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『三国志演義』第九十八回 漢軍を追って王雙誅を受け、陳倉を襲って武侯勝を取む

さて、司馬懿は、
「守りに徹していれば蜀は兵糧が尽きて退却をせざるを得ませぬ。そこを攻め込めばたやすく勝てましょう。」
と進言し、魏主は曹真に守りに徹するように申しつけた。
しかし、孫礼は火攻めで蜀軍を破ろうと火薬を積んだ兵糧部隊で蜀軍をおびき寄せたがしたが、諸葛亮に見破られ逆にその火薬に火をつけられて大敗した。これを聞いた曹真は2度と討って出なかった。
諸葛亮は、
「こちらの兵糧が貧しく早々に決着せねばならぬが、敵が出てこぬので引き揚げる事にする。」
と言って兵を引き揚げた。
張郃が到着して司馬懿の「蜀は勝てば退き、負ければ留まる。」という言葉を伝えると、曹真は蜀陣地を探らせた。陣は既に退いた後であり、曹真は後悔をした。
魏延諸葛亮の命を受けて、蜀軍が退いた事を知って追ってきた王双を誘き出して討ち取った。

曹真は、王双が討ち取られたことを知っていたく嘆いたが、これがもとで病になり、郭淮、孫礼、張郃らに守らせて洛陽に引き揚げた。

呉主は魏と蜀の戦いを知って中原を攻めるか否か決めかねていると、張氏ョウが皇位に就くことを進言したので即位の儀を行って黄武8年を黄竜元年と改めた。さらに張松は蜀と同盟することを進言し、呉主は蜀に使者を送った。蜀では諸葛亮が祝賀の産物を届け、陸遜に魏討伐の軍をおこさせるよう約束させた。陸遜はこの事を呉主から聞くと、
「軍勢をおこすように見せかけて蜀が動くのを待って中原を取りましょう。」
と言った。

諸葛亮は陳倉の郝昭が病にかかったと知って陳倉を攻めさせた。
郝昭は蜀が押し寄せてきたと知って仰天してそのまま息絶えた。陳倉を取ると魏延姜維に散関を固めさせて援軍に来た張郃を追い返した。
そして、さらに自らは建威、姜維に武都、王平に陰平を取らせた。

張郃は長安に帰り領地を奪われたことを伝えて洛陽の魏主に上奏文をもって告げた。魏主はなすすべを知らずにおろおろして、司馬懿に計ると彼は、
「呉は動かぬでしょうから蜀に対して守りを置けばよろしいかと。」
と進言した。曹真は病が癒えていなかったので司馬懿に大都督の印綬を渡して彼に渡した。かくして司馬懿は長安に至って諸葛亮と雌雄を決せんとした。

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