知命立命 心地よい風景

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【平家物語】 巻第二 八(二四)新大納言被流

さて、治承元年六月二日、新大納言成親卿を公卿の座に呼ばれ、食事を出されたのだが、胸が詰まって箸さえ取られない
預かり役の武士・難波次郎経遠が車を寄せて
お早く
と言うと、成親卿は渋々乗られた
ああ、なんとかしてもう一度重盛殿にお目にかかりたい
と思われたが、それも叶わない
見回せば、軍兵たちが四方を取り囲んでいる
味方の者は一人もいない
たとえ重罪に処せられて遠国へ行く者だとしても、誰ひとりついてこないとはどういうことだ
と車の中で愚痴をこぼすので、護送の武士たちも皆鎧の袖を濡らした

西八条殿から朱雀大路を南へ下ると、大内裏はもはや自分とは無縁の場所に見えた
顔なじみの雑色や牛飼までもが涙を流し、袖を濡らさない者はいなかった
まして都に残り留まられた北の方や幼い人々の胸中は察するほどに哀れであった
鳥羽殿を通り過ぎられるときも
この御所へ法皇がいらっしゃるときは、一度も欠かさずお供したのに
と、自分の山荘であった洲浜殿も、よその屋敷を眺めるようにして通られた
鳥羽の南の門を出ると、武士は
舟が遅い
と急がせた
これはどこへ行くのか
どうせ殺されるなら、都に近いからこの辺りがよい
と言われるのが精一杯であった

近くに控えていた武士に
名は何と言う
と問われると
難波次郎経遠
と名乗った
この辺に私の身内の者はいないか
尋ねてほしい
舟に乗る前に言い残して置きたいことがある
と言われたので、経遠はその辺を走り回って尋ねたが、成親卿の縁者だと名乗る者は一人もなかった
そのとき、大納言は涙をほろほろ流して
それにしても、私が世で活躍していた頃は、付き従う者の千人や二千人はあったのに、今では横目ですら見送ってくれる者もいない
と泣かれると、荒武者たちも皆鎧の袖を濡らした
ただ身にまとうものは尽きせぬ涙ばかりであった
熊野詣や四天王寺詣などには、二本の龍骨を組み込んだ三棟造りの舟に乗り、後に二・三十艘ほどの舟を漕ぎ従わせていたが、今は大幕を引かせた粗末な造り屋形舟に乗り、見知らぬ兵どもに連れられ、今日を限りに都を去って、波路遥かに流されていく、その胸中は察するほどに哀れであった
成親卿は死罪に処せられるはずであったが、流罪に減刑されたのは重盛殿のとりなしがあったからである

その日は摂津国大物の浦に到着した
翌・三日、大物の浦に京から使者がやって来たと騒ぎになった

成親卿は
ここで殺せとの知らせか
と尋ねられると、そうではなく、さらに遠くの備前国児島へ流せとの指示であった
重盛殿からの手紙もあった
なんとか都に近い片山里にでもお移ししたいと粘ったのですが、それも届かず、生きる甲斐もありません
ですが、お命だけは私がもらい受けました
ご安心ください
と記されており、経遠のもとへも
しっかり宮仕えするように
決して成親卿の御心に背いてはならぬ
など指示し、旅の支度などがこまごまと記されていた
成親卿はあれほど慕っておられた後白河法皇とも離れ、つかの間も離れ難かった北の方や御子たちとも別れて
これからどこへ行くのだろう
再び故郷に帰り、妻子に会うこともないだろう
先年、延暦寺の訴訟事件の際に流されるところを、法皇が惜しまれ、西七条から召し返された
だから、今回は法皇のお咎めではないはず
ではいったい、これはどういうことなのか
と、天を仰ぎ地に伏して、泣き悲しんだが、どうにもならない

夜が明けると舟は出て、西へと下ってゆく
道すがらもただ涙にくれ、生き長らえようとは思わないが、かといって命は露のように消えたりしない
舟の後に立つ白波が陸を隔てて、都はしだいに遠ざかり、日数も重なるにつれ、遠国が近づいてきた
備前国児島に漕ぎ寄せて、庶民の暮らす粗末な柴の庵に入られた
島の常で、後ろは山、前は海、磯の松風、波の音、どれをとっても侘びしくて、哀しみの尽きることはなかった

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