三大風景画のひとつと言わしめる「木曽街道六十九次」!広重と英泉による合作全71枚の揃物を見よ!
広重については、もうひとつ連作を整理しておきます!
今回は、名所絵(浮世絵風景画)『木曽街道六十九次』について!
先に整理した、北斎「富嶽三十六景」、広重「東海道五十三次」の二作の風景画に次いで、浮世絵の版元保永堂(竹内孫八)は当時二大幹線路であった中山道(木曽街道)69次を浮世絵(錦絵)として売りだそうと企画し、美人画で評判の渓斎英泉に作画を依頼し総数71点の「木曽街道六十九次」の出版を始めました。
※)広重の連作「東海道五十三次」は、スタートの江戸とゴールの京都を合わせて五十五枚だったのね!
葛飾北斎の傑作「富嶽三十六景」は、四十六景だって知ってました?
しかし英泉は2年余りで24宿を描き絵筆を置き、この大作の制作から手を引くこととなります。
当時、このシリーズを途中で中断することもできなくなった保永堂は、急遮、売れっ子広重に頼み込み、版元にも錦樹堂(伊勢屋利兵衛)を加え制作を再開。
後に保永堂は版権を完全に錦樹堂に譲って退き、広重・錦樹堂という組合せで、これを完成させる二ととなりました。
英泉が手を引いた原因とされるのは、
・版元保永堂の意図するところと作者英泉の意図するところの確執があったとか、
・英泉の風景画の世界のなかに、先に発表されていた「東海道五十三次」で広重が表現した旅情豊かで日本人の心をくすぐる様な表現が若干不足していたとか、
・東海道と中山道という街道の持つィメージによる庶民層の反応の違いがあって、当初はあまり人気が出なかったため、
であったといわれており、そうした状況を立て直すために広重による木曽街道の浮世絵といsて世間の目を引くような手を打たざるをえなかったのではないか、と想われます。
いずれにしても、当時を代表する浮世絵師広重・英泉によって完成された「木曽街道六十丸次」(木曽街道(中仙道)の板橋宿から大津宿まで69宿に加え、起点の日本橋と中津川宿の替絵1枚を加えて全71枚の揃物)は、今では北斎の「富嶽三十六景」、広重の「東海道五十三次」とあわせ三大風景画といわれるほど高い評価を得ているのです。
00 木曾街道 続ノ壱 日本橋 雪之曙(英泉)
03 支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望
07 岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望
09 岐阻街道 深谷之駅(英泉)
20 木曾街道 追分宿・浅間山眺望(英泉)
22 木曾海道 六拾九次之内 岩村田宿(英泉)
27 木曾海道 六拾九次之内 長久保(広重)
33 木曾海道 六拾九次之内 贄川(広重)
36 木曾海道六拾九次之内 宮ノ越(広重)
42 木曾海道六拾九次之内 妻籠(広重)
47 木曾海道六拾九次之内 大久手(広重)
48 木曾海道六拾九次之内 細久手(広重)
63 木曽海道六拾九次之内 鳥居本
68 木曽街道 草津追分(広重)
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