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『三国志演義』第百五回 武侯預め錦嚢の計を伏し、魏主拆ちて承露盤を取る

楊儀は何事かと物見を放ったところ、押し寄せてくる軍は魏延であった。
魏延は後主に楊儀謀反の上奏文を奉り、後主がそれを読んでいる所に今度は楊儀から魏延謀反の上奏文を奉った。後主は驚いてどちらが謀反しているのか決めかねていたが、そこに費禕が到着して事の真偽が明らかになった。
魏延の兵士は楊儀からの投降の声に皆降ってしまい、残るは馬岱の一軍のみとなってしまった。魏延は魏に降ろうとしたが、馬岱が漢中を取ることを進言したので、姜維楊儀の軍と対峙した。
楊儀諸葛亮から託された錦の袋を開けてみると、
魏延と対陣し、馬上において開くべし。」
と題されていた。姜維は大いに喜んで馬に乗って陣を布いた。楊儀は、魏延
「俺を殺す者があるかと3度叫ぶことができたら城を開けてやる。」
と言った。魏延は笑って、
「俺を殺す者があるか。」
と叫ぶと、後ろで、
「わしが殺してやる。」
と言って魏延を斬り落とした。これぞ馬岱である。馬岱諸葛亮にあらかじめ魏延が叫んだときに不意打ちで斬るように命じられていた。
その後、諸葛亮の柩は成都に無事送られ、定軍山に手厚く葬られた。
その後、諸葛亮の遺言通り奨励を行ったが、楊儀には何の沙汰もなく不満に思って、
「あの時魏に降っておれば。」
費禕に洩らした。これを費禕は後主に上奏したので楊儀は庶民に落とされ、これを恥じて自ら首をはねた。

魏主は長寿の方法を馬均から教わり、長安の柏梁台の上にある承露盤を捧げた銅人を洛陽に運ばせようとしたが、銅人が泣きだし、突風が吹いて銅柱が倒れて千余人が圧死した。銅柱は重く動かないので魏主は打ち砕いて運び、洛陽で鋳造した。
魏主は皆が諌めるのも聞かず、台を築かせて銅人を据えた。そして天下に美女を選って芳林園に住まわせ、後宮からひと月余り出てこぬ有り様。
かかるとき、幽州の毌丘倹が、公孫淵が謀反し燕王と号したと上奏した。
魏主は慌てて文武百官を集め評議した。

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