知命立命 心地よい風景

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【平家物語】 巻第二 一四(三〇)康頼祝

さて、鬼界が島の流人たちは、草葉の先に結んだ露の落ちるがごときの命、もはや惜しむべくもないが、丹波少将成経殿は舅・平宰相教盛殿の領地である肥前国鹿瀬庄から衣食をいつも送られていた
それにより俊寛僧都も平判官康頼も命をつないでいた

康頼は流されたとき、周防国室積で出家した
法名
性照
と名づけた
出家はもとからの願いであったので、このような歌を詠んだ

ついにこのように、捨ててしまった世の中を、早く捨てずにいたのが悔しい

丹波少将成経と康頼入道は、以前から熊野三所権現を信心していたので
なんとかこの島に熊野三所権現を招き奉って、京へ帰れるように祈りたい
と言ったが、俊寛僧都は生まれつき信仰心などない人だったので、これに反対した

二人は同じ心で
もしかすると熊野に似たる場所があるかもしれない
と島内を探し回ると、美しい堤の上の林、紅錦刺繍の敷物のような風景、雲のかかった神秘的な高嶺、綾絹のような緑などの見える場所があった
山の風景から木々に至るまで、どこよりもはるかに素晴らしい
南を望めば海は果てしなく、雲の波・煙の波が遠くへ延びて、北に目をやれば険しい山々から百尺の滝がみなぎり落ちている
滝の音は実にすさまじく、吹き渡る松風の音も神々しく、飛滝権現の鎮座する那智の山によく似ていた
そこで、その地を
那智の御山
と名づけた
この峰は新宮、あれは本宮、これは何々、その王子社、あの王子社など、王子王子の名を言いながら、康頼入道が先達になって、丹波少将教盛を連れ、毎日熊野詣の真似をして、京へ帰れることを祈った
南無権現金剛童子、どうぞ憐れみをおかけになり、我らをもう一度故郷へお返しください、そして妻子にもう一度逢わせてください
と祈った
日数が積もっても、着替える僧衣もないので麻の衣を着て、紀伊国・岩田川の清流に見立てて沢辺の水で身を清め、高いところに登っては熊野本宮の発心門に見立てた

康頼入道は参るたびに熊野三所権現の御前で祝詞を上げるのだが、御幣紙もないので、花を手折って捧げつつ

`年は治承元年丁酉、月は十二か月、日数は三百五十余日ある中で、吉日吉時を選び、語るもおそれ多い日本第一の霊験あらたかな熊野三所権現・飛滝大菩薩がお導きくださる尊い神前において、信心の大施主・右近衛少将藤原成経並びに沙弥・康頼入道性照が、一心清浄の誠意を捧げて、身業・口業・意業調和の志をもって、謹んで敬い申し上げます
`薬師如来は、衆生を苦界より救う教主であり、法身・報身・応身をすべて備えた仏であります
`東方浄瑠璃界で病苦を救う医王の主であり、病を残らず退ける如来であります
`また、天竺南方・補陀落山で一切衆生を教化する主、玄理を究めた菩薩であります
`若一王子は娑婆世界の本主・観世音菩薩であります
`頭上の仏面を現して、衆生の願いをお聞きくださいます

`それによって上は帝から下は万民に至るまで、現世安穏のため、あるいは後生菩提のために、朝には浄水をすくって煩悩の垢をすすぎ、夕には深山に向かって仏の御名を唱えれば、心が通じないことはありません
`険しい峰の高さを神徳の高さに譬え、切り立つ谷の深さを菩薩の誓願の深さになぞらえて、雲を分けて上り、露をしのいで下っております
`ここをご利益の地と頼まないならば、どうしてこのような険難な道をたどるでしょうか
`権現の徳を仰がないならば、どうしてこのような幽遠の境に参るでしょうか
`どうか薬師如来、飛滝大菩薩、青蓮のような慈悲の眼をお持ちになり、小鹿のように御耳をそばだてて、我らの二つとない真心をご覧になり、それぞれの志をお聞き届けください

`結・早玉の両所権現は、時機に従って縁ある衆生を導き、あるいは不信心の者たちをも救うため、七宝で飾った荘厳な浄土の住処を捨てて、八万四千の光を隠し、六道三界の塵に交わられました
`ゆえに、業の定めを転じるため、長寿を求めるため、袖を連ねて礼拝に訪れ、途絶えることなく供物を捧げています
`袈裟の衣を重ね、仏への花を捧げ、神殿の床を動かし、清い水のように信心を澄まして、ご利益の池を満たしています
`神様がお受けくださるならば、願いの成就しないことがあるでしょうか
`どうかお願いです、十二所権現、ご利益の羽を並べて、遥か苦海の空に翔け下り、我らが左遷の愁えを癒し、すみやかに京へ帰れる願いを遂げさせてください
`再拝
と祝言を述べた

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【平家物語】 巻第二 一三(二九)善光寺炎上

その頃、信濃国善光寺が炎上したことがあった
阿弥陀如来像は昔、天竺・舎衛国に五つの悪病が広まって多くの人々が死んだとき、月蓋長者の要請により、龍宮城から、閻浮樹の森林を流れる川の底の砂金を得て、釈尊と弟子・目連、月蓋長者が心をひとつにして鋳造された、一尺二寸の阿弥陀・観音・勢至の三尊で、天竺・震旦・本朝に二つとない霊像である
釈尊は入滅の後、天竺に五百余年の間留まられたが、仏法が東へ広まるに従い百済国へ移られ、一千年の後、百済の斉明王・本朝の欽明天皇の時代になって我が国へ移られ、摂津国・難波浦で歳月を送っておられる
いつも金色の光をお放ちである
ゆえに、年号を金光とした

同・金光三年三月、信濃国の住人・大海の本田善光が都へ上り、阿弥陀如来にお会いして、共に戻るときには、昼は善光が如来を背負い、夜は善光が如来に背負われて信濃国へ下り、水内郡に安置奉ったが、以来五百八十余年の間で炎上したのはこれが初めてであるという
王法が尽きるとき、まず仏法が滅ぶ
と言われる
だからか
あれほどありがたかった霊寺・霊山の多くが滅んだのは、平家が滅亡する兆しではないか
と人は言っていた

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【平家物語】 巻第二 一二(二八)山門滅亡

後白河法皇は、三井寺の公顕僧正を師範として真言密教の秘法を伝授されていた
大日経、金剛頂経、蘇悉地経の三部の秘法を伝授され、九月四日、三井寺において、正統な継承者となるための潅頂の儀式を行うとのことであった
延暦寺の大衆は憤慨し
昔から、御潅頂・御受戒は当比叡山で遂げられるのが通例になっている
とりわけ、山王権現が教化し導くのは受戒潅頂のためだ
なのに、今三井寺で遂げられるのなら、三井寺を焼き払ってしまおう
と言った

法皇は、無益な争いであるとして、灌頂の前にある四つの御加行をとり行われ、灌頂は思い留まられた
とはいえ、ご意志はお持ちだったので、公顕僧正を召し連れて和泉国四天王寺へ御幸し、五智光院を建て、亀井の水を五瓶の智水として、仏法最初の霊地で伝法・潅頂を遂げられた
延暦寺の騒動を鎮めるため、三井寺での潅頂はなかったものの、延暦寺では下級僧の堂衆と学問僧の学生が衝突し、たびたび合戦あった
そのたび学生僧が追い落とされた
延暦寺の滅亡は、朝廷の一大事と見えた

堂衆というのは、学生僧の雑役係の童子がなった法師や、下級の法師たちでもあったか、先年、金剛寿院の座主・覚尋権僧正比叡山を治めたときから三塔に順番に勤め、夏衆と称して仏に花を供えたりした者たちである
ところが最近では、修行者の行人ふぜいと延暦寺の大衆は歯牙にもかけていなかったのだが、このようにたびたび合戦に勝つようになってしまった

堂衆は師僧の命令に背いて合戦を企てている
すみやかに追討すべきだ
と、朝廷に申し述べたり、武家に触れ回ったりして訴えた
これにより、清盛入道が法皇からの指示を承り、紀伊国の住人・湯浅権守宗重を筆頭に畿内の兵二千余人を大衆の助勢として、堂衆を攻められた
堂衆は、普段は東陽坊にいたが、これを聞き、近江国・三箇庄へ下向して、再び大勢を率いて比叡山へ戻り、早尾坂に城郭を構えて立てこもった

九月二十日辰の刻に、大衆三千人、官軍二千余人、合計五千余人が早尾坂に押し寄せて、鬨の声をどっと上げた
城内からばね仕掛けの大弓を外し、たくさんの石を落とすと、大衆や官軍は大勢殺された
大衆は官軍を先に行かせようとし、官軍はまた大衆を先に行かせようとして、争ううちに団結心は失われ、まともに戦うこともできなくなった
堂衆に助勢する悪党というのは、諸国の窃盗、強盗、山賊、海賊などである
燃えるように盛んな欲望を持った命知らずの連中で、我こそはと必死に戦うので、今度こそと思いながらも学生僧はまた合戦に敗れた

その後、延暦寺はますます荒れ果て、三昧堂の十二禅衆以外には住まう僧侶もほとんどいなくなった
谷々の僧院で行われていた講演もなくなり、それぞれの堂での修行も衰えていった
修学の室の窓は閉ざされ、座禅をする者もない
春の花のごとき四教五時説法は萎れ、秋の月のごとき三諦即是実相も曇ってしまった
三百年以上続いた天台仏教の法燈を守る人もなく、昼夜絶えることのなかった香の煙も消えてしまったのだろうか
堂舎は高くそびえ、三層の軒先を青空の中に差し挟み、建物の棟や梁はくっきりとして、四方の垂木を白い霧の間に掛けていた
ところが今は、仏の供養も峰を吹き渡る嵐に任せ、黄金の仏像を滴る雨露で濡らし、夜の月は燈火の代わりとなって軒の隙間から漏れ、夜露は玉のようにしたたって蓮座を飾っているという

末代の俗世となっては、天竺・震旦・本朝と広まった仏法もしだいに衰えていく
遠く天竺の仏教遺跡を見てみれば、昔仏が法を説かれた竹林精舎や祇園精舎も、近頃では狐狼・野干の住処となり果て、礎を残すばかりらしい
白鷺池には水が絶え、草ばかりが深く茂っている
退梵下乗の卒都婆も苔生して傾いている
唐土でも、天台山、五台山、白馬寺、玉泉寺も、もはや住僧もいないほどに荒れ果てて、大乗・小乗の経文も箱の底で朽ちているという
我が国でも奈良の七大寺が荒れ果て、南都六宗・平安二宗・禅宗も途絶え、愛宕山高雄山も昔は堂塔が軒を並べていたが、一夜のうちに荒廃し、天狗の住処となってしまった
それゆえ、あれほどありがかった天台の仏法も、この治承の時代になって滅び果ててしまうのか
心ある人は皆嘆き悲しんでいる

比叡山を離れた僧の誰かが、僧坊の柱に一首の歌を書きつけた

いのりこし、我が立つ比叡山はうって変わって、人なき山となってしまうのか

これは、昔伝教大師最澄比叡山を開いたとき、阿耨多羅三藐三菩提の仏たちに祈られたことを、今偲んで詠んだものだろうか
実に心に染みる
八日は薬師の日であるが
南無
と唱える声もしない
四月は山王権現が仮の姿で現れる月であるが、供物を捧げる人もなく、緋の玉垣は神々しく古びて注連縄が残るばかりになるだろう

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【平家物語】 巻第二 一一(二七)徳大寺厳島詣

徳大寺大納言実定卿は、平家の次男・宗盛卿に大将の地位を越され、しばらく世の動向を見ようと大納言を辞して屋敷にこもっておられたが
出家する
と言い出されたので、仕える者たちは皆嘆き悲しんだ
その中に蔵人大夫・藤原重兼という諸大夫がいた
さまざまなことに心得のある人で、ある月の夜、実定卿が南面の格子を上げさせ、月に向かって吟じておられたところに重兼がやって来た
誰だ
と言われると
重兼でございます
夜はすっかり更けている
今頃何の用だ
と言われると
今夜は月が冴え、隅々まで澄み渡る心地に任せて参った次第です
と言った
実定卿は
殊勝だ
なんだか今夜はすることもなくて、少しつまらなかったのだ
と言われた

しばしとりとめのない話などをされて後、実定卿は
つらつらと平家の繁栄する様子を見ているとな、嫡子の重盛と次男の宗盛が左右の大将の座にいる
続いて三男の知盛、重盛の嫡子・維盛がいる
その者たちが次々位に就くことになれば、他の家の人々はいつまで経っても位に就けない
どのみち、しまいにはすることだ
出家する
と言われた
重兼は涙をほろほろ流して
殿が出家なさったら、身内の者たちが皆路頭に迷うことになります
私に妙案があります
平家は安芸の厳島をたいへん崇拝しております
そこへお詣りください
あの社には、内侍という優雅な舞姫たちが大勢おりますので、珍しく思われ、もてなしてくださるでしょう
何の御祈願でしょうか
と尋ねられましたら、ありのままお話しください

七日ほど滞在なさり、京へお戻りになるとき、主立った内侍を二人ほどお連れください、彼女たちは必ずや西八条の清盛邸に赴くでしょう
清盛入道から
何事だ
と尋られれば、ありのままに話すでしょう
清盛入道は極めて感じ入りやすい人ですから、何かの計らいではないか、と思われるに違いありません
と言うと、実定卿は
そんなことなど思いもつかなかった
よし、すぐ参ろう
と、にわかに精進潔斎を始め、厳島に向かわれた

実に優雅な舞姫たちが大勢いた
この社へは、私たちのご主人である平家の公達が御参りなさるのですが、これは珍しい方のお参りですこと
と、主立った内侍が十数人付き添い、昼夜を分かたずあれこれもてなした

そして内侍たちが
何の御祈願でしょうか
と尋ねたので
大将の地位を人に越されたので、就けるようお祈りに参った
と言われた

七日間参籠し、神楽を奏したり、風俗・催馬楽を歌われたりした
舞楽も三度催された

京へ帰るとき、主立った内侍十数人が船を用意し、一日の舟路を見送った
実定卿は
あまりに名残惜しいから、あと一日、あと二日、共に舟旅を
と言われ、都まで連れてこられた
そして、徳大寺の実定邸に招かれ、あれこれもてなし、さまざまなの引出物を持たせて帰らせた

内侍たちは
せっかく上洛したのだから、私たちのご主人の平家にぜひ参りましょう
と、西八条の清盛邸に参上した
清盛入道はすぐに出会って対面し
はて、内侍たちよ、何用があって参ったのだ
と言われると
徳大寺実定卿が厳島に詣でられ、私たちが舟を用意して、一日舟路をお送りしますと、実定卿は
あまりに名残惜しので、あと一日、あと二日、共に舟旅を
と仰せられ、ここまで連れて来られたのです
と言った
はて、実定は何の祈願に厳島へ詣でたのか
と問われると
大将の地位を人に越されたので、就けるようお祈りするため
と仰せておられました
と言うと、入道は大きく頷き
京の都には、霊験あらたかな霊仏・霊社があれほどたくさんおありなのに、それを差し置いてわしが崇め奉る厳島へはるばる参詣されたとは、殊勝な心がけだ
それほど懸命に望んでいるのならば
と、嫡子・重盛殿が内大臣左大将でいらしたのを辞任させられ、次男・宗盛大納言が右大将でいらしたのを飛び越えさせて、徳大寺実定卿を左大将に就けられた
なんと賢い計略だろうか
新大納言・藤原成親卿は、このような計略をなさらず、つまらぬ謀反を起こして、情けなくも子孫もろとも滅んでしまった

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【平家物語】 巻第二 一〇(二六)新大納言死去

さて、法勝寺執行・俊寛僧都丹波少将・藤原成経、平判官康頼、この三人を薩摩の南方・鬼界が島へ流された
その島は、都の彼方、はるばる荒波を越えた向こうにあるので、生半には船も通わず、島には人もほとんどいなかった
時折見かける人は、色が黒くて牛のようである
体にはたくさんの毛が生え、何を言っているのかもわからない
男は烏帽子も被らず、女は髪も下げていない
衣服も着ていないので人に見えない
食べ物もないので、狩猟ばかりしている
賤しい者たちは田畑を耕さないので穀物もなく、桑を採らないので絹綿の類もなかった
島の内には高い山がある
常に火が燃え、硫黄というものが充ち満ちている
ゆえに硫黄島とも呼ばれている

雷は常に鳴り響き、麓には雨が多く、片時すら人が生きられそうにない
新大納言・藤原成親卿は、少しはくつろげるかと期待しておられたが、子息・丹波少将成経も薩摩南方の鬼界が島へ流されたと聞き、もう何の希望も持てないからと出家の意志を記した手紙を重盛殿へ送られたところ、後白河法皇にお伺いを立てられ、そのお許しが出た
そこで、すぐに出家された
世で活躍していた頃の装束とはうって変わって、俗世を離れて生きる僧の墨染の衣に身をやつされた

成親卿の北の方は都の北山・雲林院の辺りにひっそりと暮らしておられたが、ただでさえ住み慣れない土地はつらいのに、人目も忍ばなけれなならないので、過ぎゆく日々も過ごしかね、暮らしも苦しげであった
屋敷には女房や侍たちが多かったが、今は世間に気兼ねしたり、人目を忍んだりして、訪ねてくる者は一人もいない
しかしそんな中、源左衛門尉信俊という侍だけは情ある者で、常々訪ねてきた

あるとき北の方は信俊を呼び
たしか夫は備前の児島にいらしたはずですが、近頃は有木の別所とかいうところにおいでだと聞いています
とりとめのない手紙でも、なんとかさしあげて、もう一度だけでも返事を読みたのですが
と言われると、信俊は涙をほろほろ流して
幼いときからかわいがっていただき、片時も離れることもなく、私をお呼びになるお声もまだ耳に残っており、お叱りいただいたときの言葉もいつも心に留めております
西国へ下られたときも、お供しようと思っていましたが、六波羅から許しが出ずに、それも叶いませんでした
今回はたとえどんな目に遭おうとも、お手紙を預かってまいりましょう
と言うと、北の方はたいへん喜び、すぐに書いて手渡した
若君と姫君もそれぞれ手紙を書かれた

信俊はこれを預かってはるばる有木の別所へと赴き、預かり役の武士・難波次郎経遠に案内を頼むと、経遠はその志に感じ入り、すぐに面会させた

成親卿がいましがたも都のことばかり口にされ、嘆き沈んでいらしたところに
京より信俊が参りました
と伝えると
成親卿は起き上がり
なんとなんと、夢かうつつか、急いでここへ
と言われた
信俊がそばへ寄って様子を見ると、住まいのみすぼらしさもさることながら、墨染の僧衣を見て、目の前が真っ暗になり気を失いそうになった
しかし、それどころではないので、北の方の言葉を詳しく伝え、手紙を取り出して渡した
それをご覧になると、筆の跡は涙で滲んではっきりとは読めないが
子供たちが恋しさにひどく悲しんでおります、私も尽きせぬ物思いにこらえるすべを知りません
など書かれてあったので
普段の恋しさなど比べものにならない
と悲しまれた

そうして四・五日が過ぎた頃、信俊が
ここに滞在し、最期のご様子を見届けたいと思います
と言うと、預かり役の経遠がそれは無理だと言うので、成親卿は
近いうちに処刑されるから、急いで帰りなさい
と言われた
返事を書いて渡すと、信俊はこれを預かり
また必ず参ります
と別れを告げて出ると、成親卿は
おまえの来る時まで待っていられるとは思わない、名残惜しいから、あと少しだけいてくれ
と言われ、何度か呼び返された
しかし、いつまでもそうもしてばかりもいられないので、信俊は涙をこらえて都へ帰っていった

北の方に返事の手紙を渡した
開けてご覧になると、もはや出家されたと思われたようで、一房の髪が手紙の奥に巻き込められてあったのを二目と見られず
形見は却ってつらくなります
と衣を被って臥せられた
若君・姫君も声も惜しまず泣かれた

さて、同・八月十九日、入道した成親卿を、備前と備中の境・吉備の中山にある有木の別所でついに処刑した
最期の様子はさまざまに噂された
始めは酒に毒を入れて勧められたが、失敗したので、二丈ほどの高台の下に菱を植えて突き落すと、菱に貫かれて亡くなった
なんともひどい話である
こんな例はあまり聞かない

北の方はこのことを伝え聞かれ、もう何の望みもないと、すぐ菩提院という寺に赴いて出家され、形のごとく仏事を営まれたのが哀れであった
この北の方というのは、山城守敦方の娘で、後白河法皇がお気に召されたたいへんな美人でいらしたが、成親卿を法皇が目をかけておられたので、賜られたということであった
若君・姫君もそれぞれ花を手折り、閼伽の水を汲んで、父の後世を弔われたのも哀れであった
そうして時は移り、過去になり、世の中が変わってゆくさまは、天人の臨終に現れる五衰の相に等しい

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【平家物語】 巻第二 九(二五)阿古屋松

成親卿一人に限らず、処罰を受けた者は多かった
近江中将・源成雅・蓮浄入道は佐渡国、山城守・中原基兼は伯耆国式部大輔正綱は播磨国、宗判官・惟宗信房は阿波国、新平判官資行は美作国であったという
当時清盛入道は福原の別荘におられたが、同・治承元年六月二十日、摂津左衛門・平盛澄を使者として門脇宰相教盛のところへ
丹波少将成経を急ぎよこしていただきたい
尋ねたいことがある
と言い遣わされると、教盛殿は
自分が預かる前にどうにかなっていたというのならば仕方がなかった
しかし、それをいまさら、心配している家族を悩ませるようなことをするのは罪作りだ
と思いながら、福原へ下られるよう告げられると、成経殿は泣く泣く出発した
北の方をはじめ女房たちは
たとえ叶わなくても、どうかもう一度、清盛入道殿にお願いしてください
と嘆き悲しみ合われたので、教盛殿は
思いつく限りのことは述べてきた
もう出家するより他に手はない、言葉は尽きた
だが、どこの浦に流されようと、命ある限りお訪ねするつもりだ
と言われた

成経殿は今年三つになる御子をお持ちだが、彼も若くて、日頃はさほど子煩悩ではなかったが、これで最後という時になって、やはり気にかかってきたのか
我が子にもう一度会いたい
と言われると、乳母が抱いて連れてきた
成経殿は膝の上に座らせ、髪を撫で、涙をほろほろ流して
ああ、そなたが七歳になったら元服させ、法皇にお仕えさせようと思っていたのに
もうどうにもならぬ
もし生き長らえて成長したら、法師になって我が後世を弔ってくれ
と言われた
まだ幼くて何も聞き分けられないが、はいと頷かれたので、少将をはじめ、母君、乳母の女房、その座に控えていた多くの人たちも、心ある者もない者も皆袖を濡らされた
福原からの使者は
今夜鳥羽までお越しください
との由を伝えた
成経殿は
どうせいくらも生きる時間は延びないだろうから、せめて今夜くらいは都の中で過ごしたい
と言われたが、どうしても無理だとしきりに言うので、あきらめてその夜は鳥羽に向かわれた
教盛殿はあまりの憂鬱さに、今度は共に車には乗られず、成経殿だけが乗って行かれた

同・二十二日、福原に到着されると、清盛入道が備中国の住人・瀬尾太郎兼康に命じられ、備中国へと流された
兼康も教盛殿の耳に入ることをを恐れて、道すがらあれこれ気を使ったが、成経殿は慰められることもなく、昼夜ただ念仏を唱え、父・成親卿のことを祈られた

その頃、新大納言・藤原成親卿は備前国児島にいらしたが、預かり役の武士・難波次郎経遠が、ここは舟着き場が近くて都合が悪いと、内陸へお移しし、備前と備中の国境・庭瀬郷にある有木の別所という地に居場所を設けた
備中国の瀬尾と有木の別所との間はわずか五十町にも満たないので、成経殿はそちらから吹いてくる風も懐かしく思われてか、あるとき兼康を呼ぶと
ここから父上がおられるという備中国の有木の別所とやらはどれほど距離か
と問われると、兼康は、正直にお伝えしてはまずいと思ってか
片道十二・三日でございます
と答えた
すると、成経殿は涙をほろほろ流して
日本はかつて三十三か国であったのが、その後六十六か国に分けられたという
そういう備前・備中・備後も元はひとつの国であったそうだ
また東国で有名な出羽・陸奥両国も、昔は六十六郡がひとつの国だったが、十二郡を分割して後に出羽国としたという
だから左近衛中将藤原実方が奥州に流された折、その国の名所・阿古屋の松を見ようと国中を尋ね歩いて、見つからずに虚しく帰ろうとしたとき、道である老翁に行き合った
実方中将が老翁の袖を引き
もし、そなたはこのあたりの古老とお見受けしたが、この国の名所・阿古屋の松というのをご存じか
と尋ねると
それはこの国にはございません
出羽国にあるのでしょう
と答えるので
それではそなたもご存じないのか
もう末の世になって、国の名所さえ忘れてしまったんだな
と立ち去ろうとされると、古老は中将の袖を引き
では、あなたは
みちのくのあこやの松に木隠れて、出るべき月のまだ出ないのか
という歌の心をもってこの国の名所・阿古屋の松をお探しなのですか
これは昔、陸奥・出羽両国が一国であったときに詠まれた歌です
十二郡を分割して後は、出羽国にあるのでしょう
と言ったので、それではと実方中将も出羽国に赴いて阿古屋の松を見た
筑紫の太宰府から京へ腹赤という魚を献上する使者が到着するのに、徒歩で十五日と定められている
先ほど十二・三日と申したが、ここからほとんど九州へ下る日数だ
遠いといっても、備前と備中の間は二・三日以上はかかるまい
近いのを遠いと言うのは、父上のいらっしゃるところを私に知らせまいとしてのことだな
そう言うと、その後は、恋しく思ったがもうお尋ねにならなかった

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【古事記】序 ― 古伝承とその意義、天武天皇と古事記の企画、太安万侶の古事記撰録

【序】

過去の時代(序文の第一段) --- 古伝承とその意義
――古事記の成立の前提として、本文に記されている過去のことについて、まずわれわれが、傳えごとによつて過去のことを知ることを述べ、續いて歴代の天皇がこれによつて徳教を正したことを述べる。
太の安萬侶によつて代表される古人が、古事記の内容をどのように考えていたかがあきらかにされる。
古事記成立の思想的根據である。――

わたくし安萬侶が申しあげます。

宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。
それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。
そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、禊をして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。
それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。

ほんとにそうです。
神々が賢木の枝に玉をかけ、スサノヲの命が玉を噛んで吐いたことがあつてから、代々の天皇が續き、天照らす大神が劒をお噛みになり、スサノヲの命が大蛇を斬つたことがあつてから、多くの神々が繁殖しました。
神々が天のヤスの川の川原で會議をなされて、天下を平定し、タケミカヅチノヲの命が、出雲の國のイザサの小濱で大國主の神に領土を讓るようにと談判されてから國内をしずかにされました。
これによつてニニギの命が、はじめてタカチホの峯にお下りになり、神武天皇がヤマトの國におでましになりました。
この天皇のおでましに當つては、ばけものの熊が川から飛び出し、天からはタカクラジによつて劒をお授けになり、尾のある人が路をさえぎつたり、大きなカラスが吉野へ御案内したりしました。
人々が共に舞い、合圖の歌を聞いて敵を討ちました。
そこで崇神天皇は、夢で御承知になつて神樣を御崇敬になつたので、賢明な天皇と申しあげますし、仁徳天皇は、民の家の煙の少いのを見て人民を愛撫されましたので、今でも道に達した天皇と申しあげます。
成務天皇は近江の高穴穗の宮で、國や郡の境を定め、地方を開發され、允恭天皇は、大和の飛鳥の宮で、氏々の系統をお正しになりました。
それぞれ保守的であると進歩的であるとの相違があり、華やかなのと質素なのとの違いはありますけれども、いつの時代にあつても、古いことをしらべて、現代を指導し、これによつて衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした。

古事記の企畫(序文の第二段) --- 天武天皇古事記の企画
――前半は天武天皇の御事蹟と徳行について述べる。
後半、古來の傳えごとに關心をもたれ、これをもつて國家經營の基本であるとなし、これを正して稗田の阿禮をして誦み習わしめられたが、まだ書物とするに至らなかつたことを記す。――

飛鳥の清原の大宮において天下をお治めになつた天武天皇の御世に至つては、まず皇太子として帝位に昇るべき徳をお示しになりました。
しかしながら時がまだ熟しませんでしたので吉野山に入つて衣服を變えてお隱れになり、人と事と共に得て伊勢の國において堂々たる行動をなさいました。
お乘物が急におでましになつて山や川をおし渡り、軍隊は雷のように威を振い部隊は電光のように進みました。
武器が威勢を現わして強い將士がたくさん立ちあがり、赤い旗のもとに武器を光らせて敵兵は瓦のように破れました。
まだ十二日にならないうちに、惡氣が自然にしずまりました。
そこで軍に使つた牛馬を休ませ、なごやかな心になつて大和の國に歸り、旗を卷き武器を納めて、歌い舞つて都におとどまりになりました。
そうして酉の年の二月に、清原の大宮において、天皇の位におつきになりました。
その道徳は黄帝以上であり、周の文王よりもまさつていました。
神器を手にして天下を統一し、正しい系統を得て四方八方を併合されました。
陰と陽との二つの氣性の正しいのに乘じ、木火土金水の五つの性質の順序を整理し、貴い道理を用意して世間の人々を指導し、すぐれた道徳を施して國家を大きくされました。
そればかりではなく、知識の海はひろびろとして古代の事を深くお探りになり、心の鏡はぴかぴかとして前の時代の事をあきらかに御覽になりました。

ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ。
今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。
これは國家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。
そこで帝紀を記し定め、本辭をしらべて後世に傳えようと思う」と仰せられました。
その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。
年は二十八でしたが、人がらが賢く、目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。
そこで阿禮に仰せ下されて、帝紀と本辭とを讀み習わしめられました。
しかしながら時勢が移り世が變わつて、まだ記し定めることをなさいませんでした。

古事記の成立(序文の第三段) --- 太安万侶古事記撰録
――はじめに元明天皇の徳をたたえ、その命令によつて稗田の阿禮の誦み習つたものを記したことを述べる。
特に文章を書くにあたつての苦心が述べられている。
そうして記事の範圍、およびこれを三卷に分けたことを述べて終る。――

謹んで思いまするに、今上天皇陛下(元明天皇)は、帝位におつきになつて堂々とましまし、天地人の萬物に通じて人民を正しくお育てになります。
皇居にいまして道徳をみちびくことは、陸地水上のはてにも及んでいます。
太陽は中天に昇つて光を増し、雲は散つて晴れわたります。
二つの枝が一つになり、一本の莖から二本の穗が出るようなめでたいしるしは、書記が書く手を休めません。
國境を越えて知らない國から奉ります物は、お倉にからになる月がありません。
お名まえは夏の禹王よりも高く聞え御徳は殷の湯王よりもまさつているというべきであります。
そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました。

しかしながら古代にありましては、言葉も内容も共に素朴でありまして、文章に作り、句を組織しようと致しましても、文字に書き現わすことが困難であります。
文字を訓で讀むように書けば、その言葉が思いつきませんでしようし、そうかと言つて字音で讀むように書けばたいへん長くなります。
そこで今、一句の中に音讀訓讀の文字を交えて使い、時によつては一つの事を記すのに全く訓讀の文字ばかりで書きもしました。
言葉やわけのわかりにくいのは註を加えてはつきりさせ、意味のとり易いのは別に註を加えません。
またクサカという姓に日下と書き、タラシという名まえに帶の字を使うなど、こういう類は、もとのままにして改めません。
大體書きました事は、天地のはじめから推古天皇の御代まででございます。
そこでアメノミナカヌシの神からヒコナギサウガヤフキアヘズの命までを上卷とし、神武天皇から應神天皇までを中卷とし、仁徳天皇から推古天皇までを下卷としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上いたします。
わたくし安萬侶、謹みかしこまつて申しあげます。

和銅五年正月二十八日
正五位の上勳五等 太の朝臣安萬侶

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【平家物語】 巻第二 八(二四)新大納言被流

さて、治承元年六月二日、新大納言成親卿を公卿の座に呼ばれ、食事を出されたのだが、胸が詰まって箸さえ取られない
預かり役の武士・難波次郎経遠が車を寄せて
お早く
と言うと、成親卿は渋々乗られた
ああ、なんとかしてもう一度重盛殿にお目にかかりたい
と思われたが、それも叶わない
見回せば、軍兵たちが四方を取り囲んでいる
味方の者は一人もいない
たとえ重罪に処せられて遠国へ行く者だとしても、誰ひとりついてこないとはどういうことだ
と車の中で愚痴をこぼすので、護送の武士たちも皆鎧の袖を濡らした

西八条殿から朱雀大路を南へ下ると、大内裏はもはや自分とは無縁の場所に見えた
顔なじみの雑色や牛飼までもが涙を流し、袖を濡らさない者はいなかった
まして都に残り留まられた北の方や幼い人々の胸中は察するほどに哀れであった
鳥羽殿を通り過ぎられるときも
この御所へ法皇がいらっしゃるときは、一度も欠かさずお供したのに
と、自分の山荘であった洲浜殿も、よその屋敷を眺めるようにして通られた
鳥羽の南の門を出ると、武士は
舟が遅い
と急がせた
これはどこへ行くのか
どうせ殺されるなら、都に近いからこの辺りがよい
と言われるのが精一杯であった

近くに控えていた武士に
名は何と言う
と問われると
難波次郎経遠
と名乗った
この辺に私の身内の者はいないか
尋ねてほしい
舟に乗る前に言い残して置きたいことがある
と言われたので、経遠はその辺を走り回って尋ねたが、成親卿の縁者だと名乗る者は一人もなかった
そのとき、大納言は涙をほろほろ流して
それにしても、私が世で活躍していた頃は、付き従う者の千人や二千人はあったのに、今では横目ですら見送ってくれる者もいない
と泣かれると、荒武者たちも皆鎧の袖を濡らした
ただ身にまとうものは尽きせぬ涙ばかりであった
熊野詣や四天王寺詣などには、二本の龍骨を組み込んだ三棟造りの舟に乗り、後に二・三十艘ほどの舟を漕ぎ従わせていたが、今は大幕を引かせた粗末な造り屋形舟に乗り、見知らぬ兵どもに連れられ、今日を限りに都を去って、波路遥かに流されていく、その胸中は察するほどに哀れであった
成親卿は死罪に処せられるはずであったが、流罪に減刑されたのは重盛殿のとりなしがあったからである

その日は摂津国大物の浦に到着した
翌・三日、大物の浦に京から使者がやって来たと騒ぎになった

成親卿は
ここで殺せとの知らせか
と尋ねられると、そうではなく、さらに遠くの備前国児島へ流せとの指示であった
重盛殿からの手紙もあった
なんとか都に近い片山里にでもお移ししたいと粘ったのですが、それも届かず、生きる甲斐もありません
ですが、お命だけは私がもらい受けました
ご安心ください
と記されており、経遠のもとへも
しっかり宮仕えするように
決して成親卿の御心に背いてはならぬ
など指示し、旅の支度などがこまごまと記されていた
成親卿はあれほど慕っておられた後白河法皇とも離れ、つかの間も離れ難かった北の方や御子たちとも別れて
これからどこへ行くのだろう
再び故郷に帰り、妻子に会うこともないだろう
先年、延暦寺の訴訟事件の際に流されるところを、法皇が惜しまれ、西七条から召し返された
だから、今回は法皇のお咎めではないはず
ではいったい、これはどういうことなのか
と、天を仰ぎ地に伏して、泣き悲しんだが、どうにもならない

夜が明けると舟は出て、西へと下ってゆく
道すがらもただ涙にくれ、生き長らえようとは思わないが、かといって命は露のように消えたりしない
舟の後に立つ白波が陸を隔てて、都はしだいに遠ざかり、日数も重なるにつれ、遠国が近づいてきた
備前国児島に漕ぎ寄せて、庶民の暮らす粗末な柴の庵に入られた
島の常で、後ろは山、前は海、磯の松風、波の音、どれをとっても侘びしくて、哀しみの尽きることはなかった

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【古事記】 日本最古の歴史書、はじまり、はじまり!

日本最古の歴史書と言われる古事記
712年(和銅5年)に稗田阿と太安万侶が編纂したと言われていますが、その内容はどんなものがあるかといわれると、思いい付くのはイザナギイザナミの国生み神話や、スサノオヤマタノオロチ退治の話。オオクニヌシ因幡の白兎の出雲神話ぐらいではないでしょうか。
近世では神道聖典ともされていたので、過去の日本人の信仰を知ることもでき、文学作品として高い評価を得ているものです。

実際、その構成を見てみると、

序章と上巻、中巻、下巻からなっており、
・序章と上巻は、日本神話としての世界の始まりから始まり初代天皇が誕生するまでのお話
・中巻は、初代天皇である神武天皇から15代天皇応神天皇までの御代までのお話
・下巻は、史実に近いお話
がまとめられています。

序章と上巻を大きくわけると
伊邪那岐伊邪那美が国や森羅万象の神々をお産みになる「国生み神話」
須佐之男命の八岐大蛇退治から始まり大国主命の国作りを経て天照大御神の孫に国を譲る国譲り神話までの「出雲神話
天孫降臨から山幸彦海幸彦神話を経て神武天皇が誕生されるまでの「高千穂神話」
に分類することができます。
中でも出雲神話は約1/3占めており、当時から如何に出雲が重要だったかが見て取れます。
中巻は、「神武東征」「沙本毘古の反乱」「倭建命伝説」「皇后の新羅遠征」「天之日矛の渡来」などが有名な話ですね。
下巻は、お話というよりは天皇の紹介で、天皇の名、天皇の后妃、皇子、皇女の名、子孫の氏族、皇居の場所、名称、治世年数、死んだ年、生存年、陵墓所在地、治世中の主な出来事が紹介されるのみです。

次回からは、じっくりとこの日本最古の歴史書、古事記のお話しを始めたいと思います。

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ラッセンより♪普通に♪ゴッホが好~き♪「Loving Vincent(愛するフィンセント)」

ラッセンより♪普通に♪ゴッホが好~き♪

フィンセント・ファン・ゴッホの生涯を描くアニメーション映画が、ポーランドで制作されています。
その映画のタイトルは「Loving Vincent(愛するフィンセント)」
まずはその予告編をみてみてください。
まさにゴッホワールド炸裂の約1分程の映像に引き込まれてしまいますよ。

この映画、アニメーション自体を全てゴッホタッチの油絵を描いており、作中には数々のゴッホの名作が登場するので、ゴッホのファンならずとも一瞬たりとも目が離せません。

今までにない油絵を使った長編アニメーション!
ストーリーも含めどんなものなるか楽しみですね。

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