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『三国志演義』第八十六回 張温を難じて秦フク天弁を逞しゅうし、曹丕を破って徐盛火攻を用う

さて、孫権は、陸遜が魏を退けた後、呉の軍権を全て彼に与えた。また、張松、コヨウに進められて、黄武元年に改元した。かかる時、魏から蜀攻めの協力の申し出があった。陸遜は、とりあえず承知し情勢を伺って兵を出すことを進言した。
そこに、鄧芝が使者として取り次がれた。孫権は鄧芝に説得され、評議の結果張温を蜀に送った。

諸葛亮は張温を酒宴を開いてもてなした。そこで張温は益州の学士シンフクと論説をしたが、シンフクに軽くあしらわれた。諸葛亮は張温に恥をかかせてはと取りなした。
張温が呉に帰ると、孫権は蜀と末長くよしみを結んだ。

魏の曹丕はこれを知って大いに怒って呉を討つことを計った。この時すでに曹仁賈詡は他界しており、侍中辛毗に、
「中原の地は国土が広くとも人が少ないので、10年間屯田して兵を養いますれば兵糧の蓄えも十分になります。その後、討伐されれば呉・蜀ともに打ち破れましょう。」
と、諌めた。しかし、
「10年も待っておれるか。」
と大いに怒って進軍の準備をした。
この知らせを聞いた孫権は慌てて協議し、蜀に漢中から兵を出させるように考えた。そこに、徐盛が、
「それがしが一軍を率いて魏軍を食い止めてご覧に入れましょう。」
と進み出た。孫権は大いに喜んで彼を都督に任じた。
徐盛は、揚子江南岸で魏軍を待ち受けることとしたが、父孫権の養子、孫氏ョウは従わず手勢3千を率いて長江北岸に渡った。徐盛はもしもの事があっては呉王に申し訳がたたぬと丁奉を加勢に出した。
魏軍が押し寄せると、藁人形を並べて書き割りの城や櫓が数百里に渡って作られており、曹丕はこれを本物と間違えて大いに驚き、
「江南にかかる名将があっては、まだまだ滅ぼすことはできぬ。」
と嘆息を洩らした。そこに、趙雲が陽平関より討って出たという知らせが入り、即座に陣払いを命じた。
そこに孫氏ョウが押し寄せて、さらに丁奉も殺到した。張遼は、丁奉を迎え討ったが、彼の矢を腰に受け徐晃に助けられて戻った。魏はこの戦いで大敗し、張遼は許都に戻った後、矢傷が張り裂けて死んだ。

ここに趙雲は、陽平関から討って出たが、丞相からの書面を受け取った。
益州の老将ヨウガイが南蛮王孟獲と結んで4郡に侵入してくるとのこと。バチョウを陽平関において、丞相とともに南蛮と戦うこととなり、成都に戻った。

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