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武経七書 呉子から学ぶ!一兵家、一為政者のあり方

武経七書とは、北宋・元豊三年(1080年)、神宗が国士監司業の朱服、武学博士何去非らに命じて編纂させた武学の教科書です。
当時流行していた兵書340種余の古代兵書の中から『司馬法』『孫子』『呉子』『六韜』『三略』『尉繚子』『李衛公問対』の七書が選ばれ、武経七書として制定されました。

その中の『呉子』は、春秋戦国時代初期、魏では名将、楚では法家の先駆をなした宰相として働いた呉起の著であろうといわれており、『孫子』と並称される兵書です。
ちなみに呉起は、76回戦って64回完全勝利し、残りは引き分けたという名将中の名将でしたので、実践的な兵書としての色が強いものになっています。
春秋戦国末期には「家ごとに孫呉の書を蔵す」(『韓非子』)とまでいわれていましたが、その割に現代では呉子の書は孫子ほどは読まれていません。
元々は四十八篇あったようですので、当然ながら孫子に比肩して堂々たる書物であったことが想像されますが、現存するのは、図国・料敵・治兵・論将・応変・励士の6篇だけです。

そんな『呉子』の、それぞれの趣旨をまとめてみました。

第一篇 図国
 主に君主が徳をもって治め人々に礼と義を教えるべきだという、治国について論じています。
第二篇 料敵
 具体的に諸国の特徴を挙げて、敵の内情をはかり考え、それによって戦うか否か、どう戦うかを論じています。
第三篇 治兵
 戦闘行動を円滑にするための訓練、行軍中の部隊の管理などについて論じています。
第四篇 論将
 全軍の統率者としての将軍のあるべき姿、採用の仕方について論じています。
第五篇 応変
 不測の変事に対し適切な処置をすることについて論じています。
第六篇 励士
 武功のあった者を饗することにより士を励ますことについて論じ、実際に武侯がそれを行って効果を挙げた様子を述べています。

臨機応変な戦い方・兵卒の管理・将軍の在り方などに始まり、国家を治め完備することで初めて戦争ができるという考えのもと、治国についても論じています。
また、卜筮などの制度を残しており、戦国時代の職業軍人という立場ゆえ、戦うことが前提となっている兵書という構成です。
呉子は、法家の政治統制に寄与したものとして、当時の中国史における意義は、途方も無く大きなものがあります。
孫子が政治に関わる立場からは書かれていないこともあり、それを補う意味でも古典としての意味は十二分にあります。
孫子ばかりに注目が浴びがちですが、そんな呉子を改めて見直す時代に来ているのかもしれません。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【序章】
呉起儒者の服を着て、兵法を説くため魏文侯に見えた。
文侯「わたしは戦争を好まない」
呉起「私は表に現れたことで隠れたものを見抜くことができますし、過去の事から未来を予見できます。主君よ、どうして心にもないことをおっしゃるのですか。今、君はいつも職人に獣の皮をはがせ、朱や漆で固め、彩色をほどこし、犀や象などの絵を書かせておられる。
冬にこれを着ても温かくないですし、夏にこれを着ても涼しくありません。
さらに長いもので二丈四尺、短いもので一丈二尺もの矛をつくり、革で覆われた兵車をつくり、車輪やこしきまでも革で覆っています。これは見た目にも美しいとは言えませんし、狩猟で用いても軽快ではありません。
いったい君は、これらを何にお使いになつおつもりですか。進撃や防禦のために準備をしておきながら、それらをよく使える者を求めなければ、例えば、牝鶏が野良猫に抵抗し、乳をふくませている犬が虎に立ち向かうようなものです。戦意があっても、自殺行為です。
むかし、承桑氏は徳を重んじて武備を廃止したために国を滅ぼしてしまいましたし、有扈氏は兵力を頼み武勇を好んだため国家を失いました。
聡明な君主はこれを教訓として、内には文徳をおさめ、外には武備を整えるのです。敵と対陣して進もうとしないのは義とはいえませんし、戦死者を見て悲しんでいるだけでは、仁とはいえません」
文侯はこれを聞いて、呉起のために席を設け、夫人に杯を持たせてもてなし、宗廟で呉起を将軍に任じ、西河を守らせた。
呉起は諸侯と戦うこと76回で、完璧な勝利は64回、残りは引き分けるという好成績を修めた。
魏が領土を四方に広げ、千里先までを版図としたのも、すべて呉起の功績であった。

【第一篇図国】

●兵機を以て魏の文侯に見ゆ。文侯曰く、寡人、軍旅の事を好まず、と。起曰く、臣、見を以て隠を占ひ、往を以て来を察す。
●昔の國家を図る者は、必ず先ず百姓を教へて万民を親しむ。
●道とは本に反り、始に復る所以なり。義とは事を行ひ功を立つる所以なり。謀とは害を去り利に就く所以なり。要とは業を保ち成を守る所以なり。
●然れども戦ひて勝つは易く、勝を守るは難し。故に曰く、天下の戦ふ國、五たび勝つ者は禍なり、四たび勝つ者は弊え、三たび勝つ者は覇たり、二たび勝つ者は王たり、一たび勝つ者は帝たり、と。是を以て数々勝ちて、天下を得る者は稀に、以て亡ぶる者は衆し。
●凡そ兵の起る所の者五有り。一に曰く、名を争ふ。二に曰く、利を争ふ。三に曰く、悪を積む。四に曰く、内乱る。五に曰く、飢えに因る。
●強國の君は必ず其の民を料る。
●君能く賢者をして上に居り、不肖者をして下に処らしむれば、則ち陳已に定まる。

呉子は言われた。
「昔から国を治めようとする者は、必ずまず百官を教育し、民と親しむことを第一とした。
四つの不和というものがある。国内が不和であれば、軍を発することはできない。軍内が不和であれば、陣を組むことができない。陣営内が不和であれば、進撃することができない。兵士が不和であれば、勝利を収めることはできない。
したがって道理をわきまえた君主は、民を戦に駆り立てようとすれば、まず和合をしてからはじめて事を起こす。独断専行することなく、必ず宗廟に報告し、亀甲を焼いて占い、自然の利にかなっているかを考えて吉と決まってはじめて兵を起こす。
民は、君がこのように自分達の生命を大切にし、死を惜しんでくれているのだと感じ入るにちがいない。そこで国難に臨めば、兵士は戦死することを名誉だと思い、退却して生き長らえることを恥じとするであろう。」

呉子は言われた。
「道とは、根本原理に立ち返り、始まりの純粋さを守るためのものである。義とは、事業を行い、功績をあげるためのものである。謀とは、禍を避け、利益を得るためのものである。要とは国を保持し、君主の座を守るためのものである。
もし行いが、道に背き、義に合わないのに、高位高官の地位に居れば、必ずその身に災いがふりかかるであろう。
そこで聖人は民を道によって安堵させ、義によって治め、礼によって動かし、仁をもっていつくしんできた。この四つの徳を守ってゆけば、国は盛んになり、実行しなければ国家は衰退する。
ゆえに商の湯王が夏の桀王を討ったときには夏の民は喜び、周の武王が商の紂王を討ったときには商の民は、これを非難しようとしなかったのだ。湯王や武王はいずれも四つの徳を守り、天の理法と民の意向にかなっていたからである」

呉子は言われた。
「国を治め軍を統括するには、必ず礼によって民を教育し、大義によって励まし、恥を知るようにしなければならない。民が恥を知るようになれば、力が大であれば攻撃して勝ち、力が小であれば守りぬくことができる。
しかし戦に勝つのはたやすいが、守って勝つのは難しい。ゆえに『天下の強国のうち、五度も勝ち続けた国は禍を招き、四度勝利した国は疲弊し、三度勝利した国は覇者となり、二度勝利した国は王者、一度勝利しただけで権力を保持した国は、天下の王となれる』といわれるのである。
連戦連勝して天下を手にした者は少なく、かえって滅んだ例が多いのはそのためである」

呉子は言われた。
「戦の原因には5つある。名誉欲、利益、憎悪、内乱、飢饉である。
また軍の名目にも5つある。義兵、強兵、剛兵、暴兵、逆兵である。
無法なことを抑え、乱世を救う兵を義兵といい、兵力を頼んで戦を仕掛ける兵を強兵といい、私憤から戦を仕掛ける兵を剛兵といい、礼節を棄てて略奪をほしいままにする兵を暴兵といい、国内が乱れ、民が苦しんでいるのに戦に駆り出される兵を逆兵という。
この5つの兵に対抗するには、それぞれの方策がある。
義兵には礼をもって和を求めることができ、強兵には謙虚に対応することで納得が得られる。剛兵には外交折衝であたり、暴兵には策略をもちい、逆兵には臨機応変の処置がよい」

魏武侯は呉起に尋ねた。
武侯「軍を整備し、人材を登用し、国家を強固にする方策を聞かせてほしい」
呉起「古の聡明な王は、必ず君臣の礼を尊重し、上下の身分をととのえ、官吏や民の生活を安定させ、資質に応じて教育し、人材を選び、不測の事態にそなえたのです。
かつて斉の桓公は、5万人の兵士を集めて覇者となり、晋の文公は、四万人の尖兵を招いて、その志を達成しました。秦の繆公は三万人の突撃兵を組織して、近隣の敵を屈服させました。
よって強国の君主は、必ず民の能力を調べ、活用しなければなりません。
民の中で肝のすわった勇者を集めて一卒とし、好んで戦い全力を挙げて武功を立てようとする者を集めて一卒とし、高い障壁を飛び越えたり遠い道を踏破したりできる者を集めて一卒とし、位を失って再起を図ろうとしている者を集めて一卒とし、城や陣地を棄てて敗走したことがあり、その汚名をそそぎたいと思っている者を集めて一卒とします。
これらの5つの卒は、軍の精鋭です。これが3000人もいれば、敵の包囲を破ることができますし、どんな城でも攻め落とすことができます」

武侯が尋ねた。
武侯「陣を張れば必ず安定し、守れば必ず堅固で、戦えば必ず勝つ方法を教えてほしい」
呉起「お聞かせするどころか、すぐにお見せすることができます。主君が日ごろから、優れた者を高い地位につけ、無能な者を低い地位にすえれば、すでに布陣は定まったも同然です。
民は生活に安んじ、役人に親しんでいるようであれば、守りは固いといえるでしょう。
百官がみな、わが主君を正しいと信じ、隣国を悪いと考えるようであれば、戦いは勝ったも同然です」

武侯は会議を開いたとき、群臣の中で武侯にまさる意見を述べる者がいなかった。朝廷を退出して武侯は満足そうであった。
呉起は進み出て言った。
「むかし楚の荘王が会議を開いたとき、群臣の中で武侯にまさる意見を述べる者がいませんでした。荘王は朝廷を退出して憂いの表情がありました。
申公が尋ねました。『なぜ、そのように沈んでおられるのですか』
荘王は答えて言いました。『わたしはこう聞いている。どのような時代にも聖人はおり、どのような国にも賢人はおり、そこから真の師を見出せる者は王者となり、友を見出せる者は覇者になれる、と。今、私は不才であるが、その自分に及ぶ者がいない。楚はいったいどうなるのだろうか』
このように荘王は心配したのに、君は喜んでおられる。わたくしはひそかにこれを懼れます」
これを聞いて武侯は恥じらいの色を見せた。

【第二篇料敵】
●それ国家を安んずるの道は、まず戒むるを宝となす。いま君已に戒む、禍それ遠ざからん。
●およそ敵を料るに、卜せずしてこれと戦うべきもの八つあり。一に曰く、疾風大寒に早く起きさめて遷り、氷を剖き水を済りて艱難を憚らざる。二に曰く、盛夏炎熱におそく起きてひまなく、行駆飢渇して遠きを取ることを務むる。三に曰く、師、すでに滝久して糧食あることなく、百姓は怨怒して妖祥数起こり、上止むること能わざる。四に曰く、軍資すでに竭き、薪芻すでに寡く、天、陰雨多く、掠めんと欲すれども所なき。五に曰く、徒衆多からず、水地利あらず、人馬疾疫し、四鄰至らざる。六に曰く、道遠くして日暮れ、士衆労懼し、倦んでいまだ食わず。甲を解きて息える。七に曰く、将薄く吏軽く士卒固からず、三軍数驚きて師徒助けなき。八に曰く、陣して未だ定まらず、舎して未だ畢らず、阪を行き険を渉り、半ば隠れ半ば出ずる。諸かくの如くなる者は、これを撃ちて疑うことなかれ。
●占わずしてこれを避くるもの六つあり。一に曰く、土地広大にして人民富衆なる。二に曰く、上その下を愛して恵施流布せる。三に曰く、賞は信、刑は察、発すること必ず時を得たる。四に曰く、功を陳べ列に居り、賢を任じ能を使える。五に曰く、師徒これ多くして兵甲の精なる。六に曰く、四鄰の助け、大国の援けある。およそこれ敵人に如かずんば、これを避けて疑うことなかれ。いわゆる可なるを見て進み、難なるを知りて退くなり。
●兵を用うるには必ず須く敵の虚実を審かにして、その危きに赴くべし。

武侯は呉起に言った。
武侯「今、秦はわが西方を脅かし、楚はわが南方を取り巻き、趙はわが北方を衝こうとし、斉はわが東方をねらい、燕は後方を遮断し、韓は前方に構えている。このように六国の軍が四方を囲んでおり、わが軍は不利である。どうしたらよいであろうか」
呉起「国家の安全をはかるには、まず警戒を怠らないことが一番です。今、君はすでに警戒しておりますので、禍をさけることができるでしょう。
六国の風習を述べさせていただきます。斉の軍は武力はあるが堅固ではなく、秦の軍はまとまりがないがすすんで戦います。。
斉の人は剛毅で、国も富んでいるが、主君も臣も驕り高ぶって、民をないがしろにしています。その政治は寛大ですが、俸禄は公正でなく、軍は統一しておらず、先陣がしっかりしていれば後陣は手薄になるという感じです。
これを討つには、必ず兵を三分して敵の左右を脅かした上で追撃することです。そうすれば敵軍を破ることができます。
秦の人は強靭で、地形は険しく、その政治は厳しくて、信賞必罰で、人も功を競い合い、みな闘争心が旺盛で、勝手に戦おうとします。
これを討つには、必ずまず利益を見せびらかせて釣り、兵を引きます。そうすれば敵は功をあせって統制を乱します。これに乗じて伏兵を繰り出し、機会を捉えれば、敵の将を虜にすることができます。
楚の人は軟弱で、国土は広く、政治は乱れ、民は疲弊しています。そのため規律があっても持久力が乏しいのです。
これを討つには、本陣を襲撃して敵の戦意を削ぎ、機敏に行動して敵を翻弄し、疲れさせることです。まともに戦う必要はありません。楚の軍は戦う前に敗北してしまいます。
燕の人はまじめで、民は慎重であり、勇気や義理を重んじて、策をめぐらすことは少なく、ゆえに守りを固めて逃げ出したりしません。
これを討つには、近づいたと見せて急に攻め、攻めるとみせて退き、追うとみせて背後にまわるなど、神出鬼没に行動することです。そうすれば必ず敵の指揮官はこちらの意図がわからず、部下は不安になります。兵車や騎兵を伏せ、敵をやり過ごして襲えば、敵将を虜にすることができます。
三晋は中央に位置するため、その性格は穏やかで、政治は公平です。しかし民は戦に疲れ、兵事に慣れています。そのため指揮官をあなどり、俸禄が少ないと不満をもらし、死をとして戦いません。ゆえに統制は取れていますが、実戦の役には立ちません。
これを討つには、対陣して相手を圧倒します。攻めてくれば阻み、退けば追撃するといったようにして、戦に嫌気を起こさせます。これが攻撃の自然の策というものです。
軍の中には、必ず猛虎のような兵士がいるものです。鼎を軽々と持ち上げる力を持ち、軍馬よりも早い足を持ち、敵の軍旗を奪い、敵将を斬ったりする者です。このような有能な士は、特別に選抜し、目をかけて尊重し、全軍の死活を制する存在だと呼ばせるようにします。
また様々な武器を操り、腕っ節が強く敏捷であり、敵をものともしない志がある者がいれば、必ず優遇すれば、必ず勝つことができます。
その父母妻子を手厚くもてなし、賞罰を明確にすれば、堅く陣を守る兵士をつくることができます。
これらのことを十分に注意すれば、倍する敵も討つことができます」
武侯「なるほど」

呉子は言われた。
「敵を分析する場合に、占いを立てるまでもなく、戦をするべき状況は8つある。
第一は風が強く、厳しい寒さで、敵が早朝に起きて移動したり、氷を割って河を渡り、難儀を顧みないでいる場合だ。
第二は、夏の真っ盛りの炎天下に、日が高くなっても起きず、起きると間もなく行軍し、飢え渇きながら行動しようとする場合だ。
第三は、軍が長い間戦場に止まり、食糧は欠乏し、百官の間に不満の声が高まり、奇怪な事件がしばしば起こっていながら、指揮官がこれをおさえきれない場合だ。
第四は、軍の資材がつき、薪やまぐさも少なくなり、雨が続き、物資を略奪しようにもその場所がない場合だ。
第五は、兵数も多くなく、水地の便も悪く、人馬ともに疲れ、どこからも援軍がこない場合だ。
第六は、行軍が長く日も暮れ、兵士は疲労と不安におそわれ、うんざりして食事もとらず、鎧を脱いで休息している場合だ。
第七は、指揮官の人望が薄く、参謀の権威も弱く、兵士の団結力が弱く、全軍がおびえていて、援軍がない場合だ。
第八は、布陣が完成せず、宿舎が定まらず、また険しい坂道を行軍して、到着予定の半分も着ていない場合だ。
このような場合は、攻撃をためらってはならない。
占わなくても、はじめから戦を避けなければならない場合が6つある。
第一は、土地が広大で民が豊かで、人口が多い場合。
第二は、君主が下々の者を愛し、恵みが国中に行き渡っている場合。
第三は、賞罰が公平であり、発する時期も時を得ている場合。
第四は、功績のある者に高い地位を与え、賢者や能力のある者を重用している場合。
第五は、軍団の兵士が多く、装備が整っている場合。
第六は、隣国や大国の助けがある場合である。
これらの点で敵にかなわないならば、戦を避けることをためらってはならない。絶対に勝てると見極めがついた上で進み、勝てそうもなければ退くことだ」

魏武侯が尋ねた。
武侯「わたしは、敵の外観を見て、その内部を知り、その進軍の様子を見て駐留の事がわかり、勝敗を決死たいと思う。このことについて、聞かせてほしい」
呉起「敵の進軍がしまりがなく、旗が乱れ、人馬とも振り返ることが多ければ、十倍する敵も討つことができます。必ず破ることができるでしょう。
同盟する諸侯が到着せず、臣君が和せず、陣地も完成しておらず、禁令が施されておらず、全軍が戦戦兢兢として進もうにも進めず、退くこともできないようであれば、敵の半数の兵でも討つことができます。百戦しても負けることはありません」

魏武侯は、敵を必ず攻撃しなければならない場合について尋ねた。
呉起「戦うときには、必ず敵の充実したところと手薄なところを察知し、その弱点を攻めることです。
敵が遠くから来て、到着したばかりで、まだ陣地も整わないときは、攻撃するべきです。また食事をし終えて、まだ防禦態勢が整っていない時も攻撃するべきです。
敵があちこちと走り回っているときは、攻撃するべきです。敵が疲れているときは、攻撃するべきです。敵が有利な地形を占領していないときは、攻撃するべきです。時勢を失っているときは、攻撃するべきです。長距離の行軍で、遅れた部隊が休息できていないときは、攻撃するべきです。河を渡ろうとして、軍の半分しか渡り終えていないときは、攻撃するべきです。険しい狭い道を行軍しているときは、攻撃するべきです。旗が乱れているときは、攻撃するべきです。陣営が忙しく移動しているときは、攻撃するべきです。将と兵士の心が離れているときは、攻撃するべきです。兵士がおじけづいているときは、攻撃するべきです。
およそこのような場合には、精鋭を選んで敵を討ち、兵を分けて追い討ちをかけ、激しく攻め立てることを疑ってはなりません」

【第三篇治兵】
●「先ず、四軽、二重、一信を明らかにす。」地をして馬を軽しとし、馬をして車を軽しとし、車をして人を軽しとし、人をして戦いを軽しとせしむ。
●兵は治を以て勝となす、衆にあらず。もし法令明らかならず、賞罰信ならず、これを金して止まらず、これを鼓して進まざれば、百万ありといえども、何ぞ用に益さん。
●凡そ軍を行るの道、進止の節を犯すことなく、飲食の適を失うことなく、人馬の力を絶つことなし。この三つの者は、その上の令に任ずるゆえんなり。その上の令に任ずるは、すなわち治のよりて生ずるところなり。
●兵戦の場は、止屍の道なり。死を必すれば生き、生を幸すれば死す。
●将たる者は、漏船の中に座し、焼屋の下に伏するが如し。智者をして謀るに及ばず、勇者をして怒るに及ばざれば、敵を受くること可なり。故に曰く、兵を用うるの害は、猶予、最大なり。三軍の災は狐疑に生ず。
●兵を用うるの法は、教戒を先となす。一人戦いを学べば十人を教え成し、十人戦いを学べば百人を教え成し、百人戦いを学べば千人を教え成し、千人戦いを学べば万人を教え成し、万人戦いを学べば三軍を教え成す。
●戦いを教うるの令は、短者は矛戟を持ち、長者は弓弩を持ち、強者は金鼓を持ち、弱者は厮養に給し、智者は謀主となす。郷里あい比し、什伍あい保つ。一鼓して兵を整え、二鼓して陣を習い、三鼓して食をうながし、四鼓して弁を厳め、五鼓して行に就く。鼓声の合うを聞きて、然る後に旗を挙ぐ。
●三軍の進止の道、天竈に当ることなかれ。竜頭に当ることなかれ。天竈とは大谷の口なり。竜頭とは大山の端なり。
●卒騎を畜うに、むしろ人を労するも、慎みて馬を労するなかれ。常に余りあらしめ、敵の我を覆うに備えよ。よくこれを明らかにする者は、天下に横行せん。

魏武侯は尋ねた。
武侯「兵を進めるには、まず何をすべきか」
呉起「まず四軽、二重、一信を明らかにすべきです」
武侯「どういうことか」
呉起「四軽とは、地が馬を軽いと感じ、馬が車を軽いと感じ、車が人を軽いと感じ、人が戦を軽いと感じるようにさせることです。
地形をつぶさに見極めたうえで馬を走らせば、馬を軽快に走らせることができます。まぐさを適当に与えれば、馬は車を軽いと感じるでしょう。車に油を十分にさせば、車は円滑に動き、人を軽いと感じるでしょう。武器が鋭く甲冑が堅固であれば、人は戦いを楽だと感じるでしょう。
進む者には重い賞を与え、退いた者には重い罰を加えることを二重といいます。その実施にあたっては厳正に実行することを信といいます。以上のことを実行できれば、勝利はまちがいありません」

武侯が尋ねた。
武侯「勝利は何によって決まるのか」
呉起「軍を統率することで勝利を収めることができます」
武侯「兵の多さに関係はないのか」
呉起「もし法令がゆきわたらず、賞罰も公正を欠き、鐘を叩いても停止せず、太鼓を打っても前進しないようでは、100万の大軍といえども、何の役にも立ちません。
治とは、平生では礼節が守られ、行動を起こすときには威厳があり、進むときには阻むことができず、退く時には追撃できず、進退に節度があり、左右両翼の軍も指揮に呼応し、分断されても陣容を崩さず、分散しても隊列をつくることができ、安全な時も危険な時も、将兵が一体となって戦い、いくら戦っても疲労することがないことであり、このような軍を派遣すれば、天下に敵するものはありません。これを名づけて父子の兵をいいます」

呉子は言われた。
「行軍に際しては、進退の節度をくずさず、飲食を適切に取り、人馬の力を消耗させてはならない。
この3点は、兵卒が上からの命令に耐えることのできる条件である。上からの命令に耐えることは、軍隊がよく統率されている状態を生み出すものである。
もし進退に節度なく、飲食が適切ではなく、人馬ともに疲労しておりながら、なおかつ休息させないのは、兵卒が上からの命令に耐えられなくなる原因である。上からの命令に耐えられなければ秩序も乱れ、戦えば敗れることになるのだ」

呉子は言われた。
「戦場とは屍をさらすところだ。死を覚悟すれば生き延びることができるが、生きることを望めば逆に死を招く。
良将というものは、穴のあいた舟に乗り、燃えている家で寝ているように、必死の覚悟をしているからこそ、智者がいくら謀をめぐらそうと、勇者が猛って襲ってこようとも、これらを相手にすることができるのだ。
ゆえに『優柔不断を避けるべきである。全軍の禍は、懐疑から生まれる』と言われるのだ」

呉子は言われた。
「人は自分の能力を超えた事態に遭遇して倒れ、自由にならない状況に出会って敗れる。
したがって戦争のためには、教育や訓練が必要である。一人が戦を学べば、その効果は十人に及び、十人が戦を学べば、その効果は100人に及び、100人が戦を学べば、その効果は1000人に及び、1000人が戦を学べば、その効果は1万人に及び、1万人が戦を学べば、その効果は全軍に及ぶ。
近くにいて遠くの敵を待ち、余裕を持って敵の疲れるのを待ち、満腹の状態で敵が飢えるのを待つ。円陣を組んだかと思えば方陣を組み、座ったかと思えば立ち、前進したかと思えば止まり、左に行ったかと思えば右に行き、前進したかと思えば後退し、分散したかと思えば集中する。
このようにどんな変化に対しても習熟し、その兵を訓練する。これが将軍の役割である」

呉子は言われた。
「戦の訓練で、背の低い者には長い矛を持たせ、背の高い者には弓や弩を持たせる。力の強い者には旗を持たせ、勇敢な者には鐘や太鼓を持たせる。力の弱い者は雑用に使い、思慮深い者は参謀とする。同郷の者同志を一組にし、十人組、五人組で連帯の責任を持たせる。
一度目の太鼓で武器を整え、二度目の太鼓で陣立てを整え、三度目の太鼓で食事をとり、四度目の太鼓で武器を点検し、五度目の太鼓で進軍の状態にさせ、そして太鼓の音が揃ってはじめて、旗をかかげるのである」

魏武侯が尋ねた。
武侯「全軍の行動には、何か決まった方法があるのだろうか」
呉起「天のかまどや竜の頭はさけるべきです。天のかまどとは深い谷間の入口であり、竜の頭とは大きな山のふもとのことです。
必ず青竜の旗を左に、白虎の旗を右に、朱雀の旗を前に、玄武の旗を後ろに立て、招搖の旗を中央にかかげて、その下で将は指揮を行います。
いよいよ戦おうとするときは、風がどこから来るか見極め、順風のときは敵を攻め、逆風のときは陣を固めて待機します」

魏武侯が尋ねた。
武侯「軍馬を飼うのに、なにかよい方法があるか」
呉起「馬は環境を良くし、水や草を適度に与え、腹具合を調整し、冬は厩舎を温め、夏にはひさしをつけて涼しくし、毛やたてがみを切りそろえ、注意深く蹄を切り、耳や目をおおって物に驚かないようにし、走り方を学ばせ、留まりかたを教育し、人と馬がなれ親しむようにして、はじめて実用することができます。
鞍、おもがい、くつわ、手綱などはしっかりとつけます。馬というものは仕事の終わりよりも、始まりに駄目になるもので、腹が減った時ではなく、食べ過ぎたときに駄目になるものです。
日が暮れてもまだ道が遠い時には、時には降りて休ませることです。人はくたびれても馬を疲れてさせてはなりません。いつも馬に余力をもたせ、敵の突撃の襲撃に備えることです。
このことを十分にわきまえているものは、天下を横行できます」

【第四篇論将】
●将の慎むところの者五つあり。一に曰く理、二に曰く備、三に曰く果、四に曰く戒、五に曰く約。理とは衆を治むること寡を治むるがごとし。備とは門を出ずれば敵を見るが如し。果とは敵に臨めば生を懐わず。戒とは克つといえども始めて戦うが如し。約とは法令省きて煩わしからず。命を受けて家に辞せず、敵破れて後に返るを言うは、将の礼なり。故に師出ずるの日、死の栄ありて生の辱なし。
●鼓金鐸は耳を威すゆえん、旌旗麾幟は目を威すゆえん、禁令刑罰は心を威すゆえんなり。耳は声に威ず、清ならざるべからず。目は色に威ず、明ならざるべからず。心は刑に威ず、厳ならざるべからず。三者立たざれば、その国を有つといえども、必ず敵に敗らる。故に曰く、将の麾くところ、従い移らざるなく、将の指すところ、前み死せざるなし。
●兵に四機あり。一に曰く、気機、二に曰く、地機、三に曰く、事機、四に曰く、力機。三軍の衆、百万の師、軽重を張設すること一人にあり、これを気機と謂う。路狭く道険しく、名山大塞、十夫の守るところは千夫も過ぎず、これを地機と謂う。善く間諜を行い、軽兵往来してその衆を分散し、その君臣をしてあい怨み、上下をして、あい咎めしむ、これを事機と謂う。車は管轄を堅くし、舟は櫓楫を利にし、士は戦陣を習い、馬は馳逐を閑う、これを力機と謂う。この四つのものを知れば、すなわち将たるべし。然れどもその威徳仁勇は、必ず以て下を率い、衆を安んじ、敵を怖し、疑いを決するに足る。令を施して下あえて犯さず、在る所にして寇あえて敵せず。これを得て国強く、これを去りて国亡ぶ。これを良将と謂う。
●戦いの要は必ず、先ずその将を占いて、その才を察し、その形に因りてその権を用うれば、労せずして功挙がる。その将愚にして人を信ずるは、詐りて誘うべし。貪りて名を忽せにするは、貨もて賂うべし。変を軽んじ謀なきは、労して困しましむべし。上富みて驕り、下貧しくて怨むは、離して間すべし。進退疑い多く、その衆依ること無きは、震わして走らしむべし。士その将を軽んじて、帰志あらば、易を塞ぎ険を開き、邀えて取るべし。
●両軍あい望んでその将を知らず。我、これを相んと欲す。賎しくして勇ある者をして、軽鋭を将いて以てこれを嘗み、北ぐるを務めて、得るを務むる無からしむ。敵の来るを観るに、一座一起、その政もって理まり、その北ぐるを追うには佯りて及ばざるを為し、その利を見ては佯りて知らざるを為す。かくの如き将は、名づけて知将となす。与に戦うことなかれ。もしその衆讙譁し、旌旗煩乱し、その卒自ら行き自ら止まり、その兵あるいは縦、あるいは横、その北ぐるを追うには及ばざるを恐れ、利を見ては得ざるを恐る。これを愚将となす。衆しといえども獲べし。

呉子は言われた。
「文武を統括できる者こそ、軍の将たるものである。剛柔を兼ねることが、戦争の技術である。
一般に人々は、将を論ずる場合に、いつも勇気という観点から見る。しかし勇気は将軍としての条件の何分の一かである。
そもそも勇者は、戦を軽々しく考えがちだ。戦を軽くみて戦の利害が分からないようでは、まだまだである。
将の慎むべき点が五つある。一は管理、二は準備、三は決意、四は自戒、五は法令の簡略化である。
管理とは、大部隊をあたかも小部隊を治めるように掌握して統率することである。準備とは、ひとたび門を出れば、いつ敵に襲われてもいいように備えることである。決意とは、敵を眼の前にして決死の覚悟を持つことである。自戒とは、勝っても初心を忘れずに警戒することである。法令の簡素化とは、形式的な煩雑さを忘れて、わかりやすくすることである。
命令を受ければ家人に別れを告げることもなく、敵を撃ち破るまで家人のことを言わないのは、将としての礼である。
ゆえに軍が出陣する日に際しては、命を棄てる栄誉をとることはあっても、生き長らえて恥辱を受けることはないはずだ」

呉子は言われた。
「戦には四つの好機がある。第一は精神による好機、第二は土地による好機、第三は状況による好機、第四は力による好機である。
全軍の兵士、100万の大軍の動きが充実するかどうかは将軍の気によるものだ。これを精神による好機という。道が狭くて険しく、高い山の要塞では、10人の兵卒でも1000人の敵を防ぐことができる。これを土地による好機という。
間諜を放ち、軽装備の兵を発して敵の兵力を分散させ、君主と臣下の心を切り離し、将と兵がお互いに非難しあうようにしむける。これを状況による好機という。車の楔を堅固にし、舟の櫓や櫂を潤滑にし、兵士をよく訓練させ、馬は良く走るように調教しておく。これを力による好機という。
この四つのチャンスを知ってはじめて将となることができるのである。その上に威徳や仁勇が具わっておれば、必ず部下を統率し、民を安心させ、敵をおののかせ、疑問が生じても迷うことなく判断することができる。また命令を下しても部下は違反することなく、その将さえおれば敵もあえて向かってこない。そのような人物を得れば国は強くなり、失えば滅びてしまう。こんな人物こそ、良将というべきである」

呉子は言われた。
「太鼓や鐘は、耳を通して軍の威信を兵卒に伝えるためのものである。旗や采配ののぼりは、目を通して軍の威信を兵卒に伝えるためのものである。禁令や刑罰は、心を通して軍の威信を兵卒に伝えるものである。
耳は音によって印象づけられるから、澄んでいなければならない。目は色彩によって印象づけられるから、あざやかでなければならない。心は刑罰によって印象づけられるから、厳しくしなければならない。
この3つの方法がしっかりしていなければ、その国は一時は栄えても、必ず敵に破れてしまう。
ゆえに『名将の指揮するところ、従わない者はなく、名将の指示するところ、進んで死を選ばない者はいない』と言われるのだ」

呉子は言われた。
「戦いの要点は、必ずまず敵将のことをよく調べてその才能を見抜き、相手の動きに応じて臨機応変の処置をとれば、苦労せずして功をあげることができる。
敵将が愚直で軽々しく人を信用するようであれば、だまして誘い出すことができる。貪欲で恥知らずな者であれば、賄賂をつかませて買収することができる。状況の変化を軽く考える思慮のない将であれば、いろいろな策をつかって疲れ苦しめることができる。
敵将が富んで驕り高ぶり、部下が貧しくて不満をもっているようであれば、これを助長し、離間させることができる。
敵将が優柔不断で、部下が何を頼ったらわからないようであれば、驚かせて敗走させることができる。
兵が敵将を軽んじて帰郷の心があるようであれば、逃げ易い道を塞いで険しい道を開いておき、迎え撃って殲滅することができる。
進みやすく退却が難しい場所では、敵が行き過ぎてきたところを討てばよい。
進みにくく退きやすい場所では、こちらから討って出ればよい。
敵軍が低湿地に駐屯していて、水はけが悪く長雨が続いているようであれば、水攻めで溺れさせるのがよい。
敵が荒れた沢地に駐屯していて、雑草や潅木が繁茂しておりつむじ風が吹いているようであれば、火攻めで焼き滅ぼすのがよい。
敵が駐屯して動こうとせず、将兵ともにだらけ、軍備も十分でない場合は、深く侵入して奇襲するのがよい」

魏武侯が尋ねた。
武侯「両軍が対峙して、まだ敵将のことがよく分からない時、それを知るにはどうすればよいか」
呉起「身分は低いが勇気のあるものを選び、敏捷で気鋭の兵士を率いて試みてみることです。彼らにはもっぱら逃げることをさせ、勝利を収めようとさせてはなりません。
敵が追ってくるのを観察し、兵卒の一挙一動を見て軍規がゆきわたっているかを見ます。追撃する時もわざと追いつけないようにみせたり、有利とみてもわざと気づかないふりをして誘いに乗らないようであれば、それは智将というべきで、戦うべきではありません。
その反対に、部隊がさわがしく、旗は乱れ、兵卒はばらばらに動き、隊列が縦になったり横になったりして整わず、逃げる者を追おうとしてあせり、利益があると思えばやたらそれを得ようとする。これは愚将というべきで、どんな大軍といえども捕虜とすることができます」

【第五篇応変】
●卒に敵人に遇い、乱れて行を失わば、これをいかんせん。「およそ戦いの法、昼は旌旗旛麾を以て節となし、夜は金鼓笳笛を以て節となす。左に麾きて左し、右に麾きて右し、これを鼓すれば進み、これを金すれば止まり、一たび吹きて行き、再び吹きて聚まる。令に従わざる者は誅す。三軍威に服し、士卒命を用うれば、戦うに強敵なく、攻むるに堅陣なし。」
●もし、敵衆く、われ寡きときは、これを為すこといかん。「これを易に避け、これを阨に迎えよ。故に曰く、一を以て十を撃つは阨より善きはなく、十を以て百を撃つは険より善きはなく、千を以て万を撃つは阻より善きはなし、今少卒あり、卒に起りて阨路に撃金鳴鼓すれば、大衆ありといえども、驚動せざることなし。故に曰く、衆を用うる者は易を務め、少を用うる者は隘を務む。」
●よく千乗万騎を備え、これに徒歩を兼ねて、分けて五軍となし、各一衢に軍せよ。それ五軍五衢すれば、敵人必ず惑いて、加うるところを知るなからん。敵もし堅く守りて、以てその兵を固くせば、急に間諜を行りて、以てその慮を観よ。彼わが説を聴かば、これを解きて去らん。わが説を聴かず、使いを斬り書を焚かば、分けて五戦をなし、戦い勝つとも追うことなかれ。勝たずんば疾く走れ。かくの如く佯わり北げ、安かに行き疾く闘い、一はその前に結び、一はその後を絶ち、両軍枚を銜み、或いは左し或いは右して、その所を襲え。五軍交至れば、必ずその利あり。これ強を撃つの道なり。
●敵近くして我に薄らんに、去らんと欲すれども路なく、我が衆甚だ懼るれば、これを為すこといかん。「これをなすの術、もし我衆くかれ寡ければ、分けてこれに乗ぜよ。かれ衆く我寡ければ、方を以てこれに従え。これに従いて息むなきときは、衆しといえども服すべし。」
●もし敵に谿谷の間に遇うに、傍らに険阻多くして、かれは衆く我は寡くば、これを為すこといかん。「諸に丘陵林谷、深山大沢に遇うときは疾く行き亟に去り、従容たるを得ることなかれ。もし高山深谷に、率然としてあい遇わば、必ずまず鼓譟してこれに乗じ、弓と弩とを進め、かつ射、かつ虜にせよ。審かにその政を察し、乱るればこれを撃ちて疑うことなかれ。」
●左右に高山あり、地甚だ狭迫なるに、卒に敵人に遇い、これを撃つはあえてせず、これを去ることも得ざれば、これを為すこといかん。「これを谷戦という。衆しといえども用いず。わが材士を募りて敵とあい当り、軽足利兵、以て前行となし、車を分け騎を列ねて、四傍に隠し、あい去ること数里、その兵を見わすことなかれ。敵必ず堅く陣して、進退あえてせざらん。ここにおいて旌を出し旆を列ね、行きて山の外に出てこれに営せよ。敵人必ずれん。車騎これを挑んで、休むを得しむることなかれ。これ谷戦の法なり。」
●われ敵と大水の沢にあい遇いて、輪を傾け轅を没し、水は車騎に薄り、舟楫は設けず、進退得ざるときは、これを為すこといかん。「これを水戦と謂う。車騎を用うることなかれ。且くそれを傍に留めよ。高きに登り四望せば、必ず水情を得ん。その広狭を知り、その浅深を尽くし、すなわち奇をなして以てこれに勝つべし。敵もし水を絶らば、半ば渡らしめてこれに薄れ。」
●天久しく連雨し、馬陥り車止まり、四面敵を受け、三軍驚駭せば、これを為すこといかん。「およそ車を用うるには、陰湿なれば停まり、陽燥なれば起ち、高きを貴び、下きを賤しむ。その強車を馳せ、もしくは進み、もしくは止まるには、必ずその道に従え。敵人もし起たば必ずその迹を逐え。」
●暴寇卒かに来たりて、わが田野を掠め、わが牛馬を取らば、これをいかんせん。「暴寇の来たるは、必ずその強を慮り、善く守りて応ずることなかれ。かれ暮に去らんとす。その装必ず重く、その心必ず恐れん。還退すること速かなることを務めて、必ず属せざることあらん。追いてこれを撃たば、その兵覆すべし。」
●およそ敵を攻め城を囲むの道、城邑すでに破るれば、各その宮に入り、その禄秩を御し、その器物を収めよ。軍の至るところ、その木を刊り、その屋を発き、その粟を取り、その六畜を殺し、その積聚を燔くことなかれ。民に残心なきことを示し、その降を請うあらば、許してこれを安んぜよ。」

魏武侯は尋ねた。
武侯「車は堅牢で、馬はよく、将は勇ましく、兵は強いけれども、突然敵の急襲を受け、混乱して隊伍が乱れた場合、どうすればよいか」
呉起「およそ戦のきまりとして、昼は旗や采配を用いて合図と定め、夜は鳴り物を用いて合図とします。采配を左に振れば兵は左に動き、右に振れば兵は右に動きます。太鼓をたたけば進み、鐘をならせば停止します。さらに一度笛を吹けば行進し、二度吹けば集合します。命令に従わない者は罰します。全軍が威光になびき、士卒が命令どおりに動けば、戦うところ強敵なく、攻めるところ堅陣なしです」

魏武侯は尋ねた。
武侯「もし敵が大軍で、自軍が少ない場合は、どうすればよいか」
呉起「平坦な土地では戦闘を避け、狭く険しい地形にさそいこむのがよいでしょう。だからこそ『一の兵力で十の敵を討つには、狭い土地よりよい場所はなく、十の兵力で百の敵にあたるには、険しい土地よりよい場所はなく、千の兵力で万の敵にあたるには、障害の多い土地よりよい場所はない』と言われるのです。
今、かりに少数の兵士がいたとして、不意をついて狭い土地で鐘を鳴らして太鼓をたたいて攻めれば、大軍といえども驚き慌てるものです。ゆえに『多数の兵を用いるときは平原が有利で、少数の兵を用いるときは狭い土地での戦いが有利だ』といわれるのです」

魏武侯は尋ねた。
武侯「敵の兵力が非常に多く、武勇に優れており、大きな山を背にして要害の地に拠り、右手に山、左手に川、堀を深くして砦を高くし、強弩をもって守っており、退く時は山のように堂々としており、進む時は雨風のようにはげしく、兵糧も十分で、長期戦になってもこちらが不利になる場合、どうすればよいか」
呉起「この質問は重要です。これは戦車や騎馬などの力ではありません。聖人の智謀、すなわち戦略上の問題です。
千輌の戦車、一万の騎馬兵を備え、さらに歩兵を加え、全軍を五つに分け、それぞれの道に布陣させます。五つの軍が五つの道に布陣していれば、敵は必ず迷って、どこを攻めればよいか分からないでしょう。敵が固く守るようであれば、急いで間者を送り込み、敵の意図を探ることです。
敵がこちらの言い分を聞けば、囲みを解いて去るべきです。聞き入れずに使者を斬って、文書を焼き捨てるようであれば、いよいよ戦闘開始です。
たとえ戦いに勝っても追い討ちをかけてはいけません。勝てなければすばやく退却することです。
このように余力を残してわざと逃げ、整然と行動して、すばやく戦い、ひとつの軍は前方の敵をくぎづけにし、ひとつの軍は後方を分断し、別のふたつの軍は、馬に枚をふくませてひそかに左右に動かして急襲し、五軍が次々に攻め立てれば、必ず勝利できるでしょう。これが強敵を攻める方法です」

魏武侯は尋ねた。
武侯「敵が近づいてわが軍に迫り、退却しようとしても道がなく、兵卒が不安におちいった場合はどうすればよいか」
呉起「これに対処するには、もし敵が少数でわが軍が多数であれば、部隊を分散して代わる代わる敵を討ちます。もし敵が多数でわが軍が少数であれば、策をめぐらせて相手の隙を狙い、継続的に敵を攻めれば、たとえ多数であっても屈服させることができます」

魏武侯は尋ねた。
武侯「もし敵に渓谷でぶつかり、周囲は険しい地形が多く、しかも敵が多数でわが軍が少数の場合、どうすればよいか」
呉起「丘陵や森林、深い谷や険しい山、大きな沼沢地にあえば、すばやく通過することです。万一、深山幽谷でいきなり敵と遭遇したら、必ず先手を取って太鼓をたたいて敵を驚かせて、弓や弩を射掛けながら攻め立て、敵を捕え、敵軍の混乱を見極めます。そこでためらうことなく追撃して、疑ってはなりません」

魏武侯は尋ねた。
武侯「左右に山がそびえ立ち、地形は狭く、身動きできないようなところで、急に敵に遭遇してしまい、あえて攻撃することもできず、退却することもできない場合は、どうしたらよいか」
呉起「これを谷戦といいます。
多数の兵がいても役に立ちません。味方の兵のうちから武術に優れた者を選んで敵に当たらせます。そして身の軽い兵を先頭に立たせて、戦車や騎兵を分散させて四方に潜ませます。敵との距離を数里に保ち、相手に見つかってはなりません。
そうすれば敵は必ず陣を固く守って、進退できないでしょう。そこで旗を押し立てて、山かげから現れれて陣を立てます。そうすれば敵は必ずおそれます。そこで戦車と騎馬を出動させ、休む間もなく攻めかかることです。これが谷戦の戦い方です」
魏武侯は尋ねた。
武侯「敵と大きな沢沼地で遭遇し、車輪はぬかるみに落ち、轅は水につかり、水は車にせまり、舟の用意もなく、進退に窮した場合は、どうすればよいか」
呉起「これを水戦いといいます。
戦車や騎兵を用いることなく、しばらく待機させ、高いところに登って四方を望み見れば、必ず水の状況がわかります。その幅の狭いところ広いところ、浅いところ深いところがわかります。そこで策略をめぐらせれば敵に勝てます。もし敵が水を渡って攻めてきたならば、半ば渡ったところを攻めるべきです」

魏武侯は尋ねた。
武侯「長雨続きで、馬はぬかるみに落ち、戦車も動かないようなときに、四方から敵の攻撃を受け、全軍が驚き慌てふためいた場合は、どうすればよいか」
呉起「そもそも戦車を用いるには、雨天や湿気のある時には用いず、晴れて湿気がない時に動かすものであり、土地の高いところがよく、低いところは避けるべきです。頑丈な戦車を走らせ、進むにしても止まるにしても、必ずその道理に従うようにします。敵がもし行動を起こしたならば、そのあとを追っていくべきです」

魏武侯は尋ねた。
武侯「凶悪な敵がいきなり侵入してきて、わが国土を侵し、牛や馬を略奪していくような場合は、どうすればよいか」
呉起乱暴な敵が侵入してくるときは、必ず自分の力を頼んでのことです。ですから守りを固めて敵に応じてはなりません。敵が日暮れになって退却するときには、戦利品で動きが鈍くなり、恐れているので、帰りを急ぎ、部隊も乱れます。そこで追撃すれば、勝利はまちがいありません」

呉子は言われた。
「およそ敵を攻め、城を囲むには、方法がある。城邑をすでに攻略し、それぞれの宮殿に入れば、その財貨を奪い、その品物を収めよ。軍が駐屯した土地では、材木を切り、建物を荒らし、食糧を取り、家畜を屠り、財産を焼き払うことのないようにして、民にその心がないことを示せ。降服してくる者があれば、それを許して安心させてやることである」

【第六篇励兵】
●武侯問いて曰く、「厳刑明賞、以て勝つに足るか。」
起対えて曰く、「厳明のことは臣悉すこと能わず。然りといえども恃むところにあらざるなり。それ号を発し令を施して、人、聞かんことを楽しみ、師を興し衆を動かして、人、戦わんことを楽しみ、兵を交え刃を接えて、人、死せんことを楽しむ。この三つの者は、人主の恃むところなり。」
武侯問いて曰く、「これを致すこといかん。」
対えて曰く、「君、有功を挙げて、進めてこれを饗し、功なきをばこれを励ませ。」
ここにおいて武侯、坐を廟廷に設けて、三行を為りて士大夫を饗す。上功は前行に坐せしめ、席に重器上牢を兼ぬ。次功は中行に坐せしめ、席の器差減ず。功なきは後行に坐せしめ、席に重器なし。饗おわりて出ず。また有功の者の父母妻子に廟門の外に頒賜す。また功を以て差となす。
事に死するの家あれば、歳ごとに使者を遣わしてその父母に労賜し、心に忘れざることを著す。
これを行うこと三年、秦人師を興して西河に臨む。魏の士これを聞き、吏の命を待たずして、介冑してこれを奮撃するもの、万を以て数う。
武侯、呉起を召して謂いて曰く、「子の前日の教え行なわる」
起対えて曰く、「臣聞く、人に短長あり、気に盛衰あり。君試みに無功の者五万人を発せよ。臣請う、率いて以てこれに当らん。脱しそれ勝たずんば、笑いを諸侯に取り、権を天下に失わん。いま、一死賊をして広い曠野に伏せしめば、千人これを追うも、梟視狼顧せざるなからん。何となれば、その暴に起ちて己れを害せんことを恐るればなり。ここを以て一人、命を投ぜば、千夫を懼れしむるに足らん。いま、臣五万の衆を以て、一死賊となし、率いて以てこれを討たば、まことに敵し難からん」
ここにおいて武侯これに従い、車五百乗、騎三千匹を兼ねて、秦五十万の衆を破れり。これ励士の功なり。
戦いに先だつ一日、呉起三軍に令して曰く、「諸の吏士当に従いて敵の車騎と徒とを受くべし。もし、車、車を得ず、騎、騎を得ず、徒、徒を得ざるときは、軍を破るといえどもみな功なし」
故に戦いの日、その令煩わしからずして、威、天下を震わせり。

魏武侯が尋ねた。
武侯「刑罰を厳しくして賞を明らかにすれば、勝利を得られるだろうか」
呉起「信賞必罰については、臣には語り尽くすことができません。しかし賞罰は、勝利の頼みとなるものではないでしょう。そもそも号令を発して法令を公布するとき、それに喜んで服従し、軍を出動させ、人々がこぞって戦い、敵を刀を交え、命を投げ出そうとする。この3つは、君主の頼りとなるものです」
武侯「そのようになるにはどうすればよいか」
呉起「主君が功績ある者を取り立てて饗応し、功績のなかった者を励ますようにすることです」
そこで武侯は廟前で宴会を開いて、家臣たちを3列に並べて饗応した。最高の功績をあげた者は前行に座らせて、上等の器に上等の料理を盛ってもてなした。それに次ぐ功績をあげた者は次の列に座らせて、皿数もやや少なくした。功績のなかった者は後の列に座らせて、料理の数をわずかにした。また、饗宴が終わると、功績ある者の父母妻子には、廟の門外でみやげ物を贈った。そのときも功績ある者とない者で差をつけた。戦死した者の家族には、毎年、使者を送ってその父母をねぎらって、贈物をして、功績を忘れないでいることを知らせた。これを行うこと3年。秦が軍を興して西河に進軍してきた。魏の臣はそれを聞くと、命令を待たずに装備を整えて奮って敵を討とうとする者が数万におよぶほどであった。

武侯は呉起を召して言った。
武侯「あなたの教えどおりやってみたのだが」
呉起「人には短所と長所があり、意欲には盛んになるときと衰えるときがあります。功績のなかった者を試しに5万人ほど徴集してみてください。わたしはこれを率いて敵と戦いましょう。もし勝てなければ、諸侯の物笑いの種となり、天下の主導権を失うことになります。今、死にもの狂いの賊が一人、野に潜んでいたとします。これを1000人で追ったところで、ビクビクして落ち着かないのは、追っ手のほうです。なぜならば賊がいつ襲ってくるかと恐れるためです。ですからひとりが命を投げ出す気になれば、1000人の男を恐れさせることができます。今、わたしは5万の兵をこの死にもの狂いの賊のようにして、敵を討てば、かならず勝つことができるでしょう」
そこで武侯は、その進言に従った。戦車500乗、騎馬兵3000人をもって、秦軍50万を破った。これは士を励ました結果である。
戦いの前日、呉起は全軍にふれて言った。
「各吏士たちよ、戦車、騎兵、歩兵それぞれに対応して戦え。戦車隊が敵の戦車隊を打ち破れず、騎馬隊が敵の騎馬隊を打ち破れず、歩兵隊が敵の歩兵隊を打ち破ることができなければ、敵を破ったとしても、功績があったといえない」
このようにしたため、戦いの当日には、命令を下すまでもなく、勢威が天下を震撼させたのである。

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武経七書 孫子から学ぶ!処世哲学の在り方

武経七書とは、北宋・元豊三年(1080年)、神宗が国士監司業の朱服、武学博士何去非らに命じて編纂させた武学の教科書です。
当時流行していた兵書340種余の古代兵書の中から『司馬法』『孫子』『呉子』『六韜』『三略』『尉繚子』『李衛公問対』の七書が選ばれ、武経七書として制定されました。

その中の『孫子』は、中国古典兵法書として知られる「武経七書」の中でも最も有名な兵法書であり戦略書です。
孫子』は中国で最も古い兵法書でありながら、十分な内容を持っているので「孫子以前に兵書なく、孫子以後に兵書なし」とまで言われます。
しかも、他の中国古典の中でもこれ程日本人に親しまれ、活用されてきたものはないくらいの書物です。
おそらくは世界でも最も著名な中国古典になるのではないでしょうか。
ここ数年だけ見ても数多の関連書籍が出ていますので、どれかしら目に触れたり手に取られたりしていることかと思います。

孫子』は黄帝兵法書孫武自身の経験に基づいた兵法を加えており、処世哲学の書としても不朽の名著とされています。
孫武は教養の低い兵士を機能させるために、人間心理の機微をつくことで、どんな人間でも使いこなせる統御術を考え出してまとめました。
こうした分かり易い点が、未だに親しまれている一因ともいえるでしょう。

なお『漢書』芸文志には「孫子兵法八十二篇圖九卷」とあり、篇数が現行本とはずいぶん異なっています。
なお現代では、13篇が経文で、残り69篇は注釈などではないかと言われているようです。
13篇から成る『孫子』。
前六篇が戦略、後七篇が戦術にかかわる内容で構成されています。
以下、各篇のポイントです。

第一 始計篇
 ・戦争の前によく熟慮すべきこと
 ・状況判断の大切さについて。
 ・戦争とは国家の大事であるから、熟慮せよ。
 ・五つの条件で戦おうとする相手と自分の実情を比べ、勝敗を判断せよ。
 ・戦争は騙し合いである。実情を相手に見せてはならない。相手を騙して動かせ。

第二 作戦篇
・戦争を始めるについての軍費、計画、状況判断の基準となる金とモノ
・戦争にはとにかく金がかかるので、長引くと損害が増えるだけでいいことはない。
・食糧は現地調達し、俘虜も優遇して味方にせよ。
・戦争の有害な面を熟知しておかねばならない。

第三 謀攻篇
・謀による攻撃つまり「戦わずして勝つ」為の戦略について
・戦わずに勝つのが最善である。
・相手と自分の規模に応じて戦い方を変えよ。
・君主はやたらに軍に口出ししてはいけない。
・相手と自分の情況をよく理解することが大事である。

第四 軍形篇
・攻守の態勢について
・相手に勝利を与えない態勢を作って待ち、相手が敗北の態勢になる機会を掴め。
・優勢な軍事力を集中させ、かつそれを勢いよく動かして加速し力を得るのが「形」である。

第五 兵勢篇
・その態勢から発動する勢いについて
・究まりない「奇」「正」の運用によって勝利を得る。
・すばやい運動により生じる「勢」と瞬発力の「節」によって勝利を得る。

第六 虚実編
・主導制の把握について
・機先を制して主導権を握り、相手をこちらの思いのままに動かせ。
・相手にこちらの態勢を知られないようにすれば、相手の力を分散させられる。
・相手の態勢に応じてこちらの態勢も変えるので、決まった形の勝利というものはない。

第七 軍争編
・戦術の原則
・機先を制するために競うことが重要であるが、危険もともなう。
・相手の心理状態を利用して戦え。
武田信玄で有名な「風林火山」もこの編からの引用で、軍隊をどのように動かすべきかが記載されています。
 「その疾きこと風の如く、そのしずかなることは林の如く、侵掠することは火の如く、動かざることは山の如く」(其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山)

第八 九変編
・戦時における各種矛盾の解決策について
臨機応変に対処せよ。
・必ず利害両面のことを考えよ。
・将軍の性格に起因する五つの危険に注意せよ。

第九 行軍編
・合理的な情報活動
・駐屯地には土地に合わせて有利な場所を選べ。
・敵の様子によって情況を判断せよ。
・兵士には普段から規律を守らせ将軍と心を一つにさせよ。

第十 地形編
・リーダーシップの本質
・合戦する場所の地形による対処方法を熟知しておくべきである。
・軍隊・兵卒の管理には注意せよ。
・敵味方の情況と天地の情況を理解し判断することが重要である。

第十一 九地編
・人間と組織の管理について
・戦場の種類によって対処方法に注意せよ。
・兵卒を戦わざるを得ない情況に追い込み、率然(大蛇の名)の如く戦わせよ。

第十二 火攻編
・火攻めの論、戦争の哲学
・火攻めには種類があり、ふさわしい時期を考えて行え。
・戦争とはとりかえしのつかない損害をともなうものであるから、必ず慎重にせよ。

第十三 用間篇
・スパイに関する論、情報の本質
・勝つために信頼できる情報を得よ。
・五種類の間諜をうまく使って敵情を知ったり、敵を混乱させたりせよ。

孫子』では、戦争とは騙し合いであり、戦わずして勝つ、それが最上の策であるとまで言わしめています。
これは、戦争の本質と実体にきちんと向き合っている内容となっている優れた兵法書というだけでなく、現代においても十二分に通用する考え方です。
・実戦前に自軍と敵軍の条件を冷静にして綿密に比較検討する
・準備万端に図り、自軍が勝てる状況とする策を練る
・敵軍の正確な情報を得る反面、自軍の情報は決して漏らさない
・実戦では臨機応変に対応し、柔軟な陣形にて望む
といった、非常に慎重で細かい配慮が行き届いた内容となっていますが、この軍を人や会社に当てはめてみた場合、腑に落ちることが満載されています。
これは、各編をそれぞれ読み進めてみると更に細かく参考にできることに気付かされることからも明らかです。
数千年前の兵法書であり戦略書である『孫子』が今の時代でも読み継がれているのは、そこに処世哲学の真理が分かり易く記されているからです。
古典に学ぶの言葉を噛み締め、この混沌とする時代の局面で状況を判断するための指南書のひとつとして活用していきたいものです。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【第一 始計】
孫子曰く、戦は国の大事である。国の死活、国家の存亡に関連する。よくよく考えねばならない。
すなわち5つの条件ではかり、7つの条件で比較検討して状況を判断する。
5つの条件とは、道・天・地・将・法である。
道とは、民が統治者と心を同じにし、死生をともにすることをためらわないようにさせることである。
天とは、陰陽、寒暖などの自然現象のことである。
地とは、遠近、険易、広狭、死生などの地勢のことである。
将とは、智、信、仁、勇、厳などの将軍の能力のことである。
法とは、編制、服務規律、装備のことである。
この5つの条件は、将軍であれば誰でも聞いていることであるが、よく理解している者は勝ち、そうでない者は敗れる。
よく知るには次の7つの条件を検討して状況を判断する。

すなわち、どちらの君主がよい政治をしているか。
どちらの将軍が有能か。
自然現象と地勢はどちらに有利か。
法令はどちらがよく行われているか。
軍はどちらが強いか。
士卒はどちらがよく訓練されているか。
賞罰はどちらが明確に行われているか。
これらを検討すれば、私なら戦う前に勝敗がわかる。

この私の献策を将軍が採用すれば、必ず勝つ。
そうすれば私は留まって献策するでしょう。
採用しなければ、必ず敗れる。
そうすれば私は去るでしょう。
戦場でわたしの状況判断が採用されれば、勢いを生じ、廟堂の外、戦場における戦いが有利になる。
勢いとは、合理的判断の上に立ち、情勢に応じ臨機応変の処置を行うところに生まれる。

戦いには、敵をあざむく駆け引きをする必要がある。
例えば、能力があるのに能力がないように、ある戦法を用いているのに用いていないように、近くにいるのに遠くにいるように、 遠くにいるのに近くにいるように見せかける。 利益を見せて敵を誘い出し、敵を混乱させて勝ち、戦力が充実していても慎重策を取り、強いのに敵の攻撃を避け、敵を脅してその勢いをくじき、 下手に出て敵を驕らせ、敵が楽をしている時は、これを疲弊させる。敵の同盟国と親しくして、敵国との離間を謀る。

敵の備えがない所を攻め、敵の思いがけないことをする。
これが兵法家の勝ち方であるが、その前に合理的手法を取得することが必要である。

開戦前の宗廟での軍議で、勝利した者は、その軍議で勝利の見込みが多かった。
開戦前の宗廟での軍議で、敗北した者は、その軍議で勝利の見込みが少なかった。
つまり勝利の見込みが多ければ勝ち、少なければ負ける。
まして勝つ見込みが無いのに勝てることはない。
合理的に判断すれば、勝算の多少、有無は開戦前でも必ず分かる。

【第二 作戦】

孫子曰く、戦いにおいて、快速戦車1000輌、輸送車1000輌、武装兵10万を千里の遠くに遠征させ、これに糧秣を送れば、国の内外での軍費、外交費用、武具の膠や漆の購入費、 武装兵や馬を養う費用などのために、1日に1000金を必要とする。10万の軍を動かすにはこれだけの出費が必要なのである。

よって戦で勝っても長期戦になれば、兵力を弱め士気を衰えさせ、城を攻めれば戦力を消耗させる。
また軍を長い間、軍を戦場におけば、国費は不足する。

兵力を鈍らせ、士気を衰えさせ、戦力を使い果たし、国庫を窮乏させれば、諸侯はこの疲弊につけこみ、軍を起こして叛き、たとえ有能な臣がいても収めきれない。

それ故、戦いは速やかに戦って勝利をおさめることは聞いても、長くかかって、よい結果を得たためしがない。
まして長期戦になって国に利益をもたらしたということは、例が無い。
故に兵を用いる危険を知らない者は、兵を用いて利益を得ることを知ることが出来ないのである。

善く兵を用いる者は、二度と徴兵せず、糧秣を三度も戦地に送らず、軍費は本国で調達するが、糧秣は敵地で調達する。
ゆえに糧秣に不足することはない。

戦争で国が貧しくなるのは、遠征して輸送距離が遠くなるからである。
輸送距離が遠くなれば民は貧窮する。
軍の付近にいる者は足もとを見て、品物を高く売る。
高く売るので軍費は増大して、民は困窮する。
民の財が尽きれば労役に駆り立てられる。
力が屈し、国家の財は欠乏し、民の財は空になる。民はその財産の七割を失う。国家は破損した戦車、疲労した馬、甲冑、弓矢、大型矛、大楯、役牛、荷車などの補修のため、 国費の六割を失う。
故に智将はつとめて敵国の食糧によって軍を養う。
敵国の食糧1鐘はわが国の20鐘の価値があり、敵国の馬糧1石はわが国の20石に相当する。

敵を圧倒するには敵愾心が必要である。
敵の利を取るためにはその財貨を奪うことである。
戦車戦にて戦車10乗を奪ったら、真っ先にその者を表彰し、捕獲戦車の旗印を味方の物に代えて戦列に加え、敵の兵をよく待遇してそのまま使う。
これこそ敵に勝って、さらに戦力を増す方法である。

戦いは勝つことが大切であるが、勝っても長引いてはいけないのである。
速戦即決が戦いの要諦であることを知る将は、国民の生死、国家の安危を担うことのできる者である。

【第三 謀攻】

孫子曰く、戦いは国に損害を与えないことを上策とし、敵国を破ることは次策である。
軍に損害を与えないことを上策とし、敵軍を破ることは次策である。
旅師団に損害を与えないことを上策とし、敵の旅師団を破ることは次策である。
卒に損害を与えないことを上策とし、卒を破ることは次策である。
隊伍に損害を与えないことを上策とし、隊伍を破ることは次策である。
ゆえに百戦百勝することは、最善ではない。
戦わずして敵を屈服させるのが、最善なのである。

最上の戦い方は、武力行使前に敵の謀略を見抜くことである。
その次は、敵国を孤立させることである。
その次は、武力を使って攻めることである。
下策は、城を攻めることである。
城を攻めるのはやむをえない場合に限る。
城攻めの機器を整えるのには3ヶ月もかかる。
土を盛って城壁を登る路を作るのに3ヶ月もかかる。
将は耐えきれなくなって人海戦術で強攻し、軍の三分の一を失い、しかも城を落とすことができない。これが城攻めを忌む理由である。

戦い上手は、敵軍を屈服させるが、戦った結果ではない。
敵城を落とすが、それは攻めた結果ではない。
敵国を破るが、長期戦の結果ではない。
必ず損害を受けない方法で天下を争う。
したがって自軍に損害を与えることなく、完全に利益を得ることができる。
これが謀をもって敵を攻める戦法である。

戦い方は、戦力が敵に10倍であればこれを包囲し、5倍であればこれを圧倒し、2倍であれば敵を分散させ、同等であれば兵法を駆使して戦い、 少なければ逃げ、かなわないと思ったら最初から戦わない。
小兵力で大兵力の敵に戦いをしかければ捕虜になる。

将は国君の補佐役である。
将と君の関係がよければ国は必ず強く、関係が悪ければ国は必ず弱い。
軍が君主のことを患えるのは次の3つのことである。
戦況が進むべきではないことを知らずに進めと言い、戦況が退くべきではないことを知らずに退けと言う。これを軍を束縛するという。
軍政を知らない君主が、将軍の軍政に干渉すれば、将兵は迷う。
用兵を知らない君主が、将軍の用兵に干渉すれば、将兵は疑う。
全軍が迷い疑えば、諸侯はこの隙を見て反乱を起す。
これを自ら軍を乱して勝ちを失うという。

勝ちを確信できる5つの条件がある。
戦ってよい時と戦ってはいけない時を知る者は勝つ。
彼我の戦力比に応じた戦法を使うことのできる者は勝つ。
上下が共通の利害を認めている場合は勝つ。
よく配慮している者がそうでない敵に対する場合は勝つ。
将が有能であり、君主がこれに干渉しないものは勝つ。
この5つの条件は勝ちを知っている者にある。

故に言う、敵を知り己を知っていれば、百戦しても危ういことはない。
己を知っていても敵を知らなければ、勝敗は半々である。
敵を知らず己も知らなければ、必ず敗れる。

【第四 軍形】

孫子曰く、古の名将はまず負けないように備えてから、敵に勝つ隙を待った。
敵が勝てないようにするのは、自分のやり方次第である。
敵に隙ができるかどうかは、敵のやり方次第である。
ゆえに名将は、負けないようにすることは自分の努力でなんとかなるが、敵に隙を作らせて勝つことはなんともできないことがある。
よって古来、勝つべき方法は知ることはできても、実際に勝つことは難しいと言うのである。

勝てないものは守勢になる。
勝てるものは攻勢になる。
守りになるのは、国に不足があるからである。
攻めることができるのは、国に余剰があるからである。
守るには地の底に潜るようにし、攻めるときには高い天空から見下ろすようにする。
こうすれば敵に負かされることなく、よく敵に勝つことができる。

誰もが勝利を知ることができるような戦いは、善の善であるものとは言えない。
世の人が善い戦いであると評価した戦いも、善の善であるものとは言えない。
動物の細い毛を持ち上げても力持ちとはされず、太陽や月が見えるからといっていい目であるとは言われず、 雷の音が聞けても、よく聞こえる耳とは言われない。
古の名将は、勝ちやすいようにしておいてから勝つのである。
よって名将が勝っても、名作戦という評判や手柄を立てるということがない。
よって敵と戦って勝つことは間違いない。
間違いないとは、戦えば必ず勝つということである。
なぜならすでに敗れている敵と戦って勝つからである。
名将は不敗の立場にたって、敵の敗北の要素を失わないのである。

勝つ軍は、まず勝つ見通しをつけてから戦い、敗れる軍は、まず戦いを始めてから勝つ見通しをさがす。
名将は、道・天・地・将・法を理解して実行する。
よって勝敗を思うようにすることができる。

兵法には手順があり、度、量、数、称、勝がある。

戦場の地形を利用するのが度。
度は量(投入する戦力の判断)を生み、
量は数(軍の編成を定める)を生み、
数は称(配備の重点を決める)を生み、
称は勝(勝ちの見通しをつける)を生む。
すなわち勝兵は、鎰(20両の重い物)をもって銖(24分の1両の軽い物)の兵力と戦うようなものであり、敗兵は銖をもって鎰の兵力と戦うようなものである。
名将は蓄えた水の堰を切り、深い谷に流し落とすような戦い方をして勝つのである。

【第五 兵勢】

孫子曰く、少数の兵を統率するのと同じように多数の兵を統率できるのは、編成がよくできているからである。
少数の兵を戦わすのと同じように多数の兵を戦わすことができるのは、命令系統がよくできているからである。

軍が敵の攻撃を受けても絶対に敗れないようにするのは、奇と正の使い分けである。
軍を敵に差し向けると、固い石を卵にぶつけるような威力を発揮させるのは、虚と実をよく見分けることである。

戦いは正をもって敵にあたり、奇をもって勝ちを決すものである。
奇に熟達した者は、次々と妙手を出して、天地が万物を生み出すようであり、黄河や長江の水のように尽きることが無い。
終わったと思えばまた始まるのは月日のようである。
死滅してまた生起するのは春夏秋冬の変転のようであり、音は五音にすぎないが組み合わせによってできる曲は無限である。
色も五つにすぎないが、組み合わせによってできる色は見極められない。
味も五つにすぎないが、調理によってできる味は無限である。
戦の基本は奇正の二つにすぎないが、その組み合わせは無限である。
奇正が生じ、その変転循環して終わるところが無く、
その終始は誰にもわからない。

激流が石を浮かし流すようなことができるのは勢いである。
猛鳥が軟らかい羽で小鳥の骨や翼を砕くことができるのは、打撃の時機が適切であるからである。
このように名将の攻撃は、勢いが激しく、瞬間的な威力を発揮する。
勢いは張っている弓矢のようであり、好機を狙ってその一瞬に発射するようなものである。
戦でわが軍は非常に入り混じり混乱しているように見えるが、
その実は統制がとれているから、円を画いて陣を展開するから破られないのである。
乱と治、怯と勇、弱と強は元来同じもので、容易に変わりやすい。
治乱は編成の良否によって決まる。
勇怯は軍勢の有無によって決まる。
強弱は軍形の状態によって決まる。
敵を動かす名将は、敵をこちらの動きに応じて動かせ、こちらが利益を示せば敵は必ずこれを取ろうとする。
ゆえに利を見せて敵を誘い出し待ち構えた本陣がこれを討つ。
名将は勢いよって勝ちを得ようとし、将兵の努力ばかり依存しない。
すなわち個人をあてにしないで、集団としての勢いを重視する。
このような名将が軍を動かすと、木石を転がすように自然であり、軽快である。
木石というのは、安定すれば静止するし、傾けば転がり、方刑にすれば静止し、円刑にすれば転がる。
名将が円石を高い山から転がすように軍を動かすのは、勢いの活用を知っているからである。

【第六 虚実】

孫子曰く、敵に先んじて戦地に到着して敵を待ち受ける者は有利に戦うことができ、 遅れて戦地に到着する者は、消耗した戦力で戦わなければならない。
よって名将は、自分の思うように戦況を動かして敵に動かされることはない。

自軍に有利なところでも敵が好んでやってくるのは、利益をかざして戦うからである。自軍に不利なところでも敵がやってこないのは、 損害を与えるようにしむけるからである。
よって敵を苦労させ、満腹でいる敵を飢餓に落としいれ、平静にしている敵を動揺させることができる。
敵の必ず行く所へは先手を取り、敵の予期しないところへ行って意表をつくことができる。

千里の行軍をしても疲労しないのは、敵の抵抗のない所を行くからである。
攻撃すれば必ず取るのは、敵が防御していない所を攻めるからである。
防御して必ず堅固なのは、敵が攻撃できない所にいるからである。
ゆえに名将が攻めれば、敵はどう守ってよいかわからないのである。
名将が守れば、敵はどう攻めたらよいかわからなくて困惑する。

微妙なるかな、微妙なるかな、このような軍は敵に見えなくなってしまう。
神秘なるかな、神秘なるかな、このような軍は敵に聞こえなくなってしまう。
ゆえに敵の死命を制することができるのである。

進軍して敵が防御できないのは、敵の備えのない所を攻めるからである。
撤退するのに敵が追撃できないのは、行動が迅速で敵が追いつけないからである。
わが軍が戦おうと思えば、たとえ敵が城壁を高くし堀を深く掘っても、それを棄てて出撃しなくてはならなくなるのは、 敵がどうしても救わなければならないところを攻めるからである。
わが軍が戦うまいと思えば、地に線を引くことだけで防御しようとしても、敵に攻められないのは、敵が攻めるべきでない所にいるからである。

敵の作戦を暴露させ、わが軍の作戦を秘匿すれば、わが軍は戦力を集中して分散した敵を攻めることができる。
自軍がまとまって一となり、敵が分かれて十となれば、自軍の十をもって敵の一を攻めるようなものである。
すなわち自軍は衆で、敵は寡となる。
衆をもって寡を撃つということは、自軍が戦いたいところで戦うことができることである。
自軍が戦いたいところは、敵が知らないところである。
敵が知っていれば、敵はそれに備えて衆となる。
敵が備えて衆となれば、必然と自軍は寡となる。
すなわち前方を備えれば後方が手薄となり、後方を備えれば前方が手薄となり、左を備えれば右が手薄となり、右を備えれば左が手薄となり、 すべて備えようとすれば手薄にならない所がなくなる。
受身になっているから兵力が足りなくなるのである。
主導権を握れば、敵を寡にして自軍を衆にすることができる。

ゆえにあらかじめ戦の地を知り、戦う日を決め、主導権を握ることができれば、千里の地でも有利に戦うことができる。
戦いの場所も時日も知らなければ、左右の部隊が互いに救援できないし、前後の部隊が互いに救援ができなくなる。

まして数十里、数里も部隊を分散させてしまえば、各個撃破される。

私が見るところ越軍は多数であるが、多数であることが勝ちにつながるとは限らない。
わが軍は多数の力を発揮させないような作戦で勝つべきである。
敵が多数といっても、戦うことができないようにさせるのである。
あらかじめ彼我の利害得失を検討し、敵の反応を見て、敵の態勢を暴露させて、地形の有利不利を知り、敵と接触して配備の厚薄を知る。

軍の最高の形は、敵にわからなくさせたものである。
こうすれば深く侵入する間者でも、わが軍の事情を窺い知ることはできないし、敵の知恵者も策を立てることができない。 敵の現わした形に応ずる戦法によって、衆に勝つのであるが、多くの人にはそれがわからない。
人は皆、わが軍が勝った状況は知っているが、勝った要因である無形の妙を知らない。
同じような勝ち方を繰り返さず、敵の形に無限に応じるのである。

軍のとる形は水に似ている。
水は高いところを避けて低い所に流れ、軍は抵抗の多いところを避けて抵抗の弱いところを攻める。
水が地形によって流れを決めるように、軍は敵情に応じた勝ち方を決める。
軍に決まった能勢なく、水に常形はないのである。
敵の変化に対応して勝ちを収めることこそ、神技というものである。
五行は互いに勝ち負けを続け、春夏秋冬も常に変化し、日も短長を繰り返し、月も満ち欠けを繰り返す。兵に常勢がないのはこのようである。

【第七 軍争】

孫子曰く、戦いにあたっては、将軍は君主の命を奉じ、軍隊を集め、国民を徴兵し、出征軍を編成して集中し、態勢を調える。
軍が戦って利を争うことより難しいものはない。
軍が利を争うのが難しいのは、回り道を近道とし、不利を有利に変えることである。
敵よりも回り道を進む時は利益で敵を釣って遅らせたり、出発が敵より遅れても敵より早く到達することができるのは迂直の計を知る者といえる。

軍争の目的は利益獲得だが一歩誤ると多きな危険をともなう。
全軍を挙げて前進すれば行動が遅くなり利を得られない。軍を各部隊に分ければ速度の遅い輜重隊は捨てられる。
甲冑を捨てて昼夜かまわず走り続け、行程を倍にして強行軍をして百里も前進すれば、三軍の将は敵の捕虜となり、体力の弱い者は脱落し、 10人に1人の者だけ残る。
五十里の行軍で利を争えば、前軍の将は戦死し、兵の半分は脱落する。
三十里の行軍で利を争えば、戦場に到達できるのは三分の二である。
軍は糧秣がなければ戦えない。
糧秣を集積した倉庫がなければ戦えないものである。

諸侯の考えていることがわからなければ外交はうまくできない。
山林、険阻、河川湖沼などの地勢を知らないものは、軍をまとめることはできない。
道案内を使用しない者は、地形を有利に活用することができない。
用兵の要点は自分の作戦を敵に察知されず、利を求めて動き、状況に応じて兵力の配分を行うことである。
軍の行動は、風の如く迅速に、林の如く整然と緩徐に、火のように激しく攻撃し、山のように泰然として動かない。その姿や計画は暗闇のようにわからず、 行動は雷鳴のように激しい。
物資を調達するには軍を分散し、土地を占領した時には各部隊に有利な地を守らせ、兵力はなるべく分散させない。
このように迂直の計を知る者は勝つのである。
これが軍争の要訣である。

戦場では、指揮官の声は遠くまで届かないから、鐘や太鼓を信号とする。
指揮官の位置、行動は遠くから見えないから、旗で合図をするのである。
鐘や太鼓、旗は将兵の情報を斉一にし、意図統一をはかるものである。
将兵の心気を専一にすれば、勇者も一人で勝手に進まず、卑怯者も勝手に退くことをしない。
これが多数の人間を指揮する方法である。
夜の戦いには松明や焚火を多くし、昼の戦いには旗を多く用いるのは、敵の耳目を疑わせるためである。

よって戦いは敵の気と敵将の心を奪うことが肝心である。
人の気力は、朝は新鋭で、昼は鈍り、夜は衰える。
だから善く兵を用いる者は敵の気の新鋭なときを避け、衰えるときに撃つのである。
これを気を治めるという。
自軍の将兵の心を治めて敵の乱騒に乗じる。
これを心を治めるという。
近くに布陣して遠くからの敵を待ち、安楽にして疲労した敵を待ち、給養をよくして悪い敵を待つ。
これを力を治めるという。
正正と進軍する敵を撃ってはならない、堂々と構えている敵陣を攻めてはならない。
これを変を治めるという。
高地に陣する敵を攻めてはならない。
高地を背後にしている敵を攻めてはならない。
いつわり逃げる敵を不用意に襲ってはならない。
鋭気のある敵を攻めてはならない。
餌兵につられてこれを攻めてはならない。
整然と戦場を去ろうとする敵を攻めてはならない。
敵を包囲してもわずかに逃げ路を空けておかなければならない。
死にもの狂いの敵に迫ってはならない。
これが兵を用いるやり方である。

【第八 九変】

孫子曰く、戦いにあたっては、将軍は君主の命を奉じ、軍隊を集め、国民を徴兵する。
戦では、作戦困難な地に宿営してはならない。
交通上の要地は外交によって支配下に入れる。
交通連絡が不便な地に軍をとどめてはならない。
山川に囲まれた地に入ったら、脱出する工夫をせよ。
危ない地に入ったらただ戦え。
道があるからといって、進まねばならないというものではない。
敵を見たからといって、戦えばよいというものではない。
城があるからといって、攻めればいいというものではない。
戦略上の要地だからといって、取ってはならないものもある。
君命も状況によっては、従わないこともある。
このように地形とその利用法にはいろいろあり、これに精通する将こそ、用兵を知るといえる。
たとえ地形をよく知っていても、その利用法を知らない将は、地形の利を知っているとはいえない。
また利用法をよく知っていても、実行する術をもたない将は、兵を率いて戦うことはできない。

智者は何事をするにも必ず利害を合わせて考える。
不利な時でも、有利な点はあるから、これを伸ばし活用する。
有利な時でも、不利な点はあるから、万全な対策をとる。
諸侯を思うようにするには、従わない者に害を与え、諸侯を働かせるには仕事を与え、諸侯を誘うには利をかざせばよい。
兵を用いるときは、敵が攻めてこないと期待して作戦をたててはならない。
また攻められては困るが、大丈夫だろうと期待してはならない。

将には乗じやすい弱点が5つある。
敵が必死であれば、これを容易に殺すことができる。
敵が生に執着するなら、捕虜にしやすい。
敵がカッとしやすい性格なら、思慮分別をなくさせることができる。
敵が廉潔過ぎる性格なら、これを馬鹿にして思慮分別をなくさせることができる。
敵が情に厚い性格なら、民兵に苦労をしいれさせば戦意を失わせることができる。
これらの欠点は、将として致命的なものである。
兵を用いるときの危険はこれに起因する。
戦いに敗れ、将が命を失うような大事は、必ずこれに起因する。
これらのことを十分に理解しなければならない。

【第九 行軍】

孫子曰く、軍の行動と配置、敵の兆候について述べる。
山地を通過するには、谷沿いに進め。
敵に近づいたら、高所を占領して有利な態勢を整え。
高所の敵を登りながら攻めるようなことをしてはならない。
これが山地に対処する方法である。

河を渡ったら、必ず河岸から離れよ。
敵が渡河してきたら、これを水上で攻めてはならない。
半分渡らせてから攻撃すれば有利である。
戦おうとすれば、河岸に直接布陣して敵を迎えてはならない。
有利に展開するため高所に位置せよ。
また上流に向って進軍してはならない。
これが河に対処する方法である。

沼沢湿地帯は速やかに通り過ぎてしまえ。
もしその中で戦うことになったら、水草のある所を選び、林を後にして布陣せよ。
これが沼沢湿地帯に対処する方法である。

平地では行動容易な所を選び、高地を右背にし、不利な地を前に置き、有利な地を後ろに置くように布陣せよ。
これが平地に対処する方法である。

この4種の方法によって黄帝は四帝(蒼帝・炎帝・白帝・黒帝)に勝つことができたのである。

軍は高所を選んで低地を避け、陽のあたる南面を選んで北面を避け、給養をよくして気力体力を充実させておけば、病気や災害を防ぐことができる。
これを必勝の用兵という。
丘陵や堤防のあるところでは必ず陽のあたる所に布陣し、高い所を右後に置け。
これが兵法上有利であり、地形を効果的に利用するというのである。
上流で降雨のため水流が増してきたら、渡ろうとしても、その鎮まるのを待つべきである。

両側が断崖である深い谷川、井戸のような低地の湿地帯、牢獄のように山に囲まれた狭い土地、草木が繁茂して動きが取れない土地、大地の割れ目のような谷地があったら、 速やかに通り過ぎて、この付近にいてはならない。
このような地形は、自軍は遠ざかるが、敵軍を近づけるようにし、自軍はこれを前面にし、敵軍はこれを背後にさせるようにする。
付近に険阻の地、沼沢地、芦などの繁茂地、森林、草木の密生地があれば、必ず入念に捜索しなければならない。
敵の伏兵が隠れていることが多いからである。

わが軍が近づいても静かでいる敵軍は、布陣している地形に自信を持っているからである。
わが軍が近づく前に挑戦してくる敵軍は、わが軍を誘い込もうとしているのである。
動く気配のない敵軍は、現在の地に何かよいことがあるからである。

多くの樹木がざわざわ動くのは、敵が潜行しているからである。
草木によって視界をさえぎっているのは、わが軍に疑念を抱かせようとしているのである。
鳥が飛び立つのは、伏兵がいるからである。
獣が驚いて走り出るのは、敵部隊が隠れているからである。
砂塵が高く舞い上がって尖っているのは、戦車が来るのである。
砂塵が低く広がっているのは、歩兵が来るのである。
砂塵が散らばって細長いのは、敵の小部隊が炊事用の薪を集めているのである。
砂塵が少なく往復移動するのは、敵が野営準備をしているのである。

敵の軍使の言葉はへりくだっているが、背後の軍が戦闘の準備をしているのは、攻撃するつもりである。
敵の軍使の言葉が強硬で、背後の軍が進撃の気勢をしているのは、退却するつもりである。
戦車を先頭に出し、側に歩兵を配備するのは、戦うつもりである。
条件もなしで講和を請うのは、敵が何かたくらんでいる。
敵が右往左往しているのは、何かをしようと決めている。
敵が進むのか退くのかはっきりしないのは、わが軍を誘い込むつもりである。
敵兵が武器を杖にして立っているのは、食糧不足である。
水を汲んですぐ飲むのは、敵の水が欠乏しているのである。
進めば有利なのに進まないのは、敵兵が疲労している。
鳥が集まっているのは、すでに敵兵は去っている。
夜、敵の人声が高いのは、将兵が不安にかられている。
敵の軍営が乱れて騒がしいのは、将の威令が行われていない。
旗がむやみに動くのは、敵軍の秩序が乱れている。
幹部が怒声をあげるのは、敵兵が戦意を失っている。
馬を殺してその肉を食べているのは、敵の食糧はつきている。
炊事具を使っておらず兵が宿舎に帰っていないのは、窮迫している。
幹部がねんごろに部下に話しかけているのは、信頼を失っている。
賞が多すぎるのは、軍の動きが取れなくなり、将が苦しんでいる。
罰が多すぎるのは、兵が疲労している。
将の言動が、最初は乱暴で後に部下を恐れるようになるのは、統率を知らないのである。
敵の軍吏が低姿勢で接してくるのは、敵軍が休息を欲している。
敵が決戦する勢いを見せながら、長い間動かないときには、必ず敵情判断をせよ。

軍は、兵力が多いのを貴ぶのではない。
多数を頼んで暴進のではなく、よく統率し、戦力を統合発揮するとともに、敵情を判断して勝つことに努めなければならない。
配慮が無く無謀な戦いをすれば、将自ら捕虜とされるだろう。

兵が将に親しんでいないのにこれを統率しても、兵は服従しない。
服従しなければ、これを用いることはできない。
兵が将に親しんでいるが、将がこれを統率しなければ、使いものにならない。
まず法令をよく教えてから、威力をもってこれを守らせる。
これができれば必勝の軍となれる。
法令が行われていて、それを以て民を教育すれば、民は服従する。
法令が行われていなければ、民を教育しても服従しない。
平素から法令が行われていてこそ、将は衆の心をつかむことができる。

【第十 地形】

孫子曰く、地形には通、挂、支、隘、険、遠の6つに大別される。
彼我両軍とも戦闘行動が自由な地を通という。
通形においては、よく見えて南面した高地に陣し、補給路を確保して戦えば、勝機がある。
彼我両軍の間に密林などの障害があり、前進はよいが退却が難しい地を挂という。
挂形において、敵が戦備を整えていなければ、攻めれば勝てる。
挂形において、敵が整備を整えていれば、せめても勝てないし、退却が困難となる。
彼我両軍の間に河川沼沢などがあり、両軍とも前進が難しい地を支という。
支形において、敵の誘いに乗って、先に攻撃に出てはならない。
戦場を去り、敵がつられて出てきて兵力が分散されたところを撃てば有利である。
隘形において、わが軍が先に到着したら、必ず十分な兵力を配置して、敵を待ち受けるのがよい。
敵が先に占領している場合は、戦わないほうがよい。
しかし敵が十分に兵力を配備していなければ、戦え。
険形において、わが軍に先に進出できたら、南面の高い地を占領して、敵の出てくるのを待つ。
敵が先に進出していたら、戦場を去って、敵の徴発にのってはならない。
遠形において、戦力が同等であれば、戦いを挑むことは不利である。
これら6つのものは、地形に応ずる用兵の原則であり、将としての重大責務である。
十分に理解しなければならない。

敗軍には、戦わず逃げる、将の統率不足、兵自体が弱い、無謀な戦いをする、組織的な力が発揮できない、将に智謀が無い、に分けられる。
これら6つのものは、不可抗力ではない。
将の過ちである。
勢いが均しく10倍の敵と戦って敗北する軍を走という。
兵が強く、官吏が弱い軍を弛という。
官吏が強く、兵が弱い軍を陥という。
官吏と兵の意見が合わず、腹を立てた官吏が敵に向かい勝手に暴進する。
将が部下の能力を知らないためである。
これを崩という。
将が弱くて賞罰の執行が厳正でなく、指揮も正確でないため、官吏も兵も軍律を守らず、軍が烏合の衆となることを乱という。
将の敵情判断能力が不足し、少数の兵で多数の敵に当たらせ、軍内に特別精鋭部隊がないことを北という。
これら6つのものは敗戦を招く例である。
これをわきまえて失敗しないようにするのは、将の重大責務である。
十分に理解しなければならない。

地形は重要であるが、補助手段にすぎない。
敵情を把握して勝ちを制し、険阨遠近の地形を適切に判断するのは、上将の条件である。
このことを知って戦う者は必ず勝ち、これを知らずに戦う者は必ず敗れる。

戦いにおいては、将が必ず勝つと判断したら、君主が戦うなと言っても、戦ってもよい。
戦においては、将が勝てないと判断したら、君主が戦えと言っても、戦わなくてよい。
進軍しても自分の名誉を求めず、敗退しても責任を避けることをせず、ただ将兵の命を無駄にせず、君・国の利を第一に考える将は、国の宝である。
将が兵を赤子のように愛すれば、
兵は深い谷でもついてくる。
将が兵を愛する子のように扱えば、
兵は死の危険もかえりみない。
厚遇するだけで働かせず、愛するだけで罰しなければ、乱れても治めることができず、わがまま息子のようになる。
こうなっては用いることはできない。

わが軍に敵を攻撃する戦力があるのを知っていても、敵がわが軍の攻撃を破る戦力があることを知らなければ、勝ちの見込みは半分である。
敵にわが軍を攻撃する戦力があるのを知っていても、わが軍が敵の攻撃を破る戦力があることを知らなければ、勝ちの見込みは半分である。
敵を攻撃すれば勝てることを知り、わが軍に攻撃能力があることを知っていても、地形を知らなければ、勝ちの見込みは半分である。
ゆえに兵を知る者は、行動を起しても迷わず、戦えば行き詰まることはない。
すなわち彼を知り己を知れば、勝ちはまちがいない。
そのうえ、天の時、地の利を知れば、完全に勝てる。

【第十一 九地】

孫子曰く、用兵は地形を散地、軽地、争地、交地、衢地、重地、?地、囲地、死地の9つに大別する。
自国領内で戦う場合の戦場を散地という。
敵国領内であり、国境に近い戦場を軽地という。
彼我ともに占領すれば有利であり、争奪戦が起きやすい要地を争地という。
彼我ともに進撃しやすい戦場を交地という。
諸侯と国境を接しており、先立って占領すれば諸侯を制することができる地を衢地という。
敵国領内に深く侵入し、後方に城邑が多くある地を重地という。

山林、湿地、湖沼など行動困難で、軍を消耗させる地を?地という。
入る道は狭く、出る道は遠回りで、少数の敵に苦しめられるような地を囲地という。
すぐ戦えば活路を見出すことができ、戦わなければ全滅する地を死地という。

それゆえ、散地では戦ってはならない。
軽地に止まってはならない。
争地は敵より先に占領せよ。
交地では補給路を絶たれないようにしなければならない。
衢地では親交工作によって諸国を味方にせよ。
重地では物資を徴発して、糧秣を確保せよ。
?地では早く通り過ぎよ。
囲地では工夫せよ。
死地ではとにかく戦え。

古の名将は、敵の組織破壊に努めた。敵の前後の部隊が相互策応できないようにし、主力と各部隊の相互援助をできなくさせ、上司と部下の心を分断し、 兵を分散させ、整備された戦いをさせないようにする。
有利ならば戦い、有利でなくては戦わない。
それでは問う。
敵の大部隊が整然と進軍してきた。
これに対応するにはどうすればよいか。
答えて、まず敵がすてておけない急所をつけば、勝つことができる。

およそ戦いは機敏迅速を第一とする。
先手を打ち、敵の意表に出て、その備えのないところをつくことである。

敵国に侵攻すれば、わが軍は戦いに専念できるが、敵は帰郷の心が強くなるため勝ちにくくなる。
侵攻軍は豊穣な土地を占領し、将兵の給養を十分にしなければならない。
戦力を貯えて持久を図り、攻勢に出られる力を保持する。
作戦を練り、敵が対応できないような戦法をとる。
兵を死地に投ずれば、死の危険にさらされても全力を尽くして戦う。
死を覚悟すれば、どうして人は力を尽くさないことがあろうか。
兵士は窮地に陥るとかえって懼れなくなり、脱出するところがなければかえって固く守り、敵国に深く侵入すれば団結し、他に方法が無ければ必死に戦う。

それゆえ、兵は教育しなくても自ら戒めて、要求しなくても軍紀を守り、要求しなくても任務を守り、誓約しなくても忠実であり、法令を設けなくても誠実である。
占いを禁じ、迷信を追放すれば、士卒は心奪われることなく死ぬまで戦いに専念できる。
幹部は最小限の財貨しかもたない。
それは財貨が欲しくないからではない。
幹部は命を投げ出して戦う。
それは命が惜しくないからではない。
戦闘の命令が下ると、座っている士卒は、涕で襟を濡らし、寝ている者は頤まで涕をこぼす。
このような兵を死地に投げ込めば、全員が勇者になる。

名将の統率する軍は、率然のようである。
率然とは常山の蛇である。
その首を打てば尾が攻撃し、尾を打てば噛み付き、中を打つと首尾がともにかかってくる。
敢えて問う。
兵を率然のようにすることが可能なのか。
可能である。
例えば、呉人と越人は非常に仲が悪い。
しかし同じ舟に乗っていて、大風にあって舟が転覆しそうになれば、両手のように協力する。
馬をつなぎ合わせて戦車を備えても十分ではない。
兵を激励して、全員一様に勇者にするのがその方法である。
適切な軍の編成と九地に適用する。
ゆえに名将は、全将兵が手をつないでいるかのように使うことができるのは、そのように仕向けるからである。

将軍の態度は、冷静で奥深く、厳正で適切でなければならない。
兵士の耳目を利かせないようにし、意図を悟られないようし、作戦内容や変更を知らせないようし、駐屯場所や進路などを知らせないようにする。
戦いに臨んでは、兵を高いところに登らせて、その後に梯子を取ってしまうようにし、
敵地に深く侵入して攻撃する場合には、乗ってきた舟を焼き、釜を壊し、背水の心境にして死地の覚悟を決めさせる。
羊の群のように飼い主の意のままに駆り立てられ、自らはどこへ行くのか知ろうともしない。
このようにして全軍をまとめて、行く所がないところに投ずる。
これこそ将帥の統率である。
将帥は九地の変、消極積極策の採用、環境に反応する将兵心理の法則などをよくわきまえなければならない。

敵地に深く侵入すれば、戦うことに専念し、浅い場合には、他の事に心が分散される。
国境を越えて敵と戦う時は、本国との連絡が不便で、絶地である。
交通便利な要地は衢地という。
深く敵領内に入った地は重地という。
あまり敵領内に入らない地を軽地という。
後方が険阻で、前方が隘路である地を囲地という。
逃げられない地が死地である。
散地においては将兵の心を戦うことに専念させるようにする。
軽地では陣頭に立って部下の掌握を確実にし、
争地では陣後に立って軍を後方から追いたて、
交地では守りを厳重にし、
衢地では友好を固め、
重地では糧秣の補充追加につとめ、
?地では早く通り過ぎ、
囲地ではあえて逃げ道をふさいで将兵を必死にさせ、
死地では、死戦するほかないと宣言すべきである。
戦場における兵士の心理は、完全に包囲されれば防戦し、他に方法がなければ進んで戦い、敵国内に侵入すれば、命令に従う。

諸国の国家戦略を知らなければ、外交に成功しない。
山林・険阻・沮沢の地を知らなければ、軍を進めることはできない。
土地の人を使わなければ、地形を利用することはできない。
九地のうちひとつも知らなければ、覇者の軍の将帥とはいえない。
覇者の軍というものは、大国を攻めても、その大軍を集結して対抗させるようにはしない。
諸国を威圧すれば、恐れて連合して防衛することはできない。
故に外交に気を使うこともなく、天下の権は自然に入ってくるので、ただ自分の思い通りに振舞うだけで諸国は威圧を感じて戦意を失う。
故にその城を陥し、その国を征服することが簡単に出来る。

破格の賞や、政令を無視した厳しい処罰を行使して、
大軍も一人を使うように意のままに運用する。
部隊を動かすには事実や行動によることに勉め、言葉や文章によることはしないようにする。
軍を亡地に投じ、死地に陥れ、必死の覚悟をさせる。

人間は危難に陥った時、初めて本来の能力を発揮し、勝敗を決することができるのである。

戦いにあたっては、よく敵の意図を把握し、
戦力を集中すれば、千里の遠くの敵将を大勝することができる。
これこそ善く戦う者といえる。
すなわち会戦の廟議が決したならば、直ちに国境の関所を閉鎖し、通行手形を破棄し、使節の往来を禁止する。
廟堂において厳粛精励に軍事を議す。
敵国の隙を見つければ、速やかにこれに乗じる。
ひそかに好機を待ち、かねて計画したところにもとづき、
敵情に従って、一気に勝ちを決する。

最初は処女の如く慎重にし、敵の隙を見出したら、脱兎の如く突進して一気に勝ちを決するのが名将である。

【第十二 火攻】

孫子曰く、火攻めには5つある。
第一に、住民地や兵を焼くことである。
第二に、集積した軍需品を焼くことである。
第三に、輜重隊の軍需品を焼くことである。
第四に、倉庫内の軍需品を焼くことである。
第五は、軍隊を焼くことである。
火攻めを成功させるには、原則によることが必要である。
必ず一定の材料と準備しなければならない。
火攻めには、これに適する時がある。
火攻めには、これに適する日がある。
その時とは、空気の乾燥した時である。
その日とは、月が箕・壁・翼・軫の星座の方向にある日である。
この四星座は、風が起こる日にあたる。
火攻めは、ただ火をつけるだけでなく、必ず次の五火に対する敵の動揺に乗じて、適切に兵を用いなければならない。
敵陣内で火が出たら、速やかに外からも敵を攻める。
敵陣内で火が出ても、敵兵が騒がないときは、しばらく攻撃を待ち、
火の効果をよく確かめ、敵に隙ができたと判断したら攻撃し、敵に動揺がなければ攻撃を止める。
敵陣外に火を放つ場合は、敵陣内のことを考慮することなく、ただよい時を選んで行う。
風上で火が出た時は、風下から攻撃してはいけない。
昼に吹き続けた風は、夜になると止む。
軍は5つの火攻戦法の原則を知り、適切な技術でこれを管理しなければならない。
火は両刃の剣であり、これを管理できる者が善く使用できる。
一方、水攻めは即効性は無いが強力で持続性がある。
水は交通を遮断するものであるが、敵そのものを破壊することはない。
戦に勝って土地を取っても、土地が疲弊していれば功とはいえない。
これを空費滞留、すなわち国費を無駄使いするという。

よって、聡明な君主は戦争の重大さをよく考え、良将はよくその実行方法を管理するというのである。
軍は国の利益にならなければ動かさず、勝利を得る見込みが無ければ用いず、国が危うくなければ戦わない。
君主は怒りにかられて開戦してはならない。
将は憤りの感情にまかせて戦いをしかけてはならない。
勝機があれば動き、勝機が無ければ戦をやめる。
怒りは悦びに変わることが出来、慍りも悦びに変わることが出来るけれども、いったん滅亡した国をまた興すことはできず、
死者を再び生き返らせることは出来ない。
ゆえに明君は戦争を慎重に行い、良将は軍の発動をむやみにしないようにする。
これこそ国を安泰にし、軍をむやみに損傷させない方法である。

【第十三 用間】

孫子曰く、十万の大軍を動員し、国を出て進攻すること千里になれば、国民の費用、国家の出費は一日千金にのぼる。
そのため家の内外は大騒ぎとなり、輸送に使役されて道路で動けなくなったり、本業に携ることができない家は七十万にも達する。
軍を率いて数年になりながら、勝敗が決するのは一日である。
そのため、官位や俸給を惜しんで敵情を知ろうとしないのは、結局、民に対して思いやりがないことになる。
情報を軽視することは将帥の資格はないし、
君主の補佐として不適格であるし、
勝利を手にする人物ではない。

明君賢将が軍を動かして勝ち、他の人より優れた成功を収めるのは、まず敵情を知ることにある。
先に敵情を知るのは、祖先の霊に祈って得られるのではなく、占いによって得られるのではなく、日月の位置によって判断するのではない。
必ず人間を使って敵情を確かめなければならない。

敵情を知るには5つの間者があり、郷間、内間、反間、死間、生間がそれである。
五間を一斉に活躍させながら、それを敵味方にも知られない。
これを神業という。
これができる将は君主の宝である。
郷間はその地の住民を用いるもの、内間は敵国の官吏を用いるもの、反間は敵の間者を逆用するもの、死間はいつわりの情報を敵に与えるもので、 自分の間者はこれを知っていて敵に教えるのである。
生間は情報を得て、帰って報告するものである。

ゆえに軍において、間者ほど連絡を密接にするものはないし、
間者より重い賞を受け取る者はない。
間者ほど仕事を秘密にしなければならないものはない。
よって優れた智恵と洞察力をもっていなければ間者を用いることはできず、愛情と判断力に優れていなければ間者を使うことはできず、 人心の機微を知らなければ間者の利益を得ることはできない。
なんときわどいことか、間者を用いることの難しさは。

間者を発する前に、そのことが人の噂になるようであれば、間者とその噂をしている者を皆殺さなければならない。

わが軍が攻撃しようとする時、城を攻めようとする時、要人を殺そうとする時は必ずまずその主将、側近、取次役、守衛、雑用者などの姓名を知らねばならない。
そのためには間者を使って必ず諜報させる。

敵の間者が潜入しているのを察知して、利益を約束して、連れて来て宿舎を与えて優遇する。
これを反間として用いるべきである。
その口から敵情を得ることができる。
すなわち郷間や内間として使える人物を用いるべきである。
その口から敵情を得ることができる。
よって死間は偽りの情報を敵に伝えることができるのである。
その口から敵情を得ることができる。
よって生間は予定の時期に帰ることができるのである。
五間のことは、君主は必ずよく知っていなければならない。
反間の活用によって他の四間が活用できるのである。
とくに反間は重視しなければならない。

昔、商が建国されたときには、伊尹は夏におり、
周が建国されたときには、呂尚は商にいた。
このようにただ明君賢将だけが優秀な人物を間者とすることができ、大きな功績をあげることができる。
間者は軍の要であり、軍の行動はこれに依存するところが大きい。

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武経七書 司馬法から学ぶ!司馬穰苴の兵法

武経七書とは、北宋・元豊三年(1080年)、神宗が国士監司業の朱服、武学博士何去非らに命じて編纂させた武学の教科書です。
当時流行していた兵書340種余の古代兵書の中から『司馬法』『孫子』『呉子』『六韜』『三略』『尉繚子』『李衛公問対』の七書が選ばれ、武経七書として制定されました。

その中の『司馬法』は「武経七書」のひとつで、古くから伝わる司馬の兵法を研究させ、それに司馬穰苴の兵法を付け加えて『司馬穰苴の兵法』と名付けたものとされています。

漢書』芸文志では、経書のうち礼類に「軍禮司馬法百五十五篇」とあり、『隋書』経籍志では、礼類に、漢代初めに河間献王が司馬穣苴兵法一百五十五篇を得た、との記述はあるものの、ほとんど散逸してしまい、現在は仁本・天子之義・定爵・厳位・用衆の5篇しか残っていません。

「攻其國愛其民、攻之可也、以戰止戰、雖戰可也」とあり、「攻めてもその国の民を愛するなら攻めてもいいし、戦争をすることで戦争が止むのならば戦争を起こしてもいい」などといったことが書かれていますが、戦争を美化する書ではなく、どちらかというと戦争に否定的な兵書です。

以下、現行本・三巻五篇の概要です。(篇名はいずれも冒頭の文より付けられているとのこと)

仁本篇
戦争にも礼をもって戦うことを述べています。

天子之義篇
軍における教化の重要性を述べています。

定爵篇
戦いの準備のために組織の結束を強くすることを述べています。

厳位篇
戦場での戦い方、将軍の在り方について述べています。

用衆篇
衆と寡の使い方などを述べています。

若干他の兵書とは異なり、軍礼制度、陣法・訓練・爵位・賞罰の規定などが記されています。
戦術に関しては『孫子』に共通する部分も多いものの、政治について説いた部分は儒教の影響を強く受けているようです。

以下参考までに、現代語訳にて一部抜粋です。

【仁本篇】

古は仁をもって政治の要諦とし、義をもって国を治めた。これを正という。正で治められない時は、やむなく権を用いたのである。
人を殺して万人の命が守れるならば、人を殺してもよい。他国を攻めてその国の民をいつくしむことができるなら、攻めてもよい。 戦うことによって戦いをやめさせることができるなら、戦を起してもよい。権とはこのようなことを言うのである。
ふだんからしっかりと統治して民の支持を得ていれば、いざというとき民は喜んで国のために勇んで戦うようになる。

軍事は農閑期に行なって人民が疫病に苦しんでいるときを避けます。これはわが国民を愛するからです。敵が喪に服していたり災害に苦しんでいるときを避けます。これは敵国民を愛するからです。冬や夏に挙兵しないのは双方の民を愛するからです。
大国だからと戦いを好めば必ず国を滅ぼします。平和だからと軍備を忘れれば危険にさらされます。天下を平定しても天子は春に兵を集めて秋に演習を行ない、諸侯も春は軍備を整え秋は演習を行なうのは戦いを忘れないからです。

6つの徳を人民に教える。
【礼】敗走する敵を百歩以上は追撃せず、撤退する敵も三舎までしか追わない
【仁】戦闘不能になった敵にはトドメを刺さず、傷ついた敵兵には情けをかける
【信】敵が陣形を整えてから進軍の太鼓を打ち鳴らす
【義】大義だけを争い、利益は争わない
【勇】降伏してきた敵を快く許す
【智】開戦しても終わらせる潮時をわきまえる
教練のときこの6つの徳を人民の守るべき規範としたのが古の軍政です。

古代の聖人は、天の道に則り、その土地に適した施策を行い、徳のある人物を官吏に抜擢した。

下って賢王の時代になると、礼楽や法律、制度を整えて民を教育した。さらに五刑を定め、軍備を整え、不義を討った。
王自ら各地を視察し、諸侯を会同して統治の徹底をはかりました。
諸侯の中で王の命令に従わず、人の道にも背き、天の時にも逆らい、功臣まで遠ざけるような国が出てきたらどうするか。まずその旨を天下に布告して罪を明らかにし、天神日月星辰に告げ、地・四海・山川の神に祈りを捧げ、先王の霊に報告したのです。その後で宰相が諸侯の軍を召して「その国が道に外れた行ないをした。よってこれを征伐する。何年何月何日を期して軍を差し向け、天子のもとに会同してその国の乱れを正せ」と命じました。
さらに宰相は百官を率いて敵国で以下の軍令を布告します。「
一.神の杜を荒らさない
二.狩りをしない
三.橋や道路を破壊しない
四.民家を焼き払わない
五.樹木を伐採しない
六.物資を略奪しない
さらに老人やこどもは傷つけずに丁重に家に帰すこと。壮丁に出会っても手向かってこなければ敵とみなさないこと。敵を傷つけたら手当てをしたうえで家に帰すこと」
かくして罪ある国を征伐したなら、王と諸侯はその政治を正し、賢者を登用して明君を立て、官職を正常に戻したのです。

王者や覇者が諸侯を統治するのは次の6つのことを留意しました。
一.国境を定めて各国の領土を確定させる
二.法令を発して順守させる
三.礼と信をもって心服させる
四.恵まれない国に財政支援をする
五.人材を派遣して連携を密にする
六.軍事力で威服させる
このように共通の利害関係を作り上げ、小国を庇護し大国を尊重して諸侯を融和させたのです。

覇者は諸侯を集めて、次の9つの事柄を取り決めた。
一、弱小国を侵略した場合は、領土を削る
一、賢人を殺し、民を迫害した場合は、討伐する
一、国内を荒廃させ、他国を侵略した場合は、その諸侯を幽閉する
一、田畑を荒し、民の離散を招いた場合は、領土を削る
一、険阻な地形を頼んで服従しない場合は、侵略する
一、親族を殺した場合は、その罪を糾弾する
一、主君を放逐したり弑殺した場合は、誅殺する
一、禁令を破って政治を乱した場合は、諸国との往来を禁ずる
一、国の内外で騒動を起こし、人としてあるまじき行為をした場合は、これを滅ぼす

【天子之義篇】

古は政治の儀礼をそのまま軍に適用することはしなかったし、逆に軍の儀礼をそのまま政治に適用することはしなかった。 それぞれの徳義を互いに踏み外すことはなかった。
古は、敗走する狄を深追いすることはなかったし、撤退する敵に追いすがることもなかった。
「礼」によって自軍の態勢を固め、「仁」によって勝利を確実なものとした。勝利を収めた後には、また必ず「礼」と「仁」とをもって教化に努めた。 君子はそれほど教化を重視したのである。

古代王朝が軍事行動を起こす時は次のようであった。
舜は、まず国内に布告し、民が命令どおり実行してくれることを望んだ。
夏王朝は、軍中で誓いを立て、民が戦いに臨む心積もりをするよう求めた。
商王朝は、軍門の外で誓いを立て、民の戦意を高揚してから戦いに臨もうとした。
周王朝は、戦いの直前になってから誓いを立てた。民が必死になって戦うよう求めた。
夏王朝は「徳」を行ったので、武力を使う必要がなかった。商王朝は「義」を行ったので、初めて武力を使用した。周王朝は「力」に基づく政治を行ったので、 あらゆる武器を使わなくてはならなくなった。
このように三代は、それぞれやり方は違っていたが、民への徳を明らかにした点では同じであった。

武器は、さまざまな用途のものを取り混ぜて使わなければ実践の役に立たない。

軍を統率する時、上からの締め付けが厳しすぎれば、兵士は萎縮する。締め付けがゆるめば、統制がとれなくなる。政治では、官吏が民を押さえつけると、 民はそれぞれの分に安んずることができなくなり、締め付けがゆるめば、民は官吏をあなどるようになるだろう。

軍においては、節度を保った動きを重視する。動きに節度があれば、兵士も余裕を持って戦うことができる。

政治では礼が重視され、軍中では法が重視されたが、両者は表裏の関係にあり、文と武とは左右の手のように関連しあっているのである。

舜のときには、賞も罰も用いなくてもうまく治まった。それだけ徳が浸透していたのである。
夏王朝のときには、賞だけを与えて罰は加えなかった。教化がうまくいっていたからである。
商王朝のときには、罰だけを加えて賞は与えなかった。締め付けを厳しくしたのである。
周王朝になると、賞罰ともに用いた。それだけ徳が衰えてしまったのである。

古は、辺境の守備隊で一年間任務についた者は、その後三年間は徴用されなかった。民の労苦を考えてのことである。

【定爵篇】

戦いに際しては、次のことに留意すること。
一.軍での身分を明確にする
二.賞罰の対象となる功罪を明確にする
三.遊説の士から情報を収集する
四.王の命令を徹底させる
五.部下の意見に耳を傾ける
六.有能な人材を登用する
七.様々な意見を検討して実情を把握する
八.疑問や疑惑を解消する
九.力を蓄えて技量を発揮させる
十.民心の動向に従う
十一.多くの兵を結束させて地の利を生かす
十二.混乱を治めて遅れがちなものを奮起させる
十三.正道を踏み外さないよう羞恥心を植えつける
十四.軍法を簡素化し刑罰も最小限にとどめる
小罪といえども誅殺すればあえて大罪を犯す者もいなくなる。

【天順】天の時を見極める
【財阜】敵地から物資を調達する
【懌衆】進んで命令に従わせる
【利地】険阻な地形に布陣する
【右兵】弓矢で敵を防ぎ、殳矛で守り、戈戟で援護する
これらを心がけなければならない。これを”五慮”という。

およそ戦いは、権を駆使して勝利を収めるものである。戦闘では勇猛に戦い、布陣の際には隙を見せてはならない。

戦いには3つの条件がある。
【天】好機と見れば敵に察知されないように行動を起こす
【財】人民に最低限の生活を保障して喜んで戦いに赴かせる
【善】じゅうぶんな訓練を施し、万端の準備を整えている
この条件を満たしたうえで、それぞれが自分の任務に励むなら、労せずして目的を達せられます。
【大軍】数が多いだけでなく軽車・軽兵・弓矢によってしっかりと守られている
【固陣】一見静かに構えながら内に激しい力を秘めている
【多力】進撃するも後退するも自在
【煩陣】間際になっても慌てない
【堪物】役割分担が明確で統制がとれている
【簡治】どんな事態でも柔軟に対応する
これらのことはふだんの準備があってこそ可能になります。

一.自軍の兵力を考えて地の利を占める
二.敵の情況に対応して陣を布く
三.攻めるにも戦うにも守るにも進むにも退くにもとどまるにも、つねに隊列を乱さない
四.戦車と歩兵は密接に協力しあう。
これを「戦参」という。

一.兵士が服従しない
二.不信感が漂う
三.和が乱れる
四.怠惰がはびこる
五.みな疑心暗鬼
六.面倒なことを嫌がる
七.恐怖にとらわれる
八.上下の意志が疎通しない
九.思い悩む
一〇.鬱屈する
一一.雑然とする
一二.自分勝手なことをする
一三.規律が緩む
一四.緊張感に欠ける。
これを「戦患」という。

一.敵を侮って慢心している
二.敵に必要以上の恐怖心を抱く
三.軍中からは不満の声がやまない
四.兵士は敵を恐れてふさぎ込む
五.決断しても後悔ばかりしている
これを「毀折」という。

一.大と小
二.堅と柔
三.参と伍(集中と分散)
四.衆と寡
これらをうまく使い分けることが「戦権」である。

戦いは。
一.敵が遠くにいるなら間諜を放って情報収集する
二.間近に迫ったらよく観察する
三.戦機を逃さない
四.物資を有効に使う
五.信賞必罰を貴ぶ
六.疑心暗鬼にならない
七.大義で戦いを興す
八.仕事を成し遂げるには時節を選ぶ
九.恩恵を与えて人を使う
一〇.敵を前にしても静かに構える
一一.混乱しても余裕をもって対処する。
一二.危難にさらされようと兵卒のことを忘れない

国内にあっては和をもって恩恵を施し信頼をかちとって人民から懐かれる。
軍中にあっては法をもって寛大でありながら武勇を重んじて威令を貫徹させる。
刃を交えるときは状況判断をもって素早い決断で俊敏に行動して兵士たちから信頼される。

布陣や行軍に際しては間隔を保つ必要があるが、戦闘に突入すれば密集させて兵を駆使して戦います。
一.ふだんから兵士に教育していれば軍はまとまって威令が隅々まで浸透します。
二.将兵が「義(大義)」を守れば奮起します。
三.目標が成果をあげれば兵士は心服して軍の統制が保たれます。
四.自軍の旗印(方針)が一目でわかれば誰の目にも間違えようがありません。
五.目標が事前に定まっていれば進退に迷いが生じない。
六.敵が目前に迫っても目標を決めかねているような指揮官は事情聴取したうえで処罰する。
「名(名分)」に背かないこと。その旗(方針)を変えないこと。

物事は、善であれば長持ちし、聖人の足跡に従っていれば順調にいき、制令が明確に示されていれば人民は奮起して力を発揮します。
怪しげなお告げの類を絶つには2つの方法があります。
【義】「信」を基本としながら武力行使も辞さない。基礎を固めて天下を一つにまとめるなら喜ばない者はいない。これなら人々の能力をうまく発揮させることができる。
【権】敵が慢心していればさらに増長させ、その好むものを奪ったうえで、外からは軍をもって攻め、内からは間者を用いて内応させるのです。

一.【人】人材を登用する
二.【正】正道を外さない
三.【辞】発言に気をつける
四.【巧】精巧な準備をする
五.【火】火を操る
六.【水】水を占める
七.【兵】兵を挙げる
これを「七政」という。

【栄】栄誉を授ける
【利】爵禄を授ける
【恥】恥辱を与える
【死】死を与える
これを「四守」という。

穏やかな顔つきでありながら威厳にあふれた態度で、人々の考えを改めさせます。
「仁」があれば人から親しまれますが「信」も兼ね備えなければ身の破滅を招きます。
人材を活用し、正道に則り、発言を慎重にして、時宜を見計らって火をかけるのです。

戦いですべきことは、
一.兵士の士気を高めてから作戦命令を下す。
二.柔らかい物腰で接して言葉ですべきことを教え導く。
三.恐怖心を取り除いてやって適材適所に起用する。
四.敵地に侵攻したら占領行政に当たる者を任命して治めさせる。
これを「戦法」という。

兵士の規範は誰にでもできるものでなければなりません。
一.全軍の中から規範となるべき兵士を選び出し、彼を見習うようにさせる
二.それでも実行されないなら将自ら率先して手本を示す
三.なんとか実行されるようになったら次は忘れないようにしっかりと憶えさせる
これを何回も繰り返して規範とすれば無理なく従わせることができます。
これを「法」という。

軍の混乱を招かないための方法には以下があります。
一.【仁】思いやりをもって臨む
二.【信】嘘をつかない
三.【直】一度決めた方針を貫く
四.【一】全軍を一つに集める
五.【義】なすべきことをする
六.【変】臨機応変に対処する
七.【専】権限を一身に集中させる

軍法を立てるときには、以下を行います。。
一.【受】周りの意見に耳を傾ける
二.【法】軍法を遵守する
三.【立】やたら改変しない
四.【疾】迅速に執行する
五.【服を御す】身分に応じて服装を定める
六.【色を等す】服装の色もこれに準じる
七.【百官宜しく淫服なかるべく】規定以外の服装は許さない

軍法を行使するときには、以下が重要です。
【専】将は軍法を執行する権限を手放さない。
【法】将兵ともに法を恐れる。軍ではつまらぬ意見に耳を貸さず目先の利益に飛びついてはならない。
【道】日々戦果を積み上げてこちらの意図を察知されない。

戦いには、以下が重要です。
【専】正道から外れたら自らの権限を行使して改めさせる
【法】従わなければ軍法に照らして処断する
【一】不信感があればぬぐい去る。
もしやる気がないのであれば奮起させ、疑念があれば取り除いてやる。部下が将を信頼しない場合でも一度下した命令は断行する。

これが古来から行なわれてきた政である。

【厳位篇】

戦いですべきことは以下です。
一.階級を明確にする
一.軍令を厳しく適用する
一.戦力を素早く展開する
一.兵士を落ち着かせる
一.全軍の心を一つにまとめる
戦いですべきことは以下です。
一.戦いの意義を周知させる
一.部隊を編成する
一.行進する順番を決める
一.隊列を整える
一.役目どおりに動いているか確認する
一.立って進むときは頭を下げ、座ったまま進むときは膝を使う
一.敵を恐れているなら密集させ、危機に陥ったときは腰を下げさせる
一.遠方にいるときはよく観察させれば恐怖心を取り除ける
一.接近したときは敵の姿を見せなければ動揺することもない
一.階級順に右から左へ並ばせる
一.武装して座らせてから誓いを立て、おもむろに配置へつける
一.下級の兵士に至るまで役割を決め、適性に応じて武装させる
一.馬をいななかせときの声をあげても怖じけづいているときは密集させる
一.ひざまずいてから座らせ顔を伏せさせたのち膝行させて穏やかに誓わせる
一.鼓を打ち鳴らして進ませ、金鐸を鳴らして止まらせる
一.音を立てないよう甲冑に枚を噛ませておく
一.座らせて食事し、膝行して退席する
一.軍令に反した者を誅殺するときは目を背けることを禁じ、兵士たちにときの声をあげさせてから処刑する。ただし、深く反省しているなら殺してはならない。穏やかな表情で許してやる理由を説明したうえで元の職に就けてやる。

軍では、
一.訓告は半日以内に全員へ徹底させ、個人ならその場で徹底させる
一.食事は全員揃って摂る
一.敵に疑いや迷いが生じているなら速やかに討つべし

戦いでは、
一.戦力を蓄えて長期戦に備え、士気を充実させて勝つ
一.強い決意で危難を戦い抜いて勝つ
一.断固たる決意と沸き立つ士気で勝つ
一.甲冑を硬くして武器をもって勝つ

戦車は密集させ、歩兵は座り込ませ、甲冑は分厚くして守りを固める。武器を軽快に振り抜いて勝つ

一.勝ち急ぐと目の前しか見えなくなる
二.恐怖心を抱くと敵の恐ろしさばかり目に付く
二つをうまく噛みあわせて情況に応じて使い分けるのです。

同じ武装の敵と戦ったのでは勝ち目が薄く、軽装備で重装備の敵と戦ったのではむざむざ敗れるようなもの。重装備の軍で軽装備の敵と遭遇したらすかさず攻撃することです。だから戦いでは軽装備と重装備を混成させるのです。

一.宿営するときは武装の手入れをする
一.行軍の際は用心深く隊列を整える
一.戦闘中は進むかとどまるかを慎重に見極める

戦いは、
一.命を貴べば兵士は満足し、陣頭指揮をとれば命令に服する
一.命令をしばしば変更すれば兵士に軽んじられ、余裕を持って命令すれば兵士は落ち着く
一.鼓を軽快に鳴らして軽やかに進み、ゆったりと鳴らして落ち着かせる
一.服装が雑だと兵士に軽んじられ、整っていれば兵士も規律を正す

馬や戦車が強固で武器防具が使いやすければ軽装備であっても自信を持てる

一.将が何もしなければ何も獲られない
一.将が専横していれば死ぬ確率が高くなる
一.将が生き残ろうとすれば迷いが生じる
一.将が死ぬ覚悟を決めれば勝ち残ることはできない

人は、
一.愛情のために死ぬもの
一.怒りのために死ぬもの
一.権威を恐れて死ぬもの
一.義を通して死ぬもの
一.利益のために死ぬもの

戦いですべきことは、兵士に死ぬことを忘れさせるよう教練し、いざというときに命を投げ出しすようにすることです。

戦いは、
一.勝機があれば戦う
一.天に従って戦う
一.民心に沿って戦う
戦いは、
一.全軍への指示は三日以内に徹底させる
一.部隊への指示は半日以内に徹底させる
一.個人への指示はその場で設定させる
最善は「正」に則り、次善は法に則ること。謀略を駆使して狙いを秘匿し、情況に応じて「権」を用いて戦う。
全軍を勝利に導くのは将一人の判断においてのみです。

鼓は
【旌旗】旗幟を操る
【車】戦車を操る
【馬】騎馬を操る
【徒】歩兵を操る
【兵】武器を構える
【首】頭を操る
【足】足を操る
この七つを使い分けるのです。

戦いは、すでに装備が整っていればそれ以上持たせてはならない。重装備の兵は余力を残すように行動する。力が尽きていては危機に陥ります。

戦いは、陣形自体は難しくない。兵士たちを配置するのが難しい。敵に応じて変化させるはさらに難しい。何事も知ることはたやすいが実行するとなると難しくなります。

人間の気質は地方によって異なり、州によっても異なります。それを教化して風俗が作られていくのだが、その風俗も州ごとに異なります。風俗をまとめるのです。

衆寡は勝ちもするが負けもします。
一.武器の使い方がわからない
一.甲冑の堅固さがわからない
一.戦車の強度がわからない
一.騎馬の性質がわからない
一.兵数が多いのかわからない
これでは戦う準備が整っていません。

戦いは
一.勝てぱ兵士と手柄を分かち合う
一.再度戦うときも賞罰を徹底させる
一.敗北したら自らがすべての責任をとる
一.陣頭指揮をとる
一.同じ戦術をとらない
勝つにせよ敗れるにせよ、この原則から外れてはなりません。
これが「正しくとるべきこと」です。

人民は、
【仁】生活に配慮する
【義】戦いを興す
【智】判断する
【勇】奮闘する
【信】権限を集中する
【利】推し進める
【功】勝利を目指す
心は仁に適い、行動は義に適うこと。どんな事態にも対処するには智を持ち、強大な敵と戦うには勇を持ち、長期戦に堪えるには信を持つことです。
将が歩み寄れば人々も進んで従い、正道を踏み外したと指摘されたら素直に過ちを認め、すぐれた人材を登用すれば人々が向上心を持つようになります。

戦いは、
一.勢いを失った敵を撃ち、鳴りを潜めている敵は避ける
一.疲れている敵を撃ち、余裕のある敵は避ける
一.怯えた敵を撃ち、警戒する敵を避ける
これが古よりの戦い方です。

【用衆篇】

戦いですべきことは、
一.少数なら団結して覚悟を決め、小回りを活かして自由に進退する。少数で大軍と遭遇して混乱したら策をめぐらせて切り抜けること。敵が大軍の場合はよく観察して裏を狙う。
一.大軍なら統制をとって正面から決戦をして挑んで進むかとどまるかのみ命令する。大軍で少数と遭遇したら遠巻きに包囲して必ず敵の逃げ道をあけておくか、兵力を分散して交互に繰り返し攻撃して休む暇を与えないこと。敵が少数でも団結していれば深追いせずに逃げ道をあけておく。
敵が有利な場所に陣どっていればわざと旗幟を捨てて敗走を装い、追撃してきた敵を迎え撃つ。

戦いは、
一.風を背にする
一.高いところを背か右にする
一.険しいところを左にする
一.沼沢や足場の悪いところは速やかに通過する
一.切り立った山場に布陣しない
戦いは、
一.布陣して自軍の状態を確認する
一.敵情に応じて動く
一.敵が待ち受けているなら攻撃を控えて出方をうかがう
一.進撃してきたら守りを固めて反撃のチャンスをうかがう
戦いは、
【変】少数と大軍を繰り出してみて敵の対応を観察する
【固】進撃と退却を繰り返して敵の守りが固いか観察する
【慴】敵を窮地に追い込んで敵の動揺ぶりを観察する
【怠】じっと鳴りを潜めて敵の緊張が持続するか観察する
【疑】敵を引きずりだして敵に疑いや迷いが生じるか観察する
【治】奇襲をかけてみて敵の規律が保たれるか観察する
疑いや迷いにつけ込み、混乱に乗じて襲いかかり、士気をくじいてかき乱す。反撃の気配を見せたらすぐさまたたきつぶして策をめぐらす余地を与えず、恐怖心に付け込むのです。

敗走する敵には追撃の手を緩めてはならない。ただし路上で立ち止まっているようなら伏兵や奇策を疑うこと。
敵の都に接近したら必ず退路を確保しておくこと。

戦いは、
一.敵より先に動けば疲れが募り、後れて動けば恐怖にかられる。
一.休めば士気が鈍り、休まなければ疲れが募る、休みすぎると恐怖心が生じてくる。
一.戦場に赴けば故郷への便りを禁じて、肉親の情に引かれるのを絶つ。
一.優秀な兵士を抜擢して序列をつけ、いっそう勇敢に戦わせる。
一.荷駄を捨て余分な物資を持たせず、決死の覚悟を決めさせる。
これが古よりの戦い方です。

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貞観政要より学ぶ!我が身を正す十思と九徳!

帝王学の書といわれていますが、立場に依らず、我が身を正す学問として名高い『貞観政要』です。
この書は、唐の史官である呉兢が編成したとされる太宗の言行録です。
太宗といえば、名将李衛公(李靖)が兵法を説いたのを記録した、「武経七書」の兵法書のひとつ「李衛公問対」が有名ですが、こちらについても追って整理したいと思います。

そこで、『貞観政要(じょうがんせいよう)』です。
題名の「貞観」は太宗の在位の年号(西暦627年~649年)で、「政要」は「政治の要諦」を表し、全十巻四十篇からなっています。
貞観というのは、非常に落ち着いた、安定したところで深い見識、達識で観るということを表しています。
これには、中宗の代に上呈したものと、玄宗の代にそれを改編したものと二種類があり四巻の内容が異なり、伝本には
・元の戈直が欧陽脩や司馬光による評を付して整理したものが明代に発刊されて広まった「戈直本」
・唐代に日本に伝わったとされる「旧本」
の二系があります。

主な要点をまとまると、以下のようになります。

1.安きに居りて危うきを思う
安泰な時や好調な時ほど、将来の危機に思いを致して、いっそう気持ちを引き締めること。
2.率先垂範、我が身を正す
トップが十分な説得力を発揮するためには、まず自らの身を正さなければならない。
3.臣下の諫言に耳を傾ける
大宗も生まれながらの名君だった訳ではない。
臣下の諫言を積極的に受入れ、彼らの批判に耐えることによって、自らを大きく、逞しい人間に鍛え上げていった。
貞観政要はまさにこのやりとりをまとめたものです。
4.自己統制に徹する
長には権力が集中する。
しかし、その権力を自分勝手に行使しては、たちまち長失格となる。
大宗はそういう点でも自戒を怠らなかったようです。
5.態度は謙虚、発言は慎重に
大宗は皇帝の位について、こう語っている。
「天子たる者、謙虚さを忘れて不遜な態度をとれば、かりに正道を踏み外した時、その非を指摘してくれる者など一人もおるまい。
私は一言述べようとするた度に、また何か行動を起こそうとする度に、必ず天の意思に適っているだろうか、そしてまた臣下の意向に適っているだろうかと自戒して、慎重を期している。
なぜなら、天はあのように高くはあるが下々のことに通じているし、臣下の者はまた絶えず君主の一挙一動に注目しているからである。
だから、つとめて謙虚に振る舞いながら、私の語ること行うことが、天の意思と人民の意向に合致しているかどうか、反省を怠らないのである」

欠点を指摘されることを喜んで聞く態度。
自分の欲望を押さえ込む厳しい自己統制。
どのように国家を考えていたか。
貞観政要にはこうしたことが対話形式で記されています。
太宗の立場をわが身として置き換え、親として、リーダーとして、何か物事を行う際の権力者として読んでみると、日頃から気をつけなければならないことが多々あることに気付かされる、そんな書物
貞観政要の中身は、現代にも十分通じる事柄なのです。

「兼聴」―情報を吸い上げる
「十思」「九徳」―身につけるべき心構え
《十思》
貞観政要で太宗の側近、魏徴が挙げた〝十の心構え”
十思の一 欲しいとなると、前後の見境もなくやみくもに欲しがるようなことをせず、自戒することを思え。
十思の二 アイディアや企画の事業化も、部下のことを忘れてまで夢中で突っ走らず、何度か立ち止まって組織の安泰を思え。
十思の三 危険の多い賭や高望みをしそうなときは、自分の位置を思い、謙虚に自制することを思え。
十思の四 やみくもに事業の拡大や自分を高みに登らせたいという願望が起きたときは、自分を低い位置に置けば、そこにあらゆる人のチエや人望も流れ込み、おのずから充実してくることを思え。
十思の五 遊びに溺れそうになったら、限度をわきまえることを思え。
十思の六 軽率に始めてすぐ飽きてしまいそうになったり、怠け心が出そうだと思ったら、始める時は慎重に、そして終りも慎むことを思え。
十思の七 おだてにのらず、虚心に部下の言葉を聴くことを思え。
十思の八 中傷や告げ口を嫌い、自らそれらを禁じ、一掃することを思え。
十思の九 恩恵を与えるときは、喜びのあまり過大な恩恵を与えぬように思え。
十思の十 罰を加えるときは、怒りのあまり過大な罰にならないように思え。
《九徳》
貞観政要で太宗の側近、魏徴が挙げた〝九つの徳”
九徳の一 寛にして栗── こせこせしておらず、寛大だが厳しい。
九徳の二 柔にして立── トゲトゲしくなく柔和だが、事が処理できる力を持っている。
九徳の三 愿にして恭── まじめだが、尊大なところはなく、丁寧でつっけんどんでない。
九徳の四 乱にして敬── 事態を収拾させる力があるが威丈高ではなく、慎み深い。
九徳の五 擾にして毅── 粗暴でなくおとなしいが、毅然としている。
九徳の六 直にして温── 率直にものをいうが、決して冷酷なところはなく、温かい心を持っている。
九徳の七 簡にして廉── 干渉がましくなく大まかだが、全体を把握している。
九徳の八 剛にして塞── 心がたくましく、また充実している。
九徳の九 彊にして義── 強いが無理はせず、正しい。
「上書」―全能感を捨てる
「六正・六邪」―人材を見わける基本
「実需」―虚栄心を捨てる
「義」と「志」―忘れてはならぬ部下の心構え
「自制」―縁故・情実人事を排する
「仁孝」―後継者の条件
「徳行」―指導者に求められるもの








【【貞観政要ー本文抜粋】】

【君道第1/創業と守成いずれが難きや】
貞観十年(636年)唐の太宗(李世民)は、側近に尋ねた。「帝王の事業の中で、創業と守成とい ずれが困難であろうか」
宰相の房玄齢が答えた。「創業のために立ち上がる時は、天下は麻の如く乱れ、群雄が割拠し、こ れらの敵を降伏させ、勝ち抜いて天下を平定しました。その様な命がけの困難な点を思いますと創業 が困難だと思います」。
重臣の魏徴は反論する。「帝王が創業の為に立ち上がる時は、必ず前代の衰え乱れた後を受け、ならず者を打ち破り、討ち平らげますので、人民は喜んで推し戴き、万民はこぞって命令に服します。帝王の地位は天が授け万民が与えたもので、創業は困難なものとは思えません。しかし一旦天下を 手中に収めてしまえば、気持ちがゆるんで驕り気ままになります。人民は静かな生活を望んでいるの に役務は休まず、人民が食うや食わずの生活を送っていても、帝王の贅沢の為の仕事は休みません。 国家が衰えて破滅するのは、常にこういう原因に依ります。それ故、守成の方が困難であります。
太宗はいった。房玄齢はかって私に従って戦い、九死に一生を得て今日がある。創業こそ困難と考えてもっともである。魏徴は、私と共に天下を安定させ、我がままや驕りが少しでも生ずれば危急存亡の道を歩む事を心配している。魏徴こそ守成の困難を体験したのである。今や、創業の困難は過去のものとなった。今後は汝等と共に守成の困難を心して乗り越えて行かなければならない。

【君道第2/安くして而も能く懼る】
貞観十五年、太宗が側近の者に尋ねた。「国を維持することは困難であろうか、容易であろうか」
門下省長官の魏徴が答えた。「きわめて困難であります」
太宗が反問した。「すぐれた人材を登用し、よくその者どもの意見を聞き入れればよいではないか。必ずしも困難であるとは思えぬが」
魏徴が答えるには、「今までの帝王をご覧ください。国が危難に陥ったときには、すぐれた人材を登用し、その意見によく耳を傾けますが、やがて政治が安定してきますと、必ず心にゆるみが生じます。そうなると、臣下もわが身第一に心得て、君主に過ちがあっても、あえて諌めようとしません。こうして国勢は日ごとに下降線をたどり、ついには滅亡に至るのです。昔から聖人は『安きに居りて危うきを思う』のは、これがためであります。国が安定しているときにこそ、いっそう気持を引き締めて政治にあたらなければなりません。それで、わたくしは困難であると申しあげたのです」。

【君道第3/上理まりて下乱るる者はあらず】
貞観初年のこと、太宗が側近の者にこう語った。「君主たる者は、なりよりもまず人民の生活の安定を心がけなければならない。人民を搾取して贅沢な生活にふけるのは、あたかも自分の足の肉を切り取って食らうようなもので、満腹したときには体のほうが参ってしまう。天下の安泰を願うなら、まずおのれの姿勢を正す必要がある。いまだかつて、体は真っ直ぐ立っているのに影が曲がって映り、君主が立派な政治をとっているのに人民がでたらめであったという話は聞いたことがない。わたしはいつもこう考えている。身の破滅を招くのは、ほかでもない、その者自身の欲望が原因なのだ、と。いつも山海の珍味を食し、音楽や女色にふけるなら、欲望の対象は果てしなく広がり、それに要する費用も莫大なものになる。そんなことをしていたのでは、肝心な政治に身が入らなくなり、人民を苦しみに陥れるだけだ。その上、君主が道理に合わないことを一言でも口にすれば、人民の心はばらばらになり、怨嗟の声があがり、反乱を企てる者も現れてこよう。わたしはいつもそのことに思いを致し、極力おのれの欲望を抑えるように努めている」

諫議大夫の魏徽が答えた。「昔から聖天子よ明君よと称えられた人々は、みなそのことを実践されました。ですから、理想的な政治を行なうことができたのです。かつて楚の荘王が賢人の詹何を招いて政治の要諦を尋ねたところ、詹河は、『まず君主がおのれの姿勢を正すことです』と答えました。荘王が重ねて具体的な方策について尋ねましたが、それでも詹何は、『君主が姿勢を正しているのに、国が乱れたことは未だかつてありません』と答えただけでした。陛下のおっしゃったことは、詹何の語ったこととまったく同じであります」

【君道第4/君の明らかなる所以の者は、兼聴すればなり】
貞観二年、太宗が魏微に尋ねた。「明君と暗君はどこが違うのか」
魏微が答えるには、「明君の明君たるゆえんは、広く臣下の意見に耳を傾けるところにあります。また、暗君の暗君たるゆえんは、お気に入りの臣下の言うことしか信じないところにあります。詩にも『いにしえの賢者言えるあり、疑問のことあれば庶民に問う』とありますが、聖天子の堯や舜はまさしく四方の門を開け放って賢者を迎え入れ、広く人々の意見に耳を傾けて、それを政治に活かしました。だから堯舜の治世は、万民にあまねく恩沢が行きたわり、共工(きょうこう)や鯀(こん)のともがらに目や耳を塞がれることはありませんでしたし、巧言を弄する者どもに惑わされることもなかったのです。これに対し秦の二世皇帝は宮殿の奥深く起居して臣下を避け、宦官の趙高だけを信頼しました。そのため、完全に人心が離反するに及んでも、まだ気づきませんでした。梁の武帝も、寵臣の(朱い)だけを信頼した結果、将軍の侯景が反乱の兵を挙げて王宮を包囲しても、まだ信じかねる始末でした。また、隋の煬帝も、側近の虞世基の言うことだけを信じましたので、盗賤が村や町を荒しまわっていても、故治 の乱れに気づきませんでした。このような例でも明らかなように、君主たる者が臣下の意見に広く耳を傾ければ、一部の側近に目や耳を塞がれることがなく、よく下々の実情を知ることができるのです」
太宗は魏賤のことばに深く頷いた。

【君道第5/安くして而も能く懼る】
貞観十五年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、天下を守ること難きや易きや、と。侍中魏徴対へて曰く、甚だ難し、と。太宗曰く、賢能に任じ諌諍を受くれば則ち可ならん。何ぞ難しと為すと謂はん、と。徴曰く、古よりの帝王を観るに、憂危の間に在るときは、則ち賢に任じ諌を受く。安楽に至るに及びては、必ず寛怠を懐く。安楽を恃みて寛怠を欲すれば、事を言ふ者、惟だ競懼せしむ。日に陵し月に替し、以て危亡に至る。聖人の安きに居りて危きを思ふ所以は、正に此が為なり。安くして而も能く懼る。豈に難しと為さざらんや、と。

【政体第1】
貞観の初、太宗、蕭ウに謂ひて曰く、朕、少きより弓矢を好む。自ら謂へらく、能く其の妙を尽くせり、と。近ごろ良弓、十数を得、以て弓工に示す。工曰く、皆、良材に非ざるなり、と。朕、其の故を問ふ。工曰く、木心正しからざれば、則ち脈理皆邪なり。弓、剛勁なりと雖も、箭を遣ること直からず。良弓に非ざるなり、と。朕、始めて悟る。朕、弧矢を以て四方を定め、弓を用ふること多し。而るに猶ほ其の理を得ず。況んや、朕、天下を有つの日浅く、治を為すの意を得ること、固より未だ弓に及ばず。弓すら猶ほ之を失す。何ぞ況んや治に於てをや、と。是より京官五品以上に詔し、更中書内省に宿せしめ、毎に召見して、皆、坐を賜ひ、与に語りて外事を詢訪し、務めて百姓の利害、政教の得失を知る。

【政体第2】
貞観の初め、太宗が蕭ウに語った。「私は幼いころから弓矢を好み、自分ではその奥儀を極めたと思っていた。ところが最近、良弓、十数張を手に入れたので弓工に見せたところ、『みな良材ではありません。』と弓工が言った。その理由を聞くと、『木の芯がまっすぐでなく、木目がみな乱れています。どんなに剛勁な弓であっても矢がまっすぐに飛びませんので、良弓ではありません。』そこで私は始めて悟った。私は弓矢で四方の群雄を撃ち破り、弓を使うことが多かった。しかし、なおその理を得ていない。まして天子となってまだ日が浅いので、政治のやり方の本質については弓以上に及ばないはずである。長年得意としてきた弓でさえもその奥儀を極めていないのだから、政治については全然わかっていないはずだ。」こう言った後、太宗は在京の高級官僚を交替で宮中に宿直させ、いつも召し出だして座を与え、ともに語り合うようになった。こうして人民の生活・政治の得失など世の中の動きを知ろうと努めたのである、と。

【政体第3】
貞観二年、太宗、黄門侍次郎王珪に問ひて曰く、近代の君臣、国を理むること、多く前古に劣れるは、何ぞや、と。対へて曰く、古の帝王の政を為すは、皆、志、清静を尚び、百姓を以て心と為す。近代は則ち惟だ百姓を損じて、以て其の欲に適はしめ、其の任用する所の大臣、復た経術の士に非ず。漢家の宰相は、一経に精通せざるは無し。朝廷に若し疑事有れば、皆、経を引きて決定す。是に由りて、人、礼教を識り、理、太平を致せり。近代は武を重んじて儒を軽んじ、或は参ふるに法律を以てす。儒行既に虧け、淳風大いに壊る、と。太宗深く其の言を然りとす。此より百官中、学業優長にして、兼ねて政体を識る者は、多く其の階品を進め、累りに遷擢を加ふ。

【政体第4】
貞観三年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、中書・門下は、機要の司なり。才を擢んでて居らしめ、委任実に重し。詔勅如し便ならざる有らば、皆、須く執論すべし。比来、惟だ旨に阿り情に順ふを覚ゆ。唯唯として苟過し、遂に一言の諌争する者無し。豈に是れ道理ならんや。若し惟だ詔勅に署し、文書を行ふのみならば、人誰か堪へざらん。何ぞ簡択して以て相委付するを煩はさんや。今より詔勅に穏便ならざる有るを疑はば、必ず須く執言すべし。妄りに畏懼すること有り、知りて寝黙するを得ること無かれ、と。房玄齢等叩頭して血を出だす。

【政体第5】
貞観四年、太宗、蕭ウに問ひて曰く、隋の文帝は何如なる主ぞや、と。対へて曰く、己に克ちて礼に復り、勤労して政を思ひ、一たび朝に坐する毎に、或は日の側くに至り、五品已上、坐に引きて事を論じ、宿衛の人をして、そんを伝へて食はしむるに至る。性、仁明に非ずと雖も、亦是れ励精の主なり、と。
上曰く、公は其の一を知りて、未だ其の二を知らず。此の人は性至察なれども心明かならず。夫れ心暗ければ則ち照すこと通ぜざる有り、至察なれば則ち多く物を疑ふ。又、孤兒寡婦を欺き、以て天下を得、恒に群臣の内に不服を懐かんことを恐れ、肯て百司を信任せず、事毎に皆自ら決断す。神を労し形を苦しむと雖も、未だ尽くは理に合すること能はず。朝臣其の意を知るも、亦、敢て直言せず。宰相以下、惟だ承順するのみ。
朕の意は則ち然らず。天下の広きを以てして、千端万緒、須く変通に合すべし。皆、百司に委ねて商量せしめ、宰相に籌画せしめ、事に於て穏便にして、方めて奏して行ふ可し。豈に一日万機を以て、独り一人の慮に断ずるを得んや。且つ日に十事を断ずれば、五條は中らざらん。中る者は信に善し。其れ中らざる者を如何せん。日を以て月に継ぎ、乃ち累年に至らば、乖謬既に多く、亡びずして何をか待たん。豈に広く賢良に任じ、高く居り深く視るに如かんや。法令厳粛ならば、誰か敢て非を為さん、と。因りて諸司に令し、若し詔勅頒下し、未だ穏便ならざる者有らば、必ず須く執奏すべし。旨に順ひて便即ち施行するを得ず、と。務めて臣下の意を尽くさしむ。

【政体第6/国を治むると病を養うとは異なるなし】
貞観五年、太宗が側近の者に語った。「国を治める時の心構えは、病気を治療するときの心掛けとまったく同じである。病人というのは快方に向かっているときこそ、いっそう用心して看護にあたらなければならない。つい油断して医者の指示を破るようなことがあれば、それこそ命取りになるであろう。国の政治についても同じである。天下が安定に向かっているときこそ、いっそう慎重に対処しなければならない。そのときになって、やれ安心と気持をゆるめれば、必ず国を滅ぼすことになる。  今、天下の安危はわたし一人の肩にかかっている。だから常に慎重を旨とし、たとえ称賛の声を聞 いても、まだまだ不十分だと自分を戒めている。しかしながら、わたし一人だけ努めたところで、い かんともしがたい。そこで、そちたちを耳とも目とも股肱とも頼んできた。今やわたしとそち達とは 一心同体の関係にある。どうかこれからも力を合わせ、心を一つにして政治にあたってほしい。これ は危ないと気づいたことがあれば、すべて包み隠さず申し述べよ。仮にも君臣のあいだに疑惑が生じ、お互い心のなかで思っていることを口に出せないようでは、国を治めていく上でこの上ない害を及ぼ すことになろうぞ」

【政体第7/君は舟なり、人は水なり】
貞観六年、太宗が側近の者に語った。「昔の帝王の治世を調べてみると、初め、日の出の勢いにあった者でも、朝のあとに日暮れがくるように、きまって衰亡の道をたどっている。それはほかでもない、臣下に耳目をふさがれて、政治の実態を知ることができなくなるからである。忠臣が口を閉ざし、へつらい者が幅をきかせ、しかも君主はみずからの過ちに気づかない。これが滅亡に至る原因である。わたしはすでに奥深い宮殿にいるので、直接この目で政治の実態を確かめることができない。それゆえ、そちたちにわたしの耳ともなり、目ともなってもらっている。今は天下が平和に治まり、四海の波が静かだからといって、ここで気持をゆるめてはならない。古人も、「君主は人艮に愛される存在でなければならない。そのためには人民の意向を尊重してわが身を慎む必要がある」と語っているではないか。天子が道に則った政治を行なえば、人民は推戴して明主と仰ぐが、道にはずれた政治を行なえば、そんな天子など捨てて顧みない。よくよく心してかかる必要がある」

魏徴が答えた。「昔から国を滅ぼした君主は、いずれも、安きに居りて危うきを忘れ、治に居て乱を忘れておりました。長く国を維持できなかった理由はこれであります。幸い陛下におかれましては、あり余る富を有し、国中が平和に治まりながら、なおも天下の政道に心を砕かれ、深淵に臨み薄氷を踏むようなお気持で、いやが上にも慎重を期しておられる。これなら、わが国の前途は洋々たるものです。古人も、『君は舟なり、人は水なり。水はよく舟を載せ、またよく舟を覆す』と語っています。陛下は、畏るべきは人民の意向だと言われましたが、まことに仰せのとおりでございます」

【政体第8/大事は皆小事より起こる】
貞観六年、太宗が側近の者に語った。  「あの孔子が、『国が危難に陥って滅びそうだというのに、だれも救おうとしない。これでは、な んのための重臣なのか』と語っている。  まことに臣下たる者は、君臣の義として、君主に過ちがあれは、これを正さなはれはならない。 わたしはかつて書を繙いたとき、夏の桀王が直言の士、関竜逢を殺し、漢の景帝が忠臣の晁錯を誅殺 したくだりまでくると、いつも読みかけの書を閉じて、しはし嘆息したものだった。 どうかそちたちは、おのれの信ずるところをはばからず直言し、政治の誤りを正してほしい。 わたしの意向に逆らったからといって、みだりに罰しないことを、あらためて申し渡しておく。  ところで近ごろ朝廷で政務を決済するとき、律令違反に気づくことがある。この程度のことは小事 だとして、あえて見逃しているのであろうが、およそ天下の大事はすべてこのような小事に起因して いるのである。小事だからといって捨ておけば、大事が起こったときには、もはや手のつけようがな い。国家が傾くのも、すべてこれが原因である。隋の煬帝ば暴虐の限りを尽くしたあげく、匹夫の手 にかかって殺されたが、それを聞いても嘆き悲しんだ者はいなかったという。  どうかそちたちは、わたしに煬帝の二の舞いをさせないでほしい。わたしもまた、そちたちに忠な るが故に誅殺された関竜逢や晁錯の二の舞いはさせないつもりである。こうして君臣ともに終りをよ くするなら、なんと素晴らしいことではないか」

【政体第9】
貞観七年、太宗、秘書監魏徴と、従容として古よりの治政の得失を論ず。因りて曰く、当今大乱の後、造次に治を致す可からず、と。徴曰く、然らず。凡そ人、安楽に居れば則ち驕逸す。驕逸すれば則ち乱を思ふ。乱を思へば則ち理め難し。危困に在れば則ち死亡を憂ふ。死亡を憂ふれば則ち治を思ふ。治を思へば則ち教へ易す。然らば則ち乱後の治め易きこと、猶ほ飢人の食し易きがごときなり、と。太宗曰く、善人、邦を為むること百年にして、然る後、残に勝ち殺を去る、と。大乱の後、将に治を致すを求めんとす。寧ぞ造次にして望む可けんや、と。
徴曰く、此れ常人に拠る。聖哲に在らず。聖哲化を施さば、上下、心を同じくし、人の応ずること響きの如し。疾くせずして速かに、朞月にして化す可し。信に難しと為さず。三年にして功を成すも、猶ほ其の晩きを謂ふ、と。太宗、以て然りと為す。封徳彝等に対へて曰く、三代の後、人漸く澆訛す。故に秦は法律に任じ、漢は覇道を雑ふ。皆、治まらんことを欲すれども能はざればなり。豈に治を能くすれども欲せざるならんや。魏徴は書生にして、時務を識らず。若し魏徴の説く所を信ぜば、恐らくは国家を敗乱せん、と。
徴曰く、五帝・三王は、人を易へずして治む。帝道を行へば則ち帝たり。王道を行へば則ち王たり。当時の之を化する所以に在るのみ。之を載籍に考ふれば、得て知る可し。昔、黄帝、蚩尤と七十余戦し、其の乱るること甚し。既に勝つの後、便ち太平を致せり。九黎、徳を乱りセンギョク、之を征す。既に克つの後、其の治を失はず。桀、暴虐を為して、湯、之を放つ。湯の代に在りて、即ち太平を致せり。紂、無道を為し、武王、之を伐つ。成王の代、亦、太平を致せり。若し、人漸く澆訛にして純樸に反らずと言はば、今に至りては、応に悉く鬼魅と為るべし。寧ぞ復た得て教化す可けんや、と。徳彝等、以て之を難ずるなし。然れども咸以て不可なりと為す。
太宗、毎に力行して倦まず。数年の間にして、海内康寧なり。因りて群臣に謂ひて曰く、貞観の初、人皆、異論して云ふ、当今は必ず帝道王道を行ふ可からず、と。惟だ魏徴のみ、我に勧む。既に其の言に従ふに、数載を過ぎずして、遂に華夏安寧にして、遠戎賓服するを得たり。突厥は古より以来、常に中国の勍敵たり。今、酋長竝びに刀を帯びて宿衛し、部落、皆衣冠を襲ぬ。我をして干戈を動かさずして、数年の間に、遂に此に至らしめしは、皆、魏徴の力なり、と。
顧みて徴に謂ひて曰く、「玉、美質有りと雖も、石間に在りて、良工の琢磨に値はざれば、瓦礫と別たず。若し良工に遇へば、即ち万代の宝と為る。朕、美質無しと雖も、公の切磋する所と為る。公が朕を約するに仁義を以てし、朕を弘むるに道徳を以てするを労して、朕の功業をして此に至らしむ。公も亦良工と為すに足るのみ。唯だ恨むらくは封徳彝をして之を見しむるを得ざることを、と。徴、再拝して謝して曰く、匈奴破滅し、海内康寧なるは、自ら是れ陛下盛徳の加ふる所にして、実に群下の力に非ず。臣、但だ身、明世に逢ふを喜ぶのみ。敢て天の功を貪らず、と。太宗曰く、朕能く卿に任じ、卿委ぬる所に称ふ。其の功独り朕のみに在らんや。卿何ぞ煩はしく飾譲するや、と。

【政体第10】
貞観九年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、往者初めて京師を平げしとき、宮中の美女珍玩、院として満たざるは無し。煬帝は意猶ほ足らずとし、徴求已む無し。兼ねて東西に征討し、兵を窮め武を黷す。百姓、堪へず、遂に滅亡を致せり。此れ皆、朕の目に見る所なり。故に夙夜孜孜として、惟だ清静にして天下をして無事ならしめんと欲す。徭役興らず、年穀豊稔し、百姓安楽なるを得たり。夫れ国を治むるは、猶ほ樹を栽うるが如し。本根、揺がざれば、則ち枝葉茂盛す。君能く清静ならば、百姓なんぞ安楽ならざるを得んや、と。

【政体第11】
貞観八年、太宗、房玄齢等に謂ひて曰く、我が居る所の殿は、即ち是れ隋の文帝の造りし所なり。已に四十余年を経るも、損壊の処少し。唯だ承乾の殿は、是れ煬帝の造りしもの。工匠多く新奇を覓め、斗キョウ至小なり。年月近しと雖も、破壊の処多し。今、改更を為さんとし、別に意見を作さんと欲するも、亦、此の屋に似ることを恐るのみ、と。
魏徴対へて曰く、昔、魏の文侯の時、租賦歳に倍す。人、賀を致すもの有り。文侯曰く、今、戸口加はらずして、租税歳に倍す。是れ課斂多きに由る。譬へば皮を治むるが如し。大ならしむれば則ち薄く、小ならしむれば則ち厚し。民を理むるも亦復た此くの如し、と。是に由りて魏国大いに理まる。臣、今之を量るに、陛下理を為し、百夷賓服す。天下已に安く、但だ須らく今日の理道を守り、亦之を厚きに帰すべし。此れ即ち是れ足らん、と。

【政体第12】
貞観八年、太宗、群臣に謂ひて曰く、理を為すの要は、努めて其の本を全うす。若し中国静かならざれば、遠夷至ると雖も、亦何の益あらん。朕、公等と共に天下を理め、中夏をして乂安に四方をして静粛ならしめしは、竝びに公等咸忠誠を尽くし、共に庶績を康んずるの致す所に由るのみ。朕、実に之を喜ぶ。然れども安くして危きを忘れず、亦兼ねて以て懼る。
朕、隋の煬帝の纂業の初を見るに、天下隆盛なり。徳を棄て兵を窮め、以て顛覆を取る。頡利近ごろ強大と為すに足る。志意既に盈ち、禍乱斯に及び、其の大業を喪ひ、朕に臣と為る。葉護可汗も亦太だ強盛なり。自ら富実を恃み、使を通じて婚を求め、道を失ひ過を怙み、以て破滅を致す。其の子既に立つや、便ち猜忌を肆にし、衆叛き親離れ、基を覆し嗣を絶つ。
朕、遠く尭舜禹湯の徳を纂ぐ能はざるも、此の輩を目賭すれば、何ぞ誡懼せざるを得んや。公等、朕を輔けて、功績已に成れり。唯だ当に慎んで以て之を守り、自ら長世を獲べし。竝びに宜しく勉力すべし。不是の事有らば、則ち須らく明言すべし。君臣心を同うせば、何ぞ理らざるを得んや、と。
侍中魏徴対へて曰く、陛下、至理を弘め、以て天下を安んじ、功已に成れり。然れども常に非常の慶を覩、弥々危きを慮るの心を切にす。古より至慎以て此に加ふる無し。臣聞く、上の好む所、下必ず之に従ふ、と。明詔の奨励、懦夫をして節を立たしむるに足る、と。

【政体第13】
太宗、拓跋の使人に問ひて曰く、拓跋の兵馬、今、幾許有りや、と。対へて曰く、見に四千余人有り。旧は四万余人有り、と。太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕聞く、西胡、珠を愛し、若し好珠を得れば、身を劈きて之を蔵す、と。侍臣咸曰く、財を貪り己を害し、実に笑ふ可しと為す、と。
太宗曰く、唯だ胡を笑ふ勿れ。今、官人、財を貪りて性命を顧みず。身死するの後、子孫辱めを被れるは、何ぞ西胡の珠を愛するに異ならんや。帝王も亦然り。情を恣にして放逸、楽を好むこと度無く、庶政を荒廃し、長夜返るを忘る。行う所此くの如くなれば、豈に滅亡せざらんや。隋の煬帝は奢侈自ら賢とし、身、匹夫に死す。笑ふ可しと為すに足る、と。
魏徴対へて曰く、臣聞く、魯の哀公、孔子に謂ひて曰く、人好く忘るる者有り、宅を移して乃ち其の妻を忘る、と。孔子曰く、又、好く忘るること此れよりも甚だしき者有り。丘、桀紂の君を見るに、乃ち其の身を忘れたり、と。太宗曰く、朕、公等と既に人を笑ふことを知る。今、共に、相匡輔し、庶くは人の笑ひを免れん、と。

【政体第14】
貞観九年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、帝王為る者は、必ず須らく其の与する所を慎むべし。只だ鷹犬鞍馬、声色殊味の如きは、朕若し之を欲すれば、随つて須らく即ち至るべし。此れ等の事の如き、恒に人の正道を敗る。邪佞忠直、亦時君の好む所に在り。若し任ずること賢を得ざれば、何ぞ能く滅びること無からんや、と。
侍中魏徴対へて曰く、臣聞く、斉の威王、淳于コンに問ふ。寡人の好む所、古の帝王と同じきや否や、と。コン曰く、古者の聖王の好む所四有り。今、王の好む所唯だ其の三有り。古者色を好む。王も亦之を好む。古者馬を好む。王も亦之を好む。古者味を好む。王も亦之を好む。唯だ一事の同じからざる者有り。古者賢を好む。王独り好まず、と。斉王曰く、賢の好む可き無ければなり、と。コン曰く、古の美食は、西施・毛ショウ有り。奇味は即ち龍肝・豹胎。善馬は即ち飛兎・緑耳有り。此れ等は今既に之無し。王の厨膳、後宮外厩、今亦備具せり。王以て今の賢無しと為す。未だ前世の賢、王と相見るを得るや否やを知らず、と。太宗深く之を然りとす。

【政体第15】
貞観十年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、月令は早晩有りや、と。侍中魏徴対へて曰く、今、礼記の載す所の月令は、呂不韋より起る、と。太宗曰く、但だ化を為すに専ら月令に依らば、善悪復た皆記する所の如きや不や、と。魏徴又曰く、秦漢以来、聖王、月令の事に依るもの多し。若し一に月令に依る者は、亦未だ善有らず。但だ古は教を設け人に勧めて善を為さしむ。行ふ所皆時に順はんと欲せば、善悪亦未だ必ずしも皆然らざるなり、と。
太宗又曰く、月令は既に秦時より起る。三皇五帝は、竝びに是れ聖主なり。何に因りて月令を行はざるや、と。徴曰く、計るに月令は、上古より起る。是を以て尚書に云ふ、敬みて民に時を授く、と。呂不韋は止だ是れ古を修むるのみ。月令は未だ必ずしも始めて秦代より起らざるなり、と。
太宗曰く、朕、比書を読み、見る所の善事は、竝びに即ち之を行ひ、都て疑ふ所無し。人を用ふるに至りては則ち善悪別ち難し。故に人を知るは極めて易からずと為す。朕、比公等数人を使ふ。何に因りて理政猶ほ文景に及ばざるや、と。
徴又曰く、陛下、心を理に留め、臣等に委任すること、古人に逾ゆ。直だ臣等の庸短に由り、陛下の委寄に称ふ能はざるのみ。四夷の賓服、天下の無事を論ぜんと欲せば、古来、未だ今日に似たるもの有らざるなり。文景に至りては、以て聖徳に比するに足らず、と。徴曰く、古より人君初めて理を為すや、皆、隆を尭舜に比せんと欲す。天下既に安きに至つては、即ち其の善を終ふること能はず。人臣初めて任ぜらるるや、亦、心を尽くし力を竭さんと欲す。富貴に居るに及びては、即ち官爵を全うせんと欲す。若し遂に君臣常に懈怠せざれば、豈に天下安からざるの道有らんや、と。太宗曰く、論至り理誠なること公の此の語の如くせん、と。

【政体第16】
貞観十六年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、或は君、上に乱れ、臣、下に理む。或は臣、下に乱れ、君、上に理む。二者苟くも違はば、何者をか甚だしと為す、と。特進魏徴対へて曰く、君、心理まれば即ち照然として下の非を見る。一を誅して百を勧めば、誰か敢て威を畏れて力を尽くさざらん。若し上に昏暴にして、忠諌、従はずんば、百里奚・伍子胥の徒、虞・呉に在りと雖も、其の禍を救はず、敗亡も亦促らん、と。
太宗曰く、必ず此の如くならば、斉の文宣は昏暴なるに、楊遵彦、正道を以て之を扶けて理を得たるは、何ぞや、と。徴曰く、遵彦、暴主を弥縫し、蒼生を救理し、纔に乱を免るるを得たるも、亦甚だ危苦せり。人主厳明にして、臣下、法を畏れ、直言正諌して、皆、信用せらるるとは、年を同じくして語る可からざるなり、と。

【政体第17】
貞観十九年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕、古来の帝王を観るに、驕矜にして敗を取る者、勝げて数ふ可からず。遠く古昔を述ぶる能はざるも、晋武、呉を平げ、隋文、陳を伐つの已後の如きに至りては、心逾驕奢にして、自ら諸を己に矜り、臣下復た敢て言はず。政道茲に因りて弥々紊る。朕、突厥を平定し、高麗を破りしより已後、海内を兼并し、鉄勒以て州県と為し、夷狄遠く服し、声教益々広まる。
朕、驕矜を懐かんことを恐れ、恒に自ら抑折し、日クレて食し、坐して以て晨を待つ。毎に思ふ、臣下、トウ言直諌し、以て政教に施す可き者有らば、当に目を拭ひて、師友を以て之を待つべし、と。此の如くせば、時康く道泰きに庶幾からん、と。

【政体第18】
太宗、即位の始めより、霜旱、災を為し、米穀踊貴し、突厥侵抄し、州県騒然たり。帝の志は人を憂ふるに在り。鋭精、政を為し、節倹を崇尚し、大いに恩徳を布く。是の時、京師より河東・河南・隴右に及ぶまで、飢饉尤も甚しく、一匹の絹、纔に一斗の米を得。百姓、東西に食を逐ふと雖も、未だ嘗て嗟怨せず、自ら安んぜざるは莫し。貞観三年に至りて、関中豊熟し、咸自ら郷に帰り、竟に一人の逃散するもの無し。其の人心を得ること此の如し。加ふるに諌に従ふこと流るるが如きを以てし、雅より儒学を好み、孜孜として士を求め、務は官を択ぶに在り、旧弊を改革し、制度を興復し、毎に一事に因り、類に触れて善を為す。
初め息隠・海陵の黨、同に太宗を害せんと謀りし者、数百千人。事寧き後引きて左右近侍に居く。心術豁然として、疑阻すること有らず。時論、以て能く大事を断決し、帝王の体を得たりと為す。深く官吏の貪濁を悪み、法を枉ぐるの財を受くる、者有れば、必ず赦免する無し。在京の流外、贓を犯す者有れば、皆、執奏せしめ、其の犯す所に随ひ、オくに重法を以てす。是に由りて官吏多く自ら清謹なり。
王公妃主の家、大姓豪猾の伍を制馭す。皆、威を畏れて跡を屏め、敢て細人を侵欺する無し。商旅野次し、復た盗賊無く、囹圄常に空しく、馬牛、野に布き、外戸、動もすれば則ち数月閉ぢず。又、頻りに豊稔を致し、米、斗に三四銭。行旅、京師より嶺表に至り、山東より滄海に至るまで、皆、糧を賚すを用ひず、給を道路に取る。又、山東の村落、行客の経過する者、必ず厚く供待を加へ、或は時に贈遺有り。此れ皆、古昔未だ之れ有らざるなり。

【政体第19】
太宗、即位の始めより、霜旱、災を為し、米穀踊貴し、突厥侵抄し、州県騒然たり。帝の志は人を憂ふるに在り。鋭精、政を為し、節倹を崇尚し、大いに恩徳を布く。是の時、京師より河東・河南・隴右に及ぶまで、飢饉尤も甚しく、一匹の絹、纔に一斗の米を得。百姓、東西に食を逐ふと雖も、未だ嘗て嗟怨せず、自ら安んぜざるは莫し。貞観三年に至りて、関中豊熟し、咸自ら郷に帰り、竟に一人の逃散するもの無し。其の人心を得ること此の如し。加ふるに諌に従ふこと流るるが如きを以てし、雅より儒学を好み、孜孜として士を求め、務は官を択ぶに在り、旧弊を改革し、制度を興復し、毎に一事に因り、類に触れて善を為す。
初め息隠・海陵の黨、同に太宗を害せんと謀りし者、数百千人。事寧き後引きて左右近侍に居く。心術豁然として、疑阻すること有らず。時論、以て能く大事を断決し、帝王の体を得たりと為す。深く官吏の貪濁を悪み、法を枉ぐるの財を受くる、者有れば、必ず赦免する無し。在京の流外、贓を犯す者有れば、皆、執奏せしめ、其の犯す所に随ひ、オくに重法を以てす。是に由りて官吏多く自ら清謹なり。
王公妃主の家、大姓豪猾の伍を制馭す。皆、威を畏れて跡を屏め、敢て細人を侵欺する無し。商旅野次し、復た盗賊無く、囹圄常に空しく、馬牛、野に布き、外戸、動もすれば則ち数月閉ぢず。又、頻りに豊稔を致し、米、斗に三四銭。行旅、京師より嶺表に至り、山東より滄海に至るまで、皆、糧を賚すを用ひず、給を道路に取る。又、山東の村落、行客の経過する者、必ず厚く供待を加へ、或は時に贈遺有り。此れ皆、古昔未だ之れ有らざるなり。

【任賢 第1-1】
房玄齢は、斉州臨シの人なり。初め隋に仕へて隰城の尉と為り、事に坐して名を除かれて上郡に徒さる。太宗、地を渭北に徇ふるや、玄齢、策を杖つきて軍門に謁す。太宗、一見して便ち旧識の如く、渭北道の行軍記室参軍に署す。玄齢既に知己に遇ふを喜び、遂に心力をケイ竭す。是の時、賊冦平ぐ毎に、衆人競ひて金宝を求む。玄齢、独り先づ人物を収め、之を幕府に致す。及び謀臣猛将有れば、皆之と潜に相申結し、各々其の死力を致さしむ。累りに秦王府の記室を授けられ、陝東道の行臺考功郎中を兼ぬ。
玄齢、秦府に在ること十余年、恒に管記を典る。隠太子、太宗の勲徳日に隆きを見、転た忌嫉を生じ、玄齢及び杜如晦、太宗の親礼する所と為るを以て、甚だ之を悪み、高祖に譖す。是に由りて如晦と竝びに駆斥せらる。隠太子の将に変有らんとするや、太宗、玄齢・如晦を召して、道士の衣服を衣せしめ、潜かに引きて閤に入れて事を計る。太宗、春宮に入るに及び、擢でて太子右庶子に拝す。
貞観元年、中書令に遷る。三年、尚書左僕射に拝せられ、国史を修む。既に百司に任総し、虔恭夙夜、心を尽くし節を竭くし、一物も所を失ふを欲せず。人の善有るを聞けば、己之を有するが若くす。吏事に明達し、飾るに文学を以てす。法令を審定するに、意は寛平に在り。備はるを求むるを以て人を取らず、己の長を以て物を格せず、能に随ひて収叙し、卑賎を隔つる無し。論者称して良相と為す。累りに梁国公に封ぜらる。十三年、太子少師を加へらる。
玄齢、自ら一たび端揆に居ること十有五年なるを以て、頻に表して位を辞す。優詔して許さず。十有六年、進みて司空を拝せらる。玄齢、復た年老いたるを致仕せんと請ふ。太宗、使を遣はして謂ひて曰く、国家久しく相任使す。一朝忽ち良相無ければ、両手を失ふが如し。公若し筋力衰へずんば、此の譲を煩はすこと無かれ、と。玄齢遂に止む。太宗又嘗て王業の艱難、左命の匡弼を追思し、乃ち威鳳の賦を作りて以て自ら喩へ、因りて玄齢に賜ふ。其の称せらるること類ね此の如し。

【任賢 第1-2】
房玄齢は、斉州臨シの人なり。初め隋に仕へて隰城の尉と為り、事に坐して名を除かれて上郡に徒さる。太宗、地を渭北に徇ふるや、玄齢、策を杖つきて軍門に謁す。太宗、一見して便ち旧識の如く、渭北道の行軍記室参軍に署す。玄齢既に知己に遇ふを喜び、遂に心力をケイ竭す。是の時、賊冦平ぐ毎に、衆人競ひて金宝を求む。玄齢、独り先づ人物を収め、之を幕府に致す。及び謀臣猛将有れば、皆之と潜に相申結し、各々其の死力を致さしむ。累りに秦王府の記室を授けられ、陝東道の行臺考功郎中を兼ぬ。
玄齢、秦府に在ること十余年、恒に管記を典る。隠太子、太宗の勲徳日に隆きを見、転た忌嫉を生じ、玄齢及び杜如晦、太宗の親礼する所と為るを以て、甚だ之を悪み、高祖に譖す。是に由りて如晦と竝びに駆斥せらる。隠太子の将に変有らんとするや、太宗、玄齢・如晦を召して、道士の衣服を衣せしめ、潜かに引きて閤に入れて事を計る。太宗、春宮に入るに及び、擢でて太子右庶子に拝す。
貞観元年、中書令に遷る。三年、尚書左僕射に拝せられ、国史を修む。既に百司に任総し、虔恭夙夜、心を尽くし節を竭くし、一物も所を失ふを欲せず。人の善有るを聞けば、己之を有するが若くす。吏事に明達し、飾るに文学を以てす。法令を審定するに、意は寛平に在り。備はるを求むるを以て人を取らず、己の長を以て物を格せず、能に随ひて収叙し、卑賎を隔つる無し。論者称して良相と為す。累りに梁国公に封ぜらる。十三年、太子少師を加へらる。
玄齢、自ら一たび端揆に居ること十有五年なるを以て、頻に表して位を辞す。優詔して許さず。十有六年、進みて司空を拝せらる。玄齢、復た年老いたるを致仕せんと請ふ。太宗、使を遣はして謂ひて曰く、国家久しく相任使す。一朝忽ち良相無ければ、両手を失ふが如し。公若し筋力衰へずんば、此の譲を煩はすこと無かれ、と。玄齢遂に止む。太宗又嘗て王業の艱難、左命の匡弼を追思し、乃ち威鳳の賦を作りて以て自ら喩へ、因りて玄齢に賜ふ。其の称せらるること類ね此の如し。

【任賢 第2】
杜如晦は、京兆万年の人なり。武徳の初、秦王府の兵曹参軍と為る。俄かに陝州総管府の長史に遷さる。時に府中、英俊多く、外遷せらるるもの衆し。太宗、之を患ふ。記室房玄齢曰く、府僚の去る者、多しと雖も、蓋し惜むに足らず。杜如晦は聡明識達、王佐の才なり。若し大王、藩を守りて端拱せば、之を用ふる所無からん。必ず四方を経営せんと欲せば、此の人に非ざれば、可なる莫からん、と。太宗、遂に奏して府属と為し、常に帷幄に参謀せしむ。時に軍国多事、剖断、流るるが如し。深く時輩の服する所と為る。累りに天策府の従事中郎に除せられ、文学館学士を兼ぬ。
隠太子の敗るるや、如晦、玄齢と功等し。擢んでられて太子左庶子に拝せらる。俄かに兵部尚書に遷さる。進んで蔡国公に封ぜられ、実封一千三百戸を賜る。貞観二年、本官を以て侍中を検校す。三年、尚書左僕射に拝せられ、兼ねて選事を知す。仍ほ房玄齢と共に朝政を掌り、臺閣の規模、典章・文物に至るまで、皆二人の定むる所なり。甚だ当代の誉を獲、時に房杜と称す。

【任賢 第3-1】
魏徴は鉅鹿の人なり。近く家を相州の臨黄に徒す。武徳の末、隠太子の洗馬と為る。太宗と隠太子と陰に相傾奪するを見、毎に建成を勧めて早く之が計を為さしむ。太宗、隠太子を誅するに及び、徴を召して之を責めて曰く、汝、我が兄弟を離間するは、何ぞや、と。衆皆之が為めに危懼す。徴、慷慨自若、従容として対へて曰く、皇太子、若し臣が言に従はば、必ず今日の禍無かりしならん、と。太宗、之が為めに容を斂め、厚く礼異を加へ、擢でて諌議大夫に拝し、数々之を臥内に引き、訪ふに政術を以てす。
徴、雅より経国の才有り。性又抗直にして、屈撓する所無し。太宗、之と言ふ毎に、未だ嘗て悦ばずんばあらず。徴も亦、知己の主に逢ふを喜び、其の力用を竭くす。又、労ひて曰く、卿が諌むる所、前後三百余事、皆、朕が意に称へり。卿が誠を竭くし国に奉ずるに非ずんば、何ぞ能く是の若くならん、と。三年、秘書監に累遷し、朝政に参預す。深謀遠算、弘益する所多し。太宗嘗て謂ひて曰く、卿が罪は、鉤に中つるよりも重く、我の卿に任ずるは、管仲より逾えたり。近代の君臣相得ること、寧ぞ我の卿に於けるに似たる者有らんや、と。
六年、太宗、近臣を宴す。長孫無忌曰く、王珪・魏徴は、往に息隠に事へ、臣、之を見ること讎の若し。謂はざりき今者又此の宴を同じくせんとは、と。太宗曰く、魏徴は往者実に我が讎とする所なりき。但だ其の心を事ふる所に尽くすは、嘉するに足る者有り。朕能く擢でて之を用ふ。何ぞ古烈に慙ぢん。然れども徴毎に顔を犯して切諌し、我が非を為すを許さず。我の之を重んずる所以なり、と。
七年、侍中に遷り、累りに鄭国公に封ぜらる。尋いで疾を以て職を解かんことを請ふ。太宗曰く、公独り金の鉱に在るを見ずや、何ぞ貴ぶに足らんや。良冶鍛へて器と為せば、便ち人の宝とする所と為る。朕方に自ら金に比し、卿を以て良匠と為す。卿疾有りと雖も、未だ衰老と為さず。豈に便ち爾るを得んや、と。徴、乃ち止む。後復た固辞す。侍中に解くを聴し、授くるに特進を以てし、仍ほ門下省の事を知せしむ。
十二年、帝、侍臣に謂ひて曰く、貞観以前、我に従ひて天下を平定し、艱険に周旋したるは、玄齢の功、与に譲る所無し。貞観の後、心を我に尽くし忠トウを献納し、国を安んじ人を利し、我が今日の功業を成し、天下の称する所と為る者は、唯だ魏徴のみ。古の名臣、何を以てか加へん、と。是に於て、親ら佩刀を解き、以て二人に賜ふ。
十七年、太子太師に拝せられ、門下の事を知するは故の如し。尋いで疾に遇ふ。徴の宅内、先に正堂無し。太宗、時に小殿を営まんと欲す。乃ち其の材を輟めて為に造らしむ。五日にして就る。中使を遣はして、賜ふに布被素褥を以てし、其の尚ぶ所を遂げしむ。後数日にして薨ず。太宗親臨して慟哭し、司空を贈り、諡して文貞と曰ふ。太宗親ら為めに碑文を製し、復た自ら石に書す。特に其の家に賜ひ、実封九百戸を食ましむ。
太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可し。古を以て鏡と為せば、以て興替を知る可し。人を以て鏡と為せば、以て得失を明かにす可し。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過を防ぐ。今、魏徴徂逝し、遂に一鏡を亡へり、と。因りて泣下ること久しうす。詔して曰く、昔、惟だ魏徴のみ、毎に余が過を顕す。其の逝きしより、過つと雖も彰すもの莫し。朕豈に独り往時に非にして、皆茲日に是なること有らんや。故は亦庶僚苟順して、龍鱗に触るるを難る者か。己を虚くして外求し、迷を披きて内省する故なり。言へども用ひざるは、朕の甘心する所なり。用ふれども言はざるは、誰の責ぞや。斯れより以後、各々乃の誠を悉くせ。若し是非有らば、直言して隠すこと無かれ、と。

【任賢 第3-1】
魏徴は鉅鹿の人なり。近く家を相州の臨黄に徒す。武徳の末、隠太子の洗馬と為る。太宗と隠太子と陰に相傾奪するを見、毎に建成を勧めて早く之が計を為さしむ。太宗、隠太子を誅するに及び、徴を召して之を責めて曰く、汝、我が兄弟を離間するは、何ぞや、と。衆皆之が為めに危懼す。徴、慷慨自若、従容として対へて曰く、皇太子、若し臣が言に従はば、必ず今日の禍無かりしならん、と。太宗、之が為めに容を斂め、厚く礼異を加へ、擢でて諌議大夫に拝し、数々之を臥内に引き、訪ふに政術を以てす。
徴、雅より経国の才有り。性又抗直にして、屈撓する所無し。太宗、之と言ふ毎に、未だ嘗て悦ばずんばあらず。徴も亦、知己の主に逢ふを喜び、其の力用を竭くす。又、労ひて曰く、卿が諌むる所、前後三百余事、皆、朕が意に称へり。卿が誠を竭くし国に奉ずるに非ずんば、何ぞ能く是の若くならん、と。三年、秘書監に累遷し、朝政に参預す。深謀遠算、弘益する所多し。太宗嘗て謂ひて曰く、卿が罪は、鉤に中つるよりも重く、我の卿に任ずるは、管仲より逾えたり。近代の君臣相得ること、寧ぞ我の卿に於けるに似たる者有らんや、と。
六年、太宗、近臣を宴す。長孫無忌曰く、王珪・魏徴は、往に息隠に事へ、臣、之を見ること讎の若し。謂はざりき今者又此の宴を同じくせんとは、と。太宗曰く、魏徴は往者実に我が讎とする所なりき。但だ其の心を事ふる所に尽くすは、嘉するに足る者有り。朕能く擢でて之を用ふ。何ぞ古烈に慙ぢん。然れども徴毎に顔を犯して切諌し、我が非を為すを許さず。我の之を重んずる所以なり、と。
七年、侍中に遷り、累りに鄭国公に封ぜらる。尋いで疾を以て職を解かんことを請ふ。太宗曰く、公独り金の鉱に在るを見ずや、何ぞ貴ぶに足らんや。良冶鍛へて器と為せば、便ち人の宝とする所と為る。朕方に自ら金に比し、卿を以て良匠と為す。卿疾有りと雖も、未だ衰老と為さず。豈に便ち爾るを得んや、と。徴、乃ち止む。後復た固辞す。侍中に解くを聴し、授くるに特進を以てし、仍ほ門下省の事を知せしむ。
十二年、帝、侍臣に謂ひて曰く、貞観以前、我に従ひて天下を平定し、艱険に周旋したるは、玄齢の功、与に譲る所無し。貞観の後、心を我に尽くし忠トウを献納し、国を安んじ人を利し、我が今日の功業を成し、天下の称する所と為る者は、唯だ魏徴のみ。古の名臣、何を以てか加へん、と。是に於て、親ら佩刀を解き、以て二人に賜ふ。
十七年、太子太師に拝せられ、門下の事を知するは故の如し。尋いで疾に遇ふ。徴の宅内、先に正堂無し。太宗、時に小殿を営まんと欲す。乃ち其の材を輟めて為に造らしむ。五日にして就る。中使を遣はして、賜ふに布被素褥を以てし、其の尚ぶ所を遂げしむ。後数日にして薨ず。太宗親臨して慟哭し、司空を贈り、諡して文貞と曰ふ。太宗親ら為めに碑文を製し、復た自ら石に書す。特に其の家に賜ひ、実封九百戸を食ましむ。
太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可し。古を以て鏡と為せば、以て興替を知る可し。人を以て鏡と為せば、以て得失を明かにす可し。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過を防ぐ。今、魏徴徂逝し、遂に一鏡を亡へり、と。因りて泣下ること久しうす。詔して曰く、昔、惟だ魏徴のみ、毎に余が過を顕す。其の逝きしより、過つと雖も彰すもの莫し。朕豈に独り往時に非にして、皆茲日に是なること有らんや。故は亦庶僚苟順して、龍鱗に触るるを難る者か。己を虚くして外求し、迷を披きて内省する故なり。言へども用ひざるは、朕の甘心する所なり。用ふれども言はざるは、誰の責ぞや。斯れより以後、各々乃の誠を悉くせ。若し是非有らば、直言して隠すこと無かれ、と。

【任賢 第4】
王珪は瑯ヤ臨沂の人なり。初め隠太子の中允と為り、甚だ建成の礼する所と為る。後、其の陰謀の事に連るを以て、スイ州に流さる。建成誅せられ、太宗、召して諌議大夫に拝す。毎に誠を推し節を尽くし、献納する所多し。珪嘗て封事を上りて切諌す。太宗謂ひて曰く、卿が朕を論ずる所、皆、朕の失に中る。古より人君、社稷の永安を欲せざるは莫し。然れども得ざる者は、祇だ己の過を聞かず、或は聞けども改むる能はざるが為めの故なり。今、朕、失ふ所有らば、卿能く直言し、朕復た過を聞きて能く改むれば、何ぞ社稷の安からざるを慮らんや、と。太宗、又嘗て珪に謂ひて曰く、卿若し常に諌官に居らば、朕必ず永く過失無からん、と。顧待益厚し。
貞観元年、黄門侍郎に遷り、政治に参預し、太子右庶子を兼ぬ。二年、進んで侍中に拝せらる。時に房玄齢・魏徴・李靖・温彦博・戴冑、珪と同じく国政を知す。嘗て同に宴に侍す。太宗、珪に謂ひて曰く、卿は識鑒清通、尤も談論を善くす。玄齢等より、咸く宜しく品藻すべし。又、自ら諸子の賢に孰与なるかを量る可し、と。対へて曰く、毎に諌諍を以て心と為し、君の尭舜に及ばざるを恥づるは、臣、魏徴に如かず。孜孜として国に奉じ、知りて為さざる無きは、臣、玄齢に如かず。才、文武を兼ね、出でては将たり入つては相たるは、臣、李靖に如かず。敷奏詳明に出納惟れ允なるは、臣、彦博に如かず。繁を処し劇を理め、衆務必ず挙がるは、臣、戴冑に如かず。濁を激し清を揚げ、悪を嫉み善を好むが如きに至りては、臣、数子に於て、頗る亦、一日の長あり、と。太宗深く其の言を嘉す。群公も亦各々以て己が懐ふ所を尽くすと為し、之を確論と謂ふ。

【任賢 第5】
李靖は京兆三原の人なり。大業の末、馬邑郡の丞と為る。会々高祖、太原の留守と為る。靖、高祖を観察し、四方の志有るを知る。因りて自ら候して変を上り、将に江都に詣らんとし、長安に至り、道塞がりて通ぜずして止む。高祖、京城に克ち、靖を執へ、将に之を斬らんとす。靖大いに呼びて曰く、公、義兵を起し暴乱を除く。大事を就さんと欲せずして、私怨を以て壮士を斬るや、と。太宗も亦、救靖を加ふ。高祖遂に之を捨す。
武徳中蕭銑・輔公セキを平ぐるの功を以て、揚州大都督府の長史に歴遷す。太宗、位を嗣ぎ、召して刑部尚書に拝す。貞観二年、本官を以て中書令を検校す。三年、兵部尚書に転じ、代州道の行軍総官と為り、進みて突厥の定襄城を撃ちて之を破る。突厥の諸部落、竝磧北に走る。突利可汗来り降り、頡利可汗大いに懼る。四年、退きて鉄山を保ち、使を遣はして入朝して罪に謝し、国を挙げて内附せんと請ふ。
頡利、外は降を請ふと雖も、而も内は猶豫を懐く。詔して鴻臚卿唐倹を遣はして之を慰諭せしむ。靖、副将張公謹に謂ひて曰く、詔使、彼に到る、虜は必ず自ら寛くせん。乃ち精騎を選び、二十日の糧を賚し、兵を引きて白道より之を襲はん、と。公謹曰く、既に其の降を許し、詔使、彼に在り。未だ宜しく討撃すべからず、と。靖曰く、此れ兵機なり。時、失ふ可からず、と。遂に軍を督して疾く進む。行きて陰山に到り、其の斥候千余帳に遇ひ、皆、俘にして以て軍に随ふ。頡利、使者を見て甚だ悦び、官兵の至るを虞らざるなり。靖の前鋒、霧に乗じて行く。其の牙帳を去ること七里、頡利始めて覚り、兵を列ぬるも、未だ陣を為すに及ばず、単馬軽走す。虜衆因りて潰散す。男女を俘にすること十余万、土界を斥くこと、陰山の北より大磧に至り、遂に其の国を滅ぼす。尋いで頡利可汗の別部落に獲、余衆悉く降る。
太宗大いに悦び、顧みて侍臣に謂ひて曰く、朕聞く、主憂ふれば臣辱められ、主辱めらるれば臣死す、と。往者、国家草創の時、突厥強梁なり。太上皇、百姓の故を以て、臣を頡利に称せり。朕、未だ嘗て痛心疾首せずんばあらず。匈奴を滅ぼさんことを志し、坐、席に安んぜず。食、味を甘んぜず。今者、暫く偏師を動かし、往くとして捷たざるは無く、単于稽ソウ恥其れ雪がんか、と。群臣、皆万歳と称す。尋いで靖を尚書左僕射に拝し、実封五百戸を賜ふ。又、西のかた吐谷渾を征し、大いに其の国を破る。改めて衛国公に封ぜらる。靖の妻亡するに及びて、詔有りて墳塋の制度、漢の衛霍の故事に依り闕を築きて突厥の内の鉄山、吐谷渾の内の積石の二山を象るを許し、以て殊績を旌す。

【任賢 第6】
虞世南は、会稽余姚の人なり。貞観七年、秘書監に累遷す。太宗、万機の隙毎に、数々之を引きて談論し共に経史を観る。世南、容貌懦弱にして衣に勝へざるが若しと雖も、而も志性抗烈にして、論じて古先帝王の政を為すの得失に及ぶ毎に、必ず規諷を存し、補益する所多し。
太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、朕、暇日に因りて虞世南と古今を商略す。朕に一言の善有れば、世南未だ嘗て悦ばずんばあらず。一言の失有れば、未だ嘗て悵恨せずんばあらず。近ごろ嘗みに戯れに一詩を作り、頗る浮艶に渉る。世南進表して諌めて曰く、陛下の此の作工なりと雖も、体、雅正に非ず。上の好む所、下必ず之に随ふ。此の文一たび行はるれば、恐らく風靡を致さん。軽薄俗を成すは、国を為むるの利に非ず。賜ひて継ぎ和せしむれば、敢て作らずんばあらず。而今よりして後、更に斯の文有らば、継ぐに死を以て請ひ、詔を奉ぜざらん、と。其の懇誠なること此の若し。朕用つて焉を嘉す。群臣、皆世南の若くならば、天下何ぞ理まらざるを憂へん、と。因りて帛一百五十段を賜ふ。
太宗嘗て称す、世南に五絶有り。一に曰く、徳行。二に曰く、忠直。三に曰く、博学。四に曰く、詞藻。五に曰く、書翰、と。卒するに及び礼部尚書を贈り、諡して文懿と曰ふ。太宗、魏王泰に手勅して曰く、虞世南の我に於けるは猶ほ一体のごときなり。遺を拾ひ闕を補ひ、日として暫くも忘るること無し。実に当代の名臣、人倫の準的なり。吾に小善有れば、必ず将順して之を成し、吾に小失有れば、必ず顔を犯して之を諌む。今、其れ云に亡す。石渠・東観の中、復た人無し。痛惜豈に言ふ可けんや、と。

【任賢 第7】
李勣は曹州離狐の人なり。本姓は徐氏。初め李密に仕へて右武候大将軍と為る。密、後、王世充の破る所と為り、衆を擁して国に帰す。勣猶ほ旧境十郡の地に拠る。武徳二年、其の長史郭孝恪に謂ひて曰く、魏公既に大唐に帰せり。今、此の人衆土地は、魏公の有する所なり。吾若し上表して之を献ぜば、即ち是れ主の敗を利して、自ら己の功と為し、以て富貴を邀むるなり。是れ吾の恥づる所なり。今宜しく具に州県及び軍人戸口を録し、総て魏公に啓し、公の自ら献ずるに聴すべし。此れ則ち魏公の功なり。亦可ならずや、と。
乃ち使を遣はして李密に啓す。使人初めて至るや、高祖、表無くして惟だ啓の李密に与ふる有るのみなるを聞き、甚だ之を怪しむ。使者、勣の意を以て聞奏す。高祖方めて大いに喜びて曰く、徐勣、徳に感じて功を推す。実に純臣なり、と。黎州の総管に拝し、姓を李氏と賜ひ、属籍を宗正に附す。其の父の蓋を封じて済陰王と為す。王爵を固辞す。乃ち舒国公に封じ、散騎常侍を授く。尋いで勣右武候大将軍を加ふ。
李密反叛して誅せらるるに及びて、勣、喪を発し服を行ひ、君臣の礼を備へ、表請して密を収葬せんとす。高祖遂に其の屍を帰す。是に於て大いに威儀を具へ、三軍縞素して、黎陽山に葬る。礼成り服を釈きて散ず。朝野、之を義とす。尋いで竇建徳の攻むる所と為り、勣、竇建徳に陥る。又、自ら抜きて京師に帰る。太宗に従ひて王世充・竇建徳を征して之を平らぐ。貞観元年、并州都督に拝せらる。令すれば行はれ禁ずれば止み、号して職に称へりと為す。突厥甚だ畏憚を加ふ。
太宗、侍臣に謂ひて曰く、隋の煬帝、賢良を精選して辺境を鎮撫するを解せず。惟だ遠く長城を築き、広く将士を屯して、以て突厥に備ふ。朕、今、李勣に并州を委任し、遂に突厥威に畏れて遠く遁れ、塞垣安静なるを得たり。豈に数千里の長城に勝らずや、と。其の後、并州、改めて大都督府を置き、又、勣を以て長史と為す。累に英国公に封ず。并州に在ること凡て十六年、召して兵部尚書に拝し、兼ねて政事を知せしむ。
勣時に暴疾に遇ふ。験方に云ふ、鬚灰を以て之を療す可し、と。太宗自ら鬚を剪り其れが為めに薬を和す。勣、頓首して血を見、泣きて以て陳謝す。太宗曰く、吾、社稷の為めに計るのみ。深謝するを煩はさず。公は往に李密を遺れず。今豈に朕に負かんや、と。

【任賢 第8】
馬周は博州荏平の人なり。貞観五年、京師に至り、中郎将常何の家に舎す。時に太宗、百官をして上書して得失を言はしむ。馬周、何の為めに便宜二十余事を陳べ、之を奏せしむ。事、皆、旨に合す。太宗、其の能を怪しみ、何に問ふ。何答へて曰く、此れ臣が発慮する所に非ず。乃ち臣が家の客馬周なり、と。太宗、即日、之を召す。未だ至らざるの間、凡そ四度、使を遣はして催促す。謁見するに及びて、与に語りて甚だ悦ぶ。門下省に直せしめ、尋いで監察御史を授け、累に中書舎人に除す。
周、機弁有り。敷奏を能くし、深く事端を識る。故に動けば中らざる無し。太宗嘗て曰く、我、馬周に於て、暫時、見ざれば、則便ち之を思ふ、と。十八年、中書令に歴遷し、太子右庶子を兼ぬ。周既に職、両宮を兼ね、事を処すること中允にして甚だ当時の誉を獲たり。又、本官を以て吏部尚書を摂す。太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、馬周、事を見ること敏速、性、甚だ貞正なり。人物を論量するに至りては、道を直くして言ひ、多く朕が意に称ふ。実に此の人に藉りて、共に時政を康くするなり、と。

【求諌 第1】
太宗、威容厳粛にして、百寮の進見する者、皆、其の挙措を失ふ。太宗、其の此の若くなるを知り、人の事を奏するを見る毎に必ず顔色を仮借し、諌諍を聞き、政教の得失を知らんことを冀ふ。貞観の初、嘗て公卿に謂ひて曰く、人、自ら照らさんと欲すれば、必ず明鏡を須ふ。主、過を知らんと欲すれば、必ず忠臣に藉る。若し主自ら賢聖を恃まば、臣は匡正せず。危敗せざらんと欲するも、豈に得可けんや。故に君は其の国を失ひ、臣も亦独り其の家を全くすること能はず。隋の煬帝の暴虐なるが如きに至りては、臣下、口を鉗し、卒に其の過を聞かざらしめ、遂に滅亡に至る。虞世基等、尋いで亦誅せられて死す。前事、遠からず。公等、事を看る毎に、人に利ならざる有らば、必ず須く極言規諌すべし、と。

【求諌 第2】
貞観元年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、正主、邪臣に任ずれば、理を致すこと能はず。正臣、、邪主に事ふれば、亦、理を致すこと能はず。惟だ君臣相遇ふこと、魚水に同じきもの有れば、則ち海内、安かる可し。朕、不明なりと雖も、幸に諸侯数々相匡救す。冀くは直言コウ議憑りて、天下を太平に致さん、と。
諌議大夫王珪対へて曰く、臣聞く、木、縄に従へば則ち正しく、君、諌に従へば則ち聖なり、と。故に古者の聖主には、必ず諍臣七人あり。言ひて用ひられざれば、則ち相継ぐに死を以てす。陛下、聖慮を開き、芻蕘を納る。愚臣、不諱の朝に処る。実に其の狂瞽をツクさんことを願ふ、と。太宗、善しと称し、詔して是より宰相内に入りて、国計を平章するときには、必ず諌官をして随ひ入りて、政事を預り聞かしめ、関説する所有らしむ。

【求諌 第3】
貞観二年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、明主は短を思ひて益々善に、暗主は短を護りて永く愚なり。隋の煬帝、好みて自ら矜誇し、短を護り諌を拒ぎ、誠に亦実に犯忤し難し。虞世基、敢て直言せざるは、或は恐らくは未だ深罪と為さざらん。昔、微子、佯狂にして自ら全うす。孔子、亦、其の仁を称す。煬帝が殺さるるに及びて、世基は合に同じく死すべきや否や、と。
杜如晦対へて曰く、天子に諍臣有れば、無道なりと雖も、其の天下を失はず。仲尼称す、直なるかな史魚。邦、道有るも矢の如く、邦、道無きも矢の如し、と。世基、豈に煬帝の無道なるを以て、諌諍を納れざるを得んや。遂に口を杜ぢて言ふ無く、重位に偸安し、又、職を辞し退を請ふ能はざるは、則ち微子が佯狂にして去ると、事理、同じからず。昔、晋の恵帝・賈后、将に愍懐太子を廃せんとす。司空張華、竟に苦諍する能はず、阿隠して苟くも免る。趙王倫、兵を挙げて后を廃するに及び、使を遣はして華を収めしむ。華曰く、将に太子を廃せんとするの日、是れ言ふ無きに非ず。当時、納れ用ひられず、と。其の使曰く、公は三公たり。太子、罪無くして廃せらる。言既に従はれずんば、何ぞ身を引きて退かざる、と。華、辞の以て答ふる無し。遂に之を斬り、其の三族を夷ぐ。
古人云ふ、危くして持せず、顛して扶けずんば、則ち将た焉んぞ彼の相を用ひん、と。故に君子は大節に臨みて奪う可からざるなり。張華は既に抗直にして節を成す能はず、遜言して身を全くするに足らず、王臣の節、固に已に墜ちたり。虞世基、位、宰補に居り、言を得るの地に在り、竟に一言の諌諍無し。誠に亦合に死すべし、と。
太宗曰く、公の言是なり。人君必ず忠良の補弼を須ちて、乃ち身安く国寧きを得。煬帝は、豈に下に忠臣無く、身、過を聞かざるを以て、悪積り禍盈ち、滅亡斯に及べるならずや。若し人主、行ふ所、当らず、臣下、又匡諌すること無く、苟くも阿順に在り、事、皆、美を称すれば、則ち君は暗主たり、臣は諛臣たり。君暗く臣諛へば、危亡遠からず。朕、今、志、君臣上下、各々至公を尽くし、共に相切磋し、以て理道を為すに在り。公等各々宜しく務めて忠トウを尽くし、朕が悪を匡救すべし。遂に直言して意に忤ふを以て、輒ち相責怒せざらん、と。

【求諫第4/情を尽くして極諫せんことを欲す】
太宗はいつも厳然と構えていたので、御前に伺傾する臣下は、その威厳に気おされて度を失ってしまうのが常だった。そのことに気づいた太宗は、臣下を引見するたびに、必ず顔色をやわらげて相手の意見に耳を傾け、政治の実態を知ることにつとめた。  貞観の初め、重臣たちにこう語ったことがある。「自分の姿を映し出そうとすれば、必ず鏡を用いなければならない。それと同じように、君主がみずからの過ちに気づくためには、必ず忠臣の諫言に俟たなければならぬ。者主がみずからを賢い人間だと思い込めば、過ちを犯しても、それを正してくれる臣下はいなくたる。そうなれば、国を滅ぼしたくたいと願っても、かなわぬことだ。国が滅びれば、当流、臣下もその家を全うすることはできない。隋の煬帝の暴虐な政治の下では、臣下はみな口をつぐみ、あえて苦言を呈する者は一人もいなかった。その結果、隋は滅亡し、側近の虞世基らも、迎合を事としたあげく、あいついで誅殺された。煬帝の失敗はそれほど遠い昔のことではない。どうかそちたちは、政治の実態をよく見とどけ、かりそめにも人民を苦しめていることがあれば、遠慮なく苦言を呈してほしい」  また、貞観三年には、側近の者たちにこう語つている。「中書、門下の両省は、国政の中枢である。それゆえ、そなたたちのような人材を登用している。責任はこの上なく重い。わたしの下す詔勅に下都合な箇所があれば、遠慮なく議論を尺くすべきである。しかるに近頃、わたしの気持に逆らうまいとしてのことか、はいはいと言うばかりで、いっこうに諫言してくれる者がいない。まことに嘆かわしいことだ。ただ詔勅に署名して下に流してやるだけのことなら、どんな人間にだってできる。わざわざ人材を選んで仕事を委任する必委はないのである。今後、詔勅に不都合な箇所があれば、どしどし意見を申し述べてほしい。わたしを恐れて、知っていながら口を閉ざす、かりそめにもそんなことは許されないものと心得よ」  さらに貞観五年には、宰相の房玄齢らにこう語つている。「昔から帝王には感情のままに喜んだり怒ったりした者が多い。機嫌のよいときは、功積のない者にまで賞を与え、怒りにかられたときは、平気で罪のない人間まで殺した。天下の大乱はすべてこのようなことが原因で起こるのである。わたしは今、日夜そのことに思いを致している。どうか気づいたことがあれば、遠慮なく申し述べてほしい。また、そちたちも部下の諫言には喜んで耳を傾けるがよい。部下の意見が自分の意見と違っているからといって、咎めだてしてはならぬ。部下の諫言を受け人れない者が、どうして上の者を諫言することができようぞ」

【求諌 第5】
貞観八年、上、侍臣に謂ひて曰く、朕、閑居静坐する毎に、則ち自ら内に省み、恒に、上、天心に称はず、下、百姓の怨む所と為らんことを恐れ、但だ人の匡諌せんことを思ひ、耳目をして外通し、下の冤滞無からしめんことを欲す。又、比、人の来りて事を奏する者を見るに、多く怖慴する有りて、言語、次第を失ふを致す。尋常の事を奏するすら、情猶ほ此の如し。況んや諌諍せんと欲するは、、必ず当に逆鱗を犯すを畏るるなるべし。所以に諌者有る毎に、縦ひ朕の心に合はざるも、朕亦、以て忤ふと為さず。若し即ち嗔り責めば、深く人の戦懼を懐かんことを恐る。豈に肯て更に言はん、や。

【求諌 第6】
貞観十五年、太宗、魏徴に問ひて曰く、比来、朝臣、都て事を論ぜざるは、何ぞや、と。徴対へて曰く、陛下、心を虚しくして採納す。誠に宜しく言者有るべし。然れども古人云ふ、未だ信ぜられずして諌むれば、則ち謂ひて己を謗ると為す。信ぜられて諌めざれば、則ち謂ひて之を尸禄と為す、と。但だ人の才器は各々同じからざる有り。懦弱の人は、忠直を懐けども言ふこと能はず。疎遠の人は、信ぜられざらんことを恐れて言ふことを得ず。禄を懐ふ人は、身に便ならざらんことを慮りて敢て言はず。相与に緘黙し、俛仰して日を過す所以なり、と。
太宗曰く、誠に卿の言の如し。朕、毎に之を思ふ。人臣、諌めんと欲すれば、輒ち死亡の禍を懼る。夫の鼎カクに赴き、白刃を冒すと、亦何ぞ異ならんや。故に忠貞の臣は、誠を竭さんと欲せざる者には非ず。敢て誠を竭す者は、乃ち是れ極めて難し。禹が昌言を拝せし所以は、豈に此が為ならずや。朕、今、懐抱を開いて、諌諍を納る。卿等、怖懼を労して、遂に極言せざること無かれ、と。

【求諌 第7】
貞観十六年、太宗、房玄齢等に謂ひて曰く、自ら知る者は明なり。信に難しと為す。属文の士、伎巧の徒の如きに至つては、皆自ら己が長は、他人は及ばずと謂へり。若し名工・文匠、商略詆訶すれば、蕪詞拙跡、是に於て乃ち見はる。是に由りて之を言へば、人君は須く匡諌の臣を得て、其の愆過を挙ぐべし。一日万機、独り聴断す。復た憂労すと雖も、安んぞ能く善を尽くさん。常に念ふ、魏徴、事に随ひて諌諍し、多く朕の失に中り、明鏡の形を鑒みて、美悪畢く見はるるが如し、と。因りて觴を挙げて玄齢等数人に賜ひ、以て之を勗めしむ。

【求諌 第8】
貞観十七年、太宗、嘗て諌議大夫チョ遂良に問ひて曰く、昔、舜、漆器を造り、禹、其の俎に雕る。当時、舜・禹を諌むるもの十有余人なり、と。食器の間、何ぞ苦諌を須ひん、と。遂良曰く、雕琢は農事を害し、纂組は女工を傷る。奢淫を首創するは、危亡の漸なり。漆器已まざれば、必ず金もて之を為らん。金器已まざれば、必ず玉もて之を為らん。所以に諍臣は、必ず其の漸を諌む。其の満盈に及びては、復た諌むる所無し、と。
太宗曰く、卿の言、是なり。朕が為す所の事、若し当らざる有り、或は其の漸に在り、或は已に将に終らんとするも、皆宜しく進諌すべし。比、前史を見るに、或は人臣の事を諌むる有れば、遂に答へて云ふ、業已に之を為せり、と。或は道ふ、業已に之を許せり、と。竟に為に停改せず。此れ則ち危亡の禍、手を反して待つ可きなり、と。

【納諌 第1】
貞観の初め、太宗が王珪と酒盛りをして楽しく語っているとき、太宗の側に美しい女性が侍っていた。その女性はもと廬江王・李?の妾であり、李?が敗れて死んだ後、没収されて宮中に入った。太宗はその美人を指して王珪に言った。「廬江は道理にそむいた。その夫を殺して、その妻を奪ったのだ。滅びて当然だ。」王珪は立って席をよけて言った。「陛下は廬江が他人の妻を奪ったのを邪であるとお考えですか、邪でないとお考えなのですか?」太宗は言った。「人を殺してその妻を奪ったというのに、その是非を問うとはどうしたことか?」それに対して王珪は言った。「『管子』という書に、斉の桓公が、滅亡した郭国の廃墟に行き、そこで老人に問いました。『郭はなぜ滅んだのか?』老人は言いました。『善を善とし、悪を悪としたからです。』そして桓公が、『それは賢君ではないか。なぜそれで滅んだのだ。』と聞くと、老人は答えました。『郭の君は善を善としましたが、それを用いることができず、悪を悪としましたが、それを除くことができませんでした。よって滅んだのです。』とあります。今、このご婦人が陛下のお側に侍っています。失礼ながら陛下はその行為を是認されているのではないでしょうか。陛下がもし非となされるならば、これこそ悪を知ってそれを除かないことであります。」太宗は大いに喜び、至極もっともであると称賛し、すぐにその女性を親族のもとへ帰した。

【納諌 第2】
貞観三年、太宗、司空裴寂に謂ひて曰く、比、上書して事を奏する有り。條数甚だ多し。朕総て之を屋壁に黏し、出入に観省す。孜孜として倦まざる所以は、臣下の情を尽くさんことを欲すればなり。一たび理を致さんことを思ふ毎に、或は三更に至りて方めて寝ぬ。亦、公が輩、心を用ふること倦まず、以て朕が懐に副はんことを望む、と。

【納諌 第3】
貞観四年、詔して卒を発して洛陽宮の乾元殿を修め、以て巡狩に備ふ。給事中張玄素、上書して諌めて曰く、微臣竊に思ふに、秦の始皇の君たるや、周室の余に藉り、六国の盛に因り、将に之を万代に貽さんとするも、其の子に及びて亡べり。良に嗜を逞しくし慾に奔り、天に逆ひ人を害ふに由る者なり。是に知る。天下は力を以て勝つ可からず、神祇は親を以て恃む可からず、惟だ当に倹約を弘にし、賦斂を薄くすべし。終を慎しむこと始の如くにせば以て永固なる可し。
方今、百王の末を承け、凋弊の余に属す。必ず之を節するに礼制を以てせんと欲せば、陛下宜しく身を以て先と為すべし。東都は未だ幸期有らざるに、即ち補葺せしむ。諸王、今竝びに藩に出で、又須く営構すべし。興発既に多きは、豈に疲人の望む所ならんや。其の不可なるの一なり。陛下、初め東都を平らげしの始め、層楼広殿、皆、撤毀せしめ、天下翕然として、心を同じくして欣仰せり。豈に初めは則ち其の侈靡を悪み、今は乃ち其の雕麗を襲ふ有らんや。其の不可なるの二なり。音旨を承くる毎に、未だ即ち巡幸せず。此れ即ち不急の務を事とし、虚費の労を成す。国に兼年の積無し、何ぞ両都の好を用ひん。労役、度に過ぎ、怨トク将に起らんとす。其の不可なるの三なり。百姓、乱離の後を承け、財力凋尽す。天恩含育し、粗ぼ存立を見る。飢寒猶ほ切に、生計未だ安からず。五六年の間には、未だ旧に復する能はざらん。奈何ぞ更に疲人の力を奪はん。其の不可なるの四なり。昔、漢の高祖、将に洛陽に都せんとす。婁敬一言して、即日西に賀す。豈に地は惟れ土の中、貢賦の均しき所なるを知らざらんや。但だ形勝の関内に如かざるを以てなり。伏して惟みるに、凋弊の人を化し、澆漓の俗を革め、日たること尚ほ浅く、未だ甚だしくは淳和ならず。事宜を斟酌するに、ナンぞ東幸す可けんや。其の不可なるの五なり。
臣又嘗て隋室の初め此の殿を造るを見るに、楹棟宏壮なり。大木は隋近の有る所に非ず、多く豫章より採り来る。二千人、一柱を曳き、其の下に轂を施す。皆、生鉄を以て之を為る。若し木輪を用ふれば、便即ち火出づ。略ぼ一柱を計るに、已に数十万の功を用ふれば、則ち余費又此れに過倍す。臣聞く、阿房成りて、秦人散じ、章華就りて、楚衆離る、と。然して乾陽、功を畢へて、隋人、解体す。且つ陛下の今時の功力を以て、隋日に何如とす。凋残の後を承け、瘡痍の人を役し、億万の功を費し、百王の弊を襲ふ。此を以て之を言へば、恐らくは煬帝よりも甚だしき者あらん。深く願はくは陛下、之を思はんことを。由余の笑ふ所と為る無くんば、則ち天下の幸甚なり、と。
太宗、玄素に謂ひて曰く、卿、我を以て煬帝に如かずとす。桀紂に何如、と。対へて曰く、若し此の殿卒に興らば、所謂同じく乱に帰するなり、と。太宗歎じて曰く、我、思量せず、遂に此に至る、と。顧みて房玄齢に謂ひて曰く、今、玄素の上表を得たり。洛陽は実に亦未だ宜しく修造すべからず。後必ず事理須く行くべくば、露坐すとも亦復た何ぞ苦しまん。有らゆる作役は、宜しく即ち之を停むべし。然れども卑を以て尊を干すは、古来、易からず。其の至忠至直に非ずんば、安んぞ能く此の如くならん。且つ衆人の唯唯は、一士の諤諤に如かず。絹五百匹を賜ふ可し、と。魏徴歎じて曰く、張公、遂に回天の力有り。仁人の言、其の利博きかな、と謂ふ可し、と。

【納諌 第4】
貞観六年、太宗、御史大夫韋挺・中書侍郎杜正倫・秘書少監虞世南・著作郎姚思廉等、封事を上りて旨に称へるを以て、召して謂ひて曰く、朕、古よりの人臣、忠を立つるの事を歴観するに、若し明主に値へば、便ち誠を尽くして規諌するを得。龍逢・比干の如きに至つては、竟に孥戮を免れず。君たること易からず、臣たること極めて難し。朕又聞く、龍は擾して馴れしむ可し。然れども喉下に逆鱗有り、之に触るれば則ち人を殺す。人主も亦逆鱗有り、と。卿等、遂に犯触を避けずして、各々封事を進むること、常に能く此の如くならば、朕豈に宗社の傾敗を慮らんや。毎に卿等の此の意を思ひ、暫くも忘るる能はず。故に宴を設けて楽を為すなり、と。仍りて帛を賜ふこと差有り。

【納諌 第5】
太常卿韋挺、嘗て上疏して得失を陳す。太宗、書を賜ひて曰く、上る所の意見を得るに、極めて是れトウ言にして、辞理、観る可し。甚だ以て慰と為す。昔、斉境の難に、夷吾、鉤を射るの罪有り。蒲城の役に勃テイ、袂を斬るの仇たり。而るに小白、以て疑と為さず、重耳、之を待つこと旧の若し。豈に各々主に非ざるに吠え、志、二無きに在るに非ずや。卿の深誠、斯に見はる。若し能く克く此の節を全くせば、則ち永く令名を保たん。如し其れ之を怠らば、惜しまざる可けんや。勉励して此を終へ、範を将来に垂れ、当に後の今を観ること、今の古を視るがごとくならしむべし。亦美ならずや。朕、比、其の過を聞かず、未だ其の闕を覩ず。頼に忠懇を竭くし、数々嘉言を進め、用て朕が懐に沃げ。一に何ぞ道ふ可けんや、と。

【納諌 第6】
李大亮、貞観中、涼州都督と為る。嘗て臺使有り、州境に至る。名鷹有るを見、大亮に諷して之を献ぜしむ。大亮密に表して曰く、陛下久しく畋猟を絶つ。而るに使者、鷹を求む。若し是れ陛下の意ならば、深く昔旨に乖かん。如し其れ自ら擅にせば、便ち是れ使、其の人に非ざらん、と。
太宗、其れに書を下して曰く、卿が文武を兼ね資し、志、貞確を懐くを以て、故に藩牧を委ね、茲の重寄に当つ。比、州鎮に在りて、声績遠く彰る。此の忠勤を念ひ、寤寐に忘るること無し。使、鷹を献ぜしむるに、遂に曲順せず。今を論じ古を引き、遠く直言を献じ、腹心を披露し、非常に懇至なり。覧を用つて嘉歎し、已む能はざるのみ。臣有ること此の若し、朕復た何ぞ憂へん。宜しく此の誠を守り、終始、一の如くすべし。詩に曰く、爾の位を靖恭し、是の正直を好む。神之れ之を聴き、爾の景福を介にせん、と。古人称す、一言の重き、千金にヒトし、と。卿の此の言、深く貴ぶに足る。今、卿に金壷瓶・金椀各々一枚を賜ふ。千溢の重き無しと雖も、是れ朕が自用の物なり。
卿、志を立つること方直、節を竭くすこと至公、職に処り官に当り、毎に委ぬる所に副ふ。方に大いに任使し、以て重寄を申ねんとす。公事の間、宜しく典籍を観るべし。兼ねて卿に荀悦の漢紀一部を賜ふ。此の書、叙致簡要、論議深博、政を為すの体を極め、君臣の義を尽くす。宜しく尋閲を加ふべし、と。

【納諌 第7】
貞観八年、陝県の丞皇甫徳参、上書して旨に忤ふ。太宗以てサン謗と為す。侍中魏徴、奏言す、昔、賈誼、漢の文帝の時に当りて、上書して云ふ、痛哭を為す可き者三、長歎を為す可き者五、と。古より上書は、率ね激切多し。若し激切ならざれば、則ち人主の心を起す能はず。激切は即ちサン謗に似たり。惟だ陛下、其の可否を詳かにせよ、と。太宗曰く、公に非ざれば、能く此を道ふ者無し、と。徳参に物一百三十段を賜はしむ。

【納諌 第8】
貞観中、使を遣はして西域に詣り、葉護河干立てしむ。未だ還らざるに、又人をして多く金帛を賚し、諸国を歴て馬を市はしむ。魏徴諌めて曰く、今、使を発するは、河干を立つるを以て名と為す。河干未だ立つを定めざるに、即ち諸国に詣りて馬を市はしむ。彼必ず以て意は馬を市ふに在り、専ら河干を立つるが為めならずと為さん。河干、立つを得とも、則ち甚だしくは恩を懐はざらん。立つを得ざれば、則ち深怨を生ぜん。諸蕃、之を聞かば、且に中国を重んぜざらんとす。但だ彼の土をして安寧ならしめば、則ち諸国の馬、求めずして自ら至らん。
昔、漢文、千里の馬を献ずる者有り。帝曰く、吾、吉行は日に三十、凶行は日に五十、鸞輿、前に在り、属車、後に在り、吾独り千里の馬に乗りて、将に以て安くに之かんとするや、と。乃ち其の道里の費を償ひて之を返せり。又、光武、千里の馬及び宝剣を献ずる者有り。馬は以て鼓車に駕し、剣は以て騎士に賜ふ。
今、陛下の凡そ施為する所、皆ハルカに三王の上に過ぎたり。奈何ぞ此に至りて、孝文・光武の下と為らんと欲するや。又、魏の文帝、西域の大珠を市はんことを求む。蘇則曰く、若し陛下、恵、四海に及ばば、則ち求めずして自ら至らん。求めて之を得るは、貴ぶに足らざるなり、と。陛下縦ひ漢文の高行を慕ふ能はずとも、蘇則の正言を畏れざる可けんや、と。太宗、遽に之を止めしむ。

【納諌 第9】
貞観十七年、太子右庶子高李輔、上疏して得失を陳す。特に鍾乳一剤を賜ひ、謂ひて曰く、卿、薬石の言を進む。故に薬石を以て相報ゆ、と。

【納諌 第10】
太宗、嘗て苑西面監穆裕を怒り、朝堂に命じて之を斬らしむ。時に太帝、皇太子たり。遽に顔を犯して進諌す。太宗、意乃ち解く。司徒長孫無忌曰く、古より太子の諌むる、或は閑に乗じて従容として言ふ。今、陛下、天威の怒を発し、太子、顔を犯すの諌を申ぶ。斯れ古今未だ有らず、と。
太宗曰く、夫れ人久しく相与に処れば、自然に染習す。朕が天下を御めしより、虚心正直なり。即ち魏徴有りて、朝夕進諌す。徴云に亡せしより、劉キ・岑文本・馬周・チョ遂良等、之に継ぐ。皇太子幼にして朕の膝前に有り、毎に朕が心に諌者を悦ぶを見、因りて染まりて以て性を成す。故に今日の諌有り、と。

【君臣鑒戒 第1】
貞観六年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕聞く、周秦、初め天下を得たるは、其の事、異ならず。然れども、周は即ち惟だ善を是れ務め、功を積み徳を累ぬ。能く七百の基を保ちし所以なり。秦は乃ち其の奢淫を恣にし、好んで刑罰を行ひ、二世に過ぎずして滅ぶ。豈に善を為す者は、福祚延長にして、悪を為す者は、降年永からざるに非ずや。朕又聞く、桀紂は帝王なり。匹夫を以て之に比すれば、則ち以て辱と為す。顔閔は匹夫なり。帝王を以て之に比すれば、則ち以て栄と為す、と。此れ亦帝王の深恥なり。朕毎に此の事を将て、以て鑒戒と為す。常に逮ばずして人の笑ふ所と為らんことを恐る、と。
魏徴曰く、臣聞く、魯の哀公、孔子に謂ひて曰く、人、好く忘るる者有り。宅を移して、乃ち其の妻を忘る、と。孔子曰く、又、好く忘るること此よりも甚だしき者有り。丘、桀紂の君を見るに、乃ち其の身を忘る、と。願はくは、陛下、毎に此の如きを慮と為すを作さば、後人の笑を免るるに庶からんのみ、と。

【君臣鑒戒 第2】
貞観十四年、高昌平ぎたるを以て、侍臣を召して宴を賜ふ。太宗、房玄齢に謂ひて曰く、高昌若し臣の礼を失はずんば、豈に滅亡に至らんや。朕、此の一国を平げ、益々危懼を懐く。今、克く久大の業を存せんと欲せば、惟だ当に驕逸を戒めて以て自ら防ぎ、忠謇を納れて以て自ら正し、邪佞を黜け、賢良を用ひ、小人の言を以てして君子を議せざるべし。此を以て之を守らば、安きを獲るに庶幾からんか、と。
魏徴進んで曰く、臣、古来の帝王を観るに、乱を撥め業を創むるときは、必ず自ら戒懼し、芻蕘の議を採り、忠トウの言に従ふ。天下既に安ければ、則ち情を恣にし、欲を肆にし、諂諛を甘楽し、正諌を聞くを悪む。張良は、漢王の計画の臣なり。高祖が天子と為り、当に嫡を廃して庶を立てんとするに及び張良曰く、今日の事は、口舌の能く争ふ所に非ざるなり、と。終に敢て復た関説するところ有らず。況んや陛下功徳の盛んなる、漢祖を以て之を方ぶるに、彼は準ずるに足らず。位に即きて十有五年、聖徳光被す。今、又、高昌を平殄したるも、猶ほ安危を以て意に繋け、方に忠良を納用し、直言の道を開かんと欲す。天下の幸甚なり。
昔、斉の桓公管仲・鮑叔牙・ネイ戚の四人飲す。桓公、叔牙に謂ひて曰く、盍ぞ寡人の為に寿せざるや、と。叔牙、觴を捧げて起ちて曰く、願はくは、公、出でてキョに在りしときを忘るる無く、管仲をして、魯に束縛せられしときを忘るる無からしめ、ネイ戚をして、車下に飯牛せしときを忘るる無からしめんことを、と。桓公、席を避けて再拝して曰く、寡人と二大夫と、能く夫子の言を忘るること無くんば、則ち社稷、危からざらん、と。太宗、徴に謂ひて曰く、朕、必ず敢て布衣の時を忘れざらん。公等も叔牙の人と為りを忘るるを得ざれ、と。

【君臣鑒戒 第3】
貞観十五年、太宗、特進魏徴に問ひて云く、朕、己に克ちて政を為し、前烈を仰止し、積徳・累仁・豊功・厚利の四者に至りては、朕皆之を行ふ。何等の優劣あるや、と。徴曰く、徳・仁・功・利は、陛下兼ねて之を行ふ。然れば則ち乱を撥めて正に反し、戎狄を除くは、是れ陛下の功なり。黎元を安堵し、各々生業有るは、是れ陛下の利なり。此に由りて之を言へば、功利は多きに居る。惟だ徳と仁とは、願はくは陛下自ら彊めて息まざれば、必ず致す可きなり、と。

【君臣鑒戒 第4】
貞観十七年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、古より草創の主、子孫に至りて乱多きは、何ぞや、と。司空房玄齢曰く、此れ、幼主は深宮に生長し、少くして富貴に居るが為めに、未だ嘗て人間の情偽、理国の安危を識らず。政を為すこと乱多き所以なり、と。
太宗曰く、公の意は、過を主に推す。朕は則ち罪を臣に帰す。夫れ功臣の子弟は、多く才行無く、祖父の資蔭に藉りて、遂に大官に処り、徳義、修まらず、奢縦を是れ好む。主、既に幼弱にして、臣、又不才、顛るるも扶けず。豈に能く乱無からんや。隋の煬帝、宇文述が藩に在りしときの功を録して、化及を高位に擢づ。報効を思はず、翻つて殺逆を行へり。此れ豈に臣下の過に非ずや。朕が此の言を発するは、公等が子弟を戒勗し、愆犯無からしめんことを欲す。即ち国家の慶なるのみ、と。
太宗、又曰く、化及と楊玄感とは、即ち隋の大臣にして、恩を受くること深き者なり。子孫皆反す。其の故は何ぞや、と。岑文本対へて曰く、君子は乃ち能く徳を懐ひ、小人は恩を荷ふこと能はず。玄感・化及の徒は。竝びに小人なり。古人、君子を貴びて小人を賎しむ所以なり、と。太宗曰く、然り、と。

【論択官 第1】
貞観元年、太宗、房玄齢等に謂ひて曰く、理を致すの本は、惟だ審かに才を量り職を授け、務めて官員を省くに在り。故に書に称す、官に任ずるは惟だ賢才をせよ、と。又云ふ、官は必ずしも備へず、惟だ其の人をせよ、と。孔子曰く、官事、必ずしも摂せず、焉んぞ倹と称するを得ん、と。若し其の善なる者を得ば、少しと雖も亦足らん。其の不善なる者は、縦ひ多きも亦何をか為さん。古人も亦、官に其の才を得ざるを以て、地に画きて餅を為すも食ふ可からざるに比するなり。卿宜しく詳かに此の理を思ひ、庶官の員位を量定すべし、と。
玄齢等是に由りて置く所の文武官、総べて六百四十三員とす。太宗、之に従ふ。因りて玄齢に謂ひて曰く、此より儻し楽工雑類、仮使、術、儕輩に逾ゆる者有るも、只だ特に銭帛を賜ひて以て其の能を称す可し。必ず官爵を超授して、夫の朝賢君子と肩を比べて立ち、坐を同じくして食ひ、諸の衣冠をして以て恥累と為さしむ可からざるなり、と。

【論択官 第2】
貞観二年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕、毎夜、恒に百姓間の事を思ひ、或は夜半に至るまで寐ねず。惟だ都督・刺史の、百姓を養ふに堪ふるや否やを恐る。故に屏風の上に於て、其の姓名を録し、坐臥恒に看る。官に在りて、如し善事有らば、亦、具に名下に列ぬ。朕、深宮の中に居りて、視聴、遠きに及ぶこと能はず。委むる所の者は、惟だ都督・刺史のみ。此の輩は実に理乱の繋る所なり。尤も須く人を得べし、と。

【論択官 第3】
貞観二年、上、尚書右僕射封徳彝に謂ひて曰く、安きを致すの本は、惟だ人を得るに在り。比来、卿をして賢を挙げしむるに、未だ嘗て推薦する所有らず。天下の事は重し、卿、宜しく朕が憂労を分つべし。卿既に言はずんば、朕将た安くにか寄せん、と。対へて曰く、臣愚豈に敢て情を尽くさざらんや。但だ今の見る所、未だ奇才異能有らず、と。上曰く、前代の明王、人を使ふこと器の如くす。才を異代に借らずして、皆、士を当時に取る。豈に伝説を夢み、呂尚に逢ふを待ちて、然る後に、政を為さんや。何の代か賢無からん。但々遺して知らざるを患ふるのみ、と。徳彝慙赧して退く。

【論択官 第4】
貞観二年、太宗、房玄齢・杜如晦に謂ひて曰く、卿は僕射たり。当に朕の憂を助け、耳目を広開し、賢哲を求訪すべし。比聞く、卿等、詞訟を聴受すること、日に数百有りと。此れ即ち符牒を読むに暇あらず、安んぞ能く朕を助けて賢を求めんや、と。因りて尚書省に勅し、細務は皆左右丞に付し、惟だ冤滞の大事の、合に聞奏すべき者のみ、僕射に関せしむ。

【論択官 第5】
貞観三年、太宗、吏部尚書杜如晦に謂ひて曰く、比、吏部の人を択ぶを見るに、惟だ其の言詞刀筆のみを取り、其の景行を悉さず。数年の後、悪跡始めて彰はれ、刑戮を加ふと雖も、而も百姓已に其の弊を受く。如何して善人を獲可き、と。
如晦対へて曰く、両漢の人を取る、皆、行、郷閭に著れ、然る後に入れ用ふ。故に当時、号して多士と為す。今、毎年選集し、数千人に向なんとす。厚貎飾詞、知悉す可からず。選司但だ其の階品を配するのみ。才を得る能はざる所以なり、と。上乃ち将に漢家の法に依りて、本州をして辟召せしめんとす。会々功臣等、将に世封を行はんとし、其の事遂に止む。

【論択官 第6】
貞観六年、上、魏徴に謂ひて曰く、古人云ふ、王者は須く官の為めに人を択ぶべし。造次に即ち用ふ可からざ、と。朕、今、一事を行へば、則ち天下の観る所と為り、一言を出せば、則ち天下の聴く所と為る。徳好の人を用ふれば、善を為す者皆勧む。誤りて悪人を用ふれば、不善の者競い進む。賞、其の労に当れば、功無き者自ら退く。罰、其の罪に当れば、悪を為す者誡懼す。故に知る、賞罰は軽々しく行ふ可からず、人を用ふることは弥々須く慎んで択ぶべし、と。
徴対へて曰く、人を知るの事は、古より難しと為す。故に績を考へて黜陟し、其の善悪を察す。今、人を求めんと欲せば、必ず須く審かに其の行を訪ふべし。若し其の善を知りて然る後に之を用ひば、縦ひ此の人をして事を済す能はざらしむとも、只だ是れ才力の及ばざるにて、大害を為さざらん。誤りて悪人を用ひば、縦し強幹ならしめば、患を為すこと極めて多からん。但だ乱代は惟だ其の才を求めて、其の行を顧みず。太平の時は必ず才行倶に兼ぬるを須ちて、始めて之を任用す可し、と。

【論択官 第7】
貞観十一年、侍御史馬周、上疏して曰く、天下を理むる者は、人を以て本と為す。百姓をして安楽ならしめんと欲せば、惟だ刺史と県令とのみに在り。今、県令既に衆く、皆賢なる可からず。若し毎州、良刺史を得ば、則ち合境蘇息せん。天下の刺史、悉く聖意に称はば、則ち陛下、巌廊の上に端拱す可く、百姓、安からざるを慮らざらん。古より、郡守・県令、皆、賢徳を妙選す。遷擢して宰相と為す有らんと欲すれば、必ず先づ試みるに人に臨むを以てす。或は二千石より、入りて丞相及び司徒・大尉と為る者多し。朝廷は必ず独り内官のみを重んじ、刺史・県令は、遂に其の選を軽くす可からず。百姓の未だ安からざる所以は、殆ど此に由る、と。太宗因りて侍臣に謂ひて曰く、刺史は朕当に自ら簡択すべし。県令は京官の五品以上に詔して、各々一人を挙げしめよ、と。

【論択官 第8】
貞観十一年、治書侍御史劉キ上疏して曰く、臣聞く、尚書の万機は、寔に政の本と為す、と。伏して尋ぬるに、此の選は、授受誠に難し。是を以て、八座は文昌に比べ、二丞は管轄に方ぶ。爰に曹郎に至るまで、上、列宿に膺る。苟くも職に称ふに非ざれば位を竊み譏りを興す。伏して見るに、比来、尚書省詔勅稽停し、文案擁滞す。臣誠に庸劣なれども、請ふ其の源を述べん。
貞観の初、未だ令僕有らず。時に省務繁雑なること、今に倍多す。而して左丞載冑・右丞魏徴、竝びに吏方に暁達し、質性平直にして、事の当に弾挙すべきは、廻避する所無し。陛下又仮すに恩慈を以てし、自然に物を粛せり。百司、懈らざりしは、抑も此に之れ由れり。杜正倫が続ぎて右丞に任ずるに及びて、頗る亦下を励ませり。
比者、綱維、挙がらざるは、竝びに勲親、位に在り、器、其の任に非ず、功勢相傾くるが為なり。凡そ官僚に在るもの、未だ公道に循はず、自ら強めんと欲すと雖も、先づ囂謗を懼る。所以に郎中の与奪、惟だ諮稟を事とす。尚書依違して、断決する能はず。或は聞奏を憚り、故らに稽延を事とす。案、理窮まると雖も、仍ほ更に盤下す。去ること程限無く、来ること遅きを責めず。一たび手を出すを経れば、便り年載を渉る。或は旨を希ひて情を失ひ、或は嫌を避けて理を抑ふ。勾司、案成るを以て事畢ると為し、是非を究めず。尚書、便僻を用て奉公と為し、当不を論ずる莫し。互に相姑息し、惟だ弥縫を事とす。且つ衆を選び能に授くること、才に非ざれば挙ぐる莫し。天工、人代る。焉んぞ妄りに加ふ可けんや。懿戚・元勲に至りては、但だ宜しく其の礼秩を優にすべし。或は年高くして耄及び、或は病積み智昏きは、既に時に益無し、宜しく当に之を致すに閑逸を以てすべし。。久しく賢路を妨ぐるは、殊に不可なりと為す。
将に茲の災弊を救はんと欲せば、且つ宜しく尚書左右丞及び左右司郎中を精簡すべし。如し竝びに人を得ば、自然に綱維備に挙がらん。亦当に趨競を矯正すべし。豈に惟だ其の稽滞を息むるのみならんや、と。疏奏す。尋いでキを以て尚書右丞と為す。

【論択官 第9】
貞観十三年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕聞く、太平の後には、必ず大乱有り、大乱の後には、必ず太平有り、と。大乱の後を承くるは、則ち是れ太平の運なり。能く天下を安んずる者は、惟だ賢才に在り。公等、既に賢を知る能はず、朕、又、遍く知る可からず。日復た一日、人を得るの理無し。今、人をして自ら挙げしめんと欲す。事に於て如何、と。魏徴曰く、人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人を知ること既に以て難しと為す。自ら知ること誠に亦易からず。且つ愚暗の人、皆、能に矜り善に伐る。恐らくは澆競の風を長ぜん。自ら挙げしむ可からず、と。

【論択官 第10-1】
貞観十四年、特進魏徴、上疏して曰く、臣聞く、臣を知るは君に若くは莫く、子を知るは父に若くは莫し、と。父、其の子を知る能はざれば、則ち以て一家を睦まじくする無し。君、其の臣を知る能はざれば、則ち以て万国を斉しくする無し。万国咸寧く、一人、慶有るは、必ず、惟れ良、弼と作るに藉る。俊乂、官に在れば、則ち庶績其れ煕まり、無為にして化す。故に尭舜文武、前載に称せらるるは、咸、人を知るは則ち哲なるを以てなり。多士、朝に盈ち、元凱、巍巍の功を翼け、周邵、煥乎の美を光にす。然れば則ち四岳・九官・五臣・十乱は、豈に惟だ之を嚢代に生じて、独り当今に無き者ならんや。求むると求めざると、好むと好まざるとに在るのみ。
何を以て之を言ふ。夫れ美玉明珠、孔翠犀象、大宛の馬、西旅のゴウは、或は足無きなり、或は情無きなり、八荒の表に生れ、途、万里の外に遥なるに、重訳入貢し、道路、絶えざる者は、何ぞや。蓋し中国の好む所なるに由るなり。況んや従仕する者、君の栄を懐ひ、君の禄を食む。之を率ゐて与に義を為せば、将た何くに往くとして至らざらんや。
臣以為へらく、之と与に忠を為せば、則ち龍逢・比干に同じからしむ可し。之と共に孝を為せば、曾参・子騫に同じからしむ可し。之と与に信を為せば尾生・展禽に同じからしむ可し。之と共に廉を為せば、伯夷・叔斉に同じからしむ可し、と。然れども今の群臣、能く貞白卓異なる者罕なるは、蓋し之を求むること切ならず、之を励ますこと未だ精ならざるが故なり。若し之を勗むるに忠公を以てし、之を期するに遠大を以てし、各々分職有りて、其の道を行ふを得、貴ければ則ち其の挙ぐる所を観、富みては則ち其の与ふる所を観、居りては則ち其の好む所を観、学べば則ち其の言ふ所を観、窮すれば則ち其の受けざる所を観、賎しければ則ち其の為さざる所を観、其の材に因りて之を取り、其の能を審かにして以て之に任じ、其の長ずる所を用ひ、其の短なる所を掩ひ、之を進むるに六正を以てし、之を戒むるに六邪を以てせば、則ち厳ならずして而も自ら励み、勧めずして而も自ら勉めん。
故に説苑に曰く、人臣の行に、六正有り、六邪有り。六正を修むれば則ち栄え、六邪を犯せば則ち辱めらる。何をか六正と謂ふ。一に曰く、萌芽未だ動かず、形兆未だ見はれざるに、照然として独り存亡の機を見て、豫め未然の前に禁じ、主をして超然として顕栄の処に立たしむ。此の如き者は聖臣なり。二に曰く、虚心白意にして、善に進み道に通じ、主を勉めしむるに礼義を以てし、主を喩すに長策を以てし、其の美を将順し、其の悪を匡救す。此の如き者は良臣なり。三に曰く、夙に興き夜に寐ね、賢を進めて懈らず、数々往古の行事を称して、以て主の意を励ます。此の如き者は忠臣なり。四に曰く、明かに成敗を察し、早く防ぎて之を救ひ其の間を塞ぎ、其の源を絶ちて、禍を転じて以て福と為し、君をして終に已に憂無からしむ。此の如き者は智臣なり。五に曰く、文を守り法を奉じ、官に任じ事を職り、禄を辞し賜を譲り、衣食節倹す。此の如き者は貞臣なり。六に曰く、国家昏乱するとき、為す所、諛はず、敢て主の厳顔を犯し、面のあたり主の過失を言ふ。此の如き者は直臣なり。是を六正と謂ふ。
何をか六邪と謂ふ。一に曰く、官に安んじ禄を貪り、公事を務めず、代と沈浮し、左右観望す。此の如き者は具臣なり。二に曰く、主の言ふ所は、皆、善しと曰ひ、主の為す所は、皆、可なりと曰ひ、隠して主の好む所を求めて之を進め、以て主の耳目を快くし、偸合苟容し、主と楽を為し、其の後害を顧みず。此の如き者は諛臣なり。三に曰く、中実は*険ぴ(けんぴ)にして外貎は小謹、言を巧にし色を令くし、善を妬み賢を嫉み、心に進めんと欲する所は、則ち其の美を明かにして其の悪を隠し、退けんと欲する所は、則ち其の過を揚げて其の美を匿し、主をして賞罰、当らず、号令、行はれざらしむ。此の如き者は奸臣なり。四に曰く、智は以て非を飾るに足り、弁は以て説を行ふに足り、内、骨肉の親を離し、外、乱を朝廷に構ふ。此の如き者は讒臣なり。五に曰く、権を専らにして勢を擅にし、以て軽重を為し、私門、黨を成し、以て其の家を富まし、擅に主命を矯め、以て自ら貴顕にす。此の如き者は賊臣なり。六に曰く、主に諂ふに佞邪を以てし、主を不義に陥れ、朋黨比周して、以て主の明を蔽ひ、白黒、別無く、是非、間無く、主の悪をして境内に布き、四隣に聞えしむ。此の如き者は亡国の臣なり。是を六邪と謂ふ。賢臣は六正の道に処り、六邪の術を行はず。故に上安くして下治まる。生けるときは則ち楽しまれ、死するときは則ち思はる。此れ人臣の術なり、と。
礼記に曰く、権衡誠に懸かれば、欺くに軽重を以てす可からず。縄墨誠に陳すれば、欺くに曲直を以てす可からず。規矩誠に設くれば、欺くに方円を以てす可からず。君子、礼を審かにすれば、誣ふるに姦詐を以てす可からず、と。然れば則ち臣の情偽は、之を知ること難からず。又、礼を設けて以て之を待し、法を執りて以て之を禦し、善を為す者は賞を蒙り、悪を為す者は罰を受けば、安んぞ敢て企及せざらんや、安んぞ敢て力を尽くさざらんや。国家、忠良を進め不肖を退けんと欲するを思ふこと、十有余載なり。
若し賞、疎遠を遺れず、罰、親貴に阿らず、公平を以て規矩と為し、仁義を以て準縄と為し、事を考へて以て其の名を正し、名に循ひて以て其の実を求めば、則ち邪正、隠るる莫く、善悪自ら分れん。然る後、其の実を取りて、其の華を尚ばず、其の厚きに処りて、其の薄きに居らずんば、則ち言はずして化せんこと、朞月にして知る可きなり。若し徒らに美錦を愛して製せず、人の為めに官を択び、至公の言有りて、至公の実無く、愛すれば則ち其の悪を知らず、憎みて遂に其の善を忘れ、私情に徇ひて以て邪佞を近づけ、公道に乖きて忠良を遠ざくれば、則ち夙夜怠らず、神を労し思を苦しめ、将に至治を求めんとすと雖も、得可からざるなり、と。太宗、甚だ之を嘉納す。

【論択官 第10-2】
貞観十四年、特進魏徴、上疏して曰く、臣聞く、臣を知るは君に若くは莫く、子を知るは父に若くは莫し、と。父、其の子を知る能はざれば、則ち以て一家を睦まじくする無し。君、其の臣を知る能はざれば、則ち以て万国を斉しくする無し。万国咸寧く、一人、慶有るは、必ず、惟れ良、弼と作るに藉る。俊乂、官に在れば、則ち庶績其れ煕まり、無為にして化す。故に尭舜文武、前載に称せらるるは、咸、人を知るは則ち哲なるを以てなり。多士、朝に盈ち、元凱、巍巍の功を翼け、周邵、煥乎の美を光にす。然れば則ち四岳・九官・五臣・十乱は、豈に惟だ之を嚢代に生じて、独り当今に無き者ならんや。求むると求めざると、好むと好まざるとに在るのみ。
何を以て之を言ふ。夫れ美玉明珠、孔翠犀象、大宛の馬、西旅のゴウは、或は足無きなり、或は情無きなり、八荒の表に生れ、途、万里の外に遥なるに、重訳入貢し、道路、絶えざる者は、何ぞや。蓋し中国の好む所なるに由るなり。況んや従仕する者、君の栄を懐ひ、君の禄を食む。之を率ゐて与に義を為せば、将た何くに往くとして至らざらんや。
臣以為へらく、之と与に忠を為せば、則ち龍逢・比干に同じからしむ可し。之と共に孝を為せば、曾参・子騫に同じからしむ可し。之と与に信を為せば尾生・展禽に同じからしむ可し。之と共に廉を為せば、伯夷・叔斉に同じからしむ可し、と。然れども今の群臣、能く貞白卓異なる者罕なるは、蓋し之を求むること切ならず、之を励ますこと未だ精ならざるが故なり。若し之を勗むるに忠公を以てし、之を期するに遠大を以てし、各々分職有りて、其の道を行ふを得、貴ければ則ち其の挙ぐる所を観、富みては則ち其の与ふる所を観、居りては則ち其の好む所を観、学べば則ち其の言ふ所を観、窮すれば則ち其の受けざる所を観、賎しければ則ち其の為さざる所を観、其の材に因りて之を取り、其の能を審かにして以て之に任じ、其の長ずる所を用ひ、其の短なる所を掩ひ、之を進むるに六正を以てし、之を戒むるに六邪を以てせば、則ち厳ならずして而も自ら励み、勧めずして而も自ら勉めん。
故に説苑に曰く、人臣の行に、六正有り、六邪有り。六正を修むれば則ち栄え、六邪を犯せば則ち辱めらる。何をか六正と謂ふ。一に曰く、萌芽未だ動かず、形兆未だ見はれざるに、照然として独り存亡の機を見て、豫め未然の前に禁じ、主をして超然として顕栄の処に立たしむ。此の如き者は聖臣なり。二に曰く、虚心白意にして、善に進み道に通じ、主を勉めしむるに礼義を以てし、主を喩すに長策を以てし、其の美を将順し、其の悪を匡救す。此の如き者は良臣なり。三に曰く、夙に興き夜に寐ね、賢を進めて懈らず、数々往古の行事を称して、以て主の意を励ます。此の如き者は忠臣なり。四に曰く、明かに成敗を察し、早く防ぎて之を救ひ其の間を塞ぎ、其の源を絶ちて、禍を転じて以て福と為し、君をして終に已に憂無からしむ。此の如き者は智臣なり。五に曰く、文を守り法を奉じ、官に任じ事を職り、禄を辞し賜を譲り、衣食節倹す。此の如き者は貞臣なり。六に曰く、国家昏乱するとき、為す所、諛はず、敢て主の厳顔を犯し、面のあたり主の過失を言ふ。此の如き者は直臣なり。是を六正と謂ふ。
何をか六邪と謂ふ。一に曰く、官に安んじ禄を貪り、公事を務めず、代と沈浮し、左右観望す。此の如き者は具臣なり。二に曰く、主の言ふ所は、皆、善しと曰ひ、主の為す所は、皆、可なりと曰ひ、隠して主の好む所を求めて之を進め、以て主の耳目を快くし、偸合苟容し、主と楽を為し、其の後害を顧みず。此の如き者は諛臣なり。三に曰く、中実は*険ぴ(けんぴ)にして外貎は小謹、言を巧にし色を令くし、善を妬み賢を嫉み、心に進めんと欲する所は、則ち其の美を明かにして其の悪を隠し、退けんと欲する所は、則ち其の過を揚げて其の美を匿し、主をして賞罰、当らず、号令、行はれざらしむ。此の如き者は奸臣なり。四に曰く、智は以て非を飾るに足り、弁は以て説を行ふに足り、内、骨肉の親を離し、外、乱を朝廷に構ふ。此の如き者は讒臣なり。五に曰く、権を専らにして勢を擅にし、以て軽重を為し、私門、黨を成し、以て其の家を富まし、擅に主命を矯め、以て自ら貴顕にす。此の如き者は賊臣なり。六に曰く、主に諂ふに佞邪を以てし、主を不義に陥れ、朋黨比周して、以て主の明を蔽ひ、白黒、別無く、是非、間無く、主の悪をして境内に布き、四隣に聞えしむ。此の如き者は亡国の臣なり。是を六邪と謂ふ。賢臣は六正の道に処り、六邪の術を行はず。故に上安くして下治まる。生けるときは則ち楽しまれ、死するときは則ち思はる。此れ人臣の術なり、と。
礼記に曰く、権衡誠に懸かれば、欺くに軽重を以てす可からず。縄墨誠に陳すれば、欺くに曲直を以てす可からず。規矩誠に設くれば、欺くに方円を以てす可からず。君子、礼を審かにすれば、誣ふるに姦詐を以てす可からず、と。然れば則ち臣の情偽は、之を知ること難からず。又、礼を設けて以て之を待し、法を執りて以て之を禦し、善を為す者は賞を蒙り、悪を為す者は罰を受けば、安んぞ敢て企及せざらんや、安んぞ敢て力を尽くさざらんや。国家、忠良を進め不肖を退けんと欲するを思ふこと、十有余載なり。
若し賞、疎遠を遺れず、罰、親貴に阿らず、公平を以て規矩と為し、仁義を以て準縄と為し、事を考へて以て其の名を正し、名に循ひて以て其の実を求めば、則ち邪正、隠るる莫く、善悪自ら分れん。然る後、其の実を取りて、其の華を尚ばず、其の厚きに処りて、其の薄きに居らずんば、則ち言はずして化せんこと、朞月にして知る可きなり。若し徒らに美錦を愛して製せず、人の為めに官を択び、至公の言有りて、至公の実無く、愛すれば則ち其の悪を知らず、憎みて遂に其の善を忘れ、私情に徇ひて以て邪佞を近づけ、公道に乖きて忠良を遠ざくれば、則ち夙夜怠らず、神を労し思を苦しめ、将に至治を求めんとすと雖も、得可からざるなり、と。太宗、甚だ之を嘉納す。

【論択官 第11】
貞観二十一年、太宗、翠微宮に在り、司農卿李緯に戸部尚書を授く。房玄齢、是の時、京城に留守たり。会々京師より来る者有り。太宗問ひて云く、玄齢、李緯が尚書に拝せらるるを聞きて、如何、と。対へて曰く、玄齢但だ李緯は大好髭鬚と云ひ、更に他の語為し、と。是に由りて遽かに改めて緯に洛州の刺史を授く。

【論封建 第1】
貞観元年、中書令房玄齢を封じて刑国公と為し、兵部尚書杜如晦を蔡国公と為し、吏部尚書長孫無忌を斉国公と為し、竝びに第一等と為し、実封千三百戸なり。皇従父淮安王神通、上言すらく、義旗初めて起るや、臣、兵を率ゐて先づ至れり。今、房玄齢・杜如晦等は、刀筆の人、功、第一に居る。臣、竊に服せず、と。
太宗曰く、国家の大事は、惟だ賞と罰とのみ。若し、賞、其の労に当れば、功無き者自ら退く。罰、其の罪に当れば、悪を為す者戒懼す。則ち賞罰は軽々しく行ふ可からざるを知る。今、勲を計りて賞を行ふ。玄齢等は、帷幄に籌謀し、社稷を画定するの功有り。漢の蕭何は、馬に汗すること無しと雖も、蹤を指し轂を推す、故に功第一に居るを得る所以なり。叔父は国に於て至親なり。誠に愛惜する所無し。但だ私に縁りて濫りに勲臣と賞を同じくす可からざるを以てなり、と。是に由りて諸功臣自ら相謂ひて曰く、陛下、至公を以て賞を行ひ、其の親に私せず。吾が属何ぞ妄りに訴ふ可けんや、と。
初め高祖、宗正の籍を挙げ、弟姪・再従・三従の孩童已上、王に封ぜらるる者数十人なり。是の日に至りて、太宗、群臣に謂ひて曰く、両漢より已降、惟だ子及び兄弟のみを封ず。其の疏遠なる者は、大功有ること漢の賈・択の如きに非ざれば、竝びに封を受くるを得ず。若し一切、王に封じ、多く力役を給せば、乃ち是れ万姓を労苦せしめて、以て己の親族を養ふなり、と。是に於て、宗室の先に郡王に封ぜられ、其の間に功無き者は、皆降して郡公と為す。

【論封建 第2】
貞観十一年、太宗以へらく、周は子弟を封じて、八百余年、秦は諸侯を罷めて、二世にして滅ぶ。呂后、劉氏を危くせんと欲するも、終に宗室に頼りて安きを獲たり。親賢を封建するは、当に是れ子孫長久の道なるべし、と。乃ち制を定め、子弟、荊州の都督荊王元景・安州の都督呉王恪等二十一人を以て、又、功臣、司空趙州の刺史長孫無忌・尚書左僕射宋州の刺史房玄齢等一十四人を以て、竝びに世襲刺史と為す。
礼部侍郎李百薬、奏論して以て世封の事を駁して曰く、臣聞く、国を経し民を庇ふは、王者の常制、主を尊び上を安んずるは、人情の大方なり。治定の規を闡きて、以て長世の業を弘めんとする者は、万古、易はらず、百慮、帰を同じくす。然れども命暦に促の殊なる有り、邦家に治乱の異なる有り。遐く載籍を観るに、之を論ずること詳かなり。
咸云ふ、周は其の数に過ぎ、秦は期に及ばず。存亡の理は、郡国にあり。周氏は以て夏殷の長久に鑒み、唐虞の竝び建つるに遵ひ、維城盤石、根を深くし本を固くし、王綱弛廃すと雖も、而も枝幹相持す。故に逆節をして生ぜず。宗祀をして絶えざらしむ。秦氏は古を師とするの訓に背き、先王の道を棄て、華を剪り険を恃み侯を罷め守を置き、子弟、尺土の邑無く、兆庶、治を共にするの憂罕なり。故に一夫号呼して、七廟*き(きひ)す、と。
臣以為へらく、古より皇王、宇内に君臨するは、命を上玄に受け、名を*帝ろく(ていろく)に飛ばし、締構、興王の運に遇ひ、殷憂、啓聖の期に属せざるは莫し。魏武の攜養の資、漢高の徒役の賎と雖も、止だ意に覬覦あるのみに非ず、之を推すも亦去る能はざるなり。若し其れ獄訟、帰せず、菁華已に竭くれば、帝尭の四表に光被し、大舜の上七政を斉ふと雖も、止だ情に揖譲を存するのみに非ず、之を守るも亦固くす可からざるなり。放勲・重華の徳を以てすら、尚ほ克く厥の後を昌にする能はず。是に知る、祚の長短は、必ず天時に在り、政或は盛衰するは、人事に関る有るを。
隆周、世を卜すること三十、年を卜すること七百。淪胥の道斯に極まると雖も、文武の器猶ほ存す。斯れ則ち亀鼎の祚、已に懸に杳冥に定まるなり。南征して反らず、東遷して逼を避け、*いん祀(いんし)、綫の如く、郊畿守らざらしむるに至りては、此れ乃ち陵夷の漸、封建に累はさるる有り。暴秦、運、閏余に距り、数、百六に鍾る。受命の主、徳、禹湯に異なり、継世の君、才、啓誦に非ず。借ひ李斯・王綰の輩をして、咸く四履を開き、将閭・子嬰の徒をして、倶に千乗を啓かしむとも、豈に能く帝子の勃興に逆ひ、龍顔の基命に抗する者ならんや。
然れば則ち得失成敗、各々由る有り。而るに著述の家、多く常轍を守り、情、今古を忘れ、理、澆淳に蔽はれざるは莫く、百王の李を以て、三代の法を行ひ、天下五服の内、尽く諸侯を封じ、王畿千里の間、倶に菜地と為さんと欲す。是れ則ち結縄の化を以て、虞夏の朝に行ひ、象刑の典を用つて劉曹の末を治むるなり。紀綱の弛紊すること、断じて知る可し。船に*きざ(きざ)みて剣を求む、未だ其の可なるを見ず。柱に膠して文を成す。弥々惑ふ所多し。徒らに、鼎を問ひ隧を請ひ、勤王の師を懼るる有り、白馬素車、復た藩籬の援無きを知り、望夷の釁、未だ*げいさく(げいさく)の災よりも甚だしからざるを悟らず。高貴の殃、寧ぞ申繪の酷に異ならんや。此れ乃ち欽明昏乱、自ら安危を革むるなり。固に守宰公侯の、以て興廃を成すに非ず。且つ数世の後、王室*ようや(ようや)く微なること、藩屏より始まり、化して仇敵と為り、家、俗を殊にし、国、政を異にし、強、弱を陵ぎ、衆、寡を暴し、*疆えき(きょうえき)彼此、干戈侵伐し、狐駘の役、女子尽く*ざ(ざ)し、*こう陵(こうりょう)の師、隻輪、反らず。斯れ蓋し略ぼ一隅を挙ぐ。其の余は勝げて数ふべからず。
陸士衡、方に規規然として云ふ、嗣王、其の九鼎を委て、凶族、其の天邑に拠る。天下晏然として、治を以て乱を待つ、と。何ぞ斯の言の謬まれるや。而して官を設け職を分ち、賢に任じ能を使ひ、循良の才を以て、共治の寄に膺る。刺挙、竹を分つ、何の世にか人無からん。地をして或は祥を呈し、天をして宝を愛まず、民をして父母を称し、政をして神明に比せしむるに至る。
曹元首、方に区区然として称す、人と其の楽を共にする者は、人必ず其の憂を分ち、人と其の安きを同じくする者は、人必ず其の危きを拯ふ、と。豈に以て侯伯とせば、則ち其の安危を同じくし、之を牧宰に任ずれば、則ち其の憂楽を殊にす容けんや。何ぞ斯の言の妄なるや。封君列国、慶を門資に藉りて、其の先業の艱難を忘れ、其の自然の崇貴を軽んじ、世々淫虐を増し、代々驕侈を益さざるは莫く、離宮別館、漢に切し雲を凌ぎ、或は、人力を刑して将に尽きんとし、或は諸侯を召して共に楽す。陳霊は則ち君臣、霊に悖り、共に徴舒を侮り、衛宣は則ち父子、*ゆう(ゆう)を聚にし、終に寿・朔を誅す。乃ち云ふ、己が為めに治を思ふ、と。豈に是の若くならんや。
内下の群官、選ぶこと朝廷よりし、士庶を擢でて以て之に任じ、水鏡を澄まして以て之を鑒し、年労、其の階品を優にし、考績、其の黜陟を明かにす。進取、事切に、砥砺、情深く、或は俸禄、私門に入らず、妻子、官舎に之かず、班條の貴き、食、火を挙げず、割符の重き、衣、惟だ補葛、南陽の太守、弊布、身を裹み、莱蕪の県長、凝塵、甑に生ず。専ら云ふ、利の為めに物を図る、と。何ぞ其れ爽へるや。
総べて之を云ふに、爵は世及に非ざれば、賢を用ふるの路斯れ広し。民に定主無ければ、下を附くるの情、固からず。此れ乃ち愚智の弁ずる所なり。安んぞ惑ふ可けんや。国を滅ぼし君を殺し、常を乱り紀を干すが如きに至りては、春秋二百年の間、略ぼ寧才無し。次*すい(すい)咸秩し、遂に玉帛の君を用ふ。魯道、蕩たる有り、毎に衣裳の会に等し。縦使西官の哀平の際、東洛の桓霊の時、下吏の淫暴なるも、必ず此に至らず。政を為すの理、一言を以て焉を蔽ふ可し。
伏して惟みるに、陛下、紀を握り天を御し、期に膺り聖を啓き、億兆の焚溺を救ひ、*氛しん(ふんしん)寰区より掃ひ、業を創め統を垂れ、二儀に配して以て徳を立て、号を発し令を施し、万物に妙にして言を為す。独り神衷に照らし、永く前古を懐ひ、将に五等を復して旧制を修め、万国を建てて以て諸侯を親しまんとす。
竊かに以ふに、漢魏より以還、余風の弊未だ尽きず、勲華既に往き、至公の道斯に革まる。況んや晋氏、馭を失ひ、宇県崩離す。後魏、時に乖き、華夷雑処す。重ぬるに関河分阻し、呉楚県隔するを以てす。文を習ふ者は長短縦横の術を学び、武を習ふ者は干戈戦争の心を尽くす。畢く狙詐の階と為し、弥々澆浮の俗を長ず。開皇の運に在るや、外家に因藉し、群英を臨御し、雄猜の数に任じ、坐ながら時運を移し、克定の功に非ず。年、二紀を踰ゆるも、人、徳を見ず。大業の文に嗣ぐに及びて、世道交々喪ひ、一人一物、地を掃ひて将に尽きんとす。天縦の神武、冦虐を削平すと雖も、兵威、息まず、労止未だ康からず。陛下、慎んで聖慈に順ひ、嗣ぎて宝暦に膺りてより、情深く治を致さんとし、前王を綜覈す。至道は名づくる無く、言象の絶ゆる所なりと雖も、略ぼ梗概を陳ぶるは、実に庶幾ふ所なり。
愛敬蒸蒸として、労して倦まざるは、大舜の孝なり。安を内豎に訪ひ、親ら御膳を嘗むるは文王の徳なり。憲司が罪を*げつ(げつ)し、尚書が獄を奏する毎に、大小必ず察し、枉直咸く挙げ、断趾の法を以て、大辟の刑に易へ、仁心陰惻、幽顕に貫徹するは、大禹の辜に泣けるなり。色を正し言を直くし、心を虚しくして受納し、鄙訥を簡せにせず、芻蕘を棄つる無きは、帝尭の諌を求むるなり。弘く名教を奨め、学徒を観励し、既に明経を青紫に擢で、正に碩儒を卿相に升せんとするは、聖人の善く誘ふなり。
群臣、宮中暑湿にして、寝膳或は乖くを以て、徙りて高明に御し、一小閣を営まんことを請ふ。遂に家人の産を惜み、竟に子来の願を抑へ、陰陽の感ずる所を吝まず、以て卑陋の居に安んず。頃歳霜倹、普天饑饉、喪乱甫めて爾り、倉廩空虚なり。聖情矜愍し、勤めて賑恤を加へ、竟に一人の道路に流離するもの無し。猶ほ且つ食は惟れ*藜かく(れいかく)楽は*しゅんきょ(しゅんきょ)を徹し、言は必ず悽動し、貎は*く痩(くそう)を成す。
公旦は重訳を喜び、文命は其の即叙を矜る。陛下、四夷款附し、万里仁に帰するを見る毎に、必ず退きて思ひ、進みて省み、神を凝らし慮を動かし、妄りに中国を労して、以て遠方を求めんことを恐れ、万古の英声を藉らずして、以て一時の茂実を存し、心、憂労に切に、跡、遊幸を絶つ。毎旦、朝を視、聴受、倦むこと無く、智は万物に周く、道は天下を済ふ。朝を罷むるの後、名臣を引き進めて、是非を討論し、備に肝膈を尽くし、惟だ政事に及びて更に異辞無し。纔に日昃くに及べば、必ず才学の師に命じて、賜ふに静閑を以てし、高く典籍を談じ、雑ふるに文詠を以てし、間ふるに玄言を以てす。乙夜、疲るるを忘れ、中宵まで寐ねず。此の四道は、独り往初に邁ぐ。斯れ実に生民より以来、一人のみ。
茲の風化を弘め、昭かに四方に示す。信に朞月の間を以て、天壌を弥綸す可し。而るに淳粋尚ほ阻たり、浮詭未だ移らず。此れ習の永久に由り、以て卒に変じ難きなり。請ふ、琢雕を朴と成し、質を以て文に代へ、刑措くの教一たび行はれ、登封の礼云に畢るを待ちて、然る後、疆理の制を定め、山河の賞を議せんこと、未だ晩しと為さず。易に称す、天地の盈虚は、時と消息す、況んや人に於てをや、と。美なるかな斯の言や、と。
中書人馬周、又上疏して曰く、伏して詔書を見るに宗室勲賢をして、藩部に鎮と作り、厥の子孫に貽し、嗣ぎて其の政を守らしめ、大故有るに非ずんば、黜免すること或る無からん、と。臣竊かに惟みるに、陛下、之を封植するは、誠に之を愛し之を重んじ、其の胤裔承守し、国と与に疆無からんことを欲するなり。臣以為へらく、詔旨の如くならば、陛下宜しく之を安存し、之を富貴にする所以を思ふべし。然らば則ち何ぞ世官を用ひんや。
何となれば則ち尭舜の父を以て、猶ほ朱均の子有り。況んや此より下る以還にして、而も父を以て兒を取らんと欲せば、恐らくは之を失ふこと遠からん。儻し孩童の職を嗣ぐ有りて、万一驕恣なれば、則ち兆庶、其の殃を被りて、国家、其の敗を受けん。政に之を絶たんと欲するや、則ち子文の治猶ほ在り。政に之を留めんと欲するや、而ち欒黶の悪已に彰はる。其の見存の百姓を毒害せんよりは、則ち寧ろ恩を已亡の一臣に割かしめんこと明かなり。
然らば則ち向の所謂之を愛するは、乃ち適に之を傷ふ所以なり。臣謂ふに宜しく賦するに茅土を以てし、其の戸邑を疇しくし、必ず材行有りて、器に随ひて方に授くべし。則ち其の*翰かく(かんかく)強きに有らずと雖も、亦、以て尤累を免るるを獲可し。昔、漢の光武、功臣に任ずるに吏事を以てせず。其の世を終全する所以は、良に其の術を得たるに由るなり。願はくは陛下、深く其の宜を思ひ、夫をして大恩を奉ずるを得て、子孫をして其の福禄を終へしめんことを、と。太宗竝びに其の言を嘉納す。是に於て、竟に子弟及び功臣の刺史を世襲するを罷む。

【論太子諸王定分 第1】
貞観七年、蜀王恪に斉州の都督を授く。太宗、侍臣に謂ひて曰く、父子の情、豈に常に相見るを欲せざらんや。但だ家国、事殊なる。須く出して藩屏と作し、且つ其をして早く定分有らしめ、覬覦の心を絶ち、我が百年の後、其の兄に事へて危亡の慮無からしむべきなり、と。

【論太子諸王定分 第2】
侍御史馬周、貞観十一年、上疏して曰く、漢晋より已来、諸王、皆、樹置宜しきを失ひ、豫め定分を立てざるが為めに、以て滅亡に至る。人主、其の然るを熟知す。但だ私愛に溺る。故に前車既に覆れども、後車をして輒を改めざらしむるなり。今、諸王、寵遇の恩を承くること、厚きに過ぐる者有り。臣の愚慮、惟だ其の恩を恃みて驕矜するを慮るのみならざるなり。
昔、魏の武帝、陳思を寵樹す。文帝、位に即くに及びて、防守禁閉、獄囚に同じき有り。先帝が恩を加ふること太だ多きを以て、故に嗣主、疑ひて之を畏るるなり。此れ則ち武帝の陳思を寵するは、適に之を苦しむる所以なり。且つ帝子は何ぞ富貴ならざるを患へん。身、大国を食み、封戸、少からず。好衣美食の外、又何の須むる所あらん。而して毎年、別に優賜を加ふること、曾て紀極無し。俚語に曰く、貧は倹を学ばず、富は奢を学ばず、と。自然なるを言ふなり。今、陛下、大聖を以て業を創む。豈に惟だ見在の子弟処置するのみならんや。当に須く長久の法を制し、万代をして遵行せしむべし、と。疏奏す。太宗甚だ之を嘉し、物三百段を賜ふ

【論太子諸王定分 第3】
貞観十三年、諌議大夫チョ遂良、毎月特に魏王泰の府に料物を給すること皇太子に逾ゆる有るを以て、上疏して諌めて曰く、昔、聖人、礼を制するや、嫡を尊び庶を卑しみ、之を儲君と謂ふ。道、霄極に亜ぎ、甚だ崇重と為す。物を用ふること計らず、泉貨財帛、王者と之を共にす。庶子は体卑し。例と為すを得ず。嫌疑の漸を塞ぎ、禍乱の源を除く所以なり。而して先王必ず人情に本づきて、然る後法を制す。国家を有つに必ず嫡庶有るを知る。然して庶子は愛すと雖も、嫡子の正体に超越し、特に尊崇を須ふるを得ず。如し明かに定分を立つる能はず、遂に当に親しかるべき者をして疎く、当に尊かるべき者をして卑しからしめば、則ち邪佞の徒、機を承けて動かん。私恩、公を害し、或は国を乱るに至らん。
臣愚、伏して見るに、儲后の料物、翻つて魏王より少く、朝見野聞、以て是と為さず。伝に曰く、子を愛すれば、之に教ふるに義方を以てす、と。忠孝恭倹は、義方の謂ひなり。昔、漢の竇太后及び景帝、遂に梁の孝王を驕恣ならしめ、四十余城に封じ、苑は方三百里、大いに宮室を営み、複道弥望し、財を積むこと鉅万計入るに警し出づるに蹕す。小しく意を得ず、病を発して死せり。
且つ魏王既に新に閤を出づ。伏して願はくは、恒に礼訓を存し、師伝を妙択し、其の成敗を示し、既に之を敦くするに節倹を以てし、又之に勧むるに文学を以てし、惟れ忠惟れ孝、因りて之を奨め、道徳斉礼せんことを。乃ち良器と為らん。此れ謂はゆる聖人の教、粛ならずして成る者なり、と。太宗深く其の言を納れ、即日、魏王の料物を減ず。

【論太子諸王定分 第4】
貞観十六年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、当今、国家、何事か最も急なる。各々我が為めに之を言へ、と。尚書右僕射高士廉曰く、百姓を養ふこと最も急なり、と黄門侍郎*劉き(りゅうき)曰く、四夷を撫すること最も急なり、と。中書侍郎岑文本曰く、伝に称す、之を道くに徳を以てし、之を斉ふるに礼を以てす、と。斯れに由りて言へば、礼義を急と為す、と。
諌議大夫*ちょ遂良(ちょすいりょう)曰く、即日、四方、徳を仰ぐ、誰か敢て非を為さん。但だ太子・諸王は、須く定分有るべし。陛下、宜しく万代の法を為りて、以て子孫に遺すべし。此れ最も当今の急と為す、と。
太宗曰く、此の言、是なり。朕、年将に五十ならんとし、已に衰怠を覚ゆ。既に長子を以て器を東宮に守らしむ。諸弟及び庶子は、数将に四十ならんとす。心常に憂慮するは、正に此に在るのみ。但だ古より嫡庶、良無くんば、何ぞ嘗て家国を傾敗せざらんや。公等、朕の為めに賢徳を捜訪して、以て儲宮を輔け、爰に諸王に及ぶまで、咸く正士を求めよ。且つ官人の王に事ふるは、宜しく歳久しくすべからず。歳久しければ則ち分義、情深し。非意のきゆ、多く此に由りて作る。其れ王府の官僚は、四考に過ぎしむる勿れ、と。

【論太子諸王定分 第5】
貞観中、皇子の年少き者、多く授くるに、都督・刺史を以てす。諌議大夫*ちょ遂良(ちょすいりょう)、上疏して諌めて曰く、昔、両漢、郡国を以て人を理む。郡を除く以外には、諸子を分立し、土を割き疆を分ち、周制を雑へ用ふ。皇唐の郡県は、粗ぼ秦の法に依る。幼年にして或は刺史を授けらる。陛下豈に骨肉を以て四方を鎮扞せざらんや。聖人、制を造る、道、前烈に高し。
臣の愚見の如きは、小しく未だ尽くさざる有り。何となれば、刺史は師帥にして、万人瞻仰して以て安し。一の善人を得れば、部内蘇息す。一の不善に遇へば、闔州労弊す。是を以て、人君、百姓を愛恤し、常に為めに賢を択ぶ。或は称す、河は九里を潤ほし、京師、福を蒙る、と。或は人、歌詠を興し、生ながら為めに祠を立つ。漢の宣帝云く、我と理を共にする者は、但だ良二千石か、と。
臣の愚見の如き、陛下の兒子の内、年歯尚ほ幼にして、未だ人に臨むに堪へざる者は、且く請ふ京師に留め、教ふるに経学を以てせん。一には則ち天の威を畏れ、敢て禁を犯さざらん。二には則ち常に朝儀を観ば、自然に成立せん。此に因りて積習し、自ら人と為るを知り、州に臨むに堪ふるを審かにして、然る後遣りて出でしめよ。
謹みて按ずるに、漢の明・章・和三帝、能く子弟を友愛す。茲より已降、以て準的と為し、封じて諸王を立つ。各々土を有つと雖も、年尚ほ幼少なる者は、召して京師に留め、訓ふるに礼法を以てし、垂るるに恩恵を以てす。三帝の世を訖りて、諸王数十人、惟だ二王のみ稍や悪し。自余は*そん和(そんわ)染教して、皆善人と為る。此れ則ち前事已に験あり。惟だ陛下詳かに察せよ、と。太宗、之に従ふ。

【論尊師伝 第1】
太子少師李綱、貞観三年、脚疾有り、践履に堪へず。太宗、特に歩輿を賜ひ、三衛をして挙して東宮に入れしめ、皇太子に詔して引きて殿に上り、親ら之を拝せしむ。太だ崇重せらる。綱、太子の為めに、君臣父子の道、問寝視膳の方を陳ぶ。理順ひ辞直く、聴く者、倦むを忘る。
太子嘗て古来の君臣の名教、忠を竭くし節を尽くす事を商略す。綱、懍然として曰く、六尺の孤を託し、百里の命を寄すること、古人以て難しと為す。綱は以て易しと為す、と。論を吐き言を発する毎に、皆、辞色慷慨し、奪ふ可からざるの志有り。太子未だ嘗て聳然として礼敬せずんばあらず。

【論尊師伝 第2】
貞観六年、詔して曰く、朕、比、経史を尋討するに、明王・聖帝、曷ぞ嘗て師伝無からんや。前に進むる所の令、遂に三師の位を覩ず。意ふに将に未だ可ならざらんとす。何を以て然る。黄帝は太顛に学び、*せんぎょく(せんぎょく)は録図篆に学び、尭は尹寿に学び、舜は務成昭に学び、禹は西王国に学び、湯は成子伯に学び、文王は子期に学び、武王はクワク叔に学ぶ。前代の聖人、未だ此の師に遭はざりせば、則ち功業、天下に著れず、名誉、千載に伝はらざりしならん。
況んや朕、百王の末に接し、智、聖人に周からざるをや。其れ師伝無くんば、安んぞ以て億兆に臨む可き者ならんや。詩に云はずや、愆らず忘れず、旧章に率由す、と。夫れ学ばざれば、則ち古の道に明かならず。而も能く政、太平を致す者は、未だ之れ有らざるなり。即ち令に著して三師の位を置く可し、と。

【論尊師伝 第3】
貞観八年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、上智の人は、自ら染まる所無し。中人は恒無く、教に従ひて変ず。況んや太子の師保は、古より其の選を難んず。成王幼少なりしとき、周召、保伝と為り、左右皆賢に、日に雅訓を聞き、以て仁を長じ徳を益し、便ち聖君と為るに足る。
秦の胡亥は、趙高を用ひて伝と作し、教ふるに刑法を以てす。其の位を嗣ぐに及びて、功臣を誅し、親族を殺し、酷暴、已まず。未だ踵を旋らさずして亡ぶ。故に知る、人の善悪は、誠に近習に由るを。朕、今、太子・諸王の為めに、師伝を精選し、其れをして礼度を式瞻し、裨益する所有らしめんとす。公等、正直忠臣なる者を訪ひ、各々三両人を挙ぐ可し、と。

【論尊師伝 第4】
貞観十一年、礼部尚書王珪を以て、魏王の師を兼ねしむ。太宗、尚書左僕射房玄齢に謂ひて曰く、古来、帝子、深宮に生れ、其の人と成るに及びて、驕逸ならざるは無し。是を以て傾覆相踵ぎ、能く自ら済ふこと少し。我、今、厳に子弟を教へ、皆安全なるを得しめんと欲す。王珪は、我久しく駆使し、甚だ剛直にして志忠孝に存するを知り、選びて子の師と為す。卿宜しく泰に語るべし。王珪に対する毎に、我が面を見るが如く、宜しく尊敬を加ふべく、懈怠するを得ざれ、と。珪も亦師道を以て自ら処り、時議、之を善しとす。

【論尊師伝 第5】
貞観十七年、太宗、司徒長孫無忌・司空房玄齢に謂ひて曰く、三師は、徳を以て人を導く者なり。若し師体卑しからば、太子、則を取る所無からん、と。是に於て、詔して、太子の三師に接する儀注を撰せしむ。太子・殿門を出でて迎へ、先づ拝す。三師答拝す。門毎に譲る。三師坐す。太子乃ち坐す。三師に与ふる書は前に名惶恐とし、後に名惶恐再拝とす。

【教戒太子諸王】

【規諌太子】

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南洲翁遺訓より学ぶ!敬天愛人と克己無我の体現!

南洲翁遺訓は西郷隆盛の遺訓集で「西郷南洲翁遺訓」、「西郷南洲遺訓」、「大西郷遺訓」などとも呼ばれているものです。
明治維新の最大の功労者ともいわれる西郷隆盛ですが、坂本龍馬が評した「大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く。馬鹿なら大馬鹿だし、利口なら大利口だ」という言葉が、その大人物ぶりを明確に表しています。
それは、内村鑑三が「代表的日本人」の中のひとりとして挙げている「克己無我」の人であり、その中でも人情味に溢れることからも明らかです。
そんな西郷隆盛が、動乱の中でつかみとった人生哲学や憂国の思いを語ったもの、それが南洲翁遺訓です。

敬天愛人
この言葉は、西郷隆盛が好んでよく使い、揮毫したものです。
「敬天」つまり天を敬うということは、「愛人」つまり人を慈愛するということに繋がります。
この敬天と愛人とは同義で、西郷の終生の自己目標”清廉誠実にして、仁愛の人になる”が語られているともいえるのです。
天と同じように誰へだてなく愛情を注ぎ、そして自らを厳しく律し無私無欲の人であること。
そうした心掛けが、自分の天命を自覚するという考え方として表れているのだと思われるのです。

先行き不安なこんな時代だからこそ、この南洲翁遺訓を心読し、その精神行蹟に学ぶべき時期に来ているのではないでしょうか。

【【南洲翁遺訓】】

【為政者の基本的姿勢と人材登用】
1.廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば
政府に入って、閣僚となり国政を司るのは天地自然の道を行なうものであるから、いささかでも私利私欲を出してはならない。
だから、どんな事があっても心を公平にして正しい道を踏み、広く賢明な人を選んでその職務に忠実に実行出来る人に政権を執らせる事こそ天意である。
だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲る程でなくてはならい
従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適任な人を官職に就ける事は良くない事の第一である。
官職というものはその人をよく選んで授けるべきで、功績のある人には、俸給を多く与えて奨励するのが良いと南洲翁が申されるので、それでは尚書、誥こうの中に「徳の高いものには官位を与え、功績の多いものには褒賞を多くする」というのがありますが、この意味でしょうかと尋ねたところ、南洲翁は大変に喜ばれて、まったくその通りだと答えられた。

2.賢人百官を総べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ
立派な政治家が、多くの役人達を一つにまとめ、政権が一つの体制にまとまらなければ、たとえ立派な人を用い、発言出来る場を開いて、多くの人の意見を取入れるにしても、どれを取りどれを捨てるか、一定の方針が無く、仕事が雑になり成功するはずがないであろう。
昨日出された命令が今日またすぐ、変更になるというような事も、皆バラバラで一つにまとまる事がなく、政治を行う方向が一つに決まっていないからである。

3.政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り
政治の根本は国民の教育を高め充実して、国の自衛の為に軍備を整理強化し、食料の自給率、安定の為、農業を奨励するという三つである。
その他の色々の事業は、皆この三つ政策を助ける為の手段である。
この三つの物の中で、時の成り行きによってどれを先にし、どれを後にするかの順序はあろうが、この三つの政策を後回しにして、他の政策を先にするというようなことがあっては決してならない。

4.下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し
国民の上に立つ者は、いつも自分の心をつつしみ、品行を正しくし、偉そうな態度をしないで、贅沢をつつしみ節約をする事に努め、仕事に励んで一般国民の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや生活ぶりを気の毒に思う位にならなければ、政令はスムーズに行われないものである。
ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。
今となって見ると戊辰の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された。

5.若し此の言に違ひなば、西郷は言行反したるとて見限られよ
ある時
『何度も何度も辛い事や苦しい事にあった後、志というものは始めて固く定まるものである。
志を持った真の男子は玉となって砕けるとも、志をすてて瓦のようになって長生きすることを恥とせよ。
自分は我家に残しておくべき訓があるが、人はそれを知っているであろうか。
それは子孫の為に良い田を買わない、すなわち財産を残さないという事だ』
という七言絶句の漢詩を示されて、もしこの言葉に違うような事があったら、西郷は言う事と実行する事とが、反対であると言って見限っても良いと言われた。

6.君子小人の弁酷に過ぐる時は却て害を引起すもの也
人材を採用する時、良く出来る人(君子)と普通(小人)の人との区別を厳しくし過ぎると、かえって問題を引起すものである。
その理由は、この世が始まって以来、世の中で十人のうち七、八人までは小人であるから、よくこのような小人の長所をとり入れ、これをそれぞれの職業に用い、その才能や技芸を十分発揮させる事が重要である。
藤田東湖先生(水戸藩士、尊王攘夷論者)が申されるには、
「小人は才能と技芸があって使用するに便利であるから、ぜひ使用して仕事をさせなければならない。
だからといって、これを上役にして重要な職務につかせると、必ず国をひっくり返すような事になりかねないから、決して上役に立ててはならないものである」とのこと。

7.事大小と無く、正道を蹈み至誠を推し、一事の詐謀を用う可からず
どんな大きい事でも、小さい事でも、いつも正しい道を踏み、真心を尽くし、一時の策略を用いてはならない。
人は多くの場合、難しい事に出会うと、何か策略を使ってうまく事を運ぼうとするが、策略した為にそのツケが生じて、その事は必ず失敗するものである。
正しい道を踏み行う事は、目の前では回り道をしているようであるが、先に行けばかえって成功は早いものである。

【為政者がすすめる開化政策】
8.先づ我国の本体を居え風教を張り、然して後徐かに、彼の長所を斟酌する
広く諸外国の制度を取り入れ、文明開化を押し進もうと思うならば、まず我が国
の本体を良くわきまえ、風俗教化を正しくして、そして後、ゆっくりと諸外国の長所を取り入れるべきである。そうではなく、ただみだりに諸外国の真似をして、これを見習うならば、国体は弱体化して、風俗教化は乱れて、救いがたい状態になり、そしてついには外国に制せられる事になるであろう。

9.道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別無し
忠孝、仁愛、教化は政治の基本であり、未来永遠に、宇宙、全世界になくてはならない大事な道である。
道というものは天地自然の物であるから、たとえ西洋であっても同じで、決して区別はないものである。

10.人智を開発するとは、愛国忠孝の心を開くなり
人間の知恵を開発、即ち教育の根本目的は愛国の心、忠孝の心を持つことである。
国の為に尽し、家のため働くという、人としての道理が明らかで有るならば、すべての事業は進歩するであろう。
耳で聞いたり、目で見たりする分野を開発しようとして、電信を架け、鉄道を敷き、蒸気仕掛の機械を造って、人の目や耳を驚かすような事をするけれども、どういう訳で電信、鉄道が無くてはならないか、欠くことの出来ない物で有るかということに目を注がないで、みだりに外国の盛大なことをうらやみ、利害、損得を議論しないで、家の造り構えから、子供のオモチャまでいちいち外国の真似をし、身分不相応に贅沢をして財産を無駄使いするならば、国の力は衰退し、人の心は軽々しく流され、結局日本は破綻するより他ない。

11.文明とは道の普く行はるゝを賛称せるを言う
文明というのは道義、道徳に基づいて事が広く行われることを称える言葉であって、宮殿が大きく立派であったり、身にまとう着物が綺麗あったり、見かけが華やかであるいうことではない。
世の中の人の言うところを聞いていると、何が文明なのか、何が野蛮なのか少しも解らない。
自分はかってある人と議論した事がある。
自分が西洋は野蛮だと言ったところ、その人は”いや西洋は文明だ”と言い争う。
”いや、いや、野蛮だ”とたたみかけて言ったところ、”なぜそれほどまでに野蛮だと申されるのか”と強く言うので、”もし西洋が本当に文明であったら開発途上の国に対しては、いつくしみ愛する心を基として、よくよく説明説得して、文明開化へと導くべきであるのに、そうではなく、開発途上の国に対するほど、むごく残忍なことをして、自分達の利益のみをはかるのは明らかに野蛮である”と言ったところ、その人もさすがに口をつぼめて返答出来なかったと笑って話された。

12.実に文明ぢやと感ずる也
西洋の刑法はもっぱら、罪を再び繰り返さないようにする事を、根本の精神として、むごい扱いを避けて、人を善良に導く事を目的としており、だから獄中の罪人であっても緩やかに取り扱い、教訓となる書籍を与え、場合によっては親族や友人の面会も許すということである。
もともと昔の聖人が、刑罰というものを設けられたのも、忠孝、仁愛の心から孤独な人の身上をあわれみ、そういう人が罪に陥るのを深く心配されたが、実際の場で今の西洋のように配慮が行き届いていたかどうかは書物には見あたらない。
西洋のこのような点は誠に文明だとつくづく感ずることである。

【国の財政・会計】
13.租税を薄くして民を裕にするは即ち国力を養成する也
税金を少なくして国民生活を豊かにすることこそ国力を高めることになる。
だから国の事業が多く、財政の不足で苦しむような事があっても決まった制度をしっかり守り、政府や上層の人達が損をしても、下層の人達を、苦しめてはならない。
昔からの歴史をよく見るがよい。
道理の明らかに行われない世の中にあって、財政の不足で苦しむときは、必ずこざかしい考えの小役人を用いて、その場しのぎをする人を財政が良く分かる立派な役人と認め、そういう小役人は手段を選ばず、無理やり国民から税金を取り立てるから、人々は苦しみ、堪えかねて税の不当な取りたてから逃れようと、自然に嘘いつわりを言って、お互いに騙し合い、役人と一般国民が敵対して、終には、国が分裂して崩壊するようになっているではないか。

14.入るを量りて出づるを制するの外更に術数無し
会計出納は、すべての制度の基本であって、あらゆる事業はこれによって成り立ち、秩序ある国家を創る上で最重要事であるから、慎重にしなければならない。
その方法を申すならば、収入の範囲内で、支出を押えるという以外に手段はない。
総ての収入の範囲で事業を制限して、会計の総責任者は一身をかけてこの制度を守り、定められた予算を超えててはならない。
そうでなくして時勢にまかせ、制限を緩かにして、支出を優先して考え、それに合わせ収入を計算すれば、結局国民から重税を徴収するほか方法はなくなるであろう。
もしそうなれば、たとえ事業は一時的に進むように見えても国力が疲弊して、ついには救い難い事になるであろう。

15.決して無限の虚勢を張る可からず
常備する軍隊の人数も、また会計予算の中で対処すべきで、決して無限に軍備を増やして、から威張りをしてはならない。
兵士の気力を奮い立たせて優れた軍隊を創りあげれば、たとえ兵隊の数は少くても、外国との折衝にあたってあなどりを受けるような事は無いであろう。

【外国交際】
16.節義廉恥を失て、国を維持するの道決して有らず
道義を守り、恥を知る心を失うようなことがあれば国家を維持することは決して出来ない。
西洋各国でも皆同じである。
上に立つ者が下の者に対して利益のみを争い求め、正しい道を忘れるとき、下の者もまたこれに習うようになって、人の心は皆財欲にはしり、卑しくケチな心が日に日に増し、道義を守り、恥を知る心を失って親子兄弟の間も財産を争い互いに敵視するのである。
このようになったら何をもって国を維持することが出来ようか。
徳川氏は将兵の勇猛な心を抑えて世の中を治めたが、今は昔の戦国時代の武士よりもなお一層勇猛心を奮い起さなければ、世界のあらゆる国々と対峙することは出来無いであろう。
普、仏戦争のとき、フランスが三十万の兵と三ケ月の食糧が在ったにもかかわらず降伏したのは、余り金銭のソロバン勘定に詳しかったが為であるといって笑われた。

17.正道を踏み国を以て斃るゝの精神無くば、外国交際は全かる可からず
正しい道を踏み、国を賭けて、倒れてもやるという精神が無いと外国との交際はこれを全うすることは出来ない。
外国の強大なことに萎縮し、ただ円満にことを納める事を主として、自国の真意を曲げてまで、外国の言うままに従う事は、軽蔑を受け、親しい交わりをするつもりがかえって破れ、しまいには外国に制圧されるに至るであろう。

18.縦令国を以て斃るゝとも、正道を践み、義を尽すは政府の本務也
話が国の事に及んだとき、大変に嘆いて言われるには、国が外国からはずかしめを受けるような事があったら、たとえ国が倒れようとも、正しい道を踏んで道義を尽くすのは政府の努めである。
しかるに、ふだん金銭、穀物、財政のことを議論するのを聞いていると、何という英雄豪傑かと思われるようであるが、実際に血の出ることに臨むと頭を一カ所に集め、ただ目の前のきやすめだけを謀るばかりである。
戦の一字を恐れ、政府の任務をおとすような事があったら、商法支配所、と言うようなもので政府ではないというべきである。

【天と人として踏むべき道】
19.己を足れりとする世に、治功の上りたるはあらず
昔から、主君と臣下が共に自分は完全だと思って政治を行った世にうまく治まった時代はない。
自分はまだ足りない処がある、と考える処から始めて、下々の言うことも聞き入れるものである。
自分が完全だと思っているとき、人が自分の欠点を正すと、すぐ怒るから、賢人や君子というような立派な人は、おごり高ぶっている者に対しては決して味方はしないものである。

【為政者の基本的姿勢と人材登用】
20.人は第一の実にして、己れ其人に成るの心懸け肝要なり
どんなに制度や方法を論議しても、それを行なう人が立派な人でなければ、うまく行われないだろう。
立派な人あって始めて色々な方法は行われるものだから、人こそ第一の宝であって、自分がそういう立派な人物になるよう心掛けるのが何より大事な事である。

【天と人として踏むべき道】
21.講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ
道というものは、天地自然の道理であるから、学問の道は『敬天愛人』を目的とし、自分を修には、己れに克つという事を心がけねばならない。
己れに克つという事の真の目的は
「意なし、必なし、固なし、我なし」
我がままをしない、無理押しをしない、固執しない、我を通さない、という事だ。
一般的に人は自分に克つ事によって成功し、自分本位に考える事によって失敗するものだ。
よく昔からの歴史上の人物をみるが良い。
事業を始める人が、その事業の七、八割までは大抵良く出来るが、残りの二、三割を終りまで成しとげる人の少いのは、始めはよく自分を謹んで事を慎重にするから成功し有名にもなる。
ところが、成功して有名になるに従っていつのまにか自分を愛する心がおこり、畏れ慎むという精神がゆるんで、おごり高ぶる気分が多くなり、その成し得た仕事を見て何でも出来るという過信のもとに、まずい仕事をするようになり、ついに失敗するものである。これらはすべて自分が招いた結果である。
だから、常に自分にうち克って、人が見ていない時も、聞いていない時も、自分を慎み戒めることが大事な事だ。

22.兼て気象を以て克ち居れよ
自分に克つと言う事は、その時、その場の、いわゆる場あたりに克とうとするから、なかなかうまくいかぬものである。
かねて精神を奮い起こして自分に克つ修行をしていなくてはいけない。

23.堯舜をもって手本とし、孔夫子を教師とせよ
学問を志す者はその規模、理想を大きくしなければならない。
しかし、ただその事のみに片寄ってしまうと、身を修める事がおろそかになってゆくから、常に自分にうち克って修養することが大事である。
規模、理想を大きくして自分にうち克つことに努めよ。
男子は、人を自分の心の中に呑みこむ位の寛容が必要で、人に呑まれてはだめであると思えよと言われて、昔の人の詞を書いて与えられた。

その志を、おし広めようとする者にとって、もっとも憂えるべき事は自己の事をのみ図り。
けちで低俗な生活に安んじ、昔の人を手本となして自分からそうなろうと修業をしようとしないことだ。

古人を期するというのはどういうことですかと尋ねたところ、尭・舜(共に古代中国の偉大な帝王)を以って手本とし、孔子を教師として勉強せよと教えられた。

24.天は人も我も同一に愛し給ふ
道というの天地自然のものであり、人は之にのっとって生きるべきものであるから何よりもまず、天を敬う事を目的とすべきである。
天は他人も自分も平等に愛し下さるから、自分を愛する心をもって人を愛する事が大事である。

25.人を相手にせず、天を相手にせよ
人を相手にしないで、天を相手にするようにせよ。
天を相手にして自分の誠をつくし、人の非をとがめるような事をせず、自分の真心の足らない事を反省せよ。

26.己を愛するは善からぬことの第一也
自分さえよければ良いというような心はもっとも善くない事である。
修業の出来ないのも、事業の成功しないのも、過ちを改める事の出来ないのも、自分の功績を誇り、驕りたかぶるのも、皆自分を愛することから生ずることで、決して自分だけを愛するようなことはしてはならない。

27.自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し
過ちを改めるに、自分から過ったとさえ思いついたら、それで良い。
その事をさっぱり捨てて、ただちに一歩前進するべし。
過ちを悔しく思って、あれこれと取りつくろおうと心配するのは、たとえば茶わんを割って、その欠けらを集めて、合わせて見るのも同様で何の役にも立たぬ事である。

28.道を行ふには尊卑貴賤の差別なし
道を行う事に、身分の尊いとか、卑しいとかの区別は無いものである。
要するに昔のことを言えば、古代中国の尭・舜は国王として国の政治を行っていたが、もともとその職業は教師であった。
孔子は魯の国を始め、どこの国にも政治家として用いられず、何度も困難な苦しいめに遭い、身分の低いままに一生を終えられたが、三千人といわれるその子弟は、皆その教えに従って道を行ったのである。

29.若し艱難に逢うて之を凌んとならば、弥々道を行ひ道を楽む可し
正しい道を進もうとする者は、もともと困難な事に会うものだから、どんな苦しい場面に立っても、その事が成功するか失敗するかという事や、自分が生きるか死ぬかというような事に少しもこだわってはならない。
事を行なうには、上手下手があり、物によっては良く出来る人、良く出来ない人もあるので、自然と道を行うことに疑いをもって動揺する人もあろうが、人は道を行わねばならぬものだから、道を踏むという点では上手下手もなく、出来ない人もない。
だから精一杯道を行い、道を楽しみ、もし困難な事にあってこれを乗り切ろうと思うならば、いよいよ道を行い、道を楽しむような、境地にならなければならぬ。
自分は若い時代から、困難という困難にあって来たので、今はどんな事に出会っても心が動揺するような事は無いだろう。
それだけは実に幸だ。

【聖賢・士大夫あるいは君子】
30.命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也
命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬ、というような人は始末に困るものである。
このような始末に困る人でなければ、困難を共にして、一緒に国家の大きな仕事を大成する事は出来ない。
しかしながら、このような人は一般の人の眼では見ぬく事が出来ない、と言われるので、それでは孟子の書に
『人は天下の広々とした所におり、天下の正しい位置に立って、天下の正しい道を行うものだ。
もし、志を得て用いられたら一般国民と共にその道を行い、もし志を得ないで用いられないときは、独りで道を行えばよい。
そういう人はどんな富や身分もこれをおかす事は出来ないし、貧しく卑しい事もこれによって心が挫ける事はない。
また力をもって、これを屈服させようとしても決してそれは出来ない』
と言っておるのは、今、仰せられたような人物の事ですかと尋ねたら、いかにもそのとおりで、真に道を行う人でなければ、そのような精神は得難い事だと答えられた。

31.天下挙って毀るも足らざるとせず、天下挙って誉るも足れりとせざる
正しい道を生きてゆく者は、国中の人が寄って、たかって、悪く言われるような事があっても、決して不満を言わず、また、国中の人がこぞって褒めても、決して自分に満足しないのは、自分を深く信じているからである。
そのような人物になる方法は、韓文公(韓退之、唐の文章家)の「伯夷の頌」(伯夷、叔斉兄弟の節を守って餓死したことを褒め称えた文の一章)をよく読よんでしっかり身に付けるべきである。

32.道に志す者は、偉業を貴ばぬもの也
正しく道義を踏みおこなおうとする者は、偉大な事業を尊ばないものである。
司馬温公は寝室の中で妻と密かに語ったことも他人に対して言えないような事は無いと言われた。
独りを慎むと言う事の真意は如何なるものであるかわかるでしょう。
人をあっと言わせるような事をして、その一時だけ良い気分になることを好むのは、まだまだ未熟な人のする事で、十分反省すべきである。

33.平日道を蹈まざる人は、事に臨て狼狽し、処分の出来ぬもの也
かねて道義を踏み行わない人は、ある事柄に出会うと、あわてふためき、なにをして良いか判らぬものである。
たとえば、近所に火事があった場合、かねて心構えの出来ている人は少しも動揺する事なく、これに対処することが出来る。
しかし、かねて心構えの出来ていない人は、ただ狼狽して、なにをして良いか判らず的確に対処する事が出来ない。
それと同じ事で、かねて道義を踏み行っている人でなければ、ある事柄に出会った時、立派な対策はできない。
私が先年戦いに出たある日のこと、兵士に向かって、自分達の防備が十分であるかどうか、ただ味方の目ばかりで見ないで、敵の心になって一つ突いて見よ、それこそ第一の防備であると説いて聞かせたと言われた。

34.策略は平日致さぬものぞ
策略は普段は用いてはならない方が良い。
策略をもって行なった事は、その結果を見れば良くない事がはっきりしていて、必ず判るものである。
ただ戦争の場合だけは、策略が無ければいけない。
しかし、かねて策略をやっていると、いざ戦いという事になった時、上手な策略は決して出来るものではない。
諸葛孔明はかねて策略をしなかったから、いざという時、あのように思いもよらない策略を行うことが出来たのだ。
自分はかつて東京を引揚げたとき、弟(従道)に向かって
『自分はこれまで少しも謀ごとをやった事が無いので、ここを引揚げた後も跡は少しも濁ることはあるまい。
それだけはよく見ておけ』
と言っておいたという事である。

35.人に推すに公平至誠を以てせよ
人をごまかして、陰でこそこそと策略する者は、たとえその事が上手に出来あがろうとも、物事をよく見抜く人がこれを見れば、醜い事がすぐ分かる。
人に対しては常に公平で真心をもって接するのが良い。
公平でなければ英雄の心を掴む事は出来ないものだ。

36.朱子も白刃を見て逃る者はどうもならぬと云われたり
聖人賢者になろうとする気持ちがなく、昔の人が行なった史実をみて、自分にはとてもまねる事が出来ないと思うような気持ちであったら、戦いに臨んで逃げるより、なお卑怯なことだ。
朱子は抜いた刀を見て逃げる者はどうしようもないと言われた。
誠意をもって聖人賢者の書を読み、その一生をかけて培われた精神を、心身に体験するような修業をしないで、ただこのような言葉を言われ、このような事業をされたという事を知るばかりでは何の役にも立たぬ。
私は今、人の言う事を聞くに、何程もっともらしく論じようとも、その行いに精神が行き渡らず、ただ口先だけの事であったら少しも感心しない。
本当にその行いの出来た人を見れば、実に立派だと感じるのである。
聖人賢者の書をただ上辺だけ読むのであったら、ちょうど他人の剣術を傍から見るのと同じで、少しも自分の身に付かない。
自分の身に付かなければ、万一『刀を持って立ち会え』と言われた時、逃げるよりほかないであろう。

37.天下後世迄も信仰悦服せらるるものは只是一箇の真誠也
未来永劫までも信じて心から従う事が出来るのは、ただ一つの真心だけである。
昔から父の仇を討った人は数えきれないほど大勢いるが、その中でひとり曽我兄弟だけが、今の世に至るまで女子子供でも知らない人のないくらい有名なのは、多くの人にぬきんでて真心が深いからである。
真心がなくて世の中の人から誉められるのは偶然の幸運に過ぎない。
真心が深いと、たとえその当時、知る人がなくても後の世に必ず心の友が出来るものである。

38.真の機会は、理を尽して行ひ、勢を審かにして動くといふに在り
世の中の人の言うチャンスとは、多くはたまたま得た偶然の幸せの事を指している。
しかし、本当のチャンスというのは道理を尽くして行い、時の勢いをよく見きわめて動くという場合のことだ。
つね日頃、国や世の中のことを憂える真心がなくて、ただ時のはずみにのって成功した事業は、決して長続きしないものである。

39.体有りてこそ用は行はるゝなり
今の人は、才能や知識だけあれば、どんな事業でも思うままに出来ると思っているが、才能に任せてする事は、危なかしくて見てはおられないものだ。
しっかりした内容があってこそ物事は立派に行われるものだ。
肥後の長岡監物(熊本藩家老、勤皇家)のような立派な人物は、今は見る事が出来ないようになったといって嘆かれ、昔の言葉を書いて与えられた。

『世の中のことは真心がない限り動かす事は出来ない。
才能と識見がない限り治める事は出来ない。
真心に撤するとその動きも速い。
才識があまねく行渡っていると、その治めるところも広い。
才識と真心と一緒になった時、すべての事は立派に出来あがるであろう』

40.君子の心は常に斯の如くにこそ有らんと思ふなり
南洲翁に従って犬を連れて兎を追い、山や谷を歩いて一日中狩り暮らし、田舎の宿で風呂に入って、身も心も、きわめて爽快になったとき、悠々として言われるには『君子の心はいつもこのように爽やかなものであろうと思う』と。

41.君子の体を具ふる共、処分の出来ぬ人ならば、木偶人も同然なり
修行して心を正して、君子の心身を備えても、事にあたってその処理の出来ない人は、ちょうど木で作った人形と同じ事である。
たとえば数十人のお客が突然おしかけて来た場合、どんなに接待しようと思っても、食器や道具の準備が出来ていなければ、ただおろおろと心配するだけで、接待のしようもないであろう。
いつも道具の準備があれば、たとえ何人であろうとも、数に応じて接待する事が出来るのである。
だから、普段の準備が何よりも大事な事であると古語を書いて下さった。

『学問というものはただ文筆の業のことをいうのではない。
必ず事に当ってこれをさばくことのできる才能のある事である。
武道というものは剣や楯をうまく使いこなす事を言うのでは無い。
必ず敵を知ってこれに処する知恵のある事である。
才能と知恵のあるところはただ一つである』








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重職心得箇条より学ぶ!元総理も指南とした指導者のバイブル!

江戸時代の著名な儒学者佐藤一斎という人がいました。
当時、3,000人を下らないといわれた門弟には、佐久間象山山田方谷渡辺崋山横井小楠勝海舟などといった幕末の志士達が大勢おり、吉田松陰西郷南洲などもその教えを学んだといわれています。
幕末の人材を育成したひとりとも言われる佐藤一斎が残した著書には、”重職心得箇条”や”言志四録”といった指導者のバイブルとして有名なものがあります。

以下は有名な一句ですのでご存知の方も多いかと思いますが、これも”言志四録”の中のひとつですね。
「少くして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず」
私には、江戸時代を代表する陽明学者という印象が強い方です。
※)言志四録も後日きちんと整理したいと思います。

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そこで今回は、そんな中でもわかりやすいといわれる”重職心得箇条”です。
まあ、箇条書きで17の心得が集められているものですので、取っ付きやすい書物のひとつです。
小泉純一郎元首相が当時の田中真紀子外相に手渡したことで有名にもなりましたが、読んだか否かは定かではありません。(でも結果を見る限りは自明ですね)

ざっと17の心得を要約しておきますが、ひとつひとつを見ても現在でも十分通用する内容に、改めてきちんと心がけるべき訓戒と捉えておくべき不朽の書といえるのではないでしょうか。

第一条:重厚にして威厳を養え:小事に区々たらず、大事に抜目なし。役職の意味を考えて、言動を定めること。
第二条:私情を払って部下を引き立てよ:大度を以て寛容せよ。選り好みせずに、意見を採用する
第三条:家法は守るが、因襲にとらわれるな:祖先の法は重宝するも、時世に応じて古いしきたりを変える
第四条:先例に従うことなかれ:自案無しに先例より入るは当今の通病なり。先例遵守より現実に合った案を出す
第五条:機に応じる臨機応変こそ大事なり:機に従がうべし。好機の先ぶれを察知する
第六条:活眼で全体を把握して核心をつかめ:活眼にて視るべし。近視野をはなれて核心をつかむ
第七条:服従を強制するな:苛察は威厳ならず。部下の多くが厭がることを命令しない
第八条:「忙しい」と決して口にするな:度量の大たること肝要なり。仕事が忙しいと言うことを恥じなさい
第九条:信賞必罰の権利を離すな!:刑賞与奪の権は大事の儀なり。部下に勤務査定はさせない
第十条:長期的展望に立って、現前の問題に対処せよ:大小軽重の弁を失うべからず。目線を高くして仕事をこなす
第十一条:人を受け入れて、知恵を蓄える器量を持て:人を容るる気象と物を蓄る器量こそが大臣の体なり。胸中を開いて包容力をもつ
第十二条:定見があっても臨機に応変すべし:貫徹すべき事と転化すべき事の視察あるべし。固い頭は組織の弊害を生む
十三条:信をもって貫き、義をもって裁け:信義の事よくよく吟味あるべし。腹に公平な信義の信念をもつ
第十四条:実のない繕いごとはするな:自然の顕れたるままにせよ。手数を省く事が肝要である
第十五条:建て前と本音を使い分けるな:風儀は上より起こるものにして上下の風は一なり。表裏した言葉は組織を悪汚染する
第十六条:秘密主義は疑心を生ませる:打ち出してよきを隠すは悪し。マル秘は隠すが、それ以外は公表する
第十七条:人心を一新して、停滞を一掃せよ:人君の初政は春の如し。スタートでは明るく心気一転をはかる

ひとつひとつは至極当たり前で読むに足らず、と思われるかもしれません。
でもこの当たり前なひとつひとつを改めて噛み締めてみると、実は日々の中で結構忙殺しがちな事柄であることに気付かされるかと思います。
二百年後を経てもなお残っていることが、それを証明していますね。
自戒の念も込めて、改めて心に留めていきたいものです。






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佳書、古典に勤しむ!

佳書という言葉があります。
佳は、よいこと、優れていること、美しいこと、またそのさまを表す言葉ですので、文字通りよい書物ということになります。
よいことやよい人、よい機会というものには出会おうと思ってもなかなか出会うことは難しいですが、書物だけは自らが選択できるという意味で出会うことの容易いものだと言えます。

人は一生を通して修養を重ねることが肝要ですよね。
そして修養には、学問を積むか優れた人物に指導して頂くしかありません。
学問というと、いい高校、いい大学を出ることのように誤解されがちですが、私は数多くの佳書に出会い、そこから多くのことを学ぶことが大事だと考えるのです。
佳人(ここでは優れた人と解釈ください)に指導して頂こうと思っても、なかなかそのような機会がほいほいある訳ではないので、その人が書いた書物やその人が学んだ書物を通して修養を積む。
年代、年齢に関係なく、こういった所作は自己鍛錬のために大事な所作でありますね。

そこで次にどういったものを読めばいいのかということになりますが、よく言われたのは”迷ったら古典を読みなさい”ということです。
古典なんて埃をかぶって内容も古めかしいだけのものでしょ、と言われるかもしれません。
しかし、数百年、数世紀を経ても残っている書物ということは、それだけで十分歴史のふるいにかけられながら、それでも残るだけの価値のあったものだという証拠です。

毎年発行される書籍だけで、2012年の新刊書発行点数を例に取っても約82,200点。
これだけ発行されているのに、あなたの記憶に残っている書籍はタイトルだけでもどれだけあるでしょう?
年間のベストセラーも毎年発表されますが、その中でどれだけ読んだり、心に残っているものがあることか?
ましてや、5年10年と読み継がれている本といったら、さらにそこからふるいにかけられているはずです。
こんな状況にあって、数百年、数世紀を経ても未だに現存している書物というのは、それだけで十分に修養に足るだけの価値はあると思いませんか?

そこでここからは先達のお力を借りて、古典の中でもさらに修養に佳しとされる書物を挙げてみたいと思います。

出展参照 経世瑣言総編 安岡正篤氏著(P.202, P.359あたりです)

漢籍
小学、孝経
四書 大学、中庸、論語孟子
孟子に対して荀子
論語と併せて孔子家語
五経 特に礼経。その上で書経詩経易経
それから春秋左氏伝
その後で老子、荘氏

【仏書】
四十二章経
日本仏教の根本経典の法華経勝鬘経(しょうまんきょう)、維摩経(ゆいまきょう)
近代のもので近思録、伝習録
莱根謂、古文真宝

【日本史、東洋史
古事記日本書紀
史記十八史略
資治通鑑
太平記平家物語神皇正統記
日本外史、日本政記、中朝事実

バイブル
エマーソン、カーライル、ゲーテモンテーニュ、アミエル
プルターク英雄伝、セネカ
藤原惺窩(ふじわらせいか)、山鹿素行中江藤樹、熊沢蕃山、佐藤一斎、広瀬淡窓、三浦梅園
二宮尊徳、大原幽学
明治維新の哲人英雄の遺書 吉田松蔭、西郷隆盛佐久間象山横井小楠藤田東湖、橋本景岳

古典をお勧めしていますが、そうはいっても最近ではお手軽に読めることを筆頭に大衆受けする本でない限り、少し年月を経ると絶版になっていたりなかなか手に入れるのも苦労することは確かです。
そんな中にあっても、本屋や古本屋、図書館などを巡っていると、背表紙が呼んでいるような感覚に襲われることがあります。
特にこれ、といった明確な目的を持っていないままに、黙々と本棚に数多並んでいる書物の中から、ぼおっと浮かび上がっているような感じとでもいうのでしょうか?

秋の夜長に、古典に勤しむのも一考かと。
お勧めします。

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マーケティング・ブレイクスルー!あなたの会社はこんな損をしていませんか?

マーケティング・ブレイクスルー

このDVD 「マーケティング・ブレイクスルー」では、億万長者メーカーと呼 ばれるダン・ケネディと彼のパートナーであるビル・グレイザーが、ビジネ スにブレイクスルーを起こす12の方法を公開しています。
 
なぜ、売上が思うように伸びないのか?なぜ、商品はいいのにお客さんは買 ってくれないのか?実は、こういった問題は、ターゲットを変えたり、商品 のコンセプトをちょっと変えるだけでも大きく改善することが少なくありま せん。
 
例えば、SS製薬のハイチオールCはもともと中高年層の全身倦怠や二日酔い のための薬でした。ところが、使われている成分がシミやそばかす、日焼け に効用があることが分かると、若い女性のための体の中から治すシミ・そば かす対策のための医薬品として、製品自体はそのままにパッケージだけ変え て売り出しました。その結果、わずか2年で売上が10億円から30億円へ と3倍以上にもなったのです。
 
メガネチェーン店のJINS PCは、もともとメガネの安売りチェーンでした が、どんどん激化する価格競争で赤字経営に陥っていました。そこで、メガ ネを「よく見えるためのもの」から「目を守るためのもの」として、パソコ ン作業の疲れから目を守るメガネや花粉から目を守るメガネなどを発売。 次々とヒットを飛ばし、赤字経営から脱却するどころか高収益企業に変貌し ました。
 
こんな例をあげればキリがありませんが、そのほとんどが「なんで気づかな かったんだろう?」と思えるようなものばかりです。しかし、ほとんどのビ ジネスにおけるブレイクスルーは、実はそんな「ちょっとしたこと」によっ て起こるのです。そして、そのためのヒントや答えは往々にして私たちの周 りに転がっているものです。
 
この「マーケティング・ブレイクスルー」では、そういったヒントや答えに 気づかせてくれ、そしてビジネスにブレイクスルーを起こす具体的な方法を 教えてくれます。
 
もしあなたのお客さんが、、、
 
・ 売上が頭打ち、または低迷している
・ 商品はいいのに思うように売れない
・ 今のビジネスをもっと短期間で伸ばしたい
 
と思っているなら、このDVDは きっとお役に立てるでしょう。
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■ブレイクスルーを起こす12の方法

あなたのビジネスに
ブレイクスルーを起こす12の方法…

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なぜ、売上が思うように伸びないのか?
なぜ、商品はいいのにお客さんは買ってくれないのか?

実は、こういった問題は、ターゲットを変えたり、
商品のコンセプトをちょっと変えるだけでも
大きく改善することが少なくありません。

例えば、SS製薬のハイチオールC
もともと中高年層の全身倦怠や
二日酔いのための薬でした。

ところが、使われている成分がシミやそばかす、
日焼けに効用があることが分かると

ターゲットを若い女性に変え
シミ・そばかす対策のための医薬品として、
製品自体はそのままに
パッケージだけ変えて売り出しました。

その結果、わずか2年で売上が10億円から
30億円へと3倍以上にもなったのです。

こんな例をあげればキリがありませんが、
そのほとんどが「なんで気づかなかったんだろう?」
と思えるようなものばかりです。

しかし、ほとんどのビジネスにおける
ブレイクスルーは、実はそんな
「ちょっとしたこと」によって起こるのです。

そして、そのためのヒントや答えは
往々にして私たちの周りに転がっているものです。

では、どうすればそういったヒントや
答えを見つけることができるのか?
あなたのビジネスにブレイクスルーを
起こす12の方法とは、、、
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■こんな損をしていませんか?

あなたのビジネスに
ブレイクスルーを起こす12の方法…

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===================================

その昔、インダス川のほとりに
ひとりの年老いた老人が住んでいました。
彼の名をアリ・ハフェドと言いました。

彼はとても広い農場を持っていました。
ある日、高い山に挟まれた、
白い砂の上を流れる川にダイヤモンドが
あることを聞いたハフェドは、

農場を売り払い、財産をかき集め、
家族も親戚に預けて、ダイヤモンドを
探しに出かけました。

しかし何年経ってもダイヤモンドは
見つからず、とうとうお金が底をつき
海に身を投げて死んでしまいました。

一方、ハフェドが売り払った
農場を買った男がいました。

男は、ある日、ラクダに水を飲ませようと
農場の中の庭園に入ったところ、
その小川の底の白い砂の中にキラキラと
七色に輝く小石を見つけました。

調べてみると、それはダイヤモンドでした。

そして、その小川の底は、
さらにたくさんのダイヤモンドが眠る
大鉱脈につながっていたのです、、、

===================================

これは実際にあった話です。

チャンスはどこかから
やってくるものではありません。

ほとんどの場合、あなたの目の前にあって
あなたに発見されるのを待っているのです。

それは、ビジネスでも同じです。

ところが、多くの人がちょっとした
ある間違いをしているだけで
目の前にあるせっかくの
売上や利益のチャンスを逃し
大きな損をしています。

いったい、その間違いとは何か?
そして、どうすればその間違いに気付き
本来手にするはずだった利益を
取り戻すことができるのか?

その方法とは、、、
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■業績アップ3つの領域

もしあなたが、商品を変えることなく
売上を大きくアップさせたいなら
この方法がお役に立てるかもしれません。

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「企業の業績をアップさせるのは3つの領域である」

そうドラッカーは言いました。その3つとは、、、

1)商品
2)市場
3)流通チャネル

です。そして、最もよくある業績不振の原因は
この3つの領域間の不適合にあると言います。

つまり、ある商品の売上が伸びなかったとすると、
原因は商品そのものにあるのではなく、

その商品を売る相手(市場)あるいは
その商品の売り方やメディア(流通チャネル)
が間違っているのかもしれない
ということですね。

逆に言えば、商品と市場と流通チャネルが
きちんとマッチすれば
売上も最大化する、ということになります。

実際、ある健康関連のセミナーを開催している会社は
ターゲットとなるお客さんを変えただけで

それまで2カ月かかっていた集客が
予告をしただけで、たったの2日半で
満席になるようになりました。

商品はほとんど変えずに、です。

そしてこれは、ちょっとした方法を使えば
あなたの会社でも起こりうることなのです。

では、その方法とは、、、
↓ 以下をクリック
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ウェブセールスセールスライティング習得ハンドブック!

ウェブセールスセールスライティング習得ハンドブック

・セールスライティング(コピーライティング)を身に付けたいけど、なにからはじめたらいいかわからない
・まずは副業から始めて収入を増やしたい。そして、リスクなく会社を辞めて起業したい
・「3日で100万稼げる!」といった胡散臭いものではなく、家族に見られても恥ずかしくないセールスレターで売上を上げたい
・ホームページやメルマガ・ブログ、Facebookなどを使って、売上を上げたい社長・起業家
 
もちろん、自分のビジネスでインターネットからの売上を上げたい人もこの本が役に立つでしょう。
 
そんな人がインターネットで売るためのスキルを身につけるための本です。売れるセールスコピーを書くためのマインドセットに始まり、インターネットで商品・サービスを販売するために必要なコピーを書く方法、売れるメールの書き方、人を動かすための心理トリガーなど。
 
そして、売れるコピーが書けるようになったあとそのスキルやコピーをどう活かせばいいのか、インターネットマーケティングの基礎も学ぶことができます。最後にクライアントを獲得する具体的な方法まで紹介されています。
 
1から学び始めてスキルを身に付ける。そしてクライアントを獲得して副業で収入を得る。起業するまでを体系立てて書かれて紹介しています。
 
さらに、ボーナス:「安全、スムーズにあなたのキャリアを変える5ステップ(PDF版)」をプレゼントいたします。
いつ会社をクビになっても平気

目次

序章:セールスライティングを学ぶこととは・・・ページ: 10
第1章:を学ぶためのマインドセット・・・ページ: 34
第2章:お客さんの行動心理とは・・・ページ: 58
第3章:ダイレクト・レスポンス・マーケティングの基礎知識・・・ページ: 79
第4章:セールスコピーを書くために必要なこと・・・ページ: 104
第5章:リサーチで書くべきことを明確にする・・・ページ: 125
第6章:ビッグアイデアを考える・・・ページ: 151
第7章:ヘッドラインの作り方・・・ページ: 174
第8章:オープニングを考える・・・ページ: 185
第9章:ブレットの書き方・・・ページ: 192
第10章:証拠で信頼性を上げる・・・ページ: 204
第11章:編集をして仕上げよう・・・ページ: 221
いつ会社をクビになっても平気

会社に絶望したある男の話

・増えない給料…
・深夜の残業…
・仕事のできないダメ上司…

そんな会社に絶望したある会社員。

その会社員が「1本のペン」を使って、
会社を辞めて自由になった方法を
今、無料ビデオで公開しています。

producturl id=”bLBmXh2n”

もし、あなたが、、、

・一生、会社員のままでいいのか?
 と疑問を感じている…

・増えない給料、深夜の残業、
 仕事のできないダメ上司にウンザリしている…

・会社の歯車として働いている自分の将来に
 「閉塞感」を感じているなら…

それなら、
会社に絶望したある会社員が使った方法は、
きっとあなたの役に立つでしょう。

いつ会社をクビになっても平気

トップ0.4%の収入を得る仕事の選び方

どう計算しても、ムリだったんです。

なにがムリって、
毎日遅くまで残業して休日も返上して、
自分のプライベートの時間も
家族との時間も犠牲にして。

この先、今の仕事でどれだけ働いても、
いわゆる「1000万プレイヤー」になるのは、
到底ムリだって思ったんです。

今の会社で、奇跡的に役員か何かになれば
いけるかもしれませんが、

出世競争に勝っていくのは正直難しいし、
そもそも、どうやったら役員にまで登り詰められるのか、
想像もつかなかったんです。

仮に、登り詰めることができたとしても
それまで何年かかるの?って話です。

「転職」したとしても、
ほとんど状況は変わらないでしょう。

よくテレビやネットなんかで見る、
例えば高級車に余裕で(無理して、じゃなく)
乗れるような人たちは、

一体どうやったらそんな風に収入を増やせられるのか、
まったく見当がつきませんでした。


当時をこう語る元サラリーマンのこの男は、

今の会社でどれだけがんばって働いても、
「1000万プレイヤー」のような、
いわゆる「成功した」と言えるほどの
収入を得ることはできない。

という自分の現状に失望していました。

でも、彼はある時、
「収入を増やす」ということについて、
大きな勘違いをしていることに気付きました。

それは、、、

収入を増やしたければ、
「お金に近い」ところの仕事
をしなければいけない。
ということに気がついたのです。

その後、、、

彼はこの「お金に近い仕事」を始めて、
「1000万プレイヤー」どころか、
トップ4%の人だけが稼いでいる、
と言われているほどの収入を、
会社に依存することなく
得られるようになりました。

しかも、働く時間も自由になり、
家族との時間も確保できて、
経済的・精神的な充実感を
得られるようになりました。

彼が選んだ「お金に近い仕事」
とはいったい、、、

いつ会社をクビになっても平気

これは行政書士よりいい資格か?

あなたはこれまでに、
「資格をとろうかな」と思ったことはありませんか?

・再就職が有利になるから
・普通に就職するよりも、安定していそうだから
・今より収入を増やしたいから
・起業して自由に仕事がしたいから

不況や雇用不安から、こういった理由で
資格をとろうと考える人は多いようですが、

実際、会社員が働きながら取得するのは、
そう簡単なことではありません。

例えば、「就職・転職・独立」に有利な国家資格
として人気の「行政書士」を取得するには、

最低でも1年以上の勉強が必要で、合格率は10%以下、
とも言われ、途中で諦めずに合格までやり遂げるのは、
そうとう困難なものであると言えます。

また、働きながら勉強して受かったとしても、
行政書士の6割~7割が年収300万円以下と、

それはきっと、あなたが望んでいる収入とも
かけ離れているのではないでしょうか?

でも、もし、数ヶ月間の勉強で、試験もなく、
十分収入を得る技術を手に入れることができる、
そんな資格があったら、あなたはどうしますか?

実際、ある会社員の男は、6ヶ月間の勉強で、
月20万の副収入を得ることができました。

そして、その男は今では、
会社員時代よりもずっと高い収入を
誰にも頼ることなく稼ぐことができる技術を身につけ、
将来の経済的な不安がなくなりました。

その技術の秘密を、
こちらのビデオで公開しています。

いつ会社をクビになっても平気

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ダン・ケネディの8つのビッグ・アイディア!あなたは勉強しずきで成功できずにいませんか?

ダン・ケネディの8つのビッグ・アイディア

このCD 「8ビッグ・アイディア」では、トップクラスの起業家たちの「パフォーマンス」「行動スピード」に関する8つの秘密を公開しています。
 
世界中からセミナーに参加した400人を超える起業家の多くは、彼の講演を聞いた後、驚くべき行動力を手に入れました。
 
たとえば、、、
・ ある人は、ずっと先送りになっていた仕事をすぐに片付けることができました
・ ある人は、どうしても下がりがちなモチベーションを、常に高くキープできるようになりました。
・ 値上げに踏み切れたり、初めてのセミナーを開催できたり、あるいはセールスレターを次々に書けるようになった人もいました。
という変化を起こしています。
 
この8つのビッグ・アイディアは、あなたの本来の持っているパワーを最大限に引き出し、より少ない時間でより多くを達成できるよう、あなたの行動力を引き出してくれるのです。

もしあなたのお客さんが
・ 勉強しすぎて成功できずにいる
・ やりたいことをなかなか実行に移せていない
・ もっと自分のアイディアを試す行動力が欲しい
と思っているなら、このCDは きっとお役に立てるでしょう。
ダン・ケネディの8つのビッグ・アイディア

クライスラー社長が取った驚きの行動

もしあなたが・・

・勉強しすぎて成功できずにいる
・やりたいことをなかなか実行に移せていない
・もっと自分のアイディアを試す行動力が欲しい

と思っているならこのCDプログラム
ダン・ケネディの「8つのビッグ・アイディア」
がお役に立てるでしょう。

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この「8つのビッグアイディア」では、
トップクラスの起業家たちの
「パフォーマンス」「行動スピード」
に関する8つの秘密を公開しています。

行動のスピードに関して言うと
こんなストーリーがあります

あなたは「クライスラー
という会社をご存知でしょうか?

アメリカの車の製造をしている会社です。
トヨタGMなどの競合です。

クライスラーは、一時期、経営危機になっていました。

当時CEOをやっていた
リー・アイアコッカという社長は
打開策を探していました。

新しいアイディアはないか?
常に探していたのです。

ある日、工場の作業員が
アイアコッカをつかまえて
こう言いました。

「オープンカーにしたら、
 絶対売れる車種があります」

この直訴の時に、
アイアコッカが取った次の行動は

役員会や商品企画を作ったのではありません。

彼が取った行動は
その場で作業員に溶接用の
ブローランプで屋根を落とさせ、

その車を自分で運転し、
周囲の反応を見に行ったのです。

その反応はどうだったか?

クライスラーはそのオープンカーの大ヒットで
経営危機から救われました。

オープンカーはメディアに注目され、
ケタ違いのスピードで会社成長しました。

本来であれば、アイディアを出した時に
「会議に出す」
「企画書を作らせる」

という行動に出ますよね。

でも、トップクラスの起業家は違います。

彼らはすぐに行動しているのです。

こういう行動力、実行力はスキルです。
一度身に付けば、一生使える…
どんなところでも使える
リターンの大きなスキルです。

そしてそのスキルは
この「8つのビッグアイディア」で
手に入れる事ができます。
ダン・ケネディの8つのビッグ・アイディア

■勉強しすぎで行動できない?

成果を出すためには「行動」「実践」が必要ですよね。

ノウハウを学んだり、知っているだけでは意味はありませんから・・・

とはいえ一口に「行動する」といってもそう簡単には行かないもの。

時間が足りない、
お金が足りない、
人が足りない、、、

あるいは、スキルや勉強が足りないと感じることもあるでしょう。

忙しいスケジュールの合間に
セミナーに出て勉強をしているかもしれません。

電車の中で教材のmp3を聞いているかもしれません。

きっとあなたは、勉強熱心でアイディアあふれる人ですよね。
実際に行動に移せば、うまくいきそうなアイディアをたくさん持っているでしょう。

でも、時間がなかったりどうしてもやる気が出なかったりと、、、
先送りしてしまうことにイライラしているかもしれません。

もしあなたが、そんな悩みを持っているなら
「ダン・ケネディの8つのビッグアイディア」
が役に立ちます。

これを聞けば、

「どうやって、そんなにたくさんのことができるんですか?」
「いつ、そんなに仕事してるんですか?」
「どこからそのパワーが湧いてくるんですか?」

と、周りの人から驚かれるほど、
短い時間で多くのことを達成できるようになるでしょう。

このダン・ケネディの8つのビッグアイディアは
現在割引キャンペーンを行っています。

通常の定価よりも
割引価格でお試しができます。
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■トップクラスの起業家達の8つの秘密

もしあなたがビジネスで、

・勉強しすぎて成功できずにいる
・やりたいことをなかなか実行に移せていない
・もっと自分のアイディアを試す行動力が欲しい

と思っているならこのCDプログラム
ダン・ケネディの「8つのビッグ・アイディア」
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あなたはダン・ケネディをご存知ですか?

彼のことをアメリカで最も億万長者を生んだ人として、
「億万長者メーカー」と呼ぶ人も入れば、
「21世紀のナポレオンヒル」と呼ぶ人もいます。

世界でトップのマーケティングコンサルタントであり、
コピーライターでもあります。

日本でも、神田昌典さんや金森重樹さんなども、
彼の影響を受けています(著書の監修者です)。

そんなダン・ケネディが2006年、
参加費40万円の高額セミナーで講演をしました。

タイトルは「8つのビッグ・アイディア」。

この講演で彼は、トップクラスの起業家たちの
「パフォーマンス」「行動スピード」に関する
8つの秘密を公開しました。

世界中からセミナーに参加した400人を超える
起業家の多くは、彼の講演を聞いた後、
驚くべき行動力を手に入れました。

たとえば、、、

・ある人は、ずっと先送りになっていた仕事を
 すぐに片付けることができました

・ある人は、どうしても下がりがちなモチベーションを、
 常に高くキープできるようになりました。

・値上げに踏み切れたり、初めてのセミナーを開催できたり、
 あるいはセールスレターを次々に書けるようになった人もいました。

今、この講演を収録したCDプログラムは、
アメリカでベストセラーになっています。

そして、このCDプログラムが、
現在日本語版で手に入れる事ができるみたいです。

ダン・ケネディの8つのビッグ・アイディア

■アイデアに賞味期限がある?

もしあなたが、儲かるアイデアがあるのに
忙しくてなかなか実践できないのなら

この8つのビックアイディアが
お役に立てるかもしれません。

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イデアには賞味期限があります。

思いついたアイデア
スグに実行しないとマーケットの状況は
変わってしまうかもしれません。

お客さんの関心はよそにいって
しまうかもしれませんし、
ライバルが同じようなことをしてしまう
かもしれません。

法律が変わって使えなくなるかもしれません。

もし行動しておけば今以上に
儲かっていたのに、、、

事実、スピードがお金を引き寄せます。
イデアを思いついてスグに実行していれば
儲かったのに、そんな経験はありませんか?

もしあなたが、行動力を手に入れて
周りの人から驚かれるほど短い時間で
多くのことを達成したいなら、

この8つのビックアイデアがオススメです
ダン・ケネディの8つのビッグ・アイディア

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