれば、北条殿も座敷へ列座せられて、その席へ私を召し出された。それで脇差を置いて、私がその座へ出頭したところ、北条殿、島田殿互に会釈があり、そして北条殿が仰せ渡さるるには、その方事は不届きなる書物を書いたによって、浅野内匠頭へ御預けなさるることに、御老中から仰せ渡しになったとの事であると。それで私は御返答申し上げた。まず以て御意の趣きかしこく御受け致しますが、しかし、御公儀様に対して不届きなりと仰せらるるが、それは右の書物の何れであるか、承りたいことであると思うと。すると、房州殿は、島田殿の方に向かわれて、甚五左衛門には申しわけもあるならんが、かく仰せ付けのあった以上は、申す訳にも及ばぬことであるとの御言葉であった。それで私は申し上げた。左様の御意見ならばとかくは申しませぬ、そう申して席を立った。御歩行目付(おかさめつけ、目付役に所属する警吏)衆が二人そこに居ってけ、内匠頭の家来を召し出して(拙者を引き渡すことの)命令せらるのに如何にも騒がしき有り様であったから、私は笑って、一礼して出たことである。その際の作法は立派であって残る所なかりしと、(引き渡しを受けた)内匠頭のものどもが、その晩に拙者へ噂を致していた。

内匠頭の所へ参っても一般の人には誰にも面会はしなかった。浅野因州公より磯部彦右衛門が来られた。それには面会をしても差し支えなしと(内匠頭の)家来どもが申したけれども、その人にも逢うことはしなかった。その節は随分不仕合せのことであり、迷惑至極ではあったが、皆な(表向きの事で仕方ないからそうせられたので)心の底から申されたことは少しもないのであるから、小事にしてすら申し置き、又申し遣わした事ども、一つも忘れては居ない。九日の未明に当地(江戸)を出発することになって居たが、御公儀よりの仰せには、この者には大勢の弟子や門人があるから、徒党を作って何らかの計画をするやら知れず、されば道中は勿論、江戸出発の時、芝や品川等にて奪い取るという計画もあるかも知れぬから、油断してはならぬとのことであったとの事である。護送の為に付いて居る者も心配して居るのであるから、朝より昼時、又昼休みより夜の泊まりまでは、大小便をもしないように心得て、同月24日の晩に赤穂へ到着した。我らはもとより、一匹夫なり。然るに一人の采配で大勢の者を従えて居るように人々が噂するのであるが、これは不仕合せなる内にも、少しは武士の覚悟ありと云うことになると云うべきか。この段は色々の噂もあったようであるが皆虚説風聞であったと云うことに漸次なって来たので、赤穂に於いてはいと心易く暮らして居る。
我ら配所と云うことに定められた際、北条殿より呼び出しがあった時、死罪となるか流刑になるか分からなかったから、もし死罪ということにでもなったならば、一通の書付を提出せんと考え、それを懐中して居った。その原稿が今に残って居る。この節は人間の一大事をも相究め、(人生)50年のこと夢の醒めたようになって居た時であったが、いささか心底に取りみだしたことはない。尤も迷惑はした。このことは日頃学問工夫を勤めた故であると、全く存じて居る。人間のことは一生の間にかかることはあるべきことであるから、自分の覚悟のほどを次の如くに記して置いた。

蒙(愚、拙者と云う意味に同じ)、二千歳の今に当り、大いに周公孔子の道を明らかにし、なお吾の誤りを天下に糺(ただ)さんと欲して、聖教要録を開板せるところ、当時の俗学腐儒身を修めず、忠孝を勤めず、いわんや天下国家の用などはいささかも之を知らず、故に我が書に於いて一句の論ずべきなく、一言の糺すべきなく或いは権を借りて利を貪り、或いは*を構えて追*せり。世皆之を知らず、専ら人口に任せて虚を構え、実否を正さず、その書を詳らかにせず、その理を究めず、強いて書を嘲り、我を罪す。ここに於いて我始めて我が言の大道にして疑いなきに安んず。天下之を弁ずるなし。それ我を罪する者は周公孔子の道を罪するなり。我は罪すべく、しかも道は罪すべからず、罪人の道を罪する者は、時世の誤りなり。古今天下の公論は遁るべからず。凡そ道を知るの輩、必ず夭災に逢うこと、その先*(先例)尤も多し。乾坤(けんこん)倒覆し、日月光を失う。ただ怨む今世に生まれて、而して時世の誤りを末代に残さんことを、これ臣の罪なり。誠*頓首山鹿甚五左衛門10月3日北条安房守殿

これは懐中にしただけである。もし死罪にせられたならばと思いしも別条なかりしが故に出さなかった。この文は立ちながら書いて点を付け、懐にしたので、今日取り出し見るに、書きよう宜しからざるものがあるようにも思う。恐れながら日本大小の神祇に誓う、一字も改めたものはない、誠に我らの辞世の一句である。

我らは以前に知行を断って、内匠頭殿の家を出たのであるが、今度は(その)内匠頭殿へ御預けと云うことになったのである。然るに配所にある間、別して親切にせられ、常に申さるるには、御預けと云うことにならなかったならば、その方は再びこの地へは参らなかったであろう。(幸いなことであるから)内々には随分馳走して遣わすべしと。それに就いて衣服食物家宅に至るまで、種々御丁寧に取り扱われた。大石頼母助(家老、良雄の父)は朝夕入り用の野菜をば、毎日二度づつ送って寄越される。江戸にいた場合もその通りにしてくれた。それで右の事を断ったのであるが、頼母助の申すには、これは全く自分の意志から出たことではなく、内匠頭殿が大切に思わるる拙者故に、かくするのであると申された。尤も配所にある間は(幕府よりの)御預かり人と云うことであるから、それに対して無法なことがあってはならぬと、家中の者にも鄭重にすべしと申しつけられたと。内匠頭が拙者の所へ御出でになっても以前よりかは却って慇懃(鄭重)になされるので、迷惑に感じて居る。
我らが(思し召しにより)参上し、兵学や学問を御聞きになり、我らの弟士に御成りの方々には、松平越中守殿を始めて、以上申す如く(内匠頭は)別て御崇敬なさるる。そのほか板倉内膳正殿などは、御老中になられても、度々御断り申したのであるが、御承知がない。浅野内匠頭は主人でありながら、上々様へ口切りの茶を献上せられた後に必ず拙者へもくだされ頂戴せしめられて居る。*女殿(長直の嫡子長友)はなおその通りにせられる。その外の御方も、大抵同様、上々様へ献上の口切りの茶をばくだされる。尤も以前御出入りして居た諸侯も、私が参上する時は御送迎になり、御開門をも御命じになるというほどであって、御鄭重なる御取り扱いに却って迷惑するのであるから、毎度御断りをしたのであるが、そうではない、私への礼義とは考えず、兵法の礼義であり、師弟の道なれば、(左様にするのである)と仰せられる。しかし如何にしても勿体ないと、度々御断りした。

凡下の拙者であり、無徳のものである、ただ御思し召しによって御指南は申し上げては居るが、左程までにせらるるだけの御伝授もできないから、迷惑致すと度々御辞退をしたのであるが、(何れも聴き入れられない)、侍従(の位にある人)四品(四位にある人)諸大夫(五位の人)の御方々に、かくまでにせらるるのは天命恐れ多きことであるから、せめては自分には奢のないよう、日夜の勤めいささかも怠らないようにするのが、この上の我らの慎みなりと、覚悟を定めたが故に、この如く常に子孫どもまで教え戒めおく。

今年で既に配所に居ること十年である。ただ今は一層天道の御咎めと云うことを考える。病中以外には一日と雖も朝寝はせず、不作法な体裁も致さずに居る。このこと、即ち朝夕為し居ることは、下下の者までよく承知のことであり、就中磯貝平助殿がよく存じて居る。以前よりかくの如く心掛けて来たものであるから、益もないものかも知れぬが、我らの述作せる書物が千巻ほどあるをもって言うならば、三韓を平げて貢物を献げしめ、高麗を攻めてその王城を陥れ、日本府(任那府)をそこに設けて武威を四海に輝かした。これは上代より近代までそうであった。本朝の武勇はかく異国までも恐れしめたが、終に外国より本朝を攻め取りたることはさて置き、一ケ所たりとも奪われたことはない。されば武具馬具剣戟(げき)の制、兵法軍法の各種、何れも彼の及ぶところではない。これは武勇の四海に冠たるによるのではないか。そもそも智仁勇は聖人の三徳である。この三徳の一つを欠いても聖人の道ではない。今この三徳を以て本朝と異朝とを比較し、一々にその印を立てて考査せんに、本朝はるかにまさって居る。誠に正しく(本朝をば)中国と云うべき理が明らかである。これは更に私言ではない。天下の公論であり、既に上古聖徳太子独り異朝を尊ばず、本朝の本朝たることを知られた。しかし旧記は皆入鹿(蘇我)の乱の際に焼失してしまったのか、惜しいかな、その全書現われない。
学問の筋を云えば、古今共にその類(品)多し。故に儒教仏教神道共に各一理あることである。我らは幼少より壮年に至るまで、専ら程子朱子の思想を研究しのであるから、その頃の著作は皆な程朱学派の思想に止まって居た。中比には老子荘子を好み、玄の玄なるもの、虚無と云う如き境地をば本なりと考えた。又この時分には別て仏法を尊び、五山(鎌倉の五禅寺、京都の五禅寺)の諸名僧知識にも逢うて参禅し悟道を楽しみ、その為には来朝した隠元禅師へも相見したのである。しかし我らの不器用の為にか、程朱の学をやると持敬静座(敬と云うことの工夫を静坐して考える方法)の工夫に陥ってしまい、かくして得られたる人柄は、つまり沈黙と云うことになるように思われる。

朱子学よりは老荘や禅の作略は一層活達自由であり、性心(本来の面目)の作用とか、天地一枚になると云うような妙用等、如何にも高明なるように思われる。何事をやるにも本心自性と云うところから出る働きを以てやるのであるから、渋滞がなく、乾坤を打破して一片とすと云う如き、万代不易の一理、如何にも*々(悟、静)洒落なるところのあることは疑いなしと考える。しかしかかることは今日日用事物の上に就いて考えるとどうも会得のできぬ点がある。それは我らの不器用の為でもあろうからと考え、今少しよく会読ができたならばこの疑問も去り、根本のところへ到り得るであろうと思うて、弥々この道を勤めて来た。或いは又日用事物の上のことは甚だ軽いことであるから、左様なものはどうでも良いとも考えられるが、さらばとて、五倫の道に身を置いて、日用事物を処理すると云うことにすれば、それをばどうでもよしとなし置くこともできず、そこに故障が起る。

樹下や石上に坐禅し、閑居独身の生活を為し、世間の功名と云うことを捨て去れば、成るほど無欲清浄になり、言語にて尽せぬ点もあり、妙用自在と云うこともあるであろうと思う。しかし天下国家四民のことに関しては、それではならぬことは言うに及ばず、小さなことに就いても、それでは世上一般の無学なる者ほどにも合点が往くまい。或いは(儒教の言う如く)仁を体認すれば、一日の間に天下のことが済んでしまうとも考えられ、或いは(仏教の言う如く)慈悲を本とすれば、過去永遠の罪滅ぼしと云う功徳になるとだけ云うのであるが、実はかかる学問は世間と学問とをば別の事と為す所以である。他人は知らず、我らにはかく考えらるる。これでは学問の至極ではあるまい。それで儒者仏者にも尋ねて見、大徳の人と云わるる人にも右のことを尋ね、その人のやり方等を見聞したのであるが、それらは何れも世間とは合わず、皆な事物と別になって居る。神道は本朝の道ではあるが、旧記は分明でなく、ことの一端のみで全体が整うていない。これには定めて天下国家の要法が書いてあったのであろうが、入鹿の乱後旧記絶えてしまったことと思う。かくの如く学問上の不審が起ったので、弥々広く書を読み、古の学者どもの言い置いたところのものをも考えて見たのであるが、不審の箇条は一向解けない。これは我らの料簡が違って居るからのことであろうと思い、数年来この不審の点が分からずに居た。

寛文の初め頃、我らの思うには、漢・唐・宋・明の学者の書を見て居ったから、合点がいかなかったのである。直ちに周公孔子の書を見て、これを手本として学問の筋を正し申すべしと。それからは、一般に後世の書物は用いず、ただ聖人の書だけを昼夜に勤め考えて、初めて聖学の道筋分明に心得、聖学の規範を定めたことである。それは例えば紙を真っ直ぐに裁つに当り、如何様に力を込めても、定規と云うものがなく、ただ手に任せて裁つとするならば、正しくはならぬ、又自分だけは(熟練すれば)正しく裁つことができるかも知れぬが、他人にもそうさせることはできない、然るに定規を当てて裁てば、大体例え幼若の者でも先ずその筋目の如くには裁ち得るのである。その間に勿論上手下手ということはある。しかしその筋目だけは一通りできるのである。然れば聖人の道筋と云うのは、その書をよく得心すれば、即ちその定規を知ったことであるが故に、何事によらずその人の学問次第、その道の合点ができる。これ故に聖学の筋には文字も学問も不用なり。それを聞くだけで今日の事を如何にすべきかの得心ができる。工夫だの持敬だの、静坐など、いらないことである。されば、例え言行正しく身を修めて、千言万語を暗記したとするも、それは雑学と云うものであって、聖学の筋ではないと、分明に知り得らるる。

又一言反句の間にもこれは聖学の筋目を知って居る人なりと識ることができる。これは定規を以て正しく堪え得るからである。ただ今は見られず聞かれざる事物に関しても、右の学筋より推及すれば、十の内五つ六つは知り得られる。然るに俗学雑学の輩は、十の内三つだけさえも合点がいくまい。このことを我らは確く信じて疑いはない。それで世上の学無なる者に所謂博学なる者が劣って、人にも笑われるようなこてもできるのである。い型なくして鉄砲玉を削り、定規なくして紙を真っ直ぐに裁んとするが故に、労して功なく、常に苦しみて益更になく、学問をすればいよいよ愚かになると、我らは考える。

学問の筋には種々ある。或いは徳を積んで仁を練り、工夫静座を専らとするものあり、或いは身を修めて人を正し、世を治平にし、功成り名高くなるのがある。或いは書物を好み著述詩文を専らとするものもある。而してこれらの種類にも又各上中下の差もできて様々の心得と云うこととなる。しかし我らの考えでは徳を以て人を感ぜしめ、もの云わずして天下自ら正しく、衣裳を棄て四海平に文徳を修めて敵が自ら感服せしめられると云うようなことは、黄帝や堯舜時代ならいざ知らず、宋代の今日では学び得ないところのことである。これをその型ばかり似せたところで、その験はないことである。それでかく考えるような学者は、その志は如何にも高尚であるが、終いには世に背いて山林に入り、鳥獣を友とすると云うことである。

書物を好み、詩文著述をこととすることは、之は学の慰というものであって、日用のことではない。但し文章も学の余分であるから、敢えて嫌うべきではない。故に余力の暇には詩歌文章も棄つべきではない。しかし我らが考える聖学と云うことは、それを以て身を修め人を正し、世を治平にし、功成り名遂げるように致したいものである。かく云う所以は実に我らは今日武士の門に生まれた、身についての五倫の交わりがある。されば自分の心得作法、外に五倫の交わり、(かく)内外共に武士たる上の勤めと云うものがあるからである。その上、武門に就いての仕事がそれぞれ大小種々ある訳である。

小事に就いて言うならば、衣類食物家の作り方、用具その用方に至るまで、武士には武士の作法があるべきである。殊更武芸の稽古や武具馬具の製作やその用法がある。大にして之を言えば、天下を平に治めること、礼楽の種類、国郡の制、山林河海田畠寺社、四民の公事や訴訟の裁判、政道兵法軍法陣法営法戦法等がある。これらは皆な武将武士たるものの日用の業である。されば武門の学問と云えば、ただ自分のみ修行しても、それぞれに当りてその験なく、功を立てるにあらざれば、聖学の筋ではない。この故に、以上の各に当りて工夫考察が必要であり、それに関しての旧記や故実をも考えなくてはならぬのであるから、それ以外に(特に)工夫黙識静座など致し居る暇のあるべきではない。さればとて又かく限りない種々の業を皆な習い知り尽すべしというのでもない。前にも云う如くに、聖学の定規、い型を能く知り規矩準縄に入ることができれば、見ることよく通じ、聞くことよく明らかとなり、如何様の業来るとも、その批判や勘え方が明白に知られるのであるから、事物に逢うて屈することなし。これが大丈夫の意志である。誠に心広く体豊なりとも云うべきである。この異議での学が相続する時、知恵日に新たにして、徳自ら高く、仁自ら厚く、勇自ら立って、終には(老子荘子の言う如く)功もなく名もなく無為無妙の地に至るべきである。されば功名より入れて功名もなく、ただ人たるの道を尽すのみである。孝経に言う。身を立て道を行い、名を揚げれば、後世に於いては、孝の終り也と。
以上、書付け来りし種々のことは、自讃のように聞こえるかも知れぬが、何れも遠慮すべきことでもないから書付けたという点に、我らの覚悟のところがあるのであるから、よくよく心して読むべきである。近年は配所へ参ってから十年となった。凡そものは十年にて変ずるものである。されば今年我らは配所に於いて打ち果てて、最早死期到来と覚悟して居るのである。我らの始終の動静はところどころに書いて置いたが、親切にしてくだされた御方も漸次残り少なくなってくるのであるから、我らの以前からの成り立ち(経歴)、勤め方、並びに学問の心得をばよく耳底へ留め置き、我らの所志の立つようにに勤められんことを切に希望する。最初に書き置きたるが如く、余は天道の冥加に叶うてかくの如くになったのであるが、第一には愚蒙ではあるが、日夜努力精進した故なりと思う。されば各々が自己の才学(の参考)にもなることと思うが故に、その時の話の例え、物語まで残らずここに記し置く。若年の者はかかることまで能く覚え置くことが大切である。(これは)他人に見すべきものでないが故に、文章の前後等ただ筆に任せて書いたのみである。よくよく得心せらるべきである。

藤助(嫡男)が生長したならば、利禄よき仕合わせを願うと云うようなことは止めて、子孫に至るまで不義無道の言行のないように覚悟するように為されたい。それが我らの生前の大望であり、死後の冥慮であるから、この如く記し置いたのである。磯谷平助にこの書を預け置く。よってかくの如し。以上

延実第三卯正月十一日山鹿甚五左衛門高興(花押)

山鹿三郎右衛門殿岡八郎左衛門殿

半紙一通合文一
四年以前卯年6月に私儀は御赦免を蒙りて、8月当地へ到着した。同14日、浅野又市郎(後の長矩)の家来大石頼母助と同道にて久世大和守様へ挨拶に参上した。その節両人へ直に仰せらるるには、以前より近づきであった者との出入りは許すが、浪人などを集めることは無用たるべし、住居は何れなりと心任せであると申し渡された。右の御意は今日まで堅く守って居るのである。その時より浅草田原町に借家住まいを為し、今もなおそこに居る。近年は病者となって残念ではあるが、行歩不自由であるが故に、大方はどこへも出ないで居る。当地着以来、以前よりの因縁を思われて、戸田左衛門公(氏包、大垣城主)やその他の御方から医者を遣わされたが、それへも御礼だけ申し上げるのみで、一度も御見廻(まい)も申し上げない。数十年以来、縁あって御目をかけられた御方々へは、自然御目にも掛って居る。これすら四年以来度々参上したことはない。浅野又市郎、松浦肥州公は之は特別な関係ではあるが、これすら少々のことにしていて、常には御目廻い申し上げずに居る。津軽越州公のことは前々より親切に致されて居る因縁にて、私一族の内で一両人御家中に奉公致して居る。只今は拙者の娘(鶴)を御家中へ嫁に遣わして居る。然れば右御三家のことは、主人同意と考え上げて居るのであるから、折々はこの方より御機嫌伺いに参上致しても宜しいこととは思うが、御断り申して、大方は参らないことにして居る。娘も御屋敷の内に居ること故、逢いたいとて参ることも遠慮して居る次第で、少々のことなれば参らずに居るのである。

四年以来縁故のない者には近づきにはならぬ、御大名衆へも新しく御出入りも致さぬ、小身の御方へは、一人も近づきにならぬ。殊更縁故のない家中の衆や浪人等はお断りを致して近づきにはならんで居る。

上野御門主様(輪王寺宮)へは冥加の為に一年に両度は必ずこの方より参上する。久世大和守様、土屋但馬守様(数直、老中となる)へは御機嫌伺いの為に折々参上致すべきなれども御用多きことであるから、わざと引き延ばして居る、当年も年頭の御礼に漸く正月末か二月頃に右御両所へは一度参ったように記憶して居る。道具を人にやると云うような噂があるようであるが、左様なことは少しもない。倅(せがれ)や弟や婿(むこ)どもには、自然古びた道具をくれることはあるが、れっきとした御方へは申すに及ばず、家中の人、浪人、その他の人に道具をくれたようなことは決してない。

拙者が松浦肥州公や津軽越州公の御家中の裁判のことに口入れをし、色々新法を立て、下々の者が迷惑することを申しつけたなどと方々に噂があるよう聞いて居るが、甚だ存じ寄りもないことである。娘が縁づいた際にも、隣家でも之を知らなかったほどに軽く取り扱うておいた。松浦肥州公とは御近所でありながら、縁づいたことを御承知なく、御使者もくだされなかったほどに軽きことであった。然るにこれもその時かくかくの大ぎょうなことを拙者が致したように申し触れしたのであるが、その一ケ条でさえ左様なことを為した覚えはない。只今は世上に拙者の名を売って方々へ兵学の師となるものがあるようにも聞いて居る。書物屋でも拙者の著作と云うて、高値にて方々へ売って居る本があると云うことをも聞いて居る。風聞故に偽りであるかも知れないが、四年以来と云うものは、師となったこともなければ、又書物を他所で出版したと云うこともない。

失礼ながら申し上げる。拙者が四十年以来御思し召しによって御目に懸り居る方々、御歴々方は申すに及ばず、家中の衆、縁故によりて自然に参ったと云う浪人に至るまで、不義不作法を為したと云う者は、今日まで一人も承らない。先年、悪人ども徒党をして罪せられた際も(由井正雪事件)、私方へ出入りするものは申すまでもなく、近づきの人にも、一人もなかった。これは拙者が冥加に叶いし事故と思うて居る。尤も日比は縁故のない浪人等とは、堅く出入りしないように十分に心懸けて居ることである。

拙者ごとは配所にて朽ち果てる覚悟にてありしが、各様の御影故、思いがけない冥加に叶うて、母の存命中に(江戸へ)帰ることができ、母と三年一所に移し、去年母はなくなった。今生の願いが叶うて有り難く存ずる。その後、病人となり、弥々何れも参らぬことにして居る。拙者事は元来凡下のものなるが故に、自然歴々の御方へはこの方ゆのお断り申して御出入りを致さぬことにして居る。それに就いて、酉年の大火(明暦3年正月5日の大火災)以後、高田へ引き込んで居て、大方は出ることがなかったが、その時分とは、只今はなお老衰もしたのであるから、逼塞致し居る次第である。

拙者の如き凡下の者が御公儀の御恩忝しと存するなど申すことが、既に失礼千万とは思うが、天下かくの如く治まり静かにして、その為に又数年静かに勉強することのできたことは、恐れながら天下の恩浅からざることと、有り難く存じまつる。殊更思わざる御赦免を得、江戸へ帰ることのできたのであるから、弥々以て日夜相慎み居るわけである。これが時分に相応しい志であるべきなりと、恐れながら考えて居る。もし戯れにも不義不忠なることを口より申したならば心もそれにうつりて冥加が忽ちに尽きるべし。このことは堅く勤め居るように、倅どもにも平生教戒して居る。されば御公儀様を軽しめたり、御法令を無視したり、御作法を批評したりすることが、仮にもあったとするならば、恐れながら冥罪甚だ重しと常々慎んで居るのである。就中四年以来は拙者を色々御世話くだされし御方々へ御苦労をかけることがあってはならぬ、もし左様なことがあれば、生々世々の迷惑なりと(考え)、不覚悟なること聊かもなきようにと、朝け暮れ心懸け居るので、このことは巳前より御目掛けくださるる方には、よく御存知のことで、今更申すまでもないことであるが、序ながらかくは申し上げる次第である。以上。

10月16日山鹿甚五左衛門
半紙一通合文二
拙者事は凡下無徳の者にて、歴々の人様への御前へ出られるほどのものではないのであるが、若輩の時分より御歴々様が御目を掛けられ、御世話にも預かって来た。これは私の徳の然らしむるところなりとは少しも考えて居らぬ。皆天道の冥加に叶いし故の事なりと存じ居るのである。右の通り故に、弥々逼塞し、高田にあっても、御近付きの人々を省き、浅野因州公、松浦肥州公だけには参上するように致して、その外の御方々へは大方に致し居る。然るに思わずも配所を仰せつけられ、十ケ年彼地に参って居た。日々老衰致し、帰ってから四年になる。只今は活きて居ると云うだけの有り様である。今少々は余命あるようなれば、その間何卒義理に相違しないように勤め、そして死にたいと覚悟をして居る。

右の次第、自分と云うものには不似合いのことをかく書付けると云うことは、別て心に迷惑を感じて居ることである。しかしこの事は以前から御目を掛けさせられた方々は皆な御存知のこと、就中松浦肥州公よく御存知の御事である。配所へ参ってからは13年になり、その内に参上申し上げていた御方々は御死去になり、只今は残って居らるる方が少なくなった。されば新しく拙者のことを御聞になされる方々は、一己独身のいたづら者のように思わるるであろうが、それは迷惑のことであるが故に、無益のことのようでもあるが、かくの如きことを書くのであるが、しかし何か事新しく言い立てるようで、如何はしくも存じもする。以上

10月16日山鹿甚五左衛門
半紙一通合文三
当(延実6年)5月14日に渡辺源蔵殿が本多下野守(忠平)殿の御饗宴に参られたとかで、拙者の宅へ押しかけて、御見廻いなされたから、御目に掛かった。しかし御立ち寄りの御礼にも参らず、駿府へ(役儀の為に)御立の節に御暇乞にも病気の故に参らなかった。酒井河内守(忠明)様の御内の地内與一兵衛は拙者の弟子筋であり、殊に浅野又市郎殿の家老である外村源左衛門の婿と云う関係の人である。当地へ帰ってよりその源左衛門から度々「近づきになりたし」と申し出たるも、断りて延引致して居る。当5月16日、外村源左衛門が右の與一兵衛と同道にて参ったが、当方よりは礼の為に使をさえ出さないぐらいのことで、一度も見廻いに参ったことはない。この外確かなる縁故の家中衆や与力衆(奉行の配下で同心を指揮する役目の者)などが自然に私の所へ参ることはあるが、縁故なき衆が、新しく近づきになると云うようなことはできないのである。

数年、拙者へ御目を掛けらるるは板倉内膳公、浅野因州公、松浦肥州公である。何れも拙者に対して師恩忘れ難しとのことにて、毎度自筆の恩手紙をくだされて居る。その手紙の一々が今もなお残って居る。然るにその内膳公が、拙者に不届きなることがあると云うように申されたとかの風聞を聴いた。風聞のことであるから、偽りとは思うが、心元なく思うものから、松浦肥州公まで委細申し上げたこともある。右の書付には種々不調法のこともあり、文言の前後もあり、又思わず失礼に当たるような言葉もあって、上々様の御耳障りにもなる所があるかも知れない。恐れながら心元なく存じて居るのである。拙者は十ケ年も蟄居して居り、帰ってからも逼塞して居るので、弥々世上のことにも疎くなって居る。それで書き違えなども所々あることであろう。御覧になったならば、御用捨てくださるるように御取りなしくだされたい。以上

10月16日山鹿甚五左衛門
板倉内膳公へ法泉寺にて拙者が御無礼申し上げたと申されたと云う風聞を承った。板倉公が御老中になられた時は、拙者の親が病気中であり、やがて、相果てたので、当方より御目見えは申し上げず、忌中忌明の後も、度々御使者をくだされ、毎度丁寧に仰せ下されたけれども、忌明後も拙者が病気になったが故に、御礼に参上もしなかった。翌年4月5日、始めて御礼に参ったが、その節は御他出中で、御目に掛かることができなかった。その後4月29日に拙者の近所の法泉寺へ御出でになり、そこへ参って御目に掛かるようとの仰せであった。尤も他には人がなく、石谷市右衛門だけが参られるのであるから、ゆっくり談しをするように参れとの御自筆の手紙をくだされたのである。それで法泉寺へ伺候した。拙者が参上の後に板倉公が御出でになり、御迎えの為に庭上まで出でたのであった。公が御着座になった後に敷居を隔てて度々御使者をくだされ有り難く存ずる旨を申し上げた。すると仰せられるるには、左様に堅くろしくては、話し合う訳には行かぬ、外所又は多人数の時は特別、今日はいつもの如くに内へ入り、遠慮なく御話し申し上ぐるようにせよと、再三仰せられたので、御心に従い恐れながら御一座へ入った。その時、御同氏石州公(板倉石見守)も御出になって居た。料理が出たので、まづそれを召しあがって御話などあった。板倉公の仰せらるるに、不徳の我らに大役(老中役)を仰せつけられ有り難く思うところであるが、何事も心元なく思う。第一天下の政は何事を専要とするべきかと御尋ねになった。拙者の如き凡下の者が天下の政道はかくあるべしなどと考え合わすことなどないが故に、自分の工夫と云うものはない。古来より聖人の申し置きたることは、天下の政は仁を木として礼を行うだけのことであると様に申し伝えてあると御返事申し上げたが、少々御合点がいかなかったのか、仁は左様でもあろう、礼は大事のものなりと、軽く御挨拶された。

次に仰せられたのは、保科肥後守殿(正之)の学問の筋はどう思うカとのことであった。拙者は保科公に御目に掛かったことがないから、存ぜぬと申し上げたところ、その方の思うところはどうかとの仰せであったから、未だ拝顔をも得ず、ただ風聞のみによって申し上げることは、間違いの多いものであるが故に、申し上げ難しと申し上げたところ、たっての御尋ねであったから、私は申し上げた。ただ風聞のみで申し上げれば、御学問の筋は失礼ながら、私どもの学問と考えて居るものとは相違あるように思うと。すると仰せらるるには、この方もそう思うとのことであった。

次に京都の所司代(守護の役)には誰をやるべきかとの仰せであった。拙者は(誰が問題になって居るのか)承って居ないと申し上げたところ、石谷市右衛門殿が永井伊賀守殿を指して申さるるのだと申された。私は永井公はまだ御年が若いではないかと申し上げたところ、年の老若には及ばぬ、力量次第のことではないかと仰せられた。

次に世間はどんな評判をして居るかとの御尋ねであったから、私は申し上げた。世上の風聞は全然承っていない。世上の風聞と云うものはさして益もないことかと申し上げたところ、仰せらるるには、世上には能ある者も多くあるべければ、それらのものの為す風聞を聴くのは良いことではないかと仰せられた。それで私は御返答申した。御歴々と云う内にさえ、賢人君子と云うべき人は少ない。然れば下々には能者と云う者は大方ないと云うて宜しい。もし能者があるとしても、風聞などは致すまい。風聞するような人は、大方は御大名衆へ出入りする軽い町人風情のことであろう。(世上に賢き者)即ち世才に長けた者のすることでありませうと。公は更にその世才に長けた者の云うことでも良いから、申せとのことであったので、私は申し上げた。恐れながら左様には思いませぬ、世間賢き者は、時代の勢いに従ってよくつとめる者であるが故に、上々様の能く思われることは、能く云い、御憎みになるものをば悪く云う、少しでも秀で居るものを障へ、我が身の立つように工夫する、他人のことをよきように申して、実はそれをそしり悪むのである。かかる者の申すことを御計上げになると云うようなことがあつたならば、それこそ大事のことであると存じ申すと申し上げた。すると、古より堯舜も賤しき者に事を尋ねられたと云うではないかと、公が仰せられたから、私は申し上げた。それは賤しき者の存ずべきことは、賤き者に尋ねると申すことなりと。この問答再三あり、少し御意に入らぬような御挨拶であつたが、私の考え居ることをば申し上げるようにとの仰せであったのであるから、少しく顧みず申し上げたので、それが定めて御無礼のように見えたのであろうと思う。

その後私は申し上げた。只今は方々に寺院があって、路次にも仏体を出して置くのであるから、下々の者でさえ、仏をば知って居る。日本の方々へ孔子堂を立てたならば、人々も又聖人の名を知るようになるであろうと。それには尤もなことなりと仰せられた。

御料理が過ぎて、やがて御立ちになる時、私が申し上げた。恐れながら申し上げることがあります。今度御老中になられたことは、失礼ながら仕合わせの良いことであると存ずる。しかし古より云うてある通り、仕合わせ良きものには、それだけ過失もあるとのことであるから、憚りながら、御慎みを加えられるように御願いをする。就中御威光の良いので、御令息様方へ、世上より御馳走をすると云うようなこともあるから、御勤め第一なりと存じ上げると。これは伯州公(重矩の子の重良、伯耆守)の御勤めが失礼ながら、心元なく思う下心から申し出たのであるが、その御心得はないような御挨拶であって、その方の心入れは十分に思うと仰せられ御慶びになったと云うことである。

その日に二条城の御番から帰った、野間金左衛門殿、猪飼五郎兵衛殿などが、御宅へ御出でになって待って居られると申して来たりしが故に、御帰りになった。それ以後は、公には御目に掛からない。以上のことは石谷市郎右衛門殿が御承知のことである。その後度々御自筆の御手紙や、くだされ物などがあり、石谷市郎右衛門殿へも、切々の御伝言もあり、やがて家の作事ができたならば、その節仰せ下さるる筈であるから、参るべき心組である。寺にて申しあげた種々のことは、今に失念せぬと仰せ下されて居るし、ことに御加増を受けられた時には、自筆の御手紙をくだされ、別て御丁寧な御取り扱いをくだされて居る。御無礼を申し上げて不届きなることと仰せられたとは、ただ風聞のみのことと、今以て左様に考えて居るのである。以上

10月16日山鹿甚五左衛門

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蒙求より学ぶ!蛍雪の功、漱石枕流にみる年少者啓蒙の書!

蒙求は、唐の李瀚が経史から歴史人物の逸話行跡を集約抜粋して著した、伝統的な中国の初学者向け教科書です。
日本には平安時代に伝えられ、鎌倉時代から江戸時代にかけて、武家・僧侶・町人にいたるまで勉学の第一歩としてこれを暗誦されたようです。
内容は、数多くの偉人たちの故事来歴を詳しく調べ、その業績の内容を適切な「四字成句」にし、韻を踏んで暗誦しやすいように配列してあります。
本文は四字句押韻の対語で596句2384字からなり、偶数句の句末で押韻し結語にあたる最後の4句以外は8句ごとに韻を変えている形式をとっています。
なお、『源氏物語』『徒然草』『平家物語』などや歌舞伎の筋立てや川柳俳諧の世界に至るまで、この蒙求の説話をヒントにした作品は数多あり、日本においてはまさに百科事典のごとき佳書だったことが伺えます。
中でも最も有名な故事成語としては「蛍の光 窓の雪」と卒業式でなじみの『孫康映雪 車胤聚蛍』(蛍雪の功)であり、「天知り 神知り 我知り 子知る」のことわざで名高い『震畏四知』、また「漱石枕流」などがあります。

蒙求|巻之一
『蒙求』徐注本標題

以下参考までに、簡単に目次と典拠などを一部整理しておきます。

巻上     典拠    登場人物     故事等
1.王戎簡要 晋書    王戎       視日不眩
2.裵楷清通 晋書    裵楷       武帝策得一
3.孔明臥龍 蜀志    諸葛亮      三顧
4.呂望非熊 六韜    太公望呂尚、文王 
5.楊震関西 後漢書   楊震       鸛進三魚
6.丁寛易東 漢書    丁寛、田何    
7.謝安高潔 晋書    謝安、高崧    蒼生を如何
8.王導公忠 晋書    王導、元帝    蒼生何由、吾蕭何
9.匡衡鑿壁 漢書西京雑記 匡衡、文不識 無説詩、客作
10.孫敬閉戸 楚国先賢伝          縄を以て頚に懸く
11.郅都蒼鷹 漢書    郅都、竇太后   匈奴偶人を作る
12.寗成乳虎 漢書    寗成、公孫弘   束湿薪、狼牧羊
13.周嵩狼抗 晋書    周嵩、三子、王敦 
14.梁キ跋扈 後漢書   桓帝、質帝    鳶肩犲目、朝廷為に空し
15.郗超髯参 晋書    桓温       能令公喜、能令公怒
16.王珣短簿 晋書    桓温、謝玄    大手筆の事、肥水の戦、風声鶴唳 
17.伏波標柱 後漢書・広州記 馬援、徴側  老益、矍鑠
18.博望尋河 漢書史記   張ケン    持節、支機石
19.李陵初詩 漢書史記   李陵、蘇武  降匈奴
20.田横感歌 史記    田横、高祖、二客、五百人 自剄、李周翰「挽歌論」
21.武仲不休 後漢書   傅毅       魏文帝「典論」(文人相軽)
22.子衡患多 晋書・述異記 陸機、張華   獲二俊、じゅんさい、筆硯を焼く、華亭の鶴唳、黄耳
23.桓譚非讖 後漢書   桓譚、光武帝   
24.王商止訛 漢書    王商、成帝、王鳳 真漢相
25.ケイ呂命駕 晋書    ケイ康、呂安    ケイ康好鍛
26.程孔傾蓋 孔子家語  孔子、程子、子路 
27.劇孟一敵 漢書    劇孟、周亜夫   
28.周処三害 晋書    周処、孫秀    忠孝不得両全、大臣殉国 


日本ではすっかり忘れ去られてしまった蒙求ですが、日本文学や文化芸能に多くの影響を与えているこの書物を改めて見直してみる機会になればと思います。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【1.王戎簡要】
晋書にいう。
王戎あざなは濬沖、琅邪臨沂の人である。
幼くしてすぐれかしこく、風采もすぐれ、太陽を視ても眩む事はなかった。
裴楷が評して言った。
王戎の眼は爛爛として巖下の雷光のようだ」
阮籍王戎の父である王渾と昔からの友人であった。
王戎が十五になると王渾に従って郎舎にいた。
阮籍は自分より二十歳年下であるが王戎と交友を結んだ。
阮籍は王渾に会いに行くたびにさっさと辞去し、すぐに王戎のところに行きしばらくしてから帰っていった。
そして王渾に言った。
「濬沖は清賞で卿のともがらではない(貴方とは比べ物になりませんな)。卿と話をするより、戎ちゃんと一緒に清談するほうがずっと良いですな」
王戎は)官を経て司徒に昇った。
晋の裴楷あざなを叔則、河東聞喜の人である。
かしこく見識度量があった。
若くして王戎に等しい名声を得ていた。
鍾會は(当時の相国である)文帝(司馬昭)に推薦し、相国の掾に召された。
吏部郎に欠員が出ると司馬昭は鍾會に問うた。
鍾會は答えた。
「裴楷は清通、王戎は簡要でどちらも適任です」
そして裴楷が用いられた。
裴楷は風采は高邁、容貌も俊爽で博学で群書に通じて、特に里義に精しかった。
当時の人は(裴楷のことを)玉人と言った。
またこうも言った。
叔則を見れば玉山に近づくように人を照らしかがやかすようだ。
中書郎に転任し官省に出入りすると、人々は粛然として身だしなみをあらためた。
武帝司馬炎)が践祚して皇位に登ると、易をおこない王朝の命数(何代続くか)を占った。
すると一と出たので司馬炎は喜ばず、群臣は顔色を失った。
裴楷は言った。
「私はこう聞いております。天は一を得て清く、地は一を得てやすく、王侯は一を得て天下の正義であると」
これを聞いた司馬炎は大いに悦んだ。
中書令・侍中に累遷した。

【2.裵楷清通】
晋書にいう。
王戎あざなは濬沖、琅邪臨沂の人である。
幼くしてすぐれかしこく、風采もすぐれ、太陽を視ても眩む事はなかった。
裴楷が評して言った。
王戎の眼は爛爛として巖下の雷光のようだ」
阮籍王戎の父である王渾と昔からの友人であった。
王戎が十五になると王渾に従って郎舎にいた。
阮籍は自分より二十歳年下であるが王戎と交友を結んだ。
阮籍は王渾に会いに行くたびにさっさと辞去し、すぐに王戎のところに行きしばらくしてから帰っていった。
そして王渾に言った。
「濬沖は清賞で卿のともがらではない(貴方とは比べ物になりませんな)。卿と話をするより、戎ちゃんと一緒に清談するほうがずっと良いですな」
王戎は)官を経て司徒に昇った。
晋の裴楷あざなを叔則、河東聞喜の人である。
かしこく見識度量があった。
若くして王戎に等しい名声を得ていた。
鍾會は(当時の相国である)文帝(司馬昭)に推薦し、相国の掾に召された。
吏部郎に欠員が出ると司馬昭は鍾會に問うた。
鍾會は答えた。
「裴楷は清通、王戎は簡要でどちらも適任です」
そして裴楷が用いられた。
裴楷は風采は高邁、容貌も俊爽で博学で群書に通じて、特に里義に精しかった。
当時の人は(裴楷のことを)玉人と言った。
またこうも言った。
叔則を見れば玉山に近づくように人を照らしかがやかすようだ。
中書郎に転任し官省に出入りすると、人々は粛然として身だしなみをあらためた。
武帝司馬炎)が践祚して皇位に登ると、易をおこない王朝の命数(何代続くか)を占った。
すると一と出たので司馬炎は喜ばず、群臣は顔色を失った。
裴楷は言った。
「私はこう聞いております。天は一を得て清く、地は一を得てやすく、王侯は一を得て天下の正義であると」
これを聞いた司馬炎は大いに悦んだ。
中書令・侍中に累遷した。

【3.孔明臥龍
蜀志にいう。
諸葛亮、あざなは孔明、琅邪陽都の人である。
みずから隴畝を耕し、梁父吟を好んでうたい、つねに自らを管仲、樂毅に比していた。
当時の人でこれを認める者はいなかった。
ただ、崔州平、徐庶だけは友人としてなかが善く、本当にそうであるとおもっていた。
その時、劉備が新野に駐屯していた。
徐庶はこれに謁見し言った。
諸葛孔明臥龍です。将軍は彼と会うことを願いますか。この人はこちらから出向けば会えますが、呼びつけることはかないません。なので御自ら出向いて会われるべきです」と。
劉備は遂に諸葛亮に会いに行った。
三度訪問して会うことが出来た。
人払いをして二人で天下の事を計ってこれを善しとした。
そして日増しに親しくなっていった。
關羽、張飛等は悦ばなかった。
劉備は言った。
「弧(わたし)に孔明が有るのは、魚に水が有るようなものだ。だからこれ以上は言ってくれるな」
(そして劉備が)尊號を称するに及んで(帝位につくと)、諸葛亮を丞相とした。
漢晋春秋に曰く。
諸葛亮南陽の鄧県襄陽城の西に住んで、そこは隆中といわれている。
六韜にいう。
周の文王は狩りをしようとしていた。
史編が卜(亀の甲を焼いて占って)をして言った。
「渭陽に狩にいけば大いに得ることが出来ましょう。それは龍ではなく、彲(みずち)でもなく、虎でもなく熊でもありません。兆(亀の甲に入ったひび)によれば公侯を得るでしょう。天は貴方に師を贈り、貴方をたすけさせ、それは三人の王の代に及ぶでしょう」
文王は言った。
「兆に間違いは無いか」
史編は答えた。
「私の先祖の史疇は舜のために占って皐陶を得ました。この兆はそれに匹敵します」
文王は三日斎戒して、渭陽で狩りを行った。
ついに、太公(望)が茅に座って釣りをしているのに出会った。
文王は労って天下の事を問い、自分の車に乗せて帰り、たてて師とした。
旧本には非熊非羆となっている。
おそらくこれは世俗が誤って伝え、訂正しなかったからである。
按ずるに後漢の崔駰の達旨の文に、「あるいは、漁夫(太公望)が自分から亀甲に兆をつくって見せたのかもしれない」とあって、
注には「西伯(周の文王)が狩りをしようとして占うと、獲るものは龍ではなく、螭(みずち)ではなく、熊ではなく、羆でもない。獲るのは覇王の輔佐となるものだ」とあります。
旧本の非羆はこれにもとづいているのだろう。

【4.呂望非熊】
蜀志にいう。
諸葛亮、あざなは孔明、琅邪陽都の人である。
みずから隴畝を耕し、梁父吟を好んでうたい、つねに自らを管仲、樂毅に比していた。
当時の人でこれを認める者はいなかった。
ただ、崔州平、徐庶だけは友人としてなかが善く、本当にそうであるとおもっていた。
その時、劉備が新野に駐屯していた。
徐庶はこれに謁見し言った。
諸葛孔明臥龍です。将軍は彼と会うことを願いますか。この人はこちらから出向けば会えますが、呼びつけることはかないません。なので御自ら出向いて会われるべきです」と。
劉備は遂に諸葛亮に会いに行った。
三度訪問して会うことが出来た。
人払いをして二人で天下の事を計ってこれを善しとした。
そして日増しに親しくなっていった。
關羽、張飛等は悦ばなかった。
劉備は言った。
「弧(わたし)に孔明が有るのは、魚に水が有るようなものだ。だからこれ以上は言ってくれるな」
(そして劉備が)尊號を称するに及んで(帝位につくと)、諸葛亮を丞相とした。
漢晋春秋に曰く。
諸葛亮南陽の鄧県襄陽城の西に住んで、そこは隆中といわれている。
六韜にいう。
周の文王は狩りをしようとしていた。
史編が卜(亀の甲を焼いて占って)をして言った。
「渭陽に狩にいけば大いに得ることが出来ましょう。それは龍ではなく、彲(みずち)でもなく、虎でもなく熊でもありません。兆(亀の甲に入ったひび)によれば公侯を得るでしょう。天は貴方に師を贈り、貴方をたすけさせ、それは三人の王の代に及ぶでしょう」
文王は言った。
「兆に間違いは無いか」
史編は答えた。
「私の先祖の史疇は舜のために占って皐陶を得ました。この兆はそれに匹敵します」
文王は三日斎戒して、渭陽で狩りを行った。
ついに、太公(望)が茅に座って釣りをしているのに出会った。
文王は労って天下の事を問い、自分の車に乗せて帰り、たてて師とした。
旧本には非熊非羆となっている。
おそらくこれは世俗が誤って伝え、訂正しなかったからである。
按ずるに後漢の崔駰の達旨の文に、「あるいは、漁夫(太公望)が自分から亀甲に兆をつくって見せたのかもしれない」とあって、
注には「西伯(周の文王)が狩りをしようとして占うと、獲るものは龍ではなく、螭(みずち)ではなく、熊ではなく、羆でもない。獲るのは覇王の輔佐となるものだ」とあります。
旧本の非羆はこれにもとづいているのだろう。

【5.楊震関西】
後漢の楊震あざなは伯起、弘農華陰の人である。
若くして学を好み経書にくわしく、博覧で窮きわめなかったものはなかった。
諸儒は彼を評して言った。
「関西の孔子、楊伯起」と。
つねに湖に寓居して州郡の礼命(出仕命令)に答えないこと数十年、人々はこれを晩暮と言った。
しかし志はいよいよ篤かった。
後に鸛雀があって、三匹のうなぎを口に含んで講堂前に集まった。
都講(塾頭)がうなぎを取って言った。
「蛇鱣は卿大夫の服の模様である。数が三であるのは三台(三公)にのっとっているのだろう。先生(楊震)は今から三公の位に登るだろう」
五十才になるとはじめて州郡に仕えて、安帝の時に太尉となった。
前漢の丁寛あざなは子襄、梁の人である。
はじめ梁の項生は田何に従って易を授かった。
この時、丁寛は項生の従者だった。
易を読むのは精敏で才能は項生をしのいでいた。
そしてついに田何に師事した。
学が成って東へ帰った。
田何は門人に言った。
「易は東へ行ってしまった」と。
また、周王孫に従って古義を受けて周子傳といった。
景帝の時に梁の孝王の将軍となった。
易説三万言をつくった。
その注釈は大誼をのべているだけだった。

【6.丁寛易東】
後漢の楊震あざなは伯起、弘農華陰の人である。
若くして学を好み経書にくわしく、博覧で窮きわめなかったものはなかった。
諸儒は彼を評して言った。
「関西の孔子、楊伯起」と。
つねに湖に寓居して州郡の礼命(出仕命令)に答えないこと数十年、人々はこれを晩暮と言った。
しかし志はいよいよ篤かった。
後に鸛雀があって、三匹のうなぎを口に含んで講堂前に集まった。
都講(塾頭)がうなぎを取って言った。
「蛇鱣は卿大夫の服の模様である。数が三であるのは三台(三公)にのっとっているのだろう。先生(楊震)は今から三公の位に登るだろう」
五十才になるとはじめて州郡に仕えて、安帝の時に太尉となった。
前漢の丁寛あざなは子襄、梁の人である。
はじめ梁の項生は田何に従って易を授かった。
この時、丁寛は項生の従者だった。
易を読むのは精敏で才能は項生をしのいでいた。
そしてついに田何に師事した。
学が成って東へ帰った。
田何は門人に言った。
「易は東へ行ってしまった」と。
また、周王孫に従って古義を受けて周子傳といった。
景帝の時に梁の孝王の将軍となった。
易説三万言をつくった。
その注釈は大誼をのべているだけだった。

【7.謝安高潔】
晋書にいう。
謝安あざなは安石、陳國陽夏の人である。
四歳の時、桓彝が彼を見て嘆息して言った。
「この子は風神秀徹(立派な風采)だ。後に王東海(王承)に劣らない人物となるだろう」
王導もまた彼をすぐれていると認めた。
だから若いころから名が高かった。
はじめて辟召されたときは病を理由にことわった。
有司が上奏した。
「謝安は召されて数年にもなりますが応じません。終身禁錮とすべきです」と。
なので東の地に棲むことにした。
常に臨安の山中に行っては丘や谷で気ままにしていた。
しかも遊ぶ時は妓女をともなっていた。
時に弟(謝萬)は西中郎将となって、藩任の重きにあった。
謝安は衡門にいたがその名声は弟にまさり公輔(三公等宰相)の位について欲しいと思われていた。
四十余歳にしてはじめて仕官しようと思い、征西大将軍の桓温の司馬になった。
朝廷の士人は皆見送った。
中丞の高崧が謝安に戯れて言った。
「卿はしばしば朝旨にそむいて東山に隠棲していた。皆言ってましたよ『安石が出仕しなければ蒼生(万民)をどうしようか』と。蒼生は貴方をどう思っているのでしょうね」と。
謝安は恥じた。
後に吏部尚書となった。
この時、孝武(帝)が立ったが政治を己のままに出来なかった。
桓温の威光が内外に及んでいた。
謝安は忠を尽くして匡したすけついに二人を和解させた。
中書監録尚書事に昇進した。
苻堅が兵を率い、淮肥(淮水と肥水)に陣を構えた。
謝安に征討大都督をの官を加えた。
そして苻堅を破り、総統の功績で太保に昇進した。
亡くなって太傅を追贈され、文靖と謚された。
晋の王導あざなは茂弘、光禄大夫である王覧の孫である。
わかくして人を見る目があって、識量は清遠だった。
陳留の高士である張公が王導を見てめずらしいとして王導の従兄である王敦に言った。
「この子の容貌志気は将軍宰相の器である」と。
元帝(司馬睿)が琅邪王だった時に王導と平素から親しかった。
王導は天下が乱れるのを知り、心を傾けて推奉、ひそかに興復(晋朝復興)の志を持った。
帝もまた彼を尊重した。
帝が下邳を鎮撫すると、王導を安東司馬とした。
軍謀密策、知っていて行わなかったものは無かった。
帝は常に言っていた。
「卿は私にとっての蕭何である」と。
中書監・録尚書事に累遷した。
帝が即位するに及び、百官が陪列すると、王導に命じ御床に登らせ一緒に座ろうとした。
王導は固辞して言った。
「もし太陽が下がって万物と同じ高さにあれば、蒼生(万民)はどうして仰ぎ見る事ができましょうか」と。
これを聞いた帝は命令を取りやめた。
司空の位に進んだ。

【8.王導公忠】
晋書にいう。
謝安あざなは安石、陳國陽夏の人である。
四歳の時、桓彝が彼を見て嘆息して言った。
「この子は風神秀徹(立派な風采)だ。後に王東海(王承)に劣らない人物となるだろう」
王導もまた彼をすぐれていると認めた。
だから若いころから名が高かった。
はじめて辟召されたときは病を理由にことわった。
有司が上奏した。
「謝安は召されて数年にもなりますが応じません。終身禁錮とすべきです」と。
なので東の地に棲むことにした。
常に臨安の山中に行っては丘や谷で気ままにしていた。
しかも遊ぶ時は妓女をともなっていた。
時に弟(謝萬)は西中郎将となって、藩任の重きにあった。
謝安は衡門にいたがその名声は弟にまさり公輔(三公等宰相)の位について欲しいと思われていた。
四十余歳にしてはじめて仕官しようと思い、征西大将軍の桓温の司馬になった。
朝廷の士人は皆見送った。
中丞の高崧が謝安に戯れて言った。
「卿はしばしば朝旨にそむいて東山に隠棲していた。皆言ってましたよ『安石が出仕しなければ蒼生(万民)をどうしようか』と。蒼生は貴方をどう思っているのでしょうね」と。
謝安は恥じた。
後に吏部尚書となった。
この時、孝武(帝)が立ったが政治を己のままに出来なかった。
桓温の威光が内外に及んでいた。
謝安は忠を尽くして匡したすけついに二人を和解させた。
中書監録尚書事に昇進した。
苻堅が兵を率い、淮肥(淮水と肥水)に陣を構えた。
謝安に征討大都督をの官を加えた。
そして苻堅を破り、総統の功績で太保に昇進した。
亡くなって太傅を追贈され、文靖と謚された。
晋の王導あざなは茂弘、光禄大夫である王覧の孫である。
わかくして人を見る目があって、識量は清遠だった。
陳留の高士である張公が王導を見てめずらしいとして王導の従兄である王敦に言った。
「この子の容貌志気は将軍宰相の器である」と。
元帝(司馬睿)が琅邪王だった時に王導と平素から親しかった。
王導は天下が乱れるのを知り、心を傾けて推奉、ひそかに興復(晋朝復興)の志を持った。
帝もまた彼を尊重した。
帝が下邳を鎮撫すると、王導を安東司馬とした。
軍謀密策、知っていて行わなかったものは無かった。
帝は常に言っていた。
「卿は私にとっての蕭何である」と。
中書監・録尚書事に累遷した。
帝が即位するに及び、百官が陪列すると、王導に命じ御床に登らせ一緒に座ろうとした。
王導は固辞して言った。
「もし太陽が下がって万物と同じ高さにあれば、蒼生(万民)はどうして仰ぎ見る事ができましょうか」と。
これを聞いた帝は命令を取りやめた。
司空の位に進んだ。

【9.匡衡鑿壁】
前漢の匡衡(きょうこう)またの名は稚圭(ちけい)。
東海承(とうかいしょう=地名)の人である。
先祖代々農夫だ。衡(こう)に至って学問を好む。
家は貧しい。アルバイトをして生活していた。とりわけ元気は人にまさっていた。
そのため学者達は次のように言った。
詩経について話すなよ。匡(きょう)が来るよ。匡は詩を語るときに人のあごをはずすくらい面白い。」と。
官吏登用試験に一番の成績で合格した。元帝の時宰相となった。
西京雑記』には次のようにある。「衡は勉強するが明かりがない。隣の家には明かりがあるがとどかない。
衡はそこで壁に穴を開けて、その光を引いて読んだ。
村の有力者は、書物があっても価値をしらない。家計は豊かで書物が多い。
衡は、そこで雇われて働き、報酬は求めなかった。
書物を全部読みたいとのぞんだ。主人は感心して書物をあたえた。
とうとう大いに学問を成し遂げた。

【10.孫敬閉戸】
中国南方の楚(そ)の国の先賢伝(せんけんでん=書名)に、次のようにある。
孫敬またの名は文宝。常に戸を閉ざして書物を読む。
ねむいときは、縄を首にかけて、天上の梁に懸けた。
ある時、人の多いところに出かけたところ、人々は彼を見て皆言った。
「閉戸先生が来た」と。君主のお召しがあっても、出て行かなかった。

【11.郅都蒼鷹】
前漢(ぜんかん)の都(しつと)。
河東(かとう=地名)大陽(たいやう=地名)の人(ひと)だ。
景帝(けいてい)の時(とき)中郎将(ちうらうしやう)と為(な)る。
果敢に思ったことをはばからずに言って大臣に官庁で面と向かって過失をいさめた。
警察庁長官に昇進した。
この時代の民衆は素朴で、罪をおそれて自重した。
なのに都(と=人名)は厳しさを優先して法律を適用した。
貴族を特別扱いせず、貴族も王族も、都を見て皆目をつりあげて視た。
蒼鷹(そうよう)と言われた。重要な関所の責任者に就任した。
隣接する敵国は以前から彼の志の強さを聞いていたので、国境から引き下がり、彼が死ぬまで関所には近づかなかった。
匈奴(きょうど=隣の敵国)は、彼の人形を作って、馬に乗って射させたが、命中させられなかった。
彼がおそれられるのは、このようであった。
匈奴は困った。そこで、彼に漢の法律を適用した。ついに退けた。

【12.寗成乳虎】
前漢(ぜんかん)の甯成(ねいせい)は、南陽(なんよう=地名)穣(じょう=地名)の人(ひと)だ。
謁見者の取次ぎ役で景帝(けいてい)に仕えた。
活気を好み、小役人の時には必ずその上司を越えようとした。
人となりは、いつもきびしく、湿った薪(たきぎ)を束ねるかのようである。
取締官になった。その取り締まりは都(しつと=人名)に学んだけれども、その節度は似ていない。
武帝(ぶてい)が即位し、宮中の記録官になった。
皇后の親戚の多くは、彼の短所を悪く言って、罪にした。
そこで皇帝は、彼を地方長官に任命しようとした。
公孫弘(こうそんこう=人名)が言うには、「私が小役人だった時、成(せい=甯成=人名)が済南(せいなん=地名)の武官になりました。彼の取り締まり方は、狼が羊を飼うかのようでした。彼に人民を統治させるべきではありません。」と。
皇帝は、そこで、彼を都の関所の武官に任命した。
数年で、関所の外の地方役人をしたがえた。
「甯成(ねいせい)の怒りに遭遇するよりは、気の荒い虎に遭遇した方が、まだましだ。」と言われた。
彼の荒々しさは、このようであった。

【13.周嵩狼抗】
晋書にいう。
周嵩あざなは仲智、兄は周顗あざなは伯仁、汝南安成の人である。
中興のとき、周顗等は並んで貴位にのぼった。
冬至に酒宴をひらいたことがあった。
母が觴さかずきを挙げて三人の子(周顗、周嵩、周謨)に言った。
「私が長江を渡ったときは身を寄せるところがありませんでした。思いがけずお前達が高貴な位につき目前に並ぶとは。私は何を憂えようか」
すると周嵩が立って言った。
「おそらくは仰るようにはならないでしょう。伯仁は志は大きいが才は短く、名は高いですが見識は暗い。そして好んで人の過失に乗じます。身を全うする事はかないますまい。私も坑直な性格で、世にいれられません。ただ阿奴は平凡ですから母上のお側におりましょう」
阿奴とは周嵩の弟の周謨の幼名である。
後に周顗・周嵩は王敦に殺害された。
周謨は侍中・護軍を歴任した。
世説新語には坑直を狼抗としてある。
晋書周顗伝に處仲は剛腹強忍、狼抗にして上(主君)をないがしろにするとある。
處仲とは王敦のあざなである。
後漢の梁冀あざなを伯卓、褒親愍侯竦の曾孫である。
人となりは鳶肩豺目(いかり肩でたて眼)、眼光鋭く、言葉はどもっていた。
大将軍を拝命した。
侈暴はいよいよ酷くなった。
冲帝が崩御すると、梁冀は質帝を擁立した。
(質帝は)幼いながらも聡明で梁冀が驕慢で横暴なのを知った。
群臣を朝見し、梁冀を指して言った。
「これは跋扈将軍である」
これを聞いた梁冀は深くにくみ、ついには帝を鴆殺(毒殺)し、桓帝を擁立して、太尉の李固、杜喬を枉害(無実の罪を着せて殺害)した。
海内はなげきおそれた。
四方の徴発、歳時の貢物は、まず一番の上物を梁冀のところに運び、皇帝には次の品をまわした。
一門前後、七人が侯に封じられ、皇后が三人、貴人が六人、将軍が二人いた。
位にあること二十余年、窮極満盛、威は内外に行われ、百官は目をそむけ命令に背くことはなく、天子は己をつつしみ親豫するものがいなかった。
帝はこれに不平をいだいていた。
後に怒り梁冀を誅殺し、その親族を老幼を問わずに皆棄市(処刑)した。
また梁冀の関係者の公卿、列校、刺史、二千石で死んだものは数十人、故吏(梁冀の役人)(梁冀の)賓客で罷免された者三百余人、このため朝廷に人がいなくなった。
梁冀の財産は三十余萬を没収し、王府を満たし、それにより天下の租税の半分を減額した。

【14.梁冀跋扈】
晋書にいう。
周嵩あざなは仲智、兄は周顗あざなは伯仁、汝南安成の人である。
中興のとき、周顗等は並んで貴位にのぼった。
冬至に酒宴をひらいたことがあった。
母が觴さかずきを挙げて三人の子(周顗、周嵩、周謨)に言った。
「私が長江を渡ったときは身を寄せるところがありませんでした。思いがけずお前達が高貴な位につき目前に並ぶとは。私は何を憂えようか」
すると周嵩が立って言った。
「おそらくは仰るようにはならないでしょう。伯仁は志は大きいが才は短く、名は高いですが見識は暗い。そして好んで人の過失に乗じます。身を全うする事はかないますまい。私も坑直な性格で、世にいれられません。ただ阿奴は平凡ですから母上のお側におりましょう」
阿奴とは周嵩の弟の周謨の幼名である。
後に周顗・周嵩は王敦に殺害された。
周謨は侍中・護軍を歴任した。
世説新語には坑直を狼抗としてある。
晋書周顗伝に處仲は剛腹強忍、狼抗にして上(主君)をないがしろにするとある。
處仲とは王敦のあざなである。
後漢の梁冀あざなを伯卓、褒親愍侯竦の曾孫である。
人となりは鳶肩豺目(いかり肩でたて眼)、眼光鋭く、言葉はどもっていた。
大将軍を拝命した。
侈暴はいよいよ酷くなった。
冲帝が崩御すると、梁冀は質帝を擁立した。
(質帝は)幼いながらも聡明で梁冀が驕慢で横暴なのを知った。
群臣を朝見し、梁冀を指して言った。
「これは跋扈将軍である」
これを聞いた梁冀は深くにくみ、ついには帝を鴆殺(毒殺)し、桓帝を擁立して、太尉の李固、杜喬を枉害(無実の罪を着せて殺害)した。
海内はなげきおそれた。
四方の徴発、歳時の貢物は、まず一番の上物を梁冀のところに運び、皇帝には次の品をまわした。
一門前後、七人が侯に封じられ、皇后が三人、貴人が六人、将軍が二人いた。
位にあること二十余年、窮極満盛、威は内外に行われ、百官は目をそむけ命令に背くことはなく、天子は己をつつしみ親豫するものがいなかった。
帝はこれに不平をいだいていた。
後に怒り梁冀を誅殺し、その親族を老幼を問わずに皆棄市(処刑)した。
また梁冀の関係者の公卿、列校、刺史、二千石で死んだものは数十人、故吏(梁冀の役人)(梁冀の)賓客で罷免された者三百余人、このため朝廷に人がいなくなった。
梁冀の財産は三十余萬を没収し、王府を満たし、それにより天下の租税の半分を減額した。

【15.郗超髯参】
晋書(しんじょ=書名)に超(ちちょう)またの名を景興(けいきょう)。
総理大臣鑑(かん)の孫だ。
若いときから非常に優れて非凡で、世にも珍しい器量があった。
しっかりと筋の通った話をした。
大将軍・桓温(かんおん=人名)は、参謀として召しかかえた。
温は才気が優れていて人を召し抱えることはめったになかった。
超と話すといつも才能は測りしれないと言った。
そうして誠意を尽くしてうやうやしくもてなした。
超もまた深く自分から心をかよわせた。
当時王珣(おうじゅん=人名)が温の秘書になった。
彼もまた温に重用された。
役所では「髯(ひげ)の参謀と背の低い秘書が大将軍を喜ばすことも怒らすこともできる。」と言われた。
超は髯があり、珣は背が低いためである。

【16.王珣短簿】
晋(しん=四世紀頃の中国の王朝)の王珣(おうじゅん=人名)またの名は元琳(げんりん)。
宰相(さいしょう)導(どう=王導=人名)の孫だ。二十歳で謝玄(しゃげん=人名)とともに温(おん=桓温=人名)の秘書になった。
温はある時こう言った。
「謝玄は四十歳できっと将軍になるだろう。
王珣は当然若くして最高の官位に就くだろう。
二人ともすばらしい才能だ。」と。
武帝の時に行政事務次官になった。
文官の人事をつかさどった。
皇帝は書物を好み、学問の才能で親しくされた。
人が大きな筆の椽(たるき)のようなのをくれる夢を見た。目が覚めてから人にこう語った。「これは重大な文章を書く仕事があるかもしれない。」と。
間もなく皇帝が亡くなった。弔辞・追悼文は全て王珣が原稿を作った。
玄(=謝玄)またの名は幼度(ようど)。若い時から才能が優れていた。
叔父(おじ)の謝安(しゃあん)に才能を認められて大事にされた。
安(あん)はある時子や甥を戒めて、こう言った。
「家族だからといってひとの事はどうしようもない。でも私はそれを立派にしたい。」と。
誰も何も言う者はなかった。
謝玄が答えて言うには、「たとえば立派な草木を庭に生やすように、朝廷で活躍するような立派な人物になってほしいとのことですね。」と。
謝安はよろこんだ。当時符堅(ふけん=人名)が攻め込んできた。
朝廷は北方を守る文武の良将を求めた。
謝安はそこで謝玄を推挙した。将軍に昇進した。前鋒都督(ぜんぽうととく)という役職をつとめた。
従弟(いとこ)の輔国将軍(ほこくしょうぐん=役職名)(えん=人名)とともに肥水(ひすい=中国南東部の川の名)の南で決戦をした。
符堅(ふけん)の軍勢は甲(かぶと)を棄(す)てて夜逃げした。
うわさを聞いて、皆王者の軍隊が来たと思った。
昇進して前将軍(ぜんしょうぐん)と言われた。

【17.伏波標柱】
後漢の馬援あざなは文淵、扶風茂陵の人である。
若いころから大志をいだいていた。
かつて賓客に言った。
「丈夫、志をなす。窮してはますます堅く、老いてはますます壮んになるべきだ」
建武年間に虎賁中郎将を歴て、(光武帝に)しばしば引見された。
人なりは鬚髪明らかで、眉目は絵に描いたようで、進対の礼も見事であった。
また兵策を善くした。
帝はいつも言っていた。
「伏波が語る兵略は、私の意見と同じだ」
なので馬援に謀があれば用いられない事は無かった。
後に交趾の女子徴側等が反乱し、蛮夷は皆応じた。
馬援は伏波将軍を拝命し、これを撃ち破り、新息侯に封ぜられた。
馬援は牛を潰し、酒をこして軍士を慰労した。
楼船の戦士を率いて進軍し残党を撃ち、嶠南をことごとく平定した。
野地にまた武陵五渓の蛮夷を撃ちたいとねがった。
この時六十二歳だった。
帝は老齢である事を愍れんだ。
馬援は言った。
「私はまだまだ甲を被り馬に乗れます」
帝をこれを試した。
馬援は鞍によってふりかえり、まだ役に立つ事を示した。
帝は笑って言った。
「矍鑠たるかなこの翁」
ついに馬援を遣わして征伐させた。
進軍して壺頭に宿営した。
暑さが甚だしく病気になって陣没した。
廣州記にいう。
馬援は交趾に至り、銅の柱を立てて漢の極界とした。
前漢の張騫は漢中の人である。
建元年間に郎となった。
武帝は胡を滅ぼしたいと思い、使者となる者を募った。
張騫は応じ月氏に使者として赴く途中、匈奴にとらわれ十余年になったが、漢の節を持って失わなかった。
従者と共に脱出し月氏へ向かった。
後に(帰路にまたとらわれた匈奴から)逃げ帰り、太中大夫を拝命した。
彼がみずから訪れたのは、大宛、大月氏大夏、康居で、その近隣の五,六カ国は伝え聞いたもので、天子のためにその地形のあるところを報告した。
元朔年間に校尉として大将軍(衛青)の匈奴討伐に従い、水草のあるところを知っていたので軍では食料が欠乏することがなかった。
(その功績をもって)博望侯に封ぜられた。
賛にいう。
禹本紀(史記ではない)に言う。
河は崑崙に源泉がある。
崑崙は高きこと二千五百余里、太陽と月は互いに避け隠れて光明を為すところである。と。
張騫が大夏に使者として赴いてから、河の源泉がわかった。
そうして崑崙なんてものをみた者がいたのか。と。
旧注に言う。
支機石を持ち帰ったと。
出典は不明である。

【18.博望尋河】
後漢の馬援あざなは文淵、扶風茂陵の人である。
若いころから大志をいだいていた。
かつて賓客に言った。
「丈夫、志をなす。窮してはますます堅く、老いてはますます壮んになるべきだ」
建武年間に虎賁中郎将を歴て、(光武帝に)しばしば引見された。
人なりは鬚髪明らかで、眉目は絵に描いたようで、進対の礼も見事であった。
また兵策を善くした。
帝はいつも言っていた。
「伏波が語る兵略は、私の意見と同じだ」
なので馬援に謀があれば用いられない事は無かった。
後に交趾の女子徴側等が反乱し、蛮夷は皆応じた。
馬援は伏波将軍を拝命し、これを撃ち破り、新息侯に封ぜられた。
馬援は牛を潰し、酒をこして軍士を慰労した。
楼船の戦士を率いて進軍し残党を撃ち、嶠南をことごとく平定した。
野地にまた武陵五渓の蛮夷を撃ちたいとねがった。
この時六十二歳だった。
帝は老齢である事を愍れんだ。
馬援は言った。
「私はまだまだ甲を被り馬に乗れます」
帝をこれを試した。
馬援は鞍によってふりかえり、まだ役に立つ事を示した。
帝は笑って言った。
「矍鑠たるかなこの翁」
ついに馬援を遣わして征伐させた。
進軍して壺頭に宿営した。
暑さが甚だしく病気になって陣没した。
廣州記にいう。
馬援は交趾に至り、銅の柱を立てて漢の極界とした。
前漢の張騫は漢中の人である。
建元年間に郎となった。
武帝は胡を滅ぼしたいと思い、使者となる者を募った。
張騫は応じ月氏に使者として赴く途中、匈奴にとらわれ十余年になったが、漢の節を持って失わなかった。
従者と共に脱出し月氏へ向かった。
後に(帰路にまたとらわれた匈奴から)逃げ帰り、太中大夫を拝命した。
彼がみずから訪れたのは、大宛、大月氏大夏、康居で、その近隣の五,六カ国は伝え聞いたもので、天子のためにその地形のあるところを報告した。
元朔年間に校尉として大将軍(衛青)の匈奴討伐に従い、水草のあるところを知っていたので軍では食料が欠乏することがなかった。
(その功績をもって)博望侯に封ぜられた。
賛にいう。
禹本紀(史記ではない)に言う。
河は崑崙に源泉がある。
崑崙は高きこと二千五百余里、太陽と月は互いに避け隠れて光明を為すところである。と。
張騫が大夏に使者として赴いてから、河の源泉がわかった。
そうして崑崙なんてものをみた者がいたのか。と。
旧注に言う。
支機石を持ち帰ったと。
出典は不明である。

【19.李陵初詩】
前漢の李陵あざなは少卿、前将軍李廣の孫である。
わかくして侍中建章監となった。
騎射が得意で人を愛し、謙遜して士にへりくだり、高い名声を得た。
武帝も李廣の風があるとして、騎都尉に任命した。
天漢二年、歩卒五千を率いて匈奴遠征に行った。
敗戦し、ついには匈奴に降服した。
はじめ李陵は蘇武ともに侍中だった。
蘇武が匈奴に使者として赴き翌年李陵は降服した。
後に昭帝が即位して匈奴と和親した。
蘇武は漢へ帰還できることになった。
李陵は詩をつくって送別した。
携手上河梁
游子暮何之
徘徊蹊路側
恨恨不得辭
晨風鳴北林
熠燿東南飛
浮雲日千里
安知我心悲
蘇武の李陵と別れる詩(李陵にかえした詩)
雙鳬倶北飛
一鳬獨南翔
子當留斯館
我當歸故鄕
一別如秦胡
會見何渠央
愴恨切中懐
不覺涙霑裳
願子長努力
言笑莫相忘
五言詩はこれからはじまった。
前漢の田横は狄の人で、もとの斉王田氏の一族である。
秦の末に自立して斉王となった。
漢将の灌嬰は田横の軍を破り、斉の地を平定した。
田横は誅殺されることを懼れ配下と共に海上の島へ逃れた。
高帝(劉邦)が田横を召した。
だから食客二人と傳に乗って洛陽にいたり、使者に謝して言った。
「私ははじめ漢王とともに南面して孤と称していました(王位にありました)。今王は天子となり、私は亡虜となって、その愧すでにはなはだしい」と。
自ら首を刎ね食客にその首を奉じ上奏させた。
高帝は田横のために涙を流し、王の礼で彼を葬り、二人の食客を都尉に任命した。
田横が葬られると、二人の食客は墓の側に穴を掘って自ら首を刎ねた。
田横の与党五百人はいまだ海上の島にいた。
田横が死んだことを聞くと皆自殺した。
李周翰(唐の時代の学者)が(「文選」の注で)いう。
田横が自殺した。
従者は敢えて哭しなかったが、哀しみは深かった。
だから悲しみの歌をつくって情を寄せた。
後にこれを広めて薤露蒿里の歌として葬送の歌とした。
李延年の時になって二つに分け、薤露は王侯貴人を送り、蒿里は士大夫庶人を送る。
棺を引く者がこれを歌う。
だからこの歌のことを挽歌というのである。

【20.田横感歌】
前漢の李陵あざなは少卿、前将軍李廣の孫である。
わかくして侍中建章監となった。
騎射が得意で人を愛し、謙遜して士にへりくだり、高い名声を得た。
武帝も李廣の風があるとして、騎都尉に任命した。
天漢二年、歩卒五千を率いて匈奴遠征に行った。
敗戦し、ついには匈奴に降服した。
はじめ李陵は蘇武ともに侍中だった。
蘇武が匈奴に使者として赴き翌年李陵は降服した。
後に昭帝が即位して匈奴と和親した。
蘇武は漢へ帰還できることになった。
李陵は詩をつくって送別した。
携手上河梁
游子暮何之
徘徊蹊路側
恨恨不得辭
晨風鳴北林
熠燿東南飛
浮雲日千里
安知我心悲
蘇武の李陵と別れる詩(李陵にかえした詩)
雙鳬倶北飛
一鳬獨南翔
子當留斯館
我當歸故鄕
一別如秦胡
會見何渠央
愴恨切中懐
不覺涙霑裳
願子長努力
言笑莫相忘
五言詩はこれからはじまった。
前漢の田横は狄の人で、もとの斉王田氏の一族である。
秦の末に自立して斉王となった。
漢将の灌嬰は田横の軍を破り、斉の地を平定した。
田横は誅殺されることを懼れ配下と共に海上の島へ逃れた。
高帝(劉邦)が田横を召した。
だから食客二人と傳に乗って洛陽にいたり、使者に謝して言った。
「私ははじめ漢王とともに南面して孤と称していました(王位にありました)。今王は天子となり、私は亡虜となって、その愧すでにはなはだしい」と。
自ら首を刎ね食客にその首を奉じ上奏させた。
高帝は田横のために涙を流し、王の礼で彼を葬り、二人の食客を都尉に任命した。
田横が葬られると、二人の食客は墓の側に穴を掘って自ら首を刎ねた。
田横の与党五百人はいまだ海上の島にいた。
田横が死んだことを聞くと皆自殺した。
李周翰(唐の時代の学者)が(「文選」の注で)いう。
田横が自殺した。
従者は敢えて哭しなかったが、哀しみは深かった。
だから悲しみの歌をつくって情を寄せた。
後にこれを広めて薤露蒿里の歌として葬送の歌とした。
李延年の時になって二つに分け、薤露は王侯貴人を送り、蒿里は士大夫庶人を送る。
棺を引く者がこれを歌う。
だからこの歌のことを挽歌というのである。

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