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『三国志演義』第五十三回 関雲長義によりて黄漢升を釈し、孫仲謀大いに張文遠と戦う

さて諸葛亮張飛に、
趙雲殿と同じく誓紙をしたためてもらいたい。」
と言った。張飛はその場で誓紙をしたため三千で武陵に攻め入った。
従事の鞏志が降伏を進めたが、金旋は怒って自ら軍勢を率いて討って出た。しかし張飛にかなわぬと逃げ帰るが、鞏志に、
「我らは領民と共に降伏する。」
と言って城から矢を浴びせられ首を取られた。かくて城は落ち、劉備より鞏志は武陵の太守に昇格した。
次に、荊州関羽張飛と守備を交代し、長沙に攻め入った。しかし、長沙には猛将黄忠がおり、関羽は彼と百合い以上したが勝負がつかなかった。
翌日、再戦するが勝負がつかず、関羽が馬を返して退くと、後ろで黄忠の馬がこけた。関羽黄忠のもとに行ったが、
「ここは見逃してやる。馬を代えて出直してこい。」
と言った。黄忠は城に逃げ戻った。
翌日、黄忠を討てないで苛立つ関羽が追って来た。黄忠は逃げて得意の弓で射抜こうと誘ったが、関羽の兜を射抜いて昨日の返礼をした。
城に帰ると、戦いを見ていた太守の韓玄が二人が内通しているので決着がつかないと思い、黄忠を処刑しようとした。しかし、そこに以前襄陽から落ち延びてきていた魏延韓玄を斬り棄て彼を救った。そしてその首をカンウのもとに届けた。かくして、黄忠魏延劉備の配下となったが、諸葛亮は、魏延の処分で、
「主を殺すとは不忠きわまりない。即刻首を打て。」
と命じた。しかし、劉備の取りなしもあって彼も配下に加わった。

さて、孫権曹操赤壁の戦いの後も幾度も戦っていたが、決着が着かないままであった。そこに、張遼から孫権に挑戦状が送りつけられ、怒った孫権は攻め込むが、危うく討たれそうになり、宋憲は守って李典の矢に討たれてしまう。そして程普に守られ陣屋になんとか帰ることができた。
太史慈は、敵城内に内応の噂を流して混乱させようとしたが、これも張遼に阻止され逆に矢を浴びせられて負傷してしい、陸遜と董襲に救われて退却した。一旦張松孫権に戦いをやめるように進言し兵を退かせた。太史慈は養生したがこの傷がもとで息絶えた。

孫権が破れたころ、劉備の所では劉琦が病没した。その知らせを聞いた魯粛が弔問に訪れ、
「お約束通り荊州を東呉に返還していただきたい。」
諸葛亮に迫った。

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