知命立命 心地よい風景

This is Kiyonori Shutou's weblog

水雲問答より学ぶ!治道心術にて国を治める方法!

肥前平戸の名君松浦静山侯の江戸時代後期を代表する随筆集『甲子夜話』の巻三十九に輯録されている『水雲問答』。
これは、上州安中の殿様板倉伊予守勝尚侯(卓山)=白雲山人とその師の幕府大学頭・林述斎(=墨水漁翁)との間の往復文書・問答集でして、”治道心術”として国を治める方法を説いたものです。
※)甲子夜話自体も、機会があれば整理してみたいと考えています。
この林述斎は、かの『言志四録』を著した儒学者佐藤一斎の学友でした。
林述斎が亡くなると佐藤一斎がそのあとを継いで幕府の大学頭になり、全国に多くの門弟子を養成した佐久間象山山田方谷などは皆一斎の弟子。
佐久間象山の門弟には、吉田松陰をはじめ、小林虎三郎勝海舟河井継之助橋本左内、岡見清煕、加藤弘之坂本龍馬など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えています。
つまり、元をただせば幕末維新の原動力は、この白雲山人と墨水漁翁の『水雲問答』にあるといっても過言ではないのです。

まずは、『水雲問答』に出てくる「五寒」という言葉です。
これは、前漢の劉向という学者が、国家が滅びる徴候には五つのこと「五寒」があるとしているものです。
・一に曰く、政外る(政治のピントが外れる。やっていること、議論のポイントが外れてくる)。
・二に曰く、女厲し。(女が荒々しい、出しゃばる)
・三に曰く、謀泄る(国家の機密が漏洩するようになる)。
・四に曰く、卿士を敬せずして政事敗る(識見・教養のある者を大事にしないで、無責任な政治をやるようになる)。
・五に曰く、内を治むる能わずして而して外に務む(国内をきちんと治めることができないので、国民の注意を外にばかり向けるようになる)。
こういう現象が現れるようになるとロクなことはない、何事にも初めにどう決着を付けるかを決めておくことが大切だ、ということなのです。
二を除いては、まさに今の日本そのもののように感じられます。

この問答については、非常に心術・識見が高いものですが、碩学・安岡氏は、ここで言うところの識見の「識」は三つあると説いています。
一つ目は「知識」:雑識と言って一番つまらんものであまり値打ちがない。
二つ目は「見識」:見識が無ければ語るに足らず、見識があってもその人が臆病あるいは狡猾で軽薄であるとその見識は何の役にもたたない。
三つ目は「胆識」:いかなる抵抗があってもいかなる困難に臨んでも確信・徹見するところを敢然とし断行し得るような実行力・度胸を伴った知識・見識のこと。
要は、人はこの「胆識」があって初めて本物の人間本当の知識人であるということです。
自己修養を行うことは、将来のあなた自身の人格向上と識見を磨くことになります。
こうした先哲が説いた言葉の数々を元に、精錬練磨を行って参りましょう。

参考までに、そんな『水雲問答』の一部をご抜粋しておきます。
構成としては対話形式になっていることから、以下にある<雲>は白雲山人からの問いかけ、<水>は墨水漁翁からの答え、返答の形式となっています。

【人君の治術について】
<雲>治国の術は、人心を服しそうろうこと、急務と存じ候。人心服さねば、良法美意も行われ申さざらん。施しと寛容にあらざれば、人心は服し申さずなり。人心の服し申し候の肝要の御論、伺いたく候。英明(頭脳明晰)の主に、とかく人心の服さぬもの、いかがのことに候や伺いたく候。
<水>施しに過ぎたるときは濫賞の弊害あり。寛容に過ぎたるときは、また縦弛(規律がゆるむ)の弊害が有りそうろう。これなどをもって人心を得たるそうろうは、最も末なる者にそうろう。我が徳義は自ずから人を蒸化(心服させ)そうろう処が有りそうらえば、人心は服しそうろうものと存じそうろう。英明の主に人の服し申さぬは、権略に片寄りそうろうより、人はそのする所を詐欺かと思いそうろうゆえに候。蕩然たる徳が意内(気心)にみちて外に現れる時がある者に、誰か服せずして有るべきや。
施しもすまじきには非ず。人君(君主)の吝なるは至りての失徳にそうろう。寛容も捨てるべからず、苛酷納鎖の君は下々堪えがたきものに候。

<雲>一国を治めるには、人々の心を服させる、納得させることが非常に大事だと思います。
人々の心を心服させないと、どんなによい法律をつくっても、どんなに美しい気持で人民に臨んでも、現実には立派な政治は行われません。為政者には施(賞をやるなどして、人々を納得させ満足させること)と寛(寛容・寛大な気持)がなければ人々の心は満足し、納得しないものです。
そこで人々を心服させるにはどうすればよいか、肝腎のところをお聞きしたい。それから、名君といわれる人には、どうも人心が服さないと言われますが、これについてはどう思われますか。
<水>人々を満足させるために、むやみに賞などを濫発するのはよくありません。また寛大すぎると、規律がゆるんで万事だらしなくなるという弊害があります。このように人民や部下に褒美を与えてご機嫌をとったり、失敗を大目に見て人心を得ようとするのは、そもそも本筋から外れたことです。
上に立つ人は自らの徳と日頃の行いが大事であり、それによりご機嫌などとらなくても自然に人々を感化していくというやり方であれば、人々は自ずから心服するものです。
それから、いわゆる名君と言われる頭のいいトップに人々が心服しないのは、頭のいい人というのは、とかく計略、手練、手管に頼りがちなので、人々は一杯はめられるのではないかと警戒して信用しないからです。
スケールが大きくて、屈託がなくゆったりとして、身体の内部に何ともいえない温かい徳が満ちて、その人徳が外に現れているような人に、どうして心服しない人がありましょうか。
それはそれとして、賞を与えるのも程度と方法によってはけっこうですが、国を治める人がケチはのは困ったことです。寛大であるのはやはり大事なことです。
上の人が何かにつけて重箱の隅をほじくるように細かいところに立ち入るのは、下の人にとって堪えられないことです。

【白雲山人が問う条、以下これに倣う】
<雲>経国(国家の経営)の術は、権略(権謀)も時として無くば叶わざることに存じ候。あまり純粋に過ぎ候ては、人の心は服さぬこともこのように有ること存じ被り候。さりとて権略ばかりにても正しいことを失い申し候間、権略をもって正しいことに帰する工夫、今日の上(幕府)にては肝要かと存じ候。
<水>権(権力)は人事の欠くべからざる事にして、経(経営)と対言(対の言葉)し仕り候。天秤の分銅(重り)を、あちらこちらと、ちょうど軽重(バランス)にかない候所に据え候より字義を取り候事にて、もとより正しきことに候。仰せ聞き候所は謀り士の権変にして、道の権には非ず候。程子(ていし:中国の儒学者)権を説き候こと、『近思録』にも抄出(抜き書き)してあり、とくと御玩味(熟読)そうろうよう存じ候。

【命を知る】
<雲>時を知り、命を知るは君子帰宿の処。
万事ここに止り申候。
一部の易、此二ヶ条に止り魯論にも、これを知るを以て君子と之れ有り。
時を知るは、外のことにも之れ無く、為すべき時は、図をはずさず、為すまじき時にせぬのみに候。
命を知るは、その味広遠のことにて、説破に及びかね申候。
兎角古今身を危うくし、国を滅ぼし申候も、君子の禍に及び申すも、この二字に通ぜざる故と存候。
実は真の君子にあらぬ故に候。
英豪却って此の二条に通じ候故、一時に事を起し申候ことと存候。
<水>公論と存候。
英豪は道理を知らず、己の才気より存候。
君子は、義理には心得候えども、多く才気足らざるより見損じ申候。
因って彼の豪傑の資、聖賢の学と申す二つを兼ねざれば、大事業を成就仕らぬ事と存候。

【武の備えについて】
<雲>季世(末世)にいたりて武の備え怠らざる仕法はいかが仕るべきや。甚だ難しきやに存じ候。
<水>太平に武を備うるはいかにも難しきことに候。愚意には真理をしばらくおき、まず形より入りそうろう方が近道と存じ候。まず武具の用意をあつくして、いつにても間に合い候ように仕る。そのわけは火事羽織をもの好きにて製作し候時は、火事を待ちて出たき心に成り候が人情にそうろう。武具が備われば、ひと働き致したく思うも自然の情と存じ候。さて武伎(武術)も今様どうりにては参らず候。弓鉄は生き物の猟をもっぱらとし、馬は遠馬、打毬(ポロ)などよろしく、刀槍は五間七間(9m×13mの広さ)の稽古場にて息のきれそ候類い、何の用にも立ち申さぬ候。広い芝原などにて革刀の長試合、入り身など息合(気合)を丈夫に致し候こと専要(大切)と存じ候。これなどより漸々と実理に導き候外は、治世武備の実用は整い申すまじくと存じ候。

【治国の術は多事多忙】
<雲>およそ治国の術は多端(多事多忙)、その緊要(非常に重要)は人を知るの一件に帰し申しそうろうことと存じそうろう。人を知るの難しきは堯舜(ぎょうしゅん:二人の中国の帝王)の難しきとする所にして、常人の及ばざることながら、治国の秉政(政治を司る)の上にてはこの工夫専一(第一)と存じそうろう。
もっとも朱文(朱熹朱子学の祖)公の、人に陰陽ありの論は感服仕りそうろう。なにぞ確かなるご工夫そうらわば伺いたくそうろう。いずれ活物(生きた論)は常理(道理)をもって推(推進)されまじくと存じそうろう。
<水>このことは実事(実際)中の最大事、最難事にそうろう。惟聖難諸と申すより、世々の賢者が皆手をとりそうろうこと別に才法あるべきとも申しきせず候。
 陰陽(朱子学)は先手近くそうらわば、これまで効験(効果)多くそうらえども、大姦(悪賢い)に至りそうろうては、陰を内とし陽を外にして人を欺き候ことと往々にこれ有り、陰陽も一図に関わりそうろうて手を突き申しそうろう。
 すべて古人の訓言は、大筋をば、よく申したるものにそうらえども、細密枝葉、変の極に至りそうろうては、説破(説き伏せる)もおよび難きの義(条理)多くそうろう。
つまりのところ見る人の高下(高低)により申すべきや。山水を見るも、その人の品格の高下に従いそうろうこと、羅鶴林(沙羅双樹の林:釈迦の入滅)風流三昧の論にそうらえども、人もその通り多かるべく候。
 この方の下の者は随分見通し申すべくそうろう。上段になりそうろうと、見損じ申しそうろう。見る人の見当尺に善し悪しの論も立ち申すべき、とても我が分量の外の事業は出来申さぬもの。人知りとても同一様事たるべくそうろう。
 しかれども謙譲しては大事は出来申さぬものゆえ、我より上段の人とても、平等に監破の心得はなくて叶わなきことかと存じそうろう。
 これは大難問にて何とも別(ほか)に申すべきようもこれ無くそうろう。

【『周易』を知る】
<雲>『周易』は熱読し仕りそうろう所、大いに処世の妙これに有りやに存じそうろう。『易』(儒教的な解釈)を知らざれば季世(末世)には処し難しと存じそうろう。
<水>『易』は季世の書とは申し難し。盛世季運(堯と舜の二帝と李孚の運)いずれの時とても、天人の道『易』に外れそうろうことはこれ無しにそうろう。まず「程伝」にて天と人との同一道理をとくと考え給うべし。
以上のご質問、あらかた答え申しそうろう。大分とおん尋ね方、力が相見え、はなはだ珍重仕りそうろう。読書が空言(空論)の為ならずして、実践の方に深く習いそうろうの徴が相見え申しそうろう。折角ご勉励の程、お祝いいたしそうろう。

【歴代の宰相】
<雲>歴代の宰相のうち、唐の李鄴(曹操に仕えた李孚)公の事業、誠実にして知略あり。進退の正を得たるところ甚だ欣慕(喜び慕う)仕りそうろう。
李世の宰相は鄴公の如くになくば禍いを得申しそうろうて、しかも国家の軍を敗り申しそうろうことと存じそうろう。『鄴公家伝』と申す書は今は有りそうろうや伺いそうろう。
<水>鄴公の論は同意にそうろう。この人は一つとして誹るべきなし。ただ陸宣公(中国の唐の宰相)と時を同じくして、ついに宣公を用いざること疑いの一つにそうろう。古人の論もこれに有りやに覚えそうろう。されば今も昔も同じことにて、そのときの模様、のちの評と遥かに違いたることも多かるべし。やむを得ざる次第もこれに有るや。『家伝』は亡き書と聞こえ申しそうろう。

【一才一能の人材】
<雲>人材の賢なるものは委任して宜しくそうらえども、その他の才ある者、あるいは進めてあるいは退けて、駕御鼓舞するの術ありて人を用いざれば、中興(復興)することは能わざることと存じそうろう。時によりて張湯(長安の役人)、桑弘羊(武帝に貢献した)も用いずして叶わぬことも有るべからずに存じそうろう。
<水>一才一能(一つの事に秀れた者)はもとより捨てるべからず。駕御その道をする時は、張桑(張湯も桑弘羊も)用いるべきは勿論にそうろう。しかれども我に駕馭仕おおせたり(私にお申し付け下さい)と存じそうろうにて、いつか欺誑しを受けそうろうこと昔より少なからず候間(少なくないので)、小人の(小賢しい)才ある者を用いそうろうは、我が手に覚えなくては、みだりには許しがたくそうろう。

【人を知りて委任】
<雲>徳義(過ぎた施し)の弊害は述情(情け)におちいり、英明の弊害は叢脞(煩わしい)に成り申しそうろう。人君は人を知り委任して、名実(評判と実際)を綜覈(総て吟味)して、督責(厳しく監督)して励ますよりほか、治世の治術はこれ有るまじくと存じそうろう。
<水>名実綜覈(評判と実際を総て吟味)し、人を知りて委任するの論、誠に余薀(余すところ)なく覚え珍重(妙案)に存じそうろう。

【国家の災い】
<雲>国家の災いは君主の私欲から、大臣たちの私心から、また下僚たちが私党・派閥を組むことから起こるものです。
その根本原因は、公の国家を忘れて、私に惹かれることにあります。そこで公儀を立てることを提唱します。部分でなく全体を、私でなく公をすべてにつけて優先する。
主君と家臣がこの点でぴったりと意思を一致させて政治に取り組めば、国家が治まらないことはないと思います。
<水>公儀についてのご意見、もっともです。しかし、今のエリートたちを見ていると、彼らが公としているところにまた大小、軽重の違いがあります。人物・品格の高い人と低い人では、考えている公の段階が違うのです。
今の時代にも公はありますが、その公とするところが、いざ自分のことになると、みんな器量が小さくて、問題が大きくなると、いつの間にか公が私に変化してしまうのです。
結局、人物の器量が小さくてケチであっては、何ごともうまくいかないのです。器量の大きな人物が、国がいかにあるべきかを明らかにすれば千年に渡る太平の時代でも見通すことができます。
せめて公私の区別をはっきり分けて考えることができる人材がほしい。それさえわきまえることができない人々が、天下国家を議論できるものではない。
しかし、そういう人間に限って、突き詰めると自分のことを考えているのに、自分は公の仕事をやっていると思い込んでいる人ばかりなのです。

【悪知恵にたけた者】
<雲>悪知恵にたけた者が悪事を働き、君子を騙すことがよくあります。
君子は騙されても、悪い奴らの策略は巧妙なので気づきません。それならば、君子が逆に、悪い奴らの悪知恵の上をいく策略をめぐらして、彼らを騙し、善行を行わせることができれば、その利益は非常に大きいと思います。
<水>その考えはいけません。元来、君子と小人は白と黒、よい香りと悪臭のように相反するもので、どんなに手を尽くしてもうまくいくものではありません。
君子が小人を逆に騙して、善事をなそうとするのは、君子でありながら小人の手練手管を使うことになり、その時点で物事に対処する心のありようが正しさを失っていることになります。
ですから、たとえ一時的には成功したとしても、いつまでも通用する正道ではありません。

【英雄豪傑】
<雲>英雄豪傑、一旦は事を済し申候えども、終に敗れ申候。
<水>その原は不学に出ず。

<雲>英雄豪傑は、一度は成功しますが、最後の段階で失敗することが多いのはなぜですか。
<水>その原因は学ばないからです。

<雲>治国の果は慰みにてはこれ無く。
<水>その語病あり。

<雲>一人の存念より万人の苦楽に相成申す間、右の処とくと相考え、事を済し申すも、仕損じ候時の跡の取りしまりを付置申候ことと存候。俗に申候、尻のつつまらぬと申様にては相成らざることに候。
漢武の事を済し申候ことなど、後来に至り取治め宜しく、社稷の為を仕候ゆえ、愛するところの鉤弋をも殺し申候。
跡のしまりなく大事を企て申候ては、却って国の害を生じ申すべく存候。
<水>天下の事は、始有りて終り無きもの多し。
結局を其の始に定むること最も要緊と為す。

【人の出会い】
<雲>人は今の出会いを空しく過ごしてはなりません。
一生は帰ることのない旅のようなもので、そのうちになどと思っていると、山水のすばらしい景色も、二度と訪ねることはむずかしいものです。
当面する苦労などは忘れて、いまのうちに手柄を立てて名声を残すべきです。そうしないと、再びあのすばらしい景色の地を訪ねないうちに、中途半端なままで一生を終えてしまいます。
<水>手柄を立てて名を残そうというのは、功利的な考え方で、真の道理ではありません。漢の武帝の名臣・董仲舒はこう言っています。
「利益を得たり、成功者になることが大事なのではない。人間として大事なのは、いかにすることが正しい法則か、正しい道かを明らかにすることである」と。
この言葉をよく考えてください。何ごともその場限りでやりっぱなしにしないで、じっくりと一つの問題を成し遂げなければなりません。
また、機会があればなどと思っているうちに、中途で生涯を終えてしまうという説はもっともで、今も昔も人々の犯しやすい誤りです。
チャンスを逃さぬように心がけていないと、それで終わってしまいます。そのうちになどと空しい期待を抱いてはいけないという戒めです。

【大丈夫の志】
<雲>古今を考え候に、凡そ功をなし得る迄は苦るしみ、功すでに成って楽に赴かんとするとき、諸事背違して 心に任せぬことのみ多きやに存候。
謝安の桓温が在あるとき全からざるを憂い、符秦の大兵を退く迄は其の心中深察すべし。
大難既にやみ、功成り名遂げて琅邪の讒始めて行わる。
裴度が淮西を平げて後、憲宗の眷衰えたるも同じ事に候。
故に大丈夫直に進む大好事を鋭くなし得べし。
とても前後始終を量って何事もでき申す間じく候。
一時の愉快を一世に残さんこと、これ予が志なり。
如何如何。
<水>男子と生まるる者誰か此願かるべき。
然れども其位と時を得ざれば、
袖手して空しく一生を過ごすのみに候。
閣下閥閲、時世至れば謝裴が業を成し得べし。
凡そ青年は志鋭にして、中年に至りて挫催
し易く候。
今より後此の条を念々忘れ給うべからず。

【勤むるに成りて、怠るに敗るる】
<雲>人生は勤むるに成りて、怠るに敗るるは申す
までも之れ無く候えども。
勤むるは善きと知りながら、怠り易き者に之有り候。
且つ識ればいつにてもできると怠り申す類毎に之有り。
天下一日万機に候まま、日新の徳ならでかなわざることに候。
小人の志を得申候も、多くは此処より出申候。
力むれば能く貧に勝つと申す古語、おもしろきやに存じ申候。 聊かの事ながら大事に存候。
<水>いつも出来るとて為さば、学人の通幣多きものに候。
小人栖々として勤め、それが為に苦しめられ候こと、昔も今も同様に候。
鶏鳴にして起き、じじとして善をなすは切近のことに候得ども、余り手近過ぎて知れたることよとて、空しく光陰を送リ候こと、我人共に警むべきの第一たるは勿論に候。
貴人尚更勤めぬ者に候。
此くの如き御工夫面白く存候。

【跡あるべからず】
<雲>大事をなし出すものは必ず跡あるべからず。
跡あるときは、禍必ず生ず。
跡なき工夫如何。
功名を喜ぶの心なくしてなし得べし。
<水>是も亦是なり。
功名を喜ぶの心なきは、学問の工夫を積まざれば出まじ。
周公の事業さえ男児分涯のこととする程の量にて始めて跡なきようにやるべし。
然らざれば跡なきの工夫、黄老清浄の道の如くなりて、真の道となるまじ。
細思商量。

【内冑を見せて懸れ】
<雲>凡そ人は余り疑い申候ては、ことをなし得申さず。
疑うべきものを疑い、あとは豁然たるべく候。
尤も疑いというものは、量の狭きから起り申候。
それに我が心中を人の存知候ことを厭い申候は俗人の情に候。それ故隔意ばかり出来、事を敗り申候。
それ事を了するものは、赤心を人の腹中に置き、内冑を見せて懸かり申すべきことと存候。
<水>人を疑いて容るること能わざること、我が心事を人の知らぬように掩い隠して、深遠なることのように心得るは、皆小人の小智より出ること云うに及ばず候。
大丈夫の心事、常々晴天白日の如くして、事に臨むに及んでは、赤心を人の腹中に置いて、人を使うことを我が手足を使う如くすることこそ豪傑の所為ならめ。
是を学ばん、是を学ばん。

【軽率の益、精細の害】
<雲>古今の人軽率に敗るることを知って、その軽率の益多きことを知ず。
精細の益多きことを知って、しかも精細の害甚だしきことを知らず。
大事をなし出さんとする者は、謀に精細にして、行に軽率なるべし。
独り大事のみに非ず。
凡ての事斯の如し。
<水>軽率の字病あり。
濶略に易うべし。
是は今人頂門のへん針語に候。

【仕損じの跡のしまり】
<雲>英雄は事を仕損じ申候、直に仕損じ中に人を服すること往々之れ有り。
唐の太宗高麗征討の節。
不利にして帰路戦死の屍を臨み、号哭仕候などの類に候。
<水>
英雄、英雄を知るの論。
太宗の品評適。

RSS Feed

WordPress(feed) to Hatena Blog via email

IFTTT

墨子より学ぶ!一切の差別が無い博愛主義、兼愛交利!

墨子』の著者は中国春秋末期戦国時代の思想家墨翟とされ、一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した人物で、墨子として知られています。
いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られており、その思想活動の目的は、天下の飢餓や凍死から人民を救済し、諸侯の憂いを救うことにありました。

その後も墨家は「天下の顕学」として巨大な勢力を誇り続けましたが、それというのも墨家が他の学派と異なり、専守という防衛専門の形ながらも戦闘集団であったということです。
当時は儒教と並ぶほどの勢力となっていたそうですが、国の統一が進むにつれてその存在自体が不要となり、秦の時代に焚書に端を発する撲滅などで墨家は歴史上から姿を消し、その学統を継ぐ者も現れず廃れたといわれています。
一説には、墨家の特性から思想を捨てるよりも生命を捨てることを選択したのではないかと考えられているそうです。

そんな『墨子』ですが、墨家の始祖である墨翟と門人の言行録として当初は61篇でしたが、やがて8篇が亡失し、15巻53篇76,516字が現存するものとなっております。
墨子の理想主義的な思想は、兼愛、非攻、節用・節葬、尚賢・尚同、天志・明鬼、非楽・非命など、所謂「十論」で知られています。
この思想は一言で言えば博愛主義であり、「兼愛交利」とも呼ばれています。
天下の利益は平等より生まれ、不利益は差別より生じる、というものであり、孔子の説く「仁」は長子のみを特別扱いする差別であると批難し、互いの利益を尊重し平等に愛するべきであるとしました。
階級や血縁を超えて有能な人材を登用すべしという主張も、兼愛の平等主義につながるものです。
さらに形式的で豪華な礼楽や葬式についても、戦争と同様、支配階級のエゴにもとづくものであるとして、それらを廃する「非楽」や「節葬」を唱えました。

そしてもう一点、重要な思想として「非攻」があります。
兼愛にもとづき非戦を唱えた上で、口だけではなく実際に侵略を企てる国を説得したり、侵略を受ける国の防御に参加することまで行い、結果防御のための戦いはやむを得ないとした解釈です。
絶対に守り抜くという意味を表す「墨守」という言葉からもわかるように、墨家は防御戦に関する豊富な経験や知識を保持しており、その戦いぶりも優れたものであったようです。
つまり墨家集団の経済的基盤は、この能力を生かした弱小国の防衛戦請負業であったといわれています。

墨子「十論」の骨子】
・「兼愛」自他ともに愛せと教える。相手を愛するときは自分を愛するのと同じようにせよ、ということ。
・「非攻」侵略戦争を否定する超積極的平和主義。すべての攻撃を否定し、攻撃を受けた街は墨子教団が防衛するということ。
・「節用」「節葬」節約を唱える。支配層の華美を廃し、資源の浪費を避け、実用品の生産を増やし、民に行きわたらせること。
・「節葬」支配者層が富を地中に埋め、資源を浪費することを戒める。苦労して生産した富は生きているものに使うべきということ。
・「尚賢」能力主義を唱える 執政者は賢者を尊び、有能なものを任用すること。
・「尚同」主義主張が異なっているから、互いに争うため、統治者に従えと教えること。
・「天志」「明鬼」天帝や鬼神への信仰を勧める。天の意思に逆らう(支配)者には天譴があるということ。
・「明鬼」天志が支配者層への天譴を説くものであるのに対し、明鬼は個人的犯罪には必ず罰が下るという因果応報説を説くこと。
・「非楽」贅沢としての音楽を否定する。支配者層は贅沢な音楽を楽しむのを止め、生産的なことに労働力を割り振れということ。
・「非命」宿命を否定する。天から与えられる使命はあっても天に定められた運命はない。勤勉により状況は常に変えられるということ。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【尚賢上第八】
墨子曰く「諸侯や卿・大夫は誰もが国家が富裕となり、人口が増加し、治安が保たれるように願っているのに、実際はそうなっていない。その原因はなんであろうか。
この原因は、諸侯・卿・大夫が賢者を尊び、有能な者を登用することを政治方針としないからである。賢良の士が多ければ、国家の安定度は増すのである」と。
弟子曰く「賢者を増やす方法は、どのようにすればいいのでしょうか」と。
墨子曰く「統治者が弓射や戦車操縦に巧みな戦士を増やそうと願うことと全く同じである。そのような戦士に多額の俸禄を与え、地位を高くし、鄭重に尊敬し、名誉を与えようとするであろう。賢良の士も同じである。
古代の聖王は、不義の者は富まさない、地位を高くしない、親愛しない、側近にしないと宣言した。これを聞いた富貴の人々は、家に帰って相談し、義を実行しないわけにはいかないと語り合い、親族たちも国都の住民も同様に語り合ったのである。そのため王の宣言を聞くや、皆が競争して義を実行するようになったのである。その原因は何であろうか。それは為政者の人民を用いる方策が、義の一点に限定されているからである」と。
・尚賢論は「王公・大人・政を国家に為す者」のみ説得対象にしぼっています。
・賢者はつねにその国家内部の人間に限定しています。
・尚賢論でいう「賢者」とは、天賦の才能に恵まれた人材でなく、統治者の決定した価値基準に従って努力する者すべてを指します。よって墨子の論は、国家の方針に従順な良民を作るという点においては、法家思想とつながるものがあります。

古代の聖人は能力ある人物を臣下の列に加えて、賢者を尊びました。たとえ農耕や工業・商業に従事する人々であっても抜擢しました。登用すると、高い爵位を与え、多額の俸給を与えました。
爵位・俸禄・官職発布の三者を賢者に授けるのは、個人に贈与しようとするためではなく、あくまで彼が委任された事業が成功するよう願うからなのです。だから賢者の任用に際しては、能力の程度に応じて選び、いつまでも高い地位に居座りつづけることはなく、また終生低い身分に留まり続けることがないようにしました。
古代にあっては、堯は服沢の北に埋もれていた舜を見つけ出し、禹は陰方の地にくすぶっていた益を抜擢し、湯は伊尹を料理番の身分から拾い上げ、文王は猟師や漁師の閎夭と泰顚を登用しました。したがって古代聖人の時代には、高位高官の臣下であっても、任務の遂行に心血を注ぎ、失敗して解任される事態をおそれて、義に移らない者はいませんでした。
・価値基準が統一され、日常生活の末端まで統制した社会が実現すれば、国家は富み、人口が増え、治安が保たれると論を発展させます。
儒家は賢者みずからが直接労働に従事しないとしていますが、墨子は末端の庶民からの積み上げを必要とします。そのため墨子は卑近に過ぎる一方、儒家のややもすれば賢者が治めさえすれば万事うまく運ぶという抽象的な理論に陥る危険性から逃れています。

【尚同上 第十一】
墨子曰く「太古の時代、人民は各人それぞれの義を正しい道として考えていたので、天下は乱れ、まるで野獣の世界のようであった。そこで世界中から賢者を選び出し、その人物を天子に立てたのである。天子を立てたが自分ひとりの力だけでは不足と考え、三公を選び出し、また諸侯を封建し、郷長や里長に任命した。
天子は人民に政令を布告して、統治者が是とすることは全員それを是とし、統治者が非とすることは全員それを非とせよ。統治者に過失があればそれを諌め、人民の間に善行の人物がいれば推薦するように、と。
ただし、天下の人民が天子の価値観に同調しても、さらに天の価値基準に対して同化しなければ、天の災害は消え去らない。烈風や大雨があるのは、天が自己の価値基準に同化しない人民を窮しようとしているのである」と。
・各統治者(天子・三公・諸侯・郷長・里長)はそれぞれ設定した義に従うよう配下に命じており、天子の一元的専制国家を説いたのではありません。
・天子の専制を防ぐために墨子は、天子は天(上帝)に対する尚同をしなければならないと説いています。
墨子は太古の時代は野獣の世界であったとし、他の諸子の下降史観(太古は素朴、平安な理想社会であったが、時代が降るにつれ険悪になったとする説)とは大きくことなります。
・野獣の世界に尚同を導入しなければならないとする考え方は、人の本性を悪として後天的教化を説く荀子や法家と近似した性格を持ちます。
・社会秩序の根底を「個人的賢智によって選ばれた者」に帰化している点で、徳治主義を根本としているので、法家とは一線を画しています。

【兼愛上 第十四】
混乱の原因を考えてみると、それは相互に愛し合わないことから発生しています。臣下や息子が君主や父親に孝でないのが、混乱のひとつです。また父親が息子を慈まず、君主が臣下を慈しまないという場合も、混乱のひとつです。
世間で盗賊を働く者も、我が家だけを愛して、他人の家を愛そうとしないから、他人の家から盗んで、それを我が家に利益をもたらそうとします。賊人も我が身だけを愛して他人を愛さないので、他人から奪って我が身に利益をもたらそうとします。大夫が互いに相手の家を混乱させ、諸侯が互いに相手の国を攻撃するのも、これと同様です。
世界中のあらゆる種類の混乱は、いずれも互いに愛し合わないことが原因です。
・天下の混乱を①父子の反目②兄弟の不和③君臣の対立④窃盗⑤追剥⑥貴族間の勢力争い⑦国家間の戦争の7種類が原因であるとし、それは互いに愛し合わないからだとしています。

もし世界中の人々に自己と他者とを区別せずに愛し、他人を愛することまるで我が身を愛するかのようにしたなら、それでもなお孝でない者がいるであろうか。そうなれば国家と国家は互いに攻伐せず、家門と家門は互いにかき乱さず、盗賊もいなくなり、君主と臣下や父と子の間も、すべて孝慈の関係で結ばれるであろう。このようであれば、間違いなく世界中が安定します。
・天下の混乱をなくす方法は「自己と他者とを区別せずに兼ね愛させる」(兼愛)です。
・他者と犠牲にして自利を獲得することを禁じています、(拒利)

【非攻上 第十七】
今ここに1人の男がいて、他人の果樹園に忍び込み、桃や李を盗んだとしましょう。民衆がそれを知ったならば、それを悪だと非難するでしょうし、統治者がその男を逮捕したなら、処罰するでしょう。それはどうしてでしょうか。他人に損害を与えて自己の利益を得たからです。
他人の犬や鶏や豚を盗む者は、桃や李を盗む者よりも、その不義は一層甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、さらに大きいからです。
他人の馬や牛を奪い取る者は、犬や鶏や豚を盗む者よりも、その不義・不仁はさらに甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、ますます大きいからです。およそ他者に損害を及ぼす程度が多くなるにつれ、その行為が不仁である度合もますます増大し、その罪もいよいよ重くなるのです。
何の罪もない人間を殺害して、着ていた衣服を剥ぎ取り、所持していた戈や剣を奪い去る者に至っては、馬や牛を奪い取る者より、その不義・不仁はさらに甚だしい。これはなぜでしょうか。他人に損害を与える程度が、ますます大きいからです。
ところが今、大規模な不義を働いて、他国を攻撃するに至っては、だれもその行為を非難することを知りません。攻伐を称賛し、その行為を正義の戦いなどと評価しています。
1人の人間を殺害すれば、社会はその行為を不義と判定し、必ず死刑に処します。こうした殺人罪に関しては天下の君子たちの誰もがこれを非難すべきことと認識し、これを不正義だと判断しています。ところが今、大掛かりな不義を働いて他国を侵略するに至っては、一向に非難すべきことを知りません。侵略を褒め称えては、義戦などと美化しています。つまり彼らは、実際に侵略戦争が不義であることを認識していないのです。
今ここに人がいるとしましょう。その人間が少量の黒色を見たとき黒だといい、多量の黒色を見たときには白だと言えば、人々はその人間を白と黒の識別すらつかぬ者だと判定するでしょう。あるいは、苦いものを少し嘗めては苦いといい、苦いものを大量に嘗めては甘かったなどといえば、だれもがこの人間を甘い苦いの弁別さえできぬ者だと判定するでしょう。
今の君子たちは、小規模な悪事は犯罪だと認識して非難しておきながら、大規模な悪事を働いて他国に侵攻すれば、それを褒め上げ、これぞ正義だと吹聴しています。これでは、はたして正義と不義との区別を知覚しているなどと言い張れるでしょうか。
・非攻論は他国への攻撃、侵略を非難する主張です。
・戦争によってその勢力を拡大できる諸侯・卿・大夫・士の身分からすれば、墨子の論は、明快に本質をついているとはいえ、現実的説得力を持つことができませんでした。
墨子の文章は、実用を尊んで、質素倹約を旨とするため、噛んで含めるように徹底的に説明しているので、いかにも頭の悪い読者扱いをされた気がして、読む側はあまりのくどさに、つい興ざめしてしまいます。それが近代以前には読者を惹きつけることができなかったひとつの原因とされています。

【非攻下 第十九】
今の君主や諸侯は誰もが精鋭舞台をえりすぐり、水軍や戦車部隊を整え、兵士に堅牢な甲冑や鋭利な武器を装備させ、罪のない国に侵攻します。まず国境一帯に侵入して耕地の農作物を刈り取り、集落の樹木を切り倒し、都邑の城壁を破壊して周囲の堀を埋め尽くします。家畜を奪っては殺し、祖廟を焼き払います。指揮官は命令に忠実に戦死した者を軍功一番、敵を多数殺した者を軍功二番、奮戦して負傷した者は軍功最下位とし、まして隊列を離れて敗走した者は即刻死刑とします。このように他国を併合し、軍隊を殲滅し、万民を殺戮して古代の聖人たちが樹立してくれた秩序を平気で破壊しているのです。
考えてみるに、彼らはこうした手段で、天の利益になることをしようと思っているのでしょうか。彼らは多くの国家歴代の王の祭祀を廃絶させ、多くの男たちを殺戮し、生き残った女・子供・老人を離散させています。さらに攻戦のための軍費は、民生の根本に損害を与えています。どう見てもこうした所業は、下の人間の利益に叶ったりはしません。
もし君主が他国への侵攻作戦を実施しようとするなら、国民も人民も本業一切を放棄する結果に陥ります。試しに考察してみましょう。まず国内で侵攻軍を編成しようとすれば、指揮官は数百人、軍吏の数は数千人、歩兵の数は十万人にも達するでしょう。そして長期戦になれば数年間、短期に終了しても数ヶ月の間、軍は解散されない。こうなると為政者は内政に気を配る時間的余裕がなく、官僚は国家財政を充実させる余裕がなく、農民は農業に精を出す余裕がありません。その上、遠征途上で食糧補給がままならず死ぬ者は数え切れません。こうした結果世界中が甚大な損害を被ると言わなければなりません。
・侵略された国の惨状と、侵略国側の民の惨苦を克明に描写した稀有な記録です。

【節用上 第二十】
聖人の政治が利益を倍増できるのは、決して自国の外部に領土を拡大するからではありません。自国に依拠しながら国内で無益な浪費を取り除いていけば、それで十分に利益を倍増できるのです。そこで貨財を無駄に消費せず、民衆の生産能力を疲弊させずに、新しく各分野で利益を興せるのです。
いったい衣服は何の目的で作るのでしょうか。冬はそれで寒さを防ぎ、夏はそれで暑さを凌ぐためです。だから聖人は華美で実用的利便を増加させない衣服はこれを排除します。
そもそも住居を建築するのは何の目的でしょうか。冬はそれで風や寒さを防ぎ、夏はそれで暑さや雨を防ぎ、盗賊が来た時には、侵入できないようにするためです。だから聖人は華美で実利を増さない住居はこれを除去します。
そもそも兵器を製造するのは何の目的でしょうか。それで敵兵や無頼の徒や盗賊を防ぐためです。そのため聖人は華美で実利を増さない武器は、これを排除します。
いったい舟や車を製造するのは何の目的でしょうか。それで丘や野を越え、河川や渓谷を進み広く四方と通商の利益を交わらすためです。そのため聖人は華美で実利を増さない舟や車はこれを排除します。
だからこそ、それらの製作に使用する財貨を浪費せず、それらの製造に使役する人民の生産能力も疲労させずに、広く新たな利益を興せるのです。さらにまた、為政者が道楽で真珠や宝石、珍奇な鳥獣や猟犬・駿馬などを収集することを止め、その費用で実用的な衣服や住居、武器、舟や車の数を増そうとすれば、以前に倍増させることすら決してできない相談ではありません。
それでは何を倍増させることが困難なのでしょうか。ただ人民の数だけが、倍増させがたいのです。そうは言っても人口ですら倍増可能な方法がないわけではありません。古代では男子は20歳までに分家・妻帯し、女子は15歳までに嫁ぐことになっていましたが、今はそうではありません。そこで早婚のものと晩婚の者とを平均すれば30歳で分家・妻帯することになり、ちょうど10年遅いことになります。もし妻が丸三年ごとに妊娠すれば、2、3人の子供を余計に出産することができます。これこそ国家の人口を倍増できる方策ではないでしょうか。
また今の統治者達は、人口を減少させる原因となる政策を数多く実施しています。為政者は人民を過度に使役し、重税を課すため、凍死したり餓死したりする者は膨大な数にのぼります。さらに兵を挙げては戦争をし、戦死したり、発病して死に至る者も実に夥しい数にのぼります。
こうしてみると、人口減少の原因は、それをもたらす必然的方策の結果として生じているのではないでしょうか。
・国家は他国の併合を手段とする富の倍増をしないことを大前提としています。
・富の倍増とは無用な消費の節約による実用的富の増産です。
墨子国富論は、富の絶対量拡大よりは、いわゆる消極的経済政策です。
墨子国富論は、直接富の生産には関与せず、文辞・儀礼による美化・装飾を稼業とする儒家への攻撃となりました。
・富の総量は、人類全ての生存を保障できるかどうか危ぶまれるほど絶対的に不足していると考えています。

【節葬下 第二十五】
墨子曰く「しばらく試みに厚葬、久喪の是非・利害について考えてみよう。王公・大人の葬儀は、棺を幾重にも重ね、死者を覆う衣服も何重にも重ね、墳丘は巨大なものにする。一般庶民が死んだ場合は、ほとんど家財を使い果たすであろう。
諸侯が死んだ場合、黄金や珠玉で飾り、戦車や馬を坑に埋める。また使っていた品物を整えて墓室の床に並べる。まるで王宮がそっくり移転するかのようである。天子の葬儀には殉死者も出る。
喪は食物、衣服も粗末なものとし、3年間死者にわが身を捧げる。これを行ったなら政務を執ったり、官僚組織を指揮したりすることができなくなるであろう。農夫に久喪を行わせたならば、農耕に精を出すことができなくなるであろう。このように厚葬の利害・得失を計ってみると、厚葬は人民に割当てて生産させた財貨を、むざむざ地中に埋めるものである。また久喪の利害・得失を計ってみると、人々が長期間仕事に戻れないようにするものである。
こんなやり方で富を得ようと願うのは、耕作を禁じておいて収穫を要求するようなものである。
政治が放棄され、生産力が低下し、悪事を働くものが増え、他国に攻められ、人口は減少するであろう。
よって古代の聖人たちは、次のように埋葬の規範を制定された。棺は、中で死体が朽ち果てるまでもてばそれで十分である。死体を包む衣服は三重にとどめ、死体が腐乱する醜悪さを覆い隠せれば、十分である。埋葬は、深さは地下水に達しない程度、上の盛り土は死臭が地上に漏れない程度にとどめる。死者の埋葬がすっかり完了したなら、長期間喪に服することなく、すみやかに勤労に従事せよ。これが聖人が定めた埋葬の規範である」と。
・絶対量の少ない富は、死者に対してではなく生者に対して有効に使用されるべきであるとします。
・この厚葬、久喪の問題は、春秋時代から墨家儒家との大きな争点となっていました。
・しかし死者を悼む真心に乏しい思想とか、思想の根本が伝わらずただ儒家との論争のために節葬を訴えたと捉えられてしまいました。

【天志上 第二十六】
墨子曰く「今の君子たちは小さなことは理解できるが、大きなことは理解できない」と言われた。どうしてそれが分かるのでしょうか。家庭内で罪を犯しても、まだ隣の家という逃げ込んで罪を逃れる場所があります。しかし、その不始末はたちまち世間に知れ渡るので、やはり自戒しなければなりません。国家に身を置く者の場合でも、まだ隣国という逃げ場所があります。しかし、その不始末はたちまち誰もが知ることになるので、やはり自戒しなければなりません。
このように逃げる場合がある者ですら、周囲に警戒しあっています。まして逃げる場所のない者は、いよいよその思いが念入りであって当然ではありませんか。天はかならずその犯罪行為を見つめておられるのです。それなのに天下の君子たちは、こうした天の監視に対してぼんやりしたまま一向に警戒しあうことを知りません。これこそ小さな範囲のことは自覚できても、大きな範囲のことは自覚できないでいるということなのです。
それでは天は、いったい何を望まれ、何を憎まれているのでしょうか。天は、人間に正義の行いを望まれ、不義の行いを憎悪されるのであります。われわれが天の望まれることをすれば、天もまた我々が願うことをしてくださります。
ではわれわれは何を願い何を嫌っているのでしょうか。家族が繁栄し生活物資に恵まれることを望み、災いやたたりが降ることを嫌います。
しかも義は本来、人々を正しい方向に矯正することです。必ず上位者から下位者に向かって、義を正すのです。天子は世界中で最も高貴な身分の人間であり、この上なく富裕な人間であるが、その天子ですら天に福を祈るのです。だから、富裕や高貴の地位を得たいと望む者は、天の意志に従順でなければなりません。そして天意に従順な者は自己と他者とを同等に愛し合い、互いに他者に利益を与え合う結果、必ず天から賞を受けます。一方、天意に逆らう者は自己と他者とを分け隔てて憎み合い、互いに他者を損ない合った挙句、きまって天罰を受けます。
古代の夏・殷・周三代の聖王である禹王・湯王・文王・武王たちこそ、まさしく天意に服従した人物であり、三代の暴虐な王、桀王・紂王・幽王・厲王たちこそ、まさしく天意に反逆して罰を受けた人物です。
それでは、どうして天が世界中の人々を愛されていると分かるのでしょうか。それは天が世界中の人間をあまねく照らしていることで明らかです。ではどうして天は世界中の人間を照らしていると分かるのでしょうか。それは天が人間を保全しようとしているからです。ではどうして天が人間を保全しようとしているのが分かるのでしょうか。それは天が全ての人間を養育している事実によって明らかです。ではどうして天が人間を養育しているのが分かるのでしょうか。それはお供え物を捧げて上帝と鬼神を祭祀しない者は1人もいないからです。天はどうしてその人間たちを愛さないことがありましょうか。
現在、天下には各人の著述は、牛車に積載しきれないほど膨大です。また彼らが口にする主義・主張もいちいち数え切れないほどに多いのです。しかし、彼らの説は仁義からは、はるかにはずれています。それはなぜでしょうか。それは私だけが世界中で最も明確な判定基準、すなわち天の意志を備えていて、それで世界中の思想の善し悪しを判断するからです」と。
墨子は絶対者として上帝を設定しているが、こうした王権神授思想は、当時では半ば常識でした。
墨子は、当時の上帝信仰が薄らいで、上天の規制力が弱まってきたため、改めてこの説で上天のことを論じたのです。また、上帝の意志が墨子思想と全く合致することを示そうとしたのです。

【明鬼下 第三十一】
墨子曰く「古代の聖人たちが世を去ると、天下は混乱を極めた。こうした混乱が生じた原因は、どこにあるのだろうか。つきつめれば鬼神が実在するかしないかの分別に疑惑を持ち、鬼神が賢者に賞を与え悪人を処罰できる力を持つことを明瞭に認識できないでいるところに一切の原因があるのである」と。
現在、鬼神は実存しないと主張する者たちは、鬼神はもともと存在したりはしないのだと言います。そしてそれを広めて、天下の人の判断を迷わせています。そのせいで天下は混乱しているのです。そこで墨子先生はこう言われました。
「今の世の王公・大人・士君子が心の底から天下の利益を盛んにしようと願うのであれば、鬼神が実在するか否かの分別に対してこそ、真っ先に明察すべき問題として取り組まざるを得ないのではないだろうか。
今の世において、何かが存在するか否かを察知するための方法を挙げてみるならば、必ず多数の人々が自分の耳や目で直接知覚したことを、判定の基準としている。つまり、多くの人々がその声を聞き、その姿を見たとの実体験があれば、必ずそれは存在すると断定し、逆にその姿を見聞した者もなければ、存在しないと断定するのである」と。
しかし鬼神は実在しないとの立場を取る者は、次のように述べ立てます。この世に鬼神出没の現象を見聞したと称する者は数え切れぬほど多いが、どれも信憑性に乏しく鬼神の有無を立証するに及ばないと。しかし墨子先生は次のように答えられた。「かつて杜伯は無実の罪で宣王に死罪とされたが、そのとき、もし死者に知覚があるのならば、3年以内にそのことを知らしめようと言った。3年目のある日、杜伯は白木造りの戦車に乗って現れ、宣王を射殺し、これは王に従っていた者すべてが目撃していた。
また秦の繆公は宗廟で神を見て、19年の延命を賜ったという。
また無実の罪で殺された荘子儀は、その1年後、燕の祖廟に通ずる参道に現れ、簡公を撃ち殺した。これらの記録から判断するならば、鬼神が実在することは、もはや疑う余地がないであろう」と。
鬼神の実在を否定する者は、親の利益にはならず、孝行息子の妨げとなるだけではないかと批判します。これに対して墨子先生はこう言われました。
「鬼神の形態は、天界に住む鬼神、山岳や河川に住む鬼神があり、また人間が死後に変化して鬼神となる者がある。鬼神が実存するならば、鬼神への祭りは自分の父母や兄姉の霊魂を招き寄せて、飲食させたことを意味する。大変な利益ではあるまいか」と。
墨子先生は、重ねて次のように結論を出されました。今の世の王公・大人・士君子たちが、心の底から天下の利益を盛んにしたいと欲求するのであれば、鬼神が実在するとの命題に対しては、鬼神を尊重し、鬼神は実在すると言明していかなければなりません。それこそが聖王の定められた道なのです。
・明鬼論は、天志論と同じく、上天の意志を介入させて他国への侵略を中止させんとするところにありました。
・鬼神が個人的犯罪を監視していると信じれば、犯罪行為も終息し、社会治安が回復するであろうと説きます。
・先秦の思想界には、鬼神の実在を主張する系統、否定する系統が並存しており、全体的には前者の側が優勢でした。(墨子、管子、中庸)
・他の鬼神実在論は、鬼神と人間の心のあり方とを結合し、鬼神の形而上化や内面化を図る試みが盛んになったが、墨子は、鬼神はどこまでも人間の外部に存在し、外側から人間に賞罰や禍福を与える性格に留まってしまいました。

【非楽上 第三十二】
墨子曰く「仁者の行う事業とは、必ず天下の利益を振興し、天下の害悪を除去するよう努力するものである。よって事業が人々の利益になれば規範化し、人々の利益にならないようであれば即刻中止する。しかも自分の官能的快楽を満たすために、人民の衣食に必須の物資を消耗し収穫するような真似は、仁者は断じて行わないのである」と。
こうした官能的悦楽は、高尚な基準に照らして考えてみれば、古代の聖王の事跡に合致せず、卑近な基準に照らして得失を計れば、万民の利益に適合しません。よって墨子先生は、音楽に耽るのはいけない、と説かれたのです。
楽器の製造は、万民に重税を課して行われます。もし楽器の使用が、聖王が舟や車を製作することと同じ性格を持つのであれば、私もあえてそれを非難はしません。古代の聖王たちも同じように重い税を割当てて、舟や車を製造させました。しかし聖王はこれを万民の交通の便に役立てました。だからこそ万民は財貨を供出して、恨みに思わなかったのです。結局、利益が民衆自身に還元されたからなのです。
そこで楽器の場合も、利益が民衆自身に還元されるのであれば、私もあえてそれを非難はしません。
そもそも民衆には常に3つの心配事がつきまといます。食物が得られないこと、衣服が得られないこと、休息が得られないことです。こうした憂いを解消しようとして音楽に耽って、これら必要なものをそろえることができるのでしょうか。また、音楽をして、天下の混乱をたちどころに平定できるのでしょうか。
また楽器を製造するだけでなく、演奏する者はやはり青・壮年の者を動員しなければなりません。彼らにこういった役を務めさせれば、農業に励む時期を奪うことになります。また大勢の人民を集めて音楽を聴くことになります。そのため政務を投げ出させ、生産活動を放棄させることになります。また音楽に和して舞う舞手を養わないといけません。
だからこそ墨子先生は音楽を奏でる行為は非難されるべきだと主張されたのです。
墨子の思想は、音楽から一切の思想性を剥ぎとって、音楽に単なる娯楽以上の意味を認めませんでした。
墨子の思想は、人間の心の内面に対する思索がほとんど欠落し、人間を社会的分業体制の一員としてのみ認めていました。

【非命上 第三十五】
墨子曰く「国家は裕福とならずに貧困し、人口は増加せずに減少し、治安は維持されずに混乱している。この原因はいったいどこにあるのだろうか。それは宿命論者が民衆の中に多数いるからに他ならない。彼らは宿命に対しては、いかに努力し励んでみても何一つ変えることは不可能であると説く。宿命論者は人々を説得してまわり、人民が労働に従事することを妨害している。
それでは、当世の士君子が宿命が存在すると考えているのだろうか。湯王は桀王を討ち、武王は紂王を討ったが世の在り方がまだ変化したわけでもなく、人民の有様もまだ変化していないのに、天下は安らかになった。これはひとえに人為的努力の結果であって、宿命があるとはいえない。
また先王が遺された典籍の中に、福は請い求めることができず、禍は避けられず、などといった言葉が、ただのひとつでも記されているだろうか。私はひたすらこれら典拠中に探し回ってみたのだが、必ずしも宿命論と合致する記録は見出せなかった。とすれば宿命論はやはり廃棄すべきものなのではないか」と。
・勤労と節制に努めるよう人々を説いたため、宿命論は否定されました。

【非儒下 第三十九】
孔なにがしとやらは、蔡と陳の間で困窮していました。そのとき弟子の子路は、師匠のために豚を煮て進めた。すると孔某は「いったいおまえはこの肉をどうやって調達したのか」などとは訊ねもせず、ペロリと平らげてしまいました。
つぎに子路は追剥を働いて衣服を奪い取り、それを売り飛ばして酒を買ってきた。今度も孔某は「おまえはこの酒をどうやって手に入れたのか」などとは聞きただしもせず、飲み干してしまいました。
ところが魯哀公が孔子を迎えて宴席を張ると、やれ座席のしつらえ方が礼に合わぬから座らないとか、肉の切り目が作法通りでないから食べないとごねた。そこでいぶかしく思った子路は「どうして陳・蔡のときとこうも違うのでしょう」と尋ねた。孔某はこう答えた。「子路よ近う寄れ。陳・蔡のときは何とかあの場を生き延びようとしたのじゃ。そして今は、何とかこの場だけでも正義を実現しようとしているのじゃ」と。
いったい困窮すれば不当な手段で、なりふり構わず身を生かそうとし、腹一杯食えるとなると、さも己が立派な人物であるかのように自ら飾り立てようとする。世に邪悪、まやかしの類が多いとは言っても、これほど下劣ではなかろう。
・この論は墨子の発言を敷衍したものでなく、儒家に対する攻撃のために作られたものです。
・事実はどうであれ、儒家の俗世の栄達に身をすり寄せようとする体質を見事に表現しています。

【経上 第四十】
知覚するとは、外界の事物に交接する行為である。
智(認識主体)とは、物事の同異を明瞭にできる知覚装置の本体である。

【経説上 第四十二】
知覚。知覚するとは、五官を用いて外界の事物に対応し、事物が過ぎ去った後も、まるで今もその事物を眼前に視認しているかのように、明確な知覚を形成する行為である。
智。智とは五官がもたらす各種の知覚を比較検討し、対象の事物を明確に認識する主体である。
墨子は、人間の認識主体に総合認識の形成能力を認めて、その能力に全幅の信頼を置く。

【公輸 第五十】
公輸盤は、楚のために雲梯という攻城兵器を製作した。そこで楚は早速この新兵器を用いて宋を攻撃しようとした。墨子先生はこのことを聞くと、すぐに斉を出発し、十日間の強行軍によって郢に到着した。
すぐさま公輸盤に会見を願い出たところ、先生におかれては、いったい何の御用でお越しになったのかな、と公輸盤はとぼけた。そこで墨子先生はつぎのようにもちかけた。
「北方に私を侮辱するけしからぬ奴がいます。どうか刺客を放って暗殺していただけないでしょうか」と。すると公輸盤は殺人をする汚い人物と見なされたので不機嫌になった。そこで墨子先生は「もちろん報酬として黄金十斤ばかり差し上げます」とたたみかけた。公輸盤は「私は正義を信条としており、そもそも殺人を働く男ではない」と言った。
そこで墨子先生は立ち上がって深々と再拝の礼を取り、本件を切り出した。
「私はあなたが雲梯を開発し、宋を攻略しようとされている、と聞きました。だが宋には何の罪もありません。宋に何の落ち度もないのに、一方的に攻撃を仕掛けるのは仁者とは申せません。宋への侵略が不正義であることを承知していながら、楚王と諫争しようとしないのは、忠臣とは申せません。諫争しても君主を承服させられないのでは、強毅の士とは申せません」
公輸盤は墨子先生の論理に屈服したが「私はすでに雲梯の完成を王に報告してしまったのだ」と責任を王に転嫁しようとした。
そこで墨子先生は楚王への謁見の許しを得て、次のように話を切り出した。
「ある男は自分の高級車には目もくれず、隣家のオンボロ車を盗もうと躍起になります。また自分の美服には目もくれず、隣家のボロ服を盗もうとします。我が家のご馳走には見向きもせず、隣家の粗食を盗もうとします。これはいったいどのような人物と思われますか」
楚王「それはきっと盗み癖があるんだろうよ」
墨子先生「楚の領土は五千里の広大さであり、宋の領土はたかだか五百里に過ぎません。楚には雲夢の大沼沢地があり、魚の類は豊富です。宋は雉や兎、鮒や鯉さえ取れぬ国です。
王が宋を攻撃しようとするのは、先の男と全く同類に思えます」
楚王は「先生の言い分はもっともじゃ。しかし公輸盤は、今度こそは絶対に宋を攻略してみせると張り切っておるのじゃ」と言った。
そこで墨子先生は、自分の帯をほどいて、それで机上に城の輪郭を描き、木片を攻城兵器と守城兵器とに見立てた。公輸盤と墨子先生は机上演習をすることになり、公輸盤は九種類の機械による攻城戦術をつぎつぎに繰り出したが、その度ごとに墨子先生に防がれて、手持ちの攻城用兵器すべてを使い果たしてしまったが、墨子先生の防御兵器はまだ手持ちが残されていた。
公輸盤は屈服を余儀なくされたが「私はあなたの防御を打ち破る方法を知っているが、それは言わない」と言った。すると墨子先生も「私もその方法を知っていますが、言わないでおきましょう」と言った。楚王はその理由を尋ねた。墨子先生は「公輸盤は私を殺してしまえば、もはや宋を防御できる者はいないと考えているのです。しかし私の門弟の禽滑釐ら300人の部隊はすでに宋の守りについています。ですから私ひとりを殺してみても、私の防御を断ち切ることはできません」と言った。
さすがの楚王も宋への攻撃を取りやめた。
使命を終えた墨子先生は、斉へ帰還しようとして、宋の地を通過した。そのとき雨が降ったので、郷里の門で雨宿りをしようとしたが、門番に楚の間諜と怪しまれたため追い返されてしまった。

【号令 第七十】
城壁の上で守備についている兵員や官吏は、それぞれ自分たちの仲間(伍)の言動に連帯保証の責任を負う。もし城を外敵に渡そうとする者がいれば、父母・妻子を全員処罰する。仲間がそのような姦計をめぐらせている事実を知りながら、逮捕や報告を怠った時は、その伍の全員を同罪とする。
城下の里に居住する一般人も、連帯保証の責任を負う点は、同様である。
官吏や兵卒や人民が勝手に城外に抜け出す行為を禁止する。命令に反攻して服従しない者は処罰する。指揮官の命令発動を勝手に批判する者は処罰する。命令を受けても実行しない者は処罰する。
行動が他の者と斉一でない者は処罰する。応答する相手もいないのに、むやみに大声で呼びかけわめく者は処罰する。侵攻してきた敵軍を褒め称え、城内の味方の悪口を言いふらす者は処罰する。勝手に部署を離れて寄り集まり、話し合いをする者は処罰する。配置につくよう打ち鳴らされる太鼓の音を聞きながら遅れてきた伍は、その構成員を処罰する。
守備兵はめいめい土版に自己の姓名を大きく書き記し、それを部署と部署との境界に掲げて明示する。守将はかならずその配置序列を頭に入れておき、その部署に属さない者が入り込んだ場合は、その者を処罰する。他の部署に紛れ込んだり、私的な手紙を携行し、上官に個人的な頼み事をしたりする者を逮捕せずに見てみぬふりをしたり、兵卒や一般人が窃盗を働いたりした場合は、その妻女や幼児に至るまで、全員を処罰して決して赦してはならない。城内の人間は、その姓名・部署を帳簿に記録し、通行許可証の割符を持たずに、勝手に軍中をうろつく者は処罰する。
侵略してきた攻囲軍と互いに自己の姓名や部署を通告し合い、互いに相手の姓名や部署を確認し合うような真似をさせてはならない。攻囲軍が城内に矢文を射てきても、その内容を公表させてはならない。攻囲軍が城内に利益誘導の甘言を弄してきても、それに内応するような行動をさせてはならない。
派遣された守将は、防衛しようとする城邑に入城したならば、必ず慎重に郷里の長老や現地に赴任していた行政官、在地の貴族などに城内の様子を尋ねて、私怨を結んで仇敵の間柄にある者たちを召して、明確に双方を和解させ、防御戦への協力を約束させる。その後も彼らを別扱いにし、他の者たちと隔離する。もし私怨を晴らすために城の防禦を妨害する者が出れば、断罪する。
守将はその封邑の領主であることを示す印章を授け、尊重して官職に登用し、彼の功績と破格の抜擢とを全人口に明瞭に周知させる。在地の豪族で国外の諸侯と手広く交際している有力者は、頻繁に守将に謁見させ、防衛軍の最高幹部たちと顔見知りになるよう仕向け、巧妙にその豪族を官吏に服属させ、しばしば接待して懐柔し、それまでのように出入国する行為を控えさせ、さらに血縁者を人質に取る。
郷ごとに声望家・長老・豪族がいる場合には、その親戚・父母・妻子を必ず尊重し優遇する。もし貧困で食事に事欠くものがいる場合は、司令部から食料を配給する。さらに勇士の親族にも時折り酒食を下賜し、必ずこれらの人々を尊敬する。
守将用の望楼は人質を住まわせる建物を見下せる位置に設営し、どの方角からも内部を見られないように壁や床を念入りに土で塗り固める。
守将自身が現地で抜擢・登用した官吏で、性格が貞廉忠信であり、不正を働く憂いなしに業務を任せられる者たちには、やかましく飲食に制限を加えたりせず、彼らの私有財産も各自で保管させる。
人質を管理する葆宮の壁は、その外側に必ず三重に垣根を張り巡らし、秘密を守るために屋根には瓦を厚く敷き、四方の壁を土で塗り固めて防音処置を施す。
各郷里に出入りする門には、それぞれ専任の門吏を配置し、門の開閉を中央で統御するため、必ず守将の割符による許可命令を必要とする方法を取る。
葆宮の護衛兵には必ず重厚な性質の者を選抜して任命する。さらに忠信で不正を働く恐れなしに業務を任せられる者を選抜し、葆宮の警護隊長に任命する。
巫祝の史と望気者は必ず味方に有利な占断や予言のみを民衆に告げなければならず、民衆に告げる際には、事前に守将に内容を報告して許可を得なければならない。もしこれに違反して、民衆の心を動揺させた時は、厳重に処罰して決して赦さない。
・号令篇はかなりの長文で、ここで紹介したのはほんの一部です。
・当時の城邑は、外郭と内城の二重の城壁に囲まれており、ここでいう城壁はすべて外郭を指します。外郭と内城の間には一般民衆の居住区域(郷里)が広がっています。
・防禦戦では、住民は兵士となり、また郷里でも戦闘が行われるため、一般民衆の統治方法にも言及しています。
・ここで言及される戦時体制を平時の社会全体にまで拡大すれば、法家の理想とする法治国家が出現します。絶えず城邑の争奪戦が繰り返される春秋戦国期にあっては、法による平時の治安維持が求められるようになり、君主権強化、法治国家成立という流れを作りました。

RSS Feed

WordPress(feed) to Hatena Blog via email

IFTTT

近江聖人と呼ばれて。集義和書より学ぶ!経世済民のコンサルタントの教え!

熊沢蕃山は、江戸前期の儒学者陽明学者です。
元禄・享保期の思想家・儒学者荻生徂徠にして「この百年来の大儒者は、人材では熊澤(蕃山)、学問では(伊藤)仁斎」とまで言わしめています。
また、明治末の教育本・修身の教科書では以下のように語られていた、二宮金次郎と並ぶ偉人でした。
「近江聖人と呼ばれて徳の高さが世の手本となる中江藤樹近江国高島郡の人で、有名な学者である。
 人となりは温厚篤実、学問といい、品行といい、心がけといい、全てが万人に卓越していたばかりでなく、貧しいものがあれば救ってやり、言行に不心得のものがあればていねいにいさめてやるということに努めたので、付近の民百姓はこれに感化されて、一人も悪者がいなかったと伝えられている」
しかも熊沢蕃山は、当時日本一の財政・経済コンサルタントであったそうで、治水、林政、租税改革、風教に目覚しい政績を挙げた経世済民の偉人であり、諸侯は争って蕃山に教えを請うていたそうです。
更には、日本古典に通じ、歌道に秀で、音楽通で幾つかの楽器を奏した、まさに文武両道の典型の士でした。
そんな蕃山の著書の幾つかから、その神髄を整理してみます。

【集義和書】

初版全11巻は1672年(寛文12)に、2版全16巻は76年(延宝4)頃に刊行、3版全16巻が1710年(宝永7)頃に刊行された儒学「時・処・位」論を展開している書物です。
16巻の構成は、書巻5巻、心法図解1巻、始物解1巻、義論9巻からなり、問答体を駆使してわかりやすく書かれていて、話題は、経書の根本問題から、「心法」の涵養、時処位論、宋明儒学老荘仏教への評価、統治論など広範に渡っています。
ここで除かれた分は「集義外書」に収録されているようです。

そもそも蕃山は、自身の利益に拘泥するのではなく、無私によって考えるべきことを基本としています。
そのため乱世の原因について考察し、商人の力の増大、贅沢への諌め、礼式の欠如を中心として纏め上げられています。

・倹約と吝嗇
”倹約は、我身に無欲にして、人にほどこし、
 吝嗇は、我身に欲ふかくして、人にほどこさず”
という言葉からも分かるように、欲が自身に及ぶか否かによって、倹約と吝嗇の差異を見出していることが特徴です。

・貧と富
”世の中の人残らず富候はゞ、天地も其まゝつき候なん。
 貧賤なればこそ五穀・諸菜を作り、衣服を織出し、材木・薪をきり、塩をやき魚をとり、諸物をあきなひ仕候へ”
という言葉からも分かるように、人は貧しいからこそ働くのだという事実が指摘されています。
そのため、生まれながらに栄耀なる者は、国家の役には立たないと弁じています。

・君子と小人
己の利益を優先していては、繁栄は続かないということから、君子の特色八箇条と小人の特質十一箇条が並べられており、興味深い内容となっています。

【君子の特色八箇条】
一、仁者の心動きなきこと大山の如し。無欲なるが故に能く静なり。
二、仁者は太虚を心とす。天地、万物、山川、河海みな吾が有也。春夏秋冬、幽明昼夜、風雷、雨露、霜雪、皆我が行なり。順逆は人生の陰陽なり。死生は昼夜の道なり。何をか好み、何をか悪まん。義と倶に従ひて安し。
三、知者の心、留滞なきこと流水の如し。穴に導き器につきて終に四海に達す。意を起し、才覚を好まず。万事已むを得ずして応ず。無事を行ひて無為なり。
四、知者は物を以て物を見る己に等しからん事を欲せず。故に周して比せず。小人は我を以て物を見る。己に等しからんことを欲す。故に比して周せず。
五、君子の意思は内に向ふ。己独り知る所を慎んで人に知られんを求めず。天地神明と交はる。其の人柄光風霽月の如し。
六、心地虚中なれば有することなし。故に問ふことを好めり。優れるを愛し、劣れるを恵む。富貴を羨まず、貧賤を侮らず。富貴は人の役なり上に居るのみ。貧賤は易簡なり、下に居るのみ。富貴にして役せざれば乱れ、貧賤にして易簡ならざればやぶる。貴富なるときは貴富を行ひ、貧賤なる時は貧賤を行ひ、總て天命を楽みて吾れ関らず。
七、志を持する所は伯夷を師とすべし。衣を千仭の岡に振ひ、足を万里の流に濯ふが如くなるべし。衆を懐くことは柳下恵を学ぶべし。天空うして鳥の飛ぶに任せ海濶くして魚の踊るに従ふが如くなるべし。
八、人見て善しとすれども神のみること善からざる事をばせず。人見て悪しゝとすれども天のみること善き事をば之をなすべし。一僕の罪軽きを殺して郡国を得ることもせず。何ぞ不義に与し、乱に従はんや。

【小人の特質十一箇条】
一、心、利害に落ち入りて暗昧なり。世事に出入して何となく忙はし
二、心思、外に向つて人前を慎むのみ。或は頑空、或は妄慮。
三、順を好み逆を厭ひ、生を愛し死を悪みて願ひのみ多し。註、順は富貴悦楽の類なり。逆は貧賤患難の類也。
四、愛しては生きなんことを欲し、悪むでは死せんことを欲す。總て命を知らず。
五、名聞深ければ誠少し。利欲厚ければ義を知らず。
六、己より富貴なるを羨み、或は娼み、己より貧賤なるを侮り或は凌ぎ、才智芸能の己に勝れる者ありても益を取る事なく、己に従ふ者を親む。人に問ふことを恥ぢて一生無知なり。
七、物毎に実義には叶はざれども当世の褒むる事なれば之れをなし、実義に叶ひぬる事も人之れを毀れば之れを已む。眼前の名を求むる者は利也。名利の人之れを小人と云ふ。形の欲に従ひて道を知らざれば也。
八、人の己を褒むるを聞いては実に過ぎたる事にても悦びほこり、己を毀るを聞いては有ることなれば驚き、無きことなれば怒る。過ちを飾り非を遂げて改むることを知らず。人皆其の人柄を知り其の心根の邪を知りてとなふれども己独り善く、斯くして知られずと思へり。欲する所を必として諫をふせぎていれず。
九、人の非を見るを以て己が知ありと思へり。人々自満せざる者なし。
十、道に違ひて誉れを求め、義に背きて利を求め、士は媚と手だてを以て禄を得んことを思ひ、庶人は人の目を昧まして利を得るなり。之れを不義にして富み且つ貴きは浮かべる雲の如しと云へり。終に子孫を亡ぼすに至れども察せず。
十一、小人は己あることを知りて人あることを知らず。己に利あれば人を損ふことをも顧みず。近きは身を亡ぼし、遠きは家を亡ぼす。自満して才覚なりと思へる所のもの是れなり。愚之れより甚だしきはなし。

【集義外書】

「集義和書」の改訂版作成で除かれた分が収録されています。
ここでは、時間と場所と立場に応じて、適切な政策は異なるということが示されています。
そのため、民が余力ある生活を送れるように配慮することや、農と兵の融合という政策が語られています。
国の大本は民であり、民の困窮が国全体の困窮になる恐れがあるため、物価の適正価格の重要性や、金銭や穀物の均衡のとれた流通についても論じられています。

・困窮と奢り
”世人のまどひは異端の渡世よりをこり、民の困窮は世の奢より生ずるとにて候”
”しかれども数十年奢によりて、渡世するもの餘多あれば、急に奢をやめむとすれば、うゑに及もの多き者にて候。
異端の渡世はなを以て数十万人あるべければ、是も急には制しがたかるべし”
”人の迷惑せぬを仁政と申候。大道行はれ候はゞ、一人も迷惑するものなく、人のまどひも困窮もやみ申す可き候”
という言葉からも分かるように、贅沢と驕りを戒めた上で、誰も迷惑することのない仁政を弁じています。

・困窮と余力
”夫國の国たる処は、民あるを以也。
 民の民たる所は、五穀あるを以て也。
 五穀のゆたかに多き事は、民力餘りありて功の成によつて也。
 故に有徳の君、有道の臣ある代の日は、舒にして長し。
 其民しづかにいとま多く、力餘あればなり。
 道なき世の日は、いそがはしく短し”
という言葉からも分かるように、民に余力があればこそ、農作物も多く収穫でき国力も増すと論じています。

・農兵制
”日本も今とむかしは大にかはりあり。
 むかしは農と兵と一にしてわかれず、軍役みな民間より出たり。
 武士皆、今の地士といふものゝごとくなり”
”恭倹質素にして、驕奢なければついえなし”
”今は士と民とわかれて、士を上より扶持するゆへに、知行と言ひ、扶持切米と言ひ、多いるなり”
”農に兵なきゆへに、民奴僕と成てとる事つよく、いやしく成たり。
 故に農兵の風たえて後は、一旦収と言へども、君も士も民もはなればなれに成て、はてはては惣づまりになりて、乱世となる事早し”
”日本の今の時所位あり、より所ありと言へども、跡によるにあらず、時に当てはなすべし、かねて言ひ難し”
という言葉からも分かるように、武士階級が土から離れたため、農民側も卑屈になり、兵側と農側で気持ちが分かれるので世の中が乱れる、従って制度も時と場所と立場に合ったものを当てるべきだと論じているのです。

・富と穀物
”宝は民のためのたからなり。
 民のためのたからは五穀なり。
 金銀銭などは、五穀を助たるものなり。
 五穀に次たり。
 しかるに金銀を重くして、五穀をかろくする時は、あしき事多し”
”士民ともにゆたかにして、工商常の産あり。
 たからを賤するとて、なげすつる様にするにはあらず。
 五穀を第一とし、金銀これを助け、五穀下にみちみちて、上の用達するを、貨を賤すといふなり”
”商の心は、やすき時に買、高時に売。
 有所の物をなき処へ通ずるばかり也。
 工はたゞ其身の職分に心を入れ、才力を盡すのみなり。
 大廻しの事は、武士のみ知て、彼等は手足の心にしたがふがごとくなる道理にて候。
 いまは手足の為に心をつかはるゝに成申候”
という言葉からも分かるように、穀物の重要性とお金の利便性、流通効果を評した上で、お金に使われている現状に苦言を呈しています。

【大学或問】

『大学或問』では、参勤交代や兵農分離策などを批判したため、幕府の命によって古河藩にお預けとなり古河城東南隅の竜崎頼政廓に幽閉され数年後の1961(元禄4)年8月17日、73歳で没してしまいます。
ここでは、皆が豊かになる経済が目指し、政治の裕福さの必要性を説いています。

・仁政と富有
”問、政とは何ぞや。云、富有也”
”仁政を天下に行はん事は、富有ならざれは叶はず”
という言葉からも分かるように、善き政治は、裕福でなければ不可能と断じています。

・困窮の連鎖
”諸侯不勝手にて、武士困窮すれば、民に取事つよくて、百姓も困窮す。
 士民困窮すれば、工商も困窮す。
 しかのみならず浪人餘多出来て飢寒に及びぬ。
 是天下の困窮也。
 天下困窮すれば、上の天命の冥加おとろへぬ。
 天命おとろへては、いかんともする事なし”
という言葉からも分かるように、一つの階級の困窮が他の階級にも連鎖し、一定限度を超えることで打つ対策がなくなることを警戒しています。

・富有と天下
”富有は天下の為の富有なり”
”仁君の貨を好むは大なり。富有大業をなす天下、君の貨を好む事をたのしめり。
 これ貨を以て身をおこすなり”
”聖賢なれざれば、天下を平治する事あたはざるには非ず。
 貨色を好むの凡心ありといへども、人民に父母たる仁心ありて、仁政を行ひ、其人を得て造化を助る時は仁君也。
 天職を務めて天禄を得る事久し”
という言葉からも分かるように、天下のための裕福さを目指し、財貨によって経済を回し、天職を務めて、名声を得ることを奨励しています。

「憂き事の尚この上に積もれかし限りある身の力試さん」
熊沢蕃山の名言です。

どんな問題や難題にも不条理だと憤るのではなく、必然に起きた成長のためのターニングポイントだと捉えて、力を尽くすこと。
何を為すか何をしたかという成果や報酬ばかりに蒙昧するのではなく、人としてどう生きるのか、如何にあるべきなのかを明らかにすること、そしてそれを追及すること。
そんな蕃山の生涯を糧にしていくことが、残された私達への大きな命題なのかもしれません。

以下参考までに、一部抜粋です。

【集義和書】

卷第一 書簡之一

一 來書畧。博學にして、人にさへ孝弟忠信の道を敎へられ候人の中に、不孝不忠なるも候は、いかなる事にて候や。
返書略。武士の武藝に達したるは、人に勝つことを知るにて候へども、武功なき者あり。無藝にても武功ある人多し。兵法者ひやうはふしや〔武藝巧妙の者―頭注〕の無手むての者に切られたるあり。學問の道も同前に候。夫それ智仁勇は文武の德なり。禮樂弓馬書數は文武の藝なり。
生付うまれつき仁厚なる人は、文學せざれども孝行忠節なるものなり。生付勇強なる人は、武藝をしらでも勝負の利よきものなり。しかればとて、文武の藝廢すたるべき道理なければ、古いにしへの人は、其身に道を行ふ事全まつたからぬ人にても、文才もんさいに器用なる者には學問をさせ、ひろく文道を敎へて、人民のまどひをとき、風俗をうるはしくし、その身に勇氣少き人にても、武藝に器用なる者には、弓馬をならはし、あまねく兵法へいはふを敎へて、人民の筋骨すぢほねをすこやかにし、能を遂げしむ。
國の武威を強くせんとなり。これ主將の人を捨てず、ひろく益を取給ふ道なり。學力無くして孝行忠節なるは、氣質の美なり。道を知らざる勇者をば、血氣の勇ともいへり。人の德を達し才を長ずることは、文武にしくはなし。今宣へる人は、文の末のみを知て本に達せず。武も又かくの如し。且かつ天の物を生ずること、二つながら全きことなし。四足しそくのものには羽なく、角あるものには牙なし。
形あるものは必ずかくる所あり。大かた文才もんさいに器用なる者は德行とくかうにうすく、德行によき人は文才拙きことあり。智聰明なる生付の者は行かけやすし。行篤實なる者は智に足らざる所あり。君子は其善を取りて備らん事を求めず。小人は人のみじかき所をあらはして、其美をおほへり。すべて世に才もなく德もなき人多し。才あらば稱すべし。德あらば好よみすべし。
一 來書略。今の世に學問する人は、天下國家こくかの政道にあづかり度たく思ふ者多く候。學者に仕置しおきをさせ候はゞ、國やすく世靜なるべく候や。
返書略。いづれの學問にても、利欲を本としてつとむる者は、各別の事なり。實まことに道を求めて學ぶ人は、貴殿きでん我等をはじめて、今の世の愚ぐなる人と可く被る二思し召さ一候。此世に生れて、神の智を開くにしたがひて、世間に入る人は、利發なる故なり。世間の利害に染りぬれば、道德には遠きものに候。しかる所に、貴殿我等ごとき、此世に生れながら、世間に入るべき智識もさとからず、しかも流俗には習ならひながら、中流にたゞよひ居り候處に、幸に道を聞きゝてよろこび候。
其愚なる下地故に難き事をば知らずして、古の法を以て今を治めんと思へるなり。我せんと思ふ學者に仕置をさせ候はゞ、亂に及び候べし。たとひ古の人の如き賢才ありとも、人力を以てなさば不可なり。况いはんや古人におよばざる事はるかなるをや。堯舜の御代みよには、屋をくをならべて善人多かりしだに、政まつりごとの才ある人は五人〔禹、皐陶、稷、契、伯益〕ならでは無かりしとなり。周の盛なりしにも、九人ありといへり。學問して其まゝ仕置のなる事ならば、古の聖代には、五人九人などといふ事はあるまじき事なり。古の才と云たるは、德智と才學と兼ねたる人の事と聞え候。博學有德いうとくにても、人情時變に達する才なき人は、政はなりがたく、世間智ありても心ねぢけたる人は害おほく候。
是は昔の人のえらびなり。今の政に從ふといふはしからず。其位に備りたる人か、衆の指ゆびさすところか、いかさまに人情のゆるす所ある人の中にて、凶德なきをえらぶとみえたり。これなほ無學なりとも、我われ政をせんといふ學者の國政にはまさり候はんか。
一 來書略。昨日さくじつ下拙げせつ不善ありき。遂げてかくし可くレ申す〔隱しおほすべしとはの義〕とは存ぜずながら、申しは出いでざる内に、先生すでに肺肝を御覽ぜらるゝと覺え候ひき。
返書略。愚拙ぐせついかで人の不善をさぐり申すべき。何事の候へるやらん不レ存ぜ候。貴殿の心に明德あるによりて、肺肝を見らるゝ樣に覺え給ひ候なり。貴殿と我等とにかぎらず。惣じて不善ある人の氣遣、かくの如くに候。大學の旨〔大學に小人間居して不善を爲す。至らざる所なし。(中略)人の己を視ること其肺肝を見るが如く然りと〕も、君子より人の肺肝を見るにはあらず。小人みづから肺肝を見らるゝ如く苦しきにて候。性善の理り明白なる事に候。
一 來書略。楠正成は智仁勇ありし大將といへり。德もなき天子にたのまれ奉りたるは、智とは申しがたくや候はん。武家の世と成りて此かた、よき人誰たれか候つるや。
返書略。不ずレ知らして天よりあるを氣質と云ひ、知しつて我物とするを德といへり。正成は氣質に智仁勇の備りたる人と聞え候。聖學をきかせ候はゞ、たぐひすくなき文武ある君子たるべく候。今の時ならば、天子にもたのまれ申すまじく候。正成の時分は、北條の代よと後世よりは稱すれども、京都より將軍を申し下くだし奉り、北條は諸大名と傍輩の禮儀にて交り、たゞ天下の權を握りたるばかりに候。賴朝の子孫九州にもおはしまし候事なれば、主君と成なつて諸士にのぞむ事は、人情のしたがはぬ所ありたると見え候。
この故に、正成も北條と君臣の禮はなく候。其上相摸入道〔北條高時―頭注〕無道にして亡ぶべき天命あらはれ、又將軍は京より申し下して假かりなる事なれば、天子より外に主君なく候。主君よりの仰なれば、賴まれ申したるといふ事にては無く候。臣下の權つよくて、一旦君をなやまし奉りし事は、平の淸盛も同じ事なり。後白河院賴朝に天下をあづけ給ひてより、武家の世といへり。しかれども王威過半殘りて、全く武家の天下ともいひがたし。されば後醍醐天皇てんわうまでは、いにしへの王德をしたふ者も多かりき。しかる處に、北條の高時奢おごりきはまり、天道にそむき、人民うとみたる時節、天下をとりかへし給ひしかば、公家に歸したり。
しかれども、天皇道をしろしめさず、賢良を用ひ給はず、昔と時勢のかはりたる事を知り給はざりし故に、うらみいきどほる者おほく出來て、武家の權を慕はしく思ふをりふし、高氏おこりて天下をとりてよりこのかた、一向武家の世とはなれり。是より天下の諸大名、大樹たいじゆ〔後漢の馮異(*原文「鳴異」)が故事に基づく〕を主君とし奉りて、天子には仕ふまつらず、陪臣の國の君を主とすると同理おなじりなり。是これを以て今ならばたのまれ申すまじきと申す事に候。扨さて士にては辨慶、氣質に智仁勇ある人に候。隱れたる處ありて、世人知る事稀なり。勇にかさのある事類たぐひすくなく、智謀は泉のわき出るがごとし。仁は士にて時にあはざるゆゑに、見えがたく候。勇智にならぶべき仁愛見え申し候。
義經の好色なるをば、度々いさめ候ひき。然るに、奧州落おちの時、北の方をば、辨慶すゝめて供ともいたし候。人の同心すまじき所をはかりて、先まづ辨慶大に氣色きしよくをつくり、倶し奉る事はなるまじきよしをいひて後、又氣色をやはらげ、さは云ひつれども、まさしき北の方なり、身もたゞにましまさず〔懷姙せるをいふ〕、鎌倉殿はたのもしげなし、都に殘し奉るべき義にあらず、行ゆかるゝ所まで行きて、叶はざる時は、先まづ北の方をさし殺し奉り、各おの/\自害し給ふべきより外はあらじとて、稚兒ちごの形につくりて相倶あひぐし、北陸道ほくろくだうをへて落ちられしに、關所々々にて、義經とは見知りたれども、うちとゞめて軍功にもならじ、實は兄弟にてましませば、恩賞を得ても心よからぬ事なり、其上罪なき人の、大功たいこうありながら讒ざんに遭ひ給へるもいたはしくて、進まざる心の氣色きしよくを、辨慶やがて見しりければ、關の人々の理ことわりのたつべき樣言成いひなして通りしを、平泉寺へいせんじ〔陸中國―頭注〕にては、鎌倉殿よりの討手にてもなきに、法師の身ながら、邪欲のあまりに、義經をうちとゞめて恩賞にあづからんとて、取籠めたれば、遁のがれざる所の第一なりき。然る所に、うつくしき兒ちごを倶しける故に、坊主ども目をうつして時刻をふる間に、老僧など出て管絃のもよほしあり。
義經は笛の上手なり、供奉ぐぶの中に笙ひちりきの得たるあり、ちごは箏ことを彈じ給へば、老若らうにやくともに邪心やはらぎ、難をのがれたり。此時北の方ましまさずはあやふかるべし。かくあしかるべき催しだに、道にしたがへば吉きちなり。此一事を以ても、辨慶仁厚の心は見侍り。平生義理に感じやすく、涙もろなる者と見えたり。戲言たはぶれごとをなどいひたるは、患難に素そしては患難を行ふの氣象也。〔中庸に、富貴に素しては富貴に行ひ、貧賤に素しては貧賤に行ひ、夷狄に素しては夷狄に行ひ、患難に素しては患難に行ふとあり〕義經一代難儀の堺にしたがひしかば、諸人しよにんの氣屈する節なり。辨慶は仁にして勇なる故に、敵におそれざるのみならず、難に遇あひてもこゝろ屈せず、人をいさめ助くる所ある故に、戲言など云ひたるなり。君子を其地に置おきたらば、斯くあるべきと思はれ候なり。
吉野河にて、跡にまぢかく大敵を受けながら、竹を切きりて雪中にさし、竹に向ひてもの云ひたる振舞などは、苟且かりそめ(*原文「苛且」)なる事の樣なれども、心の智仁勇あらはれ候。東鑑〔鎌倉幕府の日記―頭注〕のみ確たしかなるやうに世以て申し候へ共、鎌倉中ぢうの事は委しくして、遠國をんごくの事はおろそかなり。平家物語・義經記も、大かた實事と見えたり。文法にても虚實は見ゆるものにて候。正しく記したる書の中に、定めてよき生付の人あるべく候。重て暇いとまの日に考へ可くレ申す候。源の賴光らいくわう、小松の内府だいふ重盛、畠山の重忠、文武を兼て士君子の風ある人なり。
かゝる人々に聖學の心法を聞かせば、唐からまでも聞ゆる程の人に成り給ふべく候。時節あしく出られし事不幸なる儀なり。宋明の書、周子、程子、朱子、王子〔周は周敦頤、程は程顥・程頤、朱は朱熹、王は王陽明〕などの註解發明の日本に渡り人の見候事は、わづかに五六十年ばかりなり。しかれども、市井の中にとゞまりて、士の學とならず。十年このかた、武士の中にも志のある人、はし/〃\見え候間、後世には好人よきひと餘多あまた出來候べし。
一 來書略。萬物一躰といひ、草木國土悉皆成佛と云ふときは、同じ道理の樣に聞え候。
返書略。萬物一躰とは、天地萬物みな太虚〔太虚は畢竟大空也。陽明學派に太虚説を立つる者多し〕の一氣より生じたるものなるゆゑに、仁者は一草一木をも其時なくてはきらず候。况や飛潛動走のものをや。草木にても、強き日でりなどにしぼむを見ては、我心もしほるゝがごとし。雨露うろの惠を得て、靑やかにさかえぬるを見ては、我心もよろこばし。是一躰のしるしなり。しかれども、人は天地の德・萬物の靈といひて、すぐれたる所あり。
たとへば庭前の梅の根の土中にかくれたるは太虚のごとく、一本の木は天地のごとく、枝は國々のごとく、葉は萬物のごとく、花實はなみは人のごとし。葉も花實も一本の木より生ずといへども、葉には全體の木の用なし、數すう有て朽くちぬるばかりなり。花實はすこしきなりといへども、一本の木の全體を備へし故、地に植うゑぬれば又大木となりぬ。かくのごとく、萬物も同じく太虚の一氣より生ずといへども、太虚天地の全體を備ふる事なし。人は其形すこしきなれども、太虚の全體あるゆゑに、人の性にのみ明德の尊號あり。故に人は小體せうたいの天にして、天は大體の人といへり。
人の一身を天地に合せて、少しも違ふ事なし。呼吸の息は運行に合す。暦數醫術もこゝに取る事あり。天地造化の神理主帥しゆすゐを元亨利貞げんかうりていと云ひ、人に有りては仁義禮智と云ふ。故に木神ぼくしんは仁なり、金神きんしんは義なり、火神は禮なり、水神すゐしんは智なり。天地人を三極といふ。形は異なれども、其神は一貫周流へだてなし。理に大小なきが故に、方寸太虚本より同じ。是大舜たいしゆんの君、五尺の身にしてよく其德を明かにし給ひしかば、天地位くらゐし萬物育いくするに至れる所なり。〔中庸に中和を致して天地位し萬物育す(*原文「章す」)とあり〕萬物一躰とはいふべし。
一性とは云ふべからず。萬物は人のために生じたるものなり。我心則ち太虚なり。天地四海も我心中にあり。人鬼幽明うたがひなし。堯舜の道は人倫を明かにするにあり。故に他の道を學びんことをねがはず。佛法の事は我不レ識ら。
一 來書略。聖人の書を説くことは、朱子にしくはなし。是を以て朱學は則ち聖學なりと云へり。小學、近思録等の諸書を學びて、かたの如くつとめ行ひ候へども、心の微〔書經の道心惟微に出づ〕は本の凡情に候。又心學とて、内よりつとむると云ふもおもしろく候。陽明は文武かね備へたる名將なりといへり。されども近年心學を受用するといふ人を見侍るに、さとりの極きよくにて、氣質變化の學とも覺えず候。
返書略。拙者をも世間には心學者と申すと承り候。初學の時心得そこなひて、自ら招きたることに候へども、心學の名目みやうもくしかるべからず存じ候。道ならば道、學ならば學にてこそ有るべく候へ。いづれと名を付け、かたよるはよからず候。漢儒の訓詁きんこありたればこそ、宋朝に理學もおこり候へ。宋朝の發明によりてこそ、明朝に心法をも説き候へ。明朝の論あればこそ、數ならぬ我等ごときも、入德の受用を心がけ候へ。論議は次第にくはしくなりても、德は古人に及びがたし。
後世の者、心は本の凡情ながら、文學の力にてたま/\先賢未發の解を得ては、古人の凡情なき有德いうとくをそしり申す事勿體もつたいなき義なり。一の不義を行ひ一の不辜ふこをころして天下を得る事もせざる所は〔孟子に一不義を行ひ、一不辜を殺して天下を得るも、皆爲ざるなりと〕、朱子・王子かはりなく候。拙者世俗の習いまだ免かれずといへども、此一事は天地神明にたゞしても古人に恥はづべからず。其外の事は、我ながら我身の拙さを存じ候。如くレ仰せの貴殿かたのごとく道を行ふと思召おぼしめし候へども、心中の微は同前に候。又學志ありてなりがたき事をつとむる所は候へども、無學の平人へいにんにおとりたる事も有レ之候。學は程朱の道にたがひもあるまじく候へども、立處たつところの心志しんしかはりある故と存じ候。學術の外に向ふによりて、自から知ることの不るレ明かなら故にてもあるべく候。
陽明の流の學者とて、心よりくはしく用ふとは申し候へども、其理を窮きはむることは見解けんげ〔本書すべて意見の義に用ひたり〕多く、自反愼獨じはんしんどくの功こうも眞ならざる處相見え候。尤もつともよきもあるべく候。大方は、其愚を知ること明かならず、其位をぬけ候事を知らざれば、名根みやうこん利根の伏藏は本の凡情たるべし。飯上はんじやうの蠅はいを追ふが如くなれ共、心上の受用あるによりて、自からもゆるすにて有るべく候。しかれども、大なる事にあひては亂れ候はんか。氣質變化の學は明白なる道理ながら、大なる志なければ到りがたく候。生付よき人の、世間の習によりて、うはべばかり惡しく成りたる等などは、道を聞候へば、一旦の惑ひはすみやかに解けて、本のよき所あらはれ候。
かゝる人を氣質變化と申す者あるべく候へども、これも變化にはあらず候。大かたは先覺〔孟子に、予は天民の先覺者なりと〕後覺共に、本の人がらありと相見え候。いざなふ人の人がらよければ、其國所のよき人、類るいにふれてあつまり、いざなふ人の人がら平人へいにんなれば、平人あつまり候。王朱の學の異同にはよらで、先覺の德と不德によれり。悉く然るにはあらず候へども、これ大略にて候。むかふ人を以て我身の鑑かゞみと致し候へば、自みづからの人がらこそ恥かしく候へ。古の人は、門前に人の往來多きを以てあるじの才ある事をしり、來きたる人の善不善を見て主あるじの德を知ると承り候。
一 再書略。宋朝の理學、明朝の心術と承り候へば、程子・朱子は道統〔流派と云ふに同じ〕にあづからざるが如し。いかが。
返書略。周子の通書つうしよ〔周敦頤の著書。凡そ四十篇あり〕などを見侍れば、聖人のはだへあり、明道めいだうには顔子がんしの氣象あり。後の賢者のよく及ぶべきにあらず。伊川の器量、朱子の志、みな聖人の一體あり。凡心ぼんしんなき處は同じ。聖門傳受の心法にあらずして何ぞや。我はたゞ其學術を論ずる事の多少をいふのみ。惑を解くことのおほきを理學といひ、心ををさむることの多きを心術といふ。秦火しんくわ〔秦始皇三十四年制して天下の書を燒かしむ〕に經けいそこねたり。故に漢儒の功は訓詁きんこにあり。其後異端おこりて、世に惑ひおほし。故に宋儒の學は理學にあり。惑ひとけては心にかへる。故に明朝の論は心法にあり。
一 來書略。太公望を微賤よりあげて三公となし給ひし事、不審多く候。周公、召公のごとき中行ちうかう〔中道を守りて過不及なき事〕の君子とも見えがたく候。軍旅の事に長じたる人故にて候や。
返書略。古人いへることあり。老人なり、かつ微賤に居て下しもの情を知れり。知識ありて時變に達せり。生れながらの上臈は、下の情を知り給ふ事くはしからず、人の云ふにしたがひ、道理のまゝに下知し給ひては、下に至りて可かにあたらざる事あり。是を以て帝堯は諫鼓謗木かんこはうぼく〔淮南子に堯敢諫の鼓を置き、舜誹謗の木を立つとあり〕を置き給へり。又賢才の人も、下に居て上臈の風俗を見ず、かつ政道の務を知らざれば、下にて謀りたる事には違ふこと多し。
太公も君子に交りて上臈の事をしり、本よりの大臣も、太公によつて下の情に通じ給へば、上下じやうか共に人情にたがふことなしとなり。軍旅に達せる事は、初めはしろしめさざれども、天然と大將軍の器量ある人なる故、用ひ給ひしなり。六韜りくたう〔文武龍虎(*原文「處」)犬豹の六韜太公望の兵書と傳ふ〕に記す處の文武太公の論は、皆大なる僞いつはりなり。後世事をこのむもの是を作れり。かつ聖賢をかりて、軍者功利の術をかざりたるものなり。若し彼に云へる如きの心あらば、何を以てか聖人とは申すべきや。
一 來書略。中華の國、聖代には武威つよく、末代に至りてよわくなりしと申す事は、いかなる故にて候や。
返書略。北狄の中夏ちうかを侵すとをかさゞるにてしられ候。聖賢の代よには、文明かに武備り候故に、臣と稱して來朝せり。末代は文過すぎて武をこたれり。文の過るといふは奢おごりなり。士以上はおごればやはらかに成りて武威よわし。上かみ驕おごれば民かじけぬ〔凍餓憔悴する―頭注〕。上下をこたりて武そなはらず。無事の時は民たみも女の樣にて心やすきは、使ひよき樣なれども、戰國にのぞみて士の手足とするものは民なり。手足はよわし、身は奢りてやはらかなれば、北狄のあなどりおかすも理ことわりなり。賢君の代よには、文武兼備りぬれば、おごらずおこたらず、上臈もやはらかならず、下臈もかじけず。
身無病にして手足つよきがごとし。北狄おそれて臣となりぬる事尤なり。日本も神武帝より應神の御代、其後までも、王者わうしやの武威甚強くおはしましゝかど、次第に文過ぎて武おとろへたり。京家の人とて武家のあなどるは其故なり。武家にても少しの間に強弱入いれかはれる事なり。平淸盛は武功を以て經へあがりしかども、一門榮耀ええうにおごりぬれば、わづかに二十餘年のほどに武勇ぶゆうよわく成り候。まして唐たう〔李唐に非ず、支那の義〕は三百年五百年治りて、其間に文武の業あやまり候へば、劍けんをも帶たいせざる風俗になりしも尤なり。其あやまりを以て、聖代の繪をも、劍を帶せずかき候は、あしく候なり。
一 來書略。文王を野心あらんかと疑ひながら、又征伐をゆるされたる事は、心得がたく候。
返書略。日本王代の征夷將軍といはんが如し。西國の諸侯のつかさにて、與國よこくをひきゐて北狄の中國を侵すをはらひ退しりぞけしむ。其時はわづかに周一國の諸侯にておはしましき。文王と申すは謚號おくりがうなり。そのかみは西伯と申したり。西伯の紂王に忠ありしこと、たぐひすくなし。天下の諸侯紂王が惡をにくみて、そむける人三分が二なり。其二は皆西伯に志あり。此時西伯軍いくさをおこし給はゞ、紂をほろぼさん事たなごころの内なり。しかるに西伯は紂王に無二の忠臣なりしかば、大半のそむける諸侯をひきゐて來朝し給へり。紂王は西伯の心を知らざれば、人の思ひつくを怪しみて里いうりにとらへ奉りぬ。
其後そののちは來朝する諸侯もまれにして、北狄いよ/\境をおかせり。其時紂王初めて西伯の功を感じ、ゆるして國にかへすのみならず、西國せいこくをまかせ狄人てきじんをふせがしめたり。殷の代よの末に、文武おとろへ中夏むなしかりしかば、北狄來りおかしゝなり。是によりて周公を征夷將軍として征伐せしめたるなり。此時太公望をあげ給ひ、狄を征するがために軍法を論じ給ひし事もあるべく候。然れども六韜の言語ごんごの如き事はあるべからず候。
一 來書略。不幸にして壯年の時文學せず、年已に五十に及び候。小家中なれども用人にて候へば、老學のいとまなく候。朝あしたに道を聞きいて夕ゆふべに死するの一語〔論語里仁篇の語〕をねがひ申すばかりに候。
返書略。家老たる人の、道を好み德を尊び給はんは、忠功の至いたりにて候。たとひ其身にはつとめずとも、人に道藝だうげいを勸むるは、上かみに立つ人の役にて候。心は耳目手足しゆそくの能なけれども、よく耳目手足の下知して尊きが如くに候。心のおとなしき人を家老とするなれば、おとな〔長老、家宰の稱〕ともいひ、若けれども老人の公道ある故に、老らうとも申し候。老の字の道理にだにかなひ給はゞ、幸甚たるべく候。
一 來書略。先度被二仰せ下一候、家老たる者、其身は無能無藝にても、人に道藝をなさしむるは、みづから藝能あるに同じとの義、尤至極に存じ候。誠に人の上かみに立ち候者、いか程多能多藝にて學問ひろく候とも、人の賢をそねみ人の能をそだて侍らずは、かへりて凶人きようじんたるべく候。弓馬文筆等の事は心得申し候。道學はいづれの流がよく候や。今時朱學、格法、王學、陸學、心學などとて、色々にわかれて申し候。皆古の儒道にて御座候や。
返書略。學問の手筋〔問に流派とあるに同じ〕の儀、いづれをよしとも、あしゝとも申しがたし。總じてすこし學びて道だてする者は、人道の害に成る事に候。身の愚なるたけをもしらず、至りもせぬ見けんを立て、とかくいへば、無事の人まで物にくるはせ候。一向に俗儒のへりくだり心得よき者を招きて、經義を聞き給ふべし。其身文武二道の士にてなきと申すばかりにて候。夫武士たる人、學問して物の道理を知り給ひ、其上に武道のつとめよく候はゞ、今の武士則古の士君子たるべく候。
一 來書略。物よみに經義を聞き候とも、心法はいかゞ受用可くレ仕る候や。
返書略。聖經賢傳道理正しく候へば、誰よみても同じ事に候。たゞに理を論じ跡を行ひたるばかりにては、心のあかのぬけざる事尤に候。心術を受用すると申す人も、凡情の伏藏かはりなければ、共に功なき事は同じく候。有德の人あれば、其化によりてよき人餘多あまた出來るものにて候。
德は人のためにするにあらず。己一人天理を存し人欲を去るなり。人欲を去さつて天理を存するの工夫は、善をするより大なるはなく候。善といふは別に事をつくりてなすにあらず。人倫日用のなすべき事はみな善なり。
君子は義理を主とし、小人は名利を主とす。心には義理を主として、よく心法を受用すると思ふ人あれども、其人がらの全體、小人の位に居てみづから知らず、其位をぬけざるもの古今多し。此所をよく得心し給ひて後、聖賢の書を見給ひ、人にも尋られ候はゞ、皆入德の功と成り候べし。心法は大學、中庸、論語に如くはなく候へども、學者の心のむき樣にて、俗學となり跡となる事に候。心法を受用する人も、人がらの位をぬくる事をしらざれば、一生心術の訓詁きんこにて終るものなり。
又學見がくけんも大に精しく至りぬれば、大方の凡情はぬくるものにて候へども、それほどに見解けんげの成就する人は稀なる事なり。大方は水のごみをいさせたる樣にて〔塵を沈澱せしめたるの義〕、澄みたると思ふも眞まことにあらず候。又一等の人あり。生付欲うすく、心おろかにして小理の悟ごを信じ、是によりて心を動かさゞる者あり。聰明の人は、小悟小信を以て小成の功なければ、理學にはさとく候へども、德をつむことはおそき樣に見え候。
いかさま學に志すほどの人は、昨日の我にはまさりぬべし。しかれども學流によりて、人品じんぴんにはかへりて益なく、人にたかぶりにくまるゝばかりなるも有るレ之體ていに候。よく學ぶ者は、人の非を咎むるに暇あらず。日々に己が非をかへりみる事くはしくなり候。
一 來書略。武王、太公、伯夷、叔齊の是非を論ずる者、古今多く候へども、其精義心得がたく候。
返書略。古の事は不レ存ぜ候。只今武王、太公、伯夷、叔齊御座候はゞ、拙者は伯夷にしたがつて首陽山に入り申すべし。論議に不レ及ば候。此兩道〔文武是なるか、夷齊是なるか〕を明辨せずとも、聰明のさはりにも成るまじく候。聖賢にかはりはおはしまさねども、時の變によりて其跡たがひ、其心見がたく候。
只人道は堯舜を師とせば、あやまる事あるべからず。變にあひ給ふ聖人にては、文王にしくはなく候。文王と伯夷は、本傍輩なりしかど、出てつかへられ候。文王も客きやくの禮を以て待ち給ひしと、傳へ承はり候。
一 來書略。よき儒者と佛者とをよせて論ぜさせて聞度きゝたき心御座候。疑ひのある故か邪心ある故にてあるべきと存じ候。
返書略。法論や儒道佛の論などは、氣力のつよきかたか、理のとりまはし小賢こかしこき者勝かちと見え候。其人の勝負にて、道の勝劣にあらず。聖人の道の諸道にこえてゆたかに高きことは、論議を待たずして分明ぶんみやうなることなり。孝經に深からざる故にうたがひ出來候。天地の間に人のあるは、人の腹中に心のあるが如し。天地萬物は人を以て主とし候へば、有形のもの人より尊きはなし。其人の道の外に何事のあるべく候や。
一 來書略。七書〔孫子呉子司馬法尉繚子(*原文「尉鐐子」)・三略六韜・李衞公問對(*原文「問韜」)―頭注〕(*武経七書)の中、聖賢の論と云ふはつくりごとにて、多くは功利の徒ともがらの言ことばにて候はば、何れも用ふべからず候か。
返書略。仁義の心あり仁義の名ありて後用ふべく候。大軍は正兵せいへいを本とし、威を以て敵を制し、小勢せうぜいは奇兵を用ひ、はかりごとを好んで敵をくじき候。然れども正も奇を用ふる所あり。奇も正と成る時あり。吾は義にして敵は不義なり。吾は善にして敵は不善なり。善人に從ふ軍士は皆義士なり。不善人にしたがふ士卒は皆賊なり。惡人のために善人をそこなふべからず。
謀はかりごとを好んで〔論語述而篇に、必ずや事に臨んで懼れ、謀を好んで成る者なりと〕敵をあざむき、味方をそこなはずして敵を亡す事は、明將の常なり。七書といふも、其明將の行ひし跡をいひたるものなり。又は軍の才氣を生付たる者の、道をば知らざれども大將と成りたるか、軍功を立たる者の言こともあり。其軍の才は君子に似たる所あれども、其實は天地各別なる事にて候。
一 來書略。佛ぶつをそしるは無用の事なり。たゞ己が明德を明あきらかにする事をせよとうけたまはり候は、尤至極に存じ候。爭あらそひなくて居ゐ候はゞ、三敎〔神、儒、佛〕一致と申すも罪あるまじく候や。
返書略。一致にてもなきものを、一致と虚言きよごん可きレ申す樣もなく候。其上一致は爭の端はしなり。同じ佛道の中にてだに、各の異見を立て相爭ひ候。別は別にして爭はざれば、いつまでも難なく候。
佛者も天地の子なり、我も天地の子なり。皆兄弟けいていにて候へども、或は見る所の異ことなるにより、或は世にひかるゝ生業すぎはひによりて、さま/〃\に別れ申し候。儒といひ佛と云ふ見けんをたつればこそ、たがひの是非もあれ、何れの見をも忘れて、たゞ兄弟けいていたる親みばかりにて交り候へば、あらそふべき事もなく候。こゝに職人の子供兄弟きやうだいありて、一人は矢の根鍛冶となり、一人は具足屋となりたるが如し。〔孟子曰く、矢人豈函人より不仁ならんやと〕矢をとゞむべき甲よろひをぬくべきの爭あらば、東西各別の他人なり。
本の兄弟の親しみのみ見る時は、職は各別にして爭はあるまじく候。これはすぎはひゆゑとも可くレ申す候へども、食物にも兄弟各すききらひある事なれば、味あぢはひをあらそひ候とも、各の口のひく所は一致にはなるまじく候。たゞ其まゝにして我は我人は人にてよく候。聖賢の御代ならでは、天下一同に德による事はなく候。然れども猶堯の時に許由〔堯の讓を受けざりし人〕あり、光武に嚴子陵げんしりよう〔足を帝腹に加へし人〕(*もと同学の厳子陵〔厳光〕と光武帝とが昔話をして床を並べて寝たときに、寝相の悪い子陵が帝の腹に足を乗せた。
天文官が「客星が帝座を侵した」と報告したのを帝が笑ったという故事。)あり、孔子に原壤げんじやう〔孔子を踞して俟ちし人〕あり、聖人これをしひ給はず。天空にして鳥の飛ぶにまかせ、海廣うして魚のおどるにしたがふが如し。〔此句古今詩話に見ゆ〕
一 來書略。拙者文學は少し仕り候へども、才德なくて儒者といはれ、かつ祿を受け候こと、恥かしき事にて候。
返書略。今時儒者といはるゝ人の中に、貴殿ほど德を尊び道を思ふ人はすくなかるべく候。儒者の名は三皇、五帝、夏、商の代よまではなかりしなり。はじめて周官に出でたり。鄕里において六藝を敎ふる者を儒と云ふと候へば、一人の役者なり。今の儒者といふは史しの官の如し。博識を以て業とせり。素王〔孔子なり。莊子に云ふ、此を以て下に處るは元聖素王の道なりと〕の曰く、「文勝つときはレ質に史」なりと。しかれば今の儒者の德なく道を行はざるは、さのみ罪にもあらず。聖人の道は五倫の人道なれば、天子、諸侯、卿、大夫、士庶人の五等の人學び給ふべき道なり。別に儒者といひて道者あるべき樣なし。
學問を敎へて産業とすべき人あるべきにあらず。上かみより人をえらびて士民の師を置き給ふは各別の事なり。此外先覺の後覺こうがくをさとし、朋友相助け相敎ふるの義あり。人幼にして學び、壯さかんにして行ひ、老て敎ふるの道あり。皆士農工商の業あり。亂世らんせい久しく、戰國の士禮樂文學にいとまなく、武事にのみかゝり居て、野人に成りたれば、只鄕里にして藝文を敎へたる者の末々のみ、わづかに古の事をも知りたり。此故に聖人の道を説く者を儒といひたり。そのかみの文學の稱なりといへり。然れどもいまだ産業にはおちざりき。聖人の道學を名付けて、儒者の道といふべき道理はなき事なり。世のいひならはしと成りて、さやうに云はざれば、それと人の心得ざる故に、我等を初めて儒道と申すなり。古の人のいへるも斯の如くなるべし。今の儒學といふは、史となるの博學を習ふがごとし。
弓を稽古し鐵砲をうち習ひて、奉公に出るがごとくなれば、産業とするも罪にはあらず。戰國よりこのかた、學校の政まつりごと久しくすたれぬれば、此史儒の文藝者に經傳の文義を聞くべきより外の事なし。武藝者に弓馬兵法へいはふを習ひて、武勇ぶゆうを助け武功を立たつるは武士の事なり、史儒に文を學んで道理を知り、道を行ひ德に入るべきは、五等の人倫なり。故に今の史儒は、其職ひきゝがごとくなれども、其事は諸藝の中において第一重し。貴殿文學に器用にて、他たの事にはより所なし。天の與ふる才なれば、文藝を以て祿を受らるゝこと、何の害かあらむ。もし德を知りたる人の文才ある者、貧きがための仕を求めば、史儒にかくるゝ事もあるべし。晋の陶淵明〔晋の名臣。名は潛〕は酒にかくれたりといへり。
市隱〔王康?の詩に曰く、小隱は陵籔に隱れ、大隱は朝市に隱る〕の類るゐみなしかり。其職よりも身をたかぶるものは、心いやしければなり。其職よりも身をへりくだる者は、德たかきが故なり。今人、德ありて儒者にかくれば、必ず其言ことばゆづり其身へりくだりて、道をあらはすべし。故に云ふ、「たかぶれば心賤しく、へりくだれば德高し」と。ねがはくは德を好みて儒者にかくれ給へ。今の人久きあやまりを不レ知らして、佛家ぶつけ道家だうけなどいふ如く、儒者をも一流の道者なりと思へり。大樹〔將軍の義。後漢の名將馮異が故事に基づく〕、諸侯、卿、大夫、士庶人の五等の人こそ道者にて候へ。
儒者は一人の藝者なり。世人弓馬の藝者を以て武篇者ぶへんものとはせず、武士たる人みな武篇者なるべきが如し。此あやまり漢の代よよりこのかたならん。五等の人倫の外に、別に道者あるを以て異端とすれば、儒者・佛者共に異端なり。貴殿周官に出でたる昔の儒の如く、一人の役者となりて、異端の徒ともがらをまぬかれ給はゞ、幸甚たるべく候。
一 來書略。拙者同役に利發にて作法もよき者候。道に志なき故、何方いづかたやらん談合などあひがたく、氣のどくに存じ候。道理を得心すまじき者にてはなく候間、和解の書にても見せ可レ申候や。
返書略。拙者も見及び候。利發なる故に、貴殿、我等など、同志の非をよくみられ候。又わきよりも學者の非を云ふことは多く、少しにてもよきこと有るレ之分は、言ひ聞かするものなく候。志ある者は、默して居候より外の事なく候へば、日々ににくむ心はまさりて、中々志は出來申すまじく候。道德の義を得心すまじき人にてはなく候へども、貴殿、我等などよりは知慧おほく候。
貴殿、我等も、學者の名あらずば、一向の凡夫よりは勝りたる所もあるべく候へば、親しまるゝ事も候はんづれども(*ママ)、學者の名ある故に、へだてと成り候。同志の友も、世間の人の非をば見がちにて、同志の非は見ゆるし候。他人の非を見るは、何の用にも不レ立たして、却てさはりとなる事なり。同志の非をよく見て、互に相助けたき事に候。御同役の人も、貴殿の德次第にて、後には志も出來候べし。不行儀なる人はたのみなく候。此人は作法よく候へば、その身にさしはさむ事もあるまじく候。不行儀なる人は、他人のよきほど我身の惡にさはりぬるゆゑ、いよ/\忌みにくむものにて候。
〔人皆善ければ、我惡愈々顯著なるを云へり〕貴殿の御同役は、學者といへども我身の無學ほどもなきと思はれ候間、此方の德をつみ給ひなば、やはらぎ出來候ひなん。利發にて世情の心得よく候べければ、貴殿だにへだてなく同志と同じくもてなされ候はゞ、同志の人情を知らぬ人よりは、事の相談よろしかるべく候。内々あしく聞きいてにくむ心ある所へは、いかほどよき道理の書物を御おん見せ候とも、かひあるまじく候なり。
一 來書略。十月の亥ゐの日を亥の子と申して、餅もちひを作りていはひ申し候事は、何としたるいはれにて候や。
返書略。和漢の故事候や、未だレ知ら候。愚見を以て道理を辨へ候へば、十月は純陰の月にて陽なく候。亥の月の亥の日は、いよ/\陰の極きはまりなり。陰極りて陽を生ずるものは母なり。生ぜらるゝものは子なり、餅は陽物なり。故に先人身の陽を調へて、天地の氣を助けんとす。陰陽相對する時は、陽を凌げり。君臣とし夫婦としても、君をなみし夫をかろしめ、やゝもすれば陰の爲に陽を破る事あり。ことに微陽は純陰に敵しがたし。子とする時は、養育して生長せしむ。故に陽を亥の子といへるか。日本は東方なれども小國なり。陽の穉ちなり。是故に別して陽を祝ひそだてんとする心にて有るべきかと存じ候。
一 來書略。具足のあはせめは、右を上うへにいたし候。具足屋に尋ね候へば、古來仕來しきたり候へども、其故を不レ知らと申し候。
返書略。「一たび戎衣じういして天下大に定る」と書經〔一たび戎衣して天下大に定まるとあり〕に見え候。甲冑は戎狄の衣服にかたどれり。南西北の人は、衣服左まへにして袖なし。又戎じうは兵へいなり。戎衣はつはものゝ服といふ義にて候はんや。兵服の初は、戎服にかたどりて戎衣と名付く。是によりて戎字をつはものと讀ませたるにや。えびすの服、つはものゝ服、兩義の中うち、左まへと袖なきとにより候へば、えびすの服の義初はじめたるべく候や。中國の人も、甲冑したる體ていは戎狄の形に似候。戎衣なるが故に右をうへにするにて可しレ有ると存じ候。むかし日本の鎧には袖といひて別に肩に付け候。是は矢を防がん爲盾たてに用ひたるものに候。近世は鐵砲渡りて、袖のたてゆきうすく候故に、次第に不レ用ひ候。異國の甲冑には本よりなきものにになり。

卷第二 書簡之二

一 來書略。武士たる者は、事あれかし高名して立身せむと思ふを以て、常とおぼえ候。又事なきこそよけれ、兵亂ひやうらんをねがふは無用の事と申す者候へば、武士の心にあらずなど云ひてあざけり候。いづれか是ぜにて候べき。
返書略。いづれも非にて候。文盲もんまうにして道學のわきまへもなき武士は、せめて武道一偏の心がけを第一として、只今にも事あらばと油斷せず、高名せんと思ひ、疊の上にて病死するは無念なる事に思ふも可なり。然れども浮氣にてさやうに思ふはひがごとなり。我高名せんと思へば、人も又同じ心あり。死生二ふたつに一ひとつなり。それまでもなく、弓矢鐵砲の憂あれば、死は十にして生しやうは一なり。高名立身を望みて事あれかしと願ふは、思慮すくなき事に候。十死一生を知らで理運に〔理運と利運―云ふ程の義なり。好運にて―頭注ママ〕高名すべき樣に思ひなば、なりがたき勢を見てはおくれを取る事もあるべきか。
其上天下の人、妻子等の嘆き苦しみを思へば、たとひかならず命を全うして、高名をきはむとも、一人の小知行のために萬人をくるしめ、人のなげきをあつめて名聞利用〔我が名譽利益―頭注〕とせん事、心にこゝろよからむか。仁人は國天下を得うとても好まざる事なり。兵書に云ふ、「凡およそ兵へいは過あやまちなきの城を攻せめず、罪なきの人を殺さず、人を殺して其國郡くにこほりをとり、貨財を利するは盜ぬすびとなり」といへり。
惡人ありて亂もいできよかし、高名せん、と思ふは不忠なり。其上富貴ふうき、貧賤、盛衰相かはれり。如きレ此ののわきまへありて、兵亂ひやうらんをいとふはよき心得なり。其わきまへもなく、武道武藝もきらひにて、やはらかにくらす便利のために無事を好めるは、しなこそかはれ、うは氣に何事ぞと〔何事か起れかしと―頭注〕ねがふ人に同前たるべく候。
よき武士ぶしといふは、あくまで勇ありて、武道武藝のこゝろがけ深く、何事ありてもつまづく事なき樣にたしなみ、さて主君を大切に思ひ奉り、自分の妻子より初めて、天下の老若らうにやくを不便におもふ仁愛の心より、世中よのなかの無事を好み、其上に不慮の事出來る時は、身を忘れ家をわすれて大なるはたらきをなし、軍功を立る人あらば、一文もん不通の無學といふとも、文武二道の士なるべし。世間に文藝を知り武藝を知りたる者を文武二道といふは、至極にあらず。これは文武の二藝といふべし。藝ばかりにて知仁勇の德なくば、二道とは申しがたかるべく候。
一 來書略。歌鞠うたまりは武士のわざにあらず。賴朝鄕の次〔賴家。その次は實朝〕は鞠をもてあそびて亡び給ひ、其次は歌を好みて絶え給へり。惣じて武家の弓馬におこたりて歌鞠かきくをもてあそぶは不吉なりと申し候。さもあることにて候や。
返書略。歌道は我國の風俗なれば、少しなりとも心得たき事にて候。
されどもいにしへの歌人は、本ありての枝葉えだはに歌をよみたるよしに候。本と云ふは學問の道なり。學問の道に文武あり。文武に德と藝との本末あり。文の德は仁なり。武の德は義なり。仁義の本立たちて後、弓馬書數禮樂詩歌のあそびあり。弓馬書數禮樂詩歌は文武の德を助くるものなり。文武の道をよく心得て、武士をみちびき民を撫なでをさめ、其餘力を以て月花にも野やならず、歌をもてあそばれ候はゞ、花も實もある好人かうじんたるべく候。
賴朝鄕の末のおとろへは歌鞠かきくの罪にあらず。其本の不るレ立たた故なり。〔論語學而篇の君子は本を務むの義〕本たゝざれば武道の心がけに過て亡ほろびたる家も、和漢共にあまたあれば、これも武道の罪と可レ申候や。本を捨てゝ跡にて論ぜば、はてしあるべからず候。鞠は親王しんわう門跡などのれきれき、武士のやうに鷹がり歩行もなりがたく、輿車の御ありきも度々なりがたければ、門内にばかりおはしまして、氣血欝うつしとゞこほり給ふ欝散うつさんに、鞠など御相手だに惡しからずば苦しかるまじきか。それとても學問家業つとめ給ひし上に、御養生の爲ならば然るべし。いづれにても遊びを專もつぱらとして本なきは、あしき事にて候。
一 來書略。勇は?勇ちんようがよきと承はり候。されど刀もかねよきはうち見るよりきれぬべく存ぜられ候。人の武勇ぶようも強弱如レ此と存じ候。尤も?勇もあるべく候へども、それは百人に一人にて、大かた見聞の及ぶ所たがはざるかと存じ候。
返書略。まことに刀のきるゝと切れざるとは、かねにて見ゆる事に候。むかしは今の樣にためしものと云ふ事まれなる故に、只自分の目にてかねよき刀を目利して求めさしたると申し傳へしなり。我等もそれに心付て見習ひ候へば、大かたあたり候。かねのきたひよく精神あるが如く、はきとしたるはきれ申し候。かねかたくても精神なく石の如くなるや、錬きたひたるやうにてもやはらかに鈍きは切れず候。此善惡は少し心づきぬれば見え申し候。又大かたにては見えがたきかねあり。にぶきに似て、どみ〔鈍か曇か。冴え/\せぬ義〕たるやうにて然さはなく、空の曇りたるが如く、淵の深きが如くにて、さえ/〃\ときたひよきところは見えざるあり。
是はすぐれたる大きれものにて候。?勇も又如しレ此くの。この品々はさしおきて、武士たる者は、皆武勇あるべきことわりの者にて候。刀は皆きるゝ能あるものなり。柄つか鞘さやして金銀糸いとを以てかざり、はやからずおそからず、よきほどにつめてさすものにて候。武は文を以てかざるべき理りなれば、勇は仁を以てをさめて、平生へいぜいは禮儀正しく仁愛ふかきがよく候。〔論語に「勇にして禮なければ(*原文「な」欠字)則ち亂る。」と〕刀脇指のはやきは、自然の時の用までもなく、身のあやまち近きにあり。貴方の勇氣は小脇指のはやき樣に候。間あひだよき程につめて御さし可くレ被レ成さ候。
其上勇力にほこるものは損多く候。其善を有すればその善を失ひ、其能に矜ほこれば其功を失ふとは、古人の格言なり。勇いさみだてする者をば人がにくみて、少々の手柄ありてもほめず、かへりていひ消し候。扨さて何事をぞ構へて越度をちどあらせんとし、又すぐれたる手柄ありても、大身だいしんになりがたきものに候。されば常に敵てき多くてやすき心なく候。むかし三十年、甲冑かつちうを枕とし山野を家として、度々高名あるのみならず、武道の事巧者なる者ありき。
若きともがら打寄よりては、此老人を請しやうじまうけ、武道の物語を聞き候處、其人のいへるは、吾は人のいふほどの手柄もなし、わかき時より愛敬あいけいありて、人に愛せられたる者なり。この故に世に高名かうみやうあり。武篇ぶへん〔篇は邊なり。武道〕の極意は愛敬なりといへり。何事も至極にいたれば道に近く候。
一 來書畧。生しやうは天の吾を勞するなり。死は造物者の吾を安やすんずるなり。狂者〔論語に狂者は進取す、とあり〕の親の喪にあうてうたふ道理なり。みづからの死生を思ふ事尤も同じと。しかれば生しやうをにくみて死を好むとも可くレ申す候や。
返書略。勞安の義二つにあらず。晝夜を以て見給ふべし。夜はいねて安く、晝はおきて勞す。しかれども、夜のやすみ極りぬれば晝の勞らうを思ひ、晝の勞つかれ極りぬれば夜の休やすみを思ふ。死生勞安は時なり。只造物者のなさむまゝなり。私意を立たてて好惡すべからず。狂者は凡人の生しやうを貪り死をにくむの迷を矯たむべきが爲に過言くわごんあるものなり。其見所けんしよ天人陰陽の外ほかに出たり。聖人もとより此心なきにあらず。しかれども中行ちうかうはくはしきが故に其見けんを忘れ、狂者はあらき所ありて見を忘れず。大智たいちは愚なるが如し。〔蘇東坡の文中に見ゆ〕物あれば則のりあり。聖人は道と同體なり。天地萬物の則なり。何ぞ見解を立たてて物理を破らんや。しかれども狂者の心も又よみすべし。
一 來書略。拙者在所に人相を見るものあり。何なにとぞ本ある事にて候や。
返書略。本ある事にて候。相書さうしよに云ふ。「惡乃あくのいましは禍之兆わざはひのきざし、善乃ぜんのいましは福之基ふくのもとゐ」とあり。これ相の極意にて候。
一 來書略。拙者在所に氣逸物きいつもの〔かはり者の義か〕なる者あり。知行二百石の身上しんじやうなりしが、死期しごにのぞみて其子にいふやう、「天下はまはり持なるぞ。油斷すな。」とて相果て候。天下の武士たる者、此心なきはふがひなき樣に申す者あり。然さらば無學の人は臣にしても賴みがたく候。勢ひのおよばぬ故にこそしたがひ仕へ候へ。とりはづしては皆主人をも失ひ可くレ申す候や。
返書略。天下の武士の心は知らず候。惣じて天下は父祖より受來りしならば是非に及ばず。好このみてのぞましきものにあらず。國郡も又同じ。野拙やせつはおそれながら大樹君くんを代官とし奉り、治世ぢせいにゆる/\とすみ侍ると存じ候へば、かやうのありがたき事なく、萬萬歳ばん/\ぜいといはひ奉り候。貧は士の常なれば、樂しみこれに過べからず。許由が耳を洗し心も、〔堯が天下を讓らんと云ひしを聞き、耳を穎川に洗ひし故事〕堯帝を代官として山水をたのしむに、何の官位にか加ふべき。
我に天下をゆづらむとは、人の代官をせよとか、二度ふたたび此事をきかじとて耳をあらひしものなり。何の苦勞なくたまはるとも、國も天下も所望になく、君子は故なきの利を禍とす。國天下は、道を得て持たもつは大安なり大榮たいえいなり。道なくて持たもつは大危たいきなり大累たいるゐなり。これ有るは是なきにはしかず。天災人亂及びては、匹夫たらん事を求むれども免れずと云へり。此故に先祖より受來りたる國天下を輕く思ひ、我欲の爲に失ふはひが事なり。聖人の大寶たいはうを位といひて、富貴なくては萬民を救ひ助くる事なりがたし。
受けきたり候天下ならば、仁政を行ひ、天下を安靜ならしむるを樂みとする儀にて候。義もなくてもとむると、我にあるものを輕くしてすつると、同じく無道ぶだうの至りに候。夫利欲の人は、天威のおす處にてかなはざればこそ、臣となりてかしこまり候へ、勢ひだにあらば大かた主君をも失ひ申すべく候。是を以て漢の高祖は我頸をねらひたる者を知りながらたておかれ候。〔雍齒を封じたる事を指せり〕人情を知り、且つ天下の歸する所は、人力に及ばざる事を得心ありたる故にて候。
一 來書略。節分の夜、大豆まめをいり福は内へ鬼は外へといひ、鰯の頭かしらをやきて戸口にさしなど仕し候事は、ゆゑもなき世俗のならはしと存じ候。然れども俗にしたがひ可くレ申す候や。
返書略。秋冬は陰氣内に有りて事を用ひ、陽氣外にある故に、立春の旦あしたより陽氣内に入て事を用ひ、陰氣外ほかに出いづるのかはりめなり。されども餘寒甚しき故に、大豆まめをいりて陽氣を助け、屋のすみ/〃\までも陰陽のかはりを慥たしかにしたるものたるべく候。鬼は陰なり。今宵より外ほかに出るなり。神は陽なり。神は福をなす。今宵より内に入て萬物を生ずるなり。鰯は衆を養ふ物にて、仁魚なるに依よりて、邪氣其香かにおそるれば、邪氣をはらはむとなり。柊木ひゝらぎを加ふる事は、世俗鬼の理ことわりを知らでなしたる事か。鰯のごとき理りのあるか。いまだ知らず候。
一 來書略。今時なま學問する人は、ものをやぶる樣に被レ申候。世中よのなかのわけもなき事をやぶるは尤もにて候へども、何をもかをも理屈にておし候へば、神道も王道も立ざる樣に成行き候。無の見けん〔一切の物を否定する老佛學者の見解〕と申すあらき異學の風の如し。いかゞ。
返書略。古今異學の悟道者と申すは、上古の愚夫愚婦なり。上古の凡民には狂病なし。其悟道者には此病あり。先づ地獄極樂とて、なき事を作りたるにまよひ、又さとりとてやう/\地獄極樂のなきといふ事を知りたるなり。無懷氏ぶくわいし〔伏羲氏の後、神農氏以前の支那上代帝王の名〕の民には本よりこのまよひなし。是を以て、さとり得てはじめて昔のたゞ人になると申す事に候。たゞ人なればせめてにて候へども、其上に自滿出來て、人は地獄に迷ふを我は迷はずとおもひぬれば、地獄のなきと云ふ一事を以て、何をもかをも無しとていみ憚かる所なく候。儒佛ともに世中に此無の見はやりものにて候。
一 來書略。佛敎を内典といひ儒敎を外典と申し候事は、心を内といひ形色けいしよくを外と申しはべれば佛敎は心法なり、儒敎は外とざまのしおき法度なりと申す儀にてあるべく候。又儒、道、佛の三敎は有う、無、中なり。いづれにも靈妙なきにはあらざれども、つかさどる所、儒は有相うさうの上の道なり。道は無相を至極とせり、佛は中道〔中正不偏の道―頭注〕なり、有無中かねて機によりて説くと雖も、畢竟は中道實相〔物の有の儘のすがた―頭注〕に歸著すといへり。いかゞ。
返書略。形色あるものは皆無より生じ候へば、有無もと二にあらず。中と云ふは天理の別名べつみやうなり。有無に對する中にはあらず。堯舜始て易の心法を發明し給ひて中と名付け給へり。則ち天下國家の平治齊とても、中の外無く二二心一無し二二道一。天理の我にありて未だレ發せ、之を中と云ひ、天理の我にありて已に發する、是を和くわと云ふ。修身、齊家、治國ぢこく、平天下は已發いはつの和くわなり。則ち中なり。物の天理の至精を得て、至易至簡なるを中と云ふ。則ち和なり。
佛氏といへどももと有無を二にせず。色即是空これなり。聖學といへども有無中を別にせず。形けいと色しきとは天性なりと。佛氏といへども、有無の中には留まらず。佛書に云ふ、「心性不動。假に立つ二中の名を一。亡泯もうみん三千。假に立つ二空稱を一。雖もレ亡すと而存す。假に立つ二假の號を一。」道者といへども無に偏らず。後世の奢をとどめ僞いつはりをひらきて、太古朴素ぼくそ淳厚の風をかへさんと思へり。佛仙共に聖學の徒なり。語も理もいづくより取來らんや。儒には聖學の傳來明言を失ひて、かへりて仙術にのこりとゞまること多し。先天の圖を仙家せんけに得たるにて得心あるべく候。本聖人の門より出たることを辨へず、仙佛のいふ事なれば皆異端の語として忌みさけぬ。
彼も聖門のよきことならでは取用ひず、三代の禮樂も浮屠に殘れる事あり。人道にはかへりて戰國の久しかりし間にとり失ひたること多し。されば聖學の至言は皆異端に與へて、儒は土苴たさ〔ごみくた―頭注〕(*ママ)を取ぬ。凡て道德の高下淺深を論じ、語の似たるをあはせて同異をいはゞ、盡つくる期ごあるべからず。内典、外典の名は佛者より云ふといへども、實は儒者の招く處なり。秦漢より以事このかた、士君子たる人道統の傳を失ひて、執るレ中をの心法を知らず。道德甚だ下くだれり。故に儒者の道は只如きレ斯くのものと思へり。されば高明かうめいの人は多く佛に入り仙に入る。道家も後は天仙の旨を失ひて地仙に落たり。是も又心法を絶す。只佛者のみ心法をいへり。之によりて佛法を内といひ儒道を外といへり。
一 來書略。此ほどおもしろきむかし物語を承り候。明慧〔高辨上人なり。北條氏初世頃の僧〕と解脱〔貞慶上人の諡、建保元年寂す〕と同道して路次を過られはべりしに、かたはらに金銀多くおとし置きたり。解脱是を見て、こゝに大蛇ありとてよけて通り、四五町行ゆきすぎて又云ふ、「先の物は定めて他人見つけたらば悅びて取るべし」と、明慧云ふ。「重きにこゝまで持來り給ふや」と。解脱の心は、鬼よ蛇じやよなどいひて、人を害するものありとはいへども、見たる者なし。金銀に命をとらるゝ者は、眼前に數をしらず、誠に大蛇なると云ふ義なり。此類の見解を以て、世俗のまどひを出たるものなり。明慧は金銀も石もかはらも同じく見なして、とかくの見解なし。誠にはるかに高き心地にて候。聖賢の心位と申すともかはりあるまじきと存じ候。
返書略。兩僧の内にては心位の淺深ありといへども、聖學よりみればいづれも見解にて候。心地自然にして物なしとは申しがたかるべし。柳はみどり花は紅と、それぞれに物の輕重けいぢうは輕重にして置て、我あづからざるぞよく候。金銀と土石と同じく見るといふも、見解を以て作りたるものなり。無物自然の心にて見侍らば、我こそ金銀はいらずとも、世間の人の寶とし、世をわたり人を養ふ物なれば、之をおとしたる者は、主人のものか人の使か其身の一跡いつせき〔資産の全部―頭注〕か、人によりて身代をやぶり命を亡すにいたるべきは不便なる事なり。大かたの人見付なば、悅び取とりて我物とすべし。
我等の見たるこそ幸なれとて、拾ひて近里きんりのしかるべき者に預置き、落し主にかへすべき謀はかりごとあらんこそ、天性の仁愛なるべけれ。明心の靈をふさぐこと、品ことなりといへども、そのおはふ〔壅蔽する―頭注〕所は一なり。世俗は物欲のちりを以てふさぎ、學者は見識を以てふさぐものなり。其見至所ししよに近きが如くなるも、其傳來のよる所天に出ざるは、終に正道をなす事なし。道の行はれざる事かなしむべし。
一 來書略。陽氣に我意なる者は、軍陣にてよからぬと申す説候。又利害かしこき者は、武篇鈍きと申し候。強弱の見樣ある事にて候や。
返書略。加藤左馬助〔嘉明―頭注〕の宣へる由にて承り候。諸士の武篇に目利あり。たゞ理直りちぎなる者、大かた武篇よきと心得べしと。又越後の景虎〔謙信―頭注〕の宣ひしは、武篇のはたらきは武士の常なり。百姓の耕作に同じ。武士は只平生の作法よく、義理正しきを以て上じやうとす。武篇のはたらきばかりを以て知行をおほくあたへ、人の頭かしらとすべからずと。名將の下もとに弱兵なき事なれば、大形おほかた士は武篇よき者とおぼしめさるべく候。陽氣に我意なるものとても、臆病なる生付にてはなし。
たゞ習ならひにて何心なく、其身にはそれをよしと覺えての事にて候。理直なる者にうは氣をしかけぬれば、常ならぬ事故堪忍不レ仕候。其時に思ひがけぬ事にて行ゆきあたり、體てい見苦しく候。又分別だてにて利害おほき者は、常に義理を心がけざる故に、自然の時(*まさかの場合)義理をかき候へば、臆病とも申し候。陰極きはまりて陽を生じ陽極て陰を生ずるなれば、平生陽氣なる者は、陣中にては腹立たちてなすべき所にもあらず。弓矢鐵砲の音にてうかびたる陽氣は皆けとられ〔けづるの義にて奪削せらるゝ意か〕、常々臍ほぞの本にたくはへたる勇氣のたしなみもなければ、おもひの外常の我意出ざる故、なみ/\にても目に立ち申し候。
龍りようといふものは、羽なくて天に昇るほどの陽氣の至極を得たるものにて候へども、平生は至陰の水中にわだかまり居ゐ候。是を以て眞實に武勇ぶようの心がけある人は常々の養やしなひをよく仕る事に候。
一 來書略。儉約はよき事なれば、人々用ひたく存じ候へども、なりがたく、奢はあしき事と思ひながらも、やむる事あたはずして、日々におごり候事はいかゞ。
返書略。儉約と吝嗇と器用と奢とのわきまへなき故にて候。儉約は我身に無欲にして人にほどこし、吝嗇は我身に欲深くして人にほどこさず。器用は物を求めずたくはへず、あれば人にほどこし無ければ無き分に候。奢はたくはへおかず器用なるやうに見え候へども、其用所ようしよは皆我が身の欲のため、榮耀ええうのためにて候。奢おごりて用足らざれば尤もつとも人にもほどこさず。しかのみならず家人をくるしめ、百姓ひやくしやうをしぼり取、人の物を借てかへさず、商人あきんどの物を取て價あたひをやらず。畢竟穿踰せんゆ〔論語陽貨篇、其れ猶穿?の盜の如きか、と〕に同じき理を知らで、奢は器用なる樣に思ひ、儉約といへば吝嗇と心得候。又吝嗇なる者の儉約の名をかるもある故にて候。
一 來書略。同志の中に、世擧こぞりてほむる人御座候。流俗にあはせて然るにはあらず。しかれども本來は、よき人にはよくいはれ惡しき人には惡しくいはるゝこそ、眞のよき人にてあるべく候へ。されど勝れて好よきをば、なべてよく申すことわりにてもあるべく候や。
返書畧。此人の人がら十が八はよし。二とても惡きにはあらず。たゞ此人の疵きずなり。其疵ある故に諸人しよにんほめ申し候。善人は其疵は見候へども、玉のきずにして大躰よく候へば、其よき所ばかりほめて疵をばあげず、こゝを以て世擧こぞりてほむることわり尤もに候。しかれども其疵は終に弊つひえあるものなる故、諸人の爲にもそしらるゝ事出來るものなり。はじめより其疵なければ、小人せうじんのためにはそしらるゝにて候。全く君子なれば、全く小人のためにはあはざる事多し。其謗そしりは君子の美にして疵にあらず。其人にあらざれば此二ふたつの道を知るべからず候。
一 來書略。我等われらの國には江西こうせい〔近江なる中江藤樹の學風なり〕の遺風をしたふ者餘多候へば、貴老御おん弟子の内一人申し入れ度く存じ候。
返書略。拙者には弟子と申す者は一人もなく候。師に成べき藝一としてなき故にて候。醫者の醫業を習ひて一生の身をたつるか、物よみの博學を學まなびて物よみを産業として一生をおくるか、扨さては出家などの其宗門を繼つぎて寺を持ちなどするは、おのづから師弟の契約なくて不るレ叶は事に候。拙者は麁學そがくにて、人に文字讀もじよみにてもはか/〃\しく敎うべき覺悟なく候へば、何にても人の一生をおくるたよりになるべき事を不レ存ぜ候。少し文武の德に志ありて、聖學の心法を心がけ候へども、自己の入德の功さへおぼえなければ、まして人の德をなし道を達して門人あらん事は、思ひもよらぬ事なり。
世に愚がおよばざる才力あり氣質の德ある人々の志の相叶ひたるは、語りて遊び申し候。其人々愚ぐが少し心がけたる心法を尋ねられ候へば、ものがたりいたし候。高かうをする〔高を欲する者の高處に上るを云ふ〕者の丘陵による如く、美質故に少し聞れても、愚が多年の功に勝り候へば、かた/〃\以て皆益友に候。武士の歴々弓馬の藝を敎へらるゝも同じ事に候。先へ學びて巧者なる人は、後より習ふ人にをしへられ候。武士は相たがひの事にて候へば、をしへて師ともならず恩ともせず。國のため天下のため武士道のためなれば、器用なる人にはいそぎをしへたてられ候。習ふ人も其恩を感じて忘れざるばかりなり。醫者・出家などの如くに、師弟の樣子はなく候。只本よりのまじはりにて、志の恩をよろこび思ふのみなり。
我等道德の議論をしてあそび候心友しんいうも、又かくのごとし。心友なるが故に、たがひに貴賤をば忘るゝ事に候。全く師と不ずレ存ぜ、弟子ていしにても無く候。我等學問仕らざる以前より、常の武士にて奉公致し居り申し候故にこそ、右の如く人々にものがたりも仕り候へ、もし牢人〔浪人―頭注〕にて學問致し、學問の名を以て奉公に呼び出いだされ候はゞ、罷出まかりいで申すまじく候。似合敷にあはしき武士の役儀を勤る奉公ありて、其上には苦しからず候。今時歴々の武士の奉公に出らるゝも同前に候。武藝のあるは其身の嗜たしなみにて、世のつねの奉公人にて、其上に志の相叶あひかなひてかたり候人に、おぼえたる事を敎へらるゝは、苦しからざる事なり。初めより藝能をおもてにしては、歴々の武士は出いでられず候。
一向いつかうに物讀ものよみと成なつて出いづるか、武藝者と成て出る事は、又一道にて候。心法は五等の人倫の内々に用ひる身のたしなみなり。武藝は武士の役儀の嗜にて、其嗜にする人の内にて、勝れたるは人の手本となるまでに候。手本とはならでも、巧者なる者は器用なる人を取立て候事も候。
一 來書畧。道に志ある者の、時として飮食いんしい男女だんぢよの欲にうつる事あるは、志の實ならざる故ならんか。又道に志なくても(*ママ)行儀よき者あり。先生いづれをかとり給はむ。
返書畧。心は無聲無臭〔書經に上天のことは無聲無臭とあり〕のものに候へば、見がたき事に候。志ありといふ人も、隱微の地の實不實不レ存ぜ候。又志なくて行儀よき人も、隱微の所しるべからず。去さりながら父母兄弟けいてい妻子を古鄕こきやうにおきたる人は、一旦他國に遊び候へども、終つひにはもとに歸るべく候。形氣けいき衰ふるにしたがひて、道より外に行く所有あるまじく候。
志の不實と申すにてはなし。實はあれども明めいのしばし蔽おほはるゝ所ありてなり。只今飮食いんし男女の欲もうすく行跡かうせきよくても、心志しんしの定さだまる所なき人は、父母兄弟妻子のあつまりたる古鄕なくて、只一人身のうきたる如くなり。しからば往々ゆく/\何國いづくにとゞまるべきやらん、はかりがたし。今日のよきは、精力強くして、愼みの苦にならざるか、名根みやうこんの深くてなすわざか、もしは生れ付ついて形氣けいきの欲うすき者もあれば、其たぐひなるべく候。
形氣おとろへ行ゆくにしたがひて、本の志たる道德は無し心は昧くらし、あぢきなくして後世ごせなどに迷ふもあり。愼みおとろへて亂るゝもあり。行過ゆきすぎて異風になるもあり。一旦のよきはたのみにならず。月夜つきよのしばし曇たると、闇の夜よの晴はるるとの如し。雲ありともたのむべし、雲なしとも賴むべからず候。
一 來書略。此比このごろ爰元こゝもとにて、友の喧嘩仕出しいだしたる所へ行ゆきかゝり、見すぐし難くて助太刀致し候處に、先の者多勢おほぜい故に、兩人ともに討たれ申し候。本人は定業ぢやうごふとも可くレ申す候。行ゆきかゝりたる者は無き二是非一事に候。非業の死たるべく候や。〔定業・非業―定まれる業報と非命の死と〕
返書畧。定非ぢやうひの事は不レ存ぜ候。總じて喧嘩はよき武士はせざることに候。大かた禮儀のたしなみなきか、また怒氣の爲にをかされて仕出しいだす事に候。然れば人爲じんゐの禍わざはひにて、命めいとは申されず候。行ゆきかゝりたる人は何心もなく候へども、友の難を見ては過ぎられぬ義理にて、助太刀したるにて候へば、撃たれても其人のあやまちにあらず候。是こそ誠まことの命ある事と可くレ申す候。死すべき義理なくて、我あやまちにて作り出いだしたるは、喧嘩によらず命にては無く候。義ありて死するはこれ命にて候。是を以て君子は巖墻がんしやうのもとにたゝず候。〔孟子に、命を知る者は巖墻の下に立たず、と〕
一 來書略。祭る事はそれ/〃\の位にしたがふ事と承り候。天地三光〔日、月、星―頭注〕天下の名山大川たいせんは、天子これを祭り給ひ、其國の名山大川、國に功ありし人をば、諸侯これを祭り給ひ、聖賢をば其子孫をたてゝ祭らしめ給ふ。大夫・士庶人各品あり。しかるに日本にては、上下じやうか男女なんによともに天照皇太神てんせうくわうたいじん(*原文ルビ「てんせうくわうだいじん」)へ參り候。天子の外は國主とても成なるまじき事にて候に、非禮ひれいなるかと存じ候。しかるに貴老其非禮にしたがひ給ふ事は心得ず候。
返書略。もろこし人の、禮あるの外には神を祭らざる事は、利心りしんを以て神を汚けがす事を禁じ、且かつ邪術をしりぞけたり。しかのみならず、罪を天に得ては祈るに所なき道理をあかし、情欲の親おやに仕つかふるまどひを解きて、人々の親則ち至神しいしん至尊しいそんなり。尊神そんしんの子なれば、我が身則ち神の舍やどりにして、我が精神則ち天神と同じ。仁義禮智は天神の德なり。從つて行おこなふは常に天に仕へ奉るなり。其禮を用ひて祀れば福さいはひあり。其道にそむきて祭る時は禍わざはひ至るの義なり。日本は神國しんこくなり。むかし禮儀いまだ備らざれども、神明の德威嚴厲げんれいなり。在いますが如くの敬を存して惡をなさず。〔論語に、祭るには在すが如くす。神を祭るには神の在すが如し、とあり〕神に詣でては利欲も亡び邪術もおこらず。天道にも叶ひ、親にも孝あり君にも忠あり。
只時・所・位の異なるなり。それ天子に直ぢきにもの申し奉る人は、公卿侍臣のともがらなり。それより下したは次第のつかさ/\ありて、可きレ奏すことは其つかさに達するなり。况して土民などは、其御門内の白砂しらすを踏む事だにせざるに、帝堯は鼓〔前出の諫鼓なり〕をかけおかせ給ひて、「農工商によらず直ぢきに可き二申し上ぐ一子細あらば、此鼓をうて。吾出て聞む。」と詔みことのりあり。下しもにてことゆかずいきどほりある者は、皆直ぢきにまゐりて其いきどほりを散ぜしなり。民の心に、たゞ父母にものいふ如く思ひたり。日本の太神宮御治世ごぢせいの其むかし、神聖の德あつく、よく天下を以て子とし給ひ、下民かみんに近くおはしましたる事、堯舜の如くなりし、其遺風なり。後世の手本として、茅葺かやぶきの宮殿くうでんの殘り給ふも同じ理にて候。其上神とならせ給ひては、和光同塵の德にて、帝位の其時とは違ひ、國の風俗にて誰たれもまゐりよき道理にて候。野拙はたゞ其聖神せいしんの德をあふぎ奉るばかりなり。
太神宮は御治世のみならず、萬歳ばんぜいの後までも生々しやう/〃\不息ふそくの德明かにおはしまして、日月の照臨せうりんし給ふが如し。參りても又おもひ出しても、聖師に對むかひたるがごとく、神化しんくわのたすけすくなからず。古の聖王は君師くんしと申して、尊たつとき事は君なり、親しきことは師なり。只聖王のみならず、靈山川れいさんせんのほとりに行きても、道機だうきに觸ふるるの益すくなからず。これ又山川の神靈の德に化する故なり。其上祈ると祭ると義ことなり。天をば天子ならでは祭り給はねども、祈るに至りては士庶人も苦しからず。其例ためしもろこしにも多し。
一 來書略。先度せんど勸請くわんじやうの宮社きうしやを、非禮なりと承り候へども、神道しんだうの意はしからずと存じ候。鳥居を入いるより、誠敬せいけい自然と立たちて心新あらたなり。社前に至りて拜する所に傳受あり。此心をだに存養そんやういたし候へば、家ごとに孝子、國皆忠臣と成て天下平たひらかなり。所々に勸請なくて不るレ叶は義と存じ候はいかゞ。
返書略。たとへば洛陽〔京都―頭注〕にては賀茂の御社みやしろ一所にても、人の敬けいを立つることは足り候べし。昔は數々の勸請なかりし證據ども候。其勸請の習おほく候はゞ、さしも天下の奢をきはめし平淸盛、藝州の嚴島をば、疾く都のあたりに勸請して、おびたゞしく美を盡さるべく候へども、はる/〃\と西海まで詣でられしこと、淸盛には奇特きどくなり。いにしへも原廟げんべうを作るとて、大に忌みたる事なり。昔たまさかに原廟を作れるも、靈地を見たてゝ移し、卒爾にはせざるだに非禮おほく候。其後は靈地をも撰ばず、みだりに多ければ、神を汚し威をおとし、敬するとて大なる不敬に至り候ぬ。佛家を以ても御覽候へ、塔〔舍利を藏むるため、供養のため、報恩のため、靈域を表する爲等にて建つるもの〕は佛舍利のある所を知て、禮拜らいはひ(*ママ)の心を生ずべきがためなりと申し候へども、むかし山林にある伽籃にたまさかに在るこそ、さもあるべく候。
今は町屋と爭ひ建ならべたる塔なれば目なれて、昔たま/\ありし僧法師の敬禮けいらいの心も絶はて候。其上聖人の敎は、其親しんを祭りて敬の本を立て候。親の神すなはち天神と一躰にて候。性命より見れば至尊しいそんの聖神なり。他たに求むべきにあらず。むかし老いひがめる親もちたる者あり。或時子に向ひ言ひけるは、「手足もたゝずしてかく養はるゝは、この家の貧乏神なり。早く死度しにたく思へども、つれなき命なり」と。其時子跪ひざまづき愼でいへるは、「我家わがいへの福神ふくじんは父君にておはしまし候。つかふまつること誠まことうすき故に福いたらず。しかれども斯くおはします故にこそ、とかくして妻子をも養ひ候へ。たゞいつまでもおはしますやうにと願ひ候なり。」老親笑ひて云ふ、「用にはたゝずして人を使ふのみならず、色々の好みごとをせり。我ほどの貧乏神はなきに、福神とは何としていふぞ」と。
子の曰はく、「昔より今に至る迄、色々の願をたて難行をして神佛に祈るもの多く候へども、福を得たる者一人もなし。親に孝行にて神の福をたまはり、君のめぐみを得たる者は、倭漢共に多く候。しかるに目の前にしるしある家内の福神には福を祈らずして、しるしもなく目にも見えぬ所にいのり候。親に孝行をして福を得ずとも害あらじ。神佛に祈りて福を得ざるのみならず其損多く候。今我わが福神にひがみ給ふ御心ある故幸さいはひなきにや。」と、顔色がんしよくをやはらげて云ひければ、其時老親うちうなづきて得心しぬ。それより後僻ひがみもやみ、いかり腹だつ事なし。家内のものも仕へ能よく成りぬ。
一 來書略。庶人の父母には、男女だんぢよの侍坐じざして仕ふる者なき故、子たる者夫婦みづから養やうを取り候。たま/\一二人男女の召仕ふべきありといへども、農事を務め食事にかかりなどすれば、近づき仕ふべきいとまなし。其上定さだまりたる祿なき故に、用を節し身をつゝしみて父母をやしなふを以て孝とすと御座候。士大夫より以上の人は定りたる祿あれば、養ふことは云ふに及ばず。また卑妾ひせふあれば、朝夕の給仕の心やすき事、子にかはる故に仕ふるにも及ばず。其身の位々くらゐ/〃\に道を行ひぬれば、父母の養ひも備り、父母の心安やすうして氣遣もなし。且祭祀におこたる事なし。是故に職分を務むるを以て孝行とすと承り候。まことにさやうになくて不るレ叶は事と存じ候。然るに文王みづから父母につかへ給ふが如くなるはいかゞ。
返書略。これも又時なり。いつもさやうに有るべからず。たま/\事なきの折ならん。天子は天下を順にし給ふが親おやの事なり。諸侯は其國をよく治をさむるが親の事なり。大夫は政事を任じて私わたくしなきが親の事なり。士は尊び二德性を一道よる二問學(*原文ルビ「ぶんがく」)に一〔禮記に出づ〕(*中庸か。)が親の事なり。農は天時てんのときをあやまたず地理ちのりを精くはしうして、五穀生長するが親の事なり。工は職を上手につとめ、商はよく財を通ずるが親の事なり。其事に當つて其事をつとむるは、皆親につかふまつるの事なり。時としていとまあらば、父母のあたりに侍らでも叶はず。吾身もと親の身なり。吾れ立てレ身を行ふはレ道を、皆親の立てレ身を行ふレ道をなり。千里を隔つといへども父母にはなれず。
一 來書略。論語の首章しゆしやう〔子の曰く、學んで時に之を習ふ、亦説しからずや。朋有り遠方より來る、亦樂しからずや。人知らずして慍いからず、亦君子ならずや〕、文理あらまし通ずといへども、心に滿たざる所あるが如し。
返書略。説よろこぶは自家の生意せいいなり。境界きやうがいの順逆によつて損益なし。樂たのしむは物と春を同じうす。一躰の義なり。不るレ慍いからは只に吾德を人の不ずレ知らといふのみに非ず。忠臣を不忠と云ひなし、直を不直と云ひ、信を不信と云ひ、しかのみならず流罪・禁獄・死刑に及ぶの逆も、人不るレ知らの内にあり。泰然として人をも尤とがめず、天をも怨みず。炎暑に霍亂くわくらんして死するが如く、極寒ごくかんに吹雪に遭ひたるが如し。
天道の陰陽・人道の順逆其義一なり。悅樂は順なり、人の不るレ知らは逆なり。人生の境きやう樣々ありといへども、順逆の二ふたつに洩れず。小人は順にあふては奢り、逆にあふては悲しむ。春秋を常として夏冬なからん事を思ふが如し。君子は順にあうては物をなし、逆にあうては己をなす。春夏にのびて秋冬にをさまるがごとし。富貴福澤ふくたくは春夏の道なり。貧賤患難は秋冬の義なり。四時しいじは天の禍福にして、禍福は人の陰陽なり。屋やsssの南面みなみおもては夏涼しくて冬?あたゝかなり。北面きたおもては夏熱くして冬寒し。人の南面は我が北面となる。屋を竝べ生をともにして、世にすむものゝ自然の理りなり。富貴、福澤、貧賤、憂戚いうせき、相ともなふ世の中なり。誰をかうらみ誰をかとがめむ。

卷第三 書簡之三

一 來書略。性、心しん、氣いかゞ見侍るべきや。
返書略。太虚は理のみなり。云へば只一氣なり。理は氣の德なり。一氣屈伸して陰陽となり、陰陽八卦はつけとなり、八卦六十四(*六十四爻)となる。それよりをちつかた〔遠方―頭注〕、一理万殊ばんしゆいひ盡すべからず。天地万物(*ママ)の理りつくせり。理を主しゆとしていへば、氣は理の形なり。動靜は太極たいきよくの時中じちうなり。吾人の身にとりていへば、流行するものは氣なり。氣の靈明なる所を心といふ。靈明の中に仁義禮智の德あるを性といふ。靈明と云ひて氣中別にあるにあらず。譬へば爐中ろちうの火のごとし。虚中なる所に至りて明かによく照せり。明かによく照す所に條理あり。
一 來書略。身死して後、此心はいかゞなり候や。
返書略。冬に至りては夏の帷子かたびらをおもふ心なし。夏に至りては冬の衣服を思ふ心なし。此形かたちあるが故に形かたちの心あり。此身死すればこの形の心なし。
一 再書略。しからば顔子孔子の門人、顔囘〕の死後も盜跖〔孔子と同時代の大盜〕が死後も同じきか。
返書略。此性此形けいを生じて、形けいのために生ぜられず。又形けいの死するが爲に死せず。惡人の心には今よりして性理をしらず。死後を待つべからず。君子の心は今よりして形色けいしよくに役えきせられず。死生を以て二にせず。又死後をまたず。
一 來書略。世間に人のほむる人に、さしもなき道を信ずる人はいかゞ。
返書略。それは善よきこと好きといふものにて候。定見ぢやうけんなき故に本の邪正じやしやうを深く考へず。心術をかり理りをかりて、さもありぬべくいひなせば、はやよき事として信じ候なり。君子もよきこと好きにては候へども、性命に本づきて善を好み候なり。かり物〔僞なり。衷心(*原文「患心」)より出でざる善事なり〕は是ぜに似たるの非なれば、大に戒められ候。
一 來書略。愚兄御存知のごとく、作法正しく慈悲に候へども、子孫おとろへ仕合あしく候は、いか成る故にて有るべく候や。
返書略。人見てよからざれども、天の見ることよきあり。人見てよけれども、天の見ることよからざるあり。貴兄を見申し候に、愛情もありと見え、行儀は隨分正しく候へども、作法の正しきは生付にて學によらず、愛情も婦人ふじん(*原文ルビ「ぶじん」)の愛にて、人民を惠むに至らず候。救はずしても苦しからざる者には施こし、下々の難儀をば知り給はざるが如くに候。百姓等をば水籠みづろう〔水牢なるべし。水を湛へ(*原文「堪へ」)たる牢屋〕に入いれなどして、病付たる者どもあり。
罪なきのみにあらず、貴兄を養ふものを却て苦しめられ候。其妻子の歎き、不罪ふざいの人のいたみ、天地神明をうごかすべく候。知らずといはば、其天職をわすれ天威をつゝしまざるなり。知りてせば不仁なり。大小によらず罪は上かみ一人にかゝり候。今の世の習ならひ、下々をば難儀させ、百姓をばいたむるものと思ひて、とがむる人もなく候。只行儀よきと姑息の愛とをみて、人はよしと申し候へども、天の鑑かんがみ明らかに候。神明の罸ばつにあたり、仕合しあはせあしきことわりにて候。
一 再書略。愚兄事、被二仰せ下さ一候通尤もつともに存じ候。去さりながら愚兄は姑息の愛なりとも御座候。作法あしく不仁無道ぶだうにて、下をなやまし民を苦め候人に、子孫も榮え仕合よきあり。又きはめてよき人も仕合惡しく候事はいかゞ。
返書略。人の氣質に、天地神明の福善禍淫を受る事、晩きあり早きあり。しかのみならず先祖の造化の功を助けたるあり、妨げたるあり。運氣の勢ひ餘寒殘暑あるが如し。先まづは聰明の人には、善に福早く惡に禍速すみやかなり。愚不肖ぐふせうには善惡に禍福おそし。平生物の合點がつてんの遲速にても知られ候なり。先祖の造化の神工を助けたる勢ひ未だやまざるには、子孫あしけれども仕合よし。先祖の造化を妨げたるは子孫よけれども、其逆命の勢ひ未だ避けがたし。打身頭痛の病ある人は、土用〔一期十八日にて一年四期あり〕(*立春立夏・立秋・立冬の前各一八日間)、八專はつせん〔壬子より癸亥まで十二日間、一年六度あり〕(*干支の終わり一二日間。そのうち十干に重ねた五行と十二支に重ねた五行の重なる日が八日間あることからの名称)、雨氣あまけを感ずるが如し。之より下つかた樣々のことわり候。推して知らるべく候。
一 舊友に與へし書に曰はく、故者こしやには其故たる事を不レ失はといへり。久しく音問おとづれを絶たちたる事は無情に似たり。傳つたへ聞く貴老道德の勤にすさみ給ふと。道を厭ひて愚を疎み給ふか。愚を見おとして道をおこたり給ふか。道學を益なしとして道德を好む者までをしりぞけ給はゞ、是非に及ばず。若し(*原文「苦もし」)愚を不肖なりとして道學に遠ざかり給はば、あやまちなり。故者の至情を思ひ給はゞ、何ぞ愚が過あやまちをさとし給はざるや。さとして從がふまじくば、愚を捨てゝ道德を尊信し給ふべき事は、本のごとくたるべし。何ぞ人によりて道の信不信あらん。聖人の門にあそぶ人ならば、天下の聖學をする人、皆惡人不正なりとも、吾が聖學に於て疑ひなかるべし。たゞ己おのが定見ぢやうけんいかむとみるべきなり。人によりて信をまし、信をおとし給はむは、道をみるの人にあらず。
一 來書略。世に判官はうぐわん贔屓と申し候は、いかなる事にて候や。
返書略。君子に三のにくみあり。其功にほこり賞を受くる事おほき者をにくみ、富貴にして驕る者をにくみ、上かみに居て下をめぐまざる者をにくむ。判官義經は、其人がら道を知らず。勇氣によりて失ありといへども、大功ありて賞をうけず、人情のあはれむ所なり。賴朝卿福分ありて天下をとるといへども、不仁にして寛宥くわんいうの心なし。人情のにくむ所なり。賴朝、判官にかぎるべからず。驕おごりは天道の虧かく所、地道の亡す所、人道のにくむ所なり。謙は天道のます所、地道のめぐむ所、人道の好む所なり。〔易の謙の卦に、天道は盈を虧きて謙に益す、と〕
一 來書略。我等の在所に、蛇を神の使者なりと云ひて、手ざすこともせず候。さまざま氣の毒なる事どもに候。其上害も出來候。されども其通とほりにしたがひ候はんか、やぶり候はんか。分別定めがたく候。
返書略。神慮にしたがひて非法を改めらるべく候。神は形なき故に、時にあたりて何なんになりとも乘りうつり給ひ候。蛇を使者と定むべきにあらず。且蛇は叢に棲むものなれば、人居じんきよにまじはるは非道にて候。神明は非道を戒め給ふべく候。蛇の棲む深草しんさうに、用心もなく行きて害にあふは、人の非なり。人のすむべきあたりに蛇のをるは、蛇の非にて候へば、叢に驅りやり〔驅逐―頭注〕、行かざるをば打殺して可なり。なほも愚民疑ひあらば、御みくじをとりて神慮を御うかゞひ有るべく候。訴訟は此方に道理あれば、幾度いくたびも申すものにて候間、もし一二度にて御同心なく候はゞ、神の御同心被レ成まで、幾度も御みくじをとりてうかがはるべく候。かならず御同心有るべく候。其外かくの如きたぐひの神慮に叶はざる事を神慮として、人の尊きを以て禽獸にかふる樣なる事多く候。
一 來書略。「無學にして行ふはレ政を、如し二無くしてレ燈夜行くが一。」といへり。しかるに貴老、學者の政は心得がたしと宣ひ、又其筋目ある人か其備そなはりある人よしと承り候は、心得がたく候。
返書略。政の才ある人を本才と申し候。其人に學あれば國天下平治へいぢ仕り候。本才ありても學なければ、やみの夜にともし火なくして行くが如くにて候。然れどもありきつけたる道なる故ありき候。されど前後左右を見ひらきて自由のはたらきはならず候。又才知なくして學ある人の政をするは、盲者まうしやの晝ありくが如くにて候。聞たるまゝにありき候へども、不二分明なら一候。時、所、位の至善しいぜんをはかるべき樣なく候。不自由にしても、自ら見てありくと、見ずしてありくとは、見てありくはまさり可くレ申す候。軍法を知らでも、勇知ある大將は、おのづから勝負の利に通じ候故に、敵に逢あひて勝かつことを致し候。軍法知りても、勝負の利くらき大將は、敵に逢あふて斗方とはうなく〔手段方略を失するなり〕候。勝負の利よき人軍法を知り候はゞ、名將たるべく候。軍法知らでは名將とは成りがたく候。才と學との道理同じ事に候、古今のためし明白なる事に候。
一 來書略。經書を讀み候はでも學問なり候と承り候。左樣に候はゞつとめて見申し度たく候。書を讀まずして不ざるレ叶は事に候はゞ、老學といひ暇いとまなく候へば、成なりがたき事に候。
返書略。聖賢を直ぢきに師としては、書を讀までも道を知り德に入ること成り申し候。今の時聖賢の師なく候へば、中人ちうじんより以下の人は、書をまなび候はでは道を知ること成りがたく候。しかれどもよく心傳しんでんを得たる人に聞き候はゞ、善人とは成り申すべく候。扨はよき士と申すほどの人がらには及ぶ事にて候。聖人の言語にはふくむ所多く候。無極の躰たいなり。
其含む所は言外に候へば、我と(*自分から)經書を見て聖人の心をくみ申し候。則ち聖人に對し奉るが如くなる事候。其心には深きあり淺きあり、其品いひつくしがたく候へども、いかさまに〔成程と云ふに同じ〕書を見る人は、後までも學におこたりなく候。たゞに物語にて心術のみ聞き候人は、一旦はすゝみ候へども、言外の理を不レ知ら候へば、心ならず年を經てたゆむものにて候。中人以上の人は、少し心傳しんでんを聞ては、やがて天地を師とし、造化において學ぶ所あるは、書しよにも及ばず、道を行ひ德に入り候なり。中人以上にても、書を讀みたるばかりにて心傳を不るレ聞か人は、聖學に入りがたく候。
上知は心傳を不レ聞かして、書を見てもすぐに德を知り候なり。故に攸好德いうかうとく〔攸は所なり。德を好む人〕の幸福ある人は、次第を歴へて德を知るも御座候。尤も此人は書によりて聖人に對面仕り候。書を讀み給はでも、人の主人としては仁君といはれ、人の臣としては忠臣とよばれ、いづれによき士となりて、善人の品に入り候ほどの事はなり申すべく候。必ず名を後世にあぐべく候。
一 來書略。三皇、五帝、三王、周公、孔子は同じく聖人と承り候。伏羲ふくぎは文字もじも敎學もなき時に出給ひて、初めて畫くわくをなし、天下後世道學の淵源をひらき給へり。然るに孔子は末代に跡あることを學び給ひながら、韋しをりは(*又は「しをりがは」か。原文ルビ「をしりは」)の三度みたびきるゝまで、〔孔子易を讀んで韋編三たび絶ゆるに至る〕朝夕手をたたずして、いまだ易を得たりと思ひ給はず。神農は草根をなめて初めて醫藥をつくり給ふ。然るに孔子は末代醫術あまねき時に生れ給へども、藥に達せざるの語あり。かくのごとく大にちがひたる位を同じとは、いかなる事候や。
返書略。時にて候。孔子を伏羲、神農の時におき候へば、易を作り醫をはじめ給ひ候。伏羲、神農を孔子の時に置き候へば、又孔子の如くにて候。
一 再書略。しからば佛説に似たる所候。わざとまうけて神通、方便をなすが如くに候。空々として跡なき事をだに作りはじむる人の、又跡にしたがひて愚人とひとしく候や。
返書略。少しも心はなく候。三皇の時においては、空々くう/\として跡なき事もおこり候。心の感ある道理候。孔子の時には、迹ある事をもたづね學ぶ心の理御座候。上世は太虚を祖とし天地を父母とすること近し。聖人生れて其名殘らず、まどひなければ明者めいしやかくれ、不孝子なければ孝子をおどろかす、不臣なければ忠臣知れず、政刑なくして大道行はれ、敎學なくして人みな善なり。
後世にいたりて性情わかれ物欲生じぬ。人初めてまどひあり。此時に當りて伏羲氏ふくぎし出給へり。惻然として感慨あり。敎なきことあたはず。時に天道龍馬りうめを命じて、文を以て其志を助け給へり。〔易繋辭に、河圖を出すとあり。龍馬河中より文を負うて出でたる故事〕書畫しよくわく敎學のはじめなり。伏羲氏以前は物欲きざさず情性に合する故に、人に病疾へいしつなし。後世有欲うよく多事のきざし出來てこのかた病人あり。醫藥の術、耕作農政なきことあたはず。
天道、靈草美種を降くだして神農氏の業を助け給へり。是皆神聖廣大の知の緖餘(*原文ルビ「しやや」)なり。時によりて發するのみ。伏羲、神農は春のごとし。周公、孔子は夏のごとし。其摸樣はかはりあれども、同じく天理の神化しんくわなるがごとし。易は無極の理なれば、孔子のみにかぎらず、伏羲といへども是のみと思ひ給ふ事はなき道理にて候。
一 再書略。釋迦はえびすの聖人か。是も時によりて感ずる法なるか。
返書畧。神聖中行の道理にはあらず。中國に來りて孔子に學びば(*ママ)、よく聖人となるべき分量あり。仁心廣く厚き所あり。知勇も氣質に備はりて見えたり。其生國はすぐれて愚痴に、大に欲ふかく、至つて不仁なり。極熱の國なる故に、死せる肉を置きがたし。いけながら持ありき、切て賣る事なり。仁心深き者是を制する方を知らでは、殺生戒(*原文ルビ「さつしやうかい」)をなしたるもことわりなり。日本は仁國なり。此國に生れたらば、佛法をおこすべきの感慨もあるまじく候。若又釋迦、達磨を只今出して、今の佛者などを見せば、何者とも心得がたかるべく候。
佛祖の流りうと申し候はゞ、大に歎きかなしびて、其破却かぎりあるまじく候。我等は佛者ならざる故に、遠慮おほくおもふ樣にも申さず候。我子を敎戒する者は風諫〔露骨に言はず聽く者をして自然に悟了せしむる事〕するが如くにて候。釋迦、達磨に我等の佛を難ずる語を聞せ候はゞ、いまだ世情をはなれず道に專(*原文ルビ「せん」)ならざる故に遠慮おほきとて、心にあひ申すまじく候。
一 來書畧。俗に貧は世界の福の神と申し候は、いかなる道理にて候や。
返書畧。世の中の人殘らず富み候はゞ、天地も其まゝ盡き候なん。貧賤なればこそ、五?諸菜を作り、衣服を織出し、材木薪をきり、鹽をやき魚をとり、諸物をあきなひ仕り候へば、六月の炎暑をいとはず、極月ごくげつの雪霜を踏んで鹽薪野菜などを賣り候事、富み候はゞ仕るべく候や。農工商も貧よりおこりて、世の中たち申し候。たゞ農工商のみしかるにあらず。士といへども貧を常として學問諸藝を勵み才德達し候なり。生れながら榮耀ええうなる者は、多くは不才不德にして、國家こくかの用にたちがたく候。只士農工商のみならず、國天下の大臣國郡の主と雖も、吉きつ、凶、軍、賓、嘉〔軍の五禮と云ふ〕の禮用れいようを備へ、國土水旱の蓄たくはへをなし、君につかふまつるの役義なれば、富足る事あるべからず。
上かみは天下の主といへども、來らいを薄くして徃を厚くし、天下の人民の生を養ひ、死に喪もして恨みなからしめ、且異國の不意に備へ、天運の凶年飢饉をあらかじめ待ち給へば、天下の財物ざいぶつのおほきも、天下の人のために御覽ずれば飽足る事なし。其上に天下の主しうの第一に乏しく思しめさるゝは、賢才の人のすくなきなり。堯舜も之を憂とし給へり。是を以て同じく聖人なれども、孔子は人の師なれば、知を明かにして先達し給ひ、堯舜は人の君なれば、知をくらまして天下の賢才をまねき給へり。
寶は貧に生じ、知は謙に明かなる理を知らで、我わが知に自慢し、足れりと思へば、天下の才知みなうづもるゝ事なり。空々として謙退なればこそ、善政もおこり、美風も後世に殘る事なるに、下聞かぶんを恥とし天下の知を不るレ用ひ時は、物の本體は虚靈なるの道理にあらず。其恥にあらざるを恥ぢて恥心ちしん亡び、不善の名を得るものなり。それ天地の大なる、萬物を造化し出す所は太虚無一物の理なり。
目は五色〔靑・黄・赤・白・黑―頭注〕をはなれて五色を辨へ、口は五味〔辛・酸・鹹・苦・甘―頭注〕なくしてよく五味をあぢはひ、耳は五聲〔宮・商・角・徴・羽―頭注〕なくして五音を知り、心鏡空々として萬物に應ず。萬の物はみな無より生じ候へば、貧は世界の福神といふ俗語は、まことに人心の靈にて候。
一 再書略。しからば堯舜の民も貧乏をまぬかれず候や。
返書略。貧しくはあれども(*原文「れあども」)乏とぼしき事はなく候。人々分を安んじて願なければ、身は勞して心は樂めり。堯舜の民は康寧の福あるとは此理にて候。むかし田夫あり。毎日北に向つて禮拜らいはいし「淸福を給ふ。」といへり。其妻め笑つて曰はく、「軒には草茂り、床ゆかには稿わらの席むしろをしき、身にはあらきぬのこを著て、雜穀を食しよくとす。夫ふは田畠たはたに勞し、婦は食事にいとまなし。餘力あれば紡績織しよくじんす。春より冬に至り、旦たんより夜やに及ぶ。
是を淸福といはゞ誰か福なからむ。」夫が曰はく、「是皆賤男賤女せんだんせんぢよのことなり。我身上臈のおちぶれにもあらず、もとより賤しづの子にして、賤の家に居、賤の衣ころもを著ちやくし、賤の食しよくを食し、賤の業をいとなむは、天理の常なり。好事もなきにはしかず。思ひがけぬ幸は其願にあらず。身に病なく家に災なし、達者にして暇いとまなきは淸福にあらずや」と。人いへる事あり。流水は常に生いきて、たまり水は程なく死ぬ。柱には虫入るも、鋤の柄には虫いらず。俗樂の遊いうは憂又したがふ。
水くさり柱むしばむの苦しみほどなければ、美味あれども彼田夫の麁飯にもおとり、輕く暖あたゝかなる衣きぬあれども、寒をいたむこと賤のぬのこにおとれり。おほくは病苦にたえず。或は夭死す。よく思はゞ願ふべからず。人は動物なり。上かみ天子より下しも士民に至るまで、無逸ぶいつ〔逸は樂をすること〕をつとめとするは人の道なり。むかし許由は賢人なり。其身は農夫にして彼に同じ。堯の天下を辭して耳を洗ひしは、其心のたのしび四海の富貴にこえたり。德なきの富貴は浮べる雲のごとし。天爵は萬歳尊たうとし。又人いへる事あり。桀紂は中國の主なれば四海の尊位なり。其富天地の間にならびなし。
顔子は無位無官にして、衣やぶれ食たえ/〃\なり。しかも三十餘にして天年かぎりあり。人生の福是よりうすきはなし。しかれどもこゝに人ありて、桀紂に似たりといへば腹立ふくりうせり。尊きこと天子たり。富四海の内をたもてり、かゝる至極の人に似たるとて腹立せるものは、人々惡を恥ぢ善を好むの良心あればなり。又顔子に似たりといへば、中心悦ぶといへども、恥ぢおそれて謙退す。天子諸侯の富貴といへども其言葉にあたりがたし。人爵は其世ばかりにして、槿あさがほの露のごとし。
天爵のとこしなへに尊きにはならぶべからず。人爵には命分めいぶんあり、願ふべからず。天爵には分數なし、心の位なればふせぐものなし。心のたのしびは奪ふものなければ、人鬼じんきともに安し。吾人只顔子の徒とならん事を願ふべし。桀紂が徒たらん事を願ふべからず。
一 來書略。無欲のよき事は誰も存じ候へども、出家道心者などは無欲も立てられ候べし。世間に交まじり居候ては、左樣には成りがたき事にて候。又奢おごりはあしきと存じながら、人のする事をせざれば、吝嗇と云ひてそしり申し候。人竝に仕しては(*ママ)、欲有りて、とり蓄へも仕らではかなはず候。いかゞ仕るべきことにて候や。
返書略。貴殿無欲を何と心得られ候や。天理をとめて人欲とし、人欲をとめて天理とするのあやまり有るべきと存じ候。物を蓄へてつかはざるを欲とし、蓄へずして有次第につかひ、無くなれば何事をもせずして居るを無欲と思ひ給ひ候や。其ふたつは、しはきと正體なしとにて候。又人のする事をせざればあしく申すとの事は、數奇者すきしやには茶の湯をして見せ、謠ずきにはうたひの會をし、馬ずきには馬あつかひをして、傍輩の人々と一ぺんわたり給ふべく候や。左樣に仕り候人は有るまじく候。
若き内に藝を稽古するには、其師の所へ行き此方へ招きなどして、一藝づつ(*原文「つづ」)きはむるにて候。今は左樣にする人々も稀に候。只我心に叶ひたる人々と五人七人うちよりうちより往來してかたられ候。其五七人の内、弓にすきて弓をもてあそばるゝもあり。鎗・太刀・鐵砲・馬思ひ/\に候。扨は謡か、茶の湯か、酒か、連歌か、文學か、人ごとか、夫よりくだれるは、樣々のいやしき事も、又は奢もありと見え候。大身たいしんは大勢も寄合、小身は座敷もなく使ふ人もなければ、五人七人に過ぐべからず。其中間の人吝嗇とか淸白なるとか名をつけ云へば、かけもかまはぬ世間の人も聞傳へて申すにて候。互に一かまへ/\に候へば、一ぺんにわたるといふ事はなく候。
ここに三綱五常の道を修めて、其身の作法正しく、家内の男女をよくをさめ、人馬にんば軍役ぐんやくに應じてたしなみ、知行の百姓をもつよからずゆるからず、末長く立つべき樣にし、ひろき事すぐれたる事はなくとも、文武の藝にもくらからず、世間の奢にひかれず。親類知音相番あひばんのかた/〃\と交りをかゝず、屋作やづくりをかろくし衣服をつくろはず、諸道具をはぶき、飮食をうすくし、費つひえをやめて有餘を存し、親類知音のおちめをすくひ、家人けにん百姓をあはれみ、晝夜文武の務に暇なく、世上の品々のあそびは不るレ知らがごとく、忘れたるがごとくなる人あらば、世中には正人せいじんあり、類を以て來り友なふべし。
用をも節せず、不時の備へをもせず、わざとたくはへぬ樣にし、仁にも義にもあらずしてゆゑなくつかひ施すを、無欲と申し候はんや。それは名根みやうこんより生じて、欲心のいひわけにこしらへたるものなり。欲心ある故に、人の吝嗇といふべきかとて、淸白せいはくだてをするにて候。眞實無欲の人には、淸白もなき物にて候。眞實に無欲なれば、人が吝嗇なりといふべきかとの氣遣もなく候故に、心もつかず、家屋の美を好まざれば、おのづから儉約なり。衣服諸道具飮食いんしいの好なければ自然と輕かろし。
無欲無心の儉約なれば、我も勞せず人もとがめず。淡淸たんせいの好人かうじんといふべきなり。貴殿は、無欲ならば身代も續き難(*原文「艱」)く、世間の務もいかゞ有るべきと思はれ候へども、無欲なれば身代もつゞき世間の務もよく成る事に候。奢は陽の欲、しはきは陰の欲なり。無欲をつくるは名根の欲なり。三みつ共に大欲心にて候。君子の無欲といふは、禮儀にしたがひて私わたくしなき事なり。如きレ此のの正人あらば、今の世とても惡くは申す間敷候。たとひ無心得なる者ありて惡しく申すとも、あづからざる事に候。天道を我心の證據人とせらるべく候。此以前遠國をんごくの人語られ候。
在所に奇特きどくなる者あり。知行五百石の身上しんしやうに候。親類知音に申す樣、我等は下手にて候やらん、公役くやく軍役ぐんやくをつとめ、人馬をもち奉公を仕り候へば、やう/\事たり候。相番中ちうおもてむきの交りはかゝれず候。其上に親類知音中、折節の振舞をもしてあそび候へば、其分不足に候。さ候へば町人の物を借りてやらざる樣に成り候。しかれば親類知音中寄合て、町人の物を取りて飮食いんしよくするにて候。親類知音の心安き中なかは、か樣の事をも打とけいひて遠慮有るまじき事に候。各おの/\は上手にて有餘あらば振舞給ふべし。何方いづかたへも參るべく候。
此方こなたにても來かゝりの常住が催して寄合候はゞ〔常に來往する懇意の人々が寄合ならばの義〕、なら茶など可くレ仕る候。各も有餘なくば無用に候。我等の流りうにせらるべく候とて、親類知音中用ありて來る、物語などして時分までゐかゝれば、平生の麁飯そはんを振舞催して、寄合時よりあひどきもなら茶粥雜水の外は不レ仕つら候。奇特なる親類知音のまじはりなりとて、心ある者は感じ申すとかたり候き。
一 來書略。拙者せがれ、御存知の如くうつけ〔痴者―頭注〕にてはなく候へども、世間の習に入りて、氣隨我まゝにして道德を好まず、諸藝も根ねに不レ入ら、かへりて父の非をかぞへ、諸同志の非をいひ、利口にして其身の行跡あしく、まことの奢れる子の不るレ可からレ用ふにて候。いかゞ仕りてよく候はんや。
返書略。一朝一夕の故にあらず候。貴殿の年來としごろの養やしなひゆゑにて候へば、御子息の罪にあらず候。總じて父と君とは、心根しんこん〔心奧の底―頭注〕に仁ありて常は嚴なるがよく候。人生は水火の二にあらざれば一日もたちがたく候。水火の仁ほど大なる事はなく候へども、火ひは嚴なるものなれば人おそれて用心仕り候故に、心と火に近付て死する者はなく候。水は柔やはらかなる物故に、人々心やすく思ひ、近付て溺死おぼれしする者おほく候。貴殿の病やまひは柔和過たるにて候。
柔和過たるは人のほむるものにてよき樣に候へども、其門もんに不孝子ふかうのこいで其國に不忠臣ふちうのしんいで候。嚴なる主しう親おやは、無理を云ひても子も臣も怨みざる物にて候。さま/〃\〔たまさかの誤か〕少しのなさけありても、天より降ふりたる樣に喜び候、柔和なる主親は、道理ありても子も臣(*原文ルビ「おみ」)もうらみ申し候。いか程なさけ恩賞ありても、其當座ばかりにて、過分なりとも思はざる物にて候。
親の柔和なるは其子のならひあしく、主君の柔和なるは家中の風俗あしきものに候。水の仁は母のごとく、火の仁は父のごとし。貴殿は母の仁にして御子息あしく成り給ひ候。今に至りてはげしくせられ候はゞ、いよ/\戻もとりてよきことは有るまじく候。國家の政道を取りても、貴殿のごとくなる奉行の下もとには、罪人おほくて人多く死するものに候。又君子なれば、いか程柔和にても子も臣も恐るゝ物に候。
神武しんぶの德おはします故なり。水も大淵おほふちの靑みかへりて底知れざるには、おそれてほとりに立ちがたく、やはらかなれども大に威ある事に候。貴殿今より火の仁は成るまじく候間、水の仁にしてよく/\德を積み給ふべく候。
一 來書略。雷かみなりは何方へおち候はんも難くレ計り候へば、誰たれもおそるゝは尤もと存じ候。いかゞ。
返書略。雷聲らいせいをおそるゝ者は惡氣あくきと惡人となり。貴殿惡人ならずして惡人の徒と成り給ふ事は、まどひある故に候。雷聲は物の留滯りうたいを通ずる物なる故に、雷らいを聞きいては氣血流行し、相當の灸をし藥を服用したるよりも心地よきものに候。いまだ鳴る事のつよからざるををしみ候なり。たとへば盜賊いましめのために、夜廻りを出し辻番をおかれ候事は、常人じやうにんのためには悦よろこびにて候。しかるに盜賊は其いましめを聞ては肝をけし候。たゞ平生心に惡ある故に、雷聲を聞ておそるゝにて候。
一 來書略。聖人に夢なしと申し候へども、孔聖周公を夢みるの語あり〔論語述而篇に、子の曰はく、吾復夢に周公を見ず〕、兩楹えいの間かんに祭らるゝ(*孔子最晩年に両柱の間に奠られた夢を見た故事。〔礼記・檀弓〕)の夢あり。
返書略。たゞ世俗につきて夢といへり。是夢にあらず。聖人の心には正思せいしあり前知ぜんちあり。周公を夢見給ふは夜の正思なり。兩楹の間に祭らるゝは夜の前知なり。今日こんにち吾人といへども、聖人に同じく夢なき事あり。士たるものは、常の産〔孟子に見ゆ。定まれる財源〕なけれども常の心あり。盜たうをせざる(*原文「盜せをざる」)の心は死に至るまで變せず。
學問せざれども幼少より其義を精く習ひ來りたる故なり。しかるゆゑに盜をしたるといふ夢は終に見ず。此一は聖人と同じ。間思かんしもなく夢もなし。致知のしるしなり。昔より物を格たゞすの功こうなり。下下しもじもの盜ぬすみをしてはあらはれん事を恐れてせざるばかりにて、恥の心うすき者は、時ならず欲する念慮も有るべし。しからば夢にも盜ぬすみをしておはれなどし、又捕へられたるなどとある夢も見るべし。
常に思はぬ事をも夢には見るなれども、大かた其類に觸ふれたる事を見るなり。車に乘て鼠穴ねずみのあなを通りたると云ふ夢は、見たる者なしとなり〔理に於て有るべからざればなり〕。
一 來書略。人の身の心中にあるは、魚の水中にあるが如し。此心より此身生れ、又身の主あるじと成ると承り候。たとへば車をつくる者の、車を作りて乘るがごとし。然るに人の天地の中うちにあるは、人の腹中に心のあるが如しと仰せられ候。心は内外なし。腹中に有ると一偏ぺんに〔一概に―頭注〕云ふべからざるか。
返書略。天地人を作りて、又人を以て主あるじとす。其天の作る所の理り、すなはち人の性命なり。人性もと無極なり。天地を入れて大なりとせず。故に人は天地の德、神明の舍しやともいへり。心の臟の虚中きよちう、おのづから一太極あり。又腹中にありと云ふも害あらず。心に内外なき事は本よりの義なり。
一 來書略。臨終の一念とて、命終る時の心持を大事とする事は、さも有るべき事にて候や。
返書略。細工は流々とやらん申し候間、其理こそ候はめ。それも造化を輪廻りんゑと見て、生れかはるの見けんより生じたる事なるべく候。緩々ゆる/\と死なばこそ其一念も可くレ存ず候へ、思ひがけぬ事にてふと死に候はゞ、何として左樣の事成り候はんや。其上晝の心がけは夜の夢と成り候。晝一日惡事を思ひ惡事をなして、寢いねざまに善事ぜんじを思ひ候とも、其心にもなき作善念さぜんねん〔善を行はん(*原文「行けん」)とする望〕は、夜の夢とは成るまじく候。
只終日の實事のかげならでは見え申すまじく候。誰も晝夜の理に惑ひうたがふ者はなく候。目さめておき、ねぶたくて寢いね候。何の心もなく候。生死しやうしは終身の晝夜にして、晝夜は今日の生死にて候。生死の理も晝夜を思ふごとく常に明かに候へば、臨終とても無く二別儀一候。薪つきて火滅するがごとく、寢所ねどころに入りて心よく寢ね候が如く、何の思念もなく、只明白なる心ばかりに候。
一 再書略。晝夜の道に通じて知ると候へば、生涯の心がけもまた鬼神の境界きやうがいと可くレ成る候や。
返書略。生きて五倫〔君臣、父子、夫婦、長幼、朋友〕の道ある者は死して五行〔木、火、土、金、水〕に配す。本死を以ていふべからず。明めいには五倫あり。幽には五行あり。明も造物者と友たり。幽も造物者と友たり。生には人心あり。死には人心なし。人の字に心をつけ候へば明白なる事に候。
一 來書略。大舜たいしゆんの故事をのべ給ふこと、孟子の書に異なるは、如何いかゞしたる事にて候や。
返書略。孟子の語勢を知り給はざる故にて候。孟子の語勢は本の虚實をとはず。それにしても此道理と滯とゞこほりなく道德を發明し給ひたるものなり。いかに質素の時なればとて、天子の二女をつかはし壻にし給ひし人に、藏をぬらし井を掘らしむる事やあるべき。我とひとしく賤しき者を殺してだに、助けておくといふ事は無き理なり。たゞ類をおして義の精きに至り、若もし如くレ此のありても如しレ此のと、至極いひつめたる論なり。不レ告げして娶るの論〔孟子、萬章上篇に出づ〕は、若後世不心得なる親ありて、告げて同心すまじき者あらば、子孫相續は孝の第一なれば、不レ告げして娶りても苦しからじ、告こくの禮を不るレ用ひ事は小節なり。
子孫を嗣ぎ人の大倫たいりんを立つるは大義なればなり。舜の本より情欲の父母につかへ給はずして性命の父母につかへ給ひし事、孟子に至りて明かなり。瞽?の本心は、告げて必ず娶るの本心なり。天子の命なれば、愚痴なる事をいはせらるべきにも有らねども、愚なるを知りながら、通ぜざる事を云ひ聞せて同心なき時、おしてやぶるも舜の爲に心よからざれば、一向初めより不レ告げして娶れと詔ありたるなるべし。大舜は如きレ此のの叡慮ありと、竊ひそかに告げ給ふ事もあるべし。
一 來書略。大王は仁人じんじんなり。しかるに貨くわを好み〔孟子、梁惠王下篇に見ゆ〕色を好むといへるは如何。
返書略。是も孟子の語勢なり。國に三年の蓄たくはへなければ國其國にあらずとて、後世の人の己おのれがために貨をたくはふるとは違ひて、國人のために積置るゝ事にて候。一國の一年の藏入くらいりを四に分わけて、三を以て萬事を達し、一を殘して兵事水旱の用に備へ候。天道の四時しいじも冬一時ときを不レ用ひして貯たくはへとなるが如し。三年積みて一年の餘あまりあり。九年積みて三年の餘あり。籾にて置き干飯ほしひにして置き、あまり久しきは段々に入れかへなど仕り候。
如くレ此のなれば異國の兵亂ひやうらんありても、内堅固にして危あやふき事なし。水旱の運に逢ひても、人をそこなはず盜賊おこらず。國人のために貨を好みて、みづからの爲に好むにあらず。後世には貯ふれどもみづからの爲のたくはへなれば、多くても飢饉の用には不レ立た。大明たいみんの韃靼にとられしも、國に三年の蓄なかりし故、飢饉に逢ふて盜賊起り、それよりやがて兵亂に成りて、つひにとられたり。國に三年の蓄なきは國其國にあらざるの至言明かなり。
又大王の色を好み給ふにはあらず。もし好み給ふにしても、大王の時のごとく婚姻の禮を明かにし、事物を輕くして男女時を不レ失は、三十の男はかならず婦をむかへ、二十の女はかならず嫁する樣やうならば、王道において尤も重き事なり。今齊王〔宣王―頭注〕色を好まるゝとも大王のごとくならば、王道にさまたげなしとなり。
一 來書略。孝子は日を愛する〔楊子法言の語〕の道理承り度く候。
返書略。孝子は父母の命めいを愛せずといふ事なく候。父母己をたのしましむる時はたのしみ、つとめしむる時はつとむ。今日こんにちの日は天命なり。天地は大父母なり。君子は父母天地へだてなく候。天道既に今日の日を命じて、或は勤勞せしめ或は遊樂せしむ。故に日として愛せずといふ事なし。凡人は貧賤なる時は憂苦し、富貴なる時は逸樂す。ともに日を空うして愛することを不レ知ら。目前の利を心として千載の功をわする。君子は貧賤なる時は勤學きんがくし、富貴なる時は人を愛す。月日上かみに遊びて形體下しもに衰ふ。忽然として萬物と遷化せんくわす。尺璧せきへきを輕くして寸陰を重んずる者は、既に時に及ばざらむ事を恐れてなり。〔淮南子、原道訓に、聖人は尺の璧を重んぜずして寸の陰を重んずと〕
一 來書略。天下を取るといへるは俗語にて候や。聞きにくく候。有たもつといへばおだやかに候は如何。
返書略。德を以て天下を知しるを有つといひ、力を以て天下に主しゆたるを取ると申し候。王代は有ち武家は取るにて有るべく候。然れども兵書に云はく、「無きレ取ること二於民に一者は、取るレ民を者也。無きレ取ること二於國に一者は、取るレ國を者也。無きレ取ること於二天下に一者は(*ママ)、取る二天下を一者也。無きレ取るレ民に者は、民(*原文「者、民は」)利とすレ之を。無きレ取るレ國に者は、國利とすレ之を。無きレ取る二天下に一者は、天下利とすレ之を。」といへり。この意にて候へば、取るの字も苦しからざるか。
一 來書略。爰元こゝもとに、此方より禮すれども禮せざる者有りレ之れ候。今は心得て誰も禮不レ仕つら候。言葉ばかりをかくるか、彼が如く笑つて過ぎ候。かやうの者には如何いかゞ可くレ仕る候や。
返書略。敎なく禮式れいしきなき故に、左樣の人何方にも多く候。介者かいしやは拜せずとて、軍中にて甲冑しては拜せざるを禮と仕り候。「古は者、國容こくよう〔通常の服裝して―頭注〕不レ入らレ軍に、軍容不レ入らレ國に。軍容不ればレ國に、則ち民の德廢すたる。」と御座候。左樣の無禮人を拜せず、言葉ばかりをかけて過ぐるがくせになりて、常の人にも互ひに其通りに成り候。しかれば國の禮儀みだれ候て、人の德すたれ候。治國ぢこくに禮儀みだれ候へば、軍令は尚以て行はれず候。亡國の基もとゐにて候。治國は敎へて禮儀ある事を尊び候なり。
一 來書略。鬼門〔家の東北隅を云ふ。此方角に鬼屋あり〕金神こんじん〔陰陽家にて祀る神。其所在方角を愼しむ〕へ屋やを出し、屋うつりする事を忌み候事は、道理有るまじき事の樣に覺え候。世間にやぶる人も有りレ之れ候へども、主人妻子などにたゝりたるも多く候。あしき方はうならば家内不レ殘らたゝるべきに、家主かしゆ妻子をとがめ候は、鬼も心ある樣に御座候。此理分明ならず候。
返書略。日本は福地なる故に、田畠たはた多く人多し。山澤これに應じがたく候。人々欲するまゝに屋作やづくりし木を伐きらば、山林ほどなくあれて人民立ちがたく候はんか。此故にいにしへ神道しんだうの法として、三年ふさがり金神鬼門を忌む事出來候。此分の堪忍にても、日本國の山林を養育し家財をやぶらざる事大なり。むかしは人のいまざりし事も、法度出來て後は之を忌むなり。
法を犯すは不義なれば之を罰する物なり。况や日本の水土によりて立てられたる神道の法なれば犯しては神罰あるべく候。神道の本は義理なれば、義理有りては苦しからじ。たゞに欲するにまかせてやぶるべからず。此國に生れながら此國の神道をおし、或は年來惡心惡行など有りし者、神罰いたるべき時節に、金神鬼門の方を犯して災害に逢ふも有るべく候。年來不屆の者なれば、小過によりて罪に行はるゝ事、人道にも有るが如し。人の罪すべき惡人を罰せざれば、鬼きこれを罰する者ありと、古人も被レ申候。
一 來書略す。
返書略す。
一 内に向ふと外ほかに向ふとの義理、言語げんごを以て申しわけがたく候。たゞ心術のおもむきにて候。内に向ひたる師友と學問仕り候へば、吾知らず心術内に向ひ候。外ほかに向ひたる學者を師友といたし候へば、志は實まことにても心術は外に向ひ候。是を以心傳心とも可くレ申す候。書にむかひ義論講明の時は、かはりなき樣に候へども、國家こくかの事五倫の交り世俗にまじはりては、學び候處用に立ちがたく候。跡になづみて用ひ候へば、そこなひ出來候。是みな外に向ひたる故にて候。
一 さし當りなすべき事は義理にて候へば、善をするの一にて候。書を見るをのみ學問として、つとめを缺くは、本心を失ひたるにて候。
一 板垣信形のぶかた〔武田信玄の家臣〕事、信形にしては奇特きどくに候。是を道とは被れレ申さ間敷候。なみの武士にて一役つとめ候者は、其役だに仕り候へば、君の善惡にはかまひ不レ申さ候。筋目ある臣しんは、或は諫め或は其身を正しく行ひ、知をくらまして時を待つかの二たるべく候。
一 位牌も本は神主しんしゆに似せて仕りたる者に候。いける親の髪をそり、法體ほつたいと成りたる同じ事に候。法體とて親を拜せざる事なく候。心の誠をだに存し候はゞ、神主も同じ事たるべく候。時の勢ひ次第に可くレ被るレ成候。
一 人に對して隔心きやくしんある事は、一體流行〔普遍的―頭注〕の仁にあらず候。我を以て人を見候へば、不る二相叶は一事のみにて、いよ/\へだたり候。人を以て人を見候へば、此人は元來如しレ此のと思ひてとがめもなく候。一體の本然ほんねん同じき親みをさへ不レ失は候へば、五倫ともにむつまじく候。天下我に同じき人のみならば、一家も立ちがたかるべく候。同じからぬ人寄合よりあひて萬事調ひ候。不る二相叶は一は皆我にまさる處なり。却て好よみすべく候。
一 存養そんやう省察〔天理を存養し、自己の心中を省察するなり〕は同じ工夫にて候。存養は靜中せいちうの省察省察は動中の存養に候。ともに愼獨の受用なり。天理の眞樂しんらく其中に御座候。
一 我死體も親の遺體なれば、遺言しておろかにせざる道理との事、尤も類をおし義のくはしきに至り候へば、左樣にも被レ申さ候へども、少し穿鑿に落入りてくはし過ぎ候。太虚、天地、先祖、父母、己、子孫、生脈絡一貫にて候へば、子孫とても先祖の遺體なれば、己が私わたくしの子にあらず候。生脈つきて死體となりたる時は、土に合がつするを本理ほんりといたし候。上古の人は本理にまかせ候。後生の人は情によりて死體ををさめ候。父子、夫婦等の死體ををさむるは、己が情をつくすにて候。己おのれが身においては、跡にのこる者の情と時處ときところの勢いきほひにまかせ置き候へば、遺言に不るレ及ば事に候。又遺言せずして不るレ叶は事も有るべく候。
一 來書略。古今鬼神きじん有無の説、きはまりがたく候。
返書略。聖人神明不測ふしぎと宣ひ候。明白なる道理にて候へども、不測ふそくの理に達せざればにや、愚者は有いうとし知者は無とす。言論の及ぶところにあらず。よく知る者は默識もくしき心通しんつうすべく候。

卷第四 書簡之四

一 來書略。いにしへは人に取りて善をなし、人の知をあつめ用ふるを以て大知たいちとす。今は、人の善をとる者をば人のまねをするとてそしり、人の知を用ふればおろかなりとあなどり申し候。又たま/\貴人きじんの人の言を取り用ひ給ふもありといへども、善なるさたもなく、却つて惡しき事ども候。いにしへの道は今用ひがたきと見え申し候。但し何とぞ受用のいたし樣もあること候や。承り度く候。
返書略。昔今川の書〔「今川了俊子息仲秋に對して制止の條々」といへるものを指すなるべし〕をだに、病に利ある良藥として諸國にも取り用ひたり。人々我がといふもの有る故に、善なれども人の云ひたる事は用ひざるの爭ひあり。聖人には常の師なしとて、善を師とし給へり。古は人の善を擇んで之を取り用ふるを知とし、己を立てゝ人の善を取らざるを愚と申し候。善を積んで德となり、善人の名をなす時は、人にとりたる事を言ふ者なし。爭を積て不善の名をなす時は、己が損なり。
人に取らざる事をほむる者なし。大舜たいしゆんは問ふ人を好んで、人の知〔知惠―頭注〕を用ひ、人の善を擧げ給へり。天下古今の師とする所にして大聖人なり。桀紂は人の知を嫉みて用ひず、人の善をふせぎていれず、己一人才知ありと思へり。〔紂紀に、智は以て諫を拒ぐに足り、言は以て非を飾るに足る、の類を謂ふ〕しかれども天下古今のそしる所にして大惡人なり。かくの如く善惡の道理分明ぶんみやうなれども、凡情ぼんぜいの習にて、桀紂が行にならふ者は多く、大舜の德を學ぶ者はすくなし。思はざるの甚しきなり。又人の言ことばを用ひてよからずと申し候は、己にしたがひ媚びる者の、告げ知らする小知の理屈などにて、事はよきに似たれども、人情時勢に合はざる事どもなれば、用ひて却つてあしき事となり候。
賢知の者は己に從はず媚びず、まされる名のある故に、爭の心ありてふせげり。小人の言げんを取つて賢知の言をふせがば、何を以てか善かるべき。燕王が堯舜の子に讓らずして、賢に讓り給ひし善名ぜんみやうを羨みて、子之に國を讓りて亂れたるが如し。〔易王?、在位十年にして子之に惑はされて位を讓る〕子之は小人なれば、うけまじき人情時勢を知らで受けたり。故に亂に及べり。小人の言はいかで人情時變に叶ひ候はんや。
一 來書略。貴老は道學を以て天下に名を得給ふ人なり。しかるに一向の初學の者の樣に、博學の者に逢ふては、字をたづね故事を問ひ給ふとて、人不審申し候。
返書略。予本より文學なく候。然れども字は字書にたづね、故事は史書などに尋ね候はゞ事すみ可くレ申す候へども、左樣に勞して物知だてする事は、何の益なき事に候。幸に博識の人候はゞ、たづぬべき道理に候。世人予を以て、おして道學の先覺〔孟子に出づ。人に先だち道理を覺る者〕とせられ候。予に先覺と成るべき德なく候。たゞよく人にくだりて不るレ知ら事を尋ぬる事のみ、少し人の先覺たるに足りぬべく候。
一 來書略。先日たま/\參會仕り候へども、何の尋ね問ひ可きレ申すたくはへもなく別れ申したる事、殘念に存じ候。
返書略。疑ひなき故にて候。實に受用する者は行はれざる事あり。是をたづねて行はるべき道を知るを問學と申し候。人倫日用の上において、よく心を用ひ手をくだし給はゞ、必ず疑ひ出來可くレ申す候。
一 來書略。士は賢をこひねがふ〔周敦頤曰く、聖は天を希ひ、賢は聖を希ひ、士は賢を希ふと〕と承り候間、いにしへの賢人の行跡を似せ候へども及びがたく候。たま/\少し學び得たる樣にても、心根は凡夫にて候。外ほか君子にして内小人とや可くレ申す候。いかゞ受用可くレ仕る候や。
返書略。予近比いにしへの賢人君子の心を察し、自己に備はれるところを見て、學舍の壁に書付おき、小人をはなれて君子となるべき一の助たすけにいたし候を、則ち寫し致し二進覽一候。

君子
一 仁者の心動きなきこと大山の如し。無欲なるが故によく靜なり。
一 仁者は太虚を心とす。天地、萬物、山川、河海皆吾有いうなり、春夏秋冬、幽明、晝夜、風雷、雨露、霜雪皆我行なり。順逆は人生の陰陽なり。死生は晝夜の道なり。何をか好み何をか憎まん。義とともに從ひて安し。
一 知者の心、留滯なき事流水の如し。穴に滿ち、低ひききにつきて、終に四海に達す。意こゝろをおこし才覺を好まず。萬事不レ得レ已むをして應ず。無事を行つて無爲ぶゐなり。
一 知者は物を以て物を觀る。己に等からん事を欲せず。故に周しうして比ひせず。〔論語、爲政篇に、君子は周して比せず、小人は比して周せず〕小人は我を以て物を觀る。己に等からん事を欲す。故に比して周せず。
一 君子の意思は内に向ふ。己知るところを愼んで、人に知られん事をもとめず。天地神明とまじはる。其人がら光風霽月の如し。
一 心地虚中なれば、有する事なし。故に問ふ事を好めり。優れるを愛し、劣れるをめぐむ。富貴をうらやまず、貧賤をあなどらず。富貴は人の役えきなり、上かみに居るのみ。貧賤は易簡いかんなり、下しもに居るのみ。富貴にして役せざれば亂れ、貧賤にして易簡ならざればやぶる。貴富なるときは貴富を行ひ〔中庸の貧賤に素しては貧賤に行ふの義〕、貧賤なる時は貧賤を行ひ、すべて天命を樂みて吾あづからず。
一 志を持するには伯夷を師とすべし。衣を千仭の岡にふるひ、足を萬里の流ながれに濯ふ〔晉の左思が詩句〕が如くなるべし。衆をいだくことは柳下惠を學ぶべし。天空うして鳥の飛ぶにまかせ、海ひろくして魚のをどるにしたがふ〔古今詩話に此句見ゆ〕が如くなるべし。
一 人見てよしとすれども、神の見る事よからざる事をばせず。人見て惡しとすれども、天のみること、よき事をば之をなすべし。一僕の罪輕きを殺して郡國を得る事もせず。何ぞ不義に與くみし亂に從はんや。

小人
一 心利害に落入りて暗昧あんまいなり。世事に出入して〔世俗の小事に拘泥して―頭注〕何となくいそがはし。
一 心思の外に向つて人前にんぜんを愼むのみ。或は頑空、或は妄慮。
一 順を好み逆をいとひ、生を愛し死をにくみて、願のみ多し。
順は富貴悅樂の類るゐなり。逆は貧賤艱難の類なり。
一 愛しては生きなん事を欲し、惡んでは死せん事を欲す。總て命を不レ知ら。
一 名聞深ければ誠すくなし。利欲厚ければ義を不レ知ら。
一 己より富貴なるを羨み、或は嫉そねみ、己より貧賤なるを侮り、或はしのぎ、才知藝能の己にまされる者ありても、益をとる事なく、己に從ふ者を親しむ。人に問ふことを恥ぢて一生無知なり。
一 物ごとに實義には叶はざれども、當世の人のほむる事なれば之をなし、實義に叶ひぬる事も、人謗そしれば之をやむ。眼前の名を求むる者は利なり。名利の人之を小人といふ。形の欲に從ひて〔精神を棄てゝ專ら物質的欲求を恣にするなり〕道を知らざればなり。
一 人の己をほむるを聞いては、實に過ぎたる事にても悅びほこり、己を謗るを聞いては、有ることなれば驚き、無きことなれば怒る。過を飾り非を遂げて改むる事を不レ知ら。人みな其人がらを知り、其心根こゝろねの邪よこしまを知りてとなふれども、己獨ひとり善くかくして知られずと思へり。欲する所を必ひつとして、諫を防ぎて納れず。
一 人の非を見るを以て己が知有りと思へり。人々自滿せざる者なし。
一 道にたがひて譽ほまれを求め、義に背きて利を求め、士は媚こびと手だてを以て祿を得ん事を思ひ、庶人は人の目をくらまして利を得るなり。之を不義にして富み且つ貴きは浮べる雲の如しといへり〔論語、述而篇の語〕。終に子孫を亡すに至れども不レ察せ。
一 小人は己あることを知りて人あることを不レ知ら。己に利あれば、人そこなふ事をも顧ず。近きは身を亡ほろぼし、遠きは家を亡す。自滿して才覺なりと思へる所のものこれなり。愚これより甚しきはなし。
一 來書略。志は退くとも不レ覺え候。隨分つとめ勵まし候へども、氣質柔弱じうじやくなる故に進みがたく候。志の親切ならざる故とも被れレ存ぜ候。
返書略。つとめられ候處は、氣の力のみをはげますにて候。たとひ強力ありて一旦つとめすくやかに進み候とも(*原文「候もと」)、德の力ならざれば、根に入りて入德にふとくの益にはならず候。氣力は時ありて衰へ候。又根に不明なる所あればくじき易く候。德の力は明かなる所より出候へば、氣質の強柔によらず候。知仁勇ある時は共にあり。德性を尊びて問學ぶんがく(*ママ)によるは、これを明かにする受用にて候。知明かになりぬれば、止やめんとすれども不るレ已まの勇力自然に生じ候。私欲の煩もくらき所にある事に候。明かなる時は、天理流行して一體の仁あらはれ候。明かに知り候へば則ち親切の志立ち候。之を明かなるより誠あると申し候。誠より明かなるは〔中庸に出づ〕聖人にて候。これを明かにする功を受用せずして、たゞに志の親切ならん事を願はれ候は、舟なくて海をわたらんとするが如くにて候。故に大學の道〔大學に「大學之道在明明德、在親民、在止至善〕は、明德を明かにすることを先にし候。親民至善しいぜんは、みな明德の工夫受用にて候。
一 來書略。よき學者に成り申し度きと心懸候へども、志の薄き故にや、おこたりがちにて空しく光陰を送り候事、無念に存じ候。
返書略。よき學者に成り給ひ候事は無用の事に候。本より武士にて候へば、よき士になり給ひ候樣に晝夜心がけられ尤もに候。たゞ名字なしによき人と申すがまことの人にて候。まことの人は、公家なればよき公家と見え、武家なればよき武士と見え、町人なればよき町人、百姓なればよき百姓と見え申し候。よき學者と申し候には風ふうありくせあり。其類るゐに於てはほめ候ても、其法なく其習なき所へ出で候へば、却て人の目にたて耳を驚かし候。其故は、よき學者と申すには外の飾は(*原文「外の飾ほ」)多く候。其飾の除のけて見候へば、實はかはる事なく候。只實義ある人のみ、松栢しようはくの凋めるにおくるゝ〔論語、子罕篇の語〕たのもしき所御座候。とりわき武士たる人の肝要にて候。
一 來書略。淨土宗、日蓮宗申し候は、大乘の學者は戒かいを保つに及ばず、たとひ惡をなしても彌陀を賴み妙法を唱れば、成佛疑なしと云ひ、善行ぜんぎやうをするをば雜行ざふぎやうの人なり、地獄に落つべしと説き候。尤も本願寺宗同前に候。法然坊〔僧源空が事。淨土宗を創む〕・日蓮法師〔日蓮宗の開祖〕など、斯樣の筋なき事を云ひて、一宗を弘め候を、能く弘めさせ給ひたる事に候。今は數百歳のならはしとも可くレ申す候。初めに斯樣の事にておこりたるは不審に存じ候。
返書略。法然坊制禁敎示けうしの書を見侍れば曰はく、「可し二停止ちやうじす一。於て二念佛門に一レ號することレ無しと二戒行かいぎやう一。專ら勸め二淫酒食肉を一、適たま/\守る二律儀を一者は、名づく二雜行人ざふぎやうにんと一。憑たのむ二彌陀の本願を一者は、説くレ勿れとレ恐るゝレ造なすことをレ惡を。事戒じかいは是佛法の大地也。衆行しうぎやう雖もレ區まち/\と同じく專にすレ之を。是を以て善導和尚をしやう〔宋の高僧〕は、擧げてレ目を不レ見二女人を一。
此行状之趣、過ぎたり二本律制ほんりつせいに一。淨業之類、不んばレ順せレ之に者、惣じて失し二如來之遺敎を一、別して背く二祖師之舊跡に一。旁かた/〃\無きレ據よりどころ者か歟。」日蓮坊の云く、「十七出家の後は不レ帶せ二妻子を一、不レ食はレ肉を。權宗ごんしうの人尚可しレ然る。况んや正法の行人をや哉。」二組如くレ此のに候へば、末流まつりうの坊主とは大に異なり。
法然坊は學力戒行共に優まさりたる體ていに候。「日蓮不レ帶せ二妻子を一。」と書き候所は尤も奇特きどくに候。持つ程ならば妻子とて可くレ持つ候。かくれたる事は有る間敷候。然れども出家となり候上は、戒なくては出家にあらず候との事に候。世間の坊主の説法は、己おのが破戒無慙のいひわけと見え申し候。渡世の事に候へば、とかくの批判に不レ可からレ及ぶ候。
一 來書略。思おもひに思索、覺照かくせうのたがひある由承り候。委く承りたく候。
返書略。古人心をくるしめ力をきはむるは、鑿さくにいたり易しといへり。〔思索に過ぐれば、却つて迷を生ずるの義〕是思索の事にて候。心の本然ほんぜんふさがりて至理しいりてらさず候。藝は其術の功を積んで後に成り、世俗の分別は理窟より出たる分別と見え候。寛裕温厚にして涵ひたし養ふときは、心本然を得て明睿めいえいの照す所あり。これを覺照と申し候。分別は自然に出て自得し、藝は從容として其品たかしともいへり。詩歌に至るまで巧なるは本意にあらずと承り候。又「世事は其事になれ、藝は其術を知らざれば、鏡前きやうぜんに白布を張りたるが如し。」といへり。不るレ知らをば不レ知らとし、知れるをば知れりとす。眞知其中うちにあり。知者はまどはざるのみ。
一 來書略。聖人の言は、何れの國何れの人にもよく相叶ひ候と承り候。然れども喪祭の禮儀などは、今の時、處、位、に行ひ難き事多く候。三年の喪はとりわき成し申す間敷候。學者の我と思ひ立ちてつとめ候だに名實かはり申し候。とぐる事は十に一二と見え候。それだに其人の得たる事か、境界きやうがいのしからしむる樣なる事ばかりに候。若上かみより法に定められ候はゞ、僞いつはりの端となり、罪人多く出來可くレ申す候。往年聖人の法を少々國に行はれし人御座候へば、國人悲びて、「孔子と云ひし人はいかなる惡人にてか、かゝる迷惑なる事を作り置きて人を苦しめられ候。」と申したる由に候。今も儒道の法を立て、しひてつとめさせ候はゞ、是にかはり申す間敷候。まことに僞の初め亂の端とも可くレ成る候。
返書略。聖人の言ことばは何れの時とき處ところ位くらゐにもよく應じ候へども、採用とりもちひやうあしきによりて害になる事に候。喪もの事は、死を以て生をほろぼさずとある一言ごんにて、行ひやすき道理明白に候。病者か、無き二氣力一か、情(*原文ルビ「せい」)うすく習ひたるか、如きレ此のたぐひの人に、法のごとくつとめさせ候はゞ、たちまち親の死を以て子の生を亡し可くレ申す候〔死者に厚うせんが爲に、生者傷ましむべからずとなり〕。近世は人の生付氣根きこんよわく、體たいやはらかに成り來り候。たゞ人のみならず、竹木金石も又おなじ。無心の物だに運氣につれては斯くのごとし。
况や人においてをや。今の人の氣體よわく情せいうすくなりたるには、世間の定法の五十日の忌精進にて相應に候。もし氣根つよく、志、學力共にありて、其上に心喪しんさうを加へんと思ふ人あらば、又五十日も祝言等の席へ出ざるほどの事にて可なり。神前の服は日本の古法の如くなるべし。是より上のつとめをしひ候はゞ、學者といふとも堪へざる者多かるべし。其人の罪にあらず。人情時變を不レ知らしてしひる者の過なり。物極れば必ず變ずる道理なれば、百年の後は人の氣根もまし、形體きやうたいつよくなり、世中質素の風にかへりて、情も少しあつく、道德の學も興起し、至治しぢの澤たく〔結構に治まる御世の御蔭―頭注〕をかうむる時いたりなば、予がいひ置きし事をすくなしといひ、薄しとしてそしる者あらん。
今だに誠を大事と思はざる學者は、法によりて非とする者あり。然りといへども道のおこらんとするめぐみ〔芽生―頭注〕の時に當りて、誠を亡し僞をなさむ事は、予が心にをいてしのびず。予いまだ凡情ぼんぜいをまぬかれずといへども、狂見ありて大意を見る故に、世のそしりにひかれず獨立てり。他の學者は狂見なければ、そしりをもやぶり得ず、氣躰よわく情叶はざれば、法をも行ふこと不レ能は、名聞ふかき者は、身を亡し、淺き者は學まなびともに廢せり。まことに惜むべし。故に世に器量あり實義ある人は、多くは聖人の道を尊ぶといへども、大難たいなんあるによりさけて寄らず。
其人々の言ことば信ずるにはあらざれども、表むき佛法によりて宗旨をたて、常の武士なれば難なし。學者と成る時は、其法を行はざれば其流ながれにそしられ、本なき惡名あくみやうをかうぶれり。行ふ時は身くづをれ〔弱り果つるを云ふ〕、武士のつとめもならざる樣なれば、實は不忠にも陷るなり。道は五倫の道なり。就レ中忠孝を學ぶといへども、忠孝の實はなきに似たり。道に志なきにはあらずと云へり。是非なき事に候。今の時大に志ある人は、たとひ其身根氣つよく愛情あいせいふかくして、三年の喪をつとむべき者なりとも、人の師父兄となりて子弟をみちびくべきならば、己ひとり高く行ひ去りて、人の續きがたき事はすべからず。くゝりつきて〔一致して―頭注〕衆と共に行ふべし。武將の道も同じ。
一人ぬけがけして高名するは獨夫の勇なり。人に將たる者は、總軍勢のかけひきすべき程をかんがへて進退す。己が馬の速きが爲に、ひとり往かず。俗に異なる者は一流となりて俗をなさず、天地の化育を助くべからず、終に小道せうだうとなれり。異端と是非を相爭へり。道の行はれざる事常にこゝにあり。俗にぬきんづべきは、民の父母たるの德のみ。
一 來書畧。天子にあらざれば禮樂を不レ作さと候へば、儒法の喪祭をおこすも、禮を作るの類たぐひにてあるべく候や。
返書略。古來日本に用ひらるゝ禮樂、官位、衣服の制にいたるまで、そのかみ遣唐使、もろこしより習ひ來りし聖代の遺法なれば、これすなはち儒法なり。喪祭の事は、古は神道しんだうの法ありき。中比佛法に移りて神道絶えたり。社家に少し殘れる事ありといへども、平人へいにんはとり用ひがたき樣にいひならはして、世人よるべき所を知らず。予は年來神道により行ふべき喪祭の法だにあらば、用ひたく候へども、成りがたきよしに候へば、無く二是非一候。扨は儒法と佛法と、古より人々の心のより次第に用ひ來り候。佛法は釋迦より初めて火葬にしたる事なれば、こと/〃\く火葬なるべく候へども、貴人と社家とは大かた土葬にして、髪をも不るレ剃ら者あり。是又儒法なり。上代にも神儒佛まじへ用ひられ候故に、東照神君も、神儒佛三みつながら用ふと宣ひ候。然れば上代武家共に用ひ來れり。何ぞ作ると可けんレ申すや。中絶して見なれざるゆゑに、夏の虫氷を疑ふにて候。古は日本にも盛んになりし學校の敎へ、釋奠の祭なども、中興せば珍らしかるべく候。
一 來書畧。「主とす二忠信を一。」の語、諸儒の説を聞き候といへども、文義に依りて理を云ふ所はきこえたる樣に候へども、今日の受用に取りては、しかと得心仕りがたく候。
返書略。大學の傳に誠にすレ意をといへるは、則ち主とする二忠信を一の工夫なり。主二忠信一は本躰の工夫なり。誠意は工夫の本躰なり。主二忠信一は未發の時に誠せいを養ふなり。誠意は已發いはつの時に誠を存するなり。誠は天の道なり。誠を思ふは人の道なり。〔中庸に、誠は天の道なり。之を誠にするは人の道なりと〕誠を思ふ心眞實なれば、誠則ち主となりて、思念をからずして存せり。是主二忠信一なり。又先儒の説に、眞心に發するこれを忠といひ、實理を盡すこれを信といふといへり。此解おもしろく覺え候。
一 來書略。親しんの喪をつとむるは、學者の大義と承り候へども、行ふこと成りがたく候。少し道を悅び候甲斐もなく、恥はづかしく存じ候間、一向に學をやめ申すべきと存じ候へども、之も又御恩空くするにて候へば、何とも辨へがたく候。
返書略。古人は欲薄く情じやう厚く、世事すくなく、氣力つよく無病なりし故に、三年の喪をつとめられ候。いまだ三年を不足と思ひし人あり。又少しはつとめて及びたる人もあり。後世の人は世間多事にして、欲の爲に心を奪はれ、情せい薄く氣力弱し。このゆゑに勤めてなりがたく、企ても及びがたし。大國だにもしかり。况や日本は小國にて、人の魂魄の精うすく、堪忍の力弱し。聖人おこり給ふとも、日本の今の人には、しひて三年の喪をなさしめ給はじ。世のならはしのくだれること千載に及びぬれば、今の世に生れては、道を悅び法を行はんと思ふ志ありとも、氣力叶ひがたかるべし。
賢君繼ぎ起り給ひ、世事せいじ次第にすくなく、人の利欲年々薄く、禮儀あつき風俗と成りて、豐ならば、風雨時をたがへず、寒暑節せつを不レ失はして、物の生長かたく成りなば、人の形躰も健すくやかになりて、人情厚くなるべし。然らば喪のつとめのみならず、萬事の行業ぎやうごふ厚くなりて、其世の一年は今の百日よりも勤めやすかるべし。今の世愛子に別れて、五年七年歎き暮し、病氣になる者も、平生の事は喪の躰ていならず。これ哀情餘ありといへども、氣根弱く堪忍の精なきゆゑなり。况や哀情の薄き者、つとめてなすべきや。たとひ少しは哀情ありても、氣躰弱く病める時は、養生よりおのづから薄くなりゆくものなり。又人の氣質品々あり。生付の得たる方には、つとめも人に異なり。禮儀の法は得たれども、利心深き者あり。仁愛ありて人を惠み財ををしまぬ者も、禮法には疎おろそかなるものあり。
勇武ようぶあれども不仁なる者あり。才覺にして眞實薄き者あり。如きレ此のの人々、己が生付の得たる所に自滿して、足らざる所をわきまへず、互に相助くる事あたはざるのみならず、却つて相爭ひ相敵とす。貴殿は勇ようなれども、仁を好んで人を愛し給ひ、利心すくなし。仁と無欲と勇とは、道德において長ぜるところなり。禮の格法にたへざる〔式作法を行ひ得ざる―頭注〕ことは、流俗の習にして、天下みなしかり。貴殿一人の罪にあらず。一の不足を以て三の德を廢すべきことは、上世といふともあるべからず。况や末代においてをや。貴殿の德を以て上代に生れ給はゞ、必ず禮にも厚かるべし。
それ太古には禮の格法なし。只誠に專なり。伏犧神農の代よには、三年の喪なく哀情數なし。心地しんち光明にして飾なかりき。仁勇じんよう無欲は伏犧氏の時に生れて、必ず尊びらるべし。禮の格法一事を以て儒者の道を盡せりと思ひ、凡情ぼんぜいの名利伏藏するものは、堯の代にいれらるべからず。貴殿此格法者のそしりに逢うて、天性の德を廢せんと思ふは大に不可なり。それ喪もは終を愼むなり。祭さいは遠きを追ふなり。民の德厚きに歸す。〔論語、學而篇に、曾子曰はく、終を愼み遠きを追へば、民の德厚きに歸す〕尤も人道の重んずる所なり。然れども喪祭ともに時處位をはかるべし。
只心の誠を盡すのみ。格法に拘りて不るレ叶はをしひ、不るレ能はをかざらば、必ず其本をそこなふべし。格法の儒者の世に功ある事すくなからず。予が如きものも恩德にかゝれり。しかれども心法にうときが故に、自己の凡情ぼんぜいを不レ知ら。又行ふこと日本の水土に叶はず、人情にあたらず。儒法をおこすといへども、つひに又儒法を破る事を知らず。貴殿三年の喪の法はあたはずとも、心情の誠は盡し給ふべし。追ふレ遠をの祭まつりも、又なるべきほどの事を行ひて、自己の誠を盡し給ふべし。
一 來書畧。喪の中うち魚鳥を食せざること、生類を忌むの義ならば、佛家ぶつけの流に似たり。祭禮に肉を用ふる時は、又生類を忌むにてもなく候。拙者若く無病なりし時は、年中蔬食そし水飮すゐいんしても何とも不レ存ぜ候ひき。近年は年寄り病者に成り候故か、五日生魚なまうをを食せざれば氣力乏しく、十日食せざれば腹中あしく成り候。か樣にては、三年の喪はいふに及ばず、三月も成り申すまじく候。何とも辨へがたく候。
返書畧。喪に一の主意あり。憂うれひのうちなればすべて靜にして事にあづからず。肉食にくじきの味あぢはひを求むるも、樂びの類たぐひなれば食せず。蔬食そしいして命めいを養ふのみなり。只酒肉を忌むのみならず、五辛しん其外何にても相火しやうくわ〔情慾―頭注〕を助け精を増すべき物を食せず、腎水堅く閉て人道の感をいださじとなり。蔬食そしい味あぢなければ腹にみたず、力なければ杖つきて起居す。喜怒ともに發することを不レ得。これ皆壯年の者生樂せいらくをふせがんがためなり。
故に老いて小兒のごとくなる者は、肉を食し酒を飮む。たゞ喪服の身にあるのみなり。病人も又しかり。これを食して樂みとせず、只生を養ふばかりなり。氣血盛さかんにして精神つよき者は、厚味こうみを忌むのみならず。蔬食そしいといへども腹にみたしめず、夏涼しくせず、冬暖にせず、著て安からず、寢てやすからず。これは古の人の氣血健すこやかに筋骨すぢほねつよく、無病にして、精神盛なりしかば、聖人其人の位に依りて制し給へる法なり。今の世の人此法のごとくつとめば、生を滅さんこと眼前なり。生を養ふ時は喜怒の情發し易く、生樂の念動き易し。常の食しよくを食し常の衣きぬを著し常の居を安んじて、不レ怒ら不レ笑は不るレ樂ま事は、聖人、大賢たいけん、さては天質の美にあらずしては、いかで成るべきや。
このゆゑに古の人喪にはかならず法あり。法なくては勤むることあたはず。今の人其法は身の位に不レ叶は。又法を不レ立てしては行はるべからず。しかれば俗にしたがひ給はんより外は有るまじく候。世俗定法の五旬の忌の間も、元氣をそこなはざるためならば、藥を服用する如く思ひ、折々干魚ひうをなどを用ひらるべし。貴殿年寄り給ふとても、いまだ五十にて候へば、七十の人の如くにも成るまじく、又壯年無病の人の樣にも成るまじく候。其間御料簡あるべく候。
一 來書略。三年の喪は今の人の情には不レ叶はと承り候へども、律僧行人ぎやうにんなどを見候へば、又成るまじき事とも不レ被れレ存ぜ候(*原文「不レ被レ存ぜら候」)。淨土宗・日蓮宗などの中うちに居ては、立てられまじく候へども、律〔戒律を所依とする佛敎の一宗〕とて別に立て候へば、同じ凡僧ながら戒をも持たもち候間、喪も居處衣服飮食いんしいに至る迄別に出て仕り候はゞ、とかく三年は勤め過すごし可くレ申す候。又心喪しんさうとて、外むきはかはらずして心に喪を勤むると申し候へども、是は一向に急度きつと立つるよりも成りがたかるべきと存じ候。
返書畧。律僧行人などは、喪の勤ほどなる事もある躰ていに候。然れどもそれは後世の極樂へ生れんといふ迷ひに牽かれ、又は渡世のためなどに、みな據所よりどころありてなす事に候。今の百姓の律僧の一食じきと申す物をあたへ候はゞ、よき振舞と可くレ存ず候。坊主には大方貧しき者なり候へば、しひて苦勞とは存じ(*ママ)まじく候。又不婬戒などは、律僧ならでも、かせ奉公人〔束縛を受くる奉公人の義歟〕などは大方無く二是非一つとめ候。拙者も氣根よき時分は、名聞まじりに三年の喪は勤むべきと存じ候ひき。
いかにも貴殿の氣ざしにては成り可くレ申す候。古の心喪しんさうとまうすは、身に服を著せざるばかりにて、作法はみな喪の掟と見え申し候。今時心喪をなすと申され候は、尤も志は殊勝にも候へども、しかと仕したる事にてはなく候。大道を心とする者は、たとひ其身は喪を勤むべき道を得たりとも、時の人のなるまじきことなれば、光を和やはらげ塵に同じくして〔老子和光同塵に出でたり〕、萬歳まんざいを見ること一日のごとく、誠せいを立て無事を行ひ、業を創め統をたれ、衆と共に進むべし。
己ひとり名譽をなすべからず。衆のなすまじき事を行ふ者は、天下の師たるべからず。法に落ちて一流となり、俗とはなれては、いづれの時か道をおこすべきや。後世人の氣體つよく情せい厚くなりたる時は、予が言を薄しとし、そしる者あるべし。誠に願ふ所なり。只一念獨知どくちの所において、天を師とし神しんを友とせば、法のごとく勤を以てすぐれたりとせず、やはらぐるを以て惰おこたれりとせず。名をさけ氣勢をしづめて誠を思ひ給はゞ、幸甚たるべし。
一 來書略。今の世多藝小術の者も、師となれば郡國の君と同座し、無禮至極なる者多く候。師となるうへは如くレ此のあるべき道理にて候や。
返書畧。天下に達尊たつそん〔孟子に、天下に達尊三あり、爵一齒一德一と〕三あり。德と年と位となり。朝廷において、衣冠正しく貴賤の次第を分つべき所にては位ある人を尊び、鄕里の常の交にて、孝弟を專とすべき所にては年を尊び、世を助け民に長たるの德を慕ひ、迷ひ辨へ心法を明かにする所にては德を尊ぶなり。故に古は王公といへども民間の賢者に降りたまへり。しかるに彼一藝の師たる者、自己の分を辨へず、小藝をしらで道德仁義も同じ事の樣に心得たるは昧き事なり。貴人きじんも亦あやまり給へり。有德いうとくは禮を以て來きたし、小藝は祿を以て招き給ふべくば、おのづから爭ふ事あるべからず。
一 來書畧。世間に、すゑ物〔罪科ありて斬に處せらるゝ者〕斬りたる者の子孫は絶ゆると申し候。罪ありて斬らるゝ者なれば、我が斬らでも人これを斬り候。昔物語に、竹の雪をふるはしめて、其下知したる者にはかゝらで、おとしたる者にかゝりたる事など申し候へども、理窟にて候へば、心得がたく候。
返書畧。世中にしわざこそ多かるべきに、人を斬るを事と仕り候は、不仁なる心にて候。其不仁の心に天罸當るにて候。我等もすゑ物斬りたる者の子孫絶えたるを、二人まで見及び候。常の武士にて候へば、斬らざるとても誰誣しふる人もなく候。好んで上手をするゆゑにこそ、主人も命ぜられ朋友も賴み申す事に候。しかのみならず能く斬る者あれば、罪の輕き者もきらるゝ樣なるあやまりもある體に候。其上すゑ物によりて、打やうあらみ〔新刀―頭注〕の昔にかはり、當分きるゝ樣にばかり仕り候故、後世のちのよまで用に立ち候はすくなかるべく候。古は今のやうに樣物ためしもの(*ママ)は不レ仕ら候へども、人々かねよき刀をさし、今に傳へて古身ふるみは重寶ちようはうと成り候。
一 來書略。下學上達じやうだつ〔論語、憲問篇の語〕の義、下しも人事を學んで上かみ天理に達すと承りて、理通ずるが如くに候へども、受用となり難く候。
返書畧。易に、形より上かみなる者を道といひ、形より下しもなる者を器きといへり。此語にて上下のこゝろ分明に候。總じて形色けいしよくある者は皆器きなり。故に五倫も器なり。父子、君臣、夫婦、兄弟けいてい、朋友の交は、形より下なるの器なり。父は慈に子は孝にして父子親しんあるは、形より上なるの道なり。故に五倫の交において、道を行ひ德をなすは下學上達なり。
理を窮め性を盡し、命に至ること其中うちにあり。五倫を本とせずして、空に理を窮め性を見るは、異學の悟りといふものなり。高しといへども虚見なるが故に、德に入る業を立つることあたはず。其悟と云ふものも眞まことならず。人道を明あきらかにせざるが故に造化を不レ知ら。造化の神理しんりを辨へざるが故に跡のみ見て惑へり。下學せずして上達を求め、上達も亦得ざるものなり。
一 來書略。此比このころ末書まつしよにて「君子不ればレ重から不レ威あら。」の章〔論語、學而篇の語〕の説を得候。君子は學者の稱なり。學問は學んで君子となるの道なれば、學者を指して君子といへり。在位の君子と云ふも同じ理なるべし。古は人の上かみたる人は皆道德あり。故に在位の人を君子といへり。重おもきと不るレ重からとは氣質にあり。生付靜にして輕々しからぬ人は、おのづから人の狎れあなどらざる所あれば、威あるが如し。學ぶ所の道も、能く受用して堅固なり。氣質輕く浮氣なる者は、あなどりやすくして威あらず。學ぶ所の道も得心とくしんたしかならず。故に學者の人品靜重せいちようにして威嚴なるは、たとへば田畠でんぱたの地福ちふくよきがごとし。しかれどもよき種を植ゑざれば、地福の厚きも詮なし。主二忠信一は美種よきたねを植うるなり。己にしかざる者を友とせず。〔論語、學而篇、前掲君子章の下文〕過つては速すみやかに改めて憚らず、吝やぶさかならざるは、耕作の道をよく勤むるがごとし。
返書略。此章の文義説得がたし。此發明聞えやすきのみ。予が見候は誠の心にあるを忠といひ、事に行ふを信と云ふ。中心を忠とす。天理自然の誠心にありて、空々如たるものなり。所謂未發の中うちなり。人言を信とす。人の言はかならず實まことあるべきものなり。僞るものは私欲これを害すればなり。忠は德の本なり。信は業の始なり、人身の主しゆなり。故に忠信を主とすといへり。
心友を友といひ、面友を朋と云ふ。人を擇び捨つるにあらず。己にしかざる者をも面友として、禮を以て交をなすべし。小人をしたしみ、心友として德をそこなふべからざるのみ。君子の過は日月の食のごとしと云へり。速に改むるを尊しとす。善是より大なるはなし。平人より君子に至るの道路なり。たとひ氣質靜重せいちようなりとも、内に德業の本たる誠なく、外ほか過を改むるに憚らば、一旦威重ちようなるが如くなりとも、終には恐るべきことなきの實を人皆知るべし。たとひ氣質輕々しくして浮氣に近づくとも、忠信を主とし過を改め善にうつらば、浮氣の煩ひ除のぞきて、天然の淸く明かなる本に歸るべし。
人皆是をよみして其誠あるに恥おそるべし。威これより重きはなし。學これより堅きはなし。君子の重きを以て學をかたくし、威を以て外邪ぐわいじやをふせぐ事は文武の道なり。恭敬にして禮儀正しきは重おもきにあらずや。死生貧富の間、其心を動さず其志を奪ふべからざる〔孟子、公孫丑の上篇に此語あり〕は威にあらずや。氣質の輕重によるべからず。己にしかざる者を友とし親み、今の凡位を安んずるは平人の常なり。賢を師とし善を友として、過を改め義に移るは、日新成德の業なり。只學者の憂は不るレ重からにあり。
不るレ重から者は内に主なきが故なり。生付の靜しづかなると動うごくとにはよるべからず。心に主あるを重しとす。主ある時はおのづから威あり。家に主人あると主なき家とを見て分明なり。
一 來書略。經書を見候に、始中終しちうしう悉く解げせんと仕り候へば、心氣勞して却て塞ふさがる樣に覺え候。一經けいの中、肝要の所を見得て可なるべく候。
返書略。始はじめより終をはりまで句々皆解げせんとするは、書を解かいするにて候へば、心を勞して受用の本意にあらず候。又要を得たりと思ひて、他を疎かにするも弊つひえあり。情性を吟詠し道德を涵養する事は詩のみにあらず候。道理本行は我心なり。經傳は我心の道理を解したる者なり。經傳をよみ得て悅ぶものは、我心の道理を見得たればなり。我心の道理は無きレ窮りなり。書中の一章を肝要として止るべからず。又甚はなはだ解げすべからず。甚解する時は、書を本行ほんぎやう〔本然の主要目的―頭注〕として我心を失ふの弊つひえあり。吾心の位と學術の進むとにしたがひて、受用の要と思ふ所は時によりかはりあるものに候。故に時に我心に受用の要を得ばよきなり。廣くわたりて道德を涵養し、日新の功を積みて氣質を變化し給ふべし。
一 再書略。廣くわたり候とは、いか程の書を讀みてよく候や。
返書略。予が廣くと申し候は、無極ぶきよくの理に體ていして、心を是のみと止とゞめざるを申し候。古へ書のすくなかりし時に却つて聖賢多し。經傳は貴殿の心次第に、孝經大學中庸にてもたりぬべし。論語孟子にても足りぬべし。五經にてもたりぬべし。其中十が七八までも解げし殘すとも妨なく候。要は書中にあらず我心にあり。大意を得る時は天下に疑ひなし。何ぞ書の文義を事とし候はんや。
一 來書畧。道本もと大いなり。何ぞ大道と稱し候や。
返書畧。世の道をいふ者すこしきなり。故に大道の名あり。大道とは大同なり。〔道は同なり。=德を得義を宜と解する類の一説なり〕俗と共に進むべし、獨拔んづべからず。衆と共に行ふべし、獨異なるべからず。他人惡事をなさば己のみせざるにてよし、人を咎めそしるべからず。善の行ふべき事あらば己一人なすべし、人に責むべからず。三軍の將の士卒と共にかけひきして、獨夫の勇ゆうを用ひざるが如し。衆のしたがふべき氣を見ては先だちてすゝむる事あり。己氣力ありとも人の從ひがたき事はなさず。世の道學の小道なる事、言はずして知りぬべし。
一 來書畧す。
返書略す。
一 器うつはものに水を十分入れて持するたとへの事、人心の危あやふきを知りて、怒りにうつらず欲に落いらず。本心の靈明を不るレ失は事、右のごとくにて候はゞ、よき受用たるべく候。しかれども大事と思ふ念を常に存するにてはなく候。常に心とすれば、善ながら本心の靈明をふさぎ候。主意眞實に立ち候へば、常は無心にて、事あればかならず用ひられ候。天下生を好まぬ者はなく候。身を大事に存じ候主意まことに候。故に其念慮はとゞめず候へども、危き所にのぞみては必ず愼み候。
一 事物にうたがひある時、心を盡し工夫被レ成候へば、自得の悅よろこび御座候由、人の生付種々しゆ/〃\候へば、左樣にて心の煩わづらひにもならず氣のとゞこほりもなく、益を御おん覺え候はば不レ苦しから候。拙者若き時、田舍に獨學いたし、聖言せいげんを空に覺え、山野歩行の時も、心に思ひ口に吟じ候へば、意味の通じがたきも、ふと道理うかみよろこばしく候ひき。左樣の事にて候や。たゞに事物の不審に心をつくさるゝ事は如何いかゞと存じ候。心上しんじやう意欲の妄まうをはらひ候事、
當然の工夫にては候へども、そればかりにて凡根の亡び候事はなく候。意欲の妄は皆凡心に付きたるまどひにて候。凡心は意念私欲の泉源せんげんにて候。其本をたゝずして末ばかりをさめては、終に功なきと申す事にて候。我を他人にして我わが人がらの位いかんと見候へば、心上しんじやうの受用は大方よきも、全躰の人がら小人なる者多く候。此凡位をまぬかれて、人がら君子の心地しんちに近く候へば、凡根より出づる意妄はわすれたるが如く、ひとり無く成るものにて候。それより前は、身のあつ火びをはらふと申す諺の如く、心上しんじやうに浮み候意妄は先却しりぞくるにて候。惑解け心の位のぼり、凡情をはなれ君子の地位に至り候を、入德と申し候。
一 初學より德の力は及びがたからんとの事、尤もに存じ候。眞實よりおこりてなすことは、初學より德の力にて候。眞實は明かなる所より生じ候xzzzzzzzzzzz武士よりは臆病なる者と申し候へども、利を見ること明かに、好む心眞實に候へば、風波をしのぎ遠路をへて、危き難をかへりみず候事は、武士よりもまさり候。君子道を見ること明かに、德を好むこと眞實に候へば、如くレ此くのに候。それより前は、さし當りてはしひてつとむる事もなくて不レ叶は候。
一 孔子十有五より七十までの次第の事〔論語、爲政篇に、子曰はく、吾十有五にして學に志し、三十にして立ち、四十にして惑はず、五十にして天命を知り、六十にして耳順ふ、七十にして心の欲する所に從つて矩を踰えず、と〕、他の聖學をする人の受用にとりて申し候はゞ、志すレ學には道を學び德に入らんと志し、心内に向つて獨を愼むにて候。三十にして立つは心志しんし堅固に成つて、文武の才德成就したるにて有るべく候。四十にして惑はざるは、守り務むるの力いらずして、心を動かさゞるの位たるべく候。
五十にして天命を知るは、天道に順從じゆんしやうし運命に出入して、造化を助くる大賢たいけんの心地しんちたるべく候。天をもうらみず人をもとがめず、四時しいじに應じて小袖かたびらを用ふるごとく、順逆に好惡なきこと其中うちにあり。六十にして耳したがふは、大だいにして化するなり。聖人に至りたるにて候。是よりは少すこしの淺深熟未熟は候へども、生知の聖にかはり無く候。孔子の志は吾人にあらば、大方三十にして立つの心地たるべく候。石針しやくしん〔磁石針―頭注〕の南北をさす如く、義理より外に他念なきにて候。
立たつは天地人とならび立にて候。不るレ惑はは學士の天地萬物にまどはざる如き事にては無く候。賢人の心を不るレ動かさをも越えて、死生順逆一致に候へば、富貴ふつき貧賤夷狄患難、入いるとして自得せずといふ事なきにて候。〔中庸の語なり〕知る二天命を一は知行ちかうするの知の意にて、天命を吾ものとするなり。陰陽五行も我わがなすなり。運氣もわれより進退すべき所御座候。他たの死生有りレ命、富貴ふつき在りレ天に等の命を知るにてはなく候。耳したがふは精微を盡す所たるべく候。
五十にして知る二天命を一までは、廣大に至る處にて候へば、言語げんごを以て解げせられ候。六十耳順じじゆんよりは、言語ごんご文書ぶんしよの及ぶところにあらず候。從容として道に當る。形色は天性なり。形をふむの位たるべく候。耳を以て口鼻眼こうびがん四躰をかね給ひ候。一身の中うちにて神明に通ずるものは先まづ耳なり。五聲〔宮、商、角、徴、羽〕十二律〔六律六呂の稱〕の精微を盡すも耳にて候。七十にして心の欲するにしたがつて矩を踰えざるは、道器一貫義欲一致、天道無心に動に同じきにてあるべく候。口をひらけば則のりとなり、足をあぐれば法となること、其中に御座候。
一 曾子三省〔論語、學而篇に、曾子曰はく、吾日に三たび吾身を省みる云々〕、初學の時の事たるべく候。如くレ此の人倫日用において篤實に受用ありし故、やがて大賢に至り給へると知らせたる者にて有るべく候。忠は己を盡すなり。我事には誰も心を盡し候。人のためには十分不レ盡さ候。人我へだてあるは仁ならず候故に、仁に至るの受用にて候。朋友は眞實無妄むばうの天道を父母としたる兄弟なれば、其誠まことを思ひて相交るを信と申し候。内外一なるや一ならざるやと省るにて候。傳へたる道理を受用せざるは學者の病にて候。師友に問ひ、學びたる所を日用に試むるや、受用せざるやと省みたまひ候。
一 勿れレ正する〔孟子、公孫丑の上篇に、必ず事あり。正す勿れ。心忘るゝ勿れ。助け長ずる勿れ、と〕はしるしをいそがざるなり。勿れレ忘るは怠らざるなり。勿れ二助け長ずる一は才覺を用ふべからざるなり。百姓の農業をつとむる如く、職人の職をつとむる如く、いそがずおこたらず才覺を用ひず、常になすべき事をして自得を待つにて候。入德にふとくは善を行ひて積んで德となる事に候。經傳を見、弓馬禮樂を學び、自己の非をよく知り、過を聞くことを悅び、五倫道ある等とうの事、みな善を行ふにて候。不義をにくみ惡を恥づるものゝ吾にあるを、天眞と申し候。これを主人公としてなす事は、皆善にて候。これを必ず事とすることありと申し候。
一 克己復禮こくきふくれいは、天理人欲ならび不レ立た候。禮は理なり、己は私わたくしなり。私に克ちたる所則ち天理なり。則ち天下我が心の内にあり。尤も平人の己おのれ、學者の己、賢人の己、高下淺深各別たるべく候。大方御おん書付の如くにて候。「三月不レ違はレ仁に。」〔論語、雍也篇に、子の曰はく、囘や其心三月仁に違はず、と〕の語は克己こくきの後たるべし。四時しいじ三月にてうつりぬれば年中の事なり。年中たがふ事なしといへども、不レ違はと候へば、いまだ力いり候。化して聖せいと成る時は、不るレ違はの力もいらず、無心にして天理流行いたし候。

卷第五 書簡之五

一 來書略。同姓を不るレ娶らの法、未だ日本において掟なき事なれば、從昆弟いとこよりは俗に隨ひて不レ苦しからと許し給ひ候へども、近年同姓を忌むの義を聞傳へて、其禮を守る者少少出來候。是程までの禮儀を知ることも又大義なり。少しひらけたる知覺を空くして、不レ苦しからと許し給はんことは本意なきことなり。且從昆弟を許さば叔母姪めひにもおよびなん。それより後は禽獸に近くなるべし。只此勢に從ひ、儒法としてかたく同姓を忌む禮儀の則のりを、廣く仕り度き儀に候。
返書畧。誠に願ふ處なり。然れども此禮を云ふ者は、貴殿など親み給ふ人十人か二十人か、扨は格法〔忠實に法則を嚴守する者〕の學者二三十人の外には過ぐべからず。纔に相交はる人を以て、天下の數限なき世俗の、人情を知らず時勢を考へずして、時至り勢よしと思へるは不知なり。今天下の人皆聖人と同姓同德なれども、未だ聖人の學を不レ聞か。貴賤に衰世すゐせいの俗に習ふ事百千歳なり。何ぞ禮儀を習ふに暇あらんや。古の聖人伏犧氏よりこのかた相繼で起り給ふ。其間近きあり遠きあり。伏犧より神農に至る迄一萬七千七百八十七年、神農より黄帝まで五百十九年。黄帝有熊氏いうゆうし在位百年なり。是迄を三皇と號す。
少昊金天氏在位八十四年、黄帝の子なり。高陽氏在位七十八年、黄帝の孫そんなり。帝?高辛氏少昊の孫なり。在位七十年にして崩ず。子し摯し位を繼て不德なり。九年にして廢せらる。天下帝摯の弟放勳はうくんを尊みて帝とす。此帝堯なり。帝堯陶唐氏在位一百歳なり。帝舜有虞氏在位四十八年なり。是迄を五帝〔數説あり。下文は孔安國の尚書序に據れり〕と號す。合せて三百八十九年なり。禹湯武を三王と號す。禹より湯に至るまで四百三十九年なり。湯より武王に至る迄六百四十三年なり。
伏犧氏起り給ひしより始て學ありと雖も、未だ禮儀法度なし。神農氏繼ぎおこり給へども、耕作醫術の民を養ふべき事をさきとす。黄帝の時、禮樂の器うつはもの現れ文章略ほゞ見えたりと雖も、未だ期數きすう〔冠、婚、葬、祭等に就て年月を限定する事〕の定なし。五帝の時、禮儀法度大概ありと雖も易簡いかんにして行ひ易し。人民の情に逆さかはず、德化により善に勸みて、人の欲するに隨つて制法出來ぬ。夏商を歴て周に及び、文明の運極り、器物飮食いんしい大に足り無事至りてなすべき事なし。茲に於て人情を溢れしめざるそが爲に、禮儀の防ぎ多く出來、數期すうきこまやかにかたし。皆時所位に從ひて行ふものなり。
今の時器物多く人奢れる事は、周の盛世の豐なるにも越つべし。然れども人民の心の禮儀に習はざる事は伏犧の時の如し。伏犧の民は禮犧を不レ習はといへども、質朴純厚にして情欲せいよくうすく利害なし。今の人情欲厚く利害深き事、其習十百年にあらず、根固く染せん深し。俄に世俗の人情を抑へ急に利害を妨げば、道行はるべからず。今の世の民を敎ふることは、幼少のものを導くがごとし。童蒙は養うて神知の開くるを待つべし。
世俗は學を先にして禮儀を欲するを待つべし。三四五歳の童わらべは、義の端はし〔孟子に見えたる四端を謂ふなり〕すこしあらはれて物恥ものはぢする所あり。知の端すこしひらきて美惡をわかつ心あり。しかれども未だ義不義を辨へず、善惡是非をしるには及ばず。
六七歳におよびて辭讓の心生ず。故かるがゆゑに聖人八歳に至るを待ちて小學に入れ給ふ。しふることなくて、其固有と時とにしたがふなり。五六百歳このかたの世俗は五六歳の童の時のごとし。先學校の政まつりごとをもつて是非善悪を辨ふる知をひらきて、恥をしるの義を勸むべし。數十年數百歳を歴て、後の君子を俟ちて禮儀をおこさしむべきなり。伏犧神農の德の周公孔子に劣れるにあらず、周公孔子の知の伏犧神農に優れるにあらず、時とともに行ふなり。只時に中ちうせざるをおとれりとし、時に中するをまされりとすべし。三皇五帝三王周公孔子、共に時を知りて時に中するの知は同じかるべし。
德は三皇五帝をすぐれたりといふべし。天地ひらけ人道あらはれて、則ち時に行ふべき禮ならば、何ぞ三皇五帝同姓をめとらざるの法を立てずして周を待つべきやとの學者、時にあらざるの禮をしひつとめて、人情時勢に戻り、たま/\道の興るべきめぐみ〔萌芽―頭注〕あるに、實をつとめずして末をとり、つひに本末共にうしなひなば、後世かならず時を知らざるの笑はれあらんか。よく幼童を養育するものは、吾童蒙に求むるにあらず、童蒙我に求む。
今十五以下の童子どうし百餘人を聚め敎ふる者あらん。其中の秀才一二人、知覺はやくひらけたるありて、成人の法を立てんことを望むとも、師たる者知あらば、一二人のために大勢たいぜいの能はざる事をなすべからず。知覺はやき者には、いよ/\内に省み實をつとむることを示すべし。衆童の才長じ知ひらけて、もとめ催す志をむかへて、大人の道を習はすべし。しからば秀才の者も、才にひかれず識に滯らずして實の德をなすべし。衆童はなほ以て明かなるより誠あるべし。若秀才を好よみして衆童のあたはざることをしひば、秀才は己が人に優れるにほこり、才にはせ知識にひかれて、つひに不祥人ふしやうじんとならむ。
衆童は學に倦み道を厭ひて、學校の政のやみなむことをねがふべし。其君師くんしさり其時過ぎなば、あとかた無くならむか。今我同志の人々と他家の格法者とは天下の秀才なり。此輩はいの聖人の法を行はむことを望むことは、九牛が一毛〔極多數中の極少數を喩ふ。漢書司馬遷傳に出でたり〕なり。天下の世俗貴賤はいまだ聖學の道理をだにも不レ聞か、况や法を行はん事はおもひもよらず。縱ひ其中うちすこし法に心ある者有りとも、彼百人の童蒙の中の一二人にもしかじ。たとひ世俗より學者にしふるとも、學者知あらば許容すべからず。况や世俗の中うちより願ふ者なきをや。しかのみならず世俗の人いまだ學を不レ聞か、いまだ法を不レ行はといへども、學者の道を任ずると思ふものよりも人がらよき者あり、天性の德のすぐれたるあり。
今の學者は物知りたるばかりにて、彼好人かうじんにはおよぶべからず。學者世俗のいまだ知らざる道學を學び、いまだ行はざる禮を行ふことありといへども、數代の習の汚れをも不レ洗すゝが、利害をだにも免かれざる有り。意氣甚高くして世俗を見下すといへども、實は平人にも劣れる事あり。毀譽利害根こん深ければ、格たゞすべきことあれども、至情を告げ難し。世俗みな良知良能〔孟子、盡心上篇に見ゆ〕あれば、學者の非を見ることこまやかなりし心に竊に慢あなどり輕しめらる。しかのみならず。時處位にあはざる法を持來りて行はんとす。天下千百年のならはしにあらず、神道王法の敎にあらず、只唐風の學者の一流として、彼一派のごとくするのみなり。槇雄まきのを〔槇尾の誤。山城國愛宕郡高雄の傍に在り〕の僧は戒を持ち、禪宗は座禪するがごとし。世俗と二になりて孤獨の道となりぬ。異端と相爭はんのみなり。何の時にか道を行はんや。
それ慈父は幼童と共に戯れ、不レ知ら不レ識ら善を導き、知覺のひらくるに隨ひて、ともにおとなしく成るがごとし。聖人は俗と共にあそぶ。魯人獵較れふかう〔獵を相競ふなり。孟子、萬章下篇に出づ〕すれば孔子も亦獵較す。衆とともに行ふをもつて大道とす。善なるべき時は衆とともに善なり。時至らざる時は衆とともに愚なり。故に學者俗を離れず、道衆を離れず。德至り化及び、行はるべき時は天下とともに行はる。衆勸めて悖るものなし。 昔堯舜の民は、未だ三百の禮儀を見ず三千の威儀を行はずといへども、渾然として禮儀の本全し。比屋ひをく〔軒を比べたる人々悉くの義〕可きレ封ずの善人なり。純厚朴素眞實無妄むばうの風俗なり。周の禮儀備りし時の土民よく及ぶことあたはず。
周何ぞ上古の至治しぢをねがはざらんや。時文ぶん明あきらかに德衰へたれば、やむことを得ざるの義なり。堯舜周公共に大聖人なり。みな時なり。然れども今の人堯舜を學んで不レ及ばとも、誠に近き風俗ならん。周を學びて不レ及ばば、輕薄無實の人となるべし。孟子の曰はく、堯舜を師として誤てる者はあらじ。其上今の學者周の同姓を忌むの法を行ふといへども、周の法にもかなはず。如何となれば、尊氏の世の末より織田家・豐臣家に及びて百餘歳このかた、天下の武士の姓氏紛れてしられず。たま/\系圖をなすといへども、證據なく傳なくして、文字に依よりて彼は此ならんといへるばかりなり。
戰國久しかりしより今に至りて、數代の間に大形おほかた系圖を失へり。又姓氏なき者は心々の氏を名のり、姓氏ある者も我が好ましき氏にかへぬれば、同氏とても同姓にあらず。天下氏系しけい傳へて慥なるは、千人の内纔に十人なるべし。それだに中間娘の孫を養子とし、妹の子を跡に立つればいつのほどにか他姓となりぬ。十人の中にも七八人は慥ならず。公家は昔より動き給はで、慥なる樣なれども、これも藤氏の家に源氏を養子にし給ふ如くなれば、又慥ならず。目まのあたりしられたる同氏の中を以て、同姓と名付て忌む事をすれども、周以前の五服〔斬衰三年、齊衰二年、大功九月、小功五月、麻三月を五等の喪服という〕の忌きにも及ばず。
今の勢いきほひにては立ちがたし。立たざるをもつて、百が一二を用ひて同姓めとらずと過言くわげんす。實は如何ともする事なくして時所に隨ふなり。迚も全く用ひられずして時所にしたがはんとならば、何ぞ時、所、位の中ちうを擇ばざるや。何ぞ全からざるの法をもつて衆に悖り、大同の道の行はれんとするめぐみを妨ぐるや。夫れ禮法は漸ぜんをもつて起るものなり。其間しふるものあれば、かならず大道を害す。伏犧・神農・黄帝の大聖たいせい、忌み給はざりし事を忌みてなさしめず、三皇の神聖いまだ行ひ給はざりし事を行ひ、これより後は此法に背くをもつて不義無禮とすといへば、先聖を非とするがごとし。謹まざるべけんや。
然れども人情時變によつて時のしからしむるなれば、古に違ふにあらず。今の時人情進まず時變未だ至らず。何を以てか伏犧、神農、黄帝、堯、舜、禹を非として周を是とせんや。先に云ふ如く、周法を行はんと欲すとも迚も行はれざる處あり。是より後賢君相繼いで出世し給はゞ、姓を賜り族を別ち給ふべし。數代をへて時至らば、五服の忌を定め服のかゝる分は娶らざる樣になるべし。是則ち周以前の列聖の古法なり。
之だに漸ぜんをもつてしかり。初よりしかるにあらず。天地ひらけ氣化によりて生れし人は、天地を父母として兄弟なり。〔我諾冊二神の如きを謂へり〕男女だんぢよ有りて後父子あり兄弟有り。此時の人兄弟夫婦となるがごとし。しかるに萬物は明德なく、人は明德有り。父子親しんあり、君親義あり、夫婦別あり。故に父子麋びを共にせず、相交はらず。鳥獸と異なるの條理を本として、野處やしよ穴居の内男女別あるべき道理を知れり。
上古の聖人此の明覺めいかくの知に基もとづきて、兄弟夫婦となるべからざるの禮法出來ぬ。天下兄弟相恥づるの知明かに禮普くしてのち、伯父姪叔母甥も快からざる萠きざしあり。その次の聖人この靈明を本として、伯父姪叔母甥夫婦となるべからざるの禮法を立て給へり。兄弟伯父甥は天倫の親したしみちかく、長幼の禮深くしてかくのごとし。從昆弟は他人の始はじめの如し。
長幼の禮も朋友齒よはひし相讓るがごとし。故に上古には忌いみなし。後世の聖人五服を叙ついでて、君子小人の澤たく〔孟子、離婁下篇の語〕五世にして盡くる所を見給へば、父方は再從昆弟いやいとこまでに服有り。いよ/\一本の親したしみを厚うし、男女有別いうべつの禮を明かにせんがために、服のあるまでは婚姻不通の禮を立て給へり。母方は從兄弟の近きといへども、服なければ本のごとく婚姻をなせり。
妹の子は同姓ならずといへども、親したしみ近ければ服有り。かるがゆゑに忌むあり。再從昆弟いやいとこの外は同姓たりといへども、服なければ婚姻の忌いみなし。是禮や上古よりはこまやかにして義備れり。末世よりは易簡いかんにして禮缺けず。日本において後世聖主賢君繼ぎおこり給はゞ、此禮を以て至極とし給ふべきか。今の世においては、聖賢の君起り給ふとも、未だ此禮をもたて給はじ。同姓をゆるさば親きに及ばんかとの遠慮は、げにさも有るべき樣に聞ゆれども、往古よりの次第を見ればしからず。
日本神代のむかしは、兄弟も夫婦となり給ひき。後世文明あきらかなるに隨つて、誰法を立つるともなく鳥獸に遠ざかり道理を知りて、兄弟を忌み伯父姪叔母甥をいみ來れり。今利心ふかき者、家財を他人にゆづらん事ををしみて、弟を聟とする者あるをば、人道にあらず禽獸なりといみ憎めり。
法なく敎なけれども、人心の靈にて文明の時至れば、漸々ぜん/\久しうしてかくの如し。先にもいふごとく、從昆弟は他人の交のごとし。法いまだおかれざれば、父方母方おなじくあひ忌まず。世の中の風俗たること數千歳なり。義において害あらず。上古の聖神だにも、時ありて忌みたまはず。法に泥みて時を知らず大道を知らざる者は、太古の兄弟伯父姪夫婦たりしを甚非なりとおもひて、其時の聖神をば信ぜざらんか。百世といへども同姓娶らざるの周人しうじんを是として、其時の聖賢をのみ信ぜんか。
先聖の後聖に劣れるにあらず。太古の民の末世の民より愚なるにあらず。後聖の先聖に優まされるにあらず、末世の民の太古の民より知有るにあらず。それ法は時をもつて義ありておこれり。法をかりて後に背くは不義なり。日本神代王代武家の代よ、つひに同姓を忌むの法なし。法なければ從昆弟をめとりて不義といふべき樣なし。後世法をかれば再從昆弟いやいとこを娶るも不義ならん。法なけれども從昆弟より近きは天理人情ともに忌出來るは無法の法なり。文明の時の人心に通じてしからしむるなり。
上代は德厚くして文未だ開けず。末代は德衰へて文明かなり。此病あれば此德あるなり。上古の人は僞りなく利害なし。君子たる人は至誠純厚なり。小人たる者は質直朴素なり。後世の人の疑ふ所の法未だ無かりしばかりなり。其代の非にあらず、其民の罪にあらず。今の學者利害深く僞りをだにもまぬかれず。〔前漢の張禹成帝に對へて曰はく、新學小生道を亂り人を誤る。宜しく信用すること無かるべし、と。
亦下文の義なり〕古の常人じやうにんにもおよぶべからず。末代の君子たる人は驕奢利欲なり。小人たる者は姦かたましくして相凌ぎ、相諛ひて相僞れり。いまだ法を立つるにいとまあらず。况んや法は道より出るといへども道にあらざるをや。今の時に當りて大道をおこさんものは、學校がくかうの政を先にして、人々固有の道德をしらしめ道理をわきまへしむべし。法は望む人有りとも抑へていまだ出すべからず。誠に專にして無欲に至らしむべし。
禮文法度はおこりやすきものなり、抑ふるとも後世必ず備そなはるべし。立ちがたきものは誠なり。至りがたきものは無欲なり。たとひ周法大かた行はるゝといふとも、驕吝けうりん相交まじりて欲あり。多事博文にして誠なくば、周公・孔子何ぞこれに與し給はんや。

卷第六 心法圖解
卷第七 始物解
卷第八 義論之一

孝経の心法は、正レ心修レ身、天命の分を安じて、人々処所の位に随て、道を行なり。天の、人を生ずること、物あれば則あり。天子の富貴にはをのづから天子の則あり。公・侯・伯・子・男、をのをの則あり。卿・大夫・士、其道あり。農・工・商、其務あり。其行ふ所の大小は各別なれども、孝の心法はかはりなし

士といふものは、小身にて徳行のひろきものなれば、上下通用の位にて、上は天子・諸侯・卿・大夫の師と成、下は農・工・商を教へ治るものにて、秀れば諸侯・公卿ともなり、くだれば庶人ともなり、才徳ありながら隠居して庶人と同じく居を処士といへり。大道を任じて志大なるものは士なり

まづ人の初は農なり。農の秀たる者に、たれとりたつるとなく、すべて物の談合をし指図をうくれば事調りぬる故に、其人の農事をば寄合てつとめ、惣の裁判のために撰びのけたるが士の初なり。在々所々ありて後、又秀たる者に、惣の士が談合しひきまはされて諸侯出来ぬ。又諸侯の内にて大に秀たるあり。其徳四方へきこへ、をのをの不(レ)及所は此人より道理出る故に、寄合てつかねとし、天子とあふぎたるものなり。扨士の中より公卿・大夫と云ものを立、農のうちより工・商を出して、天下の万事備り、天地の五行に配して五倫五等出来たるなり

卷第九 義論之二

天下の理の重きものは斉家・治国・平天下なり。其中の一事一事は天の与たる才知あり。君も其質の得たる所を察し給ひて、其職を命じ給ひ、臣もみづからの天を尽すものなり。身を修にとく、人を責るにゆるやかに、知さとく行篤き人を選て、教を掌らしめ給ふ

卷第十 義論之三
卷第十一 義論之四
卷第十二 義論之五
卷第十三 義論之六

予が先師に受けて違はざるものは実義なり。学術言行の未熟なると、時処位に応ずるとは、日をかさねて熟し、時に当りて変通すべし。大道の実義に於ては先師と予と一毛も違ふこと能はず。予の後の人も亦同じ。其変に通じて民人うむことなきの知もひとし。言行の跡の不同を見て同異を争ふは、道を知らざるなり。

不義を悪み、悪をはづるの明徳を固有すればなり。此明徳を養ひて日々に明かにし、人欲の為に害せられざるを心法といふ。是れ又心法の実義なり。先師と予と違はざるのみならず、唐日本と雖も、違ふことなし。此実義おろそかならば、其云ふ所皆先師の言に違はずとも、先師の門人にあらじ。予が後の人も、予が言非とし、用ひずとも、此実義あらん人は、予が同志なり。先師固より凡情を愛せず、君子の志を尊べり。未熟の言を用ひて先師を贔屓するものを悦ぶの凡心あるべからず。先師存在の時変ぜざるものは、志ばかりにて、学術は日々月々に進んで一所に固滞せざりき。其至善を期するの志を継ぎて日々に新にするの徳業を受けたる人あらば、真の門人なるべし。

一には、大都・小都共に河海の通路よき地に都するときは、驕奢日々に長じてふせぎがたし。商人富て士貧しくなるものなり。二には、粟を以て諸物にかふる事次第にうすくなり、金銀銭を用ること専なる時は、諸色次第に高直に成て、天下の金銀商人の手にわたり、大身・小身共に用不足するものなり。三には、当然の式なき時は、事しげく物多くなるもの也。士は禄米を金銀銭にかへて諸物をかふ。米粟下直にして諸物高直なる時は用足ず。其上に、事しげく物多ときはますます貧乏困窮す。士困ずれば民にとること倍す。故に豊年には不足し、凶年には飢寒に及べり。士・民困窮する時は、工・商の者粟にかふべき所を失ふ。たゞ大商のみますます富有になれり。これ、財用の権、庶人の手にあればなり。夫国君世主はかりそめにも富貴を人にかすべからず。富貴を人にかすときは、権を失ひて国亡び天下乱る

故に、商日々に富て、士日々に貧し、士の貧乏きはまる時は、民にとること法なし。士・民共に困窮する時は、天下の工・商、利を失て衣食を得べき便なし。よき者はわづかに富商の数十人のみ也。これを四海困窮すと云。堯曰、四海困窮セバ天禄永終ヘンと。君の禄福もながくたえて、天下やぶると也

卷第十四 義論之七
卷第十五 義論之八
卷第十六 義論之九

【集義外書】

愚が若き時分までは、武士たる者、金銀米穀の事、利得のものがたり、料理ばなし、色欲の言を恥とす。
文武の二道ならざればいやしと思へり。詩歌管弦のあそび、弓馬のわざ、代々の名将勇士の物がたりなどなりき。
今の武士の物がたりはあき人の会のごとし。
文学は儒者坊主のわざとし、詩歌管弦は公家の事といひ、武勇は武芸によらずといひて、衣服飲食家居諸道具等に美を尽し、酒色にふけり、用たらざれば下をくるしめ、民をむさぼるのはかりごとを心とするのみなり。
生れ出るより是を習の外、道ある事をしらず。

まことに妙壽院(藤原惺窩)以後の儒者は、甚だくだれり。実は商人のいやしき心根ありて、外には聖経の威をかりたかぶれば、人のにくめるも理りなり。人の悪しくいひなすにあらず、自ら己を賤しくせり。

問学して心を正し身を修め、上は賢君のおこり給ふを待。下は凡夫のまどひをさとし、武事をよくして凶賊をふせぎ、天下を警固す。是を文武二道の士といふ。人を愛するの事也。

愚が和書の主意は、直にして近きにあり。無学の心にも通じ易く、文章の美なきものは、浅きがごとし。然れども近きと浅きとは、似て大いに異あり。

ただかす事能はず、かる事能はざるものあり。日本の水土によるの神道は、唐土へも、戎戎国へもかす事あたはず。かる事能はず。唐土の水土によるの聖教も、又日本にかる事能はず、かすことあたはず。戎国の人心による仏教も又然り。文字・器物・理学はあるべし、かすべし、かるべし。……有無をかへて用ふるは、道理の必然なり。文字の通ずる国は、中国・朝鮮国・琉球・日本なり。仏者は通ぜざるだに、かり用ひたり。況んや日本にはよく通じ、理学に便あり。其の上神代の文字は亡びたり。学は儒をも学び、仏をも学び、道ゆたかに心広く成りて、かり、かされざるの吾が神道を立つべきなり。

釈迦もし聡明の人にて、中国・日本へ渡られ候はば、茫然として新たに生まれたるが如く、後生輪廻の見も、何もわすらるべく候。唐土ならば聖人を師とし、日本ならば神道に従はるべく候。

中夏の聖人を日本へ渡し候はば……儒道と申す名も聖学と云ふ語も、仰せられまじく候。其のままに、日本の神道を崇め、王法を尊びて、廃れたるを明らかにし、絶えたるを興させ給うて、二度神代の風かへり申す可く候。
唐土の聖人は、是れを智・仁・勇の三徳と云ふ。日本の神人は、是れを三種の神器にかたどれり。神は心なり。器は象(かたち)なり。神璽・宝剣・内侍所の象を作りて、心の三徳を知らしむる経書とし給へり。其の外、神代の文字・言葉は絶えて伝はらず。ひとり三種の象のみのこりとどまり、至易・至簡にして、道徳・学術の淵源なり。高明・広大・深遠・神妙・幽玄・悠久、ことごとく備はれり。心法・政教、他に求めずして足りぬ。

名号文字は人の通じやすきものを用ふべし。かると云ふとも可なり。三種の神器の註解は、『中庸』の書にしくはなし。上古の神人出でたまふとも、此の書を置きて、別に註し給ふべからず。
巻二

愚拙十六七ばかりの時、すでにふとりなんとせしに、……かく身重くては武士の達者は成がたからん、いかにもしてふとらぬやうにとおもひ立、それより帯をときて寝ず、美味を食せず、酒をのまず、男女の人道を絶こと十年なりき」
「江戸づめにて山野のつとめならぬ所にては、鑓をつかひ、太刀をならひ、とのゐの所にも。ねつゞらの中に太刀と草履を入、人しづまりたる後に、広庭の人気なき所に出て、闇にひとり兵法をつかひ、火事の時にも、見ぐるしからじと、人遠き屋の上をかけり候へば、まれに見付たる者は、天狗やいざなはんと。申たるげに候

諸子は極りある所を学び、愚は極りなき所を学び候。其時には大小たがひなく候ても、今は大にたがひ申べく候。極りたる所は其時の議論講明なり。極りなき所は、先生の志こゝに止まらず、徳業の昇り進むなり。日新の学者は、今日は昨日の非を知るといへり。愚は先生の志と、徳業とを見て其時の学を常とせず。其時の学問を常とする者は先生の非を認めて是とするなり。先生の志は本としからず。先生いへることあり。朱子俟後之君子の語を卑下の辞と講ずる者あり。卑下にはあらず、真実なりと。

巻六

其頃中江氏、王子の書を見て良知の旨をよろこび、予にも亦さとされき。これによりて大に心法の力を得たり。
中江氏は生付て気質に君子の風あり、徳行を備へたる所ある人なりき。学は未熟にて、異学のついゑもありき。五年命のびたらましかば、学も至所に至るべき所ありしなり。中江氏存生の時は、予を始として皆粗学の者どもなれば、ゆるさるべき者一人もなかりしに、中江氏の名によって、江西の学者の、名の実にすぎたること十百倍なれば、つい之もまた大なり

巻七

凡夫より聖人に至るの真志実学は、たゞ慎独の工夫にあり。

RSS Feed

WordPress(feed) to Hatena Blog via email

IFTTT

荀子より学ぶ!性悪説:社会のルール・礼を重視して。

荀子は、姓は荀、名は況といい、孟子の晩年の頃、戦国末期に趙に生まれ、秦の始皇帝の即位直前にこの世を去った儒学者で、しばしば荀卿と称されます。
彼は道家墨家の思想も取り入れ、儒家ではあるが多くの点で孔子を修正し、孟子性善説に対して性悪説という現実的な考え方を唱えた思想家です。
門下生の韓非子や李斯などからは、法家思想が生まれています。
荀子の著作はすでに荀子生前から天下に行き渡っており、前漢末には『孫卿』322篇、劉向がそれを整理して32篇に編定( 『漢書』芸文志に『孫卿子』と記されている)、唐の楊倞が注を付けて篇を並べ替え20巻32篇384章 約90,800字に改編したものが現在に至っています。
荀子』は、荀子の自著と荀子の後継者によって著された部分に二分されると考えられます。
その内容は儒家 墨家 道家の行動や興廃を推し量り、 順序づけて書き著したものとなっています。

孟子性善説に対して唱えた性悪説ですが、これは人の自然の性は「悪」であり、自然のままの人は無限の欲望を持ち、放っておけば衝突を招くことになるが、その欲を抑えているのは人の矯正の結果だと考えたものえす。
このような考え方から、荀子は人間の内面の仁よりも、人々を規制する社会のルールである礼を重視し、人が欲や悪いことを抑えることができるよう、政治でも法律をしっかりすることが大切だとしたのです。
一見、孟子性善説を否定しているかのように受け取られがちですが、実際には荀子孟子を意識的に攻撃した訳でもなく、重要なのは性悪説をふまえた上での礼論、つまり人の礼、社会的なしきたりによって拘束 矯正することを重要視したのです。
このような考え方を礼治主義といいますが、孔子が道徳による政治を強調して徳治主義を主張したが、道徳だけで政治を行うのは非現実的だというので、その補強のために礼論を用いた、ということです。
勿論、孔子孟子も礼については触れており、「徳」と「礼」とを両立して説いていましたが、荀子は同じ儒家でも「礼」を特に強調し、重要視したという訳です。

結局は孟子荀子も目指すところは大きく異なっていた訳ではなく、目指す目的のための手段が異なっていたということです。
孟子は、人の潜在的な善性を助長する立場を「徳治」と呼び、善性を助長し、育てるという自然主義の教育を主張していました。
反面荀子は、人間に善性を植え込むという立場を「礼治」と呼び、人は善へと(人為的に)形成されねばならないと主張していたのです。
これは教育と政治という切り口で見ると異なった結末を迎えることになり、孟子はどちらかというと民主主義的な立場、法治に近いのに対して、荀子は上からの統治の立場、法の原理が儒教的な徳目であるということを打ち出さざるを得ませんでした。

こうした考え方も時代背景を考慮すれば致し方ないことで、孔子孟子と比べて荀子が生きたのは戦国時代。
戦乱が激しくなっていた佳境にあり、そういった乱世では道徳に頼るなど無意味に近いものだったと想像されます。
こうした中、荀子儒家という立場を取りながらも、あえて拘束力 矯正力を持つ「礼」が必要だとしたのだと思われます。

更に彼の弟子である韓非子や李斯といった法家は、人民を拘束するものとして「法」を主張しています。
「法」は罰則を伴うことから「礼」に比べてもはるかに拘束力が高いのですが、こうした法治主義孔子が最も嫌ったものということもあり、その思想の原点ともなった荀子は、儒家の中でも異端とされ傍流に置き捨てられてきた存在だったことは残念なことです。

以下参考までに、現代語訳にて要点を一部抜粋です。

【01 勧学篇 – 学問の勧め】
 学問の重要性、学問の内容 方法
 人は学問によって変化、進化しうる。
 01 青は藍より取れども藍よりも青く、氷は水これを為せども水よりも寒たし。 →青藍氷水 →出藍之誉
 02 蓬も麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直し。 君子よ其の立つ所を慎まんか。 →麻中之蓬 麻の中の蓬
 03 積土の山を成さば風雨興り、積水の淵を成さば蛟竜生じ、積善の徳を成さば而ち神明自得し聖心備わる。 →積水成淵
 ― 麒驥(きき)も一躍にしては十歩なること能わず、駑馬(どば)も十駕(じゅうが)すれば則ち亦たこれに及ぶべし。 →駑馬十駕
 04 声は小なるも聞こえざることなく、行は隠れたるものも形われざることなし。
 05 学は没するに至りて而る後に止むべきなり。礼は法の大分、類の綱紀なり。
 06 君子の学は耳より入れば心に著き四体に布(し)きて動静に形わる。 小人の学は耳より入れば口より出ず。
 07 学は其の人に近づくより便なるは莫し。
 08 問の楛(悪)しき者には告ぐること勿れ。告ぐるの楛しき者には問うこと勿れ。
 09 百発に一のみを失するも善射と謂すに足らず。

【02 修身篇 – 身を修む 心身の修養】
 心身をおさめることの必要性とその方法
 礼とはそれによって身を正すものである。
 人は礼がなければ生きてゆけず、事は礼がなければ成り立たず、国家は礼がなければ安らかでない。 
 01 我れを非として当たる者は吾が師なり。我れを是として当たる者は吾が友なり。我れを諂諛(てんゆ)する者は吾が賊なり。
 02 人に礼なければ則ち生きられず、事に礼なければ則ち成らず、国に礼なければ則ち寧からず。
 03 善を以て人を先(みちび)く、これを教と謂う。
 ― 是を是として非を非とするはこれを知と謂い、非を是として是を非とするはこれを愚と謂う。 →是是非非
 04 気を治め心を養う術
 05 君子は物を役(えき)し、小人は物に役される。 士君子は貧窮の為めにとて道に怠らざるなり。
 06 体は恭敬にして心も忠信、術は礼義にして情も愛人(仁)。
 07 独り其の身を脩めて以て罪を比俗の人に得ざらんと欲す。
 08 驥(き)は一日にして千里なるも、駑馬(どば)も十駕(じゅうが)すれば則ち亦たこれに及ぶ。 →駑馬十駕
 ― 蹞歩(きほ)して休まざれば跛鼈(はべつ)も千里、累土して輟(や)まざれば丘山も崇(たか)く成る。 →跛鼈千里
 09 法を好んで行なうは士なり。志を篤(あつ)くして体するは君子なり。斉明にして竭きざるは聖人なり。
 10 礼とは身を正す所以なり。師とは礼を正す所以なり。
 11 端愨(たんかく)順弟なるは則ち善の少なき者と謂うべし。加うるに学を好みて遜り敏(つと)むならば、以て君子と為すべし。
 12 冥冥に行いて報いなきものにも施せば、賢も不肖も焉に一(あつ)まらん。
 13 君子の利を求むるは略なるも、其の害に遠ざかるは早し。
 14 君子は貧窮なりとも志広く、富貴なりとも体恭しく、怒るとも過奪せず、喜ぶとも過予せざるなり。

【03 不苟篇(ふこう) – いやしくもせず】
 君子の生き方、徳性、修養
 01 君子は唯だ其の当るを貴しと為す。
 02 君子は知り易きも狎れ難く、懼(おそ)れしめ易きも脅(おど)し難し。
 03 君子は能あるも亦た好く、不能なるも亦た好し。
 04 温温たる恭人は惟れ徳の基(『詩経』大雅 抑)
 05 君子は人の徳を崇(尊)び、人の美を揚ぐるも諂諛(てんゆ)に非ざるなり。正義を直指して人の過ちを挙ぐるも、毀疵(きし)に非ざるなり。
 06 君子は小人の反なり。
 07 君子は治を治む。乱を治むるには非ず。
 08 馬鳴きて馬これに応ずるは知に非ず、其の勢然らしめしなり。
 09 君子、心を養うには、誠より善きは莫し。誠を致むるには則ち它(他)事無し。惟仁のみを守と為し、惟義のみを行と為す。
 10 百王の道も後王こそ是れなり。 →後王思想
 11 通士、公士、直士、愨士(こくし)、小人
 12 公は明を生じ偏は闇を生ず、端愨は通を生じ詐偽は塞を生ず、誠信は神を生じ夸誕は惑を生ず。
 13 欲悪取舍の権(はかりごと)
 14 人の悪む所の者は、吾れも亦たこれを悪む。 名を盗むことは貨を盗むに如かず。

【04 栄辱篇 – 栄誉と恥辱】
 驕慢、憤怒、利己、闘争等が恥辱、危険を招くこと、欲望と礼儀によるその調節
 人の生まれつきは、もともと小人である。
 仁君が上にあり、農民 商人 工人は仕事に励み、士大夫以上は官職に励むことが「至平」であり、差等があることこそ適正である。
 01 憍泄(きょうせつ)は人の殃(わざわい)なり。恭儉は五兵を偋(しりぞ)く。 人を傷つくるに言を以てすれば、矛戟(ぼうげき)よりも深し。
 02 快快にして亡ぶは怒ればなり。察察にして殘うは忮(さから 逆)えばなり。
 03 鬭(あらそ)う者は其の身を忘るる者なり、其の親を忘るる者なり、其の君を忘るる者なり。
 04 狗彘(くてい)の勇、賈盜(くとう)の勇、小人の勇、士君子の勇
 05 自らを知る者は人を怨みず、命を知る者は天を怨みず。 これを己に失しながら、これを人に反(求)するは、豈(そ)れ迂(遠)ならんや。
 06 義を先にして利を後にする者には栄あり、利を先にして義を後にする者には辱あり。
 07 夫(そ)れ天の蒸(衆)民を生ずるや、これを取る所以を有らしむ。
 08 君子は注錯(挙錯)の当れるものにして、小人は注錯の過ちたる者なり。
 09 君子は其の常に道るも、小人は其の怪に道る。
 10 人の生まれつきは固より小人なり。師なく法なければ則ち唯利を見るのみ。
 11 短綆(たんこう)は深井(しんせん)の泉を汲むべからず、知の幾(き 微)ならざる者は聖人の言に及ぶべからず。
 12 斬(たが)いながら斉(ひと)しく、枉(曲)りながら順に、不同にして一なる。夫れ是れを人倫と謂う。

【05 非相篇 – 相(うらない)を非とする 人相術批判】
 容貌 体形により人を占うことへの批判、後王論 遊説術
 吉凶について重要なのは人相ではなく、その人の「心」と「術(生き方)」である。
 01 人を相(占)うこと、古の人は有りとすること無く、学者は道(い)わざるなり。
 02 三不詳と三必窮
 03 後王を舍(す)てて上古を道(い)うは、譬(たと)えれば是れ猶お、己れの君を舍てて人の君に事うるがごときなり。 →後王思想
 ― 伝わること久しければ則ち兪々(いよいよ)略し、近ければ則ち兪々詳し。
 04 君子の言に於けるや、志はこれを好み、行はこれに安んずればこれを言わんことを楽(ねが)うなり。故に君子は必ず辯(弁)ず。
 05 説の難きは、至高を以て至卑に遇い、至治を以て至乱に接するにあり。
 06 君子は賢にして能く罷(弱)を容(い)れ、知にして能く愚を容れ、博にして能く浅を容れ、粋にして能く雑を容る。
 07 唯君子のみ能く其の貴ぶ所(可)きを貴ぶことを為す。
 08 君子は必ず辯(弁)ず。凡そ人は其の善(よみ)する所を言うことを好まざるは莫きも、而も君子を甚だしきと為す。
 09 小辯は端を見わすに如かず、端を見わすは分に本づくに如かず。
 10 小人の辯、士君子の辯、聖人の辯

【06 非十二子篇 – 12人の思想家への批判】
 12人の思想家の学説が天下を乱すことへの批判、君子の態度、儒家三派への批判
 史シュウ、陳仲は性情を無理に抑え、人とちがうことを高尚と心得ている。
 恵施と鄧析の説は明晰だが不急不用、 政治の基準とは成し得ず、愚かな大衆を欺き惑わすものである。
 慎到 田駢の過った「法」思想
 子思、孟軻は雑駁でかたより、難解でもったいぶっている。
 它囂、魏牟は、性情の放任、奔放な行動をしている。
 墨翟、宋銒は、 功利 倹約主義と「礼」的差等を無視している。
十二子の説を終息させ、「舜 禹の制」「仲尼  子弓の義」を行うことが必要である。
 01 仮今の世に、邪説を飾り、姦言を文(かざ)りて以て天下を梟乱し、天下をして混然と是非治乱の存する所を知らざらしむる者に人有り。
 ― 它囂と魏牟 – 情性を縦(ほしいまま)にして恣雎(放恣)に安んじ、禽獣のごとく行い、文に合い治に通ずるに足らず。
 ― 陳仲と史鰌 – 情性を忍び、綦谿利跂(きけいりき)し、苟くも人に分異するを以て高しと為し、大衆に合し大分を明かにするに足らず。
 ― 墨翟と宋鈃 – 天下を一にし国家を建つるの権称を知らず、功用を上(尊)び、倹約を大(尊)んで差等を僈り、君臣を県(別)つに足らず。
 ― 慎到と田駢 – 法を尚(とうと)びながら法なく、脩を下(あなど)りながら作を好み、上は則ち聴を上に取(もと)め、下は則ち従を俗に取む。
 ― 恵施と鄧析 – 好んで怪説を治め、琦辞を玩び、辯ずれども用なく事多けれども功寡なく、以て治の綱紀と為すべからず。
 ― 子思と孟軻 – 略(ほぼ)先王に法とるも其の統を知らず、甚だ僻違(へきい)にして類なく、幽隠にして説なく、閉約にして解なし。
 ― 聖王の文章具わり、佛然として平世の俗起こらば、六説者は入ること能わず、十二子者も親(ちか)づくこと能わず。
 ― 今夫れ仁人は将何をか務めんや。上は則ち舜 禹の制に法とり、下は則ち仲尼 子弓の義に法とり、以て十二子の説を息めんことを務むべし。
 02 信なるを信ずるは信なり。疑わしきを疑うも亦た信なり。
 03 多言にして類あるは聖人なり。少言にして法あるは君子なり。多にも少にも法なく流湎すれば辯ずと雖(いえ)ども小人なり。
 04 姦事 姦心 姦説、此の三姦は聖王の禁ずる所なり。
 05 知にして倹、賊にして神、為詐にして巧、無用にして辯、不急にして察なるは、治の大殃なり。
 06 上帝の時からざるに匪ず殷旧を用いざればなり。老成人なしと雖も尚お典刑ありしに、曾ち是れ聴うこと莫ければ大命以て傾けり(『詩経』蕩)
 07 古のいわゆる仕士なる者は、厚敦なる者なり。古のいわゆる処士なる者は、徳の盛んなる者なり。
 08 君子は能く貴ぶべきことを為すも、人をして必ず己れを貴ばしむること能わず。
 09 士君子の容、父兄の容、子弟の容、学者の嵬 – 他学派の批判
 ― 子張氏の賤儒 – 其の冠を弟陀(たいだ)にして、其の辞を衶禫(むなし)くし、禹のごとく行き舜のごとく趨(はし)る。 →禹行舜趨
 ― 子夏氏の賤儒 – 其の衣冠を正し、其の顏色を斉(ととの)え、嗛然(けんぜん)として終日言わざる。
 ― 子游氏の賤儒 – 偷(なま)け儒(おこたり)て事を憚かり、廉恥なくして飲食を耆(この)み、必ず君子は固より力を用いずと曰う。
 ― 佚なるも惰らず、労なるも僈(ゆるがせ)ならず、原を宗として変に応じ曲(つぶさ)に宜しきを得たり。是(か)くの如くにして然る後に聖人なり。

【07 仲尼篇 – 孔子の字(篇首の二字)】
 王者と覇者の区別、臣下の守るべき道
 斉桓公は小人の傑である。
 01 仲尼の門にては、五尺の豎子(じゅし)も言うに五伯(五覇)を称することを羞じたり。
 02 寵を持し位に処りて終身厭(いと)われざるの術
 03 これを同(とも)にすることを好むに若(し)くは莫し。
 04 天下の行術 – 以て君に事うれば則ち必ず通じ、以て仁の為にすれば則ち必ず聖なり。
 05 君子は時の詘(屈)すべきときには則ち詘し、時の伸ぶべきときには則ち伸ぶるなり。

【08 儒効篇 – 儒者の功績・効用】
 功績、君子論、聖人論、儒者
 儒者が下の位にいると目上を尊敬し、上の位にいると礼節がおさまり、誠実で愛し合う風潮が生まれる。
 人は耕作を積み重ねれば農民となり、材木を切ることを積み重ねれば工匠となり、品物の販売を積み重ねれば商人となり、礼儀を積み重ねれば君子となる=「横の分業論」
 01 周公旦の摂政 – 天子なる者は、少(わか)くしては当るべからず。 能あれば則ち天下これに帰し、能あらざれば則ち天下これを去る。
 02 秦昭王問う「儒は国に益なきか?」 – 儒者は本朝に在りては則ち政を美にし、下位に在りては則ち俗を美にす。
 03 先王の道は仁の隆なり。中に比(従)いてこれを行う。 道とは天の道に非ず地の道に非ず、人の道う所以にして君子の道う所なり。
 04 凡そ事行は、理(治)に益ある者はこれを立て、理に益なき者はこれを廃す。夫れ是れを中事と謂う。
 05 其れ唯学か。彼の学なる者は、これを行えば曰ち士なり、焉れを敦慕(つと・勉)むれば君子なり、これを知れば聖人なり。
 06 君子は隠るるも顕れ、微(賤)なるも明らかに、辞譲すれども勝つ。
 07 分の上に乱れず、能の下に窮せざるは治辯の極なり。
 08 聖人なる者は道の管(枢要)なり。天下の道も是に管(あつま)り、百王の道も是に一なり。
 09 周公、必ずしも恭ならず、倹ならず、戒しめず。
 10 俗人、俗儒、雅儒、大儒
 11 学は行うに至りて止む。これを行えば明なり。 性なる者は吾れの為すこと能わざる所、然れども化す可きものなり。
 12 人の論(ともがら・倫) – 礼なる者は人主の群臣の寸尺・尋丈の検式(法度)と為す所以なり。
 13 君子は言に壇宇(だんう・界域)あり、行に防表(標準)あり、道に一隆あり。

【09 王制篇 – 王者の法制】
 王者の制度 政策、官制 考課 財政等についてのサブ項目を含む
 人は天下で最も尊い。人の力は牛にかなわず、走ることも馬にかなわないのに、牛や馬が人に使われるのはなぜか。それは人は集団をつくり、さらに自然への働きかけをなすからである。
 礼儀は政治の根源である。
 善い事を進言する者は礼によって待遇し、不善を進言する者は刑によって処分する。 
 01 賢能は次を待たずして挙げ、罷不能は頃を待たずして廃し、元悪は教えを待たずして誅し、中庸は政を待たずして化す。
 02 善を以て至る者にはこれを待つに礼を以てし、不善を以て至る者にはこれを待つに刑を以てす。
 03 分の均しければ則ち偏まらず、埶(勢)斉(ひと)しければ則ち壱ならず、衆の斉しければ則ち使われず、天あり地ありて上下に差あり。
 04 君なる者は舟なり、庶人なる者は水なり。水は則ち舟を載せ、水は則ち舟を覆えす。
 05 聚斂(しゅうれん)は寇(あだ)を召き、敵を肥やし、国を亡ぼし、身を危くするの道なり。
 06 王はこれが人〔心〕を奪(と)り、霸はこれが与〔国〕を奪り、彊(強)はこれが地を奪る。
 07 王者の人 – 動を飾(かざ)るに礼義を以てし、断聴するに類を以てし、明は毫末をも振(あ)げ、挙措は変に応じて窮まらず。
 08 王者の制 – 道は三代(夏・殷・周)に過ぎず、法は後王に弐(たが)わず。 是れを復古と謂う。
 09 王者の論 – 百姓は曉然として皆な夫の善を家に為せば而ち賞を朝に取り、不善を幽に為せば而ち刑を顕に蒙(こうむ)るを知る。
 10 王者の法 – 賦を等(差)して事を政(正)すは、万物を財(成)して万民を養う所以なり。
 11 上は以て賢良を飾り、下は以て百姓を養いて安楽ならしむ。夫れ是れを大神と謂う。
 12 君子なる者は天地の参なり、万物の総なり、民の父母なり。
 13 人には気あり生あり知ありて亦た且お義あり、故に最も天下の貴たるなり。
 14 一与一奪して人を為むる者、これを聖人と謂う。
 15 天下の一ならず、諸侯の倍(背)反するは、則ち天王の其の人に非ざるなり。
 16 具、具(そな)わりて王たり。具、具わりて霸たり。具、具わりて存し、具、具わりて亡ぶるなり。

【10 富国篇 – 国家を豊かにする】
 国家を豊かにする方法、分について、墨家批判、民に対する政策
 礼とは貴賎に等級があり、長幼に差別があり、貧富や尊卑にそれぞれふさわしさがあることである。
 国家の秩序を「分」という概念によって捉え、この「分」を規定する機能を持つ「礼」こそが政治の内容をなすものでなければならない。
 君主は民の利益のために、その巨大な権力をもつ。
 人間が生産の営みを続ける限り、自然の資源は幾らでも増産される=「積極的生産論」
 人間が自然のなかから生産する物資は、人間の需要を完全に充足してもあまりあるものである。
 君子は徳をもって治め、小人は労力をもって働く。 
 01 皆な可とすること有るは知も愚も同じきも、可とする所のもの異なりて知と愚と分かるるなり。
 02 礼なる者は貴賤に等〔級〕あり、長幼に差〔別〕あり、貧富・軽重に皆な称ある者なり。
 03 分〔界〕なき者は人の大害なり。分ある者は天下の本利なり。
 04 天下を兼ね足らしむるの道は、分を明かにするに在り。
 05 墨術誠に行わるれば則ち天下は倹を尚びながら弥々貧しく、鬭を非としながら日々に争い、楽を非として而して日々に和せざらん。
 06 二つの姦道と三徳による政治
 07 上の一なれば則ち下も一なり、上の二なれば則ち下も二なり。これを辟(たと)うるに屮(草)木の枝葉は必ず本に類す。
 08 利せずしてこれを利するは、利して而る後に利することの利あるには如かざるなり。
 09 国の治乱臧否を観るに、疆易(くにざかい)に至らば而ち端は已に見わる。
 10 国の強弱・貧富を観るに徵(験)あり。
 11 人を攻むる者は以て名の為めにするに非ざれば、則案ち以て利の為めにするなり。
 12 強暴の国に事うるは難く、強暴の国をして我れに事えしむるは易し。

【11 王覇篇 – 王道と覇道
 王者と覇者の区別、国家論、君主論
 国は礼がなければ正しくならない。
 君主は人を官に任ずることが職能であり、庶民は自分の能力で働くのが職能である=「縦の分業論」
 百王の法は同じではないが、帰する所はひとつである。
 国を治めるものは、義が立てば王となり、信が立てば覇となり、権謀が立てば滅びる。 
 01 国なる者は天下の利用なり。 国を用むる者は義立てば而ち王たり、信立てば而ち霸たり、権謀立てば而ち亡ぶ。
 02 国なる者は天下の大器なり。重き任(荷物)なり。
 03 彊(強)固栄辱は相(宰)を取ぶに在り。
 04 国なる者は巨用すれば則ち大、小用すれば則ち小なり。
 05 国は礼なくば則ち正しからず。
 06 国の危きときは則ち楽君なく、国の安きときは則ち憂君なし。
 07 人主なる者は人を官するを以て能と為す者なり。匹夫なる者は自ら能くするを以て能と為す者なり。
 08 西よりし東よりし、南よりし北よりして、服さざる無し。(『詩経』大雅・文王有声)
 09 明君は〔君子を〕以て宝と為すも、愚者は以て難と為す。
 10 人主胡んぞ広焉(こうえん)として親疏を卹(かえり)みること無く貴賤に偏すること無く唯だ誠能を求める。
 11 百王の法は同じからざるも帰する所の者は一なり。
 12 孔子曰わく – 知者の知は固より以に多きに有た以て少を守る、能く察すること無からんや。
 13 聞く所と見る所と誠に以て斉(ととの)えば、分に敬しみ制に安んじて以て其の上に化せざること莫し。
 14 主たるの道は近きを治めて遠きを治めず。 明主は要を好むも闇主は詳を好む。
 15 孔子曰わく – 吾れの人に適(ゆ)く所以を審(慎)しむは、人の我れに来る所以なればなり。
 16 上は天の時を失わず、下は地の利を失わず、中は人の和を得て百事も廃せず。

【12 君道篇 – 君主としての道】
 君主の守るべき道、政治のあり方
 礼を尊重し法を完備すれば国家は恒久である。 
 01 法なる者は治の端(はじめ)なり。君子なる者は法の原(みなもと)なり。
 02 源の清めば則ち流れも清み、源の濁れば則ち流れも濁る。
 03 仁厚は天下を兼ねて覆い閔(憂)えず、明達は天地を周(あまね)く万変を理めて疑(とどこう)らず
 04 君なる者は槃(盤)なり、民なる者は水なり。槃の円なれば水も円なり。
 05 道の存すれば則ち国も存し、道の亡ぶれば則ち国も亡ぶ。
 06 時に先きんずる者は殺して赦すこと無く、時に逮(およ)ばざる者も殺して赦すこと無かれ。(『書経』胤征篇)
 07 好(美)女の色(顔)は悪(醜)き者の孽(わざわい・害)なり。公正の士は衆人の痤(じゃま・妨)なり。
 08 人主は必將(かなら)ず卿相輔佐の任ずるに足る者ありて然る後に可なり。
 09 見るべからざるを視、聞くべからざるを聴き、成すべからざるを為す。

【13 臣道篇 – 臣下としての道】
 臣下の諸類型、臣下の守るべき道
 平原君、信陵君を「社稷の臣、国君の宝」と賞賛する。
 上はよく君主を尊び、下はよく民を愛し、民心は影が形にそうように政令 教化に従うようにさせる「聖臣」が最良である。
 聖臣を用いる者は王者となり、功臣(有能、忠誠で民を愛する臣)を用いる者は強力になり、簒臣(君主を惑わす臣)を用いる者は危険になり、態臣(君主にへつらう臣)を用いる者は滅亡する。
 01 態臣:斉の蘇秦、楚の州侯、秦の張儀/篡臣:韓の張去疾、趙の奉陽、斉の孟嘗君
 ― 功臣:斉の管仲、晋の咎犯、楚の孫叔敖/聖臣:殷の伊尹、周の太公望
 02 諫争輔拂の人は、社稷の臣なり。国君の宝なり。 諫:殷の伊尹、殷の箕子/争:殷の比干、呉の伍子胥/輔:趙の平原君/拂:魏の信陵君
 03 聖君に事うる者は聴従ありて諫争なく、中君に事うる者は諫争ありて諂諛(てんゆ)なく、暴君に事うる者は補削ありて撟拂なし。
 04 命に従いて払(戻)らず、微諫して倦まず、上に為りては明かに下と為りては遜る。
 05 人に事えて順(よろこ)ばれざるは疾(つと・勉)めざる者なり。
 06 大忠:周公旦の成王に対する忠/次忠:管仲桓公に対する忠/下忠:伍子胥の夫差に対する忠/国賊:曹触竜の紂王に対する忠
 07 敢えて虎を暴(てうち)にせず、敢えて河を馮(かちわたら)ず、人の其の一を知りて其の它(他)を知ること莫し(『詩経』小雅・小旻)→暴虎馮河
 08 君子は礼を安んじ、楽を楽しみ、謹慎して鬭怒なし。
 09 斬りて斉(ひと)しく、枉(曲)げて順がい、不同にして一なり。

【14 致士篇 – 士を集める】
 人材を集め用いる方法
 国家を構成するのは国土、士民、政治、君主である。 
 01 聴を衡(ひろ)くし幽を顕かにして明を重ねて姦を退け良を進むるの術
 02 能く礼義を以て挾(あまね)くすれば而ち貴名も白われ、天下は願い令は行われ禁も止み、王者の事は畢(おわ)らん。
 03 衆を得れば天を動かし、意を美(楽)ませれば年(寿)を延ぶ。
 04 人主の患(憂)いは賢を用いんと言うことに在らずして、誠必に賢を用うべきことに在り。
 05 事に臨み民に接するに義を以て変応し、寬裕にして多く容れ、恭敬を以てこれ先(導)びくは政の始めなり。
 06 程なる者は物の準なり。礼なる者は節の準なり。
 07 君なる者は国の隆(極)なり。父なる者は家の隆なり。
 08 師たるの術に四あり。而して博習は焉れに与(あずか)らず。
 09 樹の〔葉の〕落つれば則ち本に糞(つちか・培)い、弟子の通利すれば則ち師を思う。
 10 賞には僭(こゆ・越)ることを欲せず、刑には濫(す・過)ぐることを欲せず。

【15 議兵篇 – 軍事を議論する】
 軍事についての議論、礼 徳に国家をつよくすること
 秦は四代にわたって優勢だが、いつもびくびくと天下が一致しておのれに逆らうことを心配している。
 秦は民を窮屈にさせ、苛酷に使い、権力によっておどし、褒美で手なづけ、刑罰でおどしている。
 用兵 攻戦の根本は、民をひとつにすることである。 
 01 臨武君と孫卿子(荀子)、趙孝成王の前で兵事を議せり – 仁人の兵は詐(いつわ・偽)るべからず。
 02 王者の兵の道と行 – 詐を以て斉に遇わば、これを辟(たと)うるに猶お錐刀を以て太山を墮(こぼ)たんとするがごとし。
 03 将たることを問う – 百事の成〔功〕は必ずこれを敬しむに在り、其の敗は必ずこれを慢(あなど)るに在り。
 04 王者の軍制 – 令の進めざるに而も進むは、猶お令の退けざるに而も退くがごとく、其の罪は惟れ均しきなり。
 05 陳囂、孫卿子に問う – 仁人の兵は存(止)まる所の者は神(治)まり、過ぐる所の者は化し、時雨の降るが若くして喜ばざること莫し。
 06 李斯、孫卿子に問う – 政の脩まれば則ち民は其の上に親しみ、其の君を楽しみて、これが為めに死することを軽しとす。
 07 礼なる者は治辨の極なり、強固の本なり、威行の道なり、功名の總(総)なり。
 08 賞慶・刑罰・埶詐(せいさ)の道たるや傭徒・粥売(やとわれあきない)の道なり。以て大衆を合し国家を美とするに足らず。
 09 徳を以て人を兼せる者は王たり、力を以て人を兼せる者は弱く、富を以て人を兼せる者は貧し。
 10 兼ね并わせることは能くし易きなり。唯だ堅く凝(定)まることを難しとなす。

【16 彊国篇 – 国家を強くする】
 礼儀 忠信により国家を強くすること
 秦はすばらしいが、秦で足りないものは儒者がいないことである。
 正しい判断基準をもち、私欲を退け、すべてをあわせ容れる道に従うこと(道)こそ天下を統一する重点である。
 主君は礼を尊重し、賢者を尊敬すれば王となり、法を重視し、民を愛すれば覇となる。 
 01 人の命は天に在り、国の命は礼に在り。
 02 道徳の威は安強を成し、暴察の威は危弱を成し、狂妄の威は滅亡を成す。
 03 公孫子を譏って曰わく – 子発の命を致せしは恭なるも、其の賞を辞せしことは固なり。
 04 斉の相に説く – 人には生より貴きは莫く、安より楽きは莫く、生を養い安を楽しむ所以の者は礼義より大なるは莫し。
 05 假今(いま)の世に地を益さんとするは、信を益さんことを務むるに如かざるなり。
 06 応侯(范雎)、秦国を問う – 則ち其の殆んど儒なきか。
 07 積微 – 善く日ごとにする者は王たり、善く時にする者は霸たり、漏を補う者は危うく、大荒(暴)する者は亡ぶ。
 08 義なる者は人の悪と姦とを為すことを限禁する所以の者なり。天下を為むるの要は、義を本と為して信これに次ぐ。
 09 堂上、糞せざれば、則ち郊の草も芸(くさぎ)らず。

【17 天論篇 – 天についての論】
 天と人をめぐる問題、末尾には道についての論や諸思想家への批判を附する
 「天」の運行は、人間とは個別のものであり、貧富 禍福 治乱といった人間的 社会的現象に直接的に影響するものではない=「天人の分」
 自然に対する人間の能動性、主体性を主張する。
 呪術とは実は装飾である、その心得ておくことが「吉」である。
 百王が変えることのなかったものは、道の原則とすることができる。廃止したり創始したりするにも、この原則をもって当る。原則を守れば混乱せず、 原則を知らなければ変化に当ることが出来ない。 
 01 天行、常あり。堯の為めに存せず、桀の為めに亡びず。
 ― 以て天を怨むべからず、其の道然るなり。故に天人の分に明かなれば則ち至人と謂うべし。 →天人分離
 02 為さずして成り求めずして得、夫れ是れを天職と謂う。皆な其の以て成る所を知るも其の無形を知る莫し、夫れ是れを天功と謂う。
 03 聖人は其の天君を清くし、其の天官を正し、其の天養を備え、其の天政に順がい、其の天情を養いて、以て其の天功を全くす。
 04 大巧は為さざる所に在り、大智は慮(おもんぱか)らざる所に在り。
 05 治乱は天に非ざるなり。 治乱は時に非ざるなり。 治乱は地に非ざるなり。
 06 天に常道あり、地に常数あり、君子に常体あり。
 07 君子は其の己れに在る者を敬しみて其の天に在る者を慕わず。是を以て日々に進むなり。
 08 星の隊(お・墜)ち木の鳴るは、是れ天地の変・陰陽の化にして物の罕(まれ)に至る者なれば、怪しむは可なるも、畏れるは非なり。
 09 雩して雨ふるは何ぞや? – 他なし。猶お雩せずして雨ふるがごときなり。
 10 天に在る者は日月より明かなるは莫く、人に在る者は礼義より明かなるは莫し。
 11 人を錯きて天を思わば、則ち万物の情を失う。
 12 百王の変うること無きものは、以て道貫と為すに足る。
 13 礼なる者は表(しるし)なり。礼を非とすれば世を昏(くら)くし、世を昏くすれば大いに乱る。
 14 老子は詘(屈)に見ること有りて信(伸)に見ること無く、墨子は斉に見ること有りて畸(異)に見ること無し。

【18 正論篇 – 正しい議論】
 世俗のさまざまな議論への反駁、末尾に宋銒学派との対論がある
 宋銒は人間の欲が少ないと論ずるが、それはあやまりで欲望が多いからこそ、賞罰による行政が可能なのだ。 
 01 主なる者は民の〔先〕唱なり、上なる者は下の儀〔表〕なり。
 02 湯・武は民の父母なり、桀・紂は民の怨賊なり。天下のこれに帰するを王と謂い、天下のこれを去るを亡と謂う。
 03 人を刑するの本は暴を禁じ悪を悪みて且つ其の未〔来〕を懲(こら)すなり。
 04 浅きものは深きを測るべからず、愚は知を謀るに足らず、坎井(かんせい)の鼃(あ・蛙)は東海の楽しみを語るべからず。→井底之蛙・不知大海
 05 堯・舜の天下禅譲 – 堯を以て堯を継ぐ。夫れ又た何の変かこれあらん。
 06 堯・舜なる者も天下の善く教化する者なるも、嵬瑣(かいさ)をして化せしむること能わず。
 07 孔子曰わく – 天下に道あるときは、盜其れ先ず変ぜんか。
 08 子宋子(宋銒)に応じて曰わく – 人の鬭(あらそ)うには必ず其の悪むことを以て説と為し、其の辱ずることを以て故と為すに非ざるなり。
 09 子宋子に応じて曰わく – 君子は埶辱あるべきも義辱あるべからず、小人は埶栄あるも義栄あるべからず。
 10 子宋子に応じて曰わく – 上賢は天下を禄し、次賢は一国を禄し、下賢は田邑を禄し、愿愨の民は衣食を完す。

【19 礼論篇 – 礼について】
 礼の起源 原理 実践等についての諸問題
 人は生まれながらに欲望がある。先王は欲望の乱れを嫌い、そこで礼儀を定めて、欲望と求める物の両者が永続するようにした。これが礼の起こりである。
 礼は人の道の極致である。 
 01 礼なる者は養なり。別なる者は、貴賤に等あり長幼に差あり貧富軽重皆な称ある者なり。
 02 礼に三本あり。天地は生の本なり、先祖は類の本なり、君師は治の本なり。
 03 宜しく大なる者は巨に宜しく小なる者は小にすべきことを別つ所以なり。
 04 礼は脱に始まりて文に成り悦校(えつこう)に終る。
 05 礼なる者は人道の極なり。天なる者は高きの極なり、地なる者は下きの極なり、無窮なる者は広きの極なり。
 06 文理の繁くして情用の省くは是れ礼の隆なり。文理の省きて情用の繁きは是れ礼の殺なり。
 07 礼なる者は生死を治むることを謹しむ者なり。
 08 礼なる者は吉凶を謹しみて相い厭わざる者なり。
 09 喪礼の凡(はん)は変じて飾り動きて遠ざかり久しくして平なり。
 10 礼なる者は長を断ちて短を続ぎ、有余を損して不足を益し、愛敬の文を達して滋々(ますます)行義の美を成す者なり。
 11 性なる者は本始材木なり、偽なる者は文理隆盛なり。
 12 喪礼なる者は生者を以て死者を飾る者なり。大いに其の生に象(かたど)りて以て其の死を送るなり。
 13 知あるの属は其の類を愛せざること莫し。故に三年の喪は人道の至文なる者なり。
 14 君なる者は已に能くこれを食い又た善く教誨する者なり。
 15 曲(つぶさ)に容れて備物するを道と謂う。
 16 死に事うること生に事(ゆか)うる如く、亡に事うること存に事うるが如くして、形影なきところに状(かたちづく)り、然り而して文を成すなり。

【20 楽論篇 – 音楽論】
 音楽についての諸問題、墨家批判、郷飲酒の礼 
 01 夫れ楽なる者は楽(らく)なり。楽なる者は一を審らかにして以て和を定むる者なり。楽なる者は治人の盛んなる者なり。
 02 目は自らは見ず、耳は自らは聞かず。
 03 孔子曰わく – 吾れは鄉を観て王道の易易たることを知れり。
 04 貧なれば則ち盜と為し、富めば則ち賊を為す。治世は是れに反するなり。

【21 解蔽篇(かいへい) – 啓蒙 蔽いを除く】
 人の心が偏見、欲望等により蔽われているのを解放する方法、諸思想家批判を含む
 荘子は天に蔽われて人を知らない。 
 01 人の患は一曲に蔽われて大理に闇(くら)きことなり。天下に二道なく、聖人に両心なし。
 ― 今、諸侯は政を異にし、百家は説を異にす。則ち必ず或るものは是にして或るものは非、或るものは治にして或るものは乱なり。
 02 万物は異〔別〕すれば則ち相いに蔽(へい)を為さざること莫し。
 03 昔、人君の蔽われし者は、夏桀と殷紂と是れなり。
 ― 成湯は夏桀に鑒(かんが)み、文王は殷紂に鑒(かんが)みて、故に其の心を主(まも)りて慎しみ治めたり。
 04 昔、人臣の蔽われし者は、唐鞅と奚斉と是れなり。
 ― 鮑叔、甯戚、隰朋は仁知にして且つ蔽われず。故に能く管仲を持して而して名利福禄は管仲と斉(ひと)し。
 05 昔、賓孟(ひんもう・賓萌・遊説家)の蔽われし者は、乱家是れなり。
 ― 墨子(墨翟)は用に蔽われて文を知らず。
 ― 宋子(宋銒)は欲に蔽われて得を知らず。
 ― 慎子(慎到)は法に蔽われて賢を知らず。
 ― 申子(申不害)は埶(勢)に蔽われて知を知らず。
 ― 恵子(恵施)は辞に蔽われて実を知らず。
 ― 荘子(荘周)は天に蔽われて人を知らず。
 ― 此の数具の者は皆な道の一隅なり。夫れ道なる者は常を体して変を尽す、一隅にてはこれを挙うには足らざるなり。
 ― 曲知の人は道の一隅を観て而も未だこれをも能く識(し)らず。
 ― 故に足れりと以為いてこれを飾り、内にしては自ら乱り外にしては人を惑わし、上にしては下を蔽い下にしては上を蔽う。此れ蔽塞の禍なり。
 ― 孔子は仁知にして且つ蔽われず。故に乱(雑)術を学びて先王を為むるに足りし者なり。
 ― 一家得られて周道挙り、これを用いて成績に蔽われず。故に徳は周公と斉(ひと)しく名は三王と並ぶ。
 06 聖人は心術の患(うれ)いを知り、蔽塞の禍を見る。
 07 未だ道を得ずして道を求むる者には、これに虚壱にして静ならんことを謂(説)いてこれが則(のり・法)と作さしむ。
 08 知者は一を択びて壱(もっぱ・専)らにす。君子は道に壱にして而して以て物を参稽(参考)す。
 09 仁者の道を行うや無為なり。聖人の道を行うや無彊なり。
 10 人の鬼ありとするは、必ず其の感忽の間に疑玄(眩)の時を以てこれを定む。
 11 人の性を知ることを以てすれば、物の理を知るべきなり。学なる者は固より学んで止まるなり。
 12 墨(くら)くして明と為さば、狐狸其れ蒼(さか)んならん。(逸詩)  明明は下に在りて、赫赫は上に在り。(『詩経』大雅・大明)

【22 正名篇 – 正しいことばを正す】
 名(名辞 言葉)についての諸問題、いくつかの概念の規定や諸思想家批判を含む
 生まれつきがそうであるもの、これを性と呼ぶ。
 王者は「名を定める(制名)」ことにより国家のもろもろの事物(実)を弁別し、形づくられたなと実の一致する「正しい名(正名)」の秩序のもとに、人民を統一に導き、 天下に功業を成すものである。 
 01 後王の成名 – 刑の名は商(殷)に従い、爵の名は周に従い、文の名は礼に従う。
 02 王者の名を制(さだ)むるや、名定まりて実辨じ、道行われて志通ずれば、則ち慎しんで民を率いて一にす。
 03 聖人の辨説 – 説の行われるときは則ち天下正しく、説の行われざるときは則ち道を白(あきら)かにして窮(身)を冥(かく)す。
 04 士君子の辨説 – 能く道に処して弐せず、咄(くるし)みても奪われず利(よろし)くとも流れず、公正を貴びて鄙争を賤しむ。
 05 君子の言は涉然として精(くわ)しく、俛然(ふぜん)として類あり、差差然として斉(ととの)う。
 06 性なる者は天の就せるなり。情なる者は性の質なり。欲なる者は情の応なり。
 07 道なる者は古今の正権なり。

【23 性悪篇 – 性(うまれつき)は悪である →性悪説
 性悪論、人が善となり聖人にいたる方法
 学習によってできるようになるもの、これを「偽」と呼ぶ=「性偽の分」
 人の性は悪であり、善となるのは作偽の結果である。
 路傍の凡人も禹のような聖人となる可能性がある。
 いにしえの聖王は、人の性は悪なので世は乱れて治まらないと考えた。そのために礼儀を創り法を定めてこれを導いた。 
 01 人の性は悪にして其の善なる者は偽(作為)なり。 人の性は悪にして、必ず師法を待ちて然る後に正しく、礼義を得て然る後に治まる。
 ― 性なる者は、天の就せるなり、学ぶべからず、事となすべからざる者なり。
 ― 学ぶべからず、事となすべからずして人に在る者、これを性と謂う。学んで能くすべく、事として成るべくして人に在る者、これを偽と謂う。
 02 聖人の衆〔人〕に同じくして過ぎざる所以の者は性なり。衆〔人〕に異なりて過ぐる所以の者は偽なり。
 03 人の善を為さんと欲するは性の悪なるが為めなり。
 ― 人の性は固より礼義なし。故に彊(つと)めて学びてこれを有たんことを求むるなり。
 04 枸(曲)木の必ず檃栝烝矯(いんかつじょうきょう)を待ちて然る後に直なるは、其の性の不直を以てなり。
 05 人の性は堯・舜の桀・〔盗〕跖に与(於)けるも其の性は一(同)く、君子の小人に与けるも其の性は一(同)じなり。
 06 塗(みち・途)の人も禹と為るべし。塗の人には皆な仁義法正を知るべきの質あり、皆な仁義法正を能くすべきの具あり。
 07 堯、舜に人の情を問う – 人の情か、人の情か、甚だ美(善)からず。
 08 聖人の知、士君子の知、小人の知、役夫の知
 09 上勇、中勇、下勇
 10 夫れ人に性質の美にして心の辯知ありと雖(いえど)も、必ず賢師を求めてこれに事え、良友を択んでこれを友とす。
 ― 其の子を知らずば其の友を視よ。其の君を知らずば其の左右を視よ。(古伝)

【24 君子篇 – 天子について】
 君主の尊厳性とその政治のあり方
 聖王の道を尊ぶ者は王となり、賢者を重んずる者は覇となり、賢者に敬意を払う者は存続し、賢者を侮る者は滅ぶ。 
 01 天子に妻なきは、人に匹〔敵〕するものなきことを告すなり。四海の内に客礼なきは、適(匹敵)するものなきことを告すなり
 ― 普天(ふてん・溥天)の下、王土に非ざるは莫く、率土(そつど)の濱(ひん・浜)、王臣に非らざるは莫し。(『詩経』小雅・北山)
 02 其の道に由れば則ち人は其の好む所を得られ、其の道に由らざれば則ち必ず其の悪む所に遇う。
 03 古者、刑は罪に過ぎず、爵は徳を踰えず。
 ― 乱世は則ち然らず。刑罰は罪に怒(過)ぎ、爵賞は徳を踰え、族を以て罪を論じ、世〔襲〕を以て賢を挙ぐ。
 04 仁とは此れを仁(よろこ)ぶ者なり。義とは此れを分かつ者なり。節とは此れに死生する者なり。忠とは此れに惇(あつ)く慎(順)がう者なり。

【25 成相篇 – 相(きねうた)を成す】
 相は一種の労作唄、その形式による政治 君主論
 政治のすじみちは、礼と刑である。 韻文
 01 請う、相(きねうた)を成さん – 世の殃(わざわい)は愚闇愚闇の賢良を墮(やぶ)ることなり。世の愚は大儒を悪むことなり。
 02 相を成して、法の方を辨ぜん – 至治の極は後王に復(か)えることなり。治の経は、礼と刑となり。
 03 相を成して、聖王を道(い)わん – 氾利兼愛して徳の施し均しく、上下を辨治し貴賤に〔差〕等あり君臣を明かにす。
 04 患難なるかな、阪(かえ)ってこれを為し聖知は用いず愚者に謀り、前車の已に覆(くつがえ)れるに後未だ更(あらた)むるを知らず。
 05 相を成して、治の方を言わん – 君たるの論には五あり約にして明なり。君謹しんでこれを守らば下皆な平正にして国は乃ち昌ならん。

【26 賦篇(ふ) – 韻文詩による謎かけ】
 謎歌式の賦五篇、その他
 諸侯が礼を尊べば、世界はひとつに合わさるだろう。
 純粋ならば王となり、雑駁ならば覇となり、全く欠けていれば滅ぶ。 韻文
 01 礼の賦 – 日に非ず月に非ざるも天下の明と為る。致めて明かにして約、甚だ順にして体〔得〕すべし。
 02 知の賦 – 皇天、物を隆(くだ・降)し、以て下民に示したもう、或いは厚く或いは薄く、常に斉均ならず。
 03 雲の賦 – 地に託して宇(そら)に游び風を友として雨を子とし、冬日は寒を作し夏日は暑を作す。
 04 蚕の賦 – 功立ちて身は廃てられ、事成りて家は敗られ、其の耆老を棄てて其の後世を収めらる。
 05 箴(針)の賦 – 知なく巧なきも善く衣裳を治め、以に能く縦を合して又た善く衡(横)を連ぬ。
 06 請う、佹詩を陳べん – 天と地と位を易え四時は鄉(向)を易え、列星は隕墜(けんつい)し旦暮も晦盲(かいもう)す。

【27 大略篇 – 荀子言行の大略概要】
 雑多な問題についての短文の集録、孔子など古人の言葉を含む。
 01 人に君たる者は、礼を隆(とうと)び賢を尊べば而ち王たり、法を重んじ民を愛すれば而ち霸たり、利を好み詐多ければ而ち危うし。
 02 四旁に近からんことを欲すれば中央に如くは莫し。故に王者の必ず天下の中に居るは礼なり。
 03 諸侯の相い見ゆるや、卿を介(副)と為し、其の教士を以(ひきい)て畢(ことごとく)行かしめ、仁〔者〕をして居り守らしむ。
 04 人を聘するには珪を以てし、士を問うには璧を以てし、人を召すには瑗を以てし、人を絶つには玦を以てし、絶ちたるを反すには環を以てす。
 05 王者は仁を先にして礼を後にす。
 06 時宜ならず敬文ならず驩欣ならざれば、指(うま・旨)しと雖ども礼に非ざるなり。
 07 礼なる者は其の表(しるし)なり。
 08 舜曰わく – 予は欲に従いて治まる。
 09 五十なれば喪を成さず、七十なれば唯衰存するのみ。
 10 往きて爾の相(妻)を迎え、我が宗事を成し、隆(あつ)く率がわしむるに敬を以てし、先妣(せんび)を嗣がしめよ。若(なんじ)は則ち常あれ。
 11 夫れ行なる者は礼を行うの謂なり。
 12 其の臣妾を忿怒するは、猶お刑罰を万民に用うるがごとし。
 13 君子の子に於けるや、これを愛するも面にすること勿く、これを使うも貌(かたち)すること勿く、これを導くに道を以てするも彊うること勿し。
 14 礼は人心に順うを以て本と為す。
 15 礼の大凡 – 生に事うるには驩を飾り、死を送るには哀を飾り、軍旅には威を飾る。
 16 仁は愛なり、故に親しむ。義は理なり、故に行う。礼は節なり、故に成る。仁に里あり、義に門あり。
 17 死を送るに柩尸に及ばず、生を弔うに悲哀に及ばざるは、礼に非ざるなり。
 18 礼なる者は政の輓(ひきづな)なり。
 19 能く患を除けば則ち福と為り、能く患を除かざれば則ち賊と為るべし。
 20 禹は耕やす者の耦(ならび)立つを見れば而ち式し、十室の邑を過ぐれば必ず下りたり。
 21 民を治むるに礼を以てせざるときは動けば斯ち陥(おちい)らん。
 22 吉事には尊を尚(うえ)にし、喪事には親を尚にす。
 23 夫婦の道は正さざるべからず。君臣父子の本なればなり。
 24 人に礼なければ生きず、事に礼なければ成らず、国家に礼なければ寧からず。
 25 君子は律を聴き容を習いて而る後に出ず。
 26 内(閨房)は十日に一御なり。
 27 坐するときは膝を視、立つときは足を視、応対言語するときは面を視る。
 28 礼なる者は、本末相い順がい、終始相い応ず。
 29 下臣は君に事うるに貨を以てし、中臣は君に事うるに身を以てし、上臣は君に事うるに人を以てす。
 30 易に曰わく – 復して道に自れば何ぞ其れ咎(とが)あらん。
 31 交譎(こうきつ)の人、妒昧の臣は、国の薉孽(あいげつ)なり。
 32 国を治むる者は其の宝を敬い其の器を愛し其の用を任じて其の祅(よう・妖)を除く。
 33 富まざれば民の情を養うこと無く、教えざれば民の性を理むること無し。
 34 武王の始めて殷に入りしとき商容の閭を表わし、箕子の囚(とらわれ)を釈(ゆる)し、比干の墓に哭しければ、天下善に鄉(向)えり。
 35 迷う者は路を問わざればなり、溺るる者は遂(あさせ)を問わざればなり。亡〔国の〕人は独を好む。
 36 法ある者は法を以て行い、法なき者は類を以て挙う。
 37 父母の喪には三年事とせず、齊衰(しせい)と大功には三月事とせず。
 38 管仲の人と為りは功を力(つと)めて義を力めず、知を力めて仁を力めず、野人なり。
 39 孟子曰わく – 我れは先ず其の邪心を攻(治)む。
 40 曾元曰わく – 志卑(ひく)き者は物を軽んず。物を軽んずる者は助けを求めず。苟くも助けを求めざれば何ぞ能く〔賢者を〕挙げん。
 41 箴(はり)を亡いし者、終日これを求むるも得ず、其のこれを得るときは目の明を益せるにあらず眸(ぼう)してこれを見ればなり。
 42 義の利に勝つ者は治世たり、利の義に克つ者は乱世たり。
 43民の任(しごと)を重くして能えざるを誅するは、此れ邪行の起る所以にして刑罰の多き所以なり。
 44 上義を好めば則ち民は闇にも〔修〕飾し、上富を好めば則ち民は利に死す。
 45 何の以に雨ふらざることの斯の極に至るや。
 46 天の民を生ずるは君の為めにするに非ざるなり。天の君を立つるは民の為めにするなり。
 47 主の道は人を知り、臣の道は事を知る。
 48 農は田に精(くわ)しきも、田師と為るべからず。工賈も亦た然り。
 49 賢を以て不肖に易えれば、卜を待ちて而る後に吉を知る〔が如き〕にあらず。
 50 卞荘子を忌みて敢えて卞を過らず。子路を畏れて敢えて蒲を過らず。
 51 先王の道は則ち堯・舜のみ。六芸の博きは則ち天府のみ。
 52 君子の学は蛻(ぬけがら)の如く幡然として遷(うつ)る。歳、寒ならざれば松柏を知ることなく、事、難からざれば君子を知ることなし。
 53 小人は内に誠ならずしてこれを外に求む。
 54 言いて師を称せざるはこれを畔(叛)と謂う。教えて師を称せざるはこれを倍と謂う。
 55 行に足らざる者は説の過ぎ、信に足らざる者は誠言す。
 56 曾子と晏子 – 近きを親しましめて遠きを附くるは孝子の道なり。君子は人に贈るに言を以てし、庶人は人に贈るに財を以てす。
 57 人の文学に於けるや、猶お玉の琢磨に於けるがごときなり。切するが如く磋するが如く琢するが如く磨するが如し。(『詩経』衛風・淇奥)
 58 君子は疑わしきは則ち言わず、未だ問わざるは則ち言わず。道は遠きも日々に益むなり。
 ― 学なる者は必ずしも仕うるが為めに非ざるも而も仕うる者は必ず学に如いてす。
 59 子貢曰わく – 大なるかな死や。君子も息い小人も休う。
 60 『詩経』 国風・小雅評 – 其の欲を盈(み)たすも其の止まるところを愆(あやま)らず。
 61 国の将に興らんとするや、必ず師を貴んで傅を重んず。国の将に衰えんとするや、必ず師を賤しみて傅を軽んず。
 62 古者、匹夫は五十にして士(つか・仕)う。天子諸侯の子は十九にして冠し、冠し治を聴くは其の教至ればなり。
 63 盜に糧を齎(おく)り、賊に兵を借す。
 64 自ら其の行を嗛(たらず)とせざる者は、言濫にして過ぐ。礼に非ざれば進まず、義に非ざれば受けず。
 65 子夏曰わく – 利を争うこと蚤甲の如くなれば而ち其の掌を喪わん。
 66 友なる者は相い有(たも)つ所以なり。道同じからざれば何を以て相い有たん。
 ― 大車を將(たす)くる無かれ、維れ塵冥冥たり。(『詩経』小雅・無将大車)
 67 懦弱(だんじゃく)にして奪い易きは仁に似て非なり。
 68 仁義礼善の人に於けるは、これを辟(たと)うるに貨財粟米の家に於けるが若きなり。
 69 凡そ物は乗ずるに有りて来る。其の出でし者は是れ其の反る者なり。
 70 禍の由りて生ずる所は、纖纖に自る。
 71 言の信なる者は,区蓋の間に在り。疑わしきは則ち言わず、未だ問わざるは則ち言わず。
 72 君子は説(よろこ)ばしめ難し。これを説ばすに道を以てせざれば説ばざるなり。
 73 曾子、泣涕して曰わく – 異心あらんや、其のこれを聞くことの晚(おそ)きを傷みしなり。
 74 吾れの短なる所を用って人の長ぜる所に遇ること無かれ。
 75 多言にして類あるは聖人なり。少言にして法あるは君子なり。
 76 分義あれば則ち天下を容くるとも治まり。分義なければ則ち一妻一妾なりとも乱れん。
 77 天下の人は各々意を特にすと唯(いえど)も、然れども共に予(くみ・与)する所あり。
 78 惟惟(いい)として而も亡ぶ者は誹ればなり。博くして而も窮する者は訾ればなり。清くせんとして俞々濁る者は口なり。
 79 君子は能く貴ぶべきことを為すも、人をして必ず己を貴ばしむること能わず、能く用うべきことを為すも、人をして必ず己を用いしむること能わず。
 80 誥誓(こうせい)あるは五帝に及ばず。盟詛(めいそ)あるは三王に及ばず。質子(ちし)を交うるは五伯(五覇)に及ばず。

【28 宥坐篇 – 坐右の戒め(篇首の二字)】
 孔子の言行の集録
 01 宥坐の器に、孔子喟然と歎じて曰わく – 吁、悪んぞ満ちて覆えらざる者あらんや。
 02 孔子曰わく、人に悪しき者の五つ有り – 一:心達にして倹、二:行辟にして堅、三:言偽にして辯、四:記醜にして博、五:順非にして澤。
 03 義もて刑し義もて殺し、〔刑を〕庸(もち・用)うるに予に即くこと勿かれ。維だ未だ順(おし)うる事あらずとのみ曰え。(『書経』康誥篇)
 04 彼の日月を瞻(み)れば、悠悠として我れ思う。道の遠ければ曷ぞ能く来たらん。(『詩経』邶風・雄雉)
 05 孔子、東流の水を観す – 君子は大水を見れば必ず観するなり。
 06 孔子曰わく – 吾れ恥ずること有り。吾れ鄙(いや)しむこと有り。吾れ殆ぶむこと有り。
 07 今の学は曾ち未だ肬贅(ゆうぜい・イボとコブ)にも如かざるに、則ち具然として人の師たらんことを欲す。
 08 由(子路)、これを聞けり – 善を為す者は、天これに報ゆるに福を以てし、不善を為す者は、天これに報ゆるに禍を以てす。
 ― 芷蘭(しらん)は深林に生じ、人なきに以りて芳(かんば)しからざるに非ず。君子の学は通ずるが為めに非ず。
 ― 夫れ賢と不肖とは材なり。為すと為さざるとは人なり。遇と不遇とは時なり。死生は命なり。
 09 太廟の堂には亦た嘗に説あるべし。蓋(けだ)し文を貴べるならん。

【29 子道篇 – 子としての道】
 子としての道、子の道等の問題についての孔子の言葉  雑録
 01 入ては孝、出でては弟なるは、人の小行なり。上に順いて下に篤きは、人の中行なり。
 ― 道に従いて君に従わず、義に従いて父に従わざるは、人の大行なり。
 ― 若し夫(そ)れ志は礼に以りて安んじ、言は類に以りて使えば、則ち儒道畢(おわ)る。
 02 従うと従いざるとの義に明かにして、能く恭敬・忠信・端愨(正)を致して以てこれを慎しみ行えば、則ち大孝と謂うべきなり。
 03 子の父に従うは奚ぞ子の孝ならん。臣の君に従うも奚ぞ臣の貞ならん。其のこれに従う所以を審らかにするを孝と謂い、貞と謂う。
 04 孔子子路 – 国士の力ありと雖も、自ら其の身を挙ぐること能わざるは、力無きに非ず。勢の不可なればなり。
 ― 君子入りては則ち篤く行い、出でては則ち賢を友とす。
 05 孔子子路と子貢 – 礼には是の邑(くに)に居れば其の大夫を非らず。
 06 君子は知れるを知れりと曰い、知らざるを知らずと曰う、言の要なり。
 ― 能くするを能くすと曰い、能くせざるを能くせずと曰う、行の至なり。言要なれば則ち知、行至れば則ち仁。
 07 顔淵対えて曰わく – 知者は自ら知り、仁者は自ら愛す。
 08 子路孔子に憂いを問う – 君子は其の未だ得ざるときは則ち其の意を楽しむ。既已にこれを得たるときは又た其の治を楽しむ。
 ― 是の以に終身の楽ありて一日の憂もなし。

【30 法行篇 – 礼とその行い方】
 孔子とその弟子の曾子、子貢の言葉
 01 礼なる者は、衆人は法とりて知らず、聖人は法りてこれを知る。
 02 曾子曰わく – 内の人を疏んじて外の人を親しむこと無かれ。身の不善にして人を怨むこと無かれ。刑の己に至りて天を呼ぶこと無かれ。
 03 曾子、曾元に曰わく – 君子苟に能く利の以めに義を害うこと無ければ、則ち恥辱も亦た由りて至ること無し。
 04 子貢、孔子に問いて曰わく – 君子を念えば、温として玉の如し。(『詩経』秦風・小戎)
 05 曾子曰わく – 人を怨む者は窮し、天を怨む者は識なし。これを己れに失しながら諸れを人に反〔求〕するは、豈(そ)れ迂ならずや。
 06 子貢曰わく – 君子は身を正して俟つ。来たらんと欲する者は距まず、去らんと欲する者は止めず。
 ― 且つ夫れ良医の門には病人多く、檃栝(ためぎ・矯木)の側には枉木多し。
 07 孔子曰わく – 君子に三恕あり。
 08 君子は少(わか)くして長ぜるときを思いては則ち学び、老いて死せるときを思いては則ち教え、有して窮せんときを思いては則ち施すなり。

【31 哀公篇 – 魯の哀公(篇首の二字)】
 魯の哀公と孔子の問答等
 01 魯哀公、孔子に問う – 今の世に生まれて古の道に志し、今の俗に居りて古の服を服す、此れに舍(処)りて非を為す者は亦た鮮なからずや。
 02 孔子曰わく – 人に五儀あり。庸人あり、士あり、君子あり、賢人あり、大聖あり。
 03 孔子曰わく – 古の王者は務(ぼう・冒)にして拘(曲)領なる者も有りしも、其の政は生を好みて殺を悪めり。
 04 丘(孔子)、これを聞く – 君なる者は舟にして、庶人なる者は水なり。水は則ち舟を載せ、水は則ち舟を覆す。
 05 丘(孔子)、これを聞く – 肆(あきない)を好む者は折〔閲〕を守らず、長者は市(あきない)を為さず。
 06 魯哀公、孔子に人材登用を問う – 健なるものを取ることなかれ。詌(おびやか)すものを取ることなかれ。口の啍なるものを取ることなかれ。
 07 魯定公、顏淵に問う – 鳥は窮すれば則ち啄(ついば)み、獣は窮すれば則ち攫み、人は窮すれば則ち詐(いつわ)る。

【32 堯問篇 – 堯、舜に問う(篇首の二字)】
 堯と舜の問答ほか古来の聖賢の吉行の集録、末尾に荀子をたたえる押韻をまじえた文がある 雑録
 01 堯、舜に問う – 一を執りて失うこと無く、微を行いて怠ること無く、忠信にして倦むこと無ければ、而ち天下は自からに来たらん。
 02 魏武侯と呉起 – 諸侯、師を得る者は王たり、友を得る者は霸たり、疑を得る者は存し、自ら謀を為して己れに若くものなき者は亡ぶ。
 03 周公旦と伯禽の傅(つきびと) – 君子は好むに道徳を以てす、故に其の民も道に帰するなり。
 04 孫叔敖曰わく – 吾れ三たび楚に相たるも心は瘉々(いよいよ)卑く、禄を益す毎にして施は瘉々博く、位は滋々尊くして礼は瘉々恭し。
 05 孔子と子貢 – 人の下と為る者は、其れ猶お土のごときなり。
 06 賢に親しみ知を用いざるの故に身は死し国は亡びしなり。
 07 後序 荀子評 – 説を為す者は、孫卿(荀子)は孔子に及ばず、と曰うも、是れ然らず。
 ― 孫卿は乱世に迫られ厳刑に遒(迫)られ、上に賢主なくして下は暴秦に遇い、礼義は行われず教化は成らず、
 ― 仁者は絀約して天下は冥冥、行の全きにはこれを刺りて諸侯も大いに傾むく。
 ― 今の学者、孫卿の遺言余教を得れば、天下の法式表儀と為るに足り、存する所は神まり過ぐる所は化す。其の善行を観るに孔子も過ぎず。
 ― 其の知は至めて明かにして、道に循がいて行を正し、以て紀綱と為すに足る。

RSS Feed

WordPress(feed) to Hatena Blog via email

IFTTT

洗心洞箚記より学ぶ!義と愛に生き、知行合一を貫いた人生の書!

大塩平八郎の乱は、江戸時代の天保8年(1837年)に、大坂で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱です。
そもそも、前年の天保の大飢饉に端を発する米不足と飢饉から忸怩たる思いを抱いていた平八郎が、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂河泉播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した事件です。
しかし、約300人を率いて「救民」の旗を翻して天満の自宅から大坂城を目指したものの、わずか半日で鎮圧され、後日自決に至っています。
そんな彼の生き方は、まさに「知行合一」の実践を貫き通した人生でした。

当時の決起参加への檄文が有名なので、ここに現代語訳にて記しておきます。
儒学は孝と忠を重んじますが、この檄文からは、大塩が朝廷への忠を念頭に、我が主君たる幕府への諫言を行う意図が明確に読み取れます。

『檄文』

「天から下された村々の貧しき農民にまでこの檄文を贈る

天下の民が生前に困窮するようではその国も滅びるであらう。
政治に当る器でない小人どもに国を治めさしておくと災害が並び起る、とは昔の聖人が深く天下後世の人君、人臣に教戒されたところである。
それで、徳川家康公も『仁政の基は依る辺もない鰥寡孤児などに尤も憐れみを加へることだ』と云はれた。
然るに茲二百四五十年の間太平がつゞき、上流の者は追々驕奢を極めるやうになり、大切の政事に携はつてゐる役人共も公然賄賂を授受して贈り或は貰ひ、又奥向女中の因縁にすがつて道徳も仁義も知らない身分でありながら、立身出世して重い役に上り、一人一家の生活を肥やす工夫のみに智を働かし、その領分、知行所の民百姓共には過分の用金を申付ける。
これ迄年貢諸役の甚しさに苦しんでゐた上に右のやうな無体の儀を申渡すので追々入用がかさんできて天下の民は困窮するやうに成つた。
かくして人々が上を怨まないものが一人もないやうに成り行かうとも、詮方のない事で、江戸を始め諸国一同右の有様に陥つたのである。
天子は足利家以来、全く御隠居同様で賞罰の権すら失はれてをられるから下々の人民がその怨みを何方へ告げようとしても、訴へ出る方法がないといふ乱れ方である。
依つて人々の怨みは自から天に通じたものか。
年々、地震、火災、山崩れ、洪水その他色々様々の天災が流行し、終に五穀の飢饉を招徠した。
これは皆天からの深い誡めで有がたい御告げだと申さなければならぬのに、一向上流の人人がこれに心付かすにゐるので、猶も小人奸者の輩が大切の政事を執り行ひ、たゞ下々の人民を悩まして米金を取立る手段ばかりに熱中し居る有様である。
事実、私達は細民百姓共の難儀を草の陰よりこれを常に見てをり、深く為政者を怨む者であるが、吾に湯王武王の如き勢位がなく、又孔子孟子の如き仁徳もないから、徒らに蟄居して居るのだ。
ところがこの頃米価が弥々高値になり、市民が苦しむに関はらず、大阪の奉行並に諸役人共は万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに得手勝手の政治を致し、江戸の廻し米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく五升一斗位の米を大阪に買ひにくる者すらこれを召捕るといふ、ひどい事を致してゐる。
昔葛伯といふ大名はその領地の農夫に弁当を持運んできた子供をすら殺したといふ事であるが、それと同様言語道断の話だ、何れの土地であつても人民は徳川家御支配の者に相違ないのだ、それをこの如く隔りを付けるのは奉行等の不仁である。
その上勝手我儘の布令を出して、大阪市中の遊民ばかりを大切に心得るのは前にも申したやうに、道徳仁義を弁へぬ拙き身分でありながら甚だ以て厚かましく不届の至りである。
また三都の内大阪の金持共は年来諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠取つてゐて未曾有の有福な暮しを致しをる。
彼等は町人の身でありながら、大名の家へ用人格等に取入れられ、又は自己の田畑新田等を夥しく所有して何不足なく暮し、この節の天災天罰を眼前に見ながら謹み畏れもせず、と云つて餓死の貧人乞食をも敢て救はうともせず、その口には山海の珍味結構なものを食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水を呑むと同様に振舞ひ、この際四民が難渋してゐる時に当つて、絹服をまとひ芝居役者を妓女と共に迎へ平生同様遊楽に耽つてゐるのは何といふ事か、それは紂王長夜の酒宴とも同じ事、そのところの奉行諸役人がその手に握り居る政権を以て右の者共を取締り下民を救ふべきである。
それも出来なくて日々堂島に相場ばかりを玩び、実に禄盗人であつて必ずや天道聖人の御心には叶ひ難く、御赦しのない事だと、私等蟄居の者共はもはや堪忍し難くなつた。
湯武の威勢、孔孟の仁徳がなくても天下の為めと存じ、血族の禍を犯し、此度有志のものと申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐し、続いて驕りに耽つてゐる大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。
そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等は夫々分散配当致したいから、摂河泉播の国々の者で田畑を所有せぬ者、たとひ所持してゐても父母妻子家内の養ひ方が困難な者へは右金米を取分け遣はすから何時でも大阪市中に騒動が起つたと聞き伝へたならば、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ参じて来てほしい、各々の方へ右金米を分配し、驕者の遊金をも分配する趣意であるから当面の饑饉難儀を救ひ、若し又その内器量才力等がこれあるものには夫々取立て無道の者共を征伐する軍役にも使たいのである。
決して一揆蜂起の企てとは違ひ、追々に年貢諸役に至るまで凡て軽くし、都べてを中興神武帝御政道の通り、寛仁大度の取扱ひにいたし年来の驕奢淫逸の風俗を一洗して改め、質素に立戻し、四海の万民がいつ迄も天恩を有難く思ひ、父母妻子をも養ひ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ、支那では尭舜、日本では天照皇太神の時代とは復し難くとも中興の気象にまでは恢復させ、立戻したいのである。
この書付を村々に一々しらせ度いのではあるが、多数の事であるから、最寄りの人家の多い大村の神殿へ張付置き、大阪から巡視しにくる番人共にしらせないやう心懸け早速村々へ相触れ申され度い、万一番人共が目つけ大阪四ケ所の奸人共へ注進致すやうであつたら遠慮なく各々申合せて番人を残らず打ち殺すべきである。
若し右騒動が起つたことを耳に聞きながら疑惑し、馳せ参じなかつたり、又は遅れ参ずるやうなことがあつては金持の金は皆火中の灰と成り、天下の宝を取失ふ事に成るわけだ。
後になつて我等を恨み宝を捨る無道者だなどと陰言するを致さぬやうにありたい。
その為め一同に向つてこの旨を布令したのだ。
尤もこれまで地頭、村方にある税金等に関係した諸記録帳面類はすべて引破り焼き捨てる、これは将来に亙つて深慮ある事で人民を困窮させるやうな事はしない積りである。
去りながら此度の一挙は、日本では平将門明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類してゐると申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは日月星辰の神鑑もある事、詰るところは湯武、漢高祖、明太祖が民を弔ひ君を誅し、天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。
若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ。
但しこの書付は細民達へは道場坊主或は医師等より篤と読み聞かせられたい。
若し庄屋年寄等が眼前の禍を畏れ、自分一己の取計らひで隠しおくならば追つて急遽その罪は所断されるであらう。
茲に天命を奉じ天誅を致すものである。

天保八丁酉年月日某

摂河泉播村々
庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ」

大塩平八郎は、江戸時代後期の儒学者陽明学者で、大坂東町奉行所の元与力です。
幾つかの書物を残していますが、いずれも乱の直後に大坂町奉行所によって禁書とされ、売買を固く禁じられた経緯があります。

そんな大塩平八郎の代表作、『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』を少し整理してみましょう。
この『洗心洞箚記』は、読書録の形式で陽明学を説いた書でして、明治時代以降、佐藤一斎の『言志四録』と並んで読み継がれた、隠れたロングセラーです。
※)言志四録については、改めて整理したいと思います。
「洗心洞」とは大坂の自宅で経営した私塾名だそうで、「箚」は針で刺す意味があるそうです。
「箚記」は書物を読むにあたり、針で皮膚を刺し鮮血がほとばしるように肉薄し、あたかも針で衣を縫うように文章の意義を明確にする意味。
「箚記或問二條」と命題が二点あることからも、この著作の中で、朱子学陽明学の論争に終止符を付けようとした平八郎の意図が窺われます。
長州藩吉田松陰はこの著作を「取りて観ることを可となす」と評価し、また薩摩藩西郷隆盛も禁書となったこの著作を所蔵していたことで有名な『洗心洞箚記』。
この義と愛に生き貫いた日本最高の陽明学者、大塩平八郎の偉大なる精神の足跡の書であり、陽明学の奥義を究めた陽明学者からの現代人へ宛てたメッセージに是非触れてみてください。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。
なお、原文がまとめられたサイトもありますので、こちらも参考にしてください。
山田準『洗心洞箚記』(抄)目次

『洗心洞箚記』 
【上巻】

・天とは、大いなるもの:内在神のことである。
・外界(現象界:環境)とは、自分の心の反映したものである。
・太虚に帰一するとは、今ここに生きることである。
・浩然の気とは、太虚に帰一する(今ここに生きる)ことであり、死んでも腐壊散滅したりはしない。
・良知とは、太虚(今ここに生きる時)の霊明(閃き:直感)である。
・意識を誠そのものにすることが、根本である。
・1日を1年(100年)と見做し、1年(100年)を1日と見做して生きる!
・敏徳(機敏な判断力:私欲から自由になる)は、大切である。
・向上とは仁(良知を発揮する)のことであり、仁(良知を発揮する)とは太虚という徳(今ここに生きる)のことである。
・日常生活は皆、実践倫理である。
・人格を、陶冶する!
・人民を、傷病者の如く大切に扱う!(『孟子』)
・虚(今ここに生きる:欲望から解放されている)なればこそ、万民の楽しみを自分の楽しみとする。
・仁とは、太虚であることの生命力(良知)であり、義とは太虚であることの成就であり、礼とは太虚であることの実現であり、智とは太虚であることの聡明さであり、信とは太虚であることの誠実さである。
・善について、認識と実践とを一致させる!
・志を確立すれば、理(行動パターン)の実践には道が開け実現する!
・いつも快活にすることが、病気の時の取り組み方である。(『伝習録』)
・集合(生:盛)すれば、必ず発散(死:衰)する。
・敬しむとは、自分の心を本来の至善に基礎を置く(今ここに生きる)ことである。
・肝腎なことは、人欲を捨て去って天理を保持する(今ここに生きる)ことである。
・太虚に帰一している人(今ここに生きている人)とは、有能なのに無能な人にも問い、豊かなのに乏しい人にも問い、持っているのに持っていないようにし、充実しているのに空っぽなようにし、危害を加えられても仕返しをしない人である。
・太虚(捉われ無き:今ここに生きる)を本体(根本)とし、人民を利済する(救う)ことを作用(働き)とする、そういう人は天(理想)そのものである。(陳継儒)
・理(理性:本来態:内側)と気(身体:現実態:外界)をバラバラにならないようにし、独りを慎み心を欺かない(今ここに生きる)修養を普段から行なう!

【下巻】

・太虚(大いなるもの:内在神)とは、仁義礼智信の5つの性が未分化なままのことである。
・学問をし始める幼少の時に自分さえよければいいという心(自我:エゴ)を捨てさせることが、教育者の責任である。
・真情と誠実がこもっていれば、君子は必ず親しみ信じる。
・無能な役人は、賄賂を貪る役人よりも害を及ぼすことは深刻である。(欧陽脩)
・真に義(太虚であることの成就)理(理性:本来態:内側)を楽しんで、利益欲望(自分さえよければいいと思う心:自我:エゴ)を忘れることだ。
・純一なる誠(誠実さ)を回復したならば、正義は自然と実現して心も正しくなる。
・良知(仁:太虚の霊明:今ここに生きる)を、日常生活での対応の場で発揮する!
荀子性悪説)は、現象としての陰陽(現実態:気)だけを見て、その本源である太虚:大いなるもの:内在神:本来態:理を見なかった。
・明徳を明らかにするためには、良知(今ここに生きる)を発揮し、他者との関係を正しくし、意識を誠にし、主体性を確立して、人格を磨き上げることである。
・親しむ(教養する)という働きかけをすることは、心を尽くし、性を尽くす(自己実現を図り、実力を発揮する)という偉大な学問である。
・民に親しむ(教養する)とは、民に仁(良知)することである。
・自己の人格を陶冶するとは明徳を明らかにすることであり、良知を発揮して自己の本来心を実現する(今ここに生きる)ことである。
・聖人賢者が心を発揮し尽くすとは、道心(良知:仁:太虚:大いなるもの:内在神:真我:今ここに生きる)を発揮し尽くすことである。
・独りを慎むという努力は、一瞬も怠ってはいけない。
・聖人は、天地万物を自分と密接に関係するものと考え、自分の首足腹背手臂ひと同様に見做す。
・天という太虚に帰一する(今ここに生きる)ことが、聖学における最高の努力の仕方である。
・道(公正な態度で)義(果敢に正義を)を実践することが、当たり前のことにする。
・平静(今ここに生きる)に、身を修める。(諸葛亮孔明
・太虚に帰一する人(今ここに生きる人)でなければ、仁義道徳という完全なる美を保持することは出来ない。
・心を正しくし、意を誠にする!
・誠であることが聖人の根本であり、万物はどれもが太虚としての誠に由来する。
・誠実な敬虔けいけんな心映えを保持する!
・虚(仁の源泉)とは天地の元祖であり、天地は虚であることに由来します。(張横渠)
書物を読んだならば、内容を自分で会得して実践することが大切である。
・山一面の樹木も、太極(太虚:大いなるもの)が現象したものである。(朱子
・学ぶとは、知識を身に付けることとそれを吾が身に切実に(自分自身のこととして)実践することを同時にすることである。
書物を読み学問するのは、もともと心(人格)を陶冶するためである。(朱子
・肉親のように人民をして危難に駆けつけるようにさせ、上に立つ人は人民を自らの赤児と同じように扱い、他人の為に謀る時には自分のことと同じように謀り、衆人の為に謀る時には家族のことと同じように謀ったならば、人民は自然に為政者を信頼するだろう。(張横渠)

RSS Feed

WordPress(feed) to Hatena Blog via email

IFTTT

老子より学ぶ!ありのままのあなたへ!

古代中国の春秋時代の思想家である老子(B.C.5世紀頃)の唱えた『道(タオ)』の思想は、戦国時代の荘子の無為の思想と並んで老荘思想と言われます。
老荘思想が最上の物とするのは「道」です。
「道」はこの世界のありとあらゆるものを生み出す根本原理であり、また天よりも上位にある物として使われています。
道教では、世俗的な欲望や物質的な価値を否定的に見て、人為的な計らいについてはただ何もせずに自然のままに生きる『無為自然』を重視します。
老子荘子は、世俗的な問題(地位・財産・権力・名誉・性欲)と関わらず『無為自然』を実践することが、人間の理想的な生き方(倫理)につながると考えました。
この世俗的な欲望(=煩悩)を否定して無為自然を勧める老荘思想は、釈迦の仏教でいう「諸行無常涅槃寂静」にも共通する部分があり、古代中国では「老荘の無為」と「仏教の涅槃」は同一のものと解釈される傾向にありました。
老子』『荘子』『周易』は三玄と呼ばれ、これをもとにした学問は玄学と呼ばれています。
荘子』については、こちらを参照ください。
荘子より学ぶ!何ものにも束縛されない絶対的な自由を求めて!
また『周易』は易経に記された爻辞、卦辞、卦画に基づいた占術ですので、以下を参考にしてみてください。
当たるも八卦、当たらぬも八卦 易経って何?
易経 実際に占う方法です
易経 実際に易を占ってみましょう。
易経 本来の在り方を知ることが大事です。
今回はそのうちの『老子』について、整理してみたいと思います。

老子は周王室の書庫の記録官だったとされますが実際には定かではありません。
東周の衰退を見て立ち去り、関所の役人の尹喜の依頼を受けて『老子(上下巻5000余字)』を書き残したと言われています。
老子』は、上下巻の最初の一字である『道』と『徳』から『老子道徳経』と呼ばれることもあります。

老子』は、人間の心のありようだけでなく、天地自然のなりたちや万物の根源についてなど、いわば自然科学的な視点から言及している点に特徴があり、知識や欲望はできるだけ捨て去り、人と争わず、ありのままに生きよ、という生き方が提唱されています。
老子』に見られるポイントは、時代の流れに取り残され、とまどっている人々に向けて、生きていくための処世術を教えたり、あるいは支配階層に向けて、不安定な時代に国をいかに治めていくかを提示する統治論として書かれている点にあります。
老子』には「頑張らなくていい」「ありのままのあなたでいい」といったメッセージが数多く含まれていますが、これは単なる「癒やしの書」としてだけでなく、乱世をいかに生き抜くかの「権謀術数の書」としての内容になっています。
老子』の思想は、常識に凝り固まった人々の考え方を打破し、煩雑な日常のしがらみから人々の心を解放する役割も持っていますので、これまでとは違った視点からの「もうひとつの価値観、生き方」の書として触れてみてはどうでしょうか。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【道経(上篇)】
【體道1】
道というのは、これまで言われてきた道ではない。名も従来の名ではない。天地の始まりには何も無かった。だから無名である。天地に万物が生まれ、それぞれに名が付けられた。有名である。したがって有名は万物の母である。
故に無は常にその奥深き妙を見せ、有は常に無との境を見せる。此の両者は同じ所から出て名を異にしているだけだ。どちらも玄妙で、玄のまた玄は見通せないほど深遠なものである。

【養身2】
天下の人たちは皆、美が何であるか知っているが、それだけではいけない。美の裏には醜があるのだ。皆は善がどういうものか知っているが、それだけではいけない。裏には不善があるのだ。このように有無はともにあり、長短、高下、音声、前後といった具合に、すべてに相対的なものがある。だから道の教えを体得した聖人は、事を為すに当たって何もせず、何も言わない。道は万物を生むが、それを誇りに言わず、それが育ってもそれを自分のものとしない。それを頼りにすることもなく、成功すれば、いつまでもその場にいない。

【安民3】
賢を尊ばなければ、民の競争はなくなる。財貨を重んじなければ,盗みはなくなる。欲望をかきたてる物をみせなければ、民は心を乱さなくなる。これによって道を体得した聖人の治世は,民の心を単純にし、食料を十分に与え、反逆の意思を弱くし、体を頑強にしてやる。常に民を無知無欲にし、智者には口出しさせない。無為の政策をとれば治まらない事はないのだ。

【無源4】
道は無であり、見ることは出来ないが、その働きは無限である。淵のように深く、まさに万物の宗主である。鋭い切っ先を表すことなく、世の複雑なもつれを解き、光を和らげて塵の中に混じりこんでいる。湛々とした水のような静かな姿だ。道がどこから生まれたのか知らないが,天帝より前からあったようだ。

【虚用5】
天地には仁慈というものはない。万物を祭壇に供える飾り犬と同じに見ている。祭礼が済めば捨てられるのを黙って見みているだけだ。聖人にも仁慈はない。民が飾り犬のように死ぬのを見ているだけだ。天地の間は鍛冶屋のふいごのようなものだ。中は空なのに動くと際限なく風を噴き出す。

【成象6】
神は不滅で、玄牝(女性)と呼ばれる。玄牝の門は天地の根源と呼ばれ,永遠に存在し続け、これをどれだけ使っても疲れをしらず、尽きる事がない。

【韜光7】
天地は長久であるが,長久であるゆえんは、自己のために生きようとしないからで,それで長生きするのだ。  それゆえ聖人も自分のことを度外視して、かえって身の安全を保つのだ。これはまさに無私無欲のためでなかろうか。そして結局は自分の目的を果たすことになるのだ。

【易性8】
最高の善は水のようなものだ。水はよく万物を助けて争わず、みなが嫌がるような低地にとどまる。この点は「道」に近いといえる。住居は低地に設け、心は淵のように深く、人との交流は水のように親しく、言葉は誠実で、政治は筋道を大切に、ものごとの処理は流水のように滑らかに、行動は時にかなう。そして争わず,これだからこそ災難は起きないのだ。

【運夷9】
手にもつ器に水を満たし,零すまいと心配するくらいなら,はじめから満杯にすることはないのだ。刃物は刃を鋭くすれば、刃こぼれがして長持ちしない。金や玉が部屋一杯になれば,どうしてそれを守るのだ。富貴で高慢になれば、自ら災難を招く。成功すれば,速やかに身を引く。これこそが天の定めた道なのだ。

【能爲10】
心と身体が一体となり、道から離れないようにしたいものだ。気を一杯にして無心な幼児のようになりたいものだ。雑念を払い、過ちなしに済ませるようになりたいものだ。民を愛し、国をおさめるに無為の精神でやりたいものだ。  自然が変化する中で、女のような柔軟さを保ちたいものだ。 四方のすべてを知りながら、何も知らないとするようになりたいものだ。  道は万物を生み、これを繁殖させ、成長してもそれを自分のものとせず、万物を動かしながら、それを頼りにせず、頭になって万物を支配することもしない。これこそ玄徳という。

【無用11】
車の輪、三十本のスポークが車軸から出て輪を作る。このスポークの間に空間があってこそ、車輪としての働きが出来る。泥土をこねて器を作り、器の中に空間があってこそ器としての働きをする。戸口や窓をうがって部屋を作り、その中の空間こそが部屋としての働きをなす。

【檢欲12】
色とりどりの美しい色彩は人の目を盲にする。耳に快い音楽は人の耳を聾にする。豪勢な食事は人の味覚を損なう。馬で狩をすることは、その楽しみが人を熱狂させ、珍しい物は人を盗みに走らせる。  そこで聖人は民の腹を満たすことだけを求め、民の目をくらますようなことをしない。

【猒恥13】
人が 寵愛と恥辱に心を騒がせるのは驚くほどだ。また病気、災難が身に降りかかるのを死ぬほどに恐れる。  寵愛と恥辱への関心が驚くほどというのは何ゆえか。寵愛は上で、恥辱は下という意識があり、寵愛を与えられると人は歓喜して喜ぶが、失うと驚愕して恐れののく。後に恥辱が待っているからだ。  身に及ぶ災難を死ぬほどに恐れるのは、どういうことか。私に大病など災難があるのは私に身体があるからだ。もし私に身体がなければ、いかなる災難が降りかかろうと構わない。  故に自分の身を天下より大切にする人には天下を与えるべし。天下より自分の身を愛する人には天下を託してよい。

【賛玄14】
見ようとしても見えない。これを『夷』」と呼ぶ。  聞こうとしても聞こえない、これを『希』と呼ぶ。  触ろうとしても触れない、これを『微』」と呼ぶ。  この三つのものは追求の仕様がない。なぜならそれは全く同じものだからだ。  茫漠としているが、上の方は明るくなく、下の方も暗くはない。ただぼんやりとして形容の仕様がなく、形のない状態に戻っている。この姿なき形を『恍惚』という。迎えてもその前が見えず、従ってもその後ろが見えない。  これが昔から続く『道』の姿で、今の『有』を支配し、これによって万物の始まりを知ることが出来る。これを『道の法則』という。

【顯徳15】
古のよき『士』たる人は神妙にして、すべてのものに奥深く通じ、理解しがたいほど慎重だ。それゆえ、ここはどうしてもその姿を描かねばならない。  彼はことをするに先立って、冬に川を渡るように慎重だ。  周囲を囲む隣国の包囲攻撃を防ぐように、防衛に熟慮を重ねる。  身を引き締め、常に客人のように厳粛で、春に氷が溶けるようにこだわりがない。まだ刻まれていない材木のように純朴で、奥深い山の谷のごとく広大だ。  水は濁って不透明だが、この水を徐々に平静に戻すことが誰に出来るのか。  これを久しく安定に保つためには、水を絶えず動かし、徐々に流さなければならないが、誰がそれを行えるのか。  それが出来るのは『道』をわきまえた人だけである。 『道』をわきまえた人は完全を求めない。それを求めないからこそ古きを守りつつ、新しい成功を得るのだ。

【歸根16】
出来るだけ心を虚にして、静寂を守る。万物は成長しているが、私はその循環を見守っている。万物は成長の過程でさまざまに姿を変えるが、最後にはそれぞれの元の出発点に戻って行く。  出発点に戻るのを『静』といい、また『平常』とも言う。『平常』を認識することを『明晰』と呼ぶ。  『平常』を意識せず、妄動すれば結果は凶と出る。『平常』を意識してこそ、すべてを包容できるのだ。すべてが包容されてこそ公平無私で、公平無私であれば、人は王となり人々は服従する。王は天理にかなう。天理にかなえば、それは『道』にかなったことを意味し、『道』にかなえば永遠で、終生危険に陥らない。

【猒淳17】
もっとも善い支配者は、民はその存在を知るだけである。  次に善い支配者は、民は彼に親しみ、これを賞賛する。   更に次の支配者は、民はこれを恐れる。  最低の支配者は民は彼を軽蔑する。信任するに値しないからだ。  もっともよい支配者は、ゆったりと、ほとんど命令せず、事がうまく行くと、民たちは『これは誰のおかげでもなく、自然にこうなったのだ』という。

【俗薄18】
大いなる『道』が廃れて『仁義』が生まれた。聡明な知恵者が出てはなはだしい虚偽が生まれた。  肉親が和せず、家庭が乱れてはじめて『孝慈』なるものが生まれた。  国家が混乱して、初めて『忠臣』なるものが生まれた。

【還淳19】
学者たちが言う小賢しい『聖智』を捨てれば、民の利益は百倍になる。『仁義』を捨てれば、民は『孝慈』を取り戻し、『巧利』を捨てれば盗賊は姿を消す。  この三条では筆足らずだ。そこで人が従うように補筆しよう。それは『表面は単純、中も素朴で,私心をなくして欲望を抑えることが大切だ』ということである。

【異俗20】
学問を捨てれば、憂いはなくなる。返答の『はい』と『おう』ではどれほどの違いがあると言うのだ。『善』と『悪』ではどれほどの違いがあるというのだ。 人の恐れることを恐れないわけには行かないが、この荒れた状況はいまだに終わっていないのだ。  多くの人は憂いもなく、盛大な宴席でご馳走を食べている、また高楼に登って眺めを楽しんでいるのに、私だけはひっそりと何の兆しもなく、まだ笑うことの出来ない幼児のような惨めな顔で,帰る家もないかのようだ。  他の人は有り余るものを持っているのに、私だけは乏しい。 私は全くの愚か者のようだ。のろまで,他の人は明晰なのに、私は悶々としているだけだ。他の人は広々とした海にように、吹きぬける風のような才能を持っているというのに、私はかたくなで,幼くつたない。  だが,私一人がそうである訳は、私は他の人と違って,母である『道』に抱かれているからだ。

【虚心21】
大いなる『徳』の中身は『道』に一致している。『道』というものは目に見えず、漠然としている。だがその漠然とした中に実体がある。暗く深い、その中に微かな精気がある。この精気は具体性があり、真実がある。 古より今に至るまで,その名は消えず、それにより万物の始めを知ることが出来るのだ。  私がどうして万物の始まりの有様を知るのか、その根拠はここにある。

【益謙22】
木は曲がっていると、材木にならないため伐採されずに完全さが保たれる。 身をかがめていると、かえって真っ直ぐと身を起こすことが出来る。  土地が人の嫌がる低い窪地であれば、かえって水が満ち、物は古ぼけていると,作り直され新しくなることが出来るのだ。 物が少ないと逆に得ることが出来、多いとかえって迷ってしまう。  これをもって,聖人は『道』を天下を占う道具の『式』とする。自分の目で見ないため、逆にはっきりと分かり、自分を正しいとしないために,物の是非がはっきりとする。 自ら誇らない、だから成功する。うぬぼれない、だからこそ導くことが出来る。人と争わない、だからこそ天下に争うものがいないのだ。  『木は曲がっていると、かえって完全さが保たれる』という古言はまさに虚言でない。真にこうして証明できるのだ。

【虚無23】
言を少なくすることは自然なことである。疾風も朝の間にはやみ、にわか雨は一日中、降り続けることはない。誰がそうさせているのか、天と地である。天地の力をもってしても続けられないものをどうして人間に出来ようか。  道を得た人は、他の『道を持つ人』と同じくし、『徳』ある人があれば同じく『徳』を求め、どちらも持たない人があれば、それと同じくする。  『道』を同じくすれば、彼の人も『道の人』を得たいと願う。  『徳』を同じくすれば、彼の人も『徳の人』を求める。  何も持たない人は、同じような仲間を求めようとする。  人と協調して生きるには、自分を空しくしなければならぬ。信頼されなければ、信任されないということはこういうことだ。

【苦恩24】
背伸びしてつま立ちすれば,しっかりと立つことが出来ない。  早く行こうと大股で歩けば、かえって早く行けない。  自分の目だけで見ようとすれば、かえってはっきりと見えない。  自分を正しいと固執すれば、かえって是非が分からない。  自ら誇るものは成功しない。  自惚れるものは導くことができない。  これらのことは「道」の原則を知る人には役立たずの余計なものだ。  余計者は嫌われるが、「道」を得た人は原則を知るから、こうしたことになら ない。

【象元25】
天地に先立つ前から,混然となったものがあった。  音もなく形もないが,どこまでも独立した,誰にも頼らない存在で,とどまることなくぐるぐる巡る。それは天地万物の母とみなして良い。  私はその名前を知らないが、それを『道』と呼び、しいて名をつけて『大』と呼んだ。『大』は成長すれば去っていき、宇宙のはるか遠くに行って再び元に戻ってくる。 『道は大、天は大、地は大、人も大』という。宇宙に四つの『大』があり、人もそのひとつを占める。  『人』は地の法にのり、『地』は天の法にのり、『天』は道の法にのる。『道』はそれ自身、すなわち『自然』の法にのる。

【重徳26】
重いものは軽いものの基礎であり,静かなものが騒がしいものを抑える。 聖人は終日行軍しても、部隊の中央にある糧秣を運ぶ輸送部隊を離れることがない。道中に華やかなものが有っても,目を奪われることがなく,悠然としている。 万を越える兵の部隊を動かす君主であるのに、どうして身を天下より軽んじるのか。(身を軽んじてはいけない)身を軽くすれば本元を失い,騒げば落ち着きを失うのだ。

【巧用27】
行進の進め方がうまいと車のわだちを残さない。  言い方がうまい人は,失言もなく欠点を見せない。  計算がうまい人は、計算棒を使わずに計算できる。  門を閉めることのうまい人は、かんぬきを使わず開けることが出来ないように出来る。  結び方のうまい人は,縄を使っていないのに、ほどけなくする。  聖人は何時もうまく人を使うため、初めから無用の人はいない。  聖人は何時もうまくものを使うため、初めから無用なものはない。  これを内なる聡明さという。  善人は悪人の師であり、悪人もまた善人の反省の手本になる。  自分の師を尊ばず、手本を大切にしなければ、自分は智者と思っていても,本当は愚かなのだ。   こういうことを「奥深き原理」という。

【反朴28】
何が雄々しきか知っていても、柔和な牝の姿勢を守れば、天下の谷(古代の尊敬の対象)として人々の尊敬を得る。  天下の谷となれば、常に「徳」と離れることなく、乳児のような単純さに帰る。  白い輝きを持つことを知っていても、暗い位置に安んじて居れば,天下の『式』(古代の占いの道具)となる。天下の『式』となれば、『常徳』と違うことなく究極の真理に至る。 何が栄誉であるかをわきまえ、甘んじて屈辱の位置に身を置けば、周囲の信望を集める『谷』となる。周囲の信望を集めれば、『常徳』が身について,素朴な材木の状態に帰る。  材木は小さく削られると器になるが、聖人がこの材木を用いると人を統率する官長となる。とかく木を切ったり、削ったりの無理をしないのだ。

【無爲29】
誰かが天下を手に入れ、治めようと画策しても、私はそれが実現するのを見たことがない。天下は治めることが難しいものだ。何とか治めようとしても逆に壊してしまい、何とか掌握しようとしても逆に失ってしまう。  物事は有るものは先に進み、あるものは後ろに付き添い、あるものはそっと吹き、あるものは強く吹く。あるものは少し傷つき,あるものはすっかり壊れるなど,すべてのものは相対的で,片方だけに荷担することは出来ない。だから聖人は極端なもの、贅沢なもの、度を過ぎたものだけを取り入れず捨て去り、後は何もせず自然に任せるのだ。

【儉武30】
『道』を用いて君主を援けようとする人は,武力によって天下に覇を唱えようとしない。武力を用いれば必ず報復を招くからだ。 軍隊が駐留した場所は,撤収した後の田畑に茨が茂り,大きな戦いの後には必ず凶作がやってくる。 勝利すればそれだけで良く、その後は武力による強さを見せ付けないことだ。勝利しても,うぬぼれず、誇ることなく、高慢になってはいけない。武力で勝利すれば,やむを得ずこうなったと考えるべきで、強がってはいけないのだ。 ものごとは盛んになれば、必ず衰退に向かう。これは『道』にかなっていないからだ。『道』にかなっていなければ、必ず速やかに滅亡する。

偃武31】
『軍隊』、この不吉なものは誰もがその存在を憎む。だから『道』を備えた人は,それに近ずかない。 君子は普段のときは『左側』を尊び、武力を用いるときは『右側』を尊ぶ。 『軍隊』という不吉なものは君子が用いるものでなく、やむを得ずそれを用いても,利欲にかられず、あっさりと使うのが一番だ。 たとえ勝利しても、それを良としない。もし良とするならば、それは殺人を楽しんでいることになる。殺人を楽しみにする人は,天下に志を遂げることは出来ない。 吉事には『左側』を尊び、凶事には『右側』を尊ぶが、軍隊では副将が左に座席し、大将は『右側』に座席する。 つまり戦争は常に葬儀の作法によって行われるのだ。戦争では大勢の人が死ぬため、その哀悼の意味で、軍では戦いに勝利しても常に葬儀の作法がとられるのだ。

【聖徳32】
『道』は永遠に『無名』である。手が加えられていない素材のようなものだ。 名もない素材は小さいけれど、誰もそれを支配することは出来ない。  王侯がそれを持ち、守ることができるなら、万物はひとりでに王侯に従うことになるだろう。 天と地は相合し甘露を降らせるが、誰かが甘露に命じて広くまんべんに降らせているのでなく、ひとりでにまんべんに降っているのだ。  管理が始まると名前が出来る。名前が出来ると適当なところでとどめる事を知らねばならぬ。『限度』である。限度を知るならば、危険を免れることが出来るのだ。  『道』は天下に有るすべてのものが行き着く所だ。すべての谷川が大河、海に流れ込むのと同じである。

【辯徳33】
他人を理解できるものを『智』といい、自己を知るものを『明』 という。聡明である。  他人に勝つ者を『力』が有るといい、自己を克服できるものを『強』という。真の強者である。満足を知る者は富み、努力する者を『志』が有るという。よりどころを失わない者が永続し、死んでも『道』の精神を保っている人は滅びず、これを真の長寿者という。

【任成34】
『道』は水が氾濫するように、左右に広がり流れる。万物はこれを頼りに生まれて出てくるが、『道』はこれを拒まず、その功を名乗ろうともしない。 『道』は万物を慈しみ育てながら、それを支配しようともしない。  常に無欲なので、とりあえず『小』と名付くが、万物はすべて『道』に帰服して、しかも『道』は主とならないのだから、これは『大』と名付くべきなのだ。  これゆえ聖人は常に謙虚で『大』として振る舞わない。ゆえに人々は聖人に帰服し、『偉大なる存在』として尊敬するのだ。

【仁徳35】
『道』を守って天下を行けば、どこへ行こうと害はなく、平穏無事である。 宴席の音楽と豪華な料理は旅人の足を止めさせるが、『道』の話はそれを説いても味わいがなく、見えず、聞いても聞こえない。だが用いれば、効用は無限で使い切れないのだ。

【微明36】
ものを縮めたければ、逆にしばらく伸ばしてやる。 弱めたければ、しばらくこれを援けて強くしてやる。 廃止しようと思えば、しばらくこれを放置しておく。 こういうやり方は奥深き叡智という。こうして柔軟なものが剛強なものに勝つのである。 魚は深い淵から出て行けないのと同じく、こうした国の戦略は他国に見せてはいけない。

【爲政37】
『道』はその基本原則の『無為』により何もなさないように見えるが、実はあらゆるものを成し遂げているのである。  王侯がもし『道』による『無為自然』の原則を守っていれば、万物は自から伸び伸びと成長する。  だが成長の途中で、王侯が欲を出し作為的なことをしようとすれば、私は『材木のような素朴な心に帰れ』と諌めるだろう。  王侯が材木のように素朴で、無欲な状態になれば、すべての者が無欲無心になり、そうすれば天下は安定する。

【徳経(下篇)】
【論徳38】
最も高い有徳者は『徳』を行っても、それを『徳』として意識しないため、ここに本当の『徳』がある。低い有徳者は『徳』を意識して、それを見せびらかそうとするので『徳』はない。  高い有徳者は作為的でなく、それを施したという意識がない。低い有徳者は作為的で、しかも『徳』を施したと意識している。  本当に『仁』のある人は、それを行動しても『仁』を為したとは意識しない。  『義』を守る人は、それを行動で表わすが、常に『義にもとずいた行動をとった』と意識している。  『礼』を守る人は、それをはっきりと行動に表わし、相手がその『礼』に応じないと、ひざをつついて返礼を要求する。  これゆえ『道』が失われて『徳』が現れ、『徳』が失われて『仁』が現れ、『仁』が失われて『義』が現れる。こうして『義』が失われた最後に『礼』が現れるのだ。  そもそも『礼』というものは忠信が薄れた結果生まれるものなので、争乱の元になるものだ。  また人より前に知るという前識者の『智』は、偉大なる『道』を飾る造花のようなもので愚の始まりだ。  これをもって男丈夫は、このような『仁』『義』『礼』『智』という薄っぺらなモラルに執着せず、華を捨て実を取るのである。

【法本39】
最初に『道』から生まれた一つの生気のようなものが有った。 『天』はこれを得て清く、『地』はこれを得て安定し、『神』はこれを得て霊妙 になり、『谷』はこれを得て充実し、『万物』はこれを得て生き、『王侯』はこれを得て天下の頭になった。  天が清くなければ、恐らく避けてしまう。  地が安定してなければ、やがて崩れてしまう。  神が霊妙でなければ、恐らく力を失う。  谷が水で満たされなければ、すべてが枯渇してしまう。  万物が生育できなければ、あらゆるものが死滅する。  王侯が最高の地位を保てなければ、国は滅びてしまう。  身分の高い人、地位の高い人、つまり貴族や高官にとって身分の低い、卑しい庶民は彼らの根本であり、高さは低きをもって基礎とする。  これゆえ、王侯は古代から自分の事を『孤』(孤児)、『寡』(独り者)、『不穀』  (不幸)と自虐的に賞したが、これは貴さは卑しさをもって根本となすという考えからではなかろうか。  ゆえに多くの栄誉を求めると、かえって栄誉はなくなる。高貴な美玉になろうとは望まない。つまらない普通の石でよいのだ。

【去用40】
元に戻そうとするのが道の運動法則なのだ.。 柔弱なのは道の作用である。  天下の万物は有より生じ、有は無より生じる。

【同異41】
上士は道を聞けば、勤めてこれを行う。   中士は道を聞けば、半信半疑と成る。  下士が道を聞けば、話は大きいが中身がないと笑う。  だが、彼らに笑われなければ、本当の道でないのだ。  古の人はこう言っている。  『明るい道は暗く見え、前に進んでいる道は後ろに退いているように見える。平らの道は凸凹と険しく見える。  高い徳は俗っぽく見え、輝いている白は汚れて見え、広大な徳は何か欠けているように見え、健全な徳は悪賢く見え、純真な性格は移りやすく見えるものだ。  大きな四角は角がなく、大きく貴重な器物はなかなか完成しない。  とてつもなく大きい音は耳に聞こえず、限りなく大きいものは、その姿が見えない』と。  道は無名であるが、この道だけが万物を援け、よく育成しているのだ。

【道化42】
『道』は統一した『一』を生み出し、これが分裂して『二』が生まれる。対立する『二』は新しい『三』を生み出し、この第三者が万物を生み出す。  万物には『陰』と『陽』の対立する二つの局面があり、『陰』と『陽』はその中に生まれた『気』によって調和されている。  人が嫌う言葉は『孤』(孤児)、『寡』(独り者)、『不穀』(不幸)だが、王侯たちはそれを自称として使っている。  物事は常に、損は益に、あるいは益は損にと絶えず変化しているが、これが変化の法則である。私も人々が教えあっていることを教えよう。 『強固なものはろくな死に方をしない』と。これを教えの始まりとする。

【偏用43】
世の中で最も柔らかいもの(水)が、最も堅いものを制圧している。形の無い物は(岩盤のような)隙間のないもの所にも入っていけるからだ。  私はこれをもって『無為』の益を知る。『不言』の教え、『無為』の益は、天下でこれに及ぶものはない。

【立戒44】
名声と生命とでは、どちらが身近か。 生命と財産では、どちらが重要か。 得ることと、失うことではどちらが有害か。 こうしてみると、自分の体の健康を守ることが最も大切あることが分かる。  名誉や財産への愛着も度が過ぎ、惜しめば逆に多くを費やすことになる。蓄えすぎると帰って大きな損失を受ける。  満足することを知れば、辱めに合わずに済み、適当にとどめる事を知れば、危険に会わずに何時までも安全でいられる。

【洪徳45】
真に完成したものは、何か欠けているように見えるが、その働きは損なわれていない。 真に充実しているものは、中が虚ろのように見えるが、その働きはきわまる事がない。  最も真っ直ぐなものはゆがんで見え、最も器用なものは不器用に見える。最も優れた弁舌は、口下手に見える。 激しい運動をすれば冬の寒さに勝て、安静にしておれば夏の暑さに勝てる。無為で静かであれば、天下の模範になる。

【儉欲46】
天下に『道』が行われれば平和に成り、軍馬は耕作に使われる。 天下に『道』が行われず、戦乱が続けば、身ごもった母馬も狩り出され、国境の戦場で子を産むことになる。 罪は満足を知らない為政者の欲望より大きいものはなく、災は飽く事のない欲望より大きいものはない。 ゆえに、足るを知る事によって永遠に満足するのだ。

【鑒遠47】
聖人は門を出ないで、天下の事を知ることができる。窓の外を見ないで天の動きを知ることができる。 普通には遠くに行けば行くほど、知る事はいいかげんになるものだが、聖人は行かずして知り、見ずして分かり、行わないで成功するのだ。

【忘知48】
学問をすれば、日一日と知識は増える。だが『道』を修めれば、日一日と知識は減っていく。減らしに減らすと『無為』に至る。  『無為』をもって為せないものはない。天下を取るには常に無事が大切で、それを作為的に行えば、とても天下は取れない。

【任徳49】
聖人には固執した考えはない。民の意思をもって自分の意思とする。民が善と認めたものを善とするが、不善なるものも善とする。その人の心がけによって何時でも善が得られるからだ。  民が信じる人を信じるが、信じられないものも信じる。その人は心がけによって今後信を得る事ができるからだ。聖人は天下にあって、注目して見守る民の心を混沌とさせ、無知無欲の乳児のようにしてしまうのだ。

【貴生50】
人は生まれたら必ず死に向かう。長生する人は十分の三あり、早死にする人も十分の三ある。そのままなら生きていたのに、下手に動いて死ぬ人も十分の三ある。これはなぜか、生への執着があまりにも強いからだ。 かつて聞いた。『善く生を全うする人は陸地を歩いても犀や虎に会わず、戦場でも殺される事はない』と。  その人には犀も角を使えず、虎も爪を使えず、敵兵は武器を使えない。これはなぜか、彼が生に執着しないため、死の境地に入る事がないからだ。

【養徳51】
道が万物を生み出し,徳が万物を養育し、万物に形を与える。こうして万物が完成する。それゆえ万物は道を尊び、徳を重視するのだ。  道が尊敬され、徳が重視されるわけは,誰が命令したというより、昔から自然にそうなっているからだ。  こうして道が万物を生み出し、徳が万物を育て、万物を成長させ、万物に実を結ばせて成熟させ、保護するのである。  万物を生み育てながら自分の物とせず、万物を育てながら自分の力のせいだとせず、万物の頭になって彼らを支配したりしない。  これこそがもっとも深遠な『徳』なのである。

【歸元52】
天下の全てのものには皆、始まりがある。この始まりを天下の万物の根本とする。  万物の根本である母(道)を認識したからには、その子(万物)も認識できる。  万物を認識したからには、さらに根本をしっかりと守らなくてはならない。そうすれば終生危険は無い。  道を修めるには、知識や欲望の入る耳、目、鼻、口などの穴を塞ぐ。門を閉ざせば終生病は発生しない。穴を開き、知識、欲望の入るに任せれば、もはや救いようが無い。  小さな兆しを観察できる事を『明』と呼び、それに対応し柔軟さを保持する事を『強』という。  蓄えられている『光』を用いて、真の『明』に復帰すれば、身に災いは発生しない。これを『永遠の道を習熟した』という。

【益證53】
もし私に英知があり、『道』にもとずいた政治を行うとしたら、私は煩わしい政策をやたら施行しない。  大きな道は平らであるが(途中に検問所や通行税の徴収所などがあったりして)、人々は(そうしたものの無い)小道を選ぶ。  宮殿は非常に美しく清められているが、田畑は荒れ放題、民の倉庫は空っぽなのに、王侯、貴族たちは美しい着物を着て、鋭い剣を帯びている。  おいしい食べ物にも飽き、有り余る財産を保有する。まさに『非道』な話ではないか。

【修觀54】
うまく建てられたものは,揺り動かされず、うまく抱えられたものは,抜け落ちない。こうして子孫は安定し、何世代に亘って祭祀し絶える事が無い。 この原則を個人の単位で実践すれば、その徳は真になる。 家の単位で実践すれば、その徳はあまるほどになり、繁栄する。 村の単位で実践すれば,村は長く繁栄する。 国の単位で実践すれば、その国は豊かになる。 天下の単位で実践すれば、平和があまねくゆきわたる。 こうして人は個人の単位で自分を認識し、家の単位で家を認識し、村の単位で地域を認識し、国の単位で国を認識し、天下の単位で天下を認識する事が出来る。  どのようにして天下の状況を知るかは,これによって測るのである。

【玄符55】
『徳』を厚く中に秘めている人は,無知無欲の乳児と同じだ。毒虫も彼を刺さず、猛獣も彼を襲わず、猛禽も彼を攻撃しない。 彼の骨は弱く、筋肉も柔らかいが、手をしっかりと握っている。 彼は男女の交合も知らないのに、彼の性器は何時も立っているが、それは精気があふれているからだ。 彼が一日中、泣き叫んでも、声がかれる事が無いのは、彼が『和』の気を持っているからである。 『和』は平常心をもたらし、平常心を持つ事を『明晰』という。精気が増す事は喜ばしく、元気になることを剛強になると言うが、物事は剛強になると、必ず衰退に向かう。精気を増す事、元気を増す事に執着し,無理に剛強になることは『道』にかなっていない。『道』にかなっていないと必ず速やかに滅亡する。

【玄徳56】
道を知る人は言わず、言う人は道を分かっていない。 目、耳、鼻、口など(知識の入る)穴を塞ぎ、門を閉ざして鋭い切っ先を表すことなく、いろいろな世間のもつれをといて、その輝きを和らげながら、塵の中に混じっている。こういうものを『玄同』(道)という。 これを持つ人には気易く近ずけないし、遠ざかり疎んじることも出来ない。 利益を得させてもいけないし、損害をかぶらせてもいけない。むやみに彼を尊ぶこともいけないし、彼を卑しめることも出来ない。こういう人だからこそ、天下の人から尊敬されるのだ。

【淳風57】
正しい方法で国を治め、戦争では奇略を用い、無事に天下を統一する。私にどうしてその事が分かるのか、その根拠はこうである。  天下に禁令が多くなればなるほど民はますます困窮する。  民間に武器が多くなればなるほど、国家は混乱する。  技術が進めば進むほど、怪しげなものが出てくる。  法令が行き亘れば、行き亘るほど、盗賊が増える。  だから聖人は言う。『私が無為であれば、民は自ずと従順になり、私が平静を好めば、民は自ずと正しくなる。私がなにもしないと民は自ずと裕福に成り、私が無欲であれば、民は自ずと純朴になる』と。

【順化58】
政治が大まかだと、民は温厚になる。  政治が細かく厳しいと、民は不満を高める。  災禍には幸福が寄り添い、幸福には災禍が潜んでいる。  誰が終局を知っているのだろう。定まるところは無いのだ。  正常は何時でも異常になるし、善は何時でも怪しげなものに変化する。このため人が迷うのは遠い昔からだ。  こうしたわけで聖人は、正しくあっても無理をせず、厳しくあっても人を傷つけず、素直であっても無遠慮でなく、明るく輝いてもきらびやかでない。

【守道59】
人を治め、天に仕えるには『節約』の精神に勝るものは無い。  常に『節約』しているからこそ、どんな事に出会っても、それに早々と対応する準備が出来るのだ。  どんなことに出会っても、落ち着いて早々と準備が出来るのは、それは『節約』という徳が積み重ねられているからだ。 『節約』という徳が積み重ねられていると、いつでも勝利する。いつでも勝利するから、その力は計り知れない。  この計りようのない力があってこそ、国家の政治が管理できるのだ。  国の根本を大切に保てば、統治は永久に維持できるだろう。  それで言う『根を深く、しっかりと堅くすること、それが長寿の道である』と。

【居位60】
大国を治めるには、小魚を煮るように、余り箸でかき混ぜないことだ。(いたずらにいろいろな施策をしない)。 『道』を用いて(無為の精神で)天下を治めれば、精霊の鬼も力を発揮しない。 鬼が力を発揮しないのでなく、その神通力では人を害することが出来ないのだ。 いや、その神通力が人を害せないのでなく、聖人が人を害することがないため、聖人と鬼が互いに害し合うことがないのだ。 こうして聖人と鬼とは互いに『徳』を共有する。

【謙徳61】
大国はたとえれば河の下流である。天下のすべての物が行き着く所 であり、いわば天下の牝である。  牝が何時も牡に勝つのは、牝が穏やかに下にいるからだ。  大国が小国に身を低くして接すれば、小国の信頼を得る。  小国がへりくだって大国に接すれば、大国の信任を得る。  それゆえ時には大国がへりくだって小国の信頼を得、小国は時には大国にへりくだって大国の信任を得るのがよい。  大国は小国の面倒を見たいと欲しているに過ぎず、小国は大国に仕えたいと思っているだけなのだ。  それで大国も小国もともに望みが満たされるわけだが、大国はとくに上手にへりくだるべきである。

【爲道62】
道は万物の奥にあって、善人の宝物であり、悪人もまた持ちたいとするものである。  悪人がこれを持つと、口先上手に人々の尊敬を得て、にこやかな顔で人の上に立つ事が出来るからだ。しかし、たとえ悪人であっても、それを悪人だからといって捨て去ってよいものではない。  天子が即位し、補佐する大臣が決まると、天子を象徴する宝物を先頭にした四頭立ての馬車が献上される儀式が行われるが、そうしたものより、献上者は天子の前に座して『道』を勧めるだけの方が善いのだ。  昔から『道』を尊ぶゆえんは、求めるものが必ず得られ、罪のあるものも許されるといわれるでないか。だから天下の人々に尊ばれるのだ。

【恩始63】
無為とは何もしないことではなく、事態が困難になり、問題が重大にならないうちにそれを見越して人の知らない手をうっていくのである。だから何もしないように見えるのです。

【守微64】
ものごとは大事に至らない微小なあいだにうまく処理すべきです。それでこそ無為の実践が可能なのです。

【淳徳65】
「道」をりっぱに修めた昔の人は、それによって人民を聡明にしたのではなく、逆に人民を愚直にしようとしたのです。

【後己66】
大河や海が多くの川谷の王者になれるのは、これら尊ばれる川谷の下流にあるからで、それで王者になれるのだ。  これゆえ、民を治めようとすれば、まず最初に言葉でその謙虚さを示さなければならない。  民を指導しようとするなら、必ず自分を民の後ろに置かなければ成らない。  それゆえ「聖人」は民の上に立って治めても、民はその重さを感じない。民の前に立って指導しても、民の目の妨げにならない。  こうして天下の民は彼を上に戴きながら、彼を嫌う事は無いのだ。 彼は争わないので、彼と争っても勝てるものはいない。

【三寳67】
人々は私に言う。私の説く『道』は広大だが、他に似たものが無、いと。まさにそれが広大なるゆえんで、広大なるがゆえに似たものが無いのだ。  もし似たものがあれば「道」はずっと昔に、はるかに小さな物になっていたはずだ。  私には三つの宝があり、私はそれを大切にして守っている。  その宝は第一が『慈愛』、第二は『慎ましさ』、第三が『人々の先に立たない』ということだ。  慈愛があるから逆に勇敢になれ、慎ましいから逆に広く行え、天下の人と先を争わないからこそ頭になれるのだ。  だが、慈愛を捨てて勇敢のみを求め、慎ましさを捨てて広く行う事に執心し、譲る事を捨てて先を争えば、その結果は滅亡があるだけだ。  『慈愛』それを戦争に用いれば勝てるし、防衛に用いれば堅固になる。  天が人を救おうとする場合、『慈愛』で守るのだ。

【配天68】
優れた『士』は猛々しくない。よく戦うものは怒らない。よく勝つものはやたらに敵と戦わない。人をうまく用いるものは、人に対して謙虚な態度をとる。 これを『争わない徳』といい、『他人の力を用いる』といい、『天の道』にかなうという。これは昔からの規則なのだ。

【玄用69】
兵法の言葉に『戦は先に仕掛けてはいけない。守勢の立場を取り、一寸進むより、一尺退いて守れ』と。これを相手側から見れば『攻めるに敵の陣営がなく、つかんで持ち上げる敵の腕も無く、前に敵がいないから使うべき武器が無い』という。  敵の力を軽んじるより大きな災いはなく、敵の力を見くびると、先の三つの宝は失われてしまうだろう。ゆえに両軍の勢力が等しい場合には、兵の苦労を思い、先に退いた方が勝つのだ。

【知難70】
私の言葉は大変わかりやすく、大変実行しやすい。だが理解できる人は無く、実行できる人もいない。議論には主旨が必要で、ものごとを行うには主体者がいなければならない。  人々はそれを理解できないから、私の言う事を理解できない。  私の言う事を理解できる人は少ないから,私に習おうという人はほとんどいないが、それだけに,それらの人は尊いといえる。  それゆえ「聖人」は、外には粗末な着物を着ていながら、中に美玉をしのばせていると言うのだ。

【知病71】
知らざるを知ることは上等だ。知りながら、知らざるとする事は欠点である。この欠点を欠点だと気付くと、その欠点は解消する。 「聖人」には欠点が無い。彼は自分の欠点を欠点と考えるから欠点が無いのだ。

【愛己72】
民が天の権威を恐れないならば、恐ろしい天罰が下されるだろう。  自分の住むところを狭いとせず、自分の生計の道を嫌がってはならない。  自分で嫌がらないから、人から嫌がられないのだ。  聖人はただ自己を知ることのみ求めて、自分を表に出さず、自己を愛しても、自分を尊いとはしない。  だから私も自分を表わす事を捨てて、自己を知ることを取るのだ。

【任爲73】
(悪人がいた場合)あえて勇気を持ってこれを殺すか、勇気を持ってこれを殺さずに置くか、この二つは一つは利になり、一つは害になる。天が憎むのはどちらか分からない。誰も天意がどこにあるのか分からないのだ。聖人にとっても、この判断は難しい。  「天の道」は争わずして勝ち、言わずして万物の要求によく応じ、招くことなくやって来させ、ゆっくりとしながらも,うまく計画する。  天の網は広大で網目は荒いが、決して漏らす事は無い。

【制惑74】
民が死を恐れないならば、どうして死刑でもって民を脅かす事が出来るのか。 民が死を恐れるような(平和な)状態で、それでもなお不正を働く者がいるときは,そいつらを捕まえ殺す事が出来れば、誰も不正をしなくなるだろう。  死をつかさどるものは(天の命じた)死刑執行人だが、この死刑執行人に代わって人を処刑するのは、大工を真似て木を削るようなものだ。素人が大工を真似して木を削り、手を負傷しないことはありえないのだ。

【貪損75】
民が飢えるのは、お上が税を取り過ぎるからだ。だから民は飢えに苦しむ。  民を治めるのが難しいのは、すべてお上の行う政治からきている。民が自分の生命も省みず、抵抗するのは,お上が自分の生活を豊かにする事ばかり考えているからだ。だから民は自分の命を捨てても抵抗するのだ。  為政者としては、自分の生活を重んじない人の方が、自分の生活を重んじ過ぎる人よりはるかに賢明だ。

【戒強76】
人が生きている時、身体は柔軟だが、死ねば硬直する。  草木の生きている時は枝や幹は柔らかく脆いが、死ぬと枯れて堅くなる。  ゆえに堅固なものは死に、柔軟なものは生きる。  この事から軍隊は強大になれば何時か敗れ、枝も強大になれば折れる。  つまり剛強さが劣勢となり、柔軟さが優勢となるのだ。

【天道77】
天の道は弓を引いて的を射るのに似ている。的の矢が高過ぎれば、低く撃ち、低過ぎれば緩め、引き足りなければ、強く引く。  天の道は、余分を減らして不足を補う。人の場合はそうではない。足りずに苦しんでいる方から取って、余りある方に与えている。  有り余っている方を減らして、足りない方に与えることができるのは,一体誰だろうか。それは道を得た人だけだ。  聖人は万物を動かして自分の所為とせず、業が成功してもその成果に無関心で、自分の賢さをひらけかそうともしない。

【任信78】
天下には水より柔軟なものは無いが、堅強なものを攻撃する力で水に勝るものが無いのは、これに変わるものが無いからだ。  弱きが強きに勝ち、柔らかさが堅さに勝つ事は、天下の誰もが知っているが、実行できるものはいない。   ゆえに『聖人』は言う。『身を低くし,国中の屈辱を引きうけてこそ天下の王者といえる』と。  どうも正しい言葉は常識に反しているように見えるようだ。

【任契79】
大きな怨みは、どれだけ和らげても、必ず恨みが残る。これではとても『善』とは言えない。  これゆえ『聖人』は借金の証文を取っても、決して返済を厳しく要求しない。  徳のある人は、借用証書を握っているかのように落ち着き、徳なき者は税吏が税を取りたてるように,せっかちに責めたてる。『天の道』は決してえこひいきしないが、常に善人を助ける。

【獨立80】
国を小さくし、民を少なくする。  さまざまな道具はあるが、使用する事はない。 民の生命を重んじて,遠くに移り住まわせない。船や車はあるが、これに乗っていく所はない。  鎧,刀など武器はあるが、これを集めて軍隊にする事はない。   民には古代のように縄を結んで記録する方法を取らせている。  食べ物はおいしく、着るものはきれいだ。住まいも気持ちよく、皆,風俗になじんでいる。  隣国とは互いに望見する事は出来るし、鶏や犬の声も聞こえてくるが、老いて死ぬまで互いに行き来する事はない。

【顯質81】
真実の言葉は美しくなく、美しい言葉は真実でない。  善き人はうまく話せず、うまく話す人は善き人でない。  本当を知る人はひらけかさず、ひらけかす人は知っていない。  『聖人』は何も蓄えず、全ての力を人のために出し、かえって豊かになる。  『天の道』は万物に利益を与えて、害を与えることはない。   『聖人の道』は何をするにも人と争う事がない。

RSS Feed

WordPress(feed) to Hatena Blog via email

IFTTT

宋名臣言行録より学ぶ!名臣の言行から学ぶ未来の国のあり方、私達の生き方!

宋名臣言行録』は、宋代に活躍した名臣の言行を、朱子とその弟子李幼武とががまとめた中国古典の伝記集です。
貞観政要』と並び、帝王学の二大テキストとして取り上げられることもあるほどの書物で、明治天皇伊藤博文、他維新の名臣も愛読されたといわれているほどの名著です。
※)『貞観政要』については、以前に整理してあるので、参考にしてみてください。
 貞観政要より学ぶ!我が身を正す十思と九徳!

「前集」 10巻、「後集」 14巻 (以上朱子の著) 、「続集」8巻、「別集」 26巻、「外集」 17巻 (以上李幼武の著) から成りますが、一般に『宋名臣言行録』というと、朱熹の編した「前集」 の『五朝名臣言行録』と「後集」 の『三朝名臣言行録』の二つを指すようです。
『五朝名臣言行録』は北宋の太祖・太宗・真宗・仁宗・英宗を、『三朝名臣言行録』は神宗・哲宗・徽宗を記した、いわゆる北宋の名臣97人の言行を記録した書物です。
ちなみに、李幼武の『宋名臣言行録』は朱熹版の続編となっていますが、収録範囲は北宋末期(徽宗末期)~南宋最初期に限られるようです。
・続集(8巻):北宋末~南宋初期に活躍した政治家が中心
・別集上(13巻):北宋末から南宋前半に活躍した人々
・別集下(13巻):南宋政権確立に活躍した文武官
・外集(17巻):道学者の伝記

こうした名臣の言行をまとめた書物などを読んでいると感じるのは、今の時代の政治家や官僚の人物言行が後世に残ることなどあるのだろうか、という点です。
古典で残ってきた時代というのは、その人物の人柄なり信念なり、風格や気品、その言行というものが評価されてきたと読み取れます。
しかし、今の時代はどうでしょう。
その人物の素養を軽視し、醜聞や素行、国を動かして貰うべき人物のあら捜しや足の引っ張り合いに終始し、とても人物評論や評価を行うような上質な社会風潮とはなっていないように感じられます。
もしかしたら昔に比べて政治家や官僚も、人目ばかりを気にし、○×式のうわさや評価ばかりに気をとられずにはいられないような、とても生きにくい時代なのかもしれません。
こうなると、自ずと品位や気品からはかけ離れ、性質も低俗にならざるを得ないのでしょうが、このままだと行き詰っていくことは明白ですし、世の中が不安な方向にばかり傾いて真の大人物が望まれたとしても、そこから期待するような人物は生まれにくいのかもしれません。
どう考えても今の教育や学問というものが、画一的で平均的な働き蜂・働きアリ量産型の形態を70年近く取ってきたとしか思えないので、私は今こそそのあり方が大きく革新すべき時期にきていると感じています。
こうしたことを国や政治にだけ依存していても、その問題解決には多大な時間がかかるに違いないので、松下村塾のような市井の教育・学問活性の場が地域から広がっていくべきだと思うのです。
古典から学び、未来の国のあり方、私達の将来の生き方を考える。
そんなきっかけの一助になれれば、と考えています。

以下は、現代語訳にてまとめられていますので、参考にしてください。
五朝名臣言行録|『宋名臣言行録』

RSS Feed

WordPress(feed) to Hatena Blog via email

IFTTT

gimlet-Juniper berry:ギムレットにはまだ早すぎる!

ギムレットには早すぎる”
レイモンド・チャンドラーの名作『長いお別れ』の有名な一節です。
これを読んで、ついついバーでギムレットを頼んだ年配の方も多いはず。

ドライジンにコーディアルライムかライムを搾り、シェークしただけの簡単なショートカクテルですが、バーによってこれだけ味の異なるカクテルも珍しいです。
簡単なだけに、安っぽく出来上りがちで、その分だけバーテンダーの腕が試される。
そんなカクテルです。
(個人的には、甘味が低い方が好みなので、コーディアルライム少な目で、その分少しだけライムを絞って頂けると最高!)
ジンでなくラムにすれば「ラムレット」
ジンがウォッカなら「ウォッカ・ギムレット」「スレッジハンマー
シェイクせず、氷を入れれば「ジン・ライム」(夏の暑いときにはこちらの方がいいですね)

まあ、いろんなアレンジができますが、それはさておいてフィリップ・マーロウの話しに戻りましょう。
今時マーロウみたいな男がいたら面倒くさくて大変なのかもしれませんが、心の奥底にだけはハードボイルドを抱いておくぐらいの男子が増えてもよいのではないかと思ってしまう昨今。
個人的には、先日お亡くなりになった高倉健さんがそのイメージです。(本人はお酒を嗜むことはなかったようですが。。。)

男らしさを演出するために、ちょっと背伸びをして辛口のカクテルを嗜む。
飲むシチュエーションに拘って、ちゃんと自分の世界と向き合う時間にする。
ギムレットとはそういうもの”

『長いお別れ』は、主人公マーロウと友人レノックスとの友情と別れの物語ですが、有名な一節はそれを確かめるためのレノックスのセリフ。
そんなハードボイルドを読み耽りながら、友をバーで待つのも一興かもしれません。

RSS Feed

WordPress(feed) to Hatena Blog via email

IFTTT

【書物リスト】思い入れのある小説 その1【ハードボイルド】

私の10台、20台の頃の読書の中心を占めていたのは古今東西の区別なく小説でした。
30台、40台の頃になると、必然的にビジネス絡みの書物が中心となってきたので、この期間どっぷりと小説に浸るのは止めておこうと自戒を立てて今日に至ります。
最近では(そろそろ50に近づくに従って)思索・深遠な傾向になりがちな古典絡みの読書が中心となってきました。
とはいっても濫読・多読な傾向にあるので、良書・悪書の境界なく清濁併せ呑み込むことを心情としています。

そこで今回は、20台の頃に読んでインパクトのあったハードボイルド系の筆頭とも言える作家の小説を整理してみたいと思います。
読破時の面白さを半減しないよう、あらすじは極力排してます。
全然女性好みの内容ではないので、その旨ご容赦くださいね。

北方謙三
北方謙三という小説家に出会ったのは、水谷豊主演の映画「逃がれの街」の原作者だったことからです。
高校生の頃は、試写会だとタダで映画が見れる上に、映画が上映される前に行われる抽選でスポンサー商品が貰える(今もそうなのかな?)ということで、とにかく手当たり次第に通っていたものです。
試写会なんてだいたい平日で、ガッコや部活を早めに切り上げて(笑)夕方6時、7時から始まる試写を腹を減らしながらも見ていたものです。
そんな中、当時邦画なんてあまり興味もないままに見た「逃がれの街」の、警官に撃たれて野たれ死に、雪山の斜面を滑り落ちていく強烈なラストシーンを見ながら、エンドロールに流れる原作者「北方謙三」を強く記憶したものでした。
(この映画は、実は高校生以来二度と観てません。
 昔好きだった人に10年以上経って再会したら「あれっ」って感じになるのと同じになりはしないかなあ、と危惧してるのです。
 良い思い出や印象は勝手に大きく膨らんで理想化する傾向にあるので、それはあえて暴かず自分の中で大事にしておくのがいいのかも、と密かに思う訳です)

実際には、ハードボイルド小説を読み漁るようになるのは20台の頃からだったのですが、北方謙三の世界観では、ある小説に出てくる主人公が別の小説では脇役になったり、その逆もあったりといったクロスオーバー型のモチーフが、妙な中毒性を持っていたのかもしれません。
特に私のお気に入りだったのは、“老いぼれ犬”と呼ばれるひとりの警部が(大半が脇役なのに)ちょいちょい出てきてはいいところを攫って去っていく。
「逃がれの街」以外は、そんな“老犬”をはじめとする骨太な登場人物が互い違いに出てきて、それを探すのも本を読み漁る楽しみのひとつだったものです。

個人的には、まずは“老犬”シリーズを読んでから、あとは好みに合わせて好きなように読んでいくのがお奨めです。
【“老犬”シリーズ(全3冊)】
 脇役専門だった“老いぼれ犬”刑事・高樹良文を主人公にした若き日々の物語です。
 実は、北方ワールドの中でこの老いぼれ犬が果たす役割は大きいのですが、その活躍と相まってまるでテーマソングの如く頻繁に登場するもの。
 それが、ゴロワーズと口笛や鼻唄で奏でられるS.C.フォスター「老犬トレー」。

傷痕(集英社 1989年 / 集英社文庫 1992年 『老犬シリーズ1』)
 「老犬トレー」の鼻歌が癖になった理由。
 ゴロワーズを吸う理由。
 「けものの匂い」を持つ男達を嗅ぎ分けられるうようになった理由。
 そういった高樹の原点を描いた作品であり、壮絶な少年時代の物語です。
「孔雀城――無頼の少年たちは、自分たちの寝ぐらをそう呼んだ。
 戦争直後の東京、焼け崩れた工場の跡地である。
 隠匿物資を盗み出し、闇市で売りさばくことを覚えた良文とその仲間にとって、
 最大の敵は浮浪児狩りと暴力団だった。
 幼い良文は野獣のように生き抜いてゆく」

風葬集英社 1989年 / 集英社文庫 1992年 『老犬シリーズ2』)
 刑事となった高樹が、古い傷を抱え切なく生き抜く”老いぼれ犬”となっていく物語です。
 高樹の少年時代の親友・幸太が、高樹に言うセリフが泣けます。
「ちゃんとした格好をしてろ。そう言ったろう。
 いい服を着て、糊の利いたシャツに皺のないネクタイ締めて。
 そうやって、おまえは心のなかのけものを閉じ込めなくっちゃな。
 でなけりゃ、刑事を続けられねえぞ」
これが、各作品の主人公に関わっていく”老いぼれ犬”高樹の原点なのだと思うのです。

望郷(集英社 1990年 / 集英社文庫 1992年 『老犬シリーズ3』)
 時代は平成、定年間近な”老いぼれ犬”高樹警視の物語です。
 ラスト、高樹が漏らす一言々が胸を抉るのです。
 余計な解説は無用です、是非読んでみてください。

【単行小説】
逃がれの街(集英社 1982年 / 集英社文庫 1985年)
「愛する女・牧子のために殺人を犯して、暴力団と警察に追われる幸二。
 逃亡のさなか、公園で知り合った幼いヒロシを唯一の友に、
 2人だけの安住の地を求めて走りつづける…」

以下の作品群は、“老いぼれ犬”髙樹が脇役で登場するものです。

弔鐘はるかなり(集英社 1981年 / 集英社文庫 1985年)
「俺をハメたのは誰だ?
 横浜の夜、容疑者を射殺し、刑事の職を追われた梶。
 あれから4年、事件の謎に迫って凄絶な戦いが始まった…。
 復讐に命を賭けた男の挽歌」

鎖(講談社 1983年 / 講談社ノベルス 1985年 / 講談社文庫 1987年 / 文春文庫 2005年)
「死体が4つ、転がっている。5つ目の死体を私は待っていた──。
 5年前まで一緒に芸能プロダクションを経営していた男から、突然連絡が入ったのだ。
 北海道の筋者に命を狙われているその男は私に借金を押しつけて逃げた旧友。
 だが、彼を見殺しにできない私は闘いに踏み込んでいく」

真夏の葬列(文藝春秋 1983年 / 文春文庫 1986年 / 講談社文庫 2005年)
「愚かさすら、いとおしい青春ハードボイルド女が死んだ。
 赤いバラの花束で、霊柩車に乗せられた彼女を迎えた。
 親友の彼女だった。
 自殺の原因を作った奴を殺してしまった親友と二人、女の故郷の海を目指す」

逢うには、遠すぎる(集英社 1983年 / 集英社文庫 1986年 / 光文社文庫 2004年)
「まだ、愛しているかもしれない、別れた妻が失踪した!
 魔の手に狙われているのか。
 カメラマン・上杉は彼女の行方を追ってロスへ飛ぶ。
 迫真のタッチで描くアメリカ横断救出行」

檻(集英社 1983年 / 集英社文庫 1987年)
「やくざな世界から足を洗って、今は小さなスーパーを経営している滝野和也。
 そのスーパーの買収工作をめぐるいざこざから、滝野の野性の血が再び噴き出す。
 結局は“檻”のなかにとどまれず、修羅場に戻っていく男の滅びの美学を、
 鮮烈な叙情で謳いあげた北方ハードボイルドの最高傑作!」
 村沢:「挑戦」シリーズ「風の聖衣」
 石本:「牙」、「挑戦」シリーズ「風の聖衣」「風群の荒野」

友よ、静かに瞑れ(角川書店 1983年 / 角川文庫 1985年)
「温泉町で旅館を経営している古い友人が逮捕された。何かがある--。
 だから、男はこの海辺の温泉町へやって来た。
 束の間の再会。交される一瞬の眼差し。北方ハードボイルドの最高傑作!」

君に訣別の時を(講談社 1984年 / 講談社文庫 1987年)
「助けを求めて泣いている女のために、男はどこまで生命を賭けられるか。
 愛の残り火と報われることのない男の誇りが、東北の海辺にふたたび燃え上る!
 男の凄絶な生きざまと孤独な情念を鮮烈に描く」

渇きの街(集英社 1984年 / 集英社文庫 1988年)
「道ってやつは踏みはずすためにある。
 踏みはずしたところにも、また道がある―。
 気位、男の誇りを捨てきれずに自分の道を切り拓いてゆく男の激情!」

錆(光文社 1985年 / 光文社文庫 1988年 / 徳間文庫 2009年)
「男には落とさなければいけない“錆”がある―。
 男は薔薇を栽培する花屋。“稲妻”と呼ばれたかつてのランキング・ボクサー。
 平穏な生活を送る彼だったが、親友を救うため、やくざの抗争に巻き込まれてしまう。
 そして、男の躰の中で何かが切れた!“男はいかに死ぬべきか”」

ふるえる爪(集英社 1986年 / 集英社文庫 1989年 / 光文社文庫 2005年)
「和泉則子は、かつて、殺人を犯した「最初の男」のために弁護士になった。
 そして、もう一度だけ女を賭ける。自分に救いを求めてきた「今の男」に。
 “私は彼を愛しているのか”それを確かめ、本当の女となるために、
 則子は、アルファロメオのハンドルを握り、男が待つ神戸へと疾駆する!」

牙(小学館 1986年 / 集英社文庫 1989年)
「ふとしたことで事件に巻き込まれた石本一幸、19歳。
 祖父が襲われ、死んだ。いまわのきわに残した
 「牙をなくしちゃなんねえ。いざという時にゃ、牙をむけるのが、男ってもんだ」
 の言葉を胸に、迫りくる組織の魔手、陰にひそむ大物に、一幸の復讐が始まる」

愚者の街(集英社 1987年 / 集英社文庫 1991年 / 徳間文庫 2003年)
 高樹のセリフが効きます。
 「けものは、勝手に走って死んでいく。
  それを見届けてやるのが、自分の役回りなんじゃないか、という気がしてきてね。
  歳のせいかな、自分の役回りなんて考えるのは」

【“挑戦”シリーズ(全5冊)】
 主人公水野竜一が、若者から男へと変貌を遂げていく物語。
 ”老いぼれ犬”高樹が海外に追いやった男達が次々と出てきます。
挑戦 危険な夏(集英社 1985年 / 集英社文庫 1990年 『挑戦I』)
挑戦 冬の狼(集英社 1985年 / 集英社文庫 1990年 『挑戦II』)
挑戦 風の聖衣(集英社 1987年 / 集英社文庫 1990年 『挑戦III』)
挑戦 風群の荒野(集英社 1988年 / 集英社文庫 1990年 『挑戦IV』)
挑戦 いつか友よ(集英社 1988年 / 集英社文庫 1990年 『挑戦V』)

【“弁護士・谷道雄”シリーズ(全2冊)】
眠りなき夜(集英社 1982年 / 集英社文庫 1986年)
夜が傷つけた(集英社 1986年 / 集英社文庫 1990年)

【“探偵・神尾”シリーズ(全6冊)】
群青(集英社 1991年 / 集英社文庫 1994年 『神尾シリーズI』)
灼光(集英社 1991年 / 集英社文庫 1994年 『神尾シリーズII』)
炎天(集英社 1992年 / 集英社文庫 1995年 『神尾シリーズIII』)
流塵(集英社 1993年 / 集英社文庫 1996年 『神尾シリーズIV』)
風裂(集英社 2000年 / 集英社文庫 2002年 『神尾シリーズV』)
海嶺(集英社 2001年 / 集英社文庫 2003年 『神尾シリーズVI』)

これ以外で読んだ北方謙三のシリーズだと、、
“ブラディ・ドール”シリーズ さらば、荒野(第1作)、ふたたびの、荒野(第10作)
“約束の街”シリーズ 遠く空は晴れても(第1作)、されど君は微笑む(第6作)
“近代史小説” 望郷の道(上・下巻)
ぐらいです。

北方謙三というと今では歴史小説の方がすっかり有名ですしベストセラーもこちらの方が多いのですが、私は全然そこまで辿り着いてませんね。
特に60台の楽しみとして取ってある訳でもないのですが、これまでの各年代で読んできた本の傾向の中で、たまたま読む機会がなかっただけです。

今回はハードボイルド系第一弾として、このぐらいにしておきます。
続きは、また別の機会にでも。

RSS Feed

WordPress(feed) to Hatena Blog via email

IFTTT

近思録より学ぶ!修己治人による精神の復興!

『近思録』は、朱熹と呂祖謙が周濂渓、張横渠、程明道、程伊川の著作から編纂した、14巻からなる朱子学の入門書です。
儒学では『四書』(『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』)と『六経』が重要な書となりますが、朱子学では、これに『小学』と『近思録』が加わります。
その上で朱子学を学ぶためには、『小学』→『近思録』→『大学』→『論語』→『孟子』→『中庸』→『六経』の順番で書を読むように規定されているようです。
そもそも朱子学は、別名、道学、理学、生理学、義理の学、理気学などとも言い、形骸化した儒学を批判して聖人の精神の復興を、形式よりも内容を重んじる儒学を目指しました。
その入門書としての『近思録』の内容は、ざっと以下のようになっています。

 巻1・道体       宇宙や人間について朱子学の考え方、儒学の世界観について述べられています。
 巻2・為学大要       学問とは何であるかについて述べられています。
 巻3・格物窮理       物事の道理をきちんと認識するための能力を育成することについて述べられています。
 巻4・存養       心の根本・本心や本性を養い育てることについて述べられています。
 巻5・改過遷善克己復礼  過ちを改め、人間本来の善い心を伸ばすことをめざし、人欲を去り、天理に復することについて述べられています。
 巻6・斉家之道       正しい家族生活を実現するための方法論について述べてあります。
 巻7・出所進退辞受之義  君子たるにふさわしい出処進退の仕方について述べてあります。
 巻8・治国平天下之道  国をきちんと治めて天下を太平にする、政治の根本は何であるかについて述べてあります。
 巻9・制度       世の中を治めるにはどのように社会制度を整備すべきかについて述べてあります。
 巻10・君子処事之方  君子はどのように物事を処理すべきかについて述べてあります。
 巻11・教学之道  教育はどのようにすることが大切かについて述べてあります。
 巻12・改過及人心疵病  過ちと人の心の悪い点を改善すべきことについて述べてあります
 巻13・異端之学  人の心を惑わす異端の学問とはどんなものであるかについて述べてあります。
 巻14・聖賢気象  儒学を学ぶ人が手本とすべき聖人や賢人とはいったいどんな人であるのかについて述べてあります。

『近思録』の基本は、”まず自分を立派に律し、それを人に感化させることで、他者も立派にする”という「修己治人」です。
この「修己治人」は、直近・目前の利益や利潤しか見えていない今の現代社会における、最も大切で肝要なことです。
このような古典や佳書から学ぶことは、昔の偉人、賢人達の智慧を効率的に自らの血肉とする最適な手段でもあります。
精神練磨の一躍として、少しでもお役に立てればと思いつつ。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

朱熹のまえがき】
 淳煕二年(西暦1176年)の夏、東莱の呂祖謙が、東陽県から、私の個人経営の小規模な学校である寒泉精舎にやって来ました。呂祖謙はうちに十日ほど滞在していたのですが、その間に二人でいっしょに周先生、程先生、張先生たちの著書を読みました。そして、お互いに「とても規模が広大すぎて、いくら川を進んでも向こう岸にたどりつけないような感じだなあ」と感じて、「これでは初めて学ぶ人は、どこから手をつけたらいいのか、まったく分からないのではないだろうか」と心配になりました。
 そこで、周先生、程先生、張先生たちの言葉の要点のなかから、日々の学習に役立つようなものを選んで、この『近思録』を編集しました。全部で六百二十二条の文章を、十四巻に分けて収録しています。内容的には、「根本的なことを探求する方法」「学問の仕方」「身を修める方法」「人を治める方法」の要点と、「異端の教えを見分けること」「聖人や賢人を概観すること」の大凡について、ほぼすべてそのあらましを示していると思います。
 へんぴなところに住んでいる儒学の素人で、聖人になるために学びたいのに、いい先生や友人にめぐまれていない人でも、この『近思録』をよく読んで、じっくり考えれば、聖人になるための学問の基礎が身につくでしょう。そのあとで周先生、程先生、張先生たちのすべての著書に聖人になるための学問の方法を求めて、じっくりとよく考え、ゆったりと心ゆくまで味わい、全体をまんべんなく理解し、その要点をまとめれば、どんなに豪華な廟堂にも、どんなに莫大な財宝にも、決してひけをとらないくらいのすごい成果を得ることができるでしょう。
 もし「聖人になるために学ぶことを安簡にするために、この『近思録』だけを読めば十分だ」とするのであれば、それは今回この『近思録』を編集した意図ではありません。

淳煕二年(西暦1176年)5月5日 新安の朱熹 謹んで記す。

【第一巻 道体~宇宙をつかさどる道理の正体】

(1)
 濂渓先生は、次のように言っています。
 無極(無限)であって太極(根本)です。(それが理です)。
 太極が動いて陽が生まれます。動きがきわまると、静かになります。静かになって陰が生まれます。静かさがきわまると、また動きます。動いたり、静かになったりすることが、互いに原因となって、陰に分かれ、陽に分かれて、陰陽の二気が成立します。
 陽が変化をうながし、陰が合成をうながして、水・火・木・金・土という五行の気が生まれます。その五行の気が順調にめぐりめぐることによって、四季がうつりかわります。
 五行の気は、一つの陰陽です。陰陽の気は、一つの太極です。太極は、もともとは無極です。五行の気が生まれるにあたって、それぞれが独自の法則をもっています。
 無極という真実のもの(理)と、陰陽・五行という精純なもの(気)とが、融合して凝結します。このとき、乾道(拡散する作用)は男性的なものを成立させ、坤道(収斂する作用)は女性的なものを成立させます。その男性的なもの(陽)と女性的なもの(陰)とが、交じりあって働きあって、万物を生み出します。万物は次から次に生まれてきて、変化にきわまりがありません。
 ただ人だけが、すぐれた気(材料)を得ており、万物の霊長となります。(すぐれた気を得て)生体が生まれると、心が発動して知覚するようになります。五行の本性(気質の性)が刺激されて動いて、善事をなしたり、悪事をなしたりして、あらゆる行為となります。聖人は、みずからの行為をきちんと定めるために、仁(やさしさ)・義(ただしさ)・中(過不足のないこと)・正(是非をわきまえること)を用い(本註:聖人の道は、仁・義・中・正だけです)、しかも主静(心を静かに保つ工夫)をして(本註:欲に心を奪われることがないので、静かなのです)、人極(人として当然のあり方)を確立します。
 ですから、聖人は、天地とその徳を同じくし、日月とその明るさを同じくし、四季のうつりかわりとその秩序を同じくし、鬼神とその吉凶を同じくするのです。
 君子は、仁・義・中・正や主静を修めて、幸運にめぐまれます。小人は、仁・義・中・正や主静を軽んじて、不運にみまわれます。ですから、『易経』「説卦伝」に「天の道を立てて、陰と陽と言う。地の道を立てて、柔と剛と言う。人の道を立てて、仁と義と言う」とあり、さらに『易経』「繋辞上伝」に「始めをたずねて、終わりにかえる。ゆえに死生の説が分かる」とあるのです。
 『易経』というものは、まったく大いなるものですねえ。これは、その至りです。

(2)
 誠は、無為(あるがまま)です。心の動き始めが、善悪の分かれ目です。(心の動きが誠だと、善になります。反対に心の動きが誠からはずれると、悪になります)。
 徳(人間が生まれながらに備えている良さ)は、愛することを仁と言い、よろしいことを義と言い、理にかなっていることを礼と言い、道理に通じていることを智と言い、守ることを信と言います。
 性(本当の自分)のままに安んじること、それを「聖=すぐれている」と言います。もと(本当の自分)に戻ってそれをなくさないこと、それを「賢=賢い」と言います。
 確かに存在するのですが、(見たり、聞いたりなど)感覚的にとらえることのできないもの。しかも、すべてに行き渡っているのですが、きわめることができないもの。それを「神=神妙」と言います。

(3)
 伊川先生が言いました。
『中庸』に「喜怒哀楽といった情がいまだ発していない状態、これを中と言う」とあります。その「中」とは、『易経』で「ひっそりと静まりかえっていて動かない」と言われているものです。ですから、『中庸』で「天下の大本」と言われているのです。
『中庸』に「情がすでに発していても(感情的になることなく)ほどよさを保っている状態、それを和と言う」とあります。その「和」とは、『易経』で「感じてついに通じる=直感的に物事の本質がわかる・以心伝心」と言われているものです。ですから、『中庸』に「天下の達道=時と所に関係なく普遍的に通用する道理」と言われているのです。

(4)
 心は一つです。
 ある人は、その本体(性)を指して言います。(本註:『易経』で「ひっそりと静まりかえって動かない」と言われているのが、これです)。
 他の人は、その作用(情)を指して言います。(本註:『易経』で「感じてついに天下のことに通じる」と言われているのが、これです)。
 ただ心を見る観点が違うだけです。

(5)
 乾と天とは同じです。天は、乾の体です。乾は、天の心です。乾とは、健やかであることです。健やかにして弱まらないもの、それを乾と言うのです。
 そもそも天は、まとめて言えば、道です。『易経』の「乾」の説明にある「天ですら違わない」というのが、これです。分けて言えば、その体を天と言い、その主体を帝と言い、そのすぐれた作用を鬼神と言い、その神妙な作用を神と言い、その心を乾と言います。

(6)
 四徳(元・亨・利・貞)の元は、ちょうど五常(仁・義・礼・智・信)の仁のようなものです。分けて言うと四つのなかの一つにすぎませんが、まとめて言うと四つ全部を内にふくみます。

(7)
 天が与えるという点からすると、(本性は)天命となります。物が受け取るという点からすると、(天命は)本性となります。(つまり本性と天命は同一のものです)。

(八)
 鬼神とは、天地万物を生み出すはたらきのあらわれのことです。

(9)
易経』にある「剥(はがれること)」は、六つある陽のうち五つが剥がれ落ちてなくなっていて、いちばん上にある一つの陽だけが残っている形です。これは、たとえば、よく熟した果実が食べられずに残っていて、(それが地面に落ちて種となり)そこからいずれまた芽が出るといった道理のようなものです。いちばん上にある陽が変化すれば、完全に陰である形になります。しかしながら、陽がまったくなくなってしまう(そして二度と現れない)といった道理はありません。上で変化すれば、下に生まれてきます(たとえば、下に落ちた果実から、再び芽が出てくるように)。そこには一息つく暇もありません(上でなくなれば、次の瞬間、下に現れてきます)。聖人は、こういった道理を明らかにして、陽と君子(りっぱな人)の道は決して滅びることがないことを示したのです。
 もちろん、こういう人もいるかも知れません。
「陽が剥がれ落ちてしまえば、陰ばっかりになるではないか。どうして、そこに陽があると言えるのか」
 それに答えましょう。
「剥は、月に配当すると、十月(完全に陰である月)に相当します。気の消息で言うと、陽が剥がれると坤となり、陽がやって来ると復になります。いまだかつて陽がつきはてたことはありません。上で剥がれ落ちてなくなれば、下にまた生まれてくるのです。ですから、十月は(完全に陰である月であるにもかかわらず)陽月と呼ばれるのです。それは陽がなくなってしまうと誤解されることを心配したからです」
 陰も(陽と)同様です(まったくなくなってしまうことはありません)。ただ聖人が言わなかっただけです。

(10)
 陽の復活は、天地が万物を生む心です。先輩の儒学者たちはみんな、「(動ではなく)静に天地の心が見てとれる」としました。思うに、動き始めこそが天地の心であることを知らないのです。道(道理)を分かっている人でなければ、どうしてこのことが分かるでしょうか。

(11)
 仁(やさしさ)は、世界でいちばん公(公正)なもので、善のもとです。

(12)
「感(外からの働きかけ)」があれば、必ず「応(内からの応答)」があります。一般的に言って、動きがあれば、そのすべてが「感(作用)」となり、その「感(作用)」に対しては必ず「応(反応)」があります。その「応(反応)」がさらに何ものかへの「感(作用)」となり、その「感(作用)」がさらに何ものかの「応(反応)」を引き起こします。そのため、やむことがありません。
 このような「感通の法則」は、道(道理)を知っている人が、暗黙のうちに観察することのできるものです。

(13)
 世の中の道理として、終わればまた始まるものです。そのために長続きして、行き詰まることがないのです。長続きするとは、一定の形におさまることではありません。一定の形におさまれば、長続きしません。その時その時の状況に応じて変わること(臨機応変)こそ、長続きの方法です。天地自然において常に通用する道(道理)、人間社会において常に通用する理(道理)は、道(道理)を知っている人でなければ、どうして分かるでしょうか。

(14)
質問。
 人の本性(性)は、もともと善です。それなのに善くならない人(悪人)がいるのは、いったいどうしてでしょうか。
解答。
 人の本性について言えば、みんな善です。しかし、その才能について言えば、『論語』で「善くならない下愚」と呼ばれている、とてつもない愚か者がいます。そんな「下愚」には、二種類あります。それは『孟子』で「自暴=やけくそ」「自棄=あきらめ」と呼ばれているものです。
 人がもし善(人間が本来もっている善性)によって自分で自分を治めたならば、善くならない人はいません。どうしようもない愚か者でも、じょじょに自分に磨きをかけて進歩向上することができます。
 ただ、「自暴=やけくそ」の人は、善を拒んでそれを信じません。「自棄=あきらめ」の人は、善を捨ててそれを行いません。聖人といっしょにいたとしても、感化をうけて(人間が本来もっている善を回復し)善人になることができません。これが孔子の言っている「下愚」です。
 しかしながら、世の中の「自暴」「自棄」の人すべてが、必ずしもどうしようもない愚か者であるとはかぎりません。なかには狂暴ながら、人なみすぐれた才能や力量のもちぬしもいます。たとえば、暴君だった紂王がそれです。聖人は、そんな人たちがみずから善を捨てている点で、そんな人たちを「下愚」と呼んでいるのです。しかしながら、その人たちが結果的にどうなるかを考えたなら、(自分で自分をダメにしていくわけですから)まったく愚かだとしか言いようがありません。
質問。
「下愚」と言われるほど愚かな人でも、人前ではとりつくろって善く見せようとするのは、いったいどうしてでしょうか。
解答。
 心では善い生き方を捨てているとはいえ、威光を畏れて道理に反した行為を少なくしようとする点について言えば、ふつうの人と同じなのです。ふつうの人と同じなのですから、人が「下愚」になることに関し、本性には何の罪もないということが分かります。

(15)
 存在にあるものが理です。存在をとりさばくのが義(ただしさ)です。

(16)
 動静の変化には限界がありませんし、陰陽の変化には最初がありません。(いずれも無限なものです)。道(道理)を知っている人でなければ、いったいだれがそのことを分かるでしょうか。

(17)
 仁(やさしさ)は、世界でいちばん正しい道理です。その正しい道理を失えば、秩序がなくなり、調和しなくなります。

(16)
 明道先生が言いました。
 天地が万物を生じるにあたって、それぞれに不足があるといった道理はありません。よく思うのですが、世の中には、君主と臣下の関係、親と子の関係、兄と弟の関係、夫と妻の関係において、十分に本分をつくしていない人が少なからずいます。

(19)
 忠信(正直)は、徳を進める方法です。朝から晩までうまずたゆまず努力して、君子(りっぱな人)は「遠く天にあるもの(天理)」にこたえるべきです。
 思うに、「上天のこと(天理)」は、声もなければ、匂いもない、感覚的にはとらえられないものです。天の様子のことを易と言い、天の法則のことを道と言い、天の機能のことを神と言います。天の人への命令、これを性と言います。性に従うこと、これを道と言います。道を修めること、これを教えと言います。孟子はそれに加え、さらに「浩然の気=①宇宙全体に満ちている正々堂々とした元気で、人の活力の源泉。②大らかな気分」を明らかにしました。十分に言いつくせています。
 それで『中庸』では、「神様は、上にいるようでもあるし、左右にいるようでもある」と大事なことを説いて、ただ「誠がおおいかくせないのは、このようなものだなあ」としめくくっているだけなのです。上から下まで、このようにすぎません(すなわち、この世にあるものすべてに理があります)。
易経』に「形而上のものを道(理)となし、形而下のものを器(気)となす」とありますが、道と器とは分けることのできない一体となっているものなのですから、「道もまた器であり、器もまた道である」と言わなければいけません。ただ道(道理)だけが、「現在」と「未来」といった時間的な区別や、「自分」と「他人」といった空間的な区別にとらわれることなく、時空をこえて存在しています。

(20)
 医学書では、手足のマヒのことを「不仁=仁ではない」と言っています。この言葉は、とてもうまい表現です。
 仁である人は、天地万物をもって一体だとします。すべてが自分なのです。すべてが自分なのですから、すべてを思いやることができます。もし天地万物をもって一体だとできなければ、おのずとすべてが自分とは無関係になります。まさに手足のマヒのようになります。マヒのために、それはもともと自分のものなのだけれども、自分のものではないようになります。ですから、ひろく施し、みんなを救うことができるのは、(天地万物一体の境地に達している)聖人のすぐれたはたらきなのです。
 仁とは、とても説明しにくいものです。ですから、『論語』では、「自分が立ちたいときに人を立てる。自分が達成したいことを人に達成させる。(たとえば、自分があの人だったら、どうされたら嬉しいだろうか、どうされたら嫌だろうかというように)自分にひきかえて人のことを考える。以上が仁を行う方法だと言える」と言うにとどまっているのです。このようにして仁を観察させて、仁の正体についてよく分からせて身につけさせようとしたのです。

(21)
「生まれつき」が「性」の意味です。「性(精神)」は「気(生体)」であり、「気(生体)」は「性(精神)」であるのが、生まれつきです。(人間は精神と生体が一つになって生まれてきます)。
 人が生まれたときには気稟(生まれ方の違い)があるわけですが、そこには当然のこととして善と悪があります。しかしながら、性(本性)のなかにもとから善と悪がそなわっていて、それらがおもてに出てくるわけではありません。幼いときから善い人もいれば、幼いときから悪い人もいます(本註:后稷が、幼いときからとても才知にすぐれていたこと。若敖氏に子越椒が生まれるや、その一族のある人が「その子は必ず若敖氏を滅ぼすだろう」と分かったこと。そういった類いです)。それは気稟があるがためにそうなるのです。
 善は、もちろん性(生まれつき)です。しかしながら、悪もまた性(生まれつき)だと言わざるをえません。というのも、「生まれつき」が「性」の意味だかです。性(本性)については、「人が生まれたときからもっている静なるもの(生きている人にある不動のもの=心の本体)」と説くよりほかにありません。少しでも「気質の性=本能」について説くなら、それは「本然の性=本性」ではありません。
 一般的に人が性を説くのは、『易経』に言う「これを継ぐものは善である」ということを説いているのです。孟子が「性は善だ」と言っているのも、これと同じです。
 そもそも「これを継ぐものは善である」とは、ちょうど水が流れて下っていくのと同じです。(流れ始めた水も、流れ終わった水も)すべてが水です。海に流れつくまで、まったく濁らずにすむ水があります。このときには、水をきれいにするために、人が手を加える必要はありません。また、流れ始めてまもないうちに濁り始めているものもあれば、遠くまで流れていってようやく濁り始めるものもあります。とても濁るものもあれば、少ししか濁らないものもあります。清濁の違いはあるものの、どれも水であることには変わりがありません。
 このようであるならば、人は、濁りをきれいにして、もとの水に戻すことができます。当然、濁りをきれいにするための努力がすばやければ、それだけ早くきれいになります。反対に、濁りをきれいにするための努力がのんびりしていると、それだけ遅くきれいになります。もちろん、きれいになったときには、どちらの場合も同じです。もとの水に戻ったにすぎません。当然のことながら、どこからかきれいな水をもってきて、濁った水ととりかえたわけでもなければ、水の濁った部分を捨て去って、濁っていない部分だけを残したわけでもありません。以上で言う「きれいな水」とは、「性が善であること」のたとえです。ですから、性のなかに善と悪があって、それらが交互におもてに出てくるわけではないのです。
 以上の道理は、天命です(すなわち、だれかが手を加えてそうしたのではなく、もとから自然とそうなっているのです)。すなおに天命に従うこと、それが道です。道に従い、道を修め、それぞれが自分に適した居場所におちつくこと、それが教えです。以上の天命から教えまで、私が自分勝手につけ加えたものもなければ、減らしたものもありません。これは、たとえば「舜は天下の王となったが、それは舜が王になりたかったからではなく、なるべくしてなったのだ」というのと同じです。

(22)
 天地が万物を生む様子を観ます。(本註:周濂渓が看ました)。(すると、そこに仁のはたらきが見てとれます。仁は、生をつかさどっています)

(23)
 万物の生き生きと成長する力がもっとも観察しやすく、これが『易経』で「四徳(元・亨・利・貞)の元は、善の長である」と言われているもので、それがいわゆる仁です。

(24)
 からだ全体が惻隠(思いやり)の心です。(仁は生をつかさどるもので、人間のからだが生まれるのも、もちろん仁によります。そして、惻隠の心も、人間のからだと同じく、仁を起源としています。ですから、「人間のからだ=惻隠の心」となると言えます)

(25)
 天地万物の道理として、たった一つ単独で存在するものはなく、必ず相対するものがあります。(たとえば「寒い」があれば、「暖かい」があります。また、「わたし」がいれば、「あなた」がいます)。すべて自然にそうなっているのです。だれかが手を加えて、わざわざそうなるように仕向けたわけではありません。夜中にそのことを思うたびに、思わず心が楽しくなってしまいます。

(26)
「中」は、「天下の大本」であり、「この世にあって、まっすぐでかたよりがない」といった正しい道理です。「中」からはずれると、よくありません。敬(しっかり)して「中」を失わないようにするのがベストです。
(中=やりすぎることもなく、やり足らないこともなく、ちょうどよいこと。自分の場合で言うと、自分以上でもなければ、自分以下でもなく、本当の自分であること)

(27)
 伊川先生が言いました。
「公(公正)」であると、みんなと一つになります。「私(利己的)」であると、てんでバラバラになります。人の心が顔のように同じでないのは、それが私心だからです。

(28)
 一般的に言って、存在には本末があります。(本=理や本質など。末=気や現象など)。本と末を分けて、それらを別々のものとしてはいけません。掃除や応接(末)がそうあるとすると、必ずそうあるべき理由(本)があるものです。

(29)
 個人主義者の楊子は、(たとえ人のためになるからと言われても)髪の毛一本ぬくことすらしませんでした。
 博愛主義者の墨子は、(人のためになるのなら)頭のてっぺんから足の先まですりへらしました。
 それらはみんな、「中(過不足のない適当な状態)」からはずれています。子莫が中をとる場合にいたっては、楊子と墨子のまん中をとろうとしています。しかし、私には分かりません。いったいどうすれば両者のまん中がとれるのでしょうか。
 本当のことが分かれば、すべてがそれぞれに、生まれながらにして自分にみあった「中」をもっていることが分かります。(自然にそうなっているのであって)別に人がわざわざ手を加える必要はありません。人がよけいな手を加えたときには、もはやそれは「中」ではありません。

(30)
質問。
「時に応じて中(ほどよく)する」とは、いったいどういうことなのですか。
返答。
「中」というのは、とても分かりにくいものです。各人が各人なりに考えて、各人なりに納得することが大切です。まあしかし、とりあえず試しに説明してみましょう。
 部屋の場合で言うと、部屋の中央が「中」です。家の場合で言うと、部屋の中央は中ではなく、表座敷が「中」です。国の場合で言うと、表座敷は「中」ではなく、国の中央が「中」です。このようにして類推していけば、「中」とは何かについて見えてくるでしょう。
 たとえば、仕事をしていて、家の前を通りかかることがあっても家に立ち寄らないのは、仕事のある人の「中」です。仕事のある人が、家にひきこもって、外を歩きまわらないのは、「中」ではありません。家にひきこもって、外を歩きまわらないのは、不遇な人(自分の才能を発揮するチャンスにめぐまれていない人)の「中」です。不遇な人が、家の前を通りかかることがあっても家に立ち寄らないのは、「中」ではありません。

(31)
 でたらめのないこと、それを誠と言います。(自分や他者を)あざむかないことは、その次のことです。
(本註:李邦直が言うには、「あざむかないことを誠と言う」そうです。すなわち、あざむかないことを誠としているのです。徐中車が言うには、「やまないことを誠と言う」そうです。『中庸』には、「至誠はやむことがない」とありますが、やまないことで誠を解しているわけではありません。以上のことに関して、ある人が先生に質問しました。先生は、ここの本文のように言って、李邦直と徐中車の説を否定しました。)

(32)
 理は、ひっそりしていて、とらえどころがありません。(しかし、宇宙に存在する、ありとあらゆるものが、すべてそこに備わっています)。(理は、時空をこえているので)そこに先後の区別はありません。
 これは、たとえば大きな木で言うと、根っこと枝の先とでは、両者は確かに違うものですが、しかし、同じ大きな木の一部であることには変わりがないようなものです。
 そんな理は、形もなければ、きざしもないものの、人の作為によって万物の基準となっているものではありません。理は、万物の基準としてもとからあるものであり、基準は基準でも唯一の基準です。

(33)
 自分自身についてみてみると、あらゆる道理がすでに自分の身にそなわっています。
 たとえば「物は、必ず生まれて成長し、衰退して死滅する。しかし、またそこから何かが生まれる」という屈伸往来の法則が、私たちの呼吸にみられます(すなわち、息を吸うことで大きくなり、息をはくことで小さくなりますが、しかし、次にはまた息を吸って大きくなります)。この屈伸往来(すなわち「……→生→死→生→死→……」というサイクル)は、つまりは道理です。あるものの死から、またそれと同じものが生まれると考える必要はありません。このような万物が次から次に新しく生み出されるといった道理は、自然にそうなっている、やむことのないものです。
 たとえば『易経』にある「復(復活)」の説明に、「七日目に(衰退していた)陽が復活する」とあります。陽の衰退と復活の間には、当然のことながら、とぎれはありません(すなわち「……→陰→陽→陰→陽→……」と連続しています)。陰になっても、そこから必ず陽が復活してきます。「窮すれば通ずる」ものです。その理(道理)は、以上のようになっているのです。生があれば、必ず死があるものですし、始まりがあれば、必ず終わりがあるものです。

(34)
 明道先生が言いました。
 天地の間には、ただ感応があるだけです。さらに何があるでしょうか。(感=外からの働きかけ。応=内からの応答)

(三十五)
質問。
 仁とは何ですか。
伊川先生の返答。
 これはみなさんが自分自身で考えることです。聖人や賢人が仁について語っているところについて、それらを集めてかんがみて、体認するようにすることです。
 孟子は「惻隠の心は仁のあらわれだ」と言っています。後の学者は愛を仁だとしています。しかし、愛は心の作用で、仁は心の本体です。そうである以上、どうして愛だけを仁とすることができるでしょうか。孟子は「惻隠の心は仁のあらわれだ」と言っているのです。すでに「仁のあらわれだ」と言っている以上、それをそのまま仁と言うことはできません。
 韓退之(韓愈)は「ひろく愛すること、これを仁と言う」と言っていますが、それはまちがいです。仁である人は、もちろんひろく愛します。しかしながら、ひろく愛することを仁とするなら、それはいけません。

(36)
 質問。「仁と心は、どのように違うのですか」
 返答。「心は、たとえば穀物の種のようなものです。仁は、その種の秘めている生命力です。情は、その生命力によって、その種が実際に芽を出すことです」

(37)
 義(ただしさ)を解釈すると、宜しいということです。(「宜しい」とは、「道理にかなう」です)。
 礼(ほどよさ)を解釈すると、別というです。(自分にとってほどよいことと、他者にとってほどよいこととは、おのずから別なものです)。
 智(ちえ)を解釈すると、知るということです。(人間には智があるので、いろいろと知ることができます)。
 では仁(やさしさ)を解釈すると、何になるのでしょうか。「目覚めていること」いう解釈をくだす人もいれば、「人」という解釈をくだす人もいますが、どれもまちがいです。孔子孟子が仁について言っているところを総合して、そこから考えていくべきです。仁を分かるのに二、三年かかったとしても、遅くはありません。

(38)
 性は理です。(「性=人間の本性・本当の自分」と「理=宇宙の根本・万物の根源」とは同一のものです)。
 世の中にある理(道理)は、その根本にまでさかのぼって探求していけば、不善がありません。喜怒哀楽といった情がいまだ発していない状態(心の本体である性)に、かつて不善があったことがあるでしょうか。情がすでに発していても(感情的になることなく)ほどよさを保っていれば、いつでもどこでも善でないことはありません。
 ですから、善悪を言うときには、すべて善を先に言って、悪を後に言っているのです。また、吉凶を言うときには、すべて吉を先に言って、凶を後に言っているのです。また、是非を言うときには、すべて是を先に言って、非を後に言っているのです。
(本註:程伊川著『易伝』に、こうあります。「完成することがあって、はじめて壊れることがあります。壊れることは完成の前にあるものではありません。また、獲得することがあって、はじめてなくすことがあります。何も獲得していないのに、いったい何をなくすというのでしょうか」)

(39)
質問。
 心に善悪はあるのですか。
返答。
 天にあるときには命となり、物にあるときには理となり、人にあるときには性となり、一身をつかさどるときには心となります。(このように、その呼び方はさまざまですが)それらは実際には同じものです。心はもともと善です。しかし、何かを考えたり、思ったりするときには、善もあれば、不善もあります。
 ただし、もし何らかの思いや考えが発しているときには、それを情と言うべきで、それを心と言うことはできません。たとえば、水のようなものです。水はあくまでも水ですが、それが流れて支流となって、東へ行ったり、西へ行ったりするようになると、(もはや水とは言われずに)流れと言われるようになります。

(40)
 本性は天にもとづいていますし、才能は気にもとづいています。気が清らかであると、その才能も清らかなものとなります。気が濁っていると、その才能も濁ったものとなります。才能には、善もあれば、不善もあります。本性には不善はありません。

(41)
 性(本性)は、もともとから徳を完全に備えていて、欠けたところがありません。信は、このように性が徳をもっていることを言い表しているにすぎません。ですから、四端を言うときには、信に関しては何も言われないのです。
(四端とは、惻隠、羞悪、辞譲、是非の四つの情のことです。「性→情」という図式で表すと、「仁→惻隠」「義→羞悪」「礼→辞譲」「智→是非」「信→なし」となります。)

(42)
 天地の心というものは、本来、万物を生かすものです。こういった心があるからこそ、万物が生まれてくるのです。惻隠(思いやり)の心は、人間なりに万物を生かすものです。

(43)
 横渠先生が言いました。
 気は、宇宙いっぱいに満ち満ちていて、のぼったり、くだったり、飛びまわったりしていて、休まることがありません。これが、虚実・動静のきっかけで、陰陽・剛柔の始まりです。
 上昇するものは陽気の清らかなもので、下降するものは陰気の濁ったものです。それらがばったり出会って感じあい、集まって合わさって、風や雨となったり、霜や雪となったりします。
 万物の発展も、山や川の形成も、つまらないカスも、焼けのこりも、すべてが何らかの教えをくれます。(すなわち、すべてに道理があるのですから、どんなものからでも学べます)。

(44)
 いろんな気がいり乱れていて、それらが結合して物質を形成するわけですが、それは人や物といったいろんなものを生み出します。陰と陽の二気は、陰から陽になったり、陽から陰になったりというように循環してやむことがありません。そして、それは天地の大いなる法則を確立します。

(45)
 天は、すべてのものにあって、もれはありません。それは、ちょうど仁がすべてのものにあって、もれがないようなものです。礼法の大綱である礼儀は三百あり、礼法の細目である威儀は三千あるにしても、仁(やさしさ)からはずれたものは一つもありません。(どんな礼儀作法も、相手にいやな思いをさせないための方法です。そして、もし人間にやさしさがなければ、相手にいやな思いをさせたくないとは思わないでしょう)。
詩経』に、こうあります。「天はここに明らかである。君が外出するときには、天もいっしょに外出する。天はここに明らかである。君が遊びに行くときには、天もいっしょに遊びに行く」。
 天とともにないものは一つもありません。

(46)
 鬼神とは、陰陽二気の良能(すぐれた作用)です。

(47)
 人や物が生まれると、その体を構成するために必要な気が毎日やってきて、成長していきます。(私たちは、成長するにつれて、だんだんと気力が強まるものです)。
 人や物が十分に育つと、今度はその体を構成している気が日に日に散じていって、ついには死滅してしまいます。(私たちは、年をとるにつれて、だんだんと気力が弱まるものです)。
 このとき、気がやってくること、すなわち気が伸びることを言い表したのが、鬼神の神です。また、気が散じていくこと、すなわち気が帰っていくことを言い表したのが、鬼神の鬼です。

(48)
 本性(性)は、万物の唯一の根源で、自分だけがもっているものではありません。(本性においては、自分とみんなとが一つになっています)。ただ大人(人格者)だけが、そんな道理を十分に分かっていて、それを十分に行動に生かすことができます。
 そういうわけで、大人(人格者)は、立つときには必ずみんなといっしょに立つし、知るときには必ずすべてをもれなく知るし、愛するときには必ずみんなを愛するし、人格が完成するときには自分だけが完成することはないのです。
 あの「みずから蔽い塞いで自分の本性に従うことを知らない人(自暴自棄の人)」は、どうしようもありません。

(49)
 一つだからこそ、思いもよらない不思議なはたらきをするのです。(参考:「万物一体」「理一分殊」)。
 これを人の体にたとえて言うと、手も足も一つの自分のものです。ですから、手足に何かが触れると、そのことがすぐに分かるのです。心から手足の先までわざわざ使者を行かせて、その使者が心に帰ってきて手足のことを報告してはじめて、手足に何かが触れたことが分かるわけではありません。
 これは『易経』に言うところの、「感じてついに天下のことに通じる」ということで、また「行かなくても至る」ということで、また「急がなくても速やかになる」ということです。
(人間は、本性として、あらゆる道理をもとから備えています。ですから、外から道理を教わらなくても、内なる道理に気づくことで、道理を知ることができます)。

(50)
 心は性と情を統べています。(心は性と情からなっていて、性は心の本体で、情は心の作用です)。

(51)
 一般的に言って、性(本性)のないものはありません。通じていたり、蔽われていたり、開いていたり、塞がっていたりといった違いが気稟(生まれ方の違い)にあるので、人や物といった違いがあるのです。また、厚かったり、薄かったりといった違いが蔽われ方にあるので、智者と愚者といった違いがあるのです。
 塞がっているものは堅くて開くことができません。蔽われ方の厚い人は、開くことはできるものの、開くのには困難があります。蔽われ方の薄い人は、たやすく開くことができます。開くことができたなら、だれもが天道に達し、聖人になれます。
(通蔽とは、言わば、気質的な違いです。すぐれた気質の聖人は、道理に通じています。劣った気質のもちぬしは、道理に蔽(くら)い人です。開塞とは、言わば、構造的な違いです。人にはだれしも聖人になる道が開かれていますが、物の場合、物は人ではないし、人にはなれないので、当然のことながら、聖人になる道は塞がれています)

【第二巻 為学大要~学問をするにあたっての大事な要点】

(1)
 濂渓先生が言いました。
 聖人は、天のようになりたいと思います。賢人は、聖人のようになりたいと思います。志のある人は、賢人のようになりたいと思います。
 殷王朝を創始した湯(とう)王(おう)のすぐれた部下の伊尹や、孔子の門人の顔(がん)回(かい)は、大賢人です。
 伊尹は、自分の仕えている王様が堯(ぎょう)や舜(しゅん)といった名君のようではなかったり、一人でも自分の居場所をみつけることができずフラフラしている人がいたりすると、まるで町のまん中でムチ打ちの刑をうけているかのように、その人のために何もできない自分を恥ずかしく思いました。
 顔回は、やつあたりをすることがなく、同じ失敗は二度とくりかえさず、三カ月もの長きにわたり仁(やさしさ)をなくさずにいることができました。
 伊尹が志したようなことを志し、顔回が学んだようなことを学んだなら、①二人をおいこすと聖人になれますし、②二人においつくと賢人になれますし、③二人においつけなかったとしてもよい評判をなくすことはありません。

(2)
 聖人の道は、耳に入って心に残るものです。これをつめば徳行となり、これを行えば偉業となります。かの言葉だけですませる(何も実践しない口先だけの)人間は、とるにたらない人物です。
(りっぱな人は、重厚なので、聞いたことをそのままうのみにしたりなどせず、それについてじっくり考えます。ですから、心に得るところがあります。反対に、くだらない人は、軽薄なので、聞いたことをそのままうのみにして、すぐに口から出します。ですから、心に何も残りません。)

(3)
 ある人の質問。
 聖人の孔(こう)子(し)には、三千人の門人がいましたが、ただ顔(がん)回(かい)だけが「学問を好いている」と言われました。そもそも『詩経』『書経』「六芸(礼法・音楽・弓術・馬車術・読み書き・算術)」について、三千人の門人は、習って分かっていたはずです。それならば、ただ顔回だけが好んだ学問というのは、いったいどんな学問なのですか。
 伊川先生の返答。
 学んで聖人になるための方法です。
 質問。
 聖人には、学んでなれるのですか。
 返答。
 はい、なれます。
 質問。
 その学問の方法は、どんなものですか。
 返答。
 天地は清純な気をたくわえ、五行の気のすぐれたものを得たものを人とします。
 人の性(本性)は、本体という点からすると、真にして静ですし、喜怒哀楽といった情が未だ発していない状態という点からすると、仁(やさしさ)・義(ただしさ)・礼(ほどよさ)・智(ちえ)・信(しんじつ)という五性をそなえています。
 人が(気をうけて)体をもつにいたったとき、外のものが体に触れると、心を動かします。心が動くと、喜び・怒り・悲しみ・恐れ・溺愛・憎悪・欲望という七情が出てきます。そんな情が盛んになり、ますますしまりがなくなると、性はダメにされてしまいます。
 そういうわけで、道理の分かった人は、そんな情をとりまとめて中(ほど)よくさせて、心を正し、性(心の根本)を養います。愚か者はと言うと、情をコントロールすることが分からず、情のおもむくままに流されて邪まで偏ったものとなり、性をしばりつけてダメにしてしまいます。
 そこで学問の方法としては、必ずまず以上のことを心によく分かり、どんな自分になるべきなのか(よりよい自分とは何か)について知り、そのうえで努力してよりよい自分になれるようにします。これが『中庸』に言う「道理に明るくなることによって誠になる」ということです。
 誠になるための方法は、道(道理)を信じることがあつい点にあります。道(道理)を信じることがあついと、(どんな困難があろうとも)道(道理)を思いきりよく行えるようになります。道(道理)を思いきりよく行えるようになると、(どんな妨害があろうとも)道(道理)を固く守ることができるようになります。
 仁(やさしさ)・義(ただしさ)・忠(まごころ)・信(しんじつ)の四つをなくさないようにし、あわただしいときにもそれにのっとり、とっさの場合にもそれにのっとり、社会に出るも出ないも、語るも黙るも、それにのっとります。長いことそのようにしていると、道(道理)を無理なく行えるようになって、起居動作や出処進退は礼(ほどよさ)にあたるようになり、邪まで偏った心もおのずと生じないようになります。
 ですから、顔回は「礼から外れているのなら、見たり、聞いたり、言ったり、したりしないようにすること」に努力し、それを見た孔子は「顔回は、一つ善いことが分かると、それを大切にしてなくさないようにする」と言い、また「顔回は、やつあたりをしないし、同じ失敗は二度とくりかえさないし、自分に不善があれば必ず気づけるし、自分の不善に気づけば二度と行わない」と言ったのです。
 以上が顔回の好んだ学問で、聖人になるための方法です。
 しかしながら、聖人は、別に考えなくても(おのずと)道理をわかり、別に努力しなくても(おのずと)道理を行えます。それと違って顔回は、必ず考えてはじめて道理をわかり、必ず努力してはじめて道理を行えました。顔回は、聖人になるまで、あと一歩のところにいました。顔回が聖人になれなかったのは、ただ聖人の教えを守るだけで、聖人と化すことができなかったからです。しかし、学問好きな顔回のことですから、もし顔回が早死にすることがなければ、短い期間のうちに聖人になることができたでしょう。
 後世の人は、こういったことが分からず、聖人は生まれながらにして道理のわかっている人であり、学んでなれるようなものではないと誤解してしまいました。そして、聖人になるための学問の方法もついに失われ、本当に大切なことを自分自身に求めずに外に求めるようになり、「博聞強記(何でもかでもむやみやたらに暗記すること)」や「巧文麗辞(文章をうまくし言葉をかざること)」を目指し、言うことはりっぱでも、道に至ることのできる人はほとんどいなくなりました。
 つまり、今の学問は、顔回の好んだ学問とは違っています。

(4)
 明道先生は、横渠先生から、次のように質問されました。
 性(本性)を安定させようとしているのですが、どうしても動いてしまいます。このように、なおも外(げ)物(ぶつ)(よけいなもの)にわずらわされてしまうときは、いかにすればよいものでしょうか。
 明道先生は、これについて、次のように答えました。
いわゆる安定とは、動いているときにも安定し、静かなときにも安定することです。将(ゆく)迎(くる)といった時間的な区別もなければ、内(うち)外(そと)といった空間的な区別もありません。
 もし外物を自分に関係ないものとみなし、自分がそれに従うとするなら、これは(性においては万物が一体になっているにもかかわらず)自分の性に自他の区別があるとすることになります。なおかつ性が外物に従うとなると、性が外にあるときに、何ものが内にあるというのでしょうか。これは外物の誘惑をなくすことにばかりに気をとられていて、性に内外の区別がないといったことが分かっていないのです。内(自分)と外(他者)を別物としてしまうと、安定を言うことはできません。
 そもそも天地が恒常で安定しているのは、その心が万物にあまねくいきわたり、私心がないからです。また、聖人が恒常で安定しているのは、その心が万事とうまく調和していて、私情にとらわれないからです。ですから、君子(りっぱな人)として学ぶべきことは、天地や聖人のような、広くてとらわれのない公正な心をもち、万事万物をあるがままに受け入れることのできる度量をもつことにあります。
易経』に、こうあります。
「心が定まっていれば、吉であり、悔いはなくなる。どっちつかずでふらふらしていると、君についてくるものは同類だけになる」
 もし外物の誘惑をのぞくことにこだわっていると、一方で外物の誘惑をのぞいても、他方で新たな外物の誘惑が生まれているでしょう。時間がいくらあっても足りないだけでなく、思うに、外物は無限にあるので、完全にのぞくことはできないでしょう。
 人の情(心の動き)には、おのおの不完全なところがあります。(たとえば、感情的になると、まちがいやすくなるものです)。ですから、道理にかなったことができないのです。
 おおむね病根は、「自私(自己中心であること)」と「用智(こざかしいこと)」にあります。「自私」であると、あらゆることにおいて偉業をなしとげることができません。また、「用智」であると、自分が本来もっているすばらしい知恵を自然なものにすることができません。今、外物を憎む心で、外物のない境地を心にうつしだそうとするのは、鏡をひっくりかえして、何かをうつそうとするようなものです。(どだい無理なことです)。
易経』に、こうあります。「(客観的に判断して)とどまるべきところにとどまっていれば、大丈夫だ」
孟子』に、こうあります。「知恵の悪い部分は、(物事をきちんと客観的に考えずに)無理矢理こじつけるところにある」
「外を悪いもの」「内をよいもの」とするよりは、内外の区別を忘れることです。区別を忘れれば、心はすっきりして平穏無事になります。心が平穏無事になると、安定します。心が安定すると、性(本性・本当の自分)がハッキリしてきます。性(本性)がハッキリすれば、(性においては「みんなが自分」なのですから)どうして外物に応じることをわずらわしく感じたりするでしょうか。
 聖人が喜ぶときには、(客観的にみて)喜ぶべき「もの」を喜びます。聖人が怒るときには、(客観的にみて)怒るべき「もの」を怒ります。これは、聖人の喜怒は、心にかかっておらず、「もの」にかかっているということです。このようである以上、どうして聖人が外物に応じないことがあるでしょうか。となると、どうして外に従うことをまちがいとし、内にあるものを求めることを正しいとすることができるでしょうか。今、「自私」と「用 智」による喜怒を、聖人の喜怒の正しさにくらべてみると、それはいかがなものでしょうか。(正しいと言えるでしょうか)。
 そもそも人の情というものは、発しやすくてコントロールしにくいものですが、そのなかでも怒りがもっともはなはだしいものです。ただ怒りが発したときに、とりあえず一息おいて怒りをおさめ、「怒るべきか」「怒るべきでないか」を客観的に判断するようにすれば、これまた外物の誘惑など憎むにたりないということが分かり、道(道理)とはどんなものかについてもそれなりに分かるようになるでしょう。

(5)
 伊川先生が朱長文に答えた手紙に、次のようにあります。
 聖人や賢人の言葉は、(後世に名を残すためにではなく)やむにやまれぬ理由から書かれたものです。思うに、言葉になっていると、理(道理)がはっきりするものです。言葉になっていなければ、世の中にある理(道理)があいまいになってしまいます。たとえば、日常生活用品が一つでも欠ければ、日常生活にさしさわりが出ます。それと同じように、聖人や賢人の言葉も、やむにやまれぬ必要に応じてなされたものなのです。その聖人や賢人の言葉は、世の中にある理(道理)をとらえつくしていて、またとてもよくまとまっています。
 ここ最近の人は、はじめて書物を手にするときには、(その真意ではなくて)その文章を学びます。その人たちが日ごろ書いていることは、おうおうにして聖人よりも多くなりがちです。しかしながら、それらの著作があったとしても、別に何の参考にもなりませんし、それらの著作がなかったとしても、別に何も困りはしません。つまり、それらは無用の長物なのです。しかも、無用の長物であるだけでなく、そこに書いてあることは要点からズレているので、(それらを読むと)真実から離れ、正しさを失い、かえって道(道理)を学ぶにあたっての害になります。
 あなたの手紙には「後世の人たちに、自分が善く生きることを忘れなかったということを示したい」とありますが、それはまさに世人の私心です(聖人の公心ではありません)。
 そもそも孔子が「世を没して、名の称せられないのをにくむ」と言ったのは、「死ぬまでに、みんなから称賛されるくらいの善行をしたいものだ」ということで、「有名になって後世に名を残したい」ということではありません。
 名声は、人格的にみて中くらい以下の人の励みにはなりますが、君子(りっぱな人)が気にすべきことがらではありません。

(6)
 忠信(正直)を心がけることは、徳を進める方法です。きちんと善し悪しをわきまえて発言し、熱心に志すのは、業(すべきこと)をまっとうする方法です。
 到達すべきもの(何を知るべきか)を知って、それに到達するのは、知(ちえ)を致(のば)すことです。到達すべきものを知ってから、それに到達します。知ること(認識)が先にあるので、「ともにきざしが分かる」のです。いわゆる「条理を治めるのは、智者のことだ」(『孟子』)ということです。
 達成すべきこと(何を行うべきか)を知って、それを達成するのは、力(つと)めて行うことです。達成すべきことを知っていれば、それを熱心に進めて達成します。守ること(実践)が後にあるので、「ともに義をなくさずにいられる」のです。いわゆる「条理を終えるのは、聖人のことだ」(『孟子』)ということです。
 以上が学問の終始です。(学ぶことは、物事の道理を知ることに始まり、そうして知った物事の道理を行うことで終わります。いわゆる「先知後行」です)

(7)
 君子は、敬(しっかり)を中心にすえて心をまっすぐにし、義(ただしさ)を守って行動をきちんとします。敬(しっかり)が確立すると、心がまっすぐになります。義(ただしさ)が形になると、行動がきちんとなります。義は自分から外に形(あらわ)すもので、自分の外にあるものではありません。
(義とは、たとえば善いものは善いとして好み、悪いものは悪いとして嫌うというようにして、みずから善し悪しのけじめをきっぱりつけ、筋を通すことです。たとえば宗教の教えなど、外から私たちに一方的に与えられる徳目は、義ではありません)。
 敬と義が確立すると、徳(自分が本来もっている良さ)は盛んになり、大きくしようとしなくてもおのずと大きくなります。徳はちっぽけなものではなく、①それを使用したなら、何をしても(おのずと)理にかなうようになりますし、②それを実行したなら、何をしても(おのずと)みんなのためになるようになります。だれがこのことに疑いをもつというのでしょうか。(これは疑いようのないことです)。

(8)
 天理のおもむくままに動くこと、それを无妄(まこと)と言います。人欲のおもむくままに動くこと、それを妄(でたらめ)と言います。无妄(まこと)には重大な意義があります。
 邪心がなくても、もし理にかなっていなければ、それは妄(でたらめ)であり、それがすなわち邪心(悪い心)です。(たとえ本人に悪気がなくても、人に危害を与えていれば、それは悪いことであり、そのように客観的にきちんと善し悪しを判断できない心は、未熟な心であり、その点では邪心(悪い心)です)。すでに无妄(まこと)であれば、よけいに動かないことが大切です。よけいに動けば、(无妄からはずれて)妄になってしまいます。
 ですから『易経』にある「无妄」の説明に、「正しくない動機で動くと、わざわいにみまわれる。何をしても、よい結果にならない」とあるのです。

(9)
 人の「蘊蓄(考えの深さや人格の成熟度)」は、学ぶことによって大きくなり、そのためには昔の聖人や賢人の言葉や行いについて多く聞くことです。
 すなわち、①聖人や賢人の生き方について考えて、その効用のほどをみたり、②聖人や賢人の言葉について理解して、その心を求めたりします。そして、それらを心にきざんで徳(自分が本来もっている良さ)をじっくりと熟成させるのです。

(十)
 『易経』にある「咸(感=はたらきかけること)」の全体説明(卦辞)に、こうあります。「君子は、心をからっぽにすることで、あるがままに人を受け入れる」
 それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。「心に我執(とらわれ)がなければ、感じて通じないことはなくなります。受け入れ限度をもうけて相手を受け入れたり、自分にあったものだけを選んで受け入れたりすることは、聖人がやっている、感じて通じるというやり方ではありません」(感じて通じる=感通=①直感的にわかること、②思いが相手の心に通じること)
 また、『易経』にある「咸」の部分説明の四番目(四爻)に、こうあります。「貞であれば、吉であり、悔いはなくなる。どっちつかずでふらふらしていると、君についてくるものは同類だけになる」
 それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。「感じるとは、人の動きです。ですから、咸では、人の身体を例にとって説明してあるのです。四番目の説明は、人の心に相当しています。そこにおいて「その心に感ず」と言われないのは、感じるのが心だからです。感の本来のありかたとしては、通じないことはありません。我執(とらわれ)があれば、感じて通じることの害となります。これが「悔い」です。
 聖人が天下のみんなの心を感じ入らせるのは、たとえば寒暑や晴雨のようなものです(自然現象が人間の生活に影響を与えずにはおかないように、聖人は必ず人々に何らかのよい影響をおよぼします)。このように、みんなに通じないこともなければ、みんなが応じないこともないのは、「貞」だからです。「貞」とは、心がさっぱりしていて、我執(とらわれ)がないことです。
 どっちつかずでふらふらしていて、ちっぽけな私心で相手を感じ入らせようとしても、自分の影響下にある人間なら感じ入らせて動かすことができるでしょうが、自分の影響下にない人間を感じ入らせることはできません。とらわれのある私心をもって、一方にこりかたまったり、一つのことにこだわったりしていると、どうして広くさっぱりした心をもち、すべてに通じることができるでしょうか」

(11)
 君子は、困難や障害に直面すると、必ず「自分にどのような過失があったから、このような困難や障害をまねいたのだろうか」というように考えて自分自身を反省します。そして、①自分にいまだ善くない点があれば、それを改めますし、②自分に不満足な点があれば、さらに努力を加えます。すなわち、徳(自分が本来もっている良さ)をみずから修めていくのです。

(12)
 何をすべきか明らかでなければ、無目的に動くことになります。(冥行=でたらめ)。
 動かなければ、せっかく明らかになったものを実用できません(空明=からぢえ)。

(十三)
 ①自習するとは、かさねがさね自習することです。時間をとってくりかえし自分で考え、心にしっくりするようになると、うれしくなります。②(そうして分かった)善いことを人におよぼすと、信じてくれる人が多くなるので、楽しくなります。③人におよぼすことを楽しんでいても、人から「それは善いことだ」と思われないことがあります。しかし、悶々とすることはありません。それが、いわゆる君子です。
(以上は、『論語』にある次の文章の解説です。「①学んだことをおりにふれて自習する。なんとよろこばしいことではないか。②同じことを学んでいる仲間が(自分の評判を聞いて)遠方からたずねてくることがある。なんと楽しいことではないか。③人に分かってもらえなくてもうらんだりしない。なんと君子ではないか」)

(14)
論語』に「昔のりっぱな学ぶ人は、自分のためにした」とあります。学問を身につけようとしていたのです。
論語』に「今のダメな学ぶ人は、人のためにする」とあります。学問で有名になろうとしているのです。
(自分のためにする学問とは、自分をよりよくするためのものです。人のためにする学問とは、人にいばるためのものです。ちなみに、儒学では、「昔」を善い時代、「今」を悪い時代としています)。

(15)
 伊川先生が、方道輔に対して、次のように言いました。
 聖人の道は、大通りのように平坦です(すなわち、だれもが通れる道です)。心配なのは、学ぶ人たちにその入り口が分からないことだけです。その入り口が分かれば、たとえ聖人になるというゴールまで遠い道のりであったとしても、たどりつけないことはありません。その入り口からなかに入りたければ、儒学のテキストによることです。
 現在、儒学のテキストを学んでいる人は、これまた多くいます。しかしながら、「櫃を買いて珠を還す(外側のりっぱさばかりに心をひかれ、内側の真価に気づかないこと)」という故事のようなまちがいを、そのだれもが犯しています。(すなわち、儒学のテキストの表面的な意味しか分かっておらず、そこに秘められた真意が分かっていません)。儒学のテキストは、道(道理)を表現するための手段です。そこに書いてある言葉を暗唱し、そこに書いてある字句を解釈するだけで、道にたどりつけなければ、それは役に立たないカスにすぎません。(無意味なことです)。
 どうかあなたは、儒学のテキストを通して道(道理)を探求し、努力に努力をかさねてください。すると、他日、目の前に立つ高くすぐれたものに出会えるでしょう(すなわち、道理を自得できるでしょう)。そうなると、思わず心が楽しくなり、別に努力しなくても、おのずと学ぶことをやめることができなくなります。

(16)
 明道先生は、次のように言っています。
易経』にある「言葉を修めて、その誠を確立する」ということに関しては、詳しく分かることが大切です。そこで言っているのは、「(たとえば「自分の言葉にいつわりはないだろうか」というように)自分の言葉を反省できることは、誠を確立するかなめだ」ということです。
 もし(たとえば「どう言えば相手を感心させることができるだろうか」というように)自分の言葉を飾ることだけ考えるなら、それはまちがいなくいつわりをなすことになります。しかし、もし自分の誠の心を確立するために言葉を修めるならば、それは「敬(しっかり)して心をまっすぐにし、義(ただしく)して行動をきちんとする」という実のあることを、自分自身が身をもってよく分かることになります。
 道(道理)とは、とってもひろびろしたものですから、どこから手をつければいいのか分かりません。ただ誠を確立しさえすれば、自分の足場が定まります。自分の足場が定まれば、学問を修めることができます。
易経』にある「朝から晩まで努力すること」は、とても大切なことです。これをひるがえって言うと、①「忠信(正直)は、徳(自分が本来もっている良さ)を進める方法である」ということを努力する内容とし、②「言葉を修めて、その誠を確立する」ということを学問を修める内容とするということです。
(言葉を修めるとは、ニュアンス的には、たとえば、変なこじつけをしたりせず、論理的であるようにするということです)。

(17)
 伊川先生が言いました。
「道を志すのに熱心であることは、もちろん意(心の動き)を誠にすることにつながりますが、もしあせって理(道理)からはずれると、かえって誠ではなくなってしまいます(不自然になってしまいます)。
 思うに、当然な道理として、おのずから「緩やかなもの」もあれば「厳しいもの」もあるし、おのずから「遅いもの」もあれば「速いもの」もあるものです。あせってはいけません。天地の変化を観察すれば、そのことを知ることができます」

(18)
孟子は高い才能のもちぬしなので、学びの手本にしようにも、しようがありません。学ぶ人は、顔回を手本にして学ぶといいでしょう。聖人になるのに近くなりますし、努力のしようがあります」
 さらに、こう言いました。
「学ぶ人は、まちがいたくなかったら、顔回に学ぶことが大切です」
(本註:標準があります。(顔回の学び方の標準は、たとえば本巻の「3」にあります))

(19)
 明道先生が言いました。
「しばらくは外事(習慣や作法など)を忘れなさい。ただ善を明らかにすれば、誠の心が育ち、言動が、必ずしもりっぱだとは言えないにしても、悪くはなくなります。自分を律するためのルールが簡単でないと、ゴチャゴチャとわけが分からなくなって、何の効果もあがりません」
儒学性善説の立場に立っています。ですから、何が善であるのかの答えは自分自身のなかにあるということになるので、学ぶ人は自問自答して善を自得することが必要となります。)

(20)
 学ぶ人が仁(やさしさ)について深く分かり、それをまちがいなく自分の身につけるためには、義理(道理)で心を養い育てることが必要です。たとえば儒学のテキストの真意について探求することなどが、その心を養い育てることにあたります。

(21)
 昔、周濂渓に教えてもらっていたとき、いつも「孔子やその門人の顔回の楽しんだことは何でしょうか」と質問されていました。いったい何を楽しんだのでしょう。(あなたは、どう思いますか)。
(たとえば「貧にいて道を楽しむ」という言葉があります)。

(22)
「所見(何かについての自分の具体的な意見)」も、「所期(自分がしようと考えていること)」も、ともに遠大でなければなりません。
 しかしながら、それらを行うにあたっては、自分の力量に応じて、じょじょにその実現へと向かっていくことが大切です。
 志が大きくて心が疲れたり、力が小さいのに任務が重大であったりすると、おそらくは結果的に失敗することになるでしょう。

(23)
 友人どうしお互いに議論しあって学習するときには、さらにお互いに相手の善いところを見習う努力を多くするようにするのがベストです。

(24)
 大切なことは、心を大きくし、広くさせることです。たとえば、九階だてのタワーを建てるようなものです。土台がしっかりしていて、はじめて完成させることができます。

(25)
 明道先生が言いました。
「舜は、もとは貧農でしたが、艱難辛苦をのりこえて、名君となりました。また、百里奚は、もとは貧民でしたが、艱難辛苦をのりこえて、名政治家となりました。その人たちのように成熟したければ、その人たちのように艱難辛苦を体験することが大切です」(「艱難、汝を玉にす」)

(26)
 孔子の弟子の曾参は、魯鈍であることによって、本当に大切なことを会得できました。(のろまな人は、かえって他にふりまわされないですむので、その心が散漫にならないのだそうです。心が散漫だと、まさに「心ここにあらざれば、視れども見えず」で、本当に大切なことは見えてこないものです)。

(27)
 明道先生は、「記誦博識(なんでもかんでも暗記してひろく知っていること)」を「玩物喪志(地位や名誉や財産など、表面的な華やかさばかり必要以上に求めて、自分の志を見失うこと)」とみなしました。
(本註:あるとき、儒学のテキストの要点をまとめて、一冊の書物を作りました。すると鄭轂が言いました。
「かつて謝顕道先生に会ったのですが、そのとき先生が言いました。「私が首都で学んでいたとき、古人の善行の話ばかり集めて、一冊の書物を作りました。それを見た明道先生は、玩物喪志だね、と言いました」
 思うに、「心の中につまらぬものをためこむべきでないよ」と言いたかったのでしょう」
 また、胡安国が言いました。「謝顕道先生は、いろんな知識を多く暗記することが学問であると考え、自分を物知りだと自負していました。そして、明道先生に対して、歴史書に書いてあることをまるごと全部、一字ももらさず暗唱してみせました。
 それに対して明道先生は、こう言いました。「あなたは、とても多くのことを覚えているけれど、玩物喪志になっていると言えますね」
 謝顕道先生は、そう言われて、とても恥ずかしくなり、赤面しました。ところが、謝顕道先生は、明道先生が歴史書を読むにあたって、行をおってすらすらと読んでいって、(歴史的背景の解説を参照せずとも)一字もつっかかることがないのを見て、(先生だって歴史的背景を覚えているからこそ、すらすらと読めるのではないかと)はなはだ不服に思いました。
 しかし、その後、謝顕道先生は、反省して自分のまちがいに気づきました。そして、この自分の体験談を話の糸口にして、いろんな知識を暗記している人たちを正しいほうへと教え導きました」
(覚えるために学ぶのではなく、学ぶために覚えるわけです)。

(28)
 礼節と音楽については、礼節だけ重んじて気難しくなったり、音楽だけ重んじて怠惰になったりしないようにすれば、心が正常な状態になります。(礼節は心をひきしまらせ、音楽は心をリラックスさせます)。
(原註:以上はすべて明道の話)。

(29)
 父と子の関係や君主と臣下の関係は、世界共通の定理で、この世にいるかぎり逃れることのできないものです。「天分(天から与えられたもの・天理)」に安んじることができ、「私心(主観や欲望にとらわれた心・人欲)」がなければ、一つでも理に反するようなことをしたり、一人でも罪のない人を殺したりすることはありません。ちょっとでも私心があれば、もはや王者たることはできません。

(30)
 性(精神)を論じて 気(肉体)を論じなければ、不備です。気(肉体)を論じて性(精神)を論じなければ、不明です。性(精神)と気(肉体)を二つに分けて考えるのは、正しくありません。

(31)
 学問を論じるなら、理(道理)を明らかにすることが必要です。政治を論じるなら、根本を分かることが大切です。
儒学で言う政治における根本とは、たとえば、浮華を去って質実につくことや、流通業(商業)よりも生産業(農業)を重んじることなどです)。

(32)
 孔子の門人の曾點と漆雕開は、すでに道理をあらかた分かっていました。ですから、聖人孔子は、二人の意見に賛同したのです。
(曾點は、理想として、親しい人たちと仲良く楽しく暮らすことをあげた人です。また、漆雕開は、自分に厳しかった人です)。

(33)
 まず根本(本心や本性)を培い養うことが大切です。そうしてはじめて進むべき方向を定めることができます。進むべき方向が定まれば、その到達度の「深い」「浅い」は、本人が努力するか、しないかにかかっています。
(本心や本性を培い養うには、主静・存養・静坐などをするのが有効です)。

(34)
「敬(しっかりすること)」と「義(ただしくすること)」をともに実践することによって、まっすぐ向上していきます。天徳に達するのも、これによります。

(35)
 なまける心が少しでも生じれば、それはまさに自暴自棄です。

(36)
 学ばなければ、老衰します。

(37)
 人の学びが進まないのは、ただ勇ましさが不足しているからです。

(38)
 学ぶ人は、そのときそのときの気分に負けたり、世間一般のならわしに流されたりするようなときには、ただ自分の意志の弱さを責めることができるだけです。(他のせいにすることはできません)。

(39)
 内(こころ)が重厚であれば、外の軽薄なものに勝てます。
 物事の道理を深く分かっていれば、どんな誘惑もちっぽけに見えます。

(40)
 董仲舒は、こう言っています。
「何が正しいことであるかをきちんとわきまえ、利益をはからない(利益よりも正義を重んじる)。どうするのが正しいやり方であるかを明らかにし、成功をくわだてない(成功よりも正道を重んじる)」
 孫思?は、こう言っています。
「胆は大きいほうがいいし、心は細やかなほうがいい。知はまろやかなほうがいいし、行はきちんとしているほうがいい」
 それらはともに模範とすることができます。

(41)
 一般的に、学ぶにあたり、黙って自然と心に分かること、それを「自得(自分で考えて会得すること)」と言います。(こじつけるなどして)あれこれよけいな作為をほどこせば、それはもはや自得ではありません。

(42)
 見たり、聞いたり、思ったり、考えたり、動いたり、為したりするのは、すべて天然自然なことです。人は、それらのなかで、「真(ほんとう)」と「妄(でたらめ)」を見分けることのできることが必要です。

(43)
 明道先生は、次のように言っています。
 学ぶにあたっては、ただ力をつくして勉め励んで深奥へと迫っていき、自分にあったことをすることが必要なだけです。ですから、『論語』に「切実に調べて身近に考えれば、仁はそのなかにある」と言われているのです。
論語』に「言うことが忠信(正直)で、行いが篤敬(誠実)であれば、まったく見知らぬ異民族の国に行っても、うまくいく。反対に、言うことが不忠信(不正直)で、行いが不篤敬(不誠実)であれば、よく知っている地元でも、うまくいかない。つまり、忠信(正直)と篤敬(誠実)とが、立っているときには自分の目の前にいるようだし、馬車に乗っているときには馬のところにいるようだというくらい、しっかりと身についていてこそ、うまくいくのだ」と言われていますが、これこそが学びです。
 すぐれた資質のもちぬしは、こういったことをよく分かることができ、自分の悪さもすぐに解消して、天地や万物と一体の境地に達します。(すなわち、聖人になれます)。それに次ぐ資質のもちぬしでも、ただ荘(どっしり)し、 敬(しっかり)して、自分を修養していれば、結果的にはすぐれた資質のもちぬしと同じく天地や万物と一体の境地に達することができます。
(○荘=むやみに他人の意見に従ったり、軽率に言動したりしないこと。○敬=自分をしっかり保ち、自分に主体性を確立すること)。

(44)
 忠信(正直)は、徳を進める方法です。言葉を修めて誠を確立することは、業をまっとうする方法です。(言葉を修めて誠を確立することに関しては、本巻の「十六」を参考にされてください)。以上は「乾道(アクティブなやり方)」です。
 敬(しっかり)して心をまっすぐにし、義(ただしく)して行動をきちんとします。以上は「坤道(落ち着いたやり方)」です。

(45)
 一般的に言って、学び始めたばかりの人は、(学ぶにあたって)どこに力をいれればよいかを知ることが大切です。(たとえば、自分に切実なことを学ぶこと)。
 すでにかなり学んでいる人は、(学ぶことによって)どんな力がつくかを知ることが大切です。(たとえば、聖人になれること)。

(46)
 畑仕事をしている人がいて、知力をつくして一所懸命にはたらいていました。それに感心した先生が、門人たちに言いました。
「『易経』にある「蠱」の説明に、「君子は、民を励まし、徳を育む」とあります。君子が努めるべきことは、ただその二つだけです。他にはありません。それらは修己治人の道です」
(修己治人=自分がよくなることで、人を感化して、その人もよくすること)。

(47)
論語』に「幅広く学んで熱心に志し、切実に調べて身近に考えると、仁はそのなかにある」とありますが、仁に関して、どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。学ぶ人は、自分で考えて、そのことが分かることが必要です。そのことが分かれば、上から下まですべて分かります。

(48)
 心が広くても、芯が弱ければ、(主体性がないので)自立できにくくなります。芯が強くても、心が狭ければ、(みんなに嫌われるので)居場所がなくなります。(本註:本巻の「八十九」に収録されている『西銘』は、心の広さについて述べています)。

(49)
 伊川先生は、次のように言っています。
 昔のりっぱな学ぶ人は、ゆったりしていて心によゆうがあり、順序よく着実に学びを深めていくことができました。(「高きに登るには卑きよりす」「下学上達」)。今のりっぱでない学ぶ人は、それとは反対に、(たとえば試験の前の日にする一夜づけのように急いで頭につめこんで)学びをその場限りの話にして、(身近なことをバカにして)「高遠なこと」につとめるだけです。
 私は、杜元凱の言葉を好いています。それは、「海の水が大地にしみこむように、めぐみの雨が大地をうるおすように、ゆったりと着実に学んだならば、疑問は氷がとけるように消えてなくなり、楽しい気分で理にかなうようになる。そのようになってこそ会得できたと言える」という言葉です。
 今のりっぱでない学ぶ人は、おうおうにして孔子の門人の子游や子夏を学ぶに足りない人物だとみなします。(子游や子夏は、学芸にすぐれていました)。しかしながら、その二人の言動は、そんな評価とは反対に、すべて実のあることがらです。近ごろの学ぶ人は、「高遠なこと」を好みますが、それは、たとえば、心を遠くの地で遊ばせながら、体はいぜんとしてここにあるようなものです。(非現実的なことです)。

(50)
 修養によって長生きできること。善政によって国運が増すこと。ふつうの人が聖人になること。それらはすべて、きちんと努力しさえすれば、必ず実現できることです。

(51)
 忠恕は、公平のもとです。徳(自分が本来もっている良さ)が成熟すると、おのずと忠恕になります。それが完成すると、公平になります。(忠は真心、恕は思いやり、忠恕は真心をつくし、相手を思いやることです)。

(52)
 仁の道は、その要点をまとめて一言で言えば、公(公正)ということです。しかし、公(公正)は仁のもとであるので、公(公正)をそのまま仁であるとみなすことはできません。人が公(公正)を身につけるので、仁となるのです。公(公正)とは、単に「自分」と「他者」を同等に見ることにすぎません。ですから、仁であると、恕すること(思いやること)ができるようになるし、愛することができるようになるのです。恕(思いやり)は仁の発露で、愛は仁の効果です。

(53)
 今の人の学び方は、山に登るようなものです。なだらかなところではとても元気がいいのですが、難所にさしかかったとたん、急に元気がなくなります。大切なのは、勇猛果敢に進むことです。

(54)
 人は「つとめて実践することが必要だ」と言います。しかし、それはあさはかな意見にすぎません。自分の本当にすべきことが分かれば、別にわざわざ意志しなくても、おのずとそれをつとめて行うようになるものです。わざわざ「~しよう」と意志することは、よけいな作為にもとづく私心です。(無為すなわち誠ではありません)。さて、そのような無理は、一体いつまで続くでしょうか。

(55)
「それ」を知れば、必ず「それ」を好きになります。「それ」を好きになれば、必ず「それ」を求めます。「それ」を求めれば、必ず「それ」を得ます。(それ=学ぶべきことがら)。
 古人のこういった学びは、生涯にわたってなされたものです。とっさの場合にも、今にも危ないという場合にも、いついかなるときにも、そのように学ぶことができれば、どうして道理を得られないことがあるでしょうか。(必ず道理を自分のものとすることができます)。

(56)
 昔(聖人や賢人の活躍していた時代)の学は一種類で、今(聖人や賢人のいなくなった時代)の学は三種類です。仏教道教などの異端の学については、ここでは論外です。
 今の学の一つ目は、「(うまい文章を書くことを目指す)文章の学」です。二つ目は、「(書物の字句の解釈にこだわる)訓詁の学」です。三つ目は、「(本当に大切なことを分かるための)儒者の学」です。聖人の道を進もうと思うなら、「儒者の学」をすてることはできません。

(57)
 質問。「文章を作る勉強は、道の害となりますか」。(文章を作る勉強とは、読みやすい文章を書く練習ではなく、人を感動させる文章を書く練習のことです)。
 返答。「害になります。一般的に言って、文章を書くにあたっては、そこに専心しなければ、うまい文章は書けません。もし、そこに専心すれば、心がその一点のみに縛られてしまいます。それでどうして天地と同じくらい大きな心をもてるでしょうか。『書経』に「物をもてあそんで志を喪う=玩物喪志」とありますが、文章を書くのもまた、その「物をもてあそぶこと」にあたります。
 呂与叔の詩に、こうあります。
「学問は、杜元凱のようだと、言葉の解釈にうるさくなる。文章は、司馬相如のようだと、俳優のように人に見せるためのものとなる。ただ孔子の門人たちには、そのように一芸にひいでたものはいない。しかし、(杜元凱も、司馬相如も)孔子の門人の顔回の至った境地にはかなわない」
 この詩は、とてもいいものです。昔の学ぶ人は、ただ心を養うことだけにつとめて、その他のことは学びませんでした。今の文章を書く人は、うまい文章を書くことに専念して、人の目や耳を喜ばせています。人を喜ばせているのですから、俳優以外のなにものでもありません」
 質問。「では、昔は、(昔の聖人たちはりっぱな文章を書き残していますが)文章を書く勉強をしなかったのですか」
 返答。「人は、聖人の書き残した『六経』(儒学のテキスト群)をみて、「聖人もまた、文章を作る勉強をしたに違いない(あれだけりっぱなことを書いているのだから)」と思っています。しかし、聖人は、ただ心のなかに暖めていた深い考えを述べただけで、それがおのずとりっぱな文章になったにすぎません。人は、そのことを知らないのです。いわゆる「徳のある人は、必ずりっぱなことを言う」(『論語』)というわけです」
 質問。「孔子の門人の子游や子夏が「文学」と称せられたのは、どうしてですか(文を学んだのではないのですか)」
 返答。「どうして子游や子夏が、わざわざ筆を手にして、文章を作る勉強をしたりするでしょうか。たとえば「天文をみて時変を察し、人文をみて天下を化成する」(『易経』)という場合の「天文」や「人文」の「文」は、「文章」の「文」と同じでしょうか」

(58)
 心の根本を養うためには、敬(しっかりすること)を用いることが大切です。
 学びを進めたければ、知(ちえ)を致(のば)すことです。

(59)
「(自分はたいした人間ではないから)いちばん大切なことは人にゆずって、さしあたり次に大切なことをしよう」と思ってはいけません。少しでもそのように思えば、それは「自棄(あきらめ)」です。「仁(やさしさ)にいて義(ただしさ)によること」のできない人間とは同じではないにしても、自分で自分をちっぽけなものにしている点では同じです。(仁にいること=仁をなくさないこと。義によること=義にのっとること)。学問に関して言えば、道(道理)を志すようにし、人間に関して言えば、聖人を志すようにすることです。

(60)
 質問。「何かあって、それに対処しなければならないときにも、敬(しっかりすること)を用いればよいのですか」。
 返答。「敬(しっかりすること)とは、心の根本を養うためのものです。何かあって、それに対処しなければならないときには、「義(ただしさ)の積み重ね(積善=善い行いを多く実践していくこと)」を用いることが大切です。ただ敬を用いることを知っているだけで、義を積み重ねること(積善)を知らなければ、かえってすべてをだいなしにすることになります」
 質問。「義とは、理にかなっていることではないのですか」。
 返答。「理にかなっているのは、それぞれのものです(すなわち、万事万物に理があります)。義とは、自分の心がけのことです(すなわち、理にかなったことをしようと努めることです)」

(61)
 質問。「敬(しっかりすること)と義(ただしくすること)は、どう違うのですか」。
 返答。「敬とは、ただ自分をしっかり保つための方法です。義とはつまり、善し悪しをわきまえ、理に従って行動することで、これが義となるのです。もし、ただ敬を守るだけで、義を積み重ねること(積善)を知らないなら、これはかえってまったく何もしていないのと同じです。(訳者註││敬は意識の問題で、義は実践の問題です)。
 たとえば、こういうことです。もし孝行をしようと思うならば、「孝行」というスローガンを心に誓うだけでは、孝行はできません。「どうすれば両親の世話ができるだろうか」とか、「どうすれば両親にほどよい温度の生活環境を提供できるだろうか」とかいうように、その実現方法が分かっていてはじめて、孝行の道をつくせるようになるものです」

(62)
 学ぶ人は、実のあること(本当に大切なこと)につとめることが大切です。名をあげることばかり求めなければ、まちがうことはありません。名をあげることばかり考えていれば、(それは中身のよさよりも見た目のよさを重んじることですから)いつわりをなすことになります。そんな人は、根本がすでに失われているのに、さらにいったい何を学ぼうというのでしょうか。名をあげるためにするのと、利を得るためにするのとでは、確かに清濁が違っています。しかしながら、利心の点では、どちらも同じです。

(63)
 孔子の門人の顔回は、三カ月もの長きにわたって仁であることができました。つまり、私意(エゴ)にとらわれることが、まったくなかったのです。少しでも私意があれば、それはもはや仁ではありません。

(64)
論語』にあるように「仁である人(聖人)は、困難にたちむかうことを優先し、利益はあとまわしにする」ものです。成果をあげることばかり考えて行うのは、すべて利益を優先しているのです。昔のりっぱな人は、ただ仁の実践だけを考えていました。今のりっぱでない人はみんな、利益を優先しています。

(65)
 聖人になろうという志があってはじめて、ともに学ぶことができます。①学んでよく考えてはじめて、ともに道へと向かうことができます。②考えて心に得るものがあってはじめて、ともに道に立つことができます。③道と一つになれてはじめて、ともに何事にも臨機応変に正しく対処することができようになります。
(ここの文章は、『論語』にある次の文章に関したものです。「①ともに学べるからといって、ともに道へと向かえるわけではない。②ともに道へと向かえるからといって、ともに道に立てるわけではない。③ともに道に立てるからといって、ともに何事にも臨機応変に正しく対処できるわけではない」)。

(66)
 昔のりっぱな学ぶ人は、自分のためにしました。(たとえば、自分をよりよくするために学ぶこと)。そして、最終的には、他者の徳(良さ)をも開花させました。
 今のりっぱでない学ぶ人は、人のためにします。(たとえば、人に自分のえらさをひけらかすために学ぶこと)。そして、最終的には、自分をなくしてしまいます。

(67)
 君子の学びは、日に日に自分を新たにしていくものです。日に日に新しくなっていく人は、日に日に進歩していきます。日に日に新しくならない人は、日に日に退化していきます。進歩がなくて退化しない人はいません。ただ聖人の道だけは、進歩も退化もありません。それは、(時間と空間をこえた、普遍的な)究極点にまで到達しているからです。

(68)
 明道先生が言いました。
「性の静かな人(なにものにも動じることなく、つねにおちついている人)は、きちんと学ぶことができます」

(69)
 心が広くても、芯が強くなければ、だらしなくなります。(たとえば、やさしくできても、厳しくできない人は、優柔不断になりがちです)。
 芯が強くても、心が広くなければ、偏屈になります。(たとえば、厳しくできても、やさしくできない人は、自分勝手になりがちです)。

(70)
 本性が善であるということを知り、忠信(正直)を根本とするのが、『孟子』に言う「まず、その大なる者を立てる(芯をしっかりさせる)」ということです。

(71)
 伊川先生が言いました。「人は、ゆったり、どっしりしていると、学びがしっかりしてきます」
(ゆったり=心が安らかで、おちついているさま。どっしり=むやみに他人の意見に従ったり、軽率に言動したりしないさま)。

(72)
 ①ひろく学び(博学)、②疑問点はほうっておかず(審問)、③よく考え(慎思)、④きちんと判断をくだし(明弁)、⑤熱心に実践します(篤行)(『中庸』)。それら五つのうち一つでも欠けると、それはもはや学問ではありません。

(73)
 張思叔が質問したのですが、それはとても「高遠なこと」でした。
 伊川は、その質問には答えず、少し間をおいてから、こう言いました。
「高いところに達するためには、必ず低いところから登り始めるものです」

(74)
 明道先生が言いました。
「人が学問をするにあたっては、先に基準を設定したりなどしてほしくないですね。もし順序よく、うまずたゆまずやっていれば、おのずと到達すべきところに到達するものです」

(75)
 尹彦明は、伊川と会見してから半年後、はじめて『大学』と『西銘』をみせてもらえました。
(『大学』とは、自己修養のための方法論を述べた儒学のテキストです。また、『西銘』とは、張横渠の書いた論文で、本巻の「89」にあります)。

(76)
 ある人が、「無心(心を無にすること)」を説いていました。
 伊川は言いました。「無心とするのは、正しくありません。ただ「私心を無くする」と言うべきでしょう」

(77)
 謝顕道が、伊川に会いました。
 伊川が言いました。
「最近、どうですか」
 謝顕道は答えました。
「『易経』に言う、「天下、何をか思い、何をかおもんぱからん(天下に何の思いわずらうことがあろうか)」といったところです」
 伊川は言いました。
「まあ、確かにそういった道理もありますが、君が口にするには、まだまだ早すぎますよ」
 伊川は、(厳しい人ですから)すぐに人を必ず鍛練します。そう言ったあと、さらにこう言いました。
「無理のない、自分にあった努力をしてください」

(78)
 謝顕道が言いました。
「私は、明道先生に教えてもらっていたころ、先生に教えられるままにするだけでした。明道先生は、そんな私に、こう言いました。
「君と話していると、まるで酔っぱらいの相手をしているようだよ。むこうに倒れかけているので、こちらに助け起こしてあげると、今度はこちらに倒れてくるしね」
 教えられるがままではいけませんね」

(79)
 横渠先生が『易経』の文章を解説して言いました。
「①「義を精しくし神に入る(道理をよく分かり神の域に達する)」とは、我が心に先の事を見通し(先見の明をもち)、我が身を社会に役立てようとすることです。
 ②「用を利し身を安んじる(社会に役立ち一身を安泰にする)」とは、ふだんから我が身を社会に役立て(社会貢献をし)、我が心を養っていくことです。
 ③「神を窮め化を知る(自然の摂理をきわめ自然の変化を知る)」とは、心を十分によく養えるとおのずとそうなるのであって、無理して考えることで達成できるものではありません。
 ですから、君子(りっぱな人)は、徳(自分が本来もっている良さ)を大切にすること以外のことを、場合によっては考えないのです」

(80)
 身体には「気質の性(本能)」があります。しかし、うまく「気質の性」を自分のコントロール下におくことができれば、「天地の性(人間性)」をなくすことはありません。ですから、君子(りっぱな人)のなかには、「気質の性」を本性とはみなさない人もいるのです。

(81)
 徳(良心)が気(本能)に勝てなければ、気(本能)が「性命(自分の中心)」となります。徳(良心)が気(本能)に勝てば、徳(良心)が「性命(自分の中心)」となります。
 理(道理)をきわめつくし、性(本性)をきわめつくせば、「性命」の「性」は天徳となり、「性命」の「命」は天理となります。(すなわち、天人合一の境地に達します)。気(本能)のなかでどうしようもないのは、生死や寿命だけです。
(もともと人間は善であり、だれもが徳をもっているのですが、気の向くままに流されて生きると、理にかなった生き方も、性にあった生き方もできず、せっかくの徳をだいなしにしてしまうことになります)。

(82)
 すべては天から生まれたものです。(ですから、この世にはもとから悪いものは存在しません)。陽気で明るい心が勝てば、徳性(人間が生まれながらにもっているりっぱな本性)が生かされます。陰気で濁った心が勝てば、物欲のままに行動します。悪さ(物欲)を治めて、善さ(徳性)をまっとうするためには、学びによることが必要です。

(八十三)
 心を大きくすると、万物一体の境地に達します。一体となっていないものが何かあれば、それは心が何かをしめだしているのです。世間の人の心は、見聞や経験といった狭いものにとどまっています。聖人は、性(本性=道理)をきわめつくし、見聞や経験などで心をしばりつけたりしません。
(性すなわち理は、時空をこえた普遍的なものです。これとは反対に、私たちが見聞したり、経験したりできるのは、全時空からみて、時間的にも、空間的にも、そのごく一部にすぎません。ですから、心は、性にのっとると大きくなり、見聞や経験にのっとると狭くなるのです)。
 聖人にとって世界は、自分以外のなにものでもありません。(「すべて」が「自分」なのです)。そういうわけで、『孟子』に「心をきわめつくせば、性が分かり、天が分かる」と言われているのです。
 天は大きくて、すべてをつつみこんでいます。ですから、何かをしめだすような心では、天の心と一つになることはできないのです。

(84)
 孔子が「意」「必」「固」「我」の四つを捨て去ったということは、学びを始めてから徳の完成にいたるまで、そのすべてに適用される教えです。
「意」とは、よけいなことを考えることです。
「必」とは、何か見返りを期待することです。
「固」とは、自分だけが絶対に正しいと信じ、他人の意見にまったく耳をかさないことです。
「我」とは、自他を差別することです。
 それらの一つでもあれば、天地と調和しなくなります。
朱子によると、「意=私意(わがまま)」「必=期必(きたい)」「固=執滞(とらわれ)」「我=私己(エゴ)」です。「期必」とは、見返りなどを期待することです)。

(85)
論語』にある「上達」とは、天理に戻ることで、「下達」とは、人欲に従うことなのかもしれません。(天理を存して人欲を去れば、「上達」できます)。

(86)
 知(ちえ)が高いとは、まさに天であり、形のないものです。宇宙の表も裏もすべて知っているなら、その知は高いですが、知がそこまで高まっても、礼によってそれを身につけなければ、自分のものにできているとは言えません。(知=理を知ること。礼=理にかなった行いをすること)。
 ですから、知と礼とが完全に身についてから、道義(道理)が出てくるのです。これはたとえば、天と地とが定まってから、いろんな変化が起こるようなものです。(天と地のどちらか一方でも欠ければ、世界は不安定になるように、知と礼のどちらか一方でも欠ければ、人間は不安定になります)。

(87)
 困難が人を進歩向上させるのは、困難に出会うと、徳(自分が本来もっている良さ)がはっきりするし、すぐさま心がゆさぶられるからです。そういうわけで、『孟子』に「すぐれた徳性(人間が生まれながらにもっているりっぱな本性)やたくみな知恵のある人は、必ず過去に何らかの困難を経験している」と言われているのです。

(88)
 ①言うことにはりっぱな教えがふくまれていること。
 ②行動は人の手本となりえるようにすること。
 ③昼間は実践につとめること。
 ④夜は静かに考えて得るところがあること。
 ⑤一息の間にも心を養うこと。
 ⑥一瞬も自分を見失わないこと。

(89)
 横渠先生の書いた『西銘(訂頑)』に、次のようにあります。
 乾(天)は父で、坤(地)は母です。自分というちっぽけな存在は、そのなかに混然として存在しています。(自分は天地の一部なのです)。
 ですから、天地の間に充満している気は、自分の身体そのものです。天地をコントロールしている理は、自分の本性そのものです。人は、自分の兄弟です。物は、自分の仲間です。皇帝は、わが父母たる天地の長男です。その大臣は、わが家の執事です。
 世間の高齢者を大切にすることは、わが家の高齢者を大切にすることです。世間の弱者を慈しむことは、わが家の弱者を慈しむことです。聖人とは、わが父母たる天地と同じ徳をもった人です。賢者とは、わが父母たる天地のようにすぐれた人です。およそ世間にいる身体障害者や天涯孤独な人はみんな、苦境をうったえることのできない、わが兄弟です。
 自分を大切にするのは、わが父母たる天地に対する子のつつしみです。人生を楽しみ逆境を気にしないのは、わが父母たる天地に対する子の純粋な孝行です。わが父母たる天地の本性である理に反することを、背徳と言います。わが父母たる天地の心である仁を害することを、犯罪と言います。
 悪いことをする人は、わが父母たる天地のできの悪い子供です。善いことをする人は、わが父母たる天地によく似たできのいい子供です。
 天道を知ることは、わが父母たる天地の事業を完成させることです。天徳をきわめることは、わが父母たる天地の意志を継承することです。「たとえ神様に見られても恥ずかしくない」と言える人は、わが父母たる天地に恥ずかしい思いをさせないりっぱな子供です。本心を保ち、本性を養う人は、わが父母たる天地によくつかえているりっぱな子供です。
 酒におぼれると人間をダメにしてしまうという理由でうまい酒を遠ざけるのは、禹王がした孝行のようなりっぱな行いです。英才を育てるのは、とても孝行者だった潁考叔がまわりの人を感化して孝行者を増やしたようなりっぱな行いです。舜に功があったことには、舜はダメな父に一所懸命につかえ、ついにはダメな父をよい父に変えました。申生が恭(きちんと)していたことには、申生は親から無実の罪に問われても逆らうことなく、それに甘んじて死を選びました。親(父母たる天地)からもらった体を死ぬまで大切にする人は、まるで曾子のような孝行者です。親(父母たる天地)から与えられた命令をすべて遂行するようにつとめる人は、まるで伯奇のような孝行者です。
 富貴や幸運は、わが父母たる天地が自分を応援してくれているのです。貧賎や悲運は、わが父母たる天地が自分を鍛えてくれているのです。生きているときには、わが父母たる天地に逆らうことなくつかえ、死ぬときがくれば、安らかに死んでいきます。
(本註:明道先生が言いました。
「『西銘』に書いてあることは、とても味わい深くて、洗練されたものです。秦王朝漢王朝の時代以来、ここまで到達できた人はいません」
 さらに、こう言いました。
「『西銘』という論文は、文句のつけようがないくらい十分な内容のもので、それを読めば仁とは何かについて分かります。学ぶ人は、その内容を体認して、自分自身のものとすることができれば、高い境地に到達します。そして、高い境地に達すると、『西銘』から一味ちがった印象をうけとることができます。しかし、高遠なことに心をはせてはいけません。そんなことをしていると、道の理解において何の役にも立ちません」
 さらに、こう言いました。
「『西銘』をよく読んで心をりっぱにすると、天徳に達することができます」
 さらに、こう言いました。
「游酢は、『西銘』を手に入れて読むと、氷がとけるようにさっと理解して、「これは『中庸』の根本的な部分について述べている」と言いました。游酢は、行間を読み、その真意を分かることができています」)
(本註②:楊中立が質問しました。
「『西銘』では、理論的なことについて述べていても、その具体化について考えていません。おそらく、あのままいくと、単なる墨子の博愛主義になってしまうでしょう。これに関して、どう思われますか」
 伊川先生は言いました。
「横渠の書いたもので、いきすぎがあると言えるのは、『正蒙』です。『西銘』は、物事の道理をおしはかった意義のあるもので、聖人がほのめかすだけで言わなかったことをハッキリさせたものです。それは、孟子性善説や養気説と同じくらいの業績です。どうして墨子なんぞと比べることができるでしょうか。
『西銘』は、「理一にして分殊=理は一つであり分は異なること」を明らかにしています。墨子の場合だと、「二本にして無分=もとは二であり区分がない」です。分殊のもつ弊害は、私心が勝って仁を失うことにあります。無分のもつ罪過は、区別なく愛して義をだいなしにすることにあります。万物それぞれにある理から根本的な一つの理を推察して、私心が勝つのをとどめるのは、仁を行う方法です。区別せずに博愛に迷い、親を捨てるに至るのは、義をそこなうものです。
 あなたが『西銘』を墨子の博愛主義とくらべ、『西銘』の主張と墨子の主張は同じだとするのは、まちがいです。『西銘』の主張は、そこに書いてあることを人に行わせて、それを具体化しようとしています。それにもかかわらず、具体化について考えていないと言うのは、おかしなことではないでしょうか」)。

 また、横渠先生の書いた『東銘(?愚)』に、次のようにあります。
 つまらぬ発言は、あれこれ思うことから生まれますし、たわけた行動は、あれこれ謀ることから生まれます。そして、そのつまらぬ発言は、自分の声として出てくるものですし、そのたわけた行動は、自分の手足の動きとして出てくるものです。それにもかかわらず、(自分のまちがいを認めずに)「それは自分のせいではない」と言うのは、どんなものでしょう。そんな人は、人から信じてもらおうとしても、どだい無理です。もちろん、過った発言は、心からのものではありませんし、過った行動は、誠のものではありません。それにもかかわらず、それら言動の過失を「それが本当の自分だ」と言うのは、自分をいつわっているのです。また、他人を自分の考えに従わせようとするのは、その他人をいつわらせることです。
 ある人(A)は、本気の言動を、みんなからまちがっていると非難されたために、「あれは単なるたわむれだ」と言って、責任逃れをします。また、ある人(B)は、その言い方や行い方がまずかったために誤解されたにすぎないのに、(自暴自棄になって)「それが自分の本心だ」と言って、自分をいつわります。そのような人は、心からまちがっていることが本当に悪くて、表面的なまちがいは本当に悪いわけではないということを知らないのです。しかも、それだけでなく、前者(A)は傲慢さを増長させ、後者(B)は過失をつらぬきます。これ以上はなはだしい愚か者は、はたしているでしょうか。
(本註:横渠の教室の西側の窓のところに『訂頑=かたくなな連中を正すこと』という論文を掲示し、東側の窓のところに『?愚=愚か者を治療すること』という論文を掲示していました。
 伊川は、「いずれ争いのもとになるにちがいない」と考えて、『かたくなな連中を正すこと』を『西銘』と改名し、『愚か者を治療すること』を『東銘』と改名しました)。
(伊川が横渠の論文の題名を変えた理由として、次のような説があります。①その題名が過激なので、他の学派との争いのたねになると考えられたから。②もとの題名をみる限りでは、両方の論文が同じ内容のものに見えるので、それを学ぶ人たちが両者は同じことを述べているのか、両者は違ったことを言っているのかで争う恐れがあるから)。

(90)
①自分をりっぱな人にしたいと思うのなら、必ずまず重厚にして、自分をしっかり保つことです。(重厚=むやみに他人の意見に従ったり、軽率に言動したりしないこと)。
②重厚にし、学ぶことを知れば、徳(自分が本来もっている良さ)が進み、かたくなでなくなります。
③忠信(正直)が徳を進めます。
④ただ、すぐれた古人の教えに友のように親しみ、今のすぐれた人に教わることです。
⑤すぐれた人と親しくなりたければ、自分にまちがいがあったときには、ためらうことなくそれをすなおに改めるようにすることが大切です。
(『論語』に、こうあります。「①君子は、重厚でなければ、威厳がありません。②学べば、頑固ではなくなります。③忠信を第一にし、④自分より劣った人を友人としてはなりません。⑤まちがったなら、ためらうことなく改めなさい」)。

(91)
 横渠先生が、范巽之に言いました。
「私たちがりっぱな古人におよびもつかないのは、いったいどこが悪いからだと思いますか」
 范巽之は、分からないので教えてほしいと言いました。
 先生は言いました。
「これは分かりにくいことではありません。私がこのような質問をしたのは、学ぶ人たちに、このことを念頭において、忘れないようにしてほしいと思ったからです。できれば、そのことについて自分で考えてみてください。そうすれば、いずれハッキリと分かり、まるで深い眠りからめざめたような、すがすがしい気持ちになれるでしょう」

(92)
 心を定めることについて、まだよく分かっていないときには、つまらぬよけいなことを考え、いろんな疑念が生まれてくるので困ります。どこにどう心を定めればよいのかについて、すでによく分かっていても、講治(学問をして身を修めること)の粗雑さが気になって困ります。しかしながら、講治の粗雑さを気にすることは、それへの熱心さを高める役に立つので、別に悪くはありません。
 人が「本当に正しいこと」を知りたがるのは、心の迷いや悩みを解消したいからです。心の迷いや悩みが解消すると、川の水が堤防をつきやぶって流れ出すように、人生を勢いよく進めるようになります。
書経』に、「高ぶる気持ちをおさえてへりくだり、不断の努力をしていると、身の修まり方がまちがいなく向上する」とあります。ですから、孔子のようなすぐれた才能のもちぬしでも、(自分のすぐれた才能を誇ったりせず)きちんと努力して「本当に正しいこと」を探求したのです。それなのに現在、昔の偉人の足もとにもおよばない才能しかもっていないくせに、何もせずになりゆきまかせにしている人がいます。しかし、それでりっぱになったという話は、聞いたことがありません。

(93)
 善を明らかにすることが(学ぶにあたっての)根本です。そうして明らかになった善をしっかりと守っていけば、自立できます。その善をたんねんに伸ばしていけば、偉大になります。その善を軽視すれば、小者になります。偉大になるか、小者になるか、すべては本人次第です。

(94)
 今はただ、「①徳性(人間が生まれながらにもっているりっぱな本性)を尊ぶこと=心を養うこと」と「②学問をすること=物事の道理をきわめること」に心がけてください。③そして、毎日、「学問のやり方において、よくないところはないだろうか」とか、「徳性の促進において、なまけているところはないだろうか」とかいうように、自問自答してください。こういうこともまた、『論語』にある「博文約礼=ひろく学んで理をきわめ、その理を体現してしめくくること」や「下学上達=身近なことを学んで、高遠な境地に達すること」などといった君子の学び方の一種です。このようにして自分をいましめ、努力します。一年くらいそのようにしていると、どうして人格的に成長しないことがあるでしょうか。
 ①大切なことは、毎日、少しでも進歩向上することをめざすことです。(自分自身をふりかえってみて)自分のいたらない点を知り、それを改善して、よくない点を少なくしていきます。これが徳性を進めるのに役立ちます。
 ②書物(古典)を読んで義理を探求します。そして、大事なところを書きとめたノートを作るにあたっては、要点をまとめることについてよく分かっていることが大切で、あれこれと多くの言葉を書きとめすぎてはいけません。また、昔の偉人たちの言葉や行動についても学びます。これが学問を進めるのに役立ちます。
 ③少しの時間もむだにしてはいけません。毎日、以上のように努力したなら、三年もすれば、進歩していることでしょう。

(95)
 ①天地のために心を立てます。
 ②人々のために道を確立します。
 ③今はなき聖人のために断絶した学問を復興します。
 ④万世のため太平を開きます。
(以上は、学ぶ人の心意気です。)

(96)
 私(張横渠)が学ぶ人にまず礼法を学ばせるのは、礼法を学ぶと、身にまとわりついた世間のつまらぬ慣習から自由になれるからです。
 たとえば、木にまとわりついたツル草をとりのぞくと、その木はスイスイと大きく育つことができるものです。もし、世間のつまらぬ慣習から自由になることができたなら、その人は、おのずとすっきり、さっぱりします。また、礼法を学ぶと、自分をしっかり保つことができます。(なにものにも動じることはありません)。

(97)
 大切なことは、心のとらわれをなくし、ゆったりさっぱりし、公平であるようにし、そうしたうえで道(道理)を探求することです。すると、道(道理)について分かります。もちろん、徳性(人間が生まれながらにもっているりっぱな本性)がもとから広大であることは、言うまでもありません。
易経』に「自然の摂理をきわめ、自然の変化を知るのは、徳(自分が本来もっている良さ)の盛んな状態だ」とあります。あさはかな心で、どうして会得できるでしょうか。

(98)
 多くの人は、年上になると、年下の人にたずねて教えてもらうことができません。ですから、分からずじまいで一生を終えることになります。また、先覚者だと思われている人は、分からないことがあっても「分からない」と言うことができません。ですから、後輩にたずねて教えてもらうことができません。たずねて教えてもらおうとしないので、場合によっては知ったかぶりをして、他人や自分をだますこととなり、けっきょく一生を分からないままで終わります。

(99)
 いくら多く経験したとしても、天下のことをすべて知りつくすことはできません。もし経験だけで天下のいろんな出来事や事件に対処しようとすると、かつて経験したようなことなら、もちろん経験だけで対処できますが、いまだかつて経験したこともないことに出会ったときには、ゆきづまってしまいます。

(100)
 学ぶことによる大きなメリットは、みずから気質の偏ったところをほどよい状態へと変化させようとする点にあります。(気質の偏ったところをほどよい状態へと変化させる=たとえば、自分の主観的な見方を捨てて客観的な見方ができるようになる)。
 そうでなければ、すべて『論語』に言うところの「人のためにする(地位や名声を得るために学問をする)」という弊害におちいってしまい、けっきょく何も心に得るところがないままで終わり、聖人の達した奥深い境地を知ることができません。

(101)
 文(文章、文芸、装飾、法度など)は、細かく見きわめることが必要です。
 心は、大きく解き放つことが必要です。

(102)
 何の疑問も生じないのは、ちゃんと学んでないからです。ちゃんと学んでいれば、必ず何らかの疑問が生じるものです。実際にやってみて、なかなかうまくいかないこと、それが疑問となるべきことです。

(103)
 心が大きいと、あらゆるものすべてとの関係がうまくいきます。
 心が小さいと、あらゆるものすべてとの関係がぎくしゃくします。

(104)
 人は、忙しくて学ぶ時間がなくても、学ぶことを心に忘れてはいけません。もし学ぶことを心に忘れなければ、たとえ日常の仕事であっても、それがそのまま学びの実行となり、道(道理)から離れていくことはありません。もし学ぶことを心に忘れたならば、たとえ一生ずっと学問をしていても、それは単なる俗事にすぎません。

(105)
 主客を合一し、自他を公平にします。そこに道(道理)のあらましをみてとれます。(道すなわち理は、渾然一体なものです。ですから、道に到達した人は、「すべてが自分だ」という境地に達し、公平無私になります)。

(106)
 学んでいて、成功することを第一に考えたなら、それは学ぶことの害となります。成功することを第一に考えていると、あれこれ無理なこじつけをしたり、新奇なアイデアを出そうとしたりして、いろいろとめんどうなことを引き起こします。徳(自分が本来もっている良さ)が十分に成熟していないときに、成功をおさめようとばかりするのは、大工にかわって木を切るようなもので、必ず痛い目にあいます。

(107)
 こんなことが心配です。孔子孟子の死後、いろんな儒学者がそれぞれ説を立てて、うるさく論争しています。しかし、それらはすべて、要点をとらえることも分かっていなければ、根源をきわめることも分かっていません。自分の説を立てることばかりに勇み、たいした資質のもちぬしではないにもかかわらず、後世に名を残すことばかり考えています。
 しかし、道理の分かった人からみれば、(いくら口できれいごとをならべたとしても)そんなことは一目瞭然です。そんな人たちは、たいていの場合、自分の力量を分かっていません。そんな弊害はさっさとなくして、「自分の誠(自分の本来の姿=本当の自分=本性=道理)」をもくもくと養うことです。
 ただ心配なのは、(人生が短くて)日数が不足して、それをなしとげることができないかもしれないということです。

(108)
 学びがまだ十分に深まっていないのに、臨機応変の対応について好んで語る人は、必ずや最後には大失敗をしでかすことになります。
 思うに、臨機応変の対応は、軽々しく論じることのできないものです。もし学び始めたばかりの人がいきなり臨機応変の対応について語るのなら、その人はすでに学び方をまちがっています。
朱子学では、道理に精通すれば、うまく臨機応変の対応をできるようになるとします)。

(109)
 およそ中身をかくして見せないのは、進歩向上を求めないからです。道理に関して自分の会得したことや自分の到達したことについて何も言わない人がいますが、それではその人の中身が分かりません。それは(自分の理解があさはかだったときに恥をかくのが嫌なだけであって)人の教えに謙虚に学ぼうとしているわけではありません。

(110)
 外に気をとられて、外事(よけいなこと)にかかずらっている人は、実のところ、だらけていて、自分で自分を治めていないのです。そのような人は、人の善し悪しを言うだけで、反躬(はんせい)することができません。
(反躬=自分自身の悪い点をきちんと反省して、それを改善して、自分で自分を高めていくこと)。

(111)
 学ぶ人は、①志が小さかったり、②気持ちが軽々しかったりしてはいけません。
 ①志が小さいと、満足しやすくなります。満足しやすいと、(困難をのりこえて)前進する力が弱くなります。
 ②気持ちが軽々しいと、知らないことでも、すでに知っているつもりになったり、学んでいないことでも、すでに学んだつもりになったりします。

【第三巻 格物窮理~物事の道理を極める】

(1)
 伊川先生が朱長文に答えた手紙に、こうあります。
 心が道(道理)に精通すると、たとえば計量器を使って重さをはかるときのように、きちんと是非を判断することができます。『孟子』に「言を知る(その人の言葉を聞くと、その人の是非が分かる)」とありますが、これはそのことを言っているのです。
 心が道(道理)に精通していないのに、古人の是非を判断しようとするのは、まさに計量器を使わずに重さをはかるようなものです。目をこらし、知能をふりしぼれば、ときにはピッタリと言い当てることができるかもしれません。しかし、それは、古人が「おもんぱかれば、しばしばあたる」(『論語』)と言っていることでして、君子が重んじるべき方法ではありません。

(2)
 伊川先生が、門人に答えて言いました。
 孔子孟子の門人たちが、みんながみんな、どうしてすぐれた人だったと言えるでしょうか。とうぜん凡人もたくさんいました。凡人の観点から聖人や賢人をみると、(凡人はまだまだ考えが浅いので)聖人や賢人について分からないことがたくさんあります。ですから、ひとまず自分の考えをわきにおいて、(聖人や賢人の真意を知っている)先生の言うことをあるがままに受け入れることです。そして、それについてじっくりと考えたなら、聖人や賢人の真意について分かるでしょう。
 今、みなさんは、私の意見がみなさんの意見と少しでもくいちがうと、そのままほうってしまいます。ですから、お互いに意見の一致をみないままで終わってしまうのです。(食わず嫌いで)すぐにほうってしまわずに、それについて考えて(味わって)みてください。それが知(ちえ)を致(のば)す方法です。
(知を致すとは、自分の知恵をとことんまで伸ばすことです。人間には知恵があるので、いろんなことを知ることができます)。

(3)
 伊川先生が、横渠先生に答えて言いました。
 論じているところには、その全体にわたり、苦心し努力しているようすはありますが、大らかさも穏やかさも感じられません。知恵にもとづいて自然に判断をくだしているのではなく、無理に理屈をつけて結論に到達しているので、主張がしばしば偏り、論理があちこちでゆきづまり、やや理にかなっていないところがときどき出てくるのです。(本註:知恵にもとづいて自然に判断をくだすとは、たとえば目で見て、それを細かいところまで詳しく分かるようなものです。無理に理屈をつけて結論に到達するとは、たとえば物におおよその見当をつけ、そのだいたいのところをあらかた見るだけのようなものです。まちがわないことがあるでしょうか)。
 願わくば、考える力を十分に養い、義理(道理)にだんだんとなじんでいってください。そうすれば、いずれ心がのびのびしてくるでしょう。(そして、おのずと知恵も伸びてくるでしょう)。
(知恵とは、物事の道理や善悪や真偽などをわきまえ知る能力で、人にもとから備わっています)。

(4)
 自分が本当に分かったかどうかを知りたければ、心のようすを観察してみることです。
 考えることによって分かり、心のなかがほがらかで、ゆったりとして余裕があれば、本当に分かっています。
 考えることによって分かっても、心が疲れて元気をなくしているのであれば、本当に分かっていません。むりやりおおよその見当をつけているにすぎません。
 以前に「このごろ、道(道理)を学んで考えすぎたので、心が衰弱した」と言う人がいました。しかし、それはまちがいです。人の体には、もちろん衰弱や亢進があります。聖人や賢人ですら、病気にならないことはありません。しかし、昔から、「聖人や賢人が、道を学んだために心が病気になった」という話は、聞いたことがありません。
中国医学では、病気の原因の一つとして虚実をあげています。虚とは、足りないことです。実とは、多いことです。たとえば、栄養が足りないと栄養失調で体を害しますし、栄養が多いと肥満で体を害します。なお、ここでは、便宜上、「虚=衰弱」「実=亢進」と訳してあります。)

(5)
 現在、人々が怪しげなオカルト話をすぐに信じてしまうのは、まず理(道理)にもとづいて判断しないからです。
 もし、それらのオカルト話をいちいち実際に検証して判断を下すなら、その手の話はつきることがないので、きりがありません。
 大切なことは、ただ学びを通して「それが理にかなったことであるかどうか」を考えて判断を下すことです。

(6)
 学ぶことは、考えることにもとづきます。

(7)
 いわゆる「月に一回は仁を実践できること」と、「三カ月もの長きにわたって仁を実現できたこと」とは、表面的には(ともにそれなりに仁を実現できているのですから)どちらも同じようなものです。しかし、その中身のあり方はまったく違います。心をこらして考え、それの言わんとしていることを黙って心に分かることが大切です。久しく思索していれば、自得できるでしょう。
 学ぶ人は、まあ本人が聖人になるために学ぼうとしなければそれまでですが、そうでなければ、聖人の生き方について調べ、考えてみることです。(人の意見をそのままうのみにしてしまうような)単なる言葉のうえだけの理解であってはいけません。それは(たとえば「A」「B」「C」「D」というように)ただ単に文字について話しているのと同じです。(まったく無意味です)。

(8)
 質問。「忠信(正直)によって徳を進めることは、もちろん努力できます。しかしながら、知(ちえ)を致(のば)すことは、難しいものです。どうしたものでしょう」
 伊川先生の返答。「もちろん、学ぶ人は努力して当然です。しかしながら、まず知ってこそ、はじめて行うことができるものです。もし知らなければ、ただ昔の名君の堯のようすを見て、その見た目をまねるだけになります。(こうして意味のない行動をすることになります)。心に堯のような聡明叡知が豊かになければ、どうして堯のように、「何をしても 礼 にかなっている」ということができるようになるでしょうか。(まず無理です)。
 君の言っていることは、外から何か行動の規範となるものをもってきてそれをかたく守るということであって、内にもとからそれがあるわけではありません。まだ知(ちえ)を致(のば)していないのに、意(心の動き)を誠にしようとするのは、順序がでたらめです。無理して行ったとしても、はたして長続きするでしょうか。
 ただ理(道理)にもとづいて判断することがよく分かれば、おのずと理(道理)に従うのが楽しくなるものです。性(本性)はもともと善なので、理(道理)に従って行うのです。これは、理にかなうようにすることは、もともと難しいことではないということです。ただ人は知らないので、あれこれよけいな作為をしてしまい、そのため「難しい」と言うのです。
 もちろん、知ることには、方法の違いもあれば、深さの違いもあります。しかし、学ぶ人にとって大切なことは、本当に知ることです。本当に知ることができたときには、ゆったりと無理なく行えるようになります。
 私は、二十歳のときに、儒学のテキストの解釈をしたのですが、そのときの理解は今でも変わっていません。しかし、その理解の深さに関しては、そのときとはおのずと違ってきています。(かなり本当に知ることができているようです)」

(9)
 先生の話。
「およそ一つの物(事物)には、一つの理(道理)があります。大切なことは、その理(道理)をきわめられるだけ十分にきわめることです。理(道理)をきわめる方法には、いろいろあります。
 たとえば、「書物(古典)を読んで本当に大切なことを探求すること」や、「古今の人物の是非について判断すること」や、「何か事件が起きたとして、そのときにどのように対処するのが人として正しいかを考えること」なども、すべて理をきわめるための方法です」
 ある人の質問。
「格物(考察)するにあたっては、一つ一つの物(事物)それぞれについて格物(考察)すべきなのですか。それとも、ただ一つの物(事物)についてだけ格物(考察)すれば、(理にはいろんな種類のものがありますが、それらいろんな理も「理一分殊」と言われるようにもともとは一つのものですから)その他すべての理(道理)についても分かるのですか」
(格物とは、物事の道理をきわめることです。これにより知恵に磨きがかけられます)。
 先生の返答。
「どうしていきなりそのような「一つの物(事物)について格物(考察)するだけで、その他すべての理(道理)にも精通するようになる」という高度な認識ができるでしょうか。孔子の門人のなかでも特にすぐれていた顔回でさえ、そのようなやり方はしていません。
 大切なことは、今日はAについて格物(考察)し、明日はBについて格物(考察)するというように、着実に格物(考察)していくことです。そのようにして訓練をかさねていけば、いずれ心がすっきりして、おのずとあらゆる理(道理)に精通するようになるでしょう」
(本註:さらに、こうも言いました。
「理(道理)をきわめることにつとめるというのは、万事万物の理(道理)をすべてもれなくきわめてしまえるようにするということではありません。もちろん、一つの理(道理)をきわめるだけですませていいわけでもありません。
 要するに、いろんな理(道理)をきわめていっていれば、おのずと分かるようになるということにすぎません」)。

(10)
書経』にある「思に睿という」というのは、考えることを長いことやっていると、おのずと叡智がめばえてくるということです。もし一つのことについて考えてみて分からなければ、しばらくは別のことについて考えるようにします。一つのことにとらわれていてはいけません。というのも、人の思考のはたらきは、一つのことにとらわれると、いくら無理して考えたとしても、本当のことに通じることはできないからです。

(11)
 質問。「熱心に学ぼうとしているのですが、物事の道理をわきまえ知ることが蔽固(へたくそ)で、力量が不足である人の場合、一体どうすればいいのでしょう」
 返答。「ただ知(ちえ)を致(のば)すことです。もし考え知るはたらきに曇りがなくなれば、力量はおのずと高まるものです」

(12)
 質問。「先生は「外物をみて、自分を察する」とおっしゃていますが、それは、外物の理(道理)を認識することによって、その理(道理)がすでに自分自身のなかに備わっているということを確認することですか」
(「性=理」ですから、物事の道理はすべて人間の本性に備わっています)。
 返答。「必ずしもそういうわけではありません。外物も、自分も、もともと一つの理です。ですから、あちらがハッキリすれば、こちらが分かるということです。これは『中庸』に言う「内外を一つにする道」のことです」
(参考:「理一分殊」「万物一体」)
 質問。「では、(事物の理をきわめるために)知(ちえ)を致(のば)すにあたって、それを四端(心の動き)に求めるのはどうですか。(よろしいですか)」
 返答。「それを性情(心)に求めるのは、もちろん自分にあったやり方です。(悪くはありません)。しかしながら、草も、木も、それぞれ理を有しています。大切なことは、それぞれについて明らかにしていくことです」(ただ頭の中で考えるだけで、実物について観察しなければ、たいていの場合、まちがった認識をもつようになってしまうものです。要注意です)
(本註:さらに、こう言いました。
「自分自身のなかにあるものから、万物それぞれにある理にいたるまで、よく知ることのできたものが多くなれば、おのずと心の曇りがパッと晴れて理に精通するようになります」)

(13)
 『書経』に「考えると、内に叡知がめばえる。内に叡知がめばえると、聖人となる」とありますが、きちんと考えていくというのは、たとえば井戸をほるようなものです。初めのうちは濁った水しか出てきませんが、しばらくすると、きれいな水が出てきます。人の考えるはたらきも、初めのうちは濁っていてよく考えまちがいをするものですが、しばらくすると、おのずとまちがうことなく明快に考えることができるようになります。

(14)
 質問。「『論語』にある「身近に考える」とは、どういうことですか」。
 返答。「類推することです」。
(類推とは、すでに自分の知っていることにもとづいて、他のことを考えることです。たとえば、「自分は、なぐられると、とても痛く感じる。だからAさんも、なぐられると、とても痛く感じるだろうな」と考えることなどが、類推にあたります)。

(15)
 学ぶ人は、まず疑問点について分かることが必要です。

(16)
 横渠先生が、范巽之に答え、次のように言っています。
 おたずねの妖怪変化などといった超常現象に関してですが、これは語りにくいことではありません。しかし、たとえ語ったとしても、なかなか世間から信じてもらえないでしょう。(世間には迷信深い人が多いですからね)。
孟子』に「性(本性)を知り、天(天理)を知る」とありますが、学びが天を知るまでに深まれば、万物が生まれてくる根源について、つねにおのずと分かるようになります。万物が生まれてくる根源について分かれば、それが「本当にあるのか」、それとも「本当にないのか」について分からないことはありません。説明をまつまでもなく分かるようになります。
 みなさんが論じるときにあたっては、このような態度を守って失わないようにし、あやしげな話をする異端におびやかされないようにし、正道を進みに進んでいってください。そうすれば、その超常現象は本当かウソかを検証するまでもなく、異端は攻めるまでもなく、私たちのやり方の前に敗北するでしょう。
 もし「世の中にはいろんなことがあるからなあ」とか、「世の中には分からないこともあるからなあ」とかいうように考えると、学びは疑惑のためにゆがみ、内なる叡智はよけいなものにくらまされ、あやしい話が次から次にやってきて、ついには自分を見失ってしまい、オカルト話におぼれてしまうことになるでしょう。

(17)
論語』に「子貢は、「孔子が性や天道について言っているのを聞くことができていません」と言った」とあります。「孔子が言っている」と言っている以上、ふだん孔子はそれらについて話していたのでしょう。聖人である孔子の門下の学ぶ人たちは、仁を体現することを自分の任務としていて、単に知るだけでは分かったとはしませんでした。そして、心の底から深く分かることを「聞く」としていました。ですから、このような子貢の発言がなされたのです。

(18)
「義理の学(聖人になるための学問)」は、じっくり味わってこそ効果が出てきます。インスタントに会得できるものではありません。
(インスタントな方法とは、たとえば試験の前日にする一夜づけの勉強法のようなもののことです)。

(19)
 学んでいながら物事の道理をきわめることができないのは、心が粗雑だからにすぎません。顔回が、聖人まであと一歩のところにいながら、けっきょく聖人になれなかったのは、やはり心が粗雑だったからです。
(粗雑=細かい点にまで注意がゆきとどかないこと)。

(20)
 ひろく書物で学んでいる人は、『易経』の「習坎(次々と困難にみまわれること)」の説明のところにある「心とおる」の真意について分かることが必要です。というのも、人は、険阻艱難を経験してこそ、その心が道理に精通するようになるからです。
朱子学における学びは、理論を通しての学びと実践を通しての学びの二つからなっています)。

(21)
 義理(物事の道理)について何か疑いが生じたならば、これまでの見解をさっさとすてて、新たに考えなおすことです。心に何か得るところがあれば、それをすぐさまノートにでも書きとめておきます。何も考えなければ、心はどんどんゆきづまるばかりです。
 さらに友人の助けをかりるといいでしょう。たった一日でも友人とお互いに話しあえば、考え方が少しは違ってくるものです。日々このように話しあうことが大切です。そうしてしばらくすると、おのずと進歩していることに気づくでしょう。

(22)
 きちんと考えていたにもかかわらず、(考えがゆきづまってしまい)どうしても説明できないことにぶつかってしまった場合には、はじめからまた考えなおして、それをハッキリさせることができるようにすることです。それがよく学ぶということです。
 孟子から批判された告子などは、分からないことがあれば、そこですぐに考えることをやめて、二度と探求しようとはしません。(しかし、それではいけません)。

(23)
 伊川先生が言いました。
「一般的に、書物を読む場合には、まずそこに書いてある文章の意味が分かることが大切です。そうしてはじめて、それを書いた著者の真意について考えることができます。そこに書いてある文章の意味も分からずに著者の真意の分かる人は、まずいません」

(24)
 学ぶ人は、(教えられたことをそのままうのみにするのではなく)自得することが必要です。『六経』(『書経』『詩経』『礼経』『楽経』『易経』『春秋』)は、質も、量も、ともに膨大なので、そう簡単にすべてを知りつくせるものではありません。ですから、しばらくは、それぞれのテキストのあらすじが分かったならば、各人、自分なりのテーマを立てて、それにそって自宅で学習するといいでしょう。

(25)
 先生の話。「一般的に、文章を理解するにあたっては、自分の考えはとりあえずわきにおき、その文章をあるがままに読んでいけば、そこにどのような理(道理)が表されているのか(そこに書いてあることの真意は何か)についておのずと分かります。その理(道理)は、しょせん(自分と同類の)人の理(道理)なので、(たとえば物理の法則などのような自然の理とくらべ)とても分かりやすいものです。その分かりやすさは、たとえば一本の平坦な道路を進むようなものです。『詩経』にある「周国の道はといしのように平らで、そのまっすぐさは矢のようだ」という言葉は、このことを言っているのです」
 質問。「聖人の言葉は、(高遠なものですから)身近に考えることはできないのではないでしょうか」
 返答。「聖人の言葉には、おのずから身近なものもあれば、おのずから高遠なものもあります。身近なものを、わざわざ難しくして高遠なものにしたてあげる必要があるでしょうか。楊子は「聖人の言葉は天のように高遠で、賢人の言葉は地のように身近だ」と言っていますが、私は、みなさんのために、この言葉をこう言い換えましょう。「聖人の言葉は、天のように高遠で、地のように身近だ」と」

(26)
 学ぶ人は、書物を読む場合、①そこに書いてある内容を無視すると、その書物に対して自分勝手な解釈をすることになります。②反対に、そこに書いてある内容にこだわりすぎると、著者の真意について分からなくなります。
 ①たとえば、孟子は、将軍に任命された子濯孺子が、敵となったかつての師匠をおいつめながらも、最後には殺さずに見逃した話を通して、ただ師弟関係について語っているにすぎません。しかし、人は、そこから主君につかえる道を理解することが大切だとします。
 ②また、孟子の弟子の万章が「舜が倉庫を修理し、井戸を掃除したこと」について孟子に質問したとき、孟子はそのおおよそについて答えただけでした。しかし、人は、「舜は、井戸の掃除中に生き埋めにされかけたとき、どうやって助かったのか」とか、「舜は、修理のために屋根にあがっていたとき、はしごをはずされ、放火されたのに、どうやって屋根からおりたのか」とかいうようなことを解明することが大切だとします。
 以上①、②のような学び方は、いたずらに心を疲れさせるだけです。

(27)
 一般的に、書物を読むときには、「表現が同じなら、その意味も同じだ」としてはいけません。そうしなければ、ゆきづまってしまいます。話の流れや上下の文意をみて、その意味を考えることです。
 たとえば、『孟子』にある「充実せる、これを美という」の「美」と、『詩経』に出てくる「美」とは、(同じ表現でも)同じ意味ではありません。
(漢字は、一つの字に多くの意味があり、その字がその文章において何を意味しているかは、文脈によって変わってきます)。

(28)
 質問。「陳瑩中は、かつて文中子(王通)という学者のファンで、文中子の書いた『中説』にある、「ある人が『易経』の学び方について問うたとき、文中子は、「終日、乾乾としていたらよろしい(朝から晩まで、うまずたゆまず努力しなさい)」と言った」という言葉について、「この言葉は、十二分なものだ。名君の文王が偉大な聖人になれたのも、このようにしていたからだ」としていますが、これについて、どう思われますか」
 返答。「確かに、一般的に言って、儒学のテキストを読み解いていくときには、もし、すみずみにわたって、順序よく、十分に考えるというように努力していけば、その真意を知りつくすことができるものです。
 しかし、「終日、乾乾とする」という言葉は、『易経』全体の真意を十分に言い当てているとは言えません。この言葉は、『易経』の「乾」の項目の部分説明の三番目(三爻)の真意を考えるのに役立つだけです。
 もちろん、「乾乾とは、永続していることだ。永続しているのは、道(道理)だ」というように、じゅんじゅんに推論していくのなら、おのずと『易経』を知りつくすことができるでしょう。
 もっとも、それは、理の当然としてそのようになっているわけではありませんがね」

(29)
 先生。「孔子は、川辺に立って、「ゆくものは、かくのごときかな」と言いました。それは、道(道理)の本体はどんなものであるかを、川の流れにたとえて言ったのです」(道の本体=宇宙の根本。)
 張繹。「つまり、(川の流れがとまらないように)道の本体も無限だ、ということですね」
 先生。「もちろん、無限であることを言っています。しかし、どうして無限という一言で、道(道理)の本体を言いつくすことができるでしょうか」

(30)
 今の人は、書物をきちんと読めません。たとえば、『論語』に、「うまい政治のやり方の参考になる『詩経』の詩を多く暗記しているが、政治をやらせてもヘタだし、外交をやらせても一人では何もできない。これでは、多く覚えていても、何の役に立つのか」とあります。
 大切なことは、「『詩経』を読む前は、政治も外交もヘタだった。しかし、それを読んだ後は、政治も外交もうまくなった」というようになることです。このようになってはじめて、『詩経』を読んだと言えます。
 また、同じく『論語』に、「人でありながら、『詩経』にある周南と召南を読まなければ、壁に向かって立つようなものだ」とあります。大切なことは、「周南と召南を読む前は、壁に向かって立っているようでした。しかし、周南と召南を読んだ後は、壁に向かって立っているようではなくなりました」というようになることです。このようになってはじめて、効果があった(きちんと読めた)と言えます。
 一般的に、書物を読む場合には、以上のようにすることです。たとえば『論語』を読むにしても、読む前も、読んだ後も、何も変わらないのなら、それはきちんと読めていないのです。
(周南と召南には、家庭を治めることの大切さについて述べてあります)。

(31)
 一般的に、文章を読む場合には、(さっと読み流したりせず)たとえば『論語』で言えば、聖人の「七年の計画」「三十年の計画」「百年の計画」など、それらはどのように実践すればいいのかについて考えることが大切です。そうすれば学びを進める役に立ちます。
(「七年の計画」→孔子が言いました。「善人が人々を七年も教育すれば、戦争に従事させることができます」)
(「三十年の計画」→孔子が言いました。「もし王者がいれば、必ず三十年後に仁にあふれた社会を実現できます」)
(「百年の計画」→孔子が言いました。「善人による統治が百年も続けば、どんな乱暴者も善くなり、みんなが善くなるので刑罰は必要なくなります。この言葉は、本当ですよ」)

(32)
 一般的に、儒学のテキストを理解する場合、最重要点の理解は同じでなければいけませんが、その他は別にそれぞれ違っていてもかまいません。

(33)
 私は、伊川先生のところに入門したばかりのころ、伊川先生に学問のやり方について質問しました。そのときの先生の答えは、こういうものでした。
「君は、学問のやり方を知りたいのなら、書物儒学のテキスト)を読むことが大切です。書物は、必ずしも多く読む必要はありません。「その書物の真意や要点はどこにあるのか」について、じっくり読んで探求してください。書物を多く読んでいても、その真意や要点について分かっていないのなら、それはまさに(書物を多くとりそろえているだけの)本屋です。私は、若いとき、多くの書物をむさぼり読んだのですが、今ではすっかり忘れてしまっています。
 大切なことは、聖人の言葉をじっくり味わい、それを心にとどめ、そして、それを日々の実践に生かすことです。そうすれば、おのずと何か得るところがあるでしょう」

(34)
 学び始めたばかりの人が徳(自分が本来もっている良さ)を伸ばすための出発点としては、『大学』に勝るものはありません。その次としては、『論語』や『孟子』に勝るものはありません。

(35)
 学ぶ人は、まず『論語』と『孟子』を読むことが大切です。『論語』と『孟子』をきわめることができれば、おのずと(儒学の)要点について分かります。それを基礎にして他の儒学のテキストを読めば、少ない労力でその真意を理解することができます。『論語』と『孟子』は、「ものさし」や「はかり」のようなものです。それらを使って事物をみれば、その長短や軽重について自然に分かります。

(36)
論語』を読む人は、門人の孔子への質問を、まさに自分の質問としてイメージし、それに対する孔子の返答を、実際に自分が聞いているものとしてイメージすると、おのずと何か得るところがあるでしょう。もし『論語』と『孟子』で、そのようにして、その真意を深く求め、その内容をじっくりと味わえば、いずれは心の根本が十分に養われて、りっぱな気質のもちぬしになれます。

(37)
 一般的に、『論語』と『孟子』をみる場合には、しばらく熟読してじっくり味わい、「聖人が自分に向かって言っている」と思えるくらいに身近にとらえることのできることが大切です。(さっと読み流すなどして)単なるその場限りの話にしてはいけません。その二冊だけでも自分に身近にみることができれば、人生にとても役立つでしょう。

(38)
 人は、『論語』を読み終わった後、四種類に分かれます。
 ①まったく何も得るところがない人。
 ②一つ、二つ気に入った言葉をみつけて喜ぶ人。
 ③『論語』を好きになる人。
 ④うれしくて、どうしようもなくなる人。

(39)
 学ぶ人は、『論語』と『孟子』を基本とすることです。『論語』と『孟子』の真意がきちんと分かれば、『六経』の真意についても、それらを別に読むまでもなく分かります。(なぜなら、『六経』の要点はすべて、『論語』と『孟子』に含まれているからです)。
 書物儒学のテキスト)を読む人は、「どうして聖人はいろんなテキストを書いたのか。その真意は何か」、「聖人の秘めたる思いは何か」、「聖人はどうして聖人になれ、自分はどうして聖人になれないのか」などについて考えてみることが必要です。このことを一句一句について探求し、昼は読んで味わい、夜は読んで味わったことについて静かに思索し、心をおちつけ、気をやわらげ、疑わしいところは(あれこれ穿鑿せずに)そっとしておきます。そのようにすれば、聖人の心について分かるでしょう。

(40)
論語』や『孟子』を読んでも、道(道理)について分からなければ、まさに「多く読んだとしても、いったい何の役に立つのか」(『論語』)ということになります。

(41)
論語』と『孟子』は、ただ十分すぎるほど十分に熟読すれば、おのずとその真意が分かります。ですから、学ぶ人は、じっくりと味わうことが大切です。もし文字面だけから理解するなら、その真意はよく分かりません。
 私は、はじめ、それら二書の注釈書を書いたのですが、今から思えば、よけいなことをしたものです。ただ先輩の儒学者に誤解があったときには、(その誤解を正すために)きちんと整理してあげる必要があります。

(42)
 質問。「さしあたり『論語』と『孟子』の最重要点だけ読むというのは、どうですか」
 伊川の返答。「もちろん、かまいません。しかしながら、何か得るところがあっても、それだけでは十分ではありません。というのも、儒学のやり方は、仏教のやり方とは違って、「ちょっと見ただけで、パッと悟りが開ける」といったものではないからです」

(43)
論語』に言う「詩に興る」とは、心に感じ思うところを詩にあらわし、道徳(道理と徳性)のなかにひたりきりのびのびして喜び動くことです。そこには、孔子が、その門人たちの理想を聞いたとき、曾点の「親しい人たちと仲良く楽しく暮らしたい」という返答を聞いて、「私は曾点に賛成だ」と言ったのと同じような雰囲気があります。
(本註:また、こうも言いました。「「詩に興る」とは、人の善い心をふるいたたせることです。心を広く大きくすることは、すべてこの意味です」)。

(44)
 謝顕道は、次のように言っています。
「明道先生は、うまく詩を語ることができます。先生は、詩をバラバラにしていちいち解説をしたりせずに、ただじっくりと詩を味わい、あるときは声を高く、あるときは声を低くして吟詠します。そのようにして、それを聞く人に何か得るところがあるようにします。
 たとえば、「月日のうつりかわりをながめていると、はるかな思いに私はかられます。道はここに遠く離れていて、いつになったら帰ってくるのでしょう」と詠んで、「夫を思う心が切実なのです」と言いました。また、その詩の終わりにおよんでは、「多くの君子たちは、徳行を知っています。人を害せず、むさぼり求めなければ、どうしてよくないことがあるでしょうか」と詠んで、「正しい状態に戻ったのです」と言いました」
「明道先生は、詩の話をするときには、決して言葉の意味を解釈したりなどしません。ときどき(聞く人が分かりやすいように)二、三字ほど言葉を言い換えて、ほどよく吟詠しました。そうして聞く人に詩をじっくりと味わわせて、その真意を自得させました」
「以上のようなことは、直接、先生に教えてもらわなければ分からないことです。ですから、昔のりっぱな学ぶ人たちは、尊敬する人と実際に交際して、直接その教えを受けることを尊んだのです」

(45)
 明道先生が言いました。
「学ぶ人は、『詩経』をみないわけにはいきません。『詩経』をみることは、その人の人格を一段と成長させます」

(46)
孟子』に「文によって辞をそこなわない」とあります。その「文」とは、「文字」の「文」のことです。「単語」は「文」で、「文章」は「辞」です。
詩経』にある詩を読むとき、(「文章」全体の意味からみて)ふつりあいな「単語」があれば、「文章」全体の意味にあった形で解釈することです。
 たとえば、「有周不顕(周の徳は明らかだ)」の場合、もともと文の作り方として、そうなるのが当然なのです。
(「有周不顕」は、そのまま読むと「周の徳は明らかならず」と否定の形になります。しかし、そうなると、徳のあった周王朝がまるで徳がなかったかのようになり、意味が通じなくなります。そこで、「周の徳は明らかならざらんや」と反語の形に読まなければいけません)。

(47)
書経』を読む場合には、二帝三王の政治のやり方についてみることが必要です。(二帝とは、堯と舜という二人の名君のことです。三王とは、夏王朝の禹王、殷王朝の湯王、周王朝の文王と武王といった、三つの王朝の名君のことです。なお、『書経』は歴史書です)。
 たとえば、『書経』の「二典」のところでは、堯が民を治めた方法や、舜が堯につかえた方法について探求します。(「二典」とは、堯の事跡について述べた「堯典」と、舜の事跡について述べた「舜典」の二つです)。

(48)
『中庸』という書物は、孔子学派の人たちに代々うけつがれてきたもので、子思と孟子の手によって完成されました。『中庸』は、いろんなことを雑記しているとはいえ、精粗を分けずにまとめて説明しています。(精=高遠なこと・根本。粗=身近なこと・末節)。今の人は、道を語るにあたって、その多くが、高遠なことを説いて身近なことを忘れ、根本を説いて末節を忘れています。

(49)
 以下は、伊川先生の書いた『易伝』の序文です。(『易伝』は、『易経』の解説書です。『易経』は、朱子は占いの本としていますが、ここでは人生の手引書とされています)。
 易とは、変化のことです。時とともに変化して、道に従うことです。
易経』は、あらゆることをもれなく示唆しています。そして、本性や天命といった理(道理)に従い、表に現れたものから裏に隠されたものまでそのすべてに精通し、万事万物の実情を知りつくし、そうして開物成務する方法について示しています。(開物成務=①天命を知らせ、人生を成功させること。②人知を引き出して伸ばし、偉業を達成させること)。(そんな『易経』を、聖人は書き残してくれたのですから)聖人の後世への配慮は、まったくいたれりつくせりです。
 現在、聖人たちの生きていた時代からみて、かなりの時間がたっていますが、『易経』は今なお残っています。しかしながら、先輩の儒学者たちは、その真意が分からず、ただ言葉だけを伝えました。そして、後進の学者たちは、その言葉を暗唱するだけで、味わうことを忘れています。秦王朝の時代よりこのかた、その真意が伝えられていないようです。私は、聖人たちのいた時代からみて千年後に生まれたわけですが、聖人の学問がダメになっていくのを残念に思い、後世の人たちが『易経』を読んで道理を探求できるようにしようと思いました。そこで、この『易伝』を執筆することにしたのです。
易経』には、聖人の道が四つあります。①何か言うときには、『易経』にある「辞(ことば)」を尊びます。②何かするときには、『易経』にある「変(へんか)」を尊びます。③何かを製作するときには、『易経』にある「象(かたち)」を尊びます。④何かを占う場合には、『易経』にある「占(うらない)」を尊びます。(以上の四つが聖人の道です)。吉凶消長の原理や進退存亡の方途は、辞に示唆されています。辞を推察し卦について考えれば、変について知ることができます。象と占は、その変のなかにあります。(『易経』は、全部で六十四の項目にわかれていて、それぞれの項目のことを卦と言います。その卦にある説明のことを「辞」と言います。その辞には、一つの全体説明(卦辞)と六つの部分説明(爻辞)とがあります)。
 君子(りっぱな人)は、何事もないとき(無事)には、その象をみて、その辞を考えます。また、何事かあったとき(有事)には、その変をみて、その占を考えます。言葉は分かっても、その意味が分からないことはありますが、そもそも言葉が分からないのに、その意味が分かることはありません。
 とてもとらえどころのないものは、理(法則)です。とてもはっきりしているものは、象(現象)です。(たとえば、現象は目で見ることができますが、法則は目で見ることができません)。しかし、体用一源ですし、顕微無間です。(すなわち、理と象とは、確かに異質なものですが、別物ではなく、分けることのできない一体のものです)。理を分かり、理にかなった形をとることができるようにするための方法については、辞に示唆されています。
 ですから、よく学んでいる人は、自分の身にひきあてて『易経』の言葉を考えるのです。自分の身にひきあてて考えることを軽んじる人は、『易経』の言葉を分かる人ではありません。私が解説しているのは、そんな辞についてです。その辞からどんなことを学びとるかは、みなさん次第です。
(「『易経』の言葉には、それを読む人がこれからすべきことについて示唆してある」とされているので、その言葉が何を意味しているかを知るためには、自分の身にひきあてて考えることが必要となってくるわけです。したがって、同じ言葉でも、それが何を意味しているかは、人によって解釈が異なってきます。たとえば、これは『易経』とは関係のない言葉ですが、「大きいほうがよい」という言葉は、家を建てる人にとっては「家は大きいほうがよい」という意味になりますし、作家にとっては「壮大なスケールの話のほうがよい」という意味になります。『易経』では、このように解釈することが必要とされています)

(50)
 伊川先生が張?中に答えた手紙に、こうあります。
『易伝』をいまだ公表しないのは、(かなり年をとったものの)まだまだ元気なので、できればもう少し考えを深めたいからです。お手紙に「『易経』の内容は、数(形の組み合わせ)にもとづいている」とありますが、それはまちがいです。理があってはじめて象があり、象があってはじめて数があるものです。『易経』では、象が理を明らかにしており、その象を通して数を知らせています。『易経』の意味が分かれば、象や数についてもおのずと分かります。(本註:理には形がありません。ですから、象を使って理をハッキリさせるのです。理が辞として表現されれば、辞によって象を観ることができます。(象を観るとは、『易経』で占った結果をよくみることです)。ですから、『易経』の意味が分かれば、象や数についてもおのずと分かるとされるのです)。「象の裏に隠されたもの」や「数の細かな点」について必ずきわめようとして(本質に目を向けず)末流へと目を向けるのは、(形の組み合わせで予言をする)術家の尊ぶことで、(普遍的なものを探求する)儒家のつとめるべきことではありません。

(五十一)
 時を知り、勢いを分かるのが、『易経』を学ぶときの要点です。

(五十二)
易経』にある「大畜(大いに蓄えること)」の部分説明の最初(初爻)と二番目(二爻)は、陽そのもので剛健なのですが、前進するだけの力がありません。四番目(四爻)と五番目(五爻)は、陰であり柔弱なのですが、よくとどまることができます。時の盛衰や勢いの強弱は、『易経』を学ぶ人が必ず深く分からなければならないことです。

(53)
 すべての卦に共通して言えることですが、部分説明(爻辞)の二番目(二爻)と五番目(五爻)は、お互いに「正」の関係になかったとしても、「中」にあるので、たいてい「美」とされます。
(①それぞれの卦の部分説明は、「最初~三番目」「四番目~最後」という二つの組に分かれています。ですから、部分説明の二番目と五番目は、いつもそれぞれの組のまん中にあることになります。②卦においては、最初と四番目、二番目と五番目、三番目と最後が、それぞれ関係するというきまりになっています。そして、その関係には「正応」と「不応」があります。各卦の記号(象)は陰と陽の組み合わせによって表されるわけですが、たとえば最初に陰がきて四番目にも陰がきた場合(もしくは最初に陽がきて四番目にも陽がきた場合)、その関係は「正応」とされます。また、最初に陰がきて四番目には陽がきた場合(もしくは最初に陽がきて四番目には陰がきた場合)、その関係は「不応」とされます)。
 三番目(三爻)と四番目(四爻)は、「正」の関係にあっても、「中」ではないので、「過」とされます。「中」はつねに「正」よりも重要なのです。というのも、「中」はたいてい「正」しいとされますが、「正」の関係が必ずしも「中」にあるとは限らないからです。世界に通じる道理として、「中」より善いものはないのです。それは、二番目(二爻)と五番目(五爻)の「不応」の関係にみることができます。(それぞれの卦の部分説明の内容は、「中」であれば、その関係が「正」でなくても、よくなっています)。

(54)
 質問。「胡先生は、『易経』の各卦の部分説明(爻辞)の四番目(四爻)という位置を解釈して、太子の位置だとしています。しかし、それは卦の本来の意味ではないのではないでしょうか(なぜなら、部分説明(爻辞)の四番目(四爻)という位置は、もともとは天子の位にあたるからです)」
 返答。「そう解釈しても別にかまいません。ただどのように使われているか、それをみることです。皇太子にあたるときには、皇太子とします。部分説明(爻辞)の四番目(四爻)が君主に近い人物を象徴しているときには、皇太子と解釈してもさしつかえありません。ただし、一つの意味にとらわれてはいけません。もし一つの意味にとらわれて、融通がきかなくなると、『易経』全体で三百八十四ある全体説明(卦辞)は、単に三百八十四の出来事にしかすぎなくなって、解釈の幅が狭くなり、万事万物に通じることができなくなります。(時と場合に応じて柔軟に解釈することが大事です)」

(55)
 先生の話。「『易経』をみるには、まさに時を知ることが必要です。一般的に、部分説明(爻辞)には、(時と場合に応じた)人それぞれの解釈があります。聖人には聖人なりの、賢人には賢人なりの、一般人には一般人なりの、学者には学者なりの、君主には君主なりの、臣下には臣下なりの、自分にあった解釈があります。つまり、『易経』は、だれにでも応用がきくのです」
 質問。「では、「坤(母なる大地)」のところでは臣下の道が説かれていますが、君主も使えるのですか」。
 返答。「どうして使えないことがあるでしょうか。「厚い徳によって、万物を下からささえる」といったことなど、どうして君主が用いないことができるでしょうか」

(56)
易経』では、ただ反復したり、往来したり、上下したりについて述べているにすぎません。
(反復、往来、上下は、陰陽のいろんな変化のことを言っています。『易経』では、陰陽の変化によって、森羅万象を説明しています)。

(57)
易経』のどこを読んでも、その内容は、天地幽明から、昆虫草木、微小の物に至るまで、すべてと調和しています。

(58)
 今の人は、『易経』を読んでも、そのだれもが『易経』のなんたるかを分かっていません。ただ『易経』の文字面にとらわれて、あれこれ穿鑿(せんさく)しているにすぎません。もし、その真意について分からなければ、何かよけいな言葉を付け加えたとしても、反対に必要な言葉を取り去ったとしても、そのことに気づけないでしょう。
 たとえば、イスについて知らないようなものです。イスの脚を一本ほど減らしたとしても、反対にイスの脚を一本ほど増やしたとしても、そのことが分かりません。もしイスについて知っていたら、おかしいことに気づけるでしょう。

(59)
 游定夫が、「陰陽不測、これを神という」とは何かについて、伊川に質問しました。それに対して伊川は、こう言いました。
「君は、これに疑問が生じたから質問しているのですか。それとも、難しそうなことを選んで質問しているのですか」

(60)
 伊川先生が、その著書『易伝』を門人たちにみせて、こう言いました。
「この本は、『易経』の七十パーセントほどしか説明できていません。後進のみなさんは、(私の『易伝』をそのままうのみにして暗記するのではなく)さらに自分で深く研究して自得することが大切です」

(61)
 以下は、伊川先生の書いた『春秋伝』の序文です。(『春秋伝』は、『春秋』の解説書です。『春秋』は、歴史書です)。
 天が人々を生むわけですが、そのとき必ず人なみすぐれた才能のもちぬしが現れて、指導的立場に立ちます。その人が治めると、争いごとがなくなります。その人が導くと、人々の生活が安定します。その人が教えると、倫理が明らかになります。そうして、人道が確立し、天道が完成し、地道が平穏になります。
 二帝(堯と舜という二人の名君)が現れるより前の時代、聖人や賢人が次々に現れ、それぞれの時代の要求に従っていろんなものを作り出しました。その人たちは、正しい風俗に従い、天の意志に反しないやり方で人々を教え導き、時宜にかなった政治を行いました。二帝より後の時代、(夏王朝→殷王朝→周王朝の)三つの王朝が次々に出現し、三つの重要なことがらが確立し、子→丑→寅という正しい暦法が施行され、忠→質→文という正しい道徳が尊ばれるようになりました。(①夏王朝は、暦法的に寅〔一月〕を正月と定め、道徳として忠を重んじました。②殷王朝は、暦法的に丑〔十二月〕を正月と定め、道徳として質を重んじました。③周王朝は、暦法的に子〔十一月〕を正月と定め、道徳として文を重んじました。○質とは内面が充実していることで、文とは外見がととのっていることです)。それによって、人道は完備し、天道は順調になりました。
 しかし、その後、聖王は生まれず、為政者たちは昔の名君にならおうとしましたが、結局は私意的なダメな政治しかできませんでした。秦王朝は正月の定め方をまちがうという(天運にさからう)過ちを犯し、漢王朝は(人徳ではなく)知力で天下を支配するという正道に反する過ちを犯しました。どうして昔の聖王の道を知っていたと言えるでしょうか。
 孔子は、周王朝末期の人ですが、聖人が再び生まれず、天にのっとった時宜にかなった政治がいっこうに復活しないので、『春秋』という書物を書いて、りっぱな政治の手本としました。それは、いわゆる「昔の名君のやり方にてらしあわせてみてもまちがっておらず、天地自然とも順応しており、鬼神(神様)にも正しいと判断され、百世代も後の聖人にみられても恥ずかしくないようなもの」(『中庸』)と言えるものです。
 先輩の儒学者は、「子游や子夏といった孔子のすぐれた門人たちでさえ、『春秋』の制作には賛助できなかった」と言っています。つまり、『春秋』の真意を知ることは、なかなか難しいということです。その真意については、ただ顔回だけが聞き知っていました。「夏王朝のような人にふさわしい暦を施行し、殷王朝のような質素で長持ちする車を使用し、周王朝のような儀礼にふさわしい礼装を採用する。音楽は、善と美をつくしている韶舞にする」(『論語』)というのが、その標準です。
 聖人たちのいた時代より後の時代では、『春秋』をごくふつうの歴史書としてみて、「『春秋』では、善をすすめて、悪をいましめている」と言っているだけです。そこに天下を治めるための手本があることをまったく知りません。『春秋』の要点は数十あって、それらには重大な意義があるのですが、それらは光り輝く太陽や星のようなもので、とてもみつけやすいものです。ただ、行間にこめられた思いや、時に応じたうまい対処の仕方などについては、なかなか分かりにくいでしょう。(なお、それらは、次のようなものです)。①抑圧したり自由にしたりする話を通して、理にかなったやり方が分かります。②与えたり奪ったりする話を通して、正しい褒賞の仕方が分かります。③進んだり退いたりする話を通して、寛大さと勇猛さの正しい使い分け方が分かります。④微妙であったり顕著であったりする話を通して、公平な是非判断の方法が分かります。以上は、事(物事)を制する際の規準で、道(道理)を定める際の模範です。
 そもそも、いろんなものをみてこそ、天地創造の神妙なはたらきが分かるものですし、いろんな資材が集まってこそ、家造りに役立つと分かるものです。具体的な話や内容をたった一つ知っただけで、聖人の心までをもうかがい知ろうとするのは、上智(聡明叡知な人)でなければ、どだい無理なことです。ですから、『春秋』を学ぶ人は、じっくりと味わい、ひとり静かに考えて自得してはじめて、その真意について分かることができます。
 今の王様(指導者)も、『春秋』の真意について分かれば、禹王や湯王ほどのすぐれた才能のもちぬしではなくても、昔の聖王のようにりっぱな政治を実現することができるでしょう。秦王朝の時代よりこのかた、そういった学問は伝わっていません。しかし、私は、そのようにかつての聖人の志が後世に明らかにされないのを残念に思いました。そこで、この『春秋伝』を書いて、それを明らかにしようと思ったのです。そして、後の人が、この『春秋伝』を読んで『春秋』の真意を探求し、その真意を分かってそれを実用すれば、かつてのりっぱな政治を今の世に復活できるでしょう。
 この『春秋伝』は、聖人の到達した奥深い境地を完全にきわめつくしているとは決して言えませんが、『春秋』の入門書としては最適でしょう。

(62)
詩経』と『書経』は、道を表現した書物で、『春秋』は、聖人が道を実践したことの記録です。たとえば、『詩経』と『書経』は、薬の処方箋のようなもので、『春秋』は、処方された薬を使って実際に病気を治療することのようなものです。聖人のなした事業と、それにともなう功績については、すべて『春秋』に記録されています。いわゆる「実際にあった具体的なことを通して述べることほど分かりやすいことはない」(『史記』)というわけです。『春秋』には、征伐や同盟などに関して、重複して述べてあるところもあります。それは、思うに、編集するにあたって、そうするほうが自然だったからでしょう。ですから、同じような話があれば、まったく違った解釈をしてはいけません。ただし、一言でも違っていたり、上下の文が違っていたりすれば、その内容はまったくの別物です。

(63)
『五経』に『春秋』があるのは、ちょうど法律のなかに判例があるようなものです。法律には一般的なことが書いてあるだけで、判例をみてはじめて、その具体的な使い方が分かります。
(『五経』=『礼経儀礼・周礼・礼記)』『書経』『詩経』『易経』『春秋』)

(64)
『春秋』を学ぶのもまたよいことです。『春秋』は、一つ一つがそれぞれ具体的な話になっているので、是(ただしい)と非(まちがい)がとても分かりやすくなっています。『春秋』を学ぶのも、理(道理)をきわめるための大事な方法です。
 もちろん、その他の儒学のテキストも、理(道理)をきわめるのに役立ちます。ただ、『春秋』以外のテキストが(道理を)一般的かつ抽象的に論じているのに対して、『春秋』は実際にあった具体的な話を通して是(ただしい)と非(まちがい)を明らかにしています。ですから、(『春秋』を学ぶことは)理(道理)をきわめるための大事な方法となるのです。
 かつて学ぶ人に対して、こう言ったことがあります。
「まずは『論語』と『孟子』を読み、続いて他の儒学のテキストを何か一冊読んでから、『春秋』を読むことです。まず道理について分かってはじめて、『春秋』を読むことができます」
『春秋』を読むにあたっての基準としては、『中庸』に勝るものはありません。『中庸』を理解したいのなら、権(はか)ることが最適であり、それにはその時その時の状況に応じて中(ほど)よいことをすることが大切です。たとえば、「手足にマメができるくらい、一所懸命に働くこと」と「家に閉じこもって、まったく外出しないこと」との間をとることは、中ではありません。「手足にマメができるくらい、一所懸命に働くこと」が必要なときには、そのようにし、反対に「家に閉じこもって、まったく外出しないこと」が必要なときには、そのようにすること、それが中です。(中=過不足なく適当であること)。
 権という言葉の意味は、「はかりの重り=はかるときの基準」です。なにものが中であるための権(基準)となるかと言えば、義と時です。ただそれらは、(その時その時の状況に適した方法を用いなければ、当然のことながら理にかなったことはできないので)義の一言にまとめて言うことができます。しかし、それ以上は何も言うことができません。(なぜなら、何が理にかなったことであるかは、時と場合によってまったく異なるので、その内容を私が勝手に一定の形で決めることはできないからです)。それ以上は各人がそれぞれ自分で判断することが大切です。
(動詞の「権」=うまくいくようにするためにはかること。臨機応変の対処をすること。名詞の「権」=はかりの重り。)

(65)
『春秋』は、「伝」が解釈で、「経」が本筋です。(『春秋』の本文を「経」と言い、それを解釈したものを「伝」と言います。「伝」には、「左氏伝」「公羊伝」「穀梁伝」の三つがあります)。(本註:程先生はまた、次のようにも言っています。「私は、二十歳のときに『春秋』を読んだのですが、そのとき黄聲隅から「『春秋』はどのように読めばよいのか」について質問されました。そこで私は「伝を通して経にのっている話について考え、経を通して伝の真偽をハッキリさせる」と答えました」)。

(66)
 一般的に、歴史書を読むにあたっては、いたずらにいろんな事件や出来事を暗記することは必要ではありません。大切なことは、「どうして安定できたのか」「どうして混乱したのか」「どうして安全を保てたのか」「どうして危険にみまわれたのか」「どうして繁栄したのか」「どうして衰退したのか」「どうして生き残れたのか」「どうして滅亡したのか」など、治乱・安危・興廃・存亡の理由について分かることです。
 たとえば、『漢書』の「高祖本紀」を読む場合には、「漢王朝がどうやって始まり、どうして終わったのか」や「どうやって治まり、どうして乱れたのか」などについて分かることが大切です。これもまた学問です。

(67)
 先生は、歴史書を読む場合、とちゅうまで読むと、本をとじて思索し、その成功失敗について考えてから、また続きを読みました。納得のいかないところがあると、さらにまたくわしく考えました。歴史には、運よく成功した例もあれば、運悪く失敗した例もあります。ところが今の人は、「成功しているものは正しくて、失敗しているものは正しくない」とします。「成功しているものでも正しくなく、また、失敗しているものでも正しい」ということがあることを知らないのです。

(68)
 歴史書を読むときに大切なことは、聖人や賢人が書き残してくれた「治乱のきっかけ」や「賢人や君子の出処進退」についてみることです。それも格物(考察)です。(格物=物事の道理をきわめること)。

(69)
 元裕年間(西暦一〇八六~一〇九四年)に、伊川に会いにきた客がいました。そのとき、伊川の机のうえには、世間に出回っていた『唐鑑』がただ一冊あるだけでした。伊川が言うには、「最近、はじめてこの本を読んだのですが、三代(夏王朝・殷王朝・周王朝の時代)以来、これほどの議論はありません」とのことでした。

(70)
 横渠先生が言いました。
「聖人は『易経』の卦(項目)の配列の順序に重きを置いていないと言うことはできません。何かを大切に置こうとする場合には、どのように置けばよいのかをまずきちんと考えてから置くものです。聖人による『易経』における卦の並べ方も同じです。そこには、きわめて深い意味がなくても、必ず何らかの意味があります。聖人の著作(いろんな儒学のテキスト)を読む場合には、全体にわたってまんべんなく読むことが大切です。たとえば、たとえどんなにすぐれた大工でも、そのオノの使い方をみただけでは、その力量を知ることはできないものです」

(71)
「天官(宰相)の役職は、心を大きくもってはじめて分かります。というのも、(天官の役職というものは)その規模がきわめて大きいからです。もし、こういった大きい心をもたず、万事にわたって細かいことにいちいちこだわっていると、心を大きくしようとしても、決してできません。仏教は天地をちっぽけなものだとみます。その点では大きいと言えます。しかしながら、実際に大きなことをしなければ、何の役にも立ちません。もし仏教を信奉する人に一銭というちっぽけなものを与えたなら、その処置の仕方に困ってしまうでしょう」
 さらに、こう言いました。
「太宰(宰相)という官職は、分かりにくいものです。というのも、その仕事の範囲が広いので、すべてをつつみこめるくらいに広い心がなければ、「こっちを覚えれば、あっちを忘れる」ということになるからです。そのうえ、次から次に起きる天下のいろんな問題は、たとえば竜や蛇をとらえ、虎や豹をしばるときのように真剣(慎重)になってはじめて分かるものです。その他の五つの官職は分かりやすいものです。なぜなら、一つの官職につき一つの仕事しかないからです」
(『周礼』に記されている大臣クラスの役職は、天官(太宰)・地官(司徒)・春官(宗伯)・夏官(司馬)・秋官(司冠)・冬官(司空)の六つです。そのうち、太宰とは、いわゆる総理大臣です。司徒とは、教育をつかさどる役職です。宗伯とは、礼法や祭祀をつかさどる役職です。司馬とは、軍事をつかさどる役職です。司冠とは、裁判や警察など治安維持に関する役職です。司空とは、土地や人民をつかさどる役職です)。

(72)
 古人で詩を分かることができていたのは、ただ孟子だけです。(孟子が詩を分かることができたのは)詩人と同じ心持ちになって(あるがままに)その詩を受け入れたからです。そもそも詩人の心は、とても分かりやすいもので、あれこれ難しく考えて知ろうとする必要はありません。(人としてあたりまえに考えればいいのです)。今、あれこれ難しく考えて詩を解釈しようとすると、詩にこめられた本当の思いが失われます。本当の思いが失われているのに、どうして詩人の心を分かることができるのでしょうか。
(本註:詩人の心は、温厚で、平易で、老成です。(老成=内に深い考えを秘めていること)。詩人は、もともとふつうなことを言っています。それなのに今、詩人の心を知るために詩人の心を難しく考えて、詩人の心を分かるよりも先に自分の心が狭くかたくなになってしまうなら、詩人の心が分かることはありません。詩人の情というのは、もともと楽しく安らかなものです。そんな詩人は、ただ時と場合に応じて、詩を通して自分の気持ちを表現しているだけです)。

(73)
書経』は難解な書物です。というのも、そこに表されている聖王の広い心くらいに自分の心を広くするのは、難しいことだからです。(狭い心で広い心を理解しようとするのは、たとえば「針の穴から天をのぞく」ようなもので、どだい無理な話です)。ただ、文面上の理解なら、難しくはありません。

(74)
 書物儒学のテキスト)を読むことが少なければ、はかり考えて「義(ただしさ)の本質」(つまり道理)について分かろうにも分かりようがなくなります。思うに、書物は、心をささえるのに役立ち、一時でも読むのをやめれば、それだけ徳性(人間が生まれながらにもっているりっぱな本性)もおろそかになります。書物を読むと、心がぼーっとすることがありません。書物を読まなければ、しまいには義理(道理)をみても、それが分からなくなります。

(75)
 書物儒学のテキスト)は、(さっと読み流すのではなく)頭に残るようなかたちで読むことが大切です。じっくりと考えるのは、(書物を読んでいるときではなく)たいてい夜中か、もしくは何もせずに静かに座っているときです。頭に(それが)残っていなければ、そもそも(それについて)考えることはできないものです。ただ、根本に精通すると、書物を覚えやすくなります。書物を読むのは、自分のもっている疑問点を解消し、いまだ自分の分かっていないことを分かるようにするためです。書物をよく読み、そのたびに理解が深まれば、学問が進歩します。これまで疑問にも思わなかったことに対して疑問をもつようになれば、そのとき、学問は進歩しています。

(76)
『六経(詩経書経礼経楽経易経・春秋)』は、(1→2→3→4→5→6→1→2→3→……というように)順回しに循環させて読んで理解していくことが大切です。儒学のテキストに述べられている教えは、まったく無限なものです。自分が一段と成長すれば、見方がそれまでと違ってきます。

(77)
『中庸』の文章は、一句一句について理解していき、句どうしがお互いに相手の内容を明らかにするというようにすることが大切です。

(78)
『春秋』は、(世間では孔子より前の時代からあった書物だと信じられていますが)孔子が書いた書物で、それ以前にはありませんでした。ただ孟子だけが、そのことを知っていました。『春秋』は、理(道理)が明らかに分かっており、義(ただしさ)が詳しく分かっているのでなければ、学ぶことができないものです。これまでの儒学者は、以上のことが分からないまま、この書物を学んでいました。ですから、その説にはまちがいが多いのです。

【第四巻 存養~心の根本を養う】

(1)
 ある人。「聖人は、学んでなれるのですか」
 濂渓先生。「なれます」
 ある人。「要領はありますか」
 濂渓先生。「あります」
 ある人。「教えてください」
 濂渓先生。「一が要領です。一とは無欲のことです。(無欲=人欲に心を奪われないこと)。
 無欲であれば、①静かなときには、心がさっぱりしますし、②動くときには、心がまっすぐになります。
 ①静かなときに心がさっぱりしていると、聡明になります。聡明なら、よく分かります。
 ②動くときに心がまっすぐだと、公正になります。公正なら、広くゆきわたります。
 以上のように、聡明でよく分かっており、公正で広くゆきわたっていれば、聖人に近いですね」

(2)
 伊川先生が言いました。
 陽(活力や活気)の生まれ始めは、まだまだその勢いが微弱です。(あれこれよけいなことをしたりせずに)安静にしていてはじめて、よく成長させることができます。
 ですから、『易経』にある「復(陽が復活すること)」の説明には、「昔のりっぱな王様は、陽が復活し始める冬至の日には関所をとじて静かにした」と述べてあるのです。

(3)
 動いているときは節度をなくさないようにし、休んでいるときは気持ちをのびのびさせるようにすることで、生命を養います。
 飲食と衣服で、身体を養います。
 堂々とした態度と正しい行いで、徳(自分が本来もっている良さ)を養います。
 相手のことを考えて人に対応することで、人を養います。

(4)
 言葉を慎重にして徳(自分が本来もっている良さ)を養います。(たとえば、むちゃなことを言ったり、デタラメなことを言ったりなどしないこと)。
 飲食を調節して体を養います。(たとえば、暴飲暴食をしたり、無理なダイエットをしたりなどしないこと)。
 とても身近なことでありながら、大きな影響力をもっているのは、言葉と飲食です。それ以上のものはありません。

(5)
易経』にある「震」の説明に、「カミナリのとどろきは、四方八方を驚かす。しかし、カミナリにあっても、大事な祭器をおとさない」とあります。
 人を恐れさせるような大事件に出会っても、心安らかなままで自分を見失わないでいることができるのは、ふだんから誠(本来の自分)をなくさず、敬(しっかり)しているからにすぎません。これが「震(突発的な事件)」に対処するための方法です。
(誠をなくさず、敬していると、心の根本が養われます。心の根本が養われると、芯が強くなります。芯が強くなると、何事にも動じなくなります)。

(6)
易経』にある「艮(とどまること)」の説明に、「その背にとどまる。その身を獲ず。その庭に行きて、その人を見ず。とがめなし」とあります。これは、こういうことです。
 人が(とどまるべきところに)とどまっていられないのは、人欲に動かされるからです。人欲にひっぱられているのに、(とどまるべきところに)とどまろうとしても、それはできません。ですから、「艮」本来のあり方としては、「その背にとどまる」ことが大切になってくるのです。目は前に向いていますが、背はうしろに向いています。背後にあるものは見ることができません。そのように人欲に背を向け、それに目を向けなければ、人欲のために心を乱されることはありません。そうなれば、(とどまるべきところに)とどまることは簡単です。
「その身を獲ず」とは、その身が見えないことです。つまり、我執(とらわれ)のないことを言っているのです。我執(とらわれ)がなければ、(とどまるべきところに)とどまることができます。我執(とらわれ)があると、(とどまるべきところに)とどまろうにもとどまりようがありません。
「その庭に行きて、その人を見ず」とあります。家の庭というものは狭いものですが、「それ」に背を向けていれば、たとえ狭くても「それ」は見えません。つまり、よけいなものを無視することを言っているのです。よけいなものは無視し、心のなかに人欲がめばえないようにします。そのようにして(とどまるべきところに)とどまるなら、正しいとどまり方が分かっていると言えます。ですから、とどまることにおいて「とがめなし」とされるのです。
(とどまるべきところ=天理・至善・理にかなった状態・性にあった状態など)

(7)
 明道先生が言いました。
「もし存養することができなければ、すべては口先だけのことになります」
(存養=本心をしっかりとつかまえてなくさないようにし、本性を大切にしてダメにしないようにすること。要するに、本心や本性を養い育てること。そうすることで心の健康を増進して芯を強くします)。

(8)
 聖人や賢人のいろんな言葉は、要するに、散漫になってしまった心をとりまとめ、もとに戻して再び身につけること、それが人にできるようにさせようとしているにすぎません。自分で自分の本心を探求して向上していけば、それはいわゆる「下学して上達すること=身近なことを学んで高遠な境地に達すること」(『論語』)になります。
朱子は「聖人や賢人のいろんな言葉は、ただ人がその本心を失わないことを求めているにすぎません」と言っています)。

(9)
 李?の質問。「何らかの出来事や事件に出会うたびごとに操存(心をなくさないようにすること)をする意味については、分かりました。しかし、別にこれといったこともないときには、どうやって存養(本心や本性を養い育てること)をすれば、十分なことができるのでしょうか」。
 返答。「昔のりっぱな人は、耳で音楽を聞くにしろ、目で礼儀を見るにしろ、日常生活をいとなむにしろ、ともあれ何をするにしても、日常生活用品には必ず名言や訓戒が記してあったので、つねに心を養うことができました。今では、そのようなことはまったくありません。ただ理(道理)をなくさず義(ただしく)することで心を養うことがあるだけです。ただそういった涵養(心の根本を養うこと)をしようという意志を失わないことです。そうしていれば、おのずと心が成熟していくでしょう。敬(しっかり)して心をまっすぐにすることが、涵養の内容です」。

(10)
 かつて呂与叔が、こう言いました。
「雑念が多いことを悩んでいるのですが、それをなくすことができません」
 先生は言いました。
「これはちょうど、ぼろぼろの家のなかにいて、盗賊の侵入を防ごうとしているようなものです。東からやってきた盗賊をおいはらえないうちに、西から新たな盗賊が侵入してきます。左右前後、どこからでも侵入してきて、完全においはらう暇がありません。思うに、ぼろぼろの家は、四方のかべがくずれているので、盗賊が侵入しやすく、その家の主として盗賊からその家を守ろうにも、守りようがないものです。からっぽの容器を水のなかに入れると、容器のなかに自然に水が入ってくるようなものです。もし、すでに水の入った容器であれば、水のなかに入れたとしても、よけいな水は入ってきません。思うに、なかに主がいれば充実し、充実すれば外患が入ってくることはなく、自然に無事になるものです」

(11)
 先生が?和叔に言いました。
「私たちは、精力(物事をやりとげる力)を大事に養うことが大切です。精力が少しでも欠けると、だらけます。何をするにしても無理していやいやすることになって、誠の心をなくします。ふだんの人との接し方にもまた、そのような不十分さがみられるようになります。ましてや、重大な出来事への対処など、とうていできません」

(12)
 明道先生が言いました。
「学ぶ人は、心を完全にわがものとしなければいけません。(少しも放心してはいけません)。学びがまだ不十分であっても、何かあれば、それに対処しないわけにはいきません。ただ自分にふさわしいやり方で対処するなら、完璧だとは言えないにしても、悪くはなくなります」
(放心=他のことに気をうばわれてぼんやりすること。このときには主体性をなくしています)。

(13)
論語』に「ふだん家にいるときには恭(きちんと)し、何か仕事をするときには敬(しっかり)し、人といっしょにいるときには忠(まごころ)であるようにします」とありますが、これは上から下まですべてに通じる話で、聖人はもともと上下を区別したりなどしません。

(14)
 伊川先生が言いました。
「学ぶ人は、敬(しっかり)して心を守ることが大切です。あせってはいけません。深く厚く心を養い育てるべきで、そのことにじっくりと専念して、はじめて自分で心に悟ることができます。ただ効果をあせって求めることは、それは私意であって、いつまでたっても道(道理)に到達することはできません」

(十五)
 明道先生が言いました。
「『詩経』に「思い邪(よこしま)なし(思いが純粋である)」とあり、『礼記』に「敬せざるなかれ(つねに敬(しっかり)せよ)」とありますが、この二つの言葉を守って生きていれば、まずまちがうことはありません。まちがうのはすべて、敬(しっかり)せず、正しくないことによるのです」

(十六)
 今の学ぶ人は、敬(しっかり)していても、何も得るところもなければ、心が安らかになることもありません。それは、①心が未熟だからであり、②また、敬を何か重大なものとかんちがいしているからです。その②は、『論語』に言う「恭(きちんと)していても、礼(ほどよさ)がなければ、疲れる」ということです。
 ここで言う「恭」とは、意図的にそうすることです。(たとえば、規則に定められているから、困っている人を助けること)。また、ここで言う「礼」とは、一定の形にはまるものではなく、自然にそうなるようになっていることです。(たとえば、自分本来の良心からほうっておけないので、困っている人を助けること)。
 ただ意図的に見た目をよくしようとするだけで、自然にそうなるようになっていることをなさないので、疲れるばかりで、ぎこちなくなるのです。(一般的に言って、不自然なことをしていれば、疲れるし、ぎこちなくなるものです)。大切なことは、『論語』に言う「見た目が恭(きちんと)していて、しかも心が安らかである」ことです。(要するに、中身と見た目の調和が大切ということです)。
 今、外見をきちんとし、言葉を正しくするのは、そうすることによって自分をりっぱに見せ、人からよく思われたいからではありません。ただ自然なあり方として、そうなるのが当然だからです。(すなわち、自分本来の善さが表に現れることによって、表面がおのずとよくなるようになっているのです)。もとから(たとえば作為して自分の見た目をりっぱに飾りたてようとする意図などの)私意はありません。ただ理(道理)に従っているだけのことです。(人の理は、特に性と呼ばれます)。

(17)
 現在、義理(道理)に志していながら、心に安らかさと楽しさがないのは、どうしてでしょうか。それは、まさに「苗の成長を早めようとして引っぱったために、かえってその苗をダメにしてしまった」という故事(助長)のような余計なことをしているからです。
 確かに心は、しっかりとつかまえていればなくならないし、ほったらかしにしていれば失われるものです。しかし、心を保つことにこだわりすぎるなら、それは「自分をよりよくする努力をしつつも、効果をあげることばかり考えている」のであり、これまたしばらく余計なことをしていくことになります。
 以上のような人は、ただ徳(自分が本来もっている良さ)が縮こまっているのです。しかし、徳は縮こまったものではなく、必ず膨らんでいくもので、徳が成熟すると、おのずと順調になり、すべてから学べるようになります。

(18)
 敬(しっかり)して自分をなくさずにいるときは、喜怒哀楽といった情がいまだ発していない状態(心が静かに保たれている状態)にあり、そんな状態のことを中(ほどよい)と言います。
 しかし、敬と中とは同じではありません。敬(しっかり)して自分をなくさずにいるのは、中(ほどよい)であるための方法です。
(中=過不足なく適当であること。自分の場合で言うと、自分以上でもなければ、自分以下でもなく、本当の自分であること)。

(19)
 司馬子微は、かつて「(心が乱されないようにするために)何もかも忘れること」を主張しました。しかし、そんなことが必要になるのは、心におちつきがないからにすぎません。(すなわち、心におちつきのある人は、わざわざ何かを忘れる努力をしなくても、余計なことに心が乱されることはありません。何か作為してよくなるのではなく、自然によくなることが大切です)。

(20)
 明道が、昔、長安に住んでいたときのことです。明道は役所の倉庫のなかに座って、長い廊下の柱の数を数えてみたことがありました。数えたあと、その結果に納得していたのですが、また数えてみました。すると、最初に数えた数とは違った数になりました。そこで、やむをえず、人に一本一本、声を出して数えさせました。結果は、最初の数と同じでした。これによって明道は、心というものは、何かに執着すればするほど、その信頼性が低下することを知りました。(数にこだわるのは、神経症の一種です)。

(21)
 人が心の主人となって定まることができないのは、たとえば、水車が水に流れされてグルグル回って、まったく停止することがないようなものです。いろんなことが心にやってきたとき、自分が主人となっていなければ、どうしようもありません。(それに盲目的に流されて動かされるだけです)。
 張天祺は、その昔、「私は自分で年数を決めて、その間、ベッドに入ってからは何も考えられないようにした」と言っていました。何も考えなくする以上は、無理に心をつかんで縛りつけるか、何らかの形象のなかに心をはめこむかしなければなりません。しかし、それらはすべて自然なことではありません(不自然なことです)。
 また、司馬光は、「私はいい方法を会得した。ひたすら心のなかに「中」の字を思うのだ」と言っていました。しかし、これもまた「中」の字で心を無理に縛りつけているだけです。それに「中」の字を思うと言っても、それはどんな形象(イメージ)なのでしょう。
 心のなかにつねに二人の人がいるような人がいます。たとえば、「善いことをしよう」と思っても、悪意がそれを邪魔したり、「悪いことをしよう」と思っても、善意がそれを阻止したりする、というような人です。しかし、そのような人も、もともと自分のなかに二人の人間がいるわけではありません。(心の本体は、あくまでも一つだけです)。それは、善意と悪意という二つの相反する心の動きがぶつかりあっているにすぎません。
 そこで、志をしっかり保ち、気が乱されないようにすれば、おおいに効果があがるでしょう。結局のところ、聖人や賢人は、心のわずらいに悩まされることがありません。

(22)
 明道先生が言いました。
「私は、字を書くとき、とても敬(しっかり)します。それは、きれいな字を書きたいからではなく、そうすることも学びだからです」
(あせる気持ちをなくせるように訓練するわけです。朱熹の書いた『童蒙須知』にも、同じような教えがあります)。

(23)
 伊川先生が言いました。
「聖人は、わざわざ記憶しようとはしません。そのために、よく記憶することができます。今の人が忘れやすいのは、わざわざ記憶しようとするからです。記憶することができず、対処の仕方がまずいのは、すべて心の養い方が不完全であることに原因があります」

(24)
 明道先生は、地方の長官をしていたとき、橋の修理をしました。そのとき、ちょうどいい材木が一本、どうしてもみつからなかったので、ひろく民間に求めました。それ以来、外出してよい材木をみつけるたびに、「橋作りに使えるかな」と、つい考えてしまう癖がついてしまったとのことでした。明道先生は、その話をしては、「心が何か一つのことにとらわれてはいけませんね」と言って、学ぶ人を戒めました。

(25)
 伊川先生が言いました。
「道(道理)に到達するためには、敬(しっかり)することが最適です。知(ちえ)を致(のば)せている人は、必ず敬(しっかり)するようになります。(知者になると、低俗ではなくなるので、おのずとしっかりしてくるものです)。
 今、人が、心の主人となって定まることができず、心をまるで恐ろしい盗賊のようにみなしてうまくコントロールすることができないのは、その人の心がいろんなことにわずらわされているからではなく、その人の心がいろんなことをわずらっているからです。(自分の心が乱れる原因を安易に自分以外のもののせいにするような人は)世の中には一つとして不必要なものもなければ、一つとして憎めるものもないということを知らなければなりません」

(26)
 人には、かけがえのない天理があります。それにもかかわらず、それをなくさないようにすることができません。さて、いったいどんな人になるのでしょう。(天理をなくさないためには、敬が有効です)。

(27)
 人があれこれと思い悩み、心が安らかになれないのは、ただ心の主人となって定まることができないからにすぎません。心の主人となって定まりたければ、事にとどまることです。「人民の指導者となったときには、(指導者らしく)仁にとどまる」といったことなどが、それです。
 たとえば、名君の舜が「四凶」と呼ばれる四人の悪者を罰したのは、「四凶」がすでに悪いことをしていたから罰したのです。(善は本来、ほめられるべきものです。また、悪は本来、罰せられるべきものです)。舜の主観は、まったく関係ありません。(事にとどまるとは、それぞれの場合にふさわしいことをすることです。たとえば、相手が「悪人」なら、相手は「悪人にふさわしい処遇」を受けるのが当然です。また、自分が「大人」なら、自分は「大人にふさわしい行動」をするのが当然です。これにより、物事の本来あるべき姿がきちんと保たれます)。
 人が「それ」の本来あるべき姿を重んじることができないのは、「それ」をとりあつかうにあたって、「それ」を「それ」らしくさせないからです。「それ」を「それ」らしくさせれば、「それ」を本来あるべき姿にさせることができます。しかし、だからといって、反対に自分が「それ」になれば、今度は自分の本来あるべき姿が失われます。「物があれば、必ずそれ固有の本来あるべきあり方がある」ものです。大切なことは、そういったそれ固有の本来あるべき姿を重んじることです。(つまり、犬を犬らしくさせ、人を人らしくさせ、自分を自分らしくさせるというように、理にかなったことをすることが大切なのです)。

(28)
 人を動かすことができないのは、ただ誠が十分ではないからです。何かしているとき、それが嫌になりあきてしまうのは、すべて誠からはずれたことをしているからです。

(29)
 心が安らかになってから万物を見れば、おのずとすべてが生き生きとして見えます。

(30)
 孔子は、仁の説明としては、ただ「外出したときには、会う人みんなをとても大事な客のようにみる。民衆に仕事をしてもらうときには、大祭を行うときのように慎重にする」と言っているだけです。
 仁である人(聖人)の様子はというと、心はひろびろ、体はのびのびしており、何をするにもぴったりと礼(ほどよさ)にかなってまったく自然です。ただ独りを慎むことこそが、仁をなくさないための方法です。(独りを慎むこと=たとえ一人でいて、だれにも見られる心配がなくても、みずからの良心に従い、決して悪いことをしたりしないこと)。
 聖人は、敬(しっかり)することによって自分自身を修養し、そうしてみんなを安らかにします。上に立つ者がとても恭(きちんと)していてはじめて、天下は太平になるのです(修己治人)。上の者から下の者まで、そのだれもが恭(きちんと)し、敬(しっかり)していれば、天地はおのずと安定し、万物はおのずと育まれ、和気が世界をつつみ、めでたいまえぶれである四霊(竜・鳳・麟・亀)もやってきます。
 以上が信頼を身につけ、万物と調和する方法です。聡明叡知もまた、以上の方法によって身につきます。こうして、天帝につかえるのです。(天帝=宇宙の根本。天帝につかえる=天にのっとって生きる)。

(31)
 存養(本心や本性を養い育てること)が十分にできてから、ゆったりとよゆうをもって実践していけば、進歩があるでしょう。

(32)
「たとえ神様に見られても恥ずかしくない」と言えるようにすれば、心は安らかになり、体はのびのびします。

(33)
 心は一身のなかにあることが大切です。(すなわち、「心ここにあらず」という状態になって、自分を見失ってはいけません)。

(34)
 外に向かって心に少しでもスキがあると、心はどこかへ走り去ってしまいます。(たとえば、集中力がなければ、注意散漫になります。)

(35)
 人の心は、つねに生き生きしようとしていれば、きわまりなくスムーズに機能して、かたすみで滞ってよどんだりなどしません。

(36)
 明道先生が言いました。
「『易経』に「天地の位置が安定して、そのなかでいろんな変化が行われる」とありますが、それは天地が敬しているにすぎません。人も敬していれば、間断がなくなります」

(37)
 つねに敬(しっかり)していなさい。そうすれば上帝に会うことができます。(上帝とは、言い換えれば、万事万物の根拠となっている理のことです)。

(38)
 敬(しっかり)することは、多くの邪悪に打ち勝ちます。

(39)
 敬(しっかり)して心をまっすぐにし、義(ただしく)して行動をきちんとするのは、仁(よいこと)です。しかし、心をまっすぐするために敬を用いるならば、心はまっすぐになりません。自分をよりよくする努力をしていても、早く効果をあげようとすることがなければ、心はまっすぐになります。(作為して善くするのではなく、自然に善くなることが大切です)。

(40)
 涵養(心の根本を養うこと)をすると、自分は一です。(一=他に心を奪われないこと=心に主体性が確立すること。)

(41)
 孔子は川辺で「ゆくものは、かくのごときかな。昼夜をおかず」と言いましたが、この言葉について、漢王朝の時代以来、儒学者はみんな、その意味について分かっていません。
 この言葉は、「聖人の心は、純粋そのものであり、また無限なものである」ということを表現しているのです。純粋にして無限なものは、天徳です。天徳を身につけることができれば、王道について語ることができます。天徳を身につける要領は、独りを慎むことにあります。
(独りを慎むこと=たとえ一人でいて、だれにも見られる心配がなくても、みずからの良心に従い、決して悪いことをしたりしないこと)。

(42)
易経』にある「蒙(道理に暗いこと)」の部分説明(爻辞)の三番目(三爻)に、「身を保たない。いいことはない」とあります。それは、こういうことです。
 自分が確立していなければ、良いことをしようとしていても、外物にとらわれてしまいます。どうしてなにものにも動じないでいることができるでしょうか。自分が確立していると、おのずとすべてにうまく対応できるようになります。(外物=自分の心身以外のもの。利益、名声、地位など)。

(43)
 伊川先生が言いました。
「学ぶ人は、心が乱れて安らかになれないのを気に病んでいます。こういったことは、世間一般に共通した病気です。学ぶ人は、ただ自分の心を定めることが必要なだけです。そうしてはじめて物事をはかり考えることができます」
(心がしっかり定まっていれば、つねにおちついてよく考えることができるものです)。

(44)
 邪(よこしま)が外から自分のなかに入ってくるのを防げば、おのずと誠が保たれます。これは、外から何か一つ誠と言えるようなものをもってきて、それを心になくさないようにするということではありません。今の人は、自分をとりまく外の世界にある不善に苦しめられながらも、そんな不善のなかから何か善をみつけだしてきて、それを心にしっかり守ろうとしています。しかし、このようであれば、どうして本当に善くなることができるでしょうか。ただ邪が外から自分のなかに入ってくるのを防げば、おのずと誠が保たれるのです。
 それで孟子は「性善説」を説いて、善なるものはすべて自分の内面から出てくるとしているのですが、それは私たち自身のなかにもともと誠があるからにすぎません。邪が外から自分のなかに入ってくるのを防ぐためには、いったいどのような努力をすればいいのかと言うと、それにはただ容貌をきちんとし、思慮を整えさえすれば、おのずと敬(しっかり)してきます。(容貌をきちんとすること=たとえば軽挙妄動をしないようにすること。思慮を整えること=たとえば物事をすじみち立てて冷静に考えるようにすること)。
 敬(しっかり)するとは、ただ一を主とすること(心が散漫にならないようにすること)にすぎません。一を主としていれば、東にかたよったり、西にかたよったりすることがないのですが、そのようであるなら、それは中にほかなりません。(中=過不足なく適当である状態・本当の自分である状態)。また、こっちふらふら、あっちふらふらすることがないのですが、そのようであるなら、それは内にほかなりません。(内=心がここにある状態・自分を見失っていない状態)。この中と内とをなくさないようにすれば、天理はおのずと明らかになります。学ぶ人は、敬(しっかり)して心をまっすぐにすることによって、自分の心を養うことが大切です。心をまっすぐにすることが根本です。
(本註:尹彦明が言いました。
「敬とはどんな感じのものかと言えば、ただ(主体性を確立するために)心身をひきしめることにすぎず、それが一を主とするということです。たとえば、人が神様を祀っているほこらに行って敬虔な気持ちになったとき、その心はひきしまります。そんなときには、心が散漫になることがない以上、一を主としていると言わずして、何と言うことができるでしょうか」)。

(45)
 邪(よこしま)が外から自分のなかに入ってくるのを防ぐときには、もちろん自分は一です。しかしながら、一を主とすること(心が散漫にならないようにすること)をすれば、わざわざ邪が外から自分のなかに入ってくるのを防ぐことは必要ありません。
 その際、「一とは分かりにくいもので、どのように努力すればいいのか分からない」と言う人がいるかもしれません。一とは、ほかでもなく、外見がきちんとしていて、中身がしっかりしていることです。そのようであれば、心は一です。(すなわち、心は散漫になることなく、心に主体性が確立します)。心が一であれば、邪悪なものにおかされることはありません。
 以上のように心がけて心の根本を養っていくことを久しく続けていれば、天理がおのずと明らかになります。

(46)
 質問。「心の動きがないとき(たとえば、ぐっすりと眠っているとき)には、心はどこに宿っているのですか」。
 返答。「『孟子』にあるように、心は、しっかりつかまえていれば存するし、ほったらかしにしていれば失われるもので、どんな動きをするのか予測のつかないもので、どこに住んでいるのか分からないものです。それなのに、さらに、どこに宿っているのかを探すことができるでしょうか。私たちにできるのは、ただ心を保持することだけです。心を保持する方法は、敬(しっかり)して心をまっすぐにすることです」
(心を保持していると、心をなくさずにすむので、心ある人になれます)。

(47)
 敬(しっかり)していると、おのずと心がさっぱりし、静かになります。しかし、心がさっぱりし、静かであることを、敬(しっかり)しているとすることはできません。

(48)
 学ぶ人がまず努めるべきことは、もちろん心のことです。しかしながら、①「(心を無にするために)見たり、聞いたり、知ったり、考えたりすることを除去したい」と言うことがあるなら、それは「すぐれた知恵をたちすてる」ことです。また、②(心を無にするために)考えたり、思ったりすることを除去しようとしながらも、つい余計なことをあれこれ考えたり、思ったりして心が乱れてしまうことを悩んでいるといったことがあるなら、異端の教えにならって「坐禅入定」するほかありません。(私はそんなことはしませんがね)。(坐禅入定=雑念を去って無念無想の境地に入ること)。
 たとえば、ここにきれいな鏡があったとします。そのきれいな鏡は、いろんなものを映します。そのようにいろんなものを映すのが、鏡本来のあり方であって、鏡に「ものを映すな」と言ったとしても、それはどだい無理な話です。これと同じく、人の心も内外のいろんな刺激を受けとり、それに応じていろいろ考えたり、思ったりするもので、心に「考えたり、思ったりするな」と言ったとしても、それは無理な話です。
 もし余計なことをあれこれ考えたり、思ったりして心が乱れてしまうことをなくしたいのなら、心に中心をあらせることです。何を心の中心とするかと言えば、それは敬(しっかり)することです。心に中心があれば、心は虚(さっぱり)します。ここで言う虚(さっぱり)とは、邪まなものが心のなかに入りこめないことです。反対に、心に中心がなければ、心は実(ごたごた)します。ここで言う実(ごたごた)とは、よけいなものに心が奪われることです。
 一般的に、心というものは、同時に二つのことをすることができないもので、あることに集中していれば、他のあることに注意を奪われることはないものです。このように何かを心の中心にすえるだけで、心は乱れなくなるのですから、ましてや敬(しっかり)することを中心にすえた場合、どうして心が乱れたりするでしょうか。
 いわゆる敬(しっかり)するとは、一を主とすること(心が散漫にならないようにすること)です。いわゆる一とは、ゆくことなきこと(他に心が奪われないようにすること)です。しばらくは一を主とすることの意味にじっくりとひたることです。一でなければ、二になり、三になり(余計なことをあれこれ考えたり、思ったりして、心が乱雑になっていき)ます。「ウソをつかないようにすること(正直であること)」「なまけないようにすること(実力を出すこと)」「たとえ神様に見られようとも、まったく恥ずかしくないと言えるようにすること(みずからの心の声をあざむかずに生きること)」、それらもすべて敬することの仲間です。

(49)
 威厳あることや厳格であること(など、見た目のしっかりさ)は、敬(しっかり)することの本来の姿ではありません。ただし、敬(しっかり)しようとするなら、そのように自分に厳しくすることから始めることが大切です。

(50)
 聖人君子の舜は、せっせと善いことをしました。しかし、何もないときには、いったいどのようにして善いことをしたのでしょうか。それは、敬(しっかり)することを中心にしていたのです。そうすることが、善いことをすることになるのです。この点からみると、聖人の生き方というものは、(「君子は黙して語らず」とよく言われますが)ただ黙っているだけで、何も考えていないというわけではないことが分かります。
(何もないときの敬は、主静、存養、静坐などで、簡単には心の根本を養い育てることです。何かあったときの敬は、省察、察識、慎独などで、簡単にはみずからの心の声の命じるままに行動することです)。

(51)
 質問。「人がくつろいでいるとき、その外見がだらしなくても、その心さえしっかりしていれば、それでいいでしょうか」。
 返答。「だらしなく座っていながら、心がしっかりしている人など、はたしているでしょうか。(たとえば、酔っぱらいは、だらしなくて、しかも心神喪失状態にあります)。
 かつて呂与叔が、あの暑い六月に、わざわざ遠くから訪問してきてくれました。私は、呂与叔が一人でくつろいでいるとき、何度かそのようすをそっとのぞいてみたのですが、いつも(だらけることなく)きちんと座っていました。まったくまじめな人だと言えます。
 学ぶ人は、恭(きちんと)し、敬(しっかり)していることが大切です。ただし、あまり無理して窮屈になってはいけません。無理して窮屈にやっていれば、まず長続きしないものです」

(52)
 質問。「もし、あれこれ考えたり、思ったりすることが多くても、それらがすべて正しいことであれば、害はないでしょうか」。
 返答。「たとえば、墓地にいるときには敬(しっかり)するようにし、朝廷にいるときには荘(おもおも)しくするようにし、軍隊をひきいるときには厳しくするようにします。そのようにすることは、正しいことです。(時と場合にあったことをすることが大切です)。もし、どんなことを考えるにしろ、どんなことを行うにしろ、それが時宜にかなったものではなく、乱れた節度のないものであれば、正しいことをしていても、結果的には悪くなります」。

(53)
 蘇季明の質問。「(『中庸』に「喜怒哀楽といった情が未だ発していない状態、これを中という」とありますが)喜怒哀楽といった心の動き(情)が起きる前に、「中」を求めることは可能ですか」。(中とは、過不足なく適当であることです。自分の場合で言うと、自分以上でもなければ、自分以下でもなく、本当の自分であることです)。
 先生。「それはできません。すでに「心の動きが起きる前に中を求めよう」と思っていますが、そう思うこともまた、心の動きです。(本註:心の動きには、喜怒哀楽だけでなく、考えることもあります)。心が動いているとき(に、ほどよくあること)は「和」であって、「中」ではありません」
 蘇季明。「呂与叔は、「喜怒哀楽といった心の動きが起きる前に求めるべきだ」と言っていますが、これはどうなのですか」
 先生。「もし「喜怒哀楽といった心の動きが起きる前に存養をする」と言うのなら、それは悪くはありません。(存養=本心や本性を養い育てること)。しかし、もし「喜怒哀楽といった心の動きが起きる前に中を求める」と言うのなら、それはいけません」
 蘇季明。「学ぶ人は、喜怒哀楽といった心の動きが起きた場合、もちろん(たとえば感情的にならないようにしたり、悪い心を抑え善い心を伸ばしたりなどして)心の動きをうまくコントロールすべきです。しかし、そういった心の動きがまだ何も起きていないときには、いったいどのような努力をすればよいのですか」
 先生。「喜怒哀楽といった心の動きが起きる前においては、(心の動きがない以上、そのときには、ぐっすりと眠っているときと同じで、意識がないのですから)何もしようがありません。ただ、ふだんから涵養(心の根本を養うこと)をしていれば、それで十分です。涵養を長いことしていれば、喜怒哀楽といった心の動きはすべて、おのずと時宜にかなったほどよいものになります。(たとえば、怒るべきときに怒り、喜ぶべきときに喜ぶようになります)」
 蘇季明。「中であるときには、(無意識なのですから)耳では何も聞くことができず、目では何も見ることができないのでしょうか」
 先生。「耳で聞くことや、目で見ることはできないにしても、そういった見聞を成り立たせている原理といったものはあります。君は、心の動きのない静の状態(意識のない無意識の状態)のとき、どんな状態にありますか」
 蘇季明。「何かものがあるとは言えませんが、何かを認識するはたらきはあります」
 先生。「何かを認識するはたらきがあるのなら、それは動(意識のある状態)です。どうして静(意識のない状態)だと言えるでしょうか。人は、『易経』にある「復はそれ天地の心を見る」という言葉の説明として、「至って静かなる状態(無意識の状態)になると、天地の心を見ることができるのだろう」と言っています。しかし、それはまちがいです。「復」は、動です。(なぜなら、「復」とは、陽の復活してくることだからです)。それなのに、どうしてそれを静と言うことができるでしょうか」
 それを聞いていた、ある人の質問。「これは動(意識)のうえにおいて、静(無意識)を探求することではないでしょうか」
 先生。「もちろん、そのとおりです。しかしながら、それはとても難しいことです。仏教では「定(坐禅入定)」を説きますが、儒学では「止(本来あるべき状態にとどまること)」を説きます。たとえば、「人民の指導者(君主)となったときには、仁にとどまり、全体の奉仕者(臣下)となったときには、敬にとどまる」と言うときの「止」です。『易経』にある「艮」の説明は、その「止」の意味について説明しています。すなわち「止」とは、「そのとどまるべきところにとどまること」です。多くの人は、そのように「(自分の本来あるべき状態に)とどまること」ができていません。というのも、万事万物にはそれぞれ、それ固有のよさがあるものですが、人にはそういった万事万物の固有のよさをみぬく能力があるので、何かに出会うたびに、そのよさを知り、(自分本来のよさを忘れて)それに気を引かれてしまうからです。(たとえば「隣のボタモチは大きく見える」ものです)」
 ある人。「先生は、喜怒哀楽といった心の動きが起きる前の説明として、静を用いますか、それとも動を用いますか」
 先生。「静と言えば、いいでしょう。しかしながら、静のなかに把握できるものがあるようにして始めて分かります。このことは、なかなか分かりにくいことです。ともあれ学ぶ人は、なによりもまず敬(しっかり)することを理解し、会得することです。敬(しっかり)することができれば、そのことが分かるでしょう」
 ある人。「敬(しっかり)するためには、どのようにすればいいのですか」
 先生。「一を主とすること(心が散漫にならないようにすること)が一番です」
 蘇季明。「私は、思慮が定まらないことをいつも悩んでます。たとえば、あることを考えていても、それを考え終わらないうちからすぐに、他のよけいなことを考えてしまいます。(こんな散漫な心を)どうしたらいいでしょう」
 先生。「いけませんね。それは誠ではなくなる原因になります。(誠ではなくなると、心が不自然になって、ゆがんでしまいます)。大切なことは、(心が散漫にならないように)何度も訓練することです。何度も訓練して、つねに一であることができるようになれれば、よくなります。(一=他に心を奪われないこと)。何を考えるにしても、何を行うにしても、つねに一であろうとすることが必要です」

(54)
 人は、寝ているときに見た夢を通しても、自分の学問の進みぐあいの「深い」「浅い」をうかがい知ることができます。たとえば、いやな夢を見た場合には、心が定まっておらず、操存が十分ではないのです。(操存=心をなくさないようにすること)。

(55)
 質問。「心が何か善いことにとらわれていて、夜、寝ているときにそれを夢に見ることは、害がありますか」
 返答。「たとえ善いことであったとしても、心が定まっていないことには変わりがありません。一般的に、何かの起こるまえぶれとして夢に見るのなら、まったく害がありません。それ以外の場合は、すべて心が妄動しているのです。人の心は、定まっていることが大切です。Aと思うべきときにAと思うのなら、心は正しい状態にあります。今の人はみんな、心まかせにしています。(それはいけないことです)」
 質問。「心を働かせるにあたり、何を中心とすればいいのですか」
 返答。「主体性をもって心を働かせるといいでしょう。人の心は、ほったらかしにしていれば、ダメになってしまいます」

(56)
孟子』にある「意志を持(たも)ち、気力を暴(そこ)なうな」とは、内(心)と外(体)とがお互いに養いあうことです。

(57)
 質問。「『論語』に言う「辞気を出す(言葉つきをよくする)」を実践するにあたり、言葉のうえで努力することはないのですか」
 返答。「大切なことは、自分の内面を養い、おのずと言葉が理にかなうようにすることです。(もし、うまいことを言うために言葉を飾る努力をするなら、それは無意味なことです)。ただし、言葉を慎重にして、デタラメなことを言わないようにすることに関しては、そうする努力をすることが大切です」

(58)
 先生が言いました。
「私は生まれつき体が弱く、三十歳になってようやく強くなり、四十から五十歳くらいになってはじめて、人なみの健康体になれました。今や七十二歳となりましたが、今の筋骨を若いころとくらべてみても、まったく老けてはいません」
 私(張繹)は言いました。
「先生は、生まれつき体が弱かったので、十分に養生に努められていたのですね」
 先生は、しばらくしてから言いました。
「私は、生きることを忘れて、欲望のおもむくままになることを、とても恥ずかしいことだと思っています」

(59)
 一般的に、心をしっかり定めて乱さないことがきちんとできない人は、みんな不仁の人(ひどい人)です。(心を保てない人は、心ない人、すなわち不仁の人になります)。

(60)
 伊川先生が言いました。
「知(ちえ)を致(のば)すにあたっては、養う方法があります。知(ちえ)を養うためには、欲を寡(すく)なくすることが一番です」
(欲を寡なくすること=欲を人間らしくコントロールして、欲のおもむくままに流されないように注意すること)。

(61)
 心の安定している人は、その言葉が的確で、ゆったりしています。
 心の安定していない人は、その言葉が浅はかで、せかせかしています。

(62)
 明道先生が言いました。
「人には四百四もの多くの病気がありますが、どれも自分の思いどおりになりません。しかし、心は自分で管理することが大切です」

(63)
 謝顕道は、扶溝というところで、明道先生に学んでいました。
 ある日、明道先生が(その門人たちに)言いました。
「みなさんは、ここで私に学んでいますが、ただ私の言葉を学んでいるだけです(深く学べていません)。ですから、みなさんの学びは、「心に思うこと」と「口で言うこと」とがくいちがってしまうのです。どうして学んだことを実践しないのですか」
 謝顕道は、どうすればいいのかを質問しました。
 明道先生は、言いました。
「しばらく静坐をなさい」(静坐=心の根本を養うために、ひとり静かに座ること)。
 伊川は、人が静坐をしているのをみかけるたびに、「よく学んでいるなあ」と感心しました。

(64)
 横渠先生が言いました。
「学び始めたばかりの人にとって重要なことは、『論語』にある「三カ月もの長きにわたって仁であったこと」と、「月に一日ほど仁であること」との違い、すなわち、「前者は仁が主人として内にいるのであり、後者は仁が客として外からやってきているのである」ということを知り、仁が主人として内にいるようになるように努力をおこたらず順々とやっていき、それをやめられないようにすることです。これを過ぎれば、これといった努力をしなくても、おのずと進歩していくようになります」

(65)
 心がスッキリしているときは少なく、心がゴチャゴチャしているときは多いものです。心がスッキリしているときは、見るときにはあらゆることを見分けることができ、聞くときにはあらゆることを聞き分けることができ、身体は、別に無理しておさえつけなくても、おのずと恭謹(きちんとした状態)になります。心がゴチャゴチャしているときには、それとは反対になります。
 このようになるのは、どうしてでしょうか。思うに、心の用い方が未熟で、雑念が多くて定まった心が少なく、俗習にとらわれており、本心がいまだ完成されていないからです。
 人はまた、心を強くする必要があります。心が弱いと、真に自立することはできません。世間には、生まれたときから喜怒の感情をもてないほど心が衰弱している人もいます。そのような人もまた、心を強くする必要があります。心が強いと、自分をしっかり保つことができて邪悪なことにおちいることがなくなり、勇敢に道(道理)をめざしていけます。私(張横渠)は、人間一般からみて、勇ましさが人よりも多くあります。

(66)
 たわむれふざけることは、いろいろと害のあるものですが、志をも気の向くままに押し流してしまいます。たわむれふざけることを慎むこともまた、気をしっかり保つ方法です。
(気の向くままに生きていると、「性にあった生き方」「理にかなった生き方」ができません)。

(67)
 心を正しくする出発点は、自分の心を(信じて)厳格な先生のようにみなすことです。そうすると、何をするにしても(「心の声」を厳格な先生の話を聞くときのように真剣に聞くようになり)気をつけるべき点について分かります。このようなやり方を一、二年ほどかたく守っていけば、心はおのずと正しくなります。

(68)
 心が安定してから、はじめて光明になれます。(光明=心に曇りがなく、心が明るく晴れわたっている状態。要するに、道理に精通している状態)。もし心がつねにふらふらしていて安定しなければ、どうして光明を手に入れることができるでしょうか。『易経』では、「艮」を「止」と解釈しています。そこには、「とどまることができてはじめて光明になれる」とあります。ですから、『大学』では、「安定してから、よく考えることができるようになる」としているのです。人の心が安定せず散漫だと、光明とは無縁になります。

(六十九)
易経』に、「動静がその時を失わなければ、その道は光明である(何かするにしろ、何もしないにしろ、その動静が時宜にかなうようにしていれば、道理に明るくなる)」とあります。学ぶ人は、「動くべきときには動き」「静かにすべきときには静かにする」というようにしていれば、道理というものが、隠れて見えなくなることがなくなり、明らかに見えるようになります。今の人が、長いこと学んでいるにもかかわらず、なんら進歩も向上もしないのは、「すべきとき」と「せざるべきとき」とが分かっていないからです。他人が何かごたごたしていると、こちらに関係のないことであるにもかかわらず、こちらの修養もゆるんでしまいます。そのような人は、聖人になるための学問の観点からみると、とても愚かですし、ぐうたらしています。そして、そのまま一生を終わってしまうわけですが、はたしてそれで「光明(道理に明るい)」と言えるでしょうか。

(70)
 敦篤(誠実)と虚静(虚心)とは、仁のもとです。敦篤とは、軽率であったり、妄動したりなどしないことです。虚静とは、心にとらわれがあったり、心が曇っていたりなどしないことです。このことは、(言葉で分かっても)すぐさま深く理解するのが難しいことです。もし、それを知りたければ、道(道理)に長いこと関わって、それを十分に体得することが大切です。そうしてはじめて、その味わいが分かり(深く理解することができ)ます。『孟子』にあるように、「仁もまた成熟させることが大切だ」というわけです。

【第五巻 改過遷善克己復礼~心の動きを正す】

(1)
 濂渓先生は、次のように言っています。
易経』の「乾」の説明にあるように、君子は、うまずたゆまず努力して、誠をなくさないようにします。しかしながら、次のような二つのことをしてはじめて、誠をなくさずにいることができます。
 ①一つは、『易経』の「損(減らすこと)」の説明にあるように、怒りに我を忘れたり、欲望のおもむくままに流されたりなどしないように、十分に気をつけることです。(つまり、自分のよけいな怒りや欲望を減らすわけです)。
 ②もう一つは、『易経』の「益(増すこと)」の説明にあるように、善を見ればそれを見習い、過失があればそれを改めることです。(つまり、自分の足りない部分を増すわけです)。
「乾」の使い方としては、これほど善いものはありませんし、「損」と「益」の大事さとしては、これ以上のものはありません。聖人の考えには、まったく深いものがありますね。(私たちの本性は善そのものですが)動くときには吉(幸運になる)・凶(不運になる)・悔(後悔する)・吝(いきづまる)が出てきます。ああ、善いものである吉は(四つのなかの)一つだけです。動くときに慎重にしないでいいでしょうか。

(2)
 濂渓先生が言いました。
孟子は、「心を養うには、欲を少なくすることよりもいいことはない」と言っています。しかし、私の場合、欲を少なくすればそれでいいとは思いません。というのも、少なくしていくことで、最終的には無くしてしまえば、①誠が確立し、②聡明となりよく分かるようになるからです。①誠が確立しているのは、賢人です。②聡明でよく分かっているのは、聖人です」

(三)
 伊川先生の話。
 顔回が「克己復礼(人欲を去って天理に復すること)」の細目を質問したとき、孔子は「礼(ほどよさ)から外れているのであれば、見たり、聞いたり、言ったり、したりしないようにしなさい」と答えました。
 視・聴・言・動の四つは、身体のはたらきです。心が視・聴・言・動に影響を及ぼすわけですが、視・聴・言・動をコントロールするのは心を養う方法です。(ほどよい視・聴・言・動を保つには、つねに心をしっかりさせていなければならないので、心が鍛われます)。顔回は、その孔子の言葉どおりに努力しました。ですから、聖人への道を進むことができたのです。
 私たち後世の学徒は、このことをよくよく大事にして守ることが必要です。そこで、このことにちなんで戒めの言葉を作り、自分を戒めることにします。(克己復礼するには、省察、察識、慎独が有効です)。
 ①視(見ること)の戒めの言葉。
 心は本来さっぱりしたもので、外からの刺激に対して反応しますが、とらえどころがありません。そんな心をなくさないようにするためには、視ることに節度を保つことです。魅惑的なもの(欲望をかきたてるもの)が目の前に現れると、私たちの心は動かされてしまいます。そこで、そんな余計なものに目を向けないようにし、そうして内面を安らかにし、克己復礼していれば、そのうちに誠になります。
 ②聴(聞くこと)の戒めの言葉。
 人が正しさをなくすまいとするのは、天性にもとづいています。(性善説)。しかし、知(ちえ)が外物に惑わされ、心が物欲にとらわれたなら、天性の正しさは失われてしまいます。すぐれた先覚者は、本来あるべき状態にとどまることを知っていて、心が安定しています。外から邪(よこしま)が心のなかに入ってくることを防ぎ、誠をなくさないようにし、礼に反したことであれば聞いてはいけません。
 ③言(言うこと)の戒めの言葉。
 人の心の動き(喜怒哀楽や思考など)は、言葉によって表現されます。言葉を発するにあたって、あわてふためいて言ったり、でたらめなことを言ったりしないようにしているときには、心はおちついています。もちろん、言葉は重要なもので、戦争の原因になったり、友好の手段となったりします。幸運や不運も、栄誉や恥辱も、言葉いかんにかかっています。言葉は、簡単すぎると要点がぼやけますし、繁雑すぎると要点が分かりません。自分勝手なことを言えば、相手は反発しますし、ひどいことを言えば、ひどい言葉が返ってきます。「理にかなったことでなければ、言わない」。この戒めの言葉を守りなさい。
 ④動(動くこと)の戒めの言葉。
 道理の分かった人は、心のかすかな動き(善意や悪意の生じ始め)を敏感にとらえ、(みずからの心の声に従って善意を伸ばし悪意を抑えて)心の動きが誠になるようにします。志の高い人は、(みずからの心の声の命じるままに)りっぱな行いをするように努力して、決して道理に反したことをしないようにします。私たちは、理に従うときには、ゆったりします。(人の理を性と言い、性とは本当の自分のことです)。反対に、欲に従うときには、危うくなります。どんなときにもよく考え、気をひきしめて自分をしっかり保ちます。何度も練習してそれが身につけば、聖人や賢人になれます。

(4)
易経』にある「復(もとに戻ること)」の部分説明(爻辞)の最初(初爻)に、「(陽が失われてから)遠からずして復する。悔いにいたることはない。おおいに(善くて)吉」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「陽は、君子(りっぱな人)の道です。ですから、「復」とは、善に戻るという意味です。(儒学は、性善説の立場に立っています。ですから、自分が悪になっているときには、それは自分本来の善を失った結果なのだから、自分本来の善に戻ることが必要だとします)。
 この復の説明の最初は、いちばん先にあるということで、これは失われてからすぐにもとに戻るということを表しています。何であれ、失われるからこそ、復するということが可能になるものです。何も失われていないときには、いったい何が復するというのでしょうか。(たとえば、病気になって健康が失われることがあるからこそ、健康の回復があります。健康が失われていなければ、回復もありません)。
 しかし、何かが失われることがあったとしても、すぐに復することができれば、「悔いにいたること」はなく、まさに「おおいに善くて吉」です。(たとえば、ふつう病気になって健康を失ったとしても、そのままほったらかしにしたりせず、すぐさま治療をすれば、大事にいたることはありません)。たとえば、顔回に目に見えて大きな過失がなく、孔子が「顔回は聖人に近い」と言ったのは、顔回には「悔いにいたること」がなかったということです。(つまり、顔回は、何か失敗をしても、それをほったらかしにしたりせず、すぐに改善策を講じたので、すぐに失敗を回復できたということです)。過失が周囲に大きな悪影響をおよぼす前に、その過失を改善できる以上、どうして「悔いにいたること」があるでしょうか。
 なお、『中庸』に言う「別に努力しなくても、その行為がすべて中よいものとなる」ということができたり、『論語』に言う「何を欲しても、そのすべてが理にかなったものになる」ということができたりしなければ、それは過失があることになります。しかしながら、「復」の説明の最初は、その性質上、聡明にして剛強なので、「ひとたび自分に過失があれば、それに気づける。自分の過失に気がつけば、それをすぐさま改めることができる」ということを表しています。ですから、「悔いにいたること」がなく、「遠からずして復する(すぐに回復する)」ことができるのです。
 つまり、学問のやり方とは、ほかでもなく、ただ自分に不善があることを知れば、それをすぐさま改めて善に従うようにすることだけです」

(5)
易経』にある「晋(進むこと)」の部分説明(爻辞)の最後(上爻)に、「自分のツノを前に進ませる。自分の住む土地の治安を守るために武力を用いるのは、厳しいけれども、吉であって、とがめはない」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「人が自分で自分を治める場合、「剛(芯の強さ)」を極点にまで高めると、道を守る意志がますます堅くなります。また、「進(やる気)」を極点にまで高めると、善に向かうスピードがますます速くなります。「晋」の説明の最後は、その「剛」と「進」について述べているのですが、そのようにして自分で自分を治めることは、きびしすぎるかもしれませんが、吉であって、とがめはありません。(剛=ツノ。進=前に進ませること)。厳しさは、安和(おだやか)にするやり方とは違っていますが、自分で自分を治めるにあたっては、とても有効なものです。しかし、自分で自分を治めるのに有効であっても、それは中和(ほどよく)するという徳(よさ)からはずれています(厳しさにかたよりすぎています)。ですから、「正しいことをしていても、よいやり方ではない」とされるのです」

(六)
易経』にある「損(へらすこと)」とは、①過ぎたる状態を減らして、中を重んじるようにしたり(中=多すぎることもなければ、少なすぎることもなく、ちょうどよいこと)、②表面的なことを減らして、本質的なことを重んじるようにしたりすることです。世の中にある害悪というものはすべて、本末関係で言うところの「末」が勝つことによって生まれてきます。(本=本質的なこと・中よい状態。末=表面的なこと・過ぎたる状態)。
 たとえば、家をりっぱに見せるために屋根を高くしたり、華美な装飾をほどこしたりすることも、もともとは(生活に必要な)家を建てることから始まっています。また、贅沢きわまりない食事も、もともとは(生活に必要な)飲食をすることから始まっています。また、無慈悲すぎたり、残酷すぎたりする極刑も、もともとは(治安を守るために必要な)刑罰を施行することから始まっています。また、何でも武力でかたづけようとしたり、武力を誇ったりすることも、もともとは(治安を守るために必要な)征伐をすることから始まっています。
(以上のことからも明らかなように)一般的に、人欲という過ぎたるものは、すべて生活の安定をはかることから始まっています。そして、人欲に流されて天理から遠く離れてしまうと、いろんな害悪を生じるようになります。
 昔のりっぱな王様が「本」を重んじたのは、天理です。今のりっぱでない人が「末」に流れるのは、人欲です。つまり、「損」の意義は、人欲をへらして、天理に戻ることにあるのです。
(たとえば、人間に性欲があるのは、正常なことです。しかし、性欲が度をこして強くなり、性欲に流されて強姦するなら、それは異常なことです)。

(7)
 そもそも人は、心が正しく、意(心の動き)が誠であれば、中(ほど)よく正しくするという良いやり方をきわめることができて、内には徳が充実し、外には徳が光り輝くようになります。(心が正しいこと=感情的ではなく理性的であること。意が誠であること=みずからの心の声をいつわらないでいること)。
 もし(私利私欲をはかる心などの)不純な動機があって、理(道理)に反したやり方で事を決したりするならば、たとえそれをしたときに、中(ほど)よく正しくあるという良いあり方をなくさずにすみ、「とがめがなし」になったとしても、中道をそれ以上に大きくすることはできません。というのも、人の心というものは、少しでも欲にとらわれていれば、道(道理)から離れていってしまうものだからです。
 ですから、『易経』にある「夬(決すること)」の部分説明(爻辞)の五番目(五爻)に、「小人が、(陰濁から)きっぱりと決別する。中が行われて、とがめなし」とありながらも、そこの解説には、「中が行われて、とがめなしとは、中がいまだ大きくないのだ」とあるのです。孔子がここにおいて人に示している意味には、深いものがあります。

(8)
 喜ばしいことがあっても、喜びすぎて有頂天になったりせず、適度な喜びにとどめておくのが、節するということです。

(9)
易経』にある「節(節すること)」の部分説明(爻辞)の二番目(二爻)は、正しくない節について述べてあります。
 正しい節とは、「剛(芯の強いこと)」「中(過不足なく適当であること)」「正(きちんと是非をわきまえること)」のことです。それは、たとえば、「怒りに我を忘れたり、欲望のおもむくままに流されたりなどしないようにすること」や「過ぎたるものを減らし、余計なものを抑えること」などです。
 正しくない節とは、たとえば、「ケチで生活に必要なものまで節約すること」や「臆病なために行動すべきときにも(それを節約して)何もしないこと」などです。

(10)
 人のなかで、「克(人に勝ちたがること)」「伐(いばりたがること)」「怨(腹を立てること)」「欲(欲ばること)」をなくすことができるのは、ただ仁である人だけです。
 克・伐・怨・欲をほったらかしにしたままで、自分の心の動きをうまくコントロールして克・伐・怨・欲をしないようにしようとしても、それは難しいことです。しかし、克・伐・怨・欲をなくすことを仁と言うならば、それはまちがいです。
 ですから、孔子は、原憲から「(仁である人は、難しいことを先にするものですが)克・伐・怨・欲をしないようにすれば、仁になれますか」という質問を受けたときに、「確かに、そうすることは難しいことです。しかし、そうすることが仁にあたるのかどうか、私には分かりません」と答えたのです。
 聖人の言葉には、深い意味がこめられています。

(11)
 明道先生が言いました。
「義理(天理)と客気(人欲)とは、つねにお互いに争っています。どちらが優勢になるかによって、君子(りっぱな人)と小人(つまらない人)の別が決まります。(義理が勝てば、その人は君子となり、客気が勝てば、その人は小人となります)。義理がだんだん優勢になっていけば、客気が消散してだんだん減少していくのが、おのずと分かります。客気が消えつくすと、その人は大賢人になります」
(天理を勝たせるための方法としては、敬が有効です)

(12)
 ある人が言いました。
「人はだれでも、和(なごやかであること)・柔(やわらかであること)・寛(おおらかであること)・緩(ゆったりしていること)が大切だと分かっています。しかし、いざとなると、その意に反して、思わずあらあらしくなったり、はげしくなったりするものです」
 それに対して先生は、こう言いました。
「そうなるのは単に、自分の意志が、そのときそのときの気分に負けているからにすぎません。そのときそのときの気分のままに、その心が動かされているのです」
(そのときそのときの気分に流されたりせず、自分の意志で動く人は、主体的な人です)。

(13)
 人が「よけいな思い」や「つまらぬ考え」を取り除くことができないのは、けちくさいからにすぎません。けちくさいので、浩然の気がないのです。
(浩然の気=①天地にみなぎる正々堂々とした元気で、人の活力の源泉。②大らかな気分)

(14)
 怒りの感情をうまく治めるのは、難しいものです。しかし、利己心に打ち勝つことができれば、怒りの感情をうまく治めることができます。
 また、恐怖心をうまく治めるのも、難しいものです。しかし、理(道理)に明るければ、恐怖心をうまく治めることができます。

(十五)
 邵康節が、『詩経』にある「他山の石は、玉を磨くことができる」という言葉を解説して、次のように言っています。
「宝玉というものは、やわらかなものです。ですから、二つの宝玉をこすりあわせたとしても、うまく磨くことはできません。うまく磨くためには、どこかよそからゴツゴツした石をもってくることが大切です。そうしてはじめて、うまく磨くことができます。
 これと同じように、君子(りっぱな人)と小人(つまらない人)がいっしょにいた場合、君子は小人によって磨かれます。すなわち、小人が周囲におよぼす悪影響にさらされた君子は、次の三つのことをするのです。
①自分自身を反省しつつ修養して、小人から悪い影響を受けずにすむようにすること。
②心をひきしめて、欲望にふりまわされないように自重すること。
③自分の欠点がなくなるように努力して、小人のように悪くならないように気をつけること。
 以上のようにしていれば、道理についておのずと分かります」
(邵康節は、周濂渓、張横渠、程明道、程伊川にならぶ、北宋王朝の時代の中国の有名な哲学者です)。

(16)
 尖ったものを目にすると怖くなるといった精神病(尖端恐怖症)は、そのままほったらかしにしていてはいけません。そういった恐怖心がなくなるようにすることです。そのとき大切なことは、部屋のあちこちに尖ったものを置いて、「尖っているからといって、必ずしも目を刺してくるとはかぎらないのだから、そんなに怖がる必要はない」という理にかなったことを分かることによって、尖ったものへの恐怖心に打ち勝つことです。
(要するに、「神経質はさっさとなくそう」ということです)。

(17)
 明道先生が言いました。
「上の者を責め、下の者を責めながら、中間の自分だけ大目に見るような人に、どうして自分のなすべきことをなすことができるでしょうか」

(18)
 我をおさえて人に学ぶことは、とても難しいことです。我は自分のもっているもので、いくら我をおさえようとがんばってみても、やはり我を通そうとしてしまいがちになり、人に学ぶことを軽んじてしまう恐れがあります。

(19)
 九徳は、とてもよいものです。
(九徳=①寛大だけど、威厳がある。②柔軟だけど、独立している。③素朴だけど、粗野でない。④指導力があるけど、いばらない。⑤おとなしいけれど、芯がしっかりしている。⑥心がまっすぐだけど、ゆうずうがきく。⑦大ざっぱだけど、要所はおさえている。⑧剛毅だけど、心が豊かである。⑨猛々しいけれど、理に反したことはしない。)

(20)
 空腹になったときには何か食べ、のどがかわいたときには何か飲み、寒い冬には革で作られた暖かい服を着用し、暑い夏にはくずで作られたすずしい服を着用します。もし少しでも偏屈な心があれば、天から与えられた職務(自然なあり方)をダメにすることになります。

(21)
 私(程明道)が、「昔は狩猟(ハンティング)が好きでしたが、いつのまにやら好きではなくなりました」と言うと、周濂渓は、こう言いました。
「口ではそんなことを言っていても、ただ心の奥深くで眠っているだけですよ。それが目覚めたなら、また前と同じようになるでしょう」
 それから十二年が経過しましたが、人が狩猟をしているのを見たとき、周濂渓の言うとおりだと分かりました。(私的な好みというのは、そう簡単にはなくならないものですね)。
(本註:明道は、十六、七歳のころ、狩猟が好きでした。それから十二年後の年末に故郷に帰ったとき、狩猟をしている人を見て、思わず心が楽しくなりました)。

(22)
 伊川先生が言いました。
「だいたい人間には身体がある以上、(この身かわいさから)自私(わがまま)になるのもあたりまえです。道(道理)からはずれないようにできにくいのも、うなずけますね」

(23)
 自分に過失があれば、それをすなおに認めて、自分を責めることは大切なことです。しかしながら、そのことをいつまでも心にとどめて、後悔し続けてはいけません。

(24)
 何か欲したとしても、それが必ずしも心を溺れさせるとはかぎりません。欲するままに動くこと、それが欲です。
(人に食欲や性欲があるのはあたりまえですが、食欲や性欲をほしいままにして主体性をなくせば、その人は「ケダモノ」になります。)

(25)
 明道先生が言いました。
孔子の門人の子路もまた、(粗野な人でしたが)のちのちまで師とあおぐにたる人物です」
(本註:子路は、人から自分の過失を指摘されると、「自分をよりよくする、ちょうどいいチャンスだ」と、それを喜んで聞きました。)

(26)
 質問。「人がせっかちに話すのは、気質が安定していないのではないでしょうか」
 返答。「そのとおりですから、そんな人もまた、そんな気質を変化させることができるように、聖人の教えにもとづいて練習しなければなりません。練習して、別に意識せずとも自然にゆったりするようになれば、気質は変化しています。聖人になるための学問は、気質を変化することができて、はじめて効果があったと言えます」
(気質変化=自分の気質のよくないところがよくなるようにすること。)

(27)
 質問。「『論語』に「怒りを移さず、過ちを再びせず(やつあたりをせず、同じまちがいを二度とくりかえさない)」とありますが、それは、どういうことですか。先生の『語録』には「Aを怒ったときに、関係のないBまで怒ったりしないこと」とありますが、そのことですか」
 伊川先生の返答。「そのことです」
 質問。「それなら、とても簡単なことではないですか。どうして、孔子の門人のなかで、ただ顔回だけしか、それができなかったのですか」
 先生の返答。「ただ大ざっぱに説明したにすぎないので、みなさんは簡単なことだと言いますが、しかし、これは難しいことではないでしょうか。大切なことは、なにゆえに怒りを移さずにすんだのか、そのことについてよく考えることです。
 たとえば、聖人の舜が「四凶」と呼ばれる四人の悪者を罰したとき、(「四凶」はすでに悪事をなしていたのですから)怒りの原因は「四凶」にありました。どうして舜に怒りの原因があったと言えるでしょうか。思うに、(客観的にみて)怒るべき理由があったからこそ、怒ったのです。(聖人は、自分が怒りたいから怒るのではなく、怒るべきだから怒るのです)。聖人の心には、もともと怒りはありません。聖人の心は、たとえば、きれいな鏡のようなものです。善いものがきたときには、それを善いものとして見ますし、悪いものがきたときには、それを悪いものとして見ます。鏡にどうして好き嫌いがあるでしょうか。(鏡は公平に物事を見ます)。
 世間には、家でだれかを怒った場合、その怒りの気分のまま、イライラしながら町にでかけてくるような人がいます。そんな人は、たとえば、Aさんを怒ってから、そのあとにBさんと話をするときに、怒りによるイライラした気分をなくして(おおらかな心で)話をすることができるでしょうか。Aさんを怒ったとしても、Bさんにまで怒りをぶつけない人もいますが、そのように自分の感情をうまくコントロールできる人は、すでに義理(道理)を知っているのです。聖人のように客観的(理性的)に怒り、感情的(主観的)に怒らないということは、とても簡単なことでしょうか。
 君子(りっぱな人)は余計なものをコントロールし、小人(つまらない人)は余計なものにコントロールされます。最近は、喜ぶべきことや怒るべきことがあると、それに対して自分の主観や感情をくっつけて喜んだり、怒ったりします。しかし、これまた、よけいなことです。(怒るのが正しい場合でも、怒るときに少しでも私情をまじえれば、その怒りはもはや正しくない怒りです。たとえば、自分の好きなAさんが理に反したことをしたときにはやさしく怒り、自分の嫌いなBさんが同じく理に反したことをしたときにはひどく怒るのは、正しくない怒りです)。聖人の心は、いわゆる止水のようなものです。(まったく静かで、とても澄みきっています)」

(28)
 視ることが、克己復礼(人欲を去って天理に復すること)の最優先課題です。 礼(ほどよさ)からかけ離れたものに目を向けると、まさに「目を開いたとたんにまちがう」ということになります。視ることの次は、聴くことです。聴くことの次は、言うことです。言うことの次は、動くことです。このように、克己復礼には先後の順序があります。人は、克己(人欲を去ること)ができると、心がひろびろし、体がのびのびし、天地に恥じないようになります。それがどんなに楽しいことであるか、あなたにも分かるはずです。克己復礼に努めることをやめると、心に物足りなさを感じるようになります。
(人欲を去って天理に復するとは、今風に言うなら、ウソの自分をやめて本当の自分に戻ることです。)

(29)
 聖人(すぐれた人)は、自分の他者に対する言動の善し悪しを問題にしても、他者の自分に対する評価の善し悪しを問題にしたりしません。
(聖人は、たとえば善い行いをする場合、「自分は本当に善い行いができているかどうか」を問題にしても、「他人が自分の善い行いに感謝しているかどうか」を問題にしたりしません。)

(30)
 謝顕道は、伊川先生と別れてから一年後、伊川先生と再会しました。
 伊川先生。「別れてから一年になりますが、どんな学問の工夫をしましたか」
 謝顕道。「ただ自慢心をなくす努力をしていました」
 伊川先生。「どうしてですか」
 謝顕道。「自分をくわしく点検してみたのですが、自分の悪さの病根は自慢心にあると分かりました。そこで、もし自慢心をやっつけて、なくすことができたなら、より一層の進歩があるだろう、と思ったからです」
 伊川先生は、うなずくと、同席していた門人たちに言いました。「この人の学び方こそ、まさしく『論語』にある「切実に調べて身近に考える」というものです」

(31)
 張思叔が、馬車の運転手を、ひどい言葉でしかりつけていました。それに対して伊川は、言いました。
「どうして良心を奮い立たせ、性格を我慢強くしないのですか」
 張思叔は、そう言われ、恥じ入って謝りました。

(32)
論語』に「すぐれた人(賢者)をみたら、自分もその人と同じようによくなりたいと思う」とありますが、偉業をなせる人もまた、そのように思うものです。
論語』に「すぐれていない人(愚者)をみたら、自分自身をふりかえって反省する」とありますが、思うに、自分にも他人にあるのと同じような欠点があるものです。

(33)
 横渠先生が言いました。
「重厚であり純粋であるのが、気の本体(本然の性)です。次から次に欲を出して満足することを知らないのが、気の欲望(気質の性)です。口や腹が飲食を欲したり、鼻がいい香りを欲したり、舌がいい味を欲したりするのは、すべて気質の性です。徳を知っている人は、適当なところで満足します。嗜欲(好きなだけ欲を満たそうとする心)によって心をわずらわせたりはしません。小事にとらわれて大事を害したり、末節にとらわれて根本を失ったりしないだけです」

(34)
 ちょっとした悪い点でも必ずなくそうとすれば、善が完全に身につきます。悪い点を見つけながら、それをなくさなければ、たとえ善であっても、それは必ず粗雑なものになります。
(人間の本性が善でも、みずからの良心に忠実でなければ、その人は悪人になります。悪をなくし善をのばすには、察識、省察、慎独などが有効です)。

(35)
 不仁(ひどい)を憎むことは、不善(わるい)が分かることです。もし仁(やさしさ)を好むだけで、不仁(ひどい)を憎まなければ、何か「よいこと」に習熟しても、どうしてそうあるべきなのか、その理由がよく分かりませんし、何か「よいこと」を実践しても、どうしてそうすべきなのか、その理由がはっきりしません。
 そういうわけで、ただ善を好むだけでは、必ずしも義をつくすことができないし、ただ正しくするだけでは、必ずしも仁をつくすことができないのです。仁を好んで不仁を憎んでこそ、仁義の道をつくすことができます。
(仁を好むことは、本人の心がけの問題です。不仁を憎むことは、本人の行動の問題です。両者を通して、主体的にも、客観的にも、ともによくなります)。

(36)
 自分を責めて反省することのできる人は、「この世の中には、あたりまえのこととして、もとからまちがっているものなど一つもない」ということが分かります。ですから、何でもすぐに人のせいにしたりしないようになるまで学びが深まれば、その人の学問は十分に進んでいます。

(37)
 道(道理)について心静かにうちこんで考えていても、ついぼんやりとなって他の思いに心を奪われることがありますが、それは気のためにそうなるのです。(気のむくままに流されて生きていると、理にかなった生き方もできなければ、性にあった生き方もできません)。一身にまとわりついた昔からの習慣からサッパリと自由になれなければ、何をやっても結局は無意味になります。ただ(惰眠をむさぼって)昔からの習慣を楽しむだけです。
 昔のりっぱな人は、仲間、音楽や楽器、書物など(心を元気にしてくれるもの)を手に入れて、それらを心の友にしたいと思いました。ただ聖人(孔子)は、それら三つのなかで、仲間から得るところが多いのを知っていました。ですから、(『論語』に「仲間が遠くからやってくる。これまた楽しいことではないか」とあるように)仲間がやってくることをうれしく思ったのです。

(38)
 軽薄さがあれば矯正し、怠惰にならないように警戒します。

(39)
 仁が実現されなくなってから、もう久しくなります。人々は、それぞれの主観的な好き嫌いにとらわれて、「好むべきものを好み」「好むべきでないものは好まない」というあたりまえのことができていません。というのも、人間には(良心だけでなく)利心があって、それが学びの妨害をしているからです。そこで、学ぶ人は、欲を少なくすることが大切です。
(欲を少なくすること=たとえば、私利私欲にふりまわされたり、主観にとらわれたり、感情に流されたりなどしないようにすること)。

(40)
 君子(りっぱな人)は、必ずしも他人の評判を恐れて、とても柔弱になったりしません。その目つきにまで節度があるにすぎません。(君子は、まさに外柔内剛で、外見はやんわりしていて、中身はしっかりしているわけです)。視線には上下がありますが、視線が上だと気持ちが高ぶり、視線が下だと心が安らかになります。ですから、『礼経』に「一国の指導者を見るときには、その人の腹のあたりに視線をもっていく」といった規定があるのです。学ぶ人にとってまず大切なことは、その血の気の多さを静めることです。血の気の多い粗暴な人は、わざわざ自分を向上させようとはしません。『論語』にも「子張は、堂々としているが、いっしょに学べる相手ではない」とあります。
 思うに、目というものは、人がつねに用いるものです。しかも、そこには、その人の心のようすが表現されます。(「目は口ほどにものを言う」)。しばらく視線を上下してみて、このことを試してみてください。自分の敬虔さや傲慢さが、必ず視線に表されるでしょう。自分の視線を下にしようとする理由は、自分の心をやわらかにしたいからです。心がやわらかになれば、他人の言葉を聞いたときに、その言葉を盲信したりとか、その言葉を無視したりとかすることがなくなります。(すなわち、まずは相手の言葉について自分でしっかりと十分に考えてみたうえではじめて、信用できるなら信用するし、信用できなければ信用しないというようになります)。
 人に友人があるのは、くつろぎ楽しむためではなく、お互いに人間らしくあれるように励ましあうためです。今の友人関係では、自分にいいことばかり言う不誠実な人間を選んで仲良くし、肩をたたいて、たもとをつかんで、気があうとします。少しでも意見がくいちがうと、すぐに怒ってケンカします。友人関係というものは、お互いに相手のよいところに学べるような関係であってほしいものです。そこで、友人関係において敬(しっかり)することを重んじていれば、お互い日に日に親密になっていき、人間的成長のスピードが増すでしょう。
 孔子はかつて、こう言いました。
「私は、ある子どもが大人ぶって、いばって大人といっしょにいるのを見ました。その子供は、大人に学ぼうとしているのではなく、はやく大人になろうとしているのです」
 つまり、学ぶ人は、(効果をあせったり、自分をよく見せようとしたりせず)温柔であることが大切です。温柔であれば、学びを進歩させることができます。(儒学で言う学ぶこととは、人格的成長をうながすために学ぶことを言います)。
詩経』には「おだやかな、きちんとした人は、徳のもとだ」とあります。思うに、温柔(おだやか)であることは、自分の人格的な成長に有益だからでしょう。

(41)
 世間では聖人になるための学問が教えられておらず、男も女も幼いころから傲慢となったり、怠惰となったりしてダメになってしまい、そして成長するにつれて、ますます凶悪になったり、ねじけていったりしています。子供になされるべき教育が、いまだかつてきちんとなされていないので、親しい者に対してすら心のへだたりをもち、(いばるだけで)へりくだろうとしません。これでは、本人を悪くする病根は、いつまでたってもなくなりません。
 さらに(傲慢や怠惰といった)病気は、本人のいる位置に応じて成長し、死ぬまでなくなりません。子供のときには、掃除や応接をきちんとすることができません。友人との関係においては、友人のよいところを見習うことができません。上司になると、他の上司に謙虚に学ぶことができません。大臣になると、世間の賢者に謙虚に教えを請うことができません。はなはだしい場合には、私意(人欲)のままに行動し、義理(天理)をまったくなくしてしまいます。そうなってしまうのは、ただ病根が、いつまでたってもなくならず、本人のいる位置や本人の接するものに応じて成長するからにすぎません。
 人は、いろんなことにおいて(傲慢や怠惰といった)病気を着実になくしていくことに専念することが大切です。そうすれば、つねに義理が勝つようになります。
(病根が本人のいる位置や接するものに応じて成長するとは、たとえば、芯がしっかりしていないので、周囲からの悪影響をもろに受けやすい状態にあり、そのために成長するにつれてどんどん悪くなっていくということです。)

【第六巻 斉家之道~家庭をきちんと整える方法】

(1)
 伊川先生が言いました。
「若い人は、まず自分のつとめるべきことをして、余力があったならば、書物を学ぶことです。自分のつとめるべきことをせず、先に書物を学ぶなら、それは自分の人間的な成長のためにする学問ではありません」
(若い人のつとめるべきこととは、『論語』によると、「家では孝、外では弟、何か行うときには普通なことを行い、何か言うときには本当のことを言い、ひろく人々を愛し、仁である人に親しむこと」です。○孝とは、朱子によると「父母によくつかえること」で、つまり親に孝行することです。○弟とは、朱子によると「兄長によくつかえること」で、つまり目上に謙虚であることです。悌とも書きます)。

(2)
 孟子は、「親につかえるにあたっては、(親の体だけでなく、その心まで大切にした)曾子のようにしたならば、よい」と言っていますが、曾子の孝行を十分すぎるほどに十分なものだとはしていません。というのも、子どもの立場としては、(その親に対して)自分ができることをすべてするのは当然だからです。

(3)
易経』にある「蠱(有事)」の説明に、「母のまちがいを正す場合、きびしくしてはならない」とあります。
 子が母を諌める場合、おだやかにへりくだって母を助け導き、母が正しくなるようにすべきです。あからさまに母に逆らって、何らかの失敗をまねいたときには、それは子の罪です。自分の心をゆったりさせて、母の心をあるがままに受け入れることができたならば、どうして母のまちがいを改めさせる方法がないでしょうか。
 もし自分の考えを強引におしとおすといった剛毅で積極的なやり方をおしすすめて、いきなり母に反対するならば、恩愛を傷つけ、多大なる害を発生させてしまいます。どうして母に分かってもらえるでしょうか。
 母をよくするためには、ただ自分をおさえて心を静め、おだやかにへりくだって母の意を酌んだうえで、母の身が正しくなり、母のまちがいがまるくおさまるようにすることです。他にはありません。
 このことは、剛毅で積極的な臣下が、柔弱な君主につかえる場合も、まったく同じです。

(4)
易経』にある「蠱(有事)」の部分説明(爻辞)の三番目(「父のまちがいを正す。多少の悔いはあるが、大きなとがめはない」)は、陽が剛の位置にあるので、中ではありません。剛が強すぎるのです。(つまり、父のまちがいを積極的に正そうとして、父にまっこうから対立するのはいけないということです)。
 しかしながら、「巽(へりくだること)」の形のなかにあるので、柔順さがないわけではありません。(「蠱」を表す記号は、上部が「艮」を表す記号で、下部が「巽」を表す記号で構成されています)。柔順さは、親につかえる方法の根本です。それに陽は位置的には正しい位置にあります。ですから大きなとがめはないのです。しかしながら、多少の悔いがあるのですから、十分に親につかえるものではありません。
(『論語』に「父母につかえるにあたって、父母に何かまちがいがあったときには、やんわりと諌めることが大切です。それを父母が分かってくれなくても、やけくそになったり、あきらめたりせずに自分をしっかり保って孝行につとめ、喜んでもらえたらまた諌めます。一所懸命に心をこめて父母を諌めたのに、父母が怒って喜ばず、ひどい叱責を受けたとしても、それを恨んだりせず、自分をしっかり保って孝行につとめます」とあります。なお、この『論語』の訳文は、朱子の註にもとづいて訳しています。)

(5)
 倫理(人としての道)を正し、恩愛(いつくしみの心)を厚くするのは、家族の本来あるべき姿です。

(6)
 家にいるとき、家族の間においては、たいてい情が礼(ほどよさ)に勝ち、恩が義(ただしさ)をだいなしにします。ただ剛直(まっすぐ)な人だけが、(情や恩などといった)私的な愛情のために理(道理)に反するといったことがありません。ですから、『易経』にある「家人(家族)」の説明では、剛を善としているのです。

(七)
易経』にある「家人」の部分説明(爻辞)の最後(上爻)に、「家庭を治めるためには、そこの主人に威厳がなければならない」とあります。孔子は、さらに「主人はまず自分自身に厳しくしなければなりません」と戒めています。
 まず自分に厳しくすることなく、ただ人に厳しくするだけなら、人は恨むだけで心服しないものです。

(8)
易経』にある「帰妹(結婚)」の部分説明(爻辞)の二番目(二爻)は、上品でおちついたようすで貞節を守り、夫婦がつねに正しい関係にあることを示しています。
 世間の人は、互いになれなれしいことを夫婦のふつうの関係としています。ですから、つつしみのある夫婦関係をおかしなこととみて、それが永遠不変の正しいあり方であることを知らないのです。

(9)
 世間の人は、婿選びには慎重ですが、嫁選びはゆるがせにしています。もちろん、実際 問題として婿の善し悪しは分かりやすいものですが、嫁の善し悪しは分かりにくいものです。しかし、嫁を選ぶのも、婿を選ぶのと同様、一家の盛衰のカギを握っているのですから、どうして慎重にしないでいいでしょうか。

(10)
 人は、両親がすでに死んでいれば、自分の誕生日ごとに自分を生んでくれた両親を偲(しの)んで悲しくなるはずです。どうして酒を飲んだり、音楽を演奏したりして楽しむことができるでしょうか。両親ともに健在ならば、楽しむことができます。

(11)
 質問。「明道先生の伝記に「本性をきわめつくし天命を知るに至ることは、必ず孝悌から始まる」とありますが、いったいどうして「孝悌」が、「本性をきわめつくし天命を知るに至ること」につながるのですか」
 返答。「最近の人は本性や天命を、何か特別なものとして説いています。本性や天命と、孝や悌とは、一連のことがらです。孝や悌をなくさずにいることで、本性をきわめつくし天命を知るに至ることができるのです。
 掃除や応接と、本性や天命との関係などもまた同じで、両者は一連のことがらです。そこには、本末といった区別もなければ、精粗といった区別もありません。
 それなのに最近の人ときたら、本性や天命を何か特別なものとして説明します。ですから、明道が孝や悌をあげたのは、そうすることで本性や天命を身近に理解できるようにしようとしたのです。
 もちろん、現在、孝や悌につとめている人はたくさんいます。それにもかかわらず、本性をきわめつくし天命を知るに至ることができないのは、孝や悌のなんたるかを知らないからです」
(たとえば、「高きに登るには卑(ひく)きよりす」とあるように、高遠なことばかりにかかずらって、身近なことをバカにしているようでは、高遠なことを本当に分かることはできません。なお、本性や天命は高遠なことで、孝や悌や掃除や応接は身近なことです)。

(12)
 質問。「第五倫は、自分の子どもの病気を見舞うのと、兄の子どもの病気を見舞うのとでは、 その見舞い方に違いがありました。そのことについて第五倫自身は、「これは「私(人欲)」にもとづく行いだ」としていますが、どうなのですか」
 返答。「安眠できた、安眠できなかったを言うまでもなく、まったく起きなかったり、10回ほど起きたりしたのは、まさに「私」にとらわれているのです。つまり、親子の愛情は、もともと「公(天理)」なのですが、それに何らかの作為を加えると「私」になるのです」
(本註:『後漢書』「第五倫伝」に、こうあります。ある人が第五倫に対して「あなたには「私」がありますか」とたずねると、第五倫は、こう答えました。「かつて私の兄の子どもが病気になったことがありました。そのときには、一晩に10回も起きてそのようすを見に行ったのですが、戻ってくるとぐっすりと安眠することができました。しかし、自分の子どもが病気になったときには、1回もそのようすを見に行かなかったのですが、まったく安眠することができませんでした。そのようである以上、どうして「私」がないと言えるでしょうか」)
 質問。「自分の子どもをみるのと、兄の子どもをみるのとでは、その見方に違いがあるのでしょうか」
 返答。「聖人の教えに「兄弟の子は、わが子と同じようなもの」とありますが、これは兄弟の子も自分の子と同様にみることを欲しているのです」
 質問。「自分の子どもに対するのと、親戚の子どもに対するのとでは、その愛情の深さに違いがあるのが天然自然なことです。ですから、愛情の施し方に違いがあるのも当然だと思うのですが」
 返答。「ただ今の人は、私心で物事をみるから、そのように思うにすぎません。孔子は「親子のあり方は天然自然なものだ」と言っていますが、それはただ孝行について述べたにすぎません。ですから、「親子のあり方は天然自然なものだ」と言ったのです。君主と臣下の関係、兄と弟の関係、客人と主人の関係、友人どうしの関係などにも、それぞれに天然自然なあり方があるものです。今の人は視野が狭く、根本的なことが分かっていないので、君のようなことを考えるのです。自分の子どもと兄の子どもとの間には、いったいどのような違いがあるのでしょうか。兄も自分も、ともに同じ両親から生まれてきました。ただ兄弟は身体が別なので、古典では兄弟を「言わば一つの身体から別々に出ている手足のようなもの」とみなしているのです。世間の人は、兄弟の身体が別だからといって、兄弟の子どもよりも自分の子どもをかわいがりますが、それは正しいことではありません」
 質問。「孔子は、公冶長が南容に劣っているので、自分の娘を公冶長に嫁がせ、兄の娘を南容に嫁がせていますが、これはどうしてですか。(「孔子は、自分の娘をかわいく思ってすぐれた人に嫁がせ、兄の娘を劣った人に嫁がせたのだ」と評判され、疑われることを気にしたからではないのですか)」
 返答。「これもまた自分の私心で聖人をみているにすぎません。(すなわち、聖人のことが真に分かっていません)。一般的に人が他人の評判を気にして嫌疑を避けようとするのは、心がしっかりしておらず自信がないからです。聖人は、もともととても公正です。ですから、どうしてわざわざ他人の評判を気にして嫌疑を避けようとする必要があるでしょうか。一般的に、娘を嫁がせる場合には、その娘に見合った婿を選ぶものです。兄の娘が劣っていれば、劣った婿を選び、自分の娘が優れていれば、優れた婿を選びます。このとき、わざわざ他人の評判を気にして嫌疑を避けようとする必要があるでしょうか。孔子の場合、年齢がつりあわなかったのか、それとも嫁がせるべき時期に先後の違いがあったのか、そのへんの事情は私には分かりません。しかしながら、孔子が他人の評判を気にして嫌疑を避けようとしたとするのは、まったく正しくありません。他人の評判を気にして嫌疑を避けようとすることは、聖人の次にりっぱな人である賢人ですらしません。ましてや聖人の孔子ならば、なおさらのことです」

(13)
 質問。「未亡人を娶るべきではないようですが、どうなのですか」
 返答。「そのとおりです。一般的に、妻にするということは、自分の伴侶とすることです。もし、節操を失ったものを娶って自分の伴侶とすれば、自分まで節操を失うことになります」
 質問。「その未亡人がとても貧しくて、頼れる親戚もいない場合には、娶ってもいいのではないのですか」
 返答。「昔の聖人たちが活躍していた時代からみて後世の人たちは、餓死することを恐れたので、そういった説を出してきたのです。しかしながら、節操を失うことに比べれば、餓死など小さなことです」
(参考までに紹介しておきますと、たとえば、宋弘は、皇帝の姉との結婚を皇帝からすすめられたのですが、「苦労を共にしてきた妻を裏切るわけにはいきません」と言って、出世のチャンスともなりえる縁談を断りました。また、陳孝婦は、若くして夫に先立たれたのですが、夫に義理の父母のことを頼まれていたので、義理の父母から「若いのだから、別の人と再婚しなさい」と言われても、夫との約束を果たすために再婚話を断り、義理の父母を養いました。これが夫婦の節操と言えるでしょう)。

(14)
 病気になっている家族をヤブ医者に診察させるのは、不慈、不孝です。家族という親しい者たちとつきあう場合には、医療についても心得ていなければいけません。
(不慈=子どもをかわいがらないこと。不孝=親を大切にしないこと。それらはともに、家族の一員として、してはならないことです)。

(15)
 程先生が父の葬式をするとき、門人の周恭叔に弔問客の世話役をしてもらいました。弔問客が酒を欲したので、周恭叔がそのことを喪主の程先生に伝えました。
 それに対して程先生は、「人を悪におとしいれてはいけません。(葬式で飲酒するのは礼に反したことなのですよ)」と言いました。

(16)
 乳母を雇うのは、やむをえない場合だけにすることです。たとえば、自分の母乳を与えることができなければ、人に与えてもらうしかありません。しかしながら、自分の子どもの母乳を確保しようとして、そのためにその乳母の子どもに十分な母乳が与えられずに、最悪その乳母の子どもを死なせるのは非道です。
 どうしても必要な場合には、「二人の乳母が、三人の子どもに母乳を与える」といった形になるように工夫することです。そうすれば、いろんな不慮の事故から子どもたちを守ることができます。たとえば、乳母が一人、病気になったり、死んだりしたとしても、すぐさま子どもたちが困るというようなことはありません。また、二人の乳母が三人の子どもに母乳を与えるわけですから、母乳の不足もなくなり、自分の子どものために他人の子どもを殺すというようなこともなくなります。
 ただ、費用がかさむかもしれません。しかし、子どもを殺人者にすることに比べたら、ちっぽけな損害にすぎません。

(17)
 亡くなった父(程伊川の父)は、過去に五回ほど自分の子弟を役人として推薦できる機会を政府から与えられたのですが、自分の家族にかぎらず一族の者のなかから公平に適当な者を推薦しました。
 親戚のなかで早くに両親を失った娘を嫁がせる場合には、必ず力をつくしました。手に入れた給料は、貧しい親戚にも分け与えました。伯母の劉氏が未亡人になったときには、その生活を十分に助けました。その娘の夫が死んだとき、父はその娘の子どもをひきとって、わが子と同じように教育し、養いました。従姉妹が未亡人になったときには、父はその悲しみを心配して、その従姉妹をつれかえって再婚させました。
 当時、父は役職地位が低くて、給料が少なかったのですが、それでも人欲に流されずに、義を実践しました。それを見た人々は、そうするのは容易なことではないと思いました。
 父は、寛大であるのと同時に、威厳がありました。ふだん幼い子どもたちや、心が未熟な人たちといっしょにいるときには、相手の心を傷つけまいと注意していました。しかし、ひとたび相手が道理に反したことをした場合には、遠慮なくとがめました。
 使用人たちについては、その生活状況について、いつも気にかけていました。
 父は侯氏から妻を娶りました。その亡くなった母は、祖父母によくつかえて「孝勤」と評判され、父に接するときにはとても丁寧でした。父は、母の内助にささえられ、母にとても感謝していました。
 母は、謙虚ですなおな心をもち続け、小さなことであっても、自分一人で決めたりせずに、必ず父に相談してから決めました。
 母は、やさしく心の広い人でした。父の側室の子どもでも、わが子と同じようにめんどうをみました。家庭の治め方はきちんとしていて、厳しくしなくても、整っていました。
 使用人をムチ打ってしかることを好まず、子どもの使用人をわが子と同じようにみていました。母の子どものなかで、子どもの使用人をしかりつける者がいれば、必ず「地位は違っても、人間であることには変わりがないのですよ。あなたは、これくらいの年のときに、よくこのことをすることができましたか」としかりました。また、父が使用人たちに対して何か怒っているときには、父をなだめました。
 ただ子どもたちに何か過失があったときには、それをかばいたてたりしませんでした。母はいつも「子どもが悪くなるのは、母親がその過ちを隠して、父親に知らせないからです」と言っていました。
 母には六人の男の子がいたのですが、そのなかで成人できたのは二人だけでした。(程明道と程伊川の二人)。二人の子どもにそそぐ愛情は、十分なものでした。
 しかしながら、子どもの教育については、少しの仮借もありませんでした。私がわずか数歳のとき、歩いていてころんだのですが、そのとき、使用人たちが「泣いては大変だ」と、すぐに抱き起こしてくれました。しかし、母は、「あなたは、もう少しゆっくり歩けば、ころんだりせずにすんだのですよ」としかりました。
 食事のときには、いつも子どもたちを近くに座らせました。子どもたちが料理の味見をしていると、しかってやめさせました。母が言うには、「幼いときから自分の好みを通していれば、どんなわがままな人間に育つかしれたものではありません」とのことでした。
 また、母は、たとえわが家の使用人に対してであれ、私たちが悪口を言って人を罵ることを許しませんでした。母が言うには、「忍耐力がないのは心配ですけど、人を打ち負かせないのは心配ではありません」とのことでした。
 私たちがやや成長すると、よい先生や友人たちと交際させてくれました。家が貧乏でも、私が知人を家に招いたときには、喜んでもてなしの準備をしてくれました。
 母は、まだ七、八歳のころ、古くからある詩を読みました。それは「女の子は夜に外出しない。夜に外出するときにはあかりをもって行く」というものでした。その詩を読んで以来、母は、夜になると外出しませんでした。
 大きくなると文章を好んで読んだのですが、文章を書いたりはしませんでした。世間の婦女が筆をとって何か書いているのを見ると、それはよくないことだと思いました。

(18)
 横渠先生がかつて言いました。
「親につかえることや、祖先の祭りをすることを、どうして人にまかせることができるでしょうか」

(19)
 舜が親につかえながら、親に喜ばれなかったのは、実父は頑迷で、継母は愚鈍で、両親ともに人間らしい心を欠落させていたからです。(舜は孝行息子だったのですが、実父と継母は、二人の間に生まれた弟の象を溺愛し、舜を疎んじ、事あるごとに舜を殺そうとしていました。しかし、それでも舜は孝行を続けました)。
 両親がふつうの人で、あたりまえな愛憎の感情をもちあわせていれば、さしあたり両親の気持ちを必ず尊重することです。親の古くからの友人で、とても大事にしている友人がいれば、その友人を手厚くもてなして、親の心を喜ばせることです。一般的に、親の招いた客の接待は、できるだけりっぱにして、家の財産の有無を考えないことです。
 しかしながら、親を養うにあたっては、家が財政的に苦しいことを親にさとられないようにする必要があります。なぜなら、もし親が家の財政難を知ったなら、親の心が不安になるからです。

(20)
詩経』の「斯干篇」にある詩に、「兄と弟と、もっと相い好みし、猶することなかれ」とあります。その意味は、「兄弟はお互いに仲良くすべきであるが、お互いに相手をまねる必要はない」ということです。「猶」とは、「似る」です。
 人情のつねとして、人に何かしてやっても、その人から何の報いもなければ、すぐにやめてしまいます。しかし、それは困ったことです。そんなことだから、恩愛の情が長続きしないのです。お互いに相手をまねる必要はありません。兄弟はお互いに何かしてやり続けるだけです。

(21)
論語』に「人でありながら『詩経』にある周南や召南を読まなければ、壁に向かって立つようなものだ」とあります。このことについてつねに深く考えるのですが、まったくそのとおりです。そこに書いてあるようにしなければ、ゆきづまってしまいます。というのも、とても身近なことでありながら、これ以上に重大なことはないからです。ですから、そこから始めるのがよいのです。

(22)
 採用されたばかりの使用人というものは、もともと一所懸命に頑張ろうという敬(しっかり)した心をもっています。もし主人が使用人を雇って用いるようになったとき、主人がしっかりやっていれば、その使用人もますますしっかりします。しかし、主人がなまけていれば、その使用人のもともとのやる気もなえてしまい、その使用人はなまけ癖を身につけてしまうでしょう。
 ですから、公務員(パブリックサーバント=公共の使用人)は、きちんとした職場に入れば、だんだんと自分に磨きがかかっていって、徳(よさ)が日に日に向上していきますが、乱れた職場に入れば、だんだんと自分が蝕まれていって、徳(よさ)が日に日におとろえていくのです。
 つまり、使用人の善し悪しは、その人の上にいる人物が学ぶにたるりっぱな人物か、それともつまらない人物か、それによって決まってくるのです。
(つまり、家庭の使用人も、公務員という公共の使用人(公僕)も、その善し悪しは上にいる人物によって決まってくるので、上にいる人物はりっぱな人物になれるように努力することが大切だということです)。

【第七巻 出処進退辞受之義~正しい身の処し方】

(1)
 伊川先生が言いました。
「賢者は、能力があるにもかかわらず大衆のなかに埋もれていたとしても、自分で自分を推薦して上の人に採用を求めたりはしません。もし自分から採用を求めれば、(それは野心家のするようなことですから)信じて採用されることはありません。
 昔のりっぱな人が、必ず上の人が丁重に自分を招いてくれてから、はじめてその人のもとについたのは、みずから尊大にかまえていたからではありません。思うに、『孟子』にあるように、上の人が徳を尊び、道(道理)を楽しむ心をこれほど強くもっていなければ、いっしょに偉大なことをすることができないからです」

(2)
 君子(りっぱな人)は、自分が活躍すべき時をまつ場合、心を安らかに静かにして自分を保ちます。時をまつ気持ちがあるにしても、別にあせることなく、「このまま一生を終えてもかまわない」といったようすです。すなわち、普通にやれているのです。
 どうにかして自分を活躍させようとしてあくせく動きまわることがなくても、心に少しでもあせる気持ちがあれば、普通であることができなくなってしまいます。

(3)
易経』にある「比(親しむこと)」の説明に、「比は吉である。たずねはかって元、永、貞ならば、問題はない」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「人々が親しみあうにあたっては、必ず本来あるべき正しいやり方があります。もしそのやり方を無視すれば、後悔したり、まちがったりします。ですから、親しむべき相手をよく考えてから、親しむことです。親しむ相手が「元」「永」「貞」であれば、問題はありません。「元」とは、指導者たるにふさわしいことです。「永」とは、節操のあることです。「貞」とは、正しい道を行くことです。上の人が下の人に親しむ場合、それら三つのことを身につけていることが必要です。また、下の人が上の人につく場合、上の人にそれら三つのことを求めることが必要です。そのようにすれば、問題はありません」

(4)
易経』にある「履(履行すること)」の部分説明(爻辞)の最初(初爻)に、「飾らず、ありのままでやっていく。進んで行っても、とがめはない」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「そもそも人は、貧賎という身一つの飾り気のないありのままの状態に安んじることができなければ、仕事につく場合、貪欲に出世することばかり考えて行動し、貧賎から逃れようとするだけです。偉大なことをしようとすることはありません。そのような人は、昇進することができると、その地位を誇って傲慢になります。ですから、進んで行くと、とがめがあるのです。
 賢者の場合、飾り気のないありのままの状態に安んじて生きます。そして、抜擢されずにいるときには気楽にして英気を養いますし、抜擢されたときにはその機会を生かして偉大なことをしようとします。ですから、昇進することができると、その地位をぞんぶんに活用して偉大なことをしようとすることはあっても、その地位を悪用して不善をなしたりすることはないのです。
 もし、富貴になろうとする心(人心)と、道を行う心(道心)とが、自分のなかで争うなら、どうして飾り気のないありのままの状態に安んじて生きることができるでしょうか」

(6)
 大人(人間のできた人)は、八方ふさがりでゆきづまっていても、正しく節操を守り、小人たちに仲間入りして乱れたりしません。すなわち、たとえ一身は八方ふさがりでゆきづまっていても、道の実践はうまくいくのです。
 ですから、『易経』にある「否(八方ふさがりの状態)」の説明に、「大人は否にしてとおる」とあるのです。道(道理)を無視して一身がうまくいくようにする場合には、今度は道(道理)の実践が八方ふさがりでゆきづまってしまいます。

(6)
 人が何かに従う場合、正邪のうち正を得れば、邪から遠ざかりますし、是非のうち非に従えば、是をなくします。当然のこととして、善と悪の両方に従うことはできません。
易経』にある「随(従うこと)」の部分説明(爻辞)の二番目は、(五番目と関係するのがふつうなのですが)一番目とまちがって関係すれば、五番目との正しい関係をなくします。ですから、二番目に「両方と仲良くすることはできない」とあるのです。
 つまり、「人は、正しいものに従うときには、それのみに専念すべきだ(まちがったものには目もくれるな)」と戒めているのです。

(7)
 君子が貴ぶところは、世俗が恥ずかしいと思うことです。世俗が貴ぶところは、君子が卑しいと思うことです。
 ですから、『易経』にある「賁(飾ること)」の説明に、「その足を飾って、車を捨てて歩いていく(修養につとめて足もとから自分を美しくし、道理に反してまで出世しようとはせず、高い地位を捨てて自分の足で歩いていく)」とあるのです。(「車」とは、高い地位のシンボルです)。

(8)
易経』にある「蠱(有事)」の部分説明(爻辞)の最後(上爻)に、「王侯につかえず、一身を高潔に保つ」とあり、その解説には「王侯につかえない、そんな志は手本にできる」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』には、こうあります。
「世の中が乱れていて、小人(つまらない人)の勢力が増しているときに、りっぱな人が一身を高潔に保つに方法には、いろんな方法があります。たとえば、次のような方法があります。
①道徳を胸にいだいて、不遇であっても、高潔にして自分を守ること。
②欲ばったり、やり過ぎたりせずに、今ある境遇に満足して、引きこもって自分を保つこと。
③自分の才能をみきわめ、自己の本分をわきまえ、名声を求めずに安らかに生きること。
④愚か者と仲良くすることよりも孤立することを選んで自分を守り、乱れた世の中から離れて、ひとり孤独に一身を清くすること。
 それらの方法は、効果のほどはそれぞれ違うにしても、すべて「一身を高潔に保つ」方法です。解説に「そんな志は手本にできる」とあるのは、出処進退がすべて理(道理)にかなっているということです」

(9)
易経』にある「遯(逃避)」は、陰が成長し始めたことを表しています。
 君子(りっぱな人)は、あらゆる微かな兆候を敏感に感じとって先を読むことができるので、世の中が悪くなり始めたときには、もちろん当然のこととして深く警戒します。しかし、聖人の配慮は、ただ警戒するだけで終わったりはしません。ですから、「時に応じて行い、慎重にやっていれば少しはいい」という教えがあるのです。
 聖人や賢人は、世の中のありさまに対処するとき、道(道理)が今まさに廃れようとしているのに、どうして何もせずにそれを見ていることができるでしょうか。非道が成長してしまわないうちに必ず一所懸命に努力して、衰えゆく正道を盛り返し、非道の成長をくいとめ、一時的ながらも安定をはかります。
 もし、私たち一般人にそのようなことをすることができたならば、孔子孟子が「そうするのが正しい」としていたことをできたことになります。このことは、その昔、王允漢王朝の時代にしたことや、謝安が東晋王朝の時代にしたことと同じようなことです。
王允は、弱体化した漢王朝を盛り返すためにがんばった人。謝安は、東晋王朝をよく守った人)。

(10)
易経』にある「明夷(日没)」の部分説明(爻辞)の最初(初爻)は、「害悪がまだ顕著ではないので、それに対処することがとても難しい。きざしを明確にとらえることのできる者でなければ、それはできないことだ」ということを表しています。(きざし=何かが起ころうとしているのだが、それがまだ表面に現れていないので分かりにくい状態にあること)。
 そのようであれば、君子(りっぱな人)が先を読んだ早めの対処をするとき、きざしに対して鈍感なために先を読むことができない世間の人たちは、君子の早めの対処を「あいつはおかしなことをしている」として疑い怪しむでしょう。
 しかしながら、君子は、世間の人たちに疑い怪しまれるからといって、行動をためらったりはしません。世間の人たちが分かってくれるまで待っていれば、自分にまで害悪が及んできて、もはやどうしようもなくなってしまいます。

(11)
易経』にある「晋(日の出)」の部分説明(爻辞)の最初(初爻)は、「最下位にいて、進み始めたばかり」ということを表しています。
 採用されたばかりの人が、どうしてすぐに上の人から信じてもらえるでしょうか。もし、まだ上の人から信じてもらえていないのなら、中(ほど)よくやって自分をしっかり保ち、心によゆうをもってゆったりとかまえておくことです。上の人から信じてもらおうとして、あせってはいけません。もし、信じてもらおうとしてあせると、せかせかして節操を失うか、イライラして正義に反するかするだけです。ですから、「進むにしろ、退くにしろ、進退の決め方が正しければ、吉である。信じてもらえなくとも、ゆったりとかまえていれば大丈夫」とあるのです。
 しかしながら、聖人(『易経』の著者)は、それを読む人が「ゆったりとかまえること」の真意を分からず、就職していながら、職務をほっぽりだし、節操をなくして、それがゆったりとかまえるということだと誤解してしまうことを心配しました。ですから、六つある部分説明(爻辞)の最初(初爻)にだけ「ゆったりとかまえていれば大丈夫」と述べることで、採用されたばかりで、まだ何も役割を与えられていない状態を示しているのです。もし、何か役割を与えられているにもかかわらず、上の人から信じてもらえなくて、ろくに仕事ができないときには、そこに一日もいてはいけません。
 しかしながら、こういったことは、一概に言うことができません。そこにとどまってしぶとくがんばり続けるか、それともすぐさま退くか、それは時によって違います。また、それを決めなければならないときには、それを決めるのに役立つ何らかの兆候が現れるはずです。

(12)
 正しくない結びつきは、必ず近いうちに離れます。結びつくときに正道を用いるなら、最初はうまくゆかなくても、最後にはおのずと通じ合えるようになります。(「至誠、天に通ず」)。ですから、①賢者は、理(道理)に従い、ゆったりと行うし、②智者は、きざしを知り、しっかりと守るのです。

(13)
 君子(りっぱな人)は、困難におちいったとき、困難におちいることがないように細心の注意をはらっていたにもかかわらず、それを防げなかったのであれば、それは天命であり、そのときには天命をよく理解し、志をつらぬきとおすべきです。「天命として、そうなるようになっているのだ」と分かれば、(天命はもともと自分のためになるようになっているのですから)どんな窮塞(くるしみ)にも、どんな禍患(わざわい)にも、まったく動揺することはなく、自分が心から正しいと思うことをするだけです。
 もし天命を知らなければ、険阻艱難に恐れおののき、閉塞状況に悩み苦しみ、自分をしっかり保つことができなくなります。それでどうして「善いことをしよう」という志をつらぬきとおすことができるでしょうか。
性善説の立場に立つなら、人は本来「善いことをしよう」という意志をもっているということになります)。

(14)
 貧乏な夫につかえる妻や、弱小国家につかえる役人は、それぞれ節操をなくさないようにしなければいけません。もし(自分がつき従っているものに勢いがなくなるたびに見限って)節操なく勢いあるものにくらがえしたりしていれば、それはとんでもない悪で、みんなに嫌われます。

(15)
易経』にある「井(清水をたたえた井戸)」の部分説明(爻辞)の三番目(三爻)は、「せっかく井戸をさらって、きれいな水が出るようにしたのに、だれにも飲んでもらえない」という状態を表しています。すなわち、人が、才能や知恵が十分にあるにもかかわらず、だれにも採用してもらえないために、それらの才能や知恵を発揮できず、憂い悲しんでいるのです。
 思うに、三番目は、剛(つよ)いのですが、中(ほど)よくないので、何とかして才能や智恵を発揮しようとあせっているのです。しかし、それは、「採用されれば出ていってがんばるし、採用されなければ引きこもって英気を養う」(『論語』)といった、道理にかなった出処進退のやり方ではありません。

(16)
易経』にある「革(変革)」の部分説明(爻辞)の二番目(二爻)は、「中(ほど)よく正しいので、偏りもなければ、心の曇りもない。知性あふれているので、物事の道理が分かる。上の人の意を受けているので、権力と勢力を獲得する。性格がひねくれていないので、害悪となることがない」ということを表しています。
 機も熟し、地位も申し分なく、才能もたっぷりあります。ですから、変革をなすのに、もっともよい状態です。あとは上と下から信頼されるのをまつだけです。
 ですから、「すべてが整った日に、変革を実施する」とあるのです。このようであれば、旧弊を改善する計画を進めて変革を実施すべきです。そうすれば、「吉にして、とがめなし」になります。しかし、旧弊を改善する計画を進めなければ、時を失ってしまい、(変革すべきときに変革しないのですから)「とがめあり」になります。

(17)
易経』にある「鼎(三本足のかま)」の説明に言う、「三本足のかまのなかに中身がつまっている(三拍子そろっている)」とは、すぐれた能力のある人のことを表しています。
 このときには、自分の進路を慎重に決めなければいけません。自分の進路を決定するときに慎重にしなければ、進む方向を誤ってそのまま非道におちいってしまいます。
 ですから、「三本足のかまのなかに中身がつまっている。(途中でつまずいて、中身をこぼしてダメにしてしまわないように)進むときに慎重にする」とあるのです。

(18)
 士(中流階級の人)は、高い役職地位にいる場合、(その高い影響力を駆使して)上の人をまちがいから救うことはしても、(上の人のまちがいに目をつぶって)上の人に追従したりしません。
 低い役職地位にいる場合、(上の人をまちがいから)救うべきときもあれば、(チームワークを乱さないようにするために)従うべきときもあります。ときには、(自分が非力であるために)どうしても救いようがなくて、やむをえず従う場合もあります。

(19)
易経』にある「艮(とどまること)」の説明に、「君子(りっぱな人)は、自分の位からはずれたことは考えない」とあります。ここで言う「位」とは、そのいる位置に応じた身の程のことです。(たとえば、自分のいる位置が「大人」なら、その身の程は「大人らしくすること」になります)。
 どんなことにも、それぞれに適当な位置があります。(たとえば、人ならば人らしくあるべきであり、それが人にとっての「適当な位置」です)。適当な位置を得られたなら、そこにとどまって安んじます。
 行くべきときにとどまったり、急ぐべきときにのんびりしたり、はたまたやり過ぎたり、やり足らなかったりするのは、すべて「自分の位」からはずれています。ましてや、身の程知らずであったり、よりどころとすべきでないものをよりどころとしたりするのは、なおさらです。(身の程=今の自分がもっている能力や地位などの程度)。

(20)
 人が何かにとどまる場合、それを長続きさせることは難しいものです。ですから、晩年には節操をなくしたり、終わりにはだらしなくなったり、時間がたつにつれて仕事をなまけるようになったりするのです。これは人間共通の欠点です。『易経』にある「艮(とどまること)」の部分説明(爻辞)の最後(上爻)は、「最後までまっとうできることが、最善のとどまり方だ」ということを表しています。ですから、「艮(とど)まるに敦(あつ)くして吉」とあるのです。

(21)
易経』にある「中孚(信)」の部分説明(爻辞)の最初(上爻)に「よく考えれば吉である」とあり、その解説に「心変わりしていない」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「何かを信じ始めるにあたり、追随しようとする心がなく、何を信じるべきかをよく考えれば、正しく信じることができます。ですから、吉となるのです。追随しようとする心があれば、それは心変わりしやすいということであり、いくらよく考えたとしても、正しく信じることはできません」
(追随=他人の言動を無批判にまねること)。

(22)
 賢者は義(ただしさ)を心得ているだけで、運命はそのなかにあります。(正しいことをしている人は幸運にめぐまれ、正しくないことをしている人は不運にみまわれます)。
 しかし、心の成熟度が真ん中より下の人は、運命まかせにすることを義(ただ)しいことだとします。すなわち、「求めるにあたっては正しいやり方がある。(たとえば、魚を釣りたければ、釣り具を使うのが正しいやり方だ)。しかし、獲得できるかどうかには運命がある。(たとえば、釣り具を使ったとしても、必ずしも魚が釣れるとはかぎらない)。これは、求めたところで獲得には役立たないということだ」などと言うようなもので、運命とは求めたところでどうなるものでもないと心得ているので、求めないことにするのです。(こうして努力をおこたるようになるわけです)。
 しかし、賢者の場合、正しいやり方を通して求めます。(決して「目的のためには手段を選ばない」といった、非道なことをしません)。そして、義(ただしさ)を通して獲得します。(自分のやっていることが正しいことであれば、必ず報われます)。運命を口にする必要がありません。(人事をつくさずに天命をまつのは、まちがいです)。

(23)
 悩まされるくらいの困難に直面した場合には、とりあえずそれに対して何らかの処置をほどこすことです。このとき、人として考え得るかぎりのことをしたなら、後はゆったりとかまえていつもどおりに暮らすことが大切です。
 なかには、悩まされるくらいの困難に出会うと、いつまでもそのことを気にする人がいます。しかし、そんなことをして、けっきょく何の役に立つのでしょうか。
 もし何らかの処置をほどこした後で、それを気にせずにいることができなければ、それは義(ただしさ)をだいなしにし、天命をだいなしにすることになります。(「人事をつくして天命をまつ」)

(24)
 太学(首都にある国の最高学府)に在学中の先生の門人が、故郷に帰って国家公務員採用試験を受けようとしていました。
 先生がその理由をたずねると、その門人は、こう答えました。
「私の故郷の蔡に住んでいる人は、『礼記』の勉強をしていないので、受験に有利だからです」
 先生は言いました。
「君のような心がけでは、もはや聖人の道を進めません。(孔子の門人の子貢は、とても金儲けのうまかった人ですが)そもそも子貢ほどの高い見識をもった人が、どうして利益を得ることに心を奪われたりするでしょうか。子貢はただ、貧富を気にしないことができなかっただけです。それに第一、貧富には天命があります。子貢は貧富を気にし、聖人の道を信じていないようすでした。ですから、聖人の孔子は、「子貢は天命を受け入れない」と言ったのです。聖人の道を進もうとする人は、そんな利害得失にこだわる心を捨て去るべきで、それでこそ「ともに聖人の道の話ができる」ようになります」(人事をつくすだけで天命を無視するのは、まちがいです。)

(25)
 人は、もし「朝に道(道理)を聞けたなら、夕方に死んでもかまわない」(『論語』)という心意気をもっていれば、一日として安らげないところに安んじたりなどしないはずです。いや、一日どころか、一瞬たりとも安んじたりなどできないはずです。たとえば、孔子の門人の曾子は、命の危険をもかえりみずに、自分が正しいと信じることをして死んでいきましたが、そのようにしてこそ、安んじることができます。(安らげないところ=正しくない状態。安らげるところ=正しい状態)。
 人が命がけで正しいことをしようとしないのは、ただ実理(真実の道理)を分かっていないからにすぎません。実理とは、是(ただしき)を本当に分かることができ、非(まちがい)を本当に分かることができることです。
 ふつう、実理(真実の道理)を心に得ると、おのずと以前とは変わってきます。(すなわち、実理を心に得る前は悪い人でも、実理を心に得た後は善い人になります)。もし耳で聞いて、それをそのまま口に出して言うのなら、心から分かっていません。もし分かっているのなら、決して安らげないところに安んじたりなどしないはずです。
 人にはそれぞれ「これだけは絶対にしない」というものがあるものの、それ以外のことはしないともかぎりません。たとえば、名のある人の場合、「強盗をはたらかなければ、殺すぞ」と脅されても、決して強盗をはたらいたりなどしませんが、その他のこともしないとは言いきれません。
 知識人などにいたっては、道徳の大切さを説くことを知らない人はいません。また、有力者などにいたっては、そのだれもが「地位や名声などは重要ではない」と言います。しかし、そんな知識人や有力者たちも、利害得失がからんでくると、義理(道理)を重んじるどころか、それとは反対に利得を重んじます。
 以上のような人たちは、正しいことを口に出して言えるというだけで、正しいことを本当に分かっているわけではありません。たとえば、いざ水や火に入るとなると、(水にとびこめば溺れる危険があり、火にとびこめば火傷をする危険があるので)すべての人がそれを避けようとします。それは、水や火の危険性を本当に分かっているからです。
 大切なことは、「不善を見ては湯を探るようにする(熱湯をさわるときに気をつけるように、不善に対して気をつける)」(『論語』)といった心(悪をひどく嫌う心)をもつことです。そうすれば、おのずと以前とは変わってきます。
 昔、虎に襲われたことのあるAさんという人がいました。あるとき、ある人が、虎の恐ろしさについて、みんなに話しました。小さな子供たちを含め、それを聞いていた人たちはみんな、虎の恐ろしさについて分かりました。しかし、Aさんのように顔色が悪くなったり、ふるえたりして、本当に恐ろしく感じた人はいませんでした。それは、Aさんだけが虎の恐ろしさについて本当に分かっていたからです。
 実理(真実の道理)を心に得るとは、徳(自分が本来もっている良さ)を身につけているということであり、努力は必要ありません。(なぜなら、もともと徳のない人などいないからです)。しかしながら、正しく生きるために学ぶ人ならば、そんな実理を分かる努力をすることが大切です。(なぜなら、生まれながらに実理をもっていても、本人がそれを自覚していなければ、実理を生かすことができないからです)。
 昔の人たちのなかには、正しいことをするために身をなげうったり、命をなくしたりした人たちがいました。その人たちは、もし実理(真実の道理)を本当に分かっていなかったなら、どうしてそのようなことができたでしょうか。
 大切なことは、生よりも義のほうが重く、死よりも生のほうが不安なものだということを本当に分かることです。ですから、「身を殺して仁をなす」(『論語』)とありますが、それは単に是(ただしき)をなしとげることを優先しているにすぎないのです。

(26)
 孟子は、「聖人の舜」と「泥棒の跖」との違いをあげて、「ただ義と利の間にあるにすぎない」としています。「間」とは、距離が近くて、違いが毛の先ほどしかないことを指しています。「義」と「利」の違いは、「公」と「私」の違いにすぎません。少しでも「義」からはずれると、すぐさま「利」ということになります。
 損得勘定で行動をする人は、利害得失を気にしているのです。もし利害得失を気にしていなければ、どうして損得勘定で行動したりするでしょうか。利害得失を気にするのは、人ならだれもがもっている共通の人情です。人はだれでも、利益があればそちらへ動き、損害があればそれを避けることを知っています。
 しかし、聖人(すぐれた人)ならば、わざわざ利害得失を論じたりせずに、ただ「義」の観点からして「そうすべき」なのか、それとも「そうすべきではない」のかを考えるだけです。天命はそこに存在します。(善いことをしていれば善い結果に終わり、悪いことをしていれば悪い結果に終わります)。

(27)
 すべての儒学者儒学を通じて正しい生き方を探究している人)に対して、道(道理)に深く精通することを望んだりはしません。
 しばらくは、ただ次の3つのようにすることです。
①自分のあり方を正しくする。
②善悪をきちんとわきまえる。
③正直で欲張らず、恥を知るようにする。
 そのような人が多くなれば、世の中はだんだんとよくなっていくでしょう。

(28)
 趙景平の質問。「『論語』に「先生は、たまに利の話をする」とありますが、そこで言う「利」とは、どんな利のことですか」
 返答。「ただ利潤の利だけではありません。一般的に、利心(欲望)があれば、もはやダメです。たとえば、何かをするときに、(他者のことは考えずに)自分につごうがいいようにしようとするのは、すべて利心です。聖人(すぐれた人)は、義を利とします。義の観点からしておちつけるところ、それを利とするのです。仏教の教えは、(たとえば「いいことをすると、極楽へ行けますよ。だから、いいことをしたほうが得ですよ」というように)すべて利にもとづいています。ですから、正しくないのです」

(二十九)
 門人の質問。「?和叔は長いこと先生のもとで学んでいましたが、思うに、まったく知りも、分かりもしていません。いずれ困り果ててしまうでしょうね」
 先生の返答。「まったく知らないと言うことはできません。(なぜなら、もともと知(ちえ)のない人はいないのですから)。ただ義理(天理)が利欲の心(人欲)に勝つことができていないので、あのように悪くなってしまっているのです」
(?和叔は、腹黒い政治家の仲間となって、いっしょに悪事をなしました。)

(三十)
 謝湜は、故郷の蜀(四川省)から首都へと向かう途中、洛陽の程先生のところに立ち寄りました。
 先生はたずねました。
「首都に何をしに行っているのですか」
 謝湜は答えました。
「教員採用試験を受けに行くのです」(当時、教員になる方法には、①りっぱな人だという理由で政府から指名されて教員になる方法と、②試験に合格して教員になる方法とがありました。謝湜は、②を選んだわけです)。
 先生は何も言わず、黙っていました。
 そこで、謝湜は続けて言いました。
「どんなものでしょうか」
 先生は言いました。
「私は昔、使用人を雇うにあたって、ある娘を試験してみようとしたのですが、その母親は怒って、試験することを許してくれませんでした。その母親が言うには、「うちの娘はもとからすぐれているのに、いまさら試験なんか必要ではありません」とのことでした。君は今、人の師となろうとしながら、みずから進んで人に試験されようとしています。きっとその母親に笑われるでしょう」
 謝湜は、首都に行くのをやめました。

(31)
 先生が昔、皇帝の先生をしていたとき、関係省庁が先生への給料の支払いを忘れていたのですが、先生は給料の請求をしませんでした。先生がいつまでたっても給料の請求をしなかったので、諸公はそれをみかねて、ついに関係省庁に対して給料の不払いを問いただしました。そこで関係省庁は、先生に対して職歴書の提出を求めてきました。それに対して先生は、「私は、民間の出ですので、職歴書はありません」と言いました。(本註:昔の慣例として、はじめて中央の役人になった人は、これまでもらっていた給料の額を記した書類を提出していました。しかし、先生は、給料の請求をしませんでした。その理由は、おそらく、先生が「政府が自分を皇帝の先生に起用したのは、食糧庫の管理人が穀物をきらさないようにし、調理人が食肉をきらさないようにするようなものだ(すなわち、自分のすべきことは、皇帝を教育することであって、給料を請求することではない。それに第一、給料がきちんと支給されるようにするのは、出納係のすべきことであって、自分のすべきことではない)」と考えていたからでしょう)。そして、ついには、関係省庁にわざわざ新しい職歴書を作らせました。
 また、先生は、政府に願い出れば役人の妻のための特別の称号をもらえたのですが、そんな称号を求めたりしませんでした。范純甫がその理由を問うと、先生は「私は民間の出であり、これまで何度も任官をことわってきました。しかし、どうしてもというので今回、任官しました。それなのに、妻のために称号を求めるのは、理にかなっていません」と答えました。「今の人は特別待遇を願い出ますが、それは正しいのでしょうか。人々はみんな、それを当然のことと考えていますが」と質問すると、先生は「今の役人は、特別待遇を願い出ることに慣れているので、なにかにつけすぐに願い出るのです」と答えました。それに関して「父や先祖のための称号の授与を願い出るのはどうですか」と質問すると、先生は「そのことは話が別です」と答えました。そこで、その詳しい説明を教えてくださいと何度も頼んだのですが、先生はただ「この話をしていると長くなるので、また別の機会にしましょう」と答えるだけでした。

(32)
 漢王朝の時代の公務員採用試験の受験者は、人の推薦によりました。たとえば、公孫弘などは、むりやりに受験させられました。後世の公務員採用試験の受験者ともなると、自分から推薦されることを求めています。もちろん、もし「皇帝に直接お会いして、天下の大事を言上したい」というのなら、それはりっぱなことです。しかし、もし富貴を望んでいるのなら、①成功すれば、おごり高ぶり、好き勝手なことをするだけですし、②失敗すれば、むなしくなり、悲しくなるだけです。

(33)
 伊川先生が言いました。
「多くの人が、私が人に試験勉強をさせないと言います。しかし、私は別にそんなことはしていません。もし、試験勉強をせずに、及第することを望むとしたら、それは「すべてを運まかせにして、何の努力もしないこと(人事をつくさず天命をまつこと)」になります。
 ただ試験勉強は、及第できる程度でやめることです。もし、それ以上に試験勉強をして、必ず高い地位や名誉を得ることができるようにしようとするのなら、それは惑いです」

(34)
 質問。「家が貧しくて、親も年をとっているので、(相手が自分を買ってくれる前に、こちらから進んで)試験を受けて任官を求めようと思うのですが、採用されるかどうか心配でなりません。どのような修行をすれば、このような心配からまぬがれることができるでしょうか」
 返答。「それは、意志が気分に勝てていないからにすぎません。もし意志が気分に勝っていれば、そのような心配はおのずとなくなります。家が貧しく、親も年をとっているのなら、任官を求めることが大切です。しかしながら、任官できるかどうかには、天命があります(すなわち、任官することが天職であれば、必ずうまくいきます)」
 質問。「任官できなかったとき、自分としては大丈夫なのですが、親のためにはどうすればよいのでしょうか」
 返答。「自分のためにするのであれ、親のためにするのであれ、結局は同じことです。任官に失敗すれば、それは天命で、どうしようもありません。孔子は「天命を知らなければ、君子にはなれない」と言っています。天命を知らない人は、①苦難や困難に出会うと、すぐにそれから逃げようとします。②成功失敗がからんでくると、すぐに心が動揺してしまいます。③利益があると、すぐさまそちらに走っていってしまいます。それでどうして君子(りっぱな人)となれるでしょうか」(人事をつくして天命をまつ。)

(35)
「受験のための勉強は、自分のための勉強をダメにする」という人もいますが、それは違います。たとえば、一月のうち、十日を受験のための勉強にあて、残りの日は自分のための勉強にあてるというようにすれば、十分に自分のための勉強をすることができます。
 しかしながら、人の心は、こちらに向かなければ、あちらに向くものです。ですから、受験のための勉強には、自分のための勉強をダメにする心配はなく、ただ心を奪ってしまう心配があるだけなのです。

(36)
 横渠先生が言いました。
「王者は、功労者を記録し、人徳者を尊重し、それらの人たちを寵愛し厚遇するだけでなく、そんな特別待遇がずっと続くことを示すために、功労者や人徳者たちに代々にわたって受け継がれる特権という栄誉を与えるのです。
 そんな特権階級の家に生まれた後継者は、当然のこととして、①職務を楽しんで功績があるようにとがんばり、そうして職責を果たすべきであり、②また、正直で欲張らないことを重んじて私利私欲にはしらないようにし、そうしてりっぱな家風を受け継ぐべきです。
 ところが、最近の後継者たちときたら、ぶらぶらしている連中とつきあったり、詩歌作り(道楽)にうつつをぬかしたり、役人たちに自分の名を売ったりしています。しかも、それだけでなく、なりふりかまわず自分から任官を求めることは理に反したことだということが分からず、あろうことか理にかなったことをすることを恥じてバカにしたり、先祖のりっぱな行いの恩恵を今に受け継ぐことができていることは栄誉なことだということが分からず、あろうことか高位高官を得ることがよい後継者のなすことだと考えたりしています。いったいどういう心づもりなのでしょう」
(ノーブレスオブリージュ=貴族や高位高官などの特権をもっている者には、それに相応した重い義務や責任があるとする考え方)。

(37)
 相手の力量(知力や腕力や能力など)に頼らず、相手の所有(地位や財産や名声など)を利用しなければ、相手に圧倒されることはなくなります。

(38)
 人は、よく「(富貴は気にせず)貧賎に安んじる」と言います。しかし、そう言っているのは、実は、ただ(富貴になりたくても)いい考えが思いうかばず、力量が不足し、才能がとぼしくて、どうしようもできないからにすぎません。もし少しでも(富貴のほうへと)動くことができるのであれば、おそらく貧賎に安んじたりなどはしないでしょう。
 大切なことは、義理(天理)に従うことが、利欲(人欲)に従うことよりも楽しいことなのだということを本当に分かることです。そうすれば、貧賎に安んじること(富貴を気にしないこと)ができます。(天理に従い、人欲に従わないようにするためには、省察や察識や慎独などが有効です)。

(39)
 世の中のことで、とても心配なことは、人が他人からそしられたり、あざけ笑われたりすることを恐れることです。馬車や馬といったステータスシンボルをもてず、安いものを食べ、粗末な服を着て、貧相な暮らしをしていると、そのだれもが他人からそしられたり、あざけ笑われたりすることを恐れます。しかし、そのような人は、生くべきときには生き、死すべきときには死に、今日は高給でも明日には失脚し、今日は富貴でも明日には飢える、そうなっても憂えたりせずに、ただ義(ただしさ)にのっとって生きていくだけであるということが分かっていないのです。

【第八巻 治国平天下之道~国を治め、天下を太平にする方法】

(1)
 濂渓先生が言いました。
 天下を治めるには、根本があります。それは一身のことです。
 天下を治めるには、手本があります。それは家庭のことです。
 根本(一身)は、正しくある必要があります。根本を正しくするには、心を誠にするだけです。
 手本(家庭)は、善くあることが必要です。手本を善くするには、親しい人たちを和するだけです。
 家庭のことは困難で、天下のことは簡単です。なぜなら、家族は親近ですが、天下は疎遠だからです。
 家族の離反は、婦人から起こります。(たとえば、嫁と 姑 の確執など)。ですから、『易経』においては、「家人(家族)」に関する説明の次に、「背き離れること(?)」に関する説明を載せているのです。「二人の女性が同居していて、心が離れている」から、家庭の和が乱れるのです。
 堯が二人の娘を舜に嫁がせたのは、舜が帝位をゆずるのにふさわしい人物かどうか、それを見定めようと思ったからです。それは、その人が天下を治めることができるかどうかは、その人の家庭を観察すれば分かるし、その人が家庭を治めることができるかどうかは、その人の一身を観察すれば分かるからにすぎません。
 一身が正しいとは、心が誠であることです。心を誠にするためには、心の善くない動きをもとに戻す(本来の良心をとりもどす)だけです。善くない動きは、妄(でたらめ)です。妄(でたらめ)がもとに戻れば、無妄(まとも)になります。無妄(まとも)であれば、誠になります。ですから、『易経』においては、「もとに戻ること(復)」に関する説明の次に「信実であること(無妄)」に関する説明が載せられ、「先王は、時に順応して万物を育んだ」と述べてあるのです。なかなか深みがありますね。

(2)
 かつて明道先生が、神宗皇帝に対して、次のように言いました。
 天理にぴったりあい、人の道の頂点をきわめるのが、堯舜の道(王道)です。私心のままに行動し、人々の心をつかむために見せかけだけの仁(やさしさ)と義(ただしさ)を行って人々をだますのは、霸者の事業(覇道)です。
 王道は、といしのように平らかで、人間らしい心にもとづき、礼(ほどよさ)と義(ただしさ)から出発していて、大通りを歩いて行くように、よこしまでねじれているところがありません。
 霸者は、曲がった小道のなかで行き悩み、そりかえりゆがんでしまい、ついに王道を進むことができません。
 ですから、心を誠にして王者たらんとすれば、王者になれます。反対に表面だけとりつくろってよく見せかけて霸者たらんとすれば、霸者になれます。
 両者は(ともに表面的には、いい人そうに見えますが)進む方向がまったく違っています。出発点をよく考えるのが大切です。『易経』に言う「たとえ最初は小さな違いでも、千里も行けば大きな違いになる」とは、出発点をよく考えないわけにはいかないと言っているのです。
 ただ陛下が、昔の聖人たちの言葉についてよく考え、人の世の道理を見抜き、王道を進むにたるすばらしい素質がすでに自身に備わっていることを知り、自分自身を反省して自分を誠にし、それを天下におしおよぼしてくだされば、万世にわたる大変な幸せです。

(3)
 今の世においてなすべき仕事として、何よりも先にしなければならない仕事が三つあります。それは①立志(大志をいだくこと)、②責任(職責を果たすこと)、③求賢(賢者を採用すること)の三つです。
 今、指導者たる皇帝によい考えを教えたり、りっぱな計画を伝えたりしたとしても、まず皇帝に立志がなければ、どうしてそれを聞き入れてもらえるでしょうか。また、皇帝がそれを聞き入れてくれても、その補佐役たる宰相たちが無責任であれば、はたしてだれがそれを受けて行うのでしょうか。また、皇帝と宰相たちとが一丸となってがんばっていても、部下として賢者が採用されておらず、無能な部下たちばかりであれば、はたしてそれを天下に実施していくことができるでしょうか。
 立志、責任、求賢といった三つのことは、根本原則です。実際にいろんなことを正しく処理するのは、その応用です。それら三つのうちで、(指導者の)立志が大本です。
 立志というのは、①誠になり心が散漫にならないようにし、②道の実践を自分の任務とし、③古典に残されている聖人の訓戒を信頼し、④理想的な政治は必ず実現できるとの信念をもち、⑤現行の規則になずんだり、とらわれたりせず、⑥人々の言うことに左右されたり、惑わされたりせず、⑦理想的な社会を必ず現実のものとしようと堅く心に誓うことです。

(4)
易経』にある「比(親しむこと)」の部分説明(爻辞)の五番目(五爻)に、「比を明らかにする。王は、狩りのときに三方だけを囲って、前へ逃げていく獲物は追わない」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「指導者が天下万民に親しむ方法としては、その正しい親しみ方を(みずから実践して)ハッキリと示すのが当然です。指導者が天下万民に親しむ正しい方法は、意(心の動き)を誠にして、(すっきりした心で)他者を待ちうけ、自分を恕(ゆる)めて、(ゆとりある心で)他人にはたらきかけ、よい政治を行い、仁(やさしさ)を広め、天下にその恵沢がもれなくゆきわたるようにすることです。そのようでなければ、天下万民のなかの一体だれが指導者に親しんだりするでしょうか。
 もし指導者が、いい指導者だと思わせるために見せかけだけの仁政(良心的な政治)を行い、道(道理)にはずれたことをしてまで評判を高めようとし、天下万民が自分に親しむように仕向けようとするなら、それは偏狭なやり方です。それで天下万民が親しんだりするでしょうか。
 王者が正しい親しみ方を(みずから実践して)ハッキリと示すと、天下万民は自然に集まってきて、その王者に親しむようになります。王者は、やって来てくれる者は大切にしますが、相手を何か物で釣るなどして、こちらから親しんでもらおうとはしません。これはまさに、狩りのとき、逃げて行くものは追わず、やって来るものがあれば取るようなものです。これが王道の大なるものですが、そのため、人々は安全に暮らしていながら、それがだれのおかげなのかを知らないのです。(政治の力を人々が忘れてしまっているのは、よい政治が行われている証拠です)。
 このような親しみ方は、ただ指導者が天下万民に親しむ場合だけでなく、一般に人々がお互いに親しむ場合にも適用されます。たとえば、部下が上司に対する場合には、部下は、忠と誠をつくし、才能と力量を出し切るようにします。そうすることが、上司との正しい親しみ方を(みずから実践して)ハッキリと示すことになります。部下を採用するかどうかは、上司が決めることです。
 口先だけうまいことを言ったり、愛想笑いをしてみせたり、自分の信念を平気で曲げて従ったり、いいかげんな気持ちで賛成したりして、相手が自分に親しんでくれるのを求めてはいけません。そのことは、故郷の親類に対しても、世間の人々に対しても、同じことです。
 以上が「狩りのときに三方だけを囲って、前へ逃げていく獲物は追わない。(来るものは拒まず、去るものは追わず)」ということの意味です」

(6)
 聖人たちが活躍していた古きよき時代においては、上流階級から庶民にいたるまで、その職業地位がそれぞれの徳にみあっていました。(たとえば、徳の高い人は大臣や社長などといった高い地位につき、徳の低い人は小役人や平社員などといった低い地位につきました。また、政治が得意な人は政治の世界に入り、経済の得意な人は経済の世界に入りました)。人々が生涯その職業地位にいることができたのは、自分に適当な位置を得ていたからです。職業地位がその人の徳にみあっていない場合、指導者はその人をとりあげて、その人にふさわしい職業地位につけました。
 官僚をめざす中流階級の人たちは、自分の人格的向上のための学問をし、指導者は、その学問の効果が出てからその人たちを採用しました。自分のほうから採用を求めたり、昇進を求めたりするのは論外でした。農民も、工員も、商人も、それぞれ(その適性に応じた職業地位についていたので)自分の仕事に精を出し、自分にみあった収入を得ていました。ですから、だれもが安定した心をもっていて、天下万民の心は一つになっていました。
 聖人たちのいた時代よりあとの時代ともなると、官僚の卵から高級官僚にいたるまで、そのだれもが毎日、出世することばかりを考えるようになりました。また、庶民は、そのだれもが毎日、金儲けのことばかり考えるようになりました。このように天下万民の心はそれぞれ私利私欲に走り、天下は紛然と乱れました。それでどうして天下万民の心を一つにすることができるでしょうか。乱れないようにしようとしても、難しいでしょう。

(6)
易経』にある「泰(泰平)」の部分説明(爻辞)の三番目(三爻)に、「荒(けがれ)をつつみ、馮河を用いる(あらゆる汚れをつつみこむ度量をもち、大河を船なしで渡るような剛勇果断さを用いる)」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「人の心がわがまま気ままだと、政治はたるんで、法律が守られなくなり、あらゆることにおいて節度がなくなります。それを治す方法としては、清濁あわせのむ度量が必要です。それがあれば、その行為はゆったりし緻密になり、弊害は改善され、事はスムーズに運び、そして人々は安心して暮らせるようになります。
 もし、すべてをつつみこめるほど広い度量がなく、悪を決して許さない生真面目さがあれば、深く遠くまで見通せる思慮(深謀遠慮)がなくなり、暴動が起きたり、混乱が生じたりする心配が出てきます。(「水清ければ魚棲まず」)。前からあった弊害がなくならないうちに、新たな問題が起きてしまうことになります。ですから、世の中を泰平にするための鍵は、「荒を包む(あらゆる汚れをつつみこむ度量をもつ)」にあるのです。
 昔から泰平の世も必ずしだいに衰えていくのは、思うに、安逸になれて危機感がなくなることによって、旧習になずんで惰眠をむさぼってしまうからです。気力が強くて決断力のある指導者か、優秀で積極果敢な補佐役でなければ、一人ぬきん出て奮発して弊害を改革することはできません。ですから、「馮河を用いる(大河を船なしで渡るような剛勇果断さを用いる)」と言われているのです。
 もちろん、ここでこういう疑問をもつ人もいるかもしれません。それは、「上の句の「荒を包む」とは、消極的な包含寛容のことである。しかし、下の句の「馮河を用いる」とは、積極的な奮発改革のことである。だから、両者は矛盾しており、両立し得ないのではないか」という疑問です。
 しかし、そんなことを言う人は、「広大な度量をもって勇猛果敢に行うことこそ、聖人や賢人のやり方である」ということを知らないのです」

(7)
易経』にある「観(静観すること)」の説明に、「祭祀において、手を洗い清めたが、まだお供え物をする段階にまで至っていない。誠があって、荘厳さにあふれている」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「君子が上にいて天下の模範となり、手を洗い清めるときのようにとても荘(どっしり)し、敬(しっかり)し、お供え物をした後のように少し気がぬけて誠の心を欠けさせてしまうことがないようにすれば、天下万民は誠をつくすようになり、自分たちのよき見本として君子を仰ぎ見るようになるでしょう」

(8)
 およそ天下から一国、一家に至り、万事に至るまで、和合しないことがあるのは、すべて間(へだたり)があるからです。間がなければ、合わさるものです。天地万物の生成は(たとえば陰陽二気が合わさって天地万物が生成されるように)すべて合わさることによってできあがっています。(つまり、和合するのは自然なことで、和合しないのは不自然なことです)。
 一般的に、合わさっていないのは、すべて間があるからです。たとえば、君主と臣下の関係、父と子の関係、親類どうしの関係、友人どうしの関係などにおいて、お互いに離れ背いたり、恨んで不和になったりすることがあるのは、思うに讒言(悪口)や邪心が、それらの関係に間を作っているからです。そんな間隔をなくして合わせれば、必ず和してうまくいくものです。
 このように、『易経』にある「噛み合わせること(噬?)」という教えは、天下を治めるにあたって大いに使えるものです。

(9)
易経』にある「大畜(大きな蓄え)」の部分説明(爻辞)の五番目(五爻)に、「去勢した猪の牙、吉」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「物にはその中心となる本質的な点があり、事にはその命運を決める大切な点があります。聖人(すぐれた人)は、そういった物事のかんじんかなめの点をとらえることができるので、天下万民の無数の心を見る場合、それらをまるで一つの心を見るかのようによく分かることができます。
 そんな聖人が天下万民を導けば天下万民は動きますし、そんな聖人が天下万民をとどめれば天下万民は静まります。ですから、(聖人が政治をすると)労せずして天下が治まるのです。
 そのやり方は、あたかも「去勢した猪の牙」のようです。猪は気のあらい動物ですから、その牙をむりやり押さえつけようとすれば、とんだ苦労をするだけで、押さえつけることはできません。しかし、もし猪を去勢すれば、牙は残っていても、気のあらさはおのずとなくなります。(このときには、簡単に押さえつけることができます)。
 君子(りっぱな人)は、この「去勢した猪の牙」という例え話の真意にならって、「天下の害悪というものは、力づくで押さえつけることはできない」ということを分かっているので、害悪をなくそうとする場合、そのカラクリを明らかにし、そのかなめのところをとらえて、害悪の根本原因を塞いで絶ってしまいます。ですから、厳しい刑罰や厳しい法律に頼らなくても、害悪はおのずとなくなるのです。
 たとえば、窃盗行為をなくそうとする場合について考えてみましょう。人々には(良心だけでなく)欲心があって、利を見るとそちらに動きます。もし人々への教育がなされておらず、人々が飢えや寒さに襲われた場合、為政者は毎日のように死刑を実施したとしても、人々の数億、数兆もの利欲の心に勝てるでしょうか。
 聖人ならば、窃盗行為をなくすための方法が分かっています。恐ろしい刑罰は尊ばず、政治や教育をきちんとするのです。そして、きちんとした政治を通して人々がきちんと生業につけるようにして生活に困らないようにし、きちんとした教育を通して正直に生き恥を知ることの大切さを人々に分からせるのです。そうすれば、ほめたとしても、窃盗行為などしたりしません」

(10)
易経』にある「解(問題の解消)」の説明に、「①西南の方角がよろしい。②行くところがない場合、戻ってくると吉。③行くところがある場合、早くすれば吉」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「①「西南の方角」は、八卦で言うと、坤にあたります。坤(母なる大地)の姿は広大で平易です。(たとえば戦乱などの)天下の困難が解消したばかりのとき、人々は艱難辛苦から解放されたばかりです。このとき(人々はとても疲弊しているので)繁雑で厳格なやり方で人々を統治することはできず、寛大で簡易なやり方で人々を救済するのが当然であり、それでこそ「よろしい」状態になります。
②困難が解消して平安無事になっていること、これが「行くところがない場合」ということです。そうなれば、政治機構を修復し、根本法規を正しくし、法律制度を明らかにして、進んで昔の名君が実現したようなりっぱな治世の復活をはかるのが当然です。これが「戻ってくる」ということです。それは、世の中を正しい状態に戻すことを言っているのです。
 昔から、聖王(すぐれた指導者)が天下の難儀を救い、天下の混乱を静めるにあたって、最初のうちは(目の前の問題に追われて一時的な対処しかできず)すぐさま遠い先のことまで視野に入れた永続的な政治を行うよゆうがありません。しかし、世の中が安定したなら、遠い先のことまで視野に入れた永続的な政治を行うものです。
 ところが、漢王朝の時代よりこのかた、為政者は、時間的にも空間的にも広い視野に立つ政治をなさず、事あるたびに場当たり的なやり方でその場しのぎをして体制を維持するだけです。ですから、りっぱな治世を実現することができないのです。思うに、「戻ってくる」の意味について分かっていないのでしょう。
③「行くところがある場合、早くすれば吉」とは、「解決すべき問題がある場合には、早くそれを処理すれば吉だ」ということを言っています。すなわち、解決すべきなのにまだ解決してしまえていない問題は、早く除去しなければ、いずれまた力を盛り返してくることでしょう。また、再び生じてきた解決すべき問題は、早く処理しなければ、だんだんと大きな問題に発展していくことでしょう。ですから、「早くすれば吉」なのです」

(11)
 そもそも「物があれば、必ずそれ固有の本来あるべきあり方というものがある」ものです。
 たとえば、父親は(父親らしいあり方として)慈愛にとどまり、子供は(子供らしいあり方として)孝行にとどまり、指導者は(指導者らしいあり方として)良心的であることにとどまり、部下は(部下らしいあり方として)みずから率先して事にあたることにとどまります。(たとえば、人ならば人らしく人間性をなくさないようにするのがあたりまえのあり方です)。
 このように、万事万物は、それぞれ自分にふさわしいあり方をもっています。自分にふさわしいあり方ができれば、安らぎます。自分にふさわしいあり方をなくすと、ぎこちなくなります。聖人(すぐれた人)が世の中をうまい具合に治めることができるのは、相手のために相手の本来あるべきあり方を作ってあげることができるからではなく、ただ相手をその相手にふさわしいあり方にとどめるからにすぎません。
(たとえば、犬をむりやりに猫のようにさせようとしたりせずに、ただ犬らしくあらせること。また、Aさんの生き方をこちらで勝手に決めたりせずに、ただAさんらしくあらせること。それが聖人のやり方です)。

(12)
易経』にある「兌(喜び)」の説明に、「喜んで正しくあれる」とあります。これは、上は天の理に従い、下は人の心に応えるという、喜び方のもっとも正しくて、もっとも善いものです。
 たとえば、あの「道にはずれたことをしてまで評判を高めようとする」ようなことは、かりそめの喜び方です。「道にはずれたことをする」のは、天の理に従うことではありませんし、「評判を高めようとする」のは、人の心に応えることではありません。それらは、かりそめに一時的な喜びをもてるだけで、君子(りっぱな人)の正しいやり方ではありません。
 君子のやり方は、天地の恵みのように、おのずと人々に喜ばれるものです。そんな君子のやり方に人々は、心を動かされ、厭うことなく喜んで従います。

(13)
 天下の事は、進まなければ退くもので、一定するようにはなっていません。事が終わりまでいくと、それ以上は進まず、そこで止まってしまいます。(たとえば、料理作りも、料理ができてしまえば、することがなくなります)。
 しかし、ずっとそのままの状態であり続けることはありません。そのままでいれば、必ず衰退や混乱がやってくるものです。(たとえば、できあがった料理も、そのままにしておけば、いずれは腐ってダメになってしまいます)。というのも、行き着くところまで行って、行き詰まってしまっているからです。
 ここで、「こんなとき、聖人(すぐれた人)はどうするのだろう」と疑問に思う人がいるかもしれません。それに答えましょう。聖人ならば、そもそも、そのような事態を招いたりはしません。なぜなら、ただ聖人だけが、事が行き詰まってしまう前に、それをよい方向に方向転換させて、行き詰まってしまわないようにすることができるからです。(たとえば、できあがった料理を、それが腐ってしまう前に食べて、自分のエネルギーに変換します)。堯や舜といった名君がしたことが、これです。ですから、終わることはあっても、乱れることはないのです。

(14)
 人々のために指導者(為政者)を立てるのは、人々の生活を安定させるためです。人々の生活を安定させる方法は、民力を大切にすることにあります。(民力=人びとのもつ経済力)。民力が足りていれば、生活が安定します。生活が安定すれば、教育して人々の善なる本性を養うことが可能となり、風俗がよくなります。(たとえば、「衣食足りて礼節を知る」と言われるように、まず経済的な安定がなければ、実効的な道徳教育はできないものです)。ですから、政治を行うにあたっては、民力が重要となってくるのです。
『春秋』には、指導者によって民力が使われた場合、そのことを必ず記録してあります。民力の使い方が時期的に悪くて、理(道理)に反している場合には、当然のことながら指導者の罪として記録してあります。民力の使い方が時期的によくて、理(道理)にかなっている場合にも、ちゃんと記録してあります。それは、民力を使うことがいかに重大なことであるかを示すためです。後の指導者がそういった記録の真意について分かれば、民力を使うときにいかに慎重にしなければならないかが分かるでしょう。
 しかしながら、民力を大いに使っていながらも、記録していないことがあります。それは、聖人の教訓の仕方が奥深いからです。たとえば、僖公が諸侯のための学校を修復し、宗廟を再建したことなどは、それらに民力が使われなかったわけではないのですが、記録されていません。なぜなら、それら二つの事業は、昔の名君たちが実現したようなりっぱな治世を復活し、荒廃した今の世を復興するための大事な事業であり、国を治めるための最優先課題であるので、民力が使われて当然だったからです。(官僚が悪ければ善い政治は実現できないので、官僚を善くするための教育施設が必要となります。また、天下万民の心がバラバラになれば世の中は乱れてしまうものですが、儒学では宗廟には天下万民の心を一つにする機能があると考えています)。
 指導者が、以上に述べたことの真意について分かれば、政治を行うにあたっての先後や軽重について分かるでしょう。

(15)
①身を修め、家庭をきちんとし、そして天下を太平にすることは、政治の筋道です。(『大学』によると、「自分自身がよくなると、自分に身近な家族が感化され、家族もよくなる。家族がよくなると、縁遠い天下の人々が感化され、天下の人々もよくなる。こうして天下太平が実現される」ということになります)。
②政治の綱領を作り、さまざまな役職地位にともなう職権(権利)と職責(義務)とを明確にし、年間行事がとどこおりなく行われるように暦に気を配り、そして法律制度を創立して天下のいろんな事件をうまく処理することは、政治の方法です。
 聖人が天下を治めるやり方は、ただ以上の二つだけです。

(16)
 明道先生が言いました。
「昔の名君の治世では、道(道理)によって天下が治められていました。それ以後の時代の暗愚な為政者の治世では、ただ法によって天下がつかまれているにすぎません」
(よい為政者は、心ある政治を行って天下万民を満足させ、それによっておのずと天下が治まるようにします。悪い為政者は、体制を維持するために、利で天下万民を誘導したり、力で天下万民を押さえつけたりします)。

(17)
 政治を行うにあたっては、ぜひとも大綱(ハード)と細目(ソフト)がなければなりません。(法律や制度などのハード面と官僚や人材などのソフト面との先後を言えば)官僚たちのことが先で、地方の官僚たちは人々に法を読んで聞かせたり、公衆道徳を説いたり、物価の安定をはかったり、公正な取引を守ったりするようにします。それらはどれも欠くことのできないものです。(では、りっぱな仕事のできる優秀な人物を得るためにはどうすればいいのでしょうか)。人は、それぞれ自分の近くにいる親しい人と親しくすることができてこそ、遠くにいる親しくない人とも親しくすることができるものです。これは『論語』にある話ですが、仲弓が「どうすれば賢い才知のある人物を挙げることができるでしょうか」と質問したとき、孔子は「君の知っている人物を挙げなさい。そうすれば、君の知らないりっぱな人物がいたときには、他の人たちがほうってはおかないでしょう」と返答しました。ここには、凡人の仲弓と聖人の孔子との心づかいの大小が示されています。この話から考えていくと、為政者の心のあり方いかんによって、国を滅ぼすこともできれば、国を盛んにすることもできるということが分かります。それはただ心が「公」であるか、それとも「私」であるかの違いにすぎません。(公=私心がなく、公正であり、客観的であること。私=公正でなく、私心があり、主観的であること)。

(18)
 政治の方法についてもまた、①根本面から言うこともあれば、②事象面から言うこともあります。
 ①前者は、ただ指導者の心の非を正すことにすぎません。指導者の心を正しくして政府を正しくし、政府を正しくして官僚たちを正しくします。(政治を本末関係で言うと、儒学では、人材など、政治のソフト面が本になります。)
 ②後者の場合、弊害をほったらかしにして政治をよくしないのならそれまでですが、政治をよくすべき場合には、必ず変革すべきです。大きく変革すれば、効果も大きくなります。小さく変革すれば、効果も小さくなります。(政治を本末関係で言うと、儒学では、制度など、政治のハード面が末になります。)

(19)
 唐王朝は天下を統一し、天下をよく治めたと言われています。しかしながら、野蛮な気風をもっていました。三綱(君主と臣下の関係、父と子の関係、夫と妻の関係という三つの人間関係)は正しくなく、君主も臣下もなく、父も子もなく、夫も妻もありませんでした。その原因は、太宗にあります。(太宗は、唐王朝の二代目皇帝で、皇帝の位につくために父と兄を力づくで排除しました)。ですから、その子孫はみんな、皇帝としてうまくリーダーシップを発揮することができなかったのです。君主は君主らしくなく、臣下は臣下らしくありませんでした。ですから、地方の豪族は中央を無視し、中央の有力者は権勢をほしいままにし、唐王朝はしだいに衰えて、五代十国時代とのちに呼ばれる乱世を招いたのです。
 漢王朝の政治は、唐王朝の政治よりもすぐれていました。漢王朝は大綱(人々の気風・政治のソフト面)が正しく、唐王朝は細目(法律制度・政治のハード面)が整っていました。わが宋王朝は、大綱は正しいのですが、細目は不十分です。

(20)
 人を教えるにあたっては、人の良心を養うようにします。かくして、悪はおのずと消えてなくなります。
 人を治めるにあたっては、敬(しっかり)していて謙虚であるようにと人を導くようにします。かくして、争いはおのずとやんでなくなります。

(21)
 明道先生が言いました。
「『詩経』にある「関雎」や「麟趾」に示された心があってはじめて、理想的な周王朝の時代に行われたりっぱな法律制度を復活できます」
(ここで言っているのは、要するに、上に立つ人がまずりっぱでなければ、りっぱな政治は行えないということです。なお、「関雎」は、名君だった文王の奥さんがりっぱな人だったことを詩にあらわしたもので、また「麟趾」は、文王の子孫に正しい心根のあることを詩にあらわしたものです。文王は、周王朝を創始した武王の父です)。

(22)
 指導者が仁(やさしさ)を重んじれば、仁を重んじない人はいなくなります。指導者が義(ただしさ)を重んじれば、義を重んじない人はいなくなります。天下が治まるのも、乱れるのも、すべては指導者が仁・義であるか、それとも不仁・不義であるかにかかっています。
 指導者が是(ただしき)から離れて非(まちがい)となれば、不仁・不義がその心に生じ、そのとたんにその政治をダメにします。心に生じた不仁・不義を外に行うのをまつまでもありません。
 その昔、孟子は三度も斉王と会見しながらも、本当に大切なことを何も言いませんでした。孟子の門人は、そんな孟子の行動に疑念をいだき、その理由を孟子に問いました。孟子が言うには、「私はまず王様の悪い心を攻めたのです」とのことでした。
 心が正しくなってはじめて、天下のいろんな事件は、その正しい心によってうまく処理できるようになるものです。そもそも「政治や行政における過失」や「人材の採用におけるまちがい」は、知恵者によって改められ、正直者によって諌められます。
 しかし、指導者に悪い心があれば、最初のうちは指導者の「過失」や「まちがい」を知恵者や正直者が修正できたとしても、そのうち、悪い心をもつ指導者によって次から次になされる「過失」や「まちがい」に、知恵者や正直者の修正が追いつかなくなるでしょう。指導者の悪い心を正し、不正がないようにさせるのは、大人(人間のできた人)でなければ一体だれにできるでしょうか。

(23)
 横渠先生が言いました。
「『論語』では、地方政府の政治の方法に関して、礼楽や刑政などについては何も言わず、「倹約し、人を愛し、民衆を徴用するときには時宜にかなうようにする」と言っています。ここで言わんとしていることは、そのようにできていれば、ルールがよく守られるようになるが、そのようにできていなければ、ルールは少しも守られなくなり、礼楽も刑政も単なる名目だけのものになる、ということです」
(ここで言っているのは、要するに、そもそも為政者がちゃんとやっていなければ、どんなに倫理道徳や法律制度を整えたとしても、世の中をうまく治めることはできないということです)。

(24)
 聖人の教えにならった法律制度が確立され遵守されれば、上に立つ人の人徳はずっと失われませんし、上に立つ人の功業は大きくできます。
 淫猥なものや口先のうまい人は、為政者をダメにしてしまいます。ですから、淫猥なものから離れ、口先のうまい人を遠ざけるのです。

(25)
 横渠先生が范巽之に答えた手紙に、次のようにあります。
 政府は、「(人としての理想を追求する)道学」と「(現実問題に取り組む)政治」とを、まったくの別物だと考えています。これはまさしく昔から問題視されてきたことです。
 巽之よ、考えてもみなさい。もし孔子孟子が今の世に現れたとしたら、自分の学び得たものをおしおよぼして天下に行おうとするのでしょうか。それとも、自分の学んでいないものを無理に天下に行おうとするでしょうか。(必ずや自分の学び得たものを天下に行おうとするでしょう)。
 たいてい政府の上層部は、天下万民の父母たることを王道としています。(そして、その人たちは、天下万民の父母たることを自任しています)。しかし、実際には、父母の心を天下万民におしおよぼせていません。これが王道と言えるでしょうか。
 父母の心というのは、ただ言葉に表すだけでなく、天下万民を実際にわが子のように見ることを必要とします。もし天下万民をわが子としていれば、その政治のやり方は、秦王朝漢王朝などのように恩情に欠けたものになったり、乱世の霸者たちのように偽善的なものになったりなどしないはずです。
 あなたは政府のために、こう言ってください。
「人材の採用におけるまちがいは責めるほどのものではありませんし、政治や行政における過失は非難するほどのものではありません。我々の指導者が天下万民を赤ん坊を愛するように愛したならば、①政治のすばらしさは日に日に高まっていき、②りっぱな人が役人となるようになり、③今日の政治は、体制を改変したりせずとも、りっぱなものとなり、④道学と政治とは、わざわざ心構えを別にしなくとも、一つの心でともにきわめることができるでしょう」

【第九巻 制度~よりよい制度を整備する】

(1)
 濂渓先生が、次のように言っています。
 昔、聖王(すぐれた指導者)は、(だれもが自分にふさわしいことができるようにするために)礼法を制定し、(だれもが自分にふさわしいことが分かるようにするために)教化を整備しました。おかげで三綱(人間関係)は正しくなり、九疇(政治方法)はきちんとなり、万民はとても和(やわ)らぎ、万物はすべて生き生きしました。
 そこで音楽を作って、調和的な演奏を広め、天下万民の心を平穏にしました。ですから、その音色は、さっぱりしていて心を傷つけず、やんわりしていて心を失わせませんでした。そして、耳に入ると心を感じ入らせ、人々を必ずさっぱりやんわりさせました。
 さっぱりすれば、欲ばりな心は静まってなくなりますし、やんわりすれば、おちつきがない心は溶けてなくなります。やさしくて、やわらかくて、おちついていて、中(ほど)よいのは、徳(よさ)が盛んである証拠です。天下万民が感化されて中(ほど)よくなるのは、よく治まっている証拠です。これを「政道が天地とつりあっている」と言います。昔の聖王の政治のやり方のすばらしさの極致です。
 聖王たちの時代より後の時代ともなると、礼法はむちゃくちゃになり、政治も刑罰も厳しくでたらめになり、為政者は欲望をほしいままにして規則を無視するようになり、天下万民は困苦するようになりました。
 しかも、「昔の聖王たちの作った音楽は聞くにたりない」と言って、音楽をどんどんと新しいものに変えていきました。その新しい音楽は、なまめかしく、淫(みだ)らで、憂いに満ち、うらみがましいもので、欲望を誕生させ、悲愁を増長し、自制心をなくさせます。ですから、指導者を害したり、親を捨てたり、生命を軽んじたり、倫理を破ったりする、どうしようもない連中が出てくるのです。
 ああ、音楽は、昔は心を平安にしていたのに今では欲を助長し、昔はよい影響を広めていたのに今では不平不満を伸長させます。昔の礼法を復興し、今の音楽を改変することがなければ、よく治めようとしても無理でしょう。
(精神医学によると、音楽にはリラクセーション効果があるそうです。社会がストレスだらけだと、その社会はおのずと悪くなってしまうものなので、その点からすると音楽も世の中をよくするのに役立つと言えます)。

(2)
 明道先生が政府に、こう進言しました。
 天下を治める根本は、風俗を正しくし、人材を獲得することにあります。近くにいる相談役の先生たちやいろんな役人たちにきちんと命令して、熱心によい人材を探させるのがよろしいでしょう。
 よい人材とは、人徳も学問も申し分なく、みんなの模範となるに足る人物や、それにはおよばないものの、大志があり、好学で、よい素質をもち、行いのきちんとした人物などのことです。
 そんなよい人材を、礼をつくして招くか、地方の役人に命じて丁重に迎えにあがらせるかして、首都に集めます。そして、いっしょに朝な夕な正しい学問(聖人になるための学問)の本質を研究させ解明させるのです。
①正しい学問のやり方は、必ず人道にもとづき、物理を明らかにします。
②正しい学問の教育は、小学における掃除や応接の勉強に始まり、それ以降は、孝(親に孝行)・悌(目上に謙虚)・忠(真心)・信(真実)を修め、礼楽(モラル)にかなった立ち居振る舞いをすることへと進みます。そのときに生徒を指導し激励し、その人格をじょじょに磨いて完成させる方法には、段階や順序があります。
③正しい学問の要点は、悪いことをせず善いことをして自分自身を修養して自分をりっぱにしていき、自分がりっぱになることによって天下万民を感化して天下万民もりっぱになるようにしていくことにあります。(修己治人)。それは凡人から聖人になることができる方法です。
 学びや行いが以上の①~③に適合している人は、「成徳(モラリスト)」と呼ぶにふさわしい人です。資質的にも識見的にもすぐれていて、善くなることまちがいなしの人物をスカウトしてきて、その「成徳(モラリスト)」の授業を受けさせます。
 そして、正しい学問がよく分かり、しかも人徳が高い人を選んで、国の最高学府である太学の教員とします。それに次ぐ人は、地方の学校に派遣して、そこの教員とします。
 学校にはりっぱな人を選んで入学させるわけですが、県の学校から優秀な生徒を州の学校に進ませ、その州の学校から優秀な生徒を推薦して特別待遇で太学へと送り出します。太学では各地から送られてきた生徒を集めて教えます。そして、そのなかから毎年、政府で議論して「賢者(えらい人)」「能者(できる人)」を選定して採用し、それぞれにふさわしい役職、地位を与えます。
 一般的に、りっぱな人を選ぶ方法は、次の基準に見合った人を選ぶことです。
①精神面からみても、行動面からみても、ともによいこと。
②日常生活においては、孝であり、悌であること。
③正直で、恥を知り、行動が理にかなっており、でしゃばりでないこと。
④正しい学問に精通していること。
⑤政治の方法についてよく分かっていること。
 以上の五つです。

(1)
 明道先生が十の提言をしました。
①教師について。
②官僚について。
③土地政策について。
④地方の政治について。
⑤人材の育成について。
⑥兵役について。
⑦食糧の備蓄について。
⑧雇用の問題について。
⑨天然資源について。(本註:昔は山や川を保全する役人がいました)。
⑩分数について。(本註:分数とは、職業地位に応じて冠婚葬祭・車服器用などに違いを設けることです)。
 それから、こう言いました。
「昔と今、平和と混乱の別なく、天下万民の生活を保障できなくなれば、聖王の制定した法律制度でも改めてかまいません。天下万民の生活を保障するために思い切った改革をすれば、大いに治まります。部分的な弊害を除去するだけの小さな改革であれば、小康を保てる程度です。このことは歴史上、明白な事実です。
 もし古き伝統にこだわって今となっては役に立たないことをしたり、形式にとらわれて実質をダメにしたりするなら、それはまさにヘボ学者の見解であって、それでどうして政道について語ることができるでしょうか。
 しかしながら、「今と昔とでは人間の心はまったく違っている」とか、「昔の名君のなしたようなりっぱな政治を現代に行うことなど無理な話だ」とか言って、目先の利益に走り、高尚にして遠大な理想につとめないのであれば、それもまたおそらく実りある議論とはならず、現今の大きな弊害を解決する助けにはならないでしょう」

(4)
 伊川先生が、まだ子供だった哲宗皇帝に提出した上書に、こうあります。
夏王朝、殷王朝、周王朝と続く三代のころ、天下万民の指導者である君主には、師官、傅官、保官という三種の役人がついていました。師官は君主を教訓で指導し、傅官は君主が徳(よさ)と義(ただしさ)を伸ばす手助けをし、保官は君主の健康管理をしました。
 それから後の時代ともなると、政府が仕事をするにしても根本がなく、また、臣下たちは、君主に対してりっぱな治世を求めることを知っていても君主の心を正すことを知らず、君主に対して過失を責めることを知っていても君主の徳を養うことを知りません。君主が徳(よさ)と義(ただしさ)を伸ばせるように手助けする仕事は、うやむやになってしまっていますし、君主の健康を管理する仕事も、それがあるという話を耳にしたことがありません。
 私が思いますに、傅官の任務は、君主の見聞のまちがいを防ぎ、君主の道楽が度をすぎないように節することにあります。保官の任務は、君主がきちんとした日常生活を送るように注意し、君主が慎重さをなくさないように注意することにあります。
 現在、傅官も、保官も、ともになくなっています。そうであれば、傅官や保官が負うべき職責は、師官たる、この私にあります。そこで願わくば、皇帝陛下の宮中での言動や衣食のすべてを私にお知らせください。また、皇帝陛下に悪ふざけがありますれば、私は事に従ってお諌めいたしましょう。修養の方法にまちがいがありますれば、私は時に応じてお諌めいたしましょう」
(本註:先生の残した書き物のなかに、こうあります。
「私はかつて、皇帝陛下に進言して、皇帝陛下が一日のうち、賢者や紳士たちに親しむ時間を多くもち、宦官や女官たちに親しむ時間を少なくもつようにしようとしました。それは、皇帝陛下の気質を涵養し、皇帝陛下の徳性を薫陶するためです」)

(6)
 伊川先生が「太学・律学・武学の三つの中央の学校に関する法律」を点検して言いました。
「従来の制度では、年1回の試験である公試と、月1回の試験である私試とがあり、試験のない月はありません。学校では、そこは礼(ほどよさ)と義(ただしさ)が重んじられる場であるはずなのに、試験によって学生どうしを争わせています。しかし、それは、決して人を教え養う方法ではありません。そこで、どうか次のようにしてください。
①試験(成績)中心のやり方をやめ、課程(学習)中心のやり方に改めること。
②学生に未熟な点があれば、教師がその学生を呼んで教えること。
③学生のランクづけなどしないこと。
④尊賢堂(学校関係者以外のりっぱな人を招いて、その人に教育してもらうための施設)を作って、社会にいる道徳的にみてりっぱな人を招くこと。
⑤待賓斎(行いのりっぱな人を招いて学ぶ教室)や吏師斎(政治のやり方に精通した人を招いて学ぶ教室)を設置すること。
⑥エリートたちの行いの善し悪しを取り調べる制度を確立すること。
 以上です」
 さらに、こう言いました。
「元豊の改革以来、(たとえば中央の学校の学生は公務員採用試験で有利になるようにするなどして)利によって人を中央の学校へと誘う法律制度を設けて、中央の学校の定員を500人に増やしました。そのため、首都にやってくる人は、かなりの数となり、父母の孝養を捨て、親族兄弟の愛情を忘れ、道路を往来し、故郷を捨てて他所に宿るようになりました。人の性情は薄情となり、人の気風は軽薄となりました。
 そこで、今、中央の学校の定員を100人にして、残りの400人は定員の少ない地方の学校にふりわけるようにしてほしいと思います。そうすれば、人々はおのずと故郷にねづき、家族への孝愛の心も養われ、あちこちせわしく動き回って流浪するおちつきのない心も静まり、風俗も少しずつよくなっていくでしょう」
 さらに、こう言いました。
「太学において、外舎から内舎へ、さらに内舎から上舎へと、試験(公試や私試など)と調査書(賞罰や学業成績を記した書類)によって進級していく制度である、いわゆる三舎の法は、全体にわたって、学生の文才を通してその能力を測り、規則(校則)に違反していないかを調べるものです。しかし、それは、役人に対する評価の仕方であって、学校で人材を育成したり、すぐれた人物を選んだりする方法ではありません。
 思うに、政府は法律を制定するわけですが、その法律は必ずいちばん下の役人にまでゆきわたります。(上意下達)。長官は、法律を守って、何もすることができません。(形式主義や羈束行為)。これは、法律の具体的な実施はすべて下の役人にまかされることになって、下の者が上の者をコントロールできるということです。以上が、聖人たちの活躍していた時代より後の時代、りっぱな治世が出現しなかった理由です。(つまり、人材育成がきちんとなされなければ、法律をうまく活用して時と場合に応じた最善の施策をすることのできない、法律に形式的に従うだけの無責任な役人が増えて、ろくでもない行政がなされることになるというわけです)。
 なかには、こう言う人もいるかもしれません。「長官や次官にりっぱな人が就任していたならば、長官や次官に大幅な裁量権を与えることはよいことだ。しかし、長官や次官にりっぱな人が就任しなかった場合のことを考えて、あらゆる場合を想定した細かな法律を完備して、それをきちんと守らせたほうがもっとよい」
 しかし、そう言う人は、「たとえ聖人の制定した法律でも、りっぱな人が得られてはじめてうまく機能する」ということを知らないのです。「りっぱな人が得られなかったのに、法律がうまく機能した」という話など、いまだに聞いたことがありません。
 もし、学校長をふくめて長官や次官にろくでもない人物が就任し、教育の何たるかを知らず、いたずらに内容のない詳細なだけの法律規則を守るだけなら、はたして人材を育成することができるでしょうか」

(6)
 明道先生の伝記に、こうあります。
「先生は、山西省晋城県の県知事をしていたとき、なにか用事があって県庁所在地にやってくる人がいれば、その人に必ず孝(親に孝行)・悌(目上に謙虚)・忠(真心)・信(真実)、すなわち、家では父兄につかえる方法、外では先輩や上司につかえる方法についての話をしました。
 町や村においては、その遠近を考えて相互扶助組織を組織させ、労働には助けあわせ、困難にみまわれたときにはいたわりあわせて、虚偽のつけいるすきがないようにしました。
 およそ孤児、未亡人、病弱者などについては、その親戚や地域の住民にめんどうをみさせて、浮浪しなくてすむようにしました。
 管轄地域を行く旅人については、病気になったときには療養させてあげました。
 どの町にも学校を設置し、ひまなときには自分からでかけていって、そこの父老たちといっしょに話をしたり、児童が書物を読む場合にはみずからその句読を正してあげたり、教師が悪ければ交替させたり、優秀な児童を集めて教えたりしました。
 地域住民が祭りのときに集会(宴会)を開くときには、地域住民のためにきまりを作ってやり、善悪の基準をハッキリさせ、善につとめて悪を恥じるようにさせました。

(7)
易経』にある「萃(集めること)」の説明に、「王は宗廟をもつようになった」とあります。(宗廟とは、祖先を祭るための祭祀施設のことです)。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「(宗廟があると)①天下万民はその数がとても多いものの、その心のよりどころを一つにすることができます。②人の心はその所在が定かではないものの、だれもが敬虔な気持ちになることができます。③鬼神はその存在がよく分からないものの、それを身近に感じることができます。(儒学では、人は死ぬと鬼神になるとしています)。
 天下において、みんなの心を結集し、みんなの志をまとめあげる方法は、一つだけではありません。しかし、宗廟よりも大きな効果のある方法はありません。ですから、王者が天下万民を結集する方法として宗廟をもつようになれば、萃の道をきわめていると言えます。
 祭祀を実施して祖先の恩に報いるのは、人の心にもとづいています。聖人(すぐれた人)は、ただ祭祀を実施するために必要な礼法を制定して、そんな徳(よさ)の成就を手伝うだけです。
 ですから、『礼記』に「晩秋にヤマイヌは獣を祭り、初春にカワウソは魚を祭る」とありますが、それは(教えられたからそうしているのではなく)生まれつきそうするようになっているのです」

(8)
 昔、国境警備兵は、二年で帰還しました。今年の春の暮れに国境警備に行き、夏に国境地帯に到着します。そして、次の年の夏に交替がやってきます。
 しかし、前任の国境警備兵は、そのまま秋の終わりまでとどまって、十一月がすぎてから帰ります。また、翌年の春に新たな国境警備兵が派遣されます。
 そうすると、秋から冬の初めにかけて、通常の二倍の兵力が国境地帯にあることになります。つまり、今で言うところの「防秋」です。
(秋から冬にかけて国防に気をつかう必要がある理由は、次の二つです。①秋になると寒い北方では牧草が枯れてしまうので、北方の遊牧騎馬民族が牧草を求めてどっと南下してくる可能性があるから。②秋になるとすずしくなるので、北方の人たちにとっては南での軍事行動がやりやすくなるから)。

(9)
 聖人は、何をするにしても、必ず天地自然の動きにしたがって行います。ですから、「冬至の日(陰が窮まり、陽が回復し始める、陰が最大で、陽が最小の日)」には関所を閉じるのです。

(10)
 韓信が、漢王朝を創始した劉邦から「どれくらいの兵を指揮することができるか」と問われたとき、「多ければ多いほど、うまく指揮できます」と答えたのは、組織化することについて、よく分かっていたからです。

(11)
 伊川先生が言いました。
「人を統率するのにもまた、やり方というものがあるものです。ただ厳しくするだけでは、うまくいきません。今、1000人の兵隊を率いるとして、ちょうどいい時間に食事をとらせるという、たったそれだけのことをうまくできる人は、一体どれくらいいるでしょうか。
 以前、こんな話をしました。昔の話ですが、野営中の軍隊内で夜中に騒ぎが起きました。しかし、その司令官の周亜夫はベッドからわざわざ出て行ったりなどしませんでした(周亜夫は、漢王朝の将軍で、呉楚七国の乱を鎮圧するという手柄をたてた人です)。出て行かなかったのは(司令官らしく堂々としていて)よいにしても、しかし、夜中に騒ぎを起こさせるのはどういうことでしょう。この人もまた統率が十分ではなかったのです」

(12)
 天下万民の心をとりまとめ、親族のつながりを強め、社会の風潮を情に厚いものとし、人にそれぞれの祖先を忘れないようにさせるには、系図をハッキリさせ、同世代の親類どうしの横のつながりを強化し、宗法を確立することが大切です。(本註:このことは、毎年毎年のつみかさねが大切です)。
(宗法=本家のあととりを一族の長とし、その長を中心にして一族がまとまり、代々にわたって一族のつながりを維持する制度)。

(13)
 宗法(一族のつながりを維持する制度)が壊れると、人はみずからのルーツが分からなくなり、そして(まさに根無し草となって)あちこちに流転していき、ともすれば親族でありながらもお互いに知らないというようになります。
 今、試しに2、3の高官の家で宗法を行う場合、そのやり方としては、一族のつながりをしっかり守っていくことが必要です。大切なことは、唐王朝の時代になされたように一族の先祖を祭るための廟を作り、それによって先祖伝来の財産が分割相続されないようにし、一族のなかの一人にそれを管理させることです。

(14)
 一般的に、家法としては、1カ月に1回、集会を開いて(近くにいる)一族を集めることが大切です。昔、韋氏の家には、花の咲いた木の下で一族が集まるという家法がありましたが、それを見習うことです。
 一族のだれかが遠くからやってくるたびごとにもまた、集会を開くようにします。冠婚葬祭などで集まったときには、お互いにきちんとしたあいさつをかわし、親しみの気持ちをこめて交流することが大切です。
 親しい者どうしが日に日に疎遠になっていくのは、ただお互いに会わず、心が触れ合わなくなっているからにすぎません。

(15)
 冠・婚・葬・祭は大事な儀礼なのに、今の人はまったく分かっていません。ヤマイヌやカワウソでさえも祖先に感謝することを知っているのに、今の士大夫(エリート)の家の多くでは祖先への感謝をゆるがせにしています。生きている両親は大切にしても、死んでしまっている祖先を大切にしないのは、とてもよくありません。
 私は、かつて六礼(冠・婚・葬・祭・郷飲酒・士相見の六つの儀礼)を学び、そのあらましをまとめたことがあります。
 祖先を祭ることに関して言えば、次のようになっています。
 家には必ず廟を置きます。(本註:一般人の場合は、影堂を設けます)。廟には必ず位牌を置きます。(本註:先生は「高祖(自分より五代前までの祖先)以上の祖先については、別にまとめて祭らなければなりません」と言っています。位牌の形式については、先生の文集にあります。また、「今の人は、故人の肖像画を位牌のかわりに祭っていますが、ひげ一本、かみの毛一本でも故人と違っているところがあれば、それはもはや別人を祭ることであり、とてもよくありません」とも言っています)。
 月の始まりの日には、その月の旬の食べ物をお供えします。(本註:その月の旬の食べ物は、まず祖先にお供えしてから食べるようにします)。
 春夏秋冬にそれぞれ一回ずつ行われる季節ごとの祭祀には、各季節のまん中の月を用います。(本註:そのとき祭るのは、高祖だけです。高祖の兄弟のなかで、祭ってくれる子孫のいない人がいれば、その人の位牌の置き場を廟のなかに別に設けていっしょに祭ります)。
 冬至には始祖を祭ります。(本註:冬至は陽の始まりです。始祖とは史上初めて人を生んだ祖先です。その位牌はなく、廟のなかの正位に置き場を作って、死んだ父母の位牌をあわせて祭ります)。
 立春には先祖を祭ります。(本註:立春はいろんなものが生じる始まりです。先祖とは、始祖から高祖の間にいる祖先のことであり、一人というわけではありません。これまた、その位牌がありません。二つの置き場を設けて、死んだ父母の位牌を別々に分けて祭ります)。
 季秋(陰暦の九月)には亡父を祭ります。(本註:季秋とは、物を成すときです)。
 命日には位牌を家の表座敷に移して祭ります。
 以上のように、死んでしまっている祖先につかえるための祭礼は、生きている両親を大事に養うことよりも手厚くすべきようになっています。
 各家庭が以上のいくつかのことを継続して行えたなら、小さな子供にもだんだんと人のふみ行うべき礼法について分からせることができます。

(16)
『孝経』に言う「その宅兆を卜する」とは、墓地の善し悪しを選定することです。土地がよければ、祖先の霊は安らかになり、その子孫は繁栄します。
 では、どんな土地がよい土地なのでしょうか。土の色につやとうるおいがあり、草木が元気よく育っているのが、よい土地である証拠です。
 ところが、迷信深い人は、惑って、土地の方位を選んだり、日の吉凶を決したりします。はなはだしい人は、死んだ人のための墓地であるということを忘れ、どのようにして墓地を選定すれば子孫の利益となるかを考えます。これは親の喪に服する者が親の柩を安置するときに注意すべきことではありません。
 ただ、次の五つのわざわいに関しては、注意することが必要です。すなわち、他日、その土地が、①道路にされること、②城壁にされること、③堀にされること、④有力者に奪われること、⑤田畑にされること、以上の五つです。
(本註:別の文献によると、五つのわざわいは、①城壁にされること、②みぞにされること、③道路にされること、④村落にされること、⑤井戸や陶器を焼くかまどにされること、というようになっています。)

(17)
 伊川先生が言いました。
「私の家では、葬式をするときに仏教のやり方を用いず、儒学のやり方を用います。私が故郷の洛陽に住んでいたときにも、一つ二つの家が、うちのやり方に影響されて、仏教のやり方から儒学のやり方に改めました」

(18)
 現在、本家の後継者を定める慣習(宗法)がないので、政府に親子代々にわたってつかえる役人が出てこないのです。(政府に親子代々にわたってつかえる役人は、それだけ政府に親近感をもつようになるので、より懸命に公務に励むようになります)。もし宗法を確立したならば、人は祖先を尊び、根本を重んじることを知るようになります。人が根本を重んじるようになれば、天下の根本である政府の威光もおのずと高まります。
 昔は子弟が父兄に従ったものですが、今では父兄が子弟に従っています。それは根本を知らないからです。昔の例をあげてみると、漢王朝創始者である劉邦秦王朝に反抗するために沛の町を占領しようとしたとき、劉邦は沛の父老たちに投降するように求める手紙を渡しただけですが、父老たちは子弟を率いて劉邦のもとに投降してきました。また、司馬相如が皇帝の使節として蜀に行ったとき、司馬相如は蜀の父老たちに手紙を送って蜀の人たちの命令違反を責めただけですが、そうすると子弟たちもまた命令違反をしないようになりました。つまり、ただ尊属と卑属、目上と目下などといった序列があるだけで、人々は順調に従って乱れなくなるのです。(同じ集団でも、組織だっている集団は動きがスムーズですが、そうではない「烏合の衆」の場合にはまとまりが悪くなるものです)。もし人々をつなげる法がなかったなら、どうしてうまくいくでしょうか。
 それに、宗法を確立するのは、天理でもあります。たとえば、木などは、根からまっすぐ伸びている幹があり、その幹には多くの枝がついているものです。また、川などは、いくら遠くても必ず源流があるものですし、必ず本流からわかれて支流となるところもあるものです。それらは自然にそうなっていることです。(ここで言っているのは、要するに、いろんな枝も一つの幹につながっているし、支流も本流ももともとは一つの源流から始まっているように、血のつながりのある一族が一族の長を中心にして一つにまとまることは自然なことだということです)。しかしながら、枝が大きくなって幹となることもあります。ですから、古典にも記載されているように、「昔は天子が建国し、諸侯は領地を与えられて地方の王となった」という事実があるのです。

(19)
 ?和叔が明道先生のことを述べて、こう書いています。
「先生は、堯帝、舜帝、三代の王様などといった名君の政治がとても偉大で、天地と調和している理由について、すでに黙識していて、聖人たちの死滅とともに廃れてしまった礼楽や制度などの作法を復興するに至りました。(黙識=①何も言わずに心にとどめておくこと、②何も言わなくても心に分かること)。
 上は以上のような文政に関することから、下は軍隊の指揮方法や兵力の活用方法などの兵法に至るまで、研究していないことはなく、その研究はどれも十分なものでした。それ以外には、周辺諸民族の情勢、地勢や道路のようす、国境の警備状況や防衛施設やスパイ活動などの国防の要についても、よく知らないことはありませんでした。
 役人としての先生は、仕事の処理の仕方も、公文書の記載の仕方も、すべてよくゆきとどいていました。先生のような人を、万事に通じた儒学者、まったき才能のもちぬしと言うのです」

(20)
 王安石は、「『刑統(刑法とその解説)』は、全体の8割だけ正しい書物だ」と言っていますが、よく分かっています。
儒学では「本当に犯罪を防止するためには、ただ刑罰を厳しくするのではなく、教育をきちんとすることが大切だ」と考えているのですが、王安石は「『刑統』は教育のことが不十分だから不十分な書物だ」としました。)

(21)
 横渠先生が言いました。
「聖人(すぐれた人)は、兵謀(兵法・軍事作戦・軍事行動)や師律(軍法・戦時立法・有事立法)をやむをえない場合にのみ用います。その方法については、三王の記録や歴代王朝の命令書にみることができます。(三王=夏王朝の禹王、殷王朝の湯王、周王朝の文王と武王、といった昔の名君たち)。
 志士(世を正しくしようとしている人)や仁人(本当に大切なことの分かっている人)は、軍事のもつ意味について分かっており、ふだんから有事(いざというとき)に備えて軍事をなおざりにしたりしません」
儒学は、文武を本末関係に分けて言うと、文を本とし、武を末としています)。

(22)
 今の死刑のなかに肉刑(むち打ちなどの身体を傷つける刑罰)を含めれば、民衆の死をゆるめることができます。これ以上は、「為政者が道にはずれたことをしているので、長いこと人々がでたらめになっているのだ」(『論語』)ということについて思うべきです。

(23)
 呂与叔の書いた横渠先生の伝記に、以下のようにあります。
 先生は、かなりの情熱をもって昔の名君の治世のことを思っていました。そして、政治の最優先課題を論じるときには、いつも経界(井田法)のことを論じていました。
(井田法とは、周王朝の時代に行われていた、次のような土地制度のことです。一里四方の農地を井の字の形に九等分し、まんなかの一つの土地を公田とし、周辺の八つの土地を私田とします。面積はそれぞれ百畝ずつで、全体で九百畝あります。一畝は、約1.82アールです。八つある私田は八つの家で一つずつ分け、公田は八つの家で共同管理します。私田の収穫物は各家のものとし、公田の収穫物は税として政府におさめます。儒学では、この井田法を実施すれば、だれもが自分の農地をもて、小作人がいなくなるので、みんなの生活が向上して、教育が行いやすくなると考えます。)
 かつて、こう言いました。
「仁政(良心的でやさしい政治)は、必ず土地の区分から始まるものです。貧富の差があり、教育がきちんとしていなければ、政治のことを論じても、すべて空論になってしまいます。井田法の実施に否定的な人は、「井田法を実施するためには、すみやかに金持ちから土地を奪い取って、それを均等に貧乏人に与えなければならない」ということを理由にします。しかしながら、井田法が実施されたとき、それを喜ぶ人の数は多いものです。(なぜなら、現在、少数の大地主のもとで、多数の小作人たちが苦しめられているからです)。もし、井田法を実施するための計画をきちんと立て、数年の時間をかければ、一人も罰することなく、井田法を復活できます。問題があるとすれば、それは上の人の不作為だけです」
 それから、こう言いました。
「たとえ井田法を全国に実施できなくても、一地方で試験的に行うことはできます。すなわち、学者といっしょに昔の名君のやり方を研究し、共同で四千畝の田畑を購入し、それを井田法が実施できる形に区画整理します。そして、政府の税制に違反しないように気をつけながら、自分たちで①土地の区分をきちんと行い、②宅地を分け、③税を集めるルールを確立し、④貯蓄を広め、⑤学校を設置し、⑥きちんとした風俗を作ります。さらに、災害にあった人を救済し、病気になった人を援助し、根本を重視し、末節を軽視します。そうすれば、「昔の名君の残してくれたりっぱな政治の方法論をおしはかって、それを今の世に行うことは不可能ではない」ということを明らかにすることが、十分にできます」
(参考までにあげておきますと、儒学は、経済政策に関して言うと、重商主義ではなく、重農主義をとっています。つまり、生産業が根本で、流通業は末節ということです。そうする理由は、物を流通させるだけで、物を生産することがなければ、いずれは物不足となって貧困(飢餓)に苦しみ、多くの人命が失われることになるおそれがあるからだとしています)。
 先生は、以上のことをすべて実現しようとしていたのですが、ついに達成できずにこの世を去りました。

(24)
 横渠先生は、雲巖県の県知事をしていました。そのときの先生の政治は、根本的なことを重んじ、社会の風俗を善くすることを優先していました。
(根本的なことを重んじること=浮華をしりぞけ質実をたっとぶこと・生産業をすすめることなど。社会の風俗を善くすること=悪をこらしめ善をすすめること・教育をととのえることなど)。
 毎月1日には酒や料理を準備し、地域の高齢者を県庁の庭に招き、先生みずから親しく酒をすすめ、老人を養ったり先輩につかえたりすることの意味を人に知らしめました。そのついでに、住民の生活に何か困ったことはないかを聞いたり、子弟を教え導くための心がけについて話したりしました。

(25)
 横渠先生は、次のように言っています。
 昔の親族は、その居住地に、東宮をもち、西宮をもち、南宮をもち、北宮をもっていました。親族は、家族ごとに住居を別にしながらも、財産を共有していたのです。こういった礼法もまた、行うことができます。
 昔の人は、遠い先のことまでよく考えています。今のところは親類どうしがお互いに疎遠になっているように見えますが、実際にはそのようにしてはじめて末長く親類どうしがお互いに親しくつきあうことができるのです。というのも、数十人から100人くらいの大家族ともなると、おのずと衣服や飲食が一つになりにくくなるからです。(要するに、同居人の数が多くなればなるほど、みんなの意見をまとめることが難しくなるので、まとまりが悪くなってしまうということです)。
 また、親族が家族ごとに住居を別にするようにしてはじめて、子はプライベートな愛情を伸ばせるようになるので、子が自己中心になることを避けられます。子が親にプライベートな愛情をもてなければ、子たることはできないものです。(子が、その親に対して、他人に対してするのと同じようによそよそしくするなら、それはふつうではありません)。
 昔の人は、人情をよく心得ており、きっと住居を同じくしていたことでしょう。しかし、叔父や伯父がいっしょにいれば、子たる者は自分の親だけを大切にできないものですし、親たる者は自分の子だけをかまうことができないものです。(ですから、親族が同居するときには、部屋を別にするのです)。
 親と子が住居を別にするのは、役職地位のある場合です。役職地位が高くなればなるほど、住居を別にすることを厳格に守らなければならなくなります。
 ですから、親族が家族ごとに住居を別にするというのは、たとえば家族の構成員が年齢順に自室をもつようなもので、親族の縁を切って他所で他人のように暮らすことではありません。(ここで述べられているような住まい方を「累世同居」と言います)。

(26)
 天下を治めるにあたって、井田法によらなければ、結局は太平をもたらすことはできません。(すなわち、井田法の実施という一種の農地改革を行わず、大地主がのさばり小作人が苦しんでいるのを放置するなら、りっぱな治世は実現できません)。理想的な周王朝のやり方では、土地が均分されていました。

(27)
 貧民を救済できる井田法は、かつてのように封建制地方分権制)になってはじめて安定します。
(一般的に言って、中央集権制よりも地方分権制のほうが、地域に密着したよりよい地方政治を実現しやすくなるものです。ちなみに、宋王朝は州県制(中央集権制)でした)。

【第十巻 君子処事之方~りっぱな人の物事の処理の仕方】

(1)
 伊川先生の上申書に、こうあります。
「そもそも鐘は、怒った気持ちで打てば猛々しく響きますし、悲しい気持ちで打てば物悲しく響きます。誠の心が、その鐘にうつっているのです。人に何かを告げる場合も同じです。(心をこめれば相手の心に伝わりますし、心をこめなければ相手の心に伝わりません)。ですから、昔の人は、まず心身を清めてから、君主(指導者)に何かを告げたのです。
 私は前後二回ほど、皇帝陛下を教育する機会を得ることができました。そのときにはいつも、あらかじめ心身を清め、深くじっくりと思索し、誠をなくさないようにし、皇帝陛下のお心を感動させることができるようにしようと思いました。
 もし雑事にばかり奔走し、思慮を乱雑なままにして、なんの準備もせずに皇帝陛下の前に出ていって、その場でうまいぐあいに言葉を飾って、いたずらに口先だけで喜ばせようとするなら、これまたなんとも浅はかなことではないでしょうか」

(2)
 伊川は、人から頼まれてその上申書の草稿を添削し、次のように言いました。
 あなたの意見をみるに、反乱の恐ろしさに主眼を置いています。(すなわち、「困っている民衆を救済せずにほったらかしていると、民衆の反乱が起きます。そうなると、政府にとって大きな損害となります。ですから、政府は、困っている民衆を救済したほうが得です」と主張しています)。私は、あなたが(あなたの上申書において)、民衆を愛することを第一とし、多くの人々が飢えて今にも死にそうであることを力説し、政府の慈悲を求めること望みます。そのついでに(困っている民衆を救済しなければ)反乱が起きるだろうと言って政府を恐れさせるのなら、かまいません。ただ君主(指導者)に対して意見する方法がそのようであるだけでなく、事のなりゆきに対してもそのようにすることです。(儒学では、利害で動くのではなく、良心で動くことを尊重しています)。
 あなたは困っている民衆を救済するために政府から資金を調達しようとしています。このとき(たとえば、「多くの民衆が飢えて苦しんでいるというのに、みなさんは人としてそれを黙ってみていていいのでしょうか」と言って)仁愛(やさしさ)をもって指導者側に援助を求めれば、指導者側は金銭を軽んじて民衆を重んじるようになります。反対に(たとえば、「困っている民衆を救済せずに反乱をまねけば、政府は大損しますよ」と言って)利害をもって指導者側を脅せば、指導者側は金銭を頼みにみずからを保全しようとするでしょう。
 聖人(すぐれた人)たちのいた時代では、民衆に慕われると天下の指導者となれたものです。しかし、聖人たちのいなくなった後世では、武力で民衆を制圧し、金銭で家来を集めます。そして、「金銭をかせげる人間こそが、治安を維持できるのだ。民生の安定を第一に考える人間は、世間の実情を知らないのだ」とします。しかし、大切なことは、ただ誠の心によって指導者側を感動させて、指導者側が思いやりの心を発揮してくれるように願うことです。

(3)
 明道が県を治めていたとき、民事行政に関しては、「法律にしばられているので何もできない」と言っている人たちが多くいました。しかしながら明道は、人ができないと言っていることでも平気でやってのけ、しかも法律とまっこうから対立することはありませんでした。人もまた、このことをそれほど驚きませんでした。
 これを「明道は(権威を恐れることなく)思いのままに行動できた」と言うのなら、それはまちがいです。よりよい行政を行うために法律をうまいぐあいに使うことができたことなら、今の為政者のだれよりも格段に勝っています。
 人は明道のことを、変わっていると思っても、狂人あつかいしたりはしませんでした。明道のことを狂人と言う人がいるとすれば、それは大変な驚きです。ただ誠をつくして事を行って、それが受け入れられなければ、そこから立ち去るだけです。どうして(「法律のせいで何もできない」と)文句を言ったりする必要があるでしょうか。

(4)
 明道先生が言いました。
「いちばん下の役人でも、もし万物を愛することを心がけていれば、人に対して必ず何らかの貢献ができるものです」

(5)
易経』にある「訟(争いごと)」の説明に、「天は上に、水は下にというように、天と水とが違い行くのは訟です。君子(りっぱな人)は、何か事をなすにあたって、始めを謀ります」とあります。それに関して伊川先生が、こう言いました。
「君子は、「天と水とが違い行く」姿をみて、人情の常として争いごとがあるようになっているのだということを知ります。ですから、何かを始めるにあたっては、必ず最初によく考えます。最初にあとあとの争いごとの原因となりうるものを除去しておけば、争いごとは起きようがありません。「始めを謀る」の意味は広いものです。たとえば、人との交際を慎重にしたり、売買契約の証書をきちんと作ったりすることなどが、この「始めを謀る」にあたります」

(6)
易経』にある「師(軍隊)」の部分説明(爻辞)の二番目(二爻)に「軍隊にいて中であれば、吉であり、とがめはない」とありますが、それは軍隊の指揮官のことを言っています。
 断固として自分の思うままに権力をふるっていると、一国の指導者の部下としては失格です。しかし、断固として自分の思うままに権力をふるわなければ、当然のことながら部下を率いてもうまくいきません。ですから、中(過不足なく適当であること)を吉としているのです。
 一般的に言って、軍隊の指揮官のあり方としては、威厳(かたさ)と和順(やわさ)とを両立させることができれば、吉となります。

(7)
 周王朝を創始した武王の弟であり、その部下でもあった周公を祭るのに、周公の子孫が周王朝の王様から特別の許しを得て「王様を祭るための礼法」や「王様を祭るための音楽」を用いたことについて、世間の儒学者たちは、こう言っています。
「武王の部下として働いていた周公は、周王朝の設立にあたって、ふつうの部下にはできないような、すばらしい功績を残したので、王様のための礼法や音楽を周公を祭るために使うことが許されたのだ」
 しかし、そんなことを言うのは、部下としてのあり方を知らないのです。人はだれでも、周公と同じ位置にいれば、周公と同じことをするものです。その位置にいることによってできることはすべて、その位置にいる者が当然なすべきことです。(たとえば、人ならば人らしくし、大人ならば大人らしくするのは、あたりまえです)。周公は(別に何か特別なことをしたわけではなく)自分のいる位置に応じて自分の当然なすべきことをしたにすぎません。

(8)
易経』にある「大有(たくさん保有(もちもの)していること)」の部分説明(爻辞)の三番目(三爻)に、「諸侯が天子に通す。小人にはできない」とあります。これに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「その三番目は、たくさん保有(もちもの)しているときにあたり、諸侯の地位にいて、その財物(財力)の豊かさを保って、必ず天子にいきつくようにすることを表しています。これは諸侯の保有(もちもの)を天子の保有(もちもの)にすることを言っているのです。このことは、臣下にとって常識的なことです。
 もし小人(つまらない人)が諸侯の地位にいたなら、その豊かな財物(財力)をまったく私物化して私腹を肥やします。公人らしく私欲をすて公益を考え天子に奉ずるやり方を知りません。ですから、「小人にはできない」のです」
(諸侯とは、今風に言えば地方自治体の長のことです。諸侯は、天子によって任命されます。諸侯は地方をまるごとまかされているので、その点からすれば保有(もちもの)がたくさんあると言えます。しかし、地方は天子のもちものなのですから、天子につかえる者は、地方のもつ財物や財力を私物化して私腹を肥やしてはならず、天下万民の親たる天子の名を汚さないように公益をはからなければなりません。ここで言っているのは、そういうことです)。

(9)
 人の心が従うのは、たいてい自分の好いているものです。ふつうの人の心情として、それが好きであればそれの美点(長所)を見るし、反対にそれが嫌いであればそれの欠点(短所)を見るものです。ですから、愛する妻や子の意見であれば、たとえそれがまちがったものであっても、それに従ってしまいがちとなり、反対に憎たらしい者の意見であれば、たとえそれが正しいものであっても、それを悪いものとしてしまうのです。もし自分の好感を基準にして自分の従う相手を決めるとしたら、それはまさに私情であって、どうして理()にかなうことができるでしょうか。ですから、『易経』にある「随(従うこと)」の部分説明の最初(初爻)に、「門を出でて交際すれば、すなわち功あり(自分の立場にこだわらずに交際すれば、よい成果を得られる)」とあるのです。

(10)
易経』にある「随(従うこと)」の部分説明(爻辞)の五番目(五爻)に、「誠意をもって善きに従うのは吉である。それは、その位置が正であり中であるからだ」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「従うときには、中(過不足なく適当である状態)にあることを善とします。従うときに気をつけなければならないことは、過剰です。というのも、心から喜び従っている場合、従い過ぎが分からなくなるからです」

(11)
易経』にある「坎(困難や苦境におちいること)」の部分説明(爻辞)の三番目(三爻)に、「飾り気のないそぼくな方法を用いる。相手の分かりやすいところから意見を述べる。最終的には、とがめなし」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。                     
「これが言っているのは、「臣下(部下)は、忠(真心)と信(信実)にもとづく善導によって君主(上司)に心から分かってもらうにあたっては、必ず君主のハッキリとよく分かっているところから話を始めるようにすると君主を納得させることができる」ということです。
 人の心には、覆われたところ(不明瞭でよく分かっていないところ)もあれば、通じたところもあります。通じたところというのは、ハッキリとよく分かっているところのことです。当然、相手がハッキリとよく分かっているところから話を始めて、相手に自分の言っていることを信じてもらおうとするなら、信じてもらうのが容易になるものです。ですから、「相手の分かりやすいところから意見の述べる」とあるのです。そのようにすることができれば、たとえ自分が危険な立場にあったとしても、とがめられることはありません。
 たとえば、君主の心が頽廃的な歓楽によって覆われている場合、その弊害として頽廃的な歓楽になじんでしまうだけです。いくら熱心に頽廃的な歓楽のまちがいをとがめたとしても、君主の反省のなさをどうすることもできません。そこで、君主の覆われていないところ(君主のハッキリとよく分かっているところ)から筋道を立てて話していき、君主のハッキリとよく分かっていないところに行き着くようにすれば、君主を悟らせることができます。
 昔から、君主を諌めることのできる人は、必ず君主のハッキリとよく分かっているところから始めたものです。ですから、君主を諌めるにあたって、「訐直強勁なる人(相手の悪をあばきたてて善人ぶり、強気で相手の悪を責め立てる人)」は、たいてい君主から逆らわれる結果に終わり、「温厚明弁なる人(温厚な性格で、道理をハッキリとわきまえている人)」は、たいてい君主に受け入れられるのです。
 以上のようなことは、ただ君主に意見する場合だけでなく、人を教育する場合にもあてはまります。そもそも教育は、必ず人の長じているところから始めるものです。長じているところとは、ハッキリとよく分かっているところのことです。教育では、相手のハッキリとよく分かっているところから話を始めて、そこから相手のハッキリとよく分かっていないその他のことに話を進めていくものです。孟子の言う「徳を成し、財を達す(その人が本来もっている良ささを完成させ、その人の才能を伸びるところまで伸ばさせる)」とは、このことを言っているのです」

(12)
易経』にある「恒(つねに変わらないこと)」の部分説明(爻辞)の一番目(初爻)に「原則にこだわっている。正しい意図をもっていても、よくない」とあり、その解説に「原則にこだわるのがよくないのは、はじめから人に対して原則に従うように求めることが深いからだ」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「『易経』における各説明の配置の仕方のルールからみて、一番目と四番目とは、正しい関係にあり、原則として相互に応じあうものです。しかし、「恒」の場合、内容的にみると、一番目は柔弱で下位にあり、四番目は剛健で上位にあります。また、一番目と四番目との間には二番目と四番目があり、一番目と四番目は隔絶しています。ですから、一番目と四番目とは応じあえなくて当然なのですが、一番目はいぜんとして四番目が応じてくれることを求め望んでいます。これは「常(原理原則)」を知っていても、「変(臨機応変)」を知らないのです。世間の人のなかで、前からの原則に違わないことを厳しく求めて、結果的に後悔したり、失敗したりしてしまうことになるような人は、すべて「原則にこだわる」の人です」

(13)
易経』にある「遯(逃れること)」の部分説明(爻辞)の三番目(三爻)に、「つなぎとめられている。病気になったように危険である。男女の使用人を雇うのには吉である」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「私的な恩情で相手を自分につなぎとめること(すなわち、相手をかわいがることで、その相手が自分になつくようにすること)は、男女の使用人を自分になつけさせるための方法です。ですから、「男女の使用人を雇うのには吉」なのです。しかしながら、君子の小人への対応の仕方は、そのようではありません」

(14)
 『易経』にある「?(背き離れること)」の説明のところに、「君子は、同じであり、異なっている」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「聖人や賢人の生き方は、時と所に関係なく人としてつねに大切なことについては、協調的にみんなと同じ道を進みます。しかし、みんなが人として恥ずべきことをしているときには、ひとり孤独にみんなとは異なった方向へ進みます。(時と所に関係なく人としてつねに大切なことについて)協調的にみんなと同じ道を進むことができない人は、平和な日常を乱し、理(道理)に反する人です。(みんなが人として恥ずべきことをしているとき)ひとり孤独にみんなとは異なった方向へ進むことのできない人は、迎合的で、人の尻馬に乗って平気で悪事を行う人です。大切なことは、同じであって、しかも異なることができることです」

(15)
 これは、『易経』にある「?(背き離れること)」の部分説明(爻)の最初(初爻)に関する話です。背き離れる雰囲気があり、徳を同じくする者(りっぱな人たち)どうしは仲良くしているものの、小人(つまらない人)にはお互いに反目しあっている者たちがたくさんいます。
 そんな小人たちを突き放したりするのは、天下の人間すべてを君子(りっぱな人)の敵にまわすようなものです。このようであれば、君子らしい広い心を失ってしまい、凶咎(わざわい)をもたらすことになります。さらにどうして不善の者を感化し、君子の同類とさせることができるでしょうか。
 ですから、「悪人を見れば、とがめなし」なのです。(ここで言う「見る」とは「仲間として受け入れる」ということです)。昔の聖王が姦凶(わるもの)を感化して善良(よいもの)となし、仇敵(敵)を変革して臣民(味方)となすことができたのは、突き放したりすることがなかったからなのです。

(16)
 これは、『易経』にある「?(背き離れること)」の部分説明(爻辞)の二番目(二爻)に関する話です。ふつう君主(指導者)と臣下(部下)とは心をあわせることができるのですが、この場合には背き離れる雰囲気があり、いまだ君主の心が臣下の心にあわさっていません。すぐれた臣下は、目立たないところにいて、力をつくし、誠をつくして君主のもとで働き、君主から信頼されようと願っているだけです。①誠をつくして君主の心を動かし、②力をつくして君主を支え助け、③義理(物事の道理)を明らかにして君主の知(ちえ)を致(のば)し、④蔽惑(心を曇らすもの)をとりはらって君主の意(心の動き)を誠にします。このように事細かにして、指導者と心をあわせることができるようにしようとするのです。「遇(あう)」とは、道理をまげてへつらうことではありません。「巷(みち)」とは、ズルして近道すべきものではありません。ですから、二番目の解説に「主に巷で遇うとは、いまだ道にはずれていないのだ」とあるのです。

(17)
易経』にある「損(へらすこと)」の部分説明(爻辞)の二番目(二爻)に、「こちらを損なうことがなければ、相手を益する」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「自分の剛(つよ)さと貞(ただ)しさを損なうことがなければ、自分の上司を益することができます。もし自分の剛(つよ)さと貞(ただ)しさをなくして柔順と迎合を用いるなら、それはまちがいなく相手を損なうことになります。世間の愚か者は、邪心はないものの、ただ力をつくして上司に対して柔順であることを「忠」だとしています。思うに、「こちらを損なうことがなければ、相手を益する」の意味が分かっていないのです」
(自分を曲げて上司にこびへつらう部下よりも、自分を曲げることなく正直に上司を諌める部下のほうが、上司にとって貴重な存在となるものです。もっとも「忠言、耳に逆らう」ものなので、上司は部下の諌言をけむたがるかもしれませんが)。

(18)
易経』にある「益(増すこと)」の部分説明(爻辞)の最初(初爻)に「大事業を行うのによい。大吉であって、とがめなし」とあり、その解説に「大吉であってとがめがないのは、下が厚事に手を出さないからだ」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「下にいる人は、もともと厚事に手を出さないものです。厚事とは、重大事のことです。下にいる人は、上にいる人から任されたからこそ、大事を担当するのです。そのときには、必ず大事をなしとげて大吉の結果をもたらすことができてはじめて、「とがめなし」となります。大吉の結果をもたらすことができたならば、上にいる人は、仕事を任せることによって有能な人材を発掘できたことになりますし、下にいる人は、仕事に当たることによって自分の能力を発揮できたことになります。そうでなければ、上にいる人も、下にいる人も、みんな「とがめあり」になります」

(19)
 改革してあまり効果がなければ、後悔してしまうものです。ましてや改革して反対に害悪をもたらしてしまった場合には、なおさらのことです。ですから、古人(昔のすぐれた人)は、すべてを新たに作り直すことに対して慎重な態度をとったのです。
儒学は、革新主義でもなければ、保守主義でもなく、漸進主義をとっています。漸進主義というのは、じょじょに社会をよくしていこうとする主義のことです)。

(20)
易経』にある「漸(じょじょに変化すること)」の部分説明(爻辞)の三番目(三爻)に、「悪を防ぐのによろしい」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「君子(りっぱな人)と小人(つまらない人)とが一緒にいるとき、君子が自分をしっかり保つために正しいことをすることは、ただ君子が自分をしっかり保てるだけでなく、小人を非道に陥らないようにさせることもできます。これは、道(道理)に従うことで互いに自分を保ち、悪くなるのを防止するということです」

(21)
易経』にある「旅(旅行すること)」にある部分説明(爻辞)の最初(初爻)に、「旅のさなか、こせこせしている。それはわざわいを招くもとになる」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「心がけの卑しい人は、旅をしていて困ったことになると、ひわいなこと、せこいこと、何でもかんでも平気でやってのけます。それはまさに後悔や恥辱をもたらしたり、災難や非難をまねいたりする原因となります」

(22)
 旅をしているときに、いばりちらして高慢な態度をとることは、困難や災難をもたらすことになります。

(23)
易経』にある「兌(喜ぶこと)」の部分説明(爻辞)の最後(上爻)に「引いて喜ぶ」とあり、その解説に「いまだ光らず」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「喜びは終息へと向かい始めているのに、さらに喜びを引き延ばしています。心の喜んでいる状態は続いたとしても、客観的には喜ぶべきではなくなっていて、しかも、実際に喜ばしいこともなくなっています。
 事が盛んなときには光輝(かがやき)があります。(たとえば「がんばっている人は輝いて見える」といった類いのことです)。しかし、すでに終息へと向かい始めているのに、それをむりやりに引き延ばすのは、とても無意味なことです。どうして光輝(かがやき)があるでしょうか」

(24)
易経』にある「中孚(内に誠があること)」の説明に、「君子(りっぱな人)は裁判をして死罪をゆるくする」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「君子は、次の二つのようにします。①訴訟の内容を審理するときには、忠(まごころ)をつくすだけです。(すなわち、自己の良心にのっとって理にかなった審理を進めます)。②死刑の判決を下すときには、惻(あわれみ)をつくすだけです。(すなわち、どう考えても死刑判決を下さざるをえないので死刑判決を下すのです)。君子は、何をするにしても忠をつくさないことはありませんが、「裁判をして死罪をゆるくする」場合には、特にそうします」

(25)
 物事には、時にいつもよりもやり過ぎるのがちょうどいい場合があります。(たとえば、ラストスパートをかけること)。それは時宜にかなうようにするためです。
 しかしながら、大いにやり過ぎてはいけません。たとえば、(行動において)いつもよりきちんとすること、(葬式において)いつもより深く悲しむこと、(消費において)いつもより倹約することなどの場合、大いにやり過ぎるのはよくありません。(きちんとしすぎると窮屈となるし、深く悲しみすぎると無気力となるし、倹約しすぎるとケチとなるものです)。
 ですから、(『易経』にある「小過〔少し過ぎること〕」の説明では)少しやり過ぎることを時宜にかなうこととしているのです。時宜にかなうことができれば、大吉です。

(26)
 小人(つまらない人)の害を防ぐ方法は、まず自分を正しくすることです。

(27)
 りっぱな補佐役だった周公は、とても公正で私心がなく、出処進退が道理にかなっていて、利欲に心を曇らされることがありませんでした。
 身を修めるにあたっては、つつましくして、つねに恭(きちんと)し、畏(ようじん)するように心がけました。(恭=外見をきちんとすること。畏=心がダメにならないように用心すること)。
 誠をなくさないようにするにあたっては、ゆったりとかまえて、神経質にならないようにしました。
 ですから、疑惑をもたれて窮地に立たされても、聖人らしさをなくさずにいることができたのです。『詩経』では、そんな周公のことをこう言っています。
「自分の地位を鼻にかけたり、自分の美点をひけらかしたりせず、ふるまいがきちんとしていて、おちついている」
(周公は、周王朝を創始した武王の弟で、武王をよく補佐しました。そして、武王の死後、武王の子で、まだ幼かった成王を補佐しました。しかし、「周公は王位を奪おうとしている」と思われて、いろいろと苦労しました)。

(28)
 採察(民情の調査)や求訪(人材の発掘)は、使臣の大事な任務です。
(使臣=指導者が、天下万民が困っていないかを知ったり、有能な人材を得たりするために各地に派遣する使者)。

(29)
 明道先生は、王安石の学問のまちがいについて、呉師礼と論じあいました。そして、呉師礼に、こう言いました。
「お手数ですが、ここでした話をすべて、王安石に伝えてください。私も自分の意見が絶対に正しいとは思っていません。もし王安石に意見があるなら、意見の交換をしたいのです。これは客観的に論じるべき問題で、相手とか自分とかいった主観にとらわれるべきものではありませんからね。もし(お互いに非難しあうのではなく客観的に論じあうことで)事の是非をハッキリさせることができたなら、王安石のためにならないときには、必ず私のためになるでしょう」

(30)
 竹林を管理する役所の所長をしていた張天祺(張横渠の弟)は、いつも一人の管理職の役人をかわいがっていました。
 人事異動のとき、張天祺は、その管理職の役人が工芸用の竹の皮を盗んでいるのを見ました。しかし、張天祺は、その管理職の役人をきちんと罰して罪をつぐなわせ、見て見ぬふりなどしませんでした。
 しかし、罪をつぐなわせたあとには、その管理職の役人をこれまでどおりにかわいがり、過去に犯した罪のことは少しも気にしませんでした。
 張天祺の人徳や度量は、このようなものでした。(「罪を憎んで人を憎まず」)

(31)
 あるとき、「何かものを言おうとしながら、ためらってなかなかはっきりと言わない」という話が出たついでに、次のような話がなされました。
「言うべきときなら、たとえ相手の首を要求するのであっても、はっきりと言うべきです。(本註:たとえば、荊軻が、始皇帝の暗殺に向かうとき、始皇帝を油断させるために樊於期の首をもっていこうと思って、樊於期に「首をくれ」と言ったようにします)。大切なことは、「その言葉を聞くと、ハッキリと言い切っている」(『論語』)というようにすることです」

(32)
 大切なことは、(たとえば実践などを通じて)具体的に学べることです。たとえば、『易経』にある「蠱」の説明に「民を救い、徳を養う」とありますが、具体的にどうすればよいかを知ることができてはじめて、そのようにすることができるものです。書物を読むことだけが学問ではありません。

(33)
 先生は、ある学者(学生)がせわしくしているのを見て、その理由をたずねました。すると、その学者(学生)は、こう答えました。
「多くの仕事をかたづけたいからです」
 それに対して先生は、こう言いました。
「私は、仕事をさぼりたいわけではありませんが、いまだかつてあなたのようにせわしくしたことはありませんよ」

(34)
 胡安定(胡?)のところにいる門人たちは、「古典に学ぶこと」や「民を愛すること」をつねに忘れません。そうである以上、うまく政治を行うことができるでしょう。

(35)
 門人の質問。「①人と一緒にいて、その人のまちがいに気づいたとき、それを言って教えてあげなければ、なんだか心がおちつきません。②しかし、言って教えてあげても、相手が受け入れてくれないときには、一体どうすればいいのでしょうか」
 先生の返答。「①人と一緒にいて、その人のまちがいを言って教えてあげないのは、忠ではありません。②そして、言って教えてあげる以前から、誠の心をなくさずに相手と交際するようにしていれば、相手は自分の言うことを信じるようになるでしょう」
 さらに、先生はこう言いました。「正しいことをするように相手に求めるにあたって、誠を多くし、言葉を少なくするようにすれば、言われた相手にとっては(すなおに悪い点を改善できるようになるので)益がありますし、言った自分としては(せっかくの忠告を無視されずにすむので)恥をかかずにすみます」
(「忠言、耳に逆らう」ものですが、しかし「至誠、天に通ず」るものです)。

(36)
 自分の職務としてなすべきことは、たくみにずるけてはいけません。

(37)
「その国にいるときには、その国の有力者の悪口は言わない」といった理屈は、なかなかいいものです。

(38)
 小事に励むのは、かなり難しいものです。

(39)
 重大な任務をうけもつにあたって大切なことは、他者への思いやりがあり、しかも誠実であることです。

(40)
 一般的に、人に意見する場合、理性的であれば事がハッキリします。しかし、感情的であれば相手を怒らせます。

(41)
 今という時代に生きていて、今の法令に安んじないのは、正しくありません。政治について論じる場合、政治にかかわらないのなら話は別ですが、もし政治にかかわるのなら、今の法律の範囲内において当を得た処置のできることが大切であり、そうしてはじめて正しいと言えます。もし今の法令を改めてから行動するようにするなら、それに一体どんな意味があるのでしょうか。

(42)
 最近の中央政府から地方政府に派遣される監察官は、地方政府との協力体制をとれていません。監察官はただ地方政府の不正を探り出そうとするだけですし、地方政府はただ監察官に実態を知られないように隠そうとするだけです。誠の心を発揮して「ともに協力しあって、よりよい地方政治を実現していこう」とすることなど、まったくできていません。
 監察官は、地方政府に不十分な点があれば、教えられることは教え、正せることは正し、そして監察官の命令に地方政府側が従わないということになったときには、命令違反のひどい者を選び出して一人、二人を免職処分に処して、役人たちを十分に戒めるようにするといいでしょう。

(43)
 伊川先生が言いました。
「人は、処理しなければならない俗事が多くて忙しいことを嫌がります。人によっては、そのために憂鬱になります。しかし、俗事が多いといっても、それらはすべて人のなすべきことです。人のなすべきことを人にさせないのなら、いったいだれにさせるのでしょうか」

(44)
 感情的になって命をなくすのは容易です。しかし、ゆったりとかまえて義(ただしさ)にのっとって生きるのは難しいものです。

(45)
 人があるとき、地位の高い人に対して礼を加えることを先生にすすめました。それに対して先生は、こう答えました。
「どうしてあなたは、礼をつくすことではなく、礼を加えることを私に求めるのですか。礼というものは、つくせばそれで十分です。どうして加える必要があるでしょうか」
(「自分のすべきことをすること」を「礼をつくす」と言い、「相手にこびを売ること」を「礼を加える」と言います)。

(46)
 ある人の質問。「主簿(書記官)は県令(県知事)の補佐役です。主簿のしたいと思うことを県令が承認しないときには、一体どうすればいいでしょうか」
 先生の返答。「誠の心によって県令を動かすことです。(至誠、天に通ず)。もし県令と主簿の仲が悪いとしたら、それはお互いに私意でぶつかりあっているにすぎません。県令は県の長です。そこで父兄につかえるのと同じやり方で県令につかえるようにして、過失があれば自分の責任とし(①)、善政があれば県令の功績とします(②)。こんなふうに誠の心をつみかさねていれば、どうして人(県令)を動かすことができないことがあるでしょうか」
(文中の①は、「県令を補佐すべき立場にある自分が補佐役らしく県令をきちんと補佐できなかったからこそ、このような過失をまねいたのだ」と自分を反省することです。
 文中の②は、「県政を指導すべき立場にある県令が指導者らしく県政をきちんと指導できたからこそ、このような善政を実現することができたのだ」と県令を立てることです。
 このように良心的にふるまうのは、儒学の考えによるなら、人間の本当の心にあっています。なぜなら、人間の本当の心は、悪心ではなく良心だからです(性善説))。

(47)
 質問。「人は、議論しているとき、たいてい自分の意見が正しいとしたがり、相手の意見を受け入れる気がありません。これは気質が平らかではないからでしょうか」。
 返答。「もちろん気質が平らかでないのですが、度量の小ささもあります。
 人の度量は見識が高くなるにつれて大きくなっていくものですが、見識は高いのに度量は小さい人もいます。それは(表面的には見識が成熟しているように見えても)実際には見識が未熟なのです。(ここで言う見識が高いとは、道理(天理)がよく分かっていることを指します)。
 たいてい見識と度量以外のことは、何とか無理がきくものです。しかし、見識と度量だけは、どうにも無理がききません。(見識や度量があるふりをしても、すぐにぼろが出てしまいます)。
 現在、茶碗の度量の人、お釜の度量の人、釣鐘の度量の人、大河の度量の人などがいます。大河の度量ともなると、大きなものです。しかしながら、大河にも限りというものがあります。限りがあれば、ときには満杯になることもあります。
 ただ天地の度量だけは、満杯になりません。ですから、聖人は、天地の度量なのです。聖人の度量は、道理(天理)です。一般人の度量は、生まれつきです。生まれつきの度量は、有限なものです。たいてい私たちがもって生まれてくるちっぽけな身体には、それに応じたちっぽけな力量しか備わっていないものです。限界がこないようにしようとしても、それはできません。
 たとえば、その昔、魏王朝につかえていた鄧艾は、70歳のときに政府の重職についたのですが、そのふるまいはとてもよいものでした。ところが、蜀漢国を打ち破ることに成功すると、それまでとはうって変わって悪くなってしまいました。
 また、東晋王朝につかえていた謝安は、知人と囲碁をしていたとき、おいの謝玄が苻堅のひきいる前秦国軍を撃退したという報告を聞いたのですが、これといって特に喜んだりしたりなどしませんでした。ところが、部屋に戻るときに思わずウキウキして不注意となり、ゲタの歯を折ってしまいました。最後まで無理を押し通すことができなかったのです。
 さらに例をあげると、酒に酔えば酔うほど(人に迷惑をかけないようにと)ますます慇懃(つつましい)になる人は、いつもと変わってしまっています。酔うと無礼(だらしない)になる人とは違うにしても、酒に動かされている点では同じです。
 また、位が高くなれば高くなるほど(人に威圧感を与えないようにしようと)ますます謙虚になる貴公子は、いつもと変わってしまっています。地位が高くなると傲慢になる人とは違うにしても、地位に動かされている点では同じです。
 しかしながら、道理(天理)を知っている人だけは、おのずと度量が広大になり、無理をしなくても広大な度量のもちぬしとしてふるまうことができます。最近の人が偏見をもっているのは、ほかでもなく、これまた見識や度量が不足しているのです。(偏見をもっているとは、たとえば学閥や宗教団体に所属する人たちのように、自分たちの立場からしか物事を見ようとせず、相手の意見にまったく耳を貸さないことです)」

(48)
 人に少しでも「公正にしよう」という意志があれば、それはもはや私心です。(自然にせず、作為すると、誠ではなくなります)。
 かつて政府で人事の仕事をしていたAさんは、自分の子供が人事異動の対象となったときには、その決定にまったく関わらないようにしました。(つまり、Aさんは、「自分が人事異動の決定に関与していて、自分の子供の昇進が決定したときには、人から「Aは自分の子供が昇進できるように便宜をはかったに違いない」と疑われる心配がある。そして、そんな心配があると、人事異動の決定に際して公正にふるまいにくくなる。だから、自分の子供の人事異動の決定には関わらないようにしよう」と考えたわけです)。これこそがまさに私心です(Aさんには、あれこれよけいな心配をするという作為があります)。
「昔は、「まっすぐなことをし、人から疑われる心配をしない」ということができた。しかし、今ではそうではなくなった」という人がいますが、これはそうする人がいないというだけで、時代には関係のないことです。
(本註:この話のついでに「少師が身内とか他人とかいった区別にとらわれずに人事異動の決定に関わっていたこと」や、「程明道は政府に人材を推薦するにあたって、弟の程伊川を推薦したこともあったこと」などについても話がなされました)。

(49)
 司馬光が、かつて先生にたずねて言いました。
「給事中(皇帝の秘書官)を一人ほど採用したいのですが、だれか適当な人物はいませんか」
 先生は言いました。
「初めにもし人材について広く全体にわたって論じるのでしたら、言うことができました。しかし、今、あなたからそのような話を聞いた以上、私が適任者を知っていたとしても、その名を言うわけにはいきません」
 司馬光は言いました。
「あなたの口から出て、私の耳に入るだけですから、別にかまわないでしょう」
 しかし、先生は結局、何も言わないままでした。

(50)
 伊川先生が言いました。
「韓持国ほど義(ただしさ)に忠実な人は、なかなか得られません。
 ある日、私は、韓持国や范夷叟たちと一緒に、潁昌にある西湖で船遊びをしていました。まもなく取次役の人がやって来て、范夷叟に会いたいという役人が来たと伝えました。私は、何か緊急の公用ができたのだろうと思っていたのですが、その役人は自分を売りこみに来ただけでした。
 私が范夷叟に「あなたが高い地位にいて、別に人材を求めていないのに、むこうから自分を求めさせようとするというのは、一体どういう了見なのでしょう」と言うと、范夷叟は「ただあなたが道理にこだわりすぎているだけですよ。自分を売りこんで推薦状を求めるのは、ありふれたことですからね」と答えました。
 そこで私は「それはまちがっています。(たとえ有能な人間であっても)求めない者には与えないし、(たとえ無能な人間であっても)求める者には与えるといった不条理なことをしていたから、ついに人をそのようにしてしまったのです」と言ったのですが、すると韓持国は私に賛成しました」

(51)
 話のついでに先生が言いました。
「私は現在、本庁の職員をやっていますが、あのことだけは決してできません。すなわち、本庁の役人は(支庁にいる高級官僚に気兼ねして)本庁から支庁へも上申書を出していますが、私はそのような公文書に署名することなどで        きません。
 本庁は中心で、支庁は周辺です。支庁に何かあれば、支庁から本庁へと上申書を出すべきであって、本庁から支庁へと上申書を出す道理はありません。これまでの人が、ただ利害を考えるだけで、物事の本質(組織の秩序)を考えないから、このようなことになってしまったのです。
 大切なことは、『論語』にある話のなかで聖人(孔子)が名を正そうとしたところをみて、聖人(孔子)が「名が正されないときには、礼楽は盛んにならない」と言ったことについてきちんと理解することです。(名を正すこと=たとえば父は父らしく、子は子らしく、人は人らしくというように、「らしさ」を大切にして、各人に自分にふさわしいことをさせること)。そうすれば、おのずと従来どおりではありえなくなります」
(たとえば、上司が部下のようにふるまい、部下が上司のようにふるまうなら、その政府機関の秩序はむちゃくちゃになって、結果、その治世もむちゃくちゃになってしまうものです。そうなれば、天下万民は困苦してしまいます。)

(52)
 学ぶ人は、世の中のことに通じていなければなりません。天下のことは、たとえば家事のようなものです。自分がしなければ相手がしますし、AがしなければBがします。(すなわち、だれかが必ずしなければなりません)。

(53)
 人は、「遠い先のことを考えていなければ、近く憂いにみまわれる」(『論語』)ものです。思慮は、現象をこえていなければなりません。
(現象をこえるとは、「今」「ここ」にある一時の現象に惑わされずに、「今」「ここ」にとらわれない時間的にも空間的にも広い視野をもつことです)。

(54)
 聖人(すぐれた人)が人を責めるときには、つねにゆるやかです。すなわち、聖人は、事の正しいことを望むだけで、人の過失や悪事をあばきたてる気はもうとうないのです。

(55)
 伊川先生が言いました。
「今の地方公共団体の長は、民衆の財産をコントロールすることはできません。しかし、その他のことは、現行の法律の範囲内において、いろいろと行うことができます。心配なのは、役人がしようとしないことだけです」
(民衆の財産をコントロールすること=たとえば大地主から土地を収用したり、小作人に土地を配分したりなどして、人々の生業を安定させること。つまり、経済政策)。

(56)
 明道先生が県知事をしていたとき、明道先生が座るところにはどこにも、「民をみること、傷むがごとし(病人を看護するように民衆をいたわる)」という言葉が書いてありました。そして、明道先生はいつも、こう言っていました。
「私は、この言葉をみるたびに恥ずかしく思うよ」

(57)
 伊川は、門人たちがその先輩たちの短所について話しているのを見かけるたびに、「君たちは、そんなことをするよりも、その長所を取りなさい」と言いました。

(58)
 劉安礼が言いました。
王安石は、政治の実権を握ると、法律を改変しました。反対派は、それに対して力の限り反抗していました。
 明道先生はかつて、招集を受けて中堂で開かれた会議に出席したことがありました。王安石は、反対派に対して怒っていたので、厳しい顔色で反対派に属する先生に対応しました。
 それに対して先生は、ゆるやかに言いました。
「天下の問題は、私的な問題ではありません(公的な問題です)。どうか気を平らかにして(私的な感情をおさえて)聞いてください」
 そう言われた王安石は、恥じ入りました」

(59)
 劉安礼が、役人として民衆を治める方法について質問すると、明道先生は、こう答えました。
「民衆が役所の上層部に対していろんな請願をすることができるようにすることです」
 続いて、上司として役人を統べる方法について質問すると、こう答えました。
「自分を正しくすることで相手を感化して相手を正しくすることです」

(60)
 横渠先生が言いました。
「一般的に、人の上につくことは簡単ですが、人の下につくのは難しいものです。しかしながら、人の下につくことができなければ、下の人を使うこともできないものです。それは、下の人の実情がよく分からないからです。たいてい人を使う場合、それ以前に自分がそれを経験していれば、人を使うことができます」

(61)
易経』にある「坎(苦しみが次々とやってくること)」の説明には、「心に曇りがない」ので、「進んで行けば成功して人々の尊敬を受ける」といったことが述べてあります。
 困難だらけの状態にあって次から次に困難にみまわれたとしても、もしそんな状況のなかにいて心に曇りがなく迷いがなければ、どんなに難しくても必ずのりこえることができ、(どんな困難にもめげずにまっすぐに)進んで行って成功します。
 今、水がとても高い山のてっぺんにあるとして、その水を下らせようとすれば下っていきますし、それを邪魔するものは何もありません。それと同じように、ただ義理(道理)をもちつづけるだけだということを知れば、どうして困難を避けたりなどするでしょうか。ですから、心に曇りがないのです。

(62)
 人が自分をつらぬけないのは、①それに何か難しい点があると(その難しさを克服するための努力をせずに)なまけるし、②それがみんなと違っている場合には、たとえ簡単なことであっても、恥ずかしがってしりごみするからです。
 ただ心が広ければ、人からあざけ笑われても気にせず、向かうところは義理(道理)だけです。天下のどこを見渡してみても、その人の生き方を変えることができるものはありません。
 しかしながら、自分をつらぬいたとしても、人が必ずしも変に思うとはかぎりません。自分において義理(道理)が勝っていないときには、怠惰(なまけ)と羞恥心(はずかしがり)といった病気が消えれば、(人は本質的に善なので)義理(道理)が伸長しますが、怠惰(なまけ)と羞恥心(はずかしがり)が消えなければ、病気のままで、心がこせこせして、何もできません。
 昔、勇気と節操のある人は、死を覚悟して何かをすることがありました。その行いは必ずしも理(道理)にかなってはいませんでしたが、しかし、気概のある人でなければできないことです。(柔弱な連中にくらべると、よっぽどましです)。ましてや私たちは義理(道理)に明るい以上、どうして何もしないでいられるでしょうか。

(63)
 『易経』にある「?(油断大敵)」の部分説明(爻辞)の最初(初爻)に、「疲れた豚。本当はとびはねてまわりたい」とあります。
 豚は、疲れているときには動けるだけの力がありません。しかしながら、本心ではとびはねてまわりたいと思っていて、その思いを実現できるときには実現します。
 たとえば、李徳裕は、宦官たちを処置するにあたり、宦官たちがひれふしているかどうかばかりに気を取られて、宦官たちが心のなかでは自分たちの勢力を盛り上げようと考えていることへの注意をおこたりました。真相を明確にみぬくことが十分にできなければ、大事が起きる兆候を見落としてしまうものです。
(李徳裕は、唐代末期の宰相で、衰退化していた唐国の力の回復に貢献するという功績をあげましたが、宦官と結んだ牛僧孺一派との党争に敗れて失脚しました。なお、当時の唐王朝では、宦官が権勢をほしいままにしており、そのことが政治に多くの弊害をもたらしていたそうです)。

(64)
 子供を教えることは、教える本人にとっても有益です。
①子供を教えるときには、ぶらぶらとほっつき歩かなくてすむので有益です。
②子供に(書物を使って)教えることが何度もあれば、自分もまた書物の内容を完全にマスターできるので有益です。
③子供に対するときには、自分は服装をきちんとし、目つきをよくするので有益です。
④自分のせいで子供の才能がダメになりはしないかと心配していれば、なまけ心の生じる余地がなくなるので有益です。

【第十一巻 教学之道~教育の方法】

(1)
 濂渓先生が言いました。(ここでの発言の前提として、次のことがあります。すなわち、人の気質は陰と陽によって構成されていて、陽は剛の性質をもち、陰は柔の性質をもっています)。
①剛の善いところは、正義感となり、正直さとなり、決断力となり、毅然たる態度となり、意志の強さとなります。
②剛の悪いところは、獰猛さとなり、偏狭さとなり、乱暴さとなります。
③柔の善いところは、慈しみの心となり、素直さとなり、謙虚さとなります。④柔の悪いところは、柔弱さとなり、優柔不断さとなり、ずるさとなります。
⑤ただ中だけは、ほどよい状態であり、節度にかなっており、時と所に関係なくつねに通用する普遍的な道理であり、聖人(すぐれた人)のあり方です。
 ですから、聖人が教育する場合、人がみずから悪を改善し、みずから中に到達できるようにさせるだけなのです。
(中とは、過不足なく適当であることで、自分の場合で言うと、自分以上でもなければ、自分以下でもなく、本当の自分であることです)。

(2)
 伊川先生が言いました。
「古人は、子どもが生まれると、食べ物を食べることができ、言葉を話すことができるようになってから、子どもを教育しました。大学(聖人になるための学問)の教育方法は、前もってすることを第一としています。(子どもが悪くなってから元どおり善くしようとするのではなく、子どもが本来の善さをなくして悪くならないように前もって予防線をはっておくわけです)。
 幼い子どもには、まだ自分なりの知恵もなければ、自分なりの思考もありません。そこで「格言=正しい生き方を短い言葉で表現したもの」や「至論=道理にかなっている意見」を毎日のように話して聞かせます。
 その意味が子どもにはまだよく分からなくても、とりあえず十分すぎるほど十分に話して聞かせて、耳に満ち、腹に満ちるようにさせます。そうしてしばらくすると、子どもは格言や至論におのずと慣れ親しんで、格言や至論を生まれながらにして知っていたかのようになります。そのときには、だれかが他説(格言でもなければ至論でもない邪説)で子どもを惑わそうとしても、その子どもの心に入りこむことはできません。
 もし子どもが悪くならないようにするための教育を前もってしなければ、ちょっと成長したころには、私意(わがまま)や偏好(好き嫌い)のほしいままとなり、衆口(うわさ)や弁言(おせじ)にのせられるようになります。子どもに純粋(ピュア)で、完全(パーフェクト)な人に育ってほしいと思っても、まず無理でしょう」

(3)
易経』にある「観(静観すること)」の部分説明(爻辞)の最後(上爻)に「自分の言動を観察して君子(りっぱな人)らしければ、とがめはない」とあり、その解説に「自分の言動を観察するとは、いまだ心がおちついていないのだ」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「君子は、たとえ何の地位もなくても、みんなの手本となるべき存在なので、自分の言動を慎重にして反省しなければなりません。自分の言動を観察して、つねに君子らしさをなくすことがなければ、人々は手本をなくさず、感化されて君子になります。何の地位もないからといって、ぐうたら気ままにして何もしないのはよくありません」(教師は率先垂範が大切です)

(4)
 聖人(すぐれた人)の道は、たとえば天のように高遠で、一般人の認識とはとてもかけ離れています。門人や子弟たちは、聖人に親しく教えてもらうことによって、ますます聖人の道の高遠さを知ります。しかし、もし一般人が「聖人の道には、自分はとうていおよびもつかない」と思うようになれば、一般人は聖人の道を進もうというやる気をなくしてしまいます。ですから、聖人が教えるときには、つねに相手のレベルにあわせて教えるのです。
 たとえば、目上につかえたり、葬式にのぞんだりするにあたって、努力せずにいないのは、君子(りっぱな人)のふだんの行いです。酒を飲んでも乱れたりしないのは、君子のふだんの行いのなかでも特に身近なものです。
 こうして君子みずからが身近なことをすることで、①資質の低い人は、よく考えて聖人の道にたどりつくことができるようになりますし、②才能の高い人は、身近なことをバカにして軽んじたりなどしないようになります。

(6)
 明道先生が言いました。
「若い人が軽薄さのためにせっかくの才能をダメにしているのを心配するなら、ただ若い人を教育するにあたって、経書(『四書』『五経』などの儒学のテキスト)を学ばせ、古典を読ませるようにし、うまくものを書く訓練をさせないようにします。
(うまくものを書くようにするというのは、その意味よりもその表現を重んじることなので、形式にとらわれて内容をダメにするくせを若い人につけさせてしまう危険性があります。そうなると若い人は、質実(中身のよさ)よりも浮華(見た目のよさ)を大切にするようになります。そんな人は、まさに軽薄な人です)。
 若い人のいろんな道楽は、すべて志を奪います。(若い人は、たいてい主体性がまだ完成していないので、たとえば流行にのせられやすいなど、「玩物喪志」になりやすいものです)。ものを書くことは、儒学者のすることにもっとも近いことです。(なぜなら、儒学者も、手紙を書くなど、ものを書くからです)。しかしながら、そればっかり好き好んでやっていると、これまた志を失ってしまいます。
 たとえば、王羲之、虞世南、顔真卿、柳公権などといった書家たちは、本当に好ましい人物であった以上、大志をもっていたことでしょう。しかし、「うまくものを書ける人は、道を知っている」ということが、これまでにあったでしょうか。(ものを書くのがうまいからといって、必ずしも道を知っているとはかぎらないものです)。
 ふだんの精力をそこにのみ用いるのは、ただ時間の浪費になるだけでなく、道においても妨害となります。志を失うことは言うまでもありません」

(6)
 胡安定(胡?)は、湖州にいたとき、治道斎(政治の実務を専門に学ぶ教室)を設置しました。政治の方法について学びたい人は、その治道斎で民事、軍事、水利、算術などを学びました。かつて「治道斎で学んだ劉彝は水利がうまい」と言いましたが、その後も劉彝は政治にたずさわり、水利を盛んにして功績をあげました。

(7)
 一般的に、後世の戒めとなるようなりっぱな言葉を述べるには、内容を豊かにして、徳(よさ)の分かっている人を厭わせたり、徳(よさ)の身についていない人を惑わせたりしないようにすることが必要です。

(8)
 人を教育するにあたり、学問の内容のおもしろさを生徒に分からせることができなければ、生徒は必ず学ぶことを楽しめません。そこでとりあえず歌(ソング)や舞(ダンス)を通して教えようと思います。(歌ったり、舞ったりするのは楽しいものですからね)。
 たとえば『詩経』にある古詩三百篇などは、すべて古人の作ったものですが、そこにある「関雎」などは、家庭を正しくする始まりとなるものです。ですから、これを地域住民に用い、国全体に用いて、毎日、人々に聞かせます。
 ただし、『詩経』にある古詩三百篇は、内容の深さに比べて表現が簡単すぎるので、今の人には理解しにくいものです。そこで、別に詩を作り、児童に教える内容である、掃除するときの作法、応接するときの作法、目上の人につかえるときの作法などを大まかに述べて、朝に夕にそれを歌わせたいものです。必ずや教育の助けとなることでしょう。

(9)
 張横渠が学ぶ人に礼法を教えているのは、とてもよいことです。学ぶ人にまず行動の規準をもたせています。(たとえば、ビジネスでも、ビジネスマナーを身につけてこそ、いっぱしのビジネスパーソンになれるものです)。

(10)
 教師自身がまだよく理解できていない理(道理)を生徒に教えると、それを聞いた生徒は、その理(道理)を深く理解できないだけでなく、反対にその理(道理)を軽視するようになります。(理=意味・内容・道理など。)

(11)
 舞いを舞ったり、弓を射たりするときには、人の誠があらわれます。(心をこめなければ、舞踊も、弓術も、上達しないものです)。昔は、人を教えるにあたって、各人に誠によって自分を完成させるようにさせました。誠であることによって、掃除や応接などという身近なことから、聖人のことという高遠なことに到達することができます。(「高きに登るに卑きよりす」「下学上達」)

(12)
「幼児には、つねに正しいことをして見せて、ウソをつかないことの大切さを教える」といったこと以外には、聖人のことを教えます。

(13)
論語』に「「先には伝えるが、後には嫌になる」ということがあろうか」とあります。君子(りっぱな人)が人を教えるときには、順序があります。先に小さいことや身近なことを教えて、その後で大きいことや高遠なことを教えます。「先に小さいことや身近なことを教えると、(後はそのままほったらかしにして)その後に大きいことや高遠なことを教えない」というわけではありません。

(14)
 伊川先生が言いました。
「(書物を通して考えさせるのではなく)書物の字句や内容について説明するのは、決して昔の聖人たちがやっていた教育方法ではなく、人をますます薄っぺらなものにしてしまいます。学ぶ人(生徒)は、じっくりとよく考え、ゆったりと心の根本を養い、そうして道理を自得することが大切です。
 現在、一日ですっかり説明し終わるのは、たいした教育をしていないからです。(すなわち、ただ書物に書いてあることをそのまま説明して覚えさせるだけで、書物を通して考えさせていないからです)。「漢王朝の時代、儒学者董仲舒は、とばりをおろして、その向こう側で生徒に教えるために音読した」という話もあるものの、それは必ずしも書物の字句や内容について説明したとは限りません」

(15)
 聖人たちの活躍していた時代では、8歳で小学に入学し、15歳で大学に入学しました。大学入学に関しては、大学教育に向いた人を選んで入学させ、不向きな人は田舎に帰らせて農業に従事させました。というのも、役人にならなければ農民となり、農民とならなければ役人となったからです。(ここで言う大学は、りっぱな役人を養成することを目的としています。ですから、役人に向いた人を大学に入学させ、農民に向いた人は田舎に帰らせたのです。なお、役人とは政治をになう人の代名詞、農民とは経済をになう人の代名詞、そう考えると、より分かりやすいかもしれません)。
 大学に入学した人は、もはや農業(経済活動)に従事することはありませんでした。こうして、役人と農民とが分かれました。(つまり、本人の資質に応じて進路が決定されていたわけです)。
 在学中の生活費は、中流階級の子弟の場合には何の心配もありませんが、貧乏な庶民の子弟には政府から支給されました。
 当時の役人は、15歳で大学に入学して、40歳になってはじめて任官しました。25年もの間、大学で学んでいたのです。さらに、その間には私利私欲のはかりようがありません。(大学在学中は何の地位も権限も与えられないので、出世をめざしたり、賄賂をもらったりなどの私利私欲をはかる行為はできないものです)。とすれば、その人たちが何を志していたか、それが分かるというものです。必ずや善くなろうとしていたに違いありません。つまり、そうして徳(自分が本来もっている良さ)を完成させたのです。
 聖人たちの活躍していた時代からみて後世の人は、幼いときから休みなく私利私欲をはかろうとする心があります。これでどうして善くなることができるでしょうか。ですから、古人は、必ず40歳になってから任官させたのです。そうしてはじめて志が定まります。(40歳になるまでの長きにわたって学ぶことによって、良心が欲望に負けないくらいに強くなっているので、りっぱな役人になれるということです)。
 ただ生活必需品を求めるだけなら(それは自分を生かすために必要なものなので)害はありません。しかし、金銭や地位の誘惑は(本心を曇らせてしまうので)もっとも人に害があります。
(本註:人は、生活費に困らなくなってはじめて、学問に本腰を入れることができるものです)。

(16)
 天下には才能ある人がたくさんいるのですが、ただ道(道理)が天下に明らかになっていないので、その才能をなしとげられずにいます。そのうえ、昔は「まず名詩によって奮い立ち、続いて礼法によってしっかりと自立し、最後に音楽によって完成した」(『論語』)ものですが、今の人などはそのことが分かっていません。(名詩は、感動的な言葉であり、人々の良心を呼び覚まして励まします。礼法は、理にかなった行動の基準であり、どのように行動すべきかを示して教えます。音楽は、楽しいものであり、心をやわらげて健全にします)。
 古人にとっての名詩とは、今の人にとっての流行の歌や曲と同じものでした。(それほど昔は、格言に満ちた名詩が身近にあったのです)。村里の子どもたちですら、その名詩が言っていることを習い聞いていて、その内容をよく分かっていました。ですから、名詩によって奮い立つことができたのです。今では、学者や先生ですら、その意味を分かることができていません。どうして生徒を責めることができるでしょうか。(教師ですら善いことが分かっていないのだから、生徒が善いことを分からなくても仕方ありません)。つまり、名詩によって奮い立つことができないのです。
 昔のりっぱな礼法はすでに廃れ、人の道は明らかにされず、そして家庭をよくすることにいたるまで、すべて無秩序になっています。つまり、礼法によってしっかりと自立することができないのです。
 古人は、歌って心を養い、聞いて感性を養い、舞って血のめぐりを養ったものです。しかし、今では、それらはすべてありません。つまり、音楽によって完成することができないのです。
 このように、昔は才能を完成させるのが容易だったのですが、今では才能を完成させるのが困難になりました。

(17)
 孔子は、人を教えるにあたって、次のようにすると言っています。
「相手が「分かりそうで分からない。何とかして分かりたい」と、いらだたしく感じることがなければ、何も説明しない。また、相手が「意味は分かっているのだけれど、どう表現すればいいのか分からない」と、もどかしく感じることがなければ、何も言わない」
 思うに、教える人が、相手の「分かりたいけれど分からないためのいらだたしさ」や「表現したいけれど表現できないためのもどかしさ」をまたずに教えれば、相手はしっかりと理解しません。しかし、相手の「分かりたいけれど分からないためのいらだたしさ」や「表現したいけれど表現できないためのもどかしさ」をまって教えれば、相手は目からウロコが落ちるような感じでよく分かります。ですから、そのようにするのでしょう。
 学生にとって大切なことは、まず深く考えることです。教師は、学生がいくら考えても分からなくなってから、教えてあげることです。
 ただし、学び始めたばかりの学生に対しては、教師がその学生のために(学びの要領を)説明してあげることが大切です。そうしなければ、学び始めたばかりの学生は、理解できないだけでなく、人間の「問うことを好む心(たとえば探求心や好奇心など)」も失ってしまいます。

(18)
 横渠先生が言いました。
「恭(きちんと)し、敬(しっかり)し、?(つましく)し、節(ほどよく)し、退(ひかえめ)にし、譲(けんきょ)にして、そうして礼の何たるかをハッキリと示すのは、仁(最高の道徳)のいたりであり、道(道理)を愛することのきわみです。みずからがつとめて礼の何たるかをハッキリと示さなければ、人はついてきませんし、道(道理)は広まりませんし、教育は成立しません」

(19)
礼記』「学記篇」に、こうあります。「進めるだけで生徒が納得できたかどうかをかえりみず、生徒を誠ではなくさせ、生徒の才能を発揮させる教育ができない」
 生徒がまだよく納得できていないのに先に進め、生徒がまだよく理解できていないのに次の話をし、いたずらに生徒の心をゴチャゴチャさせ、生徒にその才能を発揮させず(生徒の才能を抑圧し)、生徒に自分が納得できているかどうかをかえりみさせず(生徒の内面への配慮をおこたり)、生徒を誠にさせない(生徒を不自然にさせる)のは、すべてデタラメな教育のやり方です。
 教育というのは、とても難しいものです。必ず生徒の才能を発揮させてこそ、生徒に生き方(進路)を誤らせずにすみます。生徒の才能の到達可能点(その生徒は何を実現できる才能をもっているか)をよく観察してから、生徒を教えるようにします。聖人のもつ明察力は、たとえば優秀な料理人が牛をさばくとき、その牛自身のあり方に沿ってさばいていき、その他は見ないようなものです。(つまり、りっぱな教育者でもある聖人は、その生徒に適したやり方でその生徒を教育していくということです)。
 生徒の才能は、偉業を十分になしとげられるほどのものです。ただ、生徒を誠にさせないので、そんな生徒の才能を発揮させることができないのです。もし「(スパルタ教育式で)生徒をむりやりにがんばらせるのだ」と言うのなら、どうして生徒を誠にさせることができるでしょうか。(生徒を不自然にし、ゆがませてしまうだけです)。

(20)
 昔の児童は、物事を慎重にすることができました。年長者に手を引いてもらうときには、(畏敬の念をあらわして)両手で年長者の手をささげもちました。また、年長者に質問するときには、(口臭に気をつけて)口を手でおおって話しました。
 思うに、少しでも物事を慎重にしないということは、とりもなおさず誠になろうとしていないということです。ですから、児童を教えるときには、おちつくこと、よく配慮すること、きちんとすること、しっかりすることをまず教えるのです。

(21)
孟子』に、「人材の採用におけるまちがいは、とがめるほどのものではない。政治や行政における過失は、非難するほどのものではない。ただ大人(人間のできた人)だけが指導者の心の非を正すことができる」とあります。
 しかし、大人は、ただ指導者の心の非を正せるだけではなく、友人や学者(学生)に対してもそうすることができます。大人は、相手の考えが自分の考えと同じであろうが異なっていようが、自他の考えの優劣を考え比べようとしたりなどしません。(大人は、心が広いので、考えの違いにこだわりません)。ただ相手の心を整理してあげて、それを本来の正しい状態に戻させるだけです。どうして小さく補ったりするでしょうか。
性善説に立つ儒学は、「善くない人も、もともとは善いのだから、別に他人から善を補ってもらわなくても、心をもとどおり健康にすれば、おのずと善くなる」と考えます。朱子は「聖人や賢人のいろんな言葉は、ただ人がその本心をなくさないように求めているにすぎません」と言っています。なお、性悪説に立つ場合、人を善くするためには、「善い教え」を外から人におしつけるという方法をとります。)

【第十二巻 改過及人心疵病~過失と心の欠点を改善する】

(1)
 濂渓先生が言いました。
子路は、人から自分の過失を指摘されると、(自分の過失を改善できるちょうどよいチャンスだと)それを喜んで聞きました。そのよい評判は、きわまりないものです。
 今の人は、自分に過失があっても、それを人から注意されるのを喜びません。これは、たとえば病気を大切にし、医者を嫌うようなものです。かえって身を滅ぼすことはあっても、悟ることはありません。あぁ(困ったものです)」

(2)
 伊川先生が言いました。
「日に日に徳行や善行を積んでいれば、日に日に幸福が高まっていきます。徳行や善行の度合いが、幸福の度合いよりも高ければ、すでに十分に幸福であっても、それは幸福の最高点ではありません。(まだまだ幸福になっていきます)。昔から、隆盛をほこっているもののうちで、道を失わずに滅んだり、敗れたりしたものはありません。(非道をなしていたものが、滅んだり、敗れたりしたものです)」

(3)
 人は、遊び楽しんでいるときには、心が喜びに満たされます。ですから、ぐずぐずして遊び楽しむことから離れられず、ついにはそれにのめりこんでしまい、それをやめることができなくなってしまいます。(たとえば、ばくち)。
易経』にある「予(楽しむこと)」の部分説明の二番目(二爻)に、「中よく正しくすることによって自分を保つ。その節操の堅さは、石のようだ。遊び楽しむことから速やかに離れることは、日没をまたないくらいだ。ゆえに、正しくて吉だ」とあります。
 遊び楽しんでいる場合、それに気を許しそれを長いこと続けたりなどしてはいけません。(遊び楽しむことについては、つねに警戒し、きりよくやめれることが大切です)。遊び楽しむことを長いこと続けていると、それに溺れてしまいます。
 先にあげた説明などは、「何かが起きる兆候を敏感にとらえて、すぐさまそれに対処するための行動にうつること」(『易経』「繋辞上伝」)と言えます。思うに、中(ほど)よく正しくしているので、かたく自分を保て、早く是非を判断できたり、速やかに遊び楽しむことをやめることができたりするのです。

(4)
 指導者が危険や衰亡をまねく道筋は、一つではありませんが、歓楽(娯楽や道楽など)にうつつをぬかすことによるものが最多です。

(5)
 聖人が戒めを行うのは、必ず隆盛なときです。しかし、隆盛なときには、ふつうなかなか戒めることが分かりません。
 ですから、①平安や富裕に慣れると(戒めがないので)驕り高ぶり、②自由や奔放を楽しむと(戒めがないので)秩序を壊し、③災難や戦乱を忘れると(戒めがないので)禍を芽生えさせるのです。
 これは、安逸にひたりふけっている(惰眠をむさぼっている)ために、混乱のやってくることが分からないのです。
(「安くして危うさを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まりて乱るるを忘れず」)

(6)
易経』にある「復(もとに戻ること)」の部分説明(爻辞)の三番目(三爻)は、「弱々しくておちつきのない性格で動きのきわみにいる。復(もど)ることが何度もあって、復(もど)った状態のままでいることができない」ということを表しています。
 復(もど)ることにおいては、復(もど)った状態に安んじてそこに腰をすえることが尊ばれます。しかし、しばしば復(もど)って、しばしば失うのは、復(もど)ることに安んじていないのです。善に復(もど)ることができながらも、その善をしばしば失うのは、危険なことです。(儒学性善説なので、人が善くなることを言う場合、悪から善に改まるといったニュアンスの表現は用いず、悪から善に戻るといったニュアンスの表現を用います)。
 聖人は、人々が善へと向かう道を開き、人々が善に復(もど)ることを助けて、人々が善をしばしば失うことを危ぶみます。ですから、「危険だけれど、とがめはない」と言われているのです。
 しばしば善を失うからといって、「もう善に復(もど)るな」と言うことはできません。しばしば善を失うことは危険ですが、しばしば善に復(もど)ることは別に悪くはありません。過失は、失うことにあるのであって、復(もど)ることにはありません。
(本註:劉質夫が言いました。「とめどなく復(もど)ったり、失ったりをくりかえすなら、ついには迷って復ることができなくなってしまいます」)

(7)
 背き離れることに関してですが、①反目が行き着くところまで行って行き詰まると、反発しあって合同できにくくなります。②強さが行き着くところまで行って行き詰まると、あらあらしくなって細かいところまで神経がゆきとどかなくなります。③明晰さが行き着くところまで行って行き詰まると、ささいなことまで気にして疑いをもちやすくなります。
易経』では、どんなものにも必ず関係するものがあって、決して孤立することはないということを表しています。しかし、①~③のような性格をもっているなら、自分のほうから背き離れて孤立することになります。
 たとえば、Aさんは、親しい仲間をもっているのですが、自分のほうから相手を疑ってかかり、みだりに背き離れる人です。そんなAさんは、たとえ家族や親しい仲間のなかにいたとしても、つねに孤独なものです。(「疑心暗鬼を生ず」。)

(8)
易経』にある「解(問題が解決すること)」の部分説明(爻辞)の三番目(三爻)に、「小人(つまらない人間)が高位にいる。賊に襲われる結果になる。行いが正しくても、いやしまれる」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「小人でありながら高位を盗み取るなら、たとえがんばって正しいことをしたとしても、小人は気質が卑下であり、もともと上位にいるべき人間ではないので、結局はよくありません。
 これに関して、こう質問する人もいるかもしれません。
「もし、とても正しいことをできるのなら、どんなものだろう。別に小人が高位にいてもいいのではなかろうか」
 しかし、とても正しいことは、陰湿で柔弱な性質をもった小人にできることではありません。もし、それができるとしたら、その人は(もはや小人などではなく)君子(りっぱな人)に変化しているのです」

(9)
易経』にある「益(増すこと)」の部分説明(爻辞)の最後(上爻)に、「こちらの利益をはかるな。場合によってはこちらを攻撃する者が出てくる」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「理(道理)とは、世界でいちばんきわめて公なるものです。利とは、みんなが同じく欲しがるものです。(公=私心がなく、公正であり、客観的であること)。
 もし、こちらが心を公にし、その正しき理(道理)を失わなければ、こちらはみんなと利を分かちあい、人の利を侵害することなく、人もまたこちらと利を分かちあいたいと思います。
 もし、こちらが利を求めることに熱心で、心を自私(エゴ)におおわれ、こちらを益そうとして人を害するならば、人もまたこちらと力の限り争おうとするでしょう。ですから、こちらを益そうとする人はいなくなって、反対にこちらを攻撃して、こちらから利を奪おうとする人が出てくるのです」

(10)
易経』にある「艮(止まること)」の部分説明(爻辞)の三番目(三爻)に、「じっとして腰を動かさない。背骨が裂けるような痛みに襲われる。危うさが心を焦がす」とあります。それに関して、程伊川著『易伝』に、こうあります。
「そもそも正しい止まり方としては、止まるべきときに止まるようにすることが大切です。
 もし、「行くにしろ、止まるにしろ、時宜にかなった柔軟なやり方をせずに、一定の原則に固執する」というように、とても頑固だと、生き方が社会と真っ向から対立し、他者とそりがあわずに交際が断絶することになります。それはとても危険なことです。
 人は、頑固に一定の原則に固執し、だれからも賛同してもらえなければ、苦しんだり、悩んだり、いらだったり、おびえたりして、心を焼かれて乱されます。(いわゆる焦燥感にとらわれます)。どうして心安らかにゆったりとすることができるでしょうか。「危うさが心を焦がす」とは、どうしようもない不安が心を焼いて乱すことを言います」

(11)
 たいていの場合、喜びうかれて行動していると、正しさを失います。

(12)
 男女には尊卑の秩序があります。(男女の仲には節度があることが大切です)。夫婦には倡随の理屈があります。(夫婦は仲良くすることが大切です)。これはつねに変わらぬ道理です。(倡随とは、夫が唱えて妻が従うことで、夫婦の仲が良いことを表しています)。
 もし、感情に流され、欲望になびき、ただ快楽のためにだけ行動し、男は欲にひかれて強さを失い、女は喜びになじんで素朴さを失うなら、凶であって、何もよいことはありません。

(13)
 舜ほどの聖人(すぐれた人)でも、巧言令色を恐れました。(巧言令色=相手の気に入られようとして、口先だけうまいことを言ったり、ニコニコと愛想よくして見せたりすること)。このように、人をうまく喜ばせて惑わすことは、心に入りこみやすくて恐るべきことなのです。

(14)
 治水工事は、天下の大任です。とても公正な心をもち、謙虚であることができ、みんなの意見を十分に汲むような人でなければ、大任を成功させることはできません。上からの命令を無視したり、仲間をうらぎったりするような人が、どうして大任を成功させることができるでしょうか。
 堯から治水工事を任された鯀は、9年かかっても治水工事を成功させることができませんでした。しかしながら、その仕事のうまさは、他のだれよりもずばぬけてすぐれていました。ただ、治水工事の成功がほぼ確実となってきたので、自負心がますます強くなり、命令違反や仲間へのうらぎりがますますひどくなりました。みんなの意見は聞かれなくなり、みんなの心は離れていきました。つまり、その悪いところがますます顕著になって、ついに大任を成功させることができなかったのです。

(15)
 君子(りっぱな人)は、敬(しっかり)して心をまっすぐにします。微生高のついたウソは些細なものであっても、正直さを害した点では重大です。
(『論語』に「だれが微生高を正直だと言うのでしょうか。微生高は、ある人が酢を借りにきたとき、となりの人から酢を借りてきてその人に貸しました」とあります。つまり、微生高は、酢を借りにきた人に「家には酢がない」と言わなかったので正直さを害したというわけです)。

(16)
 人は、欲があれば、芯の強さがありません。芯の強さがあれば、欲に屈することはありません。(欲=本当に必要である以上のものを欲すること・人欲)。

(17)
 人がまちがう場合、その人の属する人間のタイプの種類に応じてまちがいます。
 君子(りっぱな人)は、いつも人情に厚いことによって失敗します。小人(つまらない人)は、いつも人情に薄いことによって失敗します。
 また、君子は愛情によってまちがい、小人は残忍によってまちがいます。
(たとえば、政治家に分類される人は、政治家らしいまちがいをします。運転手に分類される人は、運転手らしいまちがいをします。政治家が運転手らしいまちがいをしたり、運転手が政治家らしいまちがいをしたりすることはないものです。)

(18)
 明道先生が言いました。
「財産の多さや地位の高さで人をバカにするのは、もちろん善いことではありません。学問で人をバカにするのも、その害は少なくありません」

(19)
 人は、これから先にどういうことが起きるかをあらかじめ考えることを賢明だとすると、あっという間に「人にだまされるのではないか」とか、「人から疑われるのではないか」とか思うようになっていきます。
(要するに、かんぐりすぎるのはよくないということです)。

(20)
 人は、自分の生活に用いる外物については、その一つ一つについてりっぱであることを求めます。(外物=自分の心身以外のもの。たとえば、名声、利益、衣服、食事、住居など)。それとは反対に、自分のかけがえのない心身に関しては、そのりっぱさを求めません。
 しかし、そんなことをしていると、外物のりっぱさが得られたときには、かえって心身のほうは悪くなってしまっています。(すなわち、身は修まっていませんし、心は正しくなっていません)。外物のりっぱさだけを求める人は、そういうことが分かっていないのです。

(21)
 人が天理に暗いのは、ただ嗜欲(思うぞんぶんに欲望を満たそうとする心)によって乱されているからにすぎません。荘子は「嗜欲の深い者は、天機(天理が発動するきざし)が浅い」と言っています。この言葉は、まったく正しいものです。

(22)
 伊川先生が言いました。
「機事(はかりごと)に長いこと関わっていると、機心(はかる心)が必ず生じます。というのも、機事に関わっているときには、心は必ず機事を喜び、心が喜べば、機心の種をまいたように機心が芽生えてくるからです」

(23)
 疑(うたぐ)り深い人は、まだ何事も起きていないうちから、まず心のなかに疑おうとする気持ちをもっています。
 欲ばりな人は、まず心のなかに抜け目なくしようとする気持ちをもっています。
 それらはすべて病気です。

(24)
 たとえば「これは大事だ」とか、「これは小事だ」とかいうように、事の大小を比べることの弊害は、『孟子』にある「尺を枉げて尋を直くす(小さいものを抑えて、大きいものを伸ばす)」という功利的なことをすることにあります。

(25)
 小人(くだらない人)や小丈夫(つまらない人)でも、その人たちを「小な連中だ」と評価するだけで終わってはいけません。その人たちも根っからの悪であるわけではありません。(性善説

(26)
 だれもが「公」だと思うことであっても、もし私意でそれを行うなら、それは「私」です。
(たとえば、困っている人を助ける場合、人間本来のやさしさから「かわいそうだなあ」と思って助けるのは「公」ですが、世間体を考えて「助けないと自分の評判が下がるからなあ」と思って助けるのは「私」です。同じ善行でも、本人の意識によって公私が変わってくるわけです)。

(27)
 役人になることは、人の志を奪います。

(28)
 驕り高ぶりとは、気勢が満ちていることです。けちとは、気勢が足りないことです。人がけちなときには、財産のうえでも不満をもち、物事のうえでも不満をもちます。およそすべてのことに不満をもって、必ず不満そうな顔をするものです。

(29)
 まだ道(道理)について分かっていない人は、酔っぱらいのようです。人は、酔っぱらったときには、どんなことでもしますが、酔いがさめたときには、(そのあまりの愚かさに)それを恥ずかしく思います。
 まだ学び(聖人になるための学問)について分かっていない人は、自分には欠点がないと思います。しかし、学びについて分かってから、昔の自分の行いを思い返すと、(そのあまりの愚かさに)思わずぞっとしてしまいます。

(30)
 ?和叔が「私は一日に三回、反省しています」と言うと、明道先生は言いました。
「かわいそうに。その他の時間には、いったい何をしているのですか」
 思うに、『論語』に「曾子が言った。「私は日にわが身を三省する。うんぬん」」とありますが、それをまねようとして失敗したのです。ふだんから十分な努力をしていないことが分かります。
 また、?和叔は、人の顔色をうかがっては、その人に意見をあわせていました。明道先生がそのことを責めると、?和叔は「そうしないと、何も言うことができません」と言いました。そこで明道先生は言いました。
「何も言うことができないのなら、言わずにすませることはできないのですか」

(31)
 横渠先生が言いました。
「学ぶ人が礼(ほどよさ)と義(ただしさ)を捨てるなら、たらふく食べてぐうたらと一日をすごし、よく考えて行動することなく、くだらない連中と同じになります。努力することと言えば、衣服(ファッション)や食事(グルメ)に関することか、宴会や遊興を楽しむことくらいで、それ以外のことはしません」

(32)
 悲哀に満ちた「鄭の国や衛の国の音楽」は、人の心をずるずると引き留めます。また、怠け心を生じさせることによって、心を驕った淫らなものにしてしまいます。人を魅了しがちな珍品も、これほどひどく人の心を惑わすことはありません。そういうわけで、そんな音楽を聞いた人は、貪欲になってしまいます。ですから、孔子は「そんな音楽を遠ざけなさい」と言ったのです。聖人(孔子)も、そんな音楽を経験したことがあったのでしょう。ただ聖人は、(主体性が確立しているので)そんなものにふりまわされることがなかったにすぎません。
(鄭の国や衛の国の音楽とは、要するに、みだらなものの代名詞です)。

(33)
 孟子が、わざわざ郷原(偽善者)の話をしてから、つねに変わらぬ真理にたちかえることを言っているのは、郷原は大なるものがまず立っていないからです。(第二巻の「七十」にあるように、大なるものが立っている人は、本性が善であるということを知っており、忠信を根本としています)。そんな郷原は、まったく主体性がありません。つまり、ただまわりのようすをうかがい、人に気に入られるようにふるまい、みんなと違うまいとするだけなのです。一生そのまま変わりません。(「郷原は徳の賊」)

【第十三巻 異端之学~聖人の教えに反した学問】

(1)
 明道先生が言いました。
「楊子・墨子の害は、申不害・韓非子よりひどいものです。仏教道教の害は、楊子・墨子よりひどいものです。
 楊子は個人主義者ですが、義(ただしさ)の観点からすると疑わしい点があります。墨子は博愛主義者ですが、仁(やさしさ)の観点からすると疑わしい点があります。
 申不害・韓非子ともなると、考え方が浅はかなので、そのまちがいをみつけるのは簡単です。(儒学では、法家の申不害と韓非子は人の心を軽んじ、法律で人を縛れば必ず天下太平になるとしている点でまちがっていると考えています)。ですから、孟子は、ただ楊子・墨子だけを論破したのです。その人たちの思想が世間をひどく惑わしていたからです。
 仏教道教ともなると、その教えは一見すると理にかなっているようにみえます。また、その教説のたくみさは、楊子・墨子などとは比べものになりません。これが、仏教道教の害がもっともひどい理由です。
 楊子・墨子の害は、すでに孟子によって論破されので、すっきりさっぱりしました」
(『近思録』が作られた時代の儒学は、仏教道教に対して批判的でした)。

(2)
 伊川先生が言いました。
儒学者は、正道について心静かにうちこんで考え、正道からズレてはいけません。最初はちょっとしたズレでも、そのまま進んでいけば最後には救いようがないくらい大きくズレてしまいます。
 たとえば、『論語』に「子張はやり過ぎているし、子夏はやり足りない」という話があります。この場合、聖人が用いる何事も中(ほど)よくするやり方からみて、子張はわずかに人情に厚すぎるだけですし、子夏はわずかに人情が足りないだけです。
 しかし、人情に厚すぎると、だんだんと墨子の博愛主義になりますし、反対に人情が足りないと、そのまま楊子の個人主義になります。過不足が同じ儒学者のなかから出ても、最終的には楊子の個人主義墨子の博愛主義に至ってしまうのです。
 楊子の個人主義墨子の博愛主義などに至ってしまったとしても、まだ(仏教のように出家して)社会生活を無視するまでには至っていません。しかし、孟子は「楊子の個人主義墨子の博愛主義をつきつめていくと、結局は社会生活を無視するようになる」と言っています。というのも、最初はちょっとしたズレでも、いずれは必ず大きなズレになるからです」

(3)
 明道先生が言いました。
「道(道理)からはずれた物(事物)はありませんし、物(事物)からはずれた道(道理)はありません。(体用一源・顕微無間)。つまり、この世界には、どこにいっても道(道理)でないものはないのです。
 父と子の関係について言うと、道(道理)は父と子がともに親しむところにあります。君主と臣下の関係について言うと、道(道理)は君主と臣下がともに厳しくするところにあります。さらに夫と妻の関係、目上と目下の関係、友人どうしの関係に至るまで、そのすべてに道(道理)があります。
 以上が、『中庸』にも言われているように、だれもが道(道理)から少しの間も離れることができない理由です。
 そうであるなら、(仏教の教えに従って)出家して社会を無視し、瞑想して肉体を無視するのは、道(道理)から遠くはずれています。ですから、「君子(りっぱな人)が世の中で生きていくときには、とらわれたりすることもなければ、反対につっぱねたりすることもなく、義(ただしさ)につきしたがう」(『論語』)のです。(君子は、主観的にならず、ただ理にかなったことを重んじるだけです)。
 もし、とらわれたり、つっぱねたりするなら、道(道理)との間にへだたりがあるということになります。(仏教は肉体にとらわれ、社会をつっぱねています)。しかし、それは自然なあり方ではありません。(道と一つになっているのが、天地自然のまったき姿であり、まともなあり方です)。
 かの仏教の教えは、「敬(しっかり)して心をまっすぐにすること(個性化)」に関して言うと、それをもっています。しかし、「義(ただしく)して行動をきちんとすること(社会化)」に関して言うと、それをもっていません。
 ですから、心のカチカチな人は生気がなくなり、心のヤワヤワな人は自分勝手になるのです。これが、私が「仏教の教えは偏狭だ」とする理由です。
 私たちの道(道理)は、そうではありません。『中庸』にあるように、「本性にしたがう」だけです。(本性にしたがうこと=性にあった生き方をすること)。この理屈については、聖人が『易経』においてつぶさに述べています」
(本註:また、こうも言いました。「仏教には「悟りを開く」という理屈があって、「敬(しっかり)して心をまっすぐにすること」ができます。(瞑想や座禅)。しかしながら、「義(ただしく)して行動をきちんとすること」はありません(仏教徒は出家して社会を捨てるのですから、社会化することはありません)。もっとも、「心をまっすぐにする」点も、とどのつまり、これまた根本的には正しくありませんがね」)

(4)
 仏教は、もともと死生を恐れて、私利のために修行します。(仏教は、「この世は苦しみに満ちている」として生を恐れ、「極楽往生できずに悪い境遇に生まれ変わったらどうしよう」として死を恐れ、そんな恐れから逃れるために解脱という自分ひとりの利益をめざします)。それでどうして公道(時間・空間をこえてつねに正しいとされる道)と言えるでしょうか。
 仏教は、ただ「高遠なこと(形而上のこと・理想)」に達することにつとめるばかりで、「身近なこと(形而下のこと・現実)」を学ぶことがありません。(しかし、「高きに登るは卑(ひく)きよりす」るもので、「高遠なこと」に達するためには、「身近なこと」を軽んじることはできないものです)。そうであるなら、仏教が語る高遠なことが、どうして正しいと言えるでしょうか。(仏教の教えは、しょせん「砂上の楼閣」や「空中楼閣」にすぎません)。仏教の教えにおいては、もとから両者(「高遠なこと」と「身近なこと」)が連続しておらず、両者の間にはただ断絶があるだけですが、そんなものは道(道理)なんかではありません。
 孟子は「その心をきわめつくす者は、その性を知る」と言っていますが、仏教でそれに相当するのは、「心を識(し)り、性を見る」です。しかし、「本心を存し、本性を養う」といったことになると、仏教にはありません。
 仏教はもともと「出家してひとりわが身を善くするのだ」と言いますが、そこには道そのものにおいておのずと足りないところがあります。(たとえば、出家して社会生活、とりわけ家族を捨てるのは、人の道からはずれています)。
 ある人が、こう言いました。
仏教で地獄の話をするのは、すべて性根の腐った連中を改心させるためです。地獄の話で相手を恐れさせて、相手に善を行わせるのです」
 それに対して先生は、こう言いました。
「天地をつらぬくほどの至誠をもってしても、なかなか改心しない人がいるというのに、ウソの教えなんかで、どうして人を改心させることができるでしょうか」

(5)
 学ぶ人は、仏教を「心を惑わす淫らな音楽」や「心を悩ます美しい容姿(肉体)」のようにみなして、それを遠ざけることが大切です。そうしなければ、あっという間に仏教にとりこまれてしまいます。(なぜなら、仏教の教えは一見すると理にかなっているようにみえるので、人はそんな外見のよさに惑わされて、中身を見誤ってだまされてしまう危険性があるからです)。
 顔回が政治の質問をしたとき、孔子は、政治の手本とすべき昔の名君たちの事績について話し、さらに鄭声(みだらなもの)を捨て去り、佞人(口先のうまい人)を遠ざけるように戒めてから、「鄭声は淫靡だし、佞人は危険だ」と言いました。その佞人というのは、ただ口先うまくへつらうにすぎません。しかし、自分にとっては危険です。佞人は人をおだてて自分の思いどおりに動かすので、危険なのです。
 禹王の言葉に「なんぞ巧言令色を畏れん」とありますが、「巧言令色」という言葉に対して、ただちに「畏れん」という言葉が出てきています。(巧言令色=相手にうまくとりいるために、口先うまくお世辞を言ったり、愛想よくニコニコして見せたりすること)。それは、いくら「巧言令色」に対して注意していても、やはり「巧言令色」に害される恐れがあるからです。
(名君の禹王ですら、「巧言令色」と言えばすぐに「畏」を連想するように、「巧言令色」と「畏」とを結び付けて考えているのだから、ましてや禹王ほどにしっかりしていない私たちが「巧言令色」を「畏」れなければならないのは、あたりまえだ、ということです)。
 仏教に関しては、さらに「つねに警戒せよ」と言うまでもありません。自分を信じるようになれれば、仏教も自分を乱すことはできません。

(6)
 万物が一体であるとする理由は、すべてが理(道理)をもっていて、その理(道理)からすべてが生まれてきているからにすぎません。きわまりなく次から次に生まれてくること、これを易と言います。生まれるときには同時に生まれ、そのすべてがそれぞれに理(道理)をもっています。人の場合は、そんな理(道理)をおしはかることができます。人ではない物の場合は、物質体の作りが人間ほど精密ではなくて、そんな理をおしはかることができません。しかし、「人間以外のものには人間とは違って理がないのだ」と言うことはできません。
 人は、ただ「私(エゴ)」にとらわれて自分のちっぽけな身体の観点から物事を考えるだけなので、(たとえば「針の穴から天をのぞく」ようになってしまい)道理を確認しても、それをちっぽけなものとして確認してしまうのです。自分の身体にとらわれないようにして、万物のなかにとけこんでいって客観的に物事をみるなら、とても心がすっきりします。
 仏教は以上のようなことを知らないので、自分の身体の観点から物事を考えます。そして、自分の身体をどうすることもできないので、身体を嫌悪し、感覚することをなくそうとします。そして、心の根本が定まっていない(心が動じやすい)ので、(そんな心の動きをむりやり押さえこむために座禅をくんで)枯れた木や冷えた灰のようになろうとします。しかしながら、生きながらにして枯れた木や冷えた灰のようになるといった道理はなく、それを実現したいのなら、もはや死ぬほかありません。
 仏教は、(身体を毛嫌っていますが)実のところ、身体に愛着をもっていて、身体にとらわれないようにすることができないのです。それは、たとえば、背中にものをのせる習性のある負版という虫が、すでに立ち上がれなくなるくらいに背中にものをのせているのに、さらにものをひろって背中にのせるようなものです。また、石をだきかかえて川に飛びこんで、石の重みのためにどんどん沈んでいっているのに、石を捨てることを考えずに、ただ石の重たいことだけを悩むようなものです。(つまり、仏教は、なんとも変なことをしているのです)。

(7)
 道教でやっている導気(寿命をのばして長生きをするための術)を語る人が、先生にたずねました。
「君にも何か術がありますか」
 それに対して先生は、こう答えました。
「私はいつも、暑い夏にはすずしい服装をし、寒い冬には暖かい服装をし、空腹になれば食べ、のどが渇けば飲み、嗜欲を節制し、心気を安定させます。(つまり、自然にすること)それだけです」

(8)
 仏教は、陰陽・昼夜・死生・古今などといった形而下のこと(身近なこと)について分かっていません。どうして形而上のこと(高遠なこと)についての考えが聖人と同じであると言えるでしょうか。
仏教は、形而下の世界を軽んじ、形而上の世界にばかり目を向けているので、「空中楼閣」や「砂上の楼閣」にすぎない、と言うことです)。

(9)
 仏教の教えについて、その教えの内容を理解しつくしてから、それを取捨選択しようとするならば、教えの内容を理解しつくす前に、こちらは仏教に洗脳されて仏教信者になってしまうことでしょう。しばらくは、その具体的な方面についてだけ考えることです。すなわち、「具体的なことである教えの立て方はこのようだが、その原理的なことはどうなっているのだろう」というようにね。
 当然のことながら、原理的なことだけ取って、具体的なことを取らないのは、難しいことです。原理的なことがあれば、それに対応する具体的なことがあるものです。(体用一源・顕微無間)。王通(文中子)は「原理的なことと具体的なことは別々のものである」と言っていますが、それはまちがった主張です。
 ですから、しばらくは、具体的な方面から聖人の教えとあわない点を判断して決めるにこしたことはありません。(具体的なことのほうが分かりやすいものです)。仏教の教えに聖人の教えにあうものがあれば、それはすでに私たちの儒学にあることです(わざわざ仏教に教わる必要はありません)。あわないものがあれば、もちろんそれは取り入れません。(そうしなければ邪説によって惑わされてしまいます)。
 このようにして立場を定めていけば、仏教の教えを取捨選択するのは簡単です。

(10)
 質問。「道教には神仙(修行によって超能力を得た仙人)の話がありますが、そういったことは実際にありますか」
 返答。「修行が完成すると白日が飛翔するといったような(オカルト的な)ことなら、それはありません。しかし、山林に住み、身体を大切にし、英気を養い、そして長生きするといったことなら、それはあります。たとえば、火鉢の火のようなものです。風あたりの強いところにおけば、すぐに燃えつきますが、風のないところにおけば、長く燃え続けます。これと同じ理屈です」
 質問。「揚雄は「聖人が仙人を師としてあおがないのは、その術が異なるからだ」と言っていますが、儒学にも寿命をのばす術があるのでしょうか」。
 返答。「そのようなことをするのは、この天地自然に対する一種の窃盗行為です。(私たちの寿命は天地自然のはたらきによって定められるのですから)天地自然が万物を創造化育するはたらきを盗まなければ、どうして寿命をのばすことができるでしょうか。聖人にそれをする意志があれば、周公や孔子などもそれをしたことでしょう(しかし、二人ともそれをしていません)」

(11)
 謝顕道が、仏教儒学の教えの共通点を列挙して、伊川先生に質問しました。
 先生は言いました。「そのように共通点が多くても、仏教は根本がまちがっている以上、すべてが儒学とは違っています」

(12)
 横渠先生は、次のように言っています。
 仏教は、天性(本性)についてデタラメに考えていて、天性が宇宙をほどよく運用するはたらきをしていることを知らず、それどころか「私たちは、私たちのちっぽけな心理作用によって、宇宙があるかのように思いこまされているにすぎない」とします。仏教徒は、認識能力が不十分なので、真実をごまかして、天も地も、太陽も月も、宇宙のすべてが幻想にすぎないとするのです。
 仏教は、身体というちっぽけなものに心の働きをとらわれたり、虚空というでっかいものに心の動きを溺れさせたりしています。そのため、大を語るにしても、小を語るにしても、見当違いな方向に流れていって、中過不足なく適当である状態)を失うのです。
 仏教は、大きすぎることには、宇宙をゴミくずのようにみなしますし、小さすぎることには、人の世を夢か幻かのようにみなします。しかし、それで理(道理)をきわめている(物事の道理を認識している)と言うことができるでしょうか。理(道理)をきわめること(物事の道理を認識すること)について分かっていないのに、本性をきわめつくしていると言ったり、知らないことはないと言ったりすることができるでしょうか。
 宇宙をゴミくずのようにみなすということは、無限な宇宙を有限なものとしてとらえることです。人の世を夢か幻かのようにみなすということは、認識能力が人の世の根源を見極めることができないということです。(つまり、仏教の認識はまちがっています)。

(13)
 大いなる『易経』では、有と無に関しては何も言っていません。有と無について語るのは、諸先生の見識のせまい発言です。
(たとえば「有るものは有るし、無いものは無い」わけで、有るものが無かったり、無いものが有ったりするのは、理にかなっていません)。

(14)
 仏教は、霊魂を明らかにするにあたって、「人間は、その肉体は死んで滅んでも、その霊魂は滅びずに生まれ変わり、輪廻転生をくりかえすが、最終的には輪廻転生の苦しみから逃れようとする(解脱することをめざす)」と言っています。しかし、これで霊魂を知っていると言うことができるでしょうか。
 また、仏教は、人の生を虚妄だとみなしています。しかし、これで人を知っていると言うことができるでしょうか。
 また、仏教は、天と人とはもともと一つなのに、「人は死ぬと、天に昇るか、人として再生するかにわかれる」としています。しかし、これで天を知っていると言うことができるでしょうか。
 孔子孟子の言う「天」は、仏教で言う「道」です。惑っている人は、『易経』にある「遊魂は変を為す」という言葉をさして、「それは輪廻転生のことを言っているのだ」とします。その人は、『易経』について、まだよく分かっていないのです。(人間の心にあって精神をつかさどるものを魂と言い、肉体をつかさどるものを魄と言います)。
 儒学では、当然のこととして天徳(天理)を知ることを優先します。天徳が分かれば、聖人についても分かりますし、鬼神についても分かります。
 現在、仏教は、極論した結果として、必ず「輪廻転生からは、道(道理)を会得しなければ逃れられない」と言います。しかし、これで道(道理)を理解していると言うことができるでしょうか。
(本註:道(道理)を理解すれば、正義を失わず、天命を失わず、死生一如の境地に達し、天人合一の境地に達します。そこからおしはかると、自然の循環を知り、陰陽の変化に通じ、道を身につけて他にくらべるものがないほどのすぐれものになります)。
 仏教の教説が盛んにわが国に伝わって以来、学者は、儒学の入り口すら見ることもできないうちに仏教にひきずりこまれ、仏教に沈み溺れて、「仏教こそが大道だ」と言うようになりました。そして、そんな仏教を尊ぶ風潮が世の中に蔓延し、善人も、悪人も、知者も、愚者も、男の使用人も、女の使用人も、だれもかれも仏教を信奉するようになりました。
 英才や豪傑など、すぐれた素質をもった人たちは、生まれると、仏教の教えを耳に聞かされ、目に見せられて、それに慣れ親しまされました。そして、成長すると、仏教を尊ぶダメ学者のもとで学ばせられて、ついには何も分からないまま衝動にかられて行動するようになりました。それによって、すぐれた素質をもった人たちですら、「修養しなくても聖人になることができる(努力なんてバカらしい)」とか、「学問しなくても大道を知ることができる(学問なんて不要だ)」とか言うようになりました。
 ですから、人は、聖人の心を知らないうちから「聖人の事績を研究する必要はない」と言ったり、君子の志を見ないうちから「君子の学を学ぶ必要はない」と言ったりするのです。
 以上が、人の道や物事の道理が明らかでない理由であり、政治がおそまつになる理由であり、徳(自分が本来もっている良さ)がメチャクチャになる理由です。
 異端の教え(邪説)がひんぱんに耳に聞こえてきても、上にはそのいつわりを防ぐための礼法がなく、下にはその害を考え正すための学問がありません。ですから、昔から「偏った意見」「しまりのない意見」「よこしまな意見」「言いのがれの意見」がまとめて盛んでしたが、それらはすべて仏教から出てきていて、千五百年もそのままにされているのです。独り立ちして恐れず、心を純粋にして自分を信じ、だれよりもすぐれた才能をもっている人でなければ、どうして仏教の蔓延した世の中に立って、仏教儒学の是非を弁別したり、仏教儒学の優劣を判定したりすることができるでしょうか。

【第十四巻 聖賢気象~聖人や賢人のありよう】

(1)
 明道先生が言いました。
「堯と舜との間には、なんら優劣の差がありません。湯王(殷王朝の創始者)や武王(周王朝創始者)となると、堯や舜とは違っています。
 孟子は、人間を「生まれながらにしてそうである」と「もとに戻ってそうなる」とに分類しました。古来、このように説いた人はいませんでした。孟子が初めてそのような分類をしたのです。すなわち、堯と舜は生まれながらにして道理を知っていて、湯王と武王は学んで道理を知ることができたのです。
 文王(武王の父)の徳となると、それは堯や舜のそれに似ています。また、禹王(夏王朝創始者)の徳となると、それは湯王や武王のそれに似ています。
 とどのつまり、その人たちはみんな聖人です」
(堯、舜、禹王、湯王、文王、武王は、いずれも古代の名君で、儒学では聖人としてあつかっています)。

(2)
 孔子は、あらゆる気の根元となっている気といった感じの人です。顔回は、ものを生じる春の気といった感じの人です。孟子は、ものをそぐ秋の気がすっかり表に出ているといった感じの人です。
 孔子は、すべてをつつみこむ人です。顔回は、「まるで愚か者であるかのように、師の教えにまったく忠実だ」といった学び方を後世に示し、自然の和気があり、何も言わずにりっぱになる人です。孟子は、その才能をハッキリと現しています(かなりの自信家です)。思うに、時勢によるのでしょう。
 孔子は、天地のような人です。顔回は、なごやかな風、めでたい雲のような人です。孟子は、石がごろごろしている山のような人です。その人たちの主張をみれば、それらのことが分かります。
 孔子は、かどがありません。顔回は、ややかどがあります。孟子は、かどがありまくっています。
 孔子は、とても明快な人です。顔回は、とてもゆったりした人です。孟子は、とても雄弁な人です。

(3)
 孔子の門人の曾子は、「聖人の学」を伝えました。曾子の徳(よさ)は、晩年には、はかりきれないくらいに高まりました。どうして聖人になれなかったと分かるでしょうか。(もしかすると聖人になれたのかもしれません)。
 たとえば、曾子が「私は正しさを得て死ぬのだ」と言ったことなど、しばらくその言葉について思案するのはやめて、ただ(そう言った)曾子の気性のりっぱさについてみるといいでしょう。曾子の言葉が注目されすぎていますからね。
 聖人たちが活躍した時代よりも後の人は、その言葉はりっぱであっても、その気性がいやしいがために、道(道理)にそぐえずに終わっています。

(4)
 儒学のテキスト(聖人の学について記した本)を伝承するのは、難しいものです。聖人の没後わずか百年で、その伝承が違ってしまいました。(すなわち、文章を読むことはできても、その真意が理解できず、その内容を誤解してしまう、そんな儒学者だらけになってしまったのです)。「聖人の学」は、もし子思や孟子がいなければ、消えてしまっていたことでしょう。しかし、道(道理)がどうして消えたりするでしょうか。ただ人が道(道理)にのっとらなくなるだけです。道(道理)は滅びたりしません。暴君だった幽王や厲王などは、道にのっとらなかったのです。

(5)
 荀子は、才能は高いのですが、その説にはまちがいが多くあります。(荀子は「性悪説」を唱えました)。
 揚雄は、才能は低いのですが、その説にはまちがいが少ししかありません。(揚雄は、「人間の本性には善と悪が混在している」と説きました)。

(6)
 荀子は、とても偏っていて矛盾だらけです。性悪説を説いた時点で、大本がすでにまちがっています。
 揚雄は、まちがいは少ないものの、本性について分かっていません。どんな道理について論じるつもりなのでしょう。

(7)
 董仲舒は、こう言っています。
「何が正しいことであるかをきちんとわきまえ、利益をはからない(利益よりも正義を重んじる)。どうするのが正しいやり方であるかを明らかにし、成功をくわだてない(成功よりも正道を重んじる)」
 これが、董仲舒が同時代の儒学者たちにぬきんでてすぐれている理由です。
董仲舒は、漢王朝武帝の時代の儒学者です。)

(8)
 漢王朝の時代の儒学者に関して言うと、毛萇や董仲舒などが、聖人や賢人の心をもっともよく分かっています。しかしながら、道(道理)の認識があまりハッキリしていません。二人から下ると揚雄に至るわけですが、揚雄の場合、規模がさらにすぼまってせまくなっています。
(毛萇は、儒学の重要なテキストの一つである『詩経』を後世に伝えるのに貢献したので、儒学にとっては重要な役割をはたした人物だとされています)。

(9)
 林希は、揚雄のことを「禄隠(社会のなかで自分の才智をつつみかくしてひけらかさずに生きている人)」と言ってほめています。
 後の人は、ただ揚雄の著書をみるだけで、揚雄のことをほめるべき人物と評価しようとしますが、どうして揚雄のことをほめることができるでしょうか。(揚雄は、漢王朝の簒奪をした王莽のもとで働いたのですから、ほめられた人間ではありません)。

(10)
 諸葛孔明には、王者の補佐役としての心はありましたが、道理に関しては認識がまだ不十分でした。王者は、私心のない天地のように、何か義(ただしさ)に反することをしてまでも天下を得ようとはしないものです。
 諸葛孔明は、劉備を必ず成功させようとして、劉備劉璋の治める益州を占領させました。しかし、聖人ならば、このときは成功を捨てます。それは、なすべきことではありません。(聖人は、侵略のための戦争はしません)。
 劉表の息子である劉琮の治める荊州が霸者の曹操に併合されそうになったとき、諸葛孔明が、劉備荊州を取らせて、劉氏をもりたてようとしたことなどは、してもかまいません。(聖人は、秩序回復のための戦争はします)。
諸葛孔明は、三国時代の有名な軍師で、蜀王朝のもとで漢王朝の復興、秩序の回復をめざしました)。

(11)
 諸葛孔明は、儒学者の気風をもっています。

(12)
 諸葛孔明は、礼楽(モラル)を再興できる人物です。

(13)
 文中子(王通)は、もともと世間から逃れて隠れ住んでいる君子の一人でした。文中子に関係ある人たちは、文中子から手に入れたいろいろな意見をまとめ、それに自分たちの意見を付け加えて、『中説』という書物にしました。その『中説』には多くの格言があります。荀子や揚雄などは、それに及びもつきません。(王通は、隨王朝の時代の思想家です)。

(14)
 韓愈もまた、近世の豪傑なる人物です。その著書『原道』に述べられている意見には欠点もありますが、しかし孟子が死んで以来、これほどの見識をもって道を探求した人は、ただ韓愈だけです。
 韓愈は、「孟子はまったく思想に濁りがない」と言ったり、「荀子や揚雄は、道を精選できてもいなければ、道を詳述できてもいない」と言ったりしています。もし韓愈が道について分かっていないのであれば、(孟子が死んで聖人の学問の継承が途絶えてから)千年あまりも後に、どうしてこのように断言することができたでしょうか。
(韓愈は、唐王朝の時代の文豪です)。

(15)
 学ぶこととは本来、徳(自分が本来もっている良さ)に磨きをかけることです。そして、「人徳のある人には必ず善言があるが、善言のある人が必ずしも人徳のある人であるとはかぎらない」(『論語』)ものです。(人徳が先で、善言は後です)。
 しかし、韓愈の学び方は、それとは反対でした。すなわち、りっぱな文章を学ぶことによって、日に日に自分の足りないところを探求していき、ついには心に得るところがあったのです。
 たとえば、韓愈は、「孟子が死ぬと、聖人の学が伝えられなくなった」と言っています。そのような言葉は、前人の言葉をまねた言葉でもなければ、何の根拠もなしに単なる思いつきで言った言葉でもありません。必ず何か所見があってのことです。もし何の所見もなかったのなら、孟子に至るまで代々にわたって伝えられてきた聖人の学とはいったい何であったのか、それについて何も言うことができなかったはずです。

(16)
 周濂渓は、物事にこだわらないさっぱりした心のもちぬしで、それはまるでうららかな暖かい風や、雨あがりの曇りのない月のようでした。
 役人として政治にたずさわっているときには、細かいところにまで注意して手落ちがないようにし、厳しさとやさしさをかねそなえ、つとめて理にかなったことをしていました。

(十七)
 伊川先生の書いた明道先生の伝記に、以下のようにあります。
 先生は、その生まれつきからしてすでに人とは異なっていて、しかも修養のやり方が道理にかなっていました。
 先生の心は、まるで純金のように純粋で、まるで宝玉のように温潤でした。先生の性格は、寛大でしたが(なあなあですませたりしない)厳しさももっていましたし、協調性がありましたが(周囲に流されることのない)主体性ももっていました。先生の忠(真心)と誠(誠意)は、鉱物をつらぬくほどでした。先生の孝(親への孝行)と悌(目上への謙虚さ)は、神様に通じるほどでした。先生の人柄に関して言うと、春の日の暖かさのように温厚な態度で人に接しました。先生の言葉に関して言うと、ほどよいときに降る雨のように人々の心に自然に入っていきました。先生の胸のうちは、何のとらわれもなく、何の隠すところもありませんでした。先生の蘊蓄はどのくらいかと言うと、大海のように広いものでした。先生の徳性はどのくらいかと言うと、どんな言葉をもってしても言い表せないほどでした。
 先生の生き方としては、つねに敬(しっかり)するように心がけ、何かするときには恕するようにしました。(恕=相手のことを思いやること)。何か善行を見ると、それをまるで自分のことのように喜びました。自分がされて嫌なことは、決して他人に対してしませんでした。仁(やさしさ)をなくさず、義(ただしさ)を行いました。言葉には真実があり、行動には節度がありました。(ウソをついたり、でたらめなことをしたりすることはありませんでした)。
 先生が本格的に学び始めたのは、15~16歳のときからです。周濂渓が道(道理)について論じているのを聞いてから、試験のための勉強を嫌うようになり、ためらうことなく道(道理)を探求する決意を固めました。しかし、そのときにはまだ、その要領をハッキリと知りませんでした。そのため、いろんな学者の説を広く学んだり、仏教道教に出入りしたりすることが、10年近く続きました。その後、もとに戻って儒学のテキストに道(道理)を求めたのですが、そうすると道(道理)を会得することができました。こうして先生は、物事の道理に明るくなり、人の道に通じるようになり、高遠なことを本当に分かるためには身近なことから学び始めることが必要だということが分かりました。(すなわち、本性をきわめつくし天命を知るに至るという高遠なことは、孝悌という身近なことにもとづいてますし、自然の摂理をきわめ自然の変化を知るという高遠なことは、忠信という身近なことから始まります)。そして、先生は、正しそうに見えて実は正しくない異端を批判し、長いこと払われずにいた惑いに突破口を開きました。秦王朝漢王朝の時代以来、こういった道理に到達できた人はいませんでした。
 そんな先生は、「孟子が死んで以来ずっと、儒学が正しく伝えられていない」と言って、真の儒学を復興することを自分の使命としました。
 先生は、こう言っています。
「道(道理)が明らかにされていないのは、異端が道(道理)を害しているからです。昔の異端の害は、その教えが身近で単純だったので、素人にも分かりやすかったのですが、今の異端の害は、その教えが複雑で巧妙なので、素人には分かりにくくなっています。
 昔、異端が人を惑わすときには、人の迷暗に乗じていましたが、現在、異端が人の心に入るときには、人の高明にはたらきかけます。異端は、「自然の摂理をきわめ、自然の変化を知っている」とみずから言っていますが、開物成務することはできません。(開物成務=①天命を知らせ、人生を成功させること。②人知を引き出して伸ばし、偉業を達成させること)。異端の言っていることは広きにわたっているのですが、その正体はと言うと、人の道からはずれています。異端は、深遠なことを究明し、微細なことをつきつめていますが、堯舜の道(聖人の道)に入ることができません。
 現今、世間の学問が、つまらなくて活気のないものになるのでなければ、必ず異端(宗教)に走るのは、道(道理)が明らかではないからです。そのため、でたらめな説やあやしげな説が次々に現れ、人々の耳や目をぬりつぶし、天下を精神的な汚濁のなかに溺れさせています。(耳をぬりつぶすとは、人の話に耳を貸さなくさせることです。目をぬりつぶすとは、人を盲目的にさせることです。両者は要するに人を偏狭にさせることです)。どんなにすぐれた人でさえ、(異端の教説にとらわれて)まちがった見聞をもち、なすことなくボンヤリと一生をおくり、自分で自分の真価に目覚めることがありません。
 以上はすべて正しい進路(正道)をさえぎるものであり、聖なる学問(儒学)への入り口をふさぐものです。それらを取り去ってはじめて、道に入ることができます」
 先生は、社会的には人々のなかに眠っている人徳を目覚めさせようとし、個人的には書物を通して道を明らかにしようとしました。しかし、不幸にも早死にしてしまい、すべては未完に終わりました。先生の道(道理)に関する詳細な研究のなかで、現在いくらか公表されているのは、先生のところで学んでいた人たちに伝えられたものだけです。
 先生のところには、多くの学ぶ人たちが集まってきました。先生の話は簡単で分かりやすく、賢者であれ、愚者であれ、その話を聞くだれもに何らかの収穫がありました。それは、たとえば、多くの集団が川で水を飲んで、それぞれが自分に必要なだけの水分を補給するようなものでした。(すなわち、先生のところでは、だれもが過不足なく、自分にちょうどよく学ぶことができました)。
 先生が人を教えるときには、(何の教育課程もなしに思いつきで教えるのではなく)きちんとした順序にのっとっていました。それには、たとえば、①「致知=自分の知恵をとことんまで伸ばすこと」から「知止=自分にふさわしい居場所を知ること」に至ること、②「誠意=みずからの心の声をいつわらないこと」から「平天下=天下を太平にすること」に至ること、③「掃除や応接」から「理をきわめつくし性をきわめつくすこと」に至ることなどがあります。
 そして、世間の学者(学生)が、近いところを捨てて遠いところに心をはせたり、低いところにいながら高いところにのみ目を向けたりして、そのために軽々しく自分を過大評価して、何の得るところもなく終わっているのを憂慮していました。(「高きに登るには卑きよりす」「下学上達」)
 先生は人に接する場合、客観的に相手の善悪をわきまえましたが(主観的な好みで相手を好いたり嫌ったりすることなく)だれとでもわけへだてなく交際し、感通することができました。(感通=①直感的に物事の本質をみぬくこと。②相手を感じ入らせて自分の気持ちが相手の心に通じること)。先生に教えられた人は、それにすなおに従いましたし、先生に怒られた人は、それをうらんだりしませんでした。先生は、賢者であれ、愚者であれ、善人であれ、悪人であれ、相手がだれであろうがその心をつかみました。先生の前では、ずるい人も誠(誠実)になりましたし、乱暴者も恭(丁寧)になりました。遠くで先生のうわさを聞いた人は本当に敬服し、近くで先生の人徳を見た人は心から尊敬しました。政治の中枢にいた、つまらぬ人たちは、先生と方針が違っていたので、ときに自分たちの利害を考えて先生を排斥することがありました。しかし、そんなつまらぬ人たちでも、退任して先生の私生活を見たとき、先生をりっぱな人だと思わない人はいませんでした。
 先生は、役人として政治にたずさわっていたとき、以下のようにしました。
①悪人を処罰するときには、その悪人がもとに戻って善くなれるようにはからいました。
②わずらわしい仕事をしていても、心にゆとりをなくしませんでした。
③政府からやってくる法令がややこしすぎる場合にも、先生は一般の役人たちのように法令を形式的に処理して責任のがれをしようとしたりなどしませんでした。
④他の役人たちが「法律に縛られているので何もできない」とぼやいているときでも、先生はよゆうしゃくしゃくでいろんな問題を処理しました。
⑤だれもが「それをするのは難しいことだ」と心配していることでも、先生はあっさりとそれをやってのけました。
⑥どんなにあわただしいときにも、先生はあわてふためいたりしませんでした。
 監察官が厳しい監察を行うときにも、先生に対しては、たいていそのだれもが寛大で温厚な態度で接しました。しかも、監察官たちが何かしようとするときには、かえって先生を頼りにしました。(それほど先生には信用があったのです)。
 先生が作った法律は、(これといって特別なものではなく)だれもがまねして作れるものです。しかし、人々を指導すればついてくるし、人々を動かせば協調するし、人々にこちらから求めなくても人々のほうから率先してやってくれるし、人々に信頼されようとしなくても人々に信頼されてしまうなどといったことになると、人はだれ一人として先生に及びもつきません。

(18)
 明道先生が言いました。
「周濂渓の家に行くと、窓の前の草がのびほうだいでした。その理由を聞くと、「私の心と同じで、生き生きしているんですよ」とのことでした」
(本註:張横渠は、ろばの鳴き声を聞いたとき、同じようなことを言いました)。

(19)
 張横渠は、皇太子が生まれると、(まるで自分のことのように)とても喜びました。
 また、餓死した人を見ると、(もうしわけなくなって)何を食べてもおいしくありませんでした。

(20)
 程明道はかつて、張横渠と興国寺で朝から晩までお互いの研究成果について話しあったことがあったのですが、そのとき、こう言いました。
「これまでに、ここでこのような話をした人があったでしょうか」

(21)
 謝顕道が言いました。
「明道先生は、一人で座っているときには泥人形のようにとっつきにくい人ですが、人と接するときには一団の和気で、人当たりが柔らかくて親しみやすい人です」

(22)
 侯師聖が言いました。
「朱光庭は、汝州で明道先生と会ったのですが、帰ってきてから「私は春の風のなかに一カ月いました」と言いました。
 また、游定夫と楊中立とが、はじめて伊川先生に会ったときのことです。伊川先生は二人と会って、静坐しました。二人は、そんな伊川先生のそばにかしこまって控えていました。伊川先生は目をあけて二人のほうを見ると、こう言いました。
「みなさんはまだ、ここにいたのですか。日も暮れたことですし、帰って休みなさい」
 二人が外に出ると、雪が一尺もつもっていました」
(程明道は春のように暖かい性格の人で、程伊川は冬のように厳しい性格の人であったそうです)。

(23)
 劉安礼が言いました。
「明道先生は、徳性が充実し完成していて、純粋で温和なようすが全身にあふれていました。楽しく柔らかで、人に対する思いやりの大きい人でした。私は30年も先生のもとで学んでいたのですが、いまだかつて先生が怒ってかっかしているところを見たことがありません」

(24)
 呂与叔の書いた明道先生の追悼文に、以下のようにあります。
 先生は、とてもすぐれた才能をもっていて、聖人になるための学問の要点をよく知っていました。広く学んでいろんなことを知っていて、知識をみずから実践して認識を深めました。人の道や物の理を明らかにして、それらの根源を探求していき、ついには心のしこりがさらりと解消し、道理の根本について見通すことができるようになりました。
 先生は、学んだことの要点をまとめることで、どんな事変に出会っても、それに対処できる能力を自分の心はもっているということを知り、また、世の中にはいろんな道理があるにしても、どんな道理も自分のなかに生まれながらに備わっているのだということを知りました。(『孟子』に、「人が学ばなくてもできること、これを良能と言います」「人が考えなくても知っていること、これを良知と言います」とあります。『孟子』では、そんな「良知」「良能」を、人間は生まれながらにして有しているとしています)。
 先生の主体的な生き方は、異端が一斉に攻撃しても曲げられないし、聖人が再び現れても変わらないでしょう。(先生の生き方は、聖人にひけをとるような生き方ではないので、つまらぬ異端ごときが曲げられるものでもなければ、聖人の前に恐縮してしまうようなものでもありません)。
 先生は、修養の結果、温和な雰囲気に満ちあふれていて、声や姿にそれが現れていました。しかし、遠くから見ると、崇高さにあふれていて、あなどりがたい雰囲気がありました。そして、何かあるとよゆうをもって処理し、あせったりなどしませんでした。しかし、「誠の心」と「親切心」については、それをなくさないようにしました。
 先生のもつ使命感は、とても強いものでした。そのため、聖人になるために学んでいるのになかなか聖人になれなくても、一つの善行で有名になろうとはしませんでした。(すなわち、名声を得ることを軽んじ、人徳を高めることを重んじたのです)。また、一人でも恵沢を受けていない人があることを憂慮しても、一時的に利することを自分の功績としようとはしませんでした。(すなわち、その場しのぎを軽んじ、遠大であることを重んじたのです)。
 先生は、とても自分を信じていて、自分の志を実現できるのであれば、そこから離れようとはしませんでしたし、自分の正義感が満足できるのであれば、たとえ低い地位についたとしても職務に精を出して励みました。

(25)
 呂与叔の書いた横渠先生の伝記に、以下のようにあります。
 康定年間(西暦1040~1041年)、敵国である西夏国との戦争があったとき、先生は18歳でしたが、「よし、軍隊に志願して戦場で活躍してやるぞ」と思いました。そこで、先生は、その旨を手紙にしたため、関係者の范文正(范仲淹)に会いました。
 范文正は、先生が将来性のある有望な人物であることをみぬき、その才能を開花させてあげたいと思いました。そこで、范文正は、「儒学者にはりっぱな教えがあるのに、どうして軍隊なんぞに入隊しようとするのか」と先生を戒め、先生に『中庸』を読むようにすすめました。
 先生は、すすめられた『中庸』を読み、もちろんそれを気に入ったのですが、何か物足りませんでした。そこで、さらに仏教道教に関係した書物に心を満たしてくれるものを求め、数年かかってそれらを研究しつくしました。しかし、何の得るところもないと分かったので、もとに戻って儒学のテキストに心を満たしてくれるものを求めました。
 嘉祐年間(西暦1056~1064年)の初めのころ、先生は首都で程明道と程伊川に会い、ともに道学(儒学)の要点について語りあいました。その結果、先生は、心にひっかかっていたもの(何か物足りない感じ)がさらりと解消し、自分を信じて「自分の道は、自分の外に求めるべきものではなく、自分で自分にもたらすべきものだ」と言いました。ここにおいて先生は、異端の学問をすべて捨て、すっきりさっぱりしました。
(本註:尹彦明が言いました。
「横渠先生は、首都に住んでいたとき、虎の皮の上に座って『易経』を講義していました。とても多くの人が、その講義を聞きに来ていました。ある晩、明道先生と伊川先生がやってきて、横渠先生と『易経』について論じあいました。その翌日、横渠先生は虎の皮をとりはらって、こう言いました。
「私がこれまでにしてきた『易経』の説明は、すべてまちがっていました。明道先生と伊川先生の二人がやって来ましたが、二人は『易経』とは何であるかについて深くよく分かっていて、私なんぞ二人にとうてい及びもつきません。みなさんは、これからは二人を先生とするといいでしょう」」)
 晩年、先生は、病気を理由に辞職すると、故郷に帰りました。引退してからの先生は、朝から晩まで一室にきちんと座り、書物を左右において、俯しては読み、仰いでは考え、何か得るところがあればそれを書き留めました。ときには、夜中に起き、明かりをつけて書き物をしたりすることもありました。先生は、道(道理)をめざしてくわしく考えることを、まったく弱めることもなければ、まったく忘れることもありませんでした。
 学ぶ人に学問について質問されることがあれば、たいてい「知と礼とが十分に身につくようにし、気質を変化する方法」「学ぶことは聖人になれるまで終わらないこと」などについて話しました。その話を聞いた人は、そのだれもがやる気を起こしました。
 先生は、かつて門人に対して、こう言ったことがあります。
「私の学び方は、こうです。心に何か得るところがあると、それをうまく言葉で表せるように努めます。うまく言葉で表せるようになってから、それにもとづいて事の判断をします。事の判断がまちがいなくできるようになってから、私は心から満足できます。義理(道理)を詳しく分かり、神の域に達するには、(考えなしに行きあたりばったりで行動したりせず)先を読んで行動するようにすることです」
 先生は、気質が剛毅で、人徳があふれていて、容貌がいかめしい人でした。しかしながら、人といるときには、その人といっしょにいる時間が長ければ長いほど、そのぶんだけ多くその人と親しくなりました。(つまり、先生は、見た目は親しみにくそうでしたが、実際は親しみやすい人でした)。
 家庭をよくしたり、人と交際したりするにあたっては、基本的に自分を正しくして人を感化するようにしました。(修己治人)。人に信じてもらえないときには、自分自身をふりかえって信じてもらえない理由をよく考えましたが、人には何も言いませんでした。人に分かってもらえなくても、気にせず行動して悔いを残しませんでした。
 ですから、先生のことを知っている人も、知らない人も、先生のうわさを聞くと畏敬しました。それで人々は、先生に対して理に反したことを少しも加えませんでした。

(26)
 横渠先生が言いました。
「程明道と程伊川の二人は、14~15歳のときから、だれよりも熱心に聖人の学を学ぼうとしていました」

【呂祖謙のあとがき】

『近思録』が完成しました。これに関して、「第一巻に収録されている、陰陽の変化や万物の本性についての説は、初めて学ぶ人にとっては分かりにくいことなのに、どうしてそれを最初に収録したのだろう」と疑問に思っている人もいるそうです。私はかつて、編集の意図を朱熹に聞いたことがあります。それによると、こういうことだそうです。
「確かに儒学を学び始めたばかりの素人には、儒学の諸理論の根本となっている義理(物事の道理)の大本について、分かりやすく説明することはできません。しかし、根本について何も知らなければ、どこにどう学問の足場を定めればいいのか、まったく見当がつかなくなってしまいます。ですから、最初にあのような内容のものを置いて、義理に関する重要語句の意味について分からせて、見通しがつくようにさせようとしたのです」。
 それ以外の巻に収録した「学問を研鑽する方法」や「ふだん実践する中身」などについては、すべてに順序があります。第二巻から第十四巻まで、じゅんじゅんに読み進んでいって、身近なことから高遠なことへと向かっていけば、編集の意図からはずれずにすむでしょう。
 もし、身近なことをバカにして高遠なことばかりに心をはせ、段階や順序を無視したり道教仏教などの空虚な教えに流されたりして、学問の足場をなくしてしまえば、どうして『近思録』の表題の一部である「近く思うこと(身近に考えること)」をすることができるでしょうか。この『近思録』を読むにあたっては、そのことについて十分に知っていることが必要です。

 淳煕三年(西暦1177年)4月4日 東莱の呂祖謙 謹んで記す。

RSS Feed

WordPress(feed) to Hatena Blog via email

IFTTT