知命立命 心地よい風景

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【平家物語】 巻第一 一五(一五)御輿振

さて、延暦寺の大衆は、国司・加賀守師高を流罪に、弟・近藤判官師経を投獄してもらおうとたびたび奏聞したが、お裁きがないので、日吉神社の祭礼を止め、安元三年四月十三日の辰の刻に、十禅師、客人宮、八王子権現の三社の神輿を飾り奉って陣頭へ向かった `下がり松、賀茂川東岸、賀茂の川原、糺、梅忠、柳原、東北院の辺りには、官位のない僧・神官・宮仕・下法師などが無数にいた `神輿は一条を西へ入られると、御神宝は天に輝き、太陽や月が地に落ちたかと思うほどである
このため、源平両家の大将軍に対し `四方の陣頭を警護し、大衆の乱入を防ぐように `と仰せが下った `平家は、小松内大臣左大将重盛公がその勢三千余騎で大宮面の陽明・待賢・郁芳の三つの門を警護された `弟・宗盛、知盛、重衡、伯父・頼盛、教盛、経盛などは西南の陣を固められた 源氏は、大内守護の源三位頼政、渡辺省、子・授を先鋒としてその勢わずか三百余騎が北の門と縫殿の陣を警護された `面積は広く、手勢が少ないので、まばらに見えた
大衆は味方の勢が足りていると見て、北の門と縫殿の陣から神輿を入れ奉ろうとした `頼政卿はしたたかな人物で、急いで馬から下り、兜を脱ぎ、手水とうがいをして、神輿を拝まれた `すると兵たちが真似た `頼政卿は宗徒の中へ使者を送り、あることを伝言した `使者は渡辺長七唱とのことであった `その日唱は、麹塵の直垂に小桜を黄に染めた鎧を着、赤銅作りの太刀を佩き、二十四筋差した白羽の矢を背負い、滋籐の弓を脇に挟み、兜を脱いで高紐に掛け、神輿の御前にかしこまって `しばしお静かに願います `源三位頼政殿より宗徒の方々へ言伝てを申し上げます、このたびの延暦寺の御訴訟が理に適っていることはもちろんです `お裁きが遅れているのは傍目にも苛立たしいものです `神輿を入れ奉ることについて申すまでもありませんが、この頼政は無勢です `こちらから開けてお招きする陣より入られては `延暦寺の大衆は弱みにつけ込んで脂下がっているぞ `などと京童部に言われたら、後々面倒なことにもなりかねません `開けてお招きするのは宣旨を背くも同然です `また防ごうとすれば、長年薬師如来日吉山王権現を信仰する身が、以後長く武の道と別れることにもなりましょう `あれといいこれといい、どちらも面倒が起こるように思います `東の陣頭は重盛殿が大勢で警護されています `その陣から入られるのはいかがでしょう `と申し入れると、唱のその言葉に止められて、神官や宮仕はためらった
若い大衆や荒法師たちには `そんな与太が通るか `それ、この陣から神輿をお入れしよう `と主張する連中も多かったが、老僧の中に比叡山三塔随一の雄弁者と名高い摂津国の竪義及第者・豪雲が進み出て `その言葉、ごもっとも `我々が神輿を担いで訴訟を起こすのなら、大勢の兵を突破してこそ後世の評価にもつながるというものだ `とりわけこの頼政卿は源経基公以来、源氏嫡流の正統で、弓矢ではいまだに不覚をとったという話を聞いたことがない `およそ武芸に限らず、和歌にも優れた男だ `先年、近衛天皇御在位のとき、当座の歌会があって `深山の花 `という題を出された折、皆が詠み悩んでいた中、頼政卿が
`深山の木々は、どれがどの木か見分けがつかないが、桜だけは花でわかった
という見事な歌を読んで、近衛天皇が感心されたほど風雅な男に、こんな時に非情な恥辱を与えられようか `この陣から神輿を担いで引き返そう と衆議すると、数千人の大衆は、先陣から後陣まで `もっともだ、もっともだ `と賛同した
そして神輿を担いで向きを変え、東の陣頭の待賢門から入れ奉ろうとしたところ、たちまち乱闘が起きて、武士たちはさんざんに矢を射かけた `十禅師の神輿にも矢がたくさん突き刺さった `神官や宮仕は射殺され、大衆は大勢怪我をし、わめき叫ぶ声は梵天にまで届き、大地守護の堅牢地神も驚かれたのではないかと思うほどであった `宗徒らは神輿を陣頭に放置したまま、泣く泣く比叡山へと帰っていった

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