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【平家物語】 巻第一 一四(一四)願立

神輿を客人の宮へ入れ奉る `客人とは白山妙理権現のことである `白山本宮の神輿なので、父子の間柄である `訴訟の成否はさておき、生前父子であった二柱が逢えたのが喜ばしかった `浦島太郎の子がの七世の孫に逢ったときや、胎内にいた羅睺羅が霊鷲山にいる父・釈迦を見たときにも勝るものであった `三千人の大衆が続々と集結し、七社の神官が袖を連ね、次々と誦経・祈念をするさまは口では言い表せないほどであった
さて、延暦寺の大衆は、国司加賀守・藤原師高を流罪に処し、目代・近藤判官師経を投獄するよう朝廷に奏聞したが、お裁きがないので、それなりの地位の公卿や殿上人は `ああ、早くお裁きすべきなのに `昔から延暦寺の訴訟というのは特別で、大蔵卿・藤原為房や太宰権帥・藤原季仲卿はあれほどの朝廷の重臣であったにもかかわらず、延暦寺の訴えによって流罪にされてしまった `ましてや師高など物の数でもないのに、何をやっているのか `と言い合われたが `大臣は俸禄が減るのを危惧して諫言せず、小臣は罪を蒙るのを恐れて口を開かないのが常で、皆口を閉ざしてしまった
賀茂川の水、双六の賽、延暦寺の僧、この三つだけが我が意のままにならない `と白河上皇も仰せられたという `鳥羽上皇の時代も、越前の平泉寺を延暦寺に属させたのは朝廷の帰依が深かったからである `無理をもって道理とする `と仰せられ、院宣を下された `江帥・大江匡房卿が `大衆が神輿を陣頭にして訴訟を起こしたら、帝はどう取り計らわれますか `と奏聞すると `延暦寺の訴訟は放っておくわけにはいかん `と仰せられた
去る嘉保二年三月二日、美濃守・源義綱朝臣は当国に新設された荘園を廃止する際、比叡山に長く住む円応という僧を殺害した `この一件で日吉神社の神官、延暦寺の寺官、総勢三十余人が訴状を捧げて陣頭へ来たのを、後二条関白・藤原師通殿が大和源氏・中務権少輔・源頼春に命じて防がせたとき、頼春の郎等が矢を放った `その場で射殺された者・八人、負傷した者・十余人、神官・寺官はみな四散した `延暦寺の高僧たちが子細を奏聞しに山を下ってくるということだったので、武士・検非違使たちは西坂本に向かい、皆追い返した
`延暦寺では、お裁きがなかなか下りないので、日吉七社の神輿を根本中堂に運び奉り、その御前で大般若経全文を七日間誦し続け、後二条関白・藤原師通殿を呪咀した `最終日の導師は仲胤法印で、当時はまだ仲胤供奉であったが、高座に上り、鐘を打ち鳴らし、表白の詞に曰く `我らが幼いときより育ててくださった神々よ、どうか後二条関白・藤原師通殿に一筋の鏑矢を射当ててください `大八王子権現 `と高らかに祈った `その夜、すぐに不思議なことが起きた `八王子権現の御殿から鏑矢の音がし、宮中を目指して鳴り飛ぶ夢を見た人がいた
その朝、関白師通殿の御所の格子を上げてみると、たった今山から採ってきたかのごとく露に濡れたしきみの枝が一本立っていたのである `その夜から関白師通殿は、山王のお咎めとのことで重い病に罹られ床に臥されたので、母君である師実殿の北の方はひどく嘆かれ、身をやつして賤しい下級女官お真似をし、日吉神社に詣で、七日七晩祈られた `まず表向きの願かけで、芝田楽を百番、祭礼装束で舞う作り物を百番、競べ馬、流鏑馬、相撲を百番、百座の仁王講、百座の薬師講、一尺二寸の薬師を百体、等身大の薬師を一体、釈尊阿弥陀像をそれぞれ作られ、供養された
`また心の中に三つの願いを持っておられた `心に秘めたことなので人は知る由もないのに、不思議だったのは、七日目・満願の夜、八王子権現詣の大勢の中に陸奥国からはるばる上洛してきた童巫女がいたのだが、真夜中、突然意識を失ってしまった `遠くへ担ぎ出して祈ると、ほどなくして蘇生し、すぐに立ち上がって舞を始めた `人々は不思議に思いつつ、これを見ていた `半時ほど舞った後、日吉山王権現が乗り移られ、されたさまざまなお告げは恐ろしいものであった `人間ども、よく聞け `師実殿の北の方が本日七日、我が前に参籠された `かけられた願は三つ `まず一つ目は `このたび関白師通殿の命をお助けください `叶うなら、大宮の下殿にいるさまざまな障碍者に交わって、千日間、朝夕宮仕えをします `とのこと `師実殿の北の方として世間の苦労と無縁で過ごされた方も、子を思う気持ちに駆られ、気持ち悪さも忘れて障碍を持った賤しい者たちに交わり、千日の間、朝夕宮仕えすると仰せられたのは実に本当に哀れに思う `二つ目は `大宮の橋殿から八王子権現の御社まで回廊をお造りします `とのこと `三千人の大衆が雨にも晴れにも社へ参詣するとき気の毒だと思うから、回廊が造られたらどれほど結構なことか `三つ目は `このたび関白師通殿の命をお助けください `叶うなら、八王子権現の御社で法華問答講を毎日休むことなく営ませます `とのことだ `この願かけはいずれも並大抵のことではないが、まあ先の二つはなければなくてもよい `法華問答講はぜひとも催してもらいたい `だが今度の訴訟は、さしたることでもないのにお裁きがなく、神官・宮仕が射殺され、大衆が多く負傷して、泣く泣く訴えてきたのがつらく、それがいつまでも忘れられない さらに、彼らに当たった矢は、実は和光垂迹の御肌に刺さったのだ `嘘かどうかこれを見よ `と肩脱ぎしたところを見ると、左脇腹に大盃の口ほどの穴が開いていた `これがひどくつらいから、どんなに願をかけられてもすべての願いを叶えてやるつもりはない `法華問答講がきちんと催されたら、命を三年延ばしてさしあげよう `それを不満に思われるなら、致し方ない `と告げると、日吉山王権現は童巫女から離脱していった
母君はこの願かけを誰にも語らなかったのに、誰が洩らしたのかとは少しも疑わなかった `心の内のことそのままのお告げがあったので、ますます心に染みて尊く思われ `たとえ一日片時であってもありがたく思っておりすのに、まして三年も命を延ばしてくださると仰せられたこと、本当に感謝しております `と涙をこらえて下山された `その後、紀伊国に師通殿の領地・田中庄というところを八王子権現に寄進された `それゆえ、現在に至るまで八王子権現の御社で法華問答講を毎日欠かすことなく催されているとのことである
そうこうするうち、関白師通殿は病が癒えられ、もとどおりになられた `みんなが喜び合う間に三年は夢のように過ぎ去り、永長二年になった
六月二十一日、関白師通殿は髪の生え際に悪性の腫瘍ができて床に臥され、同・二十七日、御年三十八歳でついに亡くなった `勇猛で、理性が強く、実に立派な人でいらしたが、重態なったので、命を惜しまれたのである `惜しくも四十に届かないうちに師実殿より先に亡くなったのは悲しいことである `必ず父が先立つべきだということではないが、生死の掟に従うのが世の習い、あらゆる徳を備えた釈尊、菩薩修行の十地を究めた菩薩たちですら力の及ばないものである `慈悲に厚い日吉山王権現が、衆生に益をもたらす方便としてなさることだから、お咎めがないとも限らない

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