知命立命 心地よい風景

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【平家物語】 巻第二 一〇(二六)新大納言死去

さて、法勝寺執行・俊寛僧都丹波少将・藤原成経、平判官康頼、この三人を薩摩の南方・鬼界が島へ流された
その島は、都の彼方、はるばる荒波を越えた向こうにあるので、生半には船も通わず、島には人もほとんどいなかった
時折見かける人は、色が黒くて牛のようである
体にはたくさんの毛が生え、何を言っているのかもわからない
男は烏帽子も被らず、女は髪も下げていない
衣服も着ていないので人に見えない
食べ物もないので、狩猟ばかりしている
賤しい者たちは田畑を耕さないので穀物もなく、桑を採らないので絹綿の類もなかった
島の内には高い山がある
常に火が燃え、硫黄というものが充ち満ちている
ゆえに硫黄島とも呼ばれている

雷は常に鳴り響き、麓には雨が多く、片時すら人が生きられそうにない
新大納言・藤原成親卿は、少しはくつろげるかと期待しておられたが、子息・丹波少将成経も薩摩南方の鬼界が島へ流されたと聞き、もう何の希望も持てないからと出家の意志を記した手紙を重盛殿へ送られたところ、後白河法皇にお伺いを立てられ、そのお許しが出た
そこで、すぐに出家された
世で活躍していた頃の装束とはうって変わって、俗世を離れて生きる僧の墨染の衣に身をやつされた

成親卿の北の方は都の北山・雲林院の辺りにひっそりと暮らしておられたが、ただでさえ住み慣れない土地はつらいのに、人目も忍ばなけれなならないので、過ぎゆく日々も過ごしかね、暮らしも苦しげであった
屋敷には女房や侍たちが多かったが、今は世間に気兼ねしたり、人目を忍んだりして、訪ねてくる者は一人もいない
しかしそんな中、源左衛門尉信俊という侍だけは情ある者で、常々訪ねてきた

あるとき北の方は信俊を呼び
たしか夫は備前の児島にいらしたはずですが、近頃は有木の別所とかいうところにおいでだと聞いています
とりとめのない手紙でも、なんとかさしあげて、もう一度だけでも返事を読みたのですが
と言われると、信俊は涙をほろほろ流して
幼いときからかわいがっていただき、片時も離れることもなく、私をお呼びになるお声もまだ耳に残っており、お叱りいただいたときの言葉もいつも心に留めております
西国へ下られたときも、お供しようと思っていましたが、六波羅から許しが出ずに、それも叶いませんでした
今回はたとえどんな目に遭おうとも、お手紙を預かってまいりましょう
と言うと、北の方はたいへん喜び、すぐに書いて手渡した
若君と姫君もそれぞれ手紙を書かれた

信俊はこれを預かってはるばる有木の別所へと赴き、預かり役の武士・難波次郎経遠に案内を頼むと、経遠はその志に感じ入り、すぐに面会させた

成親卿がいましがたも都のことばかり口にされ、嘆き沈んでいらしたところに
京より信俊が参りました
と伝えると
成親卿は起き上がり
なんとなんと、夢かうつつか、急いでここへ
と言われた
信俊がそばへ寄って様子を見ると、住まいのみすぼらしさもさることながら、墨染の僧衣を見て、目の前が真っ暗になり気を失いそうになった
しかし、それどころではないので、北の方の言葉を詳しく伝え、手紙を取り出して渡した
それをご覧になると、筆の跡は涙で滲んではっきりとは読めないが
子供たちが恋しさにひどく悲しんでおります、私も尽きせぬ物思いにこらえるすべを知りません
など書かれてあったので
普段の恋しさなど比べものにならない
と悲しまれた

そうして四・五日が過ぎた頃、信俊が
ここに滞在し、最期のご様子を見届けたいと思います
と言うと、預かり役の経遠がそれは無理だと言うので、成親卿は
近いうちに処刑されるから、急いで帰りなさい
と言われた
返事を書いて渡すと、信俊はこれを預かり
また必ず参ります
と別れを告げて出ると、成親卿は
おまえの来る時まで待っていられるとは思わない、名残惜しいから、あと少しだけいてくれ
と言われ、何度か呼び返された
しかし、いつまでもそうもしてばかりもいられないので、信俊は涙をこらえて都へ帰っていった

北の方に返事の手紙を渡した
開けてご覧になると、もはや出家されたと思われたようで、一房の髪が手紙の奥に巻き込められてあったのを二目と見られず
形見は却ってつらくなります
と衣を被って臥せられた
若君・姫君も声も惜しまず泣かれた

さて、同・八月十九日、入道した成親卿を、備前と備中の境・吉備の中山にある有木の別所でついに処刑した
最期の様子はさまざまに噂された
始めは酒に毒を入れて勧められたが、失敗したので、二丈ほどの高台の下に菱を植えて突き落すと、菱に貫かれて亡くなった
なんともひどい話である
こんな例はあまり聞かない

北の方はこのことを伝え聞かれ、もう何の望みもないと、すぐ菩提院という寺に赴いて出家され、形のごとく仏事を営まれたのが哀れであった
この北の方というのは、山城守敦方の娘で、後白河法皇がお気に召されたたいへんな美人でいらしたが、成親卿を法皇が目をかけておられたので、賜られたということであった
若君・姫君もそれぞれ花を手折り、閼伽の水を汲んで、父の後世を弔われたのも哀れであった
そうして時は移り、過去になり、世の中が変わってゆくさまは、天人の臨終に現れる五衰の相に等しい

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