『三国志演義』第百一回 隴上に出でて諸葛神をヨソオい、剣閣に奔りて張コウ計に中る
諸葛亮は成都に戻って後主に謁見し、
「この度は長安を攻め落とそうとしておりましたが、いかなる大事にございますか。恐れながら臣が二心を抱いているという様なことを耳にされたのではございませぬか。」
後主は言葉を詰まらせていたが、
「朕は宦官の申すことを信じて丞相を呼び戻すようなことをしてしもうた。今、目が覚めた。」
と詫び、苟安が流言を流した事をつきとめた。しかし、苟安は既に魏に逃れた後であった。
諸葛亮は再び漢中に戻ったが兵糧不足に悩まされ、楊儀の進言によって20万の軍勢を2つに分けて百日ずつ交代で長安を攻めようとした。
李厳の兵糧部隊が来ないので諸葛亮は隴上で麦刈りをした。司馬懿は、これを読んで押し寄せたが、諸葛亮は韓浩に天蓬元帥の格好をさせて妖術縮地の法で彼を追い返した。その隙に隴上の麦を刈り取った。
諸葛亮の計略を見破った司馬懿は郭淮と討って出たが、姜維、魏延、馬忠、馬岱の伏兵にあってさんざんに打ち破られた。
その後、両軍にらみ合いが続いたが、楊儀が交代の百日になったので兵を代える様に申し出てきた。しかし、そこに郭淮が西涼の兵を従えて攻めてきたので、兵士一同自ら帰らずに立ち向かった。西涼の兵は急行して来たため疲労困憊であったので休息をとろうとした。そこを蜀軍は攻め入って大勝した。
ところに李厳から東呉が魏と手を組んで蜀攻めの気配があると書面を遣わしてきたので諸葛亮は驚いて西川に退いた。
蜀が退いた後城からはまだ煙が上がっていたが、人をやると空き城だったので司馬懿は張郃に追い討ちをかけさせた。しかし、張郃は兵を進める途中、魏延、韓浩と打ち合って誘い出され、矢を射かけられて殺された。
司馬懿は彼の死を悲しみ、魏主は彼を手厚く葬った。
成都に戻った諸葛亮は、李厳が兵糧を集められずに罰せられるのを恐れて偽の書面を出したことを突き止めた。後主も大いに怒って、李厳の官を剥いで庶民に落とした。
そして、3年は出陣せずに蓄えた。
3年後、建興12年、諸葛亮は参内して後主に北伐を上奏した。しかし、これを張繍が諌めて言った。
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