知命立命 心地よい風景

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『三国志演義』第八十五回 劉先主詔を遺して孤児を託し、諸葛亮安居して五路を平らぐ

黄権は呉に退路を断たれ、魏に攻められてやむなく魏に降参した。
しかし、先主は、
「呉に退路を断たれ仕方なく魏に降ったのじゃ。これは朕が悪かったのじゃ。」
と言って家族の知行はそのままにした。

曹丕賈詡に蜀と呉とどちらを攻めるか計ったが、事態が変わったので守りにを固めるように進言された。しかし、曹丕はかねてよりの計略通り兵を呉に進めた。
曹仁は大軍を率いて行くと、討って出てきた朱桓に大敗した。また、曹真、夏侯尚は、陸遜が城内から討って出て、諸葛瑾が城外の伏兵を使って攻めてきたので大敗した。さらに曹休も呂範に打ち破られた。
おりしも夏のさかりのことであったが、悪疫猖獗し、諸軍10の内、6、7が病死したので兵を洛陽に退いた。

ここに先主は永安宮で病の床につき、2人の亡き弟のことをしのんで泣いていた。そして、命がもうないことを悟って、諸葛亮を呼んで、
「太子をよく補佐してやってくれ。もし太子が補佐するに値しないならば君が成都の主人となってくれ。」
と言って遺詔を示して息絶えた。齢63歳。
群臣が遺詔を読み終わると大いに悲しんだ。先主が崩御すると、太子リュウゼンが帝位に就いた。そして、元号を建興と改元した。

魏ではこの知らせを聞いて、曹丕が大いに喜んで蜀攻めを考えた。そしてシバイに命じて進軍した。
ここに蜀漢の後主、劉禅が即位してから、旧臣のうち病没したものも多かった。新しい人材は諸葛亮によって全て取り仕切られた。また、後主には皇后がいなかったので、張飛の娘が皇后に立てられた。
建興元年8月、魏が蜀に攻め込んできたが、諸葛亮は病床におり朝廷に出てこなかった。慌てた後主は丞相府に出向いて相談したが、諸葛亮は笑って、
「羌王軻比能、蛮王孟獲、反将孟達、魏将曹真の手勢は既に臣が追い返してございます。残るは呉ですが、これも手は打ってあります。後は能弁の士を使わせばよいだけでございます。」
と言った。
諸葛亮羌族に神威将軍と呼ばれている馬超を羌王軻比能に当て、南蛮の孟獲には魏延に疑兵の計を使わして退けた。孟達には生死の契りをした蜀の李厳の書面を送って仮病を使って進ませないようにした。曹真には趙雲に陽平関を固く守らせた。そして、呉は先ほど魏に攻めたてられたばかりであり、その魏に協力して兵を進めることはないと考えた。そして、念のため使者を送ろうとしていたところであった。
これを知った後主は大いに喜んで宮中に帰っていった。諸葛亮は、呉への使者を鄧芝に決めて、彼を呉に使わせた。

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