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知命立命 心地よい風景

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『三国志演義』第百二十回(終わり) 杜預を薦めて老将新謀を献じ、孫皓降って三分一統に帰す

さて、呉主は司馬炎が魏を奪ったと聞いて呉が心配なって病となり、丞相ボク羊祜ウを呼んで太子の孫休を世継ぎと指さして息絶えた。しかし、孫休は弱年であったので万彧、趙浮の進言でボク羊祜ウは、孫晧を帝位にした。そして、元興元年と改元し、孫休を豫章王に封じ、丁奉を左右大司馬とした。
呉主は日増しに凶暴になり、中常侍岑昏を寵愛した。これを諌めた濮陽興、趙浮を打ち首にした。そして、さらに陸遜の子 陸抗に襄陽攻略を命じた。晋は羊祜に襄陽を守らせた。
陸抗が羊祜の人格を敬って酒を送ると、羊祜は疑わずにそれを飲み、陸抗が病にかかると、羊祜は薬を届けさせ、 陸抗はそれを疑いもせず飲んで病を治した。
呉主からはやく攻め落とすようにと使者が来るが、 陸抗は、今は敵の守りが固く攻められないので内政に専念すべきであると上奏した。呉主は 陸抗が晋と内通していると疑って、彼を司馬に降格し兵権を剥いだ。そして、左将軍ソンキに軍の指揮を命じた。

羊祜は 陸抗の代わりに甄姫が来たと知って呉攻めの上奏をした。しかし、晋主は賈充達に諌められて兵を出さなかった。羊祜は上奏を取り上げられなかったと聞いて嘆息し、都に帰って病と言って暇を願い出た。そして、彼は杜預を呉討伐に推挙して死んだ。
杜預は、荊州の都督に任じられて襄陽で練兵し、呉討伐に備えた。
この時丁奉、 陸抗が死に、呉主の横暴さに国民は恐れおののいていた。
そこに晋の益州の刺史王濬から、呉討伐の上奏文を奉った。そして晋主は呉討伐に兵をおこした。これを聞いた呉主は慌ててこれを退ける策を練った。
丞相張悌の策で甄姫ンに夏口を守り、張悌、諸葛誕の子諸葛靚らの軍を出した。さらに岑昏の策で鉄鎖で長江を封鎖した。

さて、杜預は江陵に兵を進め、先鋒の甄姫ンの軍を討ち取り江陵を奪った。
すると広州各郡の太守、県令達は戦わずして帰順した。さらに杜預は建業に向けて進撃させた。すると長江は鎖で封鎖されており、杜預は笑って大きないかだを作らせて上流から流して松明で火を付けて鎖を溶かした。そしてその勢いで張悌、諸葛靚らの軍を打ち破った。張悌は戦乱の中で死んだ。
さて晋主はこの事を知って賈充の諌めるのも聞かずに王濬達にも進撃を命じた。晋軍の行くところ呉軍は戦わずして降伏し、呉主はこれを聞いて大いに驚き、臣下に問うと
「何故戦わぬのか。」
「今日の禍は全て岑昏の罪にございます。」
「宦官一人如きに国を誤ることなどできるものか。」
「蜀の黄皓をお忘れでございますか。」
と叫ぶなり宮中になだれ込み、岑昏を斬り刻んだ。陶濬が呉主より2万の軍勢をもらい受けて張松とともに王濬を迎え討ったが、大敗して張松が王濬に降って城門を開けさせて晋軍を入城させた。
呉主はもはやこれまでと自ら首をはねようとしたが、セツエイが、
「安楽公劉禅にならわれたらよいではございませぬか。」
と進言したので、これに従って柩車をそなえて自らを縛って文武諸官を率いて王濬の陣に降参に行った。
かくて東呉は大晋に帰した。翌日陶濬の軍は戦わずして壊滅し、その後晋軍が到着し、その翌日には杜預も到着した。
そして呉の穀倉を開いて呉の人民に振る舞ったので安堵した。
王濬は呉平定の上奏文を奉って勝利を知らせると、晋王は杯を手にして涙を落とした。
呉主は洛陽に移され天子に謁見した。賈充が呉主に、
「聞くところによれば、常々人の眼を伺ったり、顔の皮を剥いだりしたとか。これはいかなる刑か。」
と問うと、呉主は、
「臣下の身でありながら、君主を殺したり奸佞の不忠には、この刑を加えたのでござる。」
と答えた。すると賈充は恥じ入って返す言葉もなかった。かくて帝は呉主孫皓を帰命公となし、子孫を中郎にし、従った大臣もみな列侯に封じた。

これより三国は晋帝司馬炎に帰し、統一された。
これ「天下大勢は、合すること久しければ必ず分かれ、分かれること久しければ必ず合する。」というものである。
のち後漢皇帝劉禅は泰始7年(271年)に、魏主曹奐は太安元年(302年)に、呉主孫晧は太康4年(283年)に、それぞれ終わりを全うした。
(了)

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