知命立命 心地よい風景

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『三国志演義』第百十九回 仮りに投降し計を巧みて虚話を成し、ふたたび授禅し様に依りて葫蘆を画く

姜維は、監軍の衛瓘に鄧艾、鄧忠を捕らえてくるように命じ、夜明けとともに詔を奉じて彼らを捕らえた。鄧艾父子は洛陽に護送された。
そこに、司馬昭が軍勢を率いて来るという知らせが入り、姜維はさらに鍾会に蜀で自立するように進言した。そして、密かに後主に、「なにとぞもうしばらくご辛抱下さりますよう。必ずや漢を再興してお迎えに上がります。」
と書面をやった。
鍾会姜維は、魏の大将達に連判状を強制して宮中に閉じこめ、自分達に従わない者は殺して穴に埋めようとした。しかし、これを衛瓘達に知られて彼らの軍に攻め込まれた。
鍾会姜維とともに迎え討とうとしたが、姜維は胸の痛みにその場に昏倒してしまった。鍾会は剣を振るうが押し寄せた兵士に首を斬られた。姜維も、
「わが計略、破れたり。これも天命か。」
と言って自ら首を斬って果てた。59歳であった。
姜維鍾会が死ぬと兵士達は鄧艾を奪い返しに行った。しかし、衛瓘は、
「鄧艾はわしが捕らえたのじゃ。彼を生かしておけばわしが殺されてしまう。」
と言って、後を追って鄧艾、鄧忠を斬り殺した。
張翼達も戦乱の中で死に、魏軍の賈充が一足早く着いて高札を出して安堵させた。かくして衛瓘を成都において後主を洛陽に移したが、従う者は、樊建、張松張繍、郤正ら数人であった。リョウカ、董厥達は病と偽って引きこもり、のちに心痛で死んだ。
呉の丁奉は、蜀の加勢に向かっていたが、蜀が滅んだと知って兵を退いて、呉主に、
「魏が次に呉を攻めるのは遠くありませぬ。くれぐれも用心されますよう。」
と進言した。
洛陽で後主は安楽公に封ぜられ、住居と俸給が与えられた。
翌日、劉禅司馬昭の館に参って礼を述べた。司馬昭は宴席を設けて彼をもてなした。その席で蜀の旧臣は涙を流しながら曲を聴いているのに、劉禅は一人楽しそうであった。
司馬昭が、
「蜀が懐かしいでしょう。」
と問うて、劉禅は、
「ここは楽しいので、蜀のことは思い致さぬ。」
と平然と答えた。劉禅が席を立ったとき、郤正が、
「泣きながら、祖先の墓があるので思い出されてなりませぬ。とこたえるのです。そうすれば蜀に戻れるやもしれませぬ。」
と口添えした。
酔いが回ってきた頃、司馬昭がまた、
「蜀が懐かしいでしょう。」
と問うて、劉禅は、
「祖先の墓があるので思い出されてなりませぬ。」
と言ったが、涙がでなかったので目を閉じて下を向いていた。司馬昭が、
「郤正の言葉にそっくりですな。」
と言うと、劉禅は、
「はい、さようでござる。」
と答えたので、皆は吹き出した。そして、劉禅への警戒心は完全に解けた。
さて、蜀を平定した功績を称えて司馬昭は晋王に封じられた。司馬昭は長子司馬炎を世継ぎとした。そして、王宮に戻って食事をとろうとしたところ、口がきけなくなった。翌日、司馬炎を指さして死んだ。この日直ちに司馬炎が王位に即き、司馬昭を文王とおくりなした。
翌日、司馬炎は、賈充に曹操一族の罪を示され、帝位に即くように進言された。司馬炎は、後宮に踏み行って魏主に譲位を迫り、魏主は泣く泣く彼に帝位を譲った。そして魏主曹奐は陳留王に封じられた。
司馬炎は国号を大晋と改め、泰始元年と改元した。
かくして晋国の基盤も定まり、連日呉討伐の策を練った。

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