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知命立命 心地よい風景

This is Kiyonori Shutou's weblog

宮沢賢治の詩『雨ニモマケズ』には、実在のモデルがいた!

宮沢賢治作の詩『雨ニモマケズ』のモデルとされる斉藤宗次郎。
斉藤宗次郎は、岩手県の花巻に1887年に禅宗の寺の三男として生まれ、小学校の教師になります。
内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになり、洗礼を受けてクリスチャンになるのですが、そこからが宗次郎の壮絶な人生の始まりとなります。

当時の日本は、キリスト教を「ヤソ教」「国賊」と呼び、随分と迫害を受けていたそうです。
そんな情勢の中、宗次郎も親にも勘当され、小学校の教師を辞めさせられてしまいます。
石を投げられ、何度もガラスを割られ、放水され、家を壊されたこともあったそうです。
さらに、9歳になる長女の愛子ちゃんまでが「ヤソの子供」と言われてお腹を蹴られ、腹膜炎を起こして亡くなってしまうのです。

しかしながら宗次郎は、そのような苦しみの中でも「御心がなりますように」とくじけることなく神様を信じ、神様に従い続けたのです。
牛乳配達と新聞配達のため一日40キロの配達の道のりを走りながら迫害する人々にキリストを宣べ伝え、10メートル走っては神様に祈り、10メートル歩いては神様に感謝を捧げた話しはあまりにも有名です。

子供に会うとアメ玉をやり、仕事の合間には病気の人のお見舞いをし、励まし、祈り続けます。
宗次郎は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく町の人達のために祈り、働き続け、「でくのぼう」と言われながらも最後まで愛を貫き通したのです。

やがて、宗次郎は内村鑑三に招かれて、花巻を去って東京に引っ越すことになります。
いよいよ花巻の地を離れる日、駅に行くと、そこには町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まっていた、とのことです。
それは、宗次郎が「御心がなりますように」と祈り、神様の御心に従った強い信仰と、どこまでも人々を愛し続けた愛の業が為せた結果でした。
その群衆の中に若き日の宮沢賢治も居たそうで、宗次郎の生活ぶりを見ていた賢治が「こういう人になりたかった」という思いを込めて、「雨ニモマケズ」という詩を書いたと言われているのです。

なぜでしょう。
学生の頃にただただ暗唱していただけの「雨ニモマケズ」は、大人になるとこんなにも心揺さぶられる詩編となって、心の奥底に落ちて行くのです。

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雨ニモマケズ
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい

(原文)
雨ニモマケズ
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

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