知命立命 心地よい風景

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『三国志演義』第七十六回 徐公明大いにベン水に戦い、関雲長敗れて麦城に走る

傅士仁糜芳に降伏を勧めに来たが、彼はそれをきっぱりと断った。しかし、そこに関羽から兵糧不足なので公安と南郡で米10万石整えよ。という書面がきた。公安が落ちた今となってはこんな大量の米は用意できないと考えている時に呂蒙が攻めてきたので糜芳は降参した。

さて、曹操は許都におり、荊州攻めを軍議しているところに呉からの書面が届き、徐晃に討って出るように命じて自らも大軍を率いて曹仁の加勢に向かった。
徐晃関平と戦って城を落とした。関平は血路を開いて関羽のもとに行った。そこに、荊州が落ち、傅士仁糜芳も降伏した知らせが入ると関羽は大いに怒った。すると矢傷が裂けてその場に昏倒した。
関羽は気が付くとすぐさま成都に加勢を求める書面を、馬良と伊籍に届けさせた。

樊城の囲みが解けると、曹仁曹操のもとで罪をただされるように頼んだが、
「これは天の定めで、そなた達の罪ではない。」
と罪を許された。

関羽荊州への道で進むことも退くこともできなくなり、荊州に向かう途中、蒋欽、韓当周泰達に囲まれ、麦城に逃げ込んだ。そして、上庸の劉封孟達に援軍を求めるため廖化を使わせた。
しかし、孟達劉封は、荊州も落ち、魏も4、50万の軍勢で攻めてきているのでかなわないと思い、援軍を送らなかった。廖化は泣いて頼んだが二人は奥に行ってしまい、仕方なく成都目指して立ち去った。

麦城の関羽は援軍を待ったが来る様子もなく、そこに諸葛瑾が降伏を勧めにやって来た。しかし、関羽は降伏することなく、帰った諸葛瑾孫権に伝えた。すると、呂蒙は笑って、謀を示した。

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